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太田述正コラム#0599(2005.1.19)
<ハーバート・フーバー(その3)>
5 フーバーの余生
一市民に戻ったフーバーは、青少年の健全育成を図るための団体の会長を務め、悠々自適の生活を送りましたが、ナチスドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が始まると、ドイツ占領下のポーランドに食糧を援助する民間団体を立ち上げ、戦争が激しくなって中止を余儀なくされるまで2年間にわたってポーランドの30万人の子供達に食糧を送り続けました。そして戦争が終わるまで、ベルギー・オランダ・フィンランド・ポーランドに可能な限り食糧を供給しました。
1941年には本シリーズの冒頭で触れたフーバー・タワーが、1919年にフーバーが創設したフーバー研究所の新建屋の一環としてスタンフォード大学構内に建立され、フーバーに捧げられます。(フーバー研究所は、20世紀の宿痾であった共産主義・ファシズムの研究所であり、共産主義・ファシズムに関する資料を世界で最も多く所蔵しています。)
1946年には大戦後の食糧不足が世界を覆ったため、トルーマン(Harry S. Truman。1884??1972年)大統領はフーバーに飢饉緊急委員会(Famine Emergency Commission)の委員長に任命します。フーバーは25カ国を57日間かけて回り、食糧援助計画をつくり、食糧援助を行って数億人の人々を次の収穫期まで持ちこたえさせました。
翌1947年には米議会はフーバーに、行政改革を委嘱し、フーバー委員会(Hoover Commission)ができ、この委員会は280もの具体的提案を行い、その多くが実施に移されました。
アイゼンハワー(Dwight D. Eisenhower。1890??1969年)大統領は、再度フーバーに行政改革を委嘱し、第二次フーバー委員会ができ、今度も建設的かつ実際的な提案を多数行います。
フーバーは回顧録的な著作をいくつか残してはいますが、いつも自分の事跡を控えめにしか記さないので、資料的価値に欠けるところがある、とさえ言われています。
1962年にはフーバー図書館がフーバーの生まれ故郷に設立され、二年後の1964年にフーバーは永眠し、その故郷に埋葬されます。享年90歳。
6 終わりに
(1)米軍と災害救援
おりしも、スマトラ沖大地震に伴う大津波の被災者救援のために米軍の空母等の大部隊がインド洋周辺地域に派遣され、自ら救援業務を実施するとともに、同じように派遣された各国軍の総合調整にあたっています。
冷戦終焉以降、米軍は生き残りをかけて任務の多様化を追求してきましたが、米軍が本業以外の最も重要な任務に国際救援活動を位置づけてきたのは、昨日や今日に始まったのではなく、フーバーの創案にかかることなのです。
第一次世界大戦後に欧州と中東の一部への食糧支援にフーバーが携わることになった時、ベルサイユ講和会議に米国代表団の一員として加わっていたフーバーは、同じく代表団の一員だった米海軍提督を説得して、欧州等各国の主要な港に米海軍艦艇を停泊させてもらい、これら艦艇の電信機と電信員を使って米本国との連絡を行いましたし、米海軍が本国に引き揚げてからは、一定の周波数を米国政府に割り当てさせ、電信通信網を構成し、米陸軍の兵士を借り受けて電信業務に従事させるとともに、米陸軍将校をフーバーの代理として欧州等の各地域に派遣し、食糧を運ぶための鉄道網の再建業務等も含むところの食糧支援活動を行わせました(注6)。
(注6)フーバーはこの活動の本拠をパリに置き、パリで毎日朝から晩まで12時間から18時間働き続け、劇場・博物館・美術館はもとより、店に買い物に行くことすら一度もなかった。しかも、何度でも言うが、フーバーはこの活動においても、一銭もカネをもらわなかった。
このように米軍はフーバーによって人道的奉仕の精神を叩き込まれ、その伝統は現在まで受け継がれているのです。
(2)フーバー・ローズベルト・マッカーサー
フーバーが青少年に向けた言葉に、「政治家(politician)はくだらない(poor)職業だが、公僕(public servant)になるのは高貴なことだよ」があります。私はこれがローズベルトへの痛烈な批判に思えてなりません。
大恐慌の発生に直接責任を負っているにもかかわらず、フーバーを無能呼ばわりして追いつめ、老齢の退役軍人の身に思いを致すどころか、彼らの「苦難」が自らの当選をもたらすとほくそ笑んだローズベルトは政治屋の典型であり、人間の屑(thug)に等しい男でしたが、目を眩まされた選挙民は心優しく有能だった「公僕」フーバーを落選させたのでした。
ローズベルトが鳴り物入りで打ち出した「ニューディール」に対し、フーバーは非米国的な国家主義的政策であるとして批判を続けたのですが、ニューディールが成果を挙げなかったことについては歴史の審判が下っています。
なぜなら、米国の景気が本格的に回復するのは、第二次大戦による軍需景気の到来まで待たねばならなかったからです。(この点については、三分の一世紀前の大学生時代に財政学の授業で経済学部の林建久教授から初めて教わり瞠目した記憶があるが、今や常識であり、具体的典拠は省略する。)
それにしても、日本の史上最大の禍機においてその運命を握った男がローズベルトであり、そして戦後直後の占領下の日本を統治したのがマッカーサーであって(注7)、二人のいずれもフーバーのような人物であるどころか、我利我利の権力亡者に他ならなかったことは、日本にとって何と不幸な巡り合わせだったことでしょうか。
(注7)退役軍人達の事件の際の対応について、マッカーサーは批判を浴び、彼のキャリアはこれで終わるはずであったところ、かつての任地であり、米国の保護領であったフィリピンの友人ケソン(Manuel L. Quezon。1878??1944年)「大統領」の好意でマッカーサーは1935年にフィリピン軍の顧問団長に招聘されるものの1937年には予備役に編入されてしまったところ、1941年の「太平洋戦争」開戦に伴い現役に復帰することができ、マッカーサーにとって再び栄光の日々がやってくることになった。http://www.empereur.com/G._Douglas_MacArthur.html及びhttp://www.spartacus.schoolnet.co.uk/USAmacarthur.htm)
(完)
<読者>
太田様。
中国指導者趙紫陽の失脚とフーバーがオーバラップしました。
ルーズベルトが江沢民に相当するのでしょうか。。。
複雑な思いがあります。
太田様の視点を楽しみにしております。
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