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太田述正コラム#0660(2005.3.15)
<分かりにくいレバノン情勢(その2)>

3 自由・民主主義化?

 (1)始めに
 「レバノンでは民衆運動の高まりでシリア寄りの首相が辞任に追い込まれ、シリア軍のレバノン完全撤退の可能性が出てきました」と以前(コラム#652で)述べたにもかかわらず、その後ヒズボラによって50万人が参集した親シリアの示威行動が行われ、その直後に一旦辞任した親シリアの首相が再び首相に指名されたことも、私の指摘に反する動きだと思われた方が多いのではないでしょうか。
 ところが、昨14日、ベイルートで再び反シリアの民衆運動が行われ、80万人という空前の群衆が集いました。これはレバノンの総人口450万人(約30万人のシリア人、約35万人のパレスティナ人を含まず)の約18%に相当し、成人男女の2割を優に超える驚異的な数です。日本に置き換えれば、実に2000万人が集った、ということになります。(http://news.bbc.co.uk/2/hi/middle_east/4346613.stm。3月15日アクセス)
 また、シリア軍(正確にはシリア軍とシリア諜報要員)の撤退についても、既に兵力14,000人中4,000人がシリア領内に撤収し、更に、シリアのアサド大統領は、シリアを訪問した国連特使に対し、期限を明示した形で残りの1万人を撤退させるスケジュールを伝えました。(ただし、特使はまだその期限等をオープンにしていません。)(http://www.guardian.co.uk/syria/story/0,13031,1436925,00.html及びhttp://www.csmonitor.com/2005/0315/p06s01-wome.html(どちらも3月15日アクセス))
 ですから、マクロには私の指摘通りの展開が続いている、と言って良いと思います。
 とはいえ、ヒズボラによる親シリア示威行動を、われわれは一体どうみたらいいのでしょうか。また、これに関連して、今後レバノンひいてはシリアが自由・民主主義化する可能性は本当にあるのでしょうか。
 これらを論じるためには、煩雑でもレバノン史をざっと振り返る必要があります。

 (2)レバノン史
 年表的にまとめてみましょう。
 7世紀:イスラム教生誕後、ウマイヤ朝がシリアを本拠地として成立したことに伴い、シリアにいたキリスト教マロン派は逃避し、レバノン山(ベイルート北方)周辺に隠れ住む。
 12世紀:マロン派、十字軍と提携、ローマ法王を精神的指導者と認める。マロン派は、それ以後フランス(フランク)と強い絆で結ばれ、欧州の中東における橋頭堡として、経済的繁栄を誇った。
 1861年:フランスの支援の下に、マロン派が人口の80%を占めるレバノン山州は、オスマントルコ内で自治権を獲得。
 1920年:第一次世界大戦に敗北しオスマントルコ帝国が瓦解。マロン派は、権力基盤の拡大をもくろみ、他のキリスト教諸派を糾合すれば人口の過半数以上を制しうる領域を新たな統治単位とするようフランスに働きかけた結果、(拡大)レバノンが成立し、これをフランスが委任統治することになった。
 1930年代:マロン派・(レバノン北部と東部に多い)スンニ派・(レバノン南部に多い)シーア派等の各宗派がそれぞれ政党を結成し、民兵を擁するようになる。
 1943年:レバノン独立。その際、マロン派とスンニ派の間で、前者がフランスの庇護を求めない(アラブ人になる)かわりに後者がシリアとの合併を求めない(レバノン人になる)こと、大統領にはマロン派キリスト教徒、首相にはイスラム教スンニ派、国会議長にはイスラム教シーア派、副首相と国会副議長にはギリシャ正教徒、国防相にはイスラム教ドルーズ派がそれぞれ就き、国会議席はキリスト教徒6に対してイスラム教徒5の割合とすること、などが約束された(国家協約=National Pact)。この権力配分の基礎となったのは、1932年に実施された国勢調査でキリスト教徒が人口の51%強であったこと。1932年以降、マロン派の反対で一度も国勢調査は実施されていない、
 1943??75年:レバノンはキリスト教徒の主導権の下で経済的繁栄と自由・民主主義を謳歌。しかしこの間、人口的にキリスト教徒は少数派に転落し、イスラム教徒の中では最も貧しいシーア派の人口がスンニ派を追い抜くに至る。
 1948年:イスラエル建国。その前後からパレスティナ難民のレバノン流入が始まる。
 1958年:上記人口構成の変化を背景に、権力の再分配を求めてイスラム教徒が初めて蜂起するが短期間で収束。この間、米国、海兵隊を派遣。
 1970年:PLOがヨルダンを追い出され、活動の本拠をレバノンに移す。スンニ派はPLOを「歓迎」したがマロン派はこれに反発。
 1975年:イスラム教徒、国家協約から離脱して再び蜂起し、本格的内戦が勃発。イスラエルはキリスト教徒を支援。シリアはスンニ派と、(国内にドルーズ派を抱えていることもあり、)ドルーズ派を支援。マロン派劣勢に陥る。
 1976年:シリア軍、レバノン大統領(当然マロン派)の要請を受け、米仏の暗黙の了解の下、レバノンに進駐。このおかげで内戦は小康状態へ。しかし、レバノンはシリアの保護国化。
 1978年:イスラエル、PLO掃討のためレバノンに小規模侵攻・撤退。これを受け、国連平和維持部隊(UNIFIL)、レバノンのイスラエル国境地帯に派遣さる。
 1979年:イラン革命が勃発し、パーレビ王朝倒れる。
 1982年:イスラエル、レバノンに本格侵攻し、PLO、レバノンから追放さる。これを受け、米仏等4カ国は多国籍軍を派遣。また、シーア派は、革命イランの人的資金的支援の下でヒズボラを創設。
 1983年:駐留米軍及びフランス軍、それぞれ自爆テロ攻撃を受け、計299名死亡。4ヶ月後、多国籍軍撤退。
 1989年:レバノン各派、タイフ協定(Taif Agreement)締結。シリア軍の撤兵、並びにヒズボラを除く全民兵の武装解除を取り決め。
 1990年:内戦終わる。
 1991年:シリア、湾岸戦争で多国籍軍の側に立つ。
 1992年:シリア、タイフ協定に規定された撤兵開始期限を守らず
 2000年:イスラエル、レバノン撤退。ヒズボラは自分達の武力闘争のおかげだと主張。
 2004年10月:国連安保理、シリア軍(諜報要員を含む)の撤兵及びヒズボラ民兵の武装解除を決議(安保理決議1559)。

 (以上、http://en.wikipedia.org/wiki/Lebanonhttp://www.freelebanon.org/articles/a336.htmhttp://www.inwa.net/~frog/articles/lebano、及びhttp://www.studyworld.com/newsite/ReportEssay/Science/Earth%5CLebanon-362462.htm(ここまで3月10日アクセス)、http://www.danielpipes.org/article/1590及びhttp://observer.guardian.co.uk/international/story/0,6903,1436495,00.html(どちらも3月14日アクセス)、CSモニター前掲による。)

 以上を要約するとこういうことです。

 マロン派は、12世紀以来、中東アラブ世界における、欧米の橋頭堡としての役割を果たしてきた。レバノンのその他のキリスト教諸派は、マロン派と利害を基本的に共にしている。
 先の大戦以降は、新たにイスラエルが中東アラブ世界において欧米の橋頭堡としての役割を果たすようになり、マロン派、ひいてはレバノンのキリスト教諸派とイスラエルは提携関係に入った。
 他方、レバノンのスンニ派は同じアラブ人としてシリアと提携関係にある。
 レバノンのドルーズ派も、ドルーズ派がシリアにも多いことから、シリアと提携関係にある。
 また、レバノンのシーア派はヒズボラの下に結集しており、シーア派が国民の多数を占め、現在シーア派による「神政政治」下にあるイランと提携関係にある。
 言うまでもなく、シリアもイランもイスラエルと敵対関係にある。
キリスト教徒、スンニ派、シーア派、ドルーズ派は、お互いに反目しており同一国の国民であるという意識は持ち合わせていない。しかし、一番大きな亀裂は、キリスト教徒とイスラム教徒の間に存在している。
1990年から現在まで、軍を駐留させてレバノンを保護国化してきたシリアのおかげで、レバノンでは内戦の再発が防止され、ヒズボラが牽制され、平和がまがりなりにも維持されてきた。

このように見てくると、2004年10月の国連安保理決議はシリア軍の撤兵を要求しているけれど、シリア軍を完全に撤兵させて、果たしてレバノンで平和を維持できるのか、心配になってきます。

(続く)

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