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太田述正コラム#737(2005.5.29)
<忘れられた沖縄出身のある女流作家について>
(5月27日上梓。)
坂野 興 様
坂野さん、自費出版されたご著書をお送りいただき、ありがとうございました。
坂野さんには、2001年の3月に防衛庁関係団体の理事長室に退官と選挙出馬のご挨拶にうかがって以来、お目に掛かっておりませんが、お元気でお過ごしのことと存じます。
選挙の際には、大学生でいらしたご長男が関心を持たれ、私の選挙事務所でアルバイトをしていただいた上、坂野さんからは、ご芳志までたまわったことに、今でも深く感謝しております。
いただいたご著書は、坂野さんご自身の文章を集めた左とじの本と、久志芙沙子なる人物の文章やこの人物の思い出等をつづった何人かの第三者の文章からなる右とじの本を貼り合わせる、というユニークなもので、最初はどこから読んだらよいのか、また、坂野さんと久志芙沙子とがいかなる関係にあるのか分からず、まごつきました。
坂野さんご自身の文章のいくつかは防衛庁在職時に読ませていただいたことがありますし、坂野さんのお考えもおおむね承知していることから、久志芙沙子がご母堂であること等が判明した後は、もっぱらご母堂の文章等に目を通させていただきました。
そして、沖縄ご出身のご母堂が、私小説「滅びゆく琉球女の手記」(婦人公論1932年6月号)を上梓されたところ、これが筆禍事件を引き起こし、「『滅びゆく琉球女の手記』についての釈明文」(婦人公論1932年7月号)を書かれた上で擱筆された、ということを知り、瞠目いたしました。
「釈明文」については、今読んでも全く時代を感じさせない内容であり、後に沖縄出身の様々な作家や研究者等が、上記顛末に言及してきた(そのいくつかはご著書に転載されている)のもむべなるかな、と思います。
坂野さんご自身も、このようなご母堂の過去について、つい最近までご存じなかった由。
擱筆後、沖縄と絶縁するとともに沈黙を貫き通し、主婦として矜持を持って残りの生涯をまっとうされたご母堂に対し、心から敬意を表します。
奥様やご長男にもくれぐれもよろしくお伝え下さい。
いずれ、皆様に再会できる日を楽しみにしております。
2005年5月27日
太田 述正
(参考1)上記著書に転載されているジャーナリストの国吉真永氏の文章(56?58頁)等からの抜粋
「滅びゆく琉球女の手記」・・<の>内容は、本土在住<沖縄>県人にたまにみられる「出身地かくし」の典型的人物<(芙沙子の叔父(注))>を正面からとらえたものだ。・・しかし、この「手記」は一回きりで中断された。・・在京・・沖縄県学生会・・<から>抗議をされたからである。
出版元の中央公論社は・・掲載を中止する・・<こととし、久志芙沙子の次のような>「釈明文」<を>翌月の「婦人公論」・・に掲載<した。>
「・・私はうそ八百を並べたわけではない。・・また、・・私は沖縄県民全部が、出世すると、・・登場人物の・・ような人間になると書いたおぼえはありません。・・」、「<沖縄>県人をアイヌや朝鮮人と同一視されては迷惑とのことですが、民族に階級をつけて優越を感じようとする意見には賛成できない。それは、アイヌや朝鮮の方々を人種差別することだからです。どの民族も人間の価値は同じである。県人を差別する無理解な人間もおり、私も県人でないように言いつくろったこともあるが、それは神経をいらだたせ、卑屈におちいるばかりだとさとり、考えを改めた」、「就職や結婚も、出身地をあけすけに打ちあけ、両者納得のうえでやったほうが好ましい。無理して本土の娘と結婚し、家族を引きつれて沖縄に一時帰省もままならないことこそ問題である」
(注)この叔父は、芙沙子に激しく抗議し(63頁)、婦人公論編集長のところにも怒鳴り込んだ(44頁)。
(参考2)久志芙砂子の本名はツル。1903年首里の士族の娘に生まれ、県立第一高等女学校を卒業した後、小学校の教師になるが、作家になることを夢見て上京(62頁)。医者と結婚し、坂野姓となり(115頁)三男二女をもうける(30頁)。1986年名古屋で没する(68頁)。
(参考3)坂野興氏は久志芙砂子の三男(42頁)で、東大法学部及び防衛庁で私より年次が三年上。
<蛇足>
久志芙沙子の筆禍事件及びその後の生き様は、沖縄・差別・女性・私小説・ジャーナリズム・日本近代史、等の様々な問題を考える材料をつきつけているのではないでしょうか。
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