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太田述正コラム#799(2005.7.21)
<中共と鄭和(その1)>
1 始めに
中共は、共産主義を捨て去ってファシズムに乗り換えてからというもの、党の支那支配を継続するための新たなイデオロギーの構築に努めてきました。
結局中共は、(漢人)ナショナリズムを国民に注入(インドクトリネート)することとし、まずネガティブなナショナリズムたる反日を前面に出して時間稼ぎをした後、現在、清時代の最大版図の回復、というポジティブなナショナリズムへの切り替えを図りつつあります。このような文脈の中で、中共の今年に入ってからの積極的な台湾戦略や朝鮮半島戦略の展開を理解する必要がある、というのが私の見方であることは、以前、(「風雲急を告げる北東アジア情勢」シリーズ:コラム#689?700、702,703、706、717、718、734?736、で)ご説明したところです。
最近中共は、上記のようなポジティブなナショナリズムのあたりを柔らかくするため、このナショナリズムを補完する支那風インターナショナリズムにの情宣活動に着手したように思われます。
具体的には鄭和(Zheng He または Cheng Ho。1372?年)の再評価と顕彰です。
(以下、特に断っていない限りhttp://news.bbc.co.uk/2/hi/asia-pacific/4593717.stm(5月31日アクセス)、及びhttp://www.nytimes.com/2005/07/20/international/asia/20letter.html?pagewanted=print、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%84%AD%E5%92%8C、http://en.wikipedia.org/wiki/Zheng_He(以上、7月20日アクセス)による。)
2 鄭和について
私が2年前の2003年の7月に北京を訪れた時点では、中共で鄭和は殆ど無視されていた、といっても良いと思います。(コラム#132)
ところが、変われば変わるもので、このところ、中共では鄭和ブームが起きています。
鄭和は、色目人(西域系)のイスラム教徒の宦官です。
鄭和は、1405年から1433年にかけて7回、大艦隊を率いて西太平洋及びインド洋の30数カ「国」に遠征し、下賜品を与えて朝貢を促す形の朝貢貿易を行いました(注1)。最初の6回は、第三代明皇帝の永楽帝(Yungle Emperor)の命、最後の1回は第五代宣徳帝(Xuande Emperor)の命によるものでした。
(注1)1405?07年の第一回目の遠征で言えば、艦隊は、長さ122m、幅50mで500t級の巨船を始めとする62隻、総乗組員は2万7800名余りに登った。(船には羅針盤が搭載され、防水隔壁が設けられていた。)ちなみに1497?99年の、欧州インド航路を開拓したヴァスコ・ダ・ガマの船団は120t級が3隻、総乗組員は170名、1492?93年の、米国大陸を「発見」したコロンブスの船団は250t級が3隻、総乗組員は88名だ。
鄭和は、その死後、三保太監ないし三宝(San Bao)太監と呼ばれ、司馬遷・蔡倫と並ぶ宦官の英雄として語り継がれることになります。そして、鄭和が寄港したジャワ・スマトラ・タイには支那系住民の手で三宝廟が建立されて祀らており、廟内の鄭和の立像に触ると霊験あらたかである、とされています。
3 鄭和の再評価と顕彰
中共は鄭和の1回目の遠征600周年の今年、国を挙げて鄭和の再評価・顕彰運動を展開しています。
その趣旨について、中共当局は、鄭和の「善隣外交・平和共存・科学的航海」を支那内外に喧伝することと言っていますし、ある中共の学者は、明の最盛期においても支那は覇権を求めず、世界各地で歓迎される形での平和的発展を追求した、という事実を広く知らしめるためだ、と言っています。要するに、中共は、現在再び支那は過去の栄光を取り戻しつつあるが、決して諸外国の脅威になることはない、ということを訴えたいのです。
つい先だっても、南京に鄭和を記念する博物館がオープンしましたし、外交・学術使節がケニアに派遣され、鄭和の東アフリカ沿岸訪問の痕跡調査を行いました。
この使節は、ケニア沖の島・・ここに鄭和の遠征艦隊のうちの何隻かが難破して乗組員達が上陸し、現地に定住したと言い伝えられている・・で鄭和当時の支那人の子孫と自称する若い女性を「発見」し、中共での鄭和記念式典に招待しました。この女性は今年秋から、中共政府丸抱えで中共に留学することになっています。
(続く)
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