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太田述正コラム#8002005.7.22

<中共と鄭和(その2)>

 (本篇は、7月20日に上梓しました。)

4 批判的感想

 このように鄭和を政治的に利用することについては、中共内部の学者からでさえ、懸念の声があがっています。

 鄭和の遠征が、科学的航海による善隣外交であり平和共存を図るものであった、とは言い切れないというのです。

 なぜなら、鄭和の遠征は客観的に見れば、アラブ商人からアフリカ以東の貿易の主導権を奪い、西太平洋とインド洋に明の覇権を確立することを目的にしていたと言わざるを得ず、しかもそのために必要とあれば、鄭和は武力を行使することを躊躇しなかった(注2)からです。

(注2遠征艦隊の全乗員の相当部分は戦闘要員だった。そして例えば、1回目の遠征の際には、マラッカ海峡海賊を行っていた漢人を捕らえて本国に送ったし、2回目の遠征の際には、セイロンで現地の王が鄭和の船に積んである宝を強奪しようと攻撃してきたので鄭和は反撃して王とその家族を虜にして本国へと連れ帰り、永楽帝に陳謝させたし、4回目の遠征の際には、スマトラで現地の王の要請で兵を使って反逆者を討った、

しかも、衣の下から鎧というか、鄭和の再評価・顕彰運動の責任者の退役海軍将校は、「われわれは、鄭和精神をわが国民に吹き込もうとしている。その目的は、わが海洋経済の発展を促進し、台湾との再統一、近隣諸国相互間の友好関係と共栄に貢献するところにある。」と語っています。これを翻訳すると、「鄭和精神を国民に叩き込み、中共のシーパワーを発展させ、台湾を併合するとともに、中共近隣における中共の覇権を確立したい」となります。

「それを言っちゃあ、おしまいよ」と言いたくなりますね(注3)。

 (注3)7月14日に、中共の現役陸軍少将(国防大学校校長)が、「米国が中共・台湾間の紛争に軍事介入したら、中共は米国を核攻撃せざるをえない」、と核の先制使用はしないとの中共の公式見解に反する発言を行ったのに対し、中共当局は、これはこの少将の個人的見解だとした上で、台湾の独立は絶対に認めないと付け加えた。ちなみに、「私的」であろうと、中共の政府関係者が中共当局と異なる発言を行うのは極めて異例。米国政府は、この少将の発言は「まことに無責任だ」と強く批判した。(http://www.nytimes.com/2005/07/16/politics/16diplo.html?pagewanted=print、及びhttp://news.ft.com/cms/s/4062b908-f561-11d9-8ffc-00000e2511c8.html(どちらも7月16日アクセス))

 鄭和に関する退役海軍将校の発言も中共当局の公式見解を踏み出しているが、中共当局と阿吽の呼吸で発せられたと思われるところの核に関する現役陸軍少将の発言とは違って、単なる親の心子知らずの不適切発言だろう。

 いずれにせよ、中共当局が学者を総動員して行うべきなのは、鄭和の遠征の事実関係を徹底的に明らかにする努力を行った上で(注4)、何故に、かついかなる経緯をたどって、鄭和のあげた輝かしい成果がうち捨てられ、支那が爾後500数十年にわたって自閉症的状況に陥ってしまったのか、を究明することでしょう(注5)。

 

 (注4)鄭和の艦隊の一部は喜望峰を越えて大西洋にまで至ったとする説は西欧で15世紀来あったが、英国の退役海軍将校でアマチュア歴史家のメンジーズ(Gavin Menzies)は、ベストセラーになった著書1421: The Year the Chinese Discovered the World, Morrow/Avon, 2003 の中で、鄭和の艦隊の一部はコロンブス(Christopher Columbus1421??1506年。イタリア人。1492年にアメリカ大陸、正確にはアメリカ海域に到達)より早くアメリカ大陸に到達し、マゼラン(Ferdinand Magellan1480?1521年。ポルトガル人。マゼランの船団は1519?22年に世界一周)より早く世界一周を成し遂げ(コラム#132)、クック(James CookCaptain Cook1728?79年。英国人。1770年にオーストリア大陸到達)より300年も早くオーストラリア大陸に到達した、と主張している。オーストラリア大陸到達については賛同する学者もいるが、アメリカ大陸到達と世界一周については、いまだ賛同者は現れていない。

 (注5)これまでの説明ぶりの一例は次のとおり。

支那の歴代王朝の通常の朝貢貿易同様、鄭和の行った朝貢貿易も、支那側の赤字貿易だった。他方、永楽帝の頃から、(タタール部とオイラート部に分裂していたものの、)再び北方よりモンゴルの圧力が増し、モンゴル討伐にあたらなければならなくなり、ここでも出費がかさんだ。やがて明はモンゴル討伐を断念し、万里の長城の大拡張整備を行うことによってモンゴルの侵攻を食い止めようとした。これにはモンゴル討伐より一層カネがかかったため、海外に遠征して朝貢貿易を行うことなど、到底不可能になった。

     しかし、これだけでは、500数十年にわたってこの政策が踏襲されたことの説明にはなっていない。

(完)

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