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太田述正コラム#8242005.8.15

<酷暑旅行記(その3)>

3 奈良

 (1)東大寺

 8月4日には午後、東大寺を訪れました(注5)。

(以下、特に断っていない限りhttp://www.todaiji.or.jp/index/rekisi/gaisetu.htmlhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E5%AF%BAhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E5%AF%BA%E7%9B%A7%E8%88%8E%E9%82%A3%E4%BB%8F%E5%83%8Fhttp://urano.org/kankou/toudaiji/todaiji3.htm、(http://www.sakan-net.co.jp/sightseeing_002/page_007/http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E6%B8%88%E7%8E%8B%E6%95%AC%E7%A6%8F(いずれも8月14日アクセス)による。)

 (注5)ちょうど一年前の、東大寺訪問についてはコラム#436?438を、また新薬師寺訪問についてはコラム#435参照。

 東大寺は、ある読者(転じて友人)のご厚意により、東大寺の関係者をご紹介いただき、大仏殿等をご案内いただけるというので、昨年に引き続き訪問したものです。

国宝の大仏殿(金堂)に向かって左手に一般観光客が入れない、芝生の一画があり、そこの蓮の池のほとりから大仏殿を見上げた後、近くの沙羅の木に案内されました。臨済宗の創始者の栄西が支那から持ち帰った木で、一度焼けたけれど蘇ったのだそうです。

次に大仏殿脇を拝見しました。大仏殿は二度焼け(注6)、現在の大仏殿は江戸時代に再建されたものです。創建時とは違って大木が得られなかったため、柱を寄せ木で作らざるを得なかったこと、大仏殿の高さと奥行きは創建時とほぼ同じだが、間口は天平創建時の3分の2に縮小されていること、等の説明を受けました。

(6) 平安時代末、源平抗争さなか、平重衡の軍勢が南都を攻め、彼らによって治承4年(1180年)興福寺や東大寺が焼き払われ、大仏殿が焼失した。また、永禄10年(1567)、三好松永の乱の際、松永久秀の軍勢によって、再び大仏殿等が焼き払われた。

大仏殿内では、これまた一般観光客が入れない大仏台座近くに上がらせてもらいました。

大仏(毘盧舎那仏座像。国宝)(注7)の頭が異常に大きな作りであるほか、光背の沢山の化仏(創建時のものより一つ一つが大きい)が上に行くほど大きくなっているといった具合に、逆遠近法が用いられており、参拝者が大仏を遠くの地上から眺めたときに、バランス良く見えるような工夫がこらされているということでした。

(注7)世界一大きい青銅像。創建時は座高15.8m、現在は14.98m。

更に、大仏の後ろに回り、創建時のままであるわずかな部位(注8)の一つである台座の蓮弁の数箇所を拝見しました。遠くから見ると全く見えないのですが、華厳経の世界観(注9)を表す絵が線刻で描かれており、その一部にはまだうっすらと鍍金(金メッキ)が残っていました。

(注8)大仏の頭部は江戸時代、体部は大部分が鎌倉時代?室町時代の補修だが、台座・右の脇腹・両腕にから垂れ下がる袖・大腿部、などに一部創建時(天平時代)の部分が残っている。

(注9)「金輪際」の語源等、お話を山のようにうかがい、息子は頭がはちきれそうになった、と言っていた。

そして今度は、大仏殿の外に出て、大仏殿入り口の前にある、創建時のままの青銅製の国宝、八角灯籠のところで、この灯籠は作られた時にヒ素を意図的に使用したらしく、鳩が寄りつかず、鳩の糞の被害を免れている、という説明を受けました。

最後に、高さの目安について、創建時に大仏殿東西に屹立していた推定100mもの高さの巨大な七重塔の半分が大仏殿、その半分が(国宝の一対の金剛力士立像で有名な国宝の)南大門、その半分が正面の回廊の中門、その半分が左右の側面の回廊の東楽門と西楽門だ、と教わり、案内していただいた方と別れました。

今回の訪問で、改めて三つのことを強く感じました。

その第一は、大仏や大仏殿の創建や再建は、朝鮮・支那・インドの人々の貢献なくしては不可能だった、ということです。

大仏殿創建時には、陸奥国小田郡から、国守百済王敬福(くだらのこにきしきょうふく。697?766年)(注10)が献じた(恐らく配下の百済系鉱山師によって発見された)金を用い、百済から招いた職人が大仏に鍍金しました(注11)し、天平勝宝4年(752年)に挙行された大仏開眼供養会(だいぶつかいげんくようえ)では、インド僧菩提僊那(ぼだいせんな)が導師をつとめました(注12)。また、鎌倉時代に東大寺の大仏殿等を再建した時には、大勧進役の俊乗坊重源は当時来日していた宋の鋳工・陳和卿(ちんなけい)らの協力を得て、大仏を再興しています。

(注10)百済の最後の国王から同盟国日本に人質として送られた二人の王子のうちの片方の禅光王のひ孫の子供。任地の陸奥国小田郡(現在の宮城県遠田郡涌谷町)から、日本で初めて産出した金を749年に平城京に貢上した。(仙台防衛施設局勤務当時、この史実を記念した涌谷町の「天平ろまん館」に行ったことがある。)聖武天皇は狂喜し、大赦を行うとともに、敬福を従三位へ七階級特進させ、年号を天平から天平感宝、更に天平勝宝へと改めた。有名な歌人大伴家持は、「すめろぎの御世栄えんと東なるみちのく山に黄金花咲く」と金産出を寿いだ。

    ちなみに、禅光王は持統天皇から百済王という姓を賜ったのだが、この百済王氏と桓武・嵯峨・仁明の各天皇は婚姻関係を結んでいる。今上天皇は、自分の先祖には朝鮮半島の人の血が混じっている、という趣旨のことを述べられたことがある(最後のこの点は典拠失念)。

(11)青銅に金は直接結びつかないため、水銀を媒体として塗る方法がとられた。水銀は猛毒のため、水銀を大仏に塗った後の作業は大変危険を伴うものとなった。

一説には、平城京を放棄して平安京に移らなければならなかったのは、この水銀の毒に平城京全体が犯されたからだという(典拠失念)。

(注12)このほか、現在東大寺にある戒壇院は、唐僧鑑真(がんじん)が、艱難辛苦の末来朝した天平勝宝6年(754年)に、大仏前に設けられたわが国初の戒壇(土壇。インド・支那・日本の土を使用)において聖武上皇や孝謙天皇等に(正式に僧になるための)戒律を授けたところ、この戒壇を755年に遷して戒壇堂を築き、授戒の根本道場としたものだ。ただし、現在の戒壇院の建物は大仏殿同様、江戸時代の再建。

(続く)

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