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太田述正コラム#8772005.9.24

<先の大戦万華鏡(その2)>

1939年9月1日のドイツのポーランド侵攻に対し、3日についに英仏がドイツに宣戦布告し、先の大戦が始まるのですが、8月23日に締結されたばかりの独ソ不可侵条約(の秘密協定)に基づき、ソ連軍も9月17日に無防備だったポーランド東部に侵入、9月27日にポーランド軍はドイツに降伏し、第一次世界大戦後にロシアから独立したポーランドの国土は再びドイツとソ連に分割占領されてしまいます。

この時のワルシャワ防衛総司令官は、かつてウラジオストックで日本に救われたチューマ将軍であり、対独レジスタンス運動の中核を担ったのは、シベリア孤児の一人だったイエジ・ストシャウコフスキ青年でした。在ワルシャワ日本大使館は、このイエジのレジスタンス運動を密かに支援し、ナチスの手から何度もイエジ等を守りました。

 1936年に日独防共協定を結び、翌1937年には日独伊三国同盟を結んでいたドイツが、日独防共協定の秘密付属協定に違反して1939年8月にソ連と独ソ不可侵条約を締結したことで、日本政府は強い対独不信感を抱き(注4)、独ソ双方に対する情報収集網の強化を図ります。

 (注4)独ソ不可侵条約締結は世界に衝撃を与え、8月25日には英仏はポーランドと相互援助条約を締結し、日本では8月28日に平沼騏一郎内閣が「欧州情勢は複雑怪奇」と声明して総辞職した(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%AC%E3%82%BD%E4%B8%8D%E5%8F%AF%E4%BE%B5%E6%9D%A1%E7%B4%84。9月23日アクセス)

在ワルシャワ日本大使館がポーランドのレジスタンス運動を密かに支援し庇護したのは、この政策の一環でもあったのです。

(以上、http://yokohama.cool.ne.jp/esearch/sensi1/sensi-taiso1.html(9月23日アクセス)等も参照した)。

193911月という先の大戦勃発から間もない時点に、日本政府がわざわざ、日本人居住者のいないリトアニアの首都カウナスに領事館を設け、領事代理の杉原千畝を赴任させたのも、彼をポーランド亡命政府の諜報機関や部隊と接触させて情報を収集するためでした。

杉原は、独断で6,000人ものユダヤ人に日本へのビザを発給してその命を救い、後に日本のシンドラーと称されることになるわけですが、このユダヤ人の大部分はポーランド出身であったことを思えば、杉原の行為は、当時の日本政府の意向に180度背馳するものでは決してありませんでした。

一方、ポーランド亡命政府の諜報員達の中には、日本や満州国のパスポートを供与されたり、ドイツやバルト・北欧諸国の日本公館に通訳などの名目で雇ってもらったりした者があったといいますし、在外のポーランドの諜報機関やレジスタンス運動は、日本の外交クーリエ網を利用して、ポーランド国内やロンドンのポーランド亡命政府との連絡をとったとされています。

(以上、http://www.nakano-masashi.gr.jp/holand.html(9月23日アクセス)も参照した。)

要するに当時の日本は、欧州において、英国を始めとする連合国側と同盟関係にあったポーランドと秘密裏に手を携えつつ、日本とポーランド共通の「敵」であるナチスドイツとソ連の情報収集を行っていた、というわけです。

3 人種戦争としての先の大戦

 先の大戦が、白色人種を代表するアングロサクソンと有色人種を代表する日本との間の戦いという側面を有することや、そもそも有色人種差別は米国の原罪であること、については、既に(それぞれコラム221249等及びコラム#306等で)申し上げてきたところですが、米国が国内において人種差別問題を抱えていた以上、先の大戦を戦った米軍自身が、その内部に人種差別問題を抱えていたことは想像に難くありません。

 その一断面をご紹介しましょう。

(以下、http://www.calendarlive.com/books/cl-et-book5sep05,0,5140538,print.story?coll=cl-books-util(9月6日アクセス)、http://www.startribune.com/stories/384/5593742.htmlhttp://books.monstersandcritics.com/nonfiction/reviews/article_1049072.php/Book_Review_The_Interpreter_by_Alice_Kaplanhttp://www.rusoffagency.com/non_fiction/the_interpreter/the_interpreter.htmhttp://www.regbook.com/NASApp/store/IndexJsp?s=storeevents&eventId=299543http://www.dukenews.duke.edu/2005/09/interpreter_print.htmhttp://www.sacbee.com/content/lifestyle/books/story/13507918p-14348451c.html(いずれも9月21日アクセス)による。)

 米軍が、ノルマンディー上陸作戦に引き続き、フランス解放作戦を行っていた1944年、米軍司令官のパットン(George S. Patton)将軍は、ナチスドイツ軍と米軍の違いを際だたせるべく、フランスの一般市民に危害を加えた米軍兵士は厳しく処罰するように布告しました。

 ところが、当時フランスで米軍の軍法会議に強姦で起訴された米兵士180名中130名、強姦や殺人で死刑に処せられた米兵士70名中55名は黒人でした。

 トルーマン大統領が禁止する1948年まで、米軍は白人の部隊と黒人の部隊画然と分けられていて、黒人はもっぱら非戦闘部隊に配置されていたところ、その黒人は、当時フランスにいた米軍部隊の8.5%しか占めていなかったというのに、凶悪犯として処刑された米兵のうちの8割近くを占めたことになります。

(続く)

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