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太田述正コラム#921(2005.10.25)
<ガーディアンの靖国神社ブログ(その5)>
(4)祭神問題
今度は、祭神の問題です。
靖国神社は、戊辰戦争での官軍の死者を祀るところから出発したわけですが、私はかねてからこのことに違和感を覚えてきました。
神道は、政権側だけでなく、討伐された「賊軍」側をも祀る伝統を持っているからです。
誰でも知っている例は平将門(903??940)(注6)を祀る筑土神社(千代田区九段北)・国王神社(茨城県板東市)・神田明神(の一柱。千代田区神田)(注7)です。
(注6)桓武天皇の子孫で平氏の姓を授けられた高望王(たかもちおう)の孫にして鎮守府将軍平良将の子。939年、関東一円を支配下に収め、新皇を名乗り、岩井(現茨城県坂東市)に政庁を置いた。翌940年、討伐され死亡。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%B0%86%E9%96%80。10月24日アクセス。以下、当分の間同じ)
(注7)筑土神社は940年に江戸で将門の首を祀ったとされることに始まる(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AF%89%E5%9C%9F%E7%A5%9E%E7%A4%BE)。国王神社は、972年に将門の陣没した場所に将門の三女によって建てられたと言われる(http://www5b.biglobe.ne.jp/~miur/points/4/ib41.htm)。将門は徳川家光が将軍の時代に朝廷から赦免され、また幕府によって二柱目として神田明神に合祀された。明治になると、やはり逆賊だからと将門は祭神からはずされ、別の祭神に差し替えられたが、将門は1984年になって再合祀され、現在将門は三柱のうちの一柱となっている。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E7%94%B0%E6%98%8E%E7%A5%9E)(どうやら、靖国神社が、一旦合祀したA級戦犯は祭神からはずすことはできないと言っているのはウソらしい。)
もう一つの例は豊臣秀吉を祀る豊国神社です。
豊臣家滅亡後、徳川家康によって教徒の豊国神社は取り壊されてしまいますが、明治時代になってから、本社が京都に、分社が大阪に建てられ、現在に至っています。祭神は、豊臣秀吉・秀頼・秀長の三柱です(注8)。(http://www.digimake.co.jp/webtown/higashiyama/houkoku/houkoku.html及びhttp://www.apsara.ne.jp/houkoku/)
(注8)このほか、長浜城主としての秀吉を祀る豊国神社が長浜市にある。祭神は秀吉と恵比寿様の二柱。(http://www.e-ohmi.net/shinkoukai/img/houkokujinjya/)
また、西南戦争の時の賊軍の総大将であった西郷隆盛が祀られている南州神社が鹿児島、山形県酒田等全国4箇所にあります(注9)(http://kaanegii.hp.infoseek.co.jp/domonn-nannsyujinjya.htm)。
(注9)ちなみに、栃木県大田原市の西郷神社は、明治政府の海軍大臣等を勤めた西郷従道(隆盛の弟)を祭神とする神社だ(http://www.ohtawaracci.or.jp/kankoukyoukai/bunnkazai/sonota/sonota.htm及びhttp://www.asahi-net.or.jp/~dw7y-szk/kitatochi2.htm)。
いかがですか。
このように見てくると、戊辰戦争や西南戦争での「賊軍」の戦没者を祀る場が設けられてないこと(「賊軍」の戦没者を祭神とする神社が存在しないこと)がいかにも片手落ちに思えてきませんか。
そもそも、尊敬と畏怖の対象は神道の神々たりうることを思い起こしてください。同じ日本人として、私利私欲のためではなく、あるべき別の国のかたちを心に思い描いて戦い、敗れた戊辰戦争や西南戦争での「賊軍」の戦没者達は、まさに尊敬と畏怖の対象であって、神社の祭神たるにふさわしいのではないでしょうか。
戊辰戦争で刑死した近藤勇や戦死した土方歳三等の旧新選組隊士達や、自刃した会津の白虎隊の少年達等に対する痛惜の念は日本人が共有しているところですが、彼らはどこの神社にも祀られていませんし、西南戦争の時の「賊軍」の戦没者について言えば、総大将の西郷隆盛だけが神社の祭神となっていて、それ以外の戦没者との扱いの不均衡が甚し過ぎます。
元衆議院副議長の渡部恒三代議士(現在は民主党)は会津出身ですが、今年1月、白虎隊の少年達も靖国神社に合祀してほしい、と語ったところです(http://www.tbs.co.jp/jijihoudan/last/050109.html。10月22日アクセス)。
次に考えなければならないのは、明治以降の日本が行った対外戦争において、日本軍と共に戦って亡くなった外国の兵士(それに準ずる者を含む。以下同じ)であり、戦没した敵方の兵士であり、これらの対外戦争の犠牲者として死亡した外国及び日本の一般住民です。
(続く)
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