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太田述正コラム#9592005.11.21

<フランスにおける暴動(その9)>

 (このほど、第2回目の「まぐまぐBooksアワード」(メールマガジン人気投票)にエントリーしました。12月7日?12月21日に投票が行われますので、昨年8月に行われた第1回目に引き続き、今回も皆さんに投票をお願いしたいと思います。前回は、皆さんの絶大なるご協力のおかげで12位になりましたが、残念ながら無償出版対象の5つのうちの1つには選ばれませんでした。直前になったら改めてご連絡します。)

8 日本における「差別」を考える

 (1)初めに

 今回のフランスにおける移民暴動をフォローしていて改めて痛感したのは、日本における「差別」事情のユニークさです。

 最初に結論を書いてしまいましょう。

日本における代表的な「差別」である部落「差別」と朝鮮人(在日)「差別」は、米国における黒人差別や黄色人差別、あるいはフランス等西欧諸国におけるユダヤ人差別やイスラム教徒に対する差別に比べて、相対的に、歴史(根)が浅く、差別の態様と程度も甚だしくない、という点で様相をかなり異にします。

私は、日本は、英国と並んで世界で最も差別の少ない国の一つだ、と思います。

しかも最近では、部落民あるいは在日に「対する」差別が問題というより、部落民にあっては1960年代末以降、そして在日にあっては戦後、部落民や在日に「よる」それ以外の人々に対する差別が問題となっている、という、まことにもって奇妙な状況が日本では見られます。

これは英国を含め、世界で他にあまり例を見ないことです。

だから、日本の「差別」に関しては、差別にカギ括弧を付けた次第です。

以下、部落「差別」と在日「差別」について、それぞれ見て行くことにしましょう。

 (2)部落「差別」の起源

  ア 部落「差別」問題の分かりにくさ

部落解放運動にたずさわっている人が、「部落民なんていう存在や、部落という特別の空間なんて、実は存在していないにもかかわらず、人々の心の中に、さもそれがあるかのように存在している、それが部落問題なのです。」と言っている(http://www6.plala.or.jp/kokosei/hr/buraku.html1119日アクセス)ことは象徴的です。

 この人は、だから部落「差別」を解消するのは容易ではない、と言いたいわけですが、むしろ、いかに部落「差別」が大した問題ではないかが分かろうというものです。

  イ 江戸時代

 江戸時代の「士農工商」についての私の見方は以前(コラム#842で)記したところですが、「士農工商」以外に、部落民の前身である穢多・非人のほか、公家僧侶神官医師等、「士農工商」に属さない多数の身分が存在していました。

 最近の説では、「士」「農」「工」「商」間に上下関係ありとしたのは当時の儒者のイデオロギーに過ぎず、一般の人々は必ずしもそうは考えていなかったとされています。

 同じことが、「士農工商」と穢多・非人との間にも言えるとする説、すなわち、生死をつかさどる職業(僧侶・神官・医師・処刑人など)・「士」直属の職能集団(処刑人を含む下級警察官僚・武具皮革職人など)・大地を加工する石切など、のように人間社会以外の異界と向き合う職業の者は、「士農工商」と便宜上区別されただけだとする説(注12)、も最近有力であり、私はこの説に与しています。

 

 (注12)そもそも、「士」が内職で「工」となっていた事例と同様に、穢多・非人にも「農工商」に携わっていた者が多くいた。例えば、「士」に直属する皮革加工業は穢多・非人が独占的「工」となることとされていた地域が多かった。また、地域によっては藍染や織機の部品製作は穢多・非人が独占的「工」となることとされていたことも知られている。更に、穢多・非人の実態が「農」であった地域も知られている。

 ところが、江戸中期以降、社会の貨幣経済化に伴い、「士」が相対的に没落して行きます。そこで、「士」は没落を食い止めるために、「農工商」への統制を強化し、その結果生じた「農工商」の不満を逸らす目的で、穢多・非人「差別」が始められます。

  ウ 明治時代

 この「差別」が差別に転化したのが、明治時代でした。

 明治政府によって警察官などになれるのは当初「士」のみとされ、下層警察官僚であった穢多・非人が疎外されたこと、「士」(特に上層の「士」)が特権階級たる華族とされたのに対し、「士」に直属し権力支配の末端層として機能してきた穢多・非人がなんら権限を付与されず放り出されることによってそれまでの「士」による支配の恨みを一身に集めたこと、などがその原因でした。

 つまり、部落差別が生まれたのは、それほど昔ではない明治時代であり、明治政府の、必ずしも悪意によるとは言えない政策が、結果として生み出したものである、ということです(注13)。

 (注13)明治政府は、日本を近代化するに当たって、(英国になかった憲法・継受困難なコモンロー法体系・英国が強くないと考えられた陸軍、等を除き、)全面的に英国をモデルにしており、英国の国教会に倣って神社神道から国家神道をつくり出し、英国の貴族制と上院に倣って華族制と貴族院を設けた。このいじましいまでの努力が結果として、キリスト教徒等への「差別」や、部落差別をもたらしたことになる(太田。http://www6.plala.or.jp/kokosei/hr/buraku.html上掲にヒントを得た)。

 差別の具体的な内容は、個人にあっては就職や結婚における差別であり、集落にあってはインフラの整備の遅れでした(注14)。

 (以上、特に断っていない限りhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%A8%E8%90%BD%E5%95%8F%E9%A1%8C1119日アクセス)による。)

 (注14)島崎藤村の「破戒」(1906年)は、部落差別問題をテーマにした小説として名高い(http://www.tabiken.com/history/doc/O/O218R100.HTM1119日アクセス)。

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