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太田述正コラム#1062(2006.1.27)
<on the job training・実学・学問(その4)>
この関係で、更に問題であったのは、官学において法学部の優位が確立したことです。
明治時代の初期には行政機構(政府)が法律をつくる作業を独占的に行っていたわけですが、この状態は、立法府たる国会が開設されてからも基本的にはそのまま続きました。
行政機構の行うあらゆる施策は、この法律及び、法律を受けた政令・省令・規則等の法規に基づいて行われます。
この法規の立案・制定は、日本社会の実態を踏まえて行われたというより、日本の欧米化・近代化を推進すること、つまり日本社会の実態を変革することを目的として行われました。日本の法規を欧米の法規に倣って整備することは、日本が開国する際に欧米諸国との間で締結させられた不平等条約の撤廃を図るためにも不可欠でした。
このようなことから、日本の行政機構の中では、法規に係る作業を担当する官吏が幅をきかせるようになります。
そしてその結果として、官吏養成機関であった東大、ひいては官学において、中核たる官吏を養成するところの、法学部の優位が確立するのです(注11)。
(注11)戦後の東大の文科系について言えば、文1(法学部)、文2(経済学部)、文3(文学部・教育学部)、という序列だ。専攻学部としての教養学部が戦後に誕生したのは画期的なことだったが、文科系の教養学部教養学科が、文3学生のあこがれの進学先になっただけで、序列を突き崩すには至らなかった。
この官学における法学部は、いかなる学問を教えたのでしょうか。
第一に、法学は、そもそも実学的性格を持っています。法は社会に適用されて初めて意味があるからです。法学部は実学たる法学を教えたのです。
第二に、本来の法学は法を適用する対象たる社会の法慣習等の把握(=法社会学)が重要な柱であるところ、日本の官学の法学は、欧米、就中輸入の容易であった大陸法系(ドイツやフランス)の法規の輸入と翻案(日本の法規につくりかえること)が中心であり、現実と遊離している学問でした。やや誇張して言えば、法学部は空理空論を教えたのです。
第三に、日本の官学では、官吏登用資格試験を受験し合格するために最低限必要なことだけを教えて、後は実際に官吏になってからオン・ザ・ジョッブ・トレーニングで習得すればよい、という「合理的な」考え方をとりました。それが証拠に、官学の法学部では(そして私学の法学部でも)、理科系の卒業実験に相当する文科系の卒論が課されません。文科系では本来学士号は、学術論文の体裁で少なくとも論文を一本書くことによって初めて授与されるべきところ、法学部の学生にはそれが免除されていた、というより、法学部の最終学年の学生は、法学という学問の基礎の習得が完了していないので学術論文を書く実力が備わっていない、というわけです。
つまり、法学部は、上述したような「学問」である法学の基礎の初歩しか教えなかった、ということです。
かかる法学部の優位が確立することによって、一体何が起こったでしょうか。
学問とは実学である、という観念がより牢固となっただけではありません。学問、とりわけ文科系の学問は欧米の人文・社会科学の輸入でこと足りる、という観念が確立してしまいました。その結果として学問の空理空論性が当然視されるようになりました。
学問とは実学を標榜する役に立たないものである、という「誤解」がここから生まれます。それだけではありません。そんな「学問」ならあえて習得するまでもない。現にあの法学部ですら、「学問」を習得させずして卒業させているではないか、という「誤解」すら生まれるに至ったのです(注12)。
(注12)しかし、これらの「誤解」はこと法学部に関しては決して誤解ではなかった、というのが私の考えだ。必修科目については、何百人もの学生相手に、一方通行の講義が行われる、というのが法学部の姿だったが、こんなことが許されたのは、法学教育が「学問」の「教育」でない証拠だ。ロースクール(法科大学院)制度への移行によって、どれだけ改善されるのかは知らないが、少なくとも従来の法学部卒業生は、ことごとく短大卒相当に過ぎない、と言ってよかろう。
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