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太田述正コラム#1063(2006.1.28)
<on the job training・実学・学問(その5)>
官学の法学部の教員の養成がどのようになされたかについても付言しておきましょう。
東大の法学部の教員は、(少なくとも私が在籍した頃までは、)最終学年の学生の中の成績の良い者に、声がかかる、という形で選ばれていました。
成績が良いとは、全優か殆どが優ということであり、単に法学部在籍中のペーパーテストの得点が高かったということを意味します。
ここでのポイントは、学生は論文など誰も書いていないのだから、その学生に、新しい学説を打ち出すという学者としての創造性があるのかを執筆した論文を通じて見極めることは不可能であったことです。
ではなぜ、法学部の大学院生の中から教員を選ばなかったのでしょう。いくら何でも大学院でなら論文を執筆させる機会があるでしょうから、学者としての創造性を見極めることもできたはずです。
それをしなかった理由は容易に想像できます。
一つには、成績の良い学生は、当然官吏任用資格試験にも合格するわけであり、行政機構(各省庁)と東大との奪い合いになれば、大学院に行って何年かを無給どころが学費を払って過ごすくらいなら、行政機構に直ちに就職して(官吏になって)給料をもらう方をその学生に選ばれてしまう、ということでしょう。
(注13)卒業後、ただちに教員(助手)になれるといっても、声をかけられた学生にとって、依然、教員になることは官吏になることに比べてさほど魅力的ではなかった。なぜなら、在職中の高給与ポストは教員より官吏の方が多かった・・官吏になった方がより権力がふるえた・・し、一部の売れっ子教員を除けば、退職後を含めた生涯所得の官吏との差は一層大きかったからであるし、また、教員の仕事は、学生の教育を別とすれば、研究だが、その研究とは、(官吏が法規をつくる際の技術的助言を求められることもたまにはあるけれど、)もっぱら自らの「学説」(後述)に基づいて官吏がつくった法規の解釈を行うことであり、法規をつくるという官吏の仕事の方がより「面白い」からだ。
しかしより本質的な理由は、教員が研究者として求められた資質は、学者としての創造性などではなく、まさにペーパーテストで良い成績をとる能力であったからだと思われます。
法学部のペーパーテストで学生が高得点をとるためには、(教員から教わったところに従い、)設問に係る複数の日本の「学説」の紹介と評価を行った上でその中の一つの「学説」を高評価し、その「学説」を用いて結論を導き出す、という作業をいかに手際よくやってのけるかが鍵となります。この時、自分の「学説」を打ち出せば、それだけで零点になってしまいます。
教員になれば、設問こそ自分で設定しなければなりませんが、後はペーパーテストを受けた場合とほぼ同じことであり、設問に係る複数の欧米の新旧諸学説(注14)の紹介と評価を行い、その中の新しい学説の一つを選んだ上で、その学説を「日本化」して自分の「学説」として提示し、この新「学説」を用いて結論を導き出す、という作業をできるだけ手際よくやる、というだけのことです。ここでも、欧米の学説に依拠しない独自の新学説を打ち出すことは、全く期待されていません。
(注14)戦後の日本の法規は、大陸法の上に、「宗主国」たる米国の法である英米法が接ぎ木された状態であり、しかるがゆえに、法学の教員が最も依拠するのは、ドイツと米国の学説(判例を含む)だ。日本の裁判所は、日本の法学部の教員のかかる「学説」を用いて判決を下す。だから日本の判決は、いわば欧米の学説の孫引き判決だ。
繰り返しになりますが、このような「学問」のあり方は、官学の学問全体、とりわけ官学の人文・社会科学系の学問全体のあり方を規定したのです。
ところで、法学部の大学院はいかなる役割を果たしていたのでしょうか。声はかからなかったけれど、他の大学で何がなんでも法学の教員になりたいという奇特な人と、官吏任用資格試験や司法(官)試験に学部在籍中に合格せず、引き続いてチャレンジを続けたい人の受け皿です。
このような、就職浪人収容機関としての大学院のあり方もまた、官学の大学院全体、とりわけ官学の人文・社会科学系の大学院のあり方を規定したと言えるでしょう。
(2)実学の府としての私学
では私学の方はどうだったのでしょうか。
私学のあり方は、日本最初の私立の大学である慶應義塾大学(慶大)のあり方によって決定されたと言っても差し支えないでしょう。
その創設者は、ご存じの通り福澤諭吉(1835?1901年)です。
その福澤は、慶應義塾のサイトが、「<福澤に対しては、>周囲もなぜ福澤は仕官しないのかと訝しみ、あらぬ憶測が飛び交います。それでも頑として国事に関わることがなかった福澤の真意は、実に明解なものでした。維新を経た後も当時の役人の多くには、人民に対する上下貴賎の差別が根強く残っていました。福澤はそんな「殻威張りと名づくる醜態」を犯すことはしたくないということ、役人の気品が低いこと、彼らの日和見主義に辟易していることなどをあげ、そして役人がそんな状態であっても、大半の国民が立身出世は他にあらずという一心で役人を志すことに、多大な危惧を抱いていると警告しています。」と言っているように(http://www.keio.ac.jp/keio_sogo_master/prologue.html、1月26日アクセス)、反官僚(官吏)的精神の権化であり、アングロサクソン流の自由民主主義者でした。
そんな福澤が大学をつくるとすれば、それは、アングロサクソン流の学問の府としての大学であってしかるべきでした。
ところが、既にご紹介したように、福澤の学問観は実業家として成功するための実学、というものでした。そしてこの考え方に基づき、福澤は、官吏のための実学の府たる東大(官学)に対抗するべく、実業家のための実学の府たる慶大(私学)を創設するのです。
結局日本の私学は、ことごとくこの慶大に倣って、非官吏のための実学の府として設立され、発展していくことになります。
その慶大の歩みを簡単に振り返ってみましょう。
前述したように東大の方は、1877年に発足してから、早くも1880年には大学院の整備に着手しています。
ところが、実学の民間研修所にほかならなかった慶應義塾に関し、明治維新後福澤がまずやったことは、1874年に幼稚舎(小学校)を設けたことです。まさに寺子屋的発想です。他方、福澤が大学部を設置したのは・・日本で最初の私学がまがりなりに誕生したのは・・1890年になってからのことでした。
その次に福澤がやったことと言えば、1898年における、(幼稚舎・普通科・大学科、という)初等中等教育から高等教育までの一貫教育体制の確立でした。
他方、自前の慶大教員を養成する試みは、福澤が逝去する2年前の1899年の海外留学生の派遣を待たなければなりませんし、大学院の整備に至っては、福澤の1901年の逝去を待つように、1902年になって初めてその気運が塾内から出てきています。
福澤がいかに実学に固執したかがよく分かるではありませんか。
結局、慶大で大学院が整備され始めたのは遅れに遅れて、1906年のことでした。
その時、慶應義塾の塾長は、「官立学校に見られる弊風を廃して自由研究の気風を養成し、一意専心に学問研究に貢献する人物および豊富な知識と十分な素養を社会で生かせる人物を育成しなければならぬ」と宣言するのですが、ここでの「学問」も、当然のことながら、実学の域を出るものではありませんでした。
実際1944年に、やはり実学たる(医学に係る)医学部に次ぐ理系としては二番目の学部が慶大にできた時も、それは理学部ではなく、より実学的な工学部でした。
その工学部が、ようやく理工学部に改組されたのは、1981年のことです。
この間、1957年には商学部が設置されていますが、経済学部に加えて商学部を設置したところにも、実業家のための実学の府たる慶大の特徴が良く表れています。
(以上、http://www.keio.ac.jp/keio_sogo_master/prologue_1.html前掲及びhttp://www.keio.ac.jp/staind/202.htm(1月26日アクセス)による。)
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