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太田述正コラム#12182006.5.6

<チャルマーズ・ジョンソン保護国日韓を語る(その2)>

3 韓国篇

 (1)ジョンソンの指摘

 旧日本帝国から「独立」した韓国も米国は保護国にしたが、韓国は米国からの独立をほぼ果たした。

 それは以下のような経過をたどった。

 米国は、1950年代にはウッドロー・ウィルソンの教え子で亡命者だった李承晩(Syngman Rhee)を傀儡の独裁者に据えた。

 1960年に学生運動によって李の腐敗した政権が倒れ、民主主義が樹立されそうになると、米国は、日本の士官学校である満州軍官学校卒で日本の敗戦まで日本の陸軍士官であった朴正熙(Park Chung-hee)将軍を支援して1963年に権力を握らせた。1979年にはKCIA長官が夕食の席上朴を射殺したが、これは長官が米国の指示を受けて、核兵器の開発を目論んでいた朴大統領を殺したのだという噂が立った。

その後1980年からは、少将であった全斗煥(Chun Doo-hwan)が、米国の意向を受けて、二度目の軍事独裁政権を樹立した。

 その年、民主化を求めて光州(Kwangju)市民達とソウルの学生達が立ち上がったのだが、在韓米国大使は「暴徒に対しては断固たる措置が必要だ」と述べ、米軍は、国連軍の指揮下にあった韓国軍を一時的に全の統制に委ね、1981年、全は光州での市民運動の弾圧に韓国軍を用い、数千人の市民を殺害した。

 しかし、1987年にはまたも民主化運動が盛り上がった。今回はソウルの学生達を急速に数を増しつつあった豊かな中産階級の市民達が支援した。全は、翌1988年にソウル・オリンピックを控えていただけに、光州事件の時のような形の弾圧を行うわけにはいかなかった。

 そこで全は、米国の意向の下、「同志」盧泰愚(Roh Tae-woo)将軍に大統領職を譲り渡し、オリンピックを予定通り開催にこぎつけた。このような状況下で盧は民主化策をとらざるをえず、その結果、1993年の大統領選挙では、非軍人たる金泳三(Kim Young-sam)が当選する。

この間、1989年に韓国議会が光州事件の調査を行おうとしたとき、米国政府は協力を拒み、事件当時の在韓米国大使及び在韓米軍司令官に対し、証言することを禁ずる措置をとった。

 1995年には金泳三政権は全と盧を逮捕し、(それぞれ12億米ドル、6億3,000万米ドルの)収賄容疑、1979年のクーデター容疑、及び光州事件における虐殺容疑で訴追した。一審では全・盧の両者とも死刑を言い渡されたが、最高裁では減刑された。その後1997年に大統領に就任した金大中(Kim Dae-jung)は、何度も全に殺されかけた人物だが、両者を赦免する。

 このようにして韓国は、軍事政権を打倒し民主主義をほぼ確立し、米国からの独立もほぼ果たしたのだ。しかし、軍事政権を支援し民主化運動の弾圧に手を貸したところの、旧宗主国米国に対する韓国民の怒りは容易に収まる気配がない。

 

 (2)コメント

 現時点では、日米同盟は盤石であるのに対し、米韓同盟は風前の灯火といった趣きがありますが、宗主国によるコントロールに怒って独立をほぼ果たした理想主義的な韓国と、怒ることを忘れて宗主国の保護国的地位に甘んじる現実主義的な日本とのどちらが、(母国英国が課したささやかな税金に怒って独立戦争を経て建国した)米国と長期的に、互いに敬意を抱いた信頼関係を構築できるかは、申し上げるまでもないでしょう。

 韓国における対支事大主義の残滓は問題ですが、対米関係に関する限りは、日本は少し韓国の爪の垢でも煎じて飲んだ方が良いと私は思います。

(完)

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