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太田述正コラム#12262006.5.10

<米国史の「真実」(その2)>

4 19世紀:北部も奴隷制に加担していた

 どこでも、そしていつの時代でも勝利者が自分にとって都合の良い歴史を書くのであって、米国で南北戦争に勝利した北部諸州が、南部諸州に対し、奴隷制に固執した人種差別主義者の巣窟という烙印を押したことはご承知のとおりです。

 しかし、米国における最近の研究は、次第に北部も南部と同じ穴の狢であったことを暴露しつつあります。

 18世紀のニューヨーク市では、人口の四分の一程度、そして恐らく労働人口の三分の一以上が黒人奴隷であり、南部のチャールストンやニューオーリンズなどを超える、北米の大陸部における最大の奴隷所有都市でした。また、北部のハドソン渓谷やコネチカット渓谷、及び北部ニュージャージー・ロングアイランド・ロードアイランドは、このニューヨーク市を超える奴隷人口密集地だったと言っても過言ではないのです。

 確かにニューヨーク州やニュージャージー州では、それぞれ1799年7月4日と1804年7月4日に鳴り物入りで奴隷解放宣言が発せられたのですが、それぞれの時点では一人の奴隷も解放されたわけではありません。その日以降に生まれた者に限り、女性であれば20代中頃、男性であれば20代後半になった時点で解放する、という「まことに寛大なる」措置に過ぎなかったのです。ですから、北部においても19世紀の半ばまではまだ奴隷がいたのです。

 しかも、奴隷を「解放」した頃から、北部はタバコ・砂糖・そして特に綿花、の国際貿易の中継地となり、南部のプランテーションで奴隷が生産したこれら商品を取り扱った北部の同じ商人が、南部のプランテーションの拡大のための融資も行ったのです。

 更に、北部では「解放」後、むしろ黒人差別はひどくなりました。

 北部の多くの州では黒人に選挙権を与えませんでしたし、陪審員になる権利等も認めませんでしたし、そのうちのいくつかの州では、黒人が法曹になることさえ認めませんでした。また、これら法的規制以外にも、北部では黒人を教会、学校、市民団体、そしてあろうことか墓地から閉め出したり、黒人を隔離し二級市民としての扱いをしたりすることがめずらしくありませんでした。

 (以上、http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2006/02/09/AR2006020901730_pf.html(2月12日アクセス)による。)

  私が、以前から(コラム#225等で)申し上げてきているように、米国の第一の原罪は黒人差別(注2)であり、奴隷制を墨守していた南部諸州を南北戦争で打擲することでその原罪を償ったふりをしていた北部諸州の実相が暴かれつつあることは痛快ですね。

 (注2)これを第一の原罪と名付け、更に、米国の戦前の対北東アジア政策・・その根底には黄色人種差別意識がある・・を米国の第二の原罪と名付けたのは私のオリジナルだ。コラム#221234249250253254256??259等参照。

5 20世紀:ローズベルトは人間の屑だった

 フランクリン・ローズベルトが人間の屑に等しい下劣で無能な政治家であったことは、以前にも(コラム#597??599、及び1202で)申し上げたところですが、この見方は次第に米国で市民権を得つつあります。

 「<ローズベルトについての本を書いたアトラー(Jonathan Alter)いわく、ローズベルトは、>「大統領に就任するにあたって劇的な効果を高めるために意図的に<大恐慌下の米国>経済を更に落ち込ませたという印象を免れない」。これは手厳しすぎるように聞こえるかもしれないが、就任後何年にもわたって彼が大恐慌を終わらせることに完全に失敗し、むしろ彼のとった対策が状況を更に悪化させたことは事実だ。もし第二次世界大戦がなかったら、ローズベルトは取るに足らない大統領として記憶されることになっただろう。」(注3)(http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2006/05/04/AR2006050401618_pf.html。5月7日アクセス)

 (注3)ローズベルトは、しかし過ぎたる女房を持っていた。あのガルブレイスが、エレノア・ローズベルト(Eleanor Roosevelt)について、「もし彼女がもっと後で生まれていて、しかも男性だったら、自分自身の力で大統領になっていただろう」と評している(http://www.latimes.com/news/obituaries/la-me-galbraith30apr30,0,3086374,print.story?coll=la-home-obituaries。5月1日アクセス)。

 それにしても、私の唱えた米国の第二の原罪論とローズベルト人間の屑論を組み合わせた、悲劇としての日本の先の大戦史を英語で書いてくれる日本の近代政治史家が一日も早く現れて欲しいものです。

(完)

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