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太田述正コラム#12292006.5.12

<叙任権論争の今と昔(その1)>

1 始めに

 時ならぬ叙任権論争(Investiture Controversy・・カトリック教会の司祭等は法王が任命するのか権力者が任命するのか・・が法王庁と中共の間で持ち上がっています。

 これを見ていると、中世の西欧における叙任権論争を思い出します。

 この西欧における叙任権論争がいかに深刻な後遺症をもたらしたかを振り返った上で、北東アジアで現在進行中のミニ叙任権論争を論評することにしたいと思います。

2 中世西欧における叙任権論争とその後遺症

 (1)叙任権論争

 11世紀の西欧においては、神聖ローマ皇帝がローマ法王を任命することになっており、また封建領主達が司教bishopや修道長を、しばしばカネと引き替えに任命していました(注1)。

 (注1)カネでカトリックの職位を売買することは、シモニー(simony)と呼ばれており、公式には法王によって禁じられていた。

 法王側は、以前からこの状況をくつがえしたいと考えており、1046年にハインリッヒ4世(Henry ??。1050??1106年。ドイツ王:1056??1105年、神聖ローマ皇帝:1084??1105年)が幼くしてドイツ王(いずれ神聖ローマ皇帝になる)に就任した機会をとらえて、1059年に世俗的権力者が法王を任命することはできないと宣言し、法王を互選するための機関として枢機卿会議を設立します(注2)。

 (注2)爾来、法王の選出は枢機卿会議でコンクラーベと称して行われることとなり、現在に至っている。

 その上で、法王側は次の一手を1075年に打ちます。法王グレゴリウス7世(Gregory VII1020ないし1025頃??1085年。法王:1073??1085年)が、カトリック神父の司教等への任命や補職替えの権限を持つのは法王だけであると宣言したのです。

 一方的に法王に叙任権を奪われたハインリッヒ4世は、グレゴリウス7世の解任を宣言してこれに対抗しようとします。

 翌1076年に法王は、今度は逆にハインリッヒ4世を破門するとともに、ドイツ王座を(従って将来の神聖ローマ皇帝位も)剥奪します。

 ところが、ドイツの諸公の中で法王の側について叛乱を起こす者が出てきたので、1077年にハインリッヒは、カノッサ城に滞在中の法王の所に赴いて赦しを乞い、破門を解いてもらうという屈辱を味わいます(注3)。

 (注3)雪の中ではだしで城外で三日間待った、という有名なカノッサの屈辱(l'umiliazione di Canossa(伊語)の訳語。 Walk to Canossa(英語)=Gang nach Canossa(独語))だ。

 1981年には、叛乱をある程度押さえ込んだハインリッヒが、今度はローマ(当時は神聖ローマ帝国版図内)を襲い、グレゴリウス7世を追放するのです。

 こういう具合に叙任権論争を契機にドイツで始まった内乱は50年近く続き、1122年のウォルムス協約(Concordat of Worms)で、事実上法王庁側が勝利する形でようやく決着がつくのです。

 (2)叙任権論争の後遺症

 この叙任権論争の後遺症は深刻なものがありました。

 ドイツでは、内乱の結果、大領主や大修道院長らがドイツ王(すなわち神聖ローマ皇帝)から事実上独立してしまい、ドイツが分裂状態となり、その状況が19世紀のドイツ再統一まで続くことになります。

ドイツの人々の被害者意識には凄まじいものがあり、再統一ドイツは、その政治・宗教・文化に対するいかなる形の外国の干渉を許さないという偏狭なナショナリズムで席巻されることになるのです。

 また、叙任権論争にあたっては、法王陣営も皇帝陣営も、互いに庶民にまでそれぞれの主張を訴え、味方にしようとしたため、西欧全域の庶民の間で宗教的熱情が高まります。ちょうどその頃、バイキング・スラブ・マジャールがキリスト教化することで侵略的でなくなったこと等から、欧州の戦士は腕をかこっていました。そこにビザンツ帝国からの要請もあり、時の法王ウルバン2世(Urban II)は、この宗教的熱情の高まりを背景として、それによって皇帝との叙任権論争を有利に運べると考えられたことと、かつそれが戦士の「処分」にも資することから、1095年、キリスト教の聖地をイスラム教徒から奪回するための十字軍を提唱するのです。

 1996年には十字軍が出発するのですが、その何ヶ月も前に、神父をリーダーとして、西欧の農民等が女子供も伴いつつ10万人の勢力で聖地を目指して「進軍」したことが当時の宗教的熱情の高揚ぶりを示していますが、十字軍の開始は、それまでくすぶっていた西欧のキリスト教徒の反ユダヤ感情に火をつけ、同年、ドイツの各地で、戦士達の手によって欧州最初のユダヤ人虐殺(pogrom)が起こるのです。これを最初のホロコーストと呼ぶ学者もいます。

 つまり、叙任権論争は、イデオロギー的熱情・被害者意識的ナショナリズム・暴力的反ユダヤ主義、という、20世紀にドイツひいては全人類に未曾有の惨禍をもたらした病弊の淵源なのです。

(以上、http://en.wikipedia.org/wiki/Walk_to_Canossahttp://en.wikipedia.org/wiki/Investiture_Controversyhttp://en.wikipedia.org/wiki/Crusade#First_Crusadehttp://en.wikipedia.org/wiki/First_Crusade(いずれも5月12日アクセス)による。)

(続く)

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