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太田述正コラム#1383(2006.8.21)
<日本の対米開戦前の英国の対米工作(その1)>
1 始めに
第二次世界大戦が始まり、英国がドイツの猛攻にあってその運命も風前の灯火かと思われていた1940年、中立を維持していた米国では、大統領のローズベルトこそ開戦論者であったものの、米国の世論の8割が米国の参戦に反対していました。
そんな米国が英国側に立って参戦したのは、ご存じの通り、1941年12月に日本が真珠湾に奇襲攻撃でしたため、ということになっています。
しかし、それまでの間に、英国は米国世論を参戦論に変えるべく、大々的な秘密工作を米国内で展開し、この工作の結果、既に米国世論は参戦への心の準備が整っていたのです。
今回は、余り知られていない英国安全保障調整機構(British Security Coordination=BSC)の秘密工作をご紹介しましょう。
(以下、特に断っていない限り
http://en.wikipedia.org/wiki/British_Security_Coordination、
http://www.amazon.com/gp/product/product-description/088064236X/ref=dp_proddesc_0/103-0959569-9984621?ie=UTF8&n=283155&s=books、
http://www.h-net.org/reviews/showrev.cgi?path=3330945077241、
http://books.guardian.co.uk/departments/generalfiction/story/0,,1854211,00.html
(いずれも8月21日アクセス)による。)
2 BSCの誕生
BSCは、表向きは英国パスポート管理事務所(British Passport Control Office)として1940年5月にニューヨークに、カナダ人の実業家のスティヴンソン(William Stephenson)を長として設立された英国の諜報・プロパガンダ機関です。
BSCは、米国において、英国の利益を増進すること、ナチスのプロパガンダに対抗すること、枢軸国のサボタージュ活動から大西洋の英国等の商船隊を防衛すること、を目的として、時の英国首相のチャーチルの了解の下、ローズベルトの了解もとりつけた上で、英国の対外諜報機関(Secret Intelligence Services=SIS 。現在のMI6)によって設立され、米FBIや米国務省の黙認の下に米国内での活動を開始します。
BSCは最盛時には実に3,000人の工作員を擁するのですが、その多くは、事前の米国政府との約束に反し、米国人でした。
3 BSCの秘密工作活動
BSCは、FBIのスパイ探知・監視活動を支援したり枢軸国の通信傍受や暗号解読をすることで恩を売りつつ、女性スパイを米国内等の仏ヴィシー政府やイタリア政府の関係者に接近させて情報をとったり、米国在住のドイツ人やドイツが所有する企業を妨害したり、中南米工作を行ったり(注1)、米国の労組に浸透して親英感情を醸成したりし米国の対英軍需物資輸出港の安全の確保を図ったりするとともに、自ら(米国のものと装って)設立した通信社やラジオ局を通じて、あるいは抱き込んだ米国の著名コラムニスト達やハンガリー人のエセ占星術師等を通じて、親英反ナチス的宣伝を行う一方で親ナチスないし孤立主義を掲げるグループや個人を攻撃することによって、米国世論の誘導を図りました。
(注1)とりわけ、ヴィシー政府管理下の(カリブ海の)マルティニック(Martinique)島の「解放」には力を入れた。同政府保有の金が同島に保管されていたし、同政府の空母を含む艦隊が母港にしていたからだ。
BSCは、米国の参戦に向けて、以下のような「戦果」を挙げます。
1940年9月に、英米間で駆逐艦・基地協定(Destroyers for Bases Agreement)が結ばれ、英国は米国にカリブ海とニューファウンドランドに基地を設ける権利を提供するとの条件で、第一次世界大戦の時の古い駆逐艦50隻が米国から英国海軍(含むカナダ海軍)に99年間の期限付きで供与されます。
この協定は、1941年3月11日に成立する米国の武器貸与法(Lend-Lease Act)に基づく英国(及び後にはソ連等の他の連合国)への大量の武器貸与の原型となるのです。
この時点で米国はもはや中立国ではなくなり、事実上先の大戦に参戦したと言ってよいでしょう。大方の米国民はそのことに気がついてはいませんでいたが・・。
(以上、http://en.wikipedia.org/wiki/Lend-Lease、
及びhttp://uboat.net/allies/documents/lend-lease.htm
(どちらも8月21日アクセス)も参照した。)
そして、真珠湾攻撃の約半年前には、BSCは、米CIAの前身の米OSS(Office of Strategic Services)の設立に協力するとともに、世界を舞台にした英米の全面的な諜報協力関係構築について米国政府の合意をとりつけるのです。
現在にまで至る、英米の特別な同盟関係(special relationship)はここに事実上完成したと言ってよいでしょう。
日本による真珠湾攻撃の結果、この英米の関係は公然化することになります(注2)。
(注2)この間、1941年10月には、BSCはアルゼンチンのブエノスアイレスでドイツの外交官の鞄から、中南米を4つの国に再編され、それぞれの国とドイツとがルフトハンザの航空網で結ばれている地図を盗んだと称し、この地図を米国政府に提供した。ローズベルトは、この地図を、ナチスの中南米、ひいては米国を支配せんとする野望の証拠として、演説の中で引用した。この地図は、BSCが偽造した疑いが持たれている。
(続く)
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