太田述正ブログは移転しました 。
www.ohtan.net
www.ohtan.net/blog/

太田述正コラム#1422(2006.9.26)
<タイのクーデター(その2)>

 以前(コラム#1213で)タイのプミポン(Bhumibol Adulyadej)国王を高く評価したところですが、今回の同国王の姿勢を目の当たりにした以上、この評価は撤回せざるをえません。
 立憲君主は、政治への介入を極力慎むべきですが、憲法を踏みにじる行為であるクーデターに対しては、1936年の二・二六事件の際の日本の故昭和天皇のように、断固戦わなければならないのです。
 それどころか、国王は、今次クーデターに事前に同意を与えた可能性が大であり、何をかいわんやです。
 しかし、そもそも、どうして国王はクーデターに肩入れしたのでしょうか。
 (以下、全般的には
http://www.feer.com/articles1/2006/0609/free/p023.html(9月8日アクセス)による。)
 先に私は、タイはバンコックを中心とする富者と農村と都市に住む貧者からなっている(それに、南部にイスラム教徒がいる)国だと申し上げましたが、バンコックを中心とするところの富者の多くは華僑系です(
http://www.taipeitimes.com/News/editorials/archives/2006/09/25/2003329133。9月26日アクセス)。
 富者が世界市場を志向し外資を歓迎してきたのに対し、国王は、過去40年にわたって、仏教的精神にのっとり、貧者に対する慈善活動を行うほか、もっぱら国内市場を念頭に置き自助努力を強調する形での農村振興に力を入れることによって、富者と貧者の対立を緩和し、タイの一体性を確保してきました。
 そこへ現れたのがタイ北部のチェンマイ出身の華僑系(客家系)の警察官僚あがりの大富豪実業家タクシン(1949年??)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%81%E3%83%8A%E3%83%AF%E3%83%83%E3%83%88
。9月26日アクセス)であり、彼がこの4年間とった政策は、華僑系が多い富者の利益に反するとともに、国王のそれまでの政策に真っ向から対立するものだったのです。
 すなわち、タクシンは国費を貧者に直接つぎ込んで・・つまりは富者から貧者に所得移転をすることによって・・人気を博すると同時に、農村についても世界市場を志向し、外資を歓迎しつつ農民を資本主義的起業家に作り変える形でその振興を図ろうとした結果、国王とタクシンがともに最大の支持母体としていた農村をめぐって、両者はいわば、農民の心の奪い合いを演じるに至ったのです。
 しかも、タクシンは国王の権威を揺り動かすようなことを平気で繰り返しました。
 2001年に首相に就任した直後から、タクシンは、行政機構から国王の側近と目される高級官僚の追い出しを図ります(
http://www.atimes.com/atimes/Southeast_Asia/HI21Ae02.html。9月23日アクセス)。
 また、タイ南部のイスラム反乱勢力に対して、国王の意向に反して、強硬な弾圧を始めました。
 更に、軍は政治を超越し国王に直結すると考えられてきたところ、タクシン氏は2003年に自分のいとこを陸軍司令官に据えたり、予備士官学校10期生と呼ばれる同級生を多数取り立てたりして、軍内部で影響力の拡大を図りました。国王の側近中の側近である枢密院議長(元陸軍司令官にして元首相でもある)プレム(Prem Tinsulanonda)はこれに危機感を抱き、イスラム反乱勢力対策のためと主張してタクシンと交渉の末、昨年10月、イスラム教徒のソンティを陸軍司令官に就任させることを了承させたと言われています(
http://www.asahi.com/international/update/0921/001.html。9月21日アクセス)。
 今年4月に一旦首相を辞任しつつも、何週間か後には暫定首相に復帰していたタクシンは、7月の国王就位60周年式典の際、来賓が国王に会う前に自分が会い、注目を集めようとしましたし、同じく7月には、国王の側近中の側近である枢密院議長にして元陸軍司令官にして元首相のプレムをあてこすり、「カリスマ的な超憲法的存在」が政府を転覆させようとしていると非難しました(
http://news.bbc.co.uk/2/hi/asia-pacific/5367936.stm。9月23日アクセス)。
 クーデター直前にも、タクシンは、タクシン・シンパの将官達をバンコック駐留陸軍部隊の司令官に任命しようとして、国王サイドと綱引きを演じたといいます(アジアタイムス上掲)。
 クーデター後に設けられた行政改革委員会(Administrative Reform Council =ARC)は、クーデター敢行の理由として、タクシン政権にしばしば不敬(lese majeste。タイでは最高懲役15年の犯罪)すれすれの言動があったこと(注3)、タクシン政権が未曾有の社会分裂を招来したこと、独立した国家機関の運営に介入したこと、タクシン政権に広汎な腐敗の疑惑が生じていたこと、を挙げましたが、その筆頭に「不敬」が挙げられていることはイミシンです(アジアタイムス上掲)。

(注3)もっとも、2005年12月の誕生日に国王は、国民に対し、自分を自由に批判してよいと語っている。

(続く)

太田述正ブログは移転しました 。
www.ohtan.net
www.ohtan.net/blog/