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太田述正コラム#1427(2006.10.1)
<佐藤優の「国家の罠」(その3)>
(本篇は、コラム#1420の続きですが、#1424の続きでもあります。)
3 分析
(1)総論
仕事に対する熱意と能力において、それぞれ自民党と外務省において抜きん出ていた鈴木宗男と自分がどうして失脚し、逮捕起訴されるという羽目に陥ったのかについて、佐藤優は次のように分析しています。
「北方領土問題について妥協的姿勢を示したとして、鈴木氏や私が糾弾された背景には、・・国際協調主義<に代わる、>日本の・・排外的・・ナショナリズムの昂揚<、つまりは>有機体モデル<へ>の転換・・がある」(295??297頁)、また、「鈴木・・氏は、・・政治権力をカネに替える腐敗政治家・・として断罪され、・・経済的に弱い地域<や弱者への所得移転を図る>公平分配モデル・・から・・経済的に強い者がもっと強くなることによって社会が豊かになると考える・・自由主義モデルへ・・という現在日本で進行している国家路線転換を促進するための格好の標的になった」((292??295頁、297頁)と。
しかし、ここで佐藤は壁に突き当たります。
有機体モデル(排外的ナショナリズム)への転換と、自由主義モデルへの転換は両立しないことです(299頁)。
大変率直でよろしい。
このように、大きな絵を描くことが不得手であるのは、政策や政策の前提を疑わないこととも相通じる佐藤の限界ですが、これらは、佐藤に限ったことではなく、現在の日本人の大部分に共通する限界でもあるのです。
私は、現在の日本人のこれらの限界のよってきたるゆえんは、戦後の吉田ドクトリンの墨守によって彼らの大半から軍事リテラシーが失われたところにあると考えています。
日本の政策や政策の前提の当否を検証したり、日本に係る時代の流れの大きな絵を描くためには、軍事リテラシーが不可欠なのです。
私は、口を酸っぱくして、世界の歴史と現状を理解するためには軍事とアングロサクソンを理解しなければならないと言い続けて来ました。
また、日本の歴史と現状を理解するためには、これに加えて、縄文モードと弥生モードの繰り返しという視点が必要である、とも言い続けてきました。
しかし、私自身を振り返ってみて、軍事を理解すること、すなわち軍事リテラシーが最も重要であると思います。
軍事リテラシーなかりせば、私は、アングロサクソンを理解することも、縄文/弥生モード論を思いつくこともなかったことでしょう。
すなわち、アングロサクソンは軍事を生業にしている人々であると思い至ったことが私のアングロサクソン理解の出発点でしたし、日本の歴史は軍事軽視と軍事重視のモードの繰り返しだな、というところから、縄文モードと弥生モードの繰り返し、という発想が得られたのです。
ごたくを並べるのはいいかげんにして、お前の描く大きな絵を示せ、という声が聞こえてきますね。
詳しくは、拙著「防衛庁再生宣言」や、これまでの太田述正コラム中の関連箇所を読んでいただきたいのですが、私は次のように日本の現状を見ています。
日本は、明治維新以降続いてきた外向的な弥生モードから、昭和初期以降、内向的な縄文モードに転換し始めた。こうして日本型政治経済体制の時代が到来した。終戦後もこの体制は維持されたが、軍事が米日両政府の同床異夢の共同謀議により放棄されてしまった。この体制は、本来、総力戦を戦うための、軍事を中心に据えた体制であったというのに、肝腎の軍事が放棄され、結果として日本が米国の保護国となったため、政治は矮小化し、ここから政治家及び官僚の堕落が始まった。堕落とは、政治家にとっての政治、官僚にとっての行政、が個々の政治家や官僚の生涯所得最大化のための手段と化したということだ。政府のこのような堕落は、企業や一般市民にまで波及した。
しかし、東西冷戦終結と時期をほぼ同じくして、再び弥生モードへの転換が日本で始まった。
そのきっかけとなったのは、第一に、日本の経済力の伸張に脅威を感じた米国による日本型政治経済体制解体要求であり、第二に、政治・行政の堕落の深刻化に伴う一般市民の覚醒と危機意識の高まりだった。
なお、明治維新以降の弥生モードの時と同様、今回の弥生モード化においても、体制変革のモデルと仰ぎ見られているのはアングロサクソン・モデルだ。
また、これまでのすべての弥生モードの時と同様、今回の弥生モードへの転換にあたっても、鎖国から開国へというベクトルの下、開国すれば国家意識の確立と軍事力の保持が必要不可欠であることから、国家意識の確立と軍事力の保持、すなわちいわゆるフツーの国、に日本をつくりかえようとする動きが生起している。
この大きな絵を頭に入れていただいたところで、種明かしに移りましょう。
鈴木宗男と佐藤優の失脚は、政治・行政の堕落に憤る一般市民の声に答えるべく、政治家や官僚中比較的堕落の程度が少ない人々が行っているところの、腐敗しきった政治家・官僚・企業人等に対する一連の追及の一コマであり、それ以上のものではありません。
ただし、これら一連の追及が、その意図せざる結果として日本の弥生モード化の促進につながっている、とは言えるでしょう。
ですから、日本で排外的ナショナリズムの昂揚が見られる、という佐藤の判断は全くの誤りですし、鈴木と佐藤が、日本の自由主義モデル(アングロサクソン・モデル)への転換のための標的とされた、というのも余りにも穿った見方なのです。
(続く)
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