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太田述正コラム#1575(2006.12.18)
<米国慈善事情(その2)>

 (有料講読を継続される方で振込先の口座番号を忘れた方や、新規申し込みの方、そしてコラムを書いてくださる方等は、ohta@ohtan.net へ。)

 (以下は、
http://www.nytimes.com/2006/12/17/magazine/17charity.t.html?ref=magazine&pagewanted=print
(12月18日アクセス)を要約したもの。)

 米国史上、最も多額の寄付をしたのは、どちらもまだ存命の投資家ウォーレン・バフェット(Warren Buffett。1930年??)とビル・ゲーツだが、バフェットの寄付額は、実質ベースで、過去の多額寄付王のカーネギー(Andrew Carnegie。1835??1919年)とロックフェラー(John D. Rockefeller。1839??1937年)の寄付合計額の2倍にのぼるし、ゲーツ夫妻の寄付額もバフェットの寄付額に近い。

 人はなぜ寄付をするのだろうか。
 17世紀のイギリスの哲学者のホッブス(Thomas Hobbes)(コラム#46、81、88)は、人間は自分の利益のためにのみ行動すると主張した。老いた乞食に施しをするホッブスを見た人が、神がそれを命ぜられたからやったのかと問うたところ、ホッブスが答えていわく、「老いた人の気の毒な状況を見て、心が痛んだ。施しをすればその気の毒な状況が緩和されて心の痛みがやわらぐと思ったからだ」と。つまり、利己主義者だって利他主義者と同じくらい慈善的たりうるのだ、というわけだ。
 18世紀のドイツの哲学者のカント(Immanuel Kant)は、異なった主張をした。
 カントは、「ある行為は、義務感にかられて行われた場合にのみ道徳的に価値がある。自分にとって心地よい、あるいは結果をみるのが心地よいから、というだけの理由で何かをやることは、道徳的価値はない。なんとなれば、もしそれをやることが心地よくなければ汝はそれをやらないであろうからだ。汝は自分自身の好き嫌いについては責任を負う立場にない。他方、義務の命ずるところに従うことには責任を負う立場にある」というのだ。
 ゲーツの慈善事業に対する考え方は、カントの主張に沿っている。
 ゲーツ夫妻は、「あらゆる人間の生命の価値は同じはずなのに、貧しい国の子供達は、カネさえあれば薬を買って直せる病気で大量に死んでいるが、これは不条理だ」という考え方に基づいて、慈善事業を行っている。
 面白いことに、ゲーツ、バフェット、カーネギー、ロックフェラーのうち、宗教の熱心な信者であったのは、ロックフェラー一人だけだ。残りの三名は、慈善の功徳で天国に行こうなどという発想とは無縁だ。ここが、この三名が、マザー・テレサのような利己主義的慈善家(コラム#175)とは違うところだ。

 ゲーツ夫妻は、「多く与えられている人間は多くのことを求められている」とも言っている。
 次の問題は、人はどれくらい寄付すべきか、だ。
 これについては、バフェットが良いことを言っている。
 「もし君が私をバングラデシュかペルーのど真ん中に突っ立てたとする。この場違いな土地でわが才能がいかほどのものを生み出しうるか想像に難くない」と。
 実際、ノーベル経済学賞を受賞した経済学者でありかつ社会学者であったハーバート・サイモン(Herbert Simon)は、米国や北西欧州のような豊かな社会において人々が稼ぐものの少なくとも90%は社会資本に帰しうると指摘した。社会資本とは、天然資源のほか、より重要なところの、その地域社会における技術や組織力(organizational skills)、及び良い政府の存在、を指す。
 だから、金持ちは稼ぎを全部自分のものだけにしておいてはいけないのだ。
 さて、仮にこのサイモンの指摘がなかったものとしよう。
 それでも、人は寄付をしなければならないのだ。
 浅い池に小さな子供が落ちて溺れているとしよう。そして、あなたがたまたまその池のほとりを歩いていたとしよう。あなたが履いている新しい靴を台無しにするだけでその子を救えるのなら救わねばならないのは当たり前だと思わないか(注1)。

 (注1)私は、ようやく立って歩けるようになった頃、故郷の四日市の家から、母親が目を離したすきに近くの川に一人で行って水の中に落ち、溺れかけたことがある。河口近くだったので海が目前だった。回りに人はほとんどいなかったが、たまたま堤防の上を犬を連れて散歩していた青年がいて、着衣のまま飛び込んで私を助けてくれた。今日私が生きているのはこの青年のおかげだ。(太田)

 換言すれば、その靴代で発展途上国の子供一人の命を救えるのだとすれば、あなたはその代金相当額を寄付すべきなのだ。
 しかも、溺れている子供の場合とちがって、この場合、子供が苦境に陥ったことについて、われわれに全く責任がないとは言い切れないのだ。
 コロンビア大学の哲学者であるポッグ(Thomas Pogge)は、われわれの豊かさのいくばくかは発展途上国の貧者の犠牲の上に築かれたものだ、と指摘している。
 欧州諸国や米国は自国の農産品に補助金を出したり、農産品輸入に高関税を課したりして発展途上国の農産品に対し障壁を設けていることはみんな知っている。
 しかし、それだけではない、とポッグは言う。
 例えば、国際企業は、石油・鉱物・木材といった天然資源をどんな政府からでも買おうとする。
 この利権に目が眩み、発展途上国では、叛乱勢力が次々に現れては政府を倒して利権を奪取しようとする。
 だから、たとえてみれば、国際企業は、盗品を買っているようなものなのだ。
 贓物故買者との違いは、天然資源を買う国際企業は、国際的な法的・政治的スキームによって、買った天然資源の法的に正当な所有者であると認められている点だ。
 このことは、われわれにとってはまことに有り難いことなのだが、天然資源産出国にとってはたまったものではない。当該国の人々は、ほんのちょっと利益は得るものの、相次ぐクーデターや内戦と腐敗にずっと苦しめられるのだから・・。
 すなわち、われわれの発展途上国の貧者への寄付は、見知らぬ人への支援なのではなく、われわれが原因をつくり、現在も原因をつくり続けている損害の補償なのだ。

 以上は一般論だ。
 それでは、ゲイツのような大金持ちは、具体的にどれくらい寄付すべきなのだろうか?

(続く)

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