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昭和日本のイデオロギー(その4)
昭和日本のイデオロギー(その2)
星亨の主張をめぐって
日本の科学技術の源も江戸時代?(その3)
日本の科学技術の源も江戸時代?(その1)

江戸時代

2007年09月12日
太田述正コラム#1646(2007.2.3)
<昭和日本のイデオロギー(その4)>(2007.9.12公開)

 丸山理論の最大の問題点は、彼自身がアングロサクソン音痴であったことに加えて、戦前から戦後にかけての日本史学の水準が低かったこともあって、江戸時代の日本が、カトリシズム等でがんじがらめになっていたところのゲマインシャフト=封建社会=身分社会=部族社会ないし家父長制社会たる18世紀頃までの西欧社会、とは似ても似つかない社会であって、(少なくとも)16〜17世紀頃のイギリス社会並には近代的な社会であったことに全く気付いていなかったことです。

 江戸時代の日本はどんな社会だったのでしょうか。
 日本では、織田信長らの戦国大名による一向一揆の鎮圧や、信長による1571年の比叡山焼き討ちによって、江戸時代に入る前に伝統的宗教の力が大幅に削がれていました(
http://www7a.biglobe.ne.jp/~echigoya/ka/HieizanYakiuchi.html
。2月3日アクセス。以下同じ)し、戦国時代末期の16世紀中頃から、楽市楽座が、織田信長らによる奨励策もあって、近畿地方から始まって次第に全国に普及し、荘園領主と結びついていたそれまでの特権商工勢力が排除された結果、江戸時代に入る前に自由市場経済が全国的におおむね確立していました(
http://www.page.sannet.ne.jp/gutoku2/rakuitirakuzanosei.html
)。
 また、豊臣秀吉の太閤検地(1582年〜)によって、農地に関し近代的所有権と近代的税制に近いものが確立し、武士は国家官僚的な存在へと変貌を遂げるとともに(注5)(
http://jp.fujitsu.com/family/sibu/toukai/sanei/sanei-23.html
)、戦国時代の終焉、とりわけ秀吉による刀狩りの実施(注6)を契機として、日本に紛争を法によって解決しようとする成熟した市民社会が成立するに至っていたのです(注7)(
http://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/sin_kkn/kkn0508/sin_k249.html)。

 (注5)それまでは農村の中に荘園等の権利関係が重層的に存在していたところ、全面的に中間「搾取」者が排除され、耕作者に一元的な農地利用権が与えられた。また、農地は観念的には公有となり、大名等の武士には、俸給として、石高に応じ、特定の農地からの徴税権が与えられる、という格好になった。
 (注6)刀狩りは、太閤検地によって中間「搾取」権を失った国人層を中心に全国各地で起こった一揆の再発を防止するために実施された(
http://www2.ocn.ne.jp/~hiroseki/kenchi.html)。
 (注7)立教大学名誉教授の藤木久志は、刀狩りにもかかわらず、江戸時代の農民は大量の刀剣や鉄砲を保有し続けており、それらを狩猟等の際に活用していたというのに、百姓一揆にあたって、農民側が鉄砲や刀剣を用いることはなく、領主側もまた鉄砲を用いることはなかった、と指摘している。

 すなわち、江戸時代の日本の社会は、政治や人間の精神に容喙してきた宗教(カトリシズム)が排斥された、自由市場経済の、近代的土地所有制度を持つ、法の支配の貫徹した16世紀のチューダー朝ないしは17世紀のスチュアート朝の頃のイギリス社会に勝るとも劣らない近代社会だったのです。

 イギリスにはあったところの、権力の専横を防止する不文憲法、コモンロー、あるいは議会が江戸時代の日本にはなかったではないかと言われるかもしれませんが、徳川幕府は、ユニークな権力自己抑制システムを持っており、権力の専横は巧みに防止されていました。
 第一に、江戸時代の権力機構が簡素極まりないものであったことです。
 例えば、江戸は18世紀頃には町人人口が55万人に達していましたが、江戸行政を担当する町奉行所には役人が290人しかおらず、そのうち警察業務についていた者はたった24人でしたし、同じ頃大阪の人口は40万人に達していましたが、町奉行所には役人がせいぜい約160人しかおらず、そのうち警察業務についていた者はたった10人でした。その他の中小都市の警察組織はあってなきがごとしであり、農村地帯では警察組織は全くないのが普通でした(石川英輔『大江戸開府400年事情』講談社文庫2006年 15〜18頁)。
 要するに、警察業務を含む行政は大幅に民間委託されていた、ないしは民間の自治に委ねられていたということであり、これでは権力を専横的に行使することなど、物理的に不可能でした。
 第二に、江戸時代においては権力と財力が分離していたことです。
 そもそも、江戸時代においても、権威ある天皇の委任により将軍は権力を掌握する、という権威と権力の分離がありました。
その上、以下のように、権力と財力が分離していたのです。
 まず、最高権力者たる将軍といえども、質素な生活を強いられました(上掲書41頁)。
 また、老中になれるのは原則として10万石以下、普通は5万石前後の譜代大名だけであり、老中に次ぐ権力者である若年寄になれるのは大名としては最小規模の1〜2万石の譜代大名だけだったことです。大老が設けられる場合は、譜代中の大身が務めましたが、大老は江戸時代を通じて7人しかおらず、いないのが普通でした(上掲書42〜43頁、48頁)。
 これに対し、外様大名は幕府の権力を担うことはできませんでしたが、外様大名には大きな領地を支配する国持ちの大大名も多く、領地が狭い上に飛び地が多くて老中等になると領地経営の暇もない譜代より経済的に恵まれているのが普通でした(上掲書47、48頁)。
 以上の権力と財力の分離は、幕府自身がそのように制度設計したわけですが、これに加えて、武士は庶民にくらべて、次第に相対的に困窮していった(コラム#1639)のですから、予期せぬ形で、江戸時代を通じて、権力と財力の分離は一層進んで行ったことになります。
 ですから、江戸時代の権力は、基本的に腐敗を免れえたのです。
 また庶民は、苦労が多い割に実入りが少ない権力者を、さほどうらやましいとは思いませんでした。

(続く)

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2007年09月11日
太田述正コラム#1644(2007.2.1)
<昭和日本のイデオロギー(その2)>(2007.9.11公開)

 (本篇は、コラム#1632の続きです。)

3 丸山真男

 (1)始めに

 丸山真男(1914〜96年)の昭和日本のイデオロギー論も、私の見るところ、山本七平とは中身こそ全く異なってはいますが、二段構えであって、かつ、昭和日本のイデオロギーが先の大戦における敗戦によって断絶したと見ている点では似通っています。
 丸山の主張を一言で言えば、江戸時代の日本に近代的思惟が芽生え、それが明治維新を契機に欧米の影響下で花開くものの、対する日本的非近代的思惟の抵抗も強く、昭和前期に日本的非近代的思惟は日本的超国家主義に大化けして日本における近代的思惟を押しつぶしかけたところ、敗戦を契機に日本的超国家主義は瓦解し、再び主導権を取り戻した近代的思惟が日本的非近代的思惟との戦いを続けて現在に至っている、というものです。
 
 (2)丸山の近代的思惟論
 
 丸山の近代的思惟論は、彼の主著である『日本政治思想史研究』(東京大学出版会 1952年)で展開されたものです。

 近代的思惟の芽生えという観点から、彼がまず注目するのは、荻生徂徠(1666〜1728年)です。
 元禄(1688〜1703年)から享保(1716〜35年)にかけて、武士の生活は早くも「窮屈で困窮し」、「屈辱的」(コラム#1639)なものになり始めていました。
 そこで荻生は、これは「貨幣経済とその地盤の上に立つ商業資本の急激な発展に由来し、後者はまた、武士が土地との牽連を失って城下町に集中し・・・たことにその要因を仰いでいることを鋭く看取し・・・武士をその知行所に土着せしめ、戸籍を設けて人口移動を制限し、身分的差別を厳重にして、その上下に従って欲望を制限<することによって>・・原初的な封建制を・・・上から<(幕府の手によって)>・・・復活<さ>せようとした」(上掲書219、220頁)のです。
 これは、世の中の動きを逆行させようとする反動的な考え方でしたが、社会制度を所与のものと受け止めるのではなく、人間の主体的意思によって変革可能なものととらえたという点で画期的な考え方であったと丸山は指摘するのです(
http://www2s.biglobe.ne.jp/~MARUYAMA/tokugawa/sorai.htm
。2月1日アクセス)。

 次に丸山が注目したのは、安藤昌益(1703〜62年)(コラム#52)です。
 丸山は、「安藤・・・の理想社会は、徂徠によって理想化された自給自足的農業社会<(原初的封建社会)>から更に支配者としての武士を排除した形態にほかならぬ<、>いわば農本的無政府主義である。 」とし、それは安藤の、「儒教<(徳川幕府の公認儒教である朱子学や荻生の依拠する陽明学)>・仏教・道教・神道等、凡そ従来知られているあらゆる伝統的思想・・・は、・・・不耕貪食者、すなわち農業生産から遊離した階級が、直接生産者を支配し収取するために作り出したイデオロギ−にほかならぬ」という考え方が前提になっている、と丸山は指摘するのです(
http://www2s.biglobe.ne.jp/~MARUYAMA/tokugawa/shoeki.htm
。2月1日アクセス)。
 しかし、安藤は、原初的封建社会への回帰を唱えつつも、どうやってそれを実現するかについては黙して語りませんでした(上掲書263頁)。

 最後に丸山が注目したのは、本居宣長(1730〜1801年)(コラム#50)です。
 丸山自身による本居の考え方の説明(上掲書148〜182頁、266〜275頁)は、難解であるだけでなく、いささか精彩を欠いていると思うので、小林秀雄の本居論の要約(
http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2001/011214.html
。2月1日アクセス)の要約をご披露することにしましょう。
 本居の考え方は、荻生の古文辞学(=古語は現代語から見て外国語と同じく別物であるということを認識した上で虚心坦懐かつ直感的に解釈すべきところ、朱子学は周当時の漢文を宋当時の漢文のように読んで解釈しており不適切である、とする古典読解法)を日本の古典の読解に適用し、日本の古典は、「あはれ」(=情が何かに触れて喜怒哀楽の区別なく強く動かされること)を知っているか否か、即ち人の情をどれだけ理解して書かれているかによって評価されるべきものであり、儒教や仏教による善悪の基準で計るべきではない、というものでした。
 その上で本居は、一揆は生きるに窮し追い込まれて起こるのであって、為政者は、「あはれ」を知って百姓を労い信頼を回復するよう努めなければならない、と主張したのです。

 (3)私の批判

 丸山の挙げる3人が、江戸時代における独創的な思想家の3傑であることには私も異存はないのですが、丸山の「近代」認識と、江戸時代に関する歴史認識、そして学問方法論、更にはこの3人の評価には問題があります。

(続く)


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2007年09月02日
太田述正コラム#1639(2007.1.27)
<星亨の主張をめぐって>(2007.9.2公開)

 (光線銃はマイクロ波(microwave)ではなく、ミリ波(millimetre-wave)が使われています(http://news.bbc.co.uk/2/hi/americas/6300985.stm
。1月27日アクセス。以下同じ)。コラム#1638を訂正させていただきます。)

1 星亨の主張

 コラム#1629で「日本文明は米国を含むアングロサクソンの文明と極めて親和性のある文明であるところ、このことを記した、駐米公使当時の星亨(1850〜1901年)の1897年の英文草稿が残っていますが、実際に使われたものかどうかは不明です(拙著「防衛庁再生宣言」日本評論社 192〜193頁)。幕末から維新にかけて、星を含め、日本の指導層の間で広範に共有されていたこのような常識が日本で急速に失われて行ってしまったということなのでしょうか」と記したところです。
 拙著を読んでおられない方への便宜上、ここに星の主張を紹介した文章(有泉貞夫『星亨』朝日新聞社1983年 225頁)を再録しておきましょう。

 「<星>は、明治維新以降の日本の改革と進歩が偶然によるものではなく、アジアの他の国々とは異なる歴史的前提によって可能となった、着実なものであることを力説する。まず、ペリー来航以前の日本が専制国家と普通見なされているけれど、実際は徳川将軍と天皇の二重主権(dual sovereignty)というべきもので、権力と権威が分離しており、将軍と大名との関係も直接支配・被支配ではなく、大名は広範な自治権をもち、さらに農・工・商階級も、範囲は狭いが、共同体的自治により行政を分担してきた。このことが国民のなかに自主性と法の支配の観念を育て、明治維新を用意し、また維新後のさまざまな試練を乗り越えるのに役立ったと説く。つぎに、日本人は古代から外来宗教に寛容で、外来の宗教と固有信仰とを共存させてきた。近世初頭のキリスト教弾圧は、宗教的非寛容からではなく、宣教師の布教の仕方がもたらす治安妨害に対する政治的処置として行われたものであった」

2 維新前暗黒時代論はどこからきたのか

 ところが、星のように、明治維新以前の日本を高く評価する人は星の同時代人にはほとんどいませんでした。
 例えば、九州の中津藩の武士であった福沢諭吉(1835〜1901年)は、「封建の門閥制度・・・は親のかたきでござる」という有名な言葉を残しています(『福翁自伝』旺文社文庫(原著は1899年)26頁)。
 しかし、それは、「私の父は・・・漢学者であって、大阪の藩邸に在勤してその仕事は・・・大阪の金持ち、加島屋、鴻ノ池というような者に交際して藩債のことをつかさどる役であるが、元来父はコンナことが不平でたまらない。金銭なんぞ取り扱うよりも読書一偏の学者になっていたいという考えであるに、存じがけもなくそろばんをとって金の数を数えなければならぬとか、藩借延期の談判をしなければならぬとかいう仕事で、・・・純粋の俗事に当たるというわけであるから、不平も無理はない」(同20〜21頁)ということであり、江戸末期には武士の生活が窮屈で困窮していて屈辱的であったことを指しているのです。
 どうして武士の生活が困窮して町人に頭が上がらなくなるに至ったのでしょうか。
 そもそも、検地の段階で村の土地面積や生産性を実際より少なめに把握していた場合が多かった上、時代とともに農業の生産性が高くなり、商品作物の導入が進み、農工複合体のような農産加工業が発展し、農民の出稼ぎ賃金収入などが増えても村高には反映されなかったので、総じて言えば、武士以外の人々は江戸時代を通じてどんどん豊かになって行きました(石川英輔『大江戸開府400年事情』講談社文庫2006年 169頁)。
 年貢は村高に対して五公五民ないし四公五民の割合で算定されたのですから、上記経済成長に年貢収入が追いつくはずがなく、しかも稲作の生産性が高まり慢性的な米価安が続いていたので、給与が石高で支給される武士は次第に困窮して行ったのです(同168、171頁)。
 これでは、武士であった人々が、江戸時代を暗黒時代視するはずです。
 明治期の日本の指導層の多くは元武士でしたから、「不思議なことに、今の日本人は自分自身の過去についてはなにも知りたくないのだ。それどころか、教養人たちはそれを恥じてさえいる。「いや、なにもかもすべて野蛮でした。」、「われわれには歴史はありません。われわれの歴史は今、始まるのです。」という日本人さえいる。」と、お雇い外国人たるドイツ人のベルツ(1849〜1913年。日本滞在は1876〜1905年)が証言している(
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%84
。1月27日アクセス)ように、江戸時代は暗黒時代だったというイメージが日本人全体に広まり、定着してしまったのだと私は考えています。
 星は、江戸の左官屋の息子(
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%9F%E4%BA%A8
。1月27日アクセス)ですから、福沢らのような武士的偏見に目を曇らされることなく江戸時代を回顧することができたのでしょう。

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2007年07月18日
太田述正コラム#1619(2007.1.15)
<日本の科学技術の源も江戸時代?(その3)>(2007.7.18公開)

 (コラム#1618の「ベートーベン」は、「ベートーベン(1770〜1827年)」に、「以上、石川 前掲 214〜215頁」は、「以上、石川『大江戸テクノロジー事情』前掲 214〜215頁」に訂正します。)

 (3)日本の科学の限界?

 いずれにせよ、日本の科学は、江戸時代の蕃書調所において、上からの、しかも「西洋」科学の輸入という形で始まったわけです。
 換言すれば、自由・民主主義や技術とは違って、科学は江戸時代の日本に内在的に存在してはいなかったということです。
 石川英輔氏は、「昔の日本人は、・・・科学的なことを・・どうもわざと抑制していたとしか思えない・・・あらゆることを理論的に突き詰めようとはしないところがある。複雑な問題をより単純化するのが立派なことだ、という発想自体が根本的に欠けているのです。」と指摘した上で、その原因として、「当時の日本人の80%以上は農民で、武士も、大部分の身分の低い人たちは、生活のために田畑を耕していました。そういう農業社会では、物事の因果関係がはっきり目に見えます。植物栽培は、機械の製造のように人の思い通りにはなりませんから、社会の変化を促進することに対して慎重な態度になった」ことを挙げておられます(『大江戸テクノロジー事情』前掲 333、340頁)。
 石川氏の言うことが正しいかどうかを論ずるまでもなく、私は、演繹科学を生み出したギリシャ人と経験科学を生み出したイギリス人(コラム#46)を除き、人類の大部分は本来科学的思考とは無縁なのであって、日本人もまたそうであっただけだ、と単純に考えています。
 ですから日本人は卑下する必要は必ずしもないのです。
 しかも、どの国においても、一旦科学的思考の何たるかを知れば、後はカネさえあればある程度科学は発展して行くものであるらしいのです。
 科学的思考が内在的に存在していたとは思えないロシアで、ソ連時代に科学が大きく発展した原因の一つは科学に多大な資金が投じられたからだ、とMIT のローレン・グレアム教授は指摘しています。
 少し長くなりますが、教授の発言をそのまま掲げましょう。

 「ソ連の科学は、一部の分野ではかなり優秀だった。とくに数学と理論物理学だ。私は1970年代に、ワシントンの米国科学アカデミーによるソ連の科学に関する調査に参加したが、結論として、理論物理学と数学の一部の部門においてソ連は、アメリカを含む世界のどの国とも渡り合えると述べられていた。私が不安な気分になると言った理由は、創造性は、自由と結びついていると考えたいものだからだ。少なくとも私は、そう考えたい。創造性が自由と結びつくのは当然だと考えるのは、気分がいい。
 だが、ソ連の科学の歴史を見ると、最高の実績は、最悪の時代に残されているんだ。今も空を飛んでいる航空機「ツポレフ」の名は、君もたぶん聞いたことがあるだろう。この航空機の設計者は、ソ連の刑務所で長い年月を過ごしていた。
 ソ連のロケットについても、聞いたことがあるだろうね。ロケット工学の中心人物セルゲイ・コロリョフも、獄中で何年も過ごした。もしかしたら、レフ・ランダウの名前も聞いたことがあるかもしれない。ソ連の偉大な物理学者で、ノーベル賞を受賞した彼が、リフシッツという人物と共著で書いた物理学の教科書は、世界中のほぼすべての物理学者に知れ渡っている。
 出版活動という点で、ランダウにとって最良の年は1937年だった。それは、スターリン粛清の最盛期で・・人々が次から次へと逮捕されていた時期だ・・ランダウは、非常に独創的な科学者だったにもかかわらず、一年後に逮捕されてしまった。
 偉大な人権擁護者で、ノーベル賞を受賞したアンドレイ・サハロフは、もっとも独創的な研究を、政治犯に囲まれた収容所生活の中でおこなった。窓の外を眺めれば、強制労働に向かう囚人たちの歩く姿が見えるとはいえサハロフ自身はイゴール・タムと並んでテーブルに向かって座り、核融合エネルギーに対するある取り組み方を考案していた。
 彼の方法は、今も世界中で利用されている。すなわちサハロフは、もっとも信じられないほど抑圧的環境の中で、すばらしい研究をおこなったわけだ。だから、創造性と科学と自由はしっかりと結ぼれていると主張するには、ロシアの歴史のとんでもなく多くの部分に、目をつぶらなければならないわけだ。
・・・スターリンは、自分を脅かしかねないどんな種類の力に対しても、非常に嫉妬していて、なにかにすぐれた能力をもっ人物‐‐理論物理学でも、数学でも、架橋工事でも、航空機の組立でも‐‐には、その分野で世界一かそれに近い存在かもしれないというだけで、スターリンの判断に疑問を差し挟む権限が与えられるなどとは、思わせたくなかったんだ。
 だからときどき、彼らを押さえつけていた。それは、弁解の余地がないほど高くついた。私が間違っているのかもしれないが、スターリンはそのように考えていたのだと思う。
・・・その後、1991年まで時代が飛ぶと、鉄のカーテンは壊され、科学者は自由を手に入れた 。 だが、ロシアの歴史には、落ち着かない気持ちにさせられる出来事が数多く あるというテーマは継続していて、科学者は自由を手にしたとき、創造性を失ってしまった。ロシアの科学がもっとも成功をおさめていたのは、警察国家だった時代で、人々が次から次へと投獄されていたころだったんだ。
 1991年以降、この国は大幅に自由な国となっている。完全に自由な国はありえないし、もちろんロシアも完全に自由ではない。だが、現在のロシアにおけるいくつかの制限の範囲内であれば、言いたいことが言えて、したいことができる。けれども、ロシアの科学成果は非常に低調だ。
 もっとも的を射た説明は、ロシアの科学者には自由はあるとしても、お金がないからということになり、これもまた、少々落ち着かない気分にさせられる対立につながっていくんだ。
 自由とお金・・科学にとってどちらのほうが重要なのか ? 二つの意味において、どうやらお金のほうが自由よりも重要らしい。スターリン統治下のソ連時代の間、ロシアの科学にはお金がたくさんあった。スターリンは、科学者を資金面では優遇していたんだ。一方で、科学者を逮捕し、刑務所に入れ、非常に手荒にあつかった。それでも研究面では、ロシアの科学者はかなり成功をおさめていた。
 ソ連の消滅以降、科学者は自由を手に入れたが、研究費がないため壊滅的状態にあるわけだ。このことで、私たちの抱く幻想の一部が取り去られたと思うね。科学にとって自由は不必要だという結論を出すつもりはない。もし自由とお金の両方があれば、科学はもっとも成功をおさめるはずだ。でも、私たち はいつもよりも少し世間慣れした自分になって、現代の科学的研究には非常にお金がかかることを認識すべきなのだと思う。
 今でも、黒板の上や封筒の裏側を使って重要な研究ができる分野も、少しはあるかもしれないが、そういう分野の数は、昔よりもはるかに減っているのだから、科学者が資金援助を受けられなければ、自由だけでは大した成果はあげられないね。 」(注2)
 (「話す科学」株式会社不空社 2005年 より。一有料読者からのご教示による。)

 (注2)グレアム教授は、ソ連のイデオロギーであったマルクス主義は、欧米におけるキリスト教同様、科学の発展にとってどちらかと言えばプラスに働いたとも指摘している。これも興味深い論点だが、キリスト教と科学の関係について、いずれバグってハニーさんが取り上げてくれるのを待つことにしたい。

(続く)

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2007年07月11日
太田述正コラム#1617(2007.1.14)
<日本の科学技術の源も江戸時代?(その1)>(2007.7.11公開)

1 始めに

 日本文明の江戸時代からの連続性に着目したコラムをいくつか書いてきましたが、科学技術についてはどうなのでしょうか。
 技術、科学の順番に考えてみましょう。

2 技術

 (1)始めに

 江戸時代の日本では、世界でもトップクラスの優れた「からくり人形」が製作されていました。これらを作り出した代表的な人物の一人が「からくり儀右衛門」こと田中久重でした。
 久重は1799年(寛永11年)に福岡・久留米の鼈甲細工師の家に生まれ、幼いころから類まれなる才能を発揮し、やがて「当代随一のからくり師」として全国にその名をとどろかせるようになりました。
 特に有名なのが茶運び人形(茶酌娘と称した)と文字書き人形です。文字書い人形は、1770年代にスイスでもジャケ・ドローが製作していました(オートマタと称した)が、日本でも同じようなからくりが時代をそれほど隔てずに作られていたわけです。
 久重は、からくりの創作のみならず、有名な万年時計をはじめ、「無尽灯」(空気圧で油を自動で吸い上げて灯りを10倍以上にする灯火機)や「雲竜水」(消火器)、「懐中燭台」といった実用的な器械を次々に世に送り出して行きました。そして明治維新の頃、佐賀藩の精錬方などに招聘され、蒸気船、汽車、大砲の雛形などを製作しました。1875年(明治8年)、東京の銀座に田中製作所を創業し、これが後に芝浦製作所となり、これが現在の東芝の礎となるのです。
 当時のからくり人形は、蘭学、医学、天文学、測量学など、さまざまな学問をベースにした総合的な技術の集大成であり、ロボット技術のルーツとなるものでした。現在の日本の世界有数の技術力の源が江戸時代にあることは間違いないでしょう。
 (以上、
http://digitallife.jp.msn.com/article/article.aspx/articleid=34451/genreid=111/
。1月11日アクセス)

 (2)遊び志向
 
 ただし、日本の和算が遊びに始まって遊びに終わった(コラム#1480)ほどではないとしても、日本の江戸時代の技術にも実用より遊びの要素が強かった(石川英輔『大江戸テクノロジー事情』講談社文庫1995年 191頁)ことは興味深いものがあります。
 江戸時代における武器の発達の停滞は、戦国時代の終焉とともに、文字通り武器が実用から遊びの対象になったことによります。
 戦国時代末期の日本には当時の世界のどの国よりも沢山の銃があった(332頁)というのに、徳川幕府は大名達が銃を作ったり持ったりすることを制限したばかりではなく、幕府自身が銃の技術革新をする努力をやめてしまいました(181頁)。その代わり江戸時代の日本は花火大国になりました(333頁)。
 また、刀は武器というより、武士の身分を示す装身具として完成していきました(190頁)。
 弓については、張りを強くするための材料の組み合わせ技術こそ時とともにかなり進歩しましたが、握りの部分に目盛りをつけたり、発射の時に矢を支持する部分を設けたりするといった、少ない練習量で命中率を上げるための改良は、全く行われませんでした。支那では春秋時代から使われた弩機(いしゆみ)のような、弦を引き金にかけて発射する弓・・狙いをつけやすく狙ったままで長時間持て、低い位置からでも発射できる・・も採用されることはありませんでした(190〜191頁)。
 武士にとって重要な武具であった馬についても、交配によって優秀な馬を作る品種改良の努力はほとんどといっていいほど行われませんでした(224頁)し、二輪戦車(chariot)や兵員・物資の運送用に馬車が用いられることもなく(233頁)、欧州では9〜10世紀に始まった、蹄鉄を使う習慣が日本に導入されることもありませんでした(222〜223頁)。

 (3)エコロジー志向
 
 馬関連「技術」の停滞にはもう一つ理由がありました。
 江戸時代の人々のエコロジー志向です。
 当時の世界で最も人口過密な社会であった江戸時代の日本では、馬車のような効率的な運送手段ができれば、大勢の人足や馬方、駕籠かき、船乗り等が失業することから、寛政の改革の際、馬車の使用の提案があったにもかかわらず、老中の松平定信が反対したのです(232、334、238頁)。
 また、江戸時代の日本では、原料の砂鉄も還元剤の木炭もいずれも貴重品であり、そんな貴重品を消耗品である(馬の成長に応じて取り替え、またそもそも頻繁に取り替える必要がある)蹄鉄に用いる訳には行かなかったことでしょう(234頁)。
 ところで日本では、荒々しい雄馬を去勢して使いやすくする、という、日本以外の国では大昔から当たり前のように行われてきたことも行われることはありませんでした(222頁)。
 去勢はもちろんですが、馬車を曳かせることも蹄鉄をつけることも、馬にとっては迷惑千万な話です。
 江戸時代の日本人は、馬を含め、あらゆる家畜(犬・牛・鶏)や野生動物に対して優しく接していたのです(231、232頁)。
 おかげで、江戸時代に絶滅した動物は皆無であるといいます(239頁)。

(続く)

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