・日本人のアングロサクソン論(続)(その2)
・米国の対イラン攻撃はない(続)(その1)
・フランスにおける暴動(その15)
・フランスにおける暴動(その14)
・フランスにおける暴動(その13)
フランス
<日本人のアングロサクソン論(続)(その2)>(2007.10.3公開)
(3)イギリスに対仏劣等感があった?
さて、皆さんが混乱するのが目に見えていますが、渡部氏がこの本を執筆した当時参照した可能性がある英国の標準歴史書の The Oxford Illustrated Historry of Britain, Oxford University Press, 1984 は、1066年以降13世紀末まで、「教育程度の高いイギリス人は、母国語である英語を身につけていたほか、少しばかりのラテン語の知識と身につけており、しかも流ちょうなフランス語を話した」と、あえてアングロ・ノルマン語をフランス語とぼかして記述しています(PP107)。
そうしないと話が長くなる、という配慮もあるのでしょう。
しかし、渡部氏の場合、「フランス語」が一時期イギリスの公用語になったということが、後で「イギリスの対フランス、対大陸への劣等感」(116頁)を語り、しかもその「劣等感を消した男」としてウォルポール(Robert Walpole。1676〜1745年)を持ち上げる(116頁以下)ための伏線の一つとなっているからこそ、私は、重箱の隅をつつくようだと言われることを覚悟で問題提起をしたのです。
そもそも、イギリスに全般的な対仏劣等感があったという話は寡聞にして私は知りません。
確かに、上記標準歴史書自身、「ノルマン・コンケスト(The Norman Conquest)以降、イギリスは、エルサレム王国がそうであったように、海外におけるフランス、Outremerの一つとなったと言っても過言ではない。13世紀初頭までは政治的にはフランスの植民地(ただし、フランス王室の植民地ではない)となったし、それ以降も文化的植民地であり続けた」(PP107〜108)と記しており、特に地中海世界から、多くはフランスから入ってきたロマネスク様式やゴシック様式がイギリスの教会建築に決定的な影響を与えた、としています(PP107)。
しかし私に言わせれば、これは波風を立てることを回避するための、イギリス流の韜晦なのです。
私は、以上申し上げたぼかした記述や韜晦ができるのは、イギリス人がフランスに対して確固たる優越感を抱き続けてきたからこそであると確信しています。
11世紀末から13世紀初頭のイギリス人が、支配者たるノルマン人に対して鬱屈した感情を抱いていたことは間違いないとしても、イギリス人は過去何度もバイキングの侵攻・移住・支配を経験してきており、ノルマン人に対してもどちらかと言えば身内意識を持っていたと考えられる上、ノルマン人自身、形の上で臣従していたフランス王室に対し、さほどの忠誠心があったとは思えず、いわんや劣等感を抱いていたとは思えません。ですから、被治者たるイギリス人だってフランス王室に象徴されるフランスなるものに劣等感を抱いていたとは到底考えられないのです。
もとより当時のイギリス人は、建築、美術、ファッション、料理、音楽等、宮廷文化に淵源を持つところの、広義の芸術(art)の分野ではフランス、ひいては欧州大陸に対して劣等感を抱いていたでしょうが、それは現代においても全く変わっていません。
他方、ずっと以前に(コラム#54で)ご説明したように、アングロサクソン時代からイギリスは、経済的に欧州地域と比べて抜きん出た豊かさを誇ってきましたし、政治的には欧州地域には全く見られないところの、コモンローと議会主権(注4)に裏打ちされた自由を享受してきました(コラム#90、#1334)。
(注4)1066年、イギリス国王のエドワードが死ぬと、イギリス議会(Witan)は全くエドワードと血縁関係のない実力者ハロルド(Harold 2。1020?〜1066年)を国王に選出した。これに対し、ノルマンディー公ウィリアムが、自分こそエドワードから後継者に指名されていたと異議を唱えたわけだ。(標準歴史書PP102)
しかも、イギリス人は自分達は軍事的にも卓越していると思ってきました。
英仏百年戦争の際、イギリス軍が、クレシー(1346年)、ポワティエ(1356年)やアジンクール(1415年)の戦いで、3倍から6倍の仏軍と戦い、相手に20倍から100倍の損害(戦死者と捕虜の計)を与えたことは特に有名ですが、フランス人の方でも、14世紀の文人フロワサールが、「イギリス人は、戦さに強い国王か武器や戦さを好む国王でなければ崇敬し、お追従しようとはしなかった。彼らの地イギリスは、平時よりも戦時の方が富に満ち溢れたものだし、イギリス人は(富をもたらしてくれる)戦闘と殺りくに無上の快感を覚える」と語っているところです(拙著『防衛庁再生宣言』日本評論社 203〜204頁)。
ですから、現在のイギリス人がフランスに対して優越感を抱いている(注5)ように、11世紀末から13世紀初頭のイギリス人だって、フランスに対して優越感を抱いていたに違いないのです。
(注5)例えば、一昨年11月、TVディレクターとおぼしき英国人が、英デイリーメール紙に掲載されたコラムで、「どうしてフランス人は恥ずかしげもなく感情的に、毎年革命記念日にシャンゼリゼを仏陸軍に気取って行進させるような形で、フランスとかフランスの栄光とかを表明せざるをえないのだろうか。それは彼等は、二級の国々に対してこそ、軍事的勝利をおさめたことはあったかもしれないが、この1,000年間にわたって、大リーグであるイギリスにまみえる都度、粉砕され続けてきたからだ。・・<しかも、>われわれが今フランスと呼ぶ地域の過半は中世の大部分の期間、誰あろう、イギリスによって、立派に統治されていたことを付け加えておかなければならない」と記している。(
http://www.dailymail.co.uk/pages/live/articles/news/news.html?in_article_id=369777&in_page_id=1770
。3月17日アクセス)
(続く)
<米国の対イラン攻撃はない(続)(その1)>
<KS>
仏在住の者ですが、日本はやれ安倍退陣だ、やれ福田総理だ、等と相変わらず緊張感がなく、がっくりしています。
仏外相が昨日、イラン攻撃も最悪ありうると発言していました。
このところ不気味に沈黙を守っている米国ではなく、仏がこのような発言をしたことはかなり危険な兆候だと私は見ています。
日本の石油需要の8割以上を依存している中東湾岸地域で仮にイラン空爆が実施された時のリスク、またそのようなリスクに対し日本は国としてどのように対応するか、日本の政治家や官僚が果たして考えているのでしょうか?非常に気になるところです。
<太田>
1 イランをめぐる情勢
フランスのクーシュナー(Bernard Kouchner)外相が16日ご指摘のような発言をしたことは事実です。その際、外相は、フランスのトタール(Total)やルノーのような大企業にイランと契約を締結しないように働きかけていることも明らかにしました。(
http://news.bbc.co.uk/2/hi/middle_east/6997935.stm
。9月17日アクセス)
しかも同外相は翌17日、国連安保理は(ロシアや中共の反対により)より厳しい対イラン経済制裁措置をとることは恐らくないであろうから、フランスは英国やオランダらとともに、米国が既にとっている措置と同様の追加的対イラン経済制裁措置を独自にとることを考慮していると言明しました(
http://www.nytimes.com/2007/09/17/world/middleeast/17cnd-iran.html?_r=1&hp=&oref=slogin&pagewanted=print
。9月18日アクセス)。
そもそも先月、フランスのサルコジ大統領が、イラン問題は現時点における「最大の危機」であって、世界は「イランの<核>爆弾かイランに爆弾を落とすか、という究極の選択」を迫られている、と述べて物議を醸したばかりです。
また、17日には、英国の政府筋が、フランスの外相が「述べたのは当たり前のことだ」と言明したことで、ますますきな臭さが漂ってきました。
(以上、
http://www.guardian.co.uk/international/story/0,,2171395,00.html
(9月18日アクセス)による。)
フランスや英国よりもともとイランに対してより強硬な米国では、対イラン慎重派のライス国務長官から、対イラン強硬派のチェイニー副大統領に対外政策の実権が再び移りつつあるとされています(
http://observer.guardian.co.uk/world/story/0,,2170382,00.html
。9月17日アクセス)。
IAEAのエルバラダイ(Mohamed ElBaradei)事務局長は、先月イラン政府との間で、IAEAとしてイランがこれまで核物資を平和目的以外に転用したことがないことが確認できたとした上で、ウラン濃縮中止に言及しないまま、IAEAが提示したいくつかの疑問にイランが回答する、という了解に達したところです。
ところが米国だけではなく、このところフランスの首相や外相のほか英国の政府筋によってIAEAのハシゴをはずすような発言が行わ始めたことにエルバラダイは危機感を強め、17日、対イラン攻撃などもってのほかであり、そんなことをすればイラクで一般住民70万人が死んだ二の舞になる、と警告しました(ガーディアン及びオブザーバー上掲)。
またイラン外務省の報道官は17日、フランスの外相をたしなめる発言を行いました(
http://www.cnn.com/2007/WORLD/europe/09/17/france.iran/index.html
。9月18日アクセス)。
2 私の判断
(1)私の判断
このように昨今、フランスや英国まで、対イラン戦を口にしているわけですが、フランスや英国が対イラク攻撃を行うことは将来ともおよそ考えにくい上、米国もまた、ブッシュ大統領が在任中に対イラン攻撃を決行するようなことはない、と私は考えています。
米国がイランを攻撃しないであろう理由は、以前(コラム#1676、1680で)も述べたところですが、現在でもこの判断を改める必要があるとは思いません。
ただし、その時にも述べたように、イスラエルが単独で、この一両年中にも対イラン攻撃・・ただし核施設に目標をしぼった攻撃・・を決行する可能性は排除できません。
9月6日にイスラエルがシリアの、恐らくは核施設を攻撃し、破壊したことからも、このことはお分かりいただけると思います。なおこれは、イランへの警告であると同時に対イラン攻撃の予行演習であったと考えられています。(
http://observer.guardian.co.uk/world/story/0,,2170188,00.html
。9月16日アクセス)
それにしても、先月末、ブッシュ大統領が、今年米軍がイランの工作員によってイラクの過激派に提供されたイラン製の240ミリロケット弾を発見・押収した、と述べた(
http://news.bbc.co.uk/2/hi/middle_east/6968186.stm
。9月17日アクセス)り、アフガニスタン駐留NATO軍が、イランからタリバンに渡されようとしていたところの、(路傍爆弾に用いられる)徹甲成型弾等を9月6日に押収したと発表する(
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2007/09/15/AR2007091500803_pf.html。9月16日アクセス)等、イランが米国の敵に対する支援を活発に行っている可能性が取り沙汰されているというのに、なにゆえ私が米国による対イラン攻撃はないと考えているかを、この際改めてご説明しておきたいと思います。
(続く)
太田述正コラム#968(2005.11.25)
<フランスにおける暴動(その15)>
では、ホロコーストに積極的に加担したことをこれだけ恥じたはずの戦後フランスで、ユダヤ人差別は払拭されたのでしょうか。
全くそんなことはありません。
現在の在フランスのユダヤ人人口は約60万人と推定されていますが、最近では、毎年約2,000人のユダヤ人がイスラエルへ「脱出」しており、その数は次第に増えつつあります。
昨年7月には、イスラエルのシャロン首相が、フランスのユダヤ人は、「最もひどいユダヤ人差別(the wildest anti-semitism)」を逃れるために、フランスから緊急に脱出する必要がある、と述べ、フランスの朝野はこれに激しく反発しました。
ところが、シャロンがそう述べた相手である米国のユダヤ人達は、全くその通りだ、とみんながうなずいたのです。
現在のフランスのユダヤ人差別には三種類のものがあります。
第一は、カトリシズムに由来する伝統的かつ牢固なユダヤ人差別です。(これは、英米では全く見られない類のユダヤ人差別です。)
第二は、最近の左翼インテリ(Rive Gauche penseurs)の親パレスティナ・反イスラエル感情に由来するユダヤ人差別です。(これは、英米でも目にすることができます。)
そして第三は、フランスの500万?600万人のイスラム系移民の間に見られるユダヤ人差別です。これは、貧困層を代表するイスラム系移民による、富裕層を代表するユダヤ人に対する反感に由来するものです。(これはやはり、イスラム系移民が比較的豊かである米国ではもとより、イスラム系移民が貧困層を代表している英国でも、全く見られない類のユダヤ人差別です。)
2003年から2004年にかけて飛躍的増大した、ユダヤ人に対する暴言・暴行やユダ人関連施設の損壊には上記三種類のユダヤ人差別の全てがかかわっているけれども、イスラム系移民によるものが最も多いのではないかと考えられています。
もっとも、皆さんご存じのように、その「共和国原理」に基づき、フランスにはユダヤ人に関する統計もイスラム系移民に関する統計も存在しないため、以上申し上げたことはフランスで誰もが囁きあっていることではあっても、公式にはあくまでも推測に過ぎません。
そんなことはさておき、フランスにはこのように依然として深刻なユダヤ人差別が存在しているけれど、それ以上に、以前にも指摘したように、深刻なイスラム系移民差別が存在していること、にもかかわらずこの差別をフランス政府やフランス社会が直視せず、従って何の対策も、いわんや何のアファーマティブアクションもとられてこなかった(注29)こと、そのことがイスラム系移民の間に憤懣を充満させ、それがユダヤ人差別の激化の形でまず顕在化しているところ、その憤懣がやがてはフランスの国家・社会そのものに向けて爆発するであろうことは、昨年時点では既に国際的常識だったのです。
(以上、特に断っていない限りhttp://www.guardian.co.uk/elsewhere/journalist/story/0,7792,1272129,00.html(2004年7月31日アクセス)、及び(http://www.guardian.co.uk/france/story/0,11882,1331347,00.html(2004年10月21日アクセス)による。)
(注29)フランスで、飲酒の弊害がこれまで全く問題にされてこなかったのも、差別の存在を認めてこなかったことと同じく、全ては個人の責任とする「共和国原理」のせいかもしれない。先般、フランスには飲酒過多が500万人、アルコール依存症が200万人いて、10人に1人が飲酒が原因の病持ちであり、毎年飲酒が直接的な原因で23,000人、そして飲酒が間接的な原因で22,000人も死亡しているにもかかわらず、政府は何の対策もとっていない。(http://www.guardian.co.uk/france/story/0,11882,1650396,00.html。11月25日アクセス)
10 今度こそエピローグ
本シリーズにおいて、英米のプレス、就中英国のプレスの論調に従って、フランスにおけるイスラム系住民等に対する差別をあげつらってきたことに反発のある方もあろうかと思います。
英国にも差別はあるはずだし暴動もあったはずだ。将来暴動が起きない保証もあるまい、という声が聞こえてきます。
私の考えは以下のとおりです。
英国のフランスとの違いは、ロンドンの南の郊外のブリクストン(Brixton)で1981年に暴動が起きた時のことを振り返ってみると浮き彫りになってきます。
ブリクストンでの暴動は、今回のフランスにおける暴動と全く同様の原因・・警察によるハラスメント・貧困・失業・・で起こったのですが、7日間で、300名の負傷者が出て、83の建物と23の車が損壊されだけで終わり、この暴動が英国の他の地域には波及することもなかった、という具合に様々な意味で、今回のフランスにおける暴動よりもはるかに規模の小さいものでした。
なお、暴動の主体は、黒人移民の若者達でした。
英国はこの暴動を契機に、明確に多文化主義を打ち出し、アファーマティブアクションを含む様々な差別解消施策を講じ、現在では、下院に沢山の非白人の議員を擁し、ロンドン警視庁の30,000余の警官のうち非白人は7%を占めるに至っています。
(ただしその後、1985年にはブリクストンで再び小暴動が起きたし、2001年には、イギリス北部のいくつかの都市でアジア系と白人の若者達の間で小競り合いが起きている。)
(以上、http://www.nytimes.com/2005/11/20/weekinreview/20cowell.html(11月20日アクセス) による。)
つまり、英国は、小さい規模の暴動が起きただけで、すみやかに、抜本的な差別対策を講じるだけの柔軟性を持っているという点で、フランスとは決定的に違うのです。
もちろん、将来のことは分かりませんが、私は、1981年のブリクストンでの暴動のような規模の暴動すら、見通しうる将来にかけて、英国では起きないだろうと思っています。
そもそも、英国は、もともと多文化主義的な国であり、欧米における反差別のチャンピオンなのです(コラム#379?381)。
英国は、欧米諸国の中で最も早く、ユダヤ人差別を克服(コラム#478?480)し、奴隷制を廃止(コラム#225、591、592、594、601、608)しました。
私は、英国におけるこの多文化主義的・反差別的伝統は、アングロサクソンなる民族の成立の経緯にまで遡る筋金入りのものだ、と考えているのです(コラム#379)。
その英国が、欧米諸国の中で最も植民地統治に巧みであり、しかるが故に、世界最大の帝国を築くことができたのは、当然だと言うべきでしょう。
しかし、その英国の植民地統治も日本の植民地統治には及ばず、餓死や虐殺を伴うものであった(例えば、コラム#609、610)こと、しかも、計算の仕方によっては1000年にわたって統治したアイルランドを英国はついに統合することに失敗したこと、かつまた故会田雄次をして、著書「アーロン収容所」で英国人の黄色人種差別を糾弾させたこと、はどうしてなのでしょうか。
それらについてはまた、別の機会に。
太田述正コラム#967(2005.11.25)
<フランスにおける暴動(その14)>
9 エピローグに代えて:フランスのユダヤ人差別
フランスにおける今回の暴動は、市民の完全な平等というタテマエの下における深刻なイスラム系移民差別がもたらしたものでしたが、フランスにはより深刻な前科があります。
ユダヤ人迫害という前科です。
作家エミール・ゾラ(Emil Zola)によるユダヤ人差別糾弾で有名なドレフュス事件を思い出すまでもなく、もともとフランスにはユダヤ人差別の歴史がありました。
このため、先の大戦前、フランス在住のユダヤ人とフランス人の間にはほとんど交流はありませんでした(注28)。
(注28)あのニール・ファーガソンは、戦間期までには西欧でユダヤ人社会は非ユダヤ人社会と完全に統合されていた(?!)にもかかわらず、ホロコーストが起こったとし、だから異質の少数派が多数派と完全に統合された・・少数派に対する差別が完全になくなったように見えた・・としても、安心することはできない、と主張している(http://www.latimes.com/news/opinion/commentary/la-oe-ferguson21nov21,0,2648368,print.column?coll=la-news-comment-opinions。11月22日アクセス)が、史実を知らない歴史家は、歴史家の名に値しない。
1940年にフランスはナチスドイツに敗れ、フランスの三分の二はドイツの占領下に置かれ、南部の三分の一にドイツへの協力を義務づけられたヴィシー政権が成立します。
さて、ご存じのように、ナチスはユダヤ人迫害を始めるわけですが、1944年にナチスがフランスから撤退するまでの間に、ナチス占領下のフランスでは77,000人のユダヤ人がフランス外に移送され(強制収容所に送られた)たのに対し、ヴィシー政権下のフランスでは、81,000人のユダヤ人(24,5000人は元からフランスに在住していたユダヤ人、56,500人は外国から避難してきていたユダヤ人)が移送されています。
これだけでも、ヴィシー政権の方が、より「熱心」にユダヤ人迫害を行ったことが分かります。
実際、ヴィシー政権の方が、ユダヤ人の定義を広く取りました。おまけにドイツやナチス占領下のフランスでは、キリスト教徒を配偶者とするユダヤ人は移送されなかったというのに、ヴィシー政権では移送したのでした。
もっとも、当時フランスにいたユダヤ人の約四分の三は逃げ延びることができています。
これは、ナチスの他の占領地や勢力圏では見られない高いユダヤ人生存率であることは確かです。
しかしこれは、必ずしも当時のフランス人のユダヤ人差別意識が低かったことを示すものではなく、ドイツに対する反感が、一般のフランス人をして積極的なドイツへの協力を控えさせたために過ぎません。また、スペインというユダヤ人にとっての聖域がフランスに隣接していたことも幸いしました。
いずれにせよ、連合国の一員としてフランスを「解放」したドゴール政権以降、フランスの歴代政権は、ヴィシー政権関係者を裏切り者として断罪し続けてきたにもかかわらず、卑怯にも、このようなヴィシー政権のユダヤ人迫害の事実は隠し通してきたのです。
フランス政府及び社会が、戦時中のユダヤ人迫害の事実を認めたのは、実に1995年になってからです。
(以上、http://histclo.hispeed.com/essay/war/ww2/hol/holc-fra.html(11月24日アクセス)による。)
しかし、まだまだフランス政府は隠している、ということが昨年明らかになりました。
1944年にフランスが「解放」された時点で、フランス内に約300あった収容所はすべて閉鎖されたと考えられていたのですが、トゥールーズ(Toulouse)の南25マイルにあった収容所だけは閉鎖されず、(米英等の)連合国や中立国の数百名もの市民が、数を減じつつも引き続き戦後の1949年まで収容されていたことが判明したのです。
どうやらこれらの収容者達は、ユダヤ人の収容所への収容と移送の目撃者であることから、「解放」前後に一箇所の収容所に集められ、「解放」後も密かにドイツに移送され、移送できずに上記収容所に残された人々は、これまた密かに「消されて」行ったようなのです。
(以上、http://www.guardian.co.uk/secondworldwar/story/0,14058,1318972,00.html(2004年10月5日アクセス)による。)
太田述正コラム#963(2005.11.23)
<フランスにおける暴動(その13)>
その一つが、皮及び皮製品輸入規制です。
日本政府は、農産品の輸入規制を堅持する一方で、工業製品の輸入規制は撤廃させようとしてきました。しかし、木製品や水産製品とともに、皮及び皮製品については、工業製品だというのに例外的に輸入規制を堅持してきたのです。
その理由は、部落民の生業を保護するためです(注25)。
(以上、http://www.atimes.com/atimes/Japan/GK09Dh01.html(11月9日アクセス)による。)
(注25)とはいえ、日本政府は国際的圧力を受けて、次第に皮及び皮製品についても輸入規制を緩和してきた結果、この10年間に日本の革靴の輸入は80%も増加し、日本での生産は40%も減っており、部落関係者は不満の声を挙げている。
(5)回顧と展望
以上駆け足で見てきたことからお分かりいただけると思いますが、戦後在日と部落民に「よる」差別に翻弄されてきたことが、日本人にとってトラウマとなっており、移民受入問題を冷静に議論することが困難になっているのです。
とりわけ、人口比的には、1%にも満たない在日(注26)・・近代日本が初めて受け入れた移民・・に「よる」差別体験は大きいと考えられ、英国や西欧諸国のように10%にもなるような移民を抱えたら、日本は彼らにかき回されて無茶苦茶になる、と多くの日本人は思い込んでいるのではないでしょうか。
(注26)終戦時には196万人まで在日は増えたが、1950年までに140万人が朝鮮半島に帰国し、56万人が残った。その後1959年から67年まで、朝鮮総連(目的は金王朝へのゴマスリ)と日本政府(目的は厄介者払い)が協力して行った北朝鮮への帰「国」運動により、9万人以上が帰「国」し、また、戦後60年間に27万人以上が日本に帰化した。しかし、人口増や日本人との結婚もあり、現在の在日人口はなお約60万人を数える。(http://www.sir.or.jp/contribution/01.html。11月22日アクセス)
ちなみに、部落民は、1993年の数字で90万人弱だが、実数は300万人とも言われている(http://blhrri.org/nyumon/yougo/nyumon_yougo_01.htm前掲)。
しかし、在日と部落民に「よる」差別に翻弄されてきたのは、敗戦によっても日本人の心暖かさは失われなかった一方で、敗戦によって日本人が自信喪失に陥ったからにほかなりません。
日本人が、不条理なことには毅然と対処する気概を取り戻しさえすれば(注27)、新たに移民を受け入れても二度と翻弄されるようなことはあり得ないないでしょう。
(注27)日本人が毅然と対処しなかったことが在日と部落民を堕落させたとさえ言える。日本人が気概を取り戻すためにも、米国の保護国的状況からの脱却・・吉田ドクトリンの克服・・が強く望まれる。
そもそも、人口減少に直面している日本は、可及的速やかに移民受入をタブー視することをやめ、今後移民の受入を計画的に実施していく必要があります。
国際移民機関(International Organization for Migration=IOM)によれば、例えば英国では、1999年から2000年にかけて、移民が支払った税金が、移民への政府支出を40億米ドルも上回っています。これに加え、移民による出身国へ仕送り額は、しばしば公的開発援助額を上回っています。しかも移民は、受け入れ国の人々の職を奪っているのではなく、低熟練・高リスクと高熟練・高収入という両極端の職域で働いています。だからこそ、移民は世界的にどんどん増えているのです。(http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/4117300.stm。6月23日アクセス)
何と中共まで、下掲のように、移民を受け入れなければ日本の将来はないと指摘しています。
「現在、世界における国力競争というのは、人材資源の競争だ。国際的な人材市場において、日本が米国と対等に争うのは難しい。なぜなら、欧米の人材は日本社会に魅力を感じないからだ。しかし、アジアにおける特殊な地理的位置や世界第2の経済大国としての実力をもってすれば、アジアの人材を日本社会に呼び込む事は可能だ。国際人材市場における競争の中で、アジアの人材を本当に日本社会に呼び寄せる事ができれば、日本は強国としての地位を今後も維持できるだろう。さもなくば、日本の将来は楽観できない。」(http://j.peopledaily.com.cn/2004/03/26/jp20040326_37981.html。2004年3月29日アクセス)


