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マザー・テレサの悩み
奴隷制廃止物語(その5)
奴隷制廃止物語(その4)
奴隷制廃止物語(その3)
奴隷制廃止物語(その2)

カトリック教会

2007年09月05日
太田述正コラム#2044(2007.9.5)
<マザー・テレサの悩み>

<太田>

 マザー・テレサが、一貫して神の存在に確信が持てず、悩み続けていた、というショッキングな事実が明らかになりました(
http://www.time.com/time/world/article/0,8599,1655415,00.html。8月25日アクセス)。

 ガンジー(コラム#176、1992)といい、マザー・テレサ(コラム#175)と言い、聖人は敬して遠ざけた方が良さそうですね。
 
 蛇足ながら、今次安倍コルカタ(カルカッタ)訪問時に、昭恵夫人がMissionaries of Charityを訪問しています(
http://www.newkerala.com/july.php?action=fullnews&id=55726
)。

<バグってハニー>

 マザー・テレサの記事、全部読みました。すごくよかったです。
 「一貫して神の存在に確信が持てず、悩み続けていた」というのは聖人になるため(Canonize)の必要条件なんですよ。
 マザーも結果的に人を騙していたことになりますが、その結果誰かが実害を被ったわけでもないし、その理由も「イエスではなく自分に注目が集まるのを避けるため」という風に利己的ではないので、許されるのではないでしょうか。
 彼女がコルカタの貧しい人々を救ったという事実はなんら目減りしないと思います。

<太田>

 いやはや、
http://www.csmonitor.com/2007/0830/p08s01-comv.htm  
(8月30日アクセス)、
http://www.nytimes.com/2007/08/29/opinion/29martin.html?pagewanted=print  
(8月30日アクセス)、
http://newsweek.washingtonpost.com/onfaith/susan_brooks_thistlethwaite/2007/08/looking_for_god_in_calcutta_1.html  
(8月31日アクセス)、
http://www.latimes.com/news/opinion/la-ed-teresa1sep01,0,6144579,print.story?coll=la-opinion-leftrail  
(9月2日アクセス)

とことごとく、そういう理解なのですよね。
 だから、私はキリスト教が苦手なのです。
 たった一つ、私にも良く分かる論考(
http://newsweek.washingtonpost.com/onfaith/sam_harris/2007/08/the_sacrifice_of_reason.html  
。9月3日アクセス)がありました。
 この論考の最後の部分をご紹介しておきます。

 「テレサの抱いていた疑いは、教会の眼から見れば、神の恩寵の更なる証明と解釈されてテレサの偉大さを増進させるものに他ならなかった。考えても見よ。専門家が抱いた疑いですら教義の正しさを裏付けるのだとしたら、一体どうやったら教義が誤っていることを証明することができようか。」

 いずれにせよ、もう一度コラム#175で紹介したヒッチェンスのマザー・テレサ論を読み返してくださいね。

<バグってハニー>

 「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。」(ヨハネ15:18、新共同訳)

 神の存在に疑問を抱くことと否定することは全く違うんですよ。タイム誌の記事にあるジョセフ・ニューナー神父(Rev. Joseph Neuner)の言葉を借りれば、神の存在が否定できないからこそ、マザーはここまで苦しむことはなったわけです。
 前の投稿時には私はまだコラム#175を読んでなかったですけど、バチカンはヒッチェンスの批判にはちゃんと耳を傾けているのでご安心ください。かつての列福/列聖の審査の際には悪魔の代弁者(Devil's advocate)
http://en.wikipedia.org/wiki/Devil's_advocate
と呼ばれる、候補者に辛らつな批判を自由奔放に加える役回りがあり、それによって候補者に穴を見つけて資格のないものが列福/列聖されないようにしていたのですが、ヨハネ・パウロ二世前法王がこの制度を廃したために、代わりにヒッチェンスにお呼びがかかったそうです。
http://www.secularhumanism.org/index.php?section=library&page=hitchens_24_2

 思い起こせば、イエス自身はマザーよりももっと手ひどい批判をその活動中に受けていました。最後は十字架にかけられたぐらいですから。カトリックには「反対を受けるしるし(Sign of contradiction、ルカ2:34、新共同訳)」という概念があるそうです。前法王は同名の著書の中で反対を受けるしるしこそがキリストとその教会を特徴付ける定義でもあると述べています。
http://en.wikipedia.org/wiki/Sign_of_contradiction

 ヒッチェンスは米ショウタイム(Showtime)のペンとテラー(Penn and Teller)というコメディアンによる、タイトルからして書くのが憚れる、Fワードを連発するテレビ番組に出演してカトリックを激怒させたのですが、
http://en.wikipedia.org/wiki/Christopher_Hitchens#Television_appearances
このような辛辣な批判を受けることはマザーに「反対を受けるしるし」がある証拠だとするカトリックのライターもいます。
http://www.catholicherald.com/shaw/shaw05/shaw0901.htm

 つまり、マザーが神の存在に疑念を抱くことだけでなく、マザーを批判するヒッチェンスの存在もキリストとマザーの神性をますますゆるぎないものへとしているわけです。

 まあ、私は単なるリベラルなものぐさプロテスタントなので、カトリックの肩を持つ必要はないのですが、ヒッチェンスの批判はマザーに特異的というよりもカトリックに一般的な批判だと思いますね。献金の使途が不明瞭だといっても自分のための華美な服や飲み食いに使ってないことは明らかですからね。税金と違って払うほうもそこまでの厳格さは期待してないと思います。教会に限らず献金・募金・カンパというのはてそんなものでしょう。太田先生がマザーに対面したときに騙されて金巻き上げられた、というわけでもないんでしょ。

<太田>

>悪魔の代弁者(Devil's advocate)
http://en.wikipedia.org/wiki/Devil's_advocate
と呼ばれる、・・役回りがあり、それによって候補者に穴を見つけて資格のないものが列福/列聖されないようにしていた・・

 ご冗談を。
 奇跡など存在するわけがない、という前提に立てば、「奇跡を起こした」→「福者と認定(列福)する」→「その上で聖者と認定(列聖)」する、というインチキ「判決」先にありきで、対審構造を擬制し、弁護士たる「神の代弁者」と検事たる「悪魔の代弁者」との間で弁論を戦わせる、という茶番が1587年から1983年まで行われていた、ということでしょう。
 判決先にありきで、しかも多くの場合陪審員抜きで、対審構造を擬製して行われるところの、やたら時間がかかる茶番、というのが、アングロサクソンが(欧州)大陸法系の国々・・日本もそうです・・の裁判に対して抱いているイメージですが、まさにかつての列福手続きは、その通りのものだったな、と思います。
 福者ひいては聖者の大盤振る舞いをしたかったヨハネ・パウロ二世が、茶番を廃してしまった、というのはよく理解できます。
 それにしても、骨の髄まで無神論者のヒッチェンスは、それが茶番であることを百も承知で、タダでローマ旅行をするために(?)「悪魔の代弁者」役を務めたようで、まことにちゃっかりしていると言うべきでしょうか。

 蛇足ながら、バグってハニーさんがMixiに投稿した、「守屋前次官は・・なんて噂を見かけました。」を、うっかりしてボカシを入れずにそのまま前回のコラム(#2043)に収録してしまいました。
 万一名誉毀損裁判になった場合、ハニーさんのアイデンティティーは明かさないこととし、私が全責任を負うつもりですが、改めて、私が敗訴した裁判(ブログの「東村山女性市議転落死事件」カテゴリー参照)の不条理性、就中裁判官のネット音痴ぶりが思い出されます。

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2005年01月28日

太田述正コラム#0608(2005.1.28)
<奴隷制廃止物語(その5)>

 (本篇は、コラム#601の続きです。なお、北方領土問題についての議論が掲示板上で引き続いて行われているので、ご覧下さい。)

 (2)現代における奴隷制の残滓
 今日、奴隷制は全ての国の法律で禁止されていますし、奴隷制を必要とする経済的理由もありません。もちろん奴隷制を是とする議論など皆無です。
 にもかかわらず、国際連盟が1926年に定めた奴隷制の定義、「奴隷制とは、人間に対して全面的または部分的に所有権が行使される状態をいう」(Slavery is the status or condition of a person over whom any or all of the powers attaching to the right of ownership are exercised
(Slavery Convention of the League of Nations, 1926))にあてはまる人の数は、現代において2,700万人におよんでいます。
 世界の総人口に占める割合としては決して大きくはありませんが、絶対数で見れば、現代は人類史上最も奴隷が多い時代なのです。
 しかも、現代は人類史上最も奴隷の値段が下がった時代でもあります。
 1850年には奴隷一人の値段は現在価値で4万米ドルでしたが、今では象牙海岸で一人30米ドルで奴隷が買えます。これだけ安い以上、1850年よりも奴隷はもっと激しく使い捨てられている、ということです。
 現代の奴隷の大部分を占めるのが、インド・パキスタン・バングラデシュ・ネパールの債務奴隷です。何年働いても、場合によっては何世代にわたって働いても元本が減らないという状況が意図的につくり出されることによる「奴隷」です(注8)。

 (注8)ブラジルにも、ブラジル政府の推計によれば4万人の債務奴隷がいて、熱帯雨林にお
    ける木の伐採・農耕業務に従事させられている
http://www.latinamericanpost.com/index.php?mod=seccion&secc=38&conn=3720。1
月20日アクセス)。

 しかし、数は少ないとはいえ、先進国にも奴隷はいます。
 例えば米国では、外国から毎年14,000人から17,500人が「密輸」されており、恒常的に52,000人から87,000人が奴隷的境遇におかれ、売春婦・メイド・農業労働者等として働かされています。
 世界全体としては、毎年60万人から80万人が国境を越えて「密輸」(traficking。拉致)されており、その80%が女性で、70%が売春婦にされていると推計されています。国際的な暴力団は人間の拉致で一昨年95億米ドルの収益をあげていると考えられています。これは彼らにとって、麻薬の密輸、武器の密輸に次ぐ収益源となっており、10年以内にはトップの収益源になるのではないかと言われています。
 (以上、http://www.csmonitor.com/2004/0901/p16s01-wogi.html。(2004年9月1日アクセス)による。)
 とりわけ悲惨なのは子供の拉致です。
 国連は西アフリカだけで毎年20万人の子供が拉致されていると見積もっています。
 文字通り拉致されるケースや、カネで買われるケースのほか、アフリカで多いのですが、貧困家庭の親やAIDSの結果片親となった親に向かって、子供にいい教育を受けさせてやるから、あるいは子供をまともな仕事に就かせてやるから、子供に職業訓練を受けさせやるから、と偽って連れ去るケースがあります。
 (以上、http://www.csmonitor.com/2003/0428/p25s03-woaf.html?s=rel(1月20日アクセス)による。)

 (3)少年兵問題
 子供を拉致する目的の一つは、少年兵(18歳未満の男児または女児の戦闘員)にすることです。
 北スマトラ沖大地震及び津波の被災地で子供の拉致が頻発していると報じられていますが、彼らの多くは、アチェ独立をめざすゲリラやスリランカで分離独立をめざすゲリラ等の少年兵に仕立て上げられることになるでしょう。
 現在全世界に少年兵は30万人もいて、全ての紛争の75%で使われており、その80%のケースで15歳未満の少年兵がおり、18%のケースで12歳未満の少年兵がいると見積もられています。
 こんなことは昔は考えられませんでした。
 少年兵が出現したのは、武器や爆弾が扱いやすく、軽くなったことからです。
 少年達は未成熟で経験も乏しいため、恐れを知らず、死が何であるかも十分理解しておらず、彼らを「洗脳」すると、ゲーム感覚で戦闘を行い、「敵」を殺戮するようになり、自爆テロも平気で敢行するようになります(注9)。

 (注9)パレスティナでは、イスラエルに対する自爆テロをやらされた13歳の少年がいるし、
武器や爆弾の運び屋をやらされた11歳の少年がいる。1997年にはコロンビアで史上最
若年の9歳で自爆テロをやらされた少年がいた。

 もちろんその結果は、生き残った少年達の心に深い傷跡を残すことは言うまでもありません。
 (以上、http://www.csmonitor.com/2005/0118/p15s02-bogn.html(1月18日アクセス)及びhttp://news.ft.com/cms/s/c4013fdc-6a60-11d9-858c-00000e2511c8.html(1月20日アクセス)による。)

(続く)



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2005年01月21日

太田述正コラム#0601(2005.1.21)
<奴隷制廃止物語(その4)>

4 エピローグ

 (1)派生した市民運動
  ア 始めに
 奴隷解放運動は人類史上最初の市民運動でしたが、この運動から派生した様々な市民運動が英国で始まります(http://www.csmonitor.com/2005/0111/p15s01-bogn.html前掲)。
フェミニズム運動については、既に何度か採り上げているので、ここでは選挙権拡大運動と児童労働廃止運動をご紹介することにしましょう。

  イ 選挙権拡大運動
奴隷解放運動の過程で英国下院の動きがにぶかったことから、選挙権拡大運動が始まるのですが、1832年の選挙法改正によって選挙権が中産階級まで拡大されたものの労働者階級は除外されたことと1834年の新救貧法制定によって貧民救済制度が骨抜きにされたことから、労働者の選挙権拡大運動が一挙に盛り上がります。名高いチャーチスト(Chartist)運動です。
この運動の名前は、1838年に法案の形のCharter(憲章)を掲げたことに由来します。
内容は、男子普通選挙導入・秘密投票制導入・議員(候補)財産資格廃止・議員歳費支給・選挙区均等化・選挙毎年実施、の六つを柱とするものでした。
彼らによって敢行された1839年・1842年・1848年の三回にわたる署名100万人??300万人台の請願の下院への提出や累次にわたる大示威活動やゼネストは、英国社会を震撼させました。
1939年の大示威活動の際には、警備にあたっていた兵士が発砲し、少なくとも20人の死者と50人の負傷者を出しましたし、その後も活動家の多くが投獄されたりオーストラリアへの流刑に処せられたりしました。
結局目標を実現できないまま1860年には解散に追い込まれた、という意味ではチャーチスト運動は失敗に終わりますが、彼らが掲げた目標がほとんど19世紀末までには達成された(注6)ことからすれば、運動は大成功を収めたと言っていいでしょう。
(以上、http://www.spartacus.schoolnet.co.uk/PR1867.htm以下、http://www.bbc.co.uk/history/society_culture/protest_reform/chartist_01.shtml以下。http://www.chartists.net/Chartist-Timeline(いずれも1月19日アクセス)による。)

(注6)1867年に都市の成人男子に基本的に普通選挙権、1872年に秘密投票制、1884年に田舎の成人男子にも基本的に普通選挙権。なお、1928年に女性を含め完全普通選挙権。

  ウ 児童労働問題
産業革命の初期段階においては、紡績機が小さく子供の方が操作や整備をしやすかったため、児童が汚く換気が十分でない狭隘な労働環境の下で長時間労働に従事させられました。
産業家のオーエン(Robert Owen。1771??1858年)は、(自分の労働環境を整えた工場では10歳以上の子供に10時間労働しか課さず、しかも工場に併設された学校に通わせていたことを踏まえ、)貧乏な家の6??8歳の大勢の子供達が7年奉公の契約で毎日劣悪な環境の工場で13時間も酷使され、死亡率が高いが容易に補充されている、と1813年に怒りを込めて産業界を糾弾しています。
強制的に劣悪な環境で働かされ、減耗率と補充率が高い、となれば、これは奴隷制とさして変わりません。
1831年にはせめて児童の労働時間を減らそうという運動が、福音派(Evangelicals)(注7)が中心になって始まります。

(注7)良い行いや秘蹟(sacrament)によってではなくただ信仰によってのみ人は救済され、聖職授任(ordination)に意義を認めず、もっぱら聖書に拠るべきである、と唱えたプロテスタント諸派を指す。批判的勢力は往々にして、その主力であったメソジスト(コラム#517)と福音派を同一視した。

この運動の結果、1833年には児童の労働環境の清浄化と日曜学校くらいには児童をかよわせなければならないことが義務づけられ、1848年にまでには大工場にあっては12歳未満の児童労働が禁止されるとともに13歳以上は成人と同じ10時間労働とされます。(この規制が全工場に拡大されたのは1867年になってからでした。)
(以上、全般的には、http://www.gober.net/victorian/reports/work.htmlhttp://www.victorianweb.org/history/hist8.html(いずれも1月19日アクセス)、オーエンについてはNYタイムス前掲及びhttp://www.spartacus.schoolnet.co.uk/IRowen.htm(1月20日アクセス)による。)

(続く)



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2005年01月14日

太田述正コラム#0594(2005.1.14)
<奴隷制廃止物語(その3)>

 (掲示板でも呼びかけを行いましたが、コラム#549で北方領土問題をとりあげましたところ、典拠の中に出てきたJournal of oriental studiesはUniversity of Hong Kong.によるISSN:0022-331X を指すのではないかと考えられます。そのVol 36, 1996, p10を含む論文を探していますが、入手方法をご存じの方はぜひお教えください。また、1875年の樺太千島交換条約(Treaty of St Petersburg)のフランス語正文の入手方法をご存じの方もぜひお教え下さい。)

 この集会に集まった12名は、奴隷制の廃止それ自体ではなく、奴隷貿易の廃止に当面の目標をしぼることにしました。
 それには英国議会で奴隷貿易廃止法を議決してもらう必要がありましたが、議会には奴隷貿易関係者が多かったため、世論を動かさなければなりませんでした。しかし、仮に世論を動かすことに成功したとしても、当時は、上院は世襲議員ばかりであり、下院議員の選挙権は成人男性の10%しか持っておらず、女性は全く選挙権を持っていないという状況だったので、果たして議会が世論の意向を受け入れてくれるかどうか、分かりませんでした。
 運動のリーダー格になったクラークソンが最初にやったことは、奴隷船の母港であるブリストルやリバプールで、調査を行うとともに、証言者となってくれる人物を捜すことでした。調査の結果、彼は船中の奴隷の拘束機器や絶食して自殺しようとする奴隷の口をこじ開けて食糧をつめこむための器具等を収集し、証言者も確保することに成功します。
 やがてクラークソンらは、奴隷貿易関係者につけねらわれ、恒常的に生命の危険に晒されることになります。
 しかし、自分達の生命のことなど一顧だにせず、クラークソンらは智恵を振り絞って世論の喚起に努めました。
 ニュースレターの発行や、ダイレクトメール方式の募金等、世界最初の試みが実施に移されました。陶器王のウェッジウッド(Josiah Wedgwood)が運動に加わると、彼の発案で、跪き鎖につながれた奴隷の姿の回りを「私は<皆さんの>兄弟であり友人ではないのか」という標語で囲った陶器製のバッジ500個がつくられ、配られて、ご婦人方の胸や髪の毛につけられました。史上初の政治ロゴの登場です。
 ロンドンの諸ディベートクラブでは、奴隷制問題をテーマにするところが増えます。エクィアノやヘイリック(Elizabeth Heyrick)女史は盛んにディベートに弁士として出ましたが、これは英国で(つまりは史上)黒人や女性が公共の場で弁舌をふるった最初のできごとでした。
 エクィアノは、自分の伝記を執筆し、その本を持って全国を回りました。史上初の、政治的書籍によるキャンペーンです。
 2??3年たつと、英本国全土で、奴隷が収穫した製品である砂糖を買わない、使わないボイコット運動が起こり、約30万人がこのボイコットに加わりました。
 おかげで、比較的短時日で英国の世論は大きく変化し始めました。
 ナイフやフォークの産地であったシェフィールドの生産組合員数百人が、自分達のつくったナイフやフォークがアフリカで奴隷買収のための「貨幣」として使われているとして、自分達の利益に反する奴隷貿易反対の請願を英国議会に行いました。
 そして、奴隷貿易反対の請願が英国議会に殺到するに至ります。マンチェスターの三分の一近くの市民が署名したものを含め、英国全土から519もの請願が提出されました。これに対し、奴隷貿易存続の請願はわずかに4つにとどまりました。
 この運動は、人類史上最初の市民運動であり、しかも全くの赤の他人のための運動であったにもかかわらず、最終的に成功をおさめたという点で特筆されます。
 (奴隷貿易存続派も、様々な工夫をこらしてこれに対抗しようとしました。現代の産業界や企業が、市民運動に対抗してとる方策の原型は早くもほとんどこの時に出尽くしていると言ってもいいでしょう。)
 議会でこの運動の前に立ちふさがった首魁は、後にウィリアム4世として1830年に英国王となる、(ジョージ3世の王子の一人)上院議員クラレンス公爵でした。
 下院議会では、奴隷貿易廃止に好意的な議員発言が多かったのですが、1792年、弱冠33歳の首相であったピット(William Pitt)がついに重い口を開きます。「(英国が奴隷貿易を止めてもフランスが肩代わりするだけだという指摘に対し、)議員諸公よ、世界中のコンセンサスが得られるまでどの国も何もしなければ、このような途方もない悪行が根絶される時が果たしてやって来るだろうか。・・(黒人は未開だから奴隷にすることも許されるという指摘に対し、)ローマの元老院議員が<ローマ支配下の>ブリテン島の住民を指さして「こいつらは永久に文明に浴することはなかろう」と言い放ったとすればいかが思われるか」と。
 結局、下院では1796年に向けて漸進的に奴隷貿易を廃止する法律が議決されます。
 しかし、上院では否決されてしまいます。
 翌1993年から英仏は1815年まで22年間にわたる戦争に突入したため、奴隷貿易廃止どころの騒ぎではなくなってしまい、一旦はクラークソンらは雌伏を余儀なくされます。
 しかし、敵国フランスの植民地にイギリスの奴隷船がこっそり奴隷の供給を続けたことが発覚し、1807年についに奴隷貿易は廃止されるのです(注5)。

 (注5)時代背景として、1798年に米国で20年後の1808年にアフリカからの黒人奴隷の輸入を禁止する法律が成立していたこと、1790年代からハイチでの奴隷大反乱が続いていた(コラム279参照)こと、(このハイチからはもとよりだが、)戦争相手の英国の「封鎖」によって西インド諸島から砂糖が輸入できなくなった結果フランス本土で砂糖大根の生産が促進され砂糖の戦略商品性がかげりを見せ始めたこと、つまりは奴隷貿易の意義が低下しつつあったこと、も忘れてはならない。

 これで、供給源を立たれた奴隷制が自然消滅するのも時間の問題だと思われたのですが、西インド諸島では、奴隷の待遇改善が行われた結果奴隷の「減耗率」が低下し、他方「再生産率」は向上し、奴隷制はしぶとく生き残ります。
 クラークソンらは、残った力を振り絞り、再び英本国全土を行脚し、運動を盛り上げます。
 このニュースを知ったジャマイカの奴隷達2万人以上が1831年末に蜂起し、鎮圧されるまでに奴隷200人、白人14人が死亡します。
 このため、プランテーションの経営者達も、奴隷制維持のコストを考えざるを得なくなります。
 そしてついに1838年、英上下両院は奴隷制廃止法を議決し、英帝国における奴隷制は廃止されるのです。
 1787年の集会に集まった12人の中で、この日を生きて迎えることができたのは、クラークソン一人だけでした。
 (以上、tomdispatch前掲、NYタイムス前掲、http://www.bookpage.com/0501bp/adam_hochschild.htmlhttp://news.bookweb.org/3125.htmlhttp://search.barnesandnoble.com/booksearch/isbnInquiry.asp?endeca=1&isbn=0618104690&itm=5(いずれも1月9日アクセス)による。)

(続く)

<一井>
御問合せの件ですが,Asia Timesの記事に引用されていた論文の書誌データは以下のとおりです.

The Kuril Stalemate : American, Japanese and Soviet revisitings of History and Geography by Frederic Lasserre.
Journal of Oriental Studies vol.34(1), pp.1-16.
[巻号からすると1996年の刊ですが,実際の出版は1999年の模様です]

この論文の原稿は以下のサイトでPDF版を入手できます.

http://www.polarite.umontreal.ca/notice.asp?noticeID=1069

出版されたものと比較すると,図版のレイアウト等に差異が見られます.引用文献から判断すると,当該論文の下敷き元ネタは,註3のThierry Mormanne氏によるINALCO(仏国立東洋言語文化研究所)の日本研究センター機関誌Cipango掲載論文あたりに行き着くのではないかと推測されます.因みに,同著者のサイトは以下のとおりで,法曹系の専門家ではありません.
http://www.ggr.ulaval.ca/gredin/P_Frederic_Lasserre.html
(英語による経歴はこちら:http://www2.iwra.siu.edu/directory/individual.asp?memberid=1562550864)

また1875(明治8)年締結の樺太千島交換條約の原文(仏文)は,外務省調査局編纂の『大日本外交文書』第8巻明治8年分(日本国際協会(1940(昭和15)年刊)のpp.215-222に,日本側特命全権公使の榎本武揚による和訳も並列して収録されています.同書中には当條約締結前後の経緯に関する各種公文書も収録されています.国立公文書館アジア歴史資料センター[http://www.jacar.go.jp/search/search_frame.html]のレファレンスコード検索においてB03041125500で検索すると,当該和訳文がオンラインで閲覧可能ですが,仏文の條約原本はオンライン公開資料に含まれていないようです.

なお蛇足ながら,サンフランシスコ平和条約の第2条(http://avatoli.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/docs/19510908.T1J.html)が,上記交換條約とは違い,該当する島名を列挙することもなく,「千島列島」という曖昧な表現に至った経緯については,既に御存知の事と思いますが,政治学者の片岡鉄哉氏が「日本永久占領」(講談社α文庫1999年刊)の第17章で2つの憶測を披瀝されています.

<太田>
 詳細にご教示いただき、まことにありがとうございます。
 一読者のご紹介で、世界週報の1月21日号(当日発売)に北方領土問題に関する拙稿が掲載されるので、この際、原資料にあたっておきたいと思った次第です。
 なお、片岡さん(20年以上前に一度お目にかかったことがあります)の「日本永久占領」は読んだことがありますが、せっかく教えていただいたので、もう一度読み返してみたいと思います。
 一井さんは、国際関係論の研究者でいらっしゃるのですか。よく勉強をされていますね。



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2005年01月12日

太田述正コラム#0592(2005.1.12)
<奴隷制廃止物語(その2)>

 マンスフィールド判決が出た背景には、奴隷制を容認した原子論的個人主義哲学者のホッブスやロックの主張に強い違和感を覚える、「正邪の感覚と惻隠の情(compassion・sympathy・benevolence)という道徳的感情(moral sentiment)ないしコモンセンス(common sense)」を重視する「啓蒙主義者」ハッチソンら(コラム#517)のイギリスの伝統的な考え方がありました(注3)。

 (注3)もっとも、欧州においても、(イギリスかぶれの)モンテスキューが1748年の「法の精神」において、またルソーが1755年の「人間不平等期限論」において、奴隷制を批判していた。

 ですから、上記裁判の原告側の弁護士はもちろんのこと、被告側の弁護士の中にも、自分は奴隷制を擁護するつもりはないと公言する人がおり、裁判官のマンスフィールドとしては、あのような判決を下して当該奴隷を釈放するほかなかった、と言うべきでしょう。
 しかし、この判決の結果は意外な展開をもたらしました。
 イギリス本国内で開放された奴隷が乱暴狼藉を繰り返したこともあって、解放奴隷はほぼ全員アフリカの英領シエラレオネ(Sierra Leone)に白人売春婦達とともに追放されることになったのです。シオラレオネはイギリスの奴隷貿易の中心であり、そこから西インドに向けて黒人奴隷が積み出されたところです。この頃のシオラレオネは、18世紀後半には飢饉と疾病によって一時人口が三分の一に減ってしまうというおぞましい場所でした。

 (2)北米植民地
 続いて奴隷制廃止の狼煙が上がったのは、独立宣言直後のイギリスの旧北米植民地の一角でした。黒人奴隷が余りいなかったバーモント州とマサチューセッツ州でそれぞれ1777年と1780年に奴隷制が廃止されたのです。この動きが次第に旧北米植民地の北部諸州全体に広がり、奴隷制を残した南部諸州との対峙が後に南北戦争を引きおこすことはご存じの通りです。
(以上、NYタイムス上掲及びanimallaw上掲による)

3 奴隷制廃止運動

 (1)起源
 さて、本格的な奴隷制廃止運動はどのように始まったのでしょうか。
 1783年に、上記裁判に勝訴した原告として有名になったシャープ(Granville Sharp)のところに、ある新聞記事を見た解放黒人奴隷のエクィアノ(Olaudah Equiano)が駆け込みます。
 奴隷運搬船の船長のミスで航海が手間取り、その間に多数の奴隷が病気にかかってしまい、このままでは死者が続出して多大の損失を船主が蒙ることを恐れた船長が、水がなくなったことにして、水を使う「積荷」たる奴隷中病の重い者から何度かに分けて計133人を生きながら大西洋に投げ捨て(jettisonし)、保険会社から船主達に投げ捨てた奴隷一人当たり33ポンド、合計にして現在価値で約50万米ドルの保険金の支払いを受けさせようと図ったのです。
ところが、船主達の保険金支払い要求を保険会社が拒否したために裁判になり、この裁判についての記事をエクィアノが読んでシャープのところに駆け込んだ、というわけです。
シャープは何人もの弁護士を雇い、船主達を殺人罪で告発しようと試みますが失敗します。
怒ったシャープは、彼の知っているあらゆる人物に事の顛末を記した手紙を送ります。
この手紙を読んだケンブリッジ大学のvice chancellor(実質的には学長)は、奴隷制問題を毎年行われる同大学におけるラテン語論文コンテストのテーマに選ぶのです。
このコンテストに応募した一人が、それまで奴隷制問題に何の関心もなかった、同大学で神学を専攻していた25歳のクラークソン(Thomas Clarkson)学生でした。
しかし、論文を書く材料を集めるにつれて、彼は奴隷制問題にのめり込んでいきます。クラークソンはコンテストで一位になります。それは1785年のことでした。
やがてクラークソンはケンブリッジを卒業し、国教会の聖職者としての生涯を始めるためにケンブリッジを後にします。しかし、目的地への旅の途中で、彼は、自分自身が論文に書いたように奴隷制が真に嫌悪すべきものであるならば、誰かがイギリス植民地を含めた英帝国全域での奴隷制廃止のために立ち上がらなければならない、と考え、道を引き返し、ロンドンを目指すのです。
ロンドンで自分の論文の英訳を出版してくれるところを探し始めたクラークソンは、旧知のクエーカー教徒にばったり出っくわします。クエーカー教は、キリスト教諸宗派の中で、唯一奴隷制に反対していましたが、クエーカー教そのものが、一種鼻つまみの存在(注4)であり、彼らの主張など一顧だにされていませんでした。その旧知のクエーカー教徒は、クラークソンをクエーカー教徒の本屋兼出版社兼印刷屋であるフィリップス(James Phillips)のところに連れて行きます。

(注4)クエーカー教徒は、「汝」(thee, thou)などという古くさい表現を用い、説教やお祈りの時以外は常に黒い山高帽をかぶり、月や週の名前を異教時代のローマ由来だとして使わなかった。

1787年5月のある夕刻、フィリップスのところで、奴隷制廃止をめざす人々による集会が行われます。
 本格的な奴隷制廃止運動はここに始まるのです。それは同時に世界最初の市民運動が始まった日でもありました。
(以上、tomdispatch前掲による。)

(続く)



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