カテゴリ: 日本の現代史

太田述正コラム#5120(2011.11.17)
<豪州への米海兵隊基地設置をめぐって>(2012.3.4公開)

1 始めに

 豪州への米海兵隊基地設置のニュースが日本でも報じられていますが、それは、米国と豪州の軍事協力の一断面に過ぎません。
 この軍事協力の背景に迫ったラウル・ヘインリックス(Raoul Heinrichs)の論考
A:http://globalpublicsquare.blogs.cnn.com/2011/11/16/americas-clever-base-move-in-australia/?iref=allsearch&hpt=hp_c1
B:http://the-diplomat.com/2011/08/17/america%e2%80%99s-dangerous-battle-plan/
のさわりをご紹介し、それに私のコメントを付すことにしました。
 なお、ヘインリックスは、国立豪州大学の戦略・防衛研究センター付き冠座学者(Sir Arthur Tange Scholar)であり、ロウイ国際政策研究所(Lowy Institute for International Policy)の編集者の一人であり、ニックス(Pnyx)誌の副編集長です。

2 米豪軍事協力の背景

 「・・・<今次米豪軍事>取り決めは、米軍に、豪州の基地、就中飛行場に対するより大きなアクセス権を与えるとともに、より広範な訓練、艦船寄港、演習の機会を提供するほか、米海兵隊の小さな分遣隊(detachment)を<豪州に>前方配備させるものだ。
 それはまた、<米軍の>物資(燃料、弾薬、補修用部品)の事前配置を規定しており、<豪州において、>インド洋における米軍の潜在的出撃基点たりうる基盤を構築するものでもある。・・・
 過去20年にわたって、中共は、恐るべき一群の精密誘導打撃能力、すなわち、長距離弾道弾群及び長距離巡航ミサイル群を集積して来ており、それらを、海、空、陸から発射することができる。
 それら<打撃能力>は、作戦上の主眼をその早期かつ大量使用に置く攻撃的戦闘教義へと織りなされてきた。
 それは単に海にある米艦船だけに対するものではない。
 日本、韓国、そしてグアムにある米軍基地でさえ、紛争の始まったばかりの時に中共のミサイルの大量攻撃を受ける危険がどんどん大きくなっているため、そこから米国が軍事力を投入するための恒久的に信頼できる根拠地とはもはやみなせなくなってしまった。・・・
 <そこで、>太平洋で、米空軍と海軍は、エアシー・バトル(AirSea Battle)<(注)>概念・・中共の地域拒否(area-denial)戦略に真っ向から対抗する戦闘教義・・に肉づけをしつつあるのだ。・・・

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 (注)「人民解放軍の海上拒否戦略は、静かに成熟しつつあり、米国は困難な諸選択に直面している。
 中共の武器庫に潜水艦と精密誘導打撃能力が集積され、戦争諸計画にそれらが織りなされて行くにつれ、長きにわたって当然視されてきたところの、米国の海上統制(sea-control)と軍事力投入(power projection)能力が着実に掘り崩されつつある。・・・
 他方、米海軍と空軍は、エアシー・バトル諸作戦計画(contingencies)を準備しつつある。
 <エアシー・バトルと>は、中共の拒否戦略に対抗することを狙いとする戦争遂行(war-fighting)教義だ。
 米国は、この地域における自由航行の保護者(guarantor)としての優越(primacy)と役割を増強して、中共のアクセス拒否(anti-access)能力を拒否することで、自身の海上統制と軍事力投入の諸選択肢を維持しようと目論んでいる。・・・
 <しかし、それがうまくいくかどうかについては、>懐疑的たらざるをえないいくつかの理由がある。
 第一に、エアシー・バトルは、恐らく手が届かないくらい経費がかかる。・・・
 財政逼迫の新しい時代の下、米国の債務が増大し、米国防省が次の10年間に数千億ドル節約する算段をしている中で、米軍が、より多くのことをより少ないカネでやることを期待するのは、良くて実現できそうもないし、悪くすると完全に不可能なことだ。・・・
 <しかも、エアシー・バトル遂行態勢が整ったとしても、問題なしとしない。>
 第一に、西太平洋において、引き続き目に見えるプレゼンスを維持するとともに、よりでしゃばった監視態勢を構築することで、エアバトルは、海上における瀬戸際政策と危険な海上事件の一連の機会を大きく増大させるこになろう。
 第二に、エアシー・バトルは、人民解放軍に対する早期の打撃によって中共に先制攻撃を加えることを強調するものであり、危機において意思決定者達に与えられる時間を圧縮し続けることだろう。・・・
 そして第三に、エアシー・バトルは、人民解放軍の監視諸システムに目くらましをかけ、抑圧し、その長距離打撃能力を弱体化させるために支那本土深く打撃を加えるよう求める。
 しかし、このような攻撃は、在来システムのみを用いて行われたとしても、中共の報復核諸選択肢を先制的に破壊する試みであると北京が容易に誤解する恐れがある。
 <つまり、核戦争に発展しないという保証はないのだ。>・・・
 <他方、エアシー・バトル>以外に、それを行う、より費用効果的な方法がいくつかある。 
 そのうちの一つが、中共自身のゲームのやり方を<米国も>行うことだ。
 そのためには、中共が自らの兵力投入のために海を利用することを禁じることを意図したところの、もっぱら潜水艦を用いることに焦点を定めた海上拒否戦略を開発することだ。」(B)
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 <この戦略の第一の様相は、>中共の海上拒否(sea-denial)能力を拒否することによって、米国が、西太平洋において、地域の支配的(dominant)プレヤーであるという信頼性と役割を増強するために、その海上統制と軍事力投入という選択肢を維持しようとするものなのだ。
 この戦略の第二の、余り語られない様相は、中共のインド洋におけるかなりの脆弱性に付け込もうというものだ。・・・
 つまり、<この戦略は、>中共の経済を、戦時と平時において、その商業的海運を遮断することによって危殆に瀕せしめ、北京の服従を促そうというアプローチを含意しているわけだ。
 それは、ワシントンの第二次世界大戦の時の作戦計画書(playbook)引き写しの戦略であり・・・1940年代に日本に対して行ったものによく似ている。・・・
 ここに豪州が関わってくる。
 豪州は、<西太平洋とインド洋という>二つの戦域の中心点であるし、より重要なことに、豪州は、その西方に位置するインド洋において行われる可能性が最も高いところの、中共に対するところの、<その>商業<航行への>襲撃ないし阻止(blockading)のための拡大された作戦の支援を比較的短期間で準備することができる基地なのだ。
 豪州における米軍の拡大されたプレゼンスの三番目の動機は政治的なものだ。
 ワシントンは、豪州の経済的福祉における中共の重要性を十分認識している。
 米国の戦略家達は、太平洋とインド洋それぞれに面していて、南極を後背地として持ち、長大な列島<(インドネシア)>によってその前方を遮蔽されているという、豪州が享受している恐るべき地理的優位についても認識している。
 彼らは、多くの豪州人が見過ごしていることを理解しているのだ。
 それは、キャンベラが、明晰な思考と、相当な、かつ継続しうる支出増によって、北東アジアの権力政治(power-politics)に巻き込まれることなく自らを防衛することで、より独立的な戦略態勢を構築することができることだ。
 だからこそ、彼らは、豪州が我が道を行く同盟国になることを防止しようと決意しているのだ。・・・」
 (以上、特に断っていない限り、Aによる。)

3 終わりに

 ヘインリックスの指摘には首肯できるところが多いと思います。
 グアムすら、中共に近すぎる、というのは彼の言うとおりでしょう。
 だとすれば、沖縄を含む日本に米国が海兵隊や空軍の航空部隊を残しておくことなど愚の骨頂だということであり、海兵の航空部隊を沖縄に残すなどという話に日本が付き合う必要は全くない、ということです。
 他方、私がヘインリックスと意見を異にする点は以下のとおりです。
 豪州に米海兵隊の駐留等を行うことで豪州に対する壜の蓋の役割をさせようとしているのではないか、とのヘインリックスの指摘は、妄想の最たるものです。
 私見によれば、日本に対してさえ、米国は朝鮮戦争が始まった瞬間に、「独立」させる決意をしたくらいなのですから、まだまだ国力の小さい豪州に、没落過程にある金欠病の米国が、豪州の「独立」を懸念して、(エアシー・バトル態勢構築の反射的効力だとしても、)仮にもカネのかかる措置を講じることなど、およそありえないからです。
 米オバマ政権の豪州との軍事協力関係強化政策の最大の問題点は、同政権が、米国の経済財政の現状を正視することのないまま、いまだに日本を「独立」させるべく日本に働きかけてそれを実現し、日米安保とANZUSを合体させた上で、エアシー・バトル態勢の共同構築を含むところの、日米豪の軍事協力関係強化を目指そうとしていない点です。
 ここでは紹介しませんでしたが、ヘインリックスによれば、米国が一番心配しているのは台湾の防衛であるところ、それに私も同感ですが、台湾防衛に今後とも遺漏なきを期すには、「独立」日本を台湾防衛に関与させる以外にないのです。

太田述正コラム#4276(2010.9.25)
<日本の戦犯は誰なのか(その2)>(2011.1.12公開))

 「7月22日、第二次近衛内閣が成立し、外相松岡洋右、陸相東條英機、海相吉田善吾(のち及川古志郎)<へ>と交代する。この夏、イギリスは最悪の情況にあった。ヨーロッパ西部戦線で英仏軍が地すべり的に惨敗し、英軍のダンケルク撤退(40年5月〜6月)、フランスの降伏(6月22日)、ドイツ空軍の英本土空爆開始(8月10日)と相次ぐ中で、イギリス政府は、好機に乗じた日本の南進を極度に警戒した。イギリス政府は、懸案中の現銀・治安・通貨に関する天津租界問題で大きく譲歩し、日本軍による英仏租界封鎖は解除(6月20日)された。また日本側は中国との和平実現に努力するという了解のもとに、イギリス政府は、援蒋ビルマ・ルートの3ヶ月閉鎖を受け入れた。アメリカ政府からの明確・迅速な支持をなお期待できない状況で、「たんに威信のために、日本の敵意を刺激すべきではない」というのがチャーチルの戦時内閣(5月1日成立)の結論であった。・・・
 ともあれ、欧州戦争不介入の政府方針下に一時鳴をひそめていた南進論は、好機に便乗して再び浮上する。今回は南進一辺倒の海軍中堅層からだけでなく、陸軍省・参謀本部の中堅幕僚層からの突き上げも加わ<った・・・。>陸軍としては、フランス領インドシナを通ずる援蒋ルートを封止して日中戦争の早期解決を望んでいた。」(49頁)

 「マレー、シンガポールなど極東英領攻略論が<1940年>6月以降陸軍側から急速に浮上する。この場合、アメリカの動向いかんが問題にされた。陸軍側は、南方進出に当って、戦争は「英国のみに之を制限」する必要をうたい、英米分離は政戦略的に可能である、と楽観していた(7月3日・・・)。一方海軍側・・・は・・・ことさらに対米戦の危機を強調し、戦争相手を英国に限定した場合でも、「対米開戦は之を避け得ざるべきをもって、之が準備に遺憾なきを期す」と述べて・・・いる。海軍としては・・・物動計画を海軍優先に転換させるべく、対米戦の脅威を強調する必要があったのである。・・・
 <しかし、>海軍側も<ホンネでは>「英米不可分なるも英が『ペシャンコ』になれば米も立ち得ず」、「英の領土を侵すも英援助のため米の乗り出す算少し」と<考えていた。>・・・
 重光葵駐英大使も、東京への報告(8月5日)で、「英米の政策ハ共同(joint)政策ニアラズシテ平行(parallel)政策ナルモ右平行政策も今日迄ノ所必シモ目的及運用ニ付完全ニ一致シ居ラズ」との判断を示している。・・・
 <つまり、>外務・陸軍・海軍いずれも、英・米間の「見えない協調」が「見える協調」へとその深部で移りつつある状勢を認識できなかったのである。9月22日北部仏印進駐、同27日三国同盟締結。これを契機に英米間の対日平行路線は「見える協調」=対日統一戦線結成へと転じ、さらに1941年に入って、アメリカの対日強硬政策へ統合されて行く。」(50〜51頁)

→池田による対英(のみ)開戦論批判は、対英(のみ)開戦なき仏印進駐路線を当時の日本政府がとっている間に、英国の対独戦況が好転するとともに、英米協調が進展したことを踏まえた後付的批判です。
 むしろ批判されるべきは、陸軍の対英(のみ)開戦論を水で薄めてしまうことによって、千載一遇の戦機を逸してしまった当時の内閣、具体的にはその首相たる近衛文麿である、と言わざるをえません。
 すなわち、主たる戦犯は近衛文麿であった、ということです。
 さしずめ米内光政は従たる戦犯、といったところでしょうか。(太田)

3 どうして近衛は誤ったのか・・終わりに代えて

 近衛が対英(のみ)開戦に踏み切らなかったのは、若い頃に、彼が英米を一体視するという謬見を身につけてしまい、その後、この謬見を矯正することを怠ったからではないでしょうか。

 「弱冠二十八歳にして彼は『日本及日本人』に「英米本位の平和主義を排す」との論文(<第一次世界大戦終了直後の>大正七<=1918>年一二月一五日号)を発表する。その趣旨は以下の通りである。
 第一次世界大戦の結果、英米に都合のよい国際状況が作り出されたが、彼らが国際関係において正義人道を唱え平和を言うのも、所詮は現状維持をもって有利だと考えるところに発する。「英米人の平和は自己に都合よき現状維持にして之に人道の美名を冠せたるもの」、つまり「自己の野心を神聖化したるもの」に他ならないとした。したがって英米の平和主義は、「何等正義人道と関係なきもの」に他ならず、さらにその現状を法的に固定化しようとする国際連盟もまたいかがわしいものと見た。近衛は言う。「英米本位の平和主義にかぶれ国際連盟を天来の福音の如く渇仰するの態度あるは実に卑屈千萬にして正義人道より見て蛇蝎視すべきものなり」。何となれば、「此戦争によりて最も多くを利したる英米は一躍して経済的世界統一者となり国際連盟軍備制限と云ふ如き自己に好都合なる現状維持の旗幟を立てて世界に君臨すべく、爾余の諸国如何に之を凌がんとするも武器を取上げられては其反感憤怒の情を晴らすの途なくして、恰もかの柔順なる羊群の如く喘々焉として英米の後に随ふの外なきに至らむ」からである。したがって、来るべき講和会議で日本は、その正義人道の欺瞞を暴くため、また真の正義人道を実現するために「黄人」に対する差別的待遇撤廃を約させるべきとして、こう言った。「我国亦宜しく妄りにかの英米本位の平和主義に耳を籍す事なく、真実の意味に於ける正義人道の本旨を体して其主張の貫徹に力むる所あらんか、正義の勇士として人類史上永へに其光栄を謳はれむ」。

http://www.hatugenshajuku.net/opinion/opinion21-2.html
(9月25日アクセス。以下同じ)

 ここから、当時の英国については現状維持志向と言えたとしても、米国の方は現状打破志向であった・・大英帝国及び大日本帝国を瓦解させて自ら世界覇権国たらんとしていた・・ことについて、近衛は、あえて無視したか、そもそも無知であったことが分かります。
 人種差別についても、まさに翌1919年に開かれたパリ講和会議において、日本が人種的差別撤廃提案を行ったところ、「イギリスは<日本が原提案を修正した>修正案には賛成の意向だったが、移民政策が拘束されてしまうと反発する<(白豪主義の)>オーストラリアと南アフリカ連邦の意向を無視できず、結局反対に回った」のに対し、「<この>修正案は採決の結果、出席者16票中11票の賛成・・・を得るに至り、賛成多数により可決かと思われた<が、>議長であったアメリカ大統領ウッドロウ・ウィルソンはこの案に反対。それまで全ての議題は多数決で採決されていたにも関わらず、突如『重要な議題については全会一致が必要である』として日本の提案を退けた」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E7%A8%AE%E7%9A%84%E5%B7%AE%E5%88%A5%E6%92%A4%E5%BB%83%E6%8F%90%E6%A1%88
というひどい対応を米国は行ったことからも、両国の姿勢には大きな違いがあったわけですが、このような両国の違いについても、近衛は全く気付いていなかったであろうことが、やはりここから分かります。

 (ちなみに、「1919年のアメリカでは自国政府の講和会議での行動に対して、多くの都市で人種暴動が勃発し、100人以上が死亡、数万人が負傷する人種闘争が起きた」(ウィキペディア上掲)ということが、逆に、ウィルソンがどうしてこのようなひどい対応をせざるをえなかったかの理由の一端を物語っています。)

 それにしても、近衛が少なくとも1940年まで抱き続けた英米一体との謬見について、それから半世紀も経った1990年時点においてもなお、それが謬見であることに気付かず、当時の陸軍等批判を繰り返す池田清・・現在でも大部分の日本人はそうです・・には呆れるほかありません。

(完)

太田述正コラム#4274(2010.9.24)
<日本の戦犯は誰なのか(その1)>(2011.1.11公開)

1 始めに

 開戦前の日本には少なくとも2回逸機があったという話を何度かしてきました。
 1936年の内蒙工作の時(コラム#4008)と、英国が一番困っていた1940年です。
 本コラムは、読者のXXXXさんが提供してくれた、池田清「1930年代の対英観--南進政策を中心に--」(『青山国際政経論集』18号 1990年)に出てくる史実についての記述をもとに、後者に係る戦犯、つまり、1940年に日本が対英国(だけ)開戦をせず、千載一遇のチャンスを無にした責任者捜しをしようというものです。

2 戦犯は誰なのか

 「<1926年12月5日当時、>・・・宇垣一成陸相は・・・日英の親善関係を・・・修復<し、修復された>日英友好関係に米国をも参加させ、中国のナショナリズムとソビエトのボルシェヴィズムに対抗する日英米の地域的な協調体制を創出して中国問題の局地化を考えていた。また幣原外交に続く陸軍出身の田中義一外交(1927年4月20日首相兼外相)において<は、>・・・幣原外交の、アメリカ重視のワシントン・・・体制維持とは対照的に、現実主義的<に、>二国間外交の重視、とくに中国における日英協調を重視した。<これ>は陸軍主流の見解を反映して<いた。>」(35頁)

→米国よりも英国(現実主義)を重視した陸軍は、米国(「理想」主義・・カギ括弧に入れた理由は省略)を重視した外務省よりまともでした。問題は、その英国が急速にまともではなくなりつつあったことです。(太田)

 「満州事変<に対し、>・・・原則主義を堅持するアメリカに比べて、イギリスの対日態度はより柔軟であった。日本の国際連盟からの脱退(33年3月)、日英間の繊維貿易紛争で、日英関係は冷却の度を深めたが、・・・イギリス側では蔵相ネヴィル・チェンバレン・・・を中心にする対日「宥和」派によって、「日英不可侵協定」をめぐる動き<があった。しかし、>・・・日本側の積極的な協力がえられず、結局は不毛に終わった。・・・1937年2月登場した林銑十郎内閣の佐藤尚武外相は・・・日英経済紛争の最大の理由は、安価な日本製紡績商品が集中豪雨的にインドをはじめ英帝国自治領へ進出したことによる、と判断し、また中国で「古くからイギリス人の占めていた権益を尊重すべきである」と考え・・・た<が、日華事変>の勃発<によって、この考えも実を結ばなかった。>」(37頁)

→日英間のボタンの掛け違い(コラム#4272)が、こんな感じで続くわけです。(太田)

 「<1937年>6月3日裁可された・・・改訂帝国国防方針<には、>第三 帝国ノ国防ハ帝国国防ノ本義ニ鑑ミ、我ト衝突ノ可能性大ニシテ且強大ナル国力殊ニ武備ヲ有スル米国、露国ヲ目標トシ併セテ支那、英国ニ備フ<という箇所があった。>仮想敵国としてイギリスが新しく加えられた<のである。>」(42頁)

→1922年の日英同盟破棄から15年経ってようやく英国を仮想敵国にしたところに、まともでなくなりつつあった英国に対して日本の理解がなかなか追いつけなかった実態が露呈しています。(太田)

 「<日華事変>直後、これにたいするイギリスの反応は遅かった。同年5月に成立したネヴィル・チェンバレン内閣は、ナチ・ドイツによるラインラント進駐(1936年3月)、イタリーのエチオピア併合宣言(同年5月)、スペイン内乱の勃発(同年7月)など、ヨーロッパ国際政治の地すべり的変動に直面し、これへの対応に忙殺されて、遠く離れた極東の情勢に十分に配慮する余地がなかった。急速に冷却・競合しつつあった日英関係を打開すべく、チェンバレン首相が特派したロバート・クレイギー大使が東京に赴任したのは、事件勃発の2ヶ月後(9月)である。
 <彼の赴任後すぐに起こったのがヒューゲッセン誤射事件(コラム#4272)であり、>イギリスの対日態度は・・・硬化した。
 この・・・事件と前後して、日本海軍による援蒋ルート遮断のための封鎖作戦も、日英関係を急速に悪化させる一因となる。チェンバレン首相は9月8日の内閣で、「この種の行為は、日本が文明諸国民の間で遵守されている正常な基準に達していないことを示す」、と平常からの対日嫌悪感を爆発させ<ている。>」(43〜44頁)

→チャーチルよりははるかにまともであったチェンバレンですら、日本も、日本の支那での戦争目的も全く理解していなかったことが分かります。知日派のクレイギー大使やピゴット陸軍武官の苦労が察せられるというものです。(太田)

 「他方、日本の民間右翼、言論界、陸海軍の急進派中堅将校、外務省革新官僚の間には、事変の経過とともに英国打倒論が高揚する。・・・
 ・・・全国的な反英運動が、2回にわたって展開された。第一次(1937年10月〜38年2月)、第二次(39年7月〜9月)である。とくに第二次反英運動は、日本陸軍の天津租界封鎖(39年6月)問題を解決するための日英会談(有田八郎外相とR.クレイギー大使)を目標に展開される。第一次は民間右翼に主導され「反ソ・反英」をスローガンに掲げていたが、第二次は、規模・動員数で第一次のそれに数倍し、また内務省・各府県当局に内面指導された総動員型の大衆運動で、主敵はイギリスに絞られていた。・・・
 ・・・東京有力10新聞社<は、1939年7月1日、>「対英共同宣言」<を発出する。>・・・
 1933〜34年の日印(英)の綿業に関するシムラ会商以来反英感情の濃かった関西では、打倒英国論がより高揚し、<39年8月18日、>全大阪日刊新聞社連合排英大会<で>決議<がなされる。>」(44〜46頁)

→端的に言えば、1939年の中頃、日本の若手官僚(軍官僚を含む)及び世論は対英開戦論でほぼ一致するに至っていた、ということです。(太田)

 「しかし・・・陸海軍上層部、とくに<第一次近衛内閣に引き続き平沼騏一郎内閣でも海相として留任していた>米内光政海相
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3%E5%86%85%E5%85%89%E6%94%BF (太田)
、および政府は批判的で、<1939年9月2日に始まっていた欧州戦争(第2次世界大戦)>への不介入を9月4日声明し、日中戦争の早期解決を最優先課題とした。1940年1月<16日>に登場した米内内閣<(〜7月22日)>は、政策的に親英米の色彩が濃厚で、欧州戦争に「積極的不介入」の方針を堅持した。米内は早くから、中国問題の解決はイギリスとの協調によってのみ可能であると確信していた。

 「日本は支那に権益を有せざる他国(独・伊・<池田>注)と結び最大の権益を有する英国を支那より駆逐せんとするが如きは一の観念論に外ならず、又日本の現状より見て出来ることでもなし又為すべきことにあらず」

 米内の発想は透徹した現実主義にあり、「事変以来財的に日本が英米の援助を蒙ったことは支那とは比較にならぬ、日本の世界貿易が大きければ大きい程日本は倫敦金融市場の世話になっている。だから、中国について排他独善にならず、「在支英米人から本国への文句が出なくなる様にしてやれば…英米の対日感情は自然に氷解する」という論理であった。・・・だが米内内閣は、日独伊の防共協定強化=三国同盟締結で日中戦争とヨーロッパ戦争との連動をはかる陸軍の策動によって、同年7月、あえなく退陣する。」(48〜49頁)

→しかし、米内は精神分裂症かと言いたくなるのは私だけではありますまい。
 米内は、
 「近衛内閣時代、1937年(昭和12年)8月9日に発生した第2次上海事変において、8月13日の閣議で断固膺懲を唱え、陸軍派兵を主張した。翌14日には、不拡大主義は消滅し、北支事変は支那事変になったとして、全面戦争論を展開、台湾から杭州に向けて、さらに15日には長崎から南京に向けて海軍航空隊による渡洋爆撃を敢行した。さらに8月15日から8月30日まで、上海、揚州、蘇州、句容、浦口、南昌、 九江を連日爆撃し、これにより<日華事変>の戦火が各地に拡大した。また1938年(昭和13年)1月15日の大本営政府連絡会議では、「蒋介石を対手とせず」の第一次近衛声明に賛成している。」(ウィキペディア上掲)
と、日華事変の拡大に積極的な役割を果たし、当然、その日本の足を当時最も引っ張ったのが英国であることを自覚していたからこそ、
 「1938年(昭和13年)11月25日の五相会議で、米内は海南島攻略を提案し合意事項とした。」(同上)と考えられるからです。
 というのも、「当時の海軍中央部では「海南島作戦が将来の対英米戦に備えるものである」という認識は常識だった・・・」(同上)
からです。
 彼の、「近衛内閣時代、ナチス・ドイツを仲介とした対中和平交渉であるトラウトマン工作の打ち切りを主張し、平沼内閣時代には山本五十六海軍次官、井上成美軍務局長とともに、ドイツ・イタリアとの提携、すなわち日独伊三国軍事同盟に反対し続ける。」(同上)という軌跡からすると、彼はとにかくファシズムのドイツ・イタリアを毛嫌いしており、そのために、当面の最大の敵である英国に対し、わざわざ開戦の布石を打ちながら、絶好の開戦時期を逃してしまったとのそしりを免れないのではないでしょうか。
 このように首尾一貫しない米内を現実主義者として高く評価する池田の筆致には、従って、私は全くもって同意できません。(太田)

(続く)

太田述正コラム#4242(2010.9.8)
<アナーキズム(その3)>(2011.1.7公開)

 (5)評価

 「・・・カール・マルクスが1872年にミハイル・バクーニン(Mikhail Bakunin)(注)を第一インターナショナルから追放させた時以来、<アナーキストに比べて、>より規律のある革命家達は、アナーキスト達を、新しい社会秩序を構築する能力のない風来坊(loose cannon)達であると描写した。

 (注)1814〜76年。ロシアの貴族の家に生まれる。第一インターナショナル(International Working Men's Association)でマルクスの選挙参加論に反対論を唱え、放逐される。その後も革命運動に従事しつつ、マルクスのプロレタリア独裁の考え方に反対する論陣を張る。スイスのベルンで死亡。チョムスキー(Noam Chomsky)はバクーニンの流れを汲む。
http://en.wikipedia.org/wiki/Mikhail_Bakunin (太田)

 アナーキスト達は、「行為(deed)によるプロパガンダ」<を実践すること>によって<かかる描写を>助長した。
 この文言は、少人数の集団やたった一人の個人によって遂行された爆破や暗殺をすぐに連想させるようになったところの、蜂起的集団行為を促進するために、1876年に作り出されたものだ。
 アナーキスト達によるマルキシズムの専制的諸傾向に対する先見性のある警告、及び彼等の<提示した>人道的社会主義に係るもう一つのビジョンは、アナーキズムをテロリズムと同一視させることを促進したところの暴力行為によって信用が失墜してしまった。・・・」(G)

 「・・・アナーキズムと今日のテロリズムとが一つのものであり同じものであると言うのは間違いだろう。
 アナーキスト達は、宗教的またはナショナリスティックな信念ではなく、ユートピアに対する強烈な信条によって掻きたてられていたからだ。
 このユートピアは、全ての既存の諸制度が破壊された後においてのみ成就できるとしていたわけだが、彼等の夢は、彼等の行動が致死的なものであったのと同じくらいロマンティックなものだった。・・・」(A)

→この書評子は、「宗教的」なものを狭く解しすぎており、それは(私見によれば、カトリシズムの最初の世俗的変形物たる)「ナショナリスティック」なものを「宗教的」なものと並列にして論じているところに現れています。
 また、そもそも彼が、「ナショナリスティック」なものを、無条件で「インターナショナリスティック」なものよりも見下しているかのように聞こえる点にも問題があります。(太田)

 「・・・アナーキスト達が、どのように、高度に発達した殉教主義(martyrology)を含むところの、「急進的宗教の諸属性を継受した」かについて、バターワースは、彼等が自分達自身を「進歩へのマニ教的闘争の抑圧された英雄達である」と見ていたと論評する。
 その宗教に対する敵意にもかかわらず、アナーキズムは、それがそのふりをしていたところの科学に立脚した世界観ではなくして、一つの信条(faith)だったのだと。・・・」(B)

→この書評子はジョン・グレイ(John Gray)です。いかにも彼らしい評釈ですね。(「政治的宗教について」(コラム#3676以下)参照。)

3 終わりに

 アナーキズムは、ジョン・グレイばりには政治的宗教の一つ、ということになるのでしょうが、私ばりに言えば、カトリシズムの近現代的変形物の一つではあっても、(いかに形だけのものであれ)選挙も、そしてまた独裁をも否定する以上、民主主義的独裁の範疇には属さないことになります。
 このように、選挙を否定する以上は正当化の根拠を欠き、また独裁を否定する以上はふるえる力に限界があることから、アナーキズムは、ついに大きな勢力たり得ず、今日に至っている、と考えられます。
 当然、彼等が行使した暴力も散発的なものに終わったわけですが、いずれにせよ、アナーキズムの暴力が、欧州はもとより、欧州の外延たるロシア、更には、アングロサクソンと欧州のキメラたる米国においても生起したというのに、イギリスでは全く生起していないのは面白いですね。
 イギリス(とスイス)は、(マルキストのみならず)アナーキスト達の避難所であったので、彼等は恩義ある地では暴力行使を控えたものと思われます。
 ところが、現在のイスラム・テロリスト達は、イギリスにおいても、遠慮容赦なく暴力を行使しています。
 これは、アナーキスト達とは違ってイスラム教徒達は必ずしも好んでイギリスにわたってきたわけではない、ということと、イスラム教の本来的野蛮性とによるのかな、という気がしています。

(完)

太田述正コラム#4240(2010.9.7)
<アナーキズム(その2)>(2011.1.6公開)

 (3)活動実績

 「・・・1871年のパリ・コミューンと1905年の第一ロシア革命との間、アナーキストたる狂信者達によって、世界最初の国際テロリスト運動が展開された。・・・
 1878年には、・・・セルゲイ・クラフチンスキー(Sergei Kravchinsky<。1851〜95年。英国で汽車に轢かれて死亡
http://en.wikipedia.org/wiki/Sergey_Stepnyak-Kravchinsky (太田)
>)・・・がロシアの対革命任務に従事していた悪名高い第三部門(Third Section)の長のメゼンツェフ(Mezentsev)将軍にサンクト・ペテルブルグの公園で近づいた。
 小剣を丸めた新聞から取り出して、彼は、このスパイの長を刺殺し、賞金を稼いだほどの俊足の馬に引っ張られた馬車に乗って逃走した。
 この大胆な行為は、これに続く4分の1世紀の間、欧州を揺るがした暗殺計画と革命的陰謀の続発を呼び起こした。
 国家元首でさえ安全ではなかった。
 メゼンツェフの死から1年以内に、イタリアのウンベルト1世は「国際共和国万歳」と派手に書かれた旗から取り出した短刀でもって一人のアナーキストに傷つけられた<(下出)>し、ドイツのヴィルヘルム1世は、散弾銃を振りかざしたインテリ・アナーキストによってすんでのところで命を奪われるところだった。
 ロシアのアレクサンドル2世は、彼の列車を爆破する企みこそかわしたけれど、1881年に、彼のそりが、人民の意思として知られたアナーキスト一味の三人が投げつけた手榴弾の攻撃によって殺された。・・・」(D)

 「・・・アレクサンダー・バークマン(Alexander Berkman<。1870〜1936年。ユダヤ系。ロシア領リトワニア生まれで米国に移住。ロシアへ追放。ボルシェヴィキに協力するもその批判に回る。最後はニースで自殺。
http://en.wikipedia.org/wiki/Alexander_Berkman (太田)
>)の失敗したところの、米産業家のヘンリー・クレイ・フリック(Henry Clay Frick<。1849〜1919年
http://en.wikipedia.org/wiki/Henry_Clay_Frick (太田)
>)への攻撃、ガエターノ・ブレスチ(Gaetano Bresci<。1869〜1901年。トスカーナ地方で生まれて米国に移住。当時のイタリアは死刑を廃止していたので、終身重労働を課され、服役1年後に不審死を遂げる。
http://en.wikipedia.org/wiki/Gaetano_Bresci (太田)
>)によるイタリア国王ウンベルト1世の暗殺、そしてそれに今度はレオン・ゾルゴス(Leon Czolgosz<。1873〜1901年。ポーランド系米国人
http://en.wikipedia.org/wiki/Leon_Czolgosz (太田)
>)が鼓吹されて1年後に行ったウィリアム・マッキンレー(William McKinley)<米大統領>の殺害。・・・」(A)

 「・・・<しかし、>ロシアの内戦時のウクライナにおける数年、及びその後の、アナーキズムがスターリン主義によって破壊されたスペインを除き、アナーキズムが深刻な政治勢力になったことはない。
 <皮肉なことに、>歴史においてアナーキズムが果たした役割は、目に見えないけれど<欧州>全体に広がっていた敵を現状維持諸勢力に提供し、その勢力を強固にし強化したことであったと言えよう。・・・」(B)

 「・・・ロシアの抵抗運動は関与した女性の数において瞠目すべきものがあった。
 1870年代初期、ロシアの女性達は、自分達の国で教育を拒否され、スイスに勉強に行き、集団で互いに励まし合って、1970年代の女性解放を目指して意識覚醒運動を行った集団類似の様相を呈していた。・・・」(E)

 (4)各国の対応

 「・・・<各国の当局は、>最初の国際的な「対テロ戦争」<を遂行した。>・・・」(D)

 「・・・バターワースは、ボーナスで報いられたところの秘密エージェント達が、<アナーキストの陰謀を>発見しただけでなくでっちあげたことを指し示す。
 その一方で、彼等の上司達は、自分達の予算の削減を防止するために恐怖の雰囲気<が続くこと>を必要としていた。・・・」(E)

 「・・・ロシア皇帝の秘密警察のパリ支局の長はピョートル・ラフコフスキー(Pyotr Rachkovsky<。1853〜1910年。帰国後、ロシア諜報機関の長となる。
http://en.wikipedia.org/wiki/Pyotr_Rachkovsky (太田)
>)だった。
 ラフコフスキーは、アナーキストのネットワークに浸透し、(恐らくは)悪名高いあのシオンの議定書(Protocols of the Elders of Zion)・・ユダヤ人の世界征服の青写真と見えるけれど、実際には革命運動の信用を落とすために設計された反ユダヤ的インチキ話・・を偽造したことから、この本のクモのようなアンチヒーローとして登場する。・・・」(D)

(続く)

太田述正コラム#4238(2010.9.6)
<アナーキズム(その1)>(2011.1.5公開)

1 始めに

 アレックス・バターワース(Alex Butterworth)が 'THE WORLD THAT NEVER WAS A True Story of Dreamers, Schemers, Anarchists and Secret Agents' を上梓し、英国を中心に大きな話題になっています。
 さっそくその概要を書評類をもとにご紹介したいと思います。

A:http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2010/08/27/AR2010082702200_pf.html
(9月5日アクセス。以下同じ)
B:http://www.newstatesman.com/books/2010/03/early-anarchists-butterworth
C:http://www.guardian.co.uk/books/2010/mar/27/world-never-was-alex-butterworth
D:http://entertainment.timesonline.co.uk/tol/arts_and_entertainment/books/book_reviews/article7059346.ece
E:http://www.independent.co.uk/arts-entertainment/books/reviews/the-world-that-never-was-a-true-story-of-dreamers-schemers-anarchists-and-secret-agents-by-alex-butterworth-1923491.html
F:http://www.guardian.co.uk/books/2010/apr/11/world-that-never-was-alex-butterworth-book-review
G:http://articles.latimes.com/2010/aug/01/entertainment/la-ca-alex-butterworth-20100801

 なお、バターワーズは、オックスフォード大卒(英語)で、Royal College of Artで修士号を取得(Interactive Media)し、著述家、劇作家、研究者として活躍しており、この本は、'POMPEII' に次ぐ彼の2番目の本です。
http://www.convilleandwalsh.com/index.php/authors/author/alex-butterworth/

2 アナーキスト

 (1)起源

 「・・・アナーキズムが生まれるきっかけになったのは、・・・1871年の春にパリを短期間統治した革命的コミューンだ。
 この本で我々が出会う主役達の多くはコミューンの異常な指導者達だった人々だ。・・・」(D)

 「・・・バターワースは、19世紀末の暴力的な直接行動の勃興の背景に、いかに1871年の敗れたコミューン要員達が直面したひどい報復があるかを示す。
 約17,000人が集団墓に埋められ、もっと多くが粉みじんにされたバリケードのがれきの下に埋められ、その他の者達はニューカレドニアの厳しい諸条件の下で亡くなった。
 ロシアの皇帝達の専制統治も、穏健な反対の声が余りもカ国に処罰されたために、同様な極端な形の抗議を生んだ。・・・」(E)

 (2)理念

 「・・・ルイーズ・ミシェル(Louise Michel<。1830〜1905。フランス人アナーキストにして学校教師。パリコミューンに参加。ニューカレドニア流刑を経験。パリの地下鉄の駅の一つは彼女の名前
http://en.wikipedia.org/wiki/Louise_Michel (太田)
>)は、・・・諸段階についての賛美歌を歌った。
 「社会が通らなければならない初段階は、社会主義、共産主義、アナーキズムだ。
 社会主義は正義をもたらし人道化する。共産主義は新しい国家を洗練化する。そして、アナーキズム…においては、人は、もはや飢えたり凍えたりすることはないので良き存在となるのだ」と。・・・」(F)

 「・・・ロシアのアナーキストのアンドレイ・ゼリャボフ(Andrei Zhelyabov<。1851〜81年。ロシアの革命家にして人民の意思(Narodnaya Volya=People’s Will)のメンバー。皇帝アレクサンドル2世暗殺の首謀者の一人として処刑される
http://en.wikipedia.org/wiki/Andrei_Zhelyabov (太田)
>)は、「歴史の動きは遅すぎる。<我々はそれを>押してやらなければならない。・・・」(B)

→アナーキストは、共産主義者と同じ世界観を持ちつつ、社会主義、共産主義の段階を飛び越して一挙にアナーキズムの世界を招来しようとしたわけです。(太田)

 「・・・初期のアナーキスト達は、全人類を包摂するところの、いかなる者もいかなる他者を統治することなき、国家のない、平等主義的な社会を夢見た。
 彼等は、これ・・搾取的で操作的なエリート達によって妨げられなければ、あらゆる所に存在するであろう調和と平等の状況・・こそ、人間達が本当に欲していることだと信じた。・・・」(B)

 「・・・ウィリアム・モリス(William Morris<。1834〜96年。イギリスの織物デザイナー、芸術家、著述家にして社会主義者
http://en.wikipedia.org/wiki/William_Morris (太田)
>)の言葉である「他の人間の主人たりうるほど良い人間は存在しない」を信じ、いつの日にか、搾取、抑圧、紛争が除去された協力的連邦(commonwealth)が到来するという世界観(vision of the world)を共有する<このような>男性達や女性達がいたのだ。・・・」(C)

(続く)

太田述正コラム#3252(2009.5.3)
<陰謀論批判>(2009.9.21公開)

1 始めに

 イギリスの著述家兼キャスター兼ジャーナリストであるデーヴィッド・アーロノヴィッチ(David Aaronovitch。1954年〜)が 'Voodoo Histories: The Role of the Conspiracy Theory in Shaping Modern History' という本を上梓しました。
 陰謀論を批判した本です。
 その内容のあらましをご紹介しましょう。

2 陰謀論批判

 「・・・陰謀論(conspiracy theory)についての、これまでのものより良い定義は、偶然のあるいは意図的でない事柄の原因を意図的な当局の行為に帰せしめること、であろう・・・。・・・
 <その例として、>シオンの議定書(Protocols of the Elders of Zion)、真珠湾攻撃とローズベルトの第二次世界大戦参戦への意欲との関係、ケネディの暗殺ないしケネディとモンロー<の関係>、ダイアナ妃の死、等々があげられる。
 <更に、>1984年の反核活動家の<英国人>ヒルダ・マレル(Hilda Murrell)の死、2003年の<対イラク戦の正当化につながったイラクの大量破壊兵器能力情報に疑念を呈した英国人>デーヴィッド・ケリー(David Kelly)の死、9.11同時多発テロ、イエスの血統に関する神話とダヴィンチコード(Da Vinci Code)も<陰謀論の例として>あげられる。
 2001年の世界貿易センターの崩壊がらみのでっちあげの話が一番面白い。
 <陰謀論者の>多くは、テロリスト達は、米国政府によって仕立て挙げられた諜報的手先たる「闇ネットワーク」ないし「秘密チーム」に属する騙されやすい人々であると考えている。
 ・・・この陰謀論の興味深いところは、連中が抱く、アラブ人が自分達自身の力でこれを成し遂げたという考え方に対する「絶対的な侮蔑」だ・・・。
 ・・・陰謀論の一つの特徴は、連中がそれ以前の陰謀論を足場として用いて自分達の「理論」を宣伝することだ。
 だから、真珠湾攻撃がローズベルトによって、米国を戦争に参戦させるべく意図的に工作された企みであったように、9.11同時多発テロは、ブッシュ/チェイニー一派によって、イラク戦を行うために行われた挑発であった、ということにあいなるわけだ。・・・」
http://www.guardian.co.uk/books/2009/may/02/voodoo-histories-david-aaronovitch
(5月3日アクセス。以下同じ)
 
 「・・・英国の偉大な歴史家のルイス・ネーミア(Lewis Namier)は、「歴史研究の最高の到達点は、歴史に関する感覚、すなわち、どんなことが起こり得ないかについての直感的理解である」と述べている・・・。陰謀史観の理論家達に欠けているのは、まさにかかる感覚なのだ。・・・
 連中の典型的なタイプは、自分達を真実のための学者達(Scholars for Truth)と呼んで、9.11同時多発テロ以来、世界貿易センターの破壊はイスラム教とは何の関係もないことであって、米国政府の企みであったと主張し続けてきた連中だ。
 この76人の自称学者達の中には、ただの一人も中東専門家は含まれていないが、その代わり、米国が反物質兵器で木星爆破を企んでいると信じているエンジニアが一人、歯科技工に関する権威が一人いる。・・・
 アーロノヴィッチは、陰謀論を20世紀の初頭のものから追いかけ始める。
 1903年に、ロシアが偽造した途方もなく反ユダヤ的なシオンの議定書が出た、という話からだ。
 これは、ユダヤ人達が世界征服を企んでいることを証明しようという意図から偽造されたものだ。・・・
 ハマスは、その公式憲章(official Covenant)の中で、この議定書に何度も言及するとともに、フランス革命と第一次世界大戦が起こったのはシオニストのせいだと非難している(コラム#3229)。
 後者は、「イスラム教カリフを消滅させるために」戦われたというのだ。
 これは、陰謀論の発想においてしばしば見られる虚栄心の一例だ。
 これによって、ハマスの聖戦論者達は、自分達を中心に据えることができ、「第一次世界大戦は、要するに自分達のことに関するものだったのだ」と言えるわけだ。
 アーロノヴィッチは、やはり偽造であるところの、共産主義者達は英国を乗っ取ろうとしていることを示そうとした1924年のジノヴィエフ(Zinoviev)の手紙<等も紹介している。>・・・・
 <アーロノヴィッチに言わせれば、>最も単純な説明が通常最も良い説明なのだ。
 ダイアナ妃が死んだのは、彼女の運転手が酔っぱらっていて速く運転しすぎ、しかも彼女がシートベルトをつけていなかったからだ。つまるところは、陰鬱かつ無意味な不運の連鎖が生じたというわけだ。・・・
 ・・・我々がやっていることの多くは冷たく非人間的であって、まともに点が線によってつながることはほとんどなく、しかも点と点の間は遠く離れている。だから、若干の人々は自分で線をでっちあげようとするのだ。
 陰謀論は心理的に必要なものなのかもしれない・・・。
 特定のタイプの麻薬中毒のように、この種の考え方は、より深い精神的不安・・もはや意味のあることは何もないという絶望的な感覚・・を自己治癒しようとしている、ということなのかもしれないのだ。 
 彼は、侮蔑ではなく憐憫の下、陰謀論を「敗者のための歴史」と形容する。
 (パレスティナ人のように、)「近代化から取り残された」人々に<陰謀論は>最も強くアピールし、これを用いることによって、彼らは「安心する」というのだ。・・・」
http://entertainment.timesonline.co.uk/tol/arts_and_entertainment/books/non-fiction/article6197929.ece?print=yes&randnum=1241328879266

 「アーロノヴィッチは、1930年代のインチキ裁判を政治的に正当化するため、スターリンがトロツキストによる妨害工作を裏付ける諸文書をでっちあげた話<も>詳細に記している。・・・
 彼は、最も少ない新しい仮定群に依拠する説明を好む。
 例えば、2001年の世界貿易センターを壊したのは、(1993年に車載爆弾で同じ場所を攻撃した・・・)聖戦主義者達であると考えた方がはるかにもっともらしいというわけだ。・・・
 もちろん、アーノロヴィッチ自身も記していることだが、<この世の中には>正真正銘の陰謀が存在することを忘れてはなるまい。
 例えば、<英国政府は、>全国鉱山労働者組合(National Union of Mineworkers)に<工作員を>送り込んでいたし、<米レーガン政権下では、イラン・イラク戦争中にイランに対し武器を輸出し、その収益をニカラグアで反政府戦争(=コントラ戦争)を行う反共ゲリラ「コントラ」に与えていた>イラン・コントラ(Iran-Contra)醜聞があった。
 だから、国家権力に対して疑いの念を持つのは当然だ。
 しかし、これらの事件は、むしろその反対が正しいことを指し示している。
 証拠が示すところによれば、<自由民主主義国においては、>国家の無能さと勇気ある内部告発者達とがあいまって本当の陰謀は大方暴露されてしまうからだ。・・・
 彼は、陰謀論は明確な政治的性格を帯びてはいないことを教えてくれる。
 左翼からも右翼からも陰謀論は出てきているし、宗教的なものも世俗的なものもあるし、ボトムアップのものもトップダウンのものもあると。・・・
 現在、ガザにおける<世俗的な>ハマス主導の政府とイランの<宗教的な>神制政治が、どちらも偽造されたシオンの議定書を再臨させている。
 陰謀論は、・・・敗者によって書かれる。疲れ果てた異議申し立て者達にとっては、全能で情け容赦のない敵の幻影を作り出すことは、トレードオフや妥協の伴うところの民主主義的政治というやっかいな営みからの、至福の解放をもたらしてくれるからだ。・・・
 その中に偉大な著述家であるゴア・ヴィダル(Gore Vidal)も含まれているところの、ローズベルト大統領が、米国を第二次世界大戦に参戦させるため、真珠湾攻撃を知っていてやらせたとか、それどころか計画した、と信じている人々は、非介入主義論達の主張していたことが間違っていたという事実を直視することを回避するためにそう信じたがっている、ということなのだ。・・・
http://www.newstatesman.com/print/200904300027

3 終わりに

 私は、自由民主主義国家においても、例えば、真珠湾攻撃をローズベルトが知っていてあえてその情報を握りつぶした可能性はある、すなわち、消極的陰謀が行われた場合には、それが暴露しないことがありうる、と考えているので、この点に関しては、アーロノヴィッチとは見解を異にしますが、それ以外では、彼の言うことに首肯できます。

太田述正コラム#3445(2009.8.7)
<日本のリーダー論(2001年レジメ)>

 今回ご披露するのは、2001年11月17日に東京での勉強会で話をした際に用意したレジメです。
 一度ネット上で公開したのですが、現在のブログに移行する過程で落ちてしまっていました。
 文章に起こしてご披露したいところですが、あしからず。(太田)

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 --日本の閉塞状況打開のために・・リーダー論の試み (古典と軍事の視点から)--

<始めに>

・ 太田著「防衛庁再生宣言」=国の自立論、と日本の閉塞状況論との関係
・ 日本の閉塞状況論の貧困・・最近の日本経済だけを見る議論は不毛。他方、そうではない説(例えば小室直樹説)にも見るべきものがない。
・ 古典(=比較文明、歴史)と軍事に対する造詣の重要性。(例えば、国家(=近代国家=国民国家)は軍事抜きに理解はできない。)

1 リーダー不在の日本

(1)リーダー輩出の条件(アングロサクソン社会を手がかりに)
 ア リーダーは、多様な、自立した個人の中から生まれる。換言すれば、リーダーは、多様な、自立した個人をfollowersにして、初めてリーダーたりうる。
 (アングロサクソン以外に個人主義社会なし。しかし、個人主義は個人の自立の必要条件ではない。)
 イ リーダーは、教育、選別システムを通して育てられる。(英国のパブリックスクール。米国の大学・・学力だけで選別しない(多様性を確保。教養主義))
 ウ リーダーは、国事(なかんずく、安全保障。stakesがhigh)に携わることで鍛え上げられる。

(2)現在の日本
 ア 自立的な個人たるfollowersがいない。(小泉・田中ブームを見よ)
 (ア)多元的価値が並存していない(=pluralismなし)
 権威、権力、富の同時獲得を目指す「立身出世主義」のみ

 (イ)regionalな多様性がない。

 (ウ)ethnicな多様性がない。(同じような国は韓国くらい)

 イ リーダーの教育、選別システムが機能していない。(東大法学部を見よ)

 ウ 国が自立していない。(=植民地人シンドロームの蔓延・・政治家→外務省・厚生労働省・農水省の役人→被規制・被保護産業の経営者を見よ)

2 日本がリーダー不在に至ったプロセス

(1)幕末・維新期にはリーダーが輩出した(その典型が福沢諭吉)のはなぜか
 ア 自立的な個人群が江戸時代に準備されていた。維新の結果、彼らが一挙に束縛を取り払われ、「解放」された。
 (ア)多元的価値の並存
 「・・「中古武家の代に至り・・至尊必ずしも至強ならず、至強必ずしも至尊ならず」・・その結果、「民心に感ずる所にて、至尊の考と至強の考とは自から別にして恰も胸中に二物を容れて其運動を許したるが如し。既に二物を容れて其運動を許すときは其間に又一片の道理を雑へざる可らず。故に、神政尊崇の考と武力圧制の考と、之に雑るに道理の考とを以てして、三者各強弱ありと雖ども、一として其権力を専にするを得ず。之を専にするを得ざれば、其際に自から自由の気風を生ぜざる可らず」(「文明論の概略」(明八年)岩波文庫版PP38)

     権威は公家に、権力は武士に、富は町人に帰属。(丸山真男)

 (イ)藩regionalismが存在

 (ウ)なし(但し、琉球とアイヌの存在あり)

 イ 幕藩体制下のエリートは武士(軍人)だった
 武士は藩校教育(中国古典と軍学)。ちなみに、町人は寺子屋教育(個人別教育)
     
 ウ 疑似国際環境下の藩生存競争の中で武士はもまれた
 藩の経営に失敗すれば、とりつぶしの恐れがあった

(2)明治維新の「負」の側面
 ア 価値の一元化・・総括
 「西洋諸国の人も官途に熱心するの情は日本に異ならずと雖ども、其官途なる者は社会中の一部分にして、官途外自から利福栄誉の大なるものありて、自ら人心を和すべし。・・王政維新三百の藩を廃してより、栄誉利福共に中央の一政府に帰し、政府外に志士の逍遙す可き地位を遺さずして其心緒多端なるを得ず、唯一方に官途の立身に煩悶して政治上の煩を為すのみならず、政府の威福は商売工業の区域にまでも波及して、遂には天下の商工をして政府に近づくの念を生ぜしむるに至り、其煩益堪べからず」(時勢問答、全集八)」(丸山眞男「福沢諭吉の哲学」(岩波文庫2001年6月。原著は1942-1991年)PP100より孫引き)
 イ 政府
「・・政府の事は都て消極の妨害を専一として積極の興利に在らず」(安寧策、明二二、全集十二)」(丸山 前掲書PP121-122より孫引き)、「「政権を強大にして確乎不抜の基を立るは政府たるものの一大主義にして・・」(時事小言、全集五)」(前掲書PP123より)、「「日本政府は・・自家の権力は甚だ堅固ならずして却て人民に向て其私権を犯すもの少なからざるが如し」(安寧策、全集十二)」(丸山前掲書PP129より)
 ウ 政党
 「「政敵と人敵との区別甚だ分明ならず」(藩閥寡人政府論、全集八)・・当時の政党・・主義と主義との争い<なし>・・「政治家の政党にして国民の政党に非ざる・・」(政治家の愛嬌、明二四、全集十二)」(丸山 前掲書PP131-132より)
 エ 実業界
 「「実業社会は、今日尚ほ未だ日本の外に国あるを知らずと云ふも過言に非ず」・・日本の実業は、「今尚ほ鎖国の中に在り」(実業論)」(丸山 前掲書PP267より)
 オ 学界
 「西洋諸国の学問は学者の事業にて、其行はるるや官私の別なく唯学者の世界に在り我国の学問は所謂治者の学問にして恰も政府の一部分たるに過ぎず。」(福沢 前掲書PP228)
(3)にもかかわらず、なお「戦間期」にリーダーが出たのはなぜか。(北一輝、高橋是清、石原莞爾、岸信介、宮崎正義)
ア 自立的な個人群がまだ存在
 (ア)価値の並存(軍と民)
 (イ)植民地・保護国在留邦人のregionalism
 (ウ)植民地・保護国の存在によるethnic pluralism

イ リーダー教育がそれなりに機能:旧制高校、陸士・海兵教育

ウ 危機的な内外環境

 (参考)「米国のジャーナリストのアーチボルド・マクリーシュは、一九三六年の『フォーチュン』誌の日本特集号に次のような記事を書いている。「日本の産業制度は、・・資本主義・・国家主義・・共産主義・・(といった)同時代のどんな国の制度とも似ていない」「日本はどの国家よりも統一された産業計画をもって(いる)」「日本の産業の頂点にあるのは、・・産業統制である」「日本(の)・・金融システム・・は、われわれのものとは(違い)・・産業資本と銀行は対等・・ではない」「日本(は、)・・国際競争力の優位(に向けて、)国が一丸となって努力する・・それは、どの国もまねができない」と。
 そして、日本は、欧米諸国が大恐慌以降の経済停滞に悩む中で、最も早く高度成長軌道に乗っていた。」(太田述正「防衛庁再生宣言」日本評論社2001年 PP234-235)

(4)にもかかわらず、日本のリーダーの大部分が、国際政治・軍事環境を読み間違ったのはなぜ
・ 民主主義の陥穽・・民主制アテネ、大革命期フランス、ドイツ帝国末期
・ 劣悪すぎた内外環境

(5) 戦後リーダーが払底したのはなぜか
 ア 自立的な個人群の消滅(cf. ドイツ)
 (ア) 価値の完全一元化・・軍の抹殺
 (イ) 植民地・保護国からの引揚げと連邦制の不採用:吉田茂の責任一
 (ウ) 植民地・保護国の放棄とethnic鎖国主義の採用

 イ リーダー教育の放棄:旧制高校、陸士・海兵の廃止。中途半端な大学振興。
  (大学院振興回避。学校群制度導入。):吉田茂の責任二

 ウ 国の自立性の放棄(吉田ドクトリン):吉田茂の責任三

 以下、もっぱらウについて述べる。(ア、イについては、質疑応答の中で触れたい。)

3 吉田茂の最大の過ち・・国の自立性の放棄

(1)血統と国体の混同:当時の日本の指導層が共通に抱いていた錯覚。
 「英人・オランダ荷蘭人が、東洋の地方を取りて、もと旧の酋長をば其のまま差し置き、英・荷の政権を以て土人を支配し、兼ねて其の酋長をも束縛するが如き、是れなり。」(福沢、前掲書PP45)
 「英人が東洋諸国を御するに、体を殺して眼を存するの例は少なからず」(福沢、前掲書PP46-47)
 「古代ローマ帝国が異民族を侵略し、支配したときにまず最初に奪ったのは軍事権と外交権=条約締結権であった。(石母田正「国家史のための前提について」より。(中村政則「近現代史をどう見るか--司馬史観を問う」岩波ブックレットNO.4271997年より孫引き。同書PP32-33))

(2) 国の自立の最優先性(経済の手段性)についての無理解
「先ず事の初歩として自国の独立を謀り、其の他は之れを第二歩に遺して、他日為す所あらんとする・・」(福沢、前掲書PP301)
「この時に当て日本人の義務は、ただこの国体を保つの一箇条のみ。国体を保つとは、自国の政権を失わざることなり。」(福沢、前掲書PP48)
 「英に千艘の軍艦あるは、ただ軍艦のみ千艘を保持するにあらず。千の軍艦あれば、万の商売船もあらん。万の商売船あれば、十万人の航海者もあらん。航海者を作るには、学問もなかるべからず。学者も多く、法律も整い、商売も繁盛し、人間交際の事物、具足して、あたかも千艘の軍艦に相応すべき有様に至て、始て千艘の軍艦あるべきなり。武庫も台場も皆かくの如く、他の諸件に比して割合なかるべからず。割合に適せざれば、利器も用を為さず。・・武力偏重なる国に於ては、動もすれば前後の勘弁もなくして、妄に兵備に銭を費し、借金のために自から国を倒すものなきにあらず。」(福沢、前掲書PP296-297)

4 では、どうすればよいのか

(1)吉田茂自身の痛惜の念をかみしめる
 吉田の遺著とも言うべき「世界と日本」(番町書房1963年)の中で、吉田は次のように述べている。
 「再軍備の問題については、[これが、]経済的にも、社会的にも、思想的にも不可能なことである[ことから、]私の内閣在職中一度も考えたことがない・・しかし、・・その後の事態にかんがみるに連れて、私は日本防衛の現状に対して、多くの疑問を抱くようになった。当時の私の考え方は、日本の防衛は主として同盟国アメリカの武力に任せ、日本自体はもっぱら戦争で失われた国力を回復し、低下した民生の向上に力を注ぐべしとするにあった。然るに今日では日本をめぐる内外の諸条件は、当時と比べて甚だしく異なるものとなっている。経済の点においては、既に他国の援助に期待する域を脱し、進んで後進諸国への協力をなしうる状態に達している。防衛の面においていつまでも他国の力に頼る段階は、もう過ぎようとしているのではないか。・・立派な独立国、しかも経済的にも、技術的にも、はたまた学問的にも、世界の一流に伍するに至った独立国日本が、自己防衛の面において、いつまでも他国依存の改まらないことは、いわば国家として片輪の状態にあるといってよい。国際外交の面においても、決して尊重される所以ではないのである。」(PP202)「今日、一流先進国として列国に伍し且つ尊重されるためには、自国の経済力を以って、後進諸国民の生活水準の向上に寄与する半面、危険なる侵略勢力の加害から、人類の自由を守る努力に貢献するのでなければならぬ。そうした意味においては、今日までの日本の如く、国際連合の一員としてその恵沢を期待しながら、国際連合の平和維持の機構に対しては、手を藉そうとしないなどは、身勝手の沙汰、いわゆる虫のよい行き方(ママ)とせねばなるまい。決して国際社会に重きをなす所以ではないのである。上述のような憲法の建前、国策の在り方に関しては、私自身自らの責任を決して回避するものではない。憲法審議の責任者でもあり、その後の国政運営の当事者でもあった私としては、責任を回避するよりは、むしろ責任を痛感するものである。」(PP206)「日本の国民意識が世界の現実からややもすると遊離するのを見て、今さらのように寒心にたえぬものがある。苛烈なる国際政局と対決する意欲はほとんど見られない。わが国民は行楽ムード、太平ムードにおぼれているらしいが、これは隣家が燃えているのに安閑と昼寝をしているようなものである。この結果は国民意識が停滞し、国家目的が忘却されることにもなるであろう。」(PP128)とも書いている。

(注)アンダーラインは太田による。以下同じ。

(2)「保守本流」よさらば・・政界再編のための臨時二大政党制を 
 宮沢喜一は、1959年に、寺沢一東大教授(当時)のインタビューに答えて、次のように語っている。
 「[旧]安保条約を改定しようという議論・・は、一種の不平等条約だ、ということから起こったように思うのです。しかし、[旧安保の内乱条項はなくした方がよいが、]私は元来、形式的な不平等ということをあまり問題にしないし、またする必要がないと思うのです。ことに、集団安全保障とか、核兵器の時代になってきて、形式的に平等であると言ってみたところで、実益はあまりない。・・それが吉田さんの作り上げた体制だと思うのです。・・条約を平等にするということを仮にやるとすると、それは日本も、アメリカがピンチに陥ったとき守ってやるんだ、というそういう約束を日本国民がする気持ちがあるかといえばないにきまっている。したがって、名誉な条約とは思わないけれども、そのまま残しておくしか方法がない。・・私は、[岸首相等の、第九条を改めて、何とか軍隊というものを持ち得るものにしようという]意見に反対であるというばかりではなく、[そもそも、]そういうことは絶対に出来ませんよ。・・[旧安保でも]たとえば板付から飛行機が発った。そうすると板付そのものが敵性を帯びる、したがってこれは報復されても国際法上では、相手が違法であると言いきれるかどうか、私は疑問と思います。・・[ところが、新安保では、日本国内の米軍基地への攻撃を日本に対する攻撃とみなすというのだから、日本が自国に全く関わりのない戦争に巻きこまれる恐れがあるという意味での]危険性は深まるのではないか、と・・思います。・・[新安保は、]技術的問題で、かなり改善されているところ[は]あると思います。・・[いずれにせよ、]この秋に来そうないろいろな事態[(=安保改正反対運動)]を想像してみると、これだけの事態を呼ぶのにこんどの改正が価するかということになれば、・・私などは、安保条約を改定する必要はないという論者です。」(寺沢一「安保条約の問題性 増補改訂版」有信堂 1969年 PP121-130。なお、引用部分は、1960年の旧版のまま。)
1997年に至っても、宮澤氏は依然としてこの見解を繰り返している。「安保騒動の直接の原因となった日米安保条約の改正案は、岸さんらが当初意図した双務性が最終案では外されていたわけですから、冷静に考えれば大した改正じゃなかった。」(宮澤喜一・中曽根康弘「対論 改憲護憲」朝日新聞社 1997年9月 PP59)
そして、旧社会党ばりの発言も行っている。「[憲法]九条のもつ一番大事な意味は、これだけ自由で立派になった国が、「外国で武力行使はしない」というプリンシプル(原則)で、ここまで生きてこられたということです。核兵器が発達して手詰まりになり、通常の武力行使もなかなかやりにくくなってきたいま、日本のこういう生き方が歴史的にともかくこの五十年間成功して、こういう立派な存在になった。しかも、世界の大勢も戦争否定に傾きつつある。日本の在り方は一つのモデルだと思いたい。」(宮澤・中曽根 上掲 PP21)

<終わりに・・リーダーに期待するもの(同時多発テロ・文明の衝突・国家戦略)>

(1)アングロサクソンと日本は運命共同体
 明治の有力政治家の星亨は、1897年、駐米公使時代に米国知識層を対象として書いたと思われる英文草稿を残している。有泉亨の紹介によれば、彼は、「ペリー来航以前の日本<は>徳川将軍と天皇の二重主権というべきもので、権力と権威が分離しており、将軍と大名との関係も直接支配・被支配ではなく、大名は広汎な自治権をもち、さらに農・工・商階級も、範囲は狭いが、共同体的自治により行政を分担してきた。このことが国民のなかに自主性と法の支配の観念を育て、明治維新を用意し、また維新後のさまざまな試練を乗り越えるのに役立ったと説」き、「日本人は古代から外来宗教に寛容で、外来の宗教と固有信仰を共存させてきた。近世初頭のキリスト教禁圧は、宗教的非寛容からでなく、宣教師の布教の仕方がもたらす治安妨害に対する政治的処置として行われたものであった」との趣旨を記しているという。(有泉貞夫「星亨」朝日新聞社1983年 PP225)

(2)日本文明の持ち味とその普遍性
 ア Secularization の最前線に立つ日本
 「其善を善とし悪を悪とするの點に於て・・我輩・・自から今の所謂宗教を信ぜずして宗教の利益を説く」(「福翁百話」(明三十)角川文庫版PP36)、「「今日に在て苟も有知有徳、以て社会の実用を為す可き人物は、啻に宗教を信ぜざるのみならず、其これを信ぜざること愈固ければ、愈以て人品の貴きを表するの証と為す可きに至れり・・「宗教の外に逍遙してよく幸福を全ふするは、我日本の士人に固有する一種の気風・・」(通俗国権論、明十一年)」(丸山前掲書PP243-244より)

 →Huntington のキリスト教に偏向した考え方は危険。小室も同様。

 イ 人間(じんかん)主義の日本
 スタンフォード大日系Ike教授の説、「個人のアングロサクソン、階級の西欧、人間の日本」。そして、家族・種族のその他の社会

 個人主義の非普遍性=米国の裸の個人主義の異常性

(3)脱亜入欧から脱亜入アングロサクソンへ
 但し、反グローバリズム、反米国unilateralism の潮流の下、bastard Anglo-Saxon たる米国をいかに「善導」するかが問題。
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 引用文だけでも、参考にしていただけたら幸いです。(太田)

太田述正コラム#3138(2009.3.7)
<琉球新報記者による取材>(2009.4.11公開)

1 始めに

 本日夜、琉球新報の記者の電話取材を受けました。
 前日この電話取材の予告があったのですが、その後で、取材を受ける際に私が教えてもらいたい事項をメールで送っておきました。
 以下が記者とのやりとりの概要です。

2 やりとり

 (1)予備的やりとり

太田:グアムに第3海兵機動展開部隊の指揮部隊、第3海兵師団司令部、第3海兵後方群(戦務支援群から改称)司令部、第1海兵航空団司令部及び第12海兵連隊司令部が移転するというが、残る部隊は?
記者:MAG(第1海兵航空団隷下のMarine Air Group=海兵航空集団。うちヘリは辺野古に、空中給油機は岩国に移転する予定)と31MEU(第12海兵連隊隷下のMarine Expeditionary Unit=海兵遠征部隊。要するに実働海兵歩兵部隊であり、UDP=Unit Deploymet Program に基づき、6ヶ月ごとに交替する)。
太田:グアム移転経費の積算の大まかな考え方いかん。また、その日米への割り振りはいかなる考え方に基づいたものなのか。施設の建設等に米日の業者が平等な立場で入札に参加することになっているのか。
記者:いわゆる真水(日本の予算)28億ドルがあてられる隊舎、庁舎、学校等、国際協力銀行による貸し付け(日本政府による出資が原資。無利子で20〜30年償還)があてられる家族住宅25.5億ドル、インフラ7.4億ドルで、総計60.9億ドルだ。米側が経費を出すのは、運用関係施設とか港湾とか高速道路だ。
太田:直接海兵とは関係ないが、嘉手納騒音訴訟はどうなる?(米側は、海兵のヘリの嘉手納米空軍基地への移転を拒否してきたという経緯がある。)
記者:既に旧嘉手納騒音訴訟で国側の敗訴が確定しており、国側は、今次新嘉手納騒音訴訟でも高裁で敗訴し、最高裁でも敗訴するだろう。しかし、旧訴訟で住民に払うことになった補償額のうち、米側が負担すべき25%分の支払いを米側は拒んでいる。
太田:普天間飛行場にいる海兵のヘリは、輸送機で運べないのか。宮中給油は不可能なのか。 ヘリを岩国に持っていけない理由はどのように説明されているのか。
記者:すべて輸送機で運べるし、空中給油もできる。ヘリを岩国に持っていけない理由として米側があげているのは、海兵歩兵部隊のタクシーのようなものだから、訓練演習等に出かける時にすぐそばにいないとダメだ、ということだ。沖縄の伊江島や宮古島の飛行場への移転すら、米側は拒み続けてきた。
太田:海兵の空中給油機KC-135を岩国に持って行くことになっているが、そもそもどうして日本に置いておく必要があると説明されているのか。
記者:特段説明はなされていない。
太田:辺野古移転問題で県や地方自治体はいかなる「抵抗」手段を有しているのか、政府はどのように「抵抗」を突破しようとしているのか。
記者:埋め立て許認可権を県が持っている。このこともあって守屋事務次官(当時)が日米間で協定を締結すると言い出した。これに加えて、政権交替の可能性も出てきたことから、2月17日のクリントン米国務長官訪日の際に、中曽根外相との間で「第三海兵機動展開部隊の要員及びその家族の沖縄からグアムへの移転の実施に関する日本国政府とアメリカ合衆国政府との間の協定」(略称:在沖縄海兵隊のグアム移転に係る協定)
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/treaty/shomei_43.html
が締結された。この協定は条約なので、衆議院で承認されれば、参議院の議決いかんに関わらず、効力を生ずる。条約は、憲法よりは劣るが、法律より強い効力があり、たとえ県が埋め立ての許認可を行わなくても、国は埋め立てを行うことができるようになる。ただし、協定を実施する法律をつくらなくても埋め立てができるかどうかは、学者の間でも意見が一致していない。

 (2)本題

太田:最初に一般論を申し上げておきたい。
 沖縄の基地問題を横目で見ていると、10年一日のごとく問題が解決せずにいて、もどかしい限りだ。
 沖縄の人々は、今のままの状況が一番いいと思っているのではないかと言いたくなる。
 普天間でも借料をもらい、在沖米軍は兵力を削減しないまま、既存基地や辺野古がらみの対策費や借料ももらい、更に騒音補償費ももらい続けることができるからね。
 沖縄が本当に基地問題を解決したいのなら、もっと知恵を絞らなければダメだ。

 私は、日本は米国の保護国、つまりは属国だと指摘している。片務的安保条約は特殊なもののように思われがちだが、史上いくらでもある保護条約に他ならない。史上初めてなのは、日本が自分の意思で保護国になったことだ。
 さて、私はその日本に対して沖縄は属国的な存在であると思っている。本土とはやや異なるアイデンティティを沖縄は持っているということだ。
 米日沖は属国関係の入れ子構造をしている。
 私は日本は米国と合邦するか「独立」するかはっきりさせるべきだと主張してきている。さもなきゃガバナンスを回復できず、構造的腐敗だって解消できないからだ。
 このアナロジーで行けば、沖縄も日本を選ぶか独立を選ぶかを決めなければならない。
 日本を選ぶのなら、沖縄が日本全体の立場に立って在日米軍問題に取り組まなければならない。例えば、不祥事の話が出る直前に小沢が米海軍だけが日本におればよいと言っただろう。あの小沢の主張は正しい。私の主張をそのままとったような話だ。あの小沢の主張を肉付けする作業を沖縄の人がやるべきなのだ。
 独立を選ぶのなら、EU型の独立をお奨めする<(コラム#2122参照)>。これも成案を沖縄の人がつくるべきだ。
 後者の案を用意することは、前者の案を日本政府に突きつける際のテコにもなる。

 それでは各論に入ろう。

 『実名告発 防衛省』で述べたように、司令部と実働部隊を切り離すのはおかしい。
 部隊のレベルが低くなればなるほどよりおかしい。連隊司令部と大隊以下を切り離すなんてナンセンスもいいところだ。歴史を紐解いても前例がないのではないか。
 こんなことを米側がするのは、ホンネでは在沖海兵隊は廃止すべきだし、廃止しないとすれば全面的にグアムに移転すべきところ、日本がグアム移転経費を負担する、実働部隊を日本に残せば思いやり経費も引き続き出し続ける、なんて途方もないことを日本がやっているからだ。
 第一実働部隊に一番若くて血の気の多い連中がいて、不祥事を起こして大問題になってきたというのに、肝心の実働部隊は移転しないというのだから、頭に来る。
 また、グアムで隊舎等の建設経費を100%日本側が負担するというのも問題だ。これまで思いやり経費で100%負担したものがいくつかあるが、全額使われ、しかも恐るべき浪費が生じた。何事によらず、10%でもよいから米側負担分を設定すべきだ。そうすれば、米国の議会会計検査院が目を光らせて無駄遣いをさせない。結果として日本側が負担する90%だって無駄遣いがなくなる。

 以上だが、話しているうちに、沖縄の人々の顧問になってあげたい気になってきた。
 自民党にも外交・安全保障政策はなかったわけだが、民主党に至っては、外交・安全保障については党として何も考えていないに等しい。
 小沢の不祥事にもかかわらず、今年中に民主党中心の政権ができることはほぼ間違いなかろう。
 政治は混沌としてくる。
 だからこそ、沖縄の人々は基地問題、安保問題について検討し、可及的速やかに成案を得ておく必要がある。協定下においていかに「抵抗」するかも考えておかなければならない。
 そうしておけば、民主党を中心とする新政権は沖縄がぶつける成案を採用せざるを得なくなることだろう。

記者:太田さんの写真入りの記事にしたい。またぜひ沖縄にいらして欲しい。

太田述正コラム#3076(2009.2.4)
<新駐日米大使ジョセフ・ナイの対日政策観>(2009.3.21公開)

1 始めに

 明日、片岡秀太郎
http://chizai-tank.com/aboutus.htm
という人物のインタビュー(無償)を受けることになり、本日送られて来た質問項目の中に「新米国大使(諜報のプロ)の赴任の意味についてご教授下さい。」というのがありました。
 この質問の意味はイマイチよく分からないな、特に「諜報のプロ」ってのは初耳だな、と思いつつも、少し、ジョセフ・ナイ(Joseph S. Nye。1937年〜。ハーバード大学教授)の対日政策観について調べてみました。

 手がかりになるのは、民主党のナイと共和党のリチャード・アーミテージ(Richard L. Armitage)が超党派で主宰して、米国のその他の15人の有識者とともに2007年2月に対日政策提言をとりまとめた 'The U.S.-Japan Alliance---Getting Asia Right through 2020' です。
http://www.csis.org/media/csis/pubs/070216_asia2020.pdf

 ちなみに、ナイは、現プリンストン大学教授のロバート・キーヘーン(Robert Keohane)と共同で、新自由主義(neoliberalism)国際関係理論を構築するとともに、国際関係における非対称/複雑相互依存(asymmetrical and complex interdependence)の概念を提示し、その後、単独でいわゆるソフト・パワー(soft power)理論を提示したことで知られている人物です。
 ビル・クリントン大統領の下で、国際安全保障担当国防次官補を務めたことがあります(注)が、オバマ新政権のヒラリー・クリントン国務長官が、このソフト・パワー理論そを踏まえたスマート・パワー(smart power)重視外交を打ち出したことは記憶に新しいところです。
http://en.wikipedia.org/wiki/Joseph_Nye

 (注)次官補を辞めてハーバードに戻ったばかりのナイと、防衛庁主催のパーティで私は結構長く立ち話をしたことがある。ただし、恐らく彼は覚えていないだろう。

2 ジョセフ・ナイの対日政策観

 (1)お断り

 共同でつくった政策提言がどうしてナイ個人の対日政策観ということになるのか、というご指摘がありそうですが、そんなこと言ったら、そもそも大使というのは、本国の訓令に基づいて仕事をするのであって、それほど裁量権限があるわけではありません。大使の政策観について議論したって本来意味がないのです。
 しかし、ナイに関しては、必ずしもそうとは言えません。
 というのは、オバマは、できるだけ共和党の協力もとりつけて超党派で内外政策を遂行しようと心がけているところ、このような超党派の政策提言を行ったナイを駐日大使に起用し、しかもナイのソフト・パワー理論の信奉者であるヒラリー・クリントンを国務長官に起用したのですから、この政策提言は、オバマの、従ってクリントンの、そしてひいては大使としてのナイ自身の対日政策観であると解することができるからです。

 (2)政策提言の中身

 ・・・日本を核攻撃から守るコミットメントを含む、我々の安全保障上のコミットメントの最も基本的な諸側面については、我々の最も上級の政府首脳達によって繰り返し語られ、強調されなければならない。・・・
 米国と日本は、包括的な自由貿易協定に関する交渉を開始するつもりがあると宣言しなければならない。・・・
 中共の利害は米国と日本の利害と重なり合う部分はあるかもしれないが、同一ではない。・・・
 米国と日本は、それぞれがインドとの戦略的パートナーシップを強化しなければならない。また、両国は、インドとの間で三国間協力の適当な機会を追求しなければならない。・・・
 米国と日本は、北東アジアの主要諸国(米国、日本、中共、韓国、ロシア)が問題解決に共同であたるのが適切な機能的諸懸案を見いだすことに積極的でなければならない。・・・
 米国と日本は、インドネシアがアセアン諸国に繁栄、民主主義、安全保障をもたらすべく行っている努力を支援しなければならない。・・・
 オーストラリアと日本の関係と・・・長年来の民主主義国であるところの・・・米・豪・日三カ国協力とは、まだ初期段階だが発展しつつある。・・・
 米国と日本は、地域的海上安全保障政策の策定と実施において指導的役割を維持しなければならない。・・・
 <少なくとも>2020年までは、我々は米国と日本が、最も強力な(significant)民主主義諸国として、その経済力及び軍事力でもって、文字通り全世界のすみずみまでの生活に影響を及ぼす地位にとどまると予想する。・・・
 「全世界的な対テロ戦争」というのは、問題を正確に把握するのに失敗したという意味で名前の付け間違いだった。実際のところは、それは、そのほんの少しの部分しか軍事的手段では対処できないところの、過激主義(extremism)に対する戦いなのだ。
 アラブ世界において過激主義に対抗し進歩を奨励するにあたっては、国連アラブ開発報告に記されているように、日本の持つソフト・パワーの豊富さを、過激主義の長期的な原因の是正に活用できる。・・・

 これら地域に適切に対処できるように日本の防衛能力を強化する必要がある。・・・
 日本は最近、いわゆる武器輸出三原則を修正して米日ミサイル防衛計画へのより大きな参加を可能にした。次の一歩として、日本は残りの禁忌を撤廃しなければならない。・・・
 米国と日本は、タイコンデロガ級イージス誘導ミサイル搭載巡洋艦の後継艦たるCG(X)のための主要システム、サブシステム、及び関連技術の共同開発の機会をつくることを考慮しなければならない。・・・
 ・・・秘密情報を<両国>が共有できる<ようにしなければならない。>・・・
 より緊密な調整ができるように、米国は日本の防衛省の代表が米太平洋軍司令部に、そして米軍の代表が日本の統合幕僚監部にそれぞれ常駐することを奨励しなければなららない。これは、日本国内における集団的自衛権についての決定いかんにかかわらず、行われなければならないところの、この地域における<米軍と自衛隊の>より高められた作戦的統合に向けての第一歩とみなされなければならない。
 日本は、諜報生産物をより大量に受領し加工する能力を増大させなければならない。・・・
 米国はF-22の航空隊をできるだけ早期に日本に配備しなければならない。また、米国は航空自衛隊が、その現在保有しているF-15ないしその改良型に加えて、米国が保有する最新型の戦闘機であるF-18E/F、F-22、F35も購入できるように保証することを模索しなければならない。

3 終わりに

 端的に言えば、ナイ、クリントン、オバマは、属国日本のソフト・パワー(経済力と技術力)と軍事力を宗主国米国のために徹底的に用いるという対日政策を追求するだろうということです。
 米国のいかなる目的のために?
 米日豪印インドネシアの「同盟」構築、アセアン及びアラブの籠絡、中共との対峙のためです。
 ちょっと気になるのは、北朝鮮への言及がなく、韓国とロシアにもちょっとしか言及がないことです。
 いずれにせよ、以上のようなねらいを持った対日政策の実現を図るためでしょう、クリントンは、初外遊先に、日本、そして韓国、中共を選びました。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090204-00000006-rcdc-cn
(2月4日アクセス)

 さあどうします。属国日本の皆さん。

太田述正コラム#2685(2008.7.23)
<部落・在日問題>(2009.1.29公開)

1 始めに

 太田述正×兵頭二十八『属国の防衛革命』(光人社)に掲載予定でゲラにも入っていた、部落・在日問題に触れた部分が、光人社が専門家と相談した結果、部落・在日関係者から強い批判を招く懼れがあるとして、削除されることになりました。
 そこで、その部分をコラムとして配信させていただくことにしました。
 もとより、上記共著の私の担当部分は、過去コラムの中から兵頭氏側でトピックを選んだ上で、編纂されたものであり、すべてネット上では公開されています。
 しかし、現時点では、依然、ネットよりも紙の媒体の方がはるかに重みがあるということなのでしょう。

2 削除された部分

 日本における代表的な「差別」である部落「差別」と朝鮮人(在日)「差別」は、米国における黒人差別や黄色人差別、あるいはフランス等西欧諸国におけるユダヤ人差別やイスラム教徒に対する差別に比べて、相対的に、歴史(根)が浅く、差別の態様と程度も甚だしくない、という点で様相をかなり異にするものだ。日本は英国と並んで世界で最も差別の少ない国の一つといえよう。
 しかも最近では、部落民あるいは在日に「対する」差別が問題というより、部落民にあっては1960年代末以降、そして在日にあっては戦後、部落民や在日に「よる」それ以外の人々に対する差別が問題となっている、という、まことにもって奇妙な状況が日本では見られる。これは英国を含め、世界で他にあまり例を見ないことだ(ここまで、差別にカギ括弧を付けたのは、日本の「差別」にこうした事情があるためだ)。
 部落解放運動にたずさわっている人が、「部落民なんていう存在や、部落という特別の空間なんて、実は存在していないにもかかわらず、人々の心の中に、さもそれがあるかのように存在している、それが部落問題なのです」 と言っていることは象徴的であろう<http://www6.plala.or.jp/kokosei/hr/buraku.html、05年11月19日アクセス>。
 この人は、だから部落「差別」を解消するのは容易ではない、と言いたいわけだが、むしろ、いかに部落「差別」が大した問題ではないかが分かろうというものだ。
 江戸時代には、部落民の前身である穢多・非人のほか、公家・僧侶・神官・医師等、「士農工商」に属さない多数の身分が存在していた。最近の説では、「士」「農」「工」「商」間に上下関係ありとしたのは当時の儒者のイデオロギーに過ぎず、一般の人々は必ずしもそうは考えていなかったとされている。
 同じことが、「士農工商」と穢多・非人との間にも言えるとする説、すなわち、生死をつかさどる職業(僧侶・神官・医師・処刑人など)・「士」直属の職能集団(処刑人を含む下級警察官僚・武具皮革職人など)・大地を加工する石切など、のように人間社会以外の異界と向き合う職業の者は、「士農工商」と便宜上区別されただけだとする説も最近有力であり、私はこの説に与している。
 そもそも、「士」が内職で「工」となっていた事例と同様に、穢多・非人にも「農工商」に携わっていた者が多くいた。例えば、「士」に直属する皮革加工業は穢多・非人が独占的「工」となることとされていた地域が多かった。また、地域によっては藍染や織機の部品製作は穢多・非人が独占的「工」となることとされていたことも知られている。さらに、穢多・非人の実態が「農」であった地域も知られている。
 ところが、江戸中期以降、社会の貨幣経済化に伴い、「士」が相対的に没落して行く。そこで、「士」は没落を食い止めるために、「農工商」への統制を強化し、その結果生じた「農工商」の不満を逸らす目的で、穢多・非人「差別」が始められた。
 この「差別」が差別に転化したのが、明治時代だった。
 明治政府によって警察官などになれるのは当初「士」のみとされ、下層警察官僚であった穢多・非人が疎外されたこと、「士」(特に上層の「士」)が特権階級たる華族とされたのに対し、「士」に直属し権力支配の末端層として機能してきた穢多・非人がなんら権限を付与されず放り出されることによって、それまでの「士」による支配の恨みを一身に集めたこと、などがその原因だった。
 つまり、部落差別が生まれたのは、それほど昔ではない明治時代であり、明治政府の、必ずしも悪意によるとは言えない政策が、結果として生み出したものである、ということだ。明治政府は、日本を近代化するに当たって、(英国になかった憲法・継受困難なコモンロー法体系・英国が強くないと考えられた陸軍等を除き、)全面的に英国をモデルにしていた。英国の国教会に倣って神社神道から国家神道をつくり出し、英国の貴族制と上院に倣って華族制と貴族院を設けた。このいじましいまでの努力が、結果として、キリスト教徒等への「差別」や、部落差別をもたらしたことになる<http://www6.plala.or.jp/kokosei/hr/buraku.html、上掲にヒントを得た。また以上、特に断っていない限りhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%A8%E8%90%BD%E5%95%8F%E9%A1%8C、05年11月19日アクセスによる>。
 在日朝鮮人(在日)「差別」の起源は、部落差別よりさらに後であり、1910年に日韓併合がなされた以降、半島から日本列島へ朝鮮の人々が渡ってくるようになってからのことだ。
 米国のように、建国当時こそアングロサクソンが多かったものの、その後、様々な国や地域から次々に移民がやってきたような所でも、新しい国や地域からの移民は、ことごとく「差別」の対象となった。異なった文化を背負い、英語がしゃべれず、ダーティージョッブに就き、がむしゃらに働く人々が差別や「差別」の対象になるのは、ごく自然なことといえよう。ただ、朝鮮半島出身者については、これにプラスして日本の植民地出身者であった、という事情があった。彼らに対して当時の日本人が、優越意識をもって臨んだ可能性は排除できないだろう。
 しかし、果たして戦前の日本に在日に対する差別や「差別」は本当にあったのだろうか。
 戦前(戦中を含む)来日した在日一世達の証言を孫引き紹介している、鄭大均『在日・強制連行の神話』(文春新書2004年)を見る限り、「危ない仕事を朝鮮人に多くさせていた。たくさんの人が、事故やまた人為的に殺されていた」(101頁)といういささか眉唾物の証言のほか、具体性があるのは「賃金の格差は(中略)日本人に対して3分の2から2分の1」(101頁)という、他のすべての証言と食い違う証言くらいであるのに対し、「差別はなかった」(103頁)、「日本人に親切にされた」(104〜107頁)という具体性のある証言が多いことに驚かされる。
 ついでながら、在日が日本人にではなく、同じ在日にひどい目にあった、という証言が散見される(102頁)。これは、いわゆる慰安婦問題で、半島人の女衒にひどい目にあった半島人の慰安婦が、日本人や日本政府を逆恨みするケースが少なくないことを思い出させるものだ。
 とまれ、これでは戦前の日本では在日差別どころか、在日「差別」すらなかった、と言わざるをえない。
 であれば、1923年(大正12年)の関東大震災の時の朝鮮人虐殺は何なのだ、という反論もあろう。実際に起こったことは、大震災後の流言飛語に基づき自警団等が、(当局発表で)在日の死亡231人・重軽傷43人、シナ人の死亡3人、在日と誤解された日本人の死亡59人・重軽傷43人を惹き起こしたものだ(もっとも、完全な流言飛語というわけではなく、大震災後、在日は殺人2名、放火3件、強盗6件、強姦3件を犯している)。しかしこれは、未曾有の大災害後の異常心理が生起させた突発的な不幸な事件なのであって、これをもって当時、在日「差別」ないし差別があった証左である、とは言えないだろう。大震災の起こった年の在日人口は、8万人余であったところ、虐殺事件があったというのに、翌1924年には12万人余へと急激に増加していることは興味深い(143頁)<以上、特に断っていない限りhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E9%9C%87%E7%81%BD、05年11月12日アクセスによる>。
 こうした状況を一変させたのが、先の大戦における日本の敗戦である。
 日本が朝鮮半島を植民地統治したことは、支配された側にとっては悲劇であり、日本をうらむことは当然かもしれない。しかし、客観的に見て朝鮮半島の近代化が日本の支配下で大いに進捗したことはまぎれもない事実である。加えて、日本国内においては既に見てきたように(そして恐らく半島においても)、個々の日本人はおおむね心暖かく朝鮮の人々に接してきたと考えられる。
 しかも在日は、徴用(これは強制連行とは言えない)で日本に連れてこられたごくわずかの人々を除けば、自分の意思で、よりよい生活を求めて日本列島に渡ってきた人々である。
 にもかかわらず、鄭大均の前掲書の29〜31頁を見れば、在日は、敗戦に打ちのめされた日本人に対して、牙を剥いて襲いかかった。
 このように、戦後の占領期における在日による、いわば日本人差別によって、日本人は初めて在日に差別感情を抱くに至ったのだ。この差別感情は、戦後60年を経た現在、いまだに日本人の潜在意識の中に生き残っている。
 しかし、日本人は在日(これ以降は、朝鮮半島出身者またはその子孫で日本永住者だが日本国籍を取得していない者を指す)を差別するどころか、腫れ物に触るような態度で接し続け、在日による日本人差別は、事実上継続している。
 1954年には生活保護受給対象が外国人(その大部分は在日)に拡大され、やがて在日が生活保護の半分を占めるようになってもこれを受忍した。
 在日が3割方占めているとも言われる暴力団は「温存」され、このこととも関連して在日の犯罪率が異常に高いことも見て見ぬふりがされた。
 北朝鮮による日本人拉致という重大犯罪すらつい最近まで放置され、北朝鮮産の覚醒剤が日本での流通量の半分を占めているというのに抜本的取り組みが回避されてきた。
 金王朝讃美教育を行うところの、単なる各種学校たる朝鮮学校に対し、各地方自治体は、色々な名目で事実上補助金を支給してきた<参照は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%A8%E6%97%A5%E3%82%B3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%B3、05年11月21日アクセス。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E5%AD%A6%E6%A0%A1、05年11月21日アクセス>。
 このようにして、「80年代以後、日本のマス・メディアが第二次世界大戦中の日本の国家犯罪を語り、在日の犠牲者性を語る過程で在日は無垢化されるとともに、『被害者』や『犠牲者』の神話」が確立し(鄭大均前掲書33頁)、在日による日本人差別が名実ともに正当化され、現在に至っているのだ。
 近年、わが国には、中高年における韓流ブームと若者における嫌韓意識の高まりの並存、という興味深い状況が見られる。
 前者は、かつての日本人の在日を含む朝鮮半島の人々に対する、上述したような心暖かい心情の復活であり、後者は、北朝鮮による拉致問題の進展のなさや、ノ・ムヒョン政権による日本の歴史認識問題(首相の靖国神社参拝問題と教科書問題)の執拗な提起に対する反発が、インターネットの世界で伏流となってくすぶり続けてきた在日「差別」感情と化学反応を起こして顕在化したものであろう。
 日本人のこの在日に対する差別意識の解消を図るためには、その原因をつくっている韓国・北朝鮮・在日の側が変わらなければならない。しかし、日本政府にもできることは多々あるはずだ。
 第一に日本人の拉致問題について、それだけを取り上げるのではなく、北朝鮮における人権侵害問題全般に取り組むことを通じて、韓国の北朝鮮に対する人権問題での及び腰の姿勢を改めさせ、もってこの問題での日米韓連携の確立を図り、北朝鮮を追いつめることである。
 第二に歴史問題について、日本と朝鮮半島だけを対象にするのではなく、他の植民地統治との比較研究を行うことだ。日本の台湾統治と朝鮮半島統治の比較、東アジアにおける欧米諸国による植民地統治である米国のフィリピン統治との比較。さらには、(日本による朝鮮半島統治と同様の)隣接地域の植民地統治であるイギリスのアイルランド統治との比較、に幅を広げることを韓国政府側に提案することだ。
 植民地獲得方法と植民地統治実績を見れば、フィリピン統治とアイルランド統治は、台湾統治や朝鮮半島統治に比べて、はるかに暴力的であり拙劣だったことが理解できるだろう。
 日本政府は、単独ででもこうした研究を助成すべきだろう。もちろん、助成対象を日本の学者だけに限定する必要はない。
 第三に日本政府は、在日による日本人差別について、その歴史と現状を調査し、情報を開示することだ。その結果、在日あるいは朝鮮半島出身またはその子孫で日本国籍をとった人々、もしくは韓国の人々の間から、自然に遺憾の声が出てくれば、一番良いのではないだろうか。
 1922年に結成された水平社は、部落差別解消に大きな役割を果たしたが、差別解消に成功しなかった。
 戦後、1955年に部落解放同盟が結成され、アファーマティブアクションを含む様々な差別解消施策の実施を政府に強く求めた。その結果、1969年に同和対策事業特別措置法が成立し、目的を達成したとして(三回の延長を経て)同法が終了した1992年まで、政府によって鋭意差別解消施策が講じられた<以上、http://www6.plala.or.jp/kokosei/hr/buraku.html前掲による>。
 その間に、部落差別は基本的に解消したといえよう。
 部落差別の歴史(根)が浅かったからこそ、部落民側と政府の努力によって、このような急速な差別解消が実現した、ということだ。
 しかし、特措法による差別解消施策が余りにも長く続けられたため、それが利権(同和利権)化し、様々な弊害が起きただけでなく、1980年代からは、部落民を騙って金銭を強要する者(エセ同和)まで出現して現在に至っている。
 これは、在日による日本人差別に倣って言えば、部落民(エセ同和を含む)による一般納税者の差別である、といっていい。
 現在形で書いたのには理由がある。部落民による一般納税者の差別は、特措法が終了した現在でもなお、形を変えて続いているからだ。
 その一つが、皮及び皮製品輸入規制である。
 日本政府は、農産品の輸入規制を堅持する一方で、工業製品の輸入規制は撤廃させようとしてきた。しかし、木製品や水産製品とともに、皮及び皮製品については、工業製品だというのに例外的に輸入規制を堅持してきたのだ。
 その理由は、部落民の生業を保護するためである。もっとも、日本政府は国際的圧力を受けて、次第に皮及び皮製品についても輸入規制を緩和してきた結果、この10年間に日本の革靴の輸入は80%も増加し、日本での生産は40%も減ってきた。この現状に部落関係者は不満の声を挙げている<http://www.atimes.com/atimes/Japan/GK09Dh01.html、05年11月9日アクセス>。
 以上のことから、戦後在日と部落民に「よる」差別に翻弄されてきたことが、日本人にとってトラウマとなっており、移民受入問題を冷静に議論することが困難になっているとわかるだろう。
 とりわけ、人口比的には1%にも満たない在日(近代日本が初めて受け入れた移民)に「よる」差別体験は、大きいと考えられる。英国や西欧諸国のように10%にもなるような移民を抱えたら、日本は彼らにかき回されて無茶苦茶になる、と多くの日本人は思い込んでいるのではないだろうか。
 しかし、在日と部落民に「よる」差別に翻弄されてきたのは、敗戦によっても日本人の心暖かさは失われなかった一方で、敗戦によって日本人が自信喪失に陥ったからにほかならない。日本人が、不条理なことには毅然と対処する気概を取り戻しさえすれば、新たに移民を受け入れても二度と翻弄されるようなことはあり得ないだろう

太田述正コラム#2949(2008.12.2)
<田母神問題と「諸君」>(2009.1.9公開)

1 始めに

 昨日、塩田潮氏による記事が掲載された「諸君」(2009年1月号)が送られてきたので、この記事を中心に同誌を斜め読みしました。
 以下、その感想です。

2 感想

 コラム#2923で「さあ、<塩田潮氏による「諸君」掲載記事が>実際にどんな紙面になるのか、皆さんとともに注目しましょうね。」と記したところですが、結局、一切修正はなされていませんでした。
 塩田氏には、私の修正提案内容が理解できなかったのかもしれません。
 しかし、そうだとすれば、せっかくの機会ですから、私に電話なりして、理解しようと努めて欲しかったですね。
 塩田氏は、文藝春秋社出身ということもあり、社の執筆方針に従わざるをえなかったのかもしれない、とここはあえて好意的に解釈しておきましょうか。
 記事の中でインタビュー相手として登場するのは、元防衛大臣ないし防衛庁長官であったところの、石破茂、大野功統、及び小池百合子、そして元防衛担当主計官であった片山さつき、の各自民党代議士達とこの私、太田だけで、しかも、私の場合。『実名告発防衛省』の宣伝までしてもらった(136頁)のですから、文藝春秋社と塩田氏にはむしろ感謝すべきかもしれませんね。
 ただ、「防衛省大研究--自衛隊は「暴走」する」という記事なのに、自衛官OBが1人もインタビュー相手として登場しないのは、文官OBと違ってインタビューを断る人ばかりではないはずなのに、奇異な感じを受けました。
 これぞまさに、自衛官の「日陰者」扱いではないでしょうか。
 塩田氏が、

 「・・・「自衛隊・防衛問題に関する世論調査」・・・の「自衛隊に対する印象」によると、97年の調査以降、一貫して「良い」という解答は80%を超えている・・・。・・・ すでに防衛省と自衛隊は社会的に認知された存在といっていい。「集団的自衛権の不行使」など、いくつかの制限はあるものの、「日陰者」という扱いではない。
 ところが、その一方で、その現実を軽視して、いまだに「日陰者」意識を払拭できず、「シビリアン・コントロール、専守防衛、海外派兵禁止、非軍事大国などの枠内での防衛省・自衛隊」を求めるという国民の総意を認めたがらない空気の潮流が、防衛省・自衛隊の内部に根強く残っている。」(139〜140頁)

と書いているからこそ、皮肉の一つも言いたくなるのです。
 いずれにせよ、塩田氏は、「「・・・専守防衛、海外派兵禁止、・・・の枠内での防衛省・自衛隊」を求め」られても、それは論理的に不可能であること、従って、「集団的自衛権の不行使」イコール「「日陰者」という扱い」、であることが分かっていないわけです。
 太田コラムの読者の方なら先刻ご承知のように、専守防衛にして海外派兵禁止の自衛隊なら、やや極端に言えば、日米安保体制の下では、軍事的には全く不必要であり、全廃すべきだからです。

 ところで、この「諸君」に、防衛大学校名誉教授の佐瀬昌盛氏が「田母神論文には、秘められた「救い」がある」と題する小論を寄せておられます。
 私は防大総務部長だった当時から佐瀬さんはよく存じ上げているのですが、「田母神論文・・・には、「石」がやたらと多いが、二つ三つ「玉」もあるではないかという感想<だ>」(28頁)と記しておられるところ、この点は私の受け止め方と全く同じだな、と思いました。
 ただ、それに続く箇所で、同氏が田母神論文の戦前の歴史認識だけについて批判されている点には違和感を覚えました。まさか、戦後は歴史ではないとお考えではないでしょうに・・。
 また、村山談話なる政治的文書に対し、これをあたかも歴史認識に関する小論のように受け止めて批判を加えておられる点(34頁)にも違和感を覚えました。
 しかし、「ナチス・ドイツはシヴィリアン・コントロールに立っていた。政治が軍を統制したのである。」と書いておられるところ(36頁)は、「文民統制」論の虚妄性を見事に笑い飛ばしておられるわけで、痛快な思いがしました。
 一番重要なのは、「9月3日・・・自衛隊高級幹部会同・・・<に>福田康夫首相が欠席した。・・・総理大臣訓辞<が>なかったのである。総理・・・は・・・職務を・・・理由説明なく放棄したのだ。・・・国会の与野党<も>この件にまったく無反応だった・・・。・・・河野洋平衆議院議長は・・・防大卒業式を5年連続して欠席という新記録を樹立した。立法府の長の不出席という新しい「慣行」が定着しつつあるのか。憂慮している。」(39〜40頁)という部分です。
 塩田氏の、もはや自衛隊は日陰者でない、という認識がいかに誤っているか、お分かりでしょう。
 どうやら文藝春秋社は、吉田ドクトリンを社是としている、ということのようです。

3 終わりに

 同じ「諸君」に、保坂正康氏が連載の欄を持っておられ、その中で、やはり田母神論文を取り上げ、批判を加えておられます(194〜195頁)が、何がおっしゃりたいのか全く意味不明な文章に呆れ果てました。
 とにかく、これでしばらくは「諸君」を、いや、日本の「右」の総合雑誌を斜め読みするという苦行に従事する機会もなかろう、と思っただけで、安堵しました。

太田述正コラム#2941(2008.11.28)
<田母神空幕長解任事件について>

 (本篇は、月刊誌「フォーラム21」2008年12月号用の草稿です。)
           
 --始めに--

 田母神空幕長解任事件については、様々な角度から議論することができますが、解任そのものについては、政府の方針に背反することを書いた一高級(軍事)官僚がクビになった、ということであって、「文民統制」などという空疎な言葉を持ち出すまでもない、当たり前の話です。
 なお、彼を懲戒免職すべきであったという議論がありますが、田母神氏は部隊を勝手に動かしたわけではありませんし、第一、「文民統制」する側が暴走する逆のケースだってありうるのですから、解任くらいが妥当でしょう。普通の将校クラスだったら、解任だってすべきではありません。
 クーデターの危険性の議論に至っては、嗤うほかありません。
 われわれが押さえるべきことは、田母神氏のお粗末さ、こんな空幕長が出現したワケ、そしてわれわれがなすべきこと、の3点であると私は考えます。
 以下、順にご説明しましょう。

 --田母神氏のお粗末さ--

 田母神氏は、あのような論文を書いたら大騒ぎになるということを予想できなかったと繰り返し述べていますし、そもそもあの論文が村山談話に抵触するとは思わなかったと国会に招致された時に答弁しました。
 これでは彼は、究極のKYであると言わざるをえません。
 そもそも、彼は「修身斉家治国平天下」という言葉をご存じないのでしょうか。
 歴史認識などという高邁であっても迂遠な問題を論じる前に、ご自身のパワハラ体質・・・彼のせいで94名もの航空自衛隊員が、歴史認識に係る論文を書かされた・・・や、航空自衛隊のセクハラ体質、更には防衛省の業者との癒着等の問題に取り組むべきだったのに、これまで彼がこれらに取り組んできたようには見受けられません。これを職務怠慢と言わずして何でしょうか。
 それに、まともな国の将校なら、平素、戦史を勉強することが求められます。ですから、大将クラスの将官ともなれば、戦史、すなわち歴史のプロ、いやそこまで行かなくても、せめて歴史読みのプロくらいにはなっていなければ困るのです。
 ところが、田母神氏の論文は、典拠の付け方や、典拠の選び方一つとってもシロウトの域を出ていません。しかも、内容的にも論理が首尾一貫していない箇所が散見されます。
 遺憾ながら、彼は、大将クラスの軍人のグローバルスタンダードに達していない無能な人物である、と申し上げざるをえないのです。
 このような論文が英訳されてインターネットに掲げられているというのですから、恥ずかしい限りです。

 --こんな空幕長が出現したワケ--

 こんなお粗末な空幕長が出現するのは、自衛隊が、軍隊としての本来の仕事をさせてもらえず、世間の冷笑と無関心に囲まれて、雑用的な仕事だけをしているため、防衛省/自衛隊の幹部が社会的エリートにふさわしい人格、識見を身につける機会が与えられないからである、と私は考えています。
 私がこういう話をすると、今時、世界の大部分の国で、軍隊は実戦に従事することなどほとんどないのではないか、自衛隊員だって、もっぱら訓練に勤しんで髀肉の嘆をかこっていることにもっと誇りを抱くべきだ、と反論されることがあります。
 しかし、実戦に従事することが全く考えられないという点で、自衛隊は通常の国の軍隊と決定的に異なる異常な代物なのです。
 それはこういうことです。
 日米安保体制と集団的自衛権行使の禁止を含む政府の憲法解釈の下で、戦後の日本は自ら進んで米国の保護国(属国)となって外交・防衛の基本を米国に委ね、現在に至っています。
 その米国が日本列島だけでなく、朝鮮半島(韓国)にも米軍を配備していて、そこに韓国軍も存在していることから、軍事地政学的に言って、自衛隊の有無いかんにかかわらず、日本列島への軍事的脅威など(核の脅威を除いて)存在しないのです。
 また、集団的自衛権行使が禁止されているため、(宗主国アメリカの「指示」の下、)自衛隊を海外派兵する道もまた閉ざされています。
 この結果、自衛隊員は、災害派遣や危険のない場所でのPKO等、自衛隊でなくてもできる非軍事的な活動を除き、その成果を生かす機会がほぼゼロであるところの、むなしいこと限りない軍事的な訓練・演習に明け暮れる生活を送っているわけです。
 このような背景の下では、自衛隊に守屋前防衛事務次官や、田母神前空幕長のような人物が出現するのは、そしてそんな幹部に率いられる自衛隊で不祥事や事故が頻発するのは当然である、自衛隊はこの種の機能障害を起こすように制度設計されている、と認識すべきなのです。
 
 --われわれがなすべきこと--

 では、一体われわれはどうしたら、守屋や田母神氏ような人物の出現を防ぎ、自衛隊の不祥事や事故の連鎖を断ち切ることができるのでしょうか。
 それには、田母神氏が論文でつけ足し的に触れているところの、日本が米国の属国であると言う問題と集団的自衛権が行使できないという問題を直視するところから始めなければなりません。
 そうすれば、次の二つのオプションが自ずから導き出されるはずです。
 オプションの1の基本は、自衛隊を全廃し、日本を米国と合邦させることです。
 オプションの2の基本は、集団的自衛権の行使を禁じる政府憲法解釈を変更した上で、日本の米国からの独立を果たし、日本をその外交防衛の基本を自ら考え実行する主体にすることです。
 このどちらかを、われわれは選択しなければならないのです。

 --終わりに代えて--

 最後に、田母神論文のもともとの課題テーマである「真の<日本>近現代史観」に関連し、私の戦前観の一端をご披露しておきましょう。

・日本は、大正時代に自由民主主義的国家へと変貌を遂げたところ、1930年代に世界恐慌と中国情勢の悪化により、戦時体制をとり、その体制を1945年の敗戦まで続けたが、この間、ロシア(ソ連)の脅威に対抗して中国の東北部に勢力圏を広げるとともに、一貫して自由民主主義的国家としての基本を維持した。
・ロシアは、共産主義イデオロギーを掲げ、勢力圏を東アジアに広げようとし、日本に敵対した。
・中国国民党は、腐敗した容共ファシスト政党であったが、ロシアの傀儡(当時)であった中国共産党と合作し、日本に敵対した。
・米国は、自由民主主義イデオロギーを掲げるキリスト教原理主義的有色人種差別国家として、領域的支配を伴わない軍事的プレゼンスなる方法によって勢力圏を広げる試みを東アジアで始め、中国国民党を支援し、ロシアに対し宥和政策をとり、日本に敵対した。

太田述正コラム#2931(2008.11.23)
<日本帝国の歴史2題(続)>(2008.12.31公開)

1 始めに

 ちょっと前に、「日本帝国の歴史2題」と銘打って、日本(内地)の歴史に係る記事を2つご紹介しましたが、今度は、韓国(朝鮮半島)の歴史に係る記事を2つご紹介しましょう。

2 ニューヨークタイムスの記事

 <左派の前政権に代わり、右派の李明博政権が発足したことを受け、>10月30日、文部科学省は<6つの>高校教科書について、「韓国政府の正統性を掘り崩す」・・・記述を削除するか修正するよう求めた。・・・
 韓国は、かつて単一の国定の近代史教科書を高校生用に用いていた。しかし、2003年に歴史認識の多様化を奨励するため、政府は高校用に6つの民間出版の歴史教科書の発行を認めた。
 それ以来、これらの教科書は、保守派からの批判を浴びてきた。そしてそれは、初代大統領の李承晩や軍人で強権的指導者であった朴正煕等の過去の指導者達についての、更には米国との複雑な関係についてのより大きな議論を引き起こすこととなった。
 保守派は、「左がかった」教科書は、若者達に歴史の暗部にばかり目を向けさせて、彼らの思考に悪い影響を与えると主張した。すなわち、連合国が日本からの朝鮮半島の解放をもたらした役割を貶め、米国を帝国主義大国として描き、過去の韓国の独裁者達の罪ばかりをあげつらって経済成長に果たした貢献等の彼らの業績を軽視していると。・・・
 ある・・・教科書は、保守派からは建国の父として尊敬されているけれどリベラル派からは容赦のない反共主義者として嫌悪の対象となっている李承晩大統領を、北朝鮮の脅威を「自らの独裁体制を維持する」ために悪用した、と記している。
 国防省は、ここのくだりを「彼は共産主義を封じ込めるために最善を尽くした」と書き換えるように求めている。
 また、<ある>教科書は、1961年にクーデターで権力を掌握し、政治的反対者達を拷問する一方で、韓国を輸出志向の経済成長へと導いた朴正煕を、「韓国の憲法の上に自分自身を置いた大統領」であったと記している。
 国防省は、このくだりを「<朴氏は>韓国の近代化に貢献した大統領」であった、と書き換えるように求めている。・・・

http://www.nytimes.com/2008/11/18/world/asia/18textbooks.html?ref=world&pagewanted=print
(11月18日アクセス)

 とにかく、このような保守派と容共リベラル派との対峙状況も、かつての宗主国日本の構図をそのまま韓国において受け継いだものであり、日本がこのような対峙状況を克服して久しいところ、韓国においても、ついにその克服に向けての第一幕が始まった、ということだと思います。
 軍部が歴史認識に口を挟む、というのは戦前の日本でもあったことですが、ちょっとアナクロが甚だしい感がありますね。
 軍部は文部科学省を前面に出していい子ブリッ子をしておればよい、と思うのですが・・。
 もっとも日本(内地)においても、田母神氏の例があったばかりなので、私も韓国に対し、これ以上高見に立ったような物言いは控えることにしましょう。

3 朝鮮日報

 朝鮮日報は、同紙のお気に入りらしい、韓培浩(ハン・べホ)元高麗大政治外交学科教授(77)の新著『自由を目指した20世紀韓国政治史』を、かなり詳しく紹介しています。
http://www.chosunonline.com/article/20081122000010
(11月23日アクセス)

 以下、この新著の内容をかいつまんで孫引き紹介するとともに、私のコメントを付します。

 日本による植民地支配は、韓国に暴力的権威主義と階級的官僚主義の弊害をもたらした。日帝の近代化開発は、朝鮮人のためのものではなかった。朝鮮人の分裂を画策した日帝の統治方式は反目と不信という遺産を残し、深刻な理念対立の種をもまいた。

→よく言うよとしか形容のしようがない。「暴力的権威主義」≒「事大主義」(コラム170、274)、及び「階級的官僚主義」ないし「反目と不信」≒「両班精神」(コラム#406)≒「政治の搾取性」(コラム#402)は、いずれも朝鮮半島が近代化以前から持ち越してきた病弊であり、日本による植民地統治はそれらを打破しようとした。また、それが誰のためになされたのかはともかく、「近代化開発」を目的とした植民地経営を行った列強は、日本以外には一国もなかった。更に、「深刻な理念対立の種」とは何のことか不明。(太田)

 日本の敗北で極東地域に力の空白が生じたことに伴い、これを埋めようとする米ソ間の対立の中から、一つの妥協策として38度線が生まれた。それは、当時のルーズベルト米大統領や米国政府の朝鮮に対する無関心、安易な対ソ政策の産物だった。反面、スターリンは韓半島(朝鮮半島)の戦略的価値を極めてよく認識していた。

→「当時のローズベルト大統領や米国政府の東アジアに対する無関心、安易な対ソ政策が日本を敗北へと追いやった結果、極東地域に力の空白が生じ、朝鮮半島に38度線が生まれた。反面、スターリンは東アジアにおける朝鮮半島の戦略的価値を極めてよく認識していた」が正しい。典拠は不要だろう。(太田)

 最近公開された旧ソ連・中国側の資料は、6・25戦争(朝鮮戦争)が「金日成(キム・イルソン)が計画し、ソ連と中国の支援を得て南侵を敢行したことで起きた戦争」だということをはっきりと示した。それは武力による「侵略戦争」で、スターリンと毛沢東は韓半島を共産化し、アジアでの戦略的地位を確保しようとした。

→「最近公開された旧ソ連・中国側の資料は、朝鮮戦争が、スターリンが、臣下たる毛沢東と示し合わせ、エージェントたる金日成をして計画させ、南侵させて起きた戦争」だということをはっきりと示した。それは武力による「侵略戦争」で、スターリンは朝鮮半島を共産化し、アジアでの戦略的地位を確保しようとした。」が正しいのでは。(太田)

 朴正煕(パク・チョンヒ)政権は、短期間のうちに画期的な経済成長を成し遂げたが、・・・ 維新体制(朴正煕政権の後半)は、民主主義と全体主義のいずれにも該当しない権威主義体制で、そのため確固とした正当性や理念を備えることができなかった。

→「朴正煕政権は、短期間のうちに画期的な経済成長を成し遂げたが、・・・これは、民主主義を基盤とした総動員体制という、戦争直前から戦時中にかけての旧宗主国日本の政治経済体制を、同政権が模倣して、類似の体制を構築した結果である」が私の認識(コラム#405)。

 1980年代末<の>・・・民主化は・・・、それまで韓国社会が経験してきた「近代化」の過程が韓国の社会構造を変えていったために可能だった。産業化や通信・交通の発達、中産層の成長などが民主化の要因となった。

→「日本による朝鮮半島の植民地統治は、最初から民主化の契機を孕んでいたが、1980年代末<の>・・・民主化は・・・、日本が植民地時代に朝鮮半島で推進した「近代化」路線を戦後の韓国が引き続き推進し、韓国において、産業化や通信・交通の発達、中産層の成長を達成し、社会構造が変化して行ったために可能となった。」が正しい。(太田)

4 終わりに

 吉田ドクトリン的なものに毒されていないだけに、日本国民の歴史認識を「是正」するよりも、韓国の人々の歴史認識を「是正」する方が容易であるという感を深くします。

太田述正コラム#2925(2008.11.20)
<日本帝国の歴史2題>(2008.12.28公開)

1 始めに

 辻元清美議員との対談は、議員会館で午後4時から6時近くまで及び、金曜日側が音を上げてようやくお開きとなりました。
 辻元議員、もっと私との話を続けたかったようです。
 論点は多岐にわたりましたが、、田母神問題と集団的自衛権の問題と歴史認識の問題が焦点になった感がありました。
 『実名告発防衛省』の宣伝のための対談だったはずが、ほとんどこの本のことは話題になりませんでした。
 終わった直後に、週刊金曜日の副編集長が、辻本さんが右、太田さんが左だということがよく分かりました、と述べたことが印象的でした。辻本議員は現状維持志向、太田さんは改革志向だというのです。
 これはかなり鋭く、かつ深ーい感想だと思いますね。
 辻元議員は不服そうでした。
 この対談を、コンパクトにして誌面に載せられるようにするのは、かなりホネであろうと、同席していたライターの男性に同情してしまいました。
 誌面に載ったものは、いずれご披露できると思うので、しばらくお待ちください。
 本日はそのさわりを、と行きたいところですが、私のしゃべったことは最近「ディスカッション」で書いたことがほとんどですし、辻本さんがしゃべったことでご紹介すべきものは、遺憾ながら余りないので、本日は、本日の対談で焦点となったもののうちの一つが歴史問題であったということで、日本帝国の歴史に関する最近の記事を2つご紹介し、私のコメントを加えることにしましょう。

2 日本帝国の歴史

 (1)内地の戦前

 ・・・昭和天皇を含めて政治指導者から大半の国民に至るまで、この道しかあるまいと思って突き進んでいった結果が太平洋戦争につながり、日本人自らも多大の犠牲を伴ったと同時に中国、韓国など近隣諸国に極めて大きな被害をもたらした・・・
 特に銘記しておきたいのは四〇年の政党解党劇です。同年二月の衆院本会議で民政党の斎藤隆夫議員が泥沼化した日中戦争に関して「聖戦の美名に隠れて国民的犠牲を閑却し」と米内光政内閣と軍部の姿勢を批判したのに対し、怒った陸軍が圧力をかけ、最終的には本会議での記名投票で斎藤議員を除名に追い込みました。そればかりか軍を恐れた主要政党は同年夏、一斉に解党し「バスに乗り遅れるな」と大政翼賛会に走ったのです。
 政党政治が軍部にひざを折った結果、それから五年間、日本は事実上、無政党時代でした。それがいかに暗い世の中であったかを思い出すべきです。 五・一五事件を皮切りに昭和初期から続発した青年将校らによる政府要人暗殺事件に経済不況が重なって、政党政治が機能不全に陥っていたのです。・・・
http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2008111602000090.html
(11月16日アクセス)

<太田のコメント>

 このような認識は一面的過ぎる。
 最近のコラムで既に述べたことは繰り返さない。

 斎藤隆夫議員の上記演説後、「衆議院懲罰委員会は満場一致で除名を決定、・・・衆議院本会議は、除名賛成296票、反対7票、棄権144票で可決した。」・・・反対票、棄権票、特に後者の多さに注目。また、斎藤氏が「除名後の1942(昭和17)年総選挙では・・・兵庫県5区から最高点で当選を果たした。」ことにもっと注目すべき。
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/saitoutakao.htm
(11月20日アクセス。以下同じ)
 いかに当時日本で民主主義が機能していたかが分かろうというもの。
 ちなみに、「1937(昭和12)年日中戦争が勃発する頃から・・・帝国議会内に・・・近衛新党を目ざす動きが起こった。彼らは斎藤隆夫の反軍演説に際して彼を除名することに成功するや、・・・各党に政党解消を申し入れた。」ということであり、http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/taiseyokusannkai.htm
斎藤議員は軍部の圧力によってというよりは、衆議院の内部力学の結果、辞任に追い込まれたもの、と見るべきだろう。

 ついでに言えば、既存政党解消の結果できた近衛新党であったはずの大政翼賛会は、「発会式(1940年10月12日)では、政治組織であれば当然あるべき綱領・宣言の類<が>、首相であり翼賛会総裁の近衛の口からは発表されなかった。」というのであるから、近衛新党推進者の一部が夢見たファシスト政党どころか、政党ですらなかった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%94%BF%E7%BF%BC%E8%B3%9B%E4%BC%9A

 しかも、「<1942年(>昭和17年<)>の総選挙において、・・・<大政翼賛会>非推薦候補85名が当選を果たした。」というのであるから、大政翼賛会がいかに無力な存在であったかが分かる。
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C2%E7%C0%AF%CD%E3%BB%BF%B2%F1

 なお、既存政党解消、ないし大政翼賛改成立の背景として、(危機の時代における挙国一致内閣制の論理的帰結という側面があることはもちろんだが、)日本の内地では、当時既に政党分立の社会的条件(地域的対立、階級的対立)がなくなりつつあったことが大きい、と考えるべきだろう。
 以上のような大政翼賛会の性格論は、1976年にスタンフォード大学の比較政治学者Nobutaka Ike教授にペーパーとして提出したもの(用いた典拠は異なる)の骨子だ。同先生からこのペーパーを褒められ、A(優)をもらった記憶がある。
 戦前に成立した戦争遂行のための大政翼賛会が、戦後は、戦争忌避のための自社なれあい大政翼賛会へと看板をかけかえて現在の自民・民主なれあいの大政翼賛会へと至っているわけだ。

 最後に、もう一度、当時の日本経済が、1932年から高度成長期に入った(『防衛庁再生宣言』235頁に掲げた、主要国の工業生産の折れ線グラフ参照)ことを強調しておこう。

 (2)朝鮮半島の戦前

 ・・・ごく少数ながら、当時の判決の中には一部合理的な側面もあった・・・。1919年4月1日、開城で万歳運動を主導した14人に対し、内乱罪は成立しないとした判決がその例だ。「被告人らの行動は、朝鮮を独立させる希望があることを世上一般に宣言する内容に過ぎない」ため、内乱罪不成立というわけだ。
 全羅南道康津地域で独立宣言文を印刷するなど、万歳運動を準備したが決行前日に検挙された学生らに対しては、一地方の平穏を害するほどの行為ではないなどの理由で、無罪が宣告された。また、万歳運動後に連行された仲間を取り戻そうと警察署を包囲、脅迫した事案について、連行者に対する令状はなく拘禁状態だったとして、犯人奪取罪の対象とはならない、と判示した例もあった。
 これについて<韓国の>大法院の関係者は、「日帝が本格的に軍国主義化する直前の時期で、少数ながらそうした判決が出たようだ」と語った。
http://www.chosunonline.com/article/20081116000002。11月16日アクセス

<太田のコメント>

 「本格的に軍国主義化」していたかどうかはともかくとして、コラム#1416で、日本の内地における1942年の総選挙(上述)、「(直接的にはその鹿児島2区の選挙)について、大審院の吉田久裁判長は、大戦中の1945年3月の判決で、大政翼賛会によって推薦されなかった候補には投票しないよう呼びかけが行われるなどさまざまな妨害が加えられたことから、「自由で公正な選挙ではなく、無効だ」として選挙のやり直しを命じるとともに「翼賛選挙は憲法上大いに疑問がある」と指摘した・・・。このような裁判官が存在できたことは、・・・、大戦中の日本で、なお自由民主主義が機能していたことを示している。」と記したところだ。

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