カテゴリ: ロシア歴史

太田述正コラム#4655(2011.3.30)
<ロシア革命と日本(その12)>(2011.6.20公開)

 「<他方、戦後の米国においては、従来の考え方(=米国の従来の通説的史観≒ソ連のかつての公定史観)を基本的に踏襲する者、ソ連の新しい公定史観に基本的に同調する者がいたが、そのほか、>第三の立場<として、対ソ>「封じこめ政策」の立案者<たるジョージ・>ケナン<の史観が出現した。>・・・
 ケナンは、・・・一面、アメリカ政策の擁護の立場をとる。・・・しかし彼の本領は、アメリカの対ソ政策擁護にあるのではなく、むしろその独自のリアリズムの精神に導かれた批判にある。・・・彼の批判は、とくにウィルスン政権の対ソ政策の混乱と不統一の様相、またそのユートピア的性格をつく点におかれる。駐露米大使館内部、また大使館と他の政府機関との対立による情報網の効率低下と行動の不統一。東部戦線再開についてのワシントンの抱いたイリュージョン。ケナンは、ロシアに駐在した政府下級機関のうちに、明確に革命反対の立場をとり、その見地からワシントンへの働きかけを行い、あるいは反革命派と連絡を行っていた者のあることを否定しない。彼はこの点でアメリカの政策が誤解を招く余地のあったことを認め、政府機関内部のコミュニケイションの欠如を指摘するのである。
 ケナンはこのようにして、ウィルスン政府の対ソ政策において、誤謬と錯覚と不統一のあることをいい、独自の形で批判を加える。それと同時に、対ソ政策の混乱と分裂の様相の指摘自体が、「アメリカ帝国主義者」がその本質目的にもとづいて周到な計画のもとに、17年中葉以来一貫して反革命政権を推進していたとする主張<(=ソ連の新しい公定史観)>に対する基本的な意味での反駁になっていることも、注目されるところである。
 このように、ケナンは、政策決定過程の複雑な構造を分析する点に特別の関心を向けるが、この点はアメリカ学界の最近<(=1972年当時)>の一般動向の反映であり、このこと自体、歴史過程の単純化的解釈に対する不満を示したものと見られるであろう。」(260〜261)

→私はケナン(George F. Kennan。1904〜2005年)の事跡に得心のいかない思いがしています。
 彼が、自分の対ソ「封じ込め政策」にどうやって到達したのかを、自ら明らかにしていないからです。
 ご存じのように、かねてより、私は、ケナンは、戦間期の日本の対ソ政策・・より正確には帝国陸軍の統制派の対ソ政策・・を、言葉は悪いけれど、パクったのではないか、著作権違反じゃないか(?!)、という疑いの念を抱いてきました。
 というのも、彼の外交官としてのキャリアの前半は、米国務省入省後、1929年にロシア専門家になる基礎教育をベルリン大学で受け、爾来、1931年には駐ラトヴィア大使館勤務となって、米国と国交樹立前のソ連の情報収集を行い、1933年に国交が樹立されると11月に駐ソ連大使館勤務となってソ連の大粛清を目の当たりにし、次いで本省でロシア担当となり、1938年のドイツ進駐前の駐チェコスロヴァキア(ソ連の隣国)大使館勤務、1939年の第二次世界大戦勃発後の駐ドイツ大使館(ソ連の隣国)勤務、そして、駐ポルトガル大使館勤務、駐英国大使館勤務という彼にとって不本意な補職を経て、1944年に待望の駐ソ連大使館勤務(ナンバーツー)となる、というものですが、駐ドイツ大使館時代に、米国は到底同盟相手としてふさわしくないソ連に対して一切援助をすべきではない、との意見具申をしていることから、その時点で既にソ連封じ込め論に到達していたと思われるところ、彼が、それまでの間に、ソ連の主要諸隣国の対ソ政策、就中日本の対ソ政策、を研究していなかったとは、およそ考えられないからです。
 ケナンが、1946年2月22日に有名な5500字という長文の電報をモスクワから国務長官宛てに打ち、また、翌1947年、フォーリンアフェアーズ誌の7月号に、これまた有名なX論文を発表し、一躍対ソ封じ込め論者として米国の寵児となり、この彼の論が米国の国家戦略として採用されるに至ったことは、よく知られているところです。
 興味深いのは、ジョン・ヴァン・アントワープ・マクマレー(John Van Antwerp MacMurray)が駐ラトヴィア公使(兼駐エストニア公使、駐リトワニア公使)に発令されたのが1933年8月28日であり・・ただし、マクマレーのラトヴィアへの信任状の奉呈は12月13日・・、一方、ケナンが駐ラトヴィア大使館勤務から新しく開設されたばかりの駐ソ連大使館勤務へと転じるのが、駐ソ連大使が任命される11月21日と同じ頃だとすると、同年の8月から11月にかけての3ヶ月間、ケナンは、マクマレーの部下であったことになり、その間に、マクマレーとソ連論や日本の対ソ政策について、じっくり話をする機会があったと考えられることです。
 マクマレーは、、恐らくはケナンから聞いた話と、マクマレー自身が駐ラトヴィア大使時代にロシア(帝政ロシアとソ連)について学んだこととがベースとなって、あの『覚書』を1935年に執筆した、と思われるのです。
 ケナンが、(1951年12月に駐ソ大使に任命される前、プリンストン高等研究所に出向していた)1950年にマクマレーの『覚書』を「発見」し、「心から共感を覚えたケナンは引退していたマクマレーにわざわざ会いに行っている」(*)のも、短期間とはいえども、彼がかつてマクマレーの部下であったことからすれば、ごく自然なことであると思えてきますね。
 (以上、事実関係は、以下↓による。
http://en.wikipedia.org/wiki/George_F._Kennan
http://en.wikipedia.org/wiki/William_C._Bullitt
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%97%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%83%BC
http://books.google.co.jp/books?id=-NGAKe8j8XEC&printsec=frontcover&dq=John+Van+Antwerp+MacMurray;memorandum&source=bl&ots=zbi2tJm-zg&sig=KOvJ2n2WqlDxbyS6mrKfGbNEtAM&hl=ja&ei=VSSTTc35OIm2vwPCzfi8CA&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=1&ved=0CBwQ6AEwAA#v=onepage&q&f=false、 
*拙著『防衛庁再生宣言』216頁 ) (太田)

3 終わりに

 ボルシェヴィキ政権が樹立された時点において、(仏伊のことは脇に置くとして、)日本はロシアの分割(シベリアへの緩衝国家の樹立)を目指し、英国はロシアの一体性を維持したままソヴィエト政権の打倒を目指したものの、前者は主として米国の妨害により、また、後者は、主としてロイド・ジョージの優柔不断からタイミングを逸することによって、どちらも失敗に帰したわけです。
 その後、英国は対ソ封じ込めに本腰を入れることはありませんでしたし、米国に至っては、ソ連に対して、ほぼ最初から事実上、そして1933年からは公的にも、友好関係を維持し続けたという始末であったのに対し、日本だけは、陸軍において、皇道派と統制派の間で(かつて英国が目指したところの)ソヴィエト政権の打倒をあくまでも追求するか、それとも封じ込めで我慢するか、という論争が戦わされた後、後者の統制派が勝利を収め、国を挙げて対ソ封じ込め政策を遂行することになります。
 その日本の政策を挫折させてしまったのが英国と米国であったこと、そして、遅ればせながら、今度は米国が英国とともに日本のそれまでの対ソ封じ込め政策を採用、遂行することとなったこと、はご承知の通りです。
 しかし、冷戦終焉/ソ連崩壊を経た冷戦後のロシアの専制的にして反動的な現在を見、その上で改めて振り返ってみると、ボルシェヴィキ革命直後、ロシア分割を目指した日本のもともとの政策こそ、最も優れていたのではないか、という感が否めません。
 ロシアは、東漸することを通じて、欧州の周縁的性格に加えて東アジア的性格を併せ持つこととなったわけですが、ロシアを地理的な意味での欧州部とシベリア部とに分割し、前者を欧州の周縁的性格へ、そして後者を東アジア的性格へ、とそれぞれ相対的に純化させることで、自由民主主義陣営の抱えるロシア問題を根本的に解決するもの、ととらえれば、日本のもともとの政策の戦略性と合理性は明らかでしょう。
 対ソ干渉戦争当時、日本の陸軍が、セミョーノフという、ロシア人とブリヤート人の混血児で、ジンギスカン帝国の再来を夢見た男を首魁とする緩衝国家の樹立を目指したのはそういうことだったに違いない、と思うのです。
 この政策の実現を阻んだのは、セミョーノフという人間の問題もさることながら、米英、とりわけ米国の指導層の人種主義的帝国主義意識に由来する日本に対する蔑視であり反感であったというのが私の考えです。
 なお、人間の問題と言えば、英国が推進したボルシェヴィキ政権打倒政策の鍵であったコルチャックだって同じようなものです。
 いや、レーニン以下のボルシェヴィキ政権の指導者達だって同じ穴の狢であると言ってよいでしょう。
 これらの人物群の中に、自由民主主義の信奉者は一人もいなかった、ということだけとっても、ロシアの底知れぬ闇を見る思いがするのは、私だけではありますまい。

(完)

太田述正コラム#4653(2011.3.29)
<ロシア革命と日本(その11)>(2011.6.19公開)

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 どうしてアルハンゲルスクに米軍がいたのでしょうか。

 ロシアのムルマンスク及びアルハンゲルスクの港には、軍需品や兵器が大量に集積されており、英仏両国はそれらがドイツやボルシェヴィキによって奪取されることを恐れていました。
 そこへ、1918年にはドイツの一個師団がフィンランドに上陸したので、ムルマンスクとペトログラード間の鉄道、更には戦略要衝の港たるムルマンスクや場合によってはアルハンゲルスクがドイツによって占領されるのではないかという恐れすら出てきたのです。
 このほか、英仏は、チェコ兵団の救出と東部戦線の再建も行おうとしました。
 そこで、兵力の余裕が少ない英仏はウィルソン米大統領に出兵を促したところ、1918年7月、同大統領はこれに同意します。
 そして、米兵5,000人を北ロシアに、そして8,000人をシベリアに派兵したわけです。
http://en.wikipedia.org/wiki/Allied_intervention_in_the_Russian_Civil_War#Northern_Russia 前掲

 ですから、そもそも、日本においても、「シベリア出兵」ではなく、「ロシア(内戦)干渉戦争への参加」ととらえた方が良いのです。
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 「1931年、革命戦史を編纂する目的をもった特別委員会が、スターリンを長として設置され・・・<ソ連>政府が公定解釈をしめす意図が明らかにされ・・・もはや「<対独>東部戦線」的観点に立つ・・・解釈の存在は許容され・・・<なくな>った。・・・
 <次いで、>英仏政府が、ファシズムの侵略への「宥和政策」を通じて「防共大同盟」結成の可能性を示唆したことは、英仏帝国主義のロシア革命で演じた敵対的性格を一層明らかにする必要を、また日本軍部の中国大陸への武力的侵略の開始は、シベリア出兵で示した日本帝国主義の「掠奪的性格」を一層暴露する必要を、ソヴィエト・ヒストリオグラフィーにその任務として強調したのである。
 ところで、<そのようなソ連の>この30年代において、いぜんとしてアメリカの干渉政策にかんする限りは、・・・ウィルスンは不承不承、武力干渉に参加した、それはもっぱら日本に向けられた措置である、とする見方が通用していたことは意味深い。・・・すなわち、リトヴィノフ外相は、1933年11月2日、イズヴェスチア紙上で次のように声明していた。
 「・・・アメリカのシベリア出兵<は、>侵略的性格を有するものではなく、反対に日本の侵略を阻害することを任務とするものであることが立証せられた・・・」<と。>・・・
 <では、>対ソ干渉戦争問題をめぐるアメリカのそれの動向は、同じ時期にどのような様相を呈していたであろうか。アメリカにおいては、現実政治過程と<こ>の問題の歴史記述との関連度は低く、政治的必要から見ても、さらに精神的風土の面からも、権威による見解の等質化という現象の発生しなかったことはいうまでもない。それにもかかわらず、そこにおいて共通に見られる理解が存在していた。それは、第一に、アメリカの対ソ政策の性格は他の連合国--英仏日--のそれと区別さるべきであり、第二に、アメリカの対ソ武力干渉への反対態度は明確であったとするものである。この理解に立ちながら、何故にウィルスン大統領は、当初の態度を変更して、<19>18年7月に武力干渉への「参加」を決定するにいたったか、という点に問題関心は集中される。そしてこの点を究明するために、革命発生以後の歴史過程の実証的究明がなされ、その結果ウィルスンの干渉決定を導いた要因として、次の三つがあげられてきたのである。

 (1)連合国軍に属するチェコスロヴァーク軍約5万が、欧露からシベリア経由、ヨーロッパ戦場に移動途中であったが、たまたま18年5月末以来、シベリア鉄道沿線各地で、地方ボリシェヴィキと武力衝突状態に入り、その結果、チェコ軍の「殲滅の危険」が迫り、救援する必要が生れたという道義的要因
 (2)日本軍のシベリア出兵が既定のコースと観測され、この状況においては、むしろ共同派兵の形式によって日本の大陸攻撃の自由な実行を羈束することが得策と見られたという理由
 (3)英仏政府の度重なる派兵要請にやむなく譲歩した、という作戦の協調保持の必要

 以上三つの要因を指摘しつつ、多くはこれらの複合作用が、アメリカの政策過程に決定的な影響力をもったと理解するのである。
 ところで、このような・・・アメリカ・ヒストリオグラフィーの理解と、すでに見たソヴィエト・ヒストリオグラフィーの解釈との間には多分に相共通するものが存在して<おり、>・・・<先の大戦の後、>冷い戦争へと国際緊張が激化する以前においては、米ソのヒストリオグラフィーの間には、対ソ干渉戦争の基本問題、とくにアメリカの干渉政策の理解をめぐって、著しい対立のなかったことが・・・注意されねばならないであろう。」(251〜254)

→米国政府とソ連当局は、第一次世界大戦中に起こったボルシェヴィキ革命以来、第二次世界大戦後に米ソ冷戦が始まるまでの間、ほぼ一貫して精神的に擬似同盟関係にあったと言えるわけです。
 換言すれば、米ソが提携して第二次世界大戦を戦ったのは、敵の敵が便宜的に手を結んだのではなく、本来的擬似同盟国による論理必然的な成り行きであった、ということです。
 米国による日本の占領が、冷戦勃発に伴うところの、いわゆる逆コースが始まるまでは、ニューディーラー左派による容共的な形で行われたのは当然であったと言うべきでしょう。(太田)

 「しかし、<冷戦が始まると、ソ連で>1948年8月<に出た>論文・・・を皮きりに、「アメリカ帝国主義者」こそ対ソ武力干渉の「組織者」、「発起者」であり、革命以来一貫してソヴィエト政権打倒の目標をもち、干渉への共同参加者、日、英、仏に対してとくに「主導的役割り」を演じていたとするテーマ<が、>繰返しとり上げられ<るようになる>・・・のである。」(255)

→しかし、発育不全の米国の指導層も、ようやく自分達のソ連観が致命的なまでに誤っていたことに気づき、ここに米ソ間の精神的擬似同盟関係はついに解消されるに至るわけです。(太田)

(続く)

太田述正コラム#4651(2011.3.28)
<ロシア革命と日本(その10)>(2011.6.18公開)

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 ここで、フランス政府の姿勢に触れておきましょう。

 日本が提案したコルチャック政権承認について、パリで米英仏伊の四大国首脳による四人会議の席上、フランスのクレマンソー(M. Clemenceau)<(注12)(コラム#2884、3028)>首相は、オムスク(コルチャック)政府を全露を代表する政府として承認すべきであると主張し、ウィルソンとロイド・ジョージに難色を示されています。(以下の「」内を含め、137〜138による。)

 (注)Georges Benjamin Clemenceauであり、「M.」は名前の頭文字ではなく、ムッシュー(氏)を現す。1841〜1929年。首相:1906〜09、1917〜20年。
http://en.wikipedia.org/wiki/Georges_Clemenceau

 「フランス政府のソヴィエト政権への敵意はとくに熾烈であり、ヴェルサイユ会議においても、クレマンソー首相は、米英首脳の提唱する<革命、反革命両派の話し合い>方式を排斥して、反革命派の代表のみが平和会議で交戦国ロシアを代表する資格あることを極力主張していたのである。そして、コルチャク政権に対しても、フランス政府は、その発足当時から友好的であり、名目的兵力とはいえフランス軍一箇大隊を西シベリアに派遣してコルチャク軍と協力せしめ、またジャナン Pierre Janin 将軍をしてコルチャク軍の指揮にあたらしめていたのである。」

 クレマンソーは、マキャベリストであり、
http://www.papermasters.com/clemenceau.html
かつ、元来は筋金入りの左派でした(ウィキペディア上掲)。だからこそ、彼は、極左たるボルシェヴィズムの恐ろしさを見抜いていたのでしょう。
 もっとも、後述するように、ボルシェヴィキへの憎悪は、当時のフランスの保守派、就中支配層が共通に抱いていた感情でもありました。
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 「<1920年>8月に入ると、コルチャク軍は総崩れの形勢となり、日本政府のもとにはオムスク政府のイルクーツクへの撤退準備の報道が伝わりはじめ、・・・この形勢にイギリス政府は、シベリア派遣軍の撤退方針を決定する。・・・ここでふたたび、日本のシベリア政策を・・・アメリカとの協力の有無を顧慮することなく、・・・極東ロシア三州の確保に集中せしめんとする軍部の意見が擡頭を見ることとなる。」(148)

→これから先も紆余曲折があるのですが、日本のシベリア出兵がその後どうなったかは、コラム#3772の「5 エピローグ」程度を頭に入れていただけば十分でしょう。(太田)

 さて、またもや時計の針が巻き戻されます。

 「ボリシェヴィキへの憎悪の念が最もはげしく、反革命援助に最も積極的なフランス、イタリーの支配層においては、ボリシェヴィキとの接触は一切否定され<たが、>・・・イギリスのロイド・ジョージ首相においては、革命、反革命いずれの側の代表をも・・・招請して、主張を開陳させる機会をあたえるべしとする立場がとられた。1918年12月31日の英帝国戦時閣議 Imperial War Cabinet は、<外相の>カーゾン卿 Lord Curzon of Kedleston 、<陸相の>チャーチルら、「干渉主義者」のとる反革命派支持の有力な主張を退けて、平和会議にのぞむべきイギリス政府の公式の態度として首相の立場を承認したのである。・・・
 <この>ロイド・ジョージの構想に、ワシントンの国務省は反対の意見であった。・・・
 <しかし、>ウィルスンは、ただちに彼<の構想>を支持する。・・・
 一方、・・・フランス支配層は、激しくこれに反撥を見せた。・・・
 <ただし、>ドイツ軍の降伏、その占領地域からの撤退と同時にソヴィエト権力の拡大活動<が>開始<し>、<1920年1月初頭、>ウクライナ方面で・・・、赤軍は・・・前進をつづけて<おり、>北部では、・・・ラトヴィアの首府リガが、ラトヴィア共産党の支配するところとなり、赤軍はまた、エストニア、リスアニア、白ロシアで進撃をつづけ、ドイツのスパルタカス団との職説連絡の可能性も大きくなっていた・・・<上>、中欧の敗戦国内部の社会不安は次第に険悪化し、プロレタリア革命の気運は高まっていた<ところ、これを放置するわけにはいかないという認識は、米英仏伊が共有していたところであった。>」(203〜206)

→ロイド・ジョージのこの態度は、後述する理由から、ウィルソンの態度以上に不合理なものであった、と言ってよいでしょう。(太田)

 「<案の定、コルチャクらの反革命政権も、ロイド・ジョージ/ウィルスン提案の会議への参加を拒否する。>・・・
 ウィルスンとロイド・ジョージがそれぞれパリを離れた機会をとらえ、・・・イギリスのチャーチル陸相<は、独断で、列強に対し、>ロシアの隣接諸国、ならびに反革命政権と協力して、軍事行動をとる実際的可能性を検討することを、その目的とする・・・委員会・・・の設立を提唱した。・・・
 ロイド・ジョージは、チャーチルに宛て、ただちに<叱責の>電報を送る。・・・
 ハウス<大佐も>、・・・<そんな>委員会に、アメリカは参加する意思のないこと・・・を明白に告げる。・・・
 <ロイド・ジョージはともかくとして、ウィルスンがボリシェヴィキに宥和的であったのには、若干の理由がなきにしもあらずだった。>
 <ウィルスン自身の甘いボリシェヴィキ観(太田)は論外としても、一つには、ロシア内に有力な反革命勢力が存在していなかったことに加えて、>当時北ロシアのアルハンゲルスク・・・地方に、約4千のアメリカ軍が、英仏軍とともに派遣されて<おり>、対独勝利の後も駐留がいぜん継続することに、兵士は・・・疑惑を示しだしていた。・・・<しかも、>赤軍が<接近してきていたことがあげられる。>・・・
 <すなわち、こういう状況下で、>北ロシア米軍<を>早期撤退<させることにはしたものの>・・・撤退は・・・春の解氷期まで技術的に不可能な状態にあった。そこで、・・・時を稼ぐため、・・・ソヴィエト政府との休戦協定締結に・・・<ウィルスンは>意欲<を>・・・しめし<ていた、というわけである。>」(209〜214)

 「<そうこうしているうちに、>コルチャク軍の進撃の成功<があり、これを見たウィルスンは、>協定による<ボリシェヴィキ>「封じ込め」構想<を>放棄<し>、コルチャク、その他の革命軍の援助強化へと政策を転換<し、同様政策を転換した英国とともに>武力による、ソヴィエト政府の崩壊を期待<す>ることとなる。<その期待は裏切られるわけだが、>かくしてアメリカ、ソヴィエト両国間の・・・和解と協定の機会は失われ、両国の正式の国交開始は、1933年の秋まで待たねばならぬこととなる。」(229)

→繰り返しますが、たまたま不幸にしてウィルソンとロイド・ジョージというバカ殿をそれぞれいただいていた米英両国は、こういう経過を辿り、もともとやる気十分であった仏伊両国、そしてせっかくやる気を見せた日本、と協力してボルシェヴィキ政権(赤露)を蕾のうちに粉砕する機会を永久に逸してしまったわけです。(太田)

(続く)

太田述正コラム#4649(2011.3.27)
<ロシア革命と日本(その9)>(2011.6.17公開)

 「11月3日の山県との会談において、<原敬>は語っていた。
 「人民は何時とはなく国外の空気に感染し居れば、煽動者あれば何時も起るの内情なれば、之が煽動者を相当に取扱ふの他なく、又内閣として可成人民と接触して彼等の暴挙を未然に止むるの外なし」
 ここには西方の革命のもたらす日本の国内政治状況へのインパクトを、ようやく憂慮しはじめた政治指導者の心理を見ることができるであろう。・・・
 原敬が政治指導の最高の責任を負ったのは、・・・米騒動、労働争議と、一般大衆が支配層に対して挑戦の行動をしめしはじめた・・・状況のもとにおいてであった。・・・<彼が、>それらの一連の事件の上にロシア革命の影響を見はじめたとしても不思議はなかったのである。それとともに、このような国内情勢の展開は、原首相をして、<前内閣の>シベリア出兵政策の再評価に、また・・・<英仏流の>「反過激派」の擁立工作への関心増大へと、導いていったのではなかろうか?」(110〜111)

→ここは細谷の推量に完全に同意です。(太田)

 「9月8日から23日まで、ウファ<(注10)>会議<が>開催<され、>・・・5人の頭領から成る全露臨時政府の成立を見た・・・。・・・
 国防相の椅子に・・・は、・・・コルチャクがこれにつくことには比較的問題が少なかった<が、>・・・エス・エル派<(注11)と>・・・ツァーリズムの復活<を標榜していた>・・・旧帝政将校を中心とする反動派の>・・・権力闘争ははげしかった。・・・
 チャーチル W.S. Churchill 英陸相からとくに反革命軍組織の任務を授けられて、10月オムスクに到着したノックス W.F. Knox 将軍は、・・・コルチャクを最高指導者とする軍事的独裁政権の構想の実現につとめ・・た・・・。
 11月8日、コサックの将校をリーダーとするオムスク駐屯軍の一部は、・・・エス・エル派の要人逮捕に踏みきり、それとともに、全露臨時・・・政府は・・・コルチャクに最高権力の行使を一任し、彼に「最高統帥者」の称号をあたえることを決定したのである。」(116〜120)

 (注10)現在は、「ロシア連邦中央部に位置するバシコルトスタン共和国(バシキリア)の首都。・・・アジアとヨーロッパの境界線となるウラル山脈の分水嶺へは東へ100キロメートル。モスクワから1567キロメートル。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%95%E3%82%A1
 (注11)社会革命党の略称。「ナロードニキの流れを組む革命政党として、・・・1901年に結成。・・・セルゲイ大公等の要人を暗殺した。・・・社会革命党左派(左翼社会革命党、左翼エスエル)は、ボリシェヴィキと共にロシア十月革命後の革命政権の主要な一翼を担うが、1918年にブレスト=リトフスク条約締結に反対・・・その後ボリシェヴィキの専制的体質に対し、・・・抵抗運動を続けるが、その後、武装蜂起し、弾圧されたため多くが逮捕・処刑されるか海外に亡命した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E9%9D%A9%E5%91%BD%E5%85%9A

→英国が反ボリシェヴィキ勢力を糾合してコルチャク政権を擁立した、ということです。(太田)

 「<原の日本>政府<は、>コルチャク政権支持という新政策を<採択し、これを>実行するにあたり、・・・海軍提督として、旧体制の支配層に属し、性格的には高潔ではあるが雅量に乏しいコルチャクと、シベリアの田舎育ちで、粗野で武勇自慢の若年のセミョーノフ・・・一方はイギリスの好意をたのんでツェーリズムの再興に忠誠心をかけており、他方は日本・・・<就中>参謀本部・・・の後ろ盾によって、ひそかに東シベリアから蒙古にかけてジンギスカン王国の再興を夢みていた<ところの>両者・・・<の>勢力の対立・・・<に>まず直面した・・・。」(120〜121)

→日本は、ボルシェヴィキ政権であろうと反ボルシェヴィキ政権であろうと、統一ロシアの専制的性格は変わらないとの判断の下、シベリアに日本の息のかかった緩衝国家を樹立することで、日本の対露安全保障を遺漏なからしめようと考えていたわけですが、原新政権は、翻意し大化けして大政治家となった原首相や既に大政治家の片鱗を現していた田中義一陸相(後に首相)のリーダーシップの下、この前政権の方針を改め、英国に同調して、次善の策たる反ボルシェヴィキ統一ロシア政権樹立に向けて舵を切ったということです。(太田)

 「<そこで。原内閣は、>田中陸相<を通じて、>セミョーノフの行動を抑制するとともに、政府の<ボリシェヴィズムとの対抗/対ソ干渉戦争という>新政策に抵抗する現地陸軍の動きを封殺せん<とした。>・・・
 <1920年>5月16日の閣議決定によって、前年の11月以来、ボリシェヴィズムとの対抗の路線を重視し、統一された反革命政権のシベリアにおける出現を望みはじめた原内閣のシベリア政策は、その転換運動を一応完了する。・・・
 <ところが、米国にはもちろん、英国にさえ、>原内閣によって・・・新しいシベリア政策<が>・・・進められようとしたことについて・・・<ついに十分>理解<されることはなかった。>・・・
 <とまれ、>コルチャク政権の<列国による>共同承認について、日本政府はイニシァティブをとることを決定した。・・・
 この<日本政府の提案>が、<ヴェルサイユ会議参加中のパリの>米英仏伊の四大国首脳から構成される四人会議 Council of Four でとり上げられたのは5月23日である・・・。」(124〜125、136〜137)

→しかし、原内閣の新方針は、そのようなものとして、十分米英等には認識してもらえなかったわけですが、これもやはり、日本の外務省の怠慢のせいであるということになるのではないでしょうか。
 それはともかく、コルチャック政権承認提案を行った原は、形の上では、全球的な大政治家としてのイニシアティブを発揮したことになります。(太田)

 「イギリス軍部のコルチャク政権にかけた期待は大きかった。イギリス外務省も、コルチャク政権支持には当初から熱意をもっていた。たとえば、1919年・・・4月には、・・・オムスク駐在の高等弁務官エリオット Sir Charles Eliot は、・・・コルチャク政権承認の勧告を政府に行っ・・・た・・・。
 <しかし、>ロイド・ジョージ首相は、チャーチルらと対ボリシェヴィキ方策を異にしており、革命、反革命両派代表の話し合いによるロシア問題解決策の発見・・・<を追求し続けた。>」(139)
 「<また、米>国務省から<コルチャク政権>承認勧告をうけたウィルスン大統領<も>、・・・革命、反革命両派の話し合い・・・による、民主的政府樹立<という>ヴィジョン<を>描いていたと見ることができて、この点からボリシェヴィキ政府にしても、コルチャク政権にしても、いずれもその独裁的性格のゆえに、全露政府についての彼の理想と背馳するものとみ<てい>たのである。・・・
 <それでも、パリの>ウィルスンは、・・・国務省の方針に、・・・コルチャク政権側の≪民主化≫の保障<が得られれば>・・・同意の態度をとった・・・。」(140〜141)

→しかし、遺憾ながら、原に匹敵するような見識を持った最高首脳を、当時の英国も米国も擁しておらず、荏苒時間を空費してしまうのです。(太田)

 「<しかし、>コルチャク軍が驚異的速度で西方に進撃しているとの報から、北ロシアの反革命軍との連絡、またモスコー攻略すら近いとする観測<が>、5月の四人会議で受け入れられていた<ところ、>・・・5月に入ると、ウラル戦線の実況は、連合国指導者の描く影像とは余程様相を異にしていた。すでに局面は転換をはじめ、戦線の主導権を奪還したボリシェヴィキ軍は守勢から攻勢に移っていたのである。・・・ヴェルサイフ会議の指導者たち<は>・・・6月に入って・・・事態についての・・・虚像を修正しはじめる<のである>・・・。」(143)

→そんな折、コルチャック政権は窮状に陥ってしまい、赤露の脅威を蕾の内に切除するという千載一遇の機会を自由民主主義陣営は逸してしまうのです。(太田)

(続く)

太田述正コラム#4647(2011.3.26)
<ロシア革命と日本(その8)>(2011.6.16公開)

 (いきつもどりつする、細谷のこの本の構成から、以下、時計の針が過去に巻き戻されます。部分的に今まで紹介してきた部分との重複も生じますが、あしからず。)

 「<1918年>8月中旬、日本軍を主力とする連合国部隊<が>・・・ウラディヴォストークに上陸を開始する・・・<前の>8月上旬、・・・イギリス政府は・・・アメリカ政府に、チェコ軍の救出に失敗した場合の「破滅的結果」に注意を喚起して、「日本軍のプランと兵力数についての協定に変更を加える」よう申入れを行ったのである。
 この申入れは、アメリカ政府のにべない拒否にあうが、しかし、日本政府に対する同様な申入れは、・・・日本の・・・大軍<の>極東ロシア全域<への>展開<をもたらした。>・・・
 <ただし、実際には、>チェコ軍は、訓練、装備、いずれの面でも、ボリシェヴィキ軍に対して圧倒的に優勢であり、そこには伝えられる「殲滅の危険」などは存在していなかった。もっとも8月末からは・・・形勢<が怪しくなってきた。これ>は主として、チェコ軍の一般兵士が、当初の行動目標であるヨーロッパへの帰還を求めて、ロシア内戦への介入の意欲をとみに減退させたことに起因したものであり、したがって、シベリア鉄道の輸送障碍も除去されたことでもあり、最初の方針にしたがって東方への移動を再開、ウラル地域を離脱すれば、殲滅の危険はたちどころに消散するはずのものであった。
 しかし、チェコ軍の東方への撤退は、いうまでもなく、チェコ軍の武力を支柱にして存立している反革命政権にとってはその崩壊を意味する。・・・「チェコ軍の危機」の実体とは、これら反革命派の危機に他ならなかったのである。・・・
 英仏政府にとっては、「チェコ軍の危機」とは、実は日米の政治指導者に訴えて両国軍隊の西部シベリアへの派兵を実現し、本格的な反ソ武力干渉軍を組織するための説得の論理であり、また世界の世論に対して武力干渉を正当化するための口実に他ならなかったわけである。」(87〜89)

→前にも述べたように、この時点では、英国は、第一義的には対独戦を完遂するために米国と日本をシベリア出兵させようとしたわけであり、ボルシェヴィキの撃滅は第二義的な目的であったところ、第一次世界大戦終了後、第二義的な目的が全面に出る形で、対ソ干渉政争を続行しようとするわけです。
 フランスについては、後述します。(太田)

 「寺内内閣のシベリア出兵政策の推進力であった参謀本部は、・・・極東ロシアに緩衝地帯を形成して、国防の安全を確保<す>・・・ることを、その出兵目標としていた。したがって、・・・参謀本部は、バイカル以西に派兵地域を拡大<することには>・・・反対の態度をとっていた。・・・
 <新首相となった>原<敬もそうであった。>
 ウィルスンも<また、そうであった。そのウィルスンは、上記の日本のシベリア出兵の真の目的にも反対であったが、>この時期に・・・抗議通告を日本側に行わな<ず、11月までこれを延期するが、>その・・・根本的な理由は、・・・「日本ではじめて出現した民主主義的政党内閣」と高く評価した、原内閣に対して・・・期待した<から>であろう。シベリア出兵政策をめぐって、日本内部で二つの勢力、文官派対軍部、あるいは自由主義勢力対藩閥勢力が対立しているとのイメージをもつ、アメリカ政府にとっては、文官派、もしくは自由主義勢力が政治的優位にたつことは、日本のシベリア政策が日米提携の線に近づくことを意味するものと見られ<たのである。>」(90、92、94、96〜97)

→この、日本の指導層が自由主義/親英米派と軍国主義/反英米派からなっているという誤った見方を米国は第二次世界大戦に至るまで抱き続けることになります。やがて英国の指導層の多くもこの見方を抱くに至るわけです。
 これが「誤った見方」であるのは、私が累次申し上げているように、戦前期の日本には、(自由民主主義/反露なる)横井小楠コンセンサスが成立しており、指導層内では、このコンセンサス遂行の方法論をめぐっての議論、対立があっただけだからです。
 ただし、指導層の中には、このコンセンサスの理解が不十分な向きもなきにしもあらずであり、そのような者は、外務省キャリアに特に多かったということも、かねてより指摘してきているところです。
 首相になる前の(外務次官あがりの)原敬もまたそうであった、ということが、この後を読めば分かります。(太田)

 「<しかし、予想を裏切られた米国政府は、結局、11月16日、抗議通告を行う。その時、>原首相と参謀本部との中間に介在して、・・・参謀本部側を譲歩に導く役割りを担当したのは田中<義一>陸相であったろう。
 <こうして、>原内閣におけるシベリアからの兵力削減政策<が>決定<された。>・・・
 ここで強調されねばならないのは国家財政上の要請である。すでに対独参戦以来、予算規模にしめる軍事費の割合は増加し、大正7年度には43.2%の多きに達していたが、シベリア出兵の実行によって、その割合いは一層増加、原内閣によって議会に提案される新年度予算案では50%を超え、公債を発行する事態が予想されるにいたっていた。」(102〜103)

→この時点では、日本は東アジアにおいて、単独でボルシェヴィキ(赤露)に対抗する国力はなかったということです。
 日本は、その後、対抗することができるようになったのですが、今度は米国に文字通り背後から足をすくわれることになります。(太田)

 「<ところで、極東ロシアに緩衝地帯を形成する日本政府の方針であるが、>参謀本部は、<1918年>8月末、・・・セミョーノフ<(注9)>、ガモフ、カルムィコフを、それぞれザバイカル州、アムール州、沿海州における軍事力の指導者として、コサック軍隊約6万を組織し、この軍事力を支柱に、極東ロシアで反ボリシェヴィキ勢力の権力統合をはかる方針を明確にしていた。とくにセミョーノフの率いるコサック軍隊には、参謀本部の大きな期待が寄せられていたのである。」(105〜106)

 (注9)グリゴリー・ミハイロヴィチ・セミョーノフ。1890〜1946年。「東シベリアのザバイカル州クランツカでコサックの父とブリヤート人の母の間に生まれた。・・・ロシア革命当時ザバイカル・コサックの統領(アタマン)<とな>り、極東三州の独占的利権を確立しようとする日本軍参謀本部によって、反革命勢力の軍事指揮官に擁立された。・・・赤軍に押されてオムスク政府が崩壊する際、500トンとも言われる帝政ロシア中央銀行の金塊の一部を入手して日本の朝鮮銀行に輸送した。・・・1921年にウラジオストクを脱出した後上海、アメリカ、日本を転々とする。1945年8月、大連にいたセミョーノフは赤軍に捕縛され、1946年8月モスクワで国家財産略取のかどで絞首刑を執行された。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%82%B4%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%BB%E3%83%9F%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%83%8E%E3%83%95

 「原首相は在野時代、<この寺内内閣の方針>について極めて批判的であ<った。それどころか、>同じころ原<は、>・・・決して社会主義を容認するものでなく、否「民主主義の勃興」すらこれを恐れていたが・・・内田(康哉)<駐露>大使らの情報にもとづいて・・・山県、寺内に・・・「レニン政府も必ずしも敵視すべきものに非ず」、あるいは「過激派は全露に勢力を有し居るは事実にて之に対抗すべき穏和派は無勢力なれば日本の政策としては過激派の反感を醸すは不得策なり」と・・・語っていた・・・。」(107)

→原が、典型的な外務省キャリアとして、「民主主義の勃興」、すなわち世論の力が大きくなることを嫌っており、かつまた、赤露認識においてもまことに不適切であったことが分かるくだりです。(太田)

 「<その原敬が首相になると、寺内内閣の方針を所与のものとした上で、しばらくすると、極東ロシアに緩衝地帯を形成することを通り越して、英仏ばりの反ソ武力干渉>政策の方向<に舵を切ろうとすることになる。>」(109)

→その原が、首相になると君子豹変するわけです。(太田)

(続く)

太田述正コラム#4645(2011.3.25)
<ロシア革命と日本(その7)>(2011.6.15公開)

 「<ところが、1919年>8月末、アメリカ政府が正式に決定した処置は、強硬な言葉で抗議の意思表示を日本側に伝達し、その中で共同出兵からの離脱と、離脱声明の可能性を示唆することであった・・・。
 9月5日、日本政府はアメリカの抗議ノートを受けとるが、それは政府にとって前年以上に大きな衝撃であったと考えられる。というのは、5月を転機にウラルの内戦の様相は一変して、コルチャク軍は敗退に転じ、8月に入るともはやコルチャク政権の崩壊と、バイカル以西のボリシェヴィキ化は必至の形勢となり、したがって政府指導者にとっては、日米の軍事提携のいっそうの緊密さが、要望されるにいたってきたからである。しかも・・・田中陸相は8月13日、外交調査会委員に覚書きを送って、「世界的大変乱に伴ふ国民思想の動揺は未た楽観すへからさるものあり況んや朝鮮に於ては帝国は既に諸派[ボリシェヴィキ派…筆者]の侵襲を受けたるを自覚し今に於て大に之に処するの途を講せさるへからさるなり」とのべ、シベリア派遣軍増強の必要を訴えたが、この年の早春、約200万の朝鮮人民を、日本帝国主義との闘争にかり立てた朝鮮民族解放運動(3・1事件<(注6)>)のはげしさは、日本政府を震撼させたものであり、したがってこの上に影を落したボリシェヴィズムの脅威に対抗して、予防策の必要を痛感していたのは、何も田中陸相ひとりではなかったろう。
 コルチャク軍総崩れの報に、参謀本部では、日本軍を約10倍に増強して、ボリシェヴィキ軍の進出をバイカル湖の線で実力で阻止し、極東3州から満蒙、朝鮮方面へのボリシェヴィズムの浸潤を防遏するという方針をたてて、政府の承認を求めるが、このような大規模出兵はもとより脆弱な日本の財政力が許すはずがない。・・・
 モリス<駐日米>大使は、国務省への報告の中で、・・・
 「日本政府は、アメリカが道義的責任と負担を分担しないかぎり、前進する赤軍との武力衝突の危険をおかし、いわば、アジアの反ボリシェヴィズム戦争ともみられるものに深入りすることを欲していない。…日本政府は、ボリシェヴィズムの東方への波及と、アジアの不穏な大衆に対するボリシェヴィキの宣伝の結果を怖れて、殆んど心理的恐慌状態に陥っている。しかし、政府はバイカル東方に安全地域をつくるに必要な社会的・財政的負担を単独で背負う意向をもってない」
としるしたとき、それはまさに事態について正鵠をえた観測を下していたといえよう。」(71〜73)

 (注6)「第一次世界大戦末期の1918年・・・1月、米国大統領ウッドロウ・ウィルソンにより"十四か条の平和原則"が発表されている。これを受け、民族自決の意識が高まった・・・留日朝鮮人学生たちが・・・「独立宣言書」を採択した(二・八宣言)ことが伏線となったとされる。これに呼応した朝鮮半島のキリスト教、仏教、天道教<(東学)>の指導者たち33名が、3月3日に予定された大韓帝国初代皇帝高宗の葬儀に合わせ行動計画を定めたとされる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E3%83%BB%E4%B8%80%E9%81%8B%E5%8B%95

→3・1事件の上にボルシェヴィズムが影を落とした、との説はないので、ここは細谷の筆が滑ったのでしょう。
 田中義一は、1921年の中国共産党の結成や1925年の朝鮮共産党の結成
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%85%B1%E7%94%A3%E5%85%9A
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E5%85%B1%E7%94%A3%E5%85%9A
を予見した、ということだと思います。
 第二次世界大戦後、「≪米国≫政府は、ボリシェヴィズムの≪世界≫への波及と、≪世界≫の不穏な大衆に対するボリシェヴィキの宣伝の結果を怖れて、殆んど心理的恐慌状態に陥って・・・≪世界において≫安全地域をつくるに必要な社会的・財政的負担を単独で背負う意向をもっ」たことを我々は知っています。
 米国がその四半世紀前に、日本や英国と協力してボリシェヴィズム、すなわち赤露を撃滅ないし封じ込めることを怠った結果、数千万人の人々が不慮の死を遂げることになったわけです。(太田)

 「<そこへ、>11月半ば<に>オムスク<(注7)が>陥落<し、>コルチャク政権瓦壊<は>挽回し難い形勢<とな>った。加えて、英仏両国もすでに8月、シベリアからの撤兵方針を決定していたが、12月中旬には両国首相会談でシベリアの経済援助の中止についても意見一致を見ていた<(注8)>。・・・
 1920年1月5日、アメリカ政府は、撤兵政策の実施を最終的に決定した。しかも、・・・9日<の>・・・国務省からの正式の通告に先だって、グレイブスは1月8日、日本派遣軍当局に撤兵通告を行ない、その実行に着手したのであり、それは、国務省、参謀本部、派遣軍三者間のコミュニケイションの欠陥にもとづく手落ちであったものの、日本側がこれによって対米不信感を募らせたのは当然であった。モリスは、ワシントンに報告した。「日本の誇りに対してのみならず、日本における全ての自由主義者、親米勢力に対する脳天からの一撃であり、甚大な影響力をもつことをおそれている」と。・・・
 ボリシェヴィキ軍との武力衝突の危険な情勢が出現したとき、たちまちにして共同出兵は断絶に立ち至ったのである。
 シベリア出兵で、その断層を露出した、日米関係の<こ>のような構造は、その後太平洋戦争にいたるまで根本的変化を見るにいたらなかったといえるであろう。」(75〜77、83)

 (注7)「ロシア・・・中南部の都市。・・・1716年に建設され、・・・シベリア開拓の拠点として知られ、ながらく西シベリア総督が本拠を置く西シベリアの中心都市でもあった。・・・革命戦争の折には、一時、コルチャーク提督率いる白衛軍の首都ともなった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%A0%E3%82%B9%E3%82%AF
 (注8)英国が、撤退させる方針を1919年12月に決めたのは、西シベリアのオムスクでコルチャク政権を支援していた英軍であり、英国はロシア干渉戦争からこの時点で全面的に手を引く決定をしたわけではない。カスピ海地域で英軍は戦いを続けたのであって、英国が同地域から英軍を撤兵させる決定を下したのは1920年1月21日であり、撤兵が完了したのは4月5日だ。
http://en.wikipedia.org/wiki/Allied_intervention_in_the_Russian_Civil_War

→調べなければならないが、英国がロシア干渉戦争から全面的に手を引く決心をしたのは、1920年1月に米国がシベリアから撤兵し、ハシゴを外されたと感じたからではないでしょうか。(太田)

(続く)

太田述正コラム#4643(2011.3.24)
<ロシア革命と日本(その6)>(2011.6.14公開)

 「とくに対日不信感を強めたのはアメリカ陸軍である。・・・
 シベリアへの連合国の共同出兵は、この地で専制政治の復活を助け、また日本の勢力拡大目的に利用されているのではないか、これは、アメリカ派遣軍司令官グレイブス・・・Wkilliams S. Graves・・・が、アメリカ軍の駐兵に対しもっていた根本的疑念であった。・・・
 彼の目には、「ボリシェヴィキとは、ロシアで、専制政治の代表が権力の座に復活することに、言行いずれの面でも力をかさないひとびとをさす」ものと映っていた・・・。彼はまた、極東ロシアでの<ボリシェヴィキの>パルチザン活動は、その目標を主として、・・・「野獣のように徘徊して、人民を殺害、掠奪のかぎりをつくしている・・・コサック勢力(およびその背後の日本軍)の駆逐に向けているものと見ており、したがって彼らが鉄道運行に阻害をあたえないかぎり、これに武力を行使することを拒否する態度をとっていたのである。・・・
 日本への強硬措置の必要を説いたのは、陸軍のみではなかった、戦時通商局長官マコーミック Vance C. McCormick は、<第一次世界大戦終結目前の>11月8日、ランシング国務長官に意見をしるした。
 「・・・生糸の輸入を制限し、綿花と鉄鋼の輸出を制限することで、日本は経済的崩壊に直面するでしょう。ドイツにおける軍国主義勢力の消滅によって、今や日本の同様な軍国主義グループが指導している対露行動の黙認をやめるべき、またそれが可能な次期が到来したと思われます…」<と。>・・・
 <一方、アメリカ>国務省内部には、元来ボリシェヴィキ政権に対する強烈な敵意をもって、反革命勢力の援助、育成につとめていた、ロシア部長マイルズ Basil Miles を中心とする、いわば≪干渉派≫がいたと見られるが、彼らは、英仏の干渉勢力同様チェコ軍を利用する干渉政策推進を考えており、やがて西シベリアで、反革命派の全露臨時政府が樹立されると、その経済的援助に乗り出していたのである。したがって、この≪干渉派≫の目的にとって、極東ロシアでの日米共同出兵は、経済援助の補給ルート確保の面からも、あるいは反革命派への精神的鼓舞の面からも有用視されねばならなかった。」(62〜64、66)

→(第二次世界大戦の時と同様、ドイツ打倒を目ざして頭に血が上っていて、シベリア出兵もそのための手段と考える向きが多かった)英国などよりも、はるかに日本と同じ問題意識でもってシベリア出兵の必要性を認識していたグループが米国政府部内に存在した、ということです。
 しかし、派遣軍司令官の意向に影響されたと思われる米陸軍等、全く愚昧な情勢認識を抱いていたグループもまた米国政府部内には存在したわけです。
 問題は、彼らがすべて、人種主義的帝国主義に染まっていて、日本に対して侮蔑的敵意を抱いていたと考えられることです。(太田)

 「<11月11日に第一次世界大戦は終わった
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6 
が、結局、ウィルスンは米陸軍等の主張に軍配をあげたということなのであろう、>11月16日、ランシング国務長官は石井大使に抗議ノートを手交した。それは、シベリアにおける「日本軍の兵力数の過大」、「北満州およびザバイカル東部で日本の行なっている独占的管理」<等>を非難<する>・・・ものであった。・・・
 ・・・<これを受け、>原首相<率いる日本>・・・政府は、・・・12月19日・・・派遣軍総数を約2万4千名に引下げたのである。第二は、東支鉄道管理問題について、・・・原則的に国際管理方式を承認し・・・たのである(2月10日)。第三はコサック問題。<日本>政府は、アメリカの忌避するコサックのセミョーノフの自恣の活動に抑制を加えるよう、派遣軍に命令したのである。・・・
 かくて、日本政府の譲歩措置・・・は、・・・<日米>共同出兵の継続を支えたのであった。」(64〜66)

→人種主義的帝国主義者たるウィルソンやハウス大佐は、結局、陸軍等の主張に軍配をあげた、ということです。(太田)

 「<ところが、>19年に入<り、>・・・3月4日、有力なパルチザン部隊に遭遇して苦戦に陥っている日本軍の救援が乞われたにもかかわらず、これをアメリカ側が拒否し、つづいて3月20日、スーチャン炭坑でのボリシェヴィキ派労働者の武力蜂起に対し、アメリカ軍は鎮圧に乗り出さないばかりか、むしろ好意的態度をとったと見られたことは、日本派遣軍内部に憤激の嵐をひきおこすものであり、両軍の反目は激化していた。・・・
 アメリカ派遣軍への不満<により、>、・・・西シベリアのオムスクで、18年秋成立したコルチャク<(注5)>独裁政権側も・・・アメリカ政府に抗議の申入れを行なっていた。また、・・・シベリア出兵の大規模な反ソ軍事行動への発展をひそかに期待し、またコルチャク政権の強化に力を入れていたイギリス政府の失望もひきおこ<し、>・・・連合軍の共同軍事行動を要望する申入れが、イギリス側からアメリカ政府になされ<た>・・・。・・・
 グレイブスの・・・態度は、アメリカ政府内部、とくに国務省の≪干渉派≫からも歯がゆいものと批判されねばならなかった。すでに<アメリカ政府は>コルチャク政権への物的援助を実施して、その政権の支持に乗り出してい<たからである。>」(67〜68)

 (注5)Aleksandr Vasiliyevich Kolchak。1874〜1920年(銃殺)。英国の慫慂もあり、曲折を経てロシア内戦における白軍のうちの多くの総帥となる。自らの手で海軍大将に昇任。チェコ兵団と最初連係しつつも後に同兵団は離間し、シベリアを緩衝地帯にしたかった日本軍も、コルチャックを専制的と見た米軍も、コルチャックに積極的支援を与えなかった。
http://en.wikipedia.org/wiki/Aleksandr_Kolchak

→ドイツが打倒され、大戦が終わったわけですが、にもかかわらず、ようやく、英国は、そのロシアに対する生来的敵意が、ボルシェヴィキへの警戒感と相俟って、かつてよりも更に募った形で蘇ったのでしょう、改めて、英国は、米英日による対露、改め対赤露包囲網を形成しようと米国に働きかけたわけです。(太田)

(続く)

太田述正コラム#4640(2011.3.23)
<ロシア革命と日本(その5)>(2011.6.13公開)

 「1918年8月初め、日米両国政府は極東ロシアへの共同派兵について宣言を発表した。・・・
 一ヶ月前の7月8日、石井(菊次郎)駐米大使を招致したランシング R. Lansing 国務長官は、「ウラディヴォストークのチェコ軍<(注4)>に救助の手をさしのべ、これを西部シベリアの友軍と連絡させる」目的で、彼らに武器・弾薬を供給するのみならず、「その交通線を守備するため、それぞれ約7千名のアメリカ軍と日本軍とから成る軍隊をウラディヴォストークに集結する」ことを内容とする、いわば目的と兵力数、地域を制限した≪限定出兵≫の提議を日本政府に行なったのである。
 <この>方針は、7月6日の最高会議で決定されたものであった。・・・
 チェコ軍は5月末、ボリシェヴィキ軍とシベリア鉄道沿線地域で武力衝突を開始していたが、彼らは軍事的に圧倒的優勢であり、反革命政権を各地で擁立していたにもかかわらず、西シベリアからは、チェコ軍の殲滅の危機についての歪曲、誇張された報道が連合各国に伝えられ、誤ったイメージを創り出して、チェコ軍救援熱を煽っており、もももとチェコ民族に同情の念が強いウィルスンの判断に大きな影響力をもったと見られている。
 元来、ウラル方面で「東部戦線」の形成を熱望していた英仏政府にとって、チェコ軍とボリシェヴィキ勢力との武力衝突は、所期の目的実現のために好個の事態と見られたのであり、したがってこれを機に両国政府は「チェコ軍救援」の効果的なアピールを用いて、日米両国政府にそのシベリア出兵を強く迫・・・っていたのである。・・・
 アメリカ提案を機に≪自主出兵≫の実現をもくろむ陸軍とこれを支持する政府の方針は、外交調査会において、原敬、牧野伸顕らの、アメリカとの協調を重視して、≪限定出兵≫方式に同意すべしとする主張の抵抗をうける。外交調査会の論議を考慮した政府は、結局、最終回答でアメリカ提案に「欣然応諾」する。しかし、回答は同時に「チェコ軍支援のためウラディヴォストーク以外に出動し、かつ形勢の発展に伴い増援するの必要あるべきを予想する」との字句を入れたものであり、それは自主的行動の含みを残すものであった。回答の本質は、むしろあくまでも≪自主出兵≫の基本的立場に立ちながら、同意の形式をとりつくろったものといえよう。」(59〜61)

 (注4)チェコ兵団(Czechoslovak Legions)については、コラム#3770参照。なお、詳細は下掲。
http://en.wikipedia.org/wiki/Czechoslovak_Legions

→細谷は、「かねて軍事的手段で日本の支配力を東北アジアで確立することを望んでいた、陸軍を中心とする膨張主義勢力」(60)と記していますが、その直接的な典拠は示されていません。
 細谷自身が引用するところの、「たとえば7月下旬、上原(勇作)参謀総長から大井(成元)第12師団長あての指示にもしめされてい<るところの、>「チ軍の救援を主目的とすることは従来主張せる国防上の目的よりする軍事行動と合致せさる点あり…出兵の動機殊に対外関係上政府の意見を容れ暫くチ軍救援の理由として記述す」」(61)を素直に受け止めれば、帝国陸軍・・日本政府と言ってもいいでしょう・・の出兵は、かねてより日本の第一の仮想敵国であったロシア、そして日露戦争の結果その意図と能力において敵性が減じていたところのロシア、の全土にボルシェヴィキ権力が樹立されることは、ロシアの日本にとっての敵性を顕著に増大させる恐れがあることから、これを防止するための、ボルシェヴィキ政権の打倒、さもなくば、最低限非ボルシェヴィキ緩衝国家のシベリアにおける樹立(下掲及びコラム#3770)を実現する、という国防(安全保障)目的のものであったのであり、それを膨張主義と形容することは不適切である、と思います。(太田)

 「かくて、見せかけの≪合意≫の本質はただちに露呈されねばならない。すでに自主的派兵の準備を進めていた日本陸軍は、共同出兵が開始されて1月もたたない8月下旬、「チェコ軍殲滅の危機」を理由に、兵力増加とザバイカル州方面への派兵の実行に移り、9月上旬にイルクーツク付近で、東西のチェコ軍が合流し、「チェコ軍殲滅の危機の情勢」は完全に解消したにもかかわらず、ひきつづき増援部隊を極東ロシア3州に送りこんでいたのである。やがて北満から極東ロシアにかけて展開した日本軍の総数は7万2千名に達する。そして、この厖大な兵力を背景に、日本陸軍は、極東ロシアで自治政府樹立工作を進め、北満ではこれを日本の特殊地域として排他的支配権を獲得する目標のもとに、アメリカ軍の進駐を拒否し、また東支鉄道の管理については、アメリカ技師団の干与を排除して、日本の独占的支配のもとにおく方針が進められたのである。」(62)

→日本の強い決意がうかがえます。9月末(29日)には原敬が首相に就任します
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E6%95%AC
が、彼は前内閣の出兵方針を踏襲し、それを一層強力に推進して行くのです。
 原は、「8月に・・・全国的規模で、米騒動が発生、つづいて労働争議も頻発しており、・・・これら運動の上にロシア革命の影響を見た・・・<ことから、>ボリシェヴィズムとの対抗」(65)の必要性に目覚めたに相違ありません。
 情勢の変化に応じて自分の考えを柔軟に変えていくことができたことは、原の政治家としての器の大きさを示すものです。(太田)

(続く)

太田述正コラム#4637(2011.3.22)
<ロシア革命と日本(その4)>(2011.6.12公開)

 「<英国>政府の訓電をうけて2月27日、レディング Marques of Reading <英>大使は<米大統領の>ウィルスンを訪ね、<以下の文書>を手交し・・・た。それはロシアの最近の事態は「極めて緊急」であり、「第一に、ウラディヴォストークに集積されている軍需物資を保護し、…第二に、バイカル湖以西の莫大な農産物を敵に利用されるのを防止する上からも」、「即刻日本軍をしてシベリア鉄道の占領を少くともオムスクの地点まで行なうよう要請すべきであり、同時にロシア国民を安心させる内容の宣言をすべきである」としたものであった。さらに、日本軍をアムール鉄道とシベリア鉄道の交差点以西にまで進めるために、連合国の「受託者」として単独に行動させるべきであり、財政的援助をあたえることすら考慮すべきであるとした。・・・
 フランス側はすでにピション S. Pichonn 外相が松井駐仏大使に<英国の意向>に同意の意向をしめし、シベリア鉄道管理については、
 「米国の軍隊が協力するというようなことは不必要なばかりでなく、その軍隊が多大の貢献をなすことは不可能であり、日本が単独で引きうけるべきである」
とのべていたが、2月27日、ジュセラン J. Jusserand 駐米フランス大使は<米国務長官の>ランシングに、
 「本野<外相>は駐日フランス大使との会見で、日本に領土的野心のないことを公に声明することを承諾し、軍事行動をウラル山脈まで延長することを約束する用意のあることを明言した」
と伝え、イギリスと共同戦線を張って、日本を「受託者」としてシベリア軍事干渉を実現せしめるよう、アメリカの政策変更を強く迫っ・・・た。・・・
 連合国最高戦時会議のアメリカ軍事代表ブリス Tasker H. Bliss 参謀総長からも出兵支持の意見がワシントンに伝えられていた。・・・<彼は、>
 一、ウラディヴォストークからハルビン・・・までのシベリア鉄道占領は、軍事的利点が大きく、それは予想される政治的マイナスを凌駕する。
 二、日本から適当な保証をえることで、日本軍による同鉄道の占領を勧告する。それに連合国共同委員会が附随することが望ましい。
 三、シベリア鉄道の右の範囲をこえた占領は、情勢の発展に応じて連合国政府の決めるところとする。
<と主張した。>・・・
 <その結果、>ランシングの心理は動揺し、日本の出兵容認の方向に傾斜していった。・・・
 3月1日、・・・ウィルスンは・・・一つの覚書をしたため・・・た。
 <それは、>日本を「受託者」として、シベリアで出兵行動をとらしめるという英仏の政策に反対しないとのべ、従来の態度を撤回した<ものだった。>
 <しかし、これは、>アメリカ政府内部に<おいて、>・・・ハウス<等の>・・・強硬な反論をひきおこした。・・・3月5日、新しい覚書が<ウィルスン>のもとで書かれ・・・た。・・・
 かくて・・・アメリカの政策は、もとの地点へと戻ったのであった。」(30〜32、35)

 「<そんなところへ、>4月4日午前、ウラディヴォストーク市内の石戸商会を襲った賊<が>、日本人3名を殺傷して逃亡した。加藤司令官は、<日本や与国の居留民の声明財産に危害が及んだ場合にのみ自衛上必要な措置をとれ、とのかねてからの日本政府からの指示を踏まえ、>本国政府の訓令を俟たずして陸戦隊上陸を決意した。翌5日未明、・・総数533名を揚陸させ、市内の警備につかしめた。イギリス軍艦サフォークからも50名の陸戦隊がこれにつづき、イギリス領事館の警備についた。
 <米国の意向を気にする日本政府内で、そんな情勢になったというのに、なお陸軍出兵論が受け入れられなかった本野外相は、>4月23日、外相の職を退く。・・・
 このような状況の中で、・・・ウラディヴォストークでのボリシェヴィキの権力が確立し<てしまう>・・・。・・・
 丁度この時点、同市には新しい様相が生まれつつあった。すなわち欧露からヨーロッパの西部戦線へと移動途上<であった>チェコスロバーク軍団が続々と<ウラディヴォストークに>姿を現わしはじめていた<のだ>。・・・日本では・・・後藤新平内相が新しく外相に就任した。かくてシベリア出兵問題は新しい段階へと移行してゆく。」(43〜45、47)

→英日仏政府、及び米軍部の強い要請にもかかわらず、ウィルソン米大統領は、日本のシベリア出兵に反対し続けたため、ロシア極東にもボルシェヴィキの権力が確立してしまったわけです。
 ウィルソンやハウスの人種主義に基づく日本不信、日本蔑視がどれほど強かったかが想像できます。(太田)

(続く)

太田述正コラム#4633(2011.3.20)
<ロシア革命と日本(その3)>(2011.6.10公開)

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<挿話>

 「<1918年の初め、英国は、ボルシェヴィキ革命後のロシアがドイツと講和すること妨げるため、30台のスコットランド人、ロバート・ブルース・ロックハート(Robert Bruce Lockhart)<(注2)>を英国代表としてモスクワに送り込んだが、結局ボルシェヴィキ政府は3月、ドイツとブレスト・リトフスク条約を結んで戦争から脱落してしまう。
 そこで、ロックハートは、今度は、ボルシェヴィキ政府を打倒してドイツとの戦争を再開してくれる政府を樹立しようとした。>
 <1918年の>5月末、英国は小規模の部隊を北部ロシアのアルハンゲリスク(Archangel)に派遣することにした。
 公式には、その目的はロシアに提供された何千トンもの英軍装備がドイツの手に落ちることを防ぐためだった。・・・
 しかし、当時の史料は、その後、クレムリンを防護している20,000人の優秀な(crack)ラトヴィア人部隊に5,000人の英軍部隊が加わってヴォルシェヴィキに反旗を翻させることができる、という想定の計画が立案されたことを示唆している。・・・
 1918年の夏の終わりには、モスクワでレーニンを暗殺する試みが行われた。
 彼は、至近距離から一人の若いロシア人女性によって二度撃たれたのだ。
 <レーニンは重傷を負ったが死ななかった。>
 ボルシェヴィキの秘密警察であるチェカ(Cheka)は、ブルース・ロックハートをその数時間後に逮捕し、クレムリン内に連れ込んで尋問した。
 <ロックハートが使っていた工作員の一人であった、ロシア人のシドニー・レイリー(Sidney Reilly)(注3)>は、この時チェカの手を逃れたが、数年後、ロシアにおびき出されて<尋問を受けた後、>射殺された。
 チェカの記録によれば、ロックハートはレーニンを殺しボルシェヴィキ政府を打倒せよとのロンドンが指示した企みの一部に係わっていたことを自白した。
 彼は、1918年10月初め、この英国のモスクワ代表は、ロンドンにおけるロシア代表との交換で解放された。・・・
 ・・・それから90年以上経ったが、英国政府は<当時の>秘密の多くを今だに開示していない。
 ・・・それはすべて、ロックハート流の企てをロンドンが奨励(countenance)したことなどいまだかつてない、という神話を維持せんがためだ<、と指摘するむきもある。>・・・」
http://www.bbc.co.uk/news/world-12785695
 (3月20日アクセス)

 (注2)1887〜1970年。ブルース一族やウォレス一族(コラム#4570)等のスコットランド貴族の血をひく。
 彼は、マラヤで親戚のゴム・プランテーション事業に従事した後、英外務省に入り、モスクワの副領事代理をしていた時にロシア革命が起こり、11月革命直前に本国に戻っていた。
 その彼を、英国の初代のヴォルシェヴィキ政府への代表として送り込んだのは、時の首相のロイド=ジョージと陸軍卿のミルナーだった。
 彼は、ヴォルシェヴィキ政府に対し、日本の陸軍をソ連領内に入れて東部戦線でドイツと戦わせることを認めるよう説得するよう命ぜられたが、それに失敗した。
http://en.wikipedia.org/wiki/R._H._Bruce_Lockhart
 (注3)1873/74〜1925年。ユダヤ系ロシア人。もともとの名前はGeorgi Rosenblum。日露戦争中、大連で英国及び日本の諜報員として活躍。彼と支那人協力者が盗み出した機雷敷設図が日本の海軍に渡され、そのおかげで大連港への奇襲が成功した。その後、ペルシャやドイツでも英国の諜報員として活躍。この間、兵器ビジネスにも手を出すとともに、多数の女性と浮き名を流した。イアン・フレミングが生み出したジェームズ・ボンドは、レイリーをモデルにしている。
http://en.wikipedia.org/wiki/Sidney_Reilly

→英国が、1918年当時、全力を挙げてボルシェヴィキ政府を打倒しようと決意しており、日本にシベリア出兵を慫慂したのは、そのためであったことを裏付ける史実ですね。
 蛇足ながら、「ロバート・ブルース」・ロックハートという名前、彼の父親の名前でもあります(ウィキペディア上掲)が、傑作ですね。(太田)
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(続く)

太田述正コラム#4630(2011.3.19)
<ロシア革命と日本(その2)>(2011.6.9公開)

 「2月4日、ウラディヴォストーク市内のヴェルサイユ・ホテルを白昼、武装兵40数名が襲撃して、外国人宿泊者から多額の金品を強奪したという事件・・・が発生した。・・・
 <これ>を見るや、翌2月5日、加藤司令官は中央に陸戦隊上陸を進言する。しかしその要請は海相によって却下される。・・・
 <他方、>ウラディヴォストークでは日本陸軍の謀略活動が1月下旬から開始されていた。・・・<しかし、この謀略活動を踏まえたところの、>中島・・・<参謀本部>第二部長<が意見具申した>謀略工作も、・・・陸軍中央部の承認するところとならなかった。」(24〜26)

→当時の陸海軍中央部は、どちらも米国の反応を心配して極めて慎重であったことが分かります。(太田)

 「<時あたかも、>イギリス<軍部>は<シベリア>干渉の早期実現を目ざし・・・日本の単独出兵を認める方向に方針変更を行なっていた。・・・この・・・イギリス軍部の構想・・・に必ずしも全面的に賛同でないバルフォア外相<(コラム#321、480、994、1465、1634、2303、2305、3630、4270、4279、4540)>は、・・・<米国のウィルスン大統領の側近の>ハウス<大佐>・・・宛に、イギリスの政策転換について了解をもとめる電報を打っていた。それはイギリスの<構想>の狙いは、日独を全面的な衝突に導くことで、日本の膨張を抑止することにあることをいい、また何れにしても日本による沿海州占領は不可避であると釈明していた。」(27〜28)

→本件に限らず、当時の英国は、世界覇権国たる自国にとって代わりつつあったところの、米国に対して腫れ物に触るような対応をし始めていたのでしょうね。(太田)

 「イギリスの<この構想>に対しては、日本の出兵はドイツの政治的に利用するところとなり、ロシア国民を反連合国の立場に結束させるであろうとの判断からランシング国務長官は反対であった。ウィルスンももとより反対であった。・・・
 この時期のアメリカ政府は、対ソ干渉に否定的態度をとっていたばかりか、ソヴィエト政府の承認問題すらその検討の俎上に乗せていたのであ<る。>・・・
 しかし・・・独ソ和平への過程が急速に進むに伴い、アメリカ政府の態度にも微妙な変化が生れてくる。独ソ間の新しい情勢の展開の影響は当然イギリス政府・・にも及ん<だ。>・・・
 珍田<駐英>大使はバルフォアと2月23日会見するが、<日本の出兵>に基本的に賛同の意を表する一方、二つの点<をつけ加えた。>・・・
 すなわち、日本軍の行動範囲については、
 「日本は、なお歩を進めてチェリアビンスク又は少くともオムスクまでその行動を延長することはできないであろうか」
と、バイカル湖以西への日本軍の作戦拡大により、南部ロシアの反革命派への補給線確保と、日本の国力減殺の狙いを秘めた提案を行ない、さらに単独出兵問題については、
 「事実上日本独力をもって行うのが当然の成行きであり、・・・日本の軍事行動に際し他の連合国側において名義的協同の程度なりとも各自少数の兵力を参加せしむることはいかがなものであろうか」
と、アメリカの思惑を顧慮した発言を行な<った。>」(28〜30)

→赤露の潜在的脅威に無頓着な米国が、対独戦の帰趨への憂慮からシベリア出兵への態度を変更した機会をとらえて、英国は積極的に日本の尻を叩くとともに、米国への対応で日本に智慧をつけ始めるわけです。(太田)

 「2月25日、英戦時閣議が開催される。・・・ミルナー Alfred Milner 陸相<(注1)は、>・・・日本軍に少数の連合国兵力を参加させることは大して意味がない、むしろ「肝腎のことは、日本人の心理に巣くっている、われわれの態度への疑惑をとり除くことである」と、単独出兵に何ら条件をつけないことで日本人の信頼感を回復すべきであると説いていた。この戦時閣議は結局二つの決定をする。第一は、イギリス政府は<自国が示唆したところの>チェリアビンスクまでの日本のシベリア出兵の構想を支持するとの方針で、アメリカ政府の同調を求めるよう駐米大使に訓電を発する点であり、第二は、ワシントンでとられる右の措置を日本政府に内報し、日本がそのような行動に出る用意があるかどうか、探りを入れることを裁量に任せるとの訓電を駐日大使に発するという点であった。」(30)

 (注1)Alfred Milner, 1st Viscount Milner。1854〜1925年。エジプトと南アで植民地行政に携わり、第二次ボーア戦争(1899〜1902年)(コラム#754、847、1045、3561、3698、4020)の戦争指導を現地で行った経歴を持つ。第一次世界大戦中、ロイド=ジョージによって陸相に招聘され、閣内でナンバーツーとして重きをなす。
http://en.wikipedia.org/wiki/Alfred_Milner,_1st_Viscount_Milner

→第一次世界大戦当時及びそれ以降の英国においては、親日度は、陸軍、外務省、海軍の順であったとかねてから指摘してきたところですが、このミルナー陸相の発言は、英陸軍を文字通り代表したものであったと考えられます。(太田)

(続く)

太田述正コラム#4627(2011.3.18)
<ロシア革命と日本(その1)>(2011.6.8公開)

1 始めに

 XXXXさん提供の、細谷千博『ロシア革命と日本(近代日本外交史叢書第4巻)』(原書房 1972年)のコピーから、XXXXさんが付箋をつけ、傍線を引いた箇所に基本的に限定してご紹介をし、私のコメントを付けようと思います。

2 ロシア革命と日本

 「<1917年>12月中旬から下旬にかけて、日本政府内部にはロシアの新事態<(11月革命=ボリシェヴィキ革命)>に積極的に対応すべしとする有力な見解が擡頭していた。本野外相を中心とする勢力であった・・・。
 ロシアの情況は漸次ドイツ勢力の左右するところとなっており、ウラディヴォストークの軍需品の保護の目的で、またはドイツによるシベリア鉄道支配を阻止する目的で、日本は軍事力行使の必要があるというのが、本野のシベリアまたはウラディヴォストークへの出兵論の根拠であった。」(10〜11)
 「いち早く行動計画の準備に着手したのは日本陸軍の参謀本部であ<り、>・・・沿海州に臨時編成の混成約1旅団(主力はウラディヴォストーク、一部はハバロフスクその他要地にに配置)を派遣して、居留民の保護と鉄道・電線の掩護にあたらしめ、また北満州にほぼ同一の兵力(主力はハルビン、一部はチチハルその他の要地に配置)を派遣して、同じ任務の遂行にあたらせるという方針を明らかにしていた。・・・
 <また、>シベリア鉄道沿線での情報蒐集活動の方針を決め、この活動に従事する将校を、ウラディヴォストークからイルクーツクにいたるシベリア鉄道沿線、その他の要衝に派遣しはじめる。当時参謀総長は上原勇作、次長は田中義一であったが、シベリア派遣計画の立案にあたって中心的役割を演じたのは田中次長であり、彼はまた陸軍内部のシベリア出兵政策の推進力であった。・・・
 参謀本部<の>・・・中島正武第二部長・・・はやがて翌年1月、自らシベリアから北満の情況を視察するとともに、日本と協力してボリシェヴィキ勢力に対抗し、極東ロシアで自治政権を樹立しうる能力と意思をもつ反革命勢力の物色と、その擁立の任務を帯びてシベリアに赴くこととなる。さらにシベリア出兵への世論の支持を獲得するため、ドイツ勢力の東漸の危険について警鐘を鳴らすといった工作も、ひそかに参謀本部の手で進められたのである。・・・
 <ところが、>本野の意見は外交調査会の容れるところとならなかった。メンバーの多数は出兵に懐疑的であり、中でも政友会総裁の原敬は、ドイツがシベリアを策源地として日本を攻撃する危険が増大したことで自衛上やむなく派兵するといった場合ならとも角、単に「ドイツの勢力がロシアに加わるとか、連合国より請求があったというだけで出兵し遂に大戦にいたるようなことは避けるべきである・・・」と強い反対論を展開していた。このような外交調査会の空気に加えて、未だアメリカの方針は明確でなく、首相寺内正毅は慎重な態度を持して動かなかった。」(14〜15)

→外務省(本野)より帝国陸軍(参謀本部)の方がはるかに的確な情勢判断をしており、しかも、後者は、かかる情勢判断に基づき、鋭意、現地の情報収集と(外務省の掲げるタテマエ論的な出兵論による)世論工作に乗り出したわけです。この時点で、既にいかに外務省が無能な状態に陥っていたかが分かろうというものです。
 外務省出身の原敬が、外務省のタテマエ論的出兵論を所与のものとして、慎重論を唱えたことは、上記私の主張を裏付けるものです。(太田)

 「日本海軍当局はシベリアの事態の発展にかんがみ、12月中旬頃からウラディヴォストークへの軍隊派遣問題についての検討をはじめていた。・・・
 <イギリスは>巡洋艦サフォークのウラディヴォストークへの派遣<を>18年1月1日の・・・戦時閣議で決定<した。>・・・つづいて同地に進発できるよう歩兵2個中隊を香港に待機させた。・・・
 イギリスに先を越された寺内首相の心中は穏かでなかった。「怪しからぬ。こうなれば何でもかでも我軍艦を先ず浦港へ入れねばならぬ」。翌4日、石見、朝日2艦のウラディヴォストーク派遣は正式に閣議決定を見ていた。」(18〜19)

→当然、陸軍の情勢判断と英国政府の情勢判断は合致し、この頃はまだまともであった帝国海軍もまた、同様の情勢判断をしていた、ということです。
 陸海軍の情勢判断が一致しており、かつ同盟相手の英国政府が要請してきた、とあれば、日本も軍艦派遣に踏み切らざるをえなかったわけです。(太田)

 「本野外相は今回の措置の主旨は、「専ら政府当然の責務たる自国人民保護」にあ<る>・・・<との>訓電を・・・菊池<ウラディヴォストーク>総領事<に>・・・発していた。
 <しかし、>1月6日、加藤海相から・・・第三艦隊司令長官<等>・・・に口頭であたえられた訓示要領は・・・「過激派レーニン派に対しては之を援助せさるは勿論、成るへく早く其勢力を失墜し温健派の代りて政府を建立せんことを切望する所なり・・・」とのべ<ている。>」(20)

→軍艦を派遣することになっても、依然として外務省は寝ぼけたようなことを言っていた、ということが分かります。(太田)

 「アメリカ政府は、イギリス側の度重なる要請・・・にもかかわらず、シベリアでの軍事干渉には消極的態度を崩すことはなかった。しかし日英両国の軍艦・・・派遣という事実に直面し・・・ランシング・・・国務長官は・・・アメリカ軍艦ブルックリンのウラディヴォストークへの回航の方針を<打ち出した。>・・・日本の軍艦に単独行動を許すべきでない、・・・ブルックリンの存在によって、日本側の行動に制約を加えるべきであるというのが<その>考え方であった。・・・
 日本軍艦のウラディヴォストーク派遣は、現地の政権、多数のロシア人の反撥をひきおこしたのみならず、・・・このように・・・共同交戦国アメリカからの強い不満を買っていたが、派遣にさいして日本海軍当局の意図した・・・効果はたしかに生まれたように見えた。この地でのボリシェヴィキの活動は不活発となり、反対に反ボリシェヴィキ派は軍艦の威力をたのみに次第に勢力回復の兆をしめしてきた。」(22〜23)

→人種主義的帝国主義国たる米国は、赤露の潜在的脅威など眼中になく、何と自国の軍艦派遣を、もっぱら日本を掣肘することを意図して決定した、というわけです。
 米国は、第一次世界大戦を英日とともに戦っていた最中でしたが、英国と日本は、もともとは、それぞれ仮想敵国の第一と第二であったところ、英国の方は当時まだ一応世界覇権国でしたし、同じアングロサクソン国であったことから、さすがに英国を掣肘することまでは考えなかったのでしょう。(太田)
 
(続く)

太田述正コラム#3082(2009.2.7)
<帝国の喪失のロシア>(2009.3.23公開)

1 始めに

 「・・・我々は、核武装した超大国が、弾を一発も撃たずに巨大な大陸的帝国を投げ出して降伏したことに改めて敬意を表すべきだ。不幸なことに、これは驚くべきことではないが、多くのロシア人達は、爾来、かかる歴史的なと言ってよいところの寛大な行為を後悔してきた。
 ロシアの新しい役割がいかなるものになるかについて、ロシア人達はいまだ発見していない。それには時間がかかる。
 英国・・この国で「帝国を喪失し役割をまだ見いだしていない」という言葉が最初につくられた・・においては、帝国喪失後、国家再定義に半世紀をかけてきたが、英国はいまだにそれを見いだしていないのだから。・・・」
http://www.latimes.com/news/opinion/commentary/la-oe-garton5-2009feb05,0,3323085,print.story
(2月7日アクセス。以下同じ。)

 もう一つ例があるよ、と言いたくなりますよね。
 そう、日本です。
 英国は戦って辛勝したけれど帝国を失い、ロシアは戦わずして敗れて帝国を失ったのに対し、日本は戦って壊滅的敗北を喫し帝国を失いました。
 この3カ国のうち、どの国が一番心理的打撃が大きかったか、むつかしいところです。

 さて、プーチンの大統領就任以来、彼の推進したファシズム(ロサンゼルスタイムス上掲は、大国的専制主義的資本主義(Great-power authoritarian capitalism)と呼ぶ)政策によって良かれ悪しかれ帝国喪失の傷を少しずつ癒しつつあるかのように見えたロシアが、現在の世界経済危機に直面し、どうなっているのか、が本日のテーマです。
 
2 ロシアの現状

 (1)ファシズム

 「・・・プーチンのロシアは、・・・国際的境界の維持、どんな小さな国であれその主権の尊重、更には紛争の非暴力的解決へのコミットメント・・・といった原則・・・を尊重して来なかった。・・・
 <要するにロシアは、>自分自身の主権は完全に尊重するよう固執しつつ、必要に応じて他国の主権は侵犯する<というのだ。>」
 (以上、ロサンゼルスタイムス上掲)

 「ロシアのジャーナリストのアナスターシャ・バブロヴァ(Anastasia Baburova)は、1月19日、25歳で亡くなった。・・・
 彼女は、<人権派弁護士の男性と一緒にいた所を共に撃たれ死亡したものだ。>
 ・・・二人はモスクワの中心部で真っ昼間に殺された。翌日、ロシアのナショナリスト達の一群が殺害場所にシャンパンを持参して、敵の「抹殺」を祝った。・・・
 彼女は、ノーヴァヤ・ガゼッタ紙が過去8年間に失った4番目のジャーナリストだ。
 ペレストロイカの設計者たるミハイル・ゴルバチョフが共同創設者であるところの、このロシアで最も批判的な新聞に彼女が勤めていたのはごく自然なことだった。
 彼女は1983年生まれだ。・・・
 彼女は<英語、漢語を身につけ、>武道をたしなんでいた。彼女は、ソ連時代にエリートの子弟が外交官を目指して入学したモスクワ国際関係学院(Moscow Institute of International Relations =MGIMO)への入学を果たした。
 これは、<現在ウクライナ領の>セバストポール出身の何のコネもない少女にとっては奇跡と言えた。
 試験の成績が抜群であったことから、彼女は米エール大学に留学することになった。しかし、彼女はジャーナリストになることを望み、自らこの学院を後にした。
 彼女は、イズヴェスチャ紙に入ったが、しばらく勤務して辞めた。近年ナショナリズム、体制順応主義、そして冷笑主義に染まってしまっている同紙では居心地が悪かったからだ。・・・
 彼女とその友人達は、正しく、ファシズムがロシアにとって最大かつ最も切迫した脅威であると認識していた。彼女はこれと戦う決意をした。彼女は、スターリニズムとファシズムの親縁性を正確に感じ取っていたのだ。・・・

 ツルゲーネフの詩に「敷居(The Threshold)」がある。

 ある若い女性がドアの前に立っている。
 声が聞こえる。
 その声が彼女に、向こう側で彼女を待っているところの寒さ、飢え、嘲笑、牢獄、そして死に対する心の準備はできているのかと問いかける。
 彼女は、そのすべてについて「はい」と答え、敷居を越える。
 「馬鹿者よ!」とその声は彼女の後ろから叫ぶ。
 しかし、別の声が囁いた。「聖女よ!」と。」
http://www.economist.com/obituary/PrinterFriendly.cfm?story_id=13055783

 (2)経済

 「ロシアの・・・株式市場はその価値の70%以上を失い、外貨準備は急速に蕩尽しつつある。・・・」(ロサンゼルスタイムス上掲)

 「・・・昨年の夏以来のエネルギーと商品の価格の下落はロシアの脆弱性を露呈した。天然ガスと金属が輸出額の4分の3以上を占めているからだ。
 経済ブームは、高騰したところの、石油とごくわずかの他のものの上に築かれたものに他ならなかった。過去5年間にわたって平均して毎年7%以上に達した経済成長率は下落し、政府は今年の成長率は0.2%にまで下がると予想している。・・・過去5年間にわたって平均賃金は毎年25%も伸びてきたというのに。・・・
 資本は逃げ出している。投資家達は、昨年8月以来、ロシアから2,450億米ドルを引き揚げ、ルーブルは下降圧力の下にある。・・・
 ロシアの公表失業率は長らく6%未満にとどまってきたが、2009年にはその倍に達することだろう。・・・」
http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,1877377,00.html

太田述正コラム#2846(2008.10.12)
<ソ連における米国棄民(その2)>(2008.11.27公開)

(参考:バーナード・ショーの1931年の講話)

 解説:ショーはソ連訪問から帰ったばかりだった。

 「・・・<彼らは>ソビエト社会主義共和国連邦においてワシントンとジェファーソンとハミルトンとフランクリンが築き上げたものと全く同じものを築き上げた。ジェファーソンはレーニンであり、フランクリンはリトヴィノフであり、ペインはルナチャルスキー(Lunacharsky)であり、ハミルトンはスターリンなのだ。今日はレニングラードにワシントンの塑像を見いだすが、明日には必ずやニューヨークでレーニンの塑像を見いだすことだろう。全世界のプロレタリアはロシアのボートに乗るつもりがあれば歓迎される。ロシアではどこでも希望がある。なぜなら、破産した資本主義が最後の絶望的なもがきの下にあり、われわれに対して悪が迫りつつあるというのに、ロシアでは共産主義の普及によって悪は後退しつつあるからだ。・・・」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 今でこそ、共産主義の国で自国民が逮捕されたり人質になったりすれば、大騒ぎになりますが、米国においては、1930年代はもとより、1940、50年代に至るまで(注)人々はそんなことには余り関心がなく、政府が手をこまねいていても、消息不明になった人の近親者はともかくとして、世論が騒ぐようなことはなかったのです。

 (注)第二次世界大戦中にドイツ軍の捕虜になっていた米兵でそのままソ連の収容所送りになった者達が多数いるが、彼らは冷戦の間中ソ連にとどめ置かれた。米軍のディーン(John Deane)将軍は、「<彼らは>ソ連によって勝ち取られた戦争の戦利品だ。彼らは身ぐるみはがれ、飢餓に苦しめられ虐待されているかもしれないが、そうされても文句を言う権利はない」と記している。彼らの存在は、米国政府とソ連政府双方によって公的秘密として隠され続け、ソ連の崩壊まで明らかにならなかった。

 この背景として、戦前から戦中にかけて欧米諸国全体が共産主義のソ連に対し甘い認識を抱いていたということがあげられますが、それにしても当時の米国のソ連についての無知さかげんは際だっていました。

 駐ソ米国大使のブリット(William Bullitt)は、大使館でど派手な舞踏会ばかりを催していました。
 次のデーヴィス(Joseph Davies)大使は社交好きの大金持ちでローズベルト大統領のお友達でしたが、スターリンを尊敬しており、何千もの米国市民達を含む何百万もの人々が、ソ連の1930年代のでっちあげ裁判で次々に死刑を宣告されていくのを承知していたのに、これらがまともな裁判だと信じて疑いませんでした。
 それどころか彼は、ソ連の秘密警察の幹部達を自分のヨットに招待してハリウッド製の映画を見せるのを旨としていたくらいです。
 彼と米穀物加工食品会社ポスト社の相続人たる彼の妻は、モスクワでルイ16世とマリ・アントワネットも真っ青になるほどの豪奢な生活を送りました。
 またデーヴィスは、スターリン礼賛の超大作本で映画にもなった「モスクワでの任務(Mission to Moscow)」を著し、革命の混乱の中で略奪された美術品を妻と一緒に私的コレクション用に買いあさるのが趣味でした。
 モスクワの米国大使館は、米国市民達を保護するどころか、大使館に助けを求めようと近づくおろかな米国市民達を捕まえる絶好の場所としてソ連当局に利用され続けました。

 ローズベルトの副大統領であったウォレスは、1944年にNKVDの首脳の案内でソ連のコリマ(Kolyma)収容所を訪問しましたが、彼は自分が鉱山会社の社長に案内してもらっていると信じ込んでいました。
 当時、国務省には、ソ連で消息不明になった米国市民達の親戚達から善処を求める手紙が山のように寄せられたのですが、何の対応もなされませんでした。後にソ連封じ込め論で一世を風靡するジョージ・ケナン(George Kennan)も国務省幹部の一人として何の対応もしなかった人物です。

 きわめつきは資本家中の資本家であったヘンリー・フォード(Henry Ford)です。
 彼は1930年代に、ニジニ・ノヴゴロド(Nizhni Novgorod)に4,000万ドルもかけて巨大な自動車工場をつくりました。大恐慌のまっただ中に何百万ドルも金塊で支払ったのです。 
 この工場で大勢の米国市民達が働いたことは前述しました。
 1929年から36年の間、米国のいかなる企業よりも当時のソ連と商売をしたのがフォード社でした。
 いや、それだけではありません。
 1941年まで、ソ連だけでなくナチスドイツのためにもドイツで車をつくり続けたのがフォード社でした。
 黒人の超有名芸人のポール・ロブソン(Paul Robeson。1898〜1976年)も、当時、スターリンを褒め称え続けたものですが、生涯、そのことについて反省の意を表することはありませんでした。

 この途方もない無知さかげんが、ヤルタ協定と戦後の欧州の分割、そして私に言わせれば、支那における共産党政権の誕生や朝鮮半島における分断と戦争をもたらしたわけです。

3 終わりに

 書評子の一人のビリングスレイ(Lloyd Billingsley)は、米大統領の誰かがこういった事実を公式に認めた上で上記米国市民達の生存者やその家族に賠償金を支払う日が来ることを期待していると記しています。
 私は、天文学的な額になることもあり、賠償金を支払えとまでは言わないけれど、米国の大統領がいつか、共産主義とファシズムの犠牲者達、そして(日中戦争や朝鮮戦争を含むところの)広義の第二次世界大戦の犠牲者達に対し、戦間期(及び第二次世界大戦中)における米国の逸脱行動について、謝罪をしなければならないと思っています。

 (完)

太田述正コラム#2844(2008.10.11)
<ソ連における米国棄民(その1)>(2008.11.26公開)

1 始めに

 米国は、もともとアングロサクソン文明に欧州文明が混淆したキメラ的文明の国であり、選民意識及びそれと裏腹の関係にある有色人種等への差別意識を抱き、むき出しの軍事力の行使とカネの追求を是とするけれど自国以外のことには極めて疎いという偏向のある、できそこないの(bastard)アングロサクソンであるわけですが、その米国がとりわけ逸脱行動に走ったのが、第一次世界大戦と第二次世界大戦の間のいわゆる戦間期です。
 すなわち、米国は、当時既に世界一の経済大国となっていたところ、「同じ」アングロサクソンである英国(直接的にはカナダ)やアングロサクソン文明と世界で最も親和的であるところの日本文明の日本とを敵視し、大英帝国と日本帝国の瓦解を目論む一方で、本来アングロサクソン文明の仇敵たる欧州文明由来の民主主義独裁の極限形態である共産主義のソ連、ファシズムのナチスドイツに対しては宥和政策をとり、かつ自らの失政から世界大恐慌を引き起こすことによって、共産主義による長期間の、かつファシズムによる短期間の大虐殺と第二次世界大戦の惨禍という人類史上最大の悲劇の原因をつくったのです。

 今回は、この米国の対ソ宥和政策がいかに大きな悲劇を自国民にももたらしたかを、
ティム・ズリアデス(Tim Tzouliadis)が上梓した'The Forsaken: An American Tragedy in Stalin's Russia'
(の書評)を通じて明らかにしようというものです。

 (以下、書評
http://features.csmonitor.com/books/2008/10/09/the-forsaken-an-american-tragedy-in-stalins-russia
http://www.spectator.co.uk/print/the-magazine/books/852286/deluded-and-abandoned.thtml
http://www.barnesandnoble.com/bn-review/note.asp?note=18567782
http://www.washingtontimes.com/news/2008/aug/17/when-the-workers-paradise-was-not/"、
http://www.lootedart.com/N7EVN0284841_print;Y
http://www.chron.com/disp/story.mpl/life/books/reviews/5930961.html
http://www.sfgate.com/cgi-bin/article.cgi?f=/c/a/2008/09/01/DDPF11TTKL.DTL&type=printable
http://www.frontpagemag.com/articles/Read.aspx?GUID=DD564504-2BA1-4BD5-B5D6-C75063DF51F7
(いずれも10月11日アクセス)による。)

 ちなみに、ズリアデスは、ロンドンを拠点とした英国人たるドキュメンタリー・フィルム制作者でありジャーナリストです。

2 ソ連における米国棄民

 大恐慌のまっただ中の1930年代中頃、約10,000人の米国市民達が米国の各新聞にソ連が掲載した「助けを求む」という広告を見て、ソ連にわたりました。
 その中には、技師、自動車工、坑夫、床屋、鉛管工、塗装工、調理師、農夫、教授、芸術家、医者等がいました。共産主義者もいたものの、大部分は「労働者の天国」であるソ連におけるよりよい生活を夢見て米国を後にしたのです。
 当時、『新しいロシアの入門書:五カ年計画の話(New Russia's Primer: The Story of the Five-Year Plan)』が米国で7ヶ月にわたってベストセラーになっていました。
 また、1931年には(既にノーベル文学賞を受賞していた)英国人の劇作家バーナード・ショー(George Bernard Shaw)のソ連には希望が充ち満ちているという情熱的なラジオ講話がニューヨークタイムスに転載されていましたし、同じ1931年には米商務省が国内の強い要望に応え、「ソ連における米国市民の雇用」というパンフレットをつくっています。
 この頃だけのことですが、米国への流入人口より流出人口が上回りました。
 1931年の最初の8ヶ月だけでソ連のニューヨーク所在の貿易機関はソ連への移住を希望する人を10万人も受け付けたほどです。
 彼らは、ドイツ、ノルウェー等からソ連にやってきた人々とともに、フォード社が設計図を引いたロシアの自動車工場で働いたりアゼルバイジャンの油田の拡大作業等に従事しました。
 最初は彼らはソ連で大歓迎されました。彼らの存在そのものが不況期の米国の死につつある資本主義に比べての共産主義の優位を裏付けるもののように見えたからです。
 そうこうしているうちに、ソ連当局はこれら米国市民達のパスポートの没収を始めました。
 これは彼らが米国当局に助けを求めることを困難にする目的と、後で米国にスパイを送り込む目的にこれらのパスポートを使う目的からでした。
 それでも米国市民達は幸福感に浸っていました。
 彼らは祝宴を張られ、もてはやされ、最高のホテルの最高の部屋と子供達のための最高の学校をあてがわれました。新聞は彼らのことを書き立て、働いた工場やオフィスでは彼らは英雄扱いされました。

 しかし、やがてスターリンによる大粛正が始まり、これらの米国市民達を悲劇が襲います。
 第一に、無辜の人々がKGBの前身の秘密警察NKVDによって罪をでっちあげられて銃殺されました。合計約700万人がこうして殺されたわけですが、その中に上記米国市民達も含まれていました。
 第二に、こうしてただちに銃殺される運命を免れた、上記米国市民達を含む約3,000万人の人々が収容所(Gulag)送りになりました。そこでの死亡率はしばしば年間30%以上にも達しました。
 第三に、1933年に米ソが国交を樹立し米国がモスクワに大使館を設けたにもかかわらず、歴代の米国大使は上記米国市民達の運命を熟知ていながら何の救済措置も執りませんでした。また、米本国でもローズベルト大統領は、国務省の幹部やニューヨークタイムスのソ連特派員のワルター・デユランティ(Walter Duranty)(コラム#178)からの対ソ宥和的意見に取り囲まれており、死ぬまでスターリンを「ジョー叔父(Uncle Joe)」と呼び、ソ連と友好関係を維持したのです。

(続く)

太田述正コラム#2512(2008.4.27)
<ロシアの体制(続)>(2008.5.31公開)

1 始めに

 FSBが支配するところとなったロシアがいかなる国であるかを、三つの具体的事例を通して探ってみましょう。

2 具体例

 (1)正教の国教化

 プーチン政権は、宗教統制にも乗り出しています。
 最も最近の調査によれば、回答者の71%がロシア正教信者だと答えており、これは2003年には59%だったことを考えると大きな変化です。
 これには、プーチン政権が正教の事実上の国教化を推進していることによるところが大なのです。
 プーチン自身、十字架を身につけ、自分がロシア正教徒であることを公言しつつ、政府が統制下に置いているTVにロシア正教のアレクセイ2世大主教(Patriarch Aleksei 2)と何度もツーショットで立ち現れます。
 その一方でプロテスタント諸派、次いでカトリック教会は陰に陽にその活動に妨害が加えられているのです。
 ロシアの総人口は1億4,200万人であるところ、プロテスタントは約200万人であり、700万人から2,000万人と言われるイスラム教徒よりずっと少ないのですが、イスラム教徒はそれほど増えないだろうと考えられており、敵視されていません。
 これに対し、プロテスタント諸派は、布教が事実上禁じられている上、信仰をすること自体すらままならない有様です。
 プーチン政権もロシア正教も、反欧米感情を共有していますが、プーチン政権にはこれに加えて、政府から独立した組織の存在そのものを厭う気持ちがあります。
 ソ連が崩壊した直後は、ロシアで信教の自由が比較的認められていたのですが、1997年にエリティン政権がプロテスタント諸派の多くに登録義務を課したことが転機になりました。もっとも、エリティン自身のロシア正教との関係には微妙なものがあり、また、当時のロシアの情勢が混沌としていたこともあって、プロテスタント諸派に対する規制にも甘いものがありました。
 しかし、今では、プロテスタント諸派が私家屋内で祈祷を行うことを超える活動をする場合には政府に登録しなければならず、しかも、書類の不備や他の活動の隠れ蓑に使われているといった理由で登録が受理されないことの方が多いのです。
 (以上、
http://www.nytimes.com/2008/04/24/world/europe/24church.html?_r=1&hp=&oref=slogin&pagewanted=print  
(4月24日アクセス)による。)

 (2)歴史の歪曲

 以前(コラム#548で)記したように、ウクライナでの1932〜33年の大飢饉は、スターリンが引き起こしたものですが、これはウクライナの民族意識や自治への欲求を粉砕する目的で、ウクライナを特に狙い撃ちにした、一種のジェノサイド(ただし、国連のジェノサイドの定義には完全にはあてはまらない)であったと米国ほか欧米数カ国は認識しています。
 実際、工業化を至上命題とする時代背景の下、農業集団化と軍隊による穀物の収奪がソ連の全農村地帯にわたって行われたものの、農村地帯が封鎖され、農民の逃散が阻止されたのはウクライナとクバン(Kuban。コーカサス地方に隣接するウクライナ人居住地区)だけであり、だからこそこの両地区における餓死率が際だって高くなったのです。
 ウクライナ議会は2006年にこの大飢饉をジェノサイド(holodomor)であるとする決議を行い、大統領のユシュチェンコ(ユーチェンコ=Yushchenko)は、ジェノサイドであることを否定することを犯罪とする法律を成立させようとしています。
 これに対し、ロシアの下院は今月、ジェノサイドであることを否定する決議を行いました。
 また、ロシアのノーベル賞作家のソルジェニーチン(Alexander Solzhenitsyn)も、ジェノサイドとするような者は恨みがましい反ロシア的な狂信的排外主義者である、とウクライナ並びに欧米諸国を非難する文章をイズベスチャ紙に寄せました。
 ウクライナ国内でも、東部のロシア語をしゃべる親ロシア派を率いる元首相ヤヌコヴィッチ(Viktor Yanukovych)は、ジェノサイドではなく、「悲劇」という言葉を用いるべきであるとし、2006年の決議もボイコットしたところです。
 (以上、
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2008/04/26/AR2008042602039_pf.html
http://en.wikipedia.org/wiki/Ukrainians_in_the_Kuban
(どちらも4月27日)アクセスによる。)

 (3)領域の拡大

 ソ連崩壊後の内戦を経て、グルジア共和国内のアブハジア(Abkhazia)地区と南オセチア(South Ossetia)地区は、ロシアの支援の下、かねてより事実上独立状態にあります。
 このたびプーチン政権は、この両地区に住むロシア国籍者の利益を保護するとともにこの両地区との協力関係増進のため、この両地区にロシアの代表部を開設することとし、事実上両地区をロシア内の自治共和国扱いにしました。 
 ロシアは、2000年にはアブハジアの住民にロシアのパスポート授与を行うこととし、今年に入ってからは、先月には両地区への軍事援助を禁じた(旧ソ連邦構成諸国によって構成される)独立国家共同体(Commonwealth of Independent States)の1996年規制から離脱し、またこのほか2014年のソチ冬季五輪関連の契約をアブハジアの会社に開放したところ、今回の措置は、両地区のロシアへの併合への動きを更に進めたものであり、もはや両地区はロシアに経済的・法的に併合されたと言っても過言ではありません。
 その一方で、ロシアはグルジアと事実上の断交状態を続けています。
 道路、鉄道は国境で切断され、両国間には貿易も金融取引も郵便も存在しません。
 要するにプーチンは、ヒットラーが1937年に扇動を始めてドイツ人以外をズデーデン(Sudeten)地方から追い出し、翌1938年にこのズデーデン地方をチェコスロバキアから奪い取ったのと同じことを今まさにやっているわけです。
 しかし、70年前と同様、欧米諸国は何もせずにこれを荏苒眺めているだけなのです。
 (以上、
http://www.ft.com/cms/s/0/c4a6dfe2-0caa-11dd-86df-0000779fd2ac.html  
(4月18日アクセス)による。)

3 終わりに

 このように、FSBが支配するロシアは、ナショナリズムを煽り、彼らによる支配を聖化し、歴史を歪曲し、領域の拡大を行うという、余りにも典型的なファシスト国家であると言えるでしょう。
 自由民主主義諸国は、より毅然とした姿勢でこのロシアと共存共栄を図っていく必要があります。

太田述正コラム#2508(2008.4.25)
<ロシアの体制(その3)>(2008.5.29公開)

 ルーカスのロシア体制分析が雑なマクロ分析だとすれば、フェルシュティンスキー/プリビロフスキーのロシア体制分析は精緻なミクロ分析であり、信頼性は高そうです。

3 フェルシュティンスキー/プリビロフスキーの指摘

 ソ連崩壊後、ロシアで民主主義が試され失敗したというのはウソだ。
 旧ソ連共産党の幹部達(ノメンクラトゥーラ)は破産したマルクス/レーニン主義イデオロギーこそ捨てたけれど、一貫して権力を握り続けてきたからだ。
 その中核となったのが、旧KGB一味であり、連中の本性はマフィアだ。
 旧KGB一味であるプーチンの1999年のロシアの大統領就任は、旧KGBが旧ノメンクラトゥーラの中核として正式にロシアの権力を掌握したことを意味する。(プーチン自身、その時、旧KGBの同僚達に、「われわれは再び権力の座に就いた。今度は永久に・・。」と語っている。)
 東ドイツからソ連に呼び戻されたプーチンは、サンクト・ペテルブルグの市長のお目付役として副市長に就任する。そして、国際麻薬取引を含む組織犯罪に深く手を染めた。
 そして偶然の幸運が次々に作用して、彼はモスクワに異動し、やがてKGBの後継機関であるFSBの長となり、更にエリティンの後継者にまで急速に登り詰めるのだ。
 エリティンがプーチンを指名したのは、大統領を辞めたエリティンを投獄しないという約束をプーチンなら守るだろうと考えただけのことだ。
 そしてプーチンは、大統領になると、FSB要員を含む旧KGB要員2,000人を政府の主要ポストに就けた。その結果では政府の主要ポストの70%は旧KGB要員によって占められるに至った。
 もとよりプーチンなど、ロシア国民に対してこそ独裁者だが、FSBから見ればいくらでも取り替えのきく使用人に他ならない。
 プーチンは、FSBにモスクワ等のアパート街で一連の爆破事件を引き起こさせ、これらをチェチェン人の仕業のように見せかけた。その上で彼は、チェチェン戦争を始め、チェチェンでジェノサイド的作戦を敢行した。
 また、プーチンは就任直後からマスメディアのオーナーたるオリガーキー達の懐柔に努めたが、容易に尻尾を振ろうとしなかったホドルコフスキー(Mikhail Khodorkovsky)は全財産を没収されて8年間のシベリアの収容所送りとなった。
 そして今や、ロシアの全てのマスメディアはFSBの支配下に置かれ、ロシアには、スターリン的な排外主義とスパイ偏重、政治的囚人達、厳しい検閲、恐怖の蔓延といった空気が充ち満ちている。
 かつては世界社会主義革命という思想の栄光のために遂行されていたことが、今では個人的野心のために遂行されている。
 また、逆らう人々を、かつてのように収容所(Gulag)に送る手間を省き、一味は安くて簡単な殺人によって始末している。
 このロシアの新体制にあっては、FSBという一法人がロシアという世界一広大な領域を統治している。
 こんなことは、17世紀に英国の東インド会社がアジアの全英領をその株主達のために統治した時以来のことだ。
 両者の共通点は、統治している領域の住民のことなどは蔑ろにし、その領域が輸出のための資源を供給できているかどうかにしか関心を払わないことだ。
 もっとも、FSBに比べれば東インド会社の方がはるかに文明的だった。
 FSBの要員はマフィア的悪漢であるのに対し東インド会社の職員はビジネスマンだった。また、FSBの問題解決手段の奥の手は暗殺だが、こんなことは東インド会社は決してやらなかった。
 検事総長のスクラートフ(Yury Skuratov)が邪魔になったプーチンは、FSB要員を送り込んでスクラートフを連行し、怪しげな様子をさせてビデオに撮り、TVでその映像を流させるというやり方で失脚させた。
 2003年には極めて進歩的でリベラルなジャーナリストにして政治家であったシェコチクヒン(Yury Shchekochikhin)が毒殺されたが、遺族はいまだに毒殺時の医学的検案書を見ることを許されていない。
 2004年には有力政治家のルイブキン(Ivan Rybkin)が毒を盛られ、更にウクライナ訪問中に醜聞をでっちあげられ、引退に追い込まれた。
 著名なジャーナリストであるポリツコフスカヤ(前出)ヤとクレブニコフ(Paul Klebnikov)は銃殺された。
 そして2006年には、英国に帰化していたところの、プーチンとその体制を激しく批判していた元KGB要員のリトヴィネンコ(前出)が毒殺された。
 見通しうる将来にかけて、ロシアは、このFSBによって、すなわち、欧米を憎み、建設的なことについての知識経験を何一つ持たない、ナチスドイツのゲシュタポに相当する秘密機関の構成員であった一味によって、統治され続けることになるだろう。

4 終わりに

 一体、自由民主主義諸国は、こんなロシアとどのような形で共存共栄して行けばよいのでしょうか。
 幸いなことに、FSBは万能ではありません。
 現に、かつてリトヴィネンコの友人であったフェルシュティンスキーは現在米国在住であるものの、プリビロフスキーはモスクワを拠点にしているというのに、この本を執筆中プリビロフスキーのアパートに官憲が押し入り、捜索しパソコンを没収しただけで、結局FSBはこの本の出版を阻止できず、プリビロフスキーを「無力化」することもできなかったことからして、FSBの腕の程が推し量れます。
 日本としても、米国の属国たることに甘んじず、一刻も早く、ロシア等のFSB等に対抗すべく自前の諜報機関を立ち上げるべきでしょう。
 また、以下はルーカスが提案していることですが、まず機会を見てロシアをサミットメンバーから追放すべきでしょう。
 次にウクライナやグルジアをNATOに加盟させる機を窺うべきでしょう。
 (前から私が主張していることですが、NATOの太平洋地域への拡大または太平洋版NATOの結成を図り、日本はこの種安全保障条約機構に加盟すべきでしょう。もっともそのためには、日本は集団的自衛権を行使できるようにならなければなりません。)
 更に、ロシア(や中共)が常任理事国である国連安全保障理事会を回避して世界の危機管理を行いうる態勢を構築すべきでしょう。
 また、ロシアの巨大国営企業であるガズプロム(前出)やロスネフト(Rosneft)が市場ルールを遵守しているか、財産権や法の支配を尊重しているか、欧米の金融市場をして厳しくチェックせしめることによって、これら企業の動きに掣肘を加えるべきでしょう。

(完)

太田述正コラム#2506(2008.4.24)
<ロシアの体制(その2)>(2008.5.28公開)

 (2)ルーカス批判

 ルーカスのこのような指摘に対しては、様々な批判が投げかけられています。
 私見を織り交ぜながら、これらの批判をご紹介しましょう。

 第一に、プーチンのロシアの現在の繁栄は石油価格の高騰によってもたらされたあだ花であると言っても過言ではありません。そもそも、ロシアの人口は毎年100万人ずつ減少していますし、国防費は米国のわずか10%弱に過ぎず、経済規模はまだベルギーとオランダの合計程度にしかすぎません。
 ロシアを過大評価するのは欧米の宿痾のようなものです。
 しかし、英国だけはその例外だったというのに、英国人ルーカスは一体どうしてしまったのでしょうか。
 例えば、1870年代に、当時のロシアの首都だったサンクト・ペテルブルグの英駐在武官であったウェレズリー(Frederick Wellesley)大佐は、ジャーナリスト達に以下のように語っています。
 「<ロシアは>いかに自分が軍事的、財政的に弱体であるかを自覚している。しかし、他国がロシアを強大であると思ってくれることには大喜びだ。実際ロシアはよく脅しをかけるけれど、戦うことはまずない。ロシアは自分が<中央アジアで>置かれている立場がいかに危ういかを知っている。しかしイギリスの新聞が、巨大な「北方の巨人」が何時の日にかインドからわれわれを追い出してしまうであろうと警告を発する記事を書き続ける限り、また、こんな観念の横行から空虚な栄光がもたらされることでロシアが満足できる限り、ロシアはかかる誤った評判が流布するにまかせることだろう。」と。
 ちなみに米国には、ウェレズリーのようなことを言う人物はほとんど現れた試しがないと言ってよいでしょう。
 1881年、ロシアの皇帝アレクサンドル2世(Alexander 2。1855〜81年)がサンクト・ペテルブルグでテロリスト達によって暗殺された(注1)ことでロシアへの熱い思いをかき立てられ、米国から、ミズーリ州のジャーナリストであったブエル(James William Buel)がロシアを訪問し、その国中を取材して回り、「文明が急速に東方世界に普及しつつある。・・・銃剣によって、或いは賛美歌集によってロシア皇帝の領土の全域に向けてこの行進は続けられることだろう」と本に記しました。

 (注1)この暗殺事件は、アレクサンドルの死をみとった皇太子(アレクサンドル3世)とその長男(ニコライ2世)に大きな影響を与え、農奴解放令を発布する等開明的な皇帝であったアレクサンドルが、議会(Duma)開設を予定していたというのに、彼らによって、議会の開設は1905年まで遅らせられ、秘密警察(Okhrana)を用いた文字通りの恐怖政治が行われることとなった(
http://en.wikipedia.org/wiki/Alexander_II_of_Russia#Ancestors
。4月24日アクセス)。

 この本を読んだ米国の宣教師、経済アドバイザー、そして活動家達は、神、資本主義、そして自由をロシアに移植すべく続々とロシアに渡ったのです。
 これは、米国内で奴隷廃止運動が高まった時期と一致していました。
 昔も今も、米国人の国際音痴ぶりには全く困ったものです。

 第二に、少なくともルーカスの母国である英国では、2006年にロシアがウクライナ向けの天然ガスのパイプラインを短期間閉めた時、ただちに対ロシア政策を、ロシアの天然ガスへの依存なくす方向へと180度転換させています。国によっては適切な対応を既にとっているということです。

 第三に、ロシアとの間で冷戦が復活したかどうかについてですが、ルーカス自身が否定的なことを記しています。
 冷戦時代とは違って、東欧諸国は今やロシアの軛から解放されていますし、ロシア人だって昔と違って外国に自由に行くことができます。また、ロシアの国防費の規模についても上述したとおりです。肝腎の天然ガスについても、ルーカスは、この10年内にもロシアの天然ガスが枯渇する可能性があり、そうなった場合にどうすべきかをよくよく考えるべきだ、と言っているくらいです。
 それにロシアが繁栄しているとは言っても、二桁のインフレが続き、給与の上昇がかつかつそれに追いついている程度であることから、ロシアの一般庶民の生活は少しも向上していません。
 このこととも関連しますが、プーチンの人気が絶大だとされてはいるものの、ルーカス自身、政府の目が光っているため人々はモノを言うことを控えており、古い友人でも電話で話すことすら厭うようになってきていると記しており、こんな状況下では、世論調査の調査員に人々がホンネを明かすわけがない、と思わなければならないのです。

 第四に、非民主主義的にして非自由主義的な(=法の支配が欠如している)国で市場経済的な繁栄を享受している国として、現在、ロシア以外に中共があることを忘れてはならないでしょう。
 要するにロシアも中共もファシスト国家であるわけですが、有力国家群がファシスト国家であるという時代はナチスドイツやファシストのイタリアの時代以来久しぶりのことです。
 どこが違うかと言えば、ナチスドイツやファシストのイタリアに比べて、ロシアも中共もはるかに侵略的ではないことと、ロシアや中共は広大であり、軍事力で屈服させたり占領したりすることは不可能に近いとことです。
 結局のところ、自由民主主義諸国は、ロシアや中共と、冷戦ならぬ共存共栄を図っていく以外ないということになりそうです。

(続く)

太田述正コラム#2504(2008.4.23)
<ロシアの体制(その1)>(2008.5.27公開)

1 始めに

 ロシアの現在の体制をどう見るべきか、最近上梓されたルーカス(Edward Lucas)の'The New Cold War: Putin's Russia and the Threat to the West'と、フェルシュティンスキー(Yuri Felshtinsky)及びプリビロフスキー(Vladimir Pribylovsky)の'The Age of Assassins: The Rise and Rise of Vladimir Putin’の2冊を手がかりに考えてみましょう。

 (以下、この2著両方をとりあげた書評である
http://www.telegraph.co.uk/arts/main.jhtml?xml=/arts/2008/03/22/boluc122.xml
)、及びルーカスの本をとりあげた書評である
http://www.telegraph.co.uk/arts/main.jhtml?xml=/arts/2008/02/10/boluc111.xml
http://entertainment.timesonline.co.uk/tol/arts_and_entertainment/books/non-fiction/article3328525.ece
http://www.bbc.co.uk/blogs/newsnight/2008/02/the_new_cold_war_by_edward_lucas.html
(ただし、ルーカス本人によるもの)、
http://www.prospect-magazine.co.uk/article_details.php?id=10094
http://www.popmatters.com/pm/books/reviews/57152/the-new-cold-war-by-edward-lucas/
http://www.independent.co.uk/arts-entertainment/books/reviews/the-new-cold-war-by-edward-lucas-779038.html?service=Print
(以上、すべて4月23日アクセス)、並びにフェルシュティンスキーらの本の書評である
http://books.guardian.co.uk/reviews/politicsphilosophyandsociety/0,,2274982,00.html  
(4月20日アクセス)、
http://entertainment.timesonline.co.uk/tol/arts_and_entertainment/books/article3503559.ece
http://www.cnbceb.com/articles/2008/april/41/reading-books.aspx
(どちらも4月23日アクセス)による。)

 なお、ルーカスは英エコノミスト誌のロシア・東欧問題担当記者であり、フェルシュティンスキーはロシアの著述家、プリビロフスキーはロシアの複数の人権団体主宰者です。

2 ルーカスの指摘

 (1)ルーカスの指摘

 モスクワで殺害されたジャーナリストのポリツコフスカヤ(Anna Politkovskaya)とロンドンで殺害されたリトヴィネンコ(Alexander Litvinenko)(コラム#1518以下)は、クレムリンの新冷戦がいかなるものかを象徴している。
 それは、片や無法なロシアのナショナリズムに対するに、法治主義の西側の多国間主義(multilateralism)、の間の冷戦だ。
 しかし、この冷戦が始まっていることに気付かないでいるうちに、早くも西側は敗北しつつある。
 資本主義は自由よりもカネを尊ぶシステムであると誤解している人間が西側に多いため、自由を全く信じないロシアは、カネを用いて、いいように西側に攻撃をしかけてきているのだ。
 ロシアは、ロシアの国策会社であるガズプロム(Gazprom)の天然ガスの供給を通じて欧州に影響力を行使しつつ、バルト3国に対して恫喝、サイバーテロ、歴史の歪曲、エネルギー政策等を駆使して西側陣営から引きはがそうとしているし、グルジアに対しては恫喝によって西側陣営加入を妨げようとしている。
 ロシア国内においても、ちっぽけな人口60万人のマリ(Mari)の人々の文化再興運動を、恐らくマリがエストニアに接近することを心配してだろうが、ひねりつぶした

 私は、プーチンが大統領になった頃、エコノミストのモスクワ特派員をしていたが、プーチンのロシアの将来に強い懸念を表明したものだ。ところが当時、ブッシュ米大統領もブレア英首相もプーチンに大きな期待を寄せていた。
 私の方が正しかったわけだ。
 エリティン(Boris Yeltsin)から大統領職を引き継いだ、KGBの後継機関の長たるプーチンは、既にエリティンの下で、西側恐怖症にかかった元諜報機関員達によって運営されるところの、私企業の統制によって金持ちになることをめざす、民主的諸制度を蔑ろにするロシア、の構築にとりかかっていた。
 大統領に就任したプーチンは、全TV局を国家統制下に置き、政治的動機に基づいて司法機関をして企業を攻撃させ、これら企業の資産を国有化し、地方における首長選挙を廃止し、小さい野党を権力から遠ざけるべくこれらの政党の存立を事実上不可能にする選挙法を施行し、反体制派を妨害しデモを罰するための法律を制定したり法律を枉げて適用したりし、恐らくは上記2人の殺害にも関与し、ソ連時代の体制批判者に対する強制的精神治療制度まで再導入した。そして、新しい教員用マニュアルを策定し、スターリンを若干の厳しい決定を行わざるを得なかった偉大な指導者として教えよという内容をこれに盛り込んだ。
 そして今やロシアにおいて、外国からの投資が盛んに行われており、生活水準は向上し、プーチンの支持率は常に80%を超えている。

(続く)

太田述正コラム#1990(2007.8.9)
<レーニンによるインテリ海外追放>(2008.2.10公開)

1 始めに

 とっくの昔に『Mao』は読み終わったのですが、『Stalin』はまだ読んでいる途中です。
 この間、先に終わりの方のスターリンが死ぬところを読みました。
 スターリンにいつ殺されるかと戦々恐々としていたソ連指導部の連中が、脳内出血で倒れたスターリンを前にして右往左往し、まさに当時スターリンが、もともとの主治医を含むユダヤ人医師達の大粛清を行っていた最中であったために、入院はおろか碌に治療も受けられないまま、スターリンが緩慢に死んでいくところは、小説より迫力がありました(PP626〜650)。
 ところで、スターリンによる大粛清、大量殺人の起源は何に求めるべきなのでしょうか。
 1918年から1921年にかけての第一回目のそれについて、以前(コラム#1866で)ご説明したことがありますが、もう一つの起源について触れた本が上梓されました。
 ロシア料理やロシアの哲学についての本を書いた英国人女性のチェンバレン(Lesley Chamberlain)のThe Philosophy Steamer: Lenin and the Exile of the Intelligentsia(英国版2006年)または Lenin’s Private War:The Voyage of the Philosophy Steamer and the Exile of the Intelligentsia(米国版2007年)です。
 今回はこの話です。

2 ソ連のインテリの海外追放

 資本主義もどきの経済政策がとられたNEP(New Economic Policy)時代の1922年、ソ連の行く末はまだ定まっていないかのように見えました。
 その年の9月、ペトログラードを一隻の船がドイツに向けて出港しました。その6週間後にはもう一隻の船が続きました。
 この2隻には、ボルシェビキのお眼鏡にかなわなかったベルジャーエフ(Nikolai Berdyaev)達ソ連のインテリとその家族220人が乗せられていました。
 これらのインテリは、帰国したら見つけ次第射殺すると申し渡されていました。
 後にこの2隻は、哲学の船(The Philosophy Steamer)と呼ばれることになります。

 当時、既に赤軍は白軍に勝利していましたが、まだ、思想的にはボルシェビキと反ボルシェビキとの間で戦いが続いており、ボルシェビキは、独立的な雑誌を廃刊に追い込み、大学で粛清を行い、新たな戦闘的なマルクスレーニン主義インテリを輩出させようとしていました。
 哲学の船の出港は、このボルシェビキの戦いが収束したことを象徴する出来事だったのです。
 レーニンがトロツキー(Leon Trotsky)、スターリン、そして秘密警察(GPU、これが後にNKVD、更にKGBとなる)にこれを命じたのです。
 そのやり方は、「危険」な思想家を見つけ、逮捕し、証拠をでっちあげ、事後法を適用する、あるいは法をねじまげるというインチキ裁判を行った上で、永久に追放するというものであり、この後にやってくるスターリンによる恐怖政治の原型と言ってよいでしょう。

 どこが違うかと言えば、このインテリ達が殺されなかったことです。
 レーニン自身、彼らを同等の存在として最低限の敬意は払っていたと思われます。
 哲学の船の出港を見届けていた秘密警察の一員が、「われわれはみんなロシア人だ。どうしてこんなことが起こっているのだ」と言ったというエピソードが紹介されています。 当時、トロツキーが米国人のジャーナリストのインタビューに答えて、この追放は慈悲の行為である、何となれば再び内戦が勃発すれば、連中は敵側に与することになろうが、そうなると殺されることになるからだ、と述べていますが、プロパガンダとはいえ、一抹の真実が含まれていたのではないでしょうか。

 哲学の船に乗せられなくとも、自発的に亡命するロシアのインテリも沢山いました。

 このようにして、この1922年をもってロシア(ソ連)は鎖国体制、全体主義体制となり、その2年後のレーニンの死をはさみ、爾後70年間この体制が維持されることになるのです。

 (以上、
http://www.nytimes.com/2007/08/08/books/08grim.html?pagewanted=print
http://www.brandonsun.com/story.php?story_id=64648
http://www.liturgicalcredo.com/LesleyChamberlainInterview031507.html
(いずれも8月9日アクセス)による。)

3 終わりに

 そろそろレーニン論も書きたいのですが、なかなかこれという新著が出ませんね。

太田述正コラム#1779(2007.5.24) 
<スターリン(その3)>(2007.11.27公開)

4 独裁者スターリンの謎に迫る

 以上見てきたように、スターリンには二面性があるわけだが、果たして知性・感性溢れる家庭人であり、同時に殺戮者であるなどということが両立するものなのだろうか。

 ちなみに、スターリンは、若い頃にボルシェビキの同僚から、全体のために奉仕することを旨とする共産主義者というよりも自律性と独自性を重視する個人主義者である、と批判されたことがある。
 このスターリン評は当たらずといえども遠からずであり、スターリンの中には沢山の「個人」が同居していた。当時スターリンは数々の偽名を使いわけ、変装の名人と言われていた。
 しかも、ボルシェビキのために沢山の「個人」を使い分けていただけでなく、帝政ロシア政府の諜報機関のスパイ役まで勤めていたのだというのだから開いた口が塞がらない。

 それにしても、スターリンを虐殺者たらしめたものは一体何だったのだろうか。
 スターリンが暴力的な家庭で育ち、ロシアで最も暴力的な都市で育ったことは事実だが、スターリン自身が、残酷さ・野望・自己過信・他人への感情移入の希薄さ、といった、独裁者に適合的な性格的偏りを持っていたことの方が大きい。
 他人への感情移入(empathy)の希薄さは、スターリンがグルジア人であり、ロシアの民衆一般と民族的・社会的に自己同一化できなかったことから来ていると考えられる。
 ちなみに、レーニン(Vladimir Ilyich Ulyanov。1870〜1924年)の父は帝政ロシアの高級官僚であり、トロツキー(Leon Davidovich Bronstein。1879〜1940年)はユダヤ人であったことから、やはりスターリンと同じことが言えそうだ。
 決定的だったのは、ボルシェビキの文化そのものだ。
 ボルシェビキは、初期において、メシア的ファナティシズムに突き動かされつつ地下で非合法活動に従事していた。秘密・非寛容・陰謀・暴力はそんな活動にはつきものであり、若きスターリンは、このボルシェビキの中で頭角を現す。
 つまり、ボルシェビキがスターリンをつくったといえよう。
 それが証拠に、粛清は、1917年にレーニンが権力をロシアで掌握してから間もなく始まっており、それが、スターリンの死まで続いたのだ。
 それに、スターリンはレーニンの死後、1929年にソ連の権力を掌握する(注1)ものの、最近明らかになったことなのだが、それ以降も1937〜38年の大粛清の頃までスターリンが権力闘争に晒され続けた(注2)ことだ。

 (注1)レーニンが亡くなると、スターリンは、どちらもユダヤ人であるところのジノヴィエフ(Grigory Yevseevich Zinoviev。1883〜1936年)とカーメネフ(Lev Borisovich Kamenev。1883〜1936年)と手を組んで、左派のやはりユダヤ人のトロツキー、及び右派のブハーリン(Nikolai Ivanovich Bukharin。1888〜1938年)と闘った。トロツキーの追放に成功すると、スターリンは今度は右派のブハーリンとルイコフ(Alexei Ivanovich Rykov。1881〜1938年)と組んで、1917年の蜂起に反対したとしてジノヴィエフとカーメネフと闘い、勝利する。その上で、最後にスターリンは、ブハーリンとルイコフを葬り去った。(
http://en.wikipedia.org/wiki/Joseph_Stalin
。5月24日アクセス。以下同じ)(太田)
 (注2)かつてのボルシェビキの中堅幹部であり失脚していたリューティン(Martemyan Ryutin。1890〜1937年)が、1932年に、強制的集団農場化の中止・工業化のペースダウン・追放されたボルシェビキ指導者達の復権等を唱え、スターリンを激しく攻撃する文書を配布するという事件が起こっている。また、スターリンは、キーロフ(Sergey Mironovich Kirov。1886〜1934年)の人気に押され気味であったところ、1934年にキーロフが暗殺されてほっと一息ついたと考えられる。スターリンは、この暗殺の背後にトロツキー、ジノヴィエフ、カーメネフがいたと容疑をでっち上げ、国内で流刑にされていたジノヴィエフ、カーメネフらを改めて引っ立ててきて、見せ物裁判にかけ、粛清した(後述)。(
http://en.wikipedia.org/wiki/Ryutin_Affair
http://en.wikipedia.org/wiki/Sergei_Kirov
)(太田)

 1932年から33年にかけて、スターリンがウクライナ人弾圧のためにあえて大飢饉を引き起こして600万〜700万人の餓死者を出したこと、ボルシェビキの大物政敵ジノヴィエフやカーメネフを見せ物裁判(show trial)を行った上で1936年に粛清し、これがボルシェビキの幹部を殺す最初の事例となったこと、それがスターリンが1937〜38年に実施した、ボルシェビキを対象とする大粛清(Great Purge)の前触れとなったこと、そして戦後にスターリンがユダヤ人粛清を行った(注3)ことは、このような文脈の中で理解されなければならない。

 (注3)スターリンは死ぬまで執拗に粛清を続けた。1953年にユダヤ人医師達によるソ連共産党幹部暗殺計画(Doctors' plot) が明るみに出るが、同年のスターリンの死の直後に、これがスターリンによるでっちあげであったことが明らかにされた。(
http://en.wikipedia.org/wiki/Doctors'_plot
)(太田)


 つまりスターリンは、その治世を通じて対民衆と対政敵という二正面作戦に明け暮れた、ということだ。

5 感想

 モントフィオールが摘示する、スターリンに関する事実の圧倒的な重みの前には語る言葉もありません。
 スターリンには神と悪魔が同居していた、という感を深くします。
 ここで大事なことは、スターリンの中の悪魔を解き放ったのは、欧州文明が生み出した民主主義独裁の思想の一つである共産主義であったということです。
 毛沢東や金日成/金正日もそうです。
 ナポレオンの中の悪魔を解き放ったのは、やはり欧州文明が生み出したナショナリズムでしたし、ヒトラーの中の悪魔を解き放ったのも、これまた欧州文明が生み出したファシズムでした。
 ところが、ナポレオンもヒトラーもアングロサクソンの手で葬り去られたというのに、スターリンも、毛沢東も金日成も、権力を掌握したまま大往生を遂げることができました。
 それは、できそこないのアングロサクソンである米国のために、20世紀に入ってから日本が疎外され、日本を含めた自由・民主主義勢力が一体となって共産主義に対抗することができなかったからです。
 そもそも、毛沢東や金日成が、それぞれ支那と朝鮮半島北部の権力を掌握できたのは、米国が日本を疎外し、あまつさえ先の大戦で日本を打ちのめすという愚かなことを行ったせいです。
 スターリンや毛沢東や金日成の犠牲になった無数の無辜の人々の鎮魂のためにも、格下ではあるとはいえ、せめて金正日は、権力を掌握したまま死なせてはいけないと思うのですが、相変わらずのできそこないぶりを発揮している米国と、いまだに吉田ドクトリンを克服できない日本を見ていると、この私のささやかな願いも実現しないかもしれませんね。

(完)

太田述正コラム#1777(2007.5.23)
<スターリン(その2)>(2007.11.25公開)

3 独裁者スターリン

 (以下、
http://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9B02EFD7143BF935A25757C0A9629C8B63&sec=&spon=&pagewanted=print
http://www.ashbrook.org/books/1400042305.html
http://www.powells.com/review/2004_07_06.html
http://www.popmatters.com/books/reviews/s/stalin-court-of-the-red-tsar.shtml
(いずれも5月23日アクセス)も参照した。)
 
 (1)知性・感性溢れる家庭人スターリン

 若かりし頃、天才的な詩人であったのだから、スターリンの知性と感性が傑出していたことは確かだ。
 これまで、レーニンと比較して、知的にははるかに凡庸であるとされてきたスターリンの評価は間違いであり、スターリンは、少なくともボルシェビキの指導者群の中では、レーニンに匹敵する群を抜いた知性と感性の持ち主だった、ということだ。

 スターリンの愛読書は、ゴーゴリ(Gogol)、チエホフ(Chekhov)、プーシキン(Pushikin)、シモーノフ(Konstantin Simonov)らのロシア文学書はもちろんのこと、ゲーテの書簡集、バルザック(Balzac)、フランス革命時の詩、ユーゴ(Hugo)、シェークスピア、サッカレー(Thackeray)、等の外国文学に及んだ。
 彼が特に好んだのは、ゴールズワージー(Galsworthy)のThe Forsythe Saga、ジェームス・クーパー(James Fenimore Cooper)のThe Last of the Mohicans、ヘミングウェーの諸作品、等であったと伝えられている。奇しくもすべてが英米文学だ。
 スターリンは歴史も大好きだった。
 ヘルツェン(Herzen)の『7年戦争史』、ピーター・スコット(Peter Scott)の『海戦1939〜1945年』等を読みふけったと伝えられている。
 そして、1941年のモスクワ攻防戦のさなか、スターリンは当時出版されたばかりのクトゥーゾフ(Kutuzov)・・ナポレオンがモスクワを攻めた時にモスクワを放棄して戦いを続けた・・の伝記を読みふけり、最後の最後までその心中を空かさなかったクトゥーゾフに感銘を受け、スターリンは逆に最終的にモスクワを放棄しない決断を下したされている。
 また、気持ちを落ち着けたい時には、スターリンは、モーツアルトのピアノ協奏曲第23番を何度も繰り返して弾いたという。
 薔薇やミモザを育てるのも好きだった。
 彼はまた、映画狂でもあった。"It Happened One Night"や "Mission to Moscow" やジョン・フォード(John Ford)監督の西部劇や、チャップリンのすべての作品が大好きだった。もっともヒットラーも金正日も映画狂だが・・。

 (もっとも、この知性溢れるスターリンが、時には致命的な情勢判断ミスを犯す場合があった。一番有名なのが、1941年の独ソ戦の前、そして独ソ戦が始まってからもしばらくの間、ヒトラーの電撃戦能力を見くびったことだ。しかも、スターリンは、馬に挽かせた火砲といったソ連の軍事戦略の欠陥を理解しようとしなかった。)

 しかもスターリンは、良き夫にして良き親、つまり良き家庭人でもあった。
 1930年にスターリンは妻ナディア(Nadya)に以下のように書き送っている。
 「タツカ(妻の愛称)へ・・タトーチュカ(妻のもう一つの愛称)、君に会いたい。僕は角が生えたフクロウのようにさびしい。・・私は今仕事を終えつつあり、この町を出て明日子供達の所に戻る。・・だから、家に戻って君に会うのはもうすぐだよ。キッスを送る。君のヨセフ。」
 その妻が翌年自殺した時は、スターリンは棺に崩れかかるように嘆き悲しんだという。
 総じて言えば、スターリンは人間的な魅力に溢れる人物だったのだ。

 (2)独裁者にして殺戮者たるスターリン

 独裁者にして殺戮者たるスターリンについては、従来からよく知られていたところだが、ソ連崩壊後、詳細が分かってきた。
 彼がレーニンが亡くなってから5年目の1929年にソ連の権力を掌握してから1953年に73歳で死ぬまでの間に、2,000万人にも及ぶソ連の人々が、粛清や強制収容所送りによって殺戮された。
 スターリンは、ソ連の人々を、元富農(kulak)、帝政ロシアの元官僚、非ボルシェビキ政党の元党員、宗教活動家、投機家、等様々なカテゴリーに分け、カテゴリーごとに処刑枠を設定した。このほか、個別にスターリンが直接特定の個人を処刑を命じる場合があった。前者によって処刑された者は、1937年から39年間の2年間だけで77万人近くに達したし、後者によって処刑された者は、スターリンの全治世下で4万4,000人に達した。
 1941年の独ソ戦開戦は、スターリンを驚かせ、呆然とさせた。
 しかし、しばらくするとスターリンは、敵前逃亡した約50万人の赤軍兵士をつかまえ、1万人以上の将校を銃殺した上で、残りを再編して前線に再投入した。
 この過程で、銃殺された将校の妻達も処刑された。
 1935年に制定されたソ連の法律によって、罪を犯した人物の家族や親戚は、たとえ全く無実であっても連座責任を問われることになった。この結果、粛清された人物の妻、子供、兄弟姉妹に対しても処刑等がなされるようになっていった。
 例えば、1938年に拷問されて死んだブリュッヘル(Vasily Blyukher)元帥の場合、その最初と二番目の妻は銃殺され、三番目の妻は強制収容所での8年間の重労働が科された。
 帝政ロシアでは、レーニンの兄が大逆罪を犯して処刑されたけれど、レーニンは処刑されるどころか、学業を全うすることを許された。また、シベリア送りになった流刑囚だって、ソ連の場合のように、餓死させられたり死ぬほどこき使われるようなことはなかった。
 だから、ソ連は帝政ロシアよりはるかに人間性に悖る体制であったと言える。
 この恐怖政治の下で、レフチェンコ(Trofim Lysenko)の遺伝学等のエセ科学がはびこったし、政治エリートは萎縮し、知性が鈍磨したため、スターリンの死後、ソ連はフルシチョフのようながさつな指導者やブレジネフのような凡庸な指導者をいただく羽目になった。

 (悪いイメージが確立しているベリア(Lavrenti Beria。1899〜1953年)だが、スターリンの死後、彼がソ連の権力を掌握していたならば、ソ連は40年早くペレストロイカの時代を迎えていたことだろう。
 ベリアは、共産主義の根本的問題点を理解しており、私有財産制を導入しない限りソ連が早晩体制崩壊を迎えるのは必至であると考えていた。
 スターリンの死後すぐに、彼は、ソ連の経済の自由化、スターリンが抑圧した諸民族の解放、強制収容所に収容されている人々の恩赦、粛清裁判のインチキさの暴露、ソ連による東独支配の終了等を唱えた。しかし、ベリアはフルシチョフらによって、一年も経たないうちに粛清されてしまう。)

 このソ連に、少なからぬ欧米のインテリがいかれ、ソ連のシンパになったことは遺憾なことだった。
 ソ連における粛清を、ユダヤ系ドイツ人小説家のリオン・フォイヒトヴァンガー(Lion Feuchtwanger。1884〜1958年)、フランス人小説家にしてジャーナリストにして共産主義者のアンリ・バルビュス(Henri Barbusse。1873〜1935年)、フランス人作家のロマン・ロラン(Romain Rolland。1866〜1944年)、米国人自然主義作家のセオドア・ドライサー(Theodore Dreiser。1871〜1945年)、米国人ヒューマニストにしてマルクス主義哲学者のコーリス・ラモント(Corliss Lamont。1902〜95年)らが擁護したことを我々は決して忘れるべきではない。

(続く)

太田述正コラム#1775(2007.5.21)
<スターリン(その1)>(2007.11.21公開)

1 始めに

 ユダヤ系英国人のモントフィオール(Simon Sebag Montefiore。1965年〜。ジャーナリストにしてロシア史学者)が上梓したばかりの'Young Stalin, Weidenfeld & Nicolson, 2007'が、絶賛を博した前作(2004年上梓)の'Stalin: The Court of the Red Tsar'に勝るとも劣らぬ称賛を浴びています。
 あのスターリンが若かりし頃は天才詩人であったというのですから、面白いですね。
 著者がこの二作でどんなことを言っているかをご紹介した上で、最後に私のコメントを付したいと思います。

2 詩人スターリン

 (以下、
http://books.guardian.co.uk/poetry/features/0,,2083062,00.html  
(5月19日アクセス)、及び
http://politics.guardian.co.uk/bookshelf/story/0,,1974026,00.html
http://books.guardian.co.uk/reviews/biography/0,,2078281,00.html
http://www.orionbooks.co.uk/interview.aspx?ID=5934
http://www.newstatesman.com/200705140042
(いずれも5月21日アクセス)による。)

 (1)スターリンの詩

 まずは、青年スターリンの詩を一つご覧あれ。
 なお、原詩は、彼の母国語であるグルジア語で書かれており、韻がすばらしいというのですが、残念ながら、英訳ではそこまでは分かりません。

 Morning

The rose's bud had blossomed out
Reaching out to touch the violet
The lily was waking up
And bending its head in the breeze

(仮訳)

 朝

薔薇のつぼみが花を開いた
すみれに届かんばかりに
百合は目を覚まそうとし
そよ風の中で頭を垂れている

 (2)詩人スターリン

 スターリン、本名ヨセフ・ジュガシヴィリ(Joseph Djugashvili。1878〜1953年。愛称SosoないしSoseloないしKoba。Joseph(Josef) Stalinと名乗るようになったのは1917年から)は、正教の修道院で僧になる修行をしていた1895年、17歳の時、著名な編集者でありグルジア貴族のチャヴチャヴァーゼ(Ilya Chavchavadze)公(Prince)を自作の詩集を携えて訪ねた。
 公はスターリンの詩を高く評価し、五篇を選んで当時のロシアで最も定評のあった文芸誌に掲載した。
 これらの詩は大評判になり、グルジアで爾後準古典扱いをされることになる。
 スターリンは聖歌隊の一員当時、歌唱力がプロ並みだったとされているが、詩才はノーベル文学賞を受賞したチャーチルの文才といい勝負のレベルであり、彼がもし政治の道を選ばずに、詩人としての人生を歩んでいたら、どんなに世界のためによかったか、と思わずにはおられない。

 それから10年後の1905年にレーニンに会ってすっかりレーニンの魅力の虜となったスターリンは、ボルシェビキの幹部の一人として、汚れ役を一手に引き受けるようになる。つまり彼は、レーニンのために、殺し屋、泥棒、銀行強盗等あらゆる悪事に手を染めるようになったのだ。
 当時既にグルジアでは詩人として有名になっていたスターリンは、グルジアの首都のトビリシの銀行を襲うにあたって、スターリンの詩の大ファンであった行員に手引きをさせ、40人を殺して多額のカネを奪うのに成功している。
 権力を掌握してからのスターリンの行った恐怖政治については、ご承知の通りだ。

 とまれ、スターリンは、生涯、詩、そして文学一般、更には芸術に対する思い入れを持ち続けた。
 体制に批判的な者はすぐに殺したスターリンも、体制に批判的なパステルナークらの文学者の命を奪うようなことはしなかった。また、音楽のショスタコーヴィッチ、文学のブルガコフ、映画のエイゼンシュタインらには、時々直接電話をしては、激励した。
 スターリンは、権力を掌握してからというもの、自分がかつて書いた詩について沈黙を貫いた。
 1949年にスターリンの70歳の誕生日の記念に、秘密警察の長のベリア(Lavrenti Beria。同じくグルジア人)が上記五篇の詩のロシア語への翻訳を試みたことがある。著者を知らされていなかった、パステルナークらの翻訳者達は、これはスターリン賞に値する作品だと評価したが、このことを知ったスターリンは翻訳作業を中止させたという。
 ある時、どうしてもう詩を書かないのかと聞かれたスターリンは、「全神経を集中し、しかも死ぬほどの忍耐力がなければ詩は書けないからだ」と答えている。

(続く)

太田述正コラム#1885(2007.7.30)
<超有名ロシア人のプーチン擁護論(その1)>(2007.9.2公開)

1 始めに

 7月24日にロシアのプーチン大統領は、「重大で特に深刻な犯罪を犯したためにわれわれの捜査当局が引き渡しを求めている人物がロンドンには30人も潜んでいるというのに、英国政府は全く馬耳東風で深刻な犯罪を犯したと非難されているこれらの連中を匿い続けている。その一方で、彼らはわれわれを含む他人に対しては、引き渡しを含むところの、より厳しい基準を適用する。憲法改正を求めるなどということはわが国に対する侮辱だと思う。・・彼らの要求は植民地に対する物言いの明白な名残だ。彼らは英国がもはや植民地大国ではなく、もう植民地は全く持っておらず、幸いなことにロシアは英国の植民地であったことが一度もないことをすっかり忘れてしまったに違いない。」と語りました(
http://www.cnn.com/2007/WORLD/europe/07/24/putin.britain.reut/index.html
。7月25日アクセス)。

 どこの暴力団の親分かと思うような物の言い様です。
 しかし、そんなプーチンを擁護する超有名なロシア人が2人います。
 ノーベル文学賞を受賞したソルジェニーティン(Alexandr Isayevich Solzhenitsyn。1918年〜)とノーベル平和賞を受賞したゴルバチョフ(Mikhail Sergeyevich Gorbachev。1931年〜) です。
 この2人の理屈に耳を傾けてみましょう。

 (以下、特に断らない限り、ソルジェニーティンに関しては、
http://www.nytimes.com/2007/07/23/world/europe/23spiegel.html?pagewanted=print (7月24日アクセス)、及び
http://www.atimes.com/atimes/Central_Asia/IG25Ag01.html  
(7月25日アクセス)、ゴルバチョフについては、
http://www.latimes.com/news/nationworld/world/la-fg-gorbachev29jul29,1,5990668,print.story?coll=la-headlines-world
(7月30日アクセス)による。)

2 ソルジェニーティンによる擁護論

 ソルジェニーティンは、13年間の亡命の後1990年にゴルバチョフのソ連に帰国しますが、当時はまだソ連の一部であったロシア連邦社会主義共和国の内閣(Council of Ministers)から著書『収容所列島(The Gulag Archipelago)』に対して賞の授与を打診されてこれを拒否しました。
 1998年、これはソルジェニーティンが『崩壊するロシア(Russia in Collapse)』を出版した年ですが、エリティン(Yeltsin)からロシア最高の勲章を授与すると言われ、ソルジェニーティンは、ロシアをかくもひどい状況にした政府から賞をもらうわけにはいかないとしてこれを拒否しました。
 しかし、今年ソルジェニーティンは、プーチンからの国家賞を受け取りました。
 賞の選考をしたのはロシア科学委員会で授与を承認したのはロシア芸術委員会であり、プーチンはロシアの国家元首として、学者や芸術家の集まりであるこれら機関の決定に従っただけではあるものの、欧米では、ソルジェニーティンが変節した、と受け止められています(注)。

 (注)プーチンは賞の授与に際して、収容所列島に言及するどころか、ロシア語研究へのソルジェニーティンの貢献について触れただけだった。

 実際そう思われても仕方のないようにし向けているのはソルジェニーティン自身です。 すなわち、彼いわく、「プーチンはKGBの一員ではあったけれど、KGBのスパイ(invetigator)でもなければ、強制収容所(Gulag)長であったわけでもない。第一、諜報機関に勤務することは、どの国でも否定的に受け止められるわけではない。というより、時にはそれは称賛を引き起こすことさえある。ブッシュ父はCIA長官であった経歴を米国でさして批判されていないと承知している。」、「<ゴルバチェフが余りにも政治的にナイーブに権力を投げ出してしまい、エリティンが国家資産を民間人に投げ売りし、各地の有力者達の支持を得んがために分離主義を助長し、ロシアを弱体化させ崩壊させた後、>プーチンは・・緩慢かつ着実な国力回復に着手した。・・およそ歴史において、一国が国力を回復する措置がとられた時に他国政府がこれを好意的に受け止めたためしはない」と。

 また、ソルジェニーティンいわく、プーチン時代に「ロシア当局はスターリンの恐怖政治に関連する巨大な数の資料を秘密解除した。こういったすべてのことは、いかに専制的傾向が見られるといえ、またスターリンを是認するような風潮が見られるとはいえ、スターリン時代にロシアが逆戻りするといったことがありえないことを疑問の余地なく指し示している」と。

 一体このソルジェニーティンのロシア史観はいかなるものなのでしょうか。
 
 彼は、ロシアが共産主義を採用したのは決して帝政ロシアの政治体制の必然的結果であったわけではなく、1917年10月のボルシェビキ革命は、ケレンスキー(Alexander Fyodorovich Kerensky。1881〜1970年)の1917年の2月革命以降の失政がもたらしたものに他ならない、と主張します。
 そして、このようにして結果として採用された共産主義が、体制存続の必要性に迫られて個々の指導者達や政治体制の悪しき行為・・血腥い恐怖政治・・を引き起こしたのであって、これらは決してロシア人やロシア国家に内在する欠陥の表れなのではない、と言うのです。
 同時にソルジェニーティンは、上記のような恐怖政治が犯した罪について、諸外国がロシア人/ロシア国家内在的欠陥説を唱えたりすることはもとより、非難したりすることはむしろ逆効果なのであって、ロシアの人々自身が自発的且つ良心的にこの罪を認めることこそ民族的癒しに到達する唯一の方法であることを理解しなければならない、とするのです。

 このソルジェニーティンの史観は、プーチンの史観と似通っています。
 すなわちプーチンは、ソ連崩壊以降、欧米人達がロシア史を大災害(disaster)以外の何物でもないとする史観を押しつけたが、ロシアの歴史学者達は、ロシアの過去の暗部だけでなく栄光の部分も摘示しなければならないとしつつ、ロシア史の最暗部が1937年に頂点に達した恐怖政治であることを認めています。

(続く)

太田述正コラム#1751(2007.4.29)
<エストニア立像撤去騒動>(2007.5.31公開)

1 始めに

 27日の早朝にエストニアの首都タリン(Talinn)で、1944年のソ連軍によるエストニアのナチス占領からの「解放」を記念する2メートルの立像(注1)(1947年設置。その下にソ連軍兵士の遺体が複数埋められているとされている)が撤去され(注2)ると、これに抗議するロシア系による暴動が起き、2日間で、1人が死亡し、警官を含む多数の153人の負傷者が出、多数のショーウィンドウやビルのガラスが割られ、車が横転させられ、約800人も逮捕される事態となり、ロシアでは、上下両院でプーチン・ロシア政権に対し、エストニアを懲罰せよ、あるいはエストニアに経済制裁を加えよ、あるいはエストニアと国交を断絶せよとする声が挙がりました。

 (注1)立像の碑文には、以前は、「大祖国戦争(Great Patriotic War )に斃れたソ連の解放者達のために」と記されていたが、1995年に、「第二世界大戦で斃れた人びとのために」に差し替えられ、永遠の火も同じ時に撤去された。
 (注2)撤去された立像と、これから撤去される遺骸は、軍用墓地に移設・埋葬される予定。

2 背景

 ちなみに、ロシア系はエストニア総人口130万人中30万人もいます。
 エストニア政府は、この立像がタリンの中心部にあるために、エストニア人とロシア系のナショナリストの対立の象徴となっており、また、墓地としてふさわしくない場所であることを撤去の理由としています。
 ロシアのラブロフ(Sergei Lavrov)外相は、「これは涜神的(blasphemous)な行為であり、両国関係に深刻な影響が出るだろう。・・<エストニアの>人びとが、共産主義をナチズムと比べよう・・とすることは理解に苦しむ」とエストニアを非難しました。
 エストニア人からすれば、ソ連軍は、モロトフ・リッベントロップ秘密協定(Molotov-Ribbentrop pact)に基づき、1940年6月にエストニアを占領し、ナチスドイツによって追い出された3年間を除いて、1991年まで居座り続けた、というだけのことです。
 この間、何万人ものエストニア人がソ連によって殺されたり、収容所送りになったり、弾圧されたりしました。
 また、ソ連の他の非ロシア地区同様、エストニアにはロシア人が労働者として、あるいは軍人として送り込まれました。これは、植民地化政策であると受け止められ、その結果、現在でも30万人ものロシア系がエストニアに居住しているのです。
 ロシア側から見れば、独立後のエストニアが、隣国のラトビア、リトワニアとともに2004年にEUとNATOに加入したことや、独立後のエストニアでロシア系が二級市民扱いされているのは腹立たしい限りだ、ということになるわけですが、より根本的な問題は、ロシアでいまだにソ連時代の第二次世界大戦史観が維持されていること、またこれと関連して、現在のロシアのTVを中心とする国営メディア・・このメディアをエストニアのロシア系も視聴している・・がナショナリスティックな一方的な物の見方を視聴者に吹き込んでいることです。
 エストニアのイルヴェス(Toomas Hendrik Ilves)大統領は、先月のロシアの某国営新聞のインタビューで、「自分自身を民主主義体制と認めているロシアが、ソ連の歴史と正面から向き合うことができないことは私の理解を超えている。遺憾ながらロシアは、過去について盲人のブラフをいまだに演じている。」とロシア人に反省を呼びかけたばかりです。
 また、ロシア国内での第二次世界大戦の記念碑が壊されてもほとんど問題にされていないことも指摘されています。
 例えば、今月モスクワの公害で。道路拡張のため、6人の操縦士の墓が撤去されたのですが、抗議の声はほとんど挙がらず、1人抗議した人物は、警官に殴打されたといいます。 
 (以上、
http://www.guardian.co.uk/russia/article/0,,2067441,00.html
http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/6599145.stm
http://www.nytimes.com/2007/04/27/world/europe/27cnd-estonia.html?pagewanted=print
(いずれも4月28日アクセス)、及び
http://www.nytimes.com/reuters/world/international-estonia-russia.html?pagewanted=print
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2007/04/27/AR2007042702434_pf.html
(どちらも4月29日アクセス)による。)

3 終わりに

 先週、エリティン(Boris N. Yeltsin)の葬儀が行われたばかりですが、エリティンが新生ロシアの経済を破綻させたことで自由・民主主義への幻滅感がロシアに蔓延したと思ったら、そのエリティンを継いだプーチンは、ロシアの自由・民主主義を完全に形骸化させてしまいました。
 しかし、エリティンがソ連を崩壊させたことは高く評価すべきですし、彼がロシア史上初めて、自ら「退位」した元首となったことも特筆されるべきでしょう。
 プーチンは、エリティンを、エリティンが廃止した旧ソ連国歌を歌詞だけ変えて復活させたロシア国歌で、葬送しました(注3)が、プーチンもまた現任期で「退位」することを繰り返し表明しています。
 (以上、
http://www.nytimes.com/2007/04/29/weekinreview/29myers.html?pagewanted=print
(4月29日アクセス)を参考にした。)

 (注3)ロシア国家元首の葬儀としては、最後の一つ前のロシア皇帝のアレクサンドル3世の1894年の葬儀以来、初めてロシア正教で行われた。

 このようにロシアにおいても、まだ自由・民主主義化の可能性が絶たれたわけではありません。
 そのためにも、ロシアの人びとが、ファシズムとほとんど同等におぞましいスターリン主義のソ連の歴史と正面から向きあう必要があるのですが、一体、我々としては、どうやって彼らにそれを促したらよいのでしょうね。

太田述正コラム#1569(2006.12.15)
<ベレゾフスキー対プーチン(その4)>
 

 そして陰謀論者は、米国は、ロシアの経済を破綻させることによって、地政学的観点からは、ロシアが二度と米国の覇権を脅かす存在にならないようにすると同時に、NATOをかつてのソ連の領域にまで拡大させることを可能ならしめたし、かつ、純粋に経済的観点からは、ロシアが高付加価値産業を持つ有力な競争相手になることを妨げ、ロシアをして、鉱業、とりわけ化石燃料の掘削と欧米への輸出、に特化した第三世界的な経済の国へと零落させた、と主張するのです(
http://www.internationalviewpoint.org/spip.php?article491上掲)。

 さて、私はかねてより、米国は積極的な陰謀ができるような国ではない、と言い続けてきました。
 米国の大統領が、特定の外国の運命を左右するような陰謀を企てたとして、かかる陰謀を実行に移す過程で沢山の人々がこれに関わることになるはずですが、米国は、報道の自由が保証され、メディアが鵜の目鷹の目で特ダネをモノしようとしている国なのですから、秘密が早晩ばれることは必定であり、陰謀が陰謀でなくなってしまうのです。
 ところが、ソ連崩壊は1991年のことですから、15年も前の話であるところ、そんな頃の陰謀がいまだに米国のメディアによって暴露されていない、ということは、そんな陰謀などなかった、ということなのです。
 なお、陰謀論者が持ち出している戦後直後の古証文など、もはや時効ですし、15年前のウォルフォヴィッツなど、ポリティカルアポインティーの中堅程度の存在であり、そんなウォルフォヴィッツの当時の発言など、何の根拠にもなりはしません。
 そもそも、ロシアにカネを出し、アドバイザーを送り込んだのは米国政府・諸機関・財団・教育機関という多岐にわたる組織であり、米国政府がこれら組織をすべて一糸乱れずコントロールしていたなんて、諜報機関関係者が牛耳るプーチン政権下のロシアじゃあるまいし、およそあり得ないことくらいお分かりでしょう。
 要するに、当時の米国民は、落ちぶれ、人口が半分に減少したソ連とでも言うべきロシアを、一挙に米国流の自由民主主義と資本主義の国へと作り替えるべく、上も下も、はち切れんばかりの善意を持って、ロシアに押しかけ、全く意図せざる結果として、ロシアを壊してしまい、ロシアの大部分の国民に塗炭の苦しみを与えてしまった、ということなのです。
 
 こんな思いをさせられた大部分のロシアの国民が、自由民主主義と資本主義そのものに幻滅し、ソ連時代を懐かしみ、かつ、自分達がひどい目に遭っていた時に、我が世の春を謳歌していたオリガーキーらに憎悪の念を抱くに至ったことは、当然と言えば当然でしょう。
 だから、大部分のロシア国民は、自由民主主義を骨抜きにして強いリーダーシップを発揮し、ベレゾフスキー等のオリガーキーにリースしていた旧国家資産を国家の手に取り戻して国家資本主義的体制を構築するとともに、これらオリガーキーを収監、あるいは追放したプーチンに拍手喝采を送ったのです。

4 ソ連の崩壊という悲劇

 このように見てくると、ソ連が崩壊したことは果たしてよかったのか、という深刻な疑問が生じてきますね。
 そう、コーエンは、ソ連が崩壊したのは悲劇だった、と主張しています(注2)。

 (注2)ソ連崩壊の9ヶ月前に実施された世論調査では、ロシア国民の76%はソ連が維持されるべきだと考えていた。

 すなわち、コーエンは、ソ連崩壊は、ゴルバチョフ(Mikhail Gorbachev。1931年??)による政治的・経済的改革の性急さ、エリティンがゴルバチョフとの権力闘争に勝利するために、ゴルバチョフが国家元首であったソ連を、その後のことを何も準備しないまま崩壊させようとしたこと、ソ連の官僚エリートたるノメンクラトゥーラ(nomenklatura)が国家資産の護持より掠奪に食指を動かしたこと、によって生じたとした上で、このソ連崩壊によって、漸進的、コンセンサス的でトラウマを残さない形で、従ってより実りある形で低コスト的にロシアを民主主義化し近代化する、という歴史的機会が失われてしまったというのです。
 (以上、
http://www.guardian.co.uk/comment/story/0,,1970752,00.html
(12月13日アクセス)、及び
http://www.nytimes.com/books/00/10/08/reviews/001008.08kaplant.html
上掲、による。)

(完)

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