カテゴリ: ロシア政治

太田述正コラム#1873(2007.7.20)
<ロシア外交官を追放した英国(続)>(2007.8.30公開)

1 ロシア大使館員追放以降の動き

 7月16日に英国政府がロシア大使館員追放を発表したところ、ポルトガルの外相は、これは英露の2国間の問題だと述べ、ドイツの首相は言質を与えず、そのドイツの外務省は英国はやり過ぎだと考えている旨報じられています。
 これまで、欧州諸国の中で明確に英国に対し全面的支持を表明したのはフランス外相だけ、という状況です。
 18日になってようやく現在議長役を務めるポルトガル首相が、EUを代表して、ロシアが本件について英国に対して建設的な対応をしていないことに遺憾の意を表する、という始末です。
 (以上、
http://www.guardian.co.uk/russia/article/0,,2128844,00.html 
(7月18日アクセス)、及び
http://www.guardian.co.uk/russia/article/0,,2129747,00.html  
(7月19日アクセス)による。)

 ロシア政府は、19日、対抗措置として、在露英大使館員4名の追放、英国との対テロ協力の中止、英国の公務員に対するビザ供与の中止、ロシアの公務員の英国に対するビザ申請の中止、を発表しました。
 これでも、ロシアに言わせると、欧米との関係のこれ以上の悪化を避けたいプーチン大統領の決断で、抑制された対抗措置になったということのようです。
 (以上、
http://www.guardian.co.uk/russia/article/0,,2130814,00.html
(7月20日アクセス)による。)

2 ベレゾフスキー暗殺未遂事件

 英国に対するロシアの対抗措置が抑制されたものになった理由の一つとして、ベレゾフスキー(Boris A. Berezovsky)暗殺未遂事件の存在を挙げる人もいます。

 この話は18日にベレゾフスキー本人がマスコミに語り、それを英国の警察筋が大筋で認めたものです。
 ベレゾフスキーによれば、一ヶ月前にロンドン警視庁の係員が、「ある男があなたを殺しに来るので、誰にも会わないようにし、英国を離れていた方がいい」と伝えたというのです。

 ベレゾフスキー自身、これまでロシアにいた時を含め、何度も暗殺されかけた経験があるのですが、3ヶ月前に、ロシアの諜報機関にコネのある友人達から、ベレゾフスキーの知人を英国に送り込んで拳銃でベレゾフスキーを殺害する計画があり、その男は事が終わった後、自首し、長い刑期を終えた後にロシアに英雄として戻って多額の謝金を手にすることになっている、という話を聞かされていたといいます。
 半信半疑でいたベレゾフスキーは、話が符合していることに驚き、6月16日からしばらく英国を離れます。
 この暗殺者は、英国に足を踏み入れた時から英当局によって尾行されていたのですが、英国内で拳銃を入手した上でベレゾフスキーに接近し、ロンドンのメイフェアのパークレーンのヒルトンホテルでベレゾフスキーを射殺しようとしていた(注)ところ、その男は6月21日に逮捕され、その後移民局に移管され、更に10年間英国訪問を禁じられた上で国外追放になったというのです。

 (以上、
http://www.nytimes.com/2007/07/18/world/europe/18cnd-britain.html?hp=&pagewanted=print
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2007/07/18/AR2007071802269_pf.html
http://www.guardian.co.uk/russia/article/0,,2129752,00.html
(いずれも7月19日アクセス)による。)

 (注)リトヴィネンコ(Alexander Litvinenko)が紅茶にポロニウムを盛られたのは、同じメイフェアの半マイルと離れていないミレニウム(Millennium)ホテルだった。ちなみに、この暗殺者は子供を1人連れて観光客を装っていたが、リトヴィネンコ殺害の容疑者であるルゴヴォイ(Andrei Lugovoi)も同様、当時奥さんと子供達とともにロンドンにやってきていた。

3 感想

 事実は小説より奇なりと言いますが、まさにスパイ小説を地で行くような話ですね。
 こういう話を対岸の火事のように眺めている日本のわれわれは、恵まれているのではなく、単に愚者の楽園に住んでいるだけなのです。 

太田述正コラム#1870(2007.7.17)
<ロシア外交官を追放した英国>(2007.8.26公開)

1 始めに

 英国に帰化したロシアの元諜報機関員のリトヴィネンコ(Alexander Litvinenko)が昨年11月にポロニウムを用いて殺害された事件で、ロシア政府に被疑者の、やはり元諜報機関員のルゴヴォイ(Andrei Lugovoi)の引き渡しを求めていた英国政府は、ロシア政府が先週引き渡しを拒否したことに対し、諜報要員と目される在英ロシア大使館員4名の追放を決定しました。
 また、英国政府は、ロシアの公務員で訪英しようとする者へのビザの条件を厳しくすることも発表しました。
 
 これに対し、ロシア政府は、この英国政府の動きは「非道徳的で挑発的であり、両国関係に極めて深刻な結果をもたらすだろう」とし、「適切な対応措置をとる・・恐らくは英外交官の追放・・」という声明を発しました。

2 引き渡し要求した理由

 ことここに至るまでの間に、ロシア政府は、ルゴヴォイをモスクワで裁判にかけてもよいと提案したのですが、英国政府は、ロシアの裁判所が行政府から独立しておらず、また裁判の質がEU的水準に達していないことからこの提案を拒否しました。
 また、逆にロシア政府は、ロシアから英国に亡命した、百万長者のベレゾフスキー(Boris Berezovsky)とチェチェン独立派の駐英代表であるザカーエフ(Akmed Zakayev)の引き渡しを英国政府に求めたのですが、彼らの裁判は政治裁判になるに違いないとの判断から英国政府はこの要求を拒否しています。
 英国政府としては、英国人となった人物が、ロシア政府が関与しなければ入手することが困難な放射性物質を用いて殺害され、しかもこの放射性物質によって無数の場所が汚染された事件を、その被疑者が特定できたのに放置しておくわけにはいかないというやむにやまれぬ思いから、ルゴヴォイの引き渡しを求めるに至ったものです。
 なお、ロシア憲法は、ロシア人を外国政府の要求に応じて引き渡すことを禁じていますし、英国を含むEU加盟諸国も、かかる引き渡しを拒むことができることになっていますが、英国政府としては、本件の重要性にかんがみ、ロシア政府は憲法を改正してでもルゴヴォイを引き渡すべきであるという考えのようです。

3 今後どうなる

 (1)既に悪化していた英露関係

 昨年、英国とオランダの会社であるロイヤル・ダッチ・シェルがサハリン2の石油/天然ガス事業に持っていた過半数以上の権利をロシア国営のガスプロム(Gazprom)社に召し上げられ、ブリティッシュ・ペトロリアム(BP)がコフィクタ(Kovykita)の天然ガス事業に持っていた権利も同じくガスプロムに召し上げられたことに対し、英国は不快な思いをしています。
 また、同じく昨年、ロシア諜報機関は、英国の外交官達が諜報活動に従事したり密かにロシアのNGOに資金供与をしていると非難したけれど結局誰も追放にはならなかったという事件が起きています。
 ロシアは、英国が米国と歩調を合わせていることにも不満たらたらです。
 英国が米国とともに、もともとはロシアの勢力圏であったセルビアやイラクに介入したこと、米国がミサイル防衛システムをポーランドとチェコに設置しようとしておりそれを英国が支援していること等です。
 先週末にロシアが欧州における兵力の配備を規制する条約からの脱退を宣言したのは上記ミサイル防衛システムに係る動きに対抗するのがねらいです。

 そのロシアは英国と仏独等の間に楔を打ち込むことに腐心し、それに成功しつつあります。
 ロシアは、中央アジアから石油や天然ガスをロシアを経由しないパイプラインで欧州に運ぶという計画をつぶした上で、ドイツとチェコにそれぞれ別個のパイプラインを通すことで合意し、先週にはフランスのエネルギー会社に北極圏の巨大な天然ガス田を開発する権利の25%を与える話がまとまりました。

 ついには、あのゴルバチェフ(Mikhail Gorbachev)まで16日、「英国と米国はやり方が適切ではなかったことを早晩理解するだろう」と言い出す始末です。
 (以上、
http://www.guardian.co.uk/commentisfree/story/0,,2127953,00.html
http://commentisfree.guardian.co.uk/rodric_braithwaite/2007/07/radioactive_russia.html
http://www.guardian.co.uk/russia/article/0,,2128085,00.html
http://www.guardian.co.uk/russia/article/0,,2128132,00.html
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/politics/6901847.stm  
(いずれも7月17日アクセス)による。)

 (2)今後どうなる

 英国が毅然としているからこそ、英露関係は文字通り冬の時代を迎えるに至ったわけです。
 それに引き替え、欧州諸国のだらしのなさはどうでしょうか。
 いつまで経っても、非・自由民主主義的体制に甘い欧州の体質は変わらないようです。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

<太田>
 読者とのやりとりを掲げます。

<田吾作>
 「中共の欠陥食品問題」(コラム#1864)に関連してですが、食品問題は複雑な内容があり見かけほど簡単ではありません。
 まず現実として原理的に見て安全な食品は存在しない事を認識する必要があります。

 パラケルスス(Paracelsus)は

 「・・有毒でないものとは何か。化学物質はすべて有毒であり、有毒でないものは皆無である。用量によってのみ薬であるか、毒であるかが決まる・・」
Paracelsus Dritte Defension(1538)
http://www.nickel-japan.com/isnickelsafe.pdf

と述べており、地球上に存在するすべての物質は化学物質の範疇に入りますので「安全な食品は存在しない」問題は「量」という事になります。
また最近の技術革新により物質を検査する精度が一万倍程度向上しています。

 「技術革新が揺さぶる検疫、『フカヒレより高いエビチリ』が登場するカラクリ・・例えば残留農薬の検査では、検査機関が受託する検査精度は、既に ppmレベルを超え、ppb(10億分の1)単位に達している。さらに機器メーカーは、『検査精度は、測定値の10倍まで確保している』(島津製作所)と 明かす・・この事実を前に、もはや厳密な『検出せず』はあり得ない・・」
http://biztech.nikkeibp.co.jp/wcs/leaf/CID/onair/biztech/print_biz/273175

 人為的に「量」を決定する必要があるというわけです。
 ところが人間の方にも事情があります。

 「腸の生物多様性・・2004年1月22日号に載ったネイチャー誌ヨーロッパ通信員アリスン・アボット氏による特別記事・・食べものが人間の体に 影響を与えるのは、人間の消化管、それも食道や胃ではなく、腸である。人間が体内へ取りこんだ食物に体の細胞が触れ、食物に含まれた栄養を吸収するのはま ず腸においてである。それと同時に、その食物に含まれた悪いもの(毒物など)も、そのときはじめて人間の細胞に触れる。免疫的な反応もここでおこる。・・ 体によいかどうかがきまるのは、まず腸においてなのである。・・

・・人間の腸にはいろいろな腸内微生物が住んでいる。・・それぞれの微生物が互いに他の微生物と微妙に依存しあって生きているので、たまたま一つ の微生物が少し増えて自分にとっては不都合なある物質を作り出すと、それが他の微生物の食物となってこのものが増えはじめ、その影響が第三の微生物に及ぶ ということになり、ある一つのことの結果がどのように広がっていくか容易には予知できない・・

・・人間の腸内には何千という種類の微生物がいる・・人間全体を通じての研究の結果による・・一人の人の腸の中にはそれほど多種類がいるわけでは ない。せいぜい100種類の微生物が住んでいる程度・・人によってこの100種類がみな異なっている・・腸内微生物の種類組成が同じ人は二人といないとさ えいわれている・・住みつく可能性のある何千種類という微生物の中の100種類なので、それはほとんど重なりあっていない・・なぜこんなことになるのか? それは人間の腸内微生物の住みつく経過による・・

・・子宮の中の胎児の腸には、微生物はまったくいない。けれど胎児が子宮から産道を通って生まれてくるときに、急速にさまざまな微生物が新生児の 腸に住みつくようになる。そして、生後一か月のうちに、食物その他環境からの微生物が混じりこんできて、おそくとも生後二か月には、主だったものを中心に 100種類ほどのひと揃いの腸内微生物組成ができあがる・・このプロセスが人によって少しずつちがい、その後もその微生物間の関係や食物との関係、腸にお こるさまざまな病的・健康的変化などの動きの中で、その人その人の組成ができあがっていく・・」(セミたちと温暖化 / 日高 敏隆 P75-77(付けたり1)

 さらに

 「・・魚介類等には微量の水銀が含有され、食物連鎖の結果高レベルの水銀を含有する魚介類等の存在が知られているが、今回食物連鎖の上位にあるま ぐろ類及び鯨類から高濃度の水銀が検出されたことで、それが裏付けられた。・・」(日常食品中の水銀摂取量調査−魚介類の含有量実体を中心に−)
http://www.ihe.pref.miyagi.jp/STUDY/reports/2005/206.pdf
(上記よりの参考資料)単位はppm
めばちまぐろ 1.8  赤魚(冷凍)0.28 きす 0.22
きはだまぐろ 0.31 びんちょうまぐろ 1.2  

 我々が手軽に口に出来る野生食物である魚介類について結局下記のような現実があります。

 「技術革新が揺さぶる検疫、『フカヒレより高いエビチリ』が登場するカラクリ・・安全性と経済合理性、そして食品間の整合性――。この3つの折り合いをどうつけるべきか。厚労省は難しい舵取りを迫られている。・・」(前述資料)

 「もはや厳密な『検出せず』はあり得ない」ので人為的に基準を設定しなければなりませんが、人間の個人差は非常に大きいので基準量以下でも中毒の可能性があり、「厚労省は難しい舵取りを迫られている」ので次のような声明を出しています。

 「水銀を含有する魚介類等の摂食に関する注意事項・・一部の魚介類等では食物連鎖により蓄積することにより、人の健康、特に胎児に影響を及ぼす恐 れがある高いレベルの水銀を含有している。・・妊娠している方又はその可能性のある方ついては、魚介類等の摂食について、次のことに注意することが望まし い。・・」
http://www.mhlw.go.jp/shingi/2003/06/s0603-3.html

 私の現在理解している範囲はこれ位です。現在の高齢者は自然毒物のみを含有した食糧を少しだけ食べる事のできた両親から、若年出産で誕生して身体 の主要部分を形成する幼少期にはまだ自然毒物だけの世界でしたので、体内蓄積毒物量はそう多くないと思われます。現在の子供は妊娠中に昔と比較すると高齢 な母親より蓄積された人口毒物を胎盤経由で受け継ぎ、出産後も食物連鎖により濃縮された人口毒物を含有した食品を食べ続けているわけですから、体内蓄積毒 物量は増えていると考えられ、健康に対する人間にはどうしようもない潜在的な脅威にさらされていると私は思います。

<太田>
 蘊蓄を傾けていただき、大変勉強になりました。
 ほかの皆さんも、コラムに対し、どしどしご意見やコメントをお寄せ下さい。

太田述正コラム#1657(2007.2.12)
<不気味なロシアの動向(その2)>(2007.3.16公開)

 マッケイン米上院議員は、その日の演説で、「今日のような多極化した世界においては不必要な敵対は不要だ。」と述べ、「ロシアの専制化がより鮮明になるのか、その外交政策がより西側の民主主義諸国の原則に背馳するものになるのか、そのエネルギー政策が脅迫のための道具に用いられるようになるのか」と問いかけ、「ロシアは、その国内と国外における行動が、欧州・大西洋の民主主義諸国の中核的諸価値に抵触するようであれば、西側と真の協力関係を享受することができないことを理解しなければならない。」と結びました。
 ホワイトハウスのスポークスマンは、「われわれはプーチン大統領の発言に驚き、落胆している」と語りました。
 同じ会議で翌11日、ゲーツ米国防長官は、「皆さんの多くは外交や政治のバックグランドを持っているが、私は昨日の・・・演説者のと同様、スパイ・ビジネスでのキャリアという、非常に異なったバックグランドを持っている。そして、思うに、昔のスパイはぶっきらぼうにしゃべる習慣がある。」と切り出し、「ただし、私に関しては、4年半にわたって大学の学長として、・・・先生方とおつきあいする・・・再教育キャンプに入っていた<ので再教育されていないプーチンとは違う。>」と笑わせた上で、「同じ古い冷戦の戦士として、プーチンの言動はより複雑でなかった時代への郷愁を呼び起こされた・・と言いたいところだ(almost)。・・・冷戦は一つで沢山だ。ロシアとの新たな冷戦など願い下げだ。」と語りました。
 チェコの新しい外相は、チェコが米国にミサイル防衛のためのレーダー施設建設を認めようと認めまいとロシアには何の関係もないことだと述べ、更に「われわれは、何故にNATOを拡大しなければならないかを明確にかつ説得力ある形で議論してくれたプーチン大統領に感謝すべきだ。どうやら世の中には、もうソ連は存在していないことに気づいていない人々がいるようだ。」と述べて拍手喝采を受けました。
 この会議の西側の出席者の中からは、新たな冷戦が始まるのかという声がある一方で、ソ連時代に比べて影響力が凋落したロシアでは、時々こんな形で国民の鬱屈した気持ちのガス抜きをする必要があるというだけのことだという声もあります。
 いずれにしても、西側の出席者に共通している認識は、あの演説は、いかに石油や鉱物資源による収入がプーチン大統領の権力を強化したかを示している、というものです。
 昨11日には、イワノフ(Sergei B. Ivanov)ロシア国防相も演説を行い、ロシアと米欧との関係は「成熟しているので、われわれは自分達のホンネを率直に語ってもよいのだ」と述べ、プーチン大統領の演説は決して挑発的ないし喧嘩をふっかけたものではなく、「われわれはわれわれの見解を誰にも押しつけようとなどと考えてはいない。」としつつも、ロシア政府はロシアとの協議なくして、あるいはロシアの同意なくして、いわんやロシアに押しつけるような形で、国際行動がとられることを支持することはできない、と言ってのけました。
 (以上、
http://www.latimes.com/news/nationworld/world/la-fg-putin11feb11,0,3752037,print.storyhttp://observer.guardian.co.uk/world/story/0,,2010462,00.html
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2007/02/10/AR2007021000524_pf.html
http://www.nytimes.com/2007/02/11/world/europe/11munich.html?ei=5094&en=3c3dfce117120d6d&hp=&ex=1171256400&partner=homepage&pagewanted=print
(以上、2月11日アクセス)、及び
http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/6351853.stmhttp://www.nytimes.com/2007/02/11/us/11cnd-gates.html?ei=5094&en=da0bfe656854871f&hp=&ex=1171256400&partner=homepage&pagewanted=printhttp://www.ft.com/cms/s/416a7706-b9cc-11db-89c8-0000779e2340.htmlhttp://www.guardian.co.uk/russia/article/0,,2010930,00.html
(以上、2月12日アクセス)による。)

3 リトヴィネンコ暗殺事件の闇

 今年1月末、ロシアの内務省の保安要員が射撃訓練を行っている民営の射撃場で、昨年ロンドンで暗殺されたリトヴィネンコ(Alexander Litvinenko)の写真を標的に使っていたことが露見しました(
http://www.taipeitimes.com/News/world/archives/2007/02/01/2003347222
。2月2日アクセス)。

(続く)

太田述正コラム#1656(2007.2.11)
<不気味なロシアの動向(その1)>(2007.3.14公開)

1 始めに

 ロシアの動向が不気味さを増しています。
 プーチン・ロシア大統領の昨日の演説と、あのリトヴィネンコ暗殺事件に関して分かってきたことのご紹介を通じて、その不気味さを感じとっていただければ幸いです。

2 牙をむいたプーチン

 (1)始めに
 
 プーチン(Vladimir V. Putin)ロシア大統領は10日にミュンヘンで開かれた国際会議の席上、メルケル(Angela Merkel)ドイツ首相、マッケイン(John McCain)米上院議員、ゲーツ(Robert M. Gates)米国防長官らを前にして、次のようなトンデモ演説を行いました。

 (2)プーチンの演説

 ベルリンの壁の残骸は記念品として開放と個人的自由を称える国々に持ち去られたが、「今ではロシアと皆さんの双方にとっての<欧州>大陸に対し、大陸を二つに分かつ、バーチャルではあるものの、新しい境界線を押しつけようとする企みが進行している。」
世界は今や<米国>一極となった。「一つの力の中心。一つの軍事力の中心。一つの意思決定の中心。これは、一つの主人、一つの主権者の世界だ。」
 米国は、その軍事力の行使にあたって国際法を無視している。弱小国を保護していた法的制約はもはや死に絶えてしまった。「これは非常に危険な状況だ。誰も国際法という大きな巌の後ろに隠れることができなくなり、誰ももはや安全だと感じることはできなくなった。このため軍拡競争が促進され、核兵器を持とうと思う国々が出てきた。<米国は>国際場裏において野放図な軍事力行使をしている。あらゆる機会をとらえて爆弾を落としたり射撃をしたりすることがどうして必要なのだろうか。」
 世界は冷戦時代よりむしろ危険になった。なぜなら冷戦当時は「脆弱な平和、恐ろしい平和であったけれど、それはかなり信頼性が高かったのに対し、現在は信頼性が低下してしまったからだ。」
 また、米国はロシアと交わした諸条約に反して核装備を削減していない。それに米国は、将来のイランの核ミサイルに備えると称してポーランドとチェコにミサイル防衛施設を設置しようとしているが、「ミサイル防衛がロシアを狙ったものでないというのなら、ロシアの新しいミサイルも米国向けのものではない、ということになる。」米国のミサイル防衛は国際的な軍事均衡を突き崩し、米国をして一層大胆な外交政策をとらしめることとなろう。
 更に、「NATOの拡大は<NATO>同盟の近代化とは何の関係も認められない。ロシアは「一体誰に対して拡大がなされているのか」と問いただす権利を持っている。」そもそも米国は、何故にかつてのソ連圏のブルガリアとルーマニアに米軍を配備するのか。「NATOは敵対的軍事力をロシアの国境に持ってきている。これは相互の信頼を低下させる深刻な挑発だ。」
 米国は、旧ソ連圏で実施される選挙に監視員を派遣する全欧安保機構(Organization for Security and Cooperation in Europe=CSCE)を、「一つの国の外交的利益を確保するための下卑た手段に変えてしまった。」
 冷戦が終わった直後にドイツはそれまで対峙していたロシアに対し、ドイツ国境外に軍事力を派遣することはないと確約した。しかし、<その確約に反し、>今ではバルカン諸国とアフガニスタンにドイツ部隊が駐留している。

 (3)プーチン演説への反発
 このプーチン演説に対して、この会議への出席者等から以下のような反発が出てきています。

(続く)

太田述正コラム#1568(2006.12.15)
<ベレゾフスキー対プーチン(その3)>

 以上、どこかで聞いたことがある話だと思われませんか。
 そうです、イラク戦争以降の米国とイラクの関係が彷彿とされる話ですよね。
 要するに、米国は他国の体制変革にせよ、統治にせよ、まことに下手くそである、ということなのです。
 何度も申し上げて恐縮ですが、米国は、黒人を除き、米国のアングロサクソン的建国理念に共鳴し、自分の意思で故郷を棄てて北米大陸にやってきた変わり者の人々とその子孫によって人工的に形成されている国であることから、米国人は、故郷に残ったフツーの人々の心情やこれらの人々が住んでいる国や地域のことについては、およそ理解能力を欠いているのであって、米国人が、そんな国や地域の体制変革を行ったり、統治したりすれば、ロクな結果にはならないのです。

 さて、ご紹介してきたコーエンの主張に対しては、米国内から二種類の批判が投げかけられています。

 一つは、ロシアは米国政府等が送り込んだアドバイザー達の勧告を忠実に実施に移さなかったから失敗したのだ、という批判です(
http://www.nytimes.com/books/00/10/08/reviews/001008.08kaplant.html上掲)。

 確かに、イラクと違って米国はロシアを占領したわけではありませんから、米国がロシアにああしろこうしろと命令するわけにはいかなかったことは確かです。
 しかし、米国人アドバイザー等が推賞したマネタリスト的ショック療法は、チリでマルクス主義者のアジェンデ(Salvadore Allende。1908??73年)の政権が倒れた1973年から、マネタリストの総帥のフリードマン(Milton Friedman。1912??2006年)自ら現地に乗り込んで檄を飛ばしつつ、実施に移されたところ、チリの経済成長率は、1989年までの年平均が2.6%と、それまでの1951年??1971年の4%成長より大幅にダウンしたばかりか、その間、チリはひどい不況に2回も苦しめられたのです。
 また、貧困層は絶対的にも相対的にも増え、所得分配の不平等度は増大しました。
 更に、経済開放政策がとられた結果、チリ経済は比較優位のある鉱業や農業にシフトし、工業のGDP比は1960年代後半の26%から1980年代後半の20%に低下してしまいました。
 1990年代初めに、このマネタリスト的政策はついに撤回されるのですが、その後、チリは年6%の高度成長を続けています。
 (以上、
http://www.atimes.com/atimes/Global_Economy/HL06Dj01.html
(12月6日アクセス)による。)
 このように、チリで一度失敗した処方箋を米国がロシアに示したこと自体、極めて不適切だったと言うべきでしょう。
 しかも、ロシアはこの処方箋をかなり忠実に実施に移した観があります。
 また、米国は、お世辞にもロシア「文明」、就中その暗部を余りにも知らなさすぎました。
 ですから、エリティン政権下でロシアが破壊されたことについては、生徒たるロシアではなく、先生たる米国の責任の方がはるかに大きい、と私は思います。

 もう一つの批判は、米国はコーエンが言うように、ロシアのためによかれと思って処方箋を提示したのではなく、間違った処方箋を押しつけてロシアを破壊しようとしたのであり、この陰謀は大成功を収めた、というものです。

 こういう陰謀論者が援用するのは、第一に、米国務省のソ連専門家であったジョージ・ケナン(George Kennan。1904??2005年)が、1945年に吐いた次の言葉です。
 「われわれが世界の人口の6.3%しか占めていないのに世界の富の約50%を保有している。・・来るべき時代におけるわれわれの任務は、かかる不平等をわれわれの安全保障を害しないで維持し続けるための諸外国とのあるべき関係をつくり出すことだ。そのためには、われわれはあらゆる感傷と白昼夢を捨て去らなければならない。・・われわれは他国(brothers)の後見人(keeper)になど決してなるべきではないのだ。」
彼らが援用するのは、第二に、米国政府の次のような1948年の内部文書です。
 「われわれは、たとえある国が非共産主義国家であって表見上は米国の友好国家であったとしても、その国が、(1)強力な軍事力を保有せず、(2)外の世界に相当程度経済的に依存する、ようにするための自動的なセーフガードを確立しなければならない。」

 陰謀論者は、クリントン政権時代の米国の対ロシア政策は、これら先の大戦直後に打ち出された米国の戦略の忠実な後継であるところの、いわゆるウォルフォヴィッツ(Paul Wolfowitz。1943年??)(コラム#69、1174、1189、1498)・ドクトリン・・ウォルフォヴィッツは、崩壊しつつあるソ連を前にして、「われわれの第一の目標は、二度と新たなライバルが出現しないようにすることだ」と語った・・に則って遂行されたのであって、コーエンは何も分かっていない、と主張するのです。
 (以上、
http://www.internationalviewpoint.org/spip.php?article491
(12月13日アクセス)による。)

(続く)

太田述正コラム#1567(2006.12.14)
<ベレゾフスキー対プーチン(その2)>

 (更に2件、有料講読の新規申し込みがありました。これで7名です。引き続き、継続会費の支払いと新規申し込みをお待ちしております。継続される方で振込先を忘れた方や、新規申し込みの方は、ohta@ohtan.net まで。)

 コーエンは、米国は、西独が人口1,700万人で40年間共産主義の下にあった東独を吸収統合したのとおなじように、人口1億4,000万人以上で70年間共産主義の下にあり、7つの時間帯にまたがっているロシアを世界経済に統合しようとして失敗した、と指摘します。
 米クリントン政権は、宣教師的情熱でもって、フリードマン流のマネタリスト的ショック治療(shock therapy)をロシアのエリティン政権に推賞し、緊縮財政とソ連時代の消費者向けや福祉目的の補助金の廃止、そしてロシアの国家企業等の国有資産の民営化、市場の外国の製造企業への開放、政府の役割の大縮小、を行わせた、というのです。
 そして、そのために、米国政府・諸機関・財団・教育機関がカネを出し、山のようなアドバイザー達をロシアに送り込み、彼らをロシア政府・政治運動・労働組合・メディア・学校に入り込ませ、その彼らは、お好みのロシアの政治家にカネを渡し、大臣達に教えをたれ、法律や大統領令を起草し、教科書の原案をつくり、1996年のエリティン再選本部で勤務した、というのです。
 米国の投資家達も、同様の宣教師的情熱にかられていた、といいます。
 
 しかし、彼らは、当時のロシアの現実が全く見えていなかった、というのです。
 クレブニコフ(Paul Klebnikov)が著書の GODFATHER OF THE KREMLIN, Harcourt の中で言ったように、エリティン体制というのは民主主義ではなく、拝金主義(kleptocracy)だったのです。
 クレブニコフは、急速にロシア一の大金持ちになった資本家もどきのベレゾフスキー(Boris Berezovsky。元数学者)こそ、この時代を象徴する人物だと指摘しています。
 クレブニコフに言わせれば、ベレゾフスキーは、権力亡者にして陰謀家であり、情け容赦のない人物であって、組織暴力団の手を借りつつ、富を生み出すどころか、彼が携わるあらゆる事業を掠奪して次々に破壊したのです。アエロフロートしかり、ロシアの公共放送であるORTしかりです。
 コーエンは、こんなベレゾフスキーらのオリガーキーをのさばらせたエリティンは、ロシア最初の民主主義的指導者などではなく、不格好なネオ・ロシア皇帝主義者であってゴルバチョフ(Mikhail Gorbachev)が始めたロシアの民主主義化への歩みを破壊した人物であると主張します。
 このエリティンの下で首相を務めたチュバイス(Anatoly Chubais)は、自称改革派であり米国のお気に入りでしたが、その実態は、オリガーキーと癒着したロシア国民の生活水準の破壊者だったのです。
 癒着(注1)とは、「改革派」がオリガーキーに合法的に国営企業をただ同然の借料でコントロールさせ、その見返りにオリガーキーにエリティン政権を支持させ、エリティンの1996年の大統領再選を確実にしたことです。

 (注1)当時、英ファイナンシャルタイムスのモスクワ支局長であったフリーランド(Chrystia Freeland)は、著書のSale of the Century, Crown Businessの中で、この癒着をファウスト的取引(Faustian bargain)と呼んだ。

 要するに、1992年から1998年の間のロシアにおいては、民主主義化や市場改革をめぐる抗争が行われていたのではなく、オリガーキーの間で国家資産のコントロールをめぐる抗争が行われていた、というわけです。

 コーエンは、米国のメディアも、米国の政府等と同じ情熱に取り憑かれており、ロシアのこの実態とかけ離れた報道を続けた、と指摘します。
 チュバイスやガイダル(Yegor Gaidar)やネムツソフ(Boris Nemtsov)やキリレンコ(Sergei Kiriyenko)らの「改革派」ないし「民主主義派」は常に褒め称えられ、慎重に改革を進めようとしたプリマコフ(Primakov)や、1996年にエリティンへの対抗馬として大統領選に立候補したヤヴリンスキー(Grigory Yavlinsky)らには罵声が浴びせかけられた、というののです。
 それどころか、チュバイスが側近による金銭スキャンダルをもみ消そうとした時もチャバイスをむしろ持ち上げ、チュバイスが民営化で個人的に金銭的利益を得ていたことが知られるようになってからもチュバイスをかばい続けた、というのです。
 そして、1993年にエリティンがロシア国会を、憲法違反を犯して閉鎖し、更にこの国会に向けて戦車砲をぶっ放した時も、クリントン政権の意向に忠実に、訳の分からない理屈をこねあげてエリティンを擁護した、というのです。

 この米国の愚行の結果、ロシアにおける反米感情は、ロシア史上例を見ないほど高まった、とコーエンは指摘します。
 (以上、
http://www.nytimes.com/books/first/c/cohen-crusade.html?_r=1&oref=slogin
http://www.businessweek.com/2000/00_44/b3705025.htm
(どちらも12月13日アクセス)、及び、
http://www.nytimes.com/books/00/10/08/reviews/001008.08kaplant.html
http://www.thenation.com/doc/20001002/cohen
(どちらも上掲)による。)

太田述正コラム#1565(2006.12.13)
<ベレゾフスキー対プーチン(その1)>

1 始めに

 ポロニウム殺人事件で浮き彫りになったのは、ベレゾフスキー一派とプーチン政権とのおどろおどろしい確執であり、ソ連崩壊後のロシアのおぞましさです。
 本シリーズでは、大急ぎで、まずプーチン政権の現状から始めて、ベレゾフスキーらオリガーキーを輩出したエリティン時代に戻り、更にソ連崩壊へと遡ってみたいと思います。
 そこには、できそこないのアングロサクソンである米国の姿が見え隠れしています。

2 諜報関係者の支配の下にあるプーチン政権のロシア

 (1)諜報関係者の「活躍」
 ソ連時代やポストソ連時代初期にKGBやFSB(連邦保安庁)に勤めていた人々は現在、半分がセキュリティー分野で仕事をし、後半分は財界・政党・NGO・地方政府・文化等、様々な分野で活躍しています。
 現在の1016名の、大統領補佐官達や各省庁の長や両院の議員達、そして地方政府の長や議会の議長達の26%はKGBやその後継機関での勤務経験があります。しかも、この中にはKGB等への勤務歴を隠していたり、KGB等の関係機関に勤務していた者もいるので、これらの者を炙り出して行くと、実に78%に諜報機関勤務歴があることが分かります。
 このほか、政府企業の幹部の大部分も諜報機関勤務歴がある者が占めています。

 (2)肥大化するFSB
 プーチン大統領は、自らがかつて長を務めたところのFSBの権限をどんどん強化してきました。
 今や、FSBの任務は、諜報・電子情報・対諜報・対テロ・経済犯罪・国境コントロール・社会のモニタリング、と多岐にわたっています。コンピューター化されたロシアの選挙システムを管理運営する権限も与えられているという説もあります。
 更に、FSBには、非政府セクターの政府によるモニタリングを強化する法律や反政府的であるとみなされる政治活動への外国の資金提供を制限ないし禁止する権限を政府に与える法律等を起草する権限まで与えられている、と指摘する人もいます。
 FSBの予算は急速に伸びており、2006年の予算の対前年伸びは40%弱にも達しています。
(以上、
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2006/12/11/AR2006121101434_pf.html
(12月13日アクセス)による。)

 (3)「1984年」の具現化
 このようにプーチンのロシアは、建前上は自由民主主義を掲げつつも、その実態は、諜報機関が支配する高度な中央集権国家であり、まさにジョージ・オーウェルの「1984年」を具現化したような社会なのです。
 どうしてロシアがこんな風になってしまったかを理解するためには、プーチン時代に先立つエリティン時代がいかなる時代であったかを理解する必要があります。

3 ロシアが壊れてしまったエリティン時代

 (1)壊れてしまったロシア
 エリティン時代末期の1998??1999年時点のロシアは、ひどい状態でした。
 ロシアのGDPは1990年代初期の半分に落ち込んでいました。これは、米国が大恐慌の時に経験したGDPの落ち込みより2倍もひどい落ち込みです。
 当時のロシアでは、国民の75%が貧困水準以下か貧困水準ぎりぎりの生活をしており、学齢期の子供の10??80%が肉体的ないし精神的欠陥を抱えていました。また、男性の平均余命は60歳未満にまで落ち込んでしまっていました。

 (2)壊したのは米国
 このようにロシアを壊したのは米国である、と主張しているのが米ニューヨーク大学教授のスティーブン・コーエン(Stephen F. Cohen)です。

 (以上、
http://www.nytimes.com/books/00/10/08/reviews/001008.08kaplant.html
http://www.thenation.com/doc/20001002/cohen
(どちらも12月13日アクセス)による。

(続く)

太田述正コラム#1563(2006.12.12)
<ポロニウム殺人事件の実行犯ほぼ判明>

1 始めに

 「ポロニウム210が簡単に手に入る(注1)<以上>、ポロニウム殺人事件は、たとえ捜査にロシア当局の全面的な協力が得られたとしても、迷宮入りの可能性が大ですね。」(コラム#1547)と申し上げた(注2)ばかりですが、私の予想に反して、実行犯がほぼ割れてしまいました。

 (注1)簡単に買うことができるポロニウム210を用いてテロリストがダーディーボンブを造ったりすることを防止すべく、米国の核規制委員会(Nuclear Regulatory Commission)とウィーンのIAEAは、ポロニウム210の流通に対する監視の強化を検討している(
http://www.nytimes.com/2006/12/10/world/europe/10nuke.html?pagewanted=print
。12月10日)。
 (注2)12月10日付のロサンゼルスタイムスは、仮にポロニウム殺人事件が迷宮入りしたとしても、この事件の本質は、殺されたリトヴィネンコが、著名なジャーナリストであったポリツコフスカヤ女史殺人事件を追っており、ロシアではプーチンが大統領に就任した2000年から現在までに21名のジャーナリストが殺され、2名が行方不明になり、320名が襲撃を受けた、ということだ、とロシア政府犯人説をにじませた社説(
http://www.latimes.com/news/opinion/la-ed-russia10dec10,0,6395203,print.story?coll=la-opinion-leftrail
。12月11日アクセス)を掲載した。

2 急転直下絞られた下手人

 そこへ、12月10日にドイツの捜査当局から、下手人は、11月1日にロンドンでリトヴィネンコが会ったコヴトゥン(Dmitry Kovtun。41歳)(注3)である可能性が高い、という発表が為されたのです。

 (注3)コヴトゥンは、軍学校(後述)卒業後、チェコスロバキアとドイツで軍関係ないし諜報関係の任務に就き、その後ドイツで12年間過ごし、ドイツ人女性と結婚した。離婚し、現在はロシアに戻りビジネスコンサルタントと称している。

 コヴトゥンは、10月16日にソ連の軍学校(Supreme Soviet Higher Military Command School)同期生でKGB歴のあるルゴヴォイ(Andrei Lugovoy)(注4)によって初めてリトヴィネンコに紹介され、後少なくとも2回同じメンバーで会った後、モスクワに帰り、モスクワからハンブルグに10月28日にやってきたのですが、その時空港から乗ったBMWからも、また、29日に彼が泊まった元義母の家からも、30日に訪れた外国人管理局で彼が記入したファイルカードからも、31日に泊まった元妻の家で彼が寝たソファからも、ポロニウム210らしき放射能が検知されています。

 (注4)リトヴィネンコとルゴヴォイは10年来の知り合いであり、ロシア人大富豪で前オリガーキーであったベロゾフスキー(Boris A. Berezovsky)と関わりが深い。

 コヴトゥンが11月1日にロンドンに赴いたドイツの民航機からは放射能が検知されていませんが、コヴトゥンがシャワーを浴びていた可能性が指摘されており、また、その後この民航機の内部がクリーニングされていることも判明しています。
 ロンドンでは、コヴトゥンは、まず、ルゴヴォイと、やはり上記軍学校でこの二人の同期生であり、かつKGB歴のあるソコレンコ(Vyacheslav G. Sokolenko)(注5)と会った後、ルゴコフと二人でリトヴィネンコに会ったのですが、同じ日に、その後ソコレンコもリトヴィネンコと会ったという未確認情報もあります。

 (注5)ルゴヴォイとソコレンコは、時期は少し違うが、KGBで共産党上級幹部を警備する第9部に勤務し、ソ連崩壊後もFSBにおいて、そして独立機関において、同種の勤務を続けた。その後、二人とも退職して、民間警備会社関係業務に従事している。ソコレンコは、ロンドンに来た主目的はサッカーの試合観戦だと言っている。

 コヴトゥンは12月7日にモスクワで入院し、ポロニウム210に冒されており、重篤説も流れています。

3 やっぱり怪しいロシア政府

 ロシア政府は捜査に非協力的です。
 まず、コヴトゥンがモスクワからハンブルグに来たエアロフロート機がポロニウム210で汚染されていたかどうか、ロシア捜査当局は明らかにしようとしていません。
 また、ロシア捜査当局は、コヴトゥンを犯罪被害者としか見ていません。
 コヴトゥンは必ずしも重篤ではないという情報もあり、入院は、英国やドイツの捜査当局にコヴトゥンと接触させないためとも考えられます。
 それに、かつてロシアの諜報機関にいた者は、辞めてからも諜報機関との関係は切れないとされています。特にロシアの民間警備会社は諜報機関と密接な関係を維持していることで知られています。
 ルゴヴォイは、英国捜査当局との接触を回避し続けていますが、これもロシア当局の意向を受けたものとも考えられます。
 (以上、
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2006/12/10/AR2006121000562_pf.html 、
http://www.nytimes.com/2006/12/11/world/europe/11spy.html?ref=world&pagewanted=print。(どちらも12月12日アクセス)による。)

4 感想

 事件の手がかりをあらゆるところに残すというドジな犯行をコヴトゥンにやらせたロシア政府当局ないしロシア政府関係者のおかげで、もともとギクシャクしていた英露関係だけでなく、密接であった独露関係までおかしくなりかねない展開になってきました。
 これからのプーチン大統領の出方が見物です。

太田述正コラム#1547(2006.12.4)
<ポロニウム210をめぐって>

 (新規有料読者の申し込みがいまだにゼロです。
 他方、現在の有料読者の中には、長期にわたって配信コラムが宛先不明で戻ってきたり、私のミスでコラムの大部分が配信されなかったりしたにもかかわらず、全く私にコンタクトしようとされなかった方がおられること等から、有料読者として継続されない方が出てくるのは間違いないでしょう。
 情報屋台開店効果も今のところ全くありません。
 大事件がないために太田ブログ(と恐らく太田HP)への訪問者数が激減しており、また、無料コラムの削減宣言以来、無料読者が更に目減りしていることはやむをえないとしても、このままでは、有料読者までかなり減少した形で年末を迎える、ということになる恐れが大です。
 そうなった場合は、まことに残念ながら、私としては、2001年4月から掲げてきた「日本人の意識改革による日本の自立」という旗はおろし、年明けから太田述正コラムを完全有料制に移行させ、趣味と実益を兼ねて細く長くコラムを書きつづって行くつもりです。 (現在のホームページは閉鎖し、「まぐまぐ」と「E-Magazine」からは撤退することになります。)
 ただし、情報屋台に月2回程度コラムをアップロードしますので、情報屋台が無料一般公開されている間は、月2回程度、有料読者に配信するコラムの中に無料コラムが交じることになります。
 そうなことにならないよう、切に祈っています。
 とまれ、そうなった場合の無料読者への餞別も兼ねて、年末まで、無料コラムの割合を再び(少しですが)増やすことにします。)

1 始めに

 ポロニウム殺人事件をめぐっては、その後、殺されたリトヴィネンコと11月2日にロンドンの寿司バーで会ったイタリア人の男もポロニウム210を盛られていたことが判明したこと、また、リトヴィネンコの立ち寄り先のいくつかと、英国航空のロシア便のいくつかの機からポロニウム210が少量発見されたこと、更には、リトヴィネンコは相当のワルであること、は日本でも報道されており、ご存じのことと思います。
 この事件の米国での報道ぶりは、当然のことながら、英国のメディアとは違って、一歩引いた感じです。
 その中から、ニューヨークタイムスの二つの記事の要旨をご紹介しましょう。

1 ポロニウム210入手の容易性

 米国でありふれている静電気防止ブラシには、1個につき500マイクロキュリー(注)のポロニウム210が含まれている。 

 (注)1キュリー(Ci)とは、1秒間に370億個の原子核が崩壊している状態の「放射能の強さ」を指す。1キュリーの千分の一はミリキュリー(記号mCi)、ミリキュリーの千分の一はマイクロキュリー(記号μCi)、マイクロキュリーの千分の一はナノキュリー(記号nCi)、更にナノキュリーの千分の一はピコキュリー(記号pCi)と呼ばれる。
http://www.nsc.go.jp/hakusyo/S58/F1-1-1.htm。12月4日アクセス)

 ポロニウム210の致死量は3,000マイクロキュリーだとされているので、静電気防止ブラシ6個分のポロニウム210で人一人殺せることになる。
 静電気防止ブラシは、インターネットで33.99米ドル出せば1個買えるので、203.94米ドルプラス税金で6個、すなわち致死量のポロニウム210が手に入る。
 だから、ポロニウム殺人事件にロシアがからんでいる、とは必ずしも言えない。
 ただし、この種ポロニウム210の原産地は、ほとんどがロシアであることは確かだ。
米国は、月8グラム、年にして96グラム、ポロニウム210をロシアから輸入している。
(以上、
http://www.nytimes.com/2006/12/03/weekinreview/03broad.html?_r=1&oref=slogin&pagewanted=print
(12月4日アクセス)による。)

2 タバコとポロニウム

 タバコ1本には、0.04ピコキュリーのポロニウム210が含まれている。
 世界全体で毎年5兆7,000億本のタバコが吸われているので、四分の一キュリーのポロニウム210が吸われている計算になる。
 また、毎日タバコ1箱半を空にする人は、一年間にX線写真を300枚撮ったのに相当する放射線を浴びている勘定になる。
 もっともタバコには、タールやニコチンやシアン化物(cyanide)等、山のように有害物質が含まれているので、ポロニウム210だけを取り出して議論をしても始まらないかもしれない。
 何せ、20世紀には1億人がタバコのせいで命を落としたと推計されており、2020年には毎年1,000万人・・その三分の一は支那人・・がタバコで亡くなる、と予想されているのだから・・。
 (以上、
http://www.nytimes.com/2006/12/01/opinion/01proctor.html?pagewanted=print
(12月2日アクセス)による。)

3 感想

 そんなにポロニウム210が簡単に手に入るのでは、ポロニウム殺人事件は、たとえ捜査にロシア当局の全面的な協力が得られたとしても、迷宮入りの可能性が大ですね。
 しかし、こんな効果的な殺人の新手法が知られてしまったことは恐ろしいとしか言いようがありません。
 誰かが、静電気防止ブラシからのポロニウム210の取り出し方や、集め方、運び方等をインターネット上で流すようなことがあれば、取り返しがつきません。
 市場から静電気防止ブラシを回収し廃棄したとしても、既に売られたブラシの回収・廃棄には限界がありますし、ポロニウム210はほかの製品、例えば一部の扇風機の羽にも使われているようです(最初に引用したNYタイムス)から、これらすべての製品を回収・廃棄することなど到底不可能でしょう。
 話は変わりますが、タバコをまだ飲んでいる方は、来年こそタバコを止めませんか。

太田述正コラム#1533(2006.11.27)
<ポロニウム殺人事件と英露関係>(有料→2007.4.17公開))

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 なお、新しいサービスとして、無料読者でバックナンバー(主要関連投稿を含む)を希望される方には、当分の間、3,000円でうけたまわります。入金確認後、最新の期日のものまでのバックナンバーをzip圧縮ファイルでお送りします。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
1 始めに

 ポロニウム殺人事件発生以来、英露関係はにわかに険悪化してきており、英露ミニ冷戦時代が到来しつつある観があります。

2 険悪化する英露関係

 (1)政治家の言等
 まだ、英国の警察当局はこれを殺人事件と呼ぶことすら正式には避けているというのに、英国のヘイン(Peter Hain)北アイルランド担当相は、「ロシアにおいてプーチン大統領は、就任時の混沌の中から、国民の結束に成功し、経済的安定を達成するという業績を挙げた」が、そのロシアにおいて、「恥ずべき殺害が多数行われてきた」等、「個人の自由と民主主義に対する甚大な攻撃が行われてきたこと」は、「その業績に暗い影を投げかけている」とし、「プーチンが民主主義的な考え方を再びとることが強く求められている」と語りました。
 また、ハウエルス(Kim Howells)外務担当閣外相は、帰化英国人が「英国の街中で外国人によって殺された」と述べました。
 野党では、保守党のフォックス(Liam Fox)影の国防相は、英国市民が自国内で殺害されるなどということは容認できない、と述べました。ちなみに保守党は、ポロニウム殺人事件で議会審議を行うよう政府に求めています。
 自由民主党党首のキャンベル(Sir Menzies Campbell)は、政府はプーチンに対して「もっと厳しく」対処しなければならないとし、仮にリトヴィネンコの死が「国家テロ」によるものだと判明したら、ロシアとの関係をどうするかを慎重に考えなければならない、と語りました。
 ブレア首相自身は、本件に関してまだ何も言っていませんが、今年初めまでは、プーチンに対し敬意さえ払っておれば、何とかなるという見方をしていたけれど、次第にプーチンはロシアを後戻りができないくらい非民主主義的な方向に導きつつあるのではないか、という疑念を抱くに至ったようです。
 ブレアが、新世代の原子力発電所群の建設にゴーサインを出したり、ノルウェーとのエネルギー協定に調印したのも、ロシアの石油と天然ガスに英国が依存しすぎるとエネルギー安全保障が危うくなるという認識に基づいているとされています。
 そこへ、今回の事件が起こったわけです。

 (2)あるジャーナリストの言

 英デイリー・テレグラフやロンドン・イブニング・スタンダードの編集者を歴任したジャーナリストのヘースティングス(Max Hastings)は、概要次のような激しい内容のコラムをガーディアンに寄せました。

 ロシアは、ギャング的文化を制度化しつつある。
 それは、抑圧と究極的には経済破綻、更には恐怖と他の世界からの疎外をロシアにもたらすだろう。
 今、ロシア内外に住むロシア人でまともな形で金持ちになった者はほとんどいない。
 金持ちになる常道は、巨大なスケールの腐敗・暴力・悪徳と許可された窃盗だ。
 ロシアは常に欧州に対して懼れと妬みと怒りの入り交じった感情を抱いてきた。
 プーチンのやることなすこと、すべては外の世界から敬意を払われたい、にもかかわらず欧米が自分達を見下しているように思えることへの怒り、に発しているのだ。ロシア国民も同じだ。だから、彼らの大部分がプーチンの諸政策を支持しているのだ。
 要するにロシア人は傲慢さと劣等感の複合物なのだ。
 そのロシアで、プーチンの友人や支持者達は安全に豊かに暮らしているが、プーチンの敵は次々にひどい形で死亡して行く。これは偶然ではありえない。
 プーチンはかつてのソ連の力と影響力を復活させようとしているのだ。
 そんなロシアで自由と民主主義が定着することなどありえない。
 ソ連時代の秘密文書が冷戦崩壊後公開されるようになったが、それが今ではほとんど非公開に戻されている。
 ソ連の崩壊は、世界は自由の勝利と受け止めたが、プーチンはこれを20世紀における人類最大の災害だと言ってのけた人物なのだ。
 (以上、
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/6186194.stm
http://www.guardian.co.uk/commentisfree/story/0,,1957729,00.htmlhttp://www.guardian.co.uk/russia/article/0,,1957873,00.html
(いずれも11月27日アクセス)による。)

太田述正コラム#1531(2006.11.26)
<ポロニウム殺人事件とロシア>(有料→2007.4.16公開)

1 始めに

 ポロニウム殺人事件に関するロシアに対する疑惑は深まるばかりです。
 
2 物的状況証拠

 1991年から2002年までの間、核兵器に転用可能なウランとプルトニウム、計約40kgがロシアの各施設から盗まれています。
 また、1993年にロシアの核関連研究所からポロニウムが10kg盗まれたとも言われています。
 他方、これまでポロニウム210が闇市場で取引された形跡は全くありません。
 以上から、今回の殺人に用いられたポロニウム210がロシア由来である可能性は極めて高いと考えられています。
 なお、ポロニウム210の半減期はわずか138日間なので、英国に持ち込まれたのは、最近のはずです。
 
3 人的状況証拠

 また、ロシアが怪しいという人的状況証拠は次のとおりです。

 ロシアの英国における諜報活動のレベルは、ソ連時代に比べて少しも減少していない。
 ソ連時代は、海外での暗殺はブルガリアや東独に代行させたものだが、ロシアになってから直接手を下すようになっていると見られている。
 今年初期にロシアで成立した反テロ法は、ロシア軍がテロの脅威と海外で戦うことを認めており、この法律が諜報機関にも同様のことを行う権限を公式に与えたと解する余地がある。
 プーチンがロシアで権力を掌握してから、既に20名以上のジャーナリストが不慮の死を遂げている。このほか、財界人や政治家も次々に暗殺されている。
 先月殺されたジャーナリストのポリツコフスカヤと、今回殺されたリトヴィネンコは親交があり、リトヴィネンコは生前、ポリツコフスカヤが、プーチンから人を介して脅迫を受けたと聞いたと語っている。

4 窮地に立つプーチン

 そもそも、現在のロシアでは法の支配が危機に瀕しており、TV網は政府によってコントロールされていて、国家権力至上主義と排外主義を国民に吹き込んでいます。
また、上述したように、政府に批判的なジャーナリストは投獄されたり殺されたりしており、議会は政府に手名付けられており、政党活動も萎縮してしまっています。
更に、人種差別的暴力がロシア全土で行われており、昨年は白系ロシア人によって少なくとも28名が殺害されています。
 ですから、欧米でのロシアのイメージは極めて悪くなっています。
 しかも、ロシアの豊富な化石燃料資源、とりわけ天然ガス資源を欧州や英国に売り込むこと等によって、欧州諸国や英国の生殺与奪の権利を確保しようとしているかのように見える、最近のプーチンの外交が、上記のロシアのイメージの更なる悪化をもたらしています。
 そのプーチンが、まさにEU首脳達とエネルギー問題等で協議に臨んでいる時にリトヴィネンコが死亡したので、プーチンは窮地に立たされています。
 (以上、
http://observer.guardian.co.uk/uk_news/story/0,,1957279,00.html
http://observer.guardian.co.uk/uk_news/story/0,,1957301,00.html
http://observer.guardian.co.uk/uk_news/story/0,,1957302,00.html
http://observer.guardian.co.uk/comment/story/0,,1957385,00.html
http://observer.guardian.co.uk/leaders/story/0,,1957392,00.html
http://www.latimes.com/news/opinion/la-ed-poison25nov25,0,4715228.story?coll=la-opinion-leftrail
http://www.ft.com/cms/s/42679b1a-7c29-11db-b1c6-0000779e2340.html
(いずれも11月26日アクセス)による。

太田述正コラム#1529(2006.11.25)
<殺しのライセンス(続々)>(有料→2007.4.13公開))

 (本扁は、コラム#1518の続きです。)

1 リトヴィネンコの死とその死因

 アレクサンドル・リトヴィネンコがロンドン市内の病院で死亡し、英健康保護庁(HPA)は24日、死因として、放射性物質のポロニウム210(polonium-210)を飲んだ可能性が高いとの見解を明らかにしました。
 当初はタリウムが疑われ、次いで放射性タリウムが疑われ、ついにポロニウム210と判明したわけです。
 このポロニウム210は、リトヴィネンコが11月1日にKGB時代の同僚他1人のロシア人と会ったグローヴナースクエアのホテル(アパートと前回記したのは誤り)、イタリア人の博士と会った(注)ピカデリーの寿司バー、そして北ロンドンのリトヴィネンコの自宅でも検知されました。

 (注)このイタリア人は、彼の所に送られてきたところの、ロシアの諜報関係者が彼とリトヴィネンコの命をねらっているというメールをリトヴィネンコに見せに来たという。
 これら三人の人物は、異口同音に自分達はリトヴィネンコの死とは無関係だと言っています。
 ポロニウム210とはいかなる物質で、犯人はやはりロシア当局なのでしょうか。
 そのあたりをさぐってみました。

2 ポロニウム210について

 ポロニウム210は、かつてラジウム(radium)Fと呼ばれた物質であって、1898年にピエールとマリーのキュリー(Pierre & Marie Curie)夫妻によって発見され、マリーの古里のポーランドにちなんでポロニウムと名付けられたものです。
 ポロニウム210は、その発するアルファ線があたった物を発熱させるので、静電気除去や宇宙船や(旧ソ連の)月面探査機の発熱・発電に用いられます。
 この物質は、タバコの中やウラン鉱床の中にも微量存在しますが、人を殺せるくらいの量を生産するためには、粒子加速器か原子炉を用いてビスマス(bismuth)か鉛(lead)に中性子をぶつける方法をとらなければならず、多大なコストがかかります。毎年世界で100グラム程度しか生産されていないと考えられています。
 ポロニウム210はアルファ線を放出しますが、アルファ線は紙や皮膚を透過できず、飲むか吸うか注射するか傷口から入るかしない限りは体内に取り込まれません。
 しかし、体内に取り込まれれば、青酸カリの2億5,000万倍も毒性があり、ホコリ一粒より小さい程度でも致死量に達し、特効薬はありません。
 人を殺そうと思ったら、瓶に入れるなり封筒に入れるなりして容易に持ち運びできますが、ねらった相手に飲ませたり吸わせたりする際、自分が飲んだり吸ったりしないようにするのが大変です。
 また、ポロニウム210の放出するアルファ線はガイガー・カウンター(geiger counter)のような、通常の放射線検知器では検知することができないので、ポロニウム210は国を越えてこっそり民航機で運ぶことができます。
 ポロニウム210はこれまで殺人の手段として用いられたことはなく、そのような用途に用いられうると記した論文も、1994年にロシア語で書かれたものしかない、といいます。

3 犯人は誰だ

 (1)ロシア政府
 リトヴィネンコは、死の二日前に、死を自覚しつつ、プーチン大統領を名指しで下手人扱いする手記を残しました。
 ポロニウム210が簡単に手にはいるような代物ではないこと、取り扱いが容易ではないことからすれば、この説は有力です。
 その場合、KGBの後継は英MI5や米FBIに相当するFSBと英MI6や米CIAに相当するSVRですから、SVRが疑われることになります。
 もっとも、リトヴィネンコのような小物を、ロシア・英国関係を危険にさらしてまで殺すだろうかという疑問が投げかけられています。
 いずれにせよ、プーチン大統領は知らなかったのではないか、と言われています。

 (2)チェチェン共和国当局
 リトヴィネンコは最近、ジャーナリストのポリトコフスカヤ(Anna Politkovskaya)の暗殺の下手人捜しをしていたところ、ポリトコフスカヤの下手人は、ロシア政府の傀儡たるチェチェン共和国当局であるという説も有力であり、仮にそうだとすると、リトヴィネンコ殺しも同じである可能性が出てきます。

 (3)リトヴィネンコ自身
 プーチン大統領を窮地に陥れるために、リトヴィネンコが進んで、あるいはリトヴィネンコに近い人物にはめられてポロニウム210を服用した、という説もあります。
リトヴィネンコ自身は、恐らく、死ぬとは思っていなかったのではないか、というのです。

 (4)元KGB工作員
 リトヴィネンコのこれまでの行動に反感を持つ元KGB工作員がやったのではないか、というものです。

(以上、http://www.sankei.co.jp/news/061125/kok000.htm
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/6180682.stm
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/6180432.stm
http://news.bbc.co.uk/2/hi/health/6181688.stm
http://www.nytimes.com/2006/11/24/world/europe/24cnd-isotope.html?_r=1&oref=slogin&pagewanted=print
http://www.ft.com/cms/s/ca86ff68-7bf7-11db-b1c6-0000779e2340.html
http://www.cnn.com/2006/WORLD/europe/11/24/uk.spypoisoned/index.html
http://www.cnn.com/2006/WORLD/europe/11/24/uk.spy.polonium.ap/index.html
http://www.guardian.co.uk/russia/article/0,,1956802,00.html
http://www.guardian.co.uk/russia/article/0,,1956680,00.html
(いずれも11月25日アクセス)による。)

太田述正コラム#1518(2006.11.20)
<殺しのライセンス(続)>

1 始めに

 ロシアの諜報機関FSB(Federal Security Bureau。ソ連のKGBの後継機関)は、殺しのライセンスを乱発しているようです。
 ロンドンで一人の人物が現在、生死の境をさまよっています。
 (以下、http://www.guardian.co.uk/crime/article/0,,1952382,00.html
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/6163646.stm
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/6163520.stm
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/6163502.stm
http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/3357705.stm
http://www.nytimes.com/2006/11/20/world/europe/20poison.html?ref=world&pagewanted=print
(いずれも11月20日アクセス)による。)

2 事件の概要

 元FSB(KGB)要員のロシア人で英国に帰化した(とされている)リトヴィネンコ(Alexander Litvinenko。43歳)は、11月1日、ロンドンのロシア人の旧い友人のアパートで紅茶を飲んでから、プーチン政権の対チェチェン政策を厳しく批判してきたジャーナリストのポリツコフスカヤ(Anna Politkovskaya)のモスクワでの暗殺に関する情報を持っていると称するイタリア人とロンドンのピカデリーのItsuという寿司バーで昼食をしたところ、その日の夜から、気分が悪くなり、その後容態がどんどん悪化し、入院先の病院で、現時点では、死ぬか生きるか、可能性は五分五分という重篤に陥っています。
 1998年にリトヴィネンコは、FSBが成金(オリガーキ)でプーチンの政敵であったベレゾフスキー(Boris Berezovsky)の暗殺を命ぜられたと内部告発し、1999年には、同年ロシアのリャザン(Ryazan)のアパートが爆破されて246人の犠牲者が出た事件(コラム#464、#573)が起き、プーチン政権は下手人がチェチェン人テロリストであるとして、第二次チェチェン戦争を開始したところ、同年、リトヴィネンコは、これはFSB自身が手を下した陰謀である、と書いた本を出版します。
そして、彼は、職権濫用等の嫌疑で9ヶ月間未決収監され、2000年にトルコ経由で英国に亡命するのです。
 2004年10月にリトヴィネンコは、自宅の玄関のドアに火炎瓶を載せた乳母車を衝突させられています。

 今回、リトヴィネンコはタリウム(Thallium)を盛られたことが分かっています。
 タリウムは、神経系中枢に作用して、その中の不可欠なポタシウム(potassium)と置き換わり、神経の正常な機能を阻害し、内臓も損ねます(注)が、リトヴィネンコの脊椎の免疫細胞造出機能が完全に損なわれているところから、タリウム以外も盛られた可能性があります。

 (注)タリウムは殺鼠剤や殺虫剤に用いられており、見た目は食塩のようで、無色透明無臭で水に溶け、1グラム(小さじ四分の一)が致死量だ。現在ではどこの国でも、普通の人は簡単には手に入れられない。タリウムが体の中に入ると、症状的には、下痢、嘔吐、脱毛が起きるが、原因をタリウムと突き止めるのは容易ではない。特効薬は、インクの染料として有名なプルシャンブルー(Prussian Blue)だ。また、日本の静岡県で今年初め、母親にお茶に入れてタリウムを投与し続けた少女の事件が起きたことは記憶に新しい。

 この事件については、ロシア・サイドから、同じく英国への亡命者としてリトヴィネンコを庇護してきたベレゾフスキーが仕組んだ自作自演の陰謀である、という見解が流されていますが、FSBは殺人のための薬物の研究所までもっており、かねてからFSB(KGB)が、薬物を使った暗殺を行ってきたことは公然の秘密であることから、FSBが主犯である可能性は否定できません。

3 感想

 諜報機関は凶器であり、このような凶器をまっとうな目的のために使うか禍々しい目的のために使うかは、その諜報機関が所属する政府次第です。
 「諜報機関」を「軍隊」で置き換えても同じことが言えます。
 その政府が民主国家の政府であれば、究極的には国民次第である、ということになります。
 われわれ日本国民は、自分達自身を信じて、「軍隊」と「諜報機関」を持ち、米国からの独立を果たすべきだ、とここでも力説させていただきます。

太田述正コラム#1517(2006.11.19)
<殺しのライセンス>

1 始めに

 「英対外情報部(MI6)のスパイの活躍を描く映画007シリーズ「カジノ・ロワイヤル」のプレミア試写会が行われたばかりの英国で、本物のMI6要員2人が15日、ラジオ番組で「スパイの現実は映画と全く懸け離れている」と暴露した。・・出演したのはMI6所属の男女。現役スパイが公の場で話すのは初めてという。2人は、映画のジェームズ・ボンドが次から次へと敵を殺すが、「実際のスパイは殺人を許可されていない」と主張。さらに、危険なことばかりで、魅力的なことはないと打ち明けた。・・ただし、しばしば映画の中でスパイの「七つ道具」をボンドに手渡しているような「発明チーム」は実在するという。ロンドンで14日に行われた試写会は、ボンド役の俳優ダニエル・クレイグさんのほかエリザベス女王も姿を見せ、盛大に行われた。」

という16日付の時事通信配信記事( 
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20061116-00000015-jij-int
11月19日アクセス)を読まれた方もおられることと思います。
 これは、ロンドン発の記事で、ソースは「ラジオ番組」だとしていますが、このMI6要員が本物かどうか分かったものではありませんし、彼らが話したことも眉唾物です。
 こんな話を真に受けて、そのまま配信する日本の通信社にも困ったものです。

2 殺しのライセンスは本当のこと

 米エール大学ロースクール学生のシュボウ(Justin Shbow)が、米スレート誌にMI6の「殺しのライセンス」について寄稿している(
http://www.slate.com/id/2153760/
。11月17日アクセス)ので、その要旨をご紹介しましょう。

 1994年までは、英国外で活動するMI6(及びその前身。以下同じ)要員に対し、英国内法がそのまま適用される建前だった。
 しかし、実際には殺しのライセンスが与えられていた。
 MI6要員で人を殺したとか、殺人の嫌疑をかけられた者は一人もいないが、MI16は、第二次世界大戦中や冷戦初期には何件か暗殺を行ったと考えられている。
 もっとも、MI6要員より、英軍の特殊作戦部隊や英国政府から依頼を受けた外国の機関が行った暗殺の方がはるかに多い。
 1960年代には、MI6は暗殺を禁じた。(特殊作戦部隊だけで十分だと考えられたからだと思われる(太田)。)
 ところが、1994年に諜報機関法(intelligence Services Act of 1994)が制定され、MI6の存在が公にされるとともに、議会によるMI6監視システムが導入された際、この法律の第7節で、所管の国務大臣は、海外で活動するMI6要員が英国内法で責任を問われない行為を行うことを承認することができることとされた。
 この英国内法には、殺人に係るあらゆる刑事法が含まれると考えられる。
この第7節には、制約条件が二つだけ規定されている。
 「諜報機関の正当な業務遂行のために必要であること」と、「妥当な結果が招来されることが予想されること」だ。
 なお、上記承認の効力は6ヶ月でなくなる、と規定されている。
 当然のことながら、この法律があるからといって、MI6要員は、その活動する外国の法律の適用を免れられるわけではない。

3 感想

 諜報機関は、殺人を含め、国内法では違法な行為を海外で行うことが認められないようでは諜報機関とは言えません。
 それだけに、海外で活動する諜報要員には高い倫理観と判断能力が求められます。
 日本にはこのような意味での諜報機関がないこと、そして、仮に諜報機関をつくったとしても、果たして資質の高い日本人の要員を確保できるのか、等を考えると暗澹たる気持ちになります。

太田述正コラム#1429(2006.10.3)
<佐藤優の「国家の罠」(その4)>

 (「その3」に手を入れてブログとHPに再掲載してあります。)

 (2)各論
  ア 自民党政治家論
 佐藤優は自他共に認める鈴木シンパであり、佐藤自身は常に鈴木のことを誉めていますが、それでも「国家の罠」を注意深く読めば、鈴木のすさまじい欠点が見えてくる(39、80、88、93、116、168??169、251??253、272??273、285??286、289、348頁)はずです。
 私の経験に照らして申し上げますが、ここで大事なことは、鈴木宗男という政治家は、その長所も欠点も自民党の他の大部分の政治家・・とりわけ経世会所属の政治家・・と共有しており、偏執狂的でエチケットに悖ることで欠点が増幅されているところが特異なだけだ、という点です。
 ですから、典型的な自民党の政治家がどんな人物であってどんなことをしているのかを知りたいのであれば、この本はお薦めです。自民党の政治家は、自民党に投票してきた多くの選挙民・・つまりあなた?・・の写し絵でもあることを考えると、この本を読めば、己自身を知ることにもつながる、というオマケも期待できますよ(注8)。

 (注8)鈴木宗男の天敵だけに、佐藤は田中真紀子批判に余念がない(頁省略)。田中もまた、長所よりも欠点が数倍という政治家だが、彼女は典型的な自民党の政治家では全くない。だから、田中真紀子を知ってもしようがない。
  
  イ 日本の官僚機構論
 外務省の嘆かわしい現状・・これは日本の官僚機構共通の現状でもある・・について知りたい人にもこの本や「自壊する帝国」はお薦めです。
 さわりの部分を抜き出しておきましょう。

 組織問題:「外務省には、・・「スクール」と呼ばれる、研修語学別の派閥が存在する。・・さらに、外務省に入ってからの業務により、・・「・・マフィア」というような派閥が存在する。・・人事はもっぱら「スクール」や「マフィア」内で行われ、情報もなるべく部外へは漏らさないことで、省内にはいくつもの閉鎖した小社会が形成されることになった。・・派閥があれば必ず抗争が生じ、・・往々にして抗争自体が自己目的化しはじめる・・。そうした動きを組織が抑えきれず、組織の目的追求に支障を来すようになった時、組織自体の存亡にかかわる危機となる」(58??60頁)
 職員の傲慢さ:「日本人の実質識字率は5%だから、新聞は影響力を持たない。ワイドショーと週刊誌の中吊り広告で物事は動いていく」(76頁。同趣旨232、288頁)
 キャリアの堕落:「<外務省>キャリア・・は基本的に出世しか考えていない。それがダメになると威張り散らすことかカネを貯めることしか考えない。それだけだ。・・ほんとうに大きな仕事をしたいなら、早く外務省を辞めることを考えた方がいい。・・40歳を超えると外務省の給料は急によくなるのでやめられなくなる。決断はできるだけ早くしたほうがいい」(「自壊する帝国」120??121頁)、「キャリアの連中はひどく陰険な足の引っぱり合いをする」(「自壊する帝国」122頁)、「田中外務大臣の言行<について、>外務省<は>組織的に怪文書作りをし、幹部がそれを配布して<歩いた>」(80頁)、「外務省は、・・危機の元凶となった田中真紀子女史を放逐するために鈴木宗男氏の政治的影響力を最大限に活用した。そして、田中女史が放逐された後は、「用済み」となった鈴木氏を整理した。この過程で鈴木宗男氏と親しかった私も整理された」(60頁)
 佐藤の悲痛な叫び:「上司の命令に従っても、組織も当時の上司も下僚を守らず、組織防衛のために下僚に対する攻撃に加担する、あるいは当時の上司は外国に逃亡してしまうという外務省文化が私の事件を巡って露呈した」(389頁)

  ウ 日本の「外交」政策論
 佐藤は、「冷戦構造の崩壊を受けて、外務省内部でも、日米同盟を基調とする中で、三つの異なった潮流が形成されてくる。・・第一の潮流は、・・これまで以上にアメリカとの同盟関係を強化しようという・・「親米主義」<の>・・考え方である。・・第二の潮流は、「アジア主義」である。・・第三の潮流は、「地政学論」であ<り、>・・距離のある日本とロシアの関係を近づけること<によって、>・・影響力を急速に拡大しつつある中国・・を押さえ込む・・必要があると考えた<。>・・「地政学論」<は>・・橋本龍太郎・・、小渕恵三、森喜郎・・の三つの政権において、・・重視された」(56??58、118頁。「自壊する帝国」15??16頁)と指摘しています。
 しかし何のことはない。
 佐藤自身が、「田中真紀子女史が外相をつとめた9ヶ月の間に、・・田中女史の、鈴木宗男氏、東郷氏、私に対する敵愾心から、まず「地政学論」が葬り去られた。それにより「ロシアスクール」が幹部から排除された。次に田中女史の失脚により、「アジア主義」が後退した。<こうして、>「チャイナスクール」の影響力も限定的になった。そして、「親米主義」が唯一の路線として残った」(118頁)と記していることからも明らかなように、これは、外務省内の派閥間のコップの中の争いに過ぎなかったのです。
 米国の保護国である日本に外交政策など存在し得ないことは言うまでもありません。
 そんなコップの中の争いをしているヒマがあったら、外務省は、日本を米国から独立させ、外交政策を日本の手に取り戻すための戦略を練るべきなのです。
 このことを自覚するためにも、この本や「自壊する帝国」はお奨めである、とあえて申し上げておきましょう。

(完)

太田述正コラム#1427(2006.10.1)
<佐藤優の「国家の罠」(その3)>

(本篇は、コラム#1420の続きですが、#1424の続きでもあります。)

3 分析

 (1)総論
 仕事に対する熱意と能力において、それぞれ自民党と外務省において抜きん出ていた鈴木宗男と自分がどうして失脚し、逮捕起訴されるという羽目に陥ったのかについて、佐藤優は次のように分析しています。
 「北方領土問題について妥協的姿勢を示したとして、鈴木氏や私が糾弾された背景には、・・国際協調主義<に代わる、>日本の・・排外的・・ナショナリズムの昂揚<、つまりは>有機体モデル<へ>の転換・・がある」(295??297頁)、また、「鈴木・・氏は、・・政治権力をカネに替える腐敗政治家・・として断罪され、・・経済的に弱い地域<や弱者への所得移転を図る>公平分配モデル・・から・・経済的に強い者がもっと強くなることによって社会が豊かになると考える・・自由主義モデルへ・・という現在日本で進行している国家路線転換を促進するための格好の標的になった」((292??295頁、297頁)と。
 しかし、ここで佐藤は壁に突き当たります。
 有機体モデル(排外的ナショナリズム)への転換と、自由主義モデルへの転換は両立しないことです(299頁)。
 大変率直でよろしい。
 このように、大きな絵を描くことが不得手であるのは、政策や政策の前提を疑わないこととも相通じる佐藤の限界ですが、これらは、佐藤に限ったことではなく、現在の日本人の大部分に共通する限界でもあるのです。
 私は、現在の日本人のこれらの限界のよってきたるゆえんは、戦後の吉田ドクトリンの墨守によって彼らの大半から軍事リテラシーが失われたところにあると考えています。
日本の政策や政策の前提の当否を検証したり、日本に係る時代の流れの大きな絵を描くためには、軍事リテラシーが不可欠なのです。
 私は、口を酸っぱくして、世界の歴史と現状を理解するためには軍事とアングロサクソンを理解しなければならないと言い続けて来ました。
 また、日本の歴史と現状を理解するためには、これに加えて、縄文モードと弥生モードの繰り返しという視点が必要である、とも言い続けてきました。
 しかし、私自身を振り返ってみて、軍事を理解すること、すなわち軍事リテラシーが最も重要であると思います。
 軍事リテラシーなかりせば、私は、アングロサクソンを理解することも、縄文/弥生モード論を思いつくこともなかったことでしょう。
 すなわち、アングロサクソンは軍事を生業にしている人々であると思い至ったことが私のアングロサクソン理解の出発点でしたし、日本の歴史は軍事軽視と軍事重視のモードの繰り返しだな、というところから、縄文モードと弥生モードの繰り返し、という発想が得られたのです。
 ごたくを並べるのはいいかげんにして、お前の描く大きな絵を示せ、という声が聞こえてきますね。
 詳しくは、拙著「防衛庁再生宣言」や、これまでの太田述正コラム中の関連箇所を読んでいただきたいのですが、私は次のように日本の現状を見ています。

 日本は、明治維新以降続いてきた外向的な弥生モードから、昭和初期以降、内向的な縄文モードに転換し始めた。こうして日本型政治経済体制の時代が到来した。終戦後もこの体制は維持されたが、軍事が米日両政府の同床異夢の共同謀議により放棄されてしまった。この体制は、本来、総力戦を戦うための、軍事を中心に据えた体制であったというのに、肝腎の軍事が放棄され、結果として日本が米国の保護国となったため、政治は矮小化し、ここから政治家及び官僚の堕落が始まった。堕落とは、政治家にとっての政治、官僚にとっての行政、が個々の政治家や官僚の生涯所得最大化のための手段と化したということだ。政府のこのような堕落は、企業や一般市民にまで波及した。
 しかし、東西冷戦終結と時期をほぼ同じくして、再び弥生モードへの転換が日本で始まった。
 そのきっかけとなったのは、第一に、日本の経済力の伸張に脅威を感じた米国による日本型政治経済体制解体要求であり、第二に、政治・行政の堕落の深刻化に伴う一般市民の覚醒と危機意識の高まりだった。
 なお、明治維新以降の弥生モードの時と同様、今回の弥生モード化においても、体制変革のモデルと仰ぎ見られているのはアングロサクソン・モデルだ。
 また、これまでのすべての弥生モードの時と同様、今回の弥生モードへの転換にあたっても、鎖国から開国へというベクトルの下、開国すれば国家意識の確立と軍事力の保持が必要不可欠であることから、国家意識の確立と軍事力の保持、すなわちいわゆるフツーの国、に日本をつくりかえようとする動きが生起している。

 この大きな絵を頭に入れていただいたところで、種明かしに移りましょう。
 鈴木宗男と佐藤優の失脚は、政治・行政の堕落に憤る一般市民の声に答えるべく、政治家や官僚中比較的堕落の程度が少ない人々が行っているところの、腐敗しきった政治家・官僚・企業人等に対する一連の追及の一コマであり、それ以上のものではありません。
 ただし、これら一連の追及が、その意図せざる結果として日本の弥生モード化の促進につながっている、とは言えるでしょう。
 ですから、日本で排外的ナショナリズムの昂揚が見られる、という佐藤の判断は全くの誤りですし、鈴木と佐藤が、日本の自由主義モデル(アングロサクソン・モデル)への転換のための標的とされた、というのも余りにも穿った見方なのです。

(続く)

太田述正コラム#1424(2006.9.28)
<佐藤優の「自壊する帝国」>

1 始めに

 三冊目の本、佐藤優「自壊する帝国」(新潮社2006年5月)は、題名からソ連の崩壊過程を、佐藤の現場体験を生かしつつも、客観的かつ時系列的に描いたものであろうと思い、期待を持ってこの本を読みました。
 しかし残念ながら、この本は、佐藤の私小説的ノンフィクションであり、私の期待は裏切られました(注1)。

 (注1)ソ連という国のしくみやスラブ人の精神構造に疎い人には、この私小説的ノンフィクションは面白いかもしれないが、幸か不幸か、ソ連という国のしくみを防衛官僚であった私は熟知しているし、スラブ人の精神構造についても、青年時代にロシア文学をかじった人にとっては目新しい話はほとんど出てこない。

 そこで、寄贈された3冊中、2冊については読後感を力任せにコラムに仕立て上げてきたけれど、この本を取り上げるのは止めようかと一旦は思いました。
 しかし、「国家の罠」とこの「自壊する帝国」(既に2回にわたってご紹介)に佐藤の八面六臂の活躍ぶりが随所に出てくる(注2)ところ、そんな活躍が外務省に入り立てのモスクワ勤務のノンキャリの若者にどうして可能であったのか、について、「国家の罠」を読んだ時点で私が立てた仮説が、「自壊する帝国」を読んで裏付けられたような気がするので、それをご説明するのもまんざら無意味ではない、と思い直しました。

 (注2)一つだけ例を挙げておこう。1992年にリトアニア政府は、リトアニア独立に貢献した外国人64名に対し、叙勲したが、その中にエリツィン・ロシア大統領らと並んで佐藤が入った(298??299頁)。

 結論を先に申し上げると、佐藤の活躍は、彼が優秀な人物であったことはもちろんですが、日本に外交戦略がないこと(=日本に「外交」はあっても外交はないこと)、そして、佐藤が欧州的知識人であったこと(=佐藤は欧州の知識人に求められる教養を身につけていたのにソ連ではそんな人は少なかったこと)、の賜でもあると私は考えています。

2 日本に外交戦略がないこと

 日本は経済大国であって、かつ米国の、軍隊も諜報機関も持たない保護国である、というユニークな存在です。
つまり、米国の保護国なるがゆえに、日本は外交戦略を持たず(注3)、諜報工作も行わないけれど、カネに不自由はしていません。

 (注3)日本にいかに外交戦略がないかは、この414頁の大部な本の中に、日本の外交戦略らしきものの記述は、「95年に・・日本に帰国した・・後も、私はモスクワを頻繁に訪れ・・ロシア内政に関する情報収集と北方領土問題に関してロシアの政治エリートを日本寄りにするロビー活動に熱中していた」(311??312頁)という、一箇所だけしかないことが如実に物語っている。

 ですから、佐藤ら在モスクワの日本の外交官は、日本に比べてはるかに貧しいソ連(ロシア)において、情報をとりたい相手を、金に糸目を付けずに高級レストランやバーで接待したり小型レコーダー等の小物の物品を与えたりして籠絡し、その見返りとして、(諜報工作を行うような国ではないことから)日本に対する警戒心を持たないその相手から、比較的容易に情報の提供を受ける(284頁等)ことができたのです。(このようにして提供を受けた情報は、更に、別の相手から情報をとる際にその相手に対する見返りとして用いられた。)
 もとより、日本政府に外交戦略がなく、従ってリスクを冒そうとしないことから、ソ連の反体制派のロイ・メドベージェフらとの接触は米英に比べて著しく遅れます(186??187頁)が、ソ連崩壊前後に、米英は、もっぱら反共産党勢力やバルト諸国の独立派と接触し、彼らを支援した(156??157頁)のに対し、日本は共産党ないしソ連維持派等の守旧派とも接触を保ち、結果としてこの激動期にバランスのとれた情報収集ができた(392頁)だけでなく、ソ連崩壊後ロシアで野党として活動を続けたこれら守旧派ともしばらくの間良好な関係を維持できた(376??378頁)という面もありました(注4)。

 (注4)佐藤が前述の勲章を与えられたのは、彼が、リトアニアのソ連維持派から得た、独立派を武力攻撃することはない、という情報を、巧まずして使者となって独立派に伝えた(296??298頁)功績による。

 これは、日本に外交戦略なきがゆえの怪我の功名と言えるでしょう。

3 佐藤が欧州的知識人であったこと

 しかし、以上は、当時の在モスクワ日本大使館員全員にあてはまることです。
その中でどうして、佐藤に「三党書記官なのに、大使館幹部級の人脈をもっている」という評判が立った(163頁)のでしょうか。
 それは、佐藤が欧州的知識人であったからです。
 欧州的知識人とは、合理論哲学・・公理を措定し、そこから結論を論理的に導き出す知的営み・・を身につけた人物ということです。
佐藤の場合は、合理論哲学の原型であるキリスト教神学を身につけていました(注5)。

 (注5)佐藤は、「この学問は、まず、正しい結論があって、その結論に向かって議論を組み立てていくというものだ。だから、真理を探求していく一般の学問とは性質がかなり異なる」と言っている(20頁)が、これでは佐藤はソフィストだということになってしまう。校正ミスだと思いたい。

 そういう人物なら、西欧諸国からソ連に派遣されてきていた外交官やジャーナリスト等の中にいくらでもいたはずだと思われるかもしれません。
 いやいや、今時の西欧で、キリスト教神学くずれの神抜きの合理論哲学を身につけている人はいても、佐藤のように敬虔なクリスチャン(プロテスタント)(394頁)でかつキリスト教神学をきちんと身につけている人は少ないのではないでしょうか。
 共産主義が権威を失墜していた崩壊前後のソ連において、ソ連(ロシア)の知識人の多くは、ロシア正教を手がかりにして新しいイデオロギーを構築すべく模索していました(258頁等随所)。
 しかし、ソ連では無神論の共産党の下で宗教が弾圧されてきたために、キリスト教神学の研究者が払底していました(266頁)。
 だからこそ、彼らは佐藤からキリスト教の話を聞きたがった(266頁)わけですし、ソ連崩壊後には、何と佐藤にモスクワ大学に新設された宗教史宗教哲学科の講師を委嘱する(42頁)のです(注6)。
 
 (注6)欧州の外縁に位置するソ連(ロシア)の知識人は、西欧に対してコンプレックスを抱いている。だから、キリスト教神学について、西欧人から教わるのは潔しとしない、ということもあったに違いない。

 まさに、佐藤は、千載一遇の機会に在モスクワ日本大使館に勤務していた、ということです。
ソ連(ロシア)で佐藤の人脈が加速度的に増えて行ったのはこういうわけなのです(注7)。

 (注7)そんな佐藤が、仮にアングロサクソン系の国に赴任していたとしても、人脈は形成されず、従って情報もとれなかったろう。合理論哲学にせよ、その原型であるキリスト教神学にしても、そんなものを身につけていても何の評価もされないからだ。実際、佐藤がロシア語研修生として1年間過ごした英国で、彼は一人のイギリス人とも親しくなっていない。

太田述正コラム#1420(2006.9.25)
<佐藤優の「国家の罠」(その2)>

 (誤解が無いように付言しておく。
 橋本内閣以降の日本政府の基本方針は、4島とも日本に主権ありとロシアに認めさせた上で2島を先行して返還させる形で日露平和条約を締結するという、いわゆる2島先行返還論であるところ、田中真紀子は外相就任会見で、これをかつての(彼女の観念の中では田中内閣当時の)4島とも日本に返還させた上で日露平和条約を締結するという旧来の基本方針に戻す意向を表明するという一回目の大チョンボをやらかした(65頁、50??51頁)(注5)。私は、田中親子の4島一括返還論はもちろん、現在の政府の2島先行返還論もまた無理筋だと言っているのだ。)

 (注5)外相当時の田中真紀子のその他のチョンボについては、115頁の表参照。なお、私の田中真紀子外相論(小泉真一郎首相論を兼ねる)については、コラム#15参照。
 
 それから、ロシア、具体的には北方領土に対する経済援助によって日本に有利な形で北方領土問題の解決を図る、というやり方も愚劣きわまりないとしか言いようがありません。
 佐藤は、三井物産の社員の「軍事力をもたない日本としては、経済に支えられた外交しか選択がない」という言葉を肯定的に引用しています(190頁)が、私も同感です。
 問題は佐藤に、「経済に支えられた外交」、すなわち日本「外交」でもって、領土問題を日本に有利な形で解決を図ることなど不可能だ、(いわんや前述したように日本に理のない領土問題をや、)という認識がないことです。
 佐藤は、「ロシアではある種の問題は、官僚レベルでは絶対に解決しない。その中に、戦争と平和の問題、領土問題などが含まれる」と認識している(185頁)のですから、日本「外交」の守備範囲であるところの、官僚レベルで解決しうる経済問題の優先順位がロシアでは低いことは自覚していたはずです。
 そうである以上、軍事力を持たず、ロシアの経済安全保障に関わるような天然資源を持っているわけでもない日本が、平和条約がらみの領土問題、(しかも、何度でも繰り返すが日本に理のない領土問題、)で経済援助をエサにロシアに譲歩させることなど不可能である、という認識を佐藤は持ってしかるべきだったのです(注6)。

 (注6)私は、1956年の日ソ共同宣言で、ソ連は平和条約締結時の2島返還を約束したというのに、その後その約束を反故にしたのは、オホーツク海地域が、その後ソ連の対米第二撃核戦力たる核弾道弾搭載原子力潜水艦を潜ませる聖域となり、このこととも相まって、米国から見て同地域が、東西熱戦勃発時の有力反撃地域となった(コラム#30等)ためだと考えている。オホーツク海地域がソ連の安全保障上かくも枢要となった以上は、2島といえども日本に返還することは、この地域の防御をそれだけ困難にすることから、返還する約束を撤回した、ということだ。
     東西冷戦が終焉を迎え、ソ連が崩壊してから、ロシアが日ソ共同宣言のラインまで戻ることを示唆するようになったのは、欧米等が敵でなくなった以上、この地域が安全保障上枢要でははなくなったからだ、ということになる。
     とはいえ、領土問題を経済問題より重視するロシアの姿勢に変化はない。その理由として、ロシアにおける、領土が広いことが軍事安全保障に資するという帝政ロシア時代以来のオブセッションに加えて、領土が広いことが鉱物資源や動植物資源等の確保、すなわち経済安全保障につながるという新しい観念が生まれたことが挙げられよう。

 ロシアへの自由民主主義と市場経済の定着を図るという名目で大々的な経済支援をロシアに行い、その結果として領土問題が進展することに期待する、ということであればまだしも、わが外務省は、経済的に困窮している北方領土のロシア人住民に対し、経済援助(人道支援)を行うことによって彼らを親日にするとともに日本に依存させる・・そのためにも、ロシアの北方領土「不法占拠」を助長するような恒常的なインフラ整備は行わない・・ことによって、北方領土返還の資とする、というみみっちい政策を推進することにしたのです(162??163頁、169頁)。
 その結果は、北朝鮮への「人道」支援と大差なく、ドブにカネを棄てただけのことであり、ロシアからは、先般の「不法」操業漁船への銃撃事件といった形での強烈な返礼を受けるありさまです。
 この愚劣な政策に、佐藤が疑念を抱いた形跡もまた、皆無です。
 一層救い難いのは、日露の領土問題の解決ないし平和条約の締結など、日本「外交」全体の観点からは、とるに足りない案件である、ということに佐藤が全く気付いていないことです。
 その証拠が、この本の中に、米国がただの一度も登場しないことです。
 最近何度も繰り返して恐縮ですが、日本は米国の保護国であり、日本に外交自主権はありません。その日本「外交」の特定案件に関し、米国にお伺いを立てたり、米国から指示されたり、という場面が全くないということは、当該案件が、日本「外交」の基本に関わらない雑魚案件であることを物語っているのです(注7)。

 (注7)これは冷戦終焉以降の話であり、冷戦時代はそうではなかった。北方領土・日ソ平和条約問題は、宗主国米国の関心事項であり、従って日本「外交」の基本案件の一つだった。日本に北方領土問題の提起を促したのも、2島返還での決着に反対したのも米国であり(典拠省略)、これは、南樺太及び千島列島の帰属が国際法上未決着である上、北方領土を抱えるというソ連の弱点を衝いてソ連に米国がオホーツク海地域に強い関心を抱いていることを示し、心理戦をしかけたもの・・ソ連が欧州を攻めれば、第二戦線を開いてオホーツク地域を米国が占領し、南樺太と千島列島は永久にソ連に返還しないことを匂わせることによってソ連を抑止したもの・・と私は考えている。

 そんな雑魚案件の進展に、佐藤は無数のルール違反を犯してまでして全身全霊を注ぎ、その挙げ句、勤務先の外務省から裏切られ、刑事被告人となり、外務省から事実上追放されてしまったことに対しては、佐藤の限界のしからしめたところとはいえ、お気の毒にとしか言いようがありません。

(続く)

太田述正コラム#1419(2006.9.24)
<佐藤優の「国家の罠」(その1)>

1 始めに

 読者の島田さんから寄贈された二冊目の本である、佐藤優(まさる。1960年??)「国家の罠――外務省のラスプーチンと呼ばれて」(新潮社2005年3月)・・第59回毎日出版文化賞特別賞を受賞・・を読み終えたので、感想を記したいと思います。

2 佐藤優の悲劇

 (1)佐藤を使いこなせなかった外務省
 佐藤(敬称略)の悲劇は、優秀なノンキャリであった彼を外務省が使いこなせなかったところにあります。
 佐藤は、東京生まれの埼玉育ちで、京都の同志社大学神学部と大学院で組織神学(Christian Theology)を学び、1985年に外務省に専門職員として入省し、ロシア専門の情報分析要員として、その域を超えて縦横無尽に活躍した人物です(注1)。

 (注1)彼の優秀さと活躍ぶりについては、直接この本で確かめられたい。
 
 2002年5月に鈴木宗男衆議院議員との癒着を問題にされて逮捕され、起訴されたため、彼の外務官僚としてのキャリアは国際情報局分析第1課主任分析官で事実上終わります(注2)が、彼のような、優秀で政策遂行能力もある人物は、ロシアスクール(58??59頁)のキャリアに準じる扱いをして、政策担当部局である欧州局ロシア課(かつての欧亜局ソ連課)等で次席事務官等として処遇すべきだったのです(注3)。

 (注2)1995年に同課に配属される前は、彼は7年8ヶ月にわたってモスクワの日本大使館勤務だった(36頁)。
 (注3)ないものねだりと言うべきだが、日本に諜報機関があれば、まさにこの機関でのロシア担当としてうってつけの人物が佐藤だと思う。
 
 外務省も、全く彼の処遇に配慮しなかったわけではありません。
 外務省は、「ロシア情報収集・分析チーム」なるプロジェクトチームを、(恐らく彼を分析第1課の枠、更には国際情報局の枠を超えて活躍できるようにするために)1998年に分析第1課内に設け(注4)、彼をチームリーダーとしていました(64頁。379??381頁)が、なまじそんな姑息な方法をとったことが、彼のルール遵守意識を一層鈍磨させたのではないでしょうか。

 (注4)この「令外の官」は、小渕内閣当時に、「2000年まで・・<に>日露平和条約の締結を目指すという」背景の下、国際情報局長と欧亜局長の指揮・監督の下で、小渕首相によって、党や内閣でのポストいかんにかかわらず、対ロシア外交支援任務を事実上与えられた、こちらも令外の官たる鈴木宗男衆議院議員の「指示」をあおぎながら活動した。

 (2)佐藤自身の限界

 佐藤は、官僚として当然わきまえなければならない組織・会計・法令等のルール遵守意識が希薄であり、政策遂行のためにはルール違反をいとわないにもかかわらず、政策や政策の前提自体を疑う意欲や能力には欠けている、という点が彼の限界です。
 政策や政策の前提は所与のものとして行動するのが官僚の努めであると言われればそのとおりなのですが、政策や政策の前提の絶対的な正しさを疑う意識がどこかにあれば、ルール違反を犯してまでして一所懸命に政策遂行にのめり込む、ということにはならなかったのではないでしょうか。
 例えば、佐藤は、北方領土4島の日本への帰属を一括してロシアに認めさせてからしか平和条約は締結しない、という政府の規定方針に何の疑問も抱いていないように見えます(65頁)。
 しかし、そもそも、国後とエトロフ両島の返還要求には無理があるのであって、そんな無理筋の要求を続けている限りは、ロシアと永久に合意に達することはありえない、といった認識(コラム#549等)は、佐藤には皆無なのです。
 
(続く)

太田述正コラム#1395(2006.9.2)
<ベスラン惨事の真相>

1 始めに

 米国政府のやることを陰謀論的に把握しようとするのは禁物ですが、ロシア政府のやることは、昔も今も陰謀だらけだと思った方がよい、と私は考えています。
そもそもプーチン大統領はKGB出身であり、なおさら陰謀を駆使していると思った方がよいのです。
 2004年9月1日に、その大部分が子供達であるところの331名以上の犠牲者を出したベスラン惨事(コラム#464??467、469、474、476、477)が起こってからちょうど2年経ちましたが、この惨事の原因について、これまでのロシア政府の説明に真っ向から異を唱える説が最近登場しました。
 この説によれば、ベスラン惨事は、プーチン政権が意図的につくり出したものだ、というのです。
 それでは、この説をご紹介しましょう。
(以下、特に断っていない限り
http://www.time.com/time/world/printout/0,8816,1516216,00.html
(9月1日アクセス)、及び
http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/5302448.stm
(9月2日アクセス)による。)

2 惨事の原因

 ロシアの国会議員で国会のベスラン事件調査委員会のメンバーであるスヴェリエフ(Yuri Savelyev)は、武器や爆発物の専門家でサンクト・ペテルブルグのバルト機械工学大学の学長であった人物ですが、このたび、子供達を人質にとって立てこもっていたゲリラとロシア治安部隊との衝突は、ゲリラ側の発砲や爆弾の爆発によって始まったのではなく、ロシア治安部隊のバズーカ砲(rocket-propelled grenade=ロケット推進手榴弾)や発炎弾(flame-thrower)の発射によって始まり、ゲリラ側が建物内に設置していた爆発物が爆発したのは、22秒も経ってからであり、これは治安部隊の砲撃の誘爆であると考えられ、しかも、その後治安部隊は戦車砲まで用いて被害を大きくした、と指摘しました。 彼は、一番最初に爆発が起こったとされる部屋の窓枠やドアの壊れ方が外から爆発物が打ち込まれたことを示していることと、その爆発物の残留物が、治安部隊の爆発物のものであること等から、科学的に上記結論を導き出したのです。
 さまざまな状況証拠が、スヴェリエフ説の信憑性を裏付けています。
 第一に、ベスランが位置するロシアの北オセチア共和国の調査委員会が、早くから、ロシア治安部隊がバズーカ砲・発炎弾・戦車砲を用いたと指摘していたのに、プーチン政権は昨年までそれらの事実、とりわけ発炎弾の使用を否定していたことです。プーチン政権が、ベスラン惨事についての情報を隠蔽しねじ曲げようとしてきたことがこれだけでも分かります。
 第二に、プーチン政権は一貫して否定していますが、ロシア治安部隊を現地で取り仕切っていたのは、謀略がお手の物である(KGBの後継たる)FSBであり、しかもFSBは最初から攻撃を準備していた、という有力情報があることです。
 第三に、国会の上記調査委員会が結論を出すのを先延ばしにしていることです。これは、プーチン政権の息がかかった大部分のメンバーをもってしても、このスヴェリエフ説は簡単には葬り去ることができないほど説得力のある説であることから、彼らがその取り扱いに苦慮しているということを意味しているように思われることです。
 第四に、この人質事件を引き起こしたゲリラはバサーエフ(Shamil Basayev。コラム#467。2006年7月にロシア治安部隊によって殺害)の手下でしたが、チェチェンの反ロシア・ゲリラのもう一人のリーダーであったマスハドフ(Aslan Maskhadov。コラム#467。昨年3月にロシア治安部隊によって殺害)は、子供達が人質にとられたことを知って、北オセチア共和国大統領のジャソーホフ(Alexander Dzasokhov)と連携しつつ、ゲリラ側とロシア政府側との調停に乗り出し、それに成功する目前であったところ、プーチン政権としては、マスハドフのがロシアや世界で人気を博すようなことになるのは困ると考えていたはずであることです。
 第五に、ベスラン惨事のわずか10日後に、プーチンが、テロリストとの戦いに勝利するためにロシアを抜本的に作り変えるという声明を発したことです。その後2年以内に、ロシア国会はプーチン政権の下請け機関へと変貌させられ、マスメディアは沈黙させられ、ロシアの富の源泉である化石燃料はプーチン政権の管理下に置かれ、地方自治は骨抜きになり、FSBの権限は強化され、こうしてロシアの自由民主主義は大幅に退行させられ、ロシアはプーチンの望み通りの国になったことはご承知の通りです。

3 コメント

 先般の北方領土付近の海域におけるロシア当局による日本漁船射撃事件も、プーチン政権の指示の下で、日本の漁船員の殺傷を意図してロシア側が引き起こしたものであることに恐らく間違いはないでしょう。
 そんなロシアを米国がサミット構成国に加えようとした時に、日本は全く異を唱えなかったわけですが、今やロシアをサミット構成国に加えたことを後悔している米国としては、この期に及んでまだ米国から独立しようとせず、何事も米国まかせの日本への軽蔑を一層募らせていることでしょう。
 

太田述正コラム#12652006.5.30

<支那化するロシア極東(その2)>

 (2)最新状況

 ここまで読んできた方は、シベリア・極東、特に極東では支那人や支那系の人々であふれている、と思われたかもしれません。

 しかし、実際にはこれらの人々の姿はほとんど目に付きません。

 というのは、ウラジオストックやハバロフスクやブラゴヴェチェンスク(Blagoveshchensk)などの都会では、彼らはロシアの排外主義的な若者達に襲撃されることを懼れて自分達の工場や農場(後述)、そしてホテルやレストランやカジノや支那人市場の中に閉じこもっているからです(注3)。

 (注3)もう一つの可能性は、言われているほど、極東における支那人ないし支那系の人口(定住人口)が多くないことだ。4??5万しかいない、という説もある。仮にこの説が正しいとしても、いずれの説によっても、1991年には支那人ないし支那系の定住人口はゼロだった、というのだから、急速に増えていることは間違いない。

 特に彼らが多いのがアムール河(黒竜江)河畔のブラゴヴェチェンスクです。

 支那側の黒河Heihe)市との間をジェットフォイル艇が30分間隔で行き来し、支那の日用品を運んできます。この都市では、建設業も支那の一社がほぼ独占しており、現在極東一高いビルを建設中です。

 また、食糧についても、支那から輸入されるものと支那人がやみでロシア側で耕作している畑からとれるものが全部を占めています。

 このブラゴヴェチェンスクのあるアムール州(Amursky oblast)は363,700平方kmと日本の面積に匹敵しますが、人口は90万人しかありません。ところが、対岸の黒竜江省(Heilongjiangの人口は3,500万人にも達しています。

 極東全体では、支那側から輸入される日用品や食糧の80%は密輸品であり、ロシア側から輸出される木材もほとんどがそうです。

 (海産品の分野だけは、ロシアの漁船が活躍していますが、ロシアの税金や関税が高すぎるため、ロシアに水揚げされるものは少なく、大部分はこれまたヤミで日本の新潟や韓国の釜山に流れてしまっており、売上金も日本や韓国の銀行に預けられています。)

(以上、http://www.atimes.com/atimes/Central_Asia/HE27Ag01.htmlによる。)

3 コメント

 ロシアのシベリア・極東、特に極東で、広義のロシア人が減少していく一方で広義の支那人が増大していく傾向は今後とも続くことは必至であると考えられます。

 そうである以上、少なくとも極東・・資源の宝庫・・が、今世紀中に熟視が落ちるように支那の実質的支配下、あるいは完全支配下に入る可能性は排除できません。

 日本としては、軍事的ないし経済的安全保障の観点からも、可及的速やかに北方領土問題を国後択捉両島は諦める形で解決し、日本が極東やシベリアで、ステークホールダーになれるような緊密な関係をロシアの間で確立する必要があります。

 また、ロシア側としても、北方領土問題さえ解決すれば、支那に対抗するためにも、日本との関係強化を切望しているはずです。

 このような政策転換を図るためにも、日本における政権交代が待たれるところです。

(完)

太田述正コラム#12612006.5.28

<支那化するロシア極東(その1)>

1 始めに

 恐るべき勢いでロシア極東部が支那化しつつあることが気にはなりつつ、これまで、一度も触れる機会がありませんでした。

 そこで今回、この問題を取り上げることにしました。

2 支那化するロシア極東

 (1)概観

 ロシアの2002年の国勢調査によれば、ロシアの支那系住民は、1980年代末の5,000人から、326万人へと急増していることが分かりました。

 この結果ロシアで、支那系は、ロシア系(1億410万人)・タタール系(720万人)・ウクライナ系(510万人)に次ぐ四番目の民族集団に浮上しました。

 しかも、その四分の三以上が、シベリアと極東に住んでいます。

 ロシアと中共は、4,300kmに及ぶ国境線を挟み、シベリア・極東の(これら支那系を含む)1,800万人・・極東だけなら(米国の面積の三分の二の所に)わずか700万人・・のロシア人が、旧満州地方等の2億5,000万人・・東北三省だけでも1億人・・の支那人と対峙している、という状況です。

 ソ連崩壊後、両国の間で国境貿易が活発化しましたが、この貿易は支那商人の独壇場となり、それに伴って支那人がロシアに商用のため、あるいは常駐する形で、更には永住権をとったりロシア国籍をとったりする形で次々に進出して行ったのです。この間、シベリア・極東の生活水準がロシア平均の約半分であること(http://english.pravda.ru/russia/25-04-2003/2663-0。5月28日アクセス。以下同じ)に加えて、ロシア全般の経済状況の悪化に伴う住民の西方への流出と、軍事基地の閉鎖・縮小、更にはロシア全般の出生率低下と死亡率上昇により、シベリア・極東の人口は何百万人のオーダーで減少したので、支那人の進出はなおさら目立ちました。

 現在既に支那人は、極東の経済の30%から40%を支配しており、とりわけ軽工業は100%その支配下にある、という見方もあります(注1)。

 (注1)香港を拠点とする組織暴力団(triad三合會)のシベリア・極東進出もめざましいものがある。彼らはロシア系の暴力団を駆逐ないし服属させ、支那・香港からヤミ送金したカネや、現地の支那系や支那人商人からせしめたみかじめ料を中華料理屋・カジノ・ホテル・ホステスバー・売春宿等に投資し経営しているほか、非合法木材伐採・漁労(中日韓に密輸出する)を行っており、極東の人口当たり犯罪発生件数はロシア一高くなっている。なお、アフガニスタン産のヘロインを扱う麻薬稼業はタジク人・カザフ人・チェチェン人等の中央アジア系の暴力団が牛耳っており、三合會もこの分野にだけは食い込めていない。

 中共に加えて、日本や韓国との経済的結びつきも強まっており(注2)、シベリア東部以東のロシアの経済は、今やほとんどロシアの西方地区とは切り離された形で東北アジア経済圏に組み込まれるに至っています。

 (注2)ウラジオストックやハバロフスクやイルクーツク(Irkutsk)では、現在、日本製の右ハンドルの車しか走っていないと言っても過言ではない。

 ロシアは、この支那人の攻勢に戦々恐々としています。

 何せ、2010年までに、ロシア国内の支那系は1,000万人に達するだろうとも言われている一方、毛沢東やトウ小平が、ロシアは支那から領土を奪っており、ウラジオストック(Vladivostok)や ハバロフスク(Khabarovsk)等は本来支那のものだ、と述べたことがあるからです。

 支那人のこれ以上の流入を防ぐため、支那商人に対し一旦免除されていたビザを復活をしたり、支那人のロシア国籍取得を困難にしたりする動きがありますが、実効を挙げているとは言えません。

(以上、特に断っていない限りhttp://www.worldpress.org/Asia/1651.cfm、及びhttp://www.asiapacificms.com/articles/russia_triads/による。)

(続く)

太田述正コラム#11462006.3.26

<冷戦の復活?(その2)>

<その後の経過>

 米国防省の報告書について、ロシアの海外諜報機関である対外情報局(Russian Foreign Intelligence Serviceの報道官は25日、「同様の根拠のない非難がこれまでもロシアの諜報に関して行われたことがある」(下述)とした上で、これも「根拠のないでっち上げであり、コメントする必要はない」と語りました(http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2006/03/25/AR2006032500404_pf.html、3月26日アクセス)。

3 冷戦の復活?

 (1)背景

  ア 蜜月時代

冷戦の終焉、そしてソ連の解体の後、米国はロシアを友邦とみなしてきました。

 (以下、(以下、特に断っていない限りhttp://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2006/03/05/AR2006030500022_pf.html(3月6日アクセス)、http://news.bbc.co.uk/2/hi/asia-pacific/4827354.stm(3月21日アクセス)、及びhttp://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2006/03/21/AR2006032100744_pf.html(3月21日アクセス)による。)

 ロシアを積極的にサミットのメンバーに引き立てたのも米国でした(注4)。

 (注4)ロシアが入ったことで、7カ国サミットは8カ国サミットとなった。ちなみに、今年はロシアでサミットが初めて開催される。

 9.11同時多発テロの時に、ロシアは米国に連帯の手をさしのべ、米露関係の緊密化はこの時に頂点に達します。

イ 暗転

 この関係が暗転するきっかけになったのが、2003年の対イラク戦です。

 ロシアは、強硬に対イラク戦開戦に反対しました。ロシアはフセイン政権から得た、石油権益・イラクがロシアに負っている巨額の債務・国連の石油・食糧交換プロジェクトのキックバック等の経済的権益を失いたくなかったのです。

 そしてロシアは、最後の最後まで積極的にフセイン政権を支援しました。対イラク戦開戦わずか10日前にロシアの退役将官2名がバグダッドを訪問して勲章をもらいましたし、在イラクのロシアの諜報諸機関が毎日のようにイラクの政府関係者と会っているという報道がなされ、また、米国政府は当時、ロシアのいくつかの会社が対戦車ミサイル・暗視ゴーグル・電子妨害機器等の国連決議違反の武器を輸出した旨の声明を行っています。結局、対イラク戦で米軍がバグダッド攻撃を開始した日まで、在バグダッド・ロシア大使以下はイラクにとどまり、脱出の際、米軍にロシア外交官搭乗の車が誤射されて負傷者が出る、という事件まで起きました。

 (ここまでは、http://www.guardian.co.uk/Iraq/Story/0,,1739407,00.html前掲及びhttp://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2006/03/25/AR2006032500404_pf.html前掲にもよった。)

  ウ 関係悪化へ

 その後、米露関係は、つるべおとしに悪化して行きます。

 プーチン政権が、反自由・民主主義的国内政策を追求しており、かつ腐敗していることが誰の目にも明らかになってきたこと、米軍を中央アジアから追い出す画策を始めたこと、エネルギー輸出を弱体な隣接諸国をコントロールする手段として用いるようになったこと、パレスティナ選挙に勝利したハマスの幹部をロシアに招待したこと、そしてこのところの急速な露中の緊密化(後述)、が原因です。

 米国防省の報告書が公開された日(3月24日)がプーチン訪中(3月2122日)の直後であったことは、いかに米国政府がこの露中の緊密化に不快感を抱いているかを示している、という分析が米国でもロシアでも米露関係の専門家から出てきています。

 露中両国は、2004年に国境紛争を最終的に解決し、2005年には露中両軍による初めての共同演習を実施しました。また、両国の貿易は急速に増えてきており、中共はロシアの武器の最大の売り込み先になっています。この両国は、対イラン政策でも、核開発を押しとどめようとする欧米に対し、共に慎重なスタンスをとっています。

 露中両国の緊密ぶりは、この一年弱の間に、プーチンと胡錦涛が会ったのが、今回で5回目であることが何よりも良く物語っています。

 特に今回のプーチン訪中が特筆されるのは、シベリアの天然ガスを中共に供給するパイプラインを5年以内に敷設することが、両国間で取り決められたことです。

(続く)

太田述正コラム#11432006.3.25

<冷戦の復活?(その1)>

1 始めに

 米露関係が少なくとも米側から見て、急速に悪化しつつあります。あたかもかつての米ソ冷戦時代へと逆戻りした感があります(注1)。

 (注1)この話題は、「ブッシュ三題噺」シリーズ(前回はコラム#11352006.3.21))の中で取り上げるつもりだったが、急遽単独で先に上梓することにした。

2 ロシアがフセイン政権に情報提供

2003年の対イラク戦開戦後も、ロシアが当時のフセイン政権に対し、米軍の動きに関する情報を提供していたことが米国防総省が24日公表した報告書で明らかになりました。

しかし、本件に関する日本の新聞の報道ぶりは、電子版で見る限り極めて小さく、かつ上っ面を撫でただけのものにとどまっています。(例えば、http://www.tokyo-np.co.jp/00/detail/20060325/fls_____detail__015.shtml(3月25日アクセス)。)

しかし、本件が米国政府によって公表されたことは、深刻に受け止めるべきです。

まず、何がこの報告書に書かれていたのかから始めましょう。

(以下、http://www.latimes.com/news/nationworld/world/la-032406iraqdocs_lat,0,6082645,print.story?coll=la-home-headlineshttp://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2006/03/24/AR2006032400996_pf.htmlhttp://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2006/03/24/AR2006032401225_pf.htmlhttp://www.nytimes.com/2006/03/25/international/europe/25spy.html?pagewanted=print、及びhttp://www.guardian.co.uk/Iraq/Story/0,,1739407,00.htmlいずれも3月25日アクセス)による)

押収されたフセイン政権の文書から以下のことが明らかになった。

当時カタールのドーハに進出していた米中央軍司令部内にロシアのスパイがいた。

得られた米軍の意図と動きに関する情報は、在バグダッドのロシア大使経由でフセイン政権に伝えられていた。(「正」は正しい情報、「誤」は誤った情報。)

米軍の12,000の兵力と1,000の車両が<南部の>カルバラ(Karbala)付近<の隘路>に終結していると4月2日に伝えた。(正)(注2

(注2)この情報は無視された。イラクの共和国防衛隊の司令官の一人は、独自情報に基づき、米軍の大軍がカルバラ隘路に終結しており、集中攻撃をかけるよう、フセインの息子のクサイに意見具申したが無視された。

米側はイラク南部の諸都市を攻略するのは困難だとして戦略を変更し、これら諸都市を迂回してバグダッドを目指すと3月25日に伝えた。(正)

米軍の南方からの攻勢は陽動作戦であり、主力の攻勢は西方のヨルダンから行われ、その作戦の発動はトルコへの上陸を拒否され、地中海上にあった米第4師団が到着する4月15日頃以降になると3月24日に伝えた。(この話は4月2日にも再び伝えられた)。(誤)(注3

(注3)実際は、西方からの攻勢はなかった。西方からの攻勢は、イラク内の西側の砂漠に特殊部隊を潜入させた米側が、フセイン政権に思いこませたかった事柄だ。また、バグダッドは4月9日に陥落した。

書かれていたことの概要は以上です。

GRU(ロシア国防省諜報部)等のロシアの諜報諸機関がイラク内で活動し、開戦以降もイラクの諜報諸機関に情報を提供していたという事実がイラクの諜報機関から押収された文書から明らかになっていることもあり、以上の話は本当であると思われるとか、これが事実だとすれば、ほとんどロシア軍がイラク軍とともに戦うに等しい、ロシアの重大な敵対的行為である、といった声が米国内で出ています。

一方で、在バグダッド大使が上記諸情報をフセイン政権に伝えたのが本当だとしても、それは、ロシア政府の指示によるものではなかったのではないか、という声も米国内にはあります。

 ちなみに、本件について、ロシア外務省も国防省も在ワシントン大使館も沈黙を守っていますが、ロシアの国連代表部の広報官は、この話は全くのでたらめであり、何の証拠も示されていない、と述べたところです。

 それにしても、米国政府は、どうしてこんな話を公表したのでしょうか。

 米軍は、意図的に正誤入り交じった情報を流し、フセイン政権を惑わせる欺騙作戦を対イラク戦の際に行っていたという事実があり、この作戦にロシアもひっかかってしまったという可能性は排除できませんが、それならなおさら、「役に立った」ロシアをはずかしめるような公表をすることは避けたはずです。

 

(続く)

太田述正コラム#9992005.12.14

<ロシアの人口動態と差別>

「第2回 まぐまぐBooksアワード」の投票が、21日まで行われています。

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1 始めに

 しばらく、ロシアを取り上げていませんが、今回は人口動態と差別いう切り口でロシアの現状に迫ってみたいと思います。

2 人口減少続く

 ロシアの人口減少が加速しています。

 今年1月から9月までだけで、50万人以上減り、10月現在のロシアの人口は1億4,300万人となっており、このままでは2050年までに人口が8,000万人まで落ち込む可能性があるとされています。

 原因は、酒の飲み過ぎ・貧困・移住・保健システムの貧弱さ、であり、平均寿命は、女性は72歳ですが、男性は58歳まで短くなってしまいました(注1)。

 (以上、http://www.guardian.co.uk/russia/article/0,2763,1599219,00.html1024日アクセス)による。)

 (1)それだけではない。ロシア人は国内旅行より海外旅行を選び、他方、外国人旅行客は激減しており、ロシアの実在人口は、更に少なくなっている。

    ロシア人は昨年、海外旅行で200億米ドル使ったが、国内旅行ではその20分の1の10億米ドルしか使わなかった。

    また、外国人旅行客は、ソ連時代の1991年には700万人近くも訪れたが、昨年はわずか300万人に減ってしまい、20億米ドルしか使ってくれなかった。今年はこれが更に25%も減る見込みだ。原因は、役者関係の手続きが煩瑣であること、旅行経費が高くつくこと(欧州諸国への観光に比べて2倍近く割高)、インフラとサービスが貧弱であること、そして治安が良くないこと、だ。(http://www.csmonitor.com/2005/1019/p06s03-woeu.html1019日アクセス)

3 イスラム教徒の増加

 このようにロシアの人口が減っている中で、ソ連崩壊後、信教の自由が認められたことと、出生率の高さ、そして平均寿命の相対的長さ(注2)のため、イスラム教徒の人口は相対的にも絶対的にも増えてきており、既に人口の10%から16%1400万人から2300万人に達しています(注3)。

(注2)真面目なイスラム教徒は酒もタバコもやらない。これだけでも非イスラム教徒より健康で長生きするわけだ。

(注3)ちなみに、ロシア正教徒は約7,500万人だ(讀賣下掲)。

イスラム教徒はロシア全土に居住していますが、北コーカサス地方に集中しています。

こうした背景の下、読売新聞(http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20051212id28.htm1213日アクセス)によれば、「ロシア国家の紋章は「双頭の鷲(わし)」で、鷲が戴(いただ)く王冠などに十字架があしらわれている。・・・宗教組織「露アジア部イスラム宗務局」議長のナフィグラ・アシロフ師ら3人の有力指導者は6日、「世俗国家」をうたう憲法に違反する、などとして十字架の除去を求めた。アシロフ師はさらに、国境に十字架が設置されたり、軍や内務省の各部隊が、自分の守護聖人を定めている点なども厳しく批判した。他方、ロシア西部ニジニノブゴロドの「イスラム宗務局」は6月、「イスラム教徒の地位向上」のため、ロシアに副大統領職を復活させ、イスラム教徒のポストとするよう提唱し<た>」とのことです。

ロシアの抱えるイスラム教徒「統合」問題は、西欧におけるそれと比較にならないくらい深刻です。イスラム教徒の人口比が格段に多いだけでなく、コーカサス地方のイスラム教徒にロシアから分離独立しようとする動きがある(注4)からです。

(注4)チェチェンの「テロリスト」バサーエフ(Shamil Basayev)(コラム#467469474477)は、北コーカサスにカリフ制の独立国家を樹立しようとしている。

 ロシア政府は、先般、ソ連時代のイスラム監督局(Muslim Spiritual Department)・・イスラム教の指導者の任命を監督する・・を復活させたところです。

(以上、http://www.nytimes.com/2005/11/22/international/europe/22russia.html?pagewanted=print1123アクセス)による。)

4 イスラム教徒への差別

こうした中で、元からロシア領内にいたイスラム教徒(80%)や旧ソ連イスラム系諸国の独立以降ロシアに残留した、あるいはロシアに流入してきた不法「移民」たるイスラム教徒(20%)が、スラブ系による差別の対象になっています。

 昨年は、イスラム系を中心として50名近くのコーカサス人やアジア人らの有色人種の人々が、人種的原因で、スラブ系のチンピラらによって殺害されており、その数は一昨年に比べて2倍に増えています。

 11月の初頭には、モスクワで、「ロシアから占領者を一掃せよ」といったプラカードを掲げた、民族主義者達による3,000人のデモが行われました。

 ロシアの2003年の総選挙では、民族主義的極右政党二党が合わせて20%以上得票し、民族主義的勢力は今後とも伸張していくと見られており、イスラム教徒への差別が一層深刻化していくことは必至です。

(以上、http://www.latimes.com/news/nationworld/world/la-fg-nationalism2dec02,1,1997601,print.story?coll=la-headlines-world12月3日アクセス)による。)

太田述正コラム#9742005.11.28

<正反対のプーチン訪日評価>

                     

1 初めに

 差別問題にどっぷり浸かっていたため、いささか旧聞に属しますが、プーチン・ロシア大統領の5年ぶりの訪日の評価が日本と英米のプレスで正反対であったことについてご紹介するとともに、所見を申し述べようと思います。

2 日本のプレス

 日本のプレスはおおむね、プーチンは強硬な姿勢を崩さず、日本は得るところがなかった、という評価です。

 例えば東京新聞は、次のように評しました。

「ロシア<は>・・原油価格高騰の追い風も受け、国内総生産は年7%の成長率を示し、エネルギー大国としての自信を膨らませている。・・領土交渉で、もはや日本の経済支援が「切り札」でなくなっている現状が浮き彫りになった。<また、>中ロ両国は懸案だった国境問題を解決すると、今年八月には大規模な合同軍事演習を実施した。・・<このような>ロシアの対中国関係の緊密化も、プーチン政権の対日強硬姿勢に影響を及ぼしている。・・<そもそも、北方領土問題については、>・・鈴木宗男氏らは、・・二島の返還と、択捉、国後二島の帰属問題を同時に進める「並行協議」を模索<し>ロシア側もこれに応じてきた<が>、鈴木氏らの逮捕などで、実質的に日本側から「並行協議」を破たんさせ、ロシア側の不信感を招いた。」(http://www.tokyo-np.co.jp/00/kakushin/20051122/mng_____kakushin000.shtml1122日アクセス)

 また、日本経済新聞は、次のように評しました。

 「プーチン大統領が日本に着いたの20日午後2時。最初の行事は都内の六本木ヒルズで開いている日ロ友好アート展の視察だった。時刻は午後6時を過ぎていた。次いで柔道家の山下泰裕・東海大学教授と会談、柔道談議に花を咲かせた。<これは>いずれもロシア単独の行事として行った<ものだ>。・・<更に、日露>首脳会談<は、>日本経団連との行事である「日本ロシア経済協力フォーラム」の後に回<すという>異例の日程になった。ロシア側があたかも民間との行事を優先するかのように扱った背景には日本政府、特に外務省への不信感がある。」(http://www.nikkei.co.jp/news/seiji/20051122AT1E2101H21112005.html1122日アクセス)

3 英米のプレス

 ところが、英米のプレスはおおむね、プーチンはもみ手をして訪日し、日本は大いに得るところがあった、と正反対に評しています。

 例えば、ガーディアンは、次のように評しました。

 「ついこれまで、ロシアの大統領は、熱心に中共に言い寄ってきた。彼は北京に石油と武器を売っている。今年の相互貿易は150英ポンドに達するだろう。冷戦時代の国境紛争は解決した。両国は最近、初めて共同演習を実施した。そして両国は国連でイランやスーダン問題等に関し、しばしば共同行動をとってきた。しかし、北京から不誠実だと非難される危険を冒してまで、プーチンは、中共のかつての敵であり、地域的ライバルであり、しかもロシアとまだ法的には戦争状態にある日本でこの三日間を過ごした。彼は日本とシベリアの石油をつなぐパイプラインの建設を約束した。彼はもっとロシアに投資を、と促した。そして彼は、極めて危うい千島列島・・日本では北方領土として知られる・・の問題で日本にこびを売るような姿勢を見せた(he was conciliatory)。・・<これはなぜだろうか。それは、>英ワーリック大学University of Warwick)の地域専門家のヒューズ(Christopher Hughes)によれば、「・・・ロシアは極東で非常に弱い立場にある。ロシアは極東に軍事的プレゼンスがなきに等しい。」からだし、ほかの何人かのアナリスト達によれば、資源が豊かで、人口が少ないシベリアは、いつの日か、拡大する中共にとって魅力あるターゲットになりうるからだ。」http://www.guardian.co.uk/worldbriefing/story/0,15205,1648686,00.html1123日アクセス)

 また、ニューヨークタイムスは、次のように評しました。

 「プーチン大統領は、ロシアと中共の関係緊密化によって一方に傾いたアジアにおける力の三角形の均衡を是正するため、日本を5年ぶりに訪問し、シベリアの石油を日本海に運ぶパイプラインの建設時間表を一年以内に決定すると日本に約束した。・・彼は、これをエサにして、海外からのロシアへの投資の1%でしかない、日本からの投資と、そして貿易を大幅に増大させたいと願っている。露日貿易は今年100億米ドルにはなる見込みだが、露中貿易は今年250億米ドルになる見込みだからだ。・・プーチンは、この貿易面での不均衡を是正するため、100名ものロシアの経済界のリーダー達を率いて日本にやってきた。」(http://www.nytimes.com/2005/11/22/international/asia/22japan.html?pagewanted=print1123日アクセス)

4 所見

 さて、日本のプレスと英米のプレスのどちらが正しいのでしょうか。

 もちろん、英米のプレスが正しいと私は思っています。

 お断りしておきますが、私はいつも無条件に英米のプレスの言うことに軍配を挙げるわけではありません。

 日本のプレスも日本の政治家や一般国民同様国際関係にうとい、という一般論はひとまず置くとして、当事者(たる日本)よりも第三者(たる英米)の方が客観的に物事を見ることができる場合が多く、しかもこの場合は、日本のプレスが、北方領土問題に拘泥しすぎており、しかも北方領土問題でいかに日本が無理難題を言っているかという自覚がない(北方領土問題については、コラム#549602603697参照)以上、第三者たる英米の見方の方が正しい可能性が高いからです。

太田述正コラム#0577(2004.12.28)
<プーチン大統領の罪状(その3)>

4 自国民を虐待するロシア政府

囚人の数の全人口に占める比率が、れっきとした国の中では米国に次いで世界で二番目に高いロシアですが、衆目認めるところ、囚人が世界で一番ひどい目にあっているのがロシアです。
ロシアの約75万人の囚人のうち、何と三分の二が病気にかかっているのです。
約12万人が精神疾患にかかっており、9万人近くが薬物依存症であり、5万人以上が結核にかかっており、3万5,000人がエイズに感染しています。アルコール中毒も蔓延しています。
刑務所では狭いスペースに囚人を詰め込んでいるため、病気や悪習慣がどんどん広がる一方で、医療やケアの体制が極めて貧弱だからです。
(以上、http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/3713858.stm(10月5日アクセス)による。)
また、ロシアでは旧日本軍も真っ青なるほどいじめ(hazing)が横行しており、毎年ロシアの新兵数千人が傷つき、数十人が死亡しています。
2004年の前半だけで、いじめで亡くなった兵士は25名、自殺した兵士109名中いじめが理由で自殺した者は60名にのぼります。
新兵は、登録の際に上官や同僚から金品を盗まれ、最初のショックを受けます。
配属先の部隊では、眠りを妨げられたり、食事を与えられなかったり、夜通し何の意味もない作業を命ぜられたりします。
反抗すれば、眠りを禁じられたり、無理矢理体操をやらされたり、殴られたりします。
いじめを訴え出たりすれば、更にひどいいじめが待っています。
士官はいじめを見て見ぬふりをしているといいます。
このため、青年達は徴兵逃れに死にものぐるいになっていますし、ロシア軍の士気も落ちるところまで落ちています。
安全保障の重要性をことあるごとに強調しているプーチン大統領が、これを放置していることへの批判が国際的に高まっています。
(以上、http://www.nytimes.com/2004/10/21/international/europe/21russia.html?oref=login&pagewanted=print&position=(10月22日アクセス)による。)
 
5 内外で評判が180度違うプーチン

 これだけの「悪行」をプーチン大統領が重ねてきているというのに、彼がコントロールしている大テレビ局等がプーチン宣伝機関に堕してしまったこともあって、プーチンの反民主主義的にして強権的な統治スタイル(注1)に大方のロシア国民は酔いしれ、プーチンへの個人崇拝熱が高まっています。

 (注1)プーチンは自伝の中で、選挙の洗礼を受ける必要がなかった帝政ロシアの皇帝達を羨み、選挙に際しては「不誠実にも実行できないことを公約しなければならない。つまり、その候補者は実行できない公約であることが分からない馬鹿か確信犯的嘘つきかのどちらかだということになる」、と正直すぎるくらい正直に語っている。

 プーチンの誕生日には、プーチンに対し、生徒達が詩やお祝いの手紙を捧げたり、ロシア各地から名産品が献上されたり、青年唱歌隊が賛美歌を捧げたりすることが広汎に見られ、プーチン御用達の柔道着やスキーウエアが人気を集めています。
(以上、http://books.guardian.co.uk/reviews/politicsphilosophyandsociety/0,6121,1168774,00.html(4月10日アクセス)による。)

 しかし諸外国においては、欧米を中心に、プーチンの評判は地に落ちています。
 ユーコス問題では、米国のヒューストンの裁判所がユーコスの公売に待ったをかけ、その結果ガスプロムは直接ユーコスを落札できなくなりました(注2)し、チェチェン分離独立派の有力者の政治亡命を英米は受け入れています。

 (注2)ドイツ銀行を中心とする国際コンソーシアムは、米国の裁判所の決定を尊重し、ガスプロムにユーコス落札経費の融資をすることを取りやめた。

 また、ウクライナの大統領選挙への介入ではプーチンは世界の観衆の面前で大恥をかきました(コラム#553)。
(以上、http://www.nytimes.com/2004/12/19/international/europe/19putin.html?oref=login&pagewanted=print&position=(12月20日アクセス)等、による。)

 ロシアは、プーチンの下で、フセイン時代のイラクのようなパーリア・ステート(鼻つまみ者国家)への道を確実に歩んでいるのです。

(完)

太田述正コラム#0576(2004.12.27)
<プーチン大統領の罪状(その2)>

3 腐敗し切ったロシア

 (1)始めに
 各国の腐敗度を調査しているTransparency International(ベルリンに本部)の最新の2000年のレポート(http://www.transparency.org/。12月23日アクセス)によれば、ロシアの腐敗度は133カ国中の86位であり、インドやマラウィやルーマニアより下とされています。

 (2)政府
 2000年の大統領選の際にプーチンは、当選したら賄賂・縁故主義・権力濫用と断固戦う、と高らかに公約しました。この三悪は「社会全体を堕落させ、行政府と国家の諸機関の権威を損なうからだ」というのです。
 しかし、それから4年以上たった時、プーチンは「大声での宣言と大がかりな諸計画は残念ながらほとんど何の成果もあげなかった」と告白し、それ以来、本件については口をつぐんだままです。
 プーチン自身が腐敗に手を染め出した(後述)以上、他人の腐敗を追及する意欲など消え失せたということなのでしょう。
 ロシア政府の官僚機構はソ連時代の二倍にふくれあがり、利権の巣窟になっており、各省の次官ポストは50万ユーロで取引されている、と噂されています。利権で稼ぐのが政府に入る目的ですから、公務員は地位の高低いかんにかかわらず、仕事はほとんどしようとせず、やっても手抜きだらけの仕事しかしていません。
(以上、特に断っていない限りhttp://www.nytimes.com/2004/06/07/international/europe/07SPIEGEL.html(6月13日アクセス)による。)

(3)民間
当然ロシアでは民間も腐敗しきっています。このことはロシアにおける富の偏在ぶりが裏付けています。
世界銀行モスクワ事務所は、今年6月末にまとめた報告書の中で、ロシアを「世界で最も富の偏在した国の1つ」と結論付けています。
例えば、ロシアでは10人の株主が実に株式市場の60%を支配しており、インドネシアの58%、韓国の37%、シンガポールの27%を押さえて世界一の集積度です。また、最も裕福な26人の資産がGDPの19%相当に達しています。更にロシアでは、22の企業グループが全労働力の11.3%を傘下に置き、工業生産売上高の30.8%を占めています。(統計は2003年6月時点のもの)
(以上、http://www.sankei.co.jp/news/040701/kei001.htm(7月1日アクセス)による。)

(4)ユーコス問題
12月19日に世界有数の石油会社であるロシアのユーコスが「公売」に付されました。
国際的な会計規範や法規範に違反して、本来の市場価格の約半分の93。5億ドルで競り落としたのは、名もないロシアの会社でした。そして22日にはこの会社から、旧ユーコスの主要生産施設を、(話を少し単純化させてもらいますが、)政府が株式の51%を保有する独占天然ガス会社のガスプロム(Gazprom)が購入したことが明らかになりました。
その背後には、利権を求めて蠢く、プーチンのお友達の旧KGBやFSB関係者達とプーチン自身の姿が透けて見えます。
つい一年前までは、ロシアの超優良会社で透明性も高かったユーコスでしたが、そのユダヤ系ロシア人の経営者を拘束し、継ぎにユーコスを差し押さえ、更にユーコスを「公売」に付することによって、ついに彼らは自分たちの政治的かつ個人的ねらいを達成することに成功したのです。
(以上、http://www.washingtonpost.com/ac2/wp-dyn/A15142-2004Dec20?language=printer(12月22日アクセス)及びhttp://news.ft.com/cms/s/73657840-5462-11d9-a749-00000e2511c8.htmlhttp://www.washingtonpost.com/ac2/wp-dyn/A16512-2004Dec21?language=printer
(どちらも12月23日アクセス)による。)

(続く)

太田述正コラム#0575(2004.12.26)
<プーチン大統領の罪状(その1)>

1 自由でない国に転落したロシア

 二年前にロシアは新しい刑法を採択しました。
 欧米の刑法にならって、法の支配の精神にのっとり、検察側と被告側は対等であるとされ、人身保護令状(habeas corpus)や陪審制度や二重の危険(double jeopardy)の禁止が導入されたのです。
 しかし、こういった新基軸は全く絵に描いた餅にとどまっています。
 ロシア国民の法意識が変わっておらず、政府の側でもこれまでの検察優位の態勢維持に努めている上、裁判官が腐敗しているからです。
 (以上、http://www.nytimes.com/2004/06/20/weekinreview/20myer.html(6月20日アクセス)及びロサンゼルスタイムス(下掲)による。)
 自由の最後の砦である司法が旧態依然であるということは、ロシアに自由がまだ根付いていないことを意味します。
 それどころではありません。
 1991年以来、初めてロシアは自由ではない国という烙印を押されてしまいました。
 米国の団体フリーダムハウスが毎年出している報告書(コラム#199)の2005年版で、政府が報道機関への圧力を強め、地方自治を制限し、国会議員選挙と大統領選挙が自由・公正さに欠ける、等の理由から、世界192カ国ないし地域の中で、ロシアを自由でない26%の国の一つに分類したのです。ちなみに、46%の国が自由な国とされ、残りが部分的に自由な国とされています。いずれにせよ、前年に比べて26カ国が自由度が増え、11カ国が自由度が減った中でのロシアの「転落」なのですから、目も当てられません。
(以上、http://www.guardian.co.uk/russia/article/0,2763,1377802,00.html(12月22日アクセス)による。)

2 終焉を迎えたロシアの民主主義

 今年9月、クレムリン近くにある第二次世界大戦の激戦の記念碑の名称が差し替えられました。1961年から用いられてきたボルゴグラードから昔のスターリングラードへ。
 これは、ソ連時代に戻ろう戻ろうとしている現在のロシアを象徴しています。
 プーチン大統領は、この同じ9月に、州知事の公選制を廃止し、無所属の国会議員選出を禁止しました。
 その上、司法が腐敗しており、プーチン支持派が国会で絶対多数を占めており、すべての主要なテレビ局が政府の支配下にあり、FSBが謀略の限りを尽くしている(コラム#573)、と来ているのですから、もはや民主的手段でプーチンを失脚させることは不可能になった感があります。
ついにゴルバチョフとエリティンまでもが、プーチン批判を始めたことは以前(コラム#476)ご紹介したところです。
プーチンは、民族的・社会的・階級的・宗教的にばらばらな国民からなるロシアで選挙に基づく民主主義を機能させることは、ソ連崩壊後の新しい国家的アイデンティティーの確立に成功していない現状においては不可能だと考えており、そのプーチンの手でロシアにおける民主主義は、早くも13年目の今年2004年に終焉を迎えた、と言えそうです。
(以上、http://www.latimes.com/news/nationworld/world/la-fg-putin19sep19,1,6911600,print.story?coll=la-headlines-world、及びhttp://www.nytimes.com/2004/09/19/weekinreview/19myer.html?8hpib=&pagewanted=print&position(どちらも9月20日アクセス)による。)

(続く)

太田述正コラム#0574(2004.12.25)
<いかんともし難いロシア(続)>

<補足>
 前回の補足をしておきましょう。

ア ロシア国民の意識

 ロシアで1999年以降に実施された各種世論調査は、ロシア国民の驚くべき意識を浮き彫りにしています。
民主主義が好きな者はわずか22%、嫌いな者は53%。複数の政党による選挙が好ましいと答えた者はわずか15%、好ましくないと答えた者は52%。言論・報道・移動の自由は社会の安定より重要だとする者は何とたったの11%。マスメディアに対して検閲を復活すべきだとする者は76%。借金を踏み倒したり万引きをしたりすることは許されると考える者は半分以上もいます。管理職になりたいとする者は9%に過ぎず、絶対になりたくないとする者は63%。
ロシアに敵がいると答えた者は三分の二もおり、何を敵と考えるかについては、西側の産業・金融界、米国、NATO、ロシアのオリガーキーと銀行家、民主主義者、イスラム過激派の順でした。これらの敵に対抗するためになすべきことについては、78%がロシアが大国になることと答えました。人類の歴史上もっとも偉大な人物は誰だと思うかと聞いたところ、上位10人中9人まではロシア人であり、上位5人はピョートル大帝、レーニン、プーシキン、スターリン、そして宇宙飛行士のガガーリンでした。
74%がソ連が崩壊したことを残念に思っており、共産党がクーデターを行ったとしたら、23%は積極的に支援し、19%は協力し、27%は我慢し、16%は移住すると答え、抵抗すると答えた者は10%しかいませんでした。
あなたは欧州人ですかと問うと、常にそう思っていると答えた者はわずか12%で、全くそうは思っていないと答えた者は56%にのぼりました。
(以上、http://www.nytimes.com/cfr/international/20040501facomment_v83n3_pipes.html(5月30日アクセス)による。)

イ ロシアの人口減少

 1992年から2002年にかけて、ロシアの人口は1億4870万人から1億4400万人に減少したのですが、2050年には約1億人まで落ち込むと予想されています。
 とにかく、100人赤ちゃんが生まれるごとに173人の死者がでており、ロシア人男性の平均寿命はバングラデシュ・グァテマラ・ボスニアよりも低い59歳に下がってしまっています。
 その背景として、現在のロシア人が世界で一番酒を飲みタバコを吸い、自殺をしているほか、心臓病・結核・肝炎・梅毒や事故による死亡率も世界有数の高さであることが挙げられています。
 これに加えてエイズの問題があります。
 1999年まではロシアにはほとんどエイズの影さえありませんでした。
しかしこの年から、アフガニスタン製の液体ヘロインが入って来るようになり、若者達が注射器を共用してヘロインを打ち始めたことをきっかけに、エイズが爆発的な勢いで増えつつあります。
ロシアのように識字率が高く、医薬品産業を持ち、全家庭にテレビが普及している国で、エイズが爆発的に増えるなどということは本来考えられないことです。
それもこれも、プーチン政権がエイズ問題を放置しているからです。
 エイズ患者は現在30万人弱ですが、エイズ感染者は既に100万人に達していると見積もられており、人口が二倍でずっと長いエイズの歴史がある米国の感染者数を上回っています。
 そして、2010年には25万人から65万人のエイズによる死者が出ると予想されています。
2050年には約1億人までロシアの人口が落ち込むと予想されているところ、エイズ患者の増え方いかんによっては、それが更に落ち込んで約7,700万人になってしまうという、恐るべき可能性さえ取り沙汰されています。
(以上、http://books.guardian.co.uk/reviews/politicsphilosophyandsociety/0,6121,1143192,00.html(4月10日アクセス)及び(http://www.washingtonpost.com/ac2/wp-dyn/A37342-2004Jun12?language=printer(6月13日アクセス)による。)

(完)

太田述正コラム#0573(2004.12.24)
<いかんともし難いロシア>

1 ウクライナの選挙への介入

 ウクライナの大統領候補のユシュチェンコ氏が毒(ダイオキシン)を盛られて危うく一名をとりとめたけれど、顔が吹き出物だらけになったことが大いに話題になっています。
 しかし、この話を帝政ロシア以来の歴史の文脈の中に置いてみると、これがめずらしくも何ともない事件であることが分かります。
 有名なのは、帝政ロシア末期の宮廷を牛耳った怪僧ラスプーチン(Rasputin)が1916年に暗殺された事件です。念の入ったことに、青酸カリ入り菓子、青酸カリ入りワイン、拳銃、ナイフでの暗殺にことごとく失敗した犯人は、最終的におぼれさせることによって暗殺に成功しています。
 ソ連時代には例えば、作家のゴーリキー(Maxim Gorky)が1936年にKGBに毒殺されています。
 また1978年には、KGBがブルガリアの諜報機関に毒針を仕込んだ柄のついた傘を渡し、ロンドンに亡命していたブルガリアの反体制派を殺害させています。
 新生ロシアでもこの種の謀略は頻繁に起こっています。
 今年初めのロシアの大統領選挙では、プーチン大統領に対抗して立候補した元国会議長が選挙期間中に5日間行方不明になり、後にFSB(KGBの後継機関)によって薬を飲まされて拉致されていたと告白しました。
 また、先般のベスラン事件の際、恐らくFSBによって二人のジャーナリストが一人は薬を飲まされ、一人は拉致され、ベスランに行けなくされた話しを以前ご紹介しました(コラム#465)。
 そして、ユシュチェンコ氏の事件の背後にもロシアのFSBがいる可能性が高いと考えられています。というのは、ロシアではかねてからダイオキシンを毒殺に用いる研究がなされてきたと言われているからです。
 (以上、http://www.csmonitor.com/2004/1213/p01s02-woeu.html(12月13日アクセス)及びhttp://www.nytimes.com/2004/12/15/international/europe/15poison.html?pagewanted=print&position=(12月16日アクセス)による。)

 このように、ロシアには毒を用いることをおぞましいと感じない伝統があります。

2 チェチェン独立運動の弾圧

 英ファイナンシャルタイムスの元記者のサッターは、最近上梓した本(David Satter, Darkness at Dawn, Yale UP)の中で、プーチン首相(当時)の陰謀だと囁かれてきた、チェチェン独立派によるとされている、数百人の死者を出したモスクワを含む三都市における連続アパート爆破事件(コラム#464)について、FSB関与を裏付ける状況証拠をつきつけています。
 状況証拠とは、第一に、用いられた爆薬がFSB特有のものであること、第二に、爆破されたアパートが一般労働者向けのものであり、ターゲットとして意味をなさないこと、第三に、四つ目の都市リャザン(Ryazan)では爆破が未遂に終わったところ、住民が上記と同じ爆薬を点火させようとしていたFSB要員を捕まえ、最初は関わりを否定していたFSBが後に爆薬を仕掛ける訓練を行っていたと苦しい言い訳をしたこと、です。
サッターに言わせれば、第三については、訓練に実爆弾を用いる訳がないので、FSBがウソをついていることは明らかなのです。

 (以上、http://books.guardian.co.uk/reviews/politicsphilosophyandsociety/0,6121,1376088,00.html(12月18日アクセス)による。)

3 生まれ変わるべきロシア

 ロシアが謀略の限りを尽くしてウクライナの大統領選挙に介入したりチェチェンの分離独立運動を弾圧したりするのは、ロシアの国民が、かつての帝国時代への郷愁を捨てておらず、これに代わる新しい価値を見出せないでいるからです。
彼らにしてみれば、ロシアの版図が縮小しただけでも耐え難いというのに、その上かつて版図であった国々の中にはNATOやEU加盟を希望しているものが少なくなく、このままでは緩衝地帯が奪われロシアは丸裸にされてしまう、と不安が募るばかりなのです。
 今では、かつてソ連に属していた諸国の中で、NATOやEUを安定と繁栄に資する存在とみなさないのはロシアたった一カ国だけになってしまいました。
 このように追いつめられたロシアの国民の心理が、ロシア人口の減少をもたらしています。
 現在のロシアの出生率は世界で最も低い国の一つであり、死亡率は戦時中の国並です。死亡の直接の原因は酒の飲み過ぎであり、資本主義化に伴う貧困ですが、本当の原因は帝国の崩壊による価値観の喪失なのです。
 いいかげんにロシアの国民は、アナクロ以外のなにものでもない、過去の帝国への郷愁を捨て、ロシアとしての新たな価値観を樹立した上で、自由・民主主義諸国の仲間入りをめざすべきしょう。
(以上、ガーディアン前掲及びhttp://www.washingtonpost.com/ac2/wp-dyn/A130-2004Dec14?language=printer(12月16日アクセス)による。)
 それにしても、イラク情勢もこれあり、石油価格が高止まりしているため、大産油国ロシアのプーチン政権の財政は潤沢であり、このことがロシアの国民の意識改革をむしろ妨げていることは、ロシアにとって不幸なことです。

<読者>
コラムの端緒に取り上げられた諜報組織はわざわざ入手元が限られている毒物を何故採用したのだろうか。診断したウィーンの医師は分析結果を公表していないらしい。イラク戦開始時の大量破壊兵器の情報開示。古くは真珠湾攻撃の隠蔽。めぐみさんの鑑定結果も多分,公表しないだろうと思う。隣国も大量の化学兵器を保有している筈。制裁へ世論を誘導していくにはマスコミも目をつぶっているのなかと思う。

<太田>
ダイオキシンそのものはどこにもあるのではないでしょうか。
 ですから、FSBを犯人だと断定することは容易ではないでしょう。
 いずれにせよ、ダイオキシン使用の最大のメリットは、それが遅効性の毒物であることです。つまり、いつ毒を盛られたか、つきとめにくいわけです。ユシュチェンコ(ユシチェンコ?ユーチェンコ?)候補のように連日色んな場所で色んな人と会食しているような人の場合、なおさらです。

太田述正コラム#0551(2004.12.2)
<ウクライナ情勢(その2)>

3 今次紛争

 (1)根本的疑問
 問題は、以上のウクライナの歴史だけで、ウクライナの選挙をめぐるこのたびの紛争について説明できるかどうかです。
 到底説明はできません。
 独立後10年余にわたってウクライナの東西間の対立がこのように先鋭化した(注4)ことがなかったこと一つとってもそうです。

 (注4)例えば、東地区内のドネツク(Donetsk)地方議会は、164対1の圧倒的多数でウクライナ内の自治共和国となるかどうか、住民投票にかけることを議決した(http://www.guardian.co.uk/ukraine/story/0,15569,1361667,00.html。11月30日アクセス)。

しかし、ウクライナの東部がいかに重工業地帯としてウクライナの産業の中心であろうと、その製品の主たる顧客は西部であり、東部の「独立」など経済的に不可能であることは東部の住民を含め、ウクライナの人々はみんなよく知っています。どうも「分離」とか「自治」とかいうのは、青陣営の牽制球に過ぎない感は否めません(http://www.nytimes.com/2004/12/01/international/europe/01kiev.html?pagewanted=print&position=。12月1日アクセス)。
また、ウクライナ全体として見れば、ロシアの天然資源もEUの大市場もどちらもウクライナの経済的生存のために不可欠であり、本来ウクライナにとって、一方的なロシア寄り政策もEU寄り政策も成り立ち得ないはずです。
第一、青のヤヌコヴィッチが、橙のヤシュチェンコと比べて、政治家としての資質において、或いは政策において、本当に優れているのかどうかも疑問です。
ヤヌコヴィッチは現首相として経済の活況化に成功し、年金や公務員給与の倍増を実現しています(http://www.washingtonpost.com/ac2/wp-dyn/A18131-2004Nov28?language=printer。11月29日アクセス)。
他方、ユシュチェンコはヤヌコヴィッチと同様クチマ(Leonid Kuchma)大統領の下でかつて1999年に首相を務めたという点で代わり映えしないだけでなく、(在任が短期だったこともあるでしょうが)ヤヌコヴィッチと違って在任中さしたる業績を挙げていません。しかもユシュチェンコは当時、副首相のティモシェンコ(Tymoshenko)女史(注5)を始めとする(ロシアと同様、共産主義体制崩壊後、民営化を推進した政府とのコネで大金持ちになった)オリガーキーの側近に囲まれ、とかく腐敗の噂が絶えませんでした(http://www.guardian.co.uk/Columnists/Column/0,5673,1360296,00.html。11月26日アクセス)。

(注5)ティモシェンコは、現在の紛争において、橙陣営の雄弁な闘士としてユシュチェンコの片腕以上の役割を果たしているが、かつて独立後のウクライナで、天然ガス商権を握り、GNPの2割を支配したこともあると囁かれる大富豪の女傑だ(http://www.guardian.co.uk/ukraine/story/0,15569,1360112,00.html(11月26日付)。12月1日アクセス)。ちなみに、同女史に関する読売記事(http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20041201id31.htm(12月1日付)。12月1日アクセす)は、出た時期と(上記記事を短くしただけの)内容から見て、ガーディアンの記事のパクリであると断ぜざるをえない。

それなのに現在の紛争において、ヤヌコヴィッチ首相の政策によって勃興し裨益したはずの欧米寄りで自由・民主主義志向のウクライナの中産(ブルジョワ)階級は、こぞってユシュチェンコの橙陣営の下に結集しています(http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/4057839.stm。12月2日アクセス)。
これでは疑問は深まるばかりですね。

(2)米国陰謀説
 そこで、一部で唱えられているのが米国陰謀説です。
 しかもその説が、よりにもよって、あのガーディアンのしかも著名なコラムニスト二名によっても唱えられたとなれば穏やかではありません。
 この二つのコラムの主張は、簡単に言えば、反ユダヤのファシストグループが橙陣営の有力構成員である(http://www.guardian.co.uk/ukraine/story/0,15569,1360951,00.html。11月27日アクセス)ことも承知していながら、米国は、米国がいまだに仇敵扱いしているロシアの一層の孤立化を図るために、ウクライナを欧米陣営に完全に取り込むことをめざし、欧米寄りのポーズをとる橙陣営に対し、資金や組織面で梃子入れを図ってきており、選挙違反は橙陣営にも見られたにもかかわらず、一方的に青陣営の選挙違反をとがめ、ユシュチェンコの大統領当選を画策しており、ウクライナの欧米よりの人々をたぶらかし、扇動している(http://www.guardian.co.uk/Columnists/Column/0,5673,1360296,00.html。11月26日アクセス)、というものです。

 (3)ロシア失策説
 これに対し、ガーディアンは、記者や他のコラムニストが上記コラムニストを批判する記事やコラムを掲載しているほか、(ケリー支持では共同歩調をとった)米ワシントンポストまで、上記コラムニストを批判するコラムを掲載する、という面白い展開になっています。

(続く)

太田述正コラム#0548(2004.11.29)
<ウクライナ情勢(その1)>

 (前回のコラム#547の「てにをは」を直して再掲載してあります。歴史の話はやめてくれという悲鳴が読者から聞こえてきたので、今回は現代の話をしましょう。ただし、どうしたって歴史がからんでくることをお分かりいただくために・・。)

1 始めに

 ウクライナで11月21日に実施された大統領選挙の結果、親ロシアの現首相ヤヌコヴィッチ(Viktor Yanukovich。青)氏の得票が親欧米の元首相ユシュチェンコ(Viktor Yushchenko。橙)氏の得票を上回りましたが、橙陣営は選挙に不正があったとし、選挙のやり直しを要求し、騒然とした状況が続いています。
 深刻なのは、現時点での公式選挙結果でも、首都キエフを含むウクライナ西部は橙支持が青支持を上回り、南のクリミア半島や重工業地帯の東部はその逆、とウクライナが地域別にきれいに真っ二つに割れている(http://news.bbc.co.uk/1/hi/world/europe/4038409.stm。11月25日アクセス)ことです。
しかも、ロシアは青を支持し(注1)、欧米は橙を支持しており、まるで東西冷戦時代のような綱引きが行われています。

(注1)ロシア以外の旧ソ連諸国については、ベラルス・カザフ・ウズベク・キルギスは青支持、トルクメンは不明、アルメニア・アゼルバイジャンは中立、(バルト三国は欧米と言ってよく、当然橙支持であり、)グルジアとモルドバは橙支持(http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/4047661.stm。11月29日アクセス)。

一体この背景には何があるのか、さぐってみることにしましょう。

2 ウクライナの悲劇的な歴史

 (1)先史
ウクライナ地方で始まったことはたくさんあります。
ウクライナ地方では、22000年前の世界最古のオーブンや、15000年前の(マンモスの牙を骨組みとした)世界最古の家、更には12000年前の(マンモスの牙に彫られた)世界最古の地図が出土しています。またこの地方では、6000年前に馬が家畜化されましたが、これに伴い、乗馬に便利であるズボンも生まれます。
(以上http://www.infoukes.com/history/origin_of_kyiv/(11月29日アクセス)
また、インド・ヨーロッパ語族のふるさともスラブ族のふるさともウクライナ地方です。

 (2)隷属の歴史
 9世紀の現在のウクライナ北部からロシア南部にかけてキエフ・ルス(Kyivan-Rus)国ができます。988年にこの国の首長ヴラディミル(Vladimir)はギリシャ正教を受け入れます。1169年には後にモスクワ(Muscovy)国、すなわちロシア(注2)を肇めることになる勢力が侵攻してきて首都キエフ等は荒廃します。13世紀にはモンゴルに席巻され、その支配下に置かれます。

 (注2)ルスとロシア(Rossia。英語表示ではRussia)とは語感は似ているが何の関係もなく、後者は1710年以降、ピョートル大帝によってモスクワという国名がロシアに改められたもの(http://www.infoukes.com/history/origin_of_kyiv/前掲)。

それからが肝腎なところです。
14世紀以降は西部がポーランドやリトワニアの支配下に置かれます。ポーランドの統治は過酷なものでした。
この頃からウクライナ人(注3)意識が確立し、外国の支配を嫌ったウクライナ人はコサック(Cossack)となり、ウクライナ南部の「独立」を果たします。

(注3)ウクライナ人=ウクライナ地方の住人、では必ずしもないことに注意。ウクライナには、例えば、かつてユダヤ人が多数住んでいたし、クリミアタタール人も(スターリンによって東方に強制移住させられるまでは)いたし、東部にはロシア人が多数住んでいる。

 しかし、18世紀にはウクライナの大半はロシアの支配下に置かれます。ロシアの統治も過酷なものでした。
19世紀には西部の一部はオーストリアの支配下に置かれます。
 第一次大戦中にロシアの帝政が崩壊すると、大半はソ連、西部の一部はポーランドが引き継ぎます。
 以上から分かることは、ウクライナの歴史はロシアより古いこと、西部は14世紀から欧州の強い影響下、東部は18世紀からロシアの強い影響下に置かれてきたことです。
このため、西部ではウクライナ語が優勢であり、東部ではロシア語が優勢ですし、西部ではローマ法王に忠誠を誓うギリシャ正教(UniateまたはGreek Catholicと呼ばれる)も盛んです(http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/4043315.stm。11月28日アクセス)。
(以上、特に断っていない限りhttp://www.globalvolunteers.org/1main/ukraine/ukrainehistory.htm(11月29日アクセス)による。)

 (3)ソ連の蛮行
 1932年から33年にかけて、スターリンは、ボルガ川下流地域で、農業の集団化を達成するために農民の士気を阻喪させる目的、及びウクライナ民族意識を粉砕する目的、で意図的に大飢饉を起こしました。
 そのやり方は、一挙に穀物供出量を前年比44%も増やし、この供出量が確保されるまでは、農民は手元に一粒も穀物を残すことを認めず、(穀物を買い出しに行くことを不可能にするため)農民には移動することも禁じる、というものでした。
 この結果700万から1000万人の餓死者が出ましたが、その大部分がウクライナ人でした。
(以上、http://www.infoukes.com/history/famine/(11月29日アクセス)による。)

 (4)ナチスドイツの蛮行
 第二次世界大戦中、実に約1,000万人ものウクライナ人が不慮の死を遂げました。
 これは、この大戦中、一つの「国」から出た死者としては最も多い数であり、世界全体の2割、ソ連全体の半分を占めています。
 このうちのかなり多くの部分は、大戦中にナチスドイツによって強制徴用され、ドイツ等で強制労働に従事した人々(Ostarbeiter=東部労働者)の75%を占めた、224万人のウクライナ人の死者です。ナチスドイツは、強制労働従事者を死ぬまでこきつかう方針だったからです。
 (以上、http://www.infoukes.com/history/ww2/http://www.infoukes.com/history/ostarbeiter/(いずれも11月29日アクセス)による。)

 以上からは、ウクライナが、ロシアにも欧米(より正確には欧州)にも猜疑心を持っているであろうことが想像できます。

(続く)

太田述正コラム#0477(2004.9.19)
<ベスラン惨事とロシア(その8)>

 そもそも、人質をとり、あるいはテロ(以下、「テロ等」という)によって政治的目的を達成しようとすることは、国際法上は違法ですし、国内法上は犯罪です。
 また、たとえ軍隊が戦闘を行う場合も、非戦闘員を殺戮の対象とすることはジュネーブ条約違反(国際法違反)です。
 よってベスラン占拠事件のように、非戦闘員をテロ等の対象として政治的目的を達成しようとすることは、二重に許し難い悪行である、ということになります。
 しかし、そうは言っても例えば、イスラエルはハガナ(Hagana)やとりわけハガナから分裂した過激派のイルグン(Irgun Zeva'i Le'umi (略称Etzel)。http://www.jewishvirtuallibrary.org/jsource/History/irgun.html(9月19日アクセス))といったシオニズム組織による対パレスティナ人テロ等によって生まれた国家ですし、他方パレスティナ側も一貫して対イスラエルのテロ等を行ってきました。
 テロ等を行うと、テロの相手方及び国際世論から非難を受けるわけですが、かかる非難も織り込んだ上で、結局のところ、テロ等が政治目的を達成するかしないかが決定的に重要なのであり、遺憾ながらこういう場合、結果が手段を正当化するのです。
 ユダヤ側のテロ等はその政治的目的を達成したのに対し、パレスティナ側によるテロ等は政治目的を達成するための戦略眼と能力を欠いたまま、垂れ流し的に行われてきたところにその不毛性があります。
 同じことがイラクで現在猖獗を極めている、反体制的諸勢力によるテロ等についても言えるでしょう(注14)。

 (注14)そろそろ、その後のイラク情勢について、このコラムで論ずべき時が来ているが、しばらく待っていただきたい。

 ですから、イスラム世界の少数派の論者達(コラム#476)は、自己批判をするのであれば、イスラム教徒達がテロ等を手段として用いてきたことを問題にするのではなく、どうしてイスラム側は戦争をもってしても、あるいはテロ等をもってしても、肝腎の政治的目的を達成できた試しが殆どないのか、を問題にすべきなのです。
 そうだとすれば、「一応」イスラム教徒であるチェチェン人がこれまで行ってきた一連の「見事な」テロ等に彼らは注目すべきなのではないでしょうか。(バサーエフが行った1995年の病院占拠事件がチェチェン「独立」を一旦はもたらしたこと(コラム#464)も思い出して欲しい。)
 ベスラン占拠事件についても、女性や子供、就中子供を対象にしたテロ等にわれわれが特に強い嫌悪感を抱くのは、生物学的本能に由来する(注15)わけですが、そもそもチェチェン抵抗勢力の目的は耳目を集めてチェチェン紛争の存在を改めて世界に訴えるとともに、ロシア政府やオセチア人を激怒させ、彼らの不適切な対応を誘い出すことによって、チェチェン紛争の一層の泥沼化を図るところにあると考えられ、その目的はおおむね達成されたと言っていいでしょう。
 要するに、バサーエフらに戦略眼があり、なおかつ相手がロシア政府という腐敗した専制的政府であるからこそ、極端な形のテロ等であっても、なお「有効」なのだ、ということです。

 (注15)生物学的本能を抑制さえすれば、女性と子供を特別扱いすることに特段の意味はなくなる。例えば、現在女性兵士が米軍全体の17%を占めており、歩兵や戦車兵や特殊部隊員になることこそできないが、イラクでは女性兵士が活躍しており、既に一回の戦闘でイラクゲリラを20人以上殺した武勇伝の主も出現している。また、自爆テロを(先般のロシア民航機二機爆破事件を含め)女性が行うことも決してめずらしくない(http://news.bbc.co.uk/2/hi/programmes/3630902.stm。9月7日アクセス)。更に、アフリカ等における紛争においては、少年兵が戦闘に従事することはめずらしくない。またイラクでは、子供がカネをもらって、何食わぬ顔で米軍に近づき、手榴弾を投げつける事件が頻発している(http://www.washingtonpost.com/ac2/wp-dyn/A62425-2004Sep4?language=printer。9月6日アクセス)。武器等の発展・変化によって体力や筋力は戦士にとって絶対必要条件ではなくなりつつあるし、何よりも、国家対国家の戦争ではない非対称紛争においては、女性・子供(幼児・嬰児を除く)も容易に戦士となり、同時に殺戮の対象となるのだ。

(完)

太田述正コラム#0476(2004.9.18)
<ベスラン惨事とロシア(その7)>


(3)米英両国のプーチン批判
 米国のパウエル国務長官は、プーチンの対応措置について、「これは民主的改革のいくつかを後退させるものだ。われわれは心配しており、ロシア政府と本件で協議をしたい。」と語り、ブッシュ大統領は、「民主主義の敵と戦う際には民主主義の原則を堅持する必要がある。私は・・ロシア政府が決定したことは民主主義を危うくすると心配している。」と述べました。
 英国政府はこれまでのところ何も言っていませんが、ファイナンシャル・タイムス紙は、プーチンが諜報機関を統合しようとしているのは、単に米ブッシュ政権のつくった国土安全保障省に倣っただけかもしれないとしつつも、これは「ソ連時代のKGBという化け物の再来の恐怖をかきたてる」と書き、ガーディアンは、プーチンの対応措置は、「プーチンを独裁者に変貌させるわけではない。何となれば彼は<民主主義を奉じる>サミットへの招待を依然有り難がっているし、」ロシア当局は「余りに腐敗しているため専制的になろうとしてもなり切れない」だろうと皮肉たっぷりにプーチン批判を行いました。
 (以上、(http://slate.msn.com/id/2106809/(9月17日アクセス)による。)
 それどころか、ホワイトハウスのバウチャー報道官は、ベスラン惨事の犯人達を非難しつつも、チェチェン紛争の政治的解決を図るべきだとの米国政府のスタンスについて、「われわれの基本的見解は変わっていない」と述べたのです(注13)。
(以上、http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/articles/A9594-2004Sep9.html(9月11日アクセス)による。)

 (注13)米国も英国も、チェチェンの穏健派抵抗勢力たる「大統領」マスハドフの側近(それぞれIlyas AkhmadovとAkhmad Zakayev)を自国に受け入れている。

 ちなみにロシアの政治家達は、だらしないことにベスラン惨事そのものについても、プーチンのその後の対応措置についても、ごく少数の例外を除き、何も言わず貝のように沈黙を保ってきました(http://www.nytimes.com/2004/09/05/international/europe/05assess.html?pagewanted=print&position=(9月5日アクセス)及び(http://www.guardian.co.uk/russia/article/0,2763,1299408,00.html(9月9日アクセス))。
しかし、米英の厳しいプーチン批判によって促されたのか、9月17日になってようやく超大物の元政治家二人が重い腰を上げました。ゴルバチョフとエリティンです。
 ゴルバチョフは、「正常な議会と自由なメディアなくしてどうやって腐敗をなくすことができるのか。」「<ロシア>社会の統制が不十分だったって?<ロシアでタガが緩む>傾向など全く見られないよ。<そもそもプーチンは>これまで一貫して統制強化に向けて努力してきたのではなかったか。<これ以上統制をしようと言うのか。>」とその評論家的舌鋒に少しも衰えのないところを見せつけました。
 またプーチンの恩師エリティンは、大統領職をプーチンに譲ってからというもの、プーチンに批判めいたことは一切言ったことがありませんでしたが、「自由の圧殺と民主的諸権利の剥奪はテロリストの勝利を意味する。」「民主的な国家であって初めてテロに成功裏に対処することができ、世界の先進諸国の協力を得ることができる。」と初めてプーチンに苦言を呈したのです。
(以上、http://www.guardian.co.uk/russia/article/0,2763,1307289,00.html(9月18日アクセス)による。)
もっとも、二人とも米英のように、チェチェン紛争の政治的解決を図るべきだとまでは言っていないところに彼らの限界が現れています。

 (4)イスラム諸国における反応の限界
 イスラム諸国における反応には興味深いものがありました。
 ベスラン惨事が起こった時点で多くのイスラム教徒が、子供達を人質にとり、多数の子供達を死に追いやった犯人達がイスラム教徒であったことにショックを受け、それがイスラム諸国の一部で、アラブないしイスラムへの自己批判を引き起こしたのです。
 例えば、
アルジャジーラと並ぶアラブ世界の二大衛星チャンネルの一つであるアルアラビーヤの支配人は、「<世界の>テロリストが全てイスラム教徒ではないことは事実だが、テロリストの殆どがイスラム教徒であることもまた事実であり、このことにはとりわけ心が痛む。・・<ベスランでテロリストが達成したのは>何と唾棄すべき「成果」であることか。われわれはこの惨事が、われわれ自身、われわれの社会、そしてわれわれの文化の何たるかを物語っている可能性に思いを致さなければならない。」と激白しました。
またサウディのあるコラムニストは、「血と殺戮がもたらされているのにイスラム教が慈悲と赦しの宗教だなどとどうして信じることができようか。・・われわれはわれわれの病の深刻さを自覚して初めてその病を治すことができる。まず自らを見つめ、懺悔しなければならない。」とした上で、「ベスラン惨事の犯人や、無辜の一般人の首をかききったり、無辜の一般人を自爆テロの対象にしたりする輩は、「真のジハード」を発動して殲滅しなければならない」とまで言い切りました。
更にエジプトのあるイスラム教著述家は、アルアラビーヤでフツーのレバノン人がベスラン惨事についてイスラム教学者(cleric)に繰り返し食ってかかっていたことをとりあげ、「これは新しい現象だ。・・イスラム教の宗教的権威者はかつて持っていた無謬性を失ってしまった。深刻な疑問が彼らに投げかけられるようになったのだ。」と記しています。
(以上、http://www.csmonitor.com/2004/0910/p06s02-wome.html(9月10日アクセス)、http://www.csmonitor.com/2004/0910/p08s03-comv.html(9月11日アクセス)による。)
しかし、私に言わせれば、イスラム世界における多数派については何をかいわんやですが、ご紹介したこれらの「良心的」少数派の論ですら、イスラム世界の絶望的なまでの知性の鈍磨ぶりを示しているのです。

(続く)

太田述正コラム#0474(2004.9.16)
<ベスラン惨事とロシア(その6)>

 (本篇は、コラム#469の続きです。)

4 犯人側のねらいと「成果」
 (2)ロシアのエージェントたるオセチア
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 オセチアは、グルジアの中の南オセチア問題も抱えています。
 同じ民族であるにもかかわらずオセチアが南北に分けられていたのは、両者の間に、冬季の6ヶ月間横断ができなくなる険峻な山脈が走っていたからにほかなりません。ソ連が崩壊すると、ロシアと一緒になりたい南オセチアと独立を果たしたグルジアとの間で紛争が起きるのは必至でした。1991年に始まった紛争は、1000人の南オセチア人犠牲者を出し、南オセチアの村落112カ所以上を破壊し、いまだに続いていると言ってもよく、10万人の南オセチア人難民が現在北オセチアで仮の住まいを営んでいます。(http://www.latimes.com/news/nationworld/world/la-fg-frozenwars13sep13,1,223530,print.story?coll=la-headlines-world。9月14日アクセス)
 オセチアは、いわばコーカサス地方にロシアによって打ち込まれたくさびであり、だからこそオセチアは東(イングーシュ)と南(グルジア)の敵意に晒されているのです。

 (3)プーチン大統領の対応
 プーチン大統領は、「テロリスト」への非難と特殊部隊への慰労だけでベスラン惨事の遺族に対するお悔やみ一つ述べる手間を惜しみつつ、チェチェン抵抗勢力との交渉を断固拒否する既定方針を再確認しました(注10)。そしてその上で、第一にマスハドフとバサーエフ両名の捕獲につながる情報を提供した者に100万ドルの賞金を授与すると表明し、第二に、改めての外国における「テロリスト」への先制攻撃方針を表明しました(注11)。

 (注10)プーチンは、「<そんなに交渉がお好きなら>オサマ・ビンラディンにお目にかかり、ブラッセル(NATO本部)かホワイトハウスにご招待し、親しくお話をさせていただき、これ以上平和を乱すことがないようにしていただくためには何がお望みであるかを教えていただいた上でそのお望みのものをさしあげることにしたらどうかね」と述べている。
 (注11)2002年10月の劇場占拠事件の後、初めて先制攻撃方針が発表され、その方針は今年、カタールに潜んでいた、「独立」チェチェンの大統領代行をつとめたことがあるヤンデルバイエフ(Zelimkhan Yanderbiyev)をロシア諜報要員が自動車にしかけた爆弾で暗殺する形で実施に移されている。もっともドジなことに、下手人の諜報要員二名はカタール当局に逮捕され、終身刑を宣告された。

 その後追加されたプーチンの対応は、第三に、(ただでさえその権限を次々に奪ってきていたというのに、)地方の首長(チェチェンのような自治共和国の大統領を含む)を現在の選挙制から大統領任命制(ただし、地方議会の承認が必要)に変更する方針、そして第四に、(現在は半分が政党名簿方式で選出されている)ロシア議会議員の選挙方式を完全政党名簿方式に変更する方針、の表明でした。
(以上、http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/3638396.stm(9月9日アクセス)及びhttp://www.csmonitor.com/2004/0915/p08s03-comv.html(9月15日アクセス)による。)
 これは、プーチンが完全にバサーエフの術中にはまり、バサーエフのベスラン校舎占拠の戦略目的の達成に手を貸してしまったことを意味します。
 バサーエフの戦略目的とは、「北コーカサス全域で戦争を起こす」(注12)ことによって、ロシアのイスラム地域全体をロシアから独立させる(コラム#467)ための布石を打つことだったと考えられます。

(注12)犯人のうち、唯一人生きたまま捕らえられた男が、首謀格の一人から聞いたと言っている(http://www.washingtonpost.com/ac2/wp-dyn/A1256-2004Sep6?language=printer(9月7日アクセス)。

 この戦略目的に基づき、バサーエフは、あえて首謀格のうちの一人をイングーシュ人とする犯人グループを送り込むこと(http://www.guardian.co.uk/russia/article/0,2763,1297678,00.html。9月5日アクセス)によって、まんまとオセチア人にチェチェン人とともにイングーシュ人に対し、一層憎しみをかき立てさせることに成功しました(上掲http://www.csmonitor.com/2004/0907/p01s02-woeu.html)。ところが、ご紹介したプーチンの対応の中には、この憎しみを緩和するための措置が一切入っていません。
 しかも、ご紹介したようなプーチンの対応は、欧米諸国の間で困惑と反発を生み出していますが、恐らくこれもバサーエフの読み通りだと思われます。

(続く)

太田述正コラム#0469(2004.9.11)
<ベスラン惨事とロシア(その5)>

 (掲示板でもお知らせしたように、私のホームページへの8??9月(11日から10日)の訪問者数が21,965人と、過去最高であった前月の20,330人を上回り、四ヶ月連続して記録を更新しました。また、累積訪問者数は、209,224人となり、20万人を突破しました。なお、メーリングリスト登録者数は現在1,124名です。)
 (前回のコラム#468にウィルケンスの「学説」についての私の資料源を挿入してホームページに再掲載しておきました。)

 (3)諜報機関のお粗末さ
 この問題をベスラン事件がらみで電子版で取り上げたのは、私の読んでいる範囲では、世界のメディアの中で日本の東京新聞だけです。
 東京新聞は、滝沢一郎元防衛大学校教授、袴田茂樹青山学院大学教授、寺谷弘壬青山学院大学教授、神浦元彰(前述)、及びジャーナリスト常岡浩介の各氏の話をつなぎ合わせて記事(http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20040905/mng_____tokuho__000.shtml。9月5日アクセス)にしています。(望蜀の感はあるが、外国、とりわけ英国あたりの専門家も登場すればよりベターだった。)
 このうち、(防衛大学校総務部長時代にその業績・人となりを存じ上げた)滝沢氏、(私が氏の業績を知っており、かつ母親違いの妹さんが前回のロシア大統領選挙に立候補して落選した)袴田氏、(野村総研のプロジェクトチームで私の同僚だった)寺谷氏の話を採用し、他方、神浦氏の話(は前述した理由から)、そして常岡氏の話は私が同氏の業績も人となりも知らないことからオミットして、私の見解を加味しつつまとめると次のようになります。

 旧ソ連のKGBはエリートが集まり、そのKGBエリート達がプーチン以下、現在のロシアを牛耳っていると以前(コラム#282)書きましたが、ロシアの現在の諜報機関には昔日のKGBの面影はありません。
 ソ連が1991年に崩壊すると、KGBは米国等に倣って、国内担当の連邦保安省(ただし国境警備も担当)と外国担当の連邦対外情報局に分割され、次いで1993年のロシア議会占拠事件に旧KGB幹部が連座したことから、当時のエリティン大統領が更に連邦保安省を連邦防諜局と連邦国境警備局に分割したこと、などから、旧KGBは五つに分割されてしまいました。後に連邦保安省と連邦防諜局の二つは再統合されて連邦保安局(FSB)となったものの、省ではなく局にとどめられています。
 もっとも、分割されたことや格下げになったこと自体が問題なのではなく、各機関の相互連携がうまくいっていないだけでなく、(ロシア政府にカネがないので仕方がない面はありますが、)各機関とも予算不足に苦しめられて能力が低下していることが問題なのです。
 特に、ソ連崩壊によるソ連「辺境」地帯における国境の複雑化もあり、国境警備機能の低下には著しいものがあります。国内外の不穏分子が比較的自由にロシアの国境を出入りできるのが現在の実情です。
 深刻なのは、ロシアの政府機関がソ連時代の政府機関以上に腐敗していることです。KGBはソ連の政府機関の中では最も腐敗していない機関でしたが、その後継機関であるFSB等でも腐敗がはびこっています。
 例えば、今年5月のチェチェン共和国の式典で、ロシアの「かいらい」のカディロフ大統領らが爆殺された事件では、大統領が座った席の真下に爆弾が仕掛けられており、FSBから情報が漏洩していたとしか考えられません。また、8月の民航機二機爆破事件においても、欧米並の最新検査機器が備わっているモスクワ近郊の同一の空港から飛び立っており、検査官の著しい過失があった可能性が大です。こんな過失が起こるようなことは、9.11同時多発テロ以後の米英等ではおよそ考えられません。
 こんなことでは、ロシア当局にバサーエフやマスカドフらが捕まえられるはずがない、と思えてきますね。

4 犯人側のねらいと「成果」

 (1)始めに
 これまで、ロシア当局のいかがわしさと失態について書いてきましたが、犯人側の話もしましょう。
そもそも、子供をターゲットにした今回の犯人達の行為をお前はどう思っているのか、ロシア当局側のことをあげつらってもしようがないだろう、ですって?
 あわてずに、順序を経た冷静な議論をしようではありませんか。
 さしあたり取り上げるべきは、犯人側がなぜ北オセチアを犯行の場として選んだのか、という点です。

 (2)ロシアのエージェントたるオセチア
 オセチア人は、コーカサスの諸民族の間では新参者です。
オセチア人は一部イスラム教徒もいますが、基本的にロシア正教徒であり、帝政ロシアやソ連時代にロシア(ソ連)当局側にたってイスラム教徒のチュチェン人やイングーシュ人の「平定」・「弾圧」に荷担してきました。
(若干のねじれ現象が生じたのが1917年のロシア革命直後の内戦時代です。この時、オセチア人は旧帝政・正教会寄りの白軍に荷担し、イングーシュ人は共産党の赤軍に荷担して戦いました。)
このため、隣人同士のオセチア人とイングーシュ人の仲は一貫して険悪なものがあります。
 今でもチェチェン人らとともにイングーシュ人をカザフスタンに強制移住させたスターリン人気は、オセチア人の間で絶大なものがあります。(そもそも、スターリンの片親はオセチア人でした。)
 イングーシュ人がカザフスタンに強制移住させられた時、ソ連の当局は、オセチア人をイングーシュ人の住居に住まわせ、イングーシュ人の憤激をかいます。しかも、イングーシュ人らが許されて故郷に戻った時、かつてのイングーシュの土地の一部(北部のPrigorodny地区)はオセチアに割譲されてしまっていました。
 1982年にはオセチア人とイングーシュ人の大規模な衝突が、北オセチアの首都ウラジオカフカス(Vladikavkaz)で起こります。この時はロシア軍の戦車の砲撃によってウラジオカフカスの中心部は灰燼に帰しています。
 ソ連崩壊後の1991年にロシア政府はPrigorodny地区のイングーシュへの返還を決定しますが、積極的にこの決定を実施に移さなかった結果、1992年に再び大規模な衝突が起こり、Prigorodny地区のイングーシュ人は家を焼かれ、4万人ないし6万人がイングーシュへ追い出されます。双方合わせて700名近い死者がでました。この時投入されたロシア軍は、両者の間に割って入っただけでした。現在でも、Prigorodny地区に戻ることができたイングーシュ人は2万人にとどまっています。
(以上、http://www.csmonitor.com/2004/0908/p01s03-woeu.html(9月8日アクセス)、http://www.guardian.co.uk/chechnya/Story/0,2763,1299100,00.html(9月8日アクセス)、http://www.washingtonpost.com/ac2/wp-dyn/A3570-2004Sep7?language=printer(9月9日アクセス)による。)

(続く)

太田述正コラム#0467(2004.9.9)
<ベスラン惨事とロシア(その4)>

<前回の補足>

ア 一般市民はなぜ現場にいたのか
 大部分が武装している約500人の一般市民が、当局の許可を得て治安部隊と校舎との間に「配置」され、包囲側と犯人側との間で戦闘状態となった場合、特殊部隊員が校舎から救出した人質を、安全な場所まで連れて行く役割を負わされていた、ということのようです。

イ 爆発はなぜ起こったのか
 犯人側が「処刑」した人質21人の死体を受け取る話がまとまり、包囲側の人間が校舎に向かったところ、体育館内で爆発が起こりました。
 犯人達の間で、このまま学校にとどまるべきか、それとも逃走を図るべきかで内紛が生じ、興奮した犯人一人が誤って爆弾を爆発させるひもに足を引っかけてしまった、ということのようです。

ウ 戦闘はどのように始まったのか
 (前日に仲介者として、乳児を含む人質26人の解放を成就させ、9月10日にも包囲側の本部にいた元イングーシュ大統領によれば、)爆発が起こり、人質の子供達が逃げ出して来た時、武装一般市民の一部が犯人側に向かって発砲を始めてしまいました。そこで、包囲側は犯人側に、「治安部隊は発砲していない」と伝えたのですが、犯人側から「爆弾を<更に>爆発させる」という返事があり、やむなく治安部隊に攻撃命令が出された、というのです。
この間、武装一般市民による発砲が起こった後、死体を受け取るべく校舎近くに接近していた前述の包囲側要員4人に犯人側から銃撃が加えられ、2人が即死します。そして残った2人は救出ができず、負傷したまま4時間も放置されることになります。
また、戦闘が始まった時点では、肝腎の特殊部隊はベスランから30km離れたところで、同じような校舎の小学校で攻撃訓練を行っており、ベスランに到着するまで40分かかり、貴重な時間を空費しました。

エ 戦闘時間
現地時間の午後1時過ぎから始まって6時過ぎまでで地上での戦闘は終わり、その後は地下室に立て籠もった犯人だけを相手に戦闘が続きました。すべてが終わったのは、(理由が判然としませんが、)午後8時から9時にかけて一般市民を現場から撤収させた後の、午後10時過ぎ以降のようです。

オ 犯人の数と素性は?
 犯人の総数は32人。うち30人は死亡し、2人はつかまり、そのうちの一人は、テレビで尋問風景が放映されました。
犯人達の素性については、当局の発表によれば、リーダー格が4人(4人とも死亡)いて、彼らがバサーエフ(Shamil Basayev。1965年??)(注7)に電話で指示を仰いでいました。(マスハドフ(Aslan Maskhadov。1955年??)(注8)の指示も仰いでいたとの未確認情報もありますが、マスハドフはこれを否定しています。)そのうちの1人はバサーエフのボディーガードのチェチェン人(またはロシア人)でもう1人はイングーシュの元警官であり、この二人は、6月にイングーシュで90人の死者が出た襲撃事件を引き起こしています。後は、ロシア人1人とオセチア人1人です。

(注7)チェチェンにおける1994年からの対ロシア軍ゲリラ戦の中から頭角をあらわす。チェチェンのみならず、全イスラム系民族のロシアからの独立をめざしていると公言。現在イスラム過激派と手を組んでいるが、本人は必ずしも熱心なイスラム教徒ではない。バサーエフは、1995年に(1000名もの医師や患者を人質にした)ロシアの病院占拠事件(コラム#464)を引き起こし、1999年にはダゲスタンに侵攻した(コラム#464)ほか、2002年の(百数十名の人質が死亡した)モスクワでの劇場占拠事件(コラム#465)でもその首謀者とされている。(http://news.bbc.co.uk/1/hi/world/europe/460594.stm(9月8日アクセス)も参照した)。現在神出鬼没。
(注8)軍人出身のチェチェン独立志向穏健派。1997年に「独立」チェチェンの大統領に、対立候補のバサーエフを破って当選。バサーエフを首相にしてその取り込みに腐心するが、結局バザーエフは離反し、ロシアのチェチェン再介入を招く。(http://news.bbc.co.uk/1/hi/world/europe/459302.stm。9月8日アクセス)現在所在不明。

残りの犯人の素性の詳細は明らかにされていませんが、チェチェン人、タタール人、カザフ人、及び朝鮮人が含まれているとされています(http://english.chosun.com/w21data/html/news/200409/200409070043.html。9月8日アクセス)。

カ 包囲側の死傷者の数は?
 当局は、特殊部隊員の死者10人・負傷26人としか公表していませんが、実際には特殊部隊員20人以上が死亡し、その多くは銃を乱射していた武装一般市民達の弾が後からあたって死亡したようです(注9)。この特殊部隊以外の治安部隊員等や一般市民の死傷者の数は不明です。

(以上、特に断っていない限りhttp://www.latimes.com/news/nationworld/world/la-fg-scene5sep05,1,1674464,print.story?coll=la-headlines-world前掲、http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/3634114.stm、(http://www.washingtonpost.com/ac2/wp-dyn/A1256-2004Sep6?language=printer(どちらも9月8日アクセス)による。)

 (注9)この点とも関連し、イズヴェスチャ紙に掲載されたという、戦闘の後、200人の一般市民が行方不明になっているという記事(http://media.guardian.co.uk/site/story/0,14173,1299075,00.html。9月8日アクセス)は興味深い。武装一般市民達が、(人質を守るために?)特殊部隊員を「前から」撃ってその校舎突入を阻止しようとしたが故に拘置されているか抹殺された可能性もあながち否定できない。

<補足終わり>

(続く)

太田述正コラム#0466(2004.9.8)
<ベスラン惨事とロシア(その3)>

<休憩>

 イズヴェスチャ紙の編集長が突然解任されました。ここにも、この新聞によるベスラン事件の報道ぶりが気に入らない当局の影がちらついています(http://media.guardian.co.uk/site/story/0,14173,1298415,00.html及びhttp://media.guardian.co.uk/site/story/0,14173,1298488,00.html(どちらも9月7日アクセス))。
 ところで、日本の主要六紙の電子版のうち、朝日を除いてベスラン事件の報道を、9月7日朝の時点で(本来の意味でのホームページでは)早くもベタ記事扱いにしてしまったのは残念です。
 依然頑張っている朝日についても、ロシア治安部隊の対応ぶりのお粗末さ(後述)について、英仏の新聞記事の紹介だけでお茶を濁した(http://www.asahi.com/special/040904/TKY200409050190.html。9月7日アクセス)のはいかがなものでしょうか。専門家に直接書いてもらうか、専門家から取材して記事にすべきでした。
<休憩終わり。>

 (2)治安部隊の対応のお粗末さ
 ロシア軍の特殊部隊スペツナズ(Spetsnaz)は、ソ連邦崩壊後ガタガタになったロシア軍のうち、唯一ロシア国民が絶大な信頼を寄せてきた部隊でした。FSB(旧KGB)のアルファ部隊(1974年に英国のSAS等にならって創設された)もまたエリート中のエリートと自負してきました。
 ところが、これらの部隊が現場にかけつけていたというのに、やはりと言うべきか、ロシア治安部隊の対応は余りにもお粗末なものでした。
 一番問題なのは、早い段階で急襲作戦を敢行しなかったことです。
 人質の数が犯人に比べて少ないか多いかによって対処方法は全く異なります。
 少なければ、時間をかけて犯人と交渉をすることができるし、またそうすべきなのです。
 しかし、多ければ、犯人側が状況を掌握しきれず、人質の方もおとなしくはしていません。ですから、いつ何時犯人側が人質を殺し始めるか分からないのです。しかも今回は、最初から犯人側は、さして反抗もしていない人質を多数殺害したことが分かっていました(注4)。

 (注4)ロシアの治安部隊は、これまでの内外のテロ事件・人質事件の教訓から何も学んでい
ないようだ。例えば、先般、二機の民航機がほぼ同時に空中爆発した時も、米国が9.11
同時多発テロの時に、全米のすべての民航機のフライトを一時禁止したのと同様の措置
すらとっていない。

 この点は百歩譲ったとしても、せめて治安部隊は、何かあったらただちに急襲できるような態勢を整えているべきでした。
 しかし、実際に犯人側が射撃を開始し、爆弾の破裂音が聞こえた時、治安部隊は全く虚をつかれたように見えます。
 それが証拠に、治安部隊は、(あたかも通常の戦場における遭遇戦のように)めくらめっぽう銃を撃ち続けているように見受けられました(注5)。

 (注5)日本の「軍事アナリスト」の神浦元彰氏が某民放で、今回ロシア治安部隊は敵の裏を
かいてあえて白昼に計画的に総攻撃を開始した可能性が高いと語っていたが、遺憾なが
ら氏は、ロシアの特殊部隊の実情についても、人質事件に対処する方法についても、基
本的な知識をお持ちでないだけでなく、状況をテレビ画面を通じて視認する能力すら備
えておられないようだ。

 そんなこですから10時間も銃撃戦が続き、その間銃撃戦のまきぞえとなって多数の人質が死傷することになってしまいました。(その言い訳のためでしょう。治安部隊員の一人は、犯人が人質を楯にしたため、まず人質を射殺してから犯人を射殺せざるを得なかった(?!)と語っていました(http://www.latimes.com/news/nationworld/world/la-fg-scene5sep05,1,1674464,print.story?coll=la-headlines-world(9月6日アクセス))。そして、人質の4割が死亡し、4割が負傷するという、人質事件としては空前の恐るべき結果がもたらされたのです(注6)。

 (注6)ただし、通常の人質事件とは異なり、今回は犯人が全く自分たちの命を捨ててかかっ
ていただけでなく、人質を殺害することをむしろ目的としていたと考えられ(後述)、
犯人側との交渉の余地が全くない、という特異性があった点が人質の死傷を大きくした
ということは忘れてはなるまい。

 このほかにも、ありとあらゆる問題点が指摘されています。
・現地における、上記両治安部隊・その他の特殊部隊・通常の徴兵からなる軍隊・警察の統合司令中枢の欠如、無線機すらもっていないという相互連携の悪さ。
・学校区域及びその周辺を立ち入り禁止にしなかったこと。このため武装した一般市民等が区域内等に入り込み、銃撃が始まってからは、一般市民も勝手に発砲しただけでなく、父兄が更につめかけ、混乱に拍車をかけ、治安部隊の行動を妨げただけでなく、一般市民が多数まきぞえになって死傷した。また、一部犯人が域外に逃走(http://www.asahi.com/international/update/0904/013.html。9月4日アクセス)し、これら犯人への対処に時間がかかった。
・治安部隊員10人以上が死亡した(http://www.sankei.co.jp/news/040904/kok038.htm。9月4日アクセス)というのも、(過小に公表されているであろうことを勘案すればなおさら)不名誉な話。
・十分な医療救助態勢を整えていなかったこと。特に救急車が不足し、立ち入り禁止にした形の救急ルートの確保も行われていなかったこと。このため、人質等の死亡者数の増大、負傷の程度の悪化がもたらされた。
 (以上、特に断っていない限りhttp://www.guardian.co.uk/russia/article/0,2763,1297146,00.html(9月4日アクセス)、http://news.ft.com/cms/s/020fd534-ff51-11d8-be93-00000e2511c8.html(9月6日アクセス)及びhttp://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/3632332.stm(9月7日アクセス。英国の軍事アナリストのJonathan Eyal博士の論考)によった。)

(続く)

太田述正コラム#0465(2004.9.7)
<ベスラン惨事とロシア(その2)>

 (前回のコラムの、ロシア軍の死者の数を上方修正しておきました。)

 この、(1994??1996年を第一次とすれば、)1999年からの第二次チェチェン戦争によるチェチェン人の死者は非戦闘員だけで少なくとも60,000人(http://www.fact-index.com/s/se/second_chechen_war.html。9月6日アクセス)、ロシア軍の死者は一昨年までで既に11,000人(cdi.orgサイト前掲)にのぼっています。
 この間、チェチェン抵抗勢力が起こした事件で最も世界の耳目を集めたのは、一般市民観客百数十人の死者を出した2002年10月のモスクワでの劇場占拠事件(コラム#186)ですが、われわれが忘れてはならないことは、この時の死者はロシア治安部隊が引き起こしたということが第一、そして、チェチェン内で日常的に行われている、ロシア軍及び「かいらい」政権によるチェチェン非戦闘員虐殺は、報道管制もあって、報道がほとんどなされていない(そもそもチェチェン側の非戦闘員についても、ロシア軍等についても、死傷者の数は低く押さえられた形で公表されてきた)ことが第二です。
 とまれ、先週の、90名の死者を出した、モスクワから飛び立った二機の民航機の同時爆破事件、引き続いての、8名の死者を出したモスクワの地下鉄の駅での自爆テロ事件、のクライマックスとして、今回のベスラン人質事件が起きたわけです(http://www.guardian.co.uk/russia/article/0,2763,1297684,00.html。9月5日アクセス)。

3 今回の惨事に見るロシア当局のいかがわしさと失態

 (1)情報統制
 プーチン批判で知られる二名のジャーナリストがベスラン人質事件取材のためにモスクワから現地に向かおうとしたのですが、一人は空港で二名の男にいちゃもんをつけられ、こぜりあいになって、警察に拘束されてしまい、もう一人は飛行機の中で出された紅茶を飲んだとたん気分が悪くなり、降りたところで病院にかつぎこまれてしまい、結局二人とも取材はできませんでした。前者の記者とはその後連絡がとれなくなっています。これは当局による弾圧だというもっぱらの噂です(http://www.latimes.com/news/nationworld/world/la-fg-hinder3sep03,1,3236995,print.story?coll=la-headlines-world。9月4日アクセス)。
 人質事件が起こってから、この事件についてロシアのテレビでは、最少限度の放送しかなされませんでしたが、爆発音が聞こえ、銃撃戦が始まったとき、たまたま現場を放映中であったロシアのテレビ局はあえて別の番組に切り替えてしまい、結局、現場の同時中継を行ったのは、米CNNと英BBCだけでした。これが事件を小さく見せたい当局の意向によるものであったことは明白です。(http://www.nytimes.com/2004/09/04/international/europe/04media.html?adxnnl=1&adxnnlx=1094270687-S6JYzsqH9JObTV7BvRvojQ&pagewanted=print&position=。9月4日アクセス)
 この当局の意向は、人質の数が実際には1200名にも及んでいたのに、当初354名と低くねじまげて公表し(注3)、また事件の被害者の数についても、行方不明者の数は公表せず、確認された死者の数だけを公表してきたところにもよく表れています(http://www.washingtonpost.com/ac2/wp-dyn/A64187-2004Sep5?language=printer。9月6日アクセス)。

 (注3)ロシア政府は、(この点だけについては、)意図的な情報操作が行われたことを当局が認めたことを、このことを批判するアンカーのコメントとともにテレビで報道させた。2000年の原子力潜水艦クルスクの沈没事件の時も、2002年の劇場占拠事件の時も、同様の情報操作が行われたが、政府はいまだに情報操作をしたことを認めていない(ワシントンポスト上掲)ことを考えると画期的なことが起こったと言うべきか。どうやら今回、犠牲者の数の多さにもってきて、余りにも諜報機関や治安部隊の対応に問題があった(後述)ことから、プーチン大統領は自分の側近を含めてトカゲの尻尾切りを行う方針を固めたようだ。

 早い時点で、当局が殺害した犯人20名中9名ないし10名がアラブ人だったと公表した(http://www.guardian.co.uk/russia/article/0,2763,1297674,00.html。9月5日アクセス)のも怪しい限りでした。解放された人質は異口同音に、犯人達にはチェチェン、イングーシュ、ないしロシア語のアクセントがあり、もっぱらロシア語で互いに話しており、濃い肌の色等から第三国人めいていた犯人は一名だけだというのです。(http://www.guardian.co.uk/russia/article/0,2763,1297728,00.html。9月5日アクセス)。当局としては、何が何でも今回の事件を、チェチェンの抵抗勢力ではなく、アルカーイダ系テロリストの所行に仕立て上げたいのでしょう(http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/3629902.stm。9月6日アクセス)。これは、犯人達の、ロシア軍のチェチェンからの撤退等を要求した声明を報道させていない当局の姿勢(ワシントンポスト前掲)からも明らかです。

(続く)

太田述正コラム#0464(2004.9.6)
<ベスラン惨事とロシア(その1)>

1 始めに

北オセチアで発生し、600人にもなろうかという死者と数百人の負傷者を出したベスラン(Beslan)での人質事件は、過去と現在のロシアの実相を改めて世界の人々の前にさらけ出すことになりました。
この事件の報道では、めずらしく日本のメディアも健闘したと思います。
この際、日本のメディアも参照しつつ、この惨事を総括しておきましょう。

2 過去の経緯

 最初に、チェチェン紛争のこれまでの経緯をざっと振り返ることにしましょう。

 17世紀末から19世紀初頭にかけてチェチェン人(Chechen)(注1)はイスラム教に改宗します(http://chechen.8m.com/history/chechens.htm。9月5日アクセス)。

 (注1)チェチェン人は現存する世界最古の民族の一つであり、イングーシュ人(Ingush。チェチェン人とほぼ同じ時期にイスラム教徒に改宗)と近縁関係にある(http://www.chechnyafree.ru/index.php?lng=eng&section=historyeng&row=1。9月5日アクセス)。チェチェン人居住地域をchechnyaと称する。ソ連時代にはイングーシュ居住地帯のIngushetiaとともにChechen-Ingush Autonomous Soviet Socialist Republicを構成していた。

 南進してきたロシアとチェチェンとの衝突が1722年に始まります。
 1830年、ロシアはチェチェンに本格的侵攻を開始し、1859年にチェチェンを完全に平定します(注2)。

 (注2)文豪トルストイ(Leo Tolstoy。1828??1910年)は1850年代にこの平定作戦に従軍しており、村落を破壊され、虐殺されるチェチェン人を目の当たりにして、チェチェン人のロシアに対する感情について以下のように記している。
"No one spoke of hatred for the Russians,・・・The feeling which all Chechens felt, both young and old, was stronger than hatred. It was...such a revulsion, disgust and bewilderment at the senseless cruelty of these beings, that the desire to destroy them, like a desire to destroy rats, poisonous spiders and wolves, was as natural as the instinct for self-preservation."

 1917年にロシア革命が起きると、チェチェンは独立を宣言し、イスラム神政政府が樹立されますが、ソ連ができてからは、その巧妙な工作に屈し最終的にソ連に再併合されます。
 1944年には、ナチスと通じたとして、イングーシュ人全員とともに、当時のチェチェン人は全員、50万人以上がカザフスタンに強制移住(deportation)させられました。荷車をひいたその道中で多数が死亡し、カザフスタンにたどりついた人々も、過酷な環境の下で多数が亡くなりました。こうして強制移住中に都合20万人以上が死亡したと言われています。
 1956年に至って、フルシチョフ(Nikita Khrushchev。1894??1971年)はスターリン(Joseph Stalin。本名Joseph Vissarionovich Djugashvili。1879??1953年。チェチェンの南隣のグルジア生まれ。)批判の一環としてその強制移住政策を批判し、翌1957年から、生き残ったチェチェン人の大部分は故郷に戻ることができました。しかし、イスラム信仰は厳しく規制され、モスク再建が認められたのは1970年代に入ってからでした。
 1991年にソ連邦が分裂・崩壊すると、またもや強制移住させられるという噂が流れたこともあり、チェチェンは一方的にロシアからの独立を宣言します。しかしこれは新生ロシア側に、ソ連邦に次いで今度はロシアも分裂・崩壊する、という悪夢を呼び起こし、(チェチェンがカスピ海の油田地帯と黒海を結ぶパイプラインが通っている戦略的要衝であることもあり、)独立は断固拒否されてしまいます。もっとも、チェチェンが事実上独立した状況は続きました。
 1994年に至って、ロシアのエリティン(Boris N. Yeltsin。1931年??)大統領は、親ロシア住民による蜂起を装ってチェチェン政府の転覆を図りますが蜂起は失敗し、つかまった連中は全員ロシアの諜報機関に雇われたロシア人であることがばれてしまいます。やむなくエリティンは4万人のロシア軍をチェチェンに派遣し、軍事力によるチェチェンの独立つぶしを図りますが、ロシア軍は苦戦を強いられ、チェチェン側に少なくとも8万人、ロシア軍に14,000人の死者(http://www.cdi.org/russia/245-14.cfm。9月6日アクセス)を出しつつ、1996年に休戦協定がむすばれ、ロシア軍は撤退します。
 (休戦のきっかけとなったのは、1995年に、ロシアのブディオノフスク(Budyonnovsk.)という町の病院に医師や妊婦・新生児を含む患者を人質にチェチェンの抵抗勢力が立て籠もった事件です。ロシア治安部隊は突入をあきらめ、チェチェンでの休戦・ロシア軍の撤退を約し、人質は解放され、抵抗勢力は無事逃走しました。)
 しかし、戦争で荒廃したチェチェンでは不安定な状態が続きます。
 そして1999年に、モスクワともう一カ所でアパートが爆破され、300人以上の死者が出ます。(更に一カ所は未遂に終わった。)また、ほぼ同じ時期に、武装したチェチェン人グループが隣接するダゲスタン(Dagestan)に侵入し数カ村を数週間に渡って占拠し、チェチェン非難の声がロシアで高まります。
 しかしこれらの事件は、ロシアの諜報機関がチェチェンの過激派をそそのかし、資金援助を行ってやらせたのではないか、それどころか諜報機関が一部直接手を下したのではないか、という疑惑が取り沙汰されています。
エリティンから首相に任命されたばかりのプーチン(Vladimir V. Putin。1952年??)は、これらの事件に藉口して、改めてロシア軍をチェチェンに派遣し、「かいらい」政権を樹立します。
これでロシア国民の人気を博したプーチンは、エリティンから大統領の後任に指名され、翌2000年の選挙でロシアの大統領に就任することになります。
以後、チェチェンの抵抗勢力は、チェチェン及びその周辺におけるロシア軍や「かいらい」政権に対するゲリラ戦や、チェチェン内やロシアにおけるテロ活動を実施し、現在に至っているのです。
(以上、特に断っていない限りhttp://slate.msn.com/id/2106287/及びhttp://www.pbs.org/newshour/bb/europe/chechnya/history.html(どちらも9月5日アクセス)による。)

(続く)

太田述正コラム#0283(2004.3.9)
<新悪の枢軸:ロシア篇(追補3)>

 (2)時代を自ら切り開いたプーチン
 ソ連が崩壊した1991年、プーチンはKGBを辞め、故郷レニングラード(後にサンクト・ペテルブルグへと改称)の市長の片腕として市政に携わりました。有力説によると、KGBがプーチンを出向させたのだといいます。
 そのプーチンのおかげで、レニングラードは、モスクワを始めとして旧ソ連全土で吹き荒れた流血の騒乱を免れることができました。プーチンが民主主義派の市長とKGBレニングラード支部を始めとする治安機関との間を取り持ったからです。
 このプーチンの手腕に目に付けたと思われる新生ロシアのエリティン大統領は、1998年にプーチンを官房副長官に任命し、引き続き彼を出身母体たるFSB(KGBの後継機関)の長官に任命します。そして2000年にはエリティンは大統領職を彼に譲ります。(大統領代行に就任。)こうしてプーチンはロシアの頂点に立つのです。
 まさにプーチンは、民主主義を標榜しつつも、実権は諜報機関が握る、という新たな人民支配の方式を確立し、ロシアの新しい時代を切り開いたわけです。
(以上、http://www.guardian.co.uk/russia/article/0,2763,1158463,00.html(2月29日付け。3月1日アクセス)による。)

(3)「皇帝」プーチン
2000年に大統領選挙を制し、プーチンは正式に大統領に就任します。
そして4年。今年3月には再び大統領選挙がありますが、プーチンの圧倒的な得票率での再選が確実視されています。プーチンはいかなる政党にも拠っておらず、選挙公約ないしマニフェストなど全く打ち出していないというのに独走状態なのです。
そうなった理由をあげると次の通りです。
ア このところの石油と天然ガスの価格高騰により、ロシアの経済財政が棚から牡丹餅的に潤っていること。石油と天然ガスだけで、実にロシアのGDPの25%をたたき出しているのです(http://www.guardian.co.uk/comment/story/0,3604,1155408,00.html。2月25日アクセス)。
イ ロシアの国民が、ソ連崩壊後の混乱に疲れ果てており、プーチンがもたらしたKGB的安定(ムード)の継続を願っていること(http://www.nytimes.com/2004/03/09/international/europe/09RUSS.html。3月9日アクセス)。
ウ 殆どすべての報道機関はプーチン政権のKGB的介入によってプーチン大統領の宣伝機関に堕してしまっており、ロシア国民はプーチンのいい面しか知らされていないこと(http://www.guardian.co.uk/russia/article/0,2763,1164233,00.html。3月8日アクセス)。
エ しかも、ロシア国民の伝統的な皇帝観・・皇帝はいい人だが取り巻きが悪い・・が「復活」し、たとえプーチン政権が失政を重ねたとしても、それがプーチン個人の失点につながらないこと(NYタイムス前掲及びhttp://news.bbc.co.uk/2/hi/programmes/from_our_own_correspondent/3533057.stm(3月6日アクセス))。

そして今や、プーチンの地方「巡幸」の際に泊まったホテル、立ち寄った喫茶店、使った食器等はことごとく、その地方の名所、記念物とされるというありさまです。我々が気が付かないうちに、ロシアに帝政が復活し、プーチン「一世皇帝」が即位し、ロシア人民に君臨している感がある、と言っても過言ではありません(BBC前掲)。

 プーチンの人間形成に及ぼした柔道の影響の大きさは良く知られているところです(ガーディアン2月19日付け、前掲)。KGB要員としての彼の優秀さは柔道を通じて身に着けた、相手の弱点をつくといった権謀術数のたまものだったと言ってもいいのかもしれません。その権謀術数の能力は彼を大統領にまで押し上げたことになります。
 このことを我々日本人は誇りに思うべきなのか、遺憾に思うべきなのか、悩ましいところですね。

(完)

太田述正コラム#0282(2004.3.8)
<新悪の枢軸:ロシア篇(追補2)>

 このように見てくると、どうしてロシアについての米国の論調が悲観論一色になってしまっているのかが不思議に思えてくることだろう。
 その理由は至って簡単だ。
 ソ連改め新生ロシアは、米国と世界の覇権を争った「超大国」なのだから、豊かでこそなくても高度に発展した国であるはずだ、との思い込みが米国の人々の間にあったため、その国が経済中進国的病理現象を呈したことにショックを受けた、というだけのことだ。もともとの期待が余りにも高すぎたのだ。

 (3)私のコメント
 この論考の指摘はいちいちごもっともです。
しかし、ロシアの評価は、ロシアが「経済中進国」であることにウェートを置くか、「核保有国であり、かつ依然国際場裏で隠然たる影響力を持っている」ことにウェートを置くかによって、全く違ってきます。

 ロシアは、フランスや英国に比べて一人当たりGDPが四分の一以下に過ぎない経済中進国であって、両国それぞれの三分の二程度の国力(GDP)しかない(The Military Balance 2003/2004, IISS, PP247,250,269)にもかかわらず、両国と同様、核を保有しているだけでなく、両国のいずれよりも「国際場裏で隠然たる影響力」を持つことに対して強い執着心を抱いています。
 本年2月、ロシアは20年ぶり(1982年以来)の大軍事演習を行いました。その演習は、実際に(核弾頭抜きの)大陸間弾道弾を何発か発射し、長距離爆撃機も一斉に飛び立たせるというおどろおどろしいものでした。しかし、プーチン大統領がわざわざ乗りこんだ原子力潜水艦からの弾道弾発射に失敗するという大失態を起こしてしまいました(ロシアは公式には否定している)。
このことが示しているように老朽化した核兵器をもてあましている状況であるにもかかわらず、ロシアは休眠状態だった大陸間弾道弾を再び実戦配備状況に戻したり、新しく開発した大陸間弾道弾の配備に血道をあげたりしています。
(以上、http://www.atimes.com/atimes/Central_Asia/FB19Ag02.html及びhttp://www.atimes.com/atimes/Central_Asia/FB19Ag03.html(どちらも2月19日アクセス)による。)

 まさにこの、滑稽なまでに背伸びした覇権主義こそ、ロシア、共産主義ロシア(ソ連)、新生ロシアに共通する業病であり、だからこそ、ロシアはその近現代史を通じて世界の問題児であり続けているのです。

2 新生ロシアの特質

 (1)かつての諜報要員が支配するロシア
 ロシアの歴史はエリートによる人民支配の歴史です。
 帝政ロシアのエリートは貴族で社会システムは農奴制でしたし、ソ連のエリートは共産党員の中の選ばれた人々(ノメンクラツーラ)で社会システムは計画経済でした。新生ロシアの社会システムは市場経済であることはご承知の通りですが、誰がエリートかはご存知ですか。
 それは、現在のところ、ソ連時代のKGB要員を始めとする諜報要員です。

 大統領自身がそうですが、プーチン政権の上級官僚の約四分の一はかつての諜報要員ですし、政府関係機関や産業界の主だったところで2000名にのぼるかつての諜報要員が活躍しています。
 KGBでは能力主義が貫徹されており、KGBはソ連の国家機関の中で最も腐敗していなかったと言われています。しかも、ソ連は閉ざされた社会でしたが、KGB(や他の諜報機関)の要員になれば、外国語を身につけ、外国へ行くチャンスもありました。ですから、プーチンもそうでしたが、ソ連の貧しい家庭で育った優秀な若者はこぞってKGB等をめざしました。
 これら機関で彼らは、上意下達の精神と何が何でも目的を完遂するという使命感を叩き込まれ、分析能力を鍛えられたのです。
 ソ連が崩壊し、一旦は茫然自失した彼らは、やがて市場経済化した経済中進国ロシアにおいて、彼らのような人材が必要不可欠であることに気づきます。そして彼らはあらゆるところで頭角を現し始めるのです。
(以上、http://www.latimes.com/news/nationworld/world/la-fg-spies10nov10000420,1,1188925.story?coll=la-headlines-world(11月11日アクセス)による。)

(続く)

太田述正コラム#0281(2004.3.7)
<新悪の枢軸:ロシア篇(追補1)>

1 楽観的な現代ロシア論の登場

 (1)始めに
 私が今まで論じてきた悲観的な現代ロシア論(コラム#(144、)145、186、241、242)を否定する楽観的な現代ロシア論が米国で登場しました。
 私は、これまでおおむね英米の通説に従って現代ロシア論を展開してきたのです(注)が、通説に真っ向から挑戦する野心的な論考が登場したわけです。

 (注)1988年に留学先のカレッジから研修生全員(約80名)で東ベルリン(当時)見学に赴いた時のことだ。東独人ガイドの話を聞き、街の風景等を見た後で、私は英国人たる同僚研修生の一人(国際情勢専門家でも何でもない一介の軍人)に、「思っていたより悪くないじゃないか。当分共産主義体制は安泰だな」と話しかけたところ、「とんでもない。近々東独を含め、ソ連・東欧の共産主義体制は崩壊するよ」と言われてきょとんとした。ところが、翌年ベルリンの壁が崩壊し、三年後にはソ連が崩壊した。私が英米、就中英国のプレスを情報源として高く評価するに至った原点がここにある。

それは、3月2日にニューヨークタイムスのサイトに掲載されたANDREI SHLEIFER と DANIEL TREISMAN 共同執筆の「フツーの国」(A Normal Country) という、フォーリンアフェアーズMarch/April 2004 掲載予定の論考(http://www.nytimes.com/cfr/international/20040301faessay_v83n2_schleifer_treisman.html。3月5日アクセス)です。
そこで、この論考の概要をご紹介することにしました。(この論考の元となった論文はhttp://papers.nber.org/papers/w10057 から$5でで購入できるようです。)

(2)その内容の紹介

 ロシアは、ソ連が崩壊して新生ロシアが誕生した1991年から現在まで、一貫してフツーの経済中進国以上でも以下でもなかった。ロシアの購買力平価ベースの一人当たり国民所得は、アルゼンチン、ブラジル、メキシコ、マレーシア、クロアチア並みであり、核保有国であり、かつ依然国際場裏で隠然たる影響力を持っているという点で特異性があるだけだ。
 経済中進国においては多かれ少なかれ、政府は腐敗し、司法機関は政治介入を受け、報道の自由は制限されており、所得分配は不平等であり、大企業が寡占状態にあり、マクロ経済は不安定であるものだ。

 ロシアの一人当たりGDPは実質ベースで、1991年から1998年までは39%減少し、1991年から2001年までだと24%減少したことになっている。
 しかし、これは見かけだけのことだ。
 第一に、ソ連時代のような、誰も買わない商品がもはや生産されなくなったことに伴って経済が効率化したことと引き換えにGDPは押し下げられたし、かつてのように管理者がノルマ「超過」達成を図るために数字をふくらませることがなくなり、税金逃れのためにむしろ逆に数字が低く申告されるようになったために、やはりGDPは押し下げられた。
 第二に、闇経済が急速に膨張した。GDPが29%減った間に電力消費量は19%しか減っておらず、しかも、企業はソ連時代に比べて電力を節約して使っていることを考えれば、このことが推し量れる。
 第三に、ロシア人の生活が向上していることを裏付けるデータが沢山ある。
1990年と2001年の間、一人当たり居住面積は16平米から19平米に増え、自動車保有率は一家族あたり0.14台から0.27台へと増えた。海外旅行へ行く観光客も1993年の160万人から2000年には430万人に増えている。
 また、1993年以来、水道普及率は66%から73%へ、セントラルヒーティング普及率は64%から73%へ、電話普及率は30%から49%に上昇している。

 そもそもソ連崩壊後、旧ソ連及び東欧諸国のすべてにおいて計画経済が市場経済に転換されたが、これに伴い、どの国でもGDPは一時減少した。この転換を最も速いペースで行った行ったチェコとハンガリー、最も遅いペースで行ったウクライナとウズベキスタン、はたまた民主制をとったロシアとポーランド、独裁制を続けたベラルスとタジキスタン、のどの国でもそうだった。
 これは共通の原因があったことを示している。一つは軍用品や民生品中不必要なものが生産されなくなった(上述)からであり、もう一つは計画経済から市場経済への転換過程では必然的に経済システムが不安定化するからだ。

(続く)

太田述正コラム#0242(2004.1.28)
<新悪の枢軸:ロシア篇(その2)>

(2) 一貫していた米国のロシア封じ込め政策

米国は冷戦時代を通じて敵国ソ連を国を挙げて研究し、ソ連が帝政ロシア時代から基本的に変わっていないこと、そして仮にソ連が崩壊したとしても、その承継国家は、やはり帝政ロシアやソ連時代の性格を基本的に受け継ぐであろうことを当然視していたのでしょう。ソ連が崩壊し、ロシアが復活した後も、米国はひと時も弛むことなく、ロシアを封じ込める手を次々に打って行きます。
米国のクリントン政権がまず行ったのは、旧反ソ同盟たるNATOの東方への拡大であり、東欧の元のソ連の衛星諸国やバルト三国をNATOに取り込みます。
こうしてロシアの西方を扼した米国がその次に行ったのは、かつてソ連の柔らかい南部の脇腹であった中央アジアやコーカサス地方への進出です。
象徴的なのはグルジアへの米国の進出です。元ソ連外相のシュヴァルナーゼ大統領が率いるこの国に、米国は被援助国民一人当たりにしてイスラエルに次ぐ経済援助をつぎ込みました。そしてこのグルジアを舞台にして、グルジアからの分離を図る南オセチアやアブハジアを支援するロシアとグルジア政府を支援する米国とが、かつての米ソ冷戦時代のような「代理戦争」を繰り広げるのです。
ブッシュ政権は、このようなクリントン政権のロシア封じ込め政策を引き継ぎます。
2001年に起きた9,11同時多発テロをフルに「活用」し、ブッシュ政権は、対テロ戦争にロシアの協力を得るため、とのふれこみでプーチンの手荒なチェチェン政策を黙認する一方、中央アジアへの米軍基地の設置をプーチンに飲ませます。そしてこれと平行して、コーカサス地方へのパイプライン設置をテコにロシアをカスピ海の石油資源から締め出す策略を展開します。
更に2003年には、シュヴァルナーゼ政権の腐敗、とりわけ選挙不正を口実に、米国の秘蔵っ子であるサーカシビリの無血「革命」を支援し、常に米国とロシアを天秤にかけてきた食えないシュヴァルナーゼ・・例えば彼はロシアの会社から天然ガスの供給を受けようとした・・を切り捨てるのです。
(以上、http://www.guardian.co.uk/russia/article/0,2763,1115291,00.html(1月3日アクセス)による。)

3 パウエルのロシア批判

 そこに昨年末、満を持してパウエル論文(コラム#236)が上梓され、米国はロシアに対し、婉曲な形ではありますが、米国の潜在敵国であるという烙印を押すに至ります。
 この論文への反響の少なさに業を煮やしたのか、先般行われたパウエルのロシア訪問時に、パウエルは外交的配慮をかなぐり捨てて真正面からロシア批判を行い、米英のメディアをびっくりさせました。(サイトで見る限り、パウエルのロシア批判を無視したのはロサンゼルスタイムズのみ。なお、取り上げた各メディア中、一番小さい扱いだったのがガーディアンだった。そんな当たり前の話はニュース性がないということなのだろう。ちなみに、私が気がついた範囲では、日本のメディアのサイトは殆ど無視を決め込んだ。この見識の高さ(?!)にはため息が出る。)
 なにゆえこのタイミングにパウエルが、(当然ブッシュ大統領の了解の下で、)このような言動をとったかについては、このところ米議会や民主党の大統領選挙候補者達の間からブッシュの対露姿勢の「軟弱さ」を批判する声が高まっていたからではないかと指摘されています(http://www.nytimes.com/2004/01/27/international/europe/27POWE.html?hp。1月27日アクセス)。

 パウエルは1月26日付けのイズヴェスチャ紙に論考を寄せ、その中で「ロシアの民主主義制度は、まだ政府の行政、立法、司法部門の間で基本的な均衡がとれていないように思われる。・・政治権力が法によって拘束されていない。・・メディアも政党も自分の思うところに従って行動する自由を有していない。・・基本的な原則を共有していない限り、米露関係は本来あるべき姿にはなりえない」と記しています(注)。

 (注)ブッシュが昨年9月に、民主主義、自由、及び法の支配をロシアに定着させようとするプーチンの見識を称えたばかりであることを思えば、隔世の感がある。

 彼はまた、ロシアのチェチェン政策を批判し、かつロシアがその近隣諸国の動向について「関心を持つのは自然なこと」としつつ、暗にグルジアとモルドバへのロシアの干渉を指して、「ロシアの近隣諸国の主権の保全とこれら諸国<がロシアと>の間の平和で敬意を持った関係を取り結ぶ権利も尊重されるべきだ」とも言っています。T
(以上、http://news.ft.com/servlet/ContentServer?pagename=FT.com/StoryFT/FullStory&c=StoryFT&cid=1073281301151&p=1012571727102及びhttp://www.washingtonpost.com/wp-dyn/articles/A48581-2004Jan26.html(どちらも1月27日アクセス)による。)

同じ日に、パウエルはプーチン大統領との会談に臨んでいます(ワシントンポスト上掲)が、この会談がどんなに「率直」な意見交換の場になったかは、想像に難くありません。

米国がロシアを潜在敵国とみなしていることについて、ご納得がいただけたでしょうか。

(ロシア篇完。次はインド篇です)

太田述正コラム#0241(2004.1.27)
<新悪の枢軸:ロシア篇(その1)>

コラム#236で、パウエル米国務長官が、ロシア、中国、インドを米国の潜在敵国視した論文を書いた、と指摘したところですが、不肖私がパウエルに成り代わり、彼の言いたいことを敷衍してご説明することにしましょう。

ロシア、中国、インドはいずれも大国であり、このところ経済が好況を呈していることでも共通しています。パウエルがこの三国を、あからさまではない形とはいえ、一くくりにして潜在敵国視すること自体が事件であるといえます。
そう聞くと、中国は共産党一党支配の非民主的な国だから、潜在敵国視されるのは大いに理解できるし、ロシアについても民主主義国になっていから日が浅いことから分からないでもないが、インドは成熟した民主主義国であり、どうしてパウエルが潜在敵国視するのか分からない、と思われる方が少なくないのではないでしょうか。
その疑問はもっともです。インドをあえて潜在敵国視したところにこそ、パウエル論文の最大の眼目があるのです。
しかし、先を急がず、まずはロシアから話を始めましょう。

ブッシュ政権下では、米露関係は次にように変遷してきたように見えます。

1 ブッシュ政権下の米露関係の「変遷」

もともとブッシュは、彼が米大統領に就任する前に、彼の安全保障担当補佐官になる予定だったコンドリーザ・ライス女史がロシアを戦略的競争者(strategic competitor)とする論考を発表したことからも明らかなように、ロシアに対して厳しい見方をしていました。
ところが、いよいよブッシュが就任すると、プーチンがNATOの東方拡大や米国のミサイル防衛構想に柔軟な姿勢を示す一方で、ブッシュとしてもロシアの石油に大いに関心があったことから、二人の間に友情らしきものが芽生えます。そしてブッシュはプーチンのチェチェンでの人権蹂躙に目をつぶる形でこの「友情」に答えます。そこに2001年の9.11同時多発テロが起こり、プーチンが明確に米国に対して連帯の意思を表明したことによって、米露は完全な蜜月時代に入ったのです。この蜜月時代の頂点が2002年5月の戦略的攻撃兵器削減条約への二人の調印です。
しかし、それ以降、イランの大量破壊兵器疑惑等、パレスティナ和平、モルドバ共和国の内紛、中央アジア諸国への米軍基地設置、そしてフセイン政権に対する評価やイラク戦争、はたまた先般のロシア国会選挙における「不正」、更には最近起こったグルジアにおける「革命」、昨年暮れのロシアにおける新しい多弾頭大陸間弾道弾(Topol-L)配備開始、等をめぐって米ソの軋轢が次第に募り、現在に至っています。
(以上、http://www.guardian.co.uk/russia/article/0,2763,1112900,00.html(12月27日アクセス)による。)

 しかし、ブッシュ政権下の上記のような米露関係の「変遷」は、見かけだけのものであり、本当のところは米ソ冷戦終焉、そしてそれに引き続くソ連の崩壊以降、クリントン大統領の時代を含め、米露間には蜜月時代など一度もなかったのです。

2 実は「変遷」などなかった

 (1)変わらぬロシア
 このコラムでも何度か(#145、#186)ロシアは少しも変わっていない、と申し上げてきましたが、最近はロシア人が胸を張って声高にロシアのユニークさを唱えるようになった、とニューヨークタイムズが指摘しています。
 その記事によれば、ロシア外務省欧州局長のセルゲイ・O・ソコロフは「ロシアは独立した大国であり、誇り高き国家であって欧州と対等に扱われるべきであり、決して欧州の一部ではない」と述べ、またカーネギー・モスクワセンター副所長のドミトリー・V・トレーニンは「ロシアは決して拡大する欧州に飲み込まれることはない。」そして近い将来において、欧州と米国は「ロシアに対して、あたかもソ連がその前身たる帝政ロシアにとって代わったかのように接することとなろう」と述べているというのです(http://www.nytimes.com/2003/12/31/international/europe/31LETT.html。12月31日アクセス)。

(続く)

太田述正コラム#0186(2003.11.10)
<ロシアについて(追補)>

(昨日午後、コラム#185の末尾を若干補足してあります。私のホームページ(http://www.ohtan.net)のコラム欄をご覧ください。)

コラム#144と145でロシアとは何かについて論じましたが、今回はその追補です。

1 ロシア文明の領域について

ロシア文明と欧州文明との間の境界線は、かつてのカトリシズムと正教会の境界線だと考えればよさそうです。この境界線は、サンクトペテルブルクの西からほぼ真南に、現在のルーマニアのトランシルバニア地方まで伸び、そこから今度はほぼ真西にアドリア海の直前まで伸び、現在のクロアチアとボスニアとの境界線沿いに南東に伸びてアドリア海に至っています(The Time Atlas of World History, Time Books Limited 1986 PP183)。
ちなみにこの境界線は、いわゆるヘイナル線・・その西側には封建時代があったが東側には封建時代がなく、またその西側には「欧州的結婚パターン」(=晩婚+結婚率の低さ+結婚前の若者の(農業)奉公人制度)があったが、東側にはなかったとされる・・とほぼ一致しています(肥前栄一「エルベ河から「聖ペテルブルク??トリエステ線」へ??比較経済史の視点移動??」(学士会会報No.843(2003-??)に収録)参照)。
イスラム文明及び中国文明との境界線については、別の機会に触れたいと思います。

2 現在のロシアにおけるソ連時代への回帰

 故郷レニングラード(サンクトペテルブルク)に埋葬して欲しいというレーニン自身の遺志に反し、その遺骸はミイラにされてモスクワのレーニン廟に「展示」されてきましたが、ソ連崩壊後も、ロシア国民のレーニン崇拝熱は少しも冷めず、依然レーニンの遺骸はレーニン廟に「展示」され続けています(http://news.msn.co.jp/newsarticle.armx?id=622778。11月9日アクセス)。
 スターリン像を再建する町も出てきました(http://www.sankei.co.jp/news/031106/1106kok098.htm。11月7日アクセス)。
 また、プーチン大統領はソ連時代の国歌(ただしメロディーのみ)を復活しましたし、ロシアの国営テレビ局はコムソモール(共産党青年団)の創立86周年記念の演奏会を中継したばかりです(http://www.nytimes.com/2003/11/09/weekinreview/09MYER.html。11月9日アクセス)。
学校での軍事教練も復活しています(http://www.nytimes.com/2003/10/11/international/europe/11RUSS.html。10月11日アクセス)。

プーチン大統領自身が旧KGB出身ですが、プーチン政権では、旧KGB出身者が多数登用され、彼らが政権を牛耳るに至っています(http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/articles/A54711-2003Sep23.html。9月24日アクセス)。
このためもあってか、プーチン政権では、情報公開どころか、旧ソ連政権並みの秘密主義がまかり通るようになり、欧米ではプーチン政権首脳達の一言半辞からそのウラにあるものを探る(ソ連時代に欧米のソ連専門家の間で盛んだった)クレムリノロジーが再び大流行になっている(http://www.nytimes.com/2003/08/27/international/europe/27LETT.html。8月27日アクセス)という笑えない話もあります。

 最後に、ソ連時代への回帰ではなく、むしろ継続というべき事柄です。
警察等では相変わらず取り調べに拷問が日常的に用いられている(http://observer.guardian.co.uk/international/story/0,6903,1066223,00.html。10月19日アクセス)といいます。
また、昨年の10月に起こったモスクワでの劇場占拠事件では、「救出作戦」の際に100名以上の人質が死亡するという乱暴なやり口に全世界がショックを受けたものですが、それから一年が経過したというのに、治安当局への責任追及が全く行われていないどころか、いまだに、人質、占拠したチェチェンテロリスト、死亡者の正確な数すら明らかにされていません(http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/3207319.stm。10月24日アクセス)。
国民の生命や人権を軽視し、政府が都合の悪いことは隠したソ連時代そのままですね。

3 現在のロシアにおけるロシア文明の「逆襲」

旧ソ連圏内ではありますが、中央アジアのキルギスタンに、既に(アフガニスタンをにらんだ)基地を設けている米国の向こうをはって、ロシアは初めて新しい海外軍事基地を設置しました(http://www.nikkei.co.jp/news/kaigai/20031024AT2M2302823102003.html。10月24日アクセエス)。またもやロシアの業病とも言うべき膨張主義が首をもたげてきたようです。
 とりわけ注目されるのは、世論調査機関、テレビ局、新聞に次々にささいな名目で弾圧の手が入り、政府に不利な情報や批判的な意見が国民の耳に入らないようになりつつある(http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/articles/A2504-2003Sep25.html。9月26日アクセス)ことです。これはプーチン政権が管理された民主主義(Managed Democracy)を目指しているからだと指摘されています。管理された民主主義とは、対外的には民主主義の形態をとりつつも、時の政権が本格的な反対勢力や厳しい批判の挑戦を受けないシステムです(http://www.csmonitor.com/2003/1001/p07s02-woeu.html。10月1日アクセス)。
 プーチン自身、「もし民主主義が国家の解体を意味するとすれば、そんな民主主義は必要ない。」と公言し、選挙は必要悪だとの見解を隠そうとはしていません(http://www.guardian.co.uk/elsewhere/journalist/story/0,7792,1053545,00.html。10月2日アクセス)。
 実際、12月に国会議員選挙を控え、プーチン政権は新興大産業家たるオリガーキー達に対する弾圧(http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/articles/A2704-2003Oct22.html。10月23日アクセス)(オリガーキー側に問題なしとはしないものの、)に血道をあげています。また、チェチェンやサンクトペテルブルクでのなりふり構わぬ政府寄り候補者当選へ向けての「管理された」選挙(選挙干渉)の実態(http://www.nytimes.com/2003/10/03/international/europe/03CHEC.html。10月3日アクセス)にはすさまじいものがありました。選挙になる前に反対勢力たりうる芽をできる限り摘み取り、選挙にあたっては、積極的に干渉して反対勢力を封じ込める、というやり方です。
プーチンは、帝政ロシア時代から強力な支配者を好み、政治との能動的関わりを忌避してきたロシア国民の間で、現在絶大な人気を博していますが、今や、プーチンは憲法規定を変更し、あるいは憲法規定を回避することによって、恒久政権樹立を狙っているのではないかという見方さえ出てきています(http://slate.msn.com/id/2090745/。11月5日)。
 アストルフ・ド・キュスティーヌのロシア論(コラム#145)が改めて思い起こされますね。

太田述正コラム#0145(2003.8.26)
<ロシアについて(その2)>

ニコライ一世治世下のロシアを1839年に旅行したフランス貴族のアストルフ・ド・キュスティーヌ(Astlphe de Custine)は、旅行記をパリで1843年に出版します。
彼がこの本の中で展開したロシア論は、共産主義体制下のロシア、すなわちソ連を論じたものかと思われるほど、時代を超えて変わらないロシアの本質をうがっているという定評があります。

それでは余り日本では知られていないキュスティーヌのロシア論をご紹介することにしましょう。(以下、引用は、Journey for our Time, The Journals of the Marquis de Custine, Russia 1839, Phoenix Press 2001という英訳本より私が日本語訳。)

1 ロシアはどんなところか

「あなたのご令息がフランスに不平不満を漏らすようなら、私が使っている手だが、「ロシアに行ってみなさい」と言ってやればよい。・・真にロシアを体験した人間は、世界中のほかのいかなる場所でも満足して暮らすようになることうけあいだ。」(PP240)、「モスクワの<極寒の>気候は<かつて征服者たる>モンゴル人ですら恐怖におののかせたものだ・・モスクワっ子達は、機会さえあればほかの土地に逃げ出したいと思っている。」(PP236)、「ロシアに住んでおれば、まともな人間は気が狂う。」(PP226)、「ロシア帝国は広大無辺な、皇帝だけが鍵をもっている牢獄だと思えばよい。」(PP111)、「ロシア人は自らを兵士であると考え、兵士のように生きている。<あるいは、>ほかの囚人を見張る役の終身刑の囚人のよう<に生きている>」(PP111)、「ロシアは、いわば戒厳令が常態化したような国だ。」(PP58)、「フランスでは革命による暴虐は一時的な悪だが、ロシアにおいては専制主義による暴虐は恒久的な革命なのだ。」(PP96)、「商人達<すなわち>中産階級は余りに少なく、何の力も持っていない。第一彼らの大部分は外国人だ。」(PP109-110)、「製造業者、ビジネスマン、そして商人の大部分はドイツ人だ。」(PP68)、

2 専制主義がもたらしたもの

「専制主義は、これと戦おうと決意するような人々の意識ですら、やがて無関心と無気力で覆い尽くし萎えさせてしまう。知らないことは軽蔑するというのがロシア人の最も衝撃的な特徴の一つだ。理解しようとせずに彼らは嘲るのだ。」(PP215)、「国家から独立した宗教の意義を訴える人間・・<は>慈悲深い皇帝によって・・病人であるので<精神病専門の>医師達の手に委ねなければならない・・と宣告されてしまう。」(PP239-240)、「ほかの国では抑圧は許容されているだけだ。しかしロシア人民は抑圧を愛してきたし、今でも愛している。」(PP182)、「ロシアでは秘密主義が蔓延している。」(PP138)、「ロシア人はウソの達人だ・・ロシアでは恐怖が思考を麻痺させ、思考に取って代わってしまっている。」(PP108)、「哀れなロシア人よ。彼らの最大の楽しみは飲んだくれること、すなわち憂さを忘れ去ることなのだ。」(PP211)、

3 原因はどこにあるか

「ロシアは野蛮人から解放されてまだ四世紀しかたっていない。西側世界が同様の危機に直面したのは14世紀も前だ。」(PP31)、「ロシア人はまだ文明化していない。彼らは組織化された(regimented)タタール人以上の何者でもない。」(PP74)、「モンゴル人の侵略以来、スラブ人は奴隷になってしまった・・最初は征服者の、そしてその後は自分達の貴族達によって。そして農奴制がロシアに確立した。単に事実としてではなく、社会の根本法として。」(PP31)、「ビザンツ帝国のミニチュア版とモンゴル(horde)の凶暴さの不自然な合成物<こそロシアだ>」(PP37)、「四世紀もの間、欧州とアジアの間で揺れ動いてきたロシアは、いまだ自らの努力で人間精神の歴史に何物かを貢献するに至っていない。何となれば、ロシアの国民的性格(national character)は借り物によって影が薄くなってしまっているからだ。」(PP229)、

4 予言的分析

「ロシア人は我々に彼らが文明化していると信じさせるための努力は惜しまないが、自分達を本当に文明化する努力は惜しむ。」(PP124)、「ピョートル大帝以来、ロシアの統治者達が腐心してきたのは、6000万人もの人民を東洋的に統治するために、どのように欧州諸国の進歩した行政制度を活用するか、だった。」(PP107)、「皇帝は、毎日のようにロシアの年代記を気の向くままに改める。・・その時その時のフィクションに従って歴史上の真実がねじ曲げられることになる。」(PP237)、「<まつろわぬ農奴達の住む村については、>皇帝は村ごとシベリア追放を命じる。」(PP68)、「ロシアの文明は余りにも若く、野蛮の時代から抜けきっていない。・・ロシアの力は理念にではなく、戦争にある????すなわち、ロシアは謀略と凶暴さをその特質とする。」(PP236)、「あらゆる公的私的自由を涜神的に犠牲にしているという<汚れた>身を浄化するために、膝を屈した奴隷<たるロシア人>は世界征服を夢見る。」(PP234)、「もし誰かが真の革命に向けてロシア人民を立ち上がらせることに成功したならば、<ロシア全土において>あたかも整斉たる連隊の動きのように<統制の取れた>虐殺行為が行われるだろう・・村々は兵営に変えられ、<そこで>組織的殺人が・・行われるだろう。」(PP131)、

 いかがでしたか。「予言的分析」という小題の下でご紹介した諸フレーズなどは、ソ連のことだ、あるいは現在のロシアのことだと言ってもおおむねそのまま通りそうですね。

たまたま同じ頃、やはりフランス貴族のアレクシス・ド・トックビルが「アメリカにおける民主主義」という有名な米国論の著作をものしていますが、キュスティーヌもトックビルも、ロシアよりはマシだがアングロサクソンには足元にも及ばないフランスが、アングロサクソンとの三世紀にまたがる長期抗争に完膚無きまで敗れ、たたきのめされていたこの時期に、米国とロシアを通して祖国フランスが敗北した理由を見つめ直しそうとしたのでしょう。(二人がフランス革命によって「没落」した貴族階級に属していたことは、私には偶然の一致とは思えません。二人とも当時、二重の喪失感に苛まれていたのでしょう。)
(蛇足ながら、トックビルのこの本は私は駄作だと思っています。いつか別の機会にとりあげるつもりです。)

このキュスティーヌの本が、ソ連によって禁書に指定された(上記英訳本の裏表紙)ことは、キュスティーヌの予言がいかに正鵠を射ていたかを物語っています。
いずれにせよ、よかれあしかれ、我々は我々が属す文明(キュスティーヌに従えば、ロシアの場合は「文明」と括弧付きにすべきかもしれませんが)の「桎梏」から容易に逃れることはできないようですね。
(完)

太田述正コラム#0144(2003.8.24)
<ロシアについて(その1)>

 日本と同様、ロシアもまた一つの国であってかつ一つの文明圏の大部分をその領域としているという存在です。
 ところが日本と違って、ロシアは自らがユニークな一つの文明圏に属しているという認識に徹しきれず、常に欧州(西欧)文明の一員として認められたいという衝動にかられてきました。
 これは、欧州とロシアが地理的に隣接しており、かつこの二つの文明が、それぞれカトリック=西ローマ帝国と正教=東ローマ帝国という一卵性双生児的背景を持つ全体主義的文明であり、更に欧州の方が「先進」文明であったことからくる必然的結果なのかもしれません。
 そのロシアにおいて、20世紀に生まれたのがマルクス・レーニン主義(以下「共産主義」という)です。
 私の考えでは、カール・マルクスの哲学や、その母体であるドイツ観念論哲学は、あらゆる面で「遅れ」ていた欧州が、「先進国」イギリス(アングロサクソン文明)へのコンプレックスを克服すべく、観念だけの上でイギリス的なもの、すなわち近代、を乗り越えようとして生み出したイデオロギーです。
そんなマルクスの哲学を、欧州へのコンプレックスの固まりとも言えるロシアが継受し、ロシア化したもの・・いわば二重のコンプレックスの産物・・が共産主義なのです。
 共産主義が20世紀においてもたらした惨禍は恐るべきものがありました。
 共産主義団体や共産主義国(以下「共産主義者」という)が処刑、ジェノサイド、或いは収容所送りによって虐殺した人々の数は、実に約1億1000万人にのぼる(ただし、1900-1987年。以下同じ)という推計があります(注)。

(注)この数には、これら諸国の失政によって餓死・災害死した人々の数や、(共産主義者によって引き起こされたものが多い)戦争や内戦によって死亡したこれら諸国の国民3000万人弱が含まれていない。

このうち、ロシア(ソ連)だけで6100万人弱、スターリン時代だけで4300万人弱です。
 1億1000万という数字は、20世紀の総虐殺者数の三分の二を占め、20世紀の総戦死者数3800万人の三倍にもなります。
(R.J. Rummelによる推計。http://www.hawaii.edu/powerkills/COM.ART.HTM。8月23日アクセス)
 ちなみに、ナチスドイツによる虐殺はユダヤ人に対するホロコースト分を含め2100万人弱、そして、(上記共産主義者による虐殺数の内数ですが、)中国共産党は政権奪取前からの通算で3900万人弱、中国国民党は1000万人強、日本は600万人弱、となっています(同じくRummelによる推計。http://www.hawaii.edu/powerkills/20TH.HTM。8月23日アクセス)。
 ファシスト団体やファシスト国家(以下「ファシスト」という)による虐殺は、おおむねナチスドイツと中国国民党によるもので尽きていることから、両者の合計プラスアルファで総計で3100万人強に「過ぎず」、共産主義者による虐殺数とは比較になりません。
 悪の権化のように言われているナチスドイツですが、お仲間のファシストを全部ひっくるめても、共産主義者はその数等倍のワルだということです。(だからと言って、日本による虐殺について・・・仮に600万弱という数字をそのまま認めたとしても・・・この二大巨悪に比較すれば物の数ではない、と決して口走ってはならないところが敗戦国日本に生まれた我々の悲哀ですね。)
 これは、ファシストによる支配と共産主義者による支配を交互に受けた人々の実感でもあります。
例えばエストニア人のAlfred Kaarmannは、「「西から来た征服者<(ナチスドイツ)>は我々を奴隷にしようとした。」のに対して「東から来た征服者<(スターリン主義ロシア)>は別のアプローチをとった。彼らは我々を地上から抹殺するために、我々をできるだけ多く殺そうとした。」と語っているところです(http://www.nytimes.com/2003/08/23/international/europe/23FPRO.html。8月23日アクセス)。

 さて、冷戦に敗北したロシアは、帝政ロシア時代以来の植民地の大部分を失い、民主国家として再出発することになりました。
 しかし、新生ロシアは、引き続き共産党の幹部だった人々が牛耳っています。初代の大統領のエリツィンも二代目の現在のプーチンもそうであるだけでなく、ソ連時代の国家資産を旧共産党幹部として山分けした連中がつくったオリガーキー(新興大財閥)がロシアマフィアと結託して経済界を牛耳っています。
 何よりも問題なのは、現在ロシア人の間で、過去にロシアが犯した、途方もない罪を直視しようとする姿勢が全くと言っていいほど見られないことです。強制収容所に関する博物館一つありません。共産主義者の手によって虐殺された人々の多くはきちんと埋葬もされていません。そもそも虐殺された人々の埋葬記録すらプライバシーの問題があるとして公開されていません。しかもあろうことか、ソ連時代を見直そうという動きすら見られます。例えば、1991年に打ち壊された、KGBの創始者であるジェルジンスキー(Dzerzhinsky)像の再建話がモスクワ市長の手で進められています。(以上、http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/3145929.stm(8月14日アクセス)による。)
そう言えばプーチン大統領はKGBの幹部でしたね。これではロシアはソ連時代と少しも変わっていないと受け止めざるをえないでしょう。

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