カテゴリ: 仏教

太田述正コラム#2629(2008.6.20)
<仏教雑感(その2)>(2008.12.26公開)

3 仏教に係る最新の学説

 ここで、5月にニューヨークタイムスに載った論説に拠って、仏教に係る最新の学説に触れておきましょう。

 「・・・ダーウィンの『種の起源』が社会思想に、そしてアインシュタインの相対性理論が芸術に影響を与えたように、神経科学における革命は人々の世界観に影響を及ぼしている。
 ・・・ここ数年と言うもの、ガチガチの唯物論は影を潜めつつある。大脳は冷たい機械とは違っていて、コンピューターのように動いているわけではないということになりつつある。すなわち、意味、信念、意識はおどろおどろしい神経網(idiosyncratic networks of neural firings)から神秘的に出現するのだ。感情という、つかみ所がなくて情緒的な(squishy)ものがあらゆる思考の形態において巨大な役割を演じる。研究者達は、普遍的な道徳的直感を理解するために多くの時間を費やしている。また、遺伝子は単に利己的ではないように見える。そうではなくて、人々は公平、共感(empathy)、愛着(attachment)の深い本能を持っているように見えるのだ。・・・ペンシルバニア大学のニューバーグ(Andrew Newberg)は、超越的(transcendent)経験が大脳の中で特定でき計量できることを明らかにした。(人々は頭頂葉(parietal lobe)の中の活動の低下を経験することによって、空間(space)へと誘われるのだ。)つまり、心(mind)は自分自身を超越し、より現実感があると感じるところの、より大きな存在と一体となる能力を持っているように見える。
 以上のような研究の新しい動向は、戦闘的無神論の形で公共領域に浸透することにはならないだろう。そのかわり、それは、神経的仏教(neural Buddhism)とでも呼べるものへと誘うだろう。
 もし皆さんが関連文献にあたれば・・最先端に追いつきたいのなら、私ならNewberg, Daniel J. Siegel, Michael S. Gazzaniga, Jonathan Haidt, Antonio Damasio、そして Marc D. Hauserの本を薦める・・いくつかの点が最大公約数的に浮かび上がってくるだろう。
 第一に、自我は固定的実体(entity)ではなく諸関係の動的過程であること。
 第二に、様々な宗教がまとった緑青(patina)をそぎ落とせば、世界中の人々は共通の道徳的直感を持っていること。
 第三に、人々は、互いの境界を超越して愛で満たされることによって高みに昇るという瞬間を経験する装置、すなわち聖なるものを経験する装置を与えられていること。
 第四に、神とは、その時々に人が経験する自然、すなわちそこにある不可知なるものの総体、であると考えるのが一番もっともらしいこと。
 <戦闘的無神論者たる>ヒッチェンス(Christopher Hitchens)やドーキンス(Richard Dawkins)との議論で、信心深い人々が神の存在を守ろうとしても、守りきれるものではない。しかし、聖なるものの存在を感じる人々を論駁しようとしても容易なことではない。・・・なぜなら、これらの人々は、仏教と重なり合うところの信条を持つ科学者達が相手だからだ。
 予期しなかった形で、科学と神秘主義が手を携え、相互に補強し合っている。これが聖なる法則や啓示(revelation)より自己超越(self-transcendence)を強調する新しい運動をもたらすことは必至だ。・・・」
 (以上、
http://www.nytimes.com/2008/05/13/opinion/13brooks.html?ref=opinion&pagewanted=print
(5月14日アクセス)による。)

 小むつかしくて読むのがさぞホネであったろうと推察しますが、要するにキリスト教を始めとする有神論は科学によって否定されつつあるけれど、仏教だけは科学が進めば進むほど、正しさが裏付けられつつある、ということを言っているのです。

 最後に、「世界中の人々<が>共通の道徳的直感を持っていること」の例証を一つ挙げておきましょう。
 イラクで米軍の有輪装甲兵員輸送車に銃座から手榴弾が投げ込まれたのを目撃した機関銃手たる米兵が、「手榴弾だ」と叫びながら銃座を滑り落ちてその手榴弾の上に仰向けに横たわり、爆発によって彼は即死したものの、周りにいた4人の兵士が助かり、ブッシュ大統領が、この機関銃手の遺族に名誉記念賞を授与しました(
http://www.latimes.com/news/nationworld/world/la-na-medal3-2008jun03,0,3091822.story  
。6月3日アクセス)。
 これはまさに仏教に言うところの、「衆生のために身命を捨てる」高貴な行為(
http://homepage3.nifty.com/btocjun/rekisi%20kikou/houryuuji/4-syasinsyako.htm。6月24日アクセス)だと思いませんか。

4 終わりに

 以前にも同趣旨のことを申し上げたと思いますが、ミャンマーにおける上座部仏教僧侶達とチベット圏におけるチベット仏教僧侶達それぞれの戦いは、やや単純化して総括すれば、科学によって裏打ちされた宗教の担い手達による、アジアにおける自由民主主義確立のための戦いである、と言えるのではないでしょうか。

(完)

太田述正コラム#2619(2008.6.20)
<仏教雑感(その1)>(2008.12.21公開)

1 始めに

 随分前になりますが、コラム#337で「仏教・・のうち座禅を伴う仏教の宗派・・のみが科学によって裏付けられた宗教であること、従ってまたてんかん患者や宗教的天才だけの宗教ではなく凡愚の衆生のための宗教であること<が>証明<されつつある>」と申し上げました。
 また、コラム#490で、仏教の核心である、「座禅(禅定・・・)等によって解脱し、涅槃の境地・・苦の原因であった一切の煩悩の繋縛(けばく)から解放された世界・・に到達す」ることについてエントロピー的説明を試み、更にコラム#498では、アングロサクソンと仏教との親和性を指摘するとともに、オルダス・ハックスレーやアインシュタインが仏教大好き人間であったことをご紹介しました。
 今回は、タイガー・ウッズと仏教、及び、仏教についての新たな研究成果について雑談を行うことにしました。

2 タイガー・ウッズと仏教

 「復帰戦となった全米オープン選手権を激闘の末に制したタイガー・ウッズ(米国)が、再び試練を迎える。公式サイトで左ひざを再手術し、今季の残り試合を欠場すると明かした。4月に左ひざの軟骨除去と前十字靱帯の手術を受けたが、今回は昨年7月の全英オープン選手権後のジョギング中に断裂した前十字靱帯を完全に修復するのが目的。さらに、練習中に左すねを2カ所疲労骨折していたことが判明。全米オープンの2週前に分かり、ウッズは医師から6週間の安静を勧められたが、会場が「思い出の詰まったトーリーパインズGC」を理由に「試合に出て勝つ」と拒否した。・・・」(
http://sankei.jp.msn.com/sports/golf/080619/glf0806190911001-n1.htm
。6月19日アクセス)ことは、お聞きになった方も多いでしょう。
 これは超人的なことなのです。
 というのは、主治医はウッズが全米オープンに出ることに、耐え難い痛みに襲われるはずだから、と反対したのを押し切って彼は出場し、時々足を引きずりながらも優勝したからです(
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2008/06/18/AR2008061803418.html?hpid=topnews  
。6月19日アクセス)。

 ここで興味深いのは、ウッズがこんな状態で全米オープンに出たことを知らずに書かれたと思われるニューヨークタイムスのコラムに、以下のようなくだりがあったことです。
 「・・・スレート誌で、ロバート・ライト(Robert Wright)は、やや表面的にではあるが、ウッズをガンディーに準えた。現在を生きつつ、超越的意識(transcendent awareness)に到達することができる点において・・。批評家達は、必然的にウッズの母親の仏教、そしてウッズの瞑想(medeitation)に係る実験に着目する。彼らはグルが涅槃(nirvana)に到達する時に使われる言葉と同じような言葉を使ってウッズの試合に臨む心理状態を表現する。すなわち彼らは例えば、ウッズの完全な明晰さ(clarity)、静謐さ(tranquility)、そして自然な流れ(flow)について語る。車のビュイック(Buick)の性能について語るべきところを、批評の大部分はその高度な精神的能力(elevated spiritual capacities)に関するものになってしまうわけだ。・・・」(
http://www.nytimes.com/2008/06/17/opinion/17brooks.html?ref=opinion&pagewanted=print
。6月18日アクセス)

 ウッズは、このコラムの筆者が言っているように仏教的瞑想によって集中力を高め、再び全米オープンを制しただけではないのであって、ウッズは、仏教的瞑想によって耐え難い痛みをも乗り越えて再び全米オープンを制したことをわれわれは知っています。
 私は、ウッズにおいて、ゴルフというスポーツがゴルフ道になったということだろうと思うのです。

 ここで思い出すのが、日本の柔道家、山下泰裕です。

 「山下<は、>唯一出場した、1984年のロサンゼルスオリンピックで・・・、2回戦・西ドイツの シュナーベル戦で軸足右ふくらはぎに肉離れを起こしてしまった。山下は左に組むため、右足・軸足の肉離れで大変に不利な状況に立たされた。2回戦は送り襟絞めで勝利を収め、試合後控え室に引き返すまでの間、・・・誰にもわかってしまうほど明らかに足を引きずってしまっていた。・・・準決勝の相手はフランスの デル・コロンボ。過去の対戦からやりやすい相手と山下は考えていたが、軸足の肉離れのため、体がいつものように素早く反応しなかったからか、開始30秒で 大外刈りを喰らい効果を取られてしまう。投げられた直後は動揺したものの、直ぐに我に返り、激しく自身を鼓舞して、守りに入ったコロンボ選手を大外刈りと 横四方固めの合わせ技で逆転した。・・・決勝戦<では、>山下は・・・エジプトのモハメド・ラシュワン・・・<に右足を>バンバン蹴られた<が、>ラシュワンが体勢を崩した瞬間をすかさず捉えて押さえ込みに持っていき、横四方固め<で>一本を<取り、金メダルを獲得した。>」(
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%8B%E6%B3%B0%E8%A3%95
。6月19日アクセス)

 まさに山下は、嘉納治五郎が創始した柔「道」(
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%98%89%E7%B4%8D%E6%B2%BB%E4%BA%94%E9%83%8E
。6月19日アクセス)の至高の具現者であったと言えるでしょう。

 山下の半生にも、また嘉納治五郎の人生にも仏教が直接顔を出すことはありませんが、彼らは意識するとしないとにかかわらず、日本に遍在する仏教的精神、とりわけ禅の影響を強く受けていたに相違ないと思うのです。

(続く)

太田述正コラム#2585(2008.6.2)
<21世紀における仏教の役割(その1)>(2008.12.5公開)

1 始めに

 「21世紀における仏教の役割」などというたいそうなテーマを掲げてみたのですが、いささか私の手に余ります。
 とりあえず、このテーマの周辺的な話の第一弾をいくつかさせていただきます。

2 21世紀の全体主義と仏教

 アジアでは、まともな自由民主主義国と言えるのは、旧日本帝国構成国である日本、韓国、台湾以外には、インドくらいです。
 タイはつい最近クーデターがありました(コラム#1418、1422、1426、1471)し、ネパールは内戦が終わり、共和制となったばかり(コラム#2574)ですし、インドネシアは自由民主主義の歴史が浅い(典拠省略)し、フィリピンは、事実上、大土地所有階級による寡頭制と言っても過言ではありません(典拠省略)。また、カンボディアは事実上、フンセン首相による独裁制です(
http://www.taipeitimes.com/News/world/archives/2008/06/02/2003413597
。6月2日アクセス)し、パキスタンも再び民政移管して日が浅く(コラム#2376、2378)、バングラデシュもずっと政治が混乱しています(典拠省略)。スリランカでは現在でも内戦が継続しています(典拠省略)し、ブータンも議会制が導入されて日が浅い(
http://sankei.jp.msn.com/world/asia/080324/asi0803240938000-n1.htm
。6月2日アクセス)ですね。
 中東・イラン・アフガニスタンはご案内のような状況です。
 中央アジア諸国については省略します。

 他方、アジアには歴とした全体主義国家がいくつもあります。
 共産主義を標榜する国が中共、北朝鮮、ベトナム、ラオスの4カ国もあり、そのほか軍部独裁国家のミャンマーがあります。なお、共産主義を標榜していても、実質的には中共、ベトナム、ラオスは、いずれもファシスト国家であると言ってよいでしょう(中共(コラム#2525、2527)以外は典拠省略)。
 ロシアはアジアの国でもありますが、これまたファシスト国家でした(コラム#2504、2506、2508、2512、2535)よね。

 大変興味深いのは、ファシスト国家である中共と、軍部独裁国家であるミャンマーの体制変革(自由民主主義化)の担い手となっているのがどちらも仏教勢力であることです。
 中共は高度経済成長を続けているのに対し、ミャンマーでは経済が停滞していますが、これは、マクロ的に申し上げれば、鎖国的な共産主義国家から経済面で対外的に開かれたファシスト国家へと変貌を遂げた中共に対しては先進自由民主主義諸国が積極的に投資や貿易(つい最近までこれに加えて経済援助)を行っているのに対し、形の上では自由民主主義国家から軍部独裁国家へと退行したミャンマーに対しては先進自由民主主義諸国が経済制裁を行っているからです。
 つまり、歴史を捨象すれば、先進自由民主主義諸国は、中共とミャンマーに対し、ダブルスタンダード的な対応を行っていることになります。
 この中共とミャンマーのそれぞれの当局に対し、方やチベット仏教勢力、方や上座部(=Theravad=小乗)仏教勢力が体制変革の担い手として対峙しているわけです。
 チベット仏教勢力の方は亡命指導者たるダライラマを有力な指導者として仰いでるものの、基本的にチベット人の間にしか信者がいないという弱みを抱えているのに対し、ミャンマーの上座部仏教勢力には有力な指導者がいない(注1)ものの、圧倒的多数の国民が上座部仏教信者であるという強みを抱えています。

 (注1)ミャンマーの悲劇は、アウンサン・スーチーが上座部仏教勢力の指導者とは言えないことだ。彼女はミャンマー独立の闘士たる父親の子として生まれ、インド大使となった母親とともにインドに赴き、そこでラジブ・ガンジーらと遊び、旧宗主国である英国のオックスフォード大学を卒業し、英国人の学者と結婚した、いとやんごとなき姫君であり、たまたま1988年に母親の見舞いのためにミャンマーに帰国していた時に体制変革派に担ぎ上げられて同派の指導者になったに過ぎない。その結果、彼女はノーベル平和賞を受賞した。彼女に比べれば、軍政当局のトップであるタン・シュエ上級大将は、16歳で軍隊に入り、ジャングルの中で少数民族の叛徒との戦いにあけくれた、生粋の土着のたたき上げだ。その結婚だって、戦死した同僚の妻であった女性の面倒を見るため、同僚達の間でくじ引きを行い、くじを引きあてたタン・シュエが彼女と結婚する巡り合わせになったものだ。(
http://www.nytimes.com/2008/05/13/opinion/13brooks.html?ref=opinion&pagewanted=print  
。5月14日アクセス)
 要するにアウンサン・スーチーは、ミャンマー国民の間で国際スター的人気はあるものの、真にタンシュエらに対抗できる、地に足の着いた指導者と言えるかどうかは甚だ疑問に思う。

(続く)

太田述正コラム#2593(2008.6.6)
<21世紀における仏教の役割(その2)>(2008.7.23公開)

3 最近の中共とミャンマーでのエピソード

 (1)中共

 中共治安当局は、5日、16人のチベット仏教僧達を、4月に彼らがチベットの中共からの分離を画策して爆弾を爆発させ、あるいは爆発させようとしたとして、5月にチベットのマンガム(Mangkam)県で逮捕していたと発表しました。彼らは、ダライラマのプロパガンダに踊らされた、というのです(
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2008/06/05/AR2008060501005_pf.html
。6月6日アクセス)。
 中共当局が、四川省での大震災の混乱の渦中にあったにもかかわらず、(いや、四川省はチベット隣接区域であって、チベット族も山地に多数居住しているから当然(?))チベット情勢、就中チベット仏教僧の動向に神経をとがらせていることがよく分かります。

 中共当局は、どうしてこれほど神経をとがらせるのでしょうか。
 四川省での大震災で倒壊した校舎の一つに敷地内に簡単な祭壇が設けられて、(無限ループ)テープレコーダーでお経が流れ、線香がたむけられ、蝋燭がともされ、亡くなった生徒達の遺影が多数掲げられている、と報じられています(
http://www.latimes.com/news/nationworld/world/la-fg-school24-2008may24,0,7142544,print.story  
。5月24日アクセス)。
 ここはチベット人居住区ではないのに、「仏教国」日本と見まがうような光景だと思いませんか?
 中共で仏教がここまで復活し、浸透してきている以上、チベット人のみならず、中共の仏教徒一般、更には仏教に惹かれている広範な中共国民に影響力を持つダライラマが、欧米で大人気を博し、そのダライラマが拡大チベット圏の自治を目指していることに、中共当局がどんな思いでいるのか想像に難くありません。

 (2)ミャンマー

 サイクロンによって大水害に見舞われたミャンマーの被災地では、仏教の僧侶達が被災者救援に積極的に従事しており、人々と僧侶達との結びつきは一層強まってきています。
 昨年9月に、僧侶達は、ミャンマーの一般国民の生活の困窮ぶりを踏まえ、軍政当局に何とかせよと訴えたのに対し、軍政当局は容赦なく弾圧したばかりなのに、またも軍政当局は窮地に立たされているのです。 (以上、
http://www.nytimes.com/2008/05/31/world/asia/31myanmar.html?ref=world&pagewanted=print 
(5月31日アクセス)による。)

4 終わりに代えて

 以上見てきたように、仏教は、少なくとも中共とミャンマーで、民主主義独裁体制の体制変革、つまりは自由民主主義化に向けて、かくも大きな役割を果たしているというのに、日本の仏教の僧侶達や仏教に関心を持つ知識人達から、ほとんど声が聞こえてこないのはどうしてなのでしょうか。
 私がショックを受けたのは、ワシントンポストが、次のような記述を含むコラムを掲載したことです。
 「<ダライラマ率いるチベット仏教に対し、>自分達の文化が与えてくれない精神的充足を与えてくれるものとして米国人や欧州人や日本人が仰ぎ見るのだとすれば、経済的に豊かになっただけではあきたらず、精神的な豊かさを探し求めている中共の人々にとって、それはどんなに蠱惑的に映ることだろうか」(
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2008/05/23/AR2008052302451_pf.html
。5月26日アクセス)
 このコラムの筆者は、日本が「仏教国」であることを知らないのです!

 しかし、考えてもみてください。
 生涯に一度は僧侶となることが求められる上座部仏教や、ダライラマ等の生まれ変わり伝説によって支えられているチベット仏教よりも、大乗仏教の流れをくむ日本の仏教、とりわけ私見によれば日本の禅、の方が本来はるかに、(世俗主義的環境において推進されることが望ましいところの)自由民主主義化の前衛としてふさわしいのです。
 皆さん、つい最近まで、日本は仏教思想の世界への普及で中心的役割を果たしていたことをご存じですか?
 最も活躍した一人が鈴木大拙です。
 その一生は次のようなものでした。

 「1870(明治3)・・・現在の金沢市本多町に、加賀藩医鈴木良準と母 増との間の五人兄弟の末っ子として生まれる。・・・1887(明治20)17歳石川県専門学校初等中学科を卒業、飯田小学校と美川小学校の教師を勤める 1891(明治24)21歳東京専門学校に入学、坪内逍遥に英語を学ぶ。円覚寺に参禅した半年後、退学。 1897(明治30)27歳・・・渡米 1905(明治38)35歳ビアトリス(後の夫人)と知り合う 1907(明治40)37歳「大乗仏教概論」を英文で出版し、学会の注目を集める 1909(明治42)39歳帰国して、学習院の英語教授となる。 1921(大正10)51歳大谷大学に招かれる 1930(昭和5)60歳英文『楞伽経の研究』で文学博士に・・・「また、日本学士院会員となり、文化勲章を受章した。1950年より1958年の間は、アメリカに住み、ハワイ大学、エール大学、ハーバード大学、プリンストン大学などで仏教思想に関する講義を行なった。」91歳『教行信證』の英訳草稿が完成 1966(昭和41)96歳永眠。」(
http://www.city.kanazawa.ishikawa.jp/bunho/ijin/sugao/index.htm
。6月6日アクセス)(ただし、「」内は、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E5%A4%A7%E6%8B%99
。6月6日アクセス)による。)

 日本人は、もう少し彼のことを大切に思うべきでしょう。
 しかし、鈴木が亡くなった1966年当時、早くも彼は忘れられた存在になりつつありました。
 「鈴木が没した時、ニュースを読み上げるアナウンサーが原稿に禅と書いてあるのを蝉と読み違えて「蝉の研究で有名な鈴木大拙さんが亡くなりました」と読み上げたことは、当時全国に大きな反響を呼んだ」(ウィキペディア上掲)というのですから。
 現在では完全に忘れられているかもしれませんね。
 グーグルで「鈴木大」までで検索してみたら、「鈴木大地」が候補トップで、「鈴木大拙」は4番目だったくらいですから・・。
 
 私は、現在の日本の仏教の僧侶達や、仏教に関心のある日本の知識人の中から、第二、第三の鈴木大拙が出てくること、そして彼らが東アジアの自由民主主義化の先頭に立つことを夢見ているのですが、この夢が実現することをまだまだ諦めるわけにはいきません。

(完)

太田述正コラム#8252005.8.16

<酷暑旅行記(その4)>

その第二は、第一と関連しますが、大仏殿や大仏の創建時の色調は、当時も現在もグローバル・スタンダードであるところの絢爛豪華な色調(注13)であり、現在の日本人が好む色調とは全く異なるものだった、ということです。

(注13)仏教を生んだインド文明自身極彩色の文明だが、イスラム教同様、偶像とは無縁だった仏教が仏像を持つに至ったのは、ガンダーラ地方で、アレキサンダー大王がもたらしたギリシャ文明の影響を受けてからだ。

    そのギリシャ文明も、実は極彩色の文明だった。

ギリシャ文明の精華であるアテネ・アクロポリスのパルテノン神殿(紀元前5世紀)の破風の彫像群は、完全に色落ちしている現在の姿からは想像もできないが、極彩色に色つけされていた(http://en.wikipedia.org/wiki/Parthenon。8月16日アクセス)。オスマントルコからのギリシャの独立戦争が始まる直前の19世紀初頭に英国にその一部を持ち去られ、現在大英博物館に展示されているパルテノン神殿(大理石製)の破風と彫像群の返還をギリシャ政府は英国政府に求めているが、その理由の一つとして、酸化により薄はちみつ色をしていた表面に極彩色が施されていたいう説が昔からあったにもかかわらず、大英博物館当局がその説を無視して、パルテノン神殿の破風や彫像群を洗浄して「本来の」乳白色の色を取り戻そうとした結果、彩色の痕跡が永久に失われた、という点が挙げられている(http://www.parthenonuk.com/the_case_for_the_return.php。8月16日アクセス)ことは興味深い。

何せ、朱色を基調にした大仏殿の中に金色の大仏が鎮座していたのですから。

このことは、新薬師寺の十二神将のオリジナルの毒々しいまでの彩色(後述)についてもあてはまります。

色調を含めた現在の日本人の簡素・淡色を好む美意識は、世界では稀な存在です。おかげで、顔かたちが日本人とそっくりな朝鮮半島や支那の人々とすれ違っても、派手な色調や派手な模様入りの衣服を身につけているので、日本人との見分けがすぐつきます。

私が強く感じたことの第三は、大仏や大仏殿の建造、そして破壊と再建は、日本の歴史の大きな節目に対応した形で行われてきた、ということです。

大仏や大仏殿を含む東大寺の七堂伽藍の建造は、日本全国の国府等における国分寺と国分尼寺の建設の一環として、日本総国分寺に擬せられた大和国の金鐘山寺(改称され金光明寺、後に東大寺)において741年に始まり、半世紀近く経った789年に至ってようやく一応の完成を見ます。すなわち、大仏や大仏殿を含む東大寺の建造は、この全国にわたる巨大プロジェクトの中核的シンボルとして行われたものであり、律令制の最盛時において日本の国力を傾注して行われた鎮護国家建設の一環であったわけです。

しかし皮肉なことに、この巨大プロジェクトは、そのために労役と重税を課された民衆を疲弊させるとともに国家財政を破綻させ(注14)、723年の三世一身の法や743年の墾田永年私財法によって貴族が保有する土地が増えていったこともあり、土地と民衆を天皇のものとする公地公民制に立脚した律令制を維持することが困難となり、(水銀毒による(?)平城京から平安京への遷都とあいまって、)摂関時代をもたらすことになるのです。

(注14)これは、毎年のナイル氾濫に伴う農閑期に、農民の失業・飢餓対策を兼ねて行われた古代エジプトにおけるピラミッド建設(典拠失念)とは大きく異なるところだ。

その大仏殿等が灰燼に帰すのは、平安末期の源平の争乱の最中の1180年であり、東大寺の再建は翌1181年から鎌倉時代初期の1203年、すなわち鎌倉幕府最盛期にかけて行われます。この間、文治元年(1185年)に行われた大仏開眼法要においては後白河法皇が開眼の筆を執り、建久6年(1195年)に行われた大仏殿の落慶法要には、後鳥羽天皇源頼朝北条政子らが出席しています。

大仏殿等が再び灰燼に帰すのは、戦国時代の最後の年である1567年であり、東大寺の再度の再建には、安土桃山時代(1568年?1600年)から江戸時代初・中期という徳川幕府最盛期にかけての長期間を要し、最終的に五代将軍綱吉らの支援の下、大仏開眼供養が元禄5年(1692)、大仏殿落慶供養が宝永6年(1709)に執り行われています。

(続く)

太田述正コラム#0435(2004.8.8)
<京都・奈良紀行(その2)>

 (コラムの人気投票ですが、http://cgi.mag2.com/cgi-bin/mag2books/vote.cgi?id=0000101909なら直接私のコラムの場所が開きます。まだ投票されていない方は、ぜひ投票を、既に投票された方はお時間の許す限り、二度、三度と更に投票をお願いします。現在21位(得票711票)です。)

 この奈良町の春日大社管理下の森に近い高畑の一角に、志賀直哉が昭和4年(1929年)から9年間住み、「暗夜行路」を完結させた旧宅があります。
 われわれは門前を通り過ぎただけで中には入りませんでしたが、明治維新以降、急速に文明開化が進み、廃仏毀釈等、日本の伝統文化を軽視する動向が見られたことに対する危機意識から、大正の頃から、志賀直哉等の文化人が、伝統を受け継ぐ奈良、その中でも自然に恵まれたこの高畑界隈に居を構えたのだそうです。志賀直哉がいた頃はこの家を、滝井孝作、武者小路実篤、小林秀雄、尾崎一雄、梅原龍三郎、堂本印象らの作家・画家が足繁く訪れたといいます。
 (以上、マイナラサイト前掲、http://www1.sphere.ne.jp/naracity/j/kan_spot_data/w_si38.html、及びhttp://www.narabunka.ac.jp/shiganaoya/hongaku_shiga.htmlによる。)

 (5)新薬師寺
 このお寺は、聖武天皇の病気平癒を祈願して光明皇后が建立したと伝えられています。
 本堂そのものが国宝であるだけでなく、中に祀られている本尊薬師如来(注2)も十二神将(注3)も国宝です。

(注2)「如来」とは仏の別称であり、釈迦如来がその典型。(如来は菩薩を多数従える。「菩薩」とは仏となるべく修行中の者。)「薬師」とはサンスクリット語でバイシャジヤ・グル、今で言えば医師を意味する。薬師如来は東方浄瑠璃世界の教主(阿弥陀如来は西方極楽世界の教主)であり、菩薩であった時代に仏(如来)になった暁には十二の現世利益を衆生に施すという誓いをたてた。その十二の中二つが身体障害の消滅と病気の治癒。(http://butsuzo.cside.com/buddha/html/bnyorai.html
 (注3)薬師十二神将。薬師如来を護衛する。薬師如来の十二の誓いごとに一人の神将がおり、それぞれ7,000名の部隊を率いている。戦う相手は煩悩であり、7,000×12=84,000の煩悩を除くのが使命。また十二神将は十二支に割り当てられ、一日をそれぞれ2時間ずつ担当し無事を守る役割もある。この発想は、薬師如来が両脇に従える日光菩薩と月光菩薩(三者合わせて薬師三尊と呼ぶ)が一日を半分ずつ担当し、薬師如来の手助けをするとの話から派生したと考えられている。(http://www.tctv.ne.jp/tobifudo/butuzo/12sinsho/12god1.html

 興福寺にせよ、新薬師寺にせよ、もともとはそれぞれ個人の病気の平癒を祈ってできたわけで、当時の仏教がいかに個人や一族の現世利益のためのものであったかが分かります。

(5)春日大社
藤原不比等が平城遷都の際、藤原氏の氏神を祀ったのが起こりとされています。前述したように、平安中期以降興福寺との神仏習合時代が長かった神社であり、現在でも毎年1月2日には興福寺貫主社参式が行われます。
中臣氏(藤原氏)が常陸の国の鹿島(現茨城県鹿島郡)の出身であることから、春日大社の主神は鹿島神宮から白い神鹿に乗って飛んでやってきた武甕槌命(たけのみかづちのみこと)で、奈良の鹿はその神鹿の子孫とされており、だから現在、神鹿として奈良公園に鹿が沢山いるのです。
春日大社は伊勢神宮(天皇家ゆかり)、石清水八幡宮(源氏ゆかり)と共に日本の三社とあがめられることになるのですが、それは天皇家、藤原氏、及び源氏が長期にわたって日本で勢威を誇ってきたことの反映なのです。
http://www1.sphere.ne.jp/naracity/j/kan_spot_data/w_si37.html及びhttp://tokyo.cool.ne.jp/nara_hakken/bunkazaijisya/990823kasugataisya.htmによる。)

(続く)

太田述正コラム#0434(2004.8.7)
<京都・奈良紀行(その1)>

 (読者の皆さん、http://cgi.mag2.com/cgi-bin/mag2books/vote.cgi?id=%200000101909を開いて、「太田述正コラム」に投票していただいたでしょうか。現在25位(516票)です。6時間おきに何度でも投票できますので、お時間のある方は二度三度と投票していただければ幸いです。)

1 始めに

 家内の両親と家内・一人息子と一緒に総勢5人で京都・奈良旅行をしてきました。
 私と家内は京都・奈良は何度も行ったことがありますが、戦中派世代の岳父と9歳(31日で10歳)の私の息子は京都・奈良は初めて(岳父は京都を訪れたことはあるが、観光したことはない)です。異常に暑い今年の夏に、よりにもよってどちらも盆地で暑い京都と奈良を訪れたのは、お盆の前なら人が余りいないだろうとの読みからです。
 おかげさまで、岳父がやや足が不自由で、岳父の歩くペースに右ならえせざるを得ず、しかも時々岳父のために車いすを借りて寺院の中を巡ったにもかかわらず、かなり効率的に旅行することができました。

2 奈良

 (1)外京見物
 歴史の古い順に奈良から先に話を始めましょう。
 8月7日に、(近鉄ではなく、)今時はやらないJRで京都から奈良入りしました。
 というのは、京都でも駅ビル内のホテルグランヴィア京都に三連泊したのですが、奈良ではJR奈良駅から1分(空中回廊でつながっている)の三井ガーデンホテル奈良に二連泊の予約を入れてあったからです。
 ホテルで昼食をとってから、観光タクシーを呼び、外京(注1)見物に出発しました。(5人で乗ると、いくら一人は小学生だと言っても、かなり窮屈ですが、観光バスに乗るよりは自由がきき、しかも参観料金分くらい割高になる程度ですみます。しかも、運転手さんが寺院等の中も案内してくれます。)

 (注1)平城京が都であった時代、都の東に信仰のためのエリアとして、外京(外京)が置かれた。そこには、総国分寺東大寺、藤原氏ゆかりの興福寺や春日大社、蘇我氏ゆかりの(学問寺として名高い)元興寺が大伽藍を競っていた。(http://www.mynara.co.jp/0Pix/top-a.html

 (2)猿沢池
 最初に向かったのが猿沢池です。
 この池から興福寺の五重塔を眺めなければ奈良に行ったとは言えません。
 この池には鯉と亀がいるのですが、先月鯉が暑さのため(?)に大量に死んだ(http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040716-00000201-kyodo-soci)ためか、亀しか目につきませんでした。観光客等が勝手に亀を放すので、輸入種も含め、様々な亀がいる(http://mailsrv.nara-edu.ac.jp/~inoue/NNM/kame.html)そうです。

 (3)興福寺
 興福寺はかつての藤原氏の氏寺です。
興福寺の前身は飛鳥、そのまた前身は(現在の京都の)山科にあった寺ですが、その寺は、藤原鎌足が重い病気を患った際に、鎌足夫人が夫の回復を祈願して669年に建立されたと伝えられています。
藤原不比等によって飛鳥にあった寺が平城京に移されてからは、神仏習合思想の下、春日社と一体化し、平安時代には僧兵を擁して勢力をふるうようになります。治承4年(1180)、平家に焼き打ちされますが、直ぐに勢力を取り戻し、鎌倉時代には大和守護職の実権を握り、実質的に大和国一帯を支配していたことがあるといいます。(http://www1.sphere.ne.jp/naracity/j/kan_spot_data/w_si6.html及びhttp://www.naranet.co.jp/cgi-bin/yak-ken-l.asp
ここでは、京都の東寺の五重塔に次いで日本で二番目に高い五重塔(国宝)と国宝館を見学しました。
国宝館の中は国宝が山のようにあります。
八部衆のうち、阿修羅像は余りにも有名ですが、沙羯羅像(さからぞう)の顔が私の息子にそっくりなのにびっくりしました。
八部衆は、インド古来の鬼霊・悪魔・音楽神・鳥獣神など異教の神を集め、仏法守護や諸仏供養の役目を与えたものであり、仏教の「習合」的性格を物語っています。(だから、日本でも神仏習合が自然に起こった。)
 (以上、http://www.kohfukuji.com/kohfukuji/01_index/f_main_d.htmlによる。)

(4)奈良町
蘇我氏の氏寺的な存在であった元興寺は、藤原氏に権力が集中するに従って次第に衰退し、宝徳3年(1451)の大火でほとんどの建物が焼失してしまいます。その跡に職人や商人などが移り住み、庶民の民家が建ち並ぶ、日本で初めての町として誕生したのがこの「奈良町」です(マイナラサイト前掲)。

(続く)

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