カテゴリ: ローマ法王とバチカン

太田述正コラム#5412(2012.4.10)
<日本・法王庁「同盟」(その5)>(2012.7.26公開)

<脚注:第二次世界大戦の勃発を巡る疑問>

 ドイツとソ連のポーランド侵攻を受け、英仏は、ドイツにはただちに宣戦したが、ソ連には宣戦しなかった。
 ポーランドと英仏は同盟関係にあったが、英国に関しては、Polish-British Common Defence Pact(1939年8月25日)には、条約にある「欧州の国(European power)がポーランドを攻撃した場合」の「欧州の国」とはドイツを指すとの秘密協定があったのに対し、フランスに関しては、Franco-Polish Military Alliance(1921年)があったが、文字通り無視されたことになる。
http://en.wikipedia.org/wiki/Soviet_invasion_of_Poland
 どうして、当時、両国がこれほどソ連(赤露)、つまりは共産主義に甘い姿勢をとるに至っていたのか、大戦後の冷戦のことを考えれば、容易に理解しがたいものがある。
 ちなみに、ドイツから、中ソ不可侵条約の秘密議定書に基づき、矢の催促を受けていたにもかかわらず、ソ連がポーランド侵攻をドイツより16日遅れて17日に決行したのは、日本との間のノモンハン事件の停戦がようやく9月16日成立したからに他ならない。
http://en.wikipedia.org/wiki/World_War_II
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%83%B3%E4%BA%8B%E4%BB%B6
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%AC%E3%82%BD%E4%B8%8D%E5%8F%AF%E4%BE%B5%E6%9D%A1%E7%B4%84
 (ついでだが、第二次世界大戦の英語ウィキペディアは、同大戦の前史の中で、張鼓峰事件についてもノモンハン事件についても、日本軍の侵攻が原因で始まり、日本側が敗北した、と断定しており、日本人有志による書き換えを求めたい。)
 1939年11月30日にソ連がフィンランドに侵攻した(冬戦争。〜1940年3月13日)ところ、これをソ連のドイツ側に立っての第二次世界大戦への参戦に等しいと受け止めた英仏が、国際連盟からのソ連の追放に与し、成功した
http://en.wikipedia.org/wiki/World_War_II#War_breaks_out_in_Europe 前掲
ことを考えると、両国が、宣戦はともかくとして、ソ連のポーランド侵攻時に同国の国際連盟からの追放をどうして行おうとしなかったのだろうか。
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ピオ12世は、最初の回勅『スンミ・ポンティフィカトゥス(Summi Pontificatus)』(1939年10月20日)を発表し、ポーランドへの侵攻、同国の占領と分割を非難しました。
 これが、ドイツとソ連両国を非難したものであることは明白です。
 英仏は、この回勅を、(あくまでもドイツに対するものと受け止めたということなのでしょうが、)驚きをもって好意的に受け止めました。
 翌1940年1月18日には、同法王は、ポーランドの一般市民多数が殺害されていることを非難しました。
http://en.wikipedia.org/wiki/Pope_Pius_XII (前掲)
 1941年6月22日に、ドイツはソ連に侵攻しますが、同法王は、敵の敵・・と法王庁はみなしている、と少なくともナチスドイツとファシスト・イタリアは思っていた・・へのこの攻撃については、沈黙を守ります。
http://www.amazon.com/The-Vatican-Communism-During-World/dp/0898705495 
(4月5日アクセス。これ↑は、やや、典拠としての信頼に乏しいが・・。)
 そして、同年、同法王は、ピオ11世界の回勅『ディヴィニ・レデムプトリス(Divini Redemptoris)』がカトリック教徒が共産主義者達を助けることを禁止していたところ、これがソ連に対する軍事援助には適用されないという解釈を打ち出しました。
 これは、米国による軍事物資貸与(Lend Lease)のソ連への拡張に反対してきた米国のカトリック教会の姿勢を緩和するものでした。
http://en.wikipedia.org/wiki/Pope_Pius_XII 前掲
 1943年3月には、法王庁はドイツ外相のリッベントロップに対し、ナチスによるポーランドのカトリック教会に対する迫害に抗議する書簡を送っています。
 そして、1943年4月には、ハンガリー首相のミクロス・カライ(Miklos Kallay)(注11)を引見した同法王は、ナチスは共産主義者達よりはるかに悪質であり、ナチスの勝利は欧州におけるキリスト教の終焉を意味するかもしれない、と語っています。
http://www.amazon.com/The-Vatican-Communism-During-World/dp/0898705495 前掲

 (注11)Dr. Miklos Kallay de Nagykallo。1887〜1967年。ハンガリー首相:1942年3月〜1944年3月。ハンガリーはナチスドイツと同盟関係にあったが、カライ政権は、ユダヤ人迫害等には同調せず、また、共産党を除く左翼政党の活動を認めた。そして、ドイツのソ連に対する戦争の継続は支持しつつも、連合国に対して宥和的メッセージを発し続けた。ついには、ドイツは、ハンガリーを占領し、カライ政権を打倒し、彼は強制収容所送りとなる。戦争末期に米軍によって解放されるが、戦後のソ連の占領を受け、1946年には亡命し、1951年に米国に移り住み、そこで生涯を終えた。
http://en.wikipedia.org/wiki/Mikl%C3%B3s_K%C3%A1llay

 同法王による、このような、ナチスドイツに対する抗議「は第二次世界大戦中の1943年8月19日付け、9月12日発表の、「精神病患者・捕虜・異人種の殺害」に抗議する「第五戒(汝殺スナカレ)の解説」を中心とする共同教書まで続けられた」
http://www.seinan-gu.ac.jp/jura/home04/pdf/3402/3402kawashi.pdf 前掲
のです。

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<脚注:共産主義に対する1937年の回勅以降の非難>

 法王ピオ12世は、ソ連によるフィンランド侵攻に対し、1939年12月26年のヴァチカンでの講話で非難し、後日、フィンランドのために、署名し封緘された祈祷を寄贈している。http://en.wikipedia.org/wiki/Pope_Pius_XII 前掲

 そして、同法王は、大戦後の1949年7月1日に、法王庁の検邪聖省に、共産主義に対する聖省令を発布させている。

 その内容は、あらあら以下のとおり。

一、共産党に党員として加入すること、あるいは、なんらかの方法で、これを助けることは許されるか。→いな。・・・
二、共産主義者の理論あるいは行動を支持する書籍、雑誌、新聞、あるいはリーフレットを刊行し、流布し、読み、あるいは、これに書くことは許されるか。→いな。・・・
三、 一および二に該当する行為を、知りながら自由になす信徒に、秘跡をさずけることができるか。→いな。・・・
四、共産主義者の唯物主義的・反キリスト教的理論を奉じている信徒、とくに、これを防衛し、あるいは宣伝する信徒は、カトリック信仰に対する背教者として・・・破門に処せられるか。→しかり。
http://hvri.gouketu.com/diviniredemptoris.htm
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4 法王庁の日本との「同盟」

 1937年の件の「2つの回勅は、どちらも、欧米の(自由)民主主義諸国では全く反響を呼びませんでした」と前に書きましたが、この2つの回勅が同年3月に発表される「つい一カ月前」(下掲)の2月に、恐らく、日本の有力政治家の誰かが、法王庁の対赤露ないし対ナチスドイツ政策に敬意を表する発言を行っていたと思われるところ、そのことに、法王庁が、共産主義に対する回勅の中でわざわざ言及したことは、興味深いものがあります。

 「・・・極東のキリスト教徒でないある偉大な政治家は、つい一カ月前、教会はその平和とキリスト教的兄弟愛とに関する教義によって、諸国家間の平和の確立ときわめて骨の折れるその維持とに、きわめて貴重な貢献を行なっていると断定してはばからなかった。・・・」
 (『ディヴィニ・レデンプトーリス』より)

 そして、同年7月に日支戦争が始まると、10月に、法王庁は、「全世界のカソリック教会および伝道所に・・・「今回日本の直接の関心は共産党勢力の浸潤駆逐に他ならないから」日本軍の支那における反共聖戦に協力すべしとの趣旨で・・・日本の文明擁護の意図を支那が諒解の必用あることを説き、同時に外蒙よりする凶暴なる影響を駆逐すること。・・・共産主義の危険が存する限り遠慮することなく日本を支援すべきこと。・・・日本軍当局に対しカソリック教会の立場は全然日本との協力にあることを徹底せしめること。」(前出)等を指令したわけです。
 これは、ピオ11世や(将来の)ピオ12世らは、支那等のカトリック組織を通じて、日支戦争が、文明と非文明、自由主義と共産主義との戦いであることを、中国国民党政府が赤露のフロントであるとの認識の下、精確に見抜いていた、ということであり、この時点で、日本と法王庁は、同盟関係、しかも価値を共有する同盟関係、に入ったと言っても過言ではないでしょう。
 とにかく、日本の東アジア政策、就中対支政策は、(横井小楠コンセンサスに則り、)ロシア、改め赤露抑止を目的としたものであることを、真正面から認め、日支戦争において日本の全面的支持を表明したところの、全球的宗派、というより、有力な欧米の主権国家・・カトリック教会・・があった、ということを、我々は決して忘れないようにしようではありませんか。

 (当時のカトリック教会は、共産主義とナチズムの挟撃を受け、実存的危機に直面していたわけですが、そのおかげで(?)、その歴史を通じて最も輝いていた、と言えそうです。
 この実存的危機を乗り越えた後のカトリック教会が、現在、再び、保守反動的・独裁的な存在に成り果てていることは残念でなりません。
 何度も申し上げていることですが、同教会は、主権国家であることを永久に放棄すること等、自ら、抜本的改革に乗り出す必要があります。)

 ところで、不思議なのは、日本と法王庁が国交を樹立するに至るまでに、その後、随分、時間がかかったことです。
 1939年12月には、米国のローズヴェルト政権がイニシアティヴをとって、米国と法王庁が国交を樹立しています。
 (正確には、1870年に、法王が世俗的権力を失った時点で両「国」の国交が断たれていたのが、国交が回復したもの。)
 米国に先を越された日本が法王庁と国交を樹立するのは、太平洋戦争が始まった翌年の1942年3月でした。
 これは、調べていないので断言は控えるべきなのですが、日本の方が、江戸時代のキリシタン(事実上カトリック)禁制の因縁から、法王庁との国交樹立に躊躇していた、という可能性が大いにあると思います。
 いずれにせよ、米英と戦っている日本(、しかも、法王庁の仇敵であるナチスドイツと同盟関係にあった日本)とあえて国交樹立をした法王庁の親日ぶりには瞠目すべきものがあります。(日本のナチスドイツやファシストイタリアとの同盟は、敵の敵との便宜的同盟に過ぎないことを法王庁は良く分かっていた、と言うことでしょうね。)
 興味深いのは、同じ1942年6月に、法王庁が今度は、日本の戦争相手の一つである中国国民党の蒋介石政権と国交樹立をしていることです。
 これは、法王庁が、日本から親日の汪兆銘政権との国交樹立の要請を受けていたために、この時期にずれこまざるをえなかったということなのですが、法王庁としては、日本との国交樹立の米英等に及ぼすインパクトを緩和するために、蒋介石政権との国交樹立を図らなければならなかったということではないでしょうか。
 (以上、事実関係は下掲による。
http://en.wikipedia.org/wiki/Pope_Pius_XII 前掲)

(完)

太田述正コラム#5410(2012.4.9)
<日本・法王庁「同盟」(その4)>(2012.7.25公開)

<脚注:カトリック教会の自由主義への回心>

 共産主義に対して発表された方の回勅の以下のような記述から、果たして、カトリック教会が私の言うように自由主義へ回心したのか、疑問を持つむきもあるかもしれない。

 「・・・教会の感化のもとに、感嘆すべき慈善事業、あらゆる種類の職人と労働者との協同組合が出現した。前世紀の自由主義は、これを嘲笑した。その理由は、中世期の組織だからということであった。ところが、今日、これらの組織は現代人の感嘆するところとなっており、種々の国で、これを復活させようと努力している。<(コーポラティズム礼賛!(太田))>・・・
 諸民族の長たちが、教会の教えとその母心の警告をあなどらなかったならば、社会主義も共産主義も生まれなかったにちがいない。けれども、かれらは、自由主義と俗化主義との土台の上に、他の社会的建物をきずこうと考えた。・・・
 <かかる>自由主義は共産主義の道を開いた<のだ。>・・・
 ・・・社会は人間のためにつくられるのであって、人間が社会のためにつくられているわけではないからである。だからと言って、個人主義的な自由主義が考えているように、社会を個人の利己的な利用に委ねてはならない。むしろ、個人と社会とは、有機的に一致し、相互に協力することによってこそ、この地上に、万人のために、真の幸福をきずくことができるのである。・・・
 道に反する自由主義がわれらをおとしいれた破滅から今日の世界を救う手段は、階級闘争でも、恐喝でも、まして、国家権力の専制的な乱用でもなく、社会正義とキリスト教的愛徳との鼓吹する経済的秩序の回復にある・・・」 (『ディヴィニ・レデンプトーリス』より)

 しかし、この回勅が否定している自由主義には、「前世紀の」、「俗化主義<的な>」、「個人主義的な」、「道に反する」という限定的な修飾語が付いてことに留意すべきだろう。
 人権の不可侵性を認めたカトリック教会は、「今世紀の」「個人主義でも全体主義でもない」「道に適った」自由主義への回心を成し遂げた、と言ってよいのだ。
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 そうして、カトリック教会は、全球的宗派及び主権国家として、以下のように、ナチスに対し、その同教会絶滅政策に抗議するとともに、自由主義を掲げて反撃を行ったのです。

 「・・・教皇回勅「深き憂慮に満たされて」は、<このように、>まずカトリック教会、関係諸団体、学校教育などカトリック教会に直接間接に関わる領域におけるドイツ政府やナチ党による弾圧・迫害の事実を公表し、それに公然と抗議した。次に第三帝国における人種や民族の崇拝、国家や権力者への賛美を偶像崇拝的なものとして拒否し、ナチズムの世界観を根底的に批判していた。この二つの指摘がナチス政府への《申し入れ》という形ではなく、《公開抗議》という形をとったこと、しかもそれが《教書》ではなく《回勅》の朗読という最も高い調子の形態で行われたこと、しかもその回勅がラテン語ではなくて、ドイツ語によって書かれたことは、まさに目の前のナチス国家に対する《公然たる宣戦布告》に等しいものであった。・・・
 ドイツ語原文の回勅は後にも先にもこれ限りである。・・・
 当時すでに、この回勅は「主権を持つ機関がその職務の行使において第三帝国について行った発言の中で最も激烈なもの」である、と評価されていた。・・・
 《申し入れ》や《交渉》だけではナチス当局は動かされない、と判断し、むしろ公然たる抗議によるカトリック民衆へのアピールによって、目に見える形での力をむろん暴力ではなく平和的な意思の力を現実に示さなければならない、そうすることによってのみナチス指導者たちは動かされる・・・。こうした主張を支えたのは、「第三帝国の政治的意思決定の担い手は政府ではなくナチ党である」(シュルテ枢機卿から教皇庁国務長官あて1937年1月16日付け文書)ということ、そしてその究極的目標の一つが「カトリック教会の破壊、まさにキリスト教そのものの根絶」(1938年8月19日付けドイツ司教共同教書)であるということ、そのことの明確な認識であった。・・・」
http://www.seinan-gu.ac.jp/jura/home04/pdf/3402/3402kawashi.pdf 前掲

 すなわち、カトリック教会は、「<同>教会・・・<に対する>ドイツ政府やナチ党による弾圧・迫害」に抗議するとともに、「人種や民族の崇拝、国家や権力者への賛美」について、(教義上の観点からに加え、)自由主義の観点から反撃を行った、ということです。

 このように、カトリック教会がナチスドイツと四つに組んで戦うことができたのは、皮肉なことに、同教会が、共産党やナチ党のプロトタイプ的な独裁的組織であったからこそでした。
 前に引用した下掲は、カトリック教会が、全球的に「正確<で>・・・豊富な情報」収集能力を有していたことを示しています。

 「・・・敵の活動について正確な、しかも十分に豊富な情報を提供し、種々の国々において効果をあげた戦いの方法をかかげ、共産主義者たちが使用して、すでに、誠実な人々さえもその陣営に引きいれることに成功した奸策と欺瞞とを警戒させるために、有益な暗示を与えなければならない。・・・」(『ディヴィニ・レデンプトーリス』より)

 また、下掲から、法王庁の指揮の下、ドイツ内のカトリック教会組織が、隠密にして一糸乱れぬ行動をとったことが見て取れます。

 「・・・カトリックの組織<は>この試練の時にも確固としており、またその戦線の連携(保管者、仲介者、配送者、印刷者)が道徳的にも堅固であって、<ナチスドイツに対する回勅の配布、読み上げに際して、>そこに何の遺漏も、伝達不十分も生じなかった・・・。・・・
 <実際、>完成された回勅のドイツ語原本は教皇庁の印刷所で印刷され、秘密特使の手で3月14日、まずベルリンのプライジング司教に届けられた。そこからさらに回勅はドイツ各地の司教の手元に、やはり特使によって3月16日までに配送された。検閲・摘発を恐れて郵便は利用されなかった。各地の司教座ではそれを大量に印刷させた。説教壇から朗読するだけでなく全カトリック世帯に配布するためである。回勅の内容が余りに長文だったために印刷されたものは冊子となり、ミサの終了後に販売された。・・・」
http://www.seinan-gu.ac.jp/jura/home04/pdf/3402/3402kawashi.pdf 前掲

 しかし、この2つの回勅は、どちらも、欧米の(自由)民主主義諸国では全く反響を呼びませんでした。
 ピオ11世は、これを「沈黙の陰謀(Conspiracy of Silence)」と形容したものです。
http://en.wikipedia.org/wiki/Pope_Pius_XI 前掲

 カトリック教会は、ナチズムに対する非難を、ナチスドイツが崩壊するまで、執拗に継続することになります。(共産主義に対する非難については、後で脚注で取り上げる。)
 1939年3月にピオ12世(Pius XII)(注10)(コラム#3094、4846、4848)が法王に就任します。

 (注10)エウジェニオ・パチェッリ(Eugenio Pacelli)→ピウス12世(1876〜1958年。法王庁国務長官[Cardinal Secretary of State]:1929〜39年。法王:1939〜58年)。ローマ生まれ。「<第二次世界大戦>が始まると、第一次世界大戦時のベネディクト・・・15世のやり方に倣って、バチカンは「不偏」を主張した。しかし、バチカンがナチス党政権下のドイツのユダヤ人迫害に対してはっきりと非難しなかったことは、戦後激しく批判されることになる。・・・<ところが、>[第二次世界大戦勃直後の1939年に、ピオ12世は、(ムッソリーニの1938年の反ユダヤ法で失職していた1人のユダヤ人をヴァチカン図書館職員に採用するとともに、2人のユダヤ人をヴァチカン科学アカデミー会員に任命したし、]<1943年9月に>イタリア敗戦に伴ってドイツ軍がローマを占領すると、多くのユダヤ人がバチカンで匿われ、バチカンの市民権を得ることができ、これによって戦後、イスラエル政府は「諸国民の中の正義の人」賞をピウス12世に贈っている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%A6%E3%82%B912%E4%B8%96_(%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E6%95%99%E7%9A%87)
http://en.wikipedia.org/wiki/Pope_Pius_XII ([]内)

 時あたかも、同年9月1日、ドイツ軍が(、そして続いて9月17日にソ連軍が、)ポーランド領内に侵攻し、ポーランドの同盟国であった英国とフランスが9月3日にドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が始まります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6#1943.E5.B9.B4

(続く)

太田述正コラム#5408(2012.4.8)
<日本・法王庁「同盟」(その3)>(2012.7.24公開)

3 法王庁の反ナチズム

 ここで、銘記すべきは、共産主義(ソ連)を非難した回勅『ディヴィニ・レデンプトーリス(DIVINI REDEMPTORIS)』は1937年3月19日に発表されたところ、同じ月の14日に、ナチズム(ナチスドイツ=第三帝国)を非難した回勅『深き憂慮に満たされて=ミット・ブレネンダー・ゾルゲ(Mit brennender Sorge)』が策定され、21日にドイツの全カトリック教会の説教壇で朗読・発表されていることです。
 つまり、法王庁は、欧州の外延に位置するロシアにおける民主主義独裁と欧州に位置するドイツにおける民主主義独裁の双方に対して、全く同時に、攻撃の火蓋を切ったということです。

 この回勅発表の背景は次の通りです。

 「プロテスタント教会ではナチスに対する態度は賛成、是々非々、拒否と枝分かれしていた・・・
 これに対してドイツのカトリック教会は・・・・・・ナチスの人種的反ユダヤ主義や旧約聖書攻撃<を踏まえ、>・・・全体としてほぼまとまって、抬頭するナチスへの拒否の姿勢を堅持していた。・・・
 <しかし、>フランス革命以来のカトリシズムの伝統の中で培われていた反自由主義、反民主主義、反社会主義、反共和主義の精神風土もあって、ヴァイマル共和国の終焉はドイツ・カトリシズムにとってスムーズに受けいれられた。ついで、これまでのドイツ司教団によるナチス拒否の姿勢を転換させる直接のきっかけとなったのは、ナチス政府による1933年2月1日の親キリスト教的声明であり、また同年3月23日の全権委任法(授権法)採決の数時間前に行われた首相ヒトラーの議会演説であった。
 その中で彼は「両キリスト教宗派にわが民族性保持のための最も重要な要素を見出し、両宗派の権利は侵害されず、国家に対する教会の地位は不変であること」を公約したのであった。
 一国の宰相が公式声明と議会演説とにおいて表明したキリスト教会尊重の公約は、プロテスタント、カトリックの両教会指導者やまじめなキリスト教徒を大いに喜ばせ、安心させ、これまで大なり小なりナチスとヒトラーに対して抱いていた猜疑心を溶解させるのに役立った。こうして1933年3月24日、中央党とバイエルン人民党・・・という二つのカトリック政党・・・もまた、全権委任法案に賛成票を投じることになった。社会民主党の反対に抗して(共産党の全議員は、すでに逮捕され、議会から排除されていた)、同法案はカトリック両政党の賛成票に助けられ、3分の2以上の多数を得て採択された。ナチス独裁の法的基礎はこのようにして与えられ、議会政治は自ら終幕を引いたのである。
 ついでその4日後の3月28日、ついにドイツ司教団は従来のナチス拒否の姿勢を転換する共同教書を発表したのである。・・・
 ヒトラー政権は連立政権として誕生したが、急速に一党独裁の色彩を強めていく。ナチ党以外の諸政党は次々と禁止され、あるいは解散に追いこまれた。・・・バイエルン人民党と中央党もまた、7月4日と5日に相次いで解散した。1870年以来、63年にわたるドイツ・カトリシズムの政界における利益代表は消滅した。ビスマルクの文化闘争<(コラム#5228)>を持ちこたえたカトリック政党は、ナチス政権の下であっけない幕切れを迎えたのである。
 折しも1933年4月、ドイツ政府の側からローマ教皇庁に対して「政教条約」締結交渉が申し入れられた。ドイツ側の全権代表は副首相のフランツ・フォン・パーペンであり、教皇庁側の代表は国務長官エウジェニオ・パチェリ(のち1939〜1958年の教皇<ピウス>12世)であった。中央党とバイエルン人民党の消滅によってドイツにおける利益表出のパイプを失ったヴァチカンはカトリック政党にかわるものを求めなければならなかった。こうして1933年7月20日、ヴァチカンにおいて「政教条約」(Reichskonkordat)が調印されたのである。・・・」
http://www.seinan-gu.ac.jp/jura/home04/pdf/3402/3402kawashi.pdf

 カトリック教会は、かつてプロト欧州文明のイデオロギーたるプロト近代全体主義(=プロト民主主義独裁)の担い手であったわけですが、脱キリスト教(世俗化)運動で基本的にあったところのプロテスタンティズムには反対しつつも共存するに至ったという歴史があります。

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<脚注:コーポラティズム>

 当時、カトリック教会は、コーポラティズム(corporatism)(コラム#1165、3758、3766、4362)を掲げ、中世には存在していなかったところの、ブルジョワ階級と労働者階級を取り込んだ形での中世的秩序の回復を図っていた、というのが私の理解だ。
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 従って、どちらも近代全体主義/民主主義独裁を旨とするところの、無神論たる共産主義、及び、キリスト教以前のアーリア人の諸宗教にシンパシーを示したナチズム、といえども、カトリック教会は、両者に反対しつつも共存することもありえなかったわけではありません。
 実際、カトリック教会は、ドイツのカトリック系2党がヒットラーに全権を与える全権委任法案に賛成票を投じることを黙認したわけです。
 ところが、共産主義は、ボルシェヴィキ革命後、(カトリック教会が存在しないと言ってもよい)ロシアはともかくとして、メキシコ、スペインにおいてカトリック教会絶滅政策をとっていたところ、ナチズムも、以下のように、次第にそのカトリック教会絶滅政策を顕在化させるに至ったのです。

 「・・・政教条約は確かに法律上、カトリック教会とその関連活動の存続を保障していた。しかし現実にはナチスの政府・警察・党による弾圧・迫害・制限措置、妨害行為は衰えるどころか、ますます強化されていった。・・・
 1934年6月・・・ナチスに敵視されていたカトリックの三人の有力な民間指導者が暗殺された。・・・この事件は、起訴や裁判なしに・・・<ナチス>批判者<を>政治権力<が>抹殺<したものであって>、第三帝国が法治国家の仮面をかなぐり捨て、無法国家・テロ国家へ転換したことを示す重大な節目となった。・・・
 ローゼンベルク<(注8)>は、ユダヤ人の書=旧約聖書を継承するキリスト教を攻撃し、北方ゲルマン神話に依拠した北方人種の崇拝とユダヤ人排斥との世界観を展開していた。しかも1934年1月、ローゼンベルクはナチ党の世界観教育全国指導者に任命された。・・・

 (注8)アルフレート・ローゼンベルク(Alfred Rosenberg。1893〜1946年)。ドイツの政治家、思想家。ナチス対外政策全国指導者。先の大戦期には東部占領地域大臣も務めた。ニュルンベルク裁判で死刑判決を受け処刑。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%BC%E3%83%B3%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%AF
 人種論、ユダヤ人迫害、生存圏(Lebensraum)、ヴェルサイユ条約破棄、退廃(degenerate)現代芸術反対、等のナチスのイデオロギーの核心部分の主要作者の一人。その、キリスト教排斥論でも知られる。
http://en.wikipedia.org/wiki/Alfred_Rosenberg
 1934年2月7日付けでローマ教皇庁の教理聖省がローゼンベルクの『20世紀の神話』<(注9)>を《禁書》に指定してしまった 。・・・

 (注9)Der Mythus des zwanzigsten Jahrhunderts(The Myth of the Twentieth Century)。
 「1930年に公刊された・・・ナチス・イデオロギーの根本文献。[百万部以上売れ、]ヒトラーの『我が闘争』に次いで、党員に影響を与えた書物[。ただし、この本を、ヒットラーは読もうとしなかったとされ、読んだゲッペルスとゲーリングはこき下ろしている。]・・・
 ローゼンベルクはアーリア人種が、その道徳への感受性やエネルギッシュな権力への意志によって優れ、他の人種を指導すべき運命にあると論ずる。アーリア人とは北ヨーロッパの白人種[及びベルベル人と古代エジプトの上流階級]を指す。ところが現代の芸術や社会道徳を支配している[ユダヤ人等の]セム系人種の悪影響が広く蔓延し、アーリア人種は堕落しつつある<とし、>アーリア<人たる>ゲルマン人種<の>・・・ユダヤ人に代表されるとする劣等人種との混交の危険性を説き、「人種保護と人種改良と人種衛生とは新しい時代の不可欠の要素である」と断言し<た>。
 [また、イエスはアーリア人であり、アーリア的宗教を興したが、それがパウロの追従者達によって汚染されて成立したのがカトリック教会であったところ、これをルター等のプロテスタントが不十分ながら是正しようとして現在に至っている、と説いた。]」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E5%8D%81%E4%B8%96%E7%B4%80%E3%81%AE%E7%A5%9E%E8%A9%B1
http://en.wikipedia.org/wiki/The_Myth_of_the_Twentieth_Century ([]内)

 ローマ教皇庁は、こうしたドイツ国内の反キリスト教的・反カトリック的措置・行動を政教条約の諸規定とその精神とを侵害する重大な違反行為と判断し、1933年から37年にかけて約50通の外交書簡を発してドイツ政府に対して抗議し、事態の改善を申し入れてきた。・・・
 教皇ピウス11世は次のようにコメントしたという。「ナチズムは、その目標と方法においてボルシェヴィズムと異ならない。私はそれをヒトラーに言うつもりだ。・・・」
http://www.seinan-gu.ac.jp/jura/home04/pdf/3402/3402kawashi.pdf

 この回勅の核心部分は、次の通りです。

 「・・・ここ数年間<、ナチスによって>行われてきた世界観教育なるもの・・・は、はじめから・・・<カトリック>教会<の>・・・根絶闘争以外のいかなる目標も知らない策謀を露呈した。・・・
 神を信じる者とは、神の言葉をことば巧みに操る者ではなく、ただこの高貴な言葉にふさわしい真の神概念を身につけている者だけである。汎神論的なあいまいさの中で神を宇宙と等置し、神を世界の中で世俗化し、世界を神において神格化する者は、神を信じる者の中には入らない。
 いわゆる古代ゲルマン的・前キリスト教的観念に従って、人格的な神のかわりにあいまいな非人格的な運命などというものを押し出す者は、『知の果てから果てまでその力を及ぼし、慈しみ深くすべてを司り』(知恵の書八・一)、すべてを良き結末に導き給う神の知恵と摂理とを否定する者である。そのような者には、神を信じる者の一人であると主張する資格はない。
 人種あるいは民族、国家あるいは国家形態、国家権力の担い手あるいは他の人間的共同体形成の基礎的価値を……偶像崇拝的に神格化する者は、神によって命じられた物事の秩序を倒錯させ、偽造する者である」
http://www.seinan-gu.ac.jp/jura/home04/pdf/3402/3402kawashi.pdf 前掲

 「・・・<上掲の最後のセンテンス>を読んだ者は、この中に盛られた言葉の一つ一つがすべて当時のドイツのアーリア人種(ゲルマン人種)やドイツ民族、第三帝国、全体主義体制、総統ヒトラーなどをまさに意味しており、それらの神格化ないし絶対化が批判されているのだということを、直ちに理解することができたであろう。・・・」
http://www.seinan-gu.ac.jp/jura/home04/pdf/3402/3402kawashi.pdf 前掲
というわけです。

-------------------------------------------------------------------------------
<脚注:ナチスドイツの反法治主義>

 ナチスドイツは、授権法の成立によって議会機能を停止し、政府をして自由に法律を制定、改正させることができるようになったにもかかわらず、なおかつ、法律を無視して以下のようなことを行った。
 「1934年6月・・・ナチスに敵視されていたカトリックの三人の有力な民間指導者が暗殺された。・・・この事件は、起訴や裁判なしに・・・<ナチス>批判者<を>政治権力<が>抹殺<したものであって>、第三帝国が法治国家の仮面をかなぐり捨て、無法国家・テロ国家へ転換したことを示す重大な節目となった。」(前出)
 「警察は、・・・<回勅を印刷した>印刷所<を>・・・当時の刑法で<は>責任を問われないはず<なのに、>・・・厳しく捜索し、回勅の配布に従事した人物を捕えた。・・・また、補償なしに没収<ママ(太田)>された印刷所は全国で12カ所にのぼった。」
http://www.seinan-gu.ac.jp/jura/home04/pdf/3402/3402kawashi.pdf 前掲
 つまり、ナチスドイツは、法治主義を弊履の如く捨て去った、ということだ。
 他方、日本においては、日支戦争中はもとより、先の大戦中も議会機能は維持されたし、法治主義も維持された。
 当時の日独両国は、この点だけとっても、全く異なる。
-------------------------------------------------------------------------------

 この回勅が「・・・注目されるのは<、下掲のくだりの>人権の不可侵性の強調であ<り、>従来、「人権」は、神を排除する人間のエゴイズムの表現として、しばしば歴代の教皇たちによって非難されてきた・・・ところ・・・この回勅は・・おそらくナチスによる壮絶な人権侵害に直面して・・むしろ人権を神によって与えられた不可侵の権利として、はっきり承認し、強調している・・・」
http://www.seinan-gu.ac.jp/jura/home04/pdf/3402/3402kawashi.pdf 前掲
ことです。

 「・・・人間<は>人格として神によって与えられた権利を所有し(der Mensch als Personlichkeit gottgegebene Rechte besitzt)、その権利は共同社会による侵害廃棄あるいは無視をめざす一切の介入から免れ続けなければならない・・・」
http://www.seinan-gu.ac.jp/jura/home04/pdf/3402/3402kawashi.pdf

 すなわち、カトリック教会は、それまでの反自由主義政策を180度改め、自由主義を採用するに至ったわけです。
 私に言わせれば、この瞬間に、カトリック教会は、プロト近代全体主義イデオロギーを捨て去り、自由民主主義陣営と親和性を持つ存在へと大変身を遂げたのです。

(続く)

太田述正コラム#5406(2012.4.7)
<日本・法王庁「同盟」(その2)>(2012.7.23公開)

 この回勅は、この政策はあくまでも共産主義を対象としたものであって、ロシアの人民を対象としたものではない、とを断っています。

 「・・・このように述べたからといって、余が慈父の情を寄せているソヴィエト連邦の諸民族を一括して非難するわけではない。余は、かれらの多くが、しばしば同国の真の利益に無関心な人々によって強制された首かせのもとに呻吟していることを知っているし、他の多くの人々も、まことしやかな希望に欺かれていることを知っている。余が告発するのは体系であり、その作者であり、その扇動者である。・・・」

 このような反共産主義政策の歴史は、実は古いのです。
 この回勅は、この歴史を振り返ります。

 「・・・共産主義に関しては、一八四六年、余の尊敬すべき先任者で聖なる追憶をとどめているピオ九世<(注6)>は、その後『シラブス』<(注6)>によって確認された荘厳な声明によって、これを誤謬と断定し、「共産主義と呼ばれるこの悲しむべき理論は、自然法そのものに、根本から反している。このような理論をひとたび受けいれるならば、あらゆる権利、制度、所有、および人類社会そのものまでも、全く崩壊するにちがいないと述べている。その後、余の先任者で、不朽の追憶をとどめているレオ十三世<(注7)>は、その回勅『クオド・アポストリチ・ムネリス』のなかで、共産主義を「人類の心髄をおかして、これを滅ぼす致命的なペスト」と定義している。・・・

 (注6)Pius IX。1792〜1878年。法王:1846〜78年。「31年7ヶ月という最長の教皇在位記録を持ち、イタリア独立運動の中で、古代以来の教皇領を失い、第1バチカン公会議([1869〜70年])を召集し、[法王無謬性(papal infallibility)教義を策定するとともに、]『誤謬表』《・・社会主義、共産主義、自由主義、信教の自由の否定を含む・・》を発表して近代社会との決別を宣言。・・・『誤謬表』(シラブス《=Syllabus of Errors》)は1864年の回勅《encyclical》『クアンタ・クラ《Quanta Cura》』に付属するかたちで発表された。・・・1848年に入るとイタリアをめぐる情勢はゆれ始める。教皇はイタリア北部をおさえていたオーストリア帝国を支持していたため、これに反感をもっていた民衆によって暴動が起こるようになる。11月24日、ピウス9世は政情不安定のローマを離れて密かにガエタへ逃れた。1849年にはローマ共和国が成立、これを警戒した教皇はフランスに援助を依頼したため、フランス軍がローマに進駐した。翌年教皇はローマに戻った。1858年、ナポレオン3世はイタリアのカヴールと同盟し、オーストリア軍を攻撃。オーストリア軍をイタリアから撤退させた。ここにいたってイタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世は教皇領を要求。これを拒否されると武力で進駐し、1870年、フランス軍の撤退したローマまで押さえた。ここにいたって教皇は自らが「バチカンの囚人」であると宣言し、イタリア政府とバチカンは断交状態に陥った(ローマ問題)。・・・1862年に日本二十六聖人を列聖したのがピウス9世であり、1868年には長崎での信徒発見のニュースに対して喜びをあらわす書簡を発表している。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%A6%E3%82%B99%E4%B8%96_(%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E6%95%99%E7%9A%87)
http://en.wikipedia.org/wiki/Pope_Pius_IX ([]内)
http://en.wikipedia.org/wiki/Syllabus_of_Errors (《》内)
 (注7)Leo XIII。1810〜1903年。法王:1878〜1903年。《1878年12月28日に回勅『クオド・アポストリチ・ムネリス(Quod Apostolici Muneris)』を発表し、社会主義(キリスト教社会主義を指していると考えられている)、共産主義、ニヒリズムを単一のイデオロギーの3つの側面であるとし、批判した。》また、「1864年の『誤謬表』<の悪評を>・・・憂慮し、・・・共和制フランスをはじめて認め・・・労働問題を扱ったはじめての回勅『レールム・ノヴァールム』を発表した・・・。・・・しかし、・・・イタリア王国を認めず、信徒に国政選挙の投票権を放棄するよう求めていた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%AA13%E4%B8%96_(%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E6%95%99%E7%9A%87)
http://en.wikipedia.org/wiki/Quod_Apostolici_Muneris (《》内)
 「レールム・ノヴァールム(・・・Rerum Novarum)とはローマ教皇レオ13世が1891年5月15日に出した回勅の名称である。・・・「新しき事がらについて」を意味し、「資本と労働の権利と義務」という表題がついている。・・・副題に「資本主義の弊害と社会主義の幻想」とあるとおり、「少数の資本家が富の多くを占有する行き過ぎた資本主義によって、労働者をはじめとする一般庶民が搾取や貧困、悲惨な境遇に苦しむあまり無神論的唯物史観を基調とした社会主義(のちの共産主義)への移行を渇望しているが、それで人間的社会が実現するというのは幻想である」として、・・・共産主義<と>[野放図な]資本主義<をどちらも>批判<し>た。・・・いっぽう、それまで大勢を占めてきた「教会は貧しい者には忍耐を、金持ちには慈善を説けばよい」といった考えに対し、・・・労働者の貧困や境遇の改善は(憐れみの対象ではなく)社会正義の問題であるとし、・・・資本と労働の関係や政府と市民の関係について・・・[社会主義の脅威を念頭に、カトリック教会は(それまでは王侯貴族寄りであったのを)ブルジョワ寄りへと舵を切り、トマス・アクィナスを援用して]私有財産制を<自然権として>擁護<することと>しつつ・・・、労働者に<も>労働権を認めて労働組合を結成することを支持し、階級協調を説いた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%8E%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%A0
http://en.wikipedia.org/wiki/Rerum_Novarum ([]内)

 1934年、余が派遣した救援使節がソヴィエト連邦から帰ったとき、余は、全世界に向けて行なった特別な演説において、共産主義に抗議した。余の<諸>回勅・・・において、余は、ロシア、メキシコ、およびスペインにおいて勃発した迫害に対して、厳重な抗議を行なった。・・・」(『ディヴィニ・レデンプトーリス』より)

 さて、この回勅は、以下のように共産主義の戦略を分析して見せています。

 「・・・共産主義の首領たちは、みなが平和を望んでいるのを見ると、世界平和運動のもっとも熱心な推進者、宣伝者をよそおうのである。しかしながら、かれらは、他方においては、流血の惨をひきおこす階級闘争を刺激し、平和の内的保障が欠けているのを感じて、無際限な軍備にたよるのである。また、共産主義のにおいのしないさまざまの名称のもとに、組織や雑誌をおこし、この方法によらないでは接触することのできない環境に、その思想を浸みこませようとしている。その上、かれらは、はっきりしたカトリック団体、宗教団体にまで浸入しようとして謀略をめぐらすのである。たとえば、かれらは、その好悪な原理を少しも放棄していないにかかわらず、かれらのいわゆる人道的領域、愛の領域において、ときには、キリスト教の精神と教会の教義とに完全に合致したことを提案して、カトリックの協力を要請している。その上、もっと信仰があつく、文明のすすんだ諸国においては、共産主義は、もっと穏健な姿をとり、宗教の信奉をさまたげず、良心の自由を尊重すると信じこませるほど、欺瞞をたくましくするのである。・・・
 尊敬すべき兄弟たちよ、信徒が欺かれることのないように留意してほしい。・・・
 国家は、秩序の基礎をことごとくくつがえす無神主義の宣伝が、その領土を荒らすのを全力をあげて防止しなければならない。・・・
 良心の保証が全く欠けている場合、どうして誓約が役に立ち、条約が価値を有しうるであろうか。・・・」(『ディヴィニ・レデンプトーリス』より)

 つまり、共産主義は美しい言葉を掲げ、かつフロント組織を通じて勢力拡大を図り、様々な約束をするけれど、決してだまされてはならない、と注意を喚起しているのです。
 その上で、この回勅は、全世界のカトリック組織に向けて、以下のように呼びかけるのです

 「・・・敵の活動について正確な、しかも十分に豊富な情報を提供し、種々の国々において効果をあげた戦いの方法をかかげ、共産主義者たちが使用して、すでに、誠実な人々さえもその陣営に引きいれることに成功した奸策と欺瞞とを警戒させるために、有益な暗示を与えなければならない。・・・」(『ディヴィニ・レデンプトーリス』より)

(続く)

太田述正コラム#5404(2012.4.6)
<日本・法王庁「同盟」(その1)>(2012.7.22公開)

1 始めに

 読者のべじたんさん提供の資料
http://web.archive.org/web/20080929155608/http://www.nomusan.com/~essay/essay_vatican_20.html
によると、1937年に、法王庁は、下掲のような、いわば、日本との「同盟」宣言とでもいうべき一連の意思表示を行っています。(コラム#5401)

3月:法王ピオ11世(Pius XI)(コラム#3766、4812、4846、5354、5401)、回勅『ディヴィニ・レデンプト<ー>リス 無神的共産主義』を発表して、唯物論的価値観に基づく共産主義への反対を表明。
7月:日支戦争勃発。
8月:同法王、共産主義の侵入を防ぎ(防共)、満州・中国・朝鮮のカトリック信者を保護するために、駐日教皇庁使節パウロ・マレラ大司教を通して国防献金を日本の外務省に贈った。
10月:法王庁、全世界のカソリック教会および伝道所に指令を発出。
 この指令は、「今回日本の直接の関心は共産党勢力の浸潤駆逐に他ならないから」日本軍の支那における反共聖戦に協力すべしとの趣旨で以下の5条からなる。

 1.日支双方の負傷者救助。
 2.日本の文明擁護の意図を支那が諒解の必用あることを説き、同時に外蒙よりする凶暴なる影響を駆逐すること。
 3.支那領土は厖大なるを以て容易に日本の勢力を吸収し得べきを説く。
 4.共産主義の危険が存する限り遠慮することなく日本を支援すべきこと。
 5.日本軍当局に対しカソリック教会の立場は全然日本との協力にあることを徹底せしめること。

2 法王庁の反共産主義

 ピオ(ピウス)11世(注1)は、1922〜39年の法王であり、1929〜39年、バチカン市国初代元首を務めました。

 (注1)「オーストリア帝国のロンバルド=ヴェネト王国デージオで工場経営者を父に生まれたアキッレ・ラッティ・・・(Achille Ratti)・・・は・・・ミラノ大司教を経て教皇に選出された。・・・諸言語に通じ、古代以来のさまざまな神学的著作に精通・・・。・・・バチカンの絵画館、ラジオ局、そしてローマ教皇庁立科学アカデミーら<を>つく<っ>た・・・。<各種>政教条約の締結で<も>知られる。19世紀以来、バチカンはイタリア政府と断絶状態であったが、・・・これを解決すべくムッソリーニと交渉し、1929年2月11日ラテラノ条約<(コラム#3766)>が結ばれた。これはバチカンがイタリア政府を認め、同時にイタリア政府もバチカンを独立国として認めるというものであった。これによって「ローマの囚人」状態が解消され、世界最小の国家バチカン市国が成立した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%A6%E3%82%B911%E4%B8%96_(%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E6%95%99%E7%9A%87)

 この法王が就任したころから、カトリック教会はひどい三つの災厄(Terrible Triangle)に見舞われます。
 メキシコ、スペイン、そしてソ連における迫害です。
 メキシコ(注2)とスペイン(注3)においては、標的はもっぱらカトリック教会であったのに対し、ソ連においては、全てのキリスト教宗派が標的となっていた(注4)ところ、やはり、特に厳しく迫害されたのは、カトリック教会と連携していた東方カトリック教会諸派(Eastern Catholic Churches)(注5)でした。
http://en.wikipedia.org/wiki/Pope_Pius_XI

 (注2)メキシコの最高権力者であったプルタルコ・エリアス・カレス(Plutarco Elias Calles。1877〜1945年)・・大統領:1924〜28年・事実上の最高権力者:1928〜35年・・は、労農勢力を支持母体としており、(メキシコはソ連大使館が設置された世界で最初の国であったところ、)反資本主義的な社会主義政策、就中石油国有化政策を推進するとともに、カトリック教会弾圧を行った。そのため、米国では、メキシコをソヴィエト・メキシコと呼称するに至ったほどだった。
 カトリック教会弾圧は、1926年から始まり、教会は教育への関与や不動産所有権を否定され、神父達は選挙権等人権の多くを剥奪されたが、これに反発したカトリック勢力が叛乱を起こし、これを鎮圧するのに3年を要した。
 この叛乱中に約9万人が死亡し、叛乱終了後も叛乱側の約5,000人が政府によるテロによって殺害され、メキシコの神父は叛乱前の4,500人から334人(1934年)まで激減した。
http://en.wikipedia.org/wiki/Plutarco_El%C3%ADas_Calles
 (注3)「スペイン内戦は、スペイン軍の将軍グループがスペイン第二共和国政府に対してクーデターを起こしたことにより始ま<り、1936年から39年まで続いた。>
 共和国派は新しい反宗教な共産主義体制を支持し、反乱軍側の民族独立主義派は・・・カトリック・キリスト教、全体主義体制<等>を支持し、別れて争った。・・・
 内戦中、政府側の共和国派(レプブリカーノス)の人民戦線軍はソビエト連邦とメキシコの支援を得た一方、反乱軍側である民族独立主義派(ナシオナーレス)の国民戦線軍は隣国ポルトガルの支援だけでなく、イタリアとドイツからも支援を得た。・・・
 カトリック教会を擁護する姿勢をとったことでローマ教会はフランコに好意的な姿勢をみせ、1938年6月にローマ教皇庁が同政権を容認した(実際には、これ以前にもこの後も、フランコ軍は平然と教会に対する砲爆撃を行っている)。・・・
 メキシコは、・・・知識人や技術者を中心に合計約1万人の<旧共和国派の>亡命者を受け入れた」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%B3%E5%86%85%E6%88%A6
 (注4)ボルシェヴィキがロシアの権力を掌握してからの5年間で、ロシア正教の主教(bishop)28人と僧侶1,200人超が殺害され、多数が投獄されたり、亡命を余儀なくされた。
 ソ連が成立してからは、教会の不動産は国有化され、無神論が公式教義となり、宗教は弾圧され、その絶滅が図られた。
 先の大戦中に、ロシア正教に対する弾圧は緩和されたが、その代わり、大主教座([Patriarchate of Moscow and all the Rus'])はKBGのフロントにされ、戦後にはアレクシウス大主教(Patriarch Alexius I 《。1877〜1970年。大主教:1945〜1970年》) のように、自身がKGBのエージェントにされたり、僧侶達が、外国でエージェント獲得や亡命ロシア人達に対するスパイ活動に従事させられたりした。
 また、戦後には、米国との関係が疑われていたところのプロテスタントは、精神病院に送られたり裁判にかけられたり投獄されたり、親権を剥奪されたりした。
http://en.wikipedia.org/wiki/Persecution_of_Christians_in_the_Soviet_Union
http://en.wikipedia.org/wiki/Moscow_Patriarchate ([]内)
http://en.wikipedia.org/wiki/Alexy_I_of_Moscow (《》内)
 (注5)ウクライナ・ギリシャ・カトリック教会(Ukrainian Greek Catholic Church)に対する弾圧は、この教会の活動圏であったガリチア(Galicia)がソ連に併合された1939年時点では起こっていないが、先の大戦後、この教会がウクライナ民族主義と連携を始めると弾圧が開始され、司教達のシベリア送り等が始まった。
http://en.wikipedia.org/wiki/Religion_in_the_Soviet_Union#Ukrainian_Greek_Catholic_Church

 このように、世界各地で共産主義勢力による実存的脅威に直面していた法王庁が、戦間期に反共産主義政策を打ち出したのは、当然のことでした。
 それが、1937年3月に法王ピオ第11世が発出した回勅『ディヴィニ・レデンプトーリス(DIVINI REDEMPTORIS)』(上出)なのです。
 
 同回勅は、次のように記しています。

 「余<(ピオ11世)>の親愛するスペインにおけるように、共産主義のわざわいが、まだその理論のあらゆる結果を感じさせるにいたっていないところにおいても、共産主義は、悲しむべきことであるが、暴虐をほしいままにしたのであった。一、二の教会、どこそこの修道院を破壊したというだけではない。できることなら、キリスト教のすべての教会、すべての修道院、そのすべての形跡をも、たとえ、それが、芸術的に、科学的に、どんな著名な記念物であっても、破壊しようとしたのである。兇暴な共産主義者は、司教たちをはじめ、数千の司祭、修道者、修道女、しかも、他の人々よりも熱心に労働者と貧者のために尽くしていた者も殺したばかりでなく、さらに多数の信徒を、あらゆる階級にわたって殺戮した。これらの信徒は、今日でも、善良なキリスト者であるという一事だけで、あるいは、少なくとも、共産主義の無神諭に反対したという一事だけで、今日もなお、毎日のように、殺戮されている。そして、この恐るべき破壊は、現代では可能とは思われないほどの憎悪、残虐、蛮行によって遂行されたのである。」(法王回勅『ディヴィニ・レデンプトーリス([DIVINI REDEMPTORIS]) 』(1937.3.19)(上出)より)
http://hvri.gouketu.com/diviniredemptoris.htm (べじたんさん提供)
http://blog.goo.ne.jp/thomasonoda/e/74a44f2b222d4288b152b96cdd1048ca ([]内)

(続く)

太田述正コラム#3094(2009.2.13)
<米国・バチカン関係史>(2009.8.24公開)

1 始めに

 米国とバチカン(法王庁)の関係の歴史を扱ったものとしては初めての本(イタリア語から英語に翻訳)が出ました。
 イタリアのコリエレ・デラ・セラ(Corriere della Sera)紙の政治コラムニストのマッシモ・フランコ(Massimo Franco)による 'Parallel Empires: The Vatican and The United States -- Two Centuries of Alliance and Conflict' です。
 この本の書評2本、本が出る前に著者が書いたコラム、そして同じく本が出る前にこの本から引用した記事、に拠って、マッシモが言っていることをご紹介しましょう。

 (以上及び以下は、特に断っていない限り、
http://www.ft.com/cms/s/2/19d8e162-ee5b-11dd-b791-0000779fd2ac.html
(2月8日アクセス)、
http://www.historybookclub.com/ecom/pages/nm/product/productDetail.jsp?skuId=1033284401
http://www.latimes.com/news/opinion/la-oe-franco14apr14,0,3446095,print.story
http://www.worldpoliticsreview.com/Article.aspx?id=3066
(以上2月13日アクセス)による。)

2 マッシモが言っていること

 「・・・1984年1月、米独立宣言からほとんど208年後、米国はついにバチカンと完全な外交関係を樹立した。ソ連や中共でさえ法王庁(Holy See)よりも早くワシントンに大使館を構えていた。・・・
 1860年台には両者の緊張は高まった。法王庁(papacy)は米南北戦争で南部を支援した疑いを持たれたし、エイブラハム・リンカーンの暗殺者の共同謀議者の一人は法王軍にいたことがあった。よって、1868年に両者の関係は断絶した。
 その背景にあった悩ましい問題は、米国における教会と国家の分離であり、かつまた、19世紀末に何百万人もが欧州から米国に移住してくるまで、カトリック教徒は米国の小さな少数派であって、米国のアイデンティティーはプロテスタント起源であったことだ。
 現在では、カトリック教徒は米国の総人口の4分の1にちょっと欠けるくらいに達している。
 しかし、ジョン・F・ケネディが最初の(そして現在までのところ唯一の)カトリック教徒たる米大統領になった1961年時点では、バチカンが彼に影響を及ぼしていると受け止められる危険性について、米国政府は極めて深刻に考えていたことから、法王ヨハネ23世からの単なるお祝いのメッセージすら秘密にされたほどだ。
 1978年にポーランドのカロル・ユゼフ・ヴォイティワ(Karol Jozef Wojtyla<。1920〜2005年>)が法王ヨハネ・パウロ2世に選出され、かつ1981年に反共産主義者のロナルド・レーガンが米大統領になって、すべてが変わった。
 二人ともポーランドの労組である連帯(Solidarity)を維持しようと努力し、中米における左翼の叛乱者達や「解放神学」を信奉する神父達を押さえ込もうとした。・・・
 (以上、ファイナンシャルタイムス上掲による)

 「1788年、バチカンは、新しくつくられた米国という国の最初の大統領になったジョージ・ワシントンに接触した。新世界における司教を指名し、どんどん増えつつあった欧州からの移民達と、もともとそこにいた原住民の人々を獲得しようとしたのだ。
 ワシントンは<関係樹立に>同意したが、米国政府とバチカンの間の緊張関係が既に現れ始めていた。
 そうだとしても、この二つの強力な「帝国」が1984年になるまで完全な外交関係を結べなかったのは驚くほかない。・・・」
 (以上、historybookclub上掲による。)

 「・・・1863年の報告書がある。それは米国への最初の法王の使節であったガエターノ・ベディーニ(Gaetano Bedini)司教によって書かれたものであり、面白い挿話が記されている。
 彼はワシントンのジョージタウンにあったプレゼンテーション教会(Presentation Convent)の礼拝堂でミサを言祝いでいた。
 そこへ一人のプロテスタントの女性が入ってきた。
 何しに来たのか問われると、彼女はあけすけに法王ピオ(Pius)9世の幹部らの頭に角が生えているというのは本当か確かめに来たと答えたというのだ。
 それより1世紀半後の<昨年4月、>一人の法王が国家元首として、かつまた米国の大統領の尊敬されるべき客人としてホワイトハウスに入った。この<現法王>ベネディクト(Benedict)16世の訪問は、歴史的な出来事だった。これは、わずか24年前に行われた米国とバチカンとの完全な外交関係の樹立以来、法王の初めての公式訪問だった。
 それまでホワイトハウスを訪れた法王は、1979年10月6日に訪問したヨハネ・パウロ2世だけだった。しかし、カーター大統領との会談は、非公式なものだったのだ。・・・
 初期の米国で、カトリックの神父達は英語がしゃべれなかったのでラテン語かフランス語で説教を行った。このため、彼らはほとんど人々を改宗させることができなかった。
 米国人の間では、カトリック教は、アイルランド、イタリア、フランス、及びポーランド移民の宗教としてはともかく、真のヤンキーの宗教としてはふさわしくないと思われていた。それどころかそれは、貧乏人の宗教であるとみなされていた。
 バチカンはバチカンで、米国人の間で広く、法王が陰謀家的存在であって米国の自由と独立に脅威を与える存在であると見られている、という事実を認識できていなかった。

 <米・バチカン関係史において重要な年は>第一に1867年だ。
 その時点では、米国はローマの法王領に大使館ではなく「特別代表部(special legation)」しか置いていなかった。その目的は、法王庁が、当時の欧州における急速な社会的・政治的変化に関する「諜報大交易所(emporium)」であったことから、そこで聞き耳をたてたいというものだった。
 しかし、法王庁と在ローマの米国のプロテスタントの居留民達との間の緊張・・後者は自分達の教会をローマ旧城壁の外に移すよう強いられた・・がこの2者の関係を悪化させた。
 この年の2月、米議会はローマ代表部の予算を削除し、両者間の事実上の外交関係は終焉を迎えた。
 しかし、その裏に表にはされていない理由があった。
 法王の国は成立しつつあったイタリアの部隊によって征服されようとしていたのだ。
 そこで米国政府は、バチカンを、滅亡寸前の失敗国家(failed state)であると考えていたわけだ。

 重要な年の第二は1939年だ。
 この年、フランクリン・D・ローズベルト大統領は、彼の私的代表をバチカンに送った。公式にはそれは「人道的使節」だったが、本当のところは米国は、ヒットラーの地中海における同盟国であったファシストのイタリアを間近で観察したかったのだ。
 もう一つのほとんど外からは見えない同盟がローズベルトと当時の新しい法王ピオ12世との間で形成された。
 この二人の関係は、それより3年前に、米国の枢機卿のフランシス・スペルマン(Francis Spellman)によって注意深くお膳立てされたものだ。すなわち、彼は大統領と、この将来法王となるところの人物<(法王庁官房長ウエゲーネ・パチェリ枢機卿(Cardinal Secretary Eugene Pacelli )>とをローズベルトの母親のニューヨークの家で引き合わせたのだ。
 それはホワイトハウスと法王庁との間の反共産主義同盟へと発展し、冷戦期を通じてこの同盟関係は維持されることになる。
 しかし、完全な外交関係の樹立は、延ばされ続ける運命にあった。
 歴代の法王にとっては遺憾至極なことだったが、爾後の歴代米大統領達は法王庁に大使を派遣すればプロテスタントの猛烈な怒りを買うのではないかと恐れたのだ。
 唯一のカトリック教徒たる大統領のジョン・F・ケネディでさえ、バチカンを敬して遠ざけ続けた。・・・

 こうして重要な第三の年である1984年に至る。
 これはレーガンがバチカンに大使を送り、法王使節(nuncio)・・法王庁の大使に相当する・・を受け入れることに同意した年だ。
 それは、「悪の帝国」たるソ連に対する戦いにバチカンが強力かつ霊妙に支援をしてくれたことへの報償だった。
 法王庁は、レーガンと米議会がついに法王に対する宗教的偏見の残滓と感じられたものを拭い去ったことに満足した。・・・」
 (以上、ロサンゼルスタイムス上掲による。)

 「・・・2003年3月の初め、ジョージ・ブッシュ大統領は、法王ヨハネ・パウロ2世の特使に対し、イエスが彼をイラクに侵攻するかどうか決定するにあたってお導き下さっていると語った。
 バチカンの上級外交官のピオ・ラギ(Pio Laghi)枢機卿は、法王からの、米国がイラク攻撃を思いとどまるようにとの土壇場での要請を携えてワシントンにやってきたのだ。・・・
 ブッシュはラギに対し、「イエスはアルコール中毒から私を救ってくださり、」今やイエスは戦争を行うべきかどうかという、より困難な決定をするにあたって自分をお導き下さっていると伝えた。・・・
 ブッシュは聖書から言葉を引用した。彼は自分が聖なるものによって鼓吹されているかのように語り、ふるまった。そしてこの戦争が正義の悪に対するものであると心の底から信じているように見えた。
 「私達は、やっとの思いで戦争の結果どうなるかを語り始めた。私はブッシュに尋ねた。「イラクを占領したらどうなるか分かっておられるのか。混乱だ。シーア派、スンニ派、そしてクルド人の間で戦闘が始まる」と。しかし、当時、ブッシュは民主主義の勝利のことしか頭にはなかった。」
 任務を果たせなかったと思いつつ、枢機卿が去った時、ブッシュはまだ法王の書簡を開けようともしていなかった。
 ローマに戻る前に、ラギ枢機卿は、当時の米安全保障担当補佐官のコンドリーサ・ライスとも激しいやりとりを交わした。彼女は彼に、サダム・フセインという癌の増殖を止める必要性について講義した。
 もっとぞっとすることに、一番友好的ではあったものの、<当時の統合参謀本部議長の>ピーター・ペース海兵隊大将・・たまたまイタリア系米国人だった・・がニコニコしながらラギに、「心配めさるな猊下。我々は速やかにうまくやってのけますから」と保証したのだ。・・・」
 (以上、worldpoliticsreview上掲による。)

3 終わりに

 いかがでしたか。
 米国はやっぱりアングロサクソンの国なのですよ。
 だからこそ、母国イギリス同様、カトリック、すなわち欧州への根深い不信の念があったわけです。

太田述正コラム#1861(2007.7.11)
<敵をまたも増やした法王>(2007.8.19公開)

1 始めに

 どんどん敵を増やしている法王ベネディクト16世がまたまたやってくれました。
 今度はユダヤ人とプロテスタントを怒らせたのです。

2 怒るユダヤ人

 1962〜65年の第2バチカン会議(the Second Vatican Council)でカトリック教会は、ミサにはラテン語を用いてはならず現地語を用いるべきであるとしたのですが、法王は7月6日、現地語を原則としつつも、例外的にラテン語でミサ(Tridentine liturgy)をやっても差し支えない旨決定しました。
 ところが、ラテン語のミサでは、年に一回の聖金曜日ミサ(Good Friday mass。復活祭前の金曜日に行われるミサ)の際、神に向かってユダヤ人の「目からベールをとって・・キリストの真実の光を彼らが自覚できるよう、その盲目状態を終わらせたまえ」という一節を唱えることになっていることから、米国のユダヤ人グループは、この法王の決定はカトリックとユダヤ人との関係に対する打撃であると批判し、イタリアのユダヤ教ラビ協会会長は、これでカトリックとの関係は大幅に後退したと嘆きました(ここだけはガーディアン後掲によった)。

 法王の上記決定には、伝統を復活させるとともに、ラテン語ミサの廃止等の第2バチカン会議での諸改革に反対して1988年に法王庁から破門されたフランスのカトリック分派を救うねらいがあります。
 しかし法王は、昨年ポーランドのアウシュビッツ収容所跡を訪問した時、反ユダヤ主義やナチスがユダヤ人を何百万人も殺したこと、あるいはドイツ人がこれらについて集団的責任を負っていることに全く言及しなかったことでユダヤ人の顰蹙を買ったばかりだというのに、またまたユダヤ人を怒らせてしまったようです。
 (以上、
http://observer.guardian.co.uk/world/story/0,,2121325,00.html  
(7月8日アクセス)による。)

3 怒るプロテスタント

 上記決定から4日後の7月10日、法王は今度は、プロテスタントは信徒団体(ecclesial communities)ではあっても宗教団体(communion)とは言えないという見解を打ち出しました。
 これは、法王が法王庁の教義担当であった枢機卿時代の2000年に打ち出した、(第2バチカン会議で打ち出された考え方の解釈を明確にしたところの)プロテスタントの教会は、本来の意味の教会とは言えない、とする見解を再確認したものに過ぎない、という触れ込みです。 
 この見解表明に対し、ドイツのプロテスタント諸派の連合会の代表は遺憾の意を表明しましたし、イタリアの同様の会の代表は、カトリック教会とキリスト教の他派との関係を後退させるものであると批判しましたし、フランスの同様の会の代表は、影響は避けられないと警告しました。
 ちなみに英国教会は、7年前の法王庁の教義担当の見解に対しては強く批判したものの、今回の法王の見解に対しては、慎重な対応を見せています。
 (以上、
http://www.guardian.co.uk/pope/story/0,,2123195,00.html  
(7月11日アクセス)による。)

4 感想

 私としては、カトリック教会の権威失墜に多大の貢献をしている(?)現法王に、引き続き声援を送りたいと思います。
 カトリック教会の長である法王は、同時にバチカン市国という国家の元首でもあります。
 すなわち、カトリック教会は、全世界に教会を展開する信徒数世界一のメガ宗教団体であるとともに、世界のほとんどの国に大使館を設置している国家でもあるのであって、まさに政教一致のアナクロ的存在です。
 こんな存在が21世紀の現在なお存続を許されているのはいかがなものでしょうか。
 カトリック教会は、純粋な宗教団体へと純化、脱皮すべきであり、それを促すのは日本の重要な役割の一つであると信じている私にとって、現法王はまさに逆説的な期待の星なのです。

太田述正コラム#1780(2007.5.25)
<法王またもや失言>(2007.7.8公開)

1 始めに

 就任以来、失言を繰り返してきた法王ベネディクト16世(Joseph Alois Ratzinger。1927年〜。コラム#701参照。イスラム教を「侮辱」した失言と弁明については、コラム#1409〜1411、1415参照)がまたもや失言をやらかしました。この失言について、例によって法王は弁明する羽目になりました。今回は、このことをご説明しましょう。

2 法王の失言

 ブラジル訪問時の5月13日に、法王は、15世紀の欧州の冒険家達の新大陸への到着について、それが「信仰と原住民」の「出会い」であったと語りました。
 そして、「イエスと福音の顕現は、コロンブス以前の諸文化の疎外を伴うものではなかったし、外国文化の押しつけでもなかった。」とし、新大陸の人々は、それまで自覚しないまま、キリストを「静かに希っていた」のであって、「彼らの諸文化を豊かにし、純化する」ためにやってきた「精霊を喜々として受け容れた」と語ったのです。

 しかし、私自身、以前(コラム#148で)、「新大陸への・・キリスト教(カトリック)・・布教経費はスペイン王室が負担・・し・・たし、原住民のカトリックへの改宗は、しばしば死を伴う暴力によって強制され・・た・・。やがて異端審問所も新大陸に設置されるに至<る>・・。布教者サイドが富を集積することもめずらしくなく、イエズス会などは、一時期、新大陸における最大の地主になったほど<だ>・・。」と申し上げたところです。
 この際、付言しておきましょう。
 1455年の法王布告(papal decree)では、ポルトガルが、アフリカ沿岸の「サラセン人等の異教徒達を侵略し、探しだし、捕獲し、征服し、服属させ、」その上で奴隷にし、財産を奪うことを認めました。
 また、コロンブスが新大陸への旅から帰った1493年に、法王アレクサンドル(Alexander)6世は、三つの布告を発出しています。
 第一の布告は、原住民がいることが分かっていたというのに、「他の者によって発見されなかったがゆえに」、コロンブスが発見した土地をスペインが領土にすることを認めたものです。
 第二の布告は、スペインが、将来発見するであろうすべての土地を、それが以前キリスト教徒によって所有されたことがない限り。領土にすることを認めたものです。
 第三の布告(Inter caetera II)は、北極から南極まで線をひき、全世界でそれより西側で発見された全ての土地を、キリスト教の普及に資するとの観点から、スペインが領土にすることを認めたものです。
 このような歴史があるだけに、冒頭の法王発言は、厳しい批判を招きました(注1)。

 (注1)5月9日、ブラジルに向かう機中で、早くも法王は失言に近い発言を行っている。彼は、妊娠中絶を認めるカトリックの政治家を破門したメキシコの司教達に同意すると述べたのだ。大騒ぎになり、翌日、法王の側近が、法王はあくまでカトリック教会法の一般論を述べたに過ぎないと弁明した。

 ペルーの原住民団体連合会は、「いわゆる伝道(evangelization)は暴力的に行われ、カトリック以外の宗派は迫害され残酷に弾圧された」ことを法王は知るべきだ、と記した公開書簡を法王に送りました。
 また、エクアドルの原住民団体の代表は、「当時のカトリック教会の代表者達は、一部の栄誉ある例外を除き、人間の歴史の中で最もおぞましいジェノサイドの一つの共犯者であり、欺瞞者であり受益者であった」と語りました。

 ベネズエラのチャベス大統領(コラム#732、733)は、法王に謝罪を求めました。
 「武器と血でもって来訪した以上、伝道が強制されたものではなかったとどうして法王は言えるのだ。・・この地の原住民の殉教者達の骨はいまだに燃え続けている」と。
 チャベスの怒りに油を注いでだのは、法王が、やはりブラジル訪問時に、事実上チャベスを批判する発言を行ったからだと考えられています。そのチャベスは、カトリック教会を批判し、イエスは「史上最も偉大な社会主義者だった」と言った人物です。
 チャベスの盟友であるボリビア大統領のモラレス(Evo Morales)は、ボリビア最初の原住民出身の大統領ですが、カトリック教会は、「祈るのか政治に関与するのか」決めるべき時期に来ている、と語りました。
 このボリビアの副大統領であるガルシア=リネラ(Alvaro Garcia Linera)は、前法王ヨハネ・パウロ(John Paul)2世は、1992年の南米訪問時に、原住民の代表者達と面会し、原住民と(アフリカ出身で拉致されて新大陸に連れてこられた)奴隷をカトリックに改宗させるにあたって過ちがなされたことを認めたというのに、現法王にも困ったものだと語りました。

3 法王の弁明

 上記発言について沈黙を保っていた法王は、10日も経った5月23日になってようやく、ローマでのイタリア語での説教の中で、めずらしくも盛んに英語を交えつつ、以下のように弁明しました。

 「植民者達によってその基本的人権が蹂躙されたところの、原住民が被った苦難と不正義を忘れることはできない。・・栄光の過去の記憶があるからといって、ラテンアメリカ大陸伝道の営みに伴う陰の部分を無視することはできない。だからといって、これらの罪を認識するからといって、宣教師達によって成し遂げられた善が傷つけられるわけではない。すなわち、このことに言及することは、数世紀にわたって人々の間に神の恩沢によって成就した様々な素晴らしいことを喜び、認めることを妨げるものではないのだ」と。

 法王は、弁明はしたけれど、決して謝罪はしていないことにご注意下さい。

 この弁明に対し、ブラジルのアマゾン地区の原住民団体連合会の代表者は、「われわれの文化的遺産を劣ったものとみなすのは傲慢で無礼である」と非難しました。
 また、ブラジルの高名な歴史家のアレンカストロ(Luiz Felipe de Alencastro)は、「植民地化の過程は、アメリカ大陸の文化の破壊だった。・・欧州の君主制の権威主義的にして専制的な要素を体現した宗教に宣教師達は奉仕していたのだ」と吐き捨てました。

4 コメント

 カトリック教会は、古代ローマ文明と欧州文明をつなぐ(私の言うところの)プロト欧州文明の担い手(トレーガー)であり(注2)、本来とっくの昔に歴史の表舞台から退場していてしかるべきところ、いまだに世界にわたって、有力な宗教的・政治的アクターの一つとして「活躍」している化け物です。

 (注2)ローマの王政時代の紀元前600年前後にスブリカス橋(Pons Sublicus)がローマのティベル河に架けられたが、法王のローマ司教としての正式呼称であるpontifex maximusは、この「橋の建設主任」という意味だ。(
http://library.thinkquest.org/26602/monarchy.htm
。5月3日アクセス)

 カトリック教会が今日まで生き残れたのは、あえて申し上げれば、常に権力者の側に立ってその民衆支配を正当化し、権力者の力と富のお裾分けにあずかってきたからです。
 ラテンアメリカについて申し上げれば、その植民地化の時がまさにそうであったことは上述したところですが、現在においても、この地域で盛んな解放神学(Liberation Theology)・・弱者の側に立ったカトリシズム・・をカトリック教会は敵視してきました。
 そして、その先頭に立ってきたのが、枢機卿時代以来の「理論家」たる現法王なのです。
 このままでは、法王はカトリック教会の衰亡をもたらしかねず、私に言わせればそれは大いに結構なことなのですが、残念ながら。既に80歳の法王に残された時間は余りありません。
 私の期待は、ここでも裏切られそうです。
 
 (以上、特に断っていない限り、事実関係は、
http://www.latimes.com/news/nationworld/world/la-fg-pope23may23,1,1758361,print.story?coll=la-headlines-world&ctrack=2&cset=true
(5月24日アクセス)、
http://www.time.com/time/printout/0,8816,1625275,00.html
http://www.latimes.com/news/nationworld/world/la-fg-pope24may24,1,2872475,print.story?coll=la-headlines-world
http://www.latimes.com/news/opinion/la-oe-miller24may24,0,3567983,print.story?coll=la-opinion-rightrail
http://www.nytimes.com/2007/05/24/world/americas/24pope.html?pagewanted=print
http://www.guardian.co.uk/pope/story/0,,2087937,00.html
(いずれも5月25日アクセス)による。)

太田述正コラム#1415(2006.9.21)
<法王の反イスラム発言(続x3)>(有料)(2007.3.5公開)

1 始めに

 イランの最高指導者ハメネイ師(Ayatollah Ali Khamenei)が9月18日に、法王の発言は、「<イスラム世界に対して>十字軍を次々に送り込みつつある陰謀の一環である」と法王を非難した(
http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/5356820.stm
。9月19日アクセス)ので、一体どうなることかと思っていたところ、その翌日の19日、あのアフマディネジャド大統領が、「法王は発言を修正したと考える」と法王の謝罪を評価する発言を行った(
http://www.nytimes.com/2006/09/19/world/europe/20popecnd.html?pagewanted=print
。9月20日アクセス)のでほっとしました。
騒動は収束に向かいつつあるのかも知れません。
 もっとも、これは、法王の講話におけるイスラム批判が「理論的」過ぎて、その批判がいかにひどいものかをイスラム世界の有識者達が十分咀嚼できていないためかもしれません。
 そうなると遺憾ながら、法王がイスラムと理性(理論)は相容れない、と示唆したことが正鵠を射ていることになります。
 いずれにせよ、法王ベネディクト16世がいかにアナクロで狭量で難解な言葉を弄ぶ人物・・言葉を凶器として振り回す狂信者、と言ってもよかろう・・であるか、われわれのような非イスラム世界の住民、とりわけ非一神教世界の住民は、頭にたたき込んでおく必要があると私は思います。

2 法王の問題発言

 (1)同性愛
 同性愛性向があったとしてもそれは罪ではないが、それは多かれ少なかれ内在的道徳的悪徳(intrinsic moral evil)に向かう強い傾向であって、この性向はそれ自体客観的不整序(objective disorder)であると見なければならない。従ってかかる状態の者に対しては、特別な憂慮と聖職者としての気遣いが向けられなければならない。さもないとこれらの者はこの同性愛的行動への傾きに身を委ねることが道徳的に許容される選択肢であると思いこむ可能性がある。しかし決してそう(=それは道徳的に許容される選択肢)ではないのだ。

 (2)仏教
 <仏教とは、>ナルシズム的精神性(Auto-erotic spirituality)<、あるいは、>精神的自慰行為の一種(a form of masturbation for the mind)<にほかならない。>

 (3)女性の神父(ordination of women)
 (7人の自らを神父(priests)と呼んだ女性達を破門したことについて、)かかる処罰が科されたのは正しかっただけでなく必要なことだった。そうしなければ、真の教義を守り、<カトリック>教会の同朋意識(communion)と統一を確保し、信仰篤き者の良心を善導することはできない。

 (4)同性間結婚
 <同性間結婚は、>母と父という自然な二人の親の形をとった家族を危機に陥らせ、多様な形の性別(polymorphous sexuality)という新しいモデルの下で、同性愛と異性愛とを実質的に同等のものにしてしまう。

 (5)ロック・ミュージック
 <ロック・ミュージックは、>反宗教の伝達手段(vehicle)<、あるいは、>罪の贖いを信仰するキリスト教の完全なアンチテーゼ<である。>

 (6)クローン
 <クローンは、>大量破壊兵器より危険な脅威<である。>

 (7)アウシュビッツにおける講話(要約)
 私はドイツに生まれたが、ホロコーストに関しては有罪ではない。ナチズムは犯罪者集団の責任であってドイツの人々は他国の人々同様、彼らの犠牲者だ。ホロコーストの真の犠牲者は<ユダヤ人というより、>神でありキリスト教だった。

3 既出以外の法王の問題行動

 (1)イスラム嫌いのジャーナリストとの交友
 先週亡くなったばかりのイスラム嫌いで悪名高いイタリア人女性ジャーナリストを、法王はしばらく前に私邸に招待して懇談し、顰蹙を買いました。彼女は、「イスラム教徒はネズミのように繁殖する」とか、「イスラム教徒がイタリアを始め欧州でどんどん増えるのに正確に比例してわれわれは自由を失って行く」と発言した人物です。
(2全部及び、3はここまで、
http://www.guardian.co.uk/pope/story/0,,1875791,00.html
(9月19日アクセス)による。)

 (2)宗教観対話への消極性
 イタリアのアッシジ(Assisi)において行われる宗教間対話会議は、前法王が20年前に始めたものですが、昨年、法王はこの会議で重要な役割を果たしてきたアッシジのフランシスコ修道会の僧達の自治権を奪う措置をとりました。
また、前法王は欠かさずこの会議に出席してきたのに、今年のこの会議に法王は欠席し、自分の講話を代読させるにとどめました。
 これらは、宗教間対話そのものに対する法王の消極的姿勢を現すものと取り沙汰されています。(以上、
http://www.nytimes.com/2006/09/20/opinion/20wed3.html?_r=1&oref=slogin&pagewanted=print
(9月21日アクセス)による。)

太田述正コラム#1411(2006.9.18)
<法王の反イスラム発言(続々)>

1 ついに法王が直接「謝罪」

 9月17日、法王ベネディクト16世は、ついに、あの講話について、「イスラム教徒の感情を害すると見なされたところの、私がレーゲンスブルグ大学で行った講話中の数行が、いくつかの国で引き起こした反応について、大変申し訳ないと申し上げたい。(I am deeply sorry for the reactions in some countries to a few passages of my address at the University of Regensburg, which were considered offensive to the sensibility of Muslims.These in fact were a quotation from a Medieval text, which do not in any way express my personal thought.)(関連部分の全文:
http://www.nytimes.com/aponline/world/AP-Pope-Muslims-Text.html?_r=1&oref=slogin&pagewanted=print
。9月18日アクセス(以下同じ))と、ついに直接「謝罪」しました。
 これは、およそ歴代のローマ法王が、自分自身の言動について行った初めての「謝罪」であり(
http://www.nytimes.com/2006/09/17/world/europe/17cnd-pope.html?ei=5094&en=0d4754e0f8567959&hp=&ex=1158552000&partner=homepage&pagewanted=print
)その限りにおいては、評価されるものの、これは、日本で不祥事を起こした人物がよく使う「世間をお騒がせして申し訳ない」という言葉と同工異曲の、不祥事を犯したこと自体は認めていない(
http://www.ft.com/cms/s/0d8cdda2-465e-11db-ac52-0000779e2340.html
)逃げ口上であって、前日の法王庁官房長による声明の範囲を越えるものではなく(
http://www.guardian.co.uk/pope/story/0,,1874914,00.html
)、これで騒ぎが収まるかどうかは疑問です。
 それどころか、法王が、今回の謝罪を含む説教の別の箇所で、今度はユダヤ人(ユダヤ教徒)の神経にさわる引用を行ったことで、改めてその無神経さに呆れる声がユダヤ教関係者からあがっています。
 法王は、どうしてキリスト教は十字架という処刑用具をシンボルにしているのか、という問いかけを行い、よりにもよって、新約聖書のパウロの福音書から「われわれは磔にされたキリスト・・ユダヤ人にとっては醜聞であり(ユダヤ教徒以外の)異教徒にとっては愚行・・について教を説く」(注)という一節を引用したのです。
(以上、http://www.guardian.co.uk/pope/story/0,,1874891,00.html
、及びhttp://www.guardian.co.uk/pope/story/0,,1874914,00.html上掲による。)

 (注)法王が引用した聖書のイタリア語訳の該当箇所からの英語直訳を邦訳したもの。英語訳の聖書では、文章の全体は’We proclaim Christ nailed to the cross; and though this is an offence to Jews and folly to Gentiles, yet to those who are called, Jews and Greeks alike, he is the power and wisdom of God’(first letter to the Corinthians)となっている。

2 イスラム世界のその後の反応

 上記「謝罪」を受け、エジプトのモスレム同朋会からは、評価する声と真の意味での謝罪を求める声が出ています。
 また、トルコの外相は、法王が11月に予定しているトルコ訪問について、「われわれの立場からは、法王訪問の期日を変更する理由はないと考える」と述べましたが、閣僚の一人は法王に真の意味での謝罪を求めました。
 しかし、評価する声もあがったのは、この二カ国だけであり、イランでは聖地コム(Qom)を含む全土で法王を非難するデモが行われ、イラン政府は、モロッコに次いで自国の駐バチカン大使を本国に召還しました。パレスティナのヨルダン川西岸では、更に二つの教会が火をつけられました。
 一番ひどいニュースは、ソマリアの首都モガジシオで、看護士教育のために現地に長期滞在していた65歳のイタリア人のカトリック尼僧が、護衛一人とともに銃撃されて死亡したことです。
 (以上、
http://www.latimes.com/news/nationworld/world/la-091706pope,0,2166489,print.story?coll=la-home-headlines
http://www.guardian.co.uk/pope/story/0,,1874853,00.html
及びhttp://www.guardian.co.uk/pope/story/0,,1874914,00.html前掲による。)

3 変化の兆しが見えるガーディアンの論調

 ガーディアンは、上述したように、また、下掲のコラムのように、なおも法王バッシングを続けています。
 このコラム(
http://www.guardian.co.uk/commentisfree/story/0,,1874786,00.html
)では、問題となっている法王の講話は、十字軍の時に始まったイスラム教への偏見・・キリストを「殺した」ユダヤ人への偏見と分かちがたく結びついている・・に根ざすものであるとし、最初の十字軍の一部部隊はライン渓谷沿いのユダヤ人集落でユダヤ人を虐殺するところから遠征を始め、1099年のエルサレム攻略作戦ではエルサレムのイスラム教徒とユダヤ人を合計3万人も虐殺したこと、それ以来、キリスト教徒はイスラム教徒とユダヤ人を、自分達がそうであって欲しくないと思っていることないしはひょっとして自分達がそうではないかと疑っていることが投影されたイメージで見てきた、と指摘するのです。
 その上でこのコラムは、これは偏見以外のなにものでもないのであって、20世紀に至るまで、イスラム教はキリスト教よりはるかに寛容で平和的な宗教だったのであって、コーランではキリスト教徒やユダヤ人に対し、強制的に改宗させることを禁じており、実際強制改宗は行われなかったこと、ムハンマド逝去後のペルシャとビザンツ帝国の征服は、宗教的というよりは政治的理由から行われたものであること、イスラム世界におけるこのところの過激主義と非寛容主義の出現は、パレスティナ問題、中東における専制国家の跋扈、欧米のいわゆる「ダブルスタンダード」、といったやっかいな政治的諸問題によって触発されたものであることを指摘し、法王の古くさい偏見を厳しく咎めています。
 その一方で、注目されるのは、初めて騒ぎを沈静化させようとする論説(
http://www.guardian.co.uk/commentisfree/story/0,,1874951,00.html
)が出現したことです。
 この論説は、イスラム世界には法王庁と米ブッシュ政権を同一視するむきもあるけれど、法王庁は対イラク戦を始めもろもろのイッシューでブッシュ政権批判を行ってきており、このような見方は誤りであること、法王がキリスト教がイスラム教より優れていると考えるのは立場上当然であること、暴力により改宗を強制することが誤りであることはコーランにも書かれていること、イスラム過激派はイスラム教徒全体の中の少数派にすぎないことは自明であること、等を強調し、イスラム教徒に対して冷静になるよう求めています。

太田述正コラム#1410(2006.9.17)
<法王の反イスラム発言(続)>

1 その後の展開

 前回、米国の主要紙はカトリシズムに甘いと書きましたが、ニューヨークタイムスが9月16日付の社説(
http://www.nytimes.com/2006/09/16/opinion/16sat2.html?_r=1&oref=slogin&pagewanted=print
。9月17日アクセス(以下同じ))で、「世界は、それが誰であれ、法王の言葉には注意深く耳を傾ける。法王が故意に、あるいは過失により人々に痛みを与えることは悲劇であり危険なことだ。法王は、心からの、しかも説得力ある謝罪を行わなければならない。」と記し、法王を非難しました。
 ガーディアンの厳しい論調を見て、あわてて社説を出したのではないか、と勘ぐりたくなりますね。
 また、同日、法王庁のナンバー2である官房長(枢機卿)が、「法王は、彼の講話の特定のくだりがイスラム教信徒の気持ちを害するような響きがあったことについて、それが彼の意図に反するような形で受け止められることは本意ではない、と深甚なる遺憾の意を表された」という声明(全文:
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2006/09/16/AR2006091600231.html
)を発表しました。
 法王が直接声明を発表したわけではないこと、しかも問題のくだりについて、撤回も謝罪もしていないこと、とりわけ法王が皇帝の発言に賛成か反対かを表明していないことに注目しましょう。

2 イスラム世界の反応

 ここで、イスラム世界のこれまでの反応をざっとまとめておきましょう。
 エジプトのモスレム同胞会の幹部は、法王が直接謝罪をすることを求めましたし、カイロのアズハル大学(イスラム教学の最高峰)の総長(sheik)は、法王がイスラムについての無知をさらけ出したと批判しました。
 モロッコは法王の講話に抗議してバチカン駐在大使を本国に召還しましたし、アフガニスタンの議会は法王の謝罪を求める決議を採択し、外務省は法王が謝罪することを求める声明を発表しました。また、パキスタンの議会は法王の謝罪を求める決議を採択しましたし、外務省は駐イスラマバード・バチカン大使に対し、遺憾の意を伝えました。
 11月にはこれまでのローマ法王としての初めてのイスラム国訪問となるトルコ訪問が予定されているところ、そのトルコのエルドガン首相も法王の謝罪を求めています。
 パレスティナでは、パレスティナ当局のハニヤ首相が法王の講話は全イスラム教徒への侮辱だと述べ、ヨルダン川西岸の4つのキリスト教会とガザの1つのキリスト教会が襲撃されました。
 マレーシアのアブドラ首相は、法王が講話の問題のくだりを撤回することを求めました。
 イエーメンの大統領は、法王が謝罪しなければ、バチカンとの外交関係を断絶すると表明しました。
 そしてついにソマリアで、過激なイスラム教リーダーの一人が、法王の殺害を呼びかけました。
(以上、
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2006/09/16/AR2006091600205_pf.htmlhttp://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2006/09/15/AR2006091500800_pf.htmlhttp://www.nytimes.com/2006/09/17/world/europe/17pope.html?ei=5094&en=0d3b79210712df18&hp=&ex=1158465600&partner=homepage&pagewanted=print
による。)

3 その後も続くガーディアンの法王追及

 ガーディアンは、その後も法王追及の手をゆるめようとはしていません。
 ガーディアンは17日付で、新約聖書のマタイ書(10:34-36)に、イエスの「私がやってきたのは平和を届けるためではなく、剣を届けるためだ」という言葉が出てくる(注1)のに、法王がコーランの聖戦への言及だけを問題にすることの滑稽さを指摘し、確かにイスラム教徒はイスラム教を最高の宗教だと思っているけれど、だからといって、キリスト教は理性の宗教である点でイスラム教より優れた宗教だなどという趣旨のことを言うべきではなかった、という論説(
http://observer.guardian.co.uk/comment/story/0,,1874207,00.html
)を掲げました。

 (注1)この、いささかイエスらしからぬ言葉については、文字通りこれをキリスト教徒が戦ってよい正戦があるという趣旨ととらえる見方と、キリスト教徒が迫害を受けるであろうことに注意を喚起したものに過ぎない、ととらえる見方がある(
http://en.wikipedia.org/wiki/But_to_bring_a_sword)。

 また、同じ17日付のもう一つの論説(
http://observer.guardian.co.uk/world/story/0,,1874274,00.html
)では、2001年の9.11同時多発テロの後、当時枢機卿であった現法王が、「イスラムの歴史は暴力的傾向をも含んでいる」と述べたことをとりあげ、イスラム世界を味方につけて共産主義と戦おうとした当時法王であったヨハネ・パウロ16世ならこんなことは口が裂けても言わなかっただろうと指摘し、これは冷戦崩壊後の、対立軸が欧米対共産主義から欧米対過激なイスラム原理主義へと変化した世界情勢を反映しているけれど、果たしてそれでよいのか、と疑問を投げかけます。
 そして、ベネディクト現法王が、実のところ対話(dialogue)路線を放棄して相互主義(reciprocity)路線を追求していることを問題視します。法王は、欧米ではイスラム教が信教の自由を謳歌しているというのに、イスラム世界では、多かれ少なかれキリスト教徒の信教の自由が制約されている現状(注2)を是正しなければならないと考えている、というのです。

 (注2)例えば、サウディアラビアでは、イスラム教以外の宗教を公的に信仰することは認められていないし、多くのイスラム国では、イスラム法がキリスト教徒の権利を制限している。

太田述正コラム#1409(2006.9.16)
<法王の反イスラム発言>(有料)(2007.3.4公開)

1 始めに

 法王ベネディクト16世が出身のドイツに里帰りし、9月12日にかつて自分が神学教授をやっていたババリア地方のレーゲンスブルグ(Regensburg)大学で行った講話(全文:
http://www.guardian.co.uk/pope/story/0,,1873277,00.html
。9月16日アクセス)が反イスラム的であるとして、イスラム世界のあちこちから非難の声がわき上がっています。
 問題になっているのは法王が、1391年にアンカラ近くで行われたとされるところの、ビザンツ皇帝マニュエル2世パレオロガス(Manuel II Paleologus。1350??1425年)とペルシャ人の賢者との間の対話における皇帝の発言、「ムハンマドがもたらしたもので何か新しいものがあるか。彼が説いていた信仰を剣で広めよと命じた、といった邪悪で非人間的なことしか見いだすことはできない。」を引用したくだりです(注1)。

 (注1)参考のため、この箇所を含む講話の関連部分を掲げておく。
・・I read the edition by Professor Theodore Khoury (Munster) of part of the dialogue carried on - perhaps in 1391 in the winter barracks near Ankara - by the erudite Byzantine emperor Manuel II Paleologus and an educated Persian on the subject of Christianity and Islam, and the truth of both. It was presumably the emperor himself who set down this dialogue, during the siege of Constantinople between 1394 and 1402; and this would explain why his arguments are given in greater detail than those of his Persian interlocutor. The dialogue ranges widely over the structures of faith contained in the Bible and in the Qur'an, and deals especially with the image of God and of man, while necessarily returning repeatedly to the relationship between - as they were called - three "Laws" or "rules of life": the Old Testament, the New Testament and the Qur'an. It is not my intention to discuss this question in the present lecture; here I would like to discuss only one point - itself rather marginal to the dialogue as a whole - which, in the context of the issue of "faith and reason", I found interesting and which can serve as the starting-point for my reflections on this issue. In the seventh conversation [text unclear] edited by Professor Khoury, the emperor touches on the theme of the holy war. The emperor must have known that surah 2, 256 reads: "There is no compulsion in religion". According to the experts, this is one of the suras of the early period, when Mohammed was still powerless and under threat. But naturally the emperor also knew the instructions, developed later and recorded in the Qur'an, concerning holy war. Without descending to details, such as the difference in treatment accorded to those who have the "Book" and the "infidels", he addresses his interlocutor with a startling brusqueness on the central question about the relationship between religion and violence in general, saying: "Show me just what Mohammed brought that was new, and there you will find things only evil and inhuman, such as his command to spread by the sword the faith he preached". The emperor, after having expressed himself so forcefully, goes on to explain in detail the reasons why spreading the faith through violence is something unreasonable. Violence is incompatible with the nature of God and the nature of the soul. "God", he says, "is not pleased by blood - and not acting reasonably ... is contrary to God's nature. Faith is born of the soul, not the body. Whoever would lead someone to faith needs the ability to speak well and to reason properly, without violence and threats... To convince a reasonable soul, one does not need a strong arm, or weapons of any kind, or any other means of threatening a person with death...". The decisive statement in this argument against violent conversion is this: not to act in accordance with reason is contrary to God's nature. The editor, Theodore Khoury, observes: For the emperor, as a Byzantine shaped by Greek philosophy, this statement is self-evident. But for Muslim teaching, God is absolutely transcendent. His will is not bound up with any of our categories, even that of rationality. Here Khoury quotes a work of the noted French Islamist R Arnaldez, who points out that Ibn Hazn went so far as to state that God is not bound even by his own word, and that nothing would oblige him to reveal the truth to us. Were it God's will, we would even have to practise idolatry.

 面白いのは、ニューヨークタイムスとワシントンポストが法王を弁護しているのに対し、英国のガーディアンは遠慮容赦なく法王の非難を行っていて、ちょっとした米英対立の図式になっていることです。

2 ニューヨークタイムスとワシントンポストの論調

 ニューヨークタイムスは、法王は他人の言を引用しただけであり、これに同意なのか不同意なのか何も言っていない、とした上で、メルケル独首相の、「法王を批判する人は法王の講話のねらいを誤解している。・・<講話は、>宗教間の対話への誘いであり、法王は対話に対する前向きの姿勢を示された。まさにおっしゃるとおりであって、対話はただちに行われなければならず、必要不可欠だと私も思う。」という、法王擁護の言葉でしめくくる記事を掲載しました(
http://www.nytimes.com/2006/09/15/world/europe/16popecnd.html?ei=5094&en=51af5d51cfbfa03d&hp=&ex=1158379200&partner=homepage&pagewanted=print
。9月16日アクセス(以下同じ))。
 また、ワシントンポストは、法王が、昨年8月にイスラム教の指導者達に対し、「あなた方は、ご自分達の信仰とテロリズムとのいかなる関係も拒否し指弾しなければならない」と語ったと指摘しつつも、今回の講話では、皇帝の見解を支持するのか否定するのか明らかにしなかったとする記事を掲載しました(
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2006/09/15/AR2006091500800_pf.html)。

3 ガーディアンの論調

 これに対しガーディアンは、法王が枢機卿時代から、当時の法王ヨハネ・パウロ2世のイスラムとの対話路線に懐疑的であり、キリスト教が欧州の礎石であるとしてトルコのEUへの加盟に反対の意向を表明し、また法王就任後まずやったことは、イスラム教の権威で法王庁の宗教間対話委員会の委員長であった大司教のエジプトへの(表来向きはカイロに事務局のあるアラブ連盟との調整役を兼ねた)バチカン大使(nuncio)としての左遷であったことを、ある記者に記事の中で指摘(
http://www.guardian.co.uk/commentisfree/story/0,,1873903,00.html
)させた上で、以下のように、上記皇帝の発言は、法王自身の見解であることを暴き、だからこそ問題であると主張します。
 ガーディアンはまず、上記皇帝は幼少のみぎり、オスマントルコの捕虜になっていた経験がある上、オスマントルコによって彼の皇帝としての地位が脅かされ、彼の首都であるコンスタンティノープルが包囲されている時期に問題の対話が行われていることから、皇帝の発言は公平中立的なものではありえず、そんな発言を引用するのはいかがなものか(ガーディアン上掲)、とジャブを繰り出します。
 そして、オックスフォード大学講師による論考
http://www.guardian.co.uk/commentisfree/story/0,,1873758,00.html
を掲載することによってとどめを刺します。
 (その要旨)
 法王の講話は、法王の先輩であるウルバン(Urban)2世がイスラムに対する聖戦を命じたこと、また、現在米国のキリスト教原理主義者が、米国の対イラク戦・対パレスティナ強硬路線・イスラム世界の体制変革、を後押ししていることをふまえれば、イスラム世界の憤激を買って当然だ。
 また、講話が行われたドイツのババリア地方には、トルコからの出稼ぎ労働者が多く、彼らはキリスト教徒による差別に苦しんでいるというのに、現在のトルコのイスタンブールを当時首都にしていたキリスト教徒の皇帝の発言を引用するという無神経さは救いがたい。
 法王が講話で言いたかったことは、理性的であること(rationality)と世俗化とは必ずしも同値ではないのであって、理性を経験的に証明できることがらだけに限定的に行使してはならない、というものであり、このことについては、反対するキリスト教徒は余りいないだろう。
 しかし法王は、講話の中で、イスラムの「神は超絶的存在(absolutely transcendent)」であって、その神は「われわれの常識(categories)、就中理性によってさえ制約されない」と述べている。換言すれば、イスラムには理性(reasoning)がないと述べているわけだ。法王は、イスラムを極めて危険なものと見ていると言ったに等しい。
 法王は、イスラムは理性(reason)を超えたものであると主張する一方で、(やはり講話の中で)理性なしに行動することは神の意志に反することだと主張しているのであるからして、これは、ほとんど、イスラム教は神無き(godless)宗教であると言っているに等しい。
 この講話が、宗教間の対話を呼びかけたような代物では到底ないことは、もはや明らかだろう。

4 コメント

 私が、イスラム教もカトリシズムも、アナクロ度においていい勝負だと考えていることはご承知のことと思います。
 そして、前法王もひどかったけれど、現法王はそれに輪をかけたダメ法王であることが今回のことではっきりしました。
 これまでのところ、イスラム世界からの非難の声は、昨年のデンマークのムハンマド風刺漫画騒動の時ほどの激しさと広がりには達していません。
 しかし、今回のベネディクト16世の講話の反イスラム性は、ムハンマド風刺漫画の比ではありません。私は、今後の成り行きを本当に心配しています。
 それにしても、米国の有力紙のカトリシズムへの甘さには困ったものです。私が、米国ができそこないのアングロサクソンであると力説する気持ちが少しはお分かりいただけたでしょうか。

太田述正コラム#701(2005.4.23)
<新法王評をめぐって> 
 (近隣の国の話を続けて書いていたら、メーリングリスト登録者数が急速に回復して1219名になりました。新記録達成まで後6名です。申し訳ないが、今回は全く別の話題です。今までの経験ではてきめんに登録者数が減るはずです。準グローバルパワーの日本国の国民の皆さん。近隣の国以外の話題にもぜひ関心を持ってください。そして、どうか登録解除しないで踏ん張ってください。)

1 始めに

 ラツィンガー(Joseph Ratzinger。1927年?)枢機卿(注1)がコンクラーベで第265代の法王に選出され、ベネディクト16世(Benedict XVI)となりました。

  • (注1)彼が生まれたのは、ドイツ南部のババリア地方のアルプスを望む小さい町で、国境を挟んだオーストリアのザルツブルグの近郊であり、幼少時からピアノに親しんだという。私事にわたるが、私は小4の1958年の夏、(滞在していたエジプトから)母親とともにザルツブルグに赴き、民家に間借りして一ヶ月間、モーツアルト音楽院(Mozarteum。http://www.moz.ac.at/english/soak/)のピアノ夏季講習を受けた。その折、近郊のドイツの村の日本人妻の家を母親に連れられて訪問したこともある。今でもこの地域の人々の純朴さと親切さが印象に残っている。

 ドイツ出身の法王としては、482年ぶりです。
 この新法王が14歳の時にヒットラー・ユーゲント(Hitler Youth)に入り、16歳の時にドイツ国防軍に入った(注2)ことに関して、英独の新聞の間で時ならぬ論戦が起きています。
 (以上、ベネディクト16世については、http://kotonoha.main.jp/2005/04/20benedictus.html(4月22日アクセス)による。)

  • (注2)当時はヒットラー・ユーゲント入りも国防軍入りも、強制だった。後者(徴兵)を拒否すれば強制収容所入りであり、殺される可能性もあった。

2 新聞の見出しをめぐる英独論争

 英国の三大大衆タブロイド紙のサン(Sun)(http://www.thesun.co.uk/article/0,,2-2005180898,00.html)(注3)・ミラー(Mirror)・メール(Mail)のみならず、高級紙のガーディアンまで(http://www.guardian.co.uk/pope/story/0,12272,1463902,00.html)、「ヒットラー・ユーゲントから法王へ」的な見出しをつけた(注4)ことに、欧州で発行部数一位の大衆タブロイド紙であるドイツのビルド(Bild)紙がかみついたのです。

  • (注3)サンは、これに加えて、新法王を「元・第二次大戦時の敵の兵士」と形容した。
  • (注4)お固いロイター通信社も負けておらず、「ベネディクトの<初>ミサにドイツ人<観衆>の侵略(invasion)は見込まれず」という見出しの記事を配信した。

 ビルド紙は、「英国人、ドイツ人法王を侮辱」という大見出しをつけ、コラムニストによる公開質問状を掲載しました。「サン等の編集部員には悪魔が加わっているに相違ない。腐臭が漂っている。これらの新聞を読んだ人はヒットラーが法王になったかと思うかもしれない。ドイツ人は、たとえ法王でも全員ナチだと言うんだな。白痴どもめ。」という趣旨の激しい公開質問状です。
 (以上、http://blogs.guardian.co.uk/news/archives/world_news/2005/04/21/still_mentioning_the_war.html(4月22日アクセス)による。)
 この種の英独間のさやあてが決してめずらしくないことは、以前の私のコラム(#596)を読んだ方ならお分かりでしょう。
 ですから、これだけのことであれば、英国の各新聞とも、新法王が決してナチス・シンパではなかった、という趣旨のことを記事の中で断っているので、話はおしまいです。
 しかし、なおかつこの新法王に対し、英国の高級紙、そして更に米国の高級紙が、おしなべて厳しい評価をしている、となると見過ごすわけにはいきません。

3 米英プレスによる否定的な新法王評

 米国の方から始めましょう。
 NYタイムスは、新法王は、厭うべきナチス時代を身をもって経験したことから、ナチスのような政治的全体主義(=自由の抑圧を通じての非人道的ドグマの押しつけ)には教会(ecclesiastical)全体主義(=カトリック教会機構内の自由の抑圧を通じてのカトリックの人道的ドグマの墨守)で対抗しなければならないという信念を抱くに至った、と指摘します。
 しかも、(若き日のシュレーダー首相やフィッシャー外相らがリーダーだった)1960年代のドイツ左翼の激しい反政府行動や、その過激派によるテロを目の当たりにして、この信念は一層強固になったというのです。
 そして「全体主義」者たる新法王は枢機卿時代に、(共産主義というもう一つの政治的全体主義を身をもって経験した)前任ヨハネ・パウロ2世の片腕として、中世的・反宗教改革的・反近代的な宗派にカトリック教を回帰させるべく、価値相対主義・カトリック教以外の宗派や宗教も救済をもたらす点で何ら変わりがないという観念・ラテンアメリカの解放神学(liberation theology)・同性愛・女性の神父登用・教会の分権化、等を頑固なまでに排斥してきた、と批判するのです。
 (以上、http://www.nytimes.com/2005/04/20/international/worldspecial2/20profile.html?pagewanted=print&position=(4月21日アクセス)及びhttp://www.nytimes.com/2005/04/21/international/worldspecial2/21germany.html?pagewanted=print&position=(4月22日アクセス)による。)

 次に英国です。
 ガーディアンの論説の新法王評も容赦ないものです。
 この論説はまず、欧州は世界中でもっとも宗教離れ(=世俗化)した地域となったとした上で、新法王が枢機卿として補佐した前法王の時代錯誤的なスタンスによって、欧州のカトリック離れ、すなわち世俗化が一層進展したところ、新法王が前法王同様、カトリック教のドグマの純粋性を守るためには信者が減ってもよいと考えている以上、新法王の下で、欧州のカトリック離れ、すなわち世俗化が更に促進されることは必至だ、と断定します。
 そして、特に問題なのは、イスラム教徒が欧州で増え続けているというのに、新法王のイスラム教嫌いの度合いが尋常ではないことだ、というのです。
 その例証としてこの論説は、昨年の8月、当時枢機卿だった新法王はフィガロ誌のインタビューで、欧州は地理的概念ではなくキリスト教と結びついた文化的概念であるとし、イスラム国トルコは欧州の一員たりえないのであってアラブ世界の側に属する、と述べたこと等を紹介しています。
 (以上、http://www.guardian.co.uk/Columnists/Column/0,5673,1464758,00.html(4月22日アクセス)による。)

4 コメント

 私は、これらアングロサクソンの高級紙の新法王に対する厳しい評価は、私が言うところの、近現代史を貫くアングロサクソン文明と欧州文明とのせめぎあい、の最新の現れである、と考えています。
 つまり、前法王の時から遅まきながらカトリック教会が、欧州文明が生み出したところの民主主義独裁(民主主義的全体主義)の最新形態であるファシズム/共産主義に対抗すべく、欧州文明の原初形態(=プロト欧州文明=カトリック教全体主義文明)への回帰を試み始めたのだが、この前法王を枢機卿として補佐した新法王は、この前法王の路線をより厳格に踏襲することになるだろう、そしてその結果欧州の退廃と混乱は増すだろう、と(ファシズム/共産主義そしてカトリック教がいずれも大嫌いな)アングロサクソンは、冷ややかに、かつ懸念を持って新法王を見ている、ということなのです。

太田述正コラム#688(2005.4.11)
<ヨハネ・パウロ二世の死(その2)> 
 (掲示板にも載せましたが、3月(11日)?4月(10日)のHPへの訪問者数は、残念ながら18493人と、28日間と31日間の差を勘案すると、低かった先月の17670人を更に下回る低い結果に終わってしまいました。しかも、メーリングリスト登録者数も、1195名と、一ヶ月前に比べて、更に9名も減り、1200の大台を割り込んでしまいました。累計訪問者数は、351,837人です。)

3 中間的総括
 
 さて本稿では、最初にヨハネ・パウロ二世が、カトリック教会がこれまで犯してきた罪を次々に陳謝したことを彼の功績として紹介した後、彼が新たに犯した罪を列記しました。
 罪を陳謝する側らで新たな罪を犯すとは、まことに人間的な法王であった、と皮肉の一つも言いたくなりますね。
 しかし果たしてそれは、ヨハネ・パウロ二世という法王も一人の生身の人間であった、というだけのことを示しているのでしょうか。
 恐らくそうではありますまい。
 ヨハネ・パウロ二世の在位が長かったことから、彼の事跡を通じてカトリック教会の本質が明確な形で露呈した、と受け止めるべきではないでしょうか。
 宗教的ドグマを掲げた超国家的な官僚機構が、自ら政治権力として、或いは各地の政治権力と結びつきながら多様な国や民族に属する人々の思想や行動を統制する、という組織経営のしくみをつくり出した希有な宗教団体が、カトリック教会です(注4)。

  • (注4)このカトリック教会が生み出した瓜二つの「異端」が国際共産主義だ。両者は、ア 領土(法王領等v.ソ連等)、イ 経典(旧約・新約聖書v.カール・マルクス全集)、ウ 経典解釈独占官僚機構(カトリック教会v.ソ連共産党)、エ 異端審問(異端審問所v.チェカ(KGB))、オ 目的論的(teleological)史観(千年王国v.共産主義社会)、カ 仇敵(非カトリック勢力v.帝国主義・資本主義勢力)、といった属性を共有している。両者の違いは、片や有神論、片や無神論、という点だけだ。(http://books.guardian.co.uk/review/story/0,12084,1343733,00.html(2004年11月6日アクセス)。ただし、この典拠は、直接カトリック教会に言及してはいない。)
    後で生まれた国際共産主義の方は1991年、ソ連の崩壊の形で既に壊滅したことはご承知の通りだ。

 このような宗教団体も人間の集まりですから、人間の犯す過ちから自由ではありません。問題は、人間の集まり、その中でもカトリック教会のように、ドグマを掲げた巨大な組織が犯す過ち・・罪・・は、そのスケールもとてつもなく大きい、ということです。にもかかわらず、困ったことにそれは、「超国家的」な官僚機構であるがゆえに個々の国家権力がコントロールすることは不可能であり、また「官僚」機構である以上、その機構が内部から民主的にコントロールされることもありえません。
 従って、過ちが正されるのには長い時間がかかるし、場合によってはいつまで経っても正されない過ちも出てくる、ということになります。
 こんなカトリック教会が、法王領(バチカン市国)というミニ領土を持った国家でもあり、国連でオブザーバー資格を持ち、国際場裏で大きな政治的影響力を行使しているのはまことに困ったものです。
 しかも、カトリック教会は、プロテスタント諸派の成立によって欧州及びイギリスで勢力を削がれ、また、領土を殆ど失いつつも、広義の欧州たる中南米において圧倒的な勢力を誇り、米国でも最大の宗教であり続け、アフリカでも信徒の数を増やしつつあり、しめて約10億の信徒を抱える、世界最大の宗教で依然あり続けています(注5)。

  • (注5)もっとも、カトリック教会発祥の地である欧州では、(プロテスタント諸派も含め)世俗化がとどまるところを知らずに進展しており、カトリック教会(ひいてはキリスト教)は欧州では消滅に向かっていると言って良かろう。

 日本は、まず安保理常任理事国入りを果たすべきですが、その上で、カトリック教会の女性問題や人口問題でのスタンスに強く反発している欧米のNGO(注6)等と提携しつつ、法王庁の国家としてのステータスそのものに疑問を投げかけつつ、カトリック教会の国連オブザーバー資格の取り消しを図るべきでしょう(注7)。

  • (注6)事の発端は、コソボ紛争の際にセルビア人兵士に強姦されたアルバニア系難民女性達に事後妊娠予防薬(morning-after pill)を処方することにまで、堕胎に当たるとしてカトリック教会が疑義を表明したことだった。そもそもカトリック教会は、国連の家族計画予算を一般的な開発援助予算に振り返るように促してきた。家族計画諸団体はこれらを問題視し、1999年から、カトリック教会も他の宗教団体同様、国連では単なるNGO扱いをされるべきだと主張し始めた。
    http://news.bbc.co.uk/1/hi/world/europe/341833.stm。4月11日アクセス)
  • (注7)本件に関しては、中共が信教の自由の拡大に同意するのであれば、中共と共闘してもよかろう。米国では、行政府も議会もカトリック教会の国連オブザーバー資格維持に賛成であり(http://www.atheists.org/flash.line/vatican7.htm。4月11日アクセス)、米国とは衝突することになる。

(続く)

太田述正コラム#686(2005.4.10)
<ヨハネ・パウロ二世の死(その1)> 
1 功績

 葬儀が行われたばかりの、史上三番目に長く法王を務めたヨハネ・パウロ二世の功績として最も評価すべきは、カトリック教会がこれまで犯した罪について謝罪を続けたことです。
 謝罪は、一貫してユダヤ人迫害に手を貸してきたこと、十字軍を引き起こしてイスラム教徒や正教徒に惨禍をもたらしたこと、西欧列強による植民地化に関与したこと、スペイン内戦中にフランコの側に立ったこと、先の大戦中のナチスによるユダヤ人ホロコーストを止めようとしなかったこと、同じく先の大戦中にクロアチアのファシスト団体であるウスタシャ(Ustase)が行った正教徒(セルビア人)等に対するカトリックへの強制改宗やジェノサイドを黙認した(注1)こと、ガリレオ(Galileo)に対し異端審問で有罪宣告をしたこと等科学の発展の足を引っ張ったこと、等について行われました。
 (以上、植民地化のくだり(典拠失念)以外はhttp://slate.msn.com/id/2116443/(4月9日アクセス)による。)

  • (注1)ア 第一次世界大戦後ユーゴスラビアができると、法王庁はカトリックのクロアチアとスロベニアの独立運動を支持した。イ カトリックの神父の中には上記「犯行」に直接携わった者もいた。ウ 先の大戦中法王庁は、クロアチアが「独立」を果たしてからというものその首都ザグレブに大使(papal nuncio)を常駐させ続けた。大使もザグレブの大司教も「犯行」を看過ないし黙認した。エ 大戦後、カトリック神父達が中心となってウスタシャ残党の南米への逃避を助けた。これら神父の中にはかつて法王庁で勤務した者も少なくなかった。オ ウスタシャがセルビア人やユダヤ人から没収したカネが法王庁に納められているという疑惑が消えていない。(http://en.wikipedia.org/wiki/Ustashe#Victims。4月10日アクセス)

 彼の死去がもたらした功績も挙げておきましょう。
 葬儀に列席したイスラエルのカツァフ(Moshe Katsav)大統領は、法的には戦争状態にあるシリアのアサド大統領と二度にわたって握手を交わし(二番目の握手はアサド側から)、仇敵関係にあるイランのハタミ(Mohammad Khatami)大統領とは、(ハタミ側から)握手を交わした上で、二人の共通の生誕地であるイラン中央部の町(Yazd)についてペルシャ語で会話を交わしました。また、外交関係のないアフガニスタンのブーテフリカ(Abdelaziz Bouteflika)大統領とも握手をしました。
 このことについて、カツァフ氏自身は儀礼的なものだとしていますが、シリアは公式に(対イスラエル政策を変更したわけではないが)事実と認め、一方のイランは公式には全面否定していることから見ても、政治的にプラスの意義があったことは否定できません。
 死せる法王、中東の元首らを走らす、といったところでしょうか。
 (以上事実関係は、http://news.bbc.co.uk/2/hi/middle_east/4425487.stm(4月9日アクセス)による。)

2 犯した罪

 以前(コラム#172で)、ヨハネ・パウロ二世が犯した罪を四つ挙げたことがあります。
 第一に、コンドーム着用すら禁止することで、発展途上国におけるエイズの蔓延と人口爆発を招来したことです。
 第二に、聖職者に対する性の禁忌の墨守による神父の児童虐待の頻発です。
 第三に、法王庁が国家でもあることから、台湾問題等に関与せざるを得ない(注2)というアナクロニズムを放置してきたことです。

  • (注2)中共がカトリック教会を含めたすべての宗教を弾圧したため、法王庁は1951年に中共と関係を絶ち、他方台湾には大使を派遣してきた。中共は1976年にようやくカトリック信仰を認めたが、現在支那では政府が承認したカトリック教会(信徒500万人)と(法王庁に忠実な)非公認のカトリック教会(信徒推定800万人)が並存している。中共は法王庁との関係修復の条件として、台湾との断交と(ベトナムすら認めているところの)神父叙任権の放棄を求めている。
    今次葬儀に中共政府からは誰も出席しなかったが、台湾の陳水扁総統はイタリア政府の承認を得て出席した。台湾の総統の欧州訪問は史上初めて。(http://news.bbc.co.uk/2/hi/asia-pacific/4423845.stm。4月9日アクセス)

 第四に、奇跡の実在なる虚構を前提にした「聖人」認定の存続とその乱発です(注3)。

  • (注3)この「罪」や、マリア信仰という偶像崇拝的・非キリスト教的傾向を擁護・奨励した(スレート上掲)、という「罪」ともなると一層そうだが、信教の自由の一環として批判は慎まなければならないのかもしれない。
    とまれ、ヨハネ・パウロ二世が、ウスタシャやフランコに協力したカトリック聖職者の聖人化に向けての措置をとったこと(スレート上掲)は、上記謝罪のうちのいくつかをフイにする愚行だった。

 この際、
 第五に、米国主導による2001年のアフガニスタン戦争や2003年のイラク戦争はもとより、コソボ紛争への1999年のNATO軍の介入や国連が認めた1991年の湾岸戦争にも反対し、コソボにおける民族浄化やタリバン政権による圧政やテロ荷担、更にはフセイン政権による侵略や圧政を黙認する側に立ったこと、を更に付け加えておきましょう(アフガニスタン及びコソボのくだり(典拠失念)を除きスレート上掲)。

(続く)

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