カテゴリ: ユダヤ教

太田述正コラム#5854(2012.11.19)
<ユダヤ人はなぜ優秀なのか(その2)>(2013.3.6公開)

 ユダヤ人の全球的人口は、70年から650年までの間に、少なくとも500万人からわずか100万人まで縮小した。
 征服された人々、鎮圧された叛乱、そして故郷の喪失、は人口圧縮をもたらすけれど、・・・<これら>戦争に関連する虐殺や人口の一般的減少による人口減少は、この人口喪失の約半分を説明するだけだ。
 ・・・残りの200万人は、一体どこに行ったのだろうか。
 ・・・何世代かにわたって、彼らは単にユダヤ人であることを止めたのだ。
 ユダヤ人のアイデンティティが、今や、パリサイ派のタルムードのラビ達によって直接的に識字率に結び付けられた結果、ユダヤ人として子供を育てるにはユダヤ的教育への相当程度の投資が求められるようになった。
 この投資を正当化できるためには、当人がとりわけ熱心なユダヤ教徒であるか、識字が有利となる商人、匠、金貸しのような職業を自分の子供達に見つけることを期待する者か、それともその両方であるか、の必要があった。
 それほど熱心でもなく、また、ユダヤ的教育から自分の子供達が経済的便益を抽き出すのを見る期待が殆んどできない者にとっては、ユダヤ人コミュニティを去る選択肢の方が、文盲たる大衆として<ユダヤ人コミュニティに>残る選択肢より心そそるものがあった、と経済<史>学者達は主張する。
 生き残ったユダヤ人の3分の2はこの道を辿った、と彼らは主張する。・・・
 ユダヤ人達は、その商人たることの重視こそを理由にしてしばしば差別された。
 例えば、繰り返し金貸しの職業を諦めるよう言われた後についにやってきたところの、1290年におけるイギリスからの彼らの追放<(コラム#380、4572)がそうだ。・・・
 ・・・今日<においては>、文盲のユダヤ人であっても、彼らの1,500年前のご先祖様とは違って、少なくとも若干のユダヤ的アイデンティティ感覚を保持することができるようになった。
 <また、>米国のユダヤ人達の過半は、今日では、パリサイ派のラビ達が重視したシナゴーグの会員にはなっていないけれど、79%が、ユダヤ人であることを「極めて積極的」に感じていると報告している。
 部分的には、これは、米国独特のユダヤ人に対する寛容性が、ある者が、ユダヤ教への強い結びつきを持っていない場合でさえもユダヤ人たる少数派としてのアイデンティティを維持することの経済的不利を除去しているからだ・・・。
 同時に、今日における<シナゴーグの>非会員たるユダヤ人は、ユダヤ人学校に通っている者に比べて相対的な経済的不利にもはや直面することがない。
 米国一般における識字率の高さ志向、そして同じ志向が世界のあらゆる地域で見られるようになったことが、おおむねユダヤ人だけであったところの、識字率の高さがもたらした職業的諸機会と同様のものへと<ユダヤ人以外の人々を>導いてきた。
 ・・・今や、ほとんど全ての人が文盲ではなくなったがゆえに、ほとんど全ての人がユダヤ人になったのだ。

3 終わりに

 ずっと以前に、コラム#538で「「人種」のIQを、データの得られている範囲で高い方から並べると、欧米のユダヤ人、東アジア人(中国人・日本人・朝鮮人)、欧米の白人=イスラエル人、アラブ人(エジプト人)=米国の黒人、アフリカの黒人の順となる。厳しい環境(寒冷な気候や迫害)・移住(やる気。奴隷としての移住は逆。・・・)・漢字の習得・IQの高い「人種」との混血・高い生活水準、が高いIQをもたらすと考えられている。」と記したところです。
 今や、世界中の人々がユダヤ人化した、と言われてみれば、確かにそうです。
 そのことは、世界中の人々のIQが上昇してきた(注6)ことが裏付けています。

 (注6)「世界的に、どの人種であっても時代とともに平均数値が著しく向上する傾向が<見られ>る。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A5%E8%83%BD%E6%8C%87%E6%95%B0

 しかし、ユダヤ人が依然として、相対的に最高のIQを維持していることは驚異です。
 (イスラエル人のIQが月並みなのは、恐らく、同国には相当アラブ人もいるからでしょう。)
 IQが高い以上、今でもユダヤ人が高学歴で、所得も高いことは当然です。
 ただし、人口当たりのノーベル賞受賞者の多さ、すなわち独創性のある人が多いこと、には別の要素もあるように思われます。
 というのも、きちんと計算したわけではありませんが、ユダヤ人に比べてIQの高い東アジア人は(日本人を入れても)ノーベル賞受賞者は、相対的にIQの低い白人よりも人口当たりで、はるかに少ないからです。
 東アジア人の大部分を占める支那人の大方が非自由民主主義体制の下にあることがその原因として大きそうですが、抑圧的な政治体制が独創性を抑圧するとすれば、文明によっても独創性が左右されそうな感じがします。
 私の仮説は、現在生きている文明の中では、選民思想を核とするユダヤ文明、及び、個人主義を核とするアングロサクソン文明は、独創性を育む文明であり、その他の文明は、人間主義を核とする日本文明を含め、独創性に関しては中立的ないし抑圧的なのではないか、というものです。 

(完)

太田述正コラム#5852(2012.11.18)
<ユダヤ人はなぜ優秀なのか(その1)>(2013.3.5公開)

1 始めに

 完結していないシリーズが何本かあるところ、つなぎの意味で、単一のコラム
http://www.slate.com/articles/life/faithbased/2012/11/the_myth_of_jewish_literacy_maristella_botticini_and_zvi_eckstein_explain.single.html
(11月13日アクセス)をもとに、表記のシリーズをお送りすることにしました。

2 ユダヤ人はなぜ優秀なのか

 「・・・世界人口の中で最も小さい割合でしかなく、また、米国と欧州の総人口の1%前後しか占めていないユダヤ人が、ノーベル賞の20%を超える受賞者を輩出してきたのはどうしてなのか?・・・
 <しかも、>米国のユダヤ人は・・・平均的米国人より2倍近く学士号を持ち、4倍を超える修士号/博士号を持っている。
 これは、顕著なる経済的優位へと変換される。
 米国のユダヤ人は、高い地位の仕事の範疇において雇用される度合いが<平均的米国人より>約33%高いし、ユダヤ人の家計は米国の平均的家計よりも25%前後高い収入が報告されている。・・・
 <これがなぜなのかをを説明しようとする際の>核心的な理論は、ユダヤ人の歴史において目立つ二つの主題を組み合わせることによって通常抽き出される。
 <すなわち、>・・・教育と迫害される傾向<、という二つ>が強調されるのだ。
 前者に関しては、タルムード(Talmud)<(注1)>と<タルムードが出来上がった>後のラビ達が、普通初等教育の熱烈なる擁護者であって、その最も良く知られた事例として、ユダヤ人少年がユダヤ人の大人たる彼の到達点を示すために、バルミツバー(bar mitzvah)<(注2)>においてトーラー(Torah)<(注3)>を公衆の面前で読むことが挙げられる。

 (注1)「ユダヤ教の伝承によれば、神はモーセに対し、書かれたトーラー<(下出)>とは異なる、口伝で語り継ぐべき律法をも与えたとされる。これが口伝律法(口伝のトーラー)である。時代が下って2世紀末ごろ、当時のイスラエルにおけるユダヤ人共同体の長であったユダ・ハナシー(ハナシーは称号)が、複数のラビたちを召集し、口伝律法を書物として体系的に記述する作業に着手した。その結果出来上がった文書群が「ミシュナ」である。本来、口伝で語り継ぐべき口伝律法があえて書物として編纂された理由は、一説には、第一次・第二次ユダヤ戦争を経験するに至り、ユダヤ教の存続に危機感を抱いたためであるともされる。このミシュナに対して詳細な解説が付されるようになると、その過程において、現在それぞれ、エルサレム・タルムード(またはパレスチナ・タルムート)、バビロニア・タルムードと呼ばれる、内容の全く異なる2種類のタルムードが存在するようになる。現代においてタルムードとして認識されているものは後者のバビロニア・タルムードのことで、6世紀ごろには現在の形になったと考えられている。当初、タルムードと呼ばれていたのはミシュナに付け加えられた膨大な解説文のことであったが、この解説部分は後に「ゲマラ」と呼ばれるようになり、やがてタルムードという言葉はミシュナとゲマラを併せた全体のことを指す言葉として使用されるようになった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%AB%E3%83%A0%E3%83%BC%E3%83%89
 (注2)「ユダヤ教徒の子供は、13歳になった男児がバル・ミツワーと、12歳になった女児がバト・ミツワー・・・と呼ばれるようになる。意味はともに「戒律の子」である。・・・ユダヤ教徒が現在のように子供が成人に達したことを祝う習慣は聖書の時代には存在しなかった。この儀式はキリスト教徒のなかで多くのユダヤ教徒が暮らすようになった中世以降に、キリスト教の堅信の影響を受けて発達したと考えられている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%83%84%E3%83%AF%E3%83%BC
 (注3)「旧約聖書の最初の5つの書<(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)>である。モーゼの五書、律法・・・とも呼ばれる。これらはモーセが書いたという伝承があったのでモーセ五書と言われるが、近代以降の文書仮説では異なる時代の合成文書であるという仮説を立て、モーセが直接書いたという説を否定する。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%82%BB%E4%BA%94%E6%9B%B8

 <また、後者の>迫害に関しては、共通観念は、ユダヤ人は、その亡命の歴史の多くの間、土地を所有することが許されなかったため、いかなる地においても価値を持ちうる人的資本の形に投資することを強いられた、というものだ。・・・
 ・・・<ところが、>文字のなかった前近代的農業世界からの<ユダヤ人の>立ち去りが実際に始まったのは<これまで考えられていた頃より>1000年も前の、ユダヤ人がおおむね自由に自分が選択した職業を追求することができた時から<既に始まっていたの>だった。
 また、かくも多くの人々が、ユダヤ人の識字率の高さ(universal literacy)を当然視しているけれど、ユダヤ人の過半はユダヤ人としての教育に投資することを欲していなかったことを経済<史>学者達は発見した。
 衝撃的なことに、その結果、ユダヤ人コミュニティ<、つまりはユダヤ人人口>の3分の2超が最初の1千年紀の末までに消滅したというのだ。・・・
 ・・・儀式的犠牲と農業経済を伴った、エルサレムの神殿の重視がその頃までは標準であったところ、・・・<それに対して、>パリサイ派(Pharisees)<(注4)>は、トーラーの読書、祈祷、そしてシナゴーグを強調しようとした。

 (注4)「ファリサイ派・・・は古代イスラエルの第二神殿時代(紀元前536年〜紀元70年)後期<(紀元前2世紀)>に存在したユダヤ教内グループ。本来、ユダヤ教は神殿祭儀の宗教であるが、ユダヤ戦争によるエルサレム神殿の崩壊後<、>ユダヤ教の主流派<は>、ラビを中心においた、律法の解釈を学ぶというユダヤ教を形作っていくことになる。現代のユダヤ教の諸派もほとんどがファリサイ派に由来しているという点においても、歴史的に非常な重要なグループであったと言える。ファリサイ人、パリサイ派、パリサイ人(びと)などと表記されることもある・・・。なお、ファリサイの意味は「分離した者」で、律法を守らぬ人間と自らを分離するという意味合いがあると考えられている。現在ではファリサイ派という名称は使われず、「ラビ的ユダヤ教」、あるいは「ユダヤ教正統派」と呼ばれている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%AA%E3%82%B5%E3%82%A4%E6%B4%BE

 <エルサレムの>神殿を強調したユダヤ教内グループ<たる>・・・サドカイ派(Sadducees)<(注5)>は、イエスの頃の少し後で、ローマによってほぼ全滅させられ<たのに対し、もう一方の>パリサイ派の指導者達は、タルムードの諸賢人という形で、自分たちのイメージに沿ったユダヤ教を再形成するために大抵の場合無償で土地を与えられたのだった。

 (注5)「第二神殿時代の後期・・・に現れ、ユダヤ戦争に伴うエルサレム神殿の崩壊と共に姿を消したユダヤ教の一派・・・<であり、>霊魂の不滅や死者の復活、天使の存在を否定して<いた。>・・・神殿の権威をかさに権勢を誇ったサドカイ派であったが、ローマ軍によるエルサレム神殿の破壊(70年)と共に、よるべき場所を失い、消滅した。このため、ライバルであったファリサイ派がユダヤ教の主流となっていくことになった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%89%E3%82%AB%E3%82%A4%E6%B4%BE

 それに続く数百年間、彼らと彼らのイデオロギー的後継者達は、タルムードを法典化し、彼ら自身がそうしながら、普通ユダヤ人教育の必要性を宣言した。・・・

(続く)

太田述正コラム#1671(2007.2.24)
<キブツの終わり>(2007.3.26公開)

1 始めに

 イスラエルの最も古いキブツ(kibbutz)であるデガニア(Degania。1909年設立)が、先週、平等主義を捨てて、メンバーに業績に応じて給与を支払うことにしたことが話題になっています。
 ロサンゼルスタイムスは、自由・民主主義は地球をまだ覆い尽くしてはいないけれど、ついに資本主義は世界の隅々まで席巻したと報じました。
(以上、
http://www.latimes.com/news/opinion/la-oe-ash22feb22,0,7338862.story?coll=la-opinion-rightrail
(2月22日アクセス)による。)
 このニュースに全世界のメディアがイスラエルにやってきたのですが、アラブ世界を代表するメディアであるアルジャジーラ(Al Jazeera)とアルアラビーア(Al Arabiya)は来なかった(
http://www.haaretz.com/hasen/spages/829382.html
。2月23日アクセス。以下同じ)ということが気になって、キブツのことを少し調べてみることにしました。

2 キブツについて

 キブツ(KIBBUTZ)とはヘブライ語で「集団・集合」を意味する言葉です。
 ロシア、次いで東欧におけるユダヤ人迫害を逃れてパレスティナの地にやってきたユダヤ人達は、それまでの金融業や商業に従事していた・・従事せざるをえなかった・・生活を改め、肉体労働(農業。後には工業が加わる)中心の生活を始めようと考えました。
 しかし、当時のオスマントルコ領パレスティナは、土地は荒れてやせている所が多く、伝染病猖獗地でもあり、かつ無法地帯であって遊牧アラブ人の襲撃をしばしば受けたこと、入植には個人では負担することが困難な多額の資本が必要であったこと、入植地は全世界のユダヤ人の寄付金で購入したものであったこと、から、ロシアの思想(後述)の影響もあり、入植地の土地は個人個人が所有せず、共同生活を営むことになったものです。
 こうして始まったキブツは、「能力に応じて働き、必要に応じて消費する(from each according to his ability, to each according to his needs)」、自給自足、私有財産の否定、子供の共同生活(注1)、業務のローテーション、世俗主義、といった社会主義的属性を持ちつつも、キブツ内では民主主義が貫徹していましたし、キブツのメンバー達は、イスラエル社会全体をキブツ化するつもりもありませんでした。彼等は、あくまで資本主義社会の中での社会主義的コミュニティーを追求したのです。なお、メンバーをユダヤ人に限ったということもキブツの重要な特徴であると言えるでしょう。

 (注1)血がつながっていなくても一緒に生活して育つと互いに結婚を忌避するようになる、というウェスターマーク効果(Westermarck effect)によって、キブツは少子化と結婚相手を求める若者の流出による人口減少に苦しむことになる。

 キブツのメンバーの数は、キブツの最盛期においても、イスラエルの総人口の6%を超えたことはなかったのですが、その存在感は極めて大きいものがありました。
 キブツのメンバー一人当たりの所得の伸びは、イスラエル国民の一人当たり所得の伸びを上回って現在に至っています。
 また、1948年に始まる累次の中東戦争においては、キブツのメンバーが常にイスラエルの戦力の中心として大活躍しました(注2)。イスラエルの軍需産業もキブツから始まったと言えます。

 (注2)1967年の中東戦争(6日戦争)の時には、ユダヤ人の戦死者約800人中、キブツのメンバーは約200人を占めた。

 イスラエル議会では、長期にわたり、キブツのメンバーが議席の10数%を占めてきましたし、初代首相のベングリオンや女性首相のゴルダ・メイヤーらもキブツの出身者です。
 しかし、「能力に応じて働き、必要に応じて消費する」のでは怠け者が得をしてしまいますし、自給自足など続けられるわけはありません。そして、業務のローテーションなど行っていては専門家が育ちませんし、子供の共同生活は自然の摂理に反します(注3)。

 (注3)現在では、子供は両親と寝起きをし、保育所や小学校に通う生活をしている。

 こういうわけで、キブツの社会主義的属性は次第に水で薄められてきており、ついに最も古く由緒あるキブツまで、冒頭紹介したように、「能力に応じて働き、必要に応じて消費する」考え方を放棄するに至ったわけです。
 それでも、「昔の名前で出ている」ところのキブツの数は現在なお270近くあって、そのメンバー総数は約130,000人でイスラエルの人口の約3%を占めており、イスラエルの農業生産の40%、輸出向け工場 製品の約8%を生み出しています。

 英国の政治学者のI.ドイッチャーは、「キブツはロシアの農民社会主義というナロードニク(人民党)の思想を直接受け継いでいる。」と指摘しています(注4)。またユダヤ人の宗教哲学者M.ブーバーはキブツを「もう一つの社会主義」と呼んでいます。

 (注4)キブツはロシアや東欧出身のユダヤ人であるアシュケナージ(Ashkenazi)以外には広まらなかった。

 つまりキブツは、ロシアの土壌から生まれたところの、20世紀の社会主義たるマルクス・レーニン主義との双子の兄弟なのです。
 面白いことに、マルクス・レーニン主義もキブツも1世紀前後でどちらも事実上終焉を迎えたわけです。
 (以上、ハーレツ前掲、
http://www.jewishvirtuallibrary.org/jsource/Society_&_Culture/kibbutz.html
http://en.wikipedia.org/wiki/Kibbutz、及び
http://www.geocities.com/genitolat/Utopia/007.html
による。)

3 感想

 どうやら、マルクス・レーニン主義であれ、キブツであれ、社会主義は兵営同志愛(war comradeship)的なもの抜きには存続できないようです。
 つまり、構成員が危機意識を失うと、社会主義は機能しなくなる、と思われるのです。
 キブツは、イスラエルがその存続をかけて戦っていた危機の時代におけるイスラエルの前衛であり、そのキブツが役割を終えつつあるということは、アラブ側が完全に敗北したということであり、そんなことをアラブ世界のメディアが報じたくないのは分からないでもありません。
 これが、アルジャジーラとアルアラビーアが姿を見せなかった理由であろう、と私は思うのです。

太田述正コラム#1465(2006.10.24)
<ユダヤ人あれこれ>

 (深刻な話題が続いたので、このあたりで一服しましょう。)

1 ユダヤ人の優秀さ

 今年もユダヤ人からノーベル賞受賞者が出ました。
 米スタンフォード大学のロジャー・コーンバーグ教授のノーベル化学賞受賞です。
イスラエル政府の資料によれば、昨年までのユダヤ人のノーベル賞受賞者は、平和賞を除き、生理学・医学賞が48人、物理学賞が 44人、化学賞が27人、経済学賞が20人、文学賞が12人、で計151人にのぼります。しかもこの数字には、ユダヤ人と推定されていても、公式に確認されていない人物は含まれていません。
 何と、ノーベル賞受賞者のうち、約3分の1をユダヤ人が占めていることになります。
 (以上、
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2006/10/22/20061022000021.html
(10月23日アクセス)による。)
 ユダヤ人の総人口は、現在1,400万人くらいでしかない(
http://en.wikipedia.org/wiki/Jewish_population
。10月24日アクセス)ので、このような数字は驚異としか言いようがありません。
 特段、ユダヤ人の平均的知能が高い、というわけではなりません。
 平均知能指数(IQ)は、世界一を競っている韓国人が106、日本人が105であるのに対し、(イスラム教徒も含まれていますが)イスラエル人は94でしかない、というデータがあります(
http://en.wikipedia.org/wiki/IQ_and_the_Wealth_of_Nations
。10月24日アクセス。なお、コラム#782も参照のこと)。
 ところが、韓国人のノーベル賞受賞者はゼロですから、韓国人は平均的知能こそ高いが天才は少ないのに対し、ユダヤ人の平均的知能は大したことがないが天才は多い、ということのようですね。

2 ユダヤ人の祖国の喪失と復活

 (1)祖国の喪失
 66年にローマがエルサレムの神殿を破壊した時、ユダヤ人は反乱を起こしたのですが、あっと言う間に鎮圧されてしまいます。
 しかし、132年にユダヤ人は再び反乱を起こします。
 今度は、ローマは、ブリテン島の大半を征服した時の軍団より多くの軍団を投入してやっとのこと鎮圧に成功します。
 この結果、ユダヤ人の大部分は死亡するか亡命するに至ったのです。
 (以上、
http://atimes01.atimes.com/atimes/Middle_East/HB07Ak02.html
(2月7日アクセス)による。)

 (2)祖国の復活
 英国は、1917年のバルフォア宣言で、ユダヤ人にパレスティナにおいて祖国(homeland)を持つことを認めました。
 ただし、それには、「パレスティナにおいて存在する非ユダヤ人社会の非宗教的・宗教的権利を阻害することのない形で」という条件がつけられていました(コラム#480)。
 ところが、1920年代に、ユダヤ系ロシア人のジャボチンスキー(Ze'ev (Vladimir) Jabotinsky。1880??1940年)は、「土着の連中は、文明に浴している者も未開の者も、植民者に対しては常に頑固に抵抗してきた」ことからして、「パレスティナのアラブ人の自発的同意を得ようなどということはおよそ不可能だ」とし、軍事的手段でパレスティナに祖国を建設する運動を起こします。
 この運動の中から、1930年代に、パレスティナから英国を追い出し、アラブ人に対処するための民兵組織イルグン(Irgun)が生まれます。
 (以上、コラム#477、1360も参照のこと。)
 1946年7月22日、イルグンは、英軍司令部が置かれていたエルサレムのダビデ王ホテルを爆破し、28人の英国人、41人のアラブ人、そして17人のユダヤ人を殺害します。
 また、その翌年には、シオニスト達が処刑されたことへの報復として、イルグンは2人の英軍軍下士官を拘束し殺害します。
 この間、イルグンはアラブ人の一般住民にしばしば攻撃をしかけ、やがて戦争がパレスティナのアラブ人及び周辺のアラブ諸国との間に始まり、ユダヤ人はこの戦争に勝利してイスラエルが建国されるのです。
 (以上、特に断っていない限り
http://www.guardian.co.uk/commentisfree/story/0,,1871928,00.html
(9月15日アクセス)による。

太田述正コラム#11872006.4.16

<ユダの福音書(続)(その2)>

 (以上の問題に関心ある方は、http://www.slate.com/id/2139781/(4月14日アクセス)も参照されたい。)

3 キリスト教の多様性についてどう見るか

 ユダの福音書発表を契機に、プロテスタント系の一部信徒の間から、初期のキリスト教がこれほど多様であったのだとすれば、現在のキリスト教の多様性は当然で自然なことだと考えるべきだという議論が出てきています。

 これに対しては、初期のキリスト教においても、ユダの福音書は、異端の書としての位置づけであったのであり、この福音書の存在をもって初期のキリスト教の多様性の表れであると解するのは誤りだ、という反論が投げかけられています。

 (以上、http://www.csmonitor.com/2006/0414/p01s02-lire.html(4月14日アクセス)による。)

 そこへ、カトリック教会の総元締めである法王ベネディクト16世の断が下ります

 法王は、ユダの名誉回復をすべきだとする議論に釘を刺す、以下のような説教を行いました。

  「<ユダは強欲な嘘つきであり、>彼はイエスを権力(注2)と成功の観点からのみ評価した。彼にとっては、権力と成功が全てなのであって、愛などどうでもよかったのだ。・・カネ(注3)が、イエスとの精神的なつながり(communion)よりも、そして神や神の愛よりも大事だったのだ。・・<この謀反人たる13人目の使徒の嘘は、彼に惨めな下降をもたらしたのであって、>彼は頑なになり、放蕩息子のままついに回心することなく、破綻した生活に身を持ち崩した。」

(注2)法王が「権力」に言及したのは、ユダも、イエスに付き従った他の多くの人々同様、イエスがユダヤ人の君主としてローマの支配からユダヤ人を解放してくれると期待していた、という最近の神学者の説を踏まえたものであると考えられている。

(注3)ユダが、30片の銀と引き替えにイエスを官憲に引き渡したことを指している。

このようなベネディクト16世のユダ観は、「権力」への言及に若干の目新しさはあるものの、前任者のヨハネパウロ2世が、1994年に出版された著書でユダに若干なりとも希望の芽を見出しているのに比べても、これまでのカトリック教会のユダ観の中では最も厳しいものだ、という声が挙がっています(注4)。

(以上、特に断っていない限りhttp://www.guardian.co.uk/pope/story/0,,1754385,00.html(4月15日アクセス)による。)

 (注4)ちなみに、カトリック教会が、ユダヤ人をイエス殺害の罪から無罪放免したのは、今から30年ほど前の1975年だった(スレート前掲)。

4 感想

 ユダヤ教が、人類史において初めて出現した非寛容イデオロギーであるとすれば、キリスト教のユダヤ教からの分離・誕生は、人類最初の、非寛容イデオロギー集団の内ゲバであったと見ることができます。

 この内ゲバは、圧倒的に優位に立ったキリスト教徒によるユダヤ教徒への陰湿な虐めへと変質し、その行き着いたところが、20世紀のユダヤ人ホロコーストです。

 私は、ユダの福音書発表が、遅ればせながらも、キリスト教が寛容イデオロギーへの脱皮を果たす契機となることを願って止みません。

 このような観点からは、ベネディクト16世の頑なな姿勢は残念と言うほかはありません。

(完)

<ユダの福音書(続)(その1)> 

 (本篇は、コラム#1169の続きです。)

1 始めに

 ユダの福音書の発表以来、様々な議論が続いています。

 ユダの福音書発見以来、それがカネ目当ての古物商達の思惑で、長期にわたって退蔵され、その過程でパピルス文書の著しい劣化が進んでしまった、という話題について関心のある方は、http://www.latimes.com/news/opinion/editorials/la-ed-judas13apr13,0,7588778,print.story?coll=la-news-comment-editorialshttp://www.nytimes.com/2006/04/13/science/13judas.html?_r=1&oref=slogin&pagewanted=print(どちらも4月14日アクセス)をご覧頂くこととして、今回は、それ以外の話題を取り上げてみましょう。

2 ユダと反ユダヤ主義

 最初はニューヨークタイムス掲載の論考http://www.nytimes.com/2006/04/09/weekinreview/09gibson.html?pagewanted=print4月10日アクセス)です。(要約) 

 仮に、ユダの福音書が最初から新約聖書の4つの福音書並の権威あるキリスト教文書とされてきていたとすれば、欧州で反ユダヤ主義があれほど猖獗を極めることはなかったのだろうか。

 どうやら、結果はあまり違わなかったようだ。

 キリスト教が生まれ、それがユダヤ人には広まらなかった瞬間から、キリスト教徒とユダヤ人(ユダヤ教徒)との間の近親憎悪関係が始まった。

 最初は劣勢だったキリスト教だったが、ユダヤ人のローマ帝国に対する叛乱が叩きつぶされ、一方でキリスト教がローマ帝国内に広まって行った結果、形勢は逆転する。しかし、その後もキリスト教徒はしばしばあえて弱者の立場をとり、本当の弱者であるユダヤ人を苛めた。

 その時に「活用」されたのがユダだった。

 2世紀のキリスト教司教パピアス(Papias)は、ユダが、晩年、ぶくぶくに膨れあがり、目はふさがって見えず、歩くこともままならなくなり、いやな臭いをまき散らし、小便には膿汁や虫が混じり、最後には2輪馬車にひきつぶされた、という伝説を紡ぎ出した。

 そして、中世までには、ユダヤ教を一身に体現したユダの醜い原型・・せむしで大きな鼻と赤い髪を持ち、カネのためにはキリスト教徒を裏切ることを含め、何でもやる・・が形作られ始める。ダンテ(Dante Alighieri1265??1321年)は、「神曲」の地獄篇において、ユダを最下層の地獄で呻吟させたし、聖週間に演じられるキリスト受難(passion)劇では、ユダが地獄で悪魔達によって虐められる姿がしばしば描かれた。

 ヨハネ等の福音書をユダの福音書のように解釈することができる(コラム#1169)にもかかわらず、このようにユダは悪役中の悪役に仕立て上げられたくらいだから、仮にユダの存在を抹殺できたとしても、代わりはいくらでも出てきただろうと考えられている(注1)。 

 (注1)ユダが抹殺されたとしても、マタイの福音書の一節で、ユダヤ人群衆がローマ総督のピラト(Pontius Pilate)に、イエスと悪人のバラバ(Barabbas)とどちらを十字架にかけるべきかと問われ、全員が異口同音に、イエスを十字架に架けよと答え、イエスが流した血は「われわれ及びわれわれの子孫の上に注がれる」(27:25)と答えた箇所が根拠になったろう。 

 その一番の有力候補は、イエスをピラトに引き渡したユダヤ人神官のカイアファ(Caiaphas)だ。

(続く)

太田述正コラム#11692006.4.7

<ユダの福音書>

1 始めに

 

今般、米国ナショナル ジオグラフィック協会は、エジプトの砂漠の洞窟で1978年に見つかった約1700年前(220??340年頃)のパピルス文書がキリスト教の黎明期に教会から異端とされた幻の書『ユダの福音書(Gospel of Judas)』(注1)の現存する唯一の写本(注2)であることが判明したと発表するとともに、この文書を修復した(注3)上で英訳したもの(http://www.nytimes.com/packages/pdf/national/judastxt.pdf。4月7日アクセス(以下同じ))を公表したのですが、これが全世界で話題になっています。

(注1)この福音書の存在は、180年頃、リヨンの司教のイレナエウス(Irenaeus)が書いた反異端書(Against Heresies)によって知られていた。

(注2この冊子状の写本(codex)は、イエスやユダの死後100年以上経った紀元150??180年頃に書かれたギリシャ語の原典をコプト語(当時のエジプトの言語)に訳したもので、この写本が作られた年代は3??4世紀とみられている。

(注3)8割程度しか修復できなかった。

その内容と意義をご説明しましょう。

 (参照:英文はhttp://www.latimes.com/news/science/la-040606judas_lat,0,5191359,print.story?coll=la-home-headlineshttp://news.bbc.co.uk/2/hi/americas/4882420.stmhttp://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2006/04/06/AR2006040600921_pf.htmlhttp://www.nytimes.com/packages/pdf/national/judastxt.pdfhttp://www.guardian.co.uk/comment/story/0,,1748835,00.html。和文はhttp://www.nikkeibp.co.jp/news/life06q2/501112/http://www.nikkeibp.co.jp/style/secondstage/tanoshimu/nng_060407.htmlhttp://nng.nikkeibp.co.jp/nng/topics/n20060407_1.shtml

2 内容

 イスカリオテのユダ(Judas Iscariotは、新約聖書のマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの福音書(gospels of Matthew, Mark, Luke and John)(注4によれば、イエス・キリストに選ばれた弟子の一人でありながら,銀貨30枚と引き換えにイエスを裏切り、接吻を合図に敵の手に引き渡した使徒であり、その名は今も裏切りの代名詞となっています。

 (注4)このうち、一番最後に書かれたヨハネの福音書でさえ、『ユダの福音書』より数十年早く書かれている。

しかし、今回新たに発見された『ユダの福音書』に描かれたユダ像は、まるで違い、ユダこそイエスの一番弟子であり、他の弟子たちと違ってキリストの真の教えを正しく理解しており、ユダがイエスをローマの官憲に引き渡したのは、イエス自身の言いつけに従ってのことだった、とそこには書かれています。

『ユダの福音書』の記述には、グノーシス派(Gnosticsと呼ばれる、2世紀にキリスト教主流派から分派したグループの思想・・後に異端とされた・・が反映されています(注5)。グノーシス派は、物質世界は至高の神ではなく下等な創造神のつくった不完全な世界とみなし、善の究極の源泉である神性は物質世界の外側にあると考えていました。『ユダの福音書』の中で最も重要なくだりは、イエスがユダに「お前は他のいかなる者(使徒)より卓越した存在となろう(exceed)。何となれば、お前は、真の私を包むこの肉体を犠牲とするであろうからだ」と語る箇所です。つまり、ユダがイエスを死に追いやったのは、イエス自身の望みに従った行為であり、イエスをその肉体から解き放つことによって、真のキリスト、つまり内なる神が解放されるというのです。ユダがこの役割を任されたのは、弟子達の中で特別な地位にあった証拠である、とこの福音書には書かれているのです。

(注565年前から、様々な福音書が発見されてきており、グノーシス派の手になるものだけでも、トマ(Thomas)、マグダラのマリア(Mary Magdalene)、フィリッポ(Philip)の三つの福音書がこれまで発見されている。

 しかしイエスは、この結果ユダは「同時代の人々(=他の使徒)によって呪われることだろう。しかし、お前は彼らに君臨する(rule over)することになるだろう」(注6)とも言っています。

 (注6)ご存じのように、前段は実現したが、後段はまだ実現していない。

3 意義

 そもそも、新約聖書の中のヨハネとマルコの福音書においても、ユダは使徒の中でも尊敬されていた重鎮の一人であったことを示唆する箇所がありますし、学者の中には、新約聖書の原典のギリシャ語のparadidomiが「裏切る」と翻訳されたところ、本来の意味は「引き渡す」であるとし、ユダは単に神の意思を従っただけであることを示していた、と指摘する人もいます。

 つまり、ユダが悪者に仕立て上げられたのは、聖アウグスティヌス(Augustine)等の初期キリスト教徒達がユダが往々にして代表すると見なされていたユダヤ人を悪者に仕立て上げる陰謀の一環であったのではないか、というのです。

 最近、カトリック教会は、ユダヤ人差別につながってきたこのような考え方を是正する努力を行っていますが、『ユダの福音書』の英訳の公表は、かかる努力の追い風となる可能性があるのです。

太田述正コラム#0487(2004.9.29)
<米国とユダヤ人(その3)>

4 最近の米国ユダヤ人事情

 ユダヤ人が大いに力を貸した公民権運動が成功し、これに加えてその後アファーマティブ・アクション(積極的差別是正措置)までとられ、黒人に対しては機会の平等どころか、機会の優遇までお膳立てされた(注8)というのに、1990年代に入っても黒人と白人の間の所得格差は少しも縮まりませんでした。

 (注8)ただし、quota systemという差別の経験から、ユダヤ人は黒人に対するアファーマティブ・アクションなる逆差別にも反対した。

 このことによる黒人層の間の絶望的なフラストレーションは、かつての盟友、ユダヤ人にぶつけられることになりました(注9)。ユダヤ人が米国の人口のわずか2.%ちょっとであるにもかかわらず、富裕番付400位までの大富豪の四分の一をユダヤ人が占めていることでユダヤ人は黒人の目の敵にされたのです。
 
(注9)1991年にニューヨークのブルッキングスの、いつしか黒人街で取り囲まれてしまったユダヤ人地区で黒人暴動が起き、ユダヤ人に一人の死者と多数の負傷者が出るという衝撃的な事件が起きた。

 1992年の世論調査では、「強度の反ユダヤ主義的見解を抱く」とされた白人は白人全体の17%であったのに対し、黒人は黒人全体の37%を占めているという結果が出ています。
 最近では、9.11同時多発テロの頃から白人層の間でも再び反ユダヤ主義(anti-semitism)が高まってきています(注10)。

 (注10)今年2月に米国で封切られたメル・ギブソン(Mel Gibson)の映画The Passion of The Christが「キリストを殺したのはユダヤ人だ」という思いをかきたて、火に油を注いだ格好になっている。

 それはあたかも米国の欧州化を思わせるような状況です。なぜなら、左右両翼どちらにおいても反ユダヤ主義の高まりが見られるからです。
 左翼は、イラク戦争とブッシュ政権のイスラエル寄りの姿勢を批判することで事実上の反ユダヤ主義的スタンスを打ち出すようになりましたし、右翼の方はネオナチ諸団体のメンバーが急速に増えつつあり、現在5000人位に達しているとも言われています。右翼は、ネオコンにユダヤ人が多く、彼らがイスラエルのために国を売っていると思い込むとともに、同時多発テロ以降、米国で打ち出された対テロ諸施策の真のねらいは自分達の弾圧ではないかという妄想を抱いているといいます。
 (以上、http://www.csmonitor.com/2004/0915/p03s01-ussc.html(9月15日アクセス)及び佐藤唯行前掲書205、207、210、215、216頁による。)
 こうした逆風の中で、米国のユダヤ人達は、ブッシュ大統領が次第に民主党の伝統的な支持基盤を掘り崩しつつある現在(注11)、ブッシュのイスラエル寄り政策にもかかわらず、伝統的な民主党支持姿勢を堅持しており、ケリー候補を支持しています。

 (注11)女性は伝統的に民主党寄りであり(コラム#475)、2000年の大統領選挙の時にはゴアは女性票の54%をとったのに対し、ブッシュは43%しかとれなかったが、現在、ブッシュは女性の支持率でケリーを1%上回っている。それは、ブッシュの減税政策が、女性にも多い小企業経営者にとって有利であること、ブッシュの果断な対テロ姿勢が好感を生んでいること、によるとされている(http://www.latimes.com/news/politics/2004/la-na-bush18sep18,1,3429972,print.story?coll=la-home-headlines。9月18日アクセス)。

 すなわち、9月22日に公表された世論調査によれば、ケリー支持69%に対し、ブッシュ支持は24%に過ぎませんでした。(2000年の大統領選挙の時のユダヤ人票は、ゴア79%、ブッシュ19%でしたから、それよりはマシなのですが、これはユダヤ人の10%を占めるユダヤ教原理主義者(Orthodox)がブッシュのイスラエル寄り政策に幻惑されているためです。)
(以上、http://www.guardian.co.uk/uselections2004/story/0,13918,1310809,00.html(9月24日アクセス)による。)

 (青臭い)リベラルな理想主義こそ米国のソフトパワーの源泉でしたが、米国でこれまで一貫してこのリベラルな理想主義の旗手を務めてきたユダヤ人が、次第に保守化しキリスト教原理主義化しつつある現在の米国において、今後とも引き続きその役割を果たして行くことができるかどうかが、米国の将来ひいてはアングロサクソン文明の将来を左右するように私には思えてなりません。

(完)

太田述正コラム#0486(2004.9.28)
<米国とユダヤ人(その2)>

2 米国のユダヤ人人口世界一へ

 初期においては、米国におけるキリスト教原理主義とリベラリズムの戦いの帰趨は予断を許しませんでした。
 しかしユダヤ人自身の努力もあって、やがてリベラリズムが勝利を収めます。
 その勝利を象徴するのが、1790年8月のワシントン米初代大統領のロードアイランド州ニューポート(Newport)のユダヤ人居住区(ニューポートの当時のシナゴーグが現存する米国最古のシナゴーグ)(注5)の訪問です。ワシントンは訪問の後、ユダヤ人が決して迫害を受けることなく、完全な米国の市民としてその人権を保障される、という趣旨を書き記した書簡を送ったのです。
これ以降、旧大陸からのユダヤ人の米国への移民が加速します。
 19世紀中頃から1880年頃にかけて、欧州のドイツ語圏から法的差別を逃れるために20万人のユダヤ人がやってきます。
 その後今度は、1881年から1920年にかけて、東欧から205万人のユダヤ人がやってきます。
 先の大戦直後には、ホロコースト生き残りの25万人のユダヤ人が欧州等からやってきます。
 そして1985年から1990年にかけて、末期のソ連から14万人のユダヤ人がやってきます。
 その後も、毎年5万人ものユダヤ人が米国に流入しています。
 現在米国のユダヤ人人口は580万人に達しており、米国は世界一のユダヤ人人口を抱えています。ちなみに、第二位はイスラエルで480万人、第三位はぐっと少なくなってフランスの60万人です。

2 米国におけるユダヤ人差別

 このようにユダヤ人が次々に米国にやってきたのは、米国においてはユダヤ人に対する制度的なあるいは政府による差別が独立当初から基本的になかったからですが、勤勉かつ教育熱心なユダヤ人の「成功」に対するねたみ・そねみが「先住」のアングロサクソンや、後発移住組の(アングロサクソンから蔑視の対象となっており、かつ故郷のアイルランドにユダヤ人差別があった)アイルランド人、等によるユダヤ人差別をもたらしたことは事実です(注5)。

 (注5)著名人で自他ともに許す反ユダヤ主義者であった者に、自動車王ヘンリー・フォード(Henry Ford。1863??1947年)、大西洋横断飛行のリンドバーグ(Charles Lindbergh。1902??1974年)(http://www.csmonitor.com/2004/0928/p15s02-bogn.html(9月28日アクセス))がいる。

 もっとも、黒人の場合、1880??1920年の間に暴動やリンチによって命を落とした数は、明らかになっているだけでも3000人以上にのぼりますが、同じ時期にユダヤ人で同様の形で命を落とした数は10人に満たない(注6)ことを見れば、米国社会のユダヤ人差別の程度が分かります。

 (注6)1915年のジョージア州アトランタにおける元工場経営者レオ・フランクのリンチ殺人事件は、ユダヤ人の黒人への連帯意識を生み出すきっかけになった。

 とまれ、東欧から移住してきたユダヤ人は貧しく、かつ社会主義シンパが多かったこともあり、1920年代には米国におけるユダヤ人差別は先鋭化し、ユダヤ人の移民を阻止するための差別的な新移民法が1924年に制定され、またこの頃、多くの名門私立大学において、(大学財政に貢献できない等の理由から)ユダヤ人に対する入学枠制限(quota system)が行われたものです。

3 ユダヤ人の米国への貢献

 ユダヤ人の上述した勤勉と教育熱心さは、ユダヤ人以降の米国への移民の模範となっただけでなく、神に対してすら議論を挑むという伝統から、ユダヤ人は米国における社会革新の担い手となってきました。
 特に米国の労働運動と公民権運動ではユダヤ人が中心的役割を果たしました。
 ユダヤ人のサミュエル・ゴンパース(Samuel Gompers。1850??1924年)は米国労働総同盟(American Federation of Labor=AFL)の二人の創設者のうちの一人ですし、1964年の公民権法(The Civil Rights Act of 1964)や1965年の選挙権法(Voting Rights Act of 1965)は改革ユダヤ教宗教活動センター(Religious Action Center of Reform Judaism)の会議室で起草されました(注7)。

 (注7)1964年にミシシッピー州フィラデルフィアの町はずれでユダヤ人二名、地元の黒人一名の公民権運動家がKKKによって殺害された事件は全米の注目を浴びた。

 こういうわけで、ユダヤ人は代々民主党の熱心な支持層の一つであり続けてきたのです。
 (以上、特に断っていない限り、前掲http://www.csmonitor.com/2004/0915/p11s02-lire.htmlhttp://www.csmonitor.com/2004/0915/p11s01-lire.html(9月15日アクセス)及び佐藤唯行「アメリカのユダヤ人迫害史」集英社新書2000年21、22、27、30、67、77、84、85、120、158、199頁による。)

(続く)

太田述正コラム#0485(2004.9.27)
<米国とユダヤ人(その1)>

1 ユダヤ人の到来

 現在ユダヤ人の町とも言われるニューヨークにユダヤ人が初めて到着したのは偶然によってでした。
 ブラジルを一時オランダが(異端審問のあった)ポルトガルから奪取していた時、ユダヤ人が多数ブラジルに移住したのですが、再びブラジルがポルトガル領に戻った時点で、ユダヤ人は一斉にオランダに再移住しようとしました。
 そのうち、海賊の餌食となった船に乗船していて無一文になったユダヤ人23人が、1654年に当時オランダ領だったニュー・アムステルダム(1664年に、イギリス領となったことに伴いニューヨークと改称)に避難したのです。
 その地のオランダ人総督は、「ユダヤ人にキリスト教徒は到底競争しても勝てない」として彼らを追い払おうとしたのですが、アムステルダムを本社とするオランダの西インド会社は、大株主にユダヤ人が多かったこともあり、翌1655年に総督に命じ、これらユダヤ人の定住を認めさせます。
 それまで北米大陸には既に数百人のユダヤ人がやってきていましたが、これが米国へのユダヤ人定着の始まりとされています(注1)。

 (注1)スペインの異端審問制度は頭の古い連中の最後のあがきであり、これからはユダヤ人は隆盛をきわめるだろう、また北米のインディアンはユダヤ人の失われた氏族だ、と記した書物を、ほぼ同じ時期の1650年に上梓したアムステルダムの住人こそ、ユダヤ人のイギリス復帰のきっかけを1655年につくったマナセ(Manasseh ben Israel。コラム#480参照)その人だった。

 ユダヤ人の来訪は、北米イギリス植民地に大きなインパクトを与えました。
コットン(John Cotton。1585??1652年)(注2)はピューリタニズムを更に徹底し、ユダヤ教のメシア待望論(Messianism)に立脚した神政政府の樹立を提唱しましたし、ロジャー・ウィリアムス(Roger Williams。1603???1634か1635年)(注3)はユダヤ人との並存のためにも、政治と宗教の分離を実現しなければならないと主張しました(注4)。
このようにユダヤ人の来訪は、米国においてキリスト教原理主義とリベラリズム(コラム#456、458、470等)・・それぞれの問題点がタブーの押しつけと放縦の放任・・という両極端の思潮がそれぞれ確立する契機となったのです。
(以上、特に断っていない限りhttp://www.csmonitor.com/2004/0915/p11s02-lire.html(9月15日アクセス)、及びhttp://www.nytimes.com/2004/09/24/arts/design/24ROTH.html?8hpib=&pagewanted=print&position=(9月25日アクセス)による。)

 (注2)ケンブリッジ大学卒。長くイギリス・リンカーンシャーのボストンで教区牧師を務めたが国教会にあきたらず、ピューリタンとして北米マサチューセッツに一団を率いて移住した。ボストン市の名前の由来にはここにある。(http://www.infoplease.com/ce6/people/A0813751.html。9月27日アクセス)
 (注3)ケンブリッジ大学卒。信教の自由を求めてマサチューセッツに渡る。後にピューリタンが巣くうマサチューセッツを脱出し、インディアンと親しく交わり、プロヴィデンス(Providence)に後にロードアイランド州となる新植民地を興す。彼は1644年にイギリス議会にプロヴィデンス植民地における政教分離を求める請願を提出し、認められ、植民地憲章に「<住民は>特定の宗教を押しつけられることはない」との一節を明記した。(http://www.rogerwilliams.org/biography.htm(9月27日アクセス)も参照した)
 (注4)連邦憲法が制定されるまでの州憲法の中では、1777年のニューヨーク州の憲法のみが信教の自由を謳っていた。

(続く)

太田述正コラム#0480(2004.9.22)
<イギリスとユダヤ人(その3)>

3 イギリスとユダヤ人の二回目の邂逅

 1655年に、アムステルダムのユダヤ教のラビがイギリスのクロムウェルの政府にユダヤ人のイギリス復帰の嘆願書を提出し、イギリス政府の黙認の下にユダヤ人が再びイギリスに渡来し始めます。
 それ以降、ユダヤ人は急速にイギリスで地歩を築いて行き、イギリス人も総じてユダヤ人を暖かく見守ります。そして欧州やロシアでユダヤ人迫害が起こるたびに、イギリスにユダヤ人が流入し、イギリスに定着し、あるいはイギリスを中継地として米国等に渡って行くことになります。
 1700年にはイギリス国王ウィリアム3世によって、初めてユダヤ人某にナイト爵が授与されます。
 1833年には初めてユダヤ人の法廷弁護士(barrister)と州長官(sheriff)が生まれます。
 1841年には初めてユダヤ人のイギリス貴族(男爵)が出現します。
 1858年にはユダヤ人が一般のイギリス人と完全に平等扱いされるようになります。そして同年についに初めてユダヤ人の下院議員(ロスチャイルド男爵(注6))が誕生します。

 (注6)Baron Lionel de Rothschild。彼は新約聖書に手をおいて宣誓するのを拒み、旧約聖書に差し替えるように要求し、かつ' Upon the true faith of aChristian'という常套文句を省いて宣誓することを求めたため、選挙で初当選してから、正式に下院議員になるまで11年もかかった(http://www.rothschildarchive.org/ib/?doc=/ib/articles/BW2bHofC1850。9月21日アクセス)。

 1874年には、子供の時にユダヤ教徒から国教徒に改宗していた「ユダヤ人」ディズレイリ(Benjamin Disraeli。1804??81年)(注7)がイギリス(以下、英国と言い換える)の首相に就任します(コラム#198)。

(注7)ディズレイリは1817年に洗礼を受けて国教徒になり、まず小説家として頭角をあらわし、やがて自由党から1837年に下院議員となり、後に保守党に移籍、三度首相をつとめる。ディズレイリは議会での論戦の相手が自分に対して「ユダヤ人」と言った時、「そうだ。私はユダヤ人だ。議員殿の祖先が名も知れぬ島の野蛮な土人だった頃、私の祖先はソロモン王の神殿の司祭だった。」と切り返した(http://dspace.dial.pipex.com/town/terrace/adw03/pms/dizzy.htm。9月21日アクセス)。

 1887年には英国でシオニズム運動(ユダヤ人の「母国」の建設をめざす運動)が呱々の声を上げます。
1909年には歴としたユダヤ人から最初の閣僚が出ています。
1917年にはバルフォア宣言(Balfour Declaration)(注8)が発せられ、後にユダヤ人国家がパレスティナに創設される根拠となります。

(注8)第一次世界大戦中という微妙なタイミングにこの宣言が発せられたことについては様々な政治的思惑が取り沙汰されているが、その背景には、英国の親ユダヤ感情に根ざす、哲学的・宗教的・帝国主義的観点からのシオニズムへの共感がある。
    参考のため、バルフォア宣言を掲げておく。(バルフォアは首相経験者だったが、当時は外相だった。)
    実によくできた文言の宣言であることがお分かりいただけよう。
    ちなみに、ここでのPalestineは後にTrans Jordan(ヨルダン)とされた地域を含む。
    'establishment in Palestine of a national home for the Jewish people'という核心部分で、'in'が用いられていること、かつ'national home'が必ずしも国家を意味しないことに注意。これらを含め、実に周到に練り上げられた宣言であることが分かる。
Foreign Office
November 2nd, 1917
Dear Lord Rothschild,
I have much pleasure in conveying to you, on behalf of His Majesty's Government, the following declaration of sympathy with Jewish Zionist aspirations which has been submitted to, and approved by, the Cabinet.
"His Majesty's Government view with favour the establishment in Palestine of a national home for the Jewish people, and will use their best endeavours to facilitate the achievement of this object, it being clearly understood that nothing shall be done which may prejudice the civil and religious rights of existing non-Jewish communities in Palestine, or the rights and political status enjoyed by Jews in any other country."
I should be grateful if you would bring this declaration to the knowledge of the Zionist Federation.
Yours sincerely,
Arthur James Balfour
(以上、http://www.mideastweb.org/mebalfour.htm(9月21日アクセス)及びhttp://www.britannia.com/gov/primes/prime39.html(9月22日アクセス)による。)

1948年にはイスラエルが建国されますが、その初代大統領になったユダヤ人ワイズマン(Chaim Weizmann。1874??1952年)(注9)は英国籍保有者でした。

(注9)ロシアで生まれ、スイスとドイツの大学で生化学を学び、1905年に英国に移る(http://www.jewishvirtuallibrary.org/jsource/biography/weizmann.html。9月21日アクセス)。

 現在では英国のユダヤ人人口は35万人を数え、その三分の二がロンドンに住んでいます。そしてユダヤ人は常に英国の下院で40名以上の勢力を維持しています。
 
 以上見てきたように、ユダヤ人は、ユダヤ人に対する偏見を長年をかけておおむね克服したイギリス人によって幾たびか苦境から救われた上、母国まで与えられるという数奇な歴史を経て現在に至っているのです。

(完)

太田述正コラム#0479(2004.9.21)
<イギリスとユダヤ人(その2)>

 ステレオタイプ化の先陣を承ったのは、マーロウ(Christopher Marlowe。1564??1593年)の戯曲The Jew of Maltaです。これは、イギリス国王への貢ぎ物を捧げなかったために、全財産が没収された上、自宅を女子修道院にされてしまったユダヤ人の元医師であるバラバス(Barabas)が、復讐のため、この修道院の尼僧全員の毒殺を含むイギリス人の大量殺人を行ったものの、捕まって熱湯の釜ゆでの刑に処せられるという荒っぽいストーリーのブラックコメディーであり、1589年に初演され、大人気を博し、それ以降何度も上演されました(注3)。

 (注3)いささか低次元の連想だが、ほぼ同じ時期の1594年に日本で盗賊石川五右衛門が、京都三条河原において油による釜ゆでの刑に処せられ、この五右衛門の一代記等が後の江戸時代に歌舞伎化されたことが思い出される(http://www5c.biglobe.ne.jp/~wonder/sub402.htm及びhttp://www.arc.ritsumei.ac.jp/theater/maiduru/dggoemon.htm(どちらも9月20日アクセス)。

 救いは、これが単なる反ユダヤ的戯曲ではなく、キリスト教社会の偽善と偽りを風刺した戯曲でもあったことです。
 次は、エリザベス1世の侍医であったポルトガル生まれのロペス(Rodrigo Lopez)の処刑です。ロペスは隠れユダヤ人(Marranos。スペイン・ポルトガル出身のユダヤ人でキリスト教徒としての洗礼を受けた者(Converso)のうち、密かにユダヤ教を信仰し続けた人々)でしたが、プロテスタントにしてスペインの仇敵であるエリザベス1世を毒殺しようとしたカトリック教徒のスペインのフィリップ2世(Philip II of Spain。1527??1598年)の陰謀に、大金をもらって関与したとの根拠薄弱な嫌疑をかけられ、逮捕された後、拷問の過程で隠れユダヤ人であることが明らかになったとされ、陰謀関与を自白したロペスは、大逆罪で1594年に公開処刑されました。
 生きながら去勢され、四肢をもぎとられるという残虐な処刑に臨む直前、ロペスは「私はイエス・キリストを愛するのと同様に女王を愛する」と叫び、これに対し観衆は(キリストを裏切った)ユダヤ人のくせに、という笑いにどよめきました。つまり、ロペスは無実を叫んだのに、観衆はこれをロペスの有罪の告白だと受け止めたわけです。これは、観衆がロペスの姿にバラバスを重ねて見ていたことがよく分かるエピソードです。

 そこへ、1597年のシェークスピア(William Shakespeare。1564??1616年。コラム#88)の喜劇「ベニスの商人(Merchant of Venice)」の初演と相成るわけです。シェークスピアもマーロウ同様、本物のユダヤ人にお目にかかったことがなかったはずであり、シェークスピアは、恐らくマーロウのThe Jew of Maltaとロペス事件という二つの「ブラック・コメディー」、とりわけそれぞれにおける「主役」たる「ユダヤ人」に対する「観衆」の反応を大いにを参考にしてこの戯曲を創作した、と推定されています。
 そのシェークスピアは、観衆の反ユダヤ人的ステレオタイプをとことん活用して劇を盛り上げつつ、ユダヤ人も同じ人間であることを強調することによって(注4)、劇を見終わった観衆にユダヤ人であるシャイロックに対する同情心を抱かせ(注5)、観衆の反ユダヤ人的ステレオタイプを雲散霧消させることに成功するのです。
(以上、http://www.nytimes.com/2004/09/12/magazine/12SHAKESPEARE.html?pagewanted=print&position=(9月15日アクセス)も参照した。)

(注4)シャイロックの激白:「私はユダヤ人だ。ユダヤ人は眼を持っていないというのか。ユダヤ人は手・臓器・自負心(dimensions)・感覚・愛情・情熱を持っていないというのか。同じ武器で傷つかないというのか、同じ病にかからないというのか、同じ方法で癒されないというのか、冬や夏がやって来てもキリスト教徒のように暖まったり冷えたりはしないというのか。あんたらが我々をつついても血が流れないとでもいうのか。あんたらが我々をくすぐっても我々は笑わないとでもいうのか。あんたらが我々に毒を盛っても我々は死なないとでもいうのか。そしてあんたらが我々に悪さをしても我々は復讐しちゃいかんというのか。」(3幕1場より。なお、「ベニスの商人」原文をhttp://www.online-literature.com/shakespeare/merchant/で読むことができる。)
(注5)シャイロックは「裁判」の結果キリスト教徒達によって、彼の愛娘と全財産、更には(キリスト教に強制改宗させられ)宗教まで奪われてしまう(http://www.novelguide.com/merchantofvenice/themeanalysis.html。9月21日アクセス)。

 「ベニスの商人」は大当たりになりますが、このようなユダヤ人不在期間における天才シェークスピアの離れ業によって、来るべきイギリスとユダヤ人の第二の邂逅に向けて、イギリス人の心の準備が整えられたのです。

(続く)

太田述正コラム#0478(2004.9.20)
<イギリスとユダヤ人(その1)>

 世界に天才民族があるとすれば、それはアングロサクソンとユダヤ人で決まりでしょう。
 その両民族の英国における邂逅の歴史をふりかえり、その上で次ぎに可能であれば米国とユダヤ人の歴史に目を向け、そして願うらくは将来、ホロコーストという悲劇的結末に至ってしまったドイツとユダヤ人との関わりについて論じようと思います。
 まずはイギリスとユダヤ人についてです。
 (以下、特に断っていない限りhttp://www.geocities.com/Athens/Acropolis/7221/jewishistory.htm及びhttp://www.jewishvirtuallibrary.org/jsource/vjw/England.html(どちらも9月19日アクセス)による。)

1 イギリスとユダヤ人の一回目の邂逅

 ユダヤ人は、1066年のウィリアム征服王のイギリス遠征後、フランス等から招請されてイギリスにやってきました。
 イギリスでユダヤ人は、欧州にいた時と同様、もっぱら商業と金貸し業に従事しました。当時はキリスト教徒は利子をとることが禁じられていた(注1)ことから、キリスト教世界では金貸し業はユダヤ人が独占的に行っていました。イギリスでユダヤ人がカネを貸した相手は主として貴族と国王です。

 (注1)旧約聖書はユダヤ人同士で利子をとることを禁じているだけだし、新約聖書には利子に係る記述は出てこないが、中世教会法ではキリスト教徒が利子をとることを禁じていた。ちなみに、ドイツでは16世紀から利子を解禁したが、フランスではフランス革命後ようやく正式に解禁された。(http://www.newadvent.org/cathen/15235c.htm。9月20日アクセス)

 ユダヤ人の繁栄とその繁栄達成の手段はイギリス人の妬みと反感を募らせていきます。
 1114年に、ユダヤ人がイギリス人の少年を儀式殺人(blood libel)の対象にしたというあらぬ噂がたち、暴徒がユダヤ人居住区を襲います(William of Norwich事件)。
 1189年にイギリス国王のリチャード1世も参加する第三次十字軍が決定されるとその経費を確保するため、一般のイギリス人は1/14の動産税を課されていたのにユダヤ人は1/4もの重税を課されました。この結果、ユダヤ人は当時のイギリスの人口の1/4%しか占めていなかったというのに、税収の8%を負担させられたのです。しかし、十字軍によるキリスト教原理主義の喚起は(ユダヤ人はキリストを十字架にかけた元凶だとして)反ユダヤ人感情を高揚させ、またもやユダヤ人居住区は暴徒の襲撃を受け、焼き討ちされます。
1194年にリチャード1世が十字軍遠征から帰国すると、ユダヤ人の財産が焼き討ちされたりして散逸するのを防ぐという名目で、王室はユダヤ人財産目録(Exchequer of the Jews)作成を始めます。そして王室は、この目録をベースにユダヤ人からあらゆる名目で恣意的に税金を収奪するようになります。
 このため、ユダヤ人は貸し金の利子をあげざるを得なくなります。しかしこれは、イギリス人のユダヤ人に対する憎しみを一層増幅させることになりました。
 1217年には、イギリスのユダヤ人は全員胸に黄色いバッジを付けることが義務づけられます(注2)。

 (注2)その700年以上も後に、ナチスドイツがその支配下のユダヤ人に同様のことを行った。何とドイツ人の晩生であることか。もっともその先でナチスドイツが行ったホロコーストは、イギリス人(「中世」のイギリス人を含む)の想像力を超える蛮行だ。

 1255年には二度目の少年儀式殺人事件(もちろん噂に過ぎない)が起こり、反ユダヤ人暴徒の激高をおさめるため、当局はユダヤ人100名を処刑します(Hugh of Lincoln事件)。そして儀式殺人の対象となったと目された少年は、後にカトリックの聖人に列せられます。
 1265年にはイタリアの銀行家達がイギリス王室への貸金業務に参入し、王室にとってユダヤ人の効用が著しく低下します。イギリス王室は待ってましたとばかりに1269年、ユダヤ人が土地を所有することを禁じ、更にユダヤ人による遺産相続を禁じ、相続財産は王室が没収することとしました。いわばこの時点で、イギリスのユダヤ人は奴隷的境遇に陥れられたことになります。
 1290年にはついにユダヤ人は全員イギリスから追放されてしまいます。この時、16,000人ものユダヤ人が泣く泣くイギリスを離れ、フランス等に逃れるのです。

2 シャイロック像の構築

 イギリスにおけるユダヤ人不在期間は、それから350年の長きに及ぶことになるのですが、この間、イギリスでユダヤ人観のステレオタイプ化が進みます。シェークスピアの「ベニスの商人」に登場するシャイロックでこのステレオタイプ化は最高潮に達します。
 これに至るプロセスは次の通りです。

(続く)

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