カテゴリ: イスラム教

太田述正コラム#5432(2012.4.20)
<イスラム教の成立(その4)>(2012.8.5公開)

 (4)イスラムの成立

 「・・・ゾロアスター教から、<アラブ人達は、>例えば、一日5回礼拝するという慣例を輸入した。
 ちなみに、コーランでは、3回としか示していない。
 <エルサレムの>岩のドームの足跡は、創世の初めにおける神のものであるとの当初の観念を変更して、11世紀に、「メッカからエルサレムに運ばれたとされる」ムハンマドのものであったはずだ、と「まさにその目的のために」決定した、とホランドは言う。
 後に大いに悪口を言われることになるところの、ウマイヤ朝(Mu’awiya)のような初期のカリフは、キリストの磔刑の場所で祈ったり、地震で崩壊した後のエデッサ(Edessa)<(注11)>の司教聖座堂を復旧したり、公衆浴場の奇妙な公的碑文を十字架で飾り立てたりすることに何の異議も唱えなかった。・・・」(F)

 (注11)現在のトルコのトルコ領ウルファ。639年にイスラム勢力の手に落ち、この町でキリスト教徒に対するジズヤが生まれたとされる。第一回十字軍の際、1098年に、ここに最初の十字軍国家であるエデッサ伯領が成立したが、同伯領は、1159年に最初に失われた十字軍国家ともなった。
http://books.google.co.jp/books?id=54ge-4Z67t8C&pg=PA183&lpg=PA183&dq=Edessa%EF%BC%9BCathedral&source=bl&ots=pECy90nBGn&sig=1sIcaf6aWn3RZkmsjxeJrjtlmXI&hl=ja&sa=X&ei=s7WOT8WQIcfbmAWCsciTDA&sqi=2&ved=0CEoQ6AEwBQ#v=onepage&q=Edessa%EF%BC%9BCathedral&f=false (PP193) 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%87%E3%83%83%E3%82%B5%E4%BC%AF%E5%9B%BD

 ホランドは、キリスト教とイスラム教は、どちらも強力な皇帝達であるところの、それぞれ、コンスタンティヌス(Constantine。306〜37年)<(コラム#413、1026、1761、2766、3475、3483、4009、5396)及びアブド・アルマリク(Abd al-Malik。685〜705年)<(注12)>によって形成された(ないしは再形成された)ことを示唆する。

 (注12)「ウマイヤ朝の第5代カリフ・・・。ウマイヤ朝中興の英主と評価される。・・・<現在のパキスタン東南部の>シンド・<中央アジアの>ソグディアナ地方と<北アフリカの>モロッコ西部まで版図を拡大した。・・・アラビア語を公用語にしたことは功績のひとつといわれている。しかし、キリスト教徒を嫌って激しく弾圧した。・・・<また、>エルサレムに「岩のドーム」を建設している。これは、ユダヤ教徒によって神聖視されていた巨岩を覆って建てられた建物である。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%96%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%82%AF
 彼のキリスト教やユダヤ教に対する姿勢は、ホランドの言っていることと矛盾?(太田)

 実際、彼の説明によれば、この二人の皇帝は、ほとんどこの二つの宗教の真の教祖とも言えるのであって、イエスとムハンマドを「剣の影」に入れてしまったというのだ。
 少なくとも、キリスト教の場合は、これは皮肉なことであった、と言わざるをえない。
 というのも、最近の・・・何人かの新約聖書学者達は初期キリスト教の帝国に対する厳しい批判とされるものを掘り起こそうと努力してきたからだ。
 しかし、ホランドの論議には、説得力がある。
 古代末期(late antiquity)は古代世界(ancient world)の末端ではなかったのであって、それは、帝国と一神教が融合したところの、異常なほど創造的で形成的な時代であったというのだ。
 そして、良かれ悪しかれ、我々は、依然としてその帰結を生きている、というのだ。・・・」(G)

→インドのマウリヤ朝の第3代の王のアショーカ(在位:BC268?〜232?)は、大帝国と(一神教ならぬ)仏教を融合させたとされていますが、彼が本格的に仏教(法=ダルマ)による政治を追求したのは、インド亜大陸をほぼ統一した以降の統治10年目頃からです。
 「彼の摩崖碑文などでダルマの内容として繰り返し伝えられるのは不殺生(人間に限らない)と正しい人間関係であり、父母に従順であること、礼儀正しくあること、バラモンやシャモンを尊敬し布施を怠らないこと、年長者を敬うこと、奴隷や貧民を正しく扱うこと、常に他者の立場を配慮すること<(人間主義!(太田))>などが上げられている。・・・<なお、>彼はダルマが全ての宗教の教義と矛盾せず、1つの宗教の教義でもないことを勅令として表明しており、バラモン教やジャイナ教、アージーヴィカ教は仏教と対等の位置づけを得ていた。・・・
 <ところが、>晩年、<彼は、>地位を追われ幽閉されたという伝説があり、また実際に治世末期の碑文などが発見されておらず、政治混乱が起こった事が推測される。原因については諸説あってはっきりしないが、宗教政策重視のために財政が悪化したという説や、軍事の軽視のために外敵の侵入に対応できなくなったなどの説が唱えられている。・・・アショーカの死後、マウリヤ朝は分裂し<た。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%AB%E7%8E%8B

 つまり、仏教と前近代的大帝国とを両立させることは困難であることが分かります。
 これに対し、キリスト教やイスラム教と前近代的大帝国とは完全に両立したわけです。(太田)

 「・・・もしあなたが古代世界についての歴史家であり、ヒズブトタハリール(Hizb ut-Tahrir)<(注13)>のスポークスマンが全球的カリフの導入を要求するのを耳にしたならば、それはシーラカンスに出っくわしたようなものだ。

 (注13)解放党。1953年にエルサレムで、イスラム法学者・判事のタキウッディン・アルナブハニ(Taqiuddin al-Nabhani)によって創立され、全世界に100万人の会員を擁するとも言われる。イスラム教徒によって選出されるカリフ(caliph)をして、全イスラム教国が合邦したカリフ国(caliphate)をシャリアによって統治させることを目指す。なお、この一点を除き、民主主義は排する。
http://en.wikipedia.org/wiki/Hizb_ut-Tahrir
 アルナブハニ(1909〜77年)は、現在のイスラエルの北部のハイファに生まれ、ベイルートで亡くなった。
http://en.wikipedia.org/wiki/Taqiuddin_al-Nabhani

 それは我々を恐ろしくわくわくさせる。
 なぜなら、ヒズブトタハリールは、イスラム教より前、[ローマ皇帝の]コンスタンティヌスまで遡るヴィジョンを口にしているからだ。
 コンスタンティヌスの考えは、単一の神によって統治された単一の帝国でなければならない、というものだった。・・・
 カリフ[、すなわちアラブ帝国]となったところのものは、間違いなく、ローマとペルシャの両帝国が代表していたものをブロックとして構築されたに相違ないのだ。
 それがこの本のテーマなのだ。
 すなわち、この融解炉の中から、どのように、高度に独創的で他と劃された<イスラム>文明が出現したのか、については、自分としては、古代の諸帝国と諸宗教にそのルーツがあると考える、というのが、そのテーマなのだ。・・・」(E)

3 終わりに

 ホランドは、イスラム教は、コンスタンティヌスのキリスト教、すなわちカトリック(と正教)のキリスト教・・祭政一致の一神教・・の焼き直しである、と指摘しているところ、私にはすとんと胸に落ちるものがあります。
 (いつの間にか、ゾロアスター教の話がこの箇所では消えてしまっていますが、この点は追及しないことにしましょう。)
 ところで、ユダヤ教も祭政一致の一神教ですが、キリスト教とイスラム教のユダヤ教との違いは、パウロにさかのぼるところの、超民族的キリスト教の樹立にあるわけです。
 そして、振り返ってみれば、「カエサルのものはカエサルに収め、神のものは神に納めよ。」(コラム#5414)というイエスの言こそ、ユダヤ教の神がユダヤ人の首長から切り離して超民族的な神へと仕立て上げられていく布石になるとともに、この超民族的な神を信奉する新宗教(キリスト教)と大帝国(この場合はローマ帝国)の首長(皇帝)との癒着関係樹立への道を開く布石にもなったのでした。

 仮に、ホランドの指摘のように、キリスト教とイスラム教が一卵性双生児であるとすれば、イスラム勢力が東の、単なる兄弟宗教たるゾロアスター教を信奉する勢力は粉砕できたのに、北方のキリスト教を信奉する勢力の粉砕には部分的にしか成功しなかった理由も何となく分かろうというものです。

 しかし、ここで一つの疑問が生じます。
 どうして、キリスト教の一卵性双生児であったはずのイスラム教が、須臾の間に、キリスト教・・この場合はカトリシズム・・よりも一層反動的な存在へと堕してしまったのか、という疑問です。
 これまで、何度かこの疑問に答えようとするコラムを書いたものの、なお、飽き足らない気持ちでいたところ、この疑問を解く鍵は以下にこそある、と考えるに至りました。

 「・・・<アッバース朝が建国された750年から間もない>75<6>年前後に、イブン・アル=ムカッファ(Ibn al-Muqaffa)<(注14)>というペルシャ人の政治顧問に対して<カリフによって>死刑が宣告された。

 (注14)〜756年?。ゾロアスター教からイスラム教への改宗者。 アッバース朝第2代カリフのアル=マンスール(Abu Ja`far al-Mansur)によって死刑に処せられる。その理由としては、英語ウィキペディアは、ゾロアスター教の要素等の異端をイスラム教に導入しようとしたことであるとする。
http://en.wikipedia.org/wiki/Ibn_al-Muqaffa'
 聖職者達による法典編纂という発想は、ここにいう、ゾロアスター教の要素の一つだったのだろう。

 彼の四肢は胴体から切り離され、それらがオーブンの中でゆっくりと炙り焼きされるのを彼は見物させられ<た上で殺され>た。
 この処罰がムカッファに対してなされた理由の一つは、彼が涜神をなしたからだった。
 彼は、正義にかなった社会を促進するために、イスラムにおける神の法たるシャリアが、書かれた法典へと編纂されるべきことを、明らかに示唆したのだ。・・・
 ・・・コーラン<そのもの>は、わずか4つの罪・・窃盗、姦通、偽証、イスラムに対する戦争・・に対する処罰だけを認めていた<ことを想起せよ>。・・・」
http://www.nytimes.com/2012/04/17/books/heaven-on-earth-by-sadakat-kadri.html?hpw=&pagewanted=print
(4月17日アクセス)

 この処刑からも分かるように、ウマイヤ朝のアブド・アルマリクによって形成された原初イスラム教においては、アッバース朝の冒頭まで、首長(当時はカリフ)に世俗法に係る立法権・法解釈権が留保されていたからこそ、この首長の権限を奪うところの、シャリアの法典化の提案は死に値したというのに、その後、(イベリア半島に拠った後ウマイヤ朝を除く全イスラム世界の帝国たる)アッバース朝が長く続いた間に、このようなシャリアの法典化がなされることとなり、首長の立法権・法解釈権が奪われた(注15)結果、祭政一致そのものには変わりがなくても、宗教優位の祭政一致となり、世俗分野における革新が著しく阻害されることとなったと考えられるのです。

 (注15)「ウマイヤ朝末期、ウマイヤ家によるイスラム教団の私物化は<アラー>・・・の意思に反していると<し>、ムハンマドの一族の出身者こそがイスラム・・・の指導者でなければならないと主張するシーア派の・・・運動が広がった。こ<れ>はペルシア人などの被征服諸民族により起こされた宗教的外衣を纏った政治運動<だった。>
 <シーア派等>反体制のアラブ人とシーア派の・・・ペルシア人からなる反ウマイヤ朝軍は、749年9月にイラク中部都市クーファに入城し、アブー=アル=アッバースを初代カリフとする新王朝の成立を宣言した。翌750年、アッバース軍がザーブ河畔の戦いでウマイヤ朝軍を倒し、アッバース朝が建国された。
 <こうして、>シーア派の力を借りてカリフの座についた・・・アッバースは、安定政権を樹立するにはアラブ人の多数派を取り込まなければならないと考え、シーア派を裏切りスン<ニ>派に転向した。この裏切りはシーア派に強い反発を潜在させ・・・た。
 ・・・アッバース家が権力基盤を固めるには、イラクで大きな勢力を持つ非アラブムスリムのペルシア人の支持を取り付ける事が必要<とな>ったため、・・・非アラブムスリムに課せられていたジズヤ(人頭税)とアラブ人の特権であった年金の支給を廃止し、<イスラム教徒の間の>差別が撤廃された。
 <そして、>アッバース朝はウラマー(宗教指導者)を裁判官に任用するなどしてイスラム教の教理に基づく統治を実現し、秩序の確立を図った。つまり征服王朝のアラブ帝国が、イスラム帝国に姿を変えたのであるが、そうした変革をアッバース革命という。アッバース革命は、イスラム教、シャリ<ア>(イスラ<ム>法)、アラビア語により<イスラム教を信奉する諸>民族が<平等に>統合される新たな大空間を生み出すこととなった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%83%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%B9%E6%9C%9D
 「<イスラム法(シャリア)>・・・の内容は宗教的規定にとどまらず民法、刑法、訴訟法、行政法、支配者論、国家論、国際法・・・、戦争法にまでおよぶ幅広いものである。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%A2
 9世紀以降、伝統的イスラム諸社会において、イスラム法を解釈し(interpret)明らかにする(refine)権限は、イスラム学者(ウレーマ=ulema)の手に委ねられた。
http://en.wikipedia.org/wiki/Sharia

 それに対し、キリスト教(カトリシズム)世界では、早くも5世紀後半から、西ローマ帝国崩壊に伴って多数の首長が競い合うこととなり、世俗権力の一元化がなされず、祭政一致の前提が失われたまま推移したため、世俗法に係る首長の権限が奪われるといった、世俗分野において革新が決定的に阻害されるような事態は生じえなかった、と考えられるのです。

(完)

太田述正コラム#5424(2012.4.16)
<イスラム教の成立(その3)>(2012.8.1公開)

 (3)ササン朝ペルシャ/ローマ帝国とイスラム

 「・・・ホランドは、古代末期は没落と滅亡の時代ではなかったのであって、エネルギーと創意工夫性の時代であって、地中海周辺のローマとその東のササン朝の二つの帝国、及びこの二つを連接していたところの、「聖なる地」の宗教的かつ文化的坩堝、という文脈の下でアラブ世界とムハンマドの生涯が設定されたこと、を検証する。
 ホランドは、アラブ世界に影響を与えた可能性があり、更にイスラム教の生誕地であるメッカとメディナに影響を与えた可能性のあるところの、ペルシャとローマの諸システムの、それぞれの中における、主要な出来事、場所、観念、そして決定を取り上げる。・・・ 
 9世紀には、「神の代理人(Deputy)として誰かが統治する余地などないところの」、そしてそこから、「その他の無数の人々がイスラム教を鍛えあげて造るという重大な役割を演じる」余地などないところの、「イスラムの一バージョンの始まり」が受け容れられ、それが爾来プレゼンスを維持し続けてきたことは、ホランドのテーゼ<が打ち出されたこの本>を、イスラム教徒たる読者が読んだならば、抵抗感を覚えることが避けられないものにした。・・・」(C)

 「・・・ペルシャに関しては、火を崇拝するゾロアスター教の僧侶達が、機会主義的に、神の言葉であるマスラ(mathra)の最初の書き換え(transcription)を行い、それまで全権を持ってきた国王の家来ではなく、同格のパートナーであると自分達自身を昇格(promote)させたことが、<ホランドによって、>我々に紹介される。
 <そして、>最終的に、ローマに関し、利口なキリスト教神学者達が、地上と天上の諸王国の利害の間に完全な折り合いをつけ、「一人の皇帝、一人の神」という蠱惑的呪文を、次第に聞き分けがよくなっていった皇帝達に提供するのを、我々は目撃させられる。
 しかし、ホランドが指摘するように、この見事さと創意工夫性の全てがもたらしたところの、長らく希求されていた確実性<、をレコードのA面とすれば、そのレコードの>のB面は、ローマとペルシャの両世界における宗教的地平の不可逆的な縮減だったのだ。
 ローマ帝国では、正統なるローマ帝国的キリスト教の何たるかについての、次第に生硬さが増大する緒元(parameters)に収まり切らない信条を抱く人々は、自分達が次第に募る非寛容と迫害の対象となって行ったことに気付いた。
 6世紀には、いかなる、現実ないしは想像上の宗教的異議をも受け容れられないという沈鬱な状況が、何十年にもわたったところの、ローマとペルシャ諸帝国との間での、資源を枯渇させる、断続的な戦争によって一層悪化した。
 <そして、>同時代人にとっては突然湧き出てきたように思えたところの、新しい有力な力<であったイスラム教勢力>が、その結果として生じた力の真空に容赦なく付け入ることになったのだ。
ローマやペルシャの教養人の眼からすれば、アラブ人など、文明化した世界の辺境に思案に暮れて佇んでいるところの、途方もない(howling)砂漠と荒野出身の、どこの馬の骨とも知れない輩だった。
 ところが、1世紀経つか経たないうちに、アラブ人の諸軍勢は、東ローマ帝国の多くの部分を征服することに成功するとともに、ペルシャの完全な崩壊をもたらしつつあった。
 <彼らが征服したのは、>イラン、イラク、シリア、エジプト、そしてレヴァントを含む広大な地域だった。
 <このような、>彼らの成功の秘密は一体何だったのだろうか。
 これらの騒々しい出来事群を拾い集めたところの、2世紀後のアラブの学者達は、その答えを知っていた。
 それは、偉大なる預言者ムハンマドの教えの中に潜んでいたのだ。
 彼の聖なる諸啓示は、アラブ人に「以前の諸主人達と顔と顔を突き合わせることに勇気と本当の自信」を与えたのだ。・・・
 ・・・ローマ人達とペルシャ人達は、アラブ人侵攻者達の神政的諸声明の中の多くのものを<自分達は既に>良く知っている、と思ったことだろう。
 というのも、彼らが耳にしたのは、彼ら自身の言葉群や観念群に、異なった時代と観衆のために、手が加えられ(reworked)包装し直した(repackaged)もの<に他ならなかった>からだ。・・・
 ・・・初期のイスラム教にとっては、ペルシャのゾロアスター教、キリスト教、ユダヤ教、そしてグノーシス主義はすべて共通通貨的なものであって、その全てから、同教は、自由に拝借し、<こうして拝借したものを、>宗教的かつ文化的坩堝の中で鍛え上げたのだ。・・・」(B)

 「・・・540年代に古代世界を席巻した疫病<(注10)>の惨劇が、既存の両帝国を致命的に弱体化させたことも<この本の中で>暴露される。

 (注10)ユスティニアヌスの疫病(Plague of Justinian。541〜542年)。首都コンスタンティノープルを含む、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)で猖獗を極めた。14世紀の欧州を襲った黒死病同様、ペストによるもの。最盛期にはコンスタンティノープルだけで、毎日5,000人が死亡した。死者は東地中海世界の4分の1、計2,500万人にのぼったと見られている。
http://en.wikipedia.org/wiki/Plague_of_Justinian

 <実に、東地中海世界の>都市人口の半分前後が亡くなったのだ。
 というわけで、「コンスタンティノープルには黒死病の最も暗黒なる恐怖に匹敵するところの、疫病(死した人を投げ込む)立坑群があった。
 死体群は<そこへ>投げ入れられ、文字通り「神のワイン圧搾」によって踏み固められ、遺体群は敷き藁のようになった(mulched up)ため、[新しい]遺体を投げ入れると、それはカスタードに梅の実(plum stone)を沈めた場合のように沈んだ」とホランドは言う。・・・」(E)

 「・・・近東の総人口の3分の1を根絶やしにした6世紀の諸疫病・・ただし、砂漠の遊牧民<たるアラブ人>は、その影響を受けなかったように見える・・、シリアの砂漠にいたキリスト教神秘主義者達(mystics)、ペルシャ帝国を弱体化した諸叛乱、何十年も続いた東ローマ帝国によって起こされた諸戦争、そして、アラビアへの<ゾロアスター教、ユダヤ教、キリスト教等の>諸宗派の普及、の全てがこの物語に一定の役割を演じたのだ。・・・」(H)

(続く)

太田述正コラム#5422(2012.4.15)
<イスラム教の成立(その2)>(2012.7.31公開)

 (2)ムハンマドとコーラン

 「・・・ホランドは、この本をサルマン・ラシュディー<(コラム#174、303、1069、4196、4259、4261、4284、4321)>の驚くべき引用から始める。
 「福音主義者達に与えられているところの、キリストの生涯に関して与えられている権限の大きさはかなり小さい<ものの、分かっていないことは少なくない>。
 他方、ムハンマドの生涯については、多かれ少なかれ、我々はあらゆることを知っている。
 我々は、どこに彼が住んだか、彼の経済状況はどうだったか、彼が誰と恋に陥ったかを知っている。
 <また、>我々は、当時の政治状況と社会経済事情について極めて多くのことを知っている。・・・」(G)

 「・・・実際、預言者<ムハンマド>の実在を含め、<このような>伝統的な解説に沿ったところの、若干の事柄について、典拠となる証拠はたくさんある。
 預言者の記録された死の直後の時点から、その当時の文献的証拠が示すところによれば、自分達の<イスラム暦による>年号を刻み始めたことを我々は知っている。
 <また、>コーランの中に、コーランが預言者の生きていた間に作りだされたことの証拠がある。
 <コーランの>30章(sura<s=chapter>)1節(<Ayah=>verse)
< http://en.wikipedia.org/wiki/Quran >
は、614年にパレスティナがペルシャのホスロー2世(Khusrow II)<(注6)>の手に落ちたことを仄めかしている。

 (注6)?〜628年。国王:590〜628年。ササン朝ペルシャ[(パルティア同様、現在のバグダード付近のクテシフォン(Ctesiphon)に首都があった。)]の第22代国王。
http://en.wikipedia.org/wiki/Khosrau_II
http://en.wikipedia.org/wiki/Ctesiphon ([]内)

 <だから、>19世紀に、エルネスト・ルナン(Ernest Renan)<(注7)>が、「イスラム教は、他の諸宗教の起源をゆらす神秘の只中に生まれたのではなく、完全な歴史の光の中で生まれた」と主張したことには幾ばくかの根拠があるのだ。

 (注7)1823〜92年。「フランスの宗教史家、思想家。近代合理主義的な観点によって書かれたイエス・キリストの伝記『イエス伝』の著者。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%8A%E3%83%B3

 しかし、若干のギャップと不確定性があり、それらは信心深い人々の若干によって精力的に抑圧されてきた。
 ハディス<(コラム#205、387、389、1069、1081、1150、4068、4220、5192、5196、5202、5206)>が書き留められたのは何十年、時には何世紀も後であり、数と細かさが増大して行った。
 預言者が語ったことには法的な力があったので、有用なものがまさに<新たに>見つかった、と表明したい気になりがちだった。
 本当のものと紛い物とを選び分けるには何世紀もかかったわけだが、例えばヨゼフ・シャハト(Joseph Schacht)<(注8)>のような、若干の学者達は、「真正な情報の核がもともとは存在した」という観念は「放棄しなければならない」と宣言したものだ。

 (注8)1902〜69年。ドイツ系英国人。米コロンビア大学でアラビア語とイスラム教の教授を務めた。イスラム法の権威。
http://en.wikipedia.org/wiki/Joseph_Schacht

 預言者本人に関しては、諸伝記において、増量されて行く傾向があり、彼の生涯との直接的につながるものとしては、一定の時間が経った後からの口伝の物語があるだけなのだ。・・・」(F)

 「・・・アラビア語でのムハンマドへの最初の言及は、彼の死後60年近く経ってからのことであり、年代付きでの彼の生涯に関する最初の言及は彼の死の200年後のことであるし、コーラン以外でのメッカ(Mecca)への最初の言及は彼の死の100年後のことであるし、しかもそれは<何とヒジャース地方ではなく、現在の>イラクに位置していた。・・・」(H)

 「・・・ホランドが指摘するように、現存している最初のムハンマドの伝記は9世紀初頭のものであって、彼の生きた時代・・伝統的に紀元570〜632年とされている・・からほとんど2世紀後につくられたものだ。
 それとは対照的だが、イエスの生涯についての資料源は、対象となっている出来事群にはるかに近い時期につくられたものだ。
 パウロの書簡群はおおむね紀元50年代に書かれたし、梗概的な諸福音書ができたのは、通常、紀元1世紀の60年代末から80年代末であるとされている。
 実際、・・・最近の多数の研究は、福音書中の記述に歴史的信頼性があることについて、説得力ある説明をしている。
 ラシュディは、どうも間違っているようなのだ。・・・」(G)

 「・・・ホランドは、ムハンマドが実在の人物ではなかったとまでは言っていない。
 ハールーン・アッ=ラシード(Haroun al-Rashid)<(注9)>が支那から大西洋にまでに及ぶ帝国のカリフであって、『千夜一夜物語』が編纂されつつあったところの、800年代に<、初めて、ムハンマドのについての>説明がなされた、ということを、彼は単に言っているだけだ。

 (注9)766〜809年。カリフ:786〜809年。「アッバース朝第5代カリフ・・・3度にわたって行われた東ローマ帝国に対する親征でいずれも勝利を収め、アッバース朝の勢力は最盛期を迎えた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%83%EF%BC%9D%E3%83%A9%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%89

 細部まで信憑性があるのか、或いは、預言者の生涯でもっと重要な諸瞬間の若干について信憑性があるのか、を検証するのは不可能だ、というのだ。
 同じことがコーランについても言える、というのだ。・・・
 <しかし、>ホランドは、口承的伝統の価値の重視の度合いが十分ではないのではないか。
 この<口承という>経路をたどってコーランは受容され、初期において保持された、とされているのだから。(ちなみに、ムハンマドは文盲であったと多数の人々によって信じられてきたところだ。)・・・」(A)
 
(続く)

太田述正コラム#5420(2012.4.14)
<イスラム教の成立(その1)>(2012.7.30公開)

1 始めに

 「黙示録の秘密」シリーズで、キリスト教の本質について考えてきましたが、そうなると、キリスト教の「姉妹宗教」であるところの、イスラム教についても、その本質を考えてみたくなります。
 時あたかも、トム・ホランド(Tom Holland)が、イスラム教の成立を扱ったところの、『剣の影の下で:全球的帝国を目指しての戦いと古代世界の終焉(In the Shadow of the Sword: The Battle for Global Empire and the End of the Ancient World)』を上梓し、英国で大いに話題になっているので、この本のさわりを、書評類をもとに紹介した上で、私のコメントを付すことにしました。

A:http://www.guardian.co.uk/books/2012/apr/05/shadow-sword-islam-tom-holland-review
(4月6日アクセス。書評(以下同じ))
B:http://www.ft.com/intl/cms/s/2/35832c30-7e52-11e1-b20a-00144feab49a.html#axzz1rJIUVtoF
(4月7日アクセス)
C:http://www.telegraph.co.uk/culture/books/historybookreviews/9174113/In-the-Shadow-of-the-Sword-by-Tom-Holland-review.html
(4月12日アクセス。以下同じ)
D:http://www.telegraph.co.uk/culture/books/bookreviews/9188586/In-the-Shadow-of-the-Sword-by-Tom-Holland-review.html
E:http://www.thebookseller.com/profile/tom-holland.html
F:http://www.spectator.co.uk/books/7746568/prophetic-times.thtml
G:http://christianityandhistoryforum.blogspot.jp/2012/04/tom-holland-on-islam-christianity-and.html
H:http://www.scotsman.com/the-scotsman/books/interview-tom-holland-author-of-in-the-shadow-of-the-sword-1-2221063
(インタビューをまとめた記事)

 なお、ホランドは、1968年生まれの英国の小説家、歴史家であり、幼少時から歴史に強い関心があったけれど、ケンブリッジ大学では英語を専攻して優秀な成績を収め、
http://en.wikipedia.org/wiki/Tom_Holland_(author)
吸血鬼小説作家として社会生活を始めます。(H)
 「・・・ホランドは、二つの大成功した古代史の本の著者だ。
 成功したというのは、創造的な意味と商業的な意味の双方においてだ。
 『ルビコン(Rubicon)』では、彼はローマ帝国の終焉を追った。
 『ペルシャの火(Persian Fire)』(コラム#867)では、彼は、5世紀におけるペルシャ人とギリシャ人の間の紛争、すなわち、東と西の間の紛争に焦点をあてた。
 <今回の>『剣の影』は、これらよりも野心的で、かつより重要な本だ・・・」(A)

2 イスラム教の成立

 (1)序

 「・・・コーラン研究、初期イスラム史、ローマ、ペルシャ、そしてタルムードの(Talmudic)諸研究<がそれぞれなされてきている。>
 しかし、全体を見渡すと、このような様々な学問領域の専門家達は他で並行して何が行われているのかにほとんど気付くことがない。・・・」(H)

 「・・・<この本は、>紀元400年から800年まで<のイスラム教成立史を総合的なアプローチでもって扱っている。>・・・」(E)

 「・・・紀元224年に建国されたペルシャ帝国<(注1)>が絶頂期を迎えた時から750年のアッバース朝カリフ(Abbasid caliphate)<(注2)>の勃興までの道程を踏み固めつつ、ホランドのこの新しい本は、紀元後の最初の1,000年間の世界が、一つの神、三つの宗教、そして数えきれないほどの代々の皇帝達によって支配される過程を追う。

 (注1)「サーサーン朝([Sassanid Empire]・・・22[4]年〜651年)は・・・首都はクテシフォン[(Ctesiphon)](現在のイラク)。・・・《パルティア王国》[(Parthian Empire)を継ぎ、]アケメネス朝ペルシャ[(Arsacid Empire)]の復興を目標とした。その支配領域は・・・、おおよそ・・・アルメニアから・・・アフガニスタン周辺まで及んだ。《ゾロアスター教を正式に「国教」と定め、儀礼や教義を統一させた。その時、異端とされた資料は全て破棄された。他宗教も公式に禁止された。<こ>の国教化に重要な役割を果たしたカルティールはマニ教を異端とし、教祖マニを処刑した。》」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%B3%E6%9C%9D
http://en.wikipedia.org/wiki/Sassanid_Empire ([]内)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BE%E3%83%AD%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E6%95%99 (《》内)
 (注2)「イスラム帝国第2の世襲王朝(750年〜1258年)<であり、>・・・ムハンマドの叔父アッバースの子孫をカリフとし、最盛期にはその支配は西はイベリア半島から東は中央アジアまで及んだ。・・・首都<は>バグダード<。>・・・1258年にモンゴル帝国によって滅ぼされてしまう。しかし、カリフ位はマムルーク朝に保護され、1518年にオスマン帝国スルタンのセリム1世によって廃位されるまで存続した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%83%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%B9%E6%9C%9D

 イスラム教の例外主義の第一諸原則の大部分に挑戦するこの本の中で、ホランドは、7、8、9世紀の間にオクソス(Oxus)河とピレネー山脈の間に蟠踞したところの、巨大なアラブ帝国を、西ローマ帝国の混沌のうちの崩壊以降の地中海と中東に君臨した超国家群のうちの「最後の、クライマックスの、そして最も永続的な」ものとして描く。
 イスラム教は、予言者<ムハンマド>が神の啓示を洞窟で610年に受けた時に、或いは、彼が622年頃にメッカからメディナに逃れた時に、完全に形成された形で生まれたわけではない、とホランドは主張する。
 実際、この宗教は、現在の形・・厳格な一神教で、その宗祖のムハンマドの記憶と教えにこの上もなく忠実で、その聖なる文書の言葉によって治められ、熱狂的な王侯達と強力な聖職者達によって監督される・・をとるまで2世紀近くかかったのだ。
 この2世紀の間、イスラム教と諸カリフは、出現しつつあった他の諸宗派と時の諸帝国・・ペルシャのゾロアスター教(Zoroastrianism)<(注3)>、東ローマのキリスト教、そして、領域的帝国は持っていなかったけれど、その教えの力(potency)によってパレスティナ、アラビアその他において持続していたユダヤ教・・<の、それぞれ>の成功にとって必須であったところのもの、のほとんど全てを取り込んだ。・・・

 (注3)「イラン高原北東部に生まれたザラスシュトラ<({紀元前13世紀?〜紀元前7世紀?})が>・・・開祖<の宗教。>・・・ゾロアスター教は、善と悪の二元論を特徴とするが、善の勝利と優位が確定されている宗教である。一般に「世界最古の一神教」と言われることもある・・・研究者によっては歴代<ペルシャ>王朝の支配下でゾロアスター教は「国教」であったと見なす場合もあるが、見解は統一されていない。・・・アケメネス朝ペルシアは、異民族の宗教に対して寛容であった。したがって、仮にゾロアスター教がアケメネス朝ペルシア帝国の「国教」であったとしても「支配者の宗教」という意味に限定されると考えられる。・・・<ちなみに、>・・・元来は寺院や偶像崇拝を認めなかったが、・・・<ギリシャ系の>セレウコス朝<の時、>・・・他文明の影響で受容するように変化した。・・・<また、>パルティアの宗教はゾロアスター教でなく「ミスラ教」に変質した可能性がある。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BE%E3%83%AD%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E6%95%99 上掲
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B6%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%88%E3%83%A9 ({}内)
 「ゾロアスター教の神学では、この世界の歴史は、善神スプンタ・マンユと悪神アンラ・マンユらとの戦い・・・であるとされる。 そして、世界の終末の日に最後の審判を下し、善なるものと悪しきものを再び分離するのが アフラ・マズダーの役目である。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%BA%E3%83%80%E3%83%BC

 ユスティニアヌス(Justinian<483〜565年。皇帝527〜565年>)<(コラム#545、1405、2384、4450、4822)>のキリスト教ローマ帝国が<キリスト教>の神を崇拝しない者に重税を課したように、アラブ人達は、(ジズヤ(jizya)<(注5)>として知られているところの)人頭税を、自分達の支配下に入ったユダヤ人とキリスト教徒に課した。・・・」(D)

 (注5)「アッバース<朝の下で>・・・ジズヤはもっぱら非ムスリムに対するものとなった・・・非ムスリムはジズヤを支払うことにより、制限つきではあるもののズィンミー(庇護民)として一定の生命・財産・宗教的自由の保証が得られた。ジズヤは・・・ユダヤ教徒やキリスト教徒、いわゆる啓典の民に対するもので、それ以外の非ムスリムには改宗を迫ることが原則だったが、イスラーム世界の拡大によって実質的にはすべての非ムスリムに対するものとなった。・・・ジズヤを課せられるのはズィンミー身分に属する健康な自由人の成人男性である」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%BA%E3%83%A4

 「・・・ホランドにとっては、全ての一神教・・ゾロアスター教、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教・・は、相互に影響を及ぼしあっており、それは、それぞれが経典を持った宗教へと分離を始めた時においてもそうだったのだ。・・・」(H)

(続く)

太田述正コラム#5206(2011.12.30)
<リベラルなイスラムは可能か(その5)>(2012.4.16公開)

3 アキョール批判

 (1)コーランだけのイスラム教などありえない

 コーランは、(原文のアラビア語で)朗読すると耳に心地よいけれど、その中身は、ユダヤ教やキリスト教徒にお馴染みの旧約聖書由来の物語の焼き直しが多く(コラム#16)、しかも繰り返しが多く、無味乾燥で、面白くもなんともなく、かつ、現代人たる我々の感覚からすると、何とも好戦的であるとともに、時代遅れ、ないし野蛮な記述が多数見られます。(直接、コーランの邦訳にあたって確かめていただきたい。)
 だからこそ、と言うべきか、アラビア語を解する人を含め、イスラム教信仰でコーラン(の中身)が占めるウェートは低いのであって、イスラム教の魅力は、「強い社会・生活規制(宗教に由来する法、安息日・食物禁忌等)がある」(コラム#19)ところ、むつかしいことは何も考えず、かかる社会・生活規制に従って生きることで、最低限の社会的連帯意識が醸成されるとともに、個人的救済の保証という安心感が得られる、というところにあるのです。
 アキョールは、「強い社会・生活規制」を規定しているところの、ハディスやシャリアを否定し、コーランだけへの回帰を主張しているわけですが、そんなことをすれば、大部分のイスラム教徒にとっては、上述した社会的連帯意識や個人的救済保証感が失われるだけでなく、上述したコーランの様々な欠陥と直面させられて幻滅させられることとなり、その結果、イスラム教が壊滅するであろうことは日の目を見るよりも明らかでしょう。

 より根本的な点ですが、アキョールが、ロバート・R・レイリーの指摘、すなわち、イスラム世界の停滞は、コーランが「神の言葉」とみなされていることの論理的帰結である(コラム#4218、4220、4222、4224)、にも正面から応えようとする努力を放棄してしまっているように見えることも遺憾です。 

 (2)トルコの正義開発党政権への評価が高すぎる

 アキョールについて、もう一点指摘せざるを得ないのは、トルコの現正義開発党政権への評価が高すぎる点です。

 確かに、下掲のように、同政権には評価すべき点が多々あることは認めます。

 「トルコ・・・経済は、レセプ・タイイップ・エルドガン(Recep Tayyip Erdogan)が首相の座に就いてからというもの、三倍の規模になり、彼の政府は、トルコ革命100周年にあたる2023年までに、トルコを世界第10位の規模の経済にするビジョンを発表した。・・・
 ・・・トルコは、そのアイデンティティ・クライシスをほとんど解決した。
 欧州か中東か<(欧州)(太田)>、宗教的か世俗的か<(世俗的)(太田)>。東か西か<(西)(太田)>、地域的か全球的か<(地域的(?))(太田)>という対立軸でアイデンティティを構成することに代わって、トルコは、現在では、その優位をパートナーシップ・・イスラムと世俗、東と西、地域的と全球的<の総合(太田)>・・において構成する。・・・
 トルコは、若者に上昇移動の他の諸経路を提供するためにその歴史を通じての予算における最高の割合を教育に費やしている。」
http://www.foreignpolicy.com/articles/2011/12/27/the_turkish_roundabout?page=full
(12月29日アクセス)

 そして、下掲のように、トルコが欧州を部分的にではあれ、「凌駕」しつつある印象を我々に与えつつあることも事実です。

 「「フランスがアルジェリアでやったことはジェノサイドだった」とエルドガンは、極めて個人的な演説にフランス大統領のニコラス・サルコジへの批判をちりばめた。
 エルドガンは、1945年から62年までのフランス占領下で、アルジェリアの総人口の約15%が虐殺されたと述べた。
 「彼らは情け容赦なく殉教させられた。
 もしサルコジがそれがジェノサイドであったことを知らないのであれば、自分の父親のパル・サルコジに聞けばいい。1940年代に、彼は駐アルジェリア仏外人部隊員(legionnaire)だった。
 この父親は、息子にフランスがアルジェリアで犯した虐殺についてたくさんのことを教えてくれることだろう」と。
 パル・サルコジは、フランスのTVで語った。
 「私はアルジェリアにいたことなど一度もない。
 私は外人部隊に4ヵ月在籍したが、マルセイユより遠くに行ったことはない」と。
 この<両国間の>ケンカは、何週間にもわたって燻っていたが、22日にフランスの下院議員達がアルメニア人のジェノサイドを否定する者に一年間の投獄と45,000ユーロの罰金を科すことができるとする法案を可決したことで爆発した。・・・
 トルコは、サルコジの与党である右派のUMP党が、このジェノサイド法を翌年の大統領選及び下院議員選で500,000人のアルメニア系フランス人の投票者達を惹きつけるために用いていると非難した。
 仏社会党もまた、ジェノサイド否定を犯罪化することを支持した。・・・
 この、ジェノサイド否定を犯罪化する法律は、来年仏上院で審議される。
http://www.guardian.co.uk/world/2011/dec/23/turkey-accuses-france-genocide-algeria
(12月24日アクセス)

 いささか、勇み足気味のところもあるけれど、エルドガンの主張の方が筋が通っていると思われることでしょう。
 国家が特定の歴史解釈を押しつけるだけでなく、かかる歴史解釈を否定することを犯罪とするなど、その対象がユダヤ人に対するドイツによるジェノサイドだろうがアルメニア人に対するトルコによるジェノサイドだろうが、当該国家が近代国家を標榜するのであれば、あってはならないことだからです。

 他方、下掲のようなことがエルドガン政権下で行われているのは、到底看過するわけにはいきません。

 「9.11同時多発テロ以来、トルコは、13,000人近い人々をテロがらみの罪で有罪としたが、これは中共を含む66カ国中、最も数が多い。・・・
 裁判前の勾留は長く、警察権限は広範であり、薄弱な証拠で捜査が開始され、逮捕者を代理する弁護士達の逮捕が次第に増大していること、はトルコが被害者/被告の権利について深刻な問題を抱えていることを意味する。」
http://www.csmonitor.com/World/Middle-East/2011/1226/Is-model-Turkey-sliding-into-authoritarianism
(12月27日アクセス)
 「現在、100名近くのジャーナリストがトルコの牢獄に入っている。
 彼らの大部分はテロ裁判待ちで勾留されており、残りの多くは対テロ諸法で有罪となったものだが、新聞の諸機関は、これらの法は、解釈の幅があるし、政府とその対テロ諸政策に対する批判を抑圧するために用いられていると見ることもできる、としている。
 過去においては、多くのジャーナリストや著述家達がトルコ刑法の悪名高い第301条に基づいて告発されてきた。
 同条は、「トルコ性に対する侮辱(insulting Turkishness)」を犯罪としている。
 また、長い勾留期間は、それ自体が一種の刑罰と化しており、既に9カ月も勾留されている、ジャーナリストのアハメト・シク(Ahmet Sik)とネディム・セネル(Nedim Sener)の事例<(注18)>はまさにそうだ。・・・

 (注18)シクは1970年生まれ。
http://en.wikipedia.org/wiki/Ahmet_%C5%9E%C4%B1k
 シクはセネルらと共に、世俗主義者達と超ナショナリスト達によるテロでもって正義開発党政府を転覆するためにニュース・ウェブサイトをフロントとして用いたとの、いわゆる「エルゲネコン」陰謀("Ergenekon" plot)に関与した嫌疑がかけられている。
http://www.freemedia.at/awards/nedim-sener/

 投獄されているジャーナリストの多くはクルド人であり、トルコ、米国、そしてEUにおいてテロ組織に指定されているところの、クルド労働者党、ないしはPKKのプロパガンダを広めたと非難されているものだ。」
http://blogs.wsj.com/emergingeurope/2011/12/26/turkeys-ak-party-democratization-package-to-free-expression/?mod=WSJBlog&mod=emergingeurope
(12月27日アクセス)
 「・・・アラブの春の蜂起以来、トルコは発展途上の中東諸民主主義国がマネをすべき青写真として喧伝されている。
 しかし、多くの観察者達は、トルコの少数民族のクルド人に対する扱いからして、同国が果たして模範例とみなされる権利があるかどうかについて、疑問を呈している。
 今年、4,000人を超える<クルド>人達が、恣意的なテロ嫌疑の下に逮捕された。
 その中には、先週逮捕された何ダースものジャーナリスト達が含まれている。
 そして、クルド分離主義者達に対する軍事作戦は激しくなり、12月だけで少なくとも27人が殺され、ゲリラ達は治安部隊や一般住民に対する暴力的攻撃をエスカレートさせている。・・・」
http://www.guardian.co.uk/world/2011/dec/28/kurds-turkey-arrests-violence-radicalise
(12月30日アクセス)

 私見では、現正義開発党政権下のトルコの瞠目すべき資本主義的高度経済成長も、憂うべき人権状況も、中共におけるそれと好一対であり、同政権が今後、一層中共の顰に倣って、選挙制度や議会制度を蔑にするファシスト政権化する可能性を誰も否定することはできないでしょう。
 アキョールは、現政権に対して甘すぎる、と断定せざるを得ないのです。

4 終わりに

 以上を読まれて、アキョールの標榜するリベラルなイスラムなど、矛盾語法(oxymoron)以外のなにものでもない気がされてきたのではありませんか。
 それはさておき、正義開発党も、このアキョールも、(後者が前者と比較して、イスラム的「社会・生活規制」志向がゼロ、かつ、人権をより重視する、という違いこそあるものの、両者ともに、)トルコがケマリズムという国家宗教を廃棄するにあたって、いきなり世俗化の道をつきすすむことに不安を覚えるトルコ国民が多いことから、ケマリズム以前の(オスマントルコ時代のトルコの)国家宗教であったイスラムを掲げることでこの不安を緩和する役割を果たしている、と我々は理解すべきでしょう。
 我々としては、正義開発党政権が微妙な舵取りに失敗して、(悪くすると)イスラム原理主義政権化したり(それほど悪くしなくても)ファシスト政権化するようなことのないよう、トルコ内のイスラム廃棄論者やアキョールのような(本人はむきになって否定するでしょうが)隠れイスラム廃棄論者に声援を送る一方で厳しい監視の目を光らせて行く必要がある、と思うのです。

(完)

太田述正コラム#5202(2011.12.28)
<リベラルなイスラムは可能か(その4)>(2012.4.14公開)

 「シャリアの中の最も専制的な要素は、イスラムにおける<神の言葉である>コーラン後の(すなわち、「人がつくった」)部分に由来する。
 ・・・この「人がつくった」伝統中のリベラルな諸系統は、我々が近代世界において直面しているところの、より生硬な陣営、就中その最も純粋な形態たるワハブ主義<(注14)(コラム#50、55、60、87、320、327、386、387、1649、2458、2646)>、によって抑圧された。・・・

 (注14)Wahhabism=Wahhabi。サウディアラビアのネジド(Najd)出身の18世紀のイスラム神学者のムハマド・イブン・アブダルワハブ(1703〜92年)によって創始されたイスラムの一派。ワハブ主義はサウディアラビアの王家たるサウド家と一体化している。ワハブ主義は、イスラムの純化と革新を目指す。ワハブ主義とサラフィ(Salafi=al-hadith=ハディスを遵守する人々)主義とを同じものと考える人と、前者を後者の独特の形態と考える人がいる。そのような人々は、ワハブ主義を超保守主義的にして異端的であると見る。
http://en.wikipedia.org/wiki/Wahhabi

 ・・・私<(アキョール。以下同じ。(太田))>が表明する諸観念は、既に様々な神学者、例えば近代主義者たるトルコの「アンカラ派(Ankara school)」<(注15)>によって提起されているものだ。

 (注15)1949年にトルコ政府が設立したアンカラ大学神学部(faculty of divinity at Ankara University)に淵源を持つイスラム復興運動を指していると思われる。
 1980年代に、欧米哲学、マルクス社会学、急進的イスラム政治理論等を混淆することによって、イスラムを復興し、西欧におけるような、脱宗教化、資本主義ないし社会主義の下での物質主義を排し、トルコにおいて、社会悪に対して批判的でありつつ、倫理的諸価値や宗教の精神的次元に忠実であろうとする運動が起こった。
http://en.wikipedia.org/wiki/Islam_in_Turkey

 私のやったことは、無味乾燥な学術諸論文から、それらの諸観念を抽出し、それらをより分かりやすく(accessible)、かつ、望むらくは、より広範な観衆にとって説得力あるものにすることだった。・・・
 例えば、中世における、世界の「戦争の地域(House of War)」と「イスラムの地域(House of Islam)」への二分<(注16)>は、今日では完全に意義を失っている。

 (注16)イスラムの地域=Dar al-Garb(イスラム教徒が自由に信仰できる地) に対するに、戦争の地域=Dar as-Salam/Dar al-Tawhid(それができない地)。コーランにもハディスにも記述はなく、アブ・ハニーファ(前出)によって初めて示唆された考え方。
http://en.wikipedia.org/wiki/Divisions_of_the_world_in_Islam

 というのは、多くのイスラム教徒は、非イスラム教徒が統治している地における方が、より安全であると感じているからだ。」(E)

 「コーランは・・・もし神の言葉(verses)が嘲られたら、単に、そのような人々とは席を同じくするな、と言っている。
 だから、それがいわんとしているのは、イスラム教徒は、彼らが傷つけられたと感じる攻撃的修辞に対しては、単にボイコットすることができるだけであって、彼らは、これらの人々を暴力でもって沈黙させる必要はない、ということなのだ。・・・
 <また、>コーランの第24章には、女性に対して、彼女が姦淫したと非難するにあたっては、4人の証人を必要とする、と書いてある。
 これは、それができない者には、誰も耳を貸してはならない、ということなのだ。
 つまり、基本的には、嫉妬心が強すぎる夫たちから妻達を守ろうとしているわけだ。」(F)

 「・・・近代イスラム世界には、異なった二つの極端なものが存在する。
 世俗的専制主義に対するにイスラム専制主義の二つだ。
 この本の章の中の一つで、私は、中東における世俗的専制主義が、いかにそのイスラムにおける対抗的存在を創造したかを示している。
 イランにおけるレザ・シャー(Reza Shah)<(注17)(コラム#30、203、660、771、775、869、1380、1538、1578、1579、1649、1876、3351、3361、3425、4507、4509、4735)>によるイスラム的慣行(practices)の抑圧と、それに対するイスラム的反応が最終的にイラン革命をもたらしたことが一つの際立った例だ。

 (注17)パーレヴィ=パーレビ=Mohammad Reza Shah Pahlavi。1919〜80年。イラン皇帝(Shah):1941〜79年。パーレヴィ王朝の2代目にして最後の皇帝。
http://en.wikipedia.org/wiki/Mohammad_Reza_Pahlavi

 しかし、私は第三の道があると信じており、私はそれをイスラム・リベラリズムと呼んでいる。・・・
 私は世俗的国家を選ぶが、トルコ的世俗的国家は好まない。
 なぜなら、後者は、特定の形態のイスラム教を押し付け、かつ、イスラム教の慣行を抑圧するからだ。
 宗教は、リベラルな世俗国家の下において、かつ、市民社会の中において、最も幸せで繁栄するのだ。・・・
 <今次アラブの春において見られるように、>テュニスとエジプトのイスラム諸政党は、<トルコの>正義開発党(AK党)を自分達の先例として用いた。・・・」(G)

(続く)

太田述正コラム#5200(2011.12.27)
<リベラルなイスラムは可能か(その3)>(2012.4.13公開)
          
 (2)「リベラルなイスラム」を目指して

「20世紀を通じて、トルコと他の中東諸国は、世俗的専制主義と宗教的専制主義の間の選択を提供された。
 <しかし、>イスラム世界に必要なのは、「イスラムとリベラリズムの止揚」であるとアキョールは言う。
 現在のトルコは、この理想に最も接近しつつある。・・・
 彼は、7世紀に編纂されたコーランが、その時代と場所の伝統の頸木を断ち切り、財産に対する保護の権限を与え、理性による判断を呼びかけ、(専制君主の気まぐれによる統治とは対蹠的な)法の支配の観念を促進したことを銘記する。・・・
 それをおちぶれさせたのは何かをめぐる議論が何世紀にもわたって猛威を振るっている。
 アキョール氏は、それが、中東における「砂漠の文化」の勝利のせいだとする。・・・
 初期の段階においては、イスラムは「商人達、及び彼らの合理的で活気に満ち、かつ世界主義的な思考傾向によって駆動された」宗教であった、とアキョール氏は言う。
 しかし、究極的には、「東洋のより強力な階級であるところの、地主達、兵士達、そして小作人達が支配的となり、より少なく合理的でより多く静的な思考傾向がこの宗教を形作り始めた。
 そして、交易が減衰すればするほど、イスラム教徒の考え方はより停滞して行った。」・・・
 近代的な<トルコ>共和国の建国者たるケマル・アタチュルク(1881〜1938年)は、リベラルにとっては遺憾なことに、彼の共和制的世俗主義の霊感をフランスの生硬なフランス的世俗主義(laicite)<(注10)>から得た。それは、宗教を国家の下に置いてしまった。

 (注10)国家世俗主義(state secularism)とも言い、国家と宗教の完全分離を特徴とする。
http://en.wikipedia.org/wiki/La%C3%AFcit%C3%A9

 アタチュルクの中央集権的政府と国家主義的経済的諸観念は、ビスマルク(Bismarck)のドイツ由来だ。・・・

 (注11)Otto von Bismarck。1815〜98年。ドイツ帝国宰相:1871〜90年。プロイセン首相(Minister President):1862〜73年、1873〜90年。
 「<彼が就いていた>ドイツ帝国とプロイセン王国双方の役職から、ビスマルクは、ドイツ帝国の内政と外交政策に対するほぼ完全なコントロール権を有していた。・・・
 1873年に、ドイツと欧州及び米国の多くが長い不況期に入った。・・・ビスマルクは、自由貿易を放棄し、保護関税網を構築することとした。・・・<こうして、彼は、>1879年にドイツの農業と工業を外国の競争相手から守るための各種の関税を施行した。・・・
 ドイツは、プロイセン<王国>とザクセン<王国>において、1840年代から始まるところの、福祉制度の長い伝統を有した。
 1880年代における、ビスマルクの社会保険制度は、世界最初のものであり、他の諸国のモデルとなり、近代福祉国家の基礎となった。
 ビスマルクは、老齢年金、損害保険、医療<保険?(太田)>、雇用保険を導入した。」
http://en.wikipedia.org/wiki/Otto_von_Bismarck#Economy

 アキョール氏の英雄は、トゥルグット・オザル(Turgut Ozal)<(注12)>だ。

 (注12)1927〜1993年。クルド人の血が混じる。イスタンブール工科大学卒。トルコ首相:1983〜89年。トルコ大統領:1989〜93年。国営企業の民営化に着手した。
http://en.wikipedia.org/wiki/Turgut_%C3%96zal

 彼は、1993年の早すぎた死までの10年間、トルコの政治を牛耳った。・・・
 首相として、エルドガン(Erdogan)<(注13)>氏は、オザルの遺産の上に<現在のトルコを>築いたのだ。」(B)

 (注13)Recep Tayyip Erdoğan。1954年〜。貧しい家庭に生まれ、高卒後、経営学を学ぶ。若い頃、地方のクラブのセミプロのサッカー選手だった。イスタンブール市長に当選するも、市長時代に吟じた詩がもとで投獄される。2003年にトルコ首相に就任、現在に至る。
http://en.wikipedia.org/wiki/Recep_Tayyip_Erdo%C4%9Fan

 「(13世紀末から始まり20世紀にまで至る)オスマン帝国になってようやく、イスラムは経済的足がかりを再構築し始めた。
 言ってみれば、オスマン帝国は、もちろん、イスラムにとっての「ルネッサンス時代」だったのだ。
 それは、思想、芸術、哲学、そして文化というたくさんの分野にわたる偉大なる刷新の時だった。・・・

→アキョールが何のことを言っているのか不明です。
 そのスルタンのアハメッド(Ahmed)3世の時のいわゆるチューリップ時代(1718〜30年)が欧州のバロックやロココ文化の影響を受けてのものであった以来、オスマントルコの「思想、芸術、哲学、そして文化」は、欧州文化の表層的輸入とその立ち枯れの連続に過ぎないからです。
 唯一、評価できるとすれば、それは、欧州で迫害されていたユダヤ人を積極的に受け入れ、交易の振興を図ったことでしょう。
http://en.wikipedia.org/wiki/Ottoman_Empire (太田)

 トゥルグット・オザル・・・の諸政策は、観念、宗教、及び事業の自由に立脚していた。
 オザルは、アキョールによれば、自由交易の上に構築された計画経済が健全なる(robust)トルコ経済の基礎をつくると信じた。
 オザルの時代は、その早すぎる(自然)死によって終わり迎えたが、オザル革命として知られている。」(C)

(続く)

太田述正コラム#5196(2011.12.25)
<リベラルなイスラムは可能か(その2)>(2012.4.11公開)

 「合理主義者達(rationalists)は、8世紀から13世紀までの間において、偏狭な「伝統主義者達(traditionists)」との観念(ideas)の戦争・・ahl al-rayとahl al-hadith、すなわち、理性の人々と伝統の人々の間の闘争・・に敗れた。
 イスラム教は、人間と神の間に確立された教会がないところの、個人的な神中心的(theocentric)な宗教から神政的(theocratic)な宗教へと移行した。
 神がムハンマドに啓示したコーランは、この預言者に帰せられるところの言動であるハディスによって影が薄くなった。
 ハディスは、ムハンマドの死後何世紀も後に書き下された伝説と伝聞に拠っている。
 それは、アキョールの言葉である、(例えばムハンマドが死んでから生まれたある集団に彼が発したと信じられている呪い(anathema)といった、捏造だらけの「預言者学(Prophetology)」に属するところの、一種の伝承(lore)(またはスンナ(sunna)<=イスラム教徒にとっての標準として定められた生活様式
http://ejje.weblio.jp/content/sunna
>)なのだ。
 ハディスは、砂漠社会の権力政治と社会的習俗(mores)を反映しており、シャリアの中におけるコーランの影を薄くし、古典的イスラム法学の前進の推力となり、フランスの歴史家のマキシム・ロダンソン(Maxime Rodinson)<(注4)>が「ポスト・コーラン・イデオロギー」と呼んだもの・・それは合理的探究の範囲を制限するために特に設計された・・を創造した。

 (注4)1915〜2004年。フランスのマルクス主義歴史家、社会学者、東洋学者。
http://en.wikipedia.org/wiki/Maxime_Rodinson

 このアブ・ハニーファ(Abu Hanifa)<(注5)>の合理主義(ないしはムウタジラ(Mutazilite)<(コラム#4220)>)派は、中世世界における最も偉大な考え方の種を蒔いたが、今日のサウディアラビアで行われているところのワハブ主義(Wahhabism)の先駆けのアハマド・ハンバル(Ahmad Hanbal)<(注6)>によって横にどけられてしまった。

 (注5)699〜767年。現在のイラクのクーファ(Kufa)に生まれる。時のアッバース朝のカリフが彼を主任裁判官に任命しようとした時に彼が就任を拒んだために投獄され、獄死した。
http://en.wikipedia.org/wiki/Ab%C5%AB_%E1%B8%A4an%C4%ABfa
 (注6)Ahmad ibn Hanbal。780〜855年。現在のイラクのバクダードに生まれる。時のアッバース朝のカリフがムウタジラ派を正統とした時に、決して屈しなかったことで有名。
http://en.wikipedia.org/wiki/Ahmad_ibn_Hanbal

 ハンバルは、「ムハンマドの伝統の中に先例を見つけることができなかったが故に一個のスイカすら決して食べなかったことで有名」であり、彼は、「「ムハンマドは投票しなかった」と唱えて民主主義のような「革新(innovations)」を拒否する、幾ばくかの原理主義的イスラム教徒達」と共鳴する。・・・
 知的停滞と「革新」禁止命令(proscription)によって、交易と経済のダイナミズムは減退した。
 累次の十字軍は、イスラム世界の中心を地中海から引き離し、ジェノサイド的なモンゴルによる荒廃は13世紀にアッバース朝文明を滅亡させた。
 爾後、イスラム教徒は、オスマン<(注7)>、モンゴル<(注8)>、サファヴィー朝<(注9)>という帝国たる超国家を創造することができた。

 (注7)「テュルク系(後のトルコ人)の帝室オスマン家を皇帝とする多民族帝国・・・1299〜1922年」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%B9%E3%83%9E%E3%83%B3%E5%B8%9D%E5%9B%BD
 (注8)イル汗国。1256〜1335年。
http://en.wikipedia.org/wiki/Ilkhanate
 (注9)「現在のイランを中心に支配したイスラム王朝(1501年〜1736年)。・・・歴史的イラン地域を支配した王朝としては初めてシーア派の一派十二イマーム派を国教とし<た。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%BC%E6%9C%9D

 これは、ハニーファ派(Hanifi)の影響が、最初の二つとペルシャのシーア主義への転換に、残された影響力を及ぼしたことと関係している。・・・

→ここは、率直に言って意味不明です。(太田)

 ハニーファ派・・とムハンマド自身・・は商人であり、ハンバル派(Hanbali)は、究極的には、彼らが書記や兵士として仕えるところの諸王朝によって保有された土地に係る不毛の農業システムにおける「小地主(petty landlords)」だった。
 末期のオスマントルコ人と19世紀の最末期と20世紀初頭のアラブ・イスラム教徒は、イスラム・リベラリズムの再生によって欧米の成功の秘密を解き明かそうと試みたが、欧州諸国による帝国主義的侵入によってこの進化は腰を折られてしまった。
 ムスタファ・ケマル・アタチュルク(Mustafa Kemal Ataturk)<(コラム#10、24、163、164、165、167、228、658、673、1561、2646、2856、3425、3983、4001、4442)>は、次いで、非リベラルにして専制的な世俗主義をトルコに押しつけた。
 これは、ジャコバン的な「世俗主義事務局(seculatariat)による独裁」だった。
 これは<また>、トルコにとって本来無縁のイスラム主義・・ケマリズム(Kemalism)の非正統な子孫・・を生んだ。

→アキョールによるところの、脱(国家宗教たる)ケマリズム、脱トルコ文明(≒脱軍隊)(コラム#163〜165)宣言ですね。
 この点に関する限り、アキョールに拍手を送りたいと思います。
 なお、遅ればせながら、「<ムスタファ・ケマル・アタチュルクは、>宗教と国家とを分離した。トルコはこれを断行した唯一のイスラム国家だ。」(コラム#2856)というリューヴェン・ブレナーの主張は誤りである、と申し上げておきましょう。(太田)

 その最良の解毒剤は、正義開発党(AKP)によるイスラム・リベラリズムの回復(retrieval)であるところの、自由と自由市場であることが証明された。」(A)

→この点については、????です。
 最後にまとめてアキョール・・ツッコミどころ満載です・・批判を行います。(太田)

(続く)

太田述正コラム#5192(2011.12.23)
<リベラルなイスラムは可能か(その1)>(2012.4.9公開)

1 始めに

 トルコ人のムスタファ・アキョール(Mustafa Akyol)の著書 'Islam Without Extremes: A Muslim Case for Liberty' の書評や著者へのインタビュー記事を通して、果たして、「リベラルなイスラムは可能か」を探ってみましょう。

A:http://www.ft.com/intl/cms/s/2/460f2f26-24d0-11e1-ac4b-00144feabdc0.html#axzz1h86DDMOr
(12月21日アクセス。以下同じ)
B:http://online.wsj.com/article/SB10001424053111903554904576458563543798724.html
C:http://blog.acton.org/archives/25281-book-review-islam-without-extremes-a-muslim-case-for-liberty.html
D:http://www.reuters.com/article/2011/07/14/us-books-islam-idUSTRE76D5JP20110714
E:http://www.nationalreview.com/articles/272669/liberating-islam-interview
F:http://www.npr.org/2011/07/25/138617226/a-writer-argues-for-an-islam-without-extremes
G:http://www.todayszaman.com/news-252202-problems-attributed-to-islam-may-not-really-be-islamic.html

 なお、アキョールは、1972年生まれのトルコの英字紙のコラムニストです。
 [トルコでイスタンブールの英国系の高校を卒業してから、トルコの大学の国際関係学科を卒業。]
 「彼はイスラム過激主義とトルコ世俗主義の双方を批判し、この二つをジャコバン主義と原理主義に準える。彼の記事はしばしば現与党の正義開発党(Justice and Development Party)に対して友好的だ。・・・彼は、かつてインテリジェント・デザイン(Intelligent Design)(注1)の推進者でもあった。
http://en.wikipedia.org/wiki/Mustafa_Akyol
 ただし、[]内は(G)による。

 (注1)「『宇宙自然界に起こっていることは機械的・非人称的な自然的要因だけではすべての説明はできず、そこには「デザイン」すなわち構想、意図、意志、目的といったものが働いていることを科学として認めよう』という理論・運動で、1990年代にアメリカの反進化論団体などが提唱し始めたものである。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%AA%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%B6%E3%82%A4%E3%83%B3

2 リベラルなイスラムは可能か

 (1)「リベラルなイスラム」滅亡史

 「イスラムは、その最も初期の日々においては、「ビジネス友好的な」信仰だった。
 ムハンマド自身、裕福なビジネス・ウーマンと結婚し、財産権、相続法、交易における公正さ、の全てがイスラムの教えによって強化された。・・・
 ハディス(Hadiths)<(注2)(コラム#205、387、389、1069、1081、1150、4220)>は、必要に迫られて生まれたものだが、必ずしも理性を伴ってはいなかった。

 (注2)ハディース。8〜9世紀に集大成されたムハンマドの言行録。スンニ派とシーア派のハディスは異なっている。
http://en.wikipedia.org/wiki/Hadith
 日本語のウィキペディアが、まだないとはさびしいことだ。

 実際、・・・イスラムの初期の歴史において、二つの基本的な思想があった。
 それは理性の人々<の思想>と伝統の人々<の思想>であり、ハディスの創造に関する限り、伝統の<人々の思想の>方が勝利を収めた。・・・
 ある男がスイカを決して食べなかったのは、預言者ムハンマドがそうしたという記録を発見することができなかったからだとした、という挿話がある。・・・
 ハディスとシャリア(Shariah)<(注3)(コラム#164、318、483、500、679、793、816、1048、1080、1087、1150、1183、1847、2032、2376、2818、2972、3010、3236、3238、3369、3858、3922、4222)>法の多くは(宗教的確信ではなく政治的確信に立脚して、)特定の時と場所において、そしてしばしばコーランに立脚せずして、或いはムハンマドの実際の事例に根差さずして形成された。

 (注3)シャリーア。「イスラーム教における宗教に基づく法体系。・・・その内容は宗教的規定にとどまらず民法、刑法、訴訟法、行政法、支配者論、国家論、国際法(スィヤル)、戦争法にまでおよぶ幅広いものである。・・・このように経典が六法全書と国際法を合わせたような性格を持つようになったのは教祖であるムハマンド自身が軍の指揮官であり国家元首であったことが大きく関わっている。・・・<シャリーアの>主な法源(ウスール・ル=フィクフ)は、クルアーン、預言者の言行(スンナ、それを知るために用いられるのがハディース)、合意(イジュマー)、類推(キヤース)・・・シーア派法学では歴代イマームの言行も重要な法源(ハディース)として扱われる。実際の裁判においては、過去の判例や法学者の見解(ファトワー)、条理なども補助法源として用いられている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%A2

 ハディスとシャリア法は、・・・良くて典拠が定かではなく(apocryphal)、悪くて政治的かつ個人的動機によるものなのだ。
 だから、ハディスとシャリア法は、現代のイスラム教信者にとって妥当性(relevancy)を失っているのだ。
 しかし、ムハンマドの死後それほど時を置かず、・・・伝統派が、若きイスラム・コミュニティをアラビア半島において流れていた経済的主潮流から切り離してしまった結果、イスラム教徒は非イスラム教徒と交易を行うことから孤立させられてしまったのだ。
 この種の孤立は、経済だけでなく、芸術、語学、科学、そして様々な資源に<悪い>影響を与えた。」(C)

 「コーランは、多くの自由・・例えば、「生命、財産、プライバシー、移動、正義、個人の尊厳、そして法の前の平等」・・を導入したのに対し、「古典的イスラム文学は義務に焦点をあてた」。
 シャリアそれ自体も、少なからず被治者を支配者から守ることを意図したところの、動的な法の体系を孕んではいた。
 <なお、>石打ちの刑はコーランに立脚したものではなく、恐らくはユダヤ教から来たものだし、女性のヴェールかけと隔離は、ほぼ確実にペルシャと(キリスト教の)ビザンツ帝国の慣行に由来する。
 しかも、ムハンマドの頃のメディナのもともとの政体は、世俗的であり、その憲章は一緒にウンマ(umma)またはコミュニティを作り上げていたところのイスラム教徒と非イスラム教徒を平等に守っていた。
 ところが、今日では、ウンマという言葉はもっぱらイスラム教徒からなる共同体(commonwealth)を意味するものへと突然変異している。」(A)

 「イスラム支配下の宗教的寛容の歴史を振り返ってみよう。・・・
 例えば、7世紀のメディナでは、彼らのイスラム支配者達の保護の下に、ユダヤ教徒達は自分達の宗教儀式を公然と執り行うことが認められていた。」(D)

→ハディスやシャリアの過去コラムへの登場回数の多さを見るだけでも、太田コラムが中東に関するコラムでもある、という感を深くします。(太田)

(続く)

太田述正コラム#4296(2010.10.5)
<改めてアラブ科学について(その3)>(2011.1.18公開)

 (3)アラブ科学と経験科学

 「・・・これらの人物達に帰せられる科学の前進よりも重要なのが、彼等が採用した科学的手法だ。
 彼等は、観察と実験に拠り、その結果がアリストテレスやプトレマイオスもしくはガレノス(Galen<。129〜199/217。ギリシャ系ローマ人
http://en.wikipedia.org/wiki/Galen (太田)
>)が書いたことと違っていたら、彼等は教義ではなく結果に従った。
 ムウタジラ主義<(コラム#4220)>と呼ばれた、偏見なき精神と合理主義精神とが存在しており、それは<欧州における>啓蒙主義に1,000年間先んじていた。・・・」(B)

→「観察」まではよしとして、「実験」を行ったアラブ科学者は、アル=ハイサムくらいではなかろうか。(太田)

 「・・・近代科学手法は、観察と計測に立脚しており、しばしば、17世紀にフランシス・ベーコンとルネ・デカルトによって確立されたとされている。
 しかし、イラクに生まれた物理学者であるイブン・アル=ハイサム(アルハゼン)は、同じ観念を10世紀に持っていたのだ。・・・」(D)

→計測は観察の一環であり、実験とは言えない。繰り返しになるが、アラブ科学の中で、実験を伴った科学的発見を行ったのは、(光学の分野における)アル=ハイサムくらい
http://en.wikipedia.org/wiki/Alhazen 前掲
であり、彼は、むしろ例外的な存在だったのではなかろうか。
 なお、経験論の祖であるフランシス・ベーコン(1561〜1626年)
http://en.wikipedia.org/wiki/Francis_Bacon
とは違って、デカルト(1596〜1650年)は、地理的な意味での欧州における近代科学手法の創始者の1人であるとは言えず、単にギリシャ的合理論科学の再興者の1人に過ぎないと見るべきだろう。
http://en.wikipedia.org/wiki/Ren%C3%A9_Descartes (太田)

 (4)アラビア科学の衰退

 「・・・どうしてアラブ科学革命は腰砕けになってしまったのだろうか。
 アル=ハリリは、印刷への懐疑が進歩を妨げたと主張する。
 (ベネティアからオスマントルコに送られた、印刷されたコーラン(注)が余りにもたくさん誤りがあったことから、それはほとんど涜神行為であるように見えた。)・・・」(B)

 (注)「可動活字で印刷された、現存する最も古いコーランは1537年ないし1538年にヴェネティアでつくられた。アラビア文字を使ったあらゆる可動活字印刷が1485年に禁止されていたことから、オスマントルコ帝国で販売するために準備されたように思われる。
 この布令は1588年に撤回されたが、いかなる分野であれ、実に19世紀末に至るまで、可動活字の採用には、それがコーランであればなおさら、強い抵抗感が持続した。」
http://en.wikipedia.org/wiki/Qur'an (太田)

 「・・・<アシュアリー派の影響、とりわけその総帥たるアル=ガザーリ(コラム#4222)の影響がしばしば指摘されるが、>アル=ガザーリは、彼が反イスラム的であるとみなした諸観念に拠った神学的観点を主として攻撃したのだ。
 この、どちらかと言えば形而上学的な紛争によって科学(hard science)が大きく影響されたはずがない。
 カリフの座の力の弱体化こそが<科学的手法の払底>真の原因であり、モンゴルの<イラク>侵攻<(フラグ率いるモンゴル軍が1258年にバグダッドを陥落させ、智慧の家を完全に破壊した
http://en.wikipedia.org/wiki/Siege_of_Baghdad_(1258) (太田)
)>は、単に一つの症候に過ぎない。・・・」(D)

3 終わりに

 思うに、コーラン印刷への逡巡にせよ、アシュアリー派の登場にせよ、神を絶対視し、コーランを神の言葉とみなして神聖視することに由来しているのであって、結局のところ、アラブに係る科学的営為の挫折の原因は、イスラム教自体に内包されていたのであり、それが挫折することは最初から必然であった、と言ってよいでしょう。
 つまり、アラブ科学は、もともと科学の育つ環境ではない砂漠の一画に、例外的な何人かの科学愛好家の権力者によって水と肥料が与えられて人工的に育った花のようなものであり、だからこそ、あらゆるアラブ権力者の力が衰えるとともに、科学愛好家たるアラブ権力者がその後もいたとしても科学を育てる余裕などなくなり、アラブ科学は衰退した、ということではないでしょうか。
 なお、イスラム教を信奉していたとはいえ、オスマントルコは、アラビア語を用いなかったので、仮に科学が栄えたとしても、厳密に言えばそれはアラブ科学とは言えませんが、オスマントルコにおけるスルタン等の権力者の間から、(イスラム教徒としては自然なことながら、)17世紀にもなると科学愛好家が払底したため、科学もまた姿を消した、
http://en.wikipedia.org/wiki/Science_and_technology_in_the_Ottoman_Empire
ということなのでしょう。
 その他のイスラム世界においても、事情はほぼ同じまま現在に至っている、ということであると私は考えています。 

(完)

太田述正コラム#4294(2010.10.4)
<改めてアラブ科学について(その2)>(2011.1.17公開)

 (2)黄金時代のアラブ科学者達

 「・・・最も有名なのは、アヴィケンナ(正確な名前はイブン・シーナ(ibn Sina))<(コラム#3128)>だ。
 980年にペルシャに生まれた彼は、天才少年であり、成長後、世界で最も偉大な哲学者と医者の一人になった。
 彼の偉大な著作である医学大全(Canon of Medicine)は、17世紀に至るまで、イスラム世界とキリスト教世界双方において標準的な医学文献であり続けた。・・・
 しかし、アッバース朝で<著者>が一番お好みなのは、もう一人のペルシャ人学者であるアル=ビルーニ(al-Biruni)<(コラム#3128)>という名前の人物だ。・・・
 有名な話だが、彼は三角関数の数学を開発し、数マイルのオーダーまで地球の円周を計算することができた。・・・」(D)

 「・・・翻訳家であるフナイン・イブン=イシャーク(Hunayn ibn Ishaq<。809〜873年。キリスト教ネストリウス派の医者にして科学者
http://en.wikipedia.org/wiki/Hunayn_ibn_Ishaq (太田)
>)は、古からのキリスト教都市であるヒラ(Hira<。現在のイラクのクーファ(後出)の南に位置する都市
http://en.wikipedia.org/wiki/Al-Hirah (太田)
>)に生まれ、ついにイスラム教に改宗することはなかった。・・・
 ・・・数学者のムハマッド・イブン=ムーサ・アル=フワーリズミ(Muhammad ibn Mūsa al-Khwarizmi)<(前出)もあげなければなるまい。>
 ・・・アル=キンディ(ラテン化されてアルキンドゥス。801〜873年)<(前出)>は・・・博学者だった・・・<が、>彼の・・・諸観念は10世紀のトルコ人哲学者のアル=ファラービ(al-Farabi<。ラテン化してアルファラビウス(Alpharabius)。872?〜950年末ないし951年初頭。イスラム教徒
http://en.wikipedia.org/wiki/Al-Farabi (太田)
)によって復活し、キンディが使命としたギリシャ哲学のイスラム化<の営為>を続け、今度は彼が、欧州で偉大なる名声を博して多くのルネッサンス期の思想家達に深い影響を与えることとなる2人の人物にバトンを渡すのだ。
 この2人とは、イブン・シーナ(Ibn Sina。980〜1037年)とイブン・ラシュド(Ibn Rushd。1126〜98年)<(コラム#3128)>であり、両者とも欧米では、彼等のラテン化した名前である、それぞれアヴィケンナとアヴェロエスとして、より知られている。
 前者<については、既に触れたが、後者の>イブン・ラシュドは、コルドバ生まれであり、最後の偉大なイスラム哲学者と考えられている。
 そのほかにも、アルキメデスとニュートンの間の2,000年間で最も偉大な医者である、イラクの天才たるイブン・アル=ハイサム(Ibn al-Haytham<。ラテン化してアルハゼン(Alhazen)。965〜1039年?。アラブ人またはペルシャ人。現在のイラクのバスラで生まれカイロで死す
http://en.wikipedia.org/wiki/Alhazen (太田)
>)<(コラム#4155)>やペルシャの博学者でイスラム世界のダヴィンチと見なされているところの、コペルニクスに影響を与える数学者にして天文学者のアル=ツーシ(al-Tusi<。1135〜1213年。ペルシャ人
http://en.wikipedia.org/wiki/Sharaf_al-D%C4%ABn_al-T%C5%ABs%C4%AB (太田)
>)<(コラム#3126)>、それに社会科学と経済理論の父と認められているイブン=ハルドゥーン(Ibn Khaldun<。1332〜1406年。現在のチュニジアで生まれる
http://en.wikipedia.org/wiki/Ibn_Khaldun (太田)
>)のような、欧米ではその貢献が忘れられてしまった偉大な人物達がいる。・・・」(A)

 「・・・イブン・アル=ハイサムは、ニュートンより遙か前に工学の分野で支配的な存在であった人物であり、フランシス・ベーコンがそれを考え始める600年も前に科学的手法を用いた。
 1996年に亡くなったアブダス・サラム(Abdus Salam)<(パキスタン人(コラム#4075))>は、彼のノーベル<物理学>賞受賞講演で、アル=ビルーニ<(前出)>、アル=ラージ(al-Razi<。864〜930年。ペルシャの博学者
http://wzzz.tripod.com/RAZI.html (太田)
)、イブン・シーナ(Ibn Sina)<(前出)>、ジャビール(Jabir< IBN HAIYAN。776?〜803年。現在のイラクのクーファ(Kufa)(コラム#1882)に生まれる。化学の父と称される
http://www.ummah.net/history/scholars/HAIYAN.html (太田)
)、そしてアル=フワーリズミ<(前出)>というアラブ科学の巨人達のうちの幾人かの名前をあげた。・・・」(C)

 「・・・『動物の本(Book of Animals)』の中で、東アフリカ系の知識人であるウスマン・アル=ジャヒス(Uthman al-Jahith。781〜869年)は、環境の種に与える影響について思い巡らした最初の人物だった。
 彼は、「動物は生存闘争に従事している。資源をめぐって、そして食べられることを回避しつつ繁殖するために・・。環境的諸要素は、有機体が生存を確保するために新たな諸特徴を発展させ、かくして新たな種へと変貌するよう影響を与える。生存して繁殖できた動物はその成功を収めた諸特徴を子孫に引き継ぐことができる」と記した。
 『動物の本』は、動物学的事実というより大部分民話に拠っていたように見えるけれども、これが自然淘汰理論としての資格を有することは疑いない。・・・」(D)

 「・・・一般に流布している神話に反し、代数(algebra)はイスラム世界の発明ではなく、その諸法は実際にはギリシャの数学者のディオファントゥス(Diophantus<。200-214〜284-298年。アレキサンドリア在住
http://en.wikipedia.org/wiki/Diophantus
)に遡る。・・・」(D)

→確かに、イスラム科学と言ってしまうと、キリスト教徒等の非イスラム教徒たる学者が含まれないので、(アラブ語で論文や本を書いたという意味で)アラブ科学と呼んだ方がいいのかもしれませんね。(太田)

(続く)

太田述正コラム#4292(2010.10.3)
<改めてアラブ科学について(その1)>(2011.1.16公開)

1 始めに

 かつての黄金時代のアラブ科学をとりあげた本が出ました。
 ジム・アル=ハリリ(Jim Al-Khalili)の 'Pathfinders: The Golden Age of Arabic Science' です。
 現在のイスラム世界を理解するためにも、またアングロサクソン論とのからみからも、ご紹介するに値すると考えました。

A:http://www.guardian.co.uk/books/2010/sep/26/baghdad-centre-of-scientific-world
(著者による要約。9月26日アクセス)
B:http://news.scotsman.com/entertainment/Book-review-Pathfinders-The-Golden.6539241.jp
(書評(以下同じ)。10月2日アクセス(以下同じ))
C:http://manjitkumar-reviewsarticles.blogspot.com/2010/09/arabic-heights.html
D:http://www.telegraph.co.uk/science/science-news/3323462/Science-Islams-forgotten-geniuses.html
(著者によるコラム)

 なお、ハリリは、世俗的イラク人であり、現在、英サレー(Surrey)大学の物理学と科学における公的関与(public engagement in science)の教授をしています。(B、D)

2 アラブ科学

 (1)アル=マムーン

 「14世紀以降の科学革命のルーツはバグダッドとコルドバにある。
 すなわち、ルーツはグレコローマンではなく、グレコローマンアラビック(Graeco-Roman-Arabic)なのだ。・・・」(B)

 「・・・バグダッドの最も有名な支配者の一人が786年に生まれた。
 彼の名前はアブ・ジャファール・アル=マムーン(Abu Jafar al-Mamun)<(コラム#3126、3132)>で、半分アラブ人で半分ペルシャ人だった。
 この謎のカリフは、イスラム世界の支配者達の華やかな行列の中で科学の最大のパトロンとなることを運命付けられており、古典ギリシャ以来、世界で最も印象的な研究と勉学の時代を切り開いた責任ある人物なのだ。・・・」(A)

 「・・・話は813年頃から始まる。
 その頃、バグダッドのカリフのアル=マムーンが生き生きとした人生変革的な夢を見たとされる。
 その夢の中で、彼は、ギリシャの哲学者のアリストテレスに会い、「知識と啓蒙を追求せよ」と言われた。
 これは、生涯を通じての、彼の科学と哲学への執念の出発点だった。
 アル=マムーンは、アレキサンドリアの栄光の日々以来、比べるものなき、かの有名なる智慧の家(House of Wisdom=Bayt al-Hikma)・・図書館兼翻訳施設兼科学アカデミー・・をつくった。
 このカリフは、次いで、数学者のアル=フワーリズミ(al-Khwarizmi)<(コラム#3126、3128)>や哲学者のアル=キンディ(al-Kindi)<(コラム#4220)>といった、アラブ科学の最も偉大な人々を何人かリクルートした。
 これらの学者(thinker)の多くは、自身、アラブ人ではなかったけれど、彼等はアラビア語で科学し、本を書いた。
 しかし、欧米では、彼等は、アルキンドゥス(Alkindus)、アルハゼン(Alhazen)、アヴェロエス(Averroes)、アヴィケンナ(Avicenna)といったラテン語名で、より知られている。・・・」(D)

 「・・・マムーンは、世界中の本を一つ屋根の下に集め、それらをアラビア語に翻訳し、彼の学者達にそれらを研究させることへの欲望において、ほとんど狂信的だった。・・・」(A)
 
 (2)アラブ科学の黄金時代

 「・・・8世紀末に始まった「アラブ科学の黄金時代」は500年以上続いた。
 「ユダヤ科学」とか「キリスト教科学」などというものはないが、・・・「アラブ科学」とは、アル=ハリリによれば、欧州が暗黒時代を通じてうとうとしていた間、科学その他の共通語であったところのアラビア語によって生産された瞠目すべき業績の総体を意味する。・・・
 ・・・翻訳運動は200年間にわたって続き、ギリシャ、ペルシャ、そしてインドの智慧の多くがアラビア語に翻訳された。・・・
 智慧の家・・・には一説によると、40万冊が収蔵されていたという。
 その頃、欧州の最良の諸図書館は、せいぜい数ダースの本しか収蔵していなかった。
 711年に、イスラム教徒達はスペインに渡ったが、これは、アンダルシアでほとんど8世紀に及んだイスラム教の影響の始まりとなった。
 バグダッドがギリシャ語からアラビア語への翻訳運動の震央であったとすれば、コルドバやトレドのような都市は、偉大なるアラビア語の文献のラテン語への翻訳の中心となった。
 これらを研究した最初の学者達の一人が、10世紀のフランス人僧侶のジェルベール・ドーリヤック(Gerbert d’Aurillac<。946?〜1003年。法王:999〜1003年。フランス人最初の法王。欧州に算盤と渾天儀(天球儀の一種)を復活させた
http://en.wikipedia.org/wiki/Pope_Sylvester_II (太田)
>)だった。
 彼は、後にアラビアの学問をピレネー山脈を越えて<欧州に>持ち込んだ最初のキリスト教徒たる学者になった。
 後にシルヴェストル(Sylvester)2世となる人物が、イスラム帝国の科学をキリスト教の欧州に紹介したのは適切なことだった。・・・」(C)

(続く)

太田述正コラム#4226(2010.8.31)
<どうしてイスラム教は堕落したのか(その4)>(2011.1.3公開)

 (5)愛の神か超越的な神か

 「・・・アラーが単一の(monad)神(deity)であるとすれば、愛は彼の恒久的本性(nature)の一部たりえないことは覚えておいて損はない。
 更に言えば、愛は真の道徳性の核心であり動機だ。
 イスラム教の神は、それが彼の本性の恒久的属性でないがゆえに、愛を説明することはできない。
 <それに対し、>聖書の神は愛<の神>なのだ。・・・」(C)

 「・・・アル=ガザーリ・・・は神聖なる<(=神の)>愛という観念を忌み嫌った。
 「愛がある時、愛する者には不完結性の感覚・・完全な自己実現のために愛する者が必要であるという認識・・があるはずだ」と彼は記した。
 しかし、アラーは完全で完結しているので、かかる愛の観念はナンセンスだ。
 「神が手を差しのばすことはない…彼には変化はなく、発展もないし、彼自身の欠缺の補充もない」と。
 困ったことに、この場合、アル=ガザーリは、単にアリストテレスの神が不動の他動者であるという定義を繰り返しているだけであることだ。・・・
 客観的に言って、「イスラム教徒はキリスト教徒より非合理的か」という問いに対する答えは断固「否」だ。
 天と地の造った者が彼の<造った>生き物たちのことを慮り彼等とともに苦しむというユダヤ人の観念は、ギリシャ人にとっては白痴的に見えたし今日の哲学者の大多数にとっても依然白痴的に見える。・・・
 全てにおいて超絶的な(all-transcendent)アラーは、人間風情との間で聖約(covnant)を結ぶために身をやつすなどということはしない。・・・」(A)

→神概念に関しては、アラーはエホバよりもはるかに合理的(理性的)であり、だからこそ、イスラム教はユダヤ教やキリスト教に比べて野蛮である、という皮肉な結果にあいなったわけです。(太田)

 (6)愛の神の恐ろしさ

 「・・・13世紀の十字軍は、アクィナスの熱烈なる祝福の下、アルビジャン派の異端者が立てこもっていた南フランスの地域で100万人にも及ぶ人々を殺害した。
 <また、>キリスト教徒たる司法権を持つ行政長官達は、古の異教徒の自然宗教の達人の容疑者たる50,000人から100,000人の魔女を処刑した。
 <もっとも、>ヘブライの聖書を信じるならば、古のイスラエル<の民>は、カナーンの地に彼等が遭遇した異教徒の人々のいくつかを絶滅させよとの正確なる諸指示をたずさえて入った<というのであるから、カトリシズムの恐ろしさはユダヤ教(旧約聖書)ゆずりのものであるということになろう>。・・・」(A)

→ギリシャの合理論と邂逅したイスラム教から合理論を継受したキリスト教は合理論で武装し、カトリシズム(カトリック神学)という合理論(演繹論)体系が構築されるに至りわけですが、私見によれば、だからこそ、カトリシズムはこのような恐ろしい行為を繰り返すことになったのです。
 入れ替わりに合理論を放擲したイスラム教においては、このような行為は比較的少ないことを思い起こして下さい。(太田)

 (7)イスラム教が生まれた社会

 <イスラム教は、以下のような社会で生まれたものだ。>
 <現在でも、>イラク人の5分の3(とサウディアラビア人の5分の2)の結婚は従兄弟と従姉妹の間のものだ。
 というのも、結婚制度の目的は氏族の政治的一体性(integrity)を維持するところにあるからだ。・・・」(A)

 「・・・<ここから、>イスラム教の道徳律は、言葉による犯罪に対する死刑による処罰と女性の抑圧の倫理システム<となった>。・・・」(C)

 (8)総括

 「・・・20世紀の偉大なイスラム教学者の故ファズラー・ラーマン(Fazlur Rahman)は、「哲学を自ら奪った人々は必然的に新しい諸観念に関し飢餓に自らを晒すことにある。
 実際それは知的自殺を犯すことなのだ」と述べた。・・・」(C)

 「レイリーは、「信仰から理性を離婚させること(欧米の現在の危機)も理性から信仰を離婚させること(イスラム教の危機)も、どちらも破滅へと導く、と結論づける。…・・・」(C)

→この点に関する限り、レイリーは間違っていると私は思います。
 合理論で武装した宗教ほど恐ろしいものはないからです。
 信仰と理性とは、そもそも「結婚」などさせてはならないのです。(太田)

 「・・・レーゲンスブルグ講話<(前出)>において、ベネディクト16世は、似たようなことを言った。
 彼は非ヘレニズム化、すなわち、ギリシャ人の贈り物たる理性を喪失したことが、欧米の主要な諸問題の1つであると語った。
 それに対して比較的に知られていないのがイスラム教を襲った非ヘレニズム化、すなわち、その理性の誹謗であり理性との離婚だ。
 (この法王は、このことをほんのちょっとだけほのめかしたけれど、それが大きな議論を引き起こした。)・・・」(D)

→同じ理由で、現法王も間違っていると私は言わざるをえません。(太田)

 「・・・イスラム教の非ヘレニズム化が比較的知られていないのは、それが余りにも徹底的であり効果的であったために、それに先だって、とりわけ9世紀と10世紀の間にヘレニズム化のプロセスがあったっことに気づいている者がほとんどいないからだ。
 それはイスラム教と世界にとって枢軸的な時期だった。
 その時、この時期の終わりにかけて、イスラム世界悪い方向への決定的転換がなされたのだ。・・・」(D)

→私見によれば、理性と「離婚」したこと自体は良いことであったけれど、それにより、イスラム教は先祖返りし、野蛮に戻ったというだけのことなのです。(太田)

 「・・・古のグノーシス派的(Gnostic)考え方と現代の(例えばマルキシズムといった)「諸イズム」との間のつながり<(コラム#3678)>を図示した政治哲学者のエリック・ヴォーゲリン(Eric Voegelin)及びそれと類似の分析を行った独創的学者達(crafters)、或いは、ソ連を創造し運営したところの、血腥い考え方を抱き大量殺害を行った知識人達についての恐るべき諸研究の形で、かかる殺人的「諸イズム」のもたらしたものの画期的暴露を行ったロバート・コンケスト(Robert Conquest)とリチャード・パイプス(Richard Pipes )、と同様の注意喚起をレイリーは行う。・・・」(C)

→ここは、簡単過ぎなので、政治的宗教シリーズ(コラム#3676以下)を参照してください。
 要するにプロト欧州文明が生み出したカトリシズムの変形が欧州文明が生み出した民主主義独裁(政治的宗教)たる諸イズムである、ということを押さえておいてください。(太田)

 「・・・ナチズムとマルクスレーニン主義においてそうであったように、力の優越制が一旦措定(posit)されると、テロリズムが力へのその次の論理的段階となる。・・・」(D)
 「・・・<合理論的思惟そのものと言うべき数学の世界においては、>痛ましいほど多くの偉大な数学者が自殺している。
 アラン・テューリング(Alan Turing)、ポール・エーレンフェスト(Paul Ehrenfest)、ルードヴィッヒ・ボルツマン(Ludwig Boltzmann)、そしてG・H・ハーディ(Hardy)がそうだ。・・・」(A)

→合理論の暴力性、すなわち、合理論が、外向けにはテロリズムを引き起こしがちであり、内向けには自殺を引き起こしがちである、ということが分かりますね。(太田)

3 終わりに

 このシリーズの表題である、「どうしてイスラム教は堕落したのか」という問いに対する答えは、イスラム教は堕落したのではなく、原初の野蛮な姿に戻っただけである、ということになります。
 イスラム世界が合理化し、近代化するためには、イスラム教を合理論と再邂逅させるのではなく、イスラム教を全面的に捨てるか、野蛮ではない(近代化と抵触しない)部分だけを選択する形でイスラム教の縮小的改変を行うしかない、と私は考えています。
 欧米社会に住んでいるイスラム教徒の一部や、インドやインドネシアのイスラム教徒の多くは、かねてより、事実上後者を実践しているところです(典拠省略)。

(完)

太田述正コラム#4224(2010.8.30)
<どうしてイスラム教は堕落したのか(その4)>(2011.1.2公開))

→大事な点なので、重複を厭わず、もう一度説明しましょう。(太田)

 「・・・イスラム教の主流は、ギリシャ由来の哲学を、アブ・ハミッド(Abu Hamid)・アル=ガザーリが神聖なる気まぐれ(divine caprice)の神学を樹立したところの、12世紀への変わり目において、拒絶した。
 物事に対するイスラム教の規範的見方において、アル=ガザーリの総合(synthesis)によれば、アラーは、直接的にかつ自然法則による仲介なくして、そのいとやんごとなき、かつ理解不能な意思によって、あらゆる分子の動きを個人的かつ直接、指示するのだ。
 アル=ガザーリは、中間的諸原因(causes)、すなわち自然の諸法則を廃止し、宇宙の絶対的暴君の気まぐれに大きなものも小さなものも全ての出来事を委ねた。
 ヘレニズム的な理性的思考に代わって、イスラム教はコーランの字義通りの読みに依存することとした。
 ロバート・レイリーは、イスラム教がヘレニズム的な理性的思考を放棄したことを指摘し、それがイスラム文明の衰亡と急進イスラムの勃興をもたらしたと非難する。・・・
 11世紀のイスラム神学者のアハマド・イブン・サイド・イブン・ハズム(Ahmad Ibn Said Ibn Hazm)(注3)は、アラーは彼自身の言葉によってすら縛られることはなく、アラーがそれを望めば、我々は偶像崇拝者にならなければならないと教えた。

 (注3)994〜1064年。イベリア半島のコルドバ生まれで後ウマイヤ朝の末期のカリフの政治顧問(vizier)を2〜3回務めた後、思索生活に入る。ムウタジラ派ばかりかアシュアリー派もコーランの読み方が理性に依存しすぎであるとして批判した。
http://www.muslimphilosophy.com/hazm/ibnhazm.htm (太田)

 このイスラム思想における転換の重要性はどんなに強調しても強調しきれない。
 12世紀以降のイスラム世界における科学的業績の欠如は、イスラム思想において、何かが欠けていることをはっきりさせることを促している。・・・」(A)

 「・・・特定の神概念に起因する自然法則と因果関係の否定は、イスラム教徒の頭から科学の目的そのものを拭い去ってしまった。
 科学の努力は自然の諸法を発見することであるから、(神学的諸理由に基づくところの、)これらの法則が実際には存在しないという教えが、科学的営みの支障となることは明らかだ。・・・
 イスラム教の理性からの離婚は非合理的ふるまいへとも導いた。
 その証拠は、(イスラム世界で横行するほとんど気が触れているところの様々な陰謀論等、)遺憾ながら無数にある。
 それはまた、紛争を裁定する手段として力のみを尊重することにつながる。
 <人々の間で>「共に理性を働かせる」基盤が存在しないわけだ。
 この問題は、神が理性と正義ではなく純粋な意思であり力であるとするアシュアリー派の神の概念に神学的基盤を持つがゆえに手に負えないように見える。
 そして、仮に神が純粋意思であり力であれば、この神概念と、信条を普及させる際に暴力を是とすることと、の間に神学的障壁はないことになる。
 我々は、これがイスラム教が歴史上<世界に>普及してきた主たる方法であったことを知っている。・・・」(D)

→イスラム教のこの転換、というか原初への復古が、最初に記したこととこれもだぶりますが、現在のイスラム教の野蛮性へとつながっているのです。(太田)

 「・・・<エジプトのカイロの>アル=アズハル(Al-Azhar)<大学>の<付属>高校生徒のための『アル・イクナ(Al Iqna)』と呼ばれる教科書には、イスラム教徒を殺した者は死刑に処しうるけれど、イスラム教徒が非イスラム教徒を殺しても、より優れた者がより劣った者を殺すことを罰することはできないので、死刑の対象とはならない、と記されている(146頁)。
 この教科書には、血債(blood money。過失殺人の補償)の額は、<殺された者が>女性<の場合>は男性の半分で、キリスト教徒やユダヤ教徒<の場合>にはイスラム教徒<の場合>の3分の1であり、また、非イスラム教徒は(例えば仕事での上司といった)執事職(stewardship)に就いてイスラム教徒を使うことはできない、との記述もある(205頁)。
 かくして、国家によって監督されている何十万というアズハルの諸学校において、毎年、何十万人もの若きイスラム教徒に対し、コプト教徒に対する不寛容、侮蔑、そして憎しみのイデオロギーが吹き込まれ、エジプト社会に送り出されているのだ。・・・」(C)

(続く)

太田述正コラム#4222(2010.8.29)
<どうしてイスラム教は堕落したのか(その3)>(2010.12.31公開)

 (4)合理論の放擲

 「・・・頭(mind)を閉ざす方法は根本的には2つある。
 1つは、どんなものであれ、それを知る能力を理性が持っていることを否定することだ。
 もう1つは、現実は不可知であると簡単に片付けてしまうことだ。
 つまり、理性は知ることができないとするか、<そもそも、>知りうる何物も存在しないとするかだ。
 どちらのアプローチも、現実をどうでもよいものにしてしまうに十分だ。
 イスラム教スンニ派においては、支配的なアシュアリー派(Ash’arite)神学において、この2つの要素がどちらも用いられた。
 その結果、人間の理性と現実、そして、極めて重要なことに、人間の理性と神との間に亀裂が生じた。
 <この>本は、創造主と彼のつくりだした生き物の頭との間の致命的断絶こそイスラム教スンニ派の極めて深甚なる災難(woes)の源であると主張する。
 この分岐は、コーランの中に所在するのではなく、初期のイスラム神学の中に所在し、そのことが究極的にイスラム教徒の頭の閉鎖へと導いたのだ。・・・」(D)

 「・・・アシュアリー派<という名称>は、その創建者であるアル=アシャーリ(al-Ash'ari<。874〜936年。ムウタジラ派からの転向者
http://en.wikipedia.org/wiki/Abu_al-Hasan_al-Ash'ari (太田)
>)から来ている・・・。
 彼等は、一つ一つ、ムウタジラ派が言ったことのすべてを否定した。
 彼等は、神は理性ではなく純粋な意思(will)であり力であると主張した。
 神は、欲するいかなることもできる。
 彼は、自分自身の言葉を含め、何物によっても抑制されたり制約されたりすることはない。
 人が理性を通して何が善で何が悪かを知ることはおよそ不可能であり、それらは啓示を通してのみ知りうる。
 アシュアリー派の偉大な神学者であるアル=ガザーリ(Al-Ghazali<。1058〜1111年。ペルシャ出身。皮肉なことにトマス・アクィナスやデカルトに大きな影響を及ぼした。
http://en.wikipedia.org/wiki/Al-Ghazali (太田)
>)は、「理性から義務は出てこない。シャリアからだ」と言った。
 だから、理性は、何が善であるかとか正義であるかとかに関して、それを通して知り、あなたの人生を導くことはできない。
 道徳哲学は存在しない。・・・
 ここでの鍵は、神が殺人を禁じるのはそれが悪いからではなく、彼がそれを禁じるから悪いのだ<という点だ>。
 物事は…それ自体善でも悪でもなく、神の諸命令によってそうなっただけなので、神は明日考えを変えて儀式的殺人を命ずるかもしれないが、誰も神に反駁することはできない。
 従って、救済のためには、あなたは彼の諸命令を知らなければならないけれど、あなたはその知識に理性を通じて到達することはできない。
 神の諸法を解釈するにあたって、イスラム法学には「理性は立法者ではない」と述べられるところの原則がある。
 換言すれば、あなたに適用される唯一の諸法は神があなたに与えたものなのだ。
 理性は諸法を創造する権威も地位も有さない。それは、理性がそれら諸法を解釈する際にさえあてはまる。
 このような見解の政治的帰結を見て取ることは容易だ。
 仮に理性が立法者でないとすれば、どうして議会が立法できようか。
 議会に居場所などない。
 なぜならば、理性に居場所はないからだ。
 <それは、>理性なしでは、代表民主制を持つことはできないということ・・・だ。
 民主制をより力の強いものによる統治の道具(cover)としか見ることができなくなるということだ。
 それは、単に、権力・・この場合は多数の権力・・を強制力(force)でもって賦課するもう一つの営みに他ならない。
 つまり、アシュアリー派は、純粋な意思と力の優越を好み理性の優越を拒絶するのであり、だからこそ、イスラム世界では立憲民主制統治が自生的に発展しなかったのだ。・・・
 火が綿を燃やすのではない。神が燃やすのだ。
 重力が岩を落とすのではない。神がそれを直接やるのだ。
 自然法則のようなものは存在しない。・・・
 <法王>ベネディクト16世は、彼のレーゲンスブルグ(Regensburg<大学での>)講演<(コラム#1409、1411、3935)>でこの点をとりあげ、暴力による布教は非理性的であるだけでなく、理性なき神なる概念こそこの暴力に導くものであると指摘した。・・・

→現法王のこの講演が批判されるべきなのは、イスラムとの対話を唱えている法王としてポリティカル・コレクトネス観念がなさすぎるからであり、私見によれば、より根本的には、カトリシズムのような理性的(合理論的)宗教の方が原初及び現在のイスラム教のような非合理的宗教よりもむしろ危険であるから、です。(太田)

 大部分のイスラム教徒は、コーランは、神とともに恒久的に存在してきたのであって、今日アラビア語で出現しているものと全く同じように天国の銘板に刻まれた状態で永久に存在してきた、と信じている。・・・
 換言すれば、コーランは超歴史的なものなのだ。・・・
 これがアシュアリー派の立場であり、この派が<イスラム世界で>優勢となったわけだ。」(E)

→一時期野蛮を脱したイスラム教は、すぐに、今度は「理論的に」もとの野蛮に戻ってしまった、ということです。(太田)
 
(続く)

太田述正コラム#4220(2010.8.28)
<どうしてイスラム教は堕落したのか(その2)>(2010.12.30公開)

 (2)ムハンマドのイスラム教

 「・・・イスラム教では、神を<キリスト教等のように>父とし、<神が>罪人達に無償の好意と永久の愛を与えるとする考えには尻込みする。
 古と現在のイスラム教徒の多くは、アラーは、彼に従う人々に、ユダヤ人、キリスト教徒、その他の「不信心者(infidel)」に対する聖戦を追求せよと命じたと明言する(シューラ2:193、8:12、17、41、60、9:5、14、29、123、及びハディス1:25、4:196、等々)。
 「不信心者」に対する戦争による攻撃について、27回先頭に立ったり命じたりしたのがムハンマドその人であったことを覚えておいて欲しい。
 彼は、彼等の最高の法授与者として、彼に反対し彼を預言者として受け容れなかった900人のユダヤ人の首をはねるように命じた。・・・
 「イスラム教徒達よ、人生の意味を聞け。
 一番重要なことはイスラム教そのものだ。
 その柱はラカティン(Rakatin)祈祷(prayer)(注1)だ。
 そしてその頂点は聖戦だ。」(ハディスにおけるムハンマドの言)

 (注1)ラカティンの意味については確認できなかった。(太田)

 「彼等は長く生き、繁栄してきた。
 しかし今、我々は彼等の土地に侵攻し彼等との境界領域を切り取るのだ」(シューラ21:41〜46)
 ムハンマドは、「女性の1人の証人は男性の半人分に相当しているのではないか」と尋ねた。女性は「はい」と答えた。彼は、「それは女性のアタマの欠陥のせいなのだ」と言った。(ハディス巻3:826)・・・
 アラーの使者はこう命じた。
 「不信心者(unbelievers)と戦い彼等を殺せ。
 石でさえもが、イスラム教徒よ「ここへ来い。不信心者(infidel)が隠れているぞ。彼を殺せ。すぐに殺せ」と言うまで追いかけろ」と。(シューラ16:13)・・・」(C)

→イスラム教の原点は野蛮そのものであったということです。(太田)

 (3)合理論との邂逅

 「・・・最初の4代のカリフはアラビア半島にとどまっていた。
 最初は、彼等はその部隊を征服した都市の外に隔離した。
 イスラム教徒達が外国の文化や信条によって汚染されないようにだ。
 ウマイヤ朝カリフが660年前後に樹立された後、新しい帝国の中心はダマスカスに移り、その後、アッバース朝はそれをバグダッドに移した。
 彼等は、隔離を維持することができず、それが当時のキリスト教の諸弁証(apologetic)の中に染みこんでいたことから、哲学が第二の自然となっていた人々と邂逅した。
 そして、キリスト教徒達との会話の中で、彼等はイスラム教信条を推進ないし守るための哲学的道具を発展させる必要性を感じた。
 彼等は、自分達自身の諸弁証を必要としたのだ。
 その時疑問が生じた。
 自分達が彼等の論理学や哲学のような道具を用いることは正当化できるのか、また、これらの手段を通して自分達が知ることが許されるものは何か、という疑問が。・・・

 ムウタジラ派(Mu'tazilites)(注2)は、理性の優越(primacy of reason)を主張し、人の第一番目の義務は理性的行動に従事し、それを通して神を知るに至ることである、と主張した。

(注2)バスラとバグダッドで8〜10世紀に栄えたイスラム神学。
http://en.wikipedia.org/wiki/Mu'tazili (太田)

 彼等は、啓示を理性と適合的な形で理解することが自分達の義務であるとも考えた。
 それにより、コーランの中の何かが理性と矛盾するように見えた場合は、それを字面通りに解してはならないと考えたのだ。
 だから、それは隠喩(metaphor)ないしは類推(analogy)と受け止めねばならないと。
 ムウタジラ派は、神自身が理性であるとし、人間の理性は彼からの贈り物であって、人間は彼を彼の被造物を通して知ることができるとした。
 偉大な神学者達の一人であるアブド・アル=ジャバール(Abd al-Jabbar<。935〜1025年
http://en.wikipedia.org/wiki/Abd_al-Jabbar (太田)
>)は、「理性と合致することを実行に移すのはあなたの義務だ」という声明を発した。
 それは、ムウタジラ派は理性によって善と悪、正義と不正義を知ることができるとしたからだ。
 この知識はイスラム教徒だけでなく、全ての人が身につけることができる。
 よって、あらゆる人にとって、理性を働かせ、善を知るに至り、それに拠ってふるまうことは義務なのだ。
 理性によって道徳的知識に到達することができないとすれば、どうやって神は人間が道徳的にふるまうことを期待できよう。
 ムウタジラ派は、カリフのアル=マムン(al-Ma'mun<。786〜833年。カリフ:813〜833年。有名なカリフのハルン・アル=ラシッド(Harun al-Rashid)の息子
http://en.wikipedia.org/wiki/Al-Ma'mun (太田)
>)によって後援(sponsor)された。
 彼は、イスラム史の中でギリシャ思想の最大の支援者だった。
 彼は、アリストテレスが彼の前に現れる夢を見たと言った。
 彼は、この哲学者に「善とは何か」と尋ねたところ、アリストテレスは、「それは理性的に善であるものだ」と答えた。
 そこで、アル=マムンは、ムウタジラ派という神学の理性派を抱懐し、最初のアラブの哲学者であるアル=キンディ(al-Kindi<。801?〜873年。ギリシャ/ヘレニズム哲学をアラブ世界に紹介した博学者
http://en.wikipedia.org/wiki/Al-Kindi (太田)
>)も後援した。・・・」(E)

→野蛮だったイスラム教が、ギリシャ世界との邂逅を通じて野蛮を脱した時期があったということです。(太田)

(続く)

太田述正コラム#4218(2010.8.27)
<どうしてイスラム教は堕落したのか(その1)>(2010.12.29公開)

1 始めに

 イスラム科学に黄金時代があり、ギリシャ哲学やギリシャ科学も、イスラム世界を通じて、初めて欧州やイギリスに継受されたというのに、どうしてそれ以降、イスラム世界が停滞してしまったのかが分からなかったは私だけではないと思いますが、このたび、この疑問に答えてくれる本が出現しました。
 ロバート・R・レイリー(Robert R Reilly)の 'The Closing of the Muslim Mind: How Intellectual Suicide Created the Modern Islamist Crisis' です。
 さっそく書評類をもとに、そのさわりをご説明し、私のコメントをつけることにしました。

A:http://www.atimes.com/atimes/Middle_East/LH24Ak01.html
(書評。8月24日アクセス)
B:http://www.heritage.org/Events/2010/05/The-Closing-of-the-Muslim-Mind-How-Intellectual-Suicide-Created-the-Modern-Islamist-Crisis
(著者のインタビュー映像。ただし、そのカガミだけ参照。8月27日アクセス(以下同じ))
C:http://www.goddiscussion.com/26546/the-closing-of-the-muslim-mind-how-intellectual-suicide-created-the-modern-islamist/
(書評集)
D:http://dailycaller.com/2010/08/20/10-questions-with-the-closing-of-the-muslim-mind-author-robert-r-reilly/print/
(著者のインタビュー)
E:http://www.catholic.org/ae/books/review.php?id=37873
(同上)

 米国の元安全保障担当大統領補佐官のジョン・ポインデクスター(John Poindexter。1936年〜。海軍中将を経て、レーガン政権の時にこの補佐官を務める。
http://en.wikipedia.org/wiki/John_Poindexter
)は、「この本は「詳細な研究に基づいており、…今日の国家安全保障の指導者達にとって必読書である」とまで言っているところです。(B)
 ちなみに、レイリーは、米外交評議会(American Foreign Policy Council)のシニア・フェローであり、WSJ、ワシントンポスト、リーダーズダイジェスト等に寄稿してきた人物であり、元ヴォイスオブアメリカの長であり、米国防大学で教鞭をとっていた時期があり、ホワイトハウスと国防長官事務局で勤務したことがあり、現在中東メディア研究所(Middle East Media Research Institute)の理事をしています。(B)

2 イスラム教の堕落

 (1)問題の所在

 「・・・20世紀において、戦争好きのイスラム教は、トルコで150万人のアルメニア人たるキリスト教徒を殺害した。
 どのイスラム国家でも、イスラム教以外の宗教について公の場で説教することは違法だ。この「違背行為」で有罪と認められた者全員に対して死刑が課される。・・・
 キリスト教のコプト派(Copt)は、エジプトの人口の約12%を占めるが、長らく慣習的差別及び公的差別の対象になってきた。
 例えば、大統領令なくしては教会を建てることも修理することもできない。
 コプト派は、安全保障上のリスクとみなされており、諜報や安全保障機関から排除されている。・・・」(C)

 「・・・国連の<2回にわたる>報告は、今日のアラブ世界が人間開発指数・・教育、保健、識字率、生産性、GDP、科学、特許数等々・・のすべてにおいて、サハラ以南のアフリカを除き、最低水準にあることを示した。
 スペインは、1年間だけで過去1000年間にアラブ世界が行ったよりも多くの本の翻訳を行っている。・・・」(D)

 「通信手段の爆発的発展により、・・・イスラム教徒達は彼等の状況が芳しくないことを見て取ることができる。
 そこで、彼等は、かつては偉大であったアラブ世界におけるイスラム文明がどん底近くにまで成り下がってしまったことについて、どのように説明しているのだろうか。・・・
 イスラム教徒の答えは、彼等が今日このような地位にあるのは神の道からはずれたからだ、というものだ。
 この人気ある見解によれば、イスラム世界が神の道へと回帰すれば、過去の栄光が復活するだろうというのだ。・・・」(E)

→ここまでであれば、自業自得であると我々は達観していることも不可能ではないわけですが、これから先はそうは行かなくなります。(太田)

 「・・・人々は、イスラム世界から出来するところの<イスラム教徒の>ふるまいに衝撃を受け恐れおののいている。
 それは、単にそれが暴力的であるからではない。
 それがほとんど説明不能だからだ。・・・
 何百万人ものイスラム教徒が聖戦は正しいと断言し、聖戦を支持している。
 イスラエル、米国、及び全ての非イスラム教徒に対する聖戦は、イスラムの人々の多数の世界観の中の重要な要素となっている。
 コーランは、「偶像崇拝者は、見つけ次第殺せ、…待ち伏せ攻撃せよ」(シューラ9)と命じる。
 アラビア語の辞書では、聖戦を「アラーの道において、アラーの大義のため、アラーの様々な敵と戦い、それを殺すこと」と定義している。・・・」

→このように、刃が我々に向けられてくるとなると放置するわけにはいかなくなります。(太田)

 「・・・<以上のような、>イスラム世界において「何がうまく行かなくなっているのか」という質問に対してはたくさんの答えが存在するけれど、現在に至るまで、誰もどうしてうまく行かなくなったのかについて、決定的な答えを提示した者がいなかった。・・・」(C)

→その答えを、ついにレイリーは提示できた、というのです。(太田)

(続く)

太田述正コラム#2648(2008.7.4)
<イラク・ミャンマー・チベット問題をどう見るか(その2)>(2009.1.4公開)

2 ミャンマーとチベット

(1)ミャンマーとチベットにおける仏教勢力の闘い

 大変興味深いのは、ファシスト国家である中共と、軍部独裁国家であるミャンマーの体制変革(自由民主主義化)の担い手となっているのがどちらも仏教勢力であることです。

 (中共は高度経済成長を続けているのに対し、ミャンマーでは経済が停滞していますが、これは、マクロ的に申し上げれば、鎖国的な共産主義国家から経済面で対外的に開かれたファシスト国家へと変貌を遂げた中共に対しては先進自由民主主義諸国が積極的に投資や貿易(つい最近までこれに加えて経済援助)を行っているのに対し、形の上では自由民主主義国家から軍部独裁国家へと退行したミャンマーに対しては先進自由民主主義諸国が経済制裁を行っているからです。つまり、歴史を捨象すれば、先進自由民主主義諸国は、中共とミャンマーに対し、ダブルスタンダード的な対応を行っていることになります。)

 すなわち、方やチベット仏教勢力、方や上座部(=Theravad=小乗)仏教勢力が体制変革の担い手として、当局と対峙しているわけです。

歴史を振り返ってみると、インド亜大陸から中央アジアにかけての大国であったマウリア(Maurya)王朝のアショカ王(Ashoka。紀元前304〜 同232年。在位:紀元前273〜同232年)は、それまでの神の子孫としての権力者像に代えて、仏教の守護者としての権力者像を確立した人物です。
 それは、仏教を支援し、慈悲深い統治を行い、その見返りに仏教界(sangha)によって権力者として認知される、という権力者像です。
 このような権力者像が、ミャンマーやチベットの僧侶達の念頭にあります。
 ちなみに、チベット仏教勢力の方は、亡命指導者たるダライラマを有力な指導者として仰いでるものの、基本的にチベット人の間にしか信者がいないという弱みを抱えているのに対し、ミャンマーの上座部仏教勢力の方は、有力な指導者こそいないものの、圧倒的多数の国民が上座部仏教信者であるという強みを抱えています。

 ところで、中共当局は、どうしてダライラマ勢力の動向にあれほど神経をとがらすのでしょうか。
 四川省での大震災で倒壊した校舎の一つに敷地内に簡単な祭壇が設けられて、(無限ループ)テープレコーダーでお経が流れ、線香がたむけられ、蝋燭がともされ、亡くなった生徒達の遺影が多数掲げられている、と報じられていました。
 チベット人居住区でもないのに、「仏教国」日本と見まがうような光景です。
 中共で仏教がここまで復活し、浸透してきている以上、チベット人のみならず、中共の仏教徒一般、更には仏教に惹かれている広範な中共国民に影響力を持つダライラマが、欧米で大人気を博し、そのダライラマが拡大チベット圏の自治を目指していることに、中共当局は神経をとがらせざるをえないのでしょう。

 ところが、日本の仏教の僧侶達や仏教に関心を持つ知識人達から、ほとんどミャンマーやチベットの僧侶達を支援する声が聞こえてきません。
 しかし、考えてもみてください。
 生涯に一度は僧侶となることが求められる上座部仏教や、ダライラマ等の生まれ変わり伝説によって支えられているチベット仏教よりも、大乗仏教の流れをくむ日本の仏教、とりわけ私見によれば日本の禅、の方が本来はるかに、(世俗主義的環境において推進されることが望ましいところの)自由民主主義化の前衛としてふさわしいのです。
 皆さん、つい最近まで、日本は仏教思想の世界への普及で中心的役割を果たしていたことをご存じですか?
 最も活躍した一人が鈴木大拙です。
 彼は、1950年より1958年の間は、アメリカに住み、ハワイ大学、エール大学、ハーバード大学、プリンストン大学などで仏教思想に関する講義を行なった人物です。
 こういう話をコラムに書いたところ、読者から、笹井秀嶺氏がいるよ、という声があがりました。
笹井さんは、インドの少数者委員会(Commission for Minorities。イスラム教、シク教、ゾロアスター教、仏教、キリスト教、各宗教の代表1名が選ばれる)の一人で、インド政府の中でも要人の扱いを受けている方だといいうことを知りました。
笹井さんは、インドでは仏教徒は、元ヒンズー教の不可触賤民であった貧困層に多く、そうした仏教徒の状況を何とか変えるため、断食、辻説法、政府への陳情などあらゆる手段で熱心に活動を続けるうち、自然に日本人僧侶、佐々井の名前がインド中に知れわたるようになったというのですね。
 ちなみにこのところ、仏教は米英の知識層の間で強い関心を呼びつつあります。
 というのは、キリスト教を始めとする有神論は科学によって否定されつつあるけれど、仏教だけは科学が進めば進むほど、正しさが裏付けられつつあるからです。

 ミャンマーにおける上座部仏教僧侶達とチベット圏におけるチベット仏教僧侶達それぞれの戦いは、やや単純化して総括すれば、科学によって裏打ちされた宗教の担い手達による、アジアにおける自由民主主義確立のための戦いである、と言えるのではないでしょうか。

 これで、本日のお話を終えてもいいのですが、せっかくですので、ミャンマーとチベットの情勢について、もう少しお話ししておきましょう。

(2)ミャンマー

 英国がミャンマーを第1次、第2次を経て第3次英緬戦争(the Third Anglo-Burmese War 。1885〜86年)に勝利し征服した時、ミャンマーの仏教の最高指導者(Supreme Patriarch)の職を廃止し、仏教の組織的一体性を失わせました。
 ミャンマーの王政廃止とともに、英国の植民地統治がもたらした禍根と言えるでしょう。
 それにもかかわらず、仏教は根強い影響力を持ち続けました。
 英国の支配の影響でキリスト教が行政と教育に持ち込まれると、その大部分が仏教徒であるところのミャンマーの人々は強く反発し、僧侶達は独立と仏教防護の殉教者となり、数多くが英国当局の牢獄で死亡しました。
 独立後、ミャンマーの権力者達は仏教を自らの支配のために利用してきました。
 非軍人たるウヌー(U Nu)首相は、1950年代初期に平和寺院(Peace Pagoda)を建立し、1960年代には仏教優遇政策を推進し、キリスト教徒が多いカチン、チン、カレンなどの少数民族の反発を招きました。
 ネウィン(Ne Win)将軍も、彼の後継者の軍事支配者達も寺院を建立しています。
 しかし、1962年から始まった軍政に対する1988年の約3,000人もの犠牲者を出した暴動の際には僧侶達は学生達と手を携えて闘いました。
 その結果、1988年以降は、軍事政権は仏教界と仏教関係の学校での教授内容を厳しく統制するようになりました。
 1990年の小暴動の際には、僧侶達は兵士とその家族のために宗教的儀式を行うのを拒否したものです。この時は何百人もの僧侶達が当局に拘引されました。
 僧侶達はミャンマーに50万人近くいると見られています。
 軍部の支配下で経済が低迷を始めてからは、僧侶達は社会的支援活動に携わるようになり、エイズの診療所、孤児院、学校等の経営を行うようになっています。
 経済状況が悪化するにつれ、貧しい家庭の子弟で僧侶になる者が増えています。
 また、僧侶達は喜捨を受けて生活をしているために、ミャンマーの状況が一番良く分かっています。
 サイクロンによって大水害に見舞われたミャンマーの被災地では、仏教の僧侶達が被災者救援に積極的に従事しており、人々と僧侶達との結びつきは一層強まってきています。
 昨年9月に、僧侶達は、ミャンマーの一般国民の生活の困窮ぶりを踏まえ、軍政当局に何とかせよと訴えたのに対し、軍政当局は容赦なく弾圧したばかりなのに、またも僧侶達は軍政当局への挑戦を行っているのです。 

 アウンサン・スーチー女史についても触れておきましょう。
 ミャンマーの悲劇は、アウンサン・スーチーが上座部仏教勢力の指導者とは言えないことです。彼女はミャンマー独立の闘士たる父親の子として生まれ、インド大使となった母親とともにインドに赴き、そこでラジブ・ガンジーらと遊び、旧宗主国である英国のオックスフォード大学を卒業し、英国人の学者と結婚した、いとやんごとなき姫君であり、たまたま1988年に母親の見舞いのためにミャンマーに帰国していた時に体制変革派に担ぎ上げられて同派の指導者になったに過ぎません。その結果、彼女はノーベル平和賞を受賞しました。彼女に比べれば、軍政当局のトップであるタン・シュエ上級大将は、16歳で軍隊に入り、ジャングルの中で少数民族の叛徒との戦いにあけくれた、生粋の土着のたたき上げです。その結婚だって、戦死した同僚の妻であった女性の面倒を見るため、同僚達の間でくじ引きを行い、くじを引きあてたタン・シュエが彼女と結婚する巡り合わせになったものです。
 要するにアウンサン・スーチーは、ミャンマー国民の間で国際スター的人気はあるものの、真にタンシュエらに対抗できる、地に足の着いた指導者と言えるかどうかは、私は甚だ疑問に思っています。

 最後に、ミャンマーの軍事政権についてです。
 ネウィン独裁政権にせよ、現在の軍事政権にせよ、彼らなりの大義名分は、軍部支配の終焉は、少数民族の独立によるミャンマー・・現在人口5,500万人・・の崩壊をもたらす、というものです。
 これら少数民族の武装勢力との内戦こそ、1980年代末から1990年代初頭にかけて、休戦協定が次々に締結されたことによって収束に向かっているものの、上記事情に基本的な変化がない、と現在の軍事政権は考えているのです。
 その軍事政権は、1989年に国名をビルマからミャンマーに、ラングーンをヤンゴンに改め、1990年代初頭から、従来の社会主義的経済運営を止め、外国からの投資と観光客を呼び込むねらいで経済開放政策をとっています。
 軍事政権は、1997年にASEAN加盟も果たしました。
 しかし、軍部内で反対意見が根強くあるため経済開放政策が不十分しか実施できていない上、NLD弾圧を軍事政権に翻意させるべく1990年から欧米諸国によって経済制裁が行われているため、ミャンマーは、中共で起きたような経済的離陸を果たせないでいます。

(3)チベット
 
  ア チベット騒擾について

 今年3月、中共のチベット自治区で起こった騒擾は、またたく間に甘粛(Gansu)省、青海(Qinghai)省、四川(Sichuan)省のチベット人達の間にも広がりました。
 中共のチベット人統治は、必ずしもマイナスの面ばかりであったわけではありません。
 中共のチベット「征服」後、チベット自治区内とは違って、その外のチベット人地域は農地再分配の対象となっていたところ、これに反発したこれら地域の大地主たる貴族や僧院等が1956年にCIAの支援を得て叛乱を起こし、それが1959年にチベット自治区にも波及します。1959年にこの叛乱は鎮圧され、ダライラマらはインドに亡命しますが、CIAの引き続きの支援の下で散発的な叛乱はそれ以降も1972年に突然CIAが手を引くまで続きます。
 このような背景の下、1959年に中共当局はチベット自治区での自治のレベルを引き下げ、この自治区内でも農地再分配を実施しました。
 また、中共当局からの潤沢な補助金や年間100万人を超える観光客によってこのところチベットは中共全体の経済成長率を超える高度成長を続けています。
 青海省とチベット自治区を結ぶ鉄道も建設されました。

 では一体、騒擾の原因は何なのでしょうか。

 騒擾の原因は第一に中共政府の宗教政策です。
 チベット人の尊敬の的であるダライ・ラマを中共政府が一貫して排斥してきたこと、最近チベット人の学生や公務員の修道院訪問や宗教的儀式や祭りへの参加が再び禁じられたこと、同じく最近、僧侶達に中共政府史観のチベット史の講義への出席とその折ダライ・ラマ非難の唱和を義務づけたことが怒りを呼んでいるのです。
 第二の原因は、中共政府が漢人のチベットへの大量移住政策をとっていることへの怒りです。漢人との経済格差がこの怒りを増幅させているのです。
 
 ところで、チベット自治区と甘粛省、青海省、四川省のチベット人達の居住地域とはいかなる関係にあるのでしょうか。
 現在約半数のチベット人は自治区の外・・多くは近接する中共の諸省やネパール、インドと行った周辺諸国・・に住んでいると推定されています。おおざっぱに言えば、自治区は1912年にチベットは独立した共和国であると宣言した13世ダライラマが統治していた地域と合致しています。このチベットは中共当局が1950年に部隊を派遣して権力を及ぼした1950年代に至るまでの間独立国家として機能していました。・・青海省の97.2%はチベット自治地域である一方で、チベット人は青海省の総人口の約25%を占めています。四川省の約半分、甘粛省の10%、雲南(Yunnan)省の10%も同様チベット自治地域に指定されています。これら地区と地域は政治的には一体ではありませんが、社会的には一体なのです。

 チベット自治区や上記地域では、チベット人は都市のチベット人ゲットーと祖先伝来の地における貧しい村に住んでおり、漢人と交流することはありません。
 チベット人は漢人は政治的・経済的に優遇されてると見、他方漢人はチベット人が怠け者で恩知らずであり宗教にうつつを抜かしていると見ているところ、チベット人と漢人の経済格差には大きいものがあります。
 また、チベット人は中共政府が彼らの宗教的自由を侵害していること、就中中共政府の、彼らの精神的指導者であるダライラマへの扱いに憤りを持っています。
 チベット自治区やチベット人地域以外の漢人のチベット観はどうなのでしょうか。
 中国共産党に強く反対している知識人すら、中共のおかげでチベット人は奴隷的・飢餓的状態から解放されたと思っており、それに対し感謝どころか暴力で答えるとはけしからんと憤っています。
 また、チベットが支那から独立するなどということは絶対に許さないという点では、漢人の間でコンセンサスが成立しています。
 漢人とチベット人の間の反目は、漢人が宗教に関心を向け、従って仏教にも関心を向け始めたことから、ここ数年緩和する傾向にあったのですが、今回の騒擾によって再び反目が激化することは避けられないでしょう。
 このことは、ダライラマにとっても、漢人の間にチベット仏教を普及させる戦略をとってきただけに、痛手です。

 72歳のダライラマは「治世」68年に及ぶ、今や地球上で最も年季の入った元首です。
 実に、英国のエリザベス女王、タイのプミポン国王、キューバのカストロよりも「治世」が長いのです。
 このダライラマについて、ニューヨークタイムスは3月、政治家としての無能さを指摘する論説を掲げています。要旨次の通り。

 ダライラマが1959年にインドに亡命した時、彼はガンジーの非暴力主義的抵抗を行うと宣言した。しかし、実際には非暴力主義を唱えるだけでガンジーの行った塩の行進(Salt March)や断食といった「抵抗」に相当することは何もやらなかった。
 より問題なのは、1980年代終わりからは彼がハリウッドと提携して欧米でチベット支援運動を煽り立てる戦略を採用したことだ。(ソ連とは全く違って)中共は、その結果一層ナショナリスティックとなり排外主義的となった。
 米国はダライラマのこの戦略に乗せられて愚行を繰り返している。
 1987年に訪米したダライラマに米議会要人達が会い、ダライラマの対中提案の説明を聞いたが、このことを非難した中共の国営TV放送を見たチベット人達は、世界の覇権国たる米国政府がダライラマを支援することを決めたと受け取り、ラサで中共当局に対する抗議行動が始まった。当局は戒厳令の施行でこれに応えた。やがて1989年に騒擾が起こり、在チベット中国共産党書記の胡錦涛が容赦なくこれを弾圧した。
 昨2007年10月には米議会は最高勲章をダライラマに授与した。インターネットでこれを見たチベットの僧侶達は、米国政府がついにチベット問題を最優先でとりあげることになったと受け止めて喜び、爆竹を鳴らす等大騒ぎをしたため、彼らは逮捕された。
 今月起こったデモはこれらの僧侶達の釈放を求めて始まったものだ。それが急速に抗議行動へと転化して行った。
 このように二度にわたって米国はダライラマ支援のジェスチャーをしてチベットの人々を惑わしたが、これらは単に米議会の要人達が米国内向けに演じた自己満足的行為に他ならなかったのだ。
 ダライラマは、もう10年も前にこの戦略を撤回し、中共当局との内々の交渉だけの路線に切り替えるべきだったのにいまだにそうしていない。
 これに関連し、チベット自治区だけでなく、その他のチベット人地区を含めた自治を求めてきたことも撤回すべきなのにやはり撤回していない。
 しかし、もはや遅すぎるのかも知れない。
 チベット亡命政府よりも、欧米でのチベット支援団体の方が強力になってしまい、前者は後者に振り回される状況になってしまったからだ。
 人民解放軍がチベットに侵攻した1950年以降にチベット人120万人が殺されたというウソを流布させたのもこれら支援団体なのだ。
 中共当局が、ダライラマ一味が今回の騒擾の糸を引いているというのは、これらチベット支援団体まで勘定に入れれば、恐らく正しい。

 参考になる記事等を合わせ、掲げておきます。

 英ガーディアンは同じく3月、チベット人の反資本主義性向についての論考を掲げました。要旨次の通り。

 今回のチベットでの騒擾を、中共当局による宗教的弾圧の産物ととらえてはならない。 文化大革命収束以降、中共当局は、破壊された僧院の再建等チベットをチベット仏教のメッカとして「売り出す」政策を追求してきた。漢人の間でも、金銭的成功によって心が充たされない人々の中から、チベット仏教に惹かれたり信者になったりする者がかなり出てきた。
 また、中共当局からの潤沢な補助金や年間100万人を超える観光客によってこのところチベットは中共全体の経済成長率を超える高度成長を続けている。
 青海省とチベット自治区を結ぶ鉄道も建設された。
 ところが、チベットが豊かになればなるほど、チベット人の分離主義傾向は強まって行った。
 豊かになれば人々は体制変革を望まなくなるというトウ小平の考え方は、漢人にはあてはまったが、チベット人にはあてはまらなかったわけだ。
 中共の経済発展戦略は都市を優先的に発展させるというものだが、これは経済的格差を拡大し、遊牧的生活様式等のチベットの伝統を危機に陥らせた。
 チベット人は気質的にも大量消費的、都会的生活、近代的生活を好まないし、その準備も不足している。
 ダライラマは、このようなチベット人が慈しんでいるところの、危機に瀕しているアイデンティティーを象徴する存在であるとチベット人によってとらえられているのだ。
 このままでは、米国人の西方進出に伴って、インディアンが西部の狭い居住地に押し込められて、劣等人種として蔑まれつつ、観光客にカネを恵んでもらって生きている状況に、(漢人の西方進出に伴って)自分達も陥ってしまうという危機意識をチベット人は抱いているのだ。

 米インディアナ大学のチベット学教授のスパーリング(Elliot Sperling)によるニューヨークタイムス掲載論考の概要は以下の通りです。(一部私の言葉に直しました。)

 チベット人は、チベットが7世紀中期以降独立を保ってきたと主張しており、13世紀と14世紀に元に隷属し、18世紀から20世紀まで清に隷属したように見えるかも知れないが、単に元や清の皇帝達の精神的指導者をチベットの著名な高僧(lama)が勤めたという個人的関係が存在しただけであり、チベットは一貫して独立を維持し続けたとしている。
 他方、中共当局は、支那(China)は何千年もの間、(少なくとも観念的には)一体的な多民族国家であり続けてきたのであって、支那の政権を奪取したモンゴル人だって支那人であり、支那の歴代政権に隷属してきたチベット人も支那人だとしている。
 この二つの支那史観ないしチベット史観のどちらもウソだ。
 チベット人が唱える個人的関係説は、元と清の行政文書や公定史書が、それぞれの規則、法律、決定にチベットが服していたことを記していることから簡単に論駁できる。
 しかし、チベットは元と清にこそ隷属してはいたが、漢人地域と並列の地域だった。また、元と清の間の明(1368〜1644年)の時代には、その行政文書や公定史書から、チベットが独立していたことは明らかだ。だから、13世紀以降、ずっとチベットは支那の政権に隷属してきたとの中共当局の説もまた正しくない。
 そもそも20世紀初頭まで、漢人の文人達は、チベットは18世紀に清に隷属したとしていたものだ。しかも彼らは、チベットが、元の時代にそうであったように、清の皇帝の封建的支配下にある(feudal dependencyである)とし、漢人地域とは区別されていることを認めていた。
 清が1911年に崩壊した時、チベットは再び独立し、1912年から中共が成立した1949年まで、支那の政権はチベットに支配権を行使したことはなく、ダライ・ラマ政権がチベットを統治する状態が、1949年ならぬ、中共がチベットを武力で併合する1951年まで続いたのだ。
 すなわち、チベットは、1951年に歴史上初めて、漢人地域と区別されない形で、支那の政権を標榜する漢人の政権の支配下に置かれたのであり、中共当局の支那史観ないしチベット史観のウソの度合いは、チベット人のそれに比べてより大きいと言えよう。
 
  イ 中共広報戦略の敗北

 欧米諸国の、チベット騒擾やメディアの五輪聖火リレーについての報道ぶりを見ていると、どこの国でも反中共的傾向がはっきりと読み取れます。日本でも韓国でもそうです。
 これは、中共の広報戦略が親チベット・グループの広報戦略に敗北したことを意味します。
 つまり、大国がNGOに敗北したわけです。
 チベット騒擾が始まると、中共のチベット地区政府はチベット人「分離主義者(splittism)」に対する「生きるか死ぬかの戦争」を宣言し、チベット地区の共産党主席はダライラマを「僧侶の衣を纏ったジャッカルであり人間の形をした獣であるところの悪しき悪魔」呼ばわりしました。
 余りにも拙劣な広報戦略だと思われませんか。
 一方、今回のチベット騒擾や聖火リレーにからめた反中運動の中核を担ったのは、1994年にニューヨークでチベット人と学生達によって結成された、自由チベットのための学生連合(Students for a Free Tibet =SFT) ですが、現在は世界35カ国に650支部を擁するとは言っても、規模も資金も大したものではありません。
 そこで、彼らは徹底的にメディアを利用する戦略をとってきたのです。
 2ヶ月に一度、メンバーは集会を開き、メディアが取り上げそうな文句をひねり出したり質問にうまく答えたり、といったメディア対策の訓練を行ってきました。また、年に4回、メディアに取り上げられやすい示威行動を行うべく、抗議行動の組織方法や警察との折衝方法、更には懸垂下降(rapelling)やゲリラ的寸劇の訓練を行ってきました。
 また、ブログやウエッブサイトを中共政府よりはるかに巧妙に活用してきました。
 要するに、中共という国家が、NGOに広報戦略において破れた、ということなのです。

 チベット騒擾の結果、一挙に欧州で中共は最も嫌われる国に、そして米国では中共はイランとイラクに続いて嫌われる国になってしまいました。

(完)

 (である調とですます調の混在、中国と中共の混在は、近々出版予定の共著の原稿を利用した部分と、直接私のコラムを利用した部分が混在していることによる。)

太田述正コラム#2646(2008.7.3)
<イラク・ミャンマー・チベット問題をどう見るか(その1)>(2009.1.3公開)

 (これは、7月4日、神戸で行う講演の原稿です。基本的に過去コラムを取捨選択して作成しました。)

1 イラク

(1) イスラム世界について

 ア 千夜一夜物語の世界

 『千夜一夜物語』の原典をひもといてみると、子供向けに書き直された「シンドバットの冒険」等を読んだときの印象とは違って、暗く殺伐とした話が多いと思われることだろう。
 色欲と物欲の塊のような人物が続々と登場し、その欲と欲とが激しくぶつかりあい、せめぎあう。油断をすれば、あっと言う間に身ぐるみをはがれ、命もとられてしまう。こんな社会では、人々は明日の我が身に何が起こるか分からないという不安を抱きながら生きなければなるまい。
 しかし、これは決して物語の中だけの話でも大昔の中東の話でもないのだ。いまもなお、中東の人々は多かれ少なかれこのような無常の世界に生きているのだ。
エジプトの経済学者ガラール・アミンは、近年のエジプト社会について次のように語っている。
 いわく、「腐敗の横行、規律の無視あるいは規律そのものの不在、暴力事件の増加、新たな種類の犯罪の出現、家族の解体、物質的価値観の広まりによる、浮利の追及の優先、生産労働の軽視。社会の相互協力・連帯の精神の弱まり、都市と農村の双方での生活様式の沈滞……」。
 アミンは、エジプト(あるいはアラブ世界)がこのような状況になってしまったのは、1967年の第三次中東戦争によるナセル大統領の敗北、およびび1970年のナセルの死のショックの後遺症だと考えているようだ。
 しかし、エジプトで少年時代を過ごしたわたしは、エジプト社会は、英国保護領時代のメッキがはげて、元に戻っただけだと見ている。
 歴史が始まって以来、次々に襲来する外来勢力による情け容赦ない支配と収奪に晒されて来た社会は、このような姿になってしまうのだ。
 つまり中東は、法や制度によって個人や血縁・地縁等の集団が保護されてきた欧米や日本とは異なるのはもちろん、支配者たる天子(皇帝)に最低限の自己抑制を強いる易姓革命思想を奉じた歴代中華帝国の支配下にあった中国とも異なる。万人が万人に対してあい争う、苛烈にして索漠たるホッブス的世界なのだ。
 イスラム教がこのような中東に生まれ、中東と歴史的環境が似通った北アフリカ、中央アジア、南アジア、東南アジアに急速に普及し、今でも中部アフリカ等へ普及しつつある理由は明らかだろう。
 イスラム教に帰依すれば、バラバラの個人や集団の間で、共通の神アラーをいただき、共通のイスラム教的生活規制に従うことを通じた擬似的な連帯感が生まれ、イスラム教が「喜捨」による相互扶助を勧めていることともあいまって、人々が抱く根元的な不安が多少なりとも軽減されるからだ。
 この中東世界は、イギリスに端を発する世界の近代化(ヨーロッパ化)のうねりに、決定的に乗り遅れてしまった。
 中東のようなホッブス的社会においては、共通の世俗的利益のために私益を犠牲にする、という発想はない。
 このため、社会全体を近代化するような、社会の成員各層による長期にわたる協同的かつ献身的な努力が要請される大事業を推進することは、至難のわざなのである。

 イ イスラム世界の深刻な状況

 さて、イスラム社会が近代化に失敗して深刻な状況にあることは、以下の諸データが雄弁に物語っている。

 識字率は、ユダヤ教徒が97%、キリスト教徒が87%、仏教徒が85%、ヒンズー教徒が53%であるのに、イスラム教徒は51%にとどまる。一人当たり所得は、ユダヤ教徒が1万5000米ドル(113カ国を調査)、キリスト教徒が7500米ドル、仏教徒が6000米ドルであるのに、イスラム教徒は1800米ドルに過ぎない。

 それもそのはずだ。

2001年のイスラム諸国(総人口13億人近い約60カ国)への投資額は、合計約136億ドル(約1兆6000億円)と、人口900万人のスウェーデン1国への投資額と同程度に過ぎない。

 アラブ諸国(22カ国)の総人口は、2000年には約3億人と、20年前に比べて70%も増えたが、過去20年間の一人当たり所得の伸びは、サハラ以南のアフリカ諸国の次に低く、年率0・5だった。

 アラブ諸国合わせて年間300冊しか翻訳書が出ていない。これはギリシャ1カ国の五分の一よりも少ない。

 イスラム国パキスタンのムシャラフ大統領は2001年12月末、「今や世界の人々はイスラム教というと文盲、遅れ、不寛容、無知蒙昧、そして暴力を連想する始末だ」と嘆き、2002年2月には、イスラム諸国が「人類の中で最も貧しく、最も読み書きができず、最も遅れ、最も不健康で、最も無知蒙昧で、最も虐げられ、最も弱い存在になりさがってしまった。……イスラム諸国の総GNPをかき集めてもわずか1兆2000億ドルに過ぎない。これは、イスラム諸国が教育と科学の発展をないがしろにしてきたからだ」と演説している。

  ウ いかなる対応がなされてきたか

 さまざまな対応が試みられてはきた。
 20世紀以降にしぼってみよう。
 イスラム精神を作興することでヨーロッパの挑戦を克服しようとイスラム復古運動が盛んになり、アラビア半島に原理主義的なワハブ派を奉じるサウディアラビアという国が生まれ、エジプトにも原理主義的なムスリム同胞団が出現した。が、それぞれ中東アラブ世界全体を揺り動かすには至らなかった。この系譜から生まれた鬼子が、アルカーイダなどのイスラム過激派だ。
 さりとて、いきなりアングロサクソン流の自由・民主主義を導入することによって中東社会の根底からの近代化を図ろうとしても、そうは問屋がおろさない。イラクの立憲王制はものの見事に失敗し、ヨルダンの立憲王制もまだ事実上停止されたままである。
 西欧ゆずりのナショナリズムについては、イスラム圏内の中東地域中、イラン高原やアナトリア半島(トルコ)といった、アラブ世界以外で、かつ地域的にまとまりあるところではともかく、アラブ世界では機能しないことが、次第に明らかとなっている。
 アラブ世界全体を一括りにしたアラブナショナリズムを展開するのは、地域的に広すぎて無理があるのだ。
 加えて、エジプトを除けば、ナショナリズムの前提となるところの、住民が歴史的体験を共有するような明確な「地域」が、存在しない。そのエジプトにおいても、ナショナリズムは英国からの完全独立と外来の王家の追放を達成したものの、ついに国民を近代化に向けて動員することには成功しなかった。
 西欧に淵源を持つマルクス・レーニン主義は、無神論である以上、イスラム教的なものを「必要」とする中東世界に浸透するのは困難だった。
 最後に残されたのが西欧由来のファシズムである。
 そのファシズムの導入を試みた2つの国が、イラクとシリアであった。それぞれの国において、独裁者が国民への世俗的単一イデオロギー(バース党イデオロギー)の注入と、疑似民主的政治過程への国民各層の動員に成功したことに、英米は注目している。彼らは、かねてからこの両国が、中東アラブ諸国の中で最も近代化に成功する可能性が高いと見てきた。
 このうちのイラクが、本日の私のお話のテーマの一つだ。

 イスラム世界で唯一完全に世俗化した憲法を持っているのがトルコだ。
 日本ではトルコの近代化、民主化を実現した偉大な英雄と見られているトルコのケマル・アタチュルクだが、英国人のオルダス・ハックスレーは、アタチュルクを「ロシア、トルコ、イタリア、そしてドイツの独裁者達」と同列にみなしている。すなわち、スターリン、ムッソリーニ、ヒットラーと変わらないというわけだ。
 実際、アタチュルクは、世上言われるように、トルコを「世俗化」したのではなかった。彼は、イスラム教を、神話(と死後のアタチュルクの神格化)に立脚するケマリズムで置き換え、ケマリズムを唯一の公的宗教(=イデオロギー)とするトルコという概念(民族にして国家)を創造したのだ。
 このイデオロギーは、アングロサクソンやクルドによって、同時代のファシズムや共産主義と並ぶ民主主義的独裁の一形態として、ケマリズムと呼ばれ、嫌悪の対象となって現在に至っている。
 このようにトルコは、ケマリズムという国家イデオロギーを国民に強制することによって、かろうじて世俗化社会の外観を維持しているだけであって、近代化にも成功しているとは言いがたい。このトルコのケースを見ても、イスラム社会を世俗化することの困難さが推し量れるだろう。

 最後にインド亜大陸についてだ。
 インド亜大陸はイスラム教圏と非イスラム教圏のせめぎあう最前線の一つだ。そのインド側から、過激な発言を繰り返しているのが、トリニダード生まれのノーベル文学賞受賞者、V・S・ナイポールだ。
 ナイポールに言わせると、インドを破壊し、現在の様々な問題をもたらしたのは、「短期間」インドを支配した英国などではなく、イスラム教である。
 イスラム教は世界中の国や地域の歴史と文化の破壊者であり、インド固有のサンスクリット文化は、イスラムの軍事的侵略により、西暦1000年をもって生命を絶たれた、とナイポールは断罪している。
 世界中の非難を浴びたタリバンによるバーミアンの石像仏破壊や、トルコが激しく批判したサウディアラビア政府によるメッカ近郊のオスマントルコ時代の城塞の破壊は、ナイポールの批判を裏付けるだろう。
 また、インドネシア、イラン、ヨルダン、クウェート、レバノン、モロッコ、パキスタン、サウディアラビア、トルコのイスラム9カ国の1万人弱を対象に2001年10月と12月に実施された世論調査の結果によれば、2001年9月11日の同時多発テロの首謀者がアラブ人だと思うかとの設問については、サウディアラビア、ヨルダン及びモロッコでは、質問することも許されず、また、調査結果は、61%もの回答者がこの設問に対し「思わない」と回答するという、世界の常識と著しくかけ離れた驚くべきものだった。

 エ まとめ

 総合すれば、イスラム教圏の人々は、歴史と文化を軽んじ、事実を直視しようとせず、しかるがゆえに教育と科学をおろそかにし、しかも政治的自由もないか著しく制約されており、その結果として退廃と貧困の生活を送っている、ということだ。
 イスラム圏においては、イスラム化→イスラム原理主義化→非世俗化→社会・生活規制の強化→反主知主義/自由の抑制→「先進」地域との所得等格差の増大→イスラム化→(以下、同じ事の繰り返し)、という悪循環が進行している、と言ってもよいかもしれない。
これこそがパレスティナ紛争がかくも長引いている背景であり、アルカイーダやタリバンが生まれた背景でもあるのだ。

 オ イスラム教について

 参考までに、イスラム教そのものについて触れておきたい。
 イスラム教の神は、東洋の専制君主のイメージを借りたものであり、ユダヤ=キリスト教の愛の神とは似ても似つかないものであり、必然性や規範性を無視してきまぐれかつ暴力的にふるまい、人間を翻弄する存在であるとの指摘がある。
 このようなイスラム教は、一神教を標榜しつつも実は多神教に等しく、そのためイスラム社会において政治権力は異なった神をかついで細分化され互いに争いあい、その一つ一つの政治権力の下で、被治者たる個々人もまた、ばらばらの状態でそれぞれの神をかついであい争うことになる、という。
 そしてイスラム教には宗教と政治を分かつ考え方もない。
そうだとすると、イスラム社会は非寛容であり、思想の自由を認めず、世俗化が困難、ということにならざるをえない。
 すなわちイスラム教は、本来的に原理主義的であり、かつ教義と暴力とを切り離せないというわけだ。暴力的原理主義はイスラム教の本質的属性だ、ということになるのかもしれない。

 このような議論の典拠を少しだけお示ししておこう。
 コーランには、次のようなくだりがある。

 「他の神を信仰しようとする者を見つけたら、アラーとともにその者を殺せ」(宗■機腺供法
 「不信心者にこう伝えよ。信仰なき者がイスラム教を拒むのなら、彼らのそれまでのことは大目に見てやれ。しかし、彼らが再び信仰なき者に立ち戻ったのであれば、古よりの過酷な運命が彼らには待ち受けている。だから、(彼らのためにも)彼らがアラーを受け入れるまで戦え」(検39〜42)。

(2) イラク
 
  ア 始めに

イラクという国は、英国が、第一次世界大戦後、敗戦国たるオスマントルコに放棄させた旧オスマントルコ領のうち、モスル、バグダッド、バスラの三州を合体させて人工的に造った英国の国際連盟委任統治領が起源です。
 フセイン政権も一応バース党政権だったわけですが、親ソ的なカシム政権を倒すためにバース党を積極的に援助してバース党をイラクの政権の座につけたのは米国(のCIA)です。
 だから、米国や英国からすれば、中東の鼻つまみ者のフセイン政権を倒してなぜ悪い、いや倒す義務がある、というところでしょう。

  イ フセイン政権打倒の理由

 フセイン政権打倒の理由としては
  ・イラクによる大量破壊兵器の取得・保有・使用・横流しの危険性
  ・イラクがイスラム原理主義と結びつく危険性
  ・イラクの体制変革の意義と実現可能性
があげられたところです。
 最後の点ですが、イラクは、非イスラム(=世俗主義)、バース党イラク支部(実体はイラクバース党)による独裁とフセイン崇拝、秘密警察等の活用、大衆の積極的動員、経済統制、そして反共、アラブ統一(=ウルトラ・ナショナリズム)の標榜、戦争・暴力志向、という特徴を持つ全体主義独裁国家であり、典型的なファシズム国家であると見ることができます。(シリアバース党エリートが支配するシリアもファシズム国家の色彩を帯びています。)イラクバース党は1968年にクーデターでイラクの政権を握り、イラクバース党の重鎮であったサダム・フセインが1979年に全権を掌握し、もともと中東アラブ世界の最先進地域の一つであったイラクは、教育水準がシリアと並んで中東一、脱イスラム化の度合いが(とりわけバグダード周辺において)中東一(・・その象徴が、長期に渡ってイラクの副首相をつとめ、最近まで外相を兼ねていたキリスト教徒のタリク・アジズ・・)、貧富の差の少なさが中東一、女性の社会進出の度合いが中東一の国となりました。
 このイラクの全体主義独裁を崩壊させることができれば、イラクが自由・民主化に成功し、その石油資源とあいまって、中東アラブ世界における「西側」のショーウィンドウへと変貌を遂げる可能性が十分あると米国(と英国)は考えたわけです。

  ウ 米国のイラク占領統治の失敗

 しかし、お粗末なイラク占領統治ですべてをだいなしにしかかったのが米国です。
 何がお粗末だったかというと、基本的に次の4点です。

・米軍治安兵力量が不十分であったこと
・米軍治安兵力の治安訓練が不十分であったこと
・(国防省主導の)占領統治政策検討が不十分であったこと
・イラク軍を解散、バース党員を公職追放したこと

 この結果、その大部分がスンニ派であったところの、元軍人やバース党員の大量失業者が発生し、そこにアルカーイダ系テロリスト達がつけいり、スンニ派の対多国籍軍蜂起が起き、次いでスンニ派とシーア派の間、更にはシーア派内部で抗争が起き、イラクは内乱状態となってしまうのです。

  エ 君主制について

 ここでちょっと脱線しますが、私は、イラクでは君主制を復活させるべきであったと考えています。これは決して私だけの考えではありません。

 君主制は世襲原理を前提としており、帝国(多民族国家)は民族自決権(national self-determination)の抑圧を前提としていることから、どちらも過去の遺物だという観念がありますが、必ずしもそうとは言えません。
 いや、むしろ、うまくいっているところの多民族からなる民主主義的国家の大部分は君主制を採用しており、帝国の残骸(relics)という非合理的要素を政治制度の中に残している国々なのです。

 イラクは英国が第一次世界大戦の時にオスマントルコ帝国から切り取ってつくった人工的国家です。
 そのイラクは、マクロ的には、そのいずれもが自治を経験したことのないところの、一番人数の多いシーア派、そして少数派のスンニ派及びクルド人からなるパッチワークでした。
 英国が導入したところのスンニ派の君主をいただく君主制のおかげで、上記三派間のいがみあいが戦争に転化するのを抑えることができたのです。
 君主制を廃止すれば、独裁制でも導入しない限り、三派がそれぞれ民族自決を求めて・・より正確には、シーア派はスンニ派による支配から脱しようとし、クルド人はイラクから分離独立しようとして・・流血の事態となることを食い止めることはできないことを当時の英国は分かっていました。
 案の定、英国がイラクを独立させると革命が起こって君主制が廃止されると、イラクは、当然のようにスターリンを彷彿とさせるサダム・フセインの世俗的独裁制国家になってしまいました。

 ところが米国のブッシュ政権は、ここのところが全く分からずに、2003年に武力でフセインの独裁制を倒した後、君主制を再導入しようとはせず、純粋な民主主義を「押しつけ」てしまったわけです。これに反対しなかった英国のブレア政権もその一半の責任を免れることはできません。
 その必然的帰結がイラクの現在の苦境なのだ、と私は考えているのです。

  オ 転機

 内戦状況が泥沼化する懸念があったイラク情勢が好転したのは、昨年、米国が遅ればせながら米軍治安兵力を3万人増やしたおかげです。

 この米軍兵力増強に助けられ、昨年来、スンニ派の主要諸部族がそれぞれの居住地たる州でアルカーイダの影響力を排するとともに、今年に入ってからマリキ(Nuri al-Maliki)イラク首相とイラク軍によって代表されるところのシーア派の主流がバスラ、アマラ、及び(バグダッドの)サドルシティーを、サドル師のマーディ民兵等の手から解放するに至ったのです。
 米国のせいで、5年も回り道をしたけれど、イラクが自立した、民主主義的な法治国家となる見通しが立ったと言ってよいと思います。

(続く)

太田述正コラム#2032(2007.8.30)
<イスラム教と民主主義>(2008.3.1公開)

1 始めに

 イスラム教と民主主義は互いに相容れないのかそれとも両立するのかをめぐる、最近の議論をご紹介しましょう。

2 「良識派」イスラム教徒やイスラム教学者の見解

 イスラム教は神の意思への服従を要求するのに対し、民主主義は人々の意思への服従を要求するので、両者は互いに相容れないとする見解は間違いだ。

 預言者ムハンマドは、アラビア半島に初めてまともな国家をつくりあげたが、その時メディナ憲章を公布し、その中に「ムハンマドと・・<メディナの>ユダヤ人は一つの国民である」という一節があることから分かるように、社会的関係は宗教的信条ではなく、平等と正義に立脚すべきものと考えられていた。
 実際、ムハンマドの締結した最も重要な休戦協定であるところの、ムハンマド達とメッカの最強力な部族であるクライシュ(Quraish)族との間のホディビアー(Hodibiah)協定は、「誰でも、ムハンマド連盟かクライシュ連盟のどちらにでも自由に加盟できる」としている。これを受けて、ナグラン(Nagran)のキリスト教徒とか、ファドク(Fadk)のユダヤ人とかホザ(Khoza)の異教徒達はムハンマド連盟に加盟しイスラム国家の一部を構成した。
 そして、ムハンマド連盟は、クライシュ族の攻撃からホザの異教徒達を守るため、この異教徒達をメッカに招じ入れたのだ。
 つまり、ムハンマドは宗教指導者が統治する宗教的国家をつくろうとしたのではなく、構成員が権利と義務において平等な民主主義的な世俗国家をつくろうとしたのだ。
 コーランを見よ。
 「宗教において強制があってはならない」、「お前は彼らのことに干渉するような一人であってはならない」、「われわれはお前を彼らに代わって彼らのことを取り仕切るために送り込んだのではない」、「真実は神に由来する。神に誰が信じ、誰が信じないかを決めていただこうではないか」等々。
 (シリアの国会議員にしてダマスカスのイスラム研究センター所長のハバシュ(Muhammad Habash)の言)
 (以上、
http://www.taipeitimes.com/News/editorials/archives/2007/08/24/2003375637
(8月25日アクセス)による。)
 
 イスラム教徒を対象とした最近の世論調査によれば、彼らの大部分は民主主義が最良の政治システムであると考えている。と同時に彼らはイスラム法であるところのシャリアの重要性も承知している。
 非イスラム教徒に誤解があるのだが、シャリアは決して欧米的な法なのではなく、個人的・社会的選択を行う際にイスラム教徒を導く道徳的原則と規範に他ならないのだ。
 (ハーバード大学イスラム学教授のセサーリ(Jocelyne Cesari)の言)

 1920年代中頃にエジプトのアルラジク(Ali Abd al-Raziq)が『イスラムと政府の起源(Islam and the Roots of Government)』という本の中で、ムハンマドは一つの宗教を創始したのであって国家を創始したわけではないのだから、今日において宗教が国家構造を決定するようなことがあってはならないと主張した。
 この本はイスラム世界の各方面から厳しく批判されてきたが、今でもカイロの本屋で買うことができるところを見ると、引き続き読まれていることが分かる。
 英国の最も保守的なイスラム教徒の理論家達にイスラム教的統治とはいかなるものであるべきかと問うと、社会的正義・信頼できる法的システム・個人的自由・平等・民衆の統治への参画・責任ある対応をする統治者、等々を挙げる。
 更に問いつめると、北欧州の福祉国家群はイスラム世界におけるいかなる国より「イスラム的」であるとさえ答える。
 (ダマスカスのデンマーク・インスティチュート所長のニールセン(Jorgen S. Nielsen)の言)

3 本当のところは?

 良識派イスラム教徒の言っていることは必ずしも正しくない。
 コーランはメッカ時代(初期)とメディナ時代(後期)の二つのコーランが合体したものだ。
 この二つのコーランには矛盾がある。
 「君は君の宗教を、そして私は私の宗教を」(109:6)と「われわれは非イスラム教徒(kafir)の心中に恐怖を投げ込むだろう。彼らのクビをたたき落とせ」(8:12)とは全く違う。
 われわれの論理だと、どちらか一方だけが正しい、ということにならざるをえない。
 しかし、イスラム教は二元的論理で成り立っており、どちらも正しいのだ。
 メッカ時代には単なる宗教であったイスラム教が、メディナ時代以降は政治性を帯び、聖戦の遂行を通じて、史上初めてアラブ人居住地域の全体を統一的に支配することになり、次いで世界に広がっていったわけだが、これが可能となったのは、イスラム教が政治と一体化したからこそなのだ。
 メディナ以降のイスラム教においては、全世界がイスラム教徒の世界と非イスラム教徒の世界に画然と分けられている。
 実際、あらゆる人間は「政治と一体となったイスラム教(political Islam)」に従わなければならない、という命題以外の人間に係る普遍的命題はメディナ時代のコーランには登場しないのだ。
 このメディナ時代以降のイスラム教においては、二種類の倫理があり、一つの倫理はイスラム教徒用、もう一つの倫理は非イスラム教徒用なのだ。
 例えばイスラム教徒は、イスラム教徒に危害を加えてはならないけれど、非イスラム教徒に対しては、イスラム教のためであれば盗み、殺し、だますことが許される。
 この「政治と一体となったイスラム教」の実相が白日の下に晒されるのを妨げるベールとなっているのがメッカ時代のコーランの諸篇なのだ
 (米国の「政治と一体となったイスラム教」研究センター所(Center for the Study of Political Islam)長のワーナー(Bill Warner)の言)

 (以上、
http://www.csmonitor.com/2007/0830/p09s01-coop.htm  
(8月30日アクセス)による。)

3 感想

 私見では、どうごまかしてみても、宗政分離を前提とする民主主義とイスラム教は互いに相容れないということなのです。
 つまり、メディナ時代のコーランを捨て去り、メッカ時代のコーランだけに立脚した新しいイスラム教へと脱皮するか、イスラム教を捨て去る以外に、イスラム教徒が多数を占める国々において、民主主義への展望は開けそうもないということです。

太田述正コラム#1882(2007.7.28)
<イスラム帝国はいかに形成されたか>(2008.1.25公開)

1 始めに

 イスラム帝国がいかに形成されたかに関するスコットランド人でセント・アンドリュース大学教授のヒュー・ケネディ(Hugh Kennedy)の新著、The Great Arab Conquests: How the Spread of Islam Changed the World We Live In, Weidenfeld & Nicolson が出た(注1)ので、その中身の概要をご紹介しましょう。

 (注1)このテーマを初めて追求した欧米人による本は、同じくスコットランド人のムアー卿(Sir William Muir)の1883年と1891年の本だった。彼はインドのアグラに1850年代に情報将校として滞在しており、セポイの反乱に衝撃を受けて、この2冊の本を上梓した。

 なお、この本のタイトルと中身が一致していないことに注意が必要です。

2 ケネディの指摘

 預言者ムハンマドが632年にメディナで亡くなった時点ではアラビア語はアラビア半島の言語に過ぎなかったが、このアラビア語を話す少数のアラブ人達のイスラム教の旗を掲げた聖戦(jihad)なる征服活動によって、750年までには西はイベリア半島、東はインド亜大陸西南端のシンド(Sindh)、北はオクソス(Oxus。現在のウズベキスタンとタジキスタン)一帯にかけての広大な地域の公用語になった。そして、その後、11世紀にはインド亜大陸全体にイスラム教が広まり、15世紀までにイベリア半島を失ったものの、750年までに征服した地域は基本的に現在もなおイスラム教地域であり続けている。

 一体かくも短時間でかくも広大な地域をどうして征服できたのだろうか?
 タイミングがよかったことは事実だ。
 ビザンツ帝国とササン朝ペルシャ帝国が角突き合わせ(注2)て疲弊し、両帝国とも帝国内が乱れていた時期だったし、キリスト教勢力は東西間の宗派分裂(schism)に苦しんでいた。その上、ペルシャの貴族的社会はイスラム教の平等主義の前には脆弱だった。だから、アラブ人は大きな抵抗を受けなかったのだ(注3)。

 (注2)両者の間の622年のアナトリア半島でのイッソス(Issus)の戦いは有名。この時はビザンツ帝国の皇帝ヘラクリウス(Heraclius)が勝利した。
 (注3)ただし、イスラム勢力は、中央アジアのトルコ系の人々の熾烈な抵抗に遭ったし、北アフリカのベルベル人を征服したものの、過酷な奴隷貿易を行ったため、741年に大叛乱に直面する。

 聖戦とはいかなるものだったのか?
 アラブ人達は、甲冑を身につけず盾も持たなかった。要は軍事技術的には戦った相手に比べて決して優れてはいなかった。

 その持ち味は、機動力、リーダーシップであり、とりわけ、高いやる気と士気だった。 もう少し説明すると、兵士達の大部分はベドウィン(Bedouin)であり、小さいときから馬に乗り、弓を射て育ち、長旅に慣れ野宿を厭わなかった。このベドウィンを率いたのが都会育ちのエリート達であり、彼らは貿易、旅、政治的交渉について経験を積んでおり、自己コントロールに長けていた。この都会と田舎の組み合わせが絶妙だった。
 聖戦軍の規模は小さく、兵力は6,000人から1万2,000人の間が普通で2万人を超えたことはなかった。だからこそ、彼らは高度に機動的たりえたのだ。

 やる気と士気の高さは、イスラム教信仰が、生き残った場合には戦利品(捕虜を奴隷にすることを含む)とその公平な分配を、そして戦死した場合には天国行きを約束していたことから来ていた。中には確実に天国に行けるように鎖帷子(かたびら)すら纏わずに戦場に赴く者までいた(注4)。ただし、自殺的攻撃をする風潮はなかった。

 (注4)7世紀の聖戦におけるアラブ人二大武将の一人であるイブン・ワリド(Khalid ibn Walid。592〜642年) は、633年にペルシャ人達に対し、「諸君が生を好むように死を好む人々が既に諸君の前に現れている」と宣言した。

 アラブ人としての矜持もまたやる気と士気の高さにつながった。
 矜持があったからこそ、彼らは、掠奪はしたけれど、強姦したり、女性や子供を殺したり、動植物を蹂躙することは控えた。

 そして、ペルシャのファルス(Fars)地方のイスタクル(Istakhr)のように住民が虐殺されることもあったが、それは例外的なことだった。
 ペルシャに送られたイスラム教徒の使節が「われわれの宗教を信じることを勧める。それがいやなら諸君は貢ぎ物を払わなけれならない。これは諸君にとって困ったことかもしれないがもう一つの選択肢ほど困ったことではない。貢ぎ物を払わないと言うのなら、それは戦争を意味するからだ。」と通告したように、ほとんどの場合、被征服者が税金さえ払い、敵を支援しなければ、イスラム教徒達は手出しはしなかった(注5)。

 (注5)アラブ人は、イラクにバスラ(Basra)とクーファ(Kufa)、エジプトにフスタート(Fustat。現在のカイロの近郊)という新しい都市を建設したが、それ以外のイラク地域やエジプト地域の行政に介入はしなかった。なお、これらの新都市に定着したアラブ人達は、部族ごとに分かれて聖戦を戦った時のまま、部族ごとに分かれて住んだ。部族への忠誠を優先し、部族間で競い合うアラブ人の傾向は、聖戦を通じて一層強まった。

 例えば、ダマスカスの、洗礼者ヨハネの墓がある聖ヨハネ教会をイスラム教徒はキリスト教徒と共同使用したし、偶像破壊はほとんどやらず、シンド地方を征服した時には仏教徒達が仏教寺院を修理するのを認めた。

 754年かその前にコルドバで編纂されたラテン語の年代記(Latin Chronicle of 754)は、アフリカからやってきた「侵略者」がイスラム教徒であることに全く言及していない。
 それもそのはずだ。
 イランの山岳地帯、北アフリカ同様、イベリア半島は、一人のアラブ人が訪れることなく、ただ単にアラブ人らのイスラム教徒が、地域の諸都市に、イスラム教の保護を受け容れるようにとの手紙を出しただけで「征服」されたのだから・・(注6)。

 (注6)フランク/ブルグンド軍を率いた宮宰シャルル・マルテル(Austrasian Mayor of the Palace Charles Martel)が勝利をおさめたところの、イスラム勢力の西欧への侵攻を食い止めた歴史的な会戦、ということになっている732年のツールまたはポワティエ(Tours or Poitiers)の戦いは、イスラム側から見ればドジッた戦利品狙いの威力偵察に過ぎなかった。

 われわれは、イスラム教徒による征服のスピードに驚くより、それが征服された人々に及ぼした言語的、文化的、宗教的影響が恒久的に持続した(注7)ことにこそ驚くべきだ。

 (注7)ただし、アラビア語は、イラク以東には定着しなかった。

 イスラム教への改宗は、人々が当時の支配的文化と自分達とを同一化し、この文化に参加したいと思う人がだんだん増えて行った結果として起こったのであって、緩慢、かつおおむね平和的に進行したのだ。

 (以上、
http://books.guardian.co.uk/reviews/history/0,,2131217,00.html  
(7月21日アクセス)、及び
http://www.economist.com/books/PrinterFriendly.cfm?story_id=9433846
http://www.newstatesman.com/200707120051
http://www.telegraph.co.uk/arts/main.jhtml?xml=/arts/2007/07/26/boken121.xml
(いずれも7月28日アクセス)による。)

3 終わりに

 現在のイスラム教徒の一部が、イスラム帝国形成期の本当の歴史を知らずして、当時の聖戦と違った聖戦を唱え、当時イスラム兵士が行わなかった自殺的攻撃を繰り返しているのは困ったものです。

太田述正コラム#11532006.3.30

<イスラムの病弊(その2)>

3 サウディでの話

 (1)大胆な発言

 英国のチャールス皇太子夫妻は、エジプト訪問の後、26日までの三日間サウディを訪問しました。

 そのサウディで、まず話題を呼んだチャールスの発言は、「私がこの20年来やろうとしてきたことは、生きるに値するコミュニティーをつくり出すため、<都市や建物の>設計の過程で車より歩行者を優しく優先することだった」であり、これは暗に、公共交通機関が全くないサウディの首都リヤド(Riyadhの、世界一車優先の都市のあり方を批判したものです。

 しかし、チャールスは、もっと大胆な発言を最終日の26日にやってのけました。

 イスラム教の説教師・宗教裁判官・宗教警察官を養成するサウディの宗教大学(Imam Muhammad bin Saud Islamic University)で、欧米人としては初めて行った講演で、「われわれはイスラム教の偉大なる時代における深さ・精妙さ・想像に関する寛大さ・智恵への敬意、を再発見しなければならない。・・<イスラム>信仰の偉大なる時代を疑う余地無く特徴づけるものは、当時の人々が、聖なるテキストと同時に、神の言葉の時代を超えた意味とその時代の意味、とを弁別する、聖なるテキスト解釈技術が存在することを理解していたことだ。」と発言したのです。

 つまりチャールスは、イスラム保守派の巣窟において、現代に適した形にコーランを柔軟に解釈すべきだ、と言ってのけたわけです。

 しかし、この発言は所期の目的を達成しませんでした。

 というのは、24,000人の男子だけの学生は、この講演を聴講するすることを禁じられ、聴衆は(男性である)役人と政治家だけだったからですし、サウディの新聞もこの発言そのものの報道は行わなかったからです。

 もっとも、仮に学生が聴講していたとしても、学生達がチャールスの発言の趣旨を理解したかどうかは保証の限りではありません。BBCの記者からこのチャールス発言を伝えられた学生は、異口同音に拒絶反応を示したからです。

(以上、http://news.bbc.co.uk/2/hi/middle_east/4844952.stm(3月26日アクセス)、及び

http://commentisfree.guardian.co.uk/brian_whitaker/2006/03/prince_charles_the_islamic_dis.html(3月28日アクセス))

 (2)つけたし

 チャールス皇太子の政治的発言の数々については、以前にも(コラム#420で)取り上げたことがありますが、最近も彼が提起した、彼の日記(ただし、親しい人間に回覧させていたもの)の英タブロイド紙への掲載指し止め請求裁判の中で、彼が自分を「政治的多数派に抵抗する反体制派(dissident)である」と思っていること、中共が腐敗していて中共の役人達は度し難い古びた蝋人形であると述べたこと、チベットの自治を目指すダライラマに敬意を表して、江沢民が1999年に英国を訪問した時に中共大使館で行われた宴会をあえて欠席し、欠席の事実とその理由がメディアにリークされるようにしたこと、等が暴露されたばかりです。

 このようなチャールスの姿勢は、政治的発言を一切しない、彼の母親であるエリザベス2世とは対照的です。

 英国には憲法がないので、特段国王が政治的発言をすることが禁じられているわけではありませんが、1215年のマグナカルタ・1642年から1651年の議会派と国王派の内戦・1689年の権利の章典、等の歴史を経て、既に150年も前に、当時のビクトリア女王の顧問官(Baron Stockmar)が言ったように、英国の君主は「彼女の大臣の意向どおり、頭を同意のしるしで縦に振ったり、不同意のしるしで横に振ったりする首振り人形」であることが当然視されようになっていました。

エリザベス2世もこの不文律を遵守していることからすれば、まだ国王にはなっていないとはいえ、王位継承順位第一位のチャールスが政治的発言を乱発するのは、異例のことです。

 総じて言えば、英国の政治家やメディアはチャールスのこの種発言をおおむね大目に見ており、自分達の政治的立場に合致した発言をチャールスが行った場合は、喝采まで送る場合があるのに対し、米国では、政治家は他国のことですからもちろん何も言っていませんが、メディアは、英国王の支配を打ち破って英国から独立したからでしょうか、チャールスに批判的です。

 チャールスが英国王に就任した場合、それ以降も政治的発言を続けるとなると、その重みは皇太子当時の比ではありません。母親にならって、沈黙に転じるか、それとも政治的発言を続けて、日本の天皇制に次いで由緒ある英国の君主制の存続を危うくするか、乞う期待、といったところです。

(以上、http://www.csmonitor.com/2006/0306/p09s02-coop.html(3月6日アクセス)による。)

(完)

太田述正コラム#1150(2006.3.28)

<イスラムの病弊(その1)>

1 始めに
 現代イスラムの病弊に関わる話題を二つ提供しましょう。
 アフガニスタンでの、イスラム教からキリスト教に改宗した男性に対する裁判の話と、英国のチャールス皇太子がサウディの宗教大学で大胆な発言をした話です。

2 アフガニスタンでの話

 アフガニスタン出身の男性が、16年前にパキスタンで西側の援助団体で働いている時、同じ職場のキリスト教徒の影響でイスラム教からキリスト教(カトリック)に改宗しました。

そのことを快く思わない妻は離婚し二人の娘を連れてアフガニスタンに帰っていましたが、先般この男性(41歳)が、故郷のアフガニスタンに戻り、妻が連れ帰っていた子供達を取り戻そうと裁判に訴えたところ、イスラム教の棄教(apostasy)を許さないシャリアに違反したので死刑に処せられるべきだ(注1)として逮捕・訴追されるという事件が起こりました。

 (注1)唯一神アラーの言葉とされるコーランでは、「宗教において強制はあってはならない」(al-Baqarah, 256)と、むしろ宗教の自由が謳われている。しかし、預言者ムハンマドの言行録であるハディスには、「自分の宗教を変える者は殺されなければならない」とある。(http://news.bbc.co.uk/2/hi/south_asia/4850080.stm。3月28日アクセス)
     2004年に制定された新生アフガニスタンの憲法は、宗教の自由を謳う一方で、イスラムの至上性も謳っており、一定の分野でのシャリアの適用を認めている。(アフガニスタンの刑法では、イスラム教の棄教を罪とはしていない。)(http://www.nytimes.com/2006/03/24/international/asia/24convert.html?pagewanted=print、3月25日アクセス)。

ちなみに、イスラム教棄教者は死刑となるタテマエをとっている国としては、アフガニスタンのほか、サウディ・イラン・スーダンがある。これら諸国では、イスラム教以外の宗教を布教することも死刑となるタテマエだ。なお、宗教の自由が認められていることになっているイスラム教国であるエジプトやパキスタンでも、実際に上記布教や棄・改宗を行うことは、公私にわたって有形無形の圧力が加えられることから、ほとんど不可能だ。

 これに対し、米国・独伊加各国(いずれもアフガニスタン派兵国)・法王庁から批判がアフガニスタンのカルザイ(Hamid Karzai)大統領に寄せられる一方で、アフガニスタン国内では、イスラム学者達はもちろん、一般民衆の間でもこの男性を死刑にすべきだとの声が高まり(注3)、大統領は板挟みになって苦慮していましたが、結局、この男性は、精神状態に問題があるとして、訴追が取り消されるに至り、大統領は事なきを得ました。
(以上、http://www.csmonitor.com/2006/0327/p01s04-wosc.html(3月27日アクセス)のほか、既に典拠として付した記事によった。)

 (注3)アフガニスタンでは、グアンタナモ米軍基地に収容されているテロ被疑者の所持品たるコーランを米兵が冒涜したとされる2004年の事件や、昨年のムハンマドの漫画騒動(コラム#1069、1078??81、1084、1087、1090、1096)等を通じ、欧米諸国がイスラム教を冒涜しているという怒りが高まっている((http://www.nytimes.com/2006/03/25/international/asia/25convert.html?pagewanted=print。3月25日アクセス)。

 一神教の信奉者が少ない日本の住民である私だからこそ、あえて言わせてもらいますが、この欧米諸国とイスラム保守派とのせめぎ合いを見ていると、(米国こそ、両極端に分裂しつつあり、いささか様相を異にするものの、)同根の一神教信奉者のうち、信仰を捨て去りつつある者と、いまだに信仰にしがみついている者とのせめぎ合い、という趣がします。

 すなわち、中世キリスト教におけるスコラ学の泰斗、トマス・アクィナス(Thomas Aquinas。1224??74年)(コラム#552、568等)は、異端者たる個人の処刑はもとより、フランスの異端のカタル(Cather)派に対するアルビジャン十字軍(Albigensian Crusade。1209??29年)による、カタル派信徒の大量虐殺まで正当化しましたが、カトリック教会による異端者の処刑は、実に1826年(スペイン・ヴァレンシアにおける、自然神教(Deism)信奉(注4)教師の処刑)まで続いたのですから・・(http://www.atimes.com/atimes/South_Asia/HC28Df01.html。3月28日アクセス)。

 (注4)啓示や伝統ではなく、理性こそが宗教の基礎でなければならないとする考え方(http://en.wikipedia.org/wiki/Deism。3月28日アクセス)。

太田述正コラム#0205(2003.12.10)
<イスラム社会は世俗化できるか(その3)>

 次は、クリストフ・ルクセンベルグです。

彼の著書 (Christoph Luxenberg, Die syro-aram?ische Lesart des Koran: Ein Beitrag zur Entschl?sselung der Koransprache, Das Arabische Buch: Berlin, 2000) のさわりをご紹介しましょう。(以下、特に断らない限り、この本を絶賛した米ミネソタ州セント・ポール大学神学部の二人の教授による批評(http://syrcom.cua.edu/Hugoye/Vol6No1/HV6N1PRPhenixHorn.html。12月6日アクセス)による。)

 ムハンマド(570-632)の頃の近東の共通の書き言葉は、アラム語の方言たるシリア語(ユーフラテス河上流のエデッサの言葉)だった。しかも、このシリア語による当時の文献はキリスト教関係のものが大部分だった。その頃、アラビア語にはまだ書き言葉がなかった。
 初期のハディス(ムハンマドの言行録)には、ムハンマドが彼の信徒達に(ヘブライ語のほか)シリア語を習得せよと述べたという記述がある。このことは当初イスラム教に関わる文献がシリア語で書かれていたことを推察させる。
 コーランはウスマン(Uthman B. Affan。ムハンマドの義理の息子で第三代カリフとなる。暗殺されて死亡(http://www.princeton.edu/~batke/itl/denise/uthman.htm。12月10日アクセス))がカリフであった時(633-646)に編纂されたとされており、コーランはアラビア語で書かれた最初の本と解されている。
 編纂されたもとのものは、アラーの言葉を聞いたと称するムハンマドの述べたことを速記の形で書きとめたものだった(ルクセンベルグの創見)。コーランのアラビア語は母音を欠いているため、読み方(すなわち解釈)には幅が出てしまう(英語のアルファベットに子音しかなければ、例えばbdという単語が出てきたとして、bad、bed、bid、budの四通りの読み方ができる)のだが、コーランのもとになった速記のアラビア語は速記だけに、更に読み方(すなわち解釈)の幅は広かった。しかもムハンマドは、この速記の読み方については、正反対の意味に誤読したような場合を除いて、余りやかましいことは言わなかったとされている。
 そして、ここが重要なのだが、この速記の単語の多くは、シリア語の単語の借用(日本語の場合で言えば、例えば、日本語にはなかった漢語の「中庸」をそのまま日本語として用いること)とシリア語のアラビア語への置き換え(calques。日本語の場合で言えば、例えば、漢語の「飛行機」を大和言葉で「あまかけるからくり」と置き換えること)だという点だ(ルクセンベルグの創見)。
 問題は、ウスマンがコーランを編纂したとき、もとの速記そのものが多様な読み方を許す代物であった上に、用いられている単語にシリア語の単語かシリア語の置き換えが多いため、コーランがアラビア語をしゃべるアラブ人にとっては、初期の注釈家にとっても、既にきわめて分かりにくい文書になってしまっていたことだ。
 ところで、コーランのもとになった速記はキリスト教の新旧約聖書の抜書き的なものだったと推察される(ルクセンベルグの創見)。これは、現行のコーランの標準的な解釈によってもキリスト教の聖書に係る記述が非常に多いこと、ムハンマド当時のシリア語文献の大部分がキリスト教関係であったこと(前述)、「コーラン」という言葉自体がシリア語であり、キリスト教聖句集(lectionary)を意味する言葉だからだ。
 つまり、ムハンマドは単にキリスト教の一派を起こしたという認識であった可能性が高いが、彼の死後に編纂されたコーランを歴代の注釈家達が誤読を重ねていくことによって、次第にキリスト教とは似ても似つかぬイスラム教なる新しい宗教・・ローゼンツヴァイクの言うところのキリスト教のパロディーたる新宗教(コラム#202)・・が生まれて行ったと解することができる(ルクセンベルグの創見)。

 ルクセンベルグが誤読として挙げている例は多岐にわたっていますが、トピック性のある一例だけ、ここでご披露しておきましょう。
 コーランには、ジハードに倒れた者ないし殉教者は天国が約束されていると書いてありますし、天国では「黒い瞳の処女達」が待っているとも書いてあることになっています。パレスティナやアルカーイダ系の「男の」テロリスト達はこれを楽しみに自爆テロを決行する、とブラックジョーク的に話題になっている箇所です。何たる男女差別、何たる下品、とイスラム教徒の心ある人々を困惑させている箇所でもあります。
 しかし、ルクセンベルグによれば、この箇所は「つやつやした干葡萄」の誤読だというのです。
男性のテロリスト諸君、お気の毒様!
 (ここは、http://www.guardian.co.uk/saturday_review/story/0,3605,631332,00.html(2002年1月12日アクセス)による。)

 上記の神学部の二教授は、「今後のあらゆるコーラン研究は、このルクセンベルグの方法論を踏まえて行われることになるだろう」と記しています。

ところで、フランソワ・ド・ブロア(Fran?ois de Blois)という人物が、ルクセンベルグについて、「アラビア語の方言をどれかしゃべれることは確かだ。そしてまあまあ、とはいえ問題なしとしない程度の古典アラビア語の心得はある。辞書を引ける程度のシリア語の心得もある。しかし、比較セム言語学の方法論に通じているとは到底言えない」とした上で、ルクセンベルグのこの「本は学問的著作と言うより、ディレッタンティズムの産物にほかならない」と酷評しています(http://www.islamic-awareness.org/Quran/Text/luxreview2.html  。12月6日アクセス)。

 ルクセンベルグのこの本を読むだけのドイツ語力がないことはもとより、小学校時代にエジプトに足掛け四年いたけれど、全くアラビア語(エジプト方言)ができず、いわんやシリア語の知識など皆無の私に、一体どちらの批評が正しいのかを直接判断するすべはありません。
しかし、ブロアによる批評がコーラン学会の学会誌(Journal of Qur'anic Studies)掲載であるのに対し、神学部二教授による批評はシリア語学会の学会誌(Journal of Syriac Studies)掲載であることからすれば、ルクセンベルグの「シリア語」等の能力を貶めたブロアによる批評の信頼性には疑問符をつけざるをえません。ここから、ルクセンベルグの本を絶賛した神学部二教授の批評の方に軍配をあげたいと思います。

(完)

太田述正コラム#0203(2003.12.8)
<イスラム社会は世俗化できるか(その2)>

 イブン・ワラックは次のように述べています。(何度もお断りしておきますが、私は紹介しているだけです。(ただし、(注4)は私の責任で挿入しました。))

 ブッシュ大統領もブレア首相もテロとイスラム教とは何の関係もないと言っているが、暴力的原理主義はイスラム教の本質的属性なのだ。
 イスラム教には宗教と国家を分かつ考え方はない。だからイスラム社会は非寛容であり、思想の自由を認めず、世俗化が困難なのだ。
 世俗化の動きは1920年代のエジプトにさかのぼることができる。パキスタンは実に皮肉なことに、無神論者のムハメッド・アリ・ジンナー(Muhammad Ali Jinnah)によって創設されたが、パキスタン人はこのことを知らないし、認めようとはしないだろう。ジンナーを継いだリアクァット・アリ・カーン(Liaquat Ali Khan)は完全に世俗化された憲法を制定しようとしたが、それを果たす直前に暗殺されてしまった。1950年代のイラクでも世俗化が進んだ。イラクでもシリアでも、それぞれのバース党の下で世俗化は一層進展した。ところが、時計の針を50年もとに巻き戻してしまったのが、1979年のイランのイスラム革命だ(注4)。
(以上、http://www.abc.net.au/rn/talks/8.30/relrpt/stories/s386913.htm(12月5日アクセス)による。)

(注4)米国のトルーマン大統領は1947年にCIAをつくったが、CIAによる外国政府の転覆は認めなかった。これを解禁したのがアイゼンハワー大統領であり、彼は1953年8月、アングロイラニアン石油を国有化したイランのモサデグ首相を追放しパーレビ国王に実権を回復させるクーデターをCIAに実行させた。翌年6月には、ユナイテッドフルーツ社の余剰農地を強制的に農民に売却させたグァテマラのアルベンス(Arbenz)大統領追放のクーデターが実行され、爾後キューバ、英領ギアナ、ブラジル、チリにおいて、CIAは次々に政府転覆を実行していくことになる。
最近の研究で、これらの国々における共産主義の脅威が誇張されていたこと、とりわけイランとグァテマラでは、クーデターの後、政治的安定が確保されるどころか、民主主義は後退し、抑圧と悲劇がもたらされたことが明らかになった。
(以上、http://www.nytimes.com/2003/11/30/weekinreview/30KINZ.html(11月30日アクセス)による。)
イラン革命は、米国のかつての愚行の帰結だと言えよう。

 1971年のバングラデシュのパキスタンからの分離独立の際には、パキスタン軍によって百万人以上が虐殺され、20万人の女性が強姦され、800万人の難民がはだしでインドに逃げ込んだ。ところが、この蛮行をバングラデシュのイスラム教指導者達は支持した。それどころか、バングラデシュ内の4000にのぼるモスクは、この蛮行をけしかける広報宣伝の中心的舞台となった。そして全世界のイスラム教国のイスラム教指導者達は、イスラムの名の下で、この事態について口をつぐむか、蛮行を行っている側を支援した。この出来事は、イスラム教そのものに決定的な問題があることを示す典型例だ。
 同じことが、パレスティナ、チェチェン、ボスニア、カシミール、インドネシア、エジプト、パキスタンでも繰り返されている。
 ところが、そのたびに非イスラム教国のメディア等は、これは一握りの誤ったイスラム教徒のせいであり、真のイスラム教はそんなものとは無縁だ、という物分りのよい見解を垂れ流してきた。(非イスラム教国におけるイスラム教指導者達の大部分は、狡猾にもこの見解に同調するそぶりをしてきた。)
 いいかげんに、イスラム教そのものに問題があることを認めようではないか。
 (以上、http://www.islamreview.com/articles/islamapostasy.shtml。12月5日アクセス)による。)
 どんな宗教にも原理主義はある。しかし、ヒンズー教やユダヤ教ではそもそも布教活動はしないし、キリスト教では積極的に布教活動が行われるとはいっても、かつて一部で見られた暴力でもって信仰を押し付けるやり方はとっくの昔に放棄されている。ところがイスラム教は、本来的に原理主義的であるだけでなく、いまだに暴力でもってその原理主義的宗教を非イスラム教徒に押し付けようとしている。
 コーランの中には、イスラム教を強制してはならない、というくだりはあるが、棄教を暴力をもってしても押しとどめよとするくだりにこそ、イスラム教の本質が現れている。「他の神を信仰しようとする者を見つけたら、アラーとともにその者を殺せ」(??.5-6)、「不信心者にこう伝えよ。「信仰なき者がイスラム教を拒むのなら、彼らのそれまでのことは大目に見てやれ。しかし、彼らが再び信仰なき者に立ち戻ったのであれば、古よりの過酷な運命(地獄(太田))が彼らには待ち受けている。だから、(彼らのためにも)彼らがアラーを受け入れるまで戦え。」と」(??,39-42)(注5)。

 (注5)1940年代に、国連で世界人権宣言の制定について審議された際、宗教変更の自由を盛り込んだ世界人権宣言第18条の採択にサウディ政府は反対した(上記イスラムレビュー)。

 コーランが神自らが語ったものとされていることも、コーランのテキスト批判さえ許さないというイスラム教の非寛容性をもたらしているが、コーランの中に、神へ語りかける箇所が沢山あることや、歴史的事実の誤りや矛盾点が散見されることから、コーランが神の言葉などではないことは明白だ。
(以上、http://www.secularislam.org/articles/wtc.htm(12月5日アクセス)による。)

(続く)

太田述正コラム#0202(2003.12.6)
<イスラム社会は世俗化できるか(その1)>

 (コラム#200に加筆修正を加え、コラム#201の「てにをは」を直してあります。私のホームページ(http://www.ohtan.net)のコラム欄でお確かめ下さい。)

 前にも触れたことがあります(コラム#19、#24)が、イスラム社会が近代化に失敗して深刻な状況にあることは、以下の諸データが雄弁に物語っています。
 まず、マレーシアのある新聞に掲載された論考によれば、識字率はユダヤ教徒が97%、キリスト教徒が87%、仏教徒が85%、ヒンズー教徒が53%であるのにイスラム教徒は51%、そして一人当たり所得はユダヤ教徒が15,000米ドル(113カ国を調査)、キリスト教徒が7,500米ドル(218カ国を調査)、仏教徒が6,000米ドル(27カ国を調査)であるのにイスラム教徒は1,800米ドル(123カ国を調査)、に過ぎません。(http://www.atimes.com/atimes/Front_Page/EL03Aa01.html(12月5日アクセス)から孫引き)
それもそのはずです。
2001年のイスラム諸国(総人口13億人近い約60カ国)への投資額は合計約136億ドル(約1兆6000億円)と、人口900万人のスウェーデン一国への投資額とほぼ等しいに過ぎないからです(日本経済新聞2003.4.5(朝刊)「中東民主化の急がば回れ」)。(注1)

(注1)アラブ諸国(22カ国)にしぼるとどうなるか。
その輸出合計の世界に占めるシェアは、1980年の13.3%から2001年には4.3%へ、と約三分の一に低下した一方で、中東の総人口は2000年には約3億人と20年前に比べて70%増と大幅に伸びている(上記日経記事)。
また、過去20年間の一人当たり所得の伸びは、サハラ以南のアフリカ諸国の次に低く、年率0.5%にとどまる。自由度に至っては、世界最低の地域だ。更に、アラブ諸国合わせて年間300冊しか翻訳書が出ておらず、これはギリシャ一カ国の五分の一より少ない。そもそも、7世紀以降で10万冊しか翻訳書が出ておらず、これはスペイン一カ国の年間翻訳書数に等しい。(http://www.atimes.com/atimes/Middle_East/DG27Ak01.html。2002年7月29日アクセス)

 このような状況を打開して近代化を図るためには、イスラム社会が世俗化される必要があることも、このコラムで既に指摘した(上記コラム#19、#24)ところです。
 米国には「イスラム社会世俗化研究所」(The Institute for the Secularisation of Islamic Society =ISIS)という研究所まであります(http://www.secularislam.org/Default.htm。12月6日アクセス)。
 しかし、本当にイスラム社会は世俗化できるのでしょうか。
 トルコという、完全に世俗化した憲法を持つイスラム社会が世界でただ一つだけあることはあるのですが、トルコはケマリズムという国家イデオロギーを国民に強制することによって、かろうじて世俗化社会の外観を維持しているだけであり、だからこそ近代化にも成功しているとは言いがたい(コラム#163??165及び167)ということを考えると、イスラム社会の世俗化の困難さが推し量れます。
 ここでご参考までに、イスラム社会の世俗化はイスラム教そのものの根底的な批判なくして不可能である、と主張する人々の説をご紹介することにしましょう。(なお、私自身のイスラム批判は上記コラム#19、#24参照。)

 オスマントルコ帝国が崩壊した1920年に「来るべきミレニウムは、・・西洋と東洋、キリスト教とイスラム教、ゲルマン系の人々とアラブ人との間の争い、となるだろう」と予言(注2)した(高名な神学者にして哲学者の)ドイツのユダヤ人フランツ・ローゼンツヴァイク(Franz Rosenzweig。1886??1929年)は、ユダヤ教は民族(people)が、会衆(congregation)となり、最後にそれが宗教になり、キリスト教は会衆から始まり、それが民族(新ユダヤ人)を形成し、最後に宗教となったのに対し、イスラム教はムハンマドという一個人の手によって、最初から、ユダヤ教とキリスト教のパロディーたる新宗教として作り出された、と指摘しました。

 (注2)この予言は、2001年10月7日に放映されたビデオの中で、オサマ・ビンラディンが語っ
   た「80年以上(つまり、1920年から(太田))にわたってイスラムが蒙ってきた蔑みと屈辱(debasement and disgrace)」と気味悪いほど符合している。

そして彼は、イスラム教の神は、東洋の専制君主のイメージを借りたものであり、ユダヤ=キリスト教の愛の神とは似ても似つかないものであり、必然性(necessity)や規範性を無視してきまぐれかつ暴力的にふるまい、人間を翻弄する存在であるとも指摘しました。
ローゼンツヴァイクによれば、このようなイスラム教は不毛の宗教であって、そのためイスラム社会はおよそ新しい文化を生み出すことができず(注3)、またこのようなイスラム教は一神教を標榜しつつも実は多神教に等しく、そのためイスラム社会においては政治権力は異なった神をかついで細分化され互いに争いあい、その一つ一つの政治権力の下で、被治者たる個々人もまた、ばらばらの状態でそれぞれの神をかついであい争うことになるというのです。(以上、アジアタイムス掲載の仮名論説http://www.atimes.com/atimes/Front_Page/EL02Aa01.html(12月2日アクセス)による。私のイスラム社会論はコラム#87参照。)

(注3)ノーベル文学賞を受賞したV.S.ナイポールが、同様の批判を行っていることを前に紹介した。(コラム#24参照)

 現在、ローゼンツヴァイクの衣鉢を継いで根底的なイスラム批判(クリティーク)を展開しているのが、評論家のイブン・ワラック(Ibn Warraq(仮名)。インド亜大陸出身でイスラム教棄教者。米国居住か)と学者のクリストフ・ルクセンベルグ(Christoph Luxenberg(仮名)。近東出身のキリスト教徒。ドイツ居住か)です。
 この二人がいずれも仮名でしかイスラム教批判を展開できないところに、彼らの艱難辛苦がしのばれます。
(私はあくまでも、彼らやローゼンツヴァイク、アジアタイムスの仮名論者達の説を紹介しているだけです。イスラム教徒の読者の皆さん。間違っても私に危害を加えないでください!)

(続く)

太田述正コラム#0173(2003.10.20)
<イスラム世界のユダヤ観>

 22年間マレーシアに君臨したマハティール首相が、自らの意志で10月末に引退します。
 その彼にとっていわば最後の晴れ舞台であるイスラム諸国会議機構(OIC)首脳会議(マレーシアで開催)の席上、彼はユダヤ人が世界を支配していると演説し、厳しい批判が欧米から寄せられています。
 しかし、会議に出席していたエジプトのマーヘル外相は「欧米の批判を気にすることはない。彼らは発言全文を読んでいない」と述べています。
 (以上、AFP-時事の配信記事。http://news.msn.co.jp/newsarticle.armx?id=608913(10月18日アクセス))
一体マハティール首相はどのような内容の演説をしたのでしょうか。

1:「半世紀以上にわたって我々はパレスティナ問題で戦ってきた。その結果何を達成しただろうか。ゼロだ。以前より立場が悪くなっただけだ。」(ほぼ同じくだりが演説の後の方でまた出てくる。)
2:「我々の反応と言えば、ただ怒ることだけだった。怒った人間は考えることができなくなる。その結果我々の中から非理性的に行動する者が出てきた。彼らは自己流の攻撃を開始した。彼らの怒りとフラストレーションを発散させるためだけに。そして同胞たるイスラム教徒を含め、無差別に人々を殺している。」
3:「欧州人はユダヤ人1200万人中、600万人を殺害したが、今ユダヤ人は代理人(米国のこと(太田))を通じて世界を支配している。ユダヤ人は代理人をして彼らのために戦わせ、命を失わしめている。」
4:「我々は考える人々と対峙している。彼らは2000年にわたって続いた組織的虐殺(pogrom)の下で、(力で)反撃することによってではなく、考えることによって生き延びてきたのだ。彼らは社会主義、共産主義、人権と民主主義を発明し、これらを広めることに成功した。それは、彼らを迫害することが悪いことだという観念を広め、彼らが他の人々と同等の権利を享受するためだった。」「こうすることによって彼らは、最も強力な諸国家をコントロールするに至り、かくも少人数の社会が世界的権力(world power)となったのだ。」(http://www.dailytimes.com.pk/default.asp?page=story_20-10-2003_pg7_50。10月20日アクセス)

 その上でマハティールは、イスラム諸国が手を携えて近代化戦略を追求すべきだと述べ、手にした権力とパレスティナ紛争における成功によって傲慢になっているというユダヤ人の弱点を衝くべきだと主張します。

 1はパレスティナ紛争でのアラブ(イスラム)側の敗北宣言であり、2はパレスティナの自爆テロ批判です。この二点をイスラム国の首脳が明確に述べたのは初めてではないかと思います。この二点に関しては、マハティールの見識と勇気に心から敬意を表したいと思います。
 問題は3と4です。3はユダヤ人が世界を支配しているという指摘であり、誤りですし、4はユダヤ人がなぜ世界を支配するに至ったのかの説明であり、やはり誤りです(注1)。

(注1)人権観念は個人主義に由来しイギリス起源(コラム#88??90)だし、民主主義と社会主義はイギリスの個人主義が意図せざる結果として生み出したものだ。(民主主義についてはコラム#91を参照。社会主義については、改めてコラムに書きたいと思っている。)
共産主義はユダヤ人、カール・マルクスがイギリスについての誤解に基づいてつくったイデオロギーであり、ユダヤ人が共産主義を発明したという点だけはマハティールは間違っていない。
 それにしても、かつて英領植民地であった国の指導者にしては、マハティールのイギリス理解はお粗末過ぎる。これは、彼が理科系の教育を受け、かつ英領植民地で育ったエリートとしては異例にも英国留学の経験も英米での長期滞在経験もないためだろう。(彼はシンガポールの医科大学卒の医師http://www.pbs.org/wgbh/commandingheights/shared/minitextlo/prof_mahathirbinmohamad.html(10月20日アクセス)。)

 この反ユダヤ的言辞には、マハティールのマレーシア首相としての苦い経験が影を落としているのではないかという指摘があります。
 例えば、1998年のアジア金融危機に際し、マレーシアの通貨は国際投機筋に売り浴びせられて40%も切り下げられましたが、その時マハティールが名指しで非難したのが投機家でユダヤ人のジョージ・ソロスでしたし、そのマハティールを厳しくたしなめたのが、同じくユダヤ人で米財務長官で元ゴールドマンサックス首脳のロバート・ルービンだった、また、1998年にマハティールが副首相のアンワル・イブラヒムの失脚を図ったとき、米国でアンワル擁護のキャンペーンの先頭に立ったのが米国防長官でユダヤ人のウィリアム・コーエンだった、というわけです(http://www.atimes.com/atimes/Southeast_Asia/EJ18Ae02.html。10月20日アクセス)。

 いずれにせよ看過ごせないのは、OIC首脳会議に出席していた他の首脳達が異口同音、マハティール演説の内容を当然視するとともに、欧米による批判は不可解だとしていることです。
 冒頭に掲げたエジプトの外相のほか、カルザイ・アフガニスタン大統領やイエメンの外相は、特に熱っぽくマハティール演説擁護発言を行っています。
http://news.bbc.co.uk/2/hi/asia-pacific/3203428.stm。10月19日アクセス)

 イスラム文明圏にも欧州ないしアングロサクソン文明圏にも属さない我々は、マハティール演説騒動をどう受け止めるべきでしょうか。
 いいニュースは、全イスラム諸国首脳が、マハティールによるパレスティナ敗北宣言と自爆テロ批判をコンファームしたと解しうることです。とすれば、いまやパレスティナ和平がなるかならぬかは、パレスティナの人々が窓口を一本化した上で具体的な降伏条件をイスラエルに提示できるかどうかだけにかかっているということになります。(この点は、近日中にコラムで詳説します。)
 悪いニュースは、全イスラム諸国首脳が、マハティール同様、歴史と事実を尊重する姿勢がなく、ユダヤ人に対する偏見を抱いていることが改めて明らかになった(注2)ことです。イスラム教を掲げながらも、かつてのオスマントルコが、(あたかも現在の米国のように)ユダヤ人を暖かく受け入れていたのに比べ、何とイスラム諸国は狭量になったことでしょう。
 近代化指標でイスラム諸国の優等生であるマレーシアの偉大なるリーダーが、自分のキャリアの総決算としての演説でこんな形で馬脚を現した(注3)ということは、イスラム諸国全体の将来に暗雲を投げかけるものだと言えるでしょう。

 (注2)サウディの電子新聞アラブ・ニュースが、ユダヤ人は人間の尊厳と最高の倫理を擁護している人々だが、イスラエルという国家はその反対を体現している、としつつも、マハティール演説中の3と4は誤りだ、と批判したこと、また、レバノンのデイリー・スター紙でパレスティナ人のコラムニストが、ユダヤ人とイスラム教徒をそれぞれ一枚岩的存在のように語ったマハティールは、パレスティナ問題解決を阻害するものだと指摘したこと(http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/articles/A58602-2003Oct21.html。10月22日)には救われる思いがする。
 (注3)米国の経済学者でコラムニストのポール・クルーグマンは、この演説は、練達の政治家であるマハティールが計算し尽くして行ったものであり、イラク戦争と無条件のイスラエル支持によって今やイスラム世界で米国が憎悪の対象となっていることを踏まえ、イスラム諸国を覚醒させ、その変革を促すためにはあえて「激しい」言葉を用いざるを得なかったのだろうと指摘している(http://www.nytimes.com/2003/10/21/opinion/21KRUG.html。10月21日アクセス)が、マハティールの用いた言葉は「誤った」言葉であり、この指摘には同意しがたい。

<読者α>
 今回、コラムに対して少々疑問に思うことがあり、メールした次第です。
#173(2003.10.20)<イスラム世界のユダヤ観> の部分なのですが、マハティールの発言を額面通りに受け取るのはどうか?というものです。

1981年、日本では同盟という言葉が禁句であり、時の鈴木総理が日米共同声明で「日米両国間の同盟関係」という婉曲的な表現を使ったにもかかわらず、メディアは対米追従だと非難し、「軍事的意味合いは全くない」と今からすればよくわからない釈明を余儀なくされました。
 日本における反米勢力、一国平和主義者の声を無視できなかったからと推測します。

同様のことはマハティール発言にも言えないでしょうか。
コラムでも述べられていますように、
>1はパレスティナ紛争でのアラブ(イスラム)側の敗北宣言であり、2はパレスティナの自爆テロ批判です。この二点をイスラム国の首脳が明確に述べたのは初めてではないかと思います。この二点に関しては、マハティールの見識と勇気に心から敬意を表したいと思います。

イスラム国としては異例の自己批判であり、イスラム諸国を刺激しかねない冒険的なものです。また、マレーシアは反ユダヤ的思想の持ち主を多く抱える国でもあります。
イスラム諸国・イスラム教徒を批判する言説を、反ユダヤ的言説で緩和することを意図したことも十分に考えうることだと思われます。

<太田>
>マレーシアは反ユダヤ的思想の持ち主を多く抱える国でもあります

についてですが、これはマレーシアがイスラム国だから、ということなのか、それとも特にマレーシアには反ユダヤ的思想の持ち主が多い、ということなのか、また、後者の場合、その具体例を挙げていただければ幸いです。

<読者β(isaki)>
マハティールについて、一言述べさせて頂きます。
通貨危機の時、私は丁度シンガポールにおりましたので、結構臨場感を持って毎日を送っていました。

アジア通貨危機については、各国共、その対応が大きく異なりました。タイは、IMFのショック療法、通貨下落を受け入れ、インドネシアも基本的には通貨フロートに任せるままとし、結果としてスハルト長期政権が倒れる程の社会変動を生む結果になりました。
マレーシアはその中にあって一人、通貨管理を強化する事で社会の激変を緩和し、漸進的な改革を実施しました。そういう点では、マレーシアはASEAN諸国の中で最も上手くアジア通貨危機に対処したと言えます。

ただ、当時、マハティールの後継者と目されていたアンワル副首相の失脚を巡る事件(ホモセクシャル疑惑)もあり、欧米から強烈な人権問題批判、通貨管理政策批判が行われました。それ以前からマハティールが東アジアへの米国の影響力削減を図ろうとした事もありましたし、マレーシアで開かれたAPEC総会でクリントンの替わりに参加したゴア副大統領が冒頭のマレーシア批判演説を行った直後に席を立つという事件もありました。

太田さんも記述されている通りマハティールはソロスを始めとするヘッジファンドに関して強い不満を持っている事も事実です。
通貨危機自体が欧米資本による途上国の富を収奪する第二の植民地主義の展開という見方もありえます。

マハティールの永遠の目標は、マレーシアを、如何に、再度欧米に隷属しない国家とするかという点にあった事は疑いの余地のない事だと思います。その点で、マハティールには欧米に対する深い疑心が潜在している様に思います。日本で言えば明治の元勲達が抱いた危機感をマハティールは共有していると言えなくもありません。

太田さんは反ユダヤ主義を煽る事で、マハティールが最後に馬脚を現したと書かれましたが、欧米マスメディアや米国民主党政権、ヘッジファンドグループと言った欧米のエスタブリッシュメントの中核にユダヤ人がいる事もまた事実です。勿論、統一されたユダヤ人の陰謀というものがある訳ではないと思いますが、マハティールにとって欧米エスタブリッシュメントをダイレクトに批判するよりも、激を飛ばす意味で、イスラム諸国民が理解し易い「敵」であるユダヤ人を例示したのではないかというのが私の感想です。

マレーシアでの反ユダヤ主義ですが、マレーシアで反ユダヤ感情が一般的なイスラム諸国に比べ高いという事実を寡聞にして私は見聞きした事がありません。反ユダヤというより、余程、反華僑であると思います。

独立直後の共産ゲリラとの対決、シンガポールの独立、経済面での華僑優位等々、マレーシアには反華僑の土壌がありますし、マハティールのプミプトラ政策については良く知られている処です。また、アジア危機の際は、シンガポールとの緊張を高める事で国内の意識統一を図っていた様に思いましたが、それが有効に機能する程度に国民には反華僑意識がある事は間違いないと思われます。

なお、私は、最近の田中宇氏の論評、特に陰謀論について評価しておりませんが、以下のマハティールに関する論評には参考になる点が多かったと思っております。

マハティールとユダヤ人  2003年11月03日
http://tanakanews.com/d1103mahathir.htm

負けないアジア:マハティール首相 1999年7月21日
http://tanakanews.com/990721mahathir.htm

<太田>
読者βさん。今回も色々ご教示いただき、ありがとうございました。

読者αへの回答は、もともとのコラムの中で既に行っています。
どなたかが指摘されるだろうと見守っていたのですが、自分で引用させていただきます。

「米国の経済学者でコラムニストのポール・クルーグマンは、この演説は、練達の政治家であるマハティールが計算し尽くして行ったものであり、イラク戦争と無条件のイスラエル支持によって今やイスラム世界で米国が憎悪の対象となっていることを踏まえ、イスラム諸国を覚醒させ、その変革を促すためにはあえて「激しい」言葉を用いざるを得なかったのだろうと指摘しているが、マハティールの用いた言葉は「誤った」言葉であり、この指摘には同意しがたい。」

なお、一般論として、「国際情勢」愛好家に、日本を非難する外国要人に対しては強く反発し、日本を持ち上げる外国要人には無条件で相好を崩す、という傾向が見られます。
マハティールのマレーシア首相当時のルックイースト「政策」や李登輝台湾前総統の武士道礼賛等は大変結構なことですが、彼らはあくまでも外国の政治家であり、その裏にある冷徹な計算を忘れてはなりません。
私は李登輝前総統の米国における言説をちょっと調べてみたことがありますが、そこではもっぱら自分がクリスチャンであることをキャッチコピーにして話をされており、武士道の武の字も、(そして当然のことながら、日本の台湾統治の「すばらしさ」についても)一切言及がありませんでした。

<読者β>
マハティールの評価について、太田さんと議論するつもりはありません。

ただ、マハティールやシンガポールのリ・カンユー、インドネシアのスハルトなんかはかの国では、日本で言えば維新の元勲にあたる人達なんだろうなという気持で見ておりました。

また、李登輝なんかも、やはり凄い政治家ではないでしょうか?
台湾を国民党独裁国家から平和的な政権交代が可能な民主主義国家に変えた訳ですから。彼の最終的なゴールは名実共に台湾を自由民主主義に基く独立国家とする事ではないかと思います。その点で李登輝が米国で台湾へのシンパシーを得る為に、クリスチャンである事を利用し、日本向けには武士道や日本精神を使う事は矛盾ではないと思います。ある意味当然の事ではないでしょうか。

マハティールについても同様です。元々英領マレー植民地から独立した事で国民に旧宗主国指向が強かった訳で(シンガポールなんかは典型です。教育制度も英国に準じていますし、医者は英国の大学を卒業したのがプレステージになっています。)、ルックイースト政策も、そういう国民の英米指向を切り換えるのに利用しています。
国民の英米指向が実質的な再植民地化を招来する事を懸念したのかも知れません。

その一方、日本については、直接投資が期待出来る他、大東亜戦争時に日本軍がマレー人を優遇したので国民にシンガポールの様な反日意識もありませんでしたので、ルックイーストと言っても、抵抗感がないという点も指摘出来ると思います。
(なお、シンガポールは表だっては言いませんが、国造りに日本の経験をハード、ソフト両面で最大限に導入、活用しています。)

蛇足ですが、リ・カンユーと李登輝は客家という点では共通なので、元々親交があったそうですが、リ・カンユーが中国接近策を取った事で、李登輝との間がギクシャクしたという事です。

また、シンガポールは、富める資本主義国でありながら事実上の一党独裁国家(Peoples Action Party 人民行動党;党のシンボルマークは丸に電光)で、集会・出版の自由を国民に許しておりません。
江沢民は、シンガポールを中国の社会主義市場経済のモデルと考えている節があります。(事実関係は確認しておりませんが、中国共産党の幹部学校がシンガポールに設置されているとの話を聞いた事があります。)上記の体制面の類似性から見てあってもおかしくないと感じました。

太田述正コラム#0087(2002.12.21)
<中東アラブ世界>

千夜一夜物語の原典をひもといてみると、子供向けに書き直されたシンドバットの冒険等を以前読んだときの印象とは違って、何とまあ暗く殺伐とした話ばかりかと思われることでしょう。色欲と物欲の塊のような人物が続々と登場し、その欲と欲とが激しくぶつかりあい、せめぎあいます。油断をすれば、あっと言う間に身ぐるみをはがれ、命もとられてしまいます。
 こういう社会では、人々は明日の我が身に何が起こるか分からないという不安を抱きながら生きなければなりません。
これは決して物語の中だけの話でも大昔の中東の話でもないのであって、現在でもなお中東の人々は多かれ少なかれこのような無常の世界に生きているのです。
エジプトの経済学者ガラール・アミンは、その評論集『エジプト人に何が起こったのか?――1945-95年のエジプト社会の発展』の中で、近年のエジプト社会について、「腐敗の横行、規律の無視あるいは規律そのものの不在、暴力事件の増加、新たな種類の犯罪の出現、家族の解体、物質的価値観の広まりによる、浮利の追及の優先、生産労働の軽視。社会の相互協力・連帯の精神の弱まり、都市と農村の双方での生活様式の沈滞・・」と描写しています。(池内恵『現代アラブの社会思想――終末論とイスラーム主義』講談社現代新書2002年、34頁から孫引き)
アミンも、そしてこの文章を引用している池内氏も、エジプト(あるいはアラブ世界)がこんな風になってしまったのは、1967年の第三次中東戦争によるナセル大統領(当時)の敗北及び70年ナセルの死のショックの後遺症だと考えておられるようです(池内 前掲書、40-41頁)。しかしエジプトで少年時代を過ごした私は、エジプト社会が、英国保護領時代のメッキがはげて元に戻っただけだと見ています。
 歴史始まって以来、次々に襲来する外来勢力による情け容赦ない支配と収奪に晒されて来た社会はこのような姿になってしまうのです。
つまり中東は、法や制度によって個人や(血縁・地縁等の)集団が保護されてきた欧米や日本と異なるのはもちろん、(支配者たる天子(=皇帝)に最低限の自己抑制を強いる)易姓革命思想(天命思想)を奉じる歴代中華帝国の支配下にあった中国とも異なる、万人が万人に対してあい争う苛烈にして索漠たるホッブス的世界なのです。
イスラム教がこのような中東に生まれ、中東と歴史的環境が似通った北アフリカ、中央アジア、南アジア、東南アジアに急速に普及し、今でも中部アフリカ等へ普及しつつある理由は明らかです。イスラム教に帰依すれば、バラバラの個人や集団の間で、共通の神アラーをいただき、共通のイスラム教的生活規制に従うことを通じた擬似的な連帯感が生まれ、イスラム教が「喜捨」による相互扶助を勧めていることともあいまって、人々が抱く根元的な不安が多少なりとも軽減されるからです。

この中東世界は、イギリスに端を発する世界の近代化(ヨーロッパ化)のうねりに決定的に乗り遅れてしまいました。
中東のようなホッブス的社会においては、共通の世俗的利益のために私益を犠牲にするという発想がないため、社会全体を近代化するといった、社会の成員各層による長期にわたる協同的かつ献身的な努力が要請される大事業を推進することは至難のわざなのです。
さまざまな対応が試みられてはきました。
19世紀前半、オスマントルコ帝国内のエジプトの太守モハメッド・アリ(マケドニア人。1952年の革命まで続くエジプト最後の「王朝」の創始者)は、技術や制度を西側から直輸入して軍事の近代化をなしとげ、ヨーロッパに対抗しようとしたのですが、部分的近代化という方法論の限界とヨーロッパ勢力の「予防的」介入により、アリの改革は挫折してしまいます(Ch. 4 'The Egyptian Army of Muhammad Ali and His Successors, David B. Ralston, Importing the European Army, The University of Chicago Press, 1990).
20世紀以降を見てみましょう。
イスラム精神を作興することでヨーロッパの挑戦を克服しようとイスラム復古運動が盛んになり、アラビア半島に原理主義的なワハブ派を奉じるサウディアラビアという国が生まれ、エジプトにも原理主義的なムスリム同胞団が出現しますが、それぞれ中東アラブ世界全体を揺り動かすには至りませんでした。(この系譜から生まれた鬼子がアルカイダ等のイスラム過激派です。)
さりとて、いきなりアングロサクソン流の自由・民主主義を導入することによって中東社会の根底からの近代化を図ろうとしてもそうは問屋がおろしません。イラクの立憲王制はものの見事に失敗しますし、ヨルダンの立憲王制もまだ事実上停止されたままです。
西欧化の試みはどうだったでしょうか。(アングロサクソン文明と西欧文明は全く違うという話はここでは繰り返しません。)
西欧ゆずりのナショナリズムについては、イスラム圏内の中東地域中、イラン高原やアナトリア半島(トルコ)といった、アラブ世界以外でかつ地域的にまとまりあるところではともかく、アラブ世界では機能しないことが次第に明らかになりました。アラブ世界全体を一括りにしたアラブナショナリズムを展開するのは地域的に広すぎて無理がある一方、エジプトを除けば、ナショナリズムの前提となるところの、住民が歴史的体験を共有するような明確な「地域」、が存在しないからです。(そのエジプトにおいても、ナショナリズムは英国からの完全独立と外来の王家の追放を達成したものの、ついに国民を近代化に向けて動員することには成功しませんでした。)
西欧に淵源を持つマルクスレーニン主義は、無神論である以上、イスラム教的なものを「必要」とする中東世界に浸透するのは困難でした。
最後に残されたのが西欧由来のファシズムです。
そのファシズムの導入を試みた二つの国がイラクとシリアであり、それぞれの国において、独裁者が国民への世俗的単一イデオロギー(バース党イデオロギー)の注入と疑似民主的政治過程への国民各層の動員に成功したことに英米は注目しています。彼らは、かねてからこの両国が中東アラブ諸国の中で最も近代化に成功する可能性が高いと見てきたのです。

既にイラクについては、何度もコラムで取り上げてきました。
そろそろシリアを取り上げる時期かもしれませんね。

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