カテゴリ: キリスト教

太田述正コラム#3620(2009.11.1)
<キリスト教の歴史(その3)>(2010.2.23公開)

 (5)その他

 「・・・マックロックは、18世紀のプロテスタントのリバイバリスト達(Revivalists)(注3)のことについては生き生きと書いているが、・・・カトリックの道徳神学の自由主義的再形成を行った点でウェスリー(John Wesley<。1703〜91年>)兄弟の業績と完全に重要性において拮抗するところの、偉大なイタリア人説教者にして神学者たるアルフォンソ・リグーリ(Alphonso Ligouri<=St Alphonsus。18世紀のスペイン生まれのイエズス会員>)(注4)については沈黙を保つ。
http://books.google.co.jp/books?id=7wyzdz6ZO-QC&pg=PA174&lpg=PA174&dq=Alphonso+Ligouri&source=bl&ots=lNeJ_Hftt0&sig=pvI3zXA7BKhHm9rRg30dXin2IaQ&hl=ja&ei=PzbtSoGXA4zW6gOz5PTlCw&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=4&ved=0CBQQ6AEwAw#v=onepage&q=Alphonso%20Ligouri&f=false (太田)

 (注3)18世紀における、英国での(ウェスリー(Wesley)兄弟を創始者とする)メソジスト(Methodist)とドイツでの敬虔派(Pietism)の生誕、及び米国でのFirst Great Awakening の総称。(太田)
http://en.wikipedia.org/wiki/Christian_revival
 (注4)カトリック教会における贖い派(Redemptorists)の創始者。最も恵まれない人々も救われると説いた。(太田)
http://www.kinnoullmonastery.org/redemptorists/ 

 <なお、>マックロックのメソジスト(注5)主義に関する<深い>洞察は、彼が明らかにその聖歌(hymnody)が好きなことに由来する。

 (注5)英国教会であった神父のウェスリーによって始まったプロテスタントの新派。イギリスよりもむしろ米国で広まったとか、青山学院や関西学院がメソジストの学校であるとか、救世軍はメソジストの流れをくむとか、日本語ウィキ↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%BD%E3%82%B8%E3%82%B9%E3%83%88 
の説明が分かりやすい。(太田)

 彼はキリスト教音楽に良く通じているのだ。・・・」(B)

 「・・・法王庁はコントロール・オタクだ、このところの福音主義者達(evangelicals)は気味が悪い、古典ギリシャが旧約聖書と同じくらいキリスト教会に影響を与えた。・・」(A)

 「・・・マックロックは、仏陀の古の生涯がサンスクリットからアラビア語に翻訳され、そこから今度はグルジア人のキリスト教僧によって魅力的なキリスト教の聖人に変貌させられた、という話をすることによって、キリスト教の伝統における創造的変貌の一例を示す。
 そのような形において、それはヘブライ語、ラテン語、古ノルウェー語、ロシア語、コプト語、そして英語といった沢山の言語で中世におけるベストセラーになった。
 その借り物のキリスト教的装いの下で、仏陀は彼自身の祝日、賛美歌、礼拝式を獲得し、彼のために祈祷が書かれ、彼の諸遺物はアントワープの教会で尊崇された。・・・」(B)

 「・・・キリスト教がどうして韓国には根を下ろしたけれどインドではミンチ肉状態なのかについての分析は鋭い(注6)。・・・

 (注6)この「分析」の中身が分からないのは残念だ。私の仮説は、日本の植民地統治は朝鮮半島の人々の意識と生活様式を根本的に改め「近代化」したために精神的アノミー状態がもたらされたのに対し、英国の植民地統治はインド亜大陸の人々の意識と生活様式を基本的に「放置」したためにヒンズー教やイスラム教信仰がそのまま続いた、という違いによる、というものだ。(太田)

 ・・・彼は米国の宗教的原理主義に対し、米国の中東におけるイスラエルへの彼の目から見ての非良心的な肩入れに関して非難を試みる。・・・」(C)

 「・・・マックロック教授にとっては、英国教会こそ、分権的にして慎ましやかで冷静で、また、分裂に対処できて、かつ、信仰の複雑さに関して一歩退いて省察ができて、そして、それらについて笑い飛ばすこともできる、という意味ににおいて、「教会がそうあるべきはず」の絵柄をしているのだ。・・・
 殉教者達の血が教会<発展>の種となるとの観念は、16世紀における日本のキリスト教徒達の経験によって全面的に否定された。
 殉教者達が殺されただけでなく、それによって、教会もまた殺されたからだ。・・・」(I)

3 終わりに

 「多分いつかは、興味深いキリスト教史がキリスト教徒でも元キリスト教徒でもない誰かによって書かれることだろう。」(F)

 日本人の誰かが、この重い課題を引き受けてくれると良いのですが・・。(太田)

 「・・・マックロックは、キリスト教が現在、これまでで最大の挑戦を世俗的無関心から受けているのかもしれない、ということを正しくもほのめかしている。・・・」(G)

 「マックロック教授は、果たして自分の信仰のために死ぬことができるだろうか。
 「私は自分がキリスト教徒であるかどうか、いやそもそも何らかの宗教的信条を抱いているどうかを明らかにするつもりはない」と彼は我々に警告する。
  「<このように彼は自分のスタンスを明らかにしないのだが、>シェークスピアのハムレットは真実だろうか」と彼は問う。
 「それは実際に起こったことではない」と。
 そして続けて、「<しかし、>間違いなく俗っぽい感覚では真実であるところの、今朝私が食べた朝食の現実性に比べれば、それは、はるかに真実らしく私には見える」と述べる。・・・
 

 このようにマックロックは自分がキリスト教に好意を持っていることを示唆しているわけですが、イギリス人らしくないな、と思います。(太田)

 「・・・この素晴らしい本の静かな含意は、社会的かつ政治的多元主義の神学的かつ哲学的支柱それ自体が、原罪についての信条に基づく最終的失敗の自認を踏まえて唱えられたところの、キリスト教の理念たる「アガペー(agape)」、すなわち普遍愛、に多くを負っていることを示唆している点にある。
 この恐るべき、学問的かつ歴史的作品の中で、彼は、民主主義と多元主義が、確信的キリスト教徒が世界にほとんどいなくなった今、果たして<今後とも>長く続くのだろうか、という問いかけをしているように見える。」(G)

 書評子の上記のようなマックロック理解が正しければ、これもやはりイギリス人らしからぬ示唆であり、かかるキリスト教評には私は同意できません。
 キリスト教は多元主義(自由主義)とは相容れないし、民主主義的独裁と親和性はあっても自由民主主義とはやはり相容れない、と考えるからです。

(完)

太田述正コラム#3618(2009.10.31)
<キリスト教の歴史(その2)>(2010.2.22公開)

 (3)キリスト教の始まりとその始まりから内包されていた矛盾

 「・・・キリスト教は、<ローマ>皇帝タイタス(Titus< Flavius Vespasianus。39〜81年>)がエルサレムの神殿を70年に破壊した後、<キリスト教と>古のイスラエルの宗教の双子の子孫の関係にあるところのユダヤ教と、ほぼ同じ時期に世界に広まった。・・・」(B)

 「・・・キリスト教の中心的難問の一つは、自分自身と同じように神と我々の隣人達を愛せなどという単純な命令が、どうしてかくも多くの苦難と死をもたらしたのかだ。・・・」(H)

 「・・・ここが肝腎なところなのだが、愛のメッセージにもかかわらず、メシア<たるイエス>は、「私は平和をもたらすためではなく、刀を携えてやってきた」と語ったということにマックロックは注意を喚起する。
 この暴力についての約束<への言及>が、我々をして、キリスト教の物語を特徴付けるところの一連の知的、文化的、そして物理的紛争への心を準備をさせる。
 キリスト教は、ユダヤ教徒及びローマ帝国との紛争の中から生まれた。
 <キリスト教の二つの淵源であるところの、>ユダヤ教とエーゲ海からのヘレニズムの浸透、との間には深い亀裂があった。
 <このため、>年を経るに従い、キリスト教が敵対的にして、しばしば内部的と外部的双方の血腥い緊張の渦中に置かれるのを我々は発見することになる。
 帝政ローマにおける迫害の時代、ラテンと正教のキリスト教の東西への大分裂<(後出)>、11世紀における王位<(=神聖ローマ皇帝)>と祭壇(altar)<(=ローマ法王)>との間の紛争<(コラム#1229)>、西方キリスト教における宗教改革時に生じた分裂、そして<キリスト教世界と>イスラム世界との間の諸戦争。・・・」(G)

 このくだりは、「一神教<であるユダヤ教、キリスト教、そしてイスラム教>・・・の様々な規範は、個々人による暴力を防止するには極めて効果的だが、集団的暴力を防止することには余り成功したとは言えない。」というルイス・フライ・リチャードソンの指摘(コラム#3597)のうち、キリスト教がどうしてそうなのかの説明、と受け止めてもよさそうですね。

 (4)東西への大分裂

 「・・・キリストの二重性を巡っての単性論派とキリスト教の多数派の間の諍い・・・」(G)
 「・・・は、5世紀においてキリスト教会を揺るがした。
 どうして人間が神たりうるのか。
 肉体の姿を与えられたキリストの中の二つの人物は、一つは人間でもう一つは神聖なものなのか。
 それとも、そこには、同時に人間でありかつ神聖なものであるところの、単一の本性(nature)があるのか。
 単一の本性というキリスト教教義(Christology)が451年のカルケドン公会議で採択され、これが西方教会の公式教義となった。
 しかし、両性論が東方教会によって受け入れられることはなかった、とマックロックは、欧米における歴史理解の一つの欠缺を埋めてくれるのだが、このくだりは極めて感動的だ。
 彼は、ビザンツ帝国内の独立した司教達が、カルケドンで非難された神学を固く信奉することによって、6世紀までに東方教会が打ち立てられた、と我々に教えてくれる。
 この、礼拝式(liturgy)と精神性(spirituality)において明確に異なるところの、東洋のキリスト教は、驚くべき遠くまで、まずアラビアへ、次いでローマとササン朝ペルシャの世界、更には支那とインドの世界、とを結ぶ陸上路及び海上路に沿って伝わった。・・・」(D)(注1)

 (注1)単性論(Monophysitism)は、エウティケス(Eutyches。380?〜456?年)によって最初に提唱された考えであり、キリストの人性は神性によって吸収され、本性は1つとなったと考える。
 この考えは、神性はイエスの福音書に宿り人性は消え去った肉に宿っていたとし、人性においてキリストを生んだ「マリア」は神の母と称されるべきではないとしたところの、ネストリウス(Nestorius)派(景教)の考えに対抗する形で、エジプトを中心に盛んになった。
 ところが、まず東ローマ皇帝テオドシウス2世(Theodosius 2。401〜450年)によって、431年のエフェソス公会議(<Ecumenical >Council of Ephesus)においてネストリウス派が異端とされた後、東ローマ皇帝マルキアヌス(Flavius Marcianus。396〜457年)によって、451年にカルケドン公会議(<Ecumenical >Council of Chalcedon)において、イエスは神性を持つ(すなわち完全に神である)と同時に人性も持つ(完全に人間である)という考え方をとる両性論派(Dyophysites)が正統とされ、エウティケスの考えを信奉する単性論派(Monosophytes)は異端として排斥されることとなった。
 その後、両性論派は、ローマの教会と東ローマ帝国の国教であった東方正教会に継承され、単性論派は、エジプトのコプト正教会、シリア正教会、アルメニア教会、インド正教会などに継承されて現在に至っている。
 しかし、今日現存する単性論派と呼ばれるキリスト教会は、エウティケスの考えと自分達の考えとは、後者は両性を認めた上でその合一をいう点で異なると主張しており、単性論とは自称しないし、そう言われることを誤解であると考えている。 (太田)
 (以上、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%98%E6%80%A7%E8%AB%96
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%98%E6%80%A7%E8%AB%96%E6%95%99%E4%BC%9A
をベースにして以下で補った。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%B9%E6%B4%BE
http://en.wikipedia.org/wiki/Monophysitism
http://en.wikipedia.org/wiki/Eutyches
http://en.wikipedia.org/wiki/Diophysitism
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%A1%E6%80%A7%E8%AA%AC
http://en.wikipedia.org/wiki/Theodosius_II )

 「・・・マックロックの本を他と異なるものにしているのは、このように全球的側面に焦点をあてている点だ。
 他の<キリスト教史の>本は、これまで、お馴染みの欧州の文脈での教会をもっぱら取り上げがちだった。
 マックロックはそうではなく、彼の本の相当な部分を、イエスが生き、そして死んだ中東内及びその周辺についての叙述にあてている。
 つまり、キリスト教会の拡大は欧州だけでなく、そこにおいても起こってしかるべきだったというわけだ。
 マックロックが時代を追って叙述するように、当初はまさにそれが起こったのだが、二つの要素がそれを止めてしまった。
 第一は、シリア、ヨルダン、及びイラクのキリスト教徒の諸コミュニティーは、ローマとコンスタンティノープルのそれらとは対照的に、世俗的支配者達とうまく折り合いを付ける(make accommodation)ことを決してしなかったことだ。
 こうして、法王達や総主教(patriarch)達がこの世の様々な出来事のしがらみに絡め取られる一方で、中東のキリスト教徒達は、我が道を行き、イスラム教が到来した時に脆弱さを露呈してしまった。
 イスラム教は威圧的であり時に非寛容な、<キリスト教の>親戚的宗教だったが、結局、イスラム世界の中心部のキリスト教諸コミュニティーは、ひたすら縮小し、現在はちっぽけな、日常的に迫害され殆ど忘れられた少数派としてかろうじて生息していると言っても過言ではない。・・・」(H)

 「・・・<このようにして、>イスラム教が隆盛となると、キリスト教の東方教会は丸裸にされてしまった。・・・
 その結果、教理(dogma)に突き動かされ、異端狩り志向のアウグスティヌス的(Augustinian)な西方教会(注2)が勝利を収め、より流動的ではあるが、より幅広い東方の諸教会が没落したのだ。

 (注2)アウグスティヌス(Augustine of Hippo。354〜430年)は、カトリック教会及び正教会によって聖人視されている上に、プロテスタント諸派の多く、とりわけカルヴィン派によって宗教改革の神学上の父と仰ぎ見られている。
http://en.wikipedia.org/wiki/Augustine_of_Hippo
 だからマックロックは、西方教会全体の形容詞として「アウグスティヌス的」を用いたわけだ。(太田)

 最も悪いことは、それが、「ローマの司教にその地位以上の発言権(ideas)を与える」ことを可能にした点だ。
 正教会の没落は、この状況を更に悪化させた。
 法王はもはや挑戦を受けなくなっただけでなく、法王庁は偽りの、そして実行不可能な全員の合意なるものを西方教会<全体>に押しつける機関と化してしまった。
 マックロック教授は、このような成り行きになったことがいかにありえないことであったかを示すとともに、彼自身「どの司教であれ、彼が教会の首長であると誤って主張するようなこと」に対して不快感を露わにする。
 単一の教会さえなければ、どんな一人の人間もこんなことを唱えることなどできなかったはずだというのだ。・・・」(I)

 要するに、マックロックは、反正教、反カトリック教会、しかも反プロテスタントであるわけで、この点では、まことに英国教会的というか、イギリス人的である、と言うべきでしょう。

(続く)

太田述正コラム#3616(2009.10.30)
<キリスト教の歴史(その1)>(2010.2.21公開)

1 始めに

 ディアメイド・マックロック(Diarmaid MacCulloch)の浩瀚な'A History of Christianity: The First Three Thousand Years' が上梓され、英国で大きな話題になっています。
 この本の書評を手がかりに、この本にどんなことが書かれているかをさぐってみましょう。

A:http://www.guardian.co.uk/books/2009/oct/25/history-of-christianity-diarmaid-maculloch
(10月25日アクセス)
B:http://www.telegraph.co.uk/culture/books/6271890/A-History-of-Christianity-The-First-Three-Thousand-Years-by-Diarmaid-MacCulloch-review.html
(10月26日アクセス。以下々)
C:http://www.spectator.co.uk/print/books/5356491/apologies-but-no-apologetics.thtml
D:http://entertainment.timesonline.co.uk/tol/arts_and_entertainment/books/non-fiction/article6839676.ece?print=yes&randnum=1256538465750
E:http://heritage-key.com/publication/history-christianity-first-three-thousand-years
F:http://www.economist.com/books/PrinterFriendly.cfm?story_id=14446991
(この本ともう一冊の本の書評)
G:http://www.ft.com/cms/s/2/5117ed50-9e62-11de-b0aa-00144feabdc0.html
H:http://entertainment.timesonline.co.uk/tol/arts_and_entertainment/books/non-fiction/article6857602.ece?print=yes&randnum=1256538952140
I:http://www.churchtimes.co.uk/content.asp?id=81057

 マックロックは、オックスフォード大学のキリスト教会史の教授で宗教改革史が専門であり、かねてからその著書で何回も受賞歴がある人物です。
 この本は、BBCのキリスト教史のシリーズもので、世界各地での実写を交えた番組の制作への彼の関与と平行してとりまとめられたものです。
 マックロックは、父親が英国教会の神父である同性愛者です。
 ちなみに、彼は、自分はキリスト教の友人ではあるがもはや信者ではない、という立場です。
 (以上、A、B、Eによる。)

2 キリスト教の歴史

 (1)全般

 「・・・2009年には<キリスト教>信者は20億人を超えており、1900年に比べてほとんど4倍に達し、現在の世界総人口の3分の1を占め、これに次ぐ競争相手であるイスラム教の信者の数より5億人以上多い。
 <もっとも、マックロック>教授は、International Bulletin of Missionary Researchに拠っているところ、この数字はちょっと大きすぎるのではないか。・・・」(C)

 「・・・最近の<キリスト教>批判者達は、キリスト教の遺産について、それがおしなべて反理性的で時代遅れである、と言う。
 だから、<彼等は、>敵<たるキリスト教>など一撃で粉砕できるというのだ。
 マックロックはそうではなく、キリスト教を多次元的な運動として描写する。
 1,000年間にわたって、キリスト教は単なる抑圧者としてだけでなく、解放者としても、そして、検閲者としてだけでなく知的な推進力として、活動してきたというのだ。
 <旧約聖書中の>申命記(Deuteronomy)よりも<無神論者の>ドーキンス(Dawkins)によって形成された<と言ってよいイギリスの>文化の下では、これは偶像破壊的行為であると言える。
 それどころか、マックロックは、「科学は・・・宗教の目的や意図と全く抵触しない」のであって、真の科学者は、いかなる神学者にも伍して、神の被造物の検証にあずかっているのだと説明する。
 <これは、>今日の<欧米>世界では、放火まがいの声明であると言える。・・・」(A)

 こういう書評を読むと、イギリスがいかに反キリスト教的な社会かが、改めてよく分かりますね。(太田)

 (2)前史

 「・・・著者は、自分の名前がつけられている宗教の教祖としてのナザレのイエスの重要性、特異性を矮小化することに汲々としているように見える。
 そのためにか、彼は、イエス生誕以前の1,000年を<この本で>最初に扱い、キリスト教のルーツをギリシャとヘブライ両文明に求める。・・・
 イエスを扱った節は20頁を超えないが、これには、現代の英国教による新約聖書批判の最も苛つく側面の全てが反映されている。
 イエスの人格は描かれることがなく、読者は、これほども史実が残っていないのだとすれば、どうしてイエス、イエスと言うのか、という思いにかられてしまう。・・・」(C)

 「・・・キリスト教は、一般には<生まれてから>2,000年経っているとされている。
 しかし、マックロックは、ダビデ王からイエス・キリストまでの間の1,000年をキリスト教史の最初の1,000年であると主張する。
 というのは、<彼に言わせれば、>その間に、キリスト教の考え方とイメージ(imagery)を形成する主要な諸観念が確立したからだ。
 この諸観念には、ユダヤ史の様々な主題、とりわけ、神から遣わされ、神<の被造物たる>人々を訪れてこれらの人々を贖う救済者(deliverer)<の出現>への希求が含まれている。
 しかし、これらの諸観念には、古典ギリシャから借り受けられたアイディア、及びローマ帝国から剽窃された組織制度が組み入れられている。
 <このように、>キリスト教は、最初から吸収性のある(absorbent)宗教だったのであり、その適応能力においてほとんどダーウィン主義的であって、だからこそキリスト教は、その4,000年紀の始まり<たる現在>において、依然衰えを知らないのだ。・・・」(D)
 
 「・・・「地上志向的で世界肯定的(world-affirming)なユダヤ主義」と、不変の非地上的な精神的な美を追い求めるヘレニズム的世界観との「恒常的対話」を理解することなくして、我々はキリスト教を理解することなど全くできない。
 キリスト教の父達であるところの、イエスと聖パウロ(Paul)は、「この二つの文化の狭間に飛び込んだ」のだ。
 その結果<成立したの>が、最初から、たくさんの異なった、そして相矛盾さえするところの、神、善、人間の本性、そして救済についての説明を提供する<という特徴を持つ>宗教<であるキリスト教>だったのだ。・・・」(I)

(続く)

太田述正コラム#2402(2008.3.4)
<アブラハム系宗教の好戦性>(2008.9.12公開)

1 始めに

 米国ニューヨーク州の名門リベラルアーツ大学であるバード大学(Bard College)の宗教学教授である米国人チルトン(Bruce Chilton)が'Abraham's Curse: The Roots of Violence in Judaism, Christianity and Islam'を上梓したので、そのエッセンスをお伝えしましょう。 バード大学はもともとは、ニューヨーク市の英国教会系の大学でしたし、チルトン自身、英国教会の牧師(rector)です。しかも、彼は英ケンブリッジ大学で博士号をとっているのですから、彼はイギリス人の視点で物事を見ていると考えてよいのではないでしょうか。
 (以上、
http://en.wikipedia.org/wiki/Bard_College
(3月4日アクセス)、
http://en.wikipedia.org/wiki/Bruce_Chilton
http://www.westarinstitute.org/Fellows/chilton.html
(どちらも3月3日アクセス)による。)

2 アブラハム系宗教の好戦性

 20世紀は、人類史上最も多数の青年達が生け贄(犠牲)として神に捧げられた世紀だったと言えよう。
 アブラハム系宗教の世界においては、戦争やテロ等は、獲物を得たり防衛したりするためと言うよりは、人間、とりわけ青年を神の犠牲に供するためのものなのだ。
 それは21世紀の今日においても変わらない。
 キリスト教徒はイラクやアフガニスタンで戦い、ユダヤ教徒はレバントで戦い、イスラム過激派はテロ行為にあけくれている。
 人間を神の犠牲に供する儀式は石器時代の終わりに都市が生まれた頃に始まった。
 注目すべきは旧約聖書の創世記22に出てくるアブラハムとその子イサク(Isaac)の挿話だ。
 「イサクは父アブラハムに言った。「お父さん・・焼いて捧げるべき子羊はどこにいるの?」 アブラハムは答えた。「息子よ、神は焼いて捧げるべき子羊を自ら与えてくださるのだ。」・・アブラハムは手を伸ばし、ナイフをとって彼の息子を殺そうとした。」
がそのさわりの箇所だ。
 神はアブラハムに彼の息子をモリア(Moriah)山で犠牲に供するよう命じたのだが、最後の瞬間に天使がアブラハムを押しとどめ、アブラハムの信仰ぶりは証明されたので代わりにその子羊を犠牲に供せよと告げたのだった。
 この挿話を素直に読めば、人間の犠牲を神はお望みになっておられないということなのだが、旧約聖書を聖典とする、いわゆるアブラハム系宗教であるところの、ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も、この挿話の解釈を180度ねじまげ、殉教を褒め称えるに至った。
 紀元前2世紀(BC167〜160年)、ユダヤ教徒はアレキサンダー大王の帝国の末裔の一つであるセレウコス朝(Seleucid dynasty)からの独立運動(マカベー=Maccabees)を起こし、自己犠牲的ゲリラ戦争を行って独立に成功する。
 このことが、ユダヤ教徒をして、ヘブライ語でアケダ(Aqedah=binding=約束)と呼ばれるところの、上記旧約挿話を変形させた。アブラハムの高貴さとイサクの死を望む気持ちを強調するもの、アブラハムがイサクを殺してから神がイサクを蘇生させるもの、が現れたのだ。
 このマカベー精神に基づき、ユダヤ教徒はローマ軍に紀元後73年にマサダ(Masada)で包囲された時に集団自殺を決行し、中世に欧州でポグロムが起きるとキリスト教徒に殺される前に親は自分の子供達を殺し、19世紀末には戦闘的シオニズムを生んだ。つい最近では、パレスティナ人に土地を割譲しすぎるとして1995年にイスラエル首相のラビン(Yitzhak Rabin)を極右のユダヤ教徒が暗殺した。

 また、キリスト教徒は、イエスが、自分に従う者は必要と思えば進んで「十字架にかかれ」と述べたことを踏まえ、ローマ帝国によって残虐に迫害された時には慫慂として殉教し、感嘆したローマ人達をキリスト教への改宗へと誘った。そして、カトリック教会は、イサクが犠牲として捧げられる寸前まで行ったことを、イエスの十字架刑という究極の犠牲の不完全な前兆と解釈するようになった。
 キリスト教がローマ帝国の国教になってからは、キリスト教徒たるローマ軍兵士は、殉教の装いの下で戦い始めた。これが、十字軍、ポグロム、カトリックとプロテスタントの間の宗教戦争、ナショナリズムに藉口した戦争等をもたらすことになる。

 イスラム教の場合も、コーランそのものには特段好戦性を見出せないものの、やはり後にアケダ挿話に変形が施される。アブラハムは攻撃的な人物であって神しかアブラハムを押し止めることはできなかったとか、アブラハムのもう一人の息子で、アラブ人の祖先とされるイシュマエル(Ishmael)が実は犠牲に供されたとかいった変形だ。そしてこの後者の変形が、危機と目される時に、極端な手段に訴えることを正当化してきたのだ。
 自爆テロとか米国に対する9.11同時多発テロが現代におけるその発現形態だ。

 つまり、アブラハム系宗教の世界では、戦争やテロ等は、人間の生理、心理、政治、経済、地理、宗教的要因で起きるというより、神に青年の犠牲を捧げるという文化によって起きているということだ。
 だから、アブラハム系宗教の世界で戦争やテロ等を大幅に減少させるためには、神に青年の犠牲を捧げるという文化を変えるしかない。
 このことは、文化を変えることはできるのだから、決して不可能ではない。
 ユダヤ、キリスト、イスラム教という三つの宗教の信者が、旧約聖書の創世記22を素直かつ正しく読むことに努めれば、いつかきっとこの悪しき文化を擲つことができるはずなのだ。
 
 (以上、
http://www.latimes.com/features/books/la-et-book26feb26,0,4237107,print.story
(2月28日アクセス)、
http://www.amazon.com/Abrahams-Curse-Violence-Judaism-Christianity/dp/B0013TX6PS
http://www.bookloons.com/cgi-bin/Review.asp?bookid=9258
疑問
http://targuman.org/blog/?p=1165
(いずれも3月3日アクセス)による。)

3 終わりに

 私の言うところの欧州文明の起源はローマ文明であり、ローマ文明の淵源はギリシャ文明とキリスト教です。
 このキリスト教が欧州文明に与えた負の遺産の一つがチルトンの指摘する、青年を犠牲として神に捧げるというエートスである、というわけです。
 チルトンによれば、キリスト教はイスラム教にも同じエートスを継受させることでイスラム教を「汚染」したことになります。
 私には、イギリス人がチルトンの口を借りて、欧州文明やイスラム文明、更にはアングロサクソン文明と欧州文明のキメラである米国の野蛮さを冷笑しているように思えるのですが、皆さんいかがですか。

太田述正コラム#2116(2007.10.10)
<魔女狩り(その2)>(2008.4.22公開)

3 最後の魔女狩り

 正式の裁判で行われた魔女狩りによる処刑の最後のケースは1782年にスイスの片田舎の町で起こりました。
 犠牲者はアンナ・ゲルディ(Anna Goeldi)という女中です。
 妻帯して娘もいた、彼女の雇用主の男は金持ちの政治家であり裁判官でした。
 彼がアンナを首にした時、彼女が、彼と関係があったことをばらすと口走り、ばらされると姦通罪ということになり、公職から追放されることを懼れた彼は、アンナは自分の娘を呪詛した魔女であると訴え出ます。
 そして友人や親戚である神父や裁判官に手をまわし、アンナを拷問にかけて魔女であることを告白させた上で、彼女を町の広場での公開の首切り刑に処すのです。
 判決言い渡しの直前、さすがに外聞をはばかった裁判官は、アンナが上記の娘を毒殺しようとしたとメーキングをした判決文に差し替えたのですが、裁判所の書記が差し替え前の判決文をドイツの新聞社に送り、この事件が記事になったため、スイスではまだ魔女裁判をやっているのかと非難の嵐が欧州中で沸き上がり、この非難の輪に加わったジャーナリスト何名かが起訴される、という騒ぎになりました。
 
 さて、この事件の起こった町の州(カントン)を代表する国会議員が、現在、アンナの名誉回復決議をスイスの国会で行わせようとしています。
 しかし、既に歴史の中でアンナの話の真実は明らかになっているとか、もう昔の話しだとか、昔の人がやったことに今日の人々が責任を問われるのはおかしい、といった声が多く、名誉回復決議が成立する可能性はなさそうです。

 スイスは、先の大戦中にユダヤ人難民を入国させなかったことについて謝罪するのを拒み続けた挙げ句、国際的圧力が余りに高まったため、1990年代の終わりにようやく公式の謝罪を行った国です。
 そもそも、欧州文明というのは、こういった謝罪を極力行おうとはしない文明なのです。

 (以上、
http://news.bbc.co.uk/2/hi/programmes/from_our_own_correspondent/7003128.stm
(9月21日アクセス)、
http://www.telegraph.co.uk/news/main.jhtml?xml=/news/2007/07/01/witch101.xml
http://www.ronaldbrucemeyer.com/rants/0617almanac.htm
(どちらも10月10日アクセス)による。)

4 終わりに

 魔女狩りは、ざっくり申し上げれば、中世のカトリック教会が生み出したものです。
 つまり、私の言うところのプロト欧州文明の産物なのです。
 まず、カトリック教会が科学を弾圧したことが、魔女狩りの下地をつくりました。
 事態を悪化させたのが、1437年と1445年における、法王エウゲニウス4世(Eugene4)による魔女の迫害を熱心に勧める教書の発出です。
 更に、1484年には、法王インノケンティウス8世(Innocent8)が『いちばん望むものについて(Summis desiderantes)』という教書を発出し、魔女狩りに反対する者は異端者であるとし、「魔女を生かしておいてはならぬ」(Exodus 22:18)という旧約聖書の既述を引用して、魔女狩りの手引き書の作成を促しました。
 その結果、『魔女糾問(Malleus Maleficarum=Witch-Hammer)』なる魔女狩りの手引き書ができあがるのです。
 (以上、
http://www.ronaldbrucemeyer.com/rants/0617almanac.htm
上掲による。)

 アングロサクソンは、イギリス国王のアセルスタン(Athelstan。924〜999年)が制定した魔女狩り禁止法が示すように、本来魔女狩りとは無縁でした。
 ところが、欧州の魔女狩りヒステリーがドーバー海峡を渡り、また、スコットランドから陸続きにイギリスに伝染し、欧州諸国ほどではないけれど、イギリスでも魔女狩りが行われるに至るのです。
 そして、既に見たように、それは英領北米植民地にまで持ち込まれるわけです。
 それでも、イギリスでは魔女狩り裁判による処刑は1716年打ち止めになります。
 (以上、
http://en.wikipedia.org/wiki/Witch_hunt
前掲による。)

 しかし、欧州では、上述のように1782年になってようやく打ち止めになったのです。

(完)

太田述正コラム#2114(2007.10.9)
<魔女狩り(その1)>(2008.4.21公開)

1 魔女狩り

 欧州やイギリス(含む英北米植民地)で魔女狩りが最も盛んに行われたのは1450年頃から1700年頃にかけてであり、宗教改革や30年戦争の時期と重なっています。
 魔女狩りを通しても浮かび上がってくるのは、アングロサクソン文明と欧州文明の違いです。
 魔女狩りで死刑に処せられた人々(主として女性)の総数は、35,000〜54,000人と推計されていますが、英国は4,000〜5,000人、英北米植民地は36人であったのに、フランスとドイツとスイスだけで、それぞれ5,000〜6,000人、17.300〜26,000人、4,000〜5,000人にも達するのです。
 それぞれの国または地域の総人口を考えるまでもなく、魔女狩りは主として欧州での出来事であったことが分かります。
 ちなみに、スコットランドでは1,100〜2,000人であり、スコットランドの人口がおおむねイギリスの10分の1で推移してきていることからすれば、これだけからでもスコットランドは欧州文明に属すると言えそうですね。
 (ただし、アイルランドでは4人しかいないことは興味深いものがあります。ひょっとするとアイルランドはアングロサクソン文明に属するのかも。)
 どうしてアングロサクソン文明と欧州文明とでこのような違いが出てくるかと言うと、前者には陪審制度があり、起訴には23人からなる大陪審(grand jury)の評決が求められ、更に有罪宣告には12人からなる小陪審(petit jury)の評決が求められるため、起訴、有罪宣告が簡単にはできなかった上、拷問がほとんど認められなかった(国王の承認が必要であり、イギリス史を通じて81の承認しか与えられなかった)のに対し、欧州では地域によって様々であったとはいえ、どこでもおおむね裁判官の力が強く、拷問が行われる頻度も高かったことが挙げられます。
 なお、魔女と認定されると原則として死刑に処せられましたが、イギリスでは絞首刑にしてから焼いたのに対し、欧州では生きながら焼殺するのが通例でした。

 (以上、
http://en.wikipedia.org/wiki/Witch-hunt
(10月9日アクセス)による。)

 この際、アングロサクソン文明と欧州文明の魔女狩りの興味深い事例を一つずつご紹介することにしましょう。

2 サーレムでの魔女狩り

 (1)事件の概要

 英北米マサチューセッツ植民地のサーレム(Salem)の町等で1692年と1693年に魔女狩り裁判が行われ、150人以上の人が魔女の容疑で逮捕・拘留され、うち29名が魔女と認定され、そのうち19人(女性14人・男性5人)が絞首刑に処せられました。このほか1人の男性が、魔女であるかどうか回答を拒否したため石載の拷問を加えられ圧死させられており、また、少なくとも5人が獄中で死亡しています。
 (以上、
http://en.wikipedia.org/wiki/Salem_Witch_Trials
(10月9日アクセス)による。)

 この魔女狩りの背景には、北米植民地の人々を取り巻く厳しい環境があったと考えられています。
 彼らは、インディアンや海賊やフランス人からいつ攻撃を受けるかという恐怖に怯えるとともに、イギリス本国との関係や植民地の地域政府の債務に頭を悩ましていたのです。

 (2)シーウォルについて

 サミュエル・シーウォル(Samuel Sewall。1652〜1730年)は、イギリスで生まれ、1661年にマサチューセッツに移住し、ハーバード大学で学んだ人物であり、1692年と93年のサーレムでの魔女狩り裁判に関与した9人の裁判官のうちの1人です。
 シーウォル自身、自分の子供が次々に夭折するという苦しみを味わっていたさなかにこの裁判に臨んだのです。

 やがて、この裁判への批判が人々の間で起こってきます。
 そして、マサチューセッツ植民地のフィプス(William Phips)総督は、自分の妻にまで魔女の嫌疑がかけられるに至って、魔女裁判目的で設置された特別裁判所(court of Oyer and Terminer)(
http://en.wikipedia.org/wiki/Oyer_and_terminer
)を1693年に廃止します。

 シーウォルは、人々が抱いていた上述の公的不安や(シーウォル自身が抱いていたような)私的悩みが魔女狩りを生んだことに思い当たったに違いないのです。
 1697年に、彼は魔女裁判において判事として無辜の人々を死に至らしめてしまったとの懺悔を記した紙を神父に会衆の前で読んでもらいます。
 このような懺悔をしたのは、上記の9人の裁判官中、シーウォルだけです。
 そして、自らへの罰として、以後、粗麻の下着を身につけることにするのです。
 更にシーウォルは虐げられた人々のために声をあげ始めます。
 ニューイングランド地方でさえも、当時5つに1つの家族が奴隷を所有していましたし、インディアンは野蛮人と蔑まれ、女性は男性の付属物扱いでした。
 シーウォルは、自分を黒人隔離論者としつつ、黒人も同じ人間であると主張したのです。これだけでも、当時のマサチューセッツ植民地では画期的なことでした。
 1717年にシーウォルはマサチューセッツの首席裁判官に任命されますが、マサチューセッツでアメリカ大陸最初の司法権の独立が確保され、政教分離が実現し、これらが北米植民地全域に広まっていく礎を築いたのはシーウォルだったのです。

 (以上、特に断っていない限り
http://www.nytimes.com/2007/10/07/books/review/Wald.html?ref=review&pagewanted=print
(10月7日アクセス)、
http://www.csmonitor.com/2007/1009/p25s01-bogn.htm
http://breenibooks.blogspot.com/2007/10/review-salem-witch-judge-by-eve.html
http://en.wikipedia.org/wiki/Samuel_Sewall
(いずれも10月9日アクセス)

(続く)

太田述正コラム#2392(2008.2.28)
<米キリスト教原理主義退潮へ?(その3)>(2008.4.7公開)

 1960年代に米南部のキリスト教原理主義者達はプロテスタント右派の幼稚園から大学までの一貫校をいくつもつくりました。これは、公立学校における白人と黒人の分離禁止に対抗する目的で始まり、やがて進化論等の世俗的考え方の教育を回避する目的がつけ加わりました。
 今日のキリスト教右派の闘士の多くはこれらの学校の卒業生であり、彼らは政府、教育、財界のあらゆるレベルで力を振るう地位に就いており、彼らの子供達や孫達は、キャンパス十字軍(Campus Crusade for Christ)(注2)のような団体で活発に活動しています。
 (以上、特に断っていない限り
http://newsweek.washingtonpost.com/onfaith/guestvoices/2008/02/a_very_undead_christian_right.html 
前掲による。)

 (注2)米国最大のキリスト教原理主義団体と言われる。1951年にカリフォルニア大学ロサンゼルス校の学生によって創設され、現在世界中に27,000人の専従職員を擁する。(
http://en.wikipedia.org/wiki/Campus_Crusade_for_Christ
。2月28日アクセス)

 それに何と言っても、キリスト教原理主義者は、現在でも米国で最も大きな投票ブロックです。
 しかも、人口学者も政治学者も一様に、今後10年から20年、米国では原理主義者がどんどん増えると予測しているのです。
 というのは、彼らは平均より子沢山であり、その上他宗教他宗派からの改宗者を沢山引き寄せると考えられているからです。
 もちろん、これまで説明したところからもお分かりのように、原理主義者達の様相が変貌しつつあることも忘れてはならないでしょう。
 このことを踏まえると、彼らは一層革新的(progressive)になるだろうと考えられています。
 昨年7月末にインターネット上で行われた調査によれば、原理主義者達の60%が、環境を保護しエイズ問題に取り組み貧困を軽減し人権を増進することの方が妊娠中絶や同性愛を減らすことよりも関心があると答えています。そして、特に関心があることとして、貧困の減少、健康状態と教育の改善、そして拷問の阻止を挙げています。
 だからと言って、彼らがリベラルになるわけではなさそうなのです。
 彼らの70%は妊娠中絶の廃絶は重要であるか極めて重要であると思っていますし、50%近くは同性愛者同士の結婚に反対しているのですから・・。
 彼らがなべて民主党支持者になるということもありえないと考えられています。
 これまでのあらゆる世論調査を通じ、原理主義者達の民主党のクリントン候補嫌いは一貫していますし、民主党のオバマ候補支持へという大きなうねりも見出せません。
 (以上、
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2008/02/22/AR2008022202383_pf.html 
前掲による。)

 ここで大事なことは、キリスト教原理主義者達はおおむね低所得者層か中所得者層に属しているという点です。
 よって彼らは、過去四半世紀にわたって米国の製造業の基盤を掘り崩してきたところの自由貿易政策とは相容れないものがあるのです。
 つまり彼らの大部分は、近年隆盛を極めている企業財務、ハイテク、サービス、情報といった分野とは無縁だということです。
 民主党のカーターが1976年の大統領選を制したことによって一番裨益したのは共和党でした。カーター政権下でキリスト教原理主義者達が経済的に辛酸を舐めた結果、彼らと共和党との結びつきが一層強まったからです。
 今年11月の大統領選挙で民主党の候補者が当選するとして、2009年以降米国経済が不況に突入し財政がガタガタになるという可能性は否定できません。
 そうなった暁には、再びキリスト教原理主義者達と共和党との強固な結びつきが復活したとしても決して不思議ではないのです。
 (以上、
http://www.latimes.com/news/opinion/la-oe-jenkins25jan25,0,6613708,print.story
前掲による。)

6 終わりに

 このシリーズを読んでよくお分かりにならなかった方は、「原理主義化するキリスト教」シリーズ(コラム#93、95)、「両極分解する米国」シリーズ(コラム#331、456、458、470)、「ブッシュの大統領再選」シリーズ(コラム#524〜526、528、538)にあたってください。

(完)

太田述正コラム#2390(2008.2.27)
<米キリスト教原理主義退潮へ?(その2)>(2008.4.6公開)

 実際、2001年には18歳から29歳白人のキリスト教原理主義者達のうち55%が共和党支持者だと答えていたのですが、2004年11月には50%、2007年7月には40%へと次第に減ってきています(
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2008/02/22/AR2008022202386_pf.html  
(2月25日アクセス)及び
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2008/02/26/AR2008022602647_pf.html
(2月27日アクセス))。

 そこへもってきて、原理主義者達を束ねて共和党と結びつけてきたお化け伝道師達が次々に退場しています。
 ジェリー・ファルウェル(Jerry Falwell。1933〜2007年。キリスト教原理主義最大のロビイスト団体の一つ、Moral Majorityを創設)とD・ジェームス・ケネディ(D. James Kennedy。1930〜2007年。テレビ伝道師)は亡くなりましたし、ジェームス・ドブソン(James Dobson。1936年〜。2004年にSlate誌が米国で最も影響力の強いキリスト教原理主義指導者と評した)やパット・ロバートソン(Pat Robertson。1930年〜。1988年の大統領予備選に共和党から出馬)は引退年齢にさしかかっています(
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2008/02/22/AR2008022202383_pf.html  
。2月25日アクセス)。

4 キリスト教原理主義者達の動向と民主党
 
 当然これは民主党にとっては追い風です。
 ミズーリ州とテネシー州での先般の大統領予備選の時の調査では、白人の原理主義者で投票した人々の約三分の一が民主党の候補者に投票しています。これはたった二つの州での調査でしかありませんが、従来は約四分の一だったことを考えると興味深いものがあります(
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2008/02/26/AR2008022602647_pf.html
前掲)。

 一頃は、民主党の指導者達は原理主義者をナチス協力者であるかのようにみなしていたため、原理主義者の40%が自らを政治的に穏健であるとみなしているにもかかわらず、彼らに全くアプローチをしませんでした。
 それどころか、カトリック信徒までも袖にしてしまっていました。
 1988年の民主党の大統領候補のデュカキス(Michael Dukakis。1933年〜。大統領選挙ではブッシュ父に敗北。ギリシャ正教信徒)は、民主党の歴史上初めてのことですが、選挙期間中カトリックの集会への出席を拒み抜いたものです。
 しかし、最近ようやくそれではいけないという反省と、キリスト教原理主義者達の間で変化も見られるということから、民主党の指導者達の姿勢にも変化が現れています。
 まず、民主党の妊娠中絶寄りのスタンスにも微妙な変化が出てきました。
 つい最近の2004年の大統領予備選の時ですら、民主党の全候補者が妊娠中絶の部分的禁止にすら絶対反対で足並みを揃えたものです。世論調査では20%しかこのようなかたくなな態度には賛意を表していなかったにもかかわらず・・。
 ところが、2006年の秋、二人のカトリック信徒の民主党下院議員が妊娠中絶を減らすための措置を盛り込んだ法案を上程しましたし、同じ頃、コロラド州では、妊娠中絶の部分的禁止を掲げる民主党の候補者が知事に当選しました。
 そして今回の大統領予備選では、クリントン候補は敬虔なメソディストであり、アーカンソー州で長年日曜学校で教えた経験がありますし、オバマ候補に至っては、著書の『希望の大胆さ(The Audacity of Hope)』の中で、民主党は「抵抗勢力の党(party of reaction)に堕してしまった。・・宗教的影響の増大に対して抵抗し、寛容を世俗主義と同等視することによって、われわれは、諸政策により大きな意義付けをするところの道徳的言語を投げ捨ててしまったのだ」、「公的な場における神への言及が常に政教分離違反を構成するわけではない」、「世俗主義者が、公的な広場に入場する際にそれぞれの宗教をドアの前に置いてくることを宗教信者に対して求めることは間違っている」と民主党離れした記述を行っています。
 おかげで、クリントンはともかくとして、少なくともオバマは原理主義者の一部の支持をとりつけるのに成功しつつあります。
 (以上、
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2008/02/22/AR2008022202386_pf.html
上掲、及び
http://newsweek.washingtonpost.com/onfaith/georgetown/2008/02/are_evangelicals_obamacurious.html
(2月27日アクセス)による。)

5 キリスト教原理主義と米国政治の今後

 だからと言って、キリスト教原理主義の米国政治における影響力はこれからも減衰を続ける、とまでは言い切れません。

(続く)

太田述正コラム#2388(2008.2.26)
<米キリスト教原理主義退潮へ?(その1)>(2008.4.5公開)

1 始めに

 今度の米大統領予備選に関連して、キリスト教原理主義勢力(Evangelist)の退潮がささやかれています。
 それが本当かどうかをさぐってみましょう。

2 米宗教宗派別信者数の動向

 1980年代には米国民の5〜8%が特定の宗教の信者ではないと答えていましたが、昨年行われた調査によれば、子供の頃特定の宗教の信者でなかった割合は成人の7%であったところ、16%が成人になってから特定の宗教の信者ではなくなったと答えています。
 特定の宗教の信者でない人の多くは50歳未満でかつ男性であり、5人に1人近くが特定の宗教の信者ではないと答えたのに対し、女性では13%に過ぎませんでした。
 反面、プロテスタントは大幅に減り、1970年代には米国民の三分の二くらいがそうだったのに、約50%になってしまいました。うち原理主義者が過半数ちょっとを占めています。
 注意を要するのは、特定の宗教の信者でない人の増大が必ずしも米国社会の脱宗教化・・無神論者(atheist)や神不可知論者(agnostic)の増大・・を意味していないことです。
 このところ一番退潮がみられるのは、非個人的(impersonal)な宗教宗派であり、原理主義的なメガ教会が隆盛を極めているのは、メガ(巨大)だからではなく、それら教会が各個人の宗教的ニーズに応じたきめ細やかな対応をしているからであるというのです。
 ところで、カトリック信徒の割合は一貫して25%前後で安定的に推移してきていますが、米国生まれのカトリック信徒は大幅に減ってきているのであって、この減った分を海外から流入するカトリック信徒が埋めているのです。海外からの移民の半分近くはカトリック信徒であり、その大部分は中南米出身です。
 (以上、
http://www.nytimes.com/2008/02/26/us/26religion.html?_r=1&hp=&oref=slogin&pagewanted=print  
(2月26日アクセス)による。)

3 キリスト教原理主義者達の動向と共和党

 こうした中で、米国のキリスト教原理主義者達に変化が生まれてきていることは間違いありません。
 世論調査をしてみると、若い原理主義者達が彼らの属している教会が掲げる大義・・妊娠中絶反対とかホモ反対とか対イラク戦支持・・への関心を減じつつあることが分かります(
http://news.bbc.co.uk/2/hi/programmes/from_our_own_correspondent/7154551.stm  。12月23日アクセス)。
 もう少し精緻に見ていくと、妊娠中絶やホモには反対でもブッシュ政権下の対イラク戦争や拷問の嫌疑や地球温暖化放置政策には眉を顰めるキリスト教原理主義者達が増えているのです。
 この結果、原理主義と共和党との同盟関係にひびが入ってしまったと言ってよいでしょう(注1)。
 (以上、
http://www.latimes.com/news/opinion/la-oe-jenkins25jan25,0,6613708,print.story (1月26日アクセス)、及び
http://newsweek.washingtonpost.com/onfaith/guestvoices/2008/02/a_very_undead_christian_right.html  
(2月13日アクセス)による。)
 
 (注1)この同盟関係成立の経緯については2つの説がある。
    多数説は、1977年から1980年の民主党のカーター(Jimmy Carter)政権下の米国の国際的地位の低下と憂うべき経済・社会状況、すなわちイランの米大使館員人質事件の生起、インフレの亢進、暴力的犯罪の多発、都市の朽廃、性の価値観の急速な変容・崩壊は米国社会そのものが朽廃しつつある感があり、米国民の多くがこれは米国が神聖なる任務を裏切ったことで神に罰せられていると受け止めたことが契機になったとする説だ。
    これに対し、少数説は、1960年代に左翼が引き起こした騒動・・市民権(civil rights)運動、ベトナム戦争反対運動、フェミニズム/ゲイ権(gay rights)運動、に対する原理主義者達の反発が契機になったとする。すなわち、これに着目したのがニクソン(Richard Nixon)であり、彼は、伝道師のビリー・グラハム(Billy Graham)らと提携して、この米キリスト教原理主義者達と法王ヨハネ(John)23世が行ったカトリック改革に反発する米カトリック信徒を共和党に糾合することを試み始め、妊娠中絶を合法化した1973年の米最高裁判決へのこれら二者の拒絶反応が最後の一押しとなって、キリスト教原理主義者達(及びカトリック信徒)と共和党との同盟関係が成立したというのだ。

(続く)

太田述正コラム#2403(2008.3.5)
<過去・現在・未来(続x5)>

1 欧州人の人種差別意識

 読者の遠江人さんが、スウェーデン人の黄色人種差別意識を赤裸々に描いたブログ
http://reekan-j.hp.infoseek.co.jp/swetoho7b.html
http://reekan-j.hp.infoseek.co.jp/swetoho5.html
http://reekan-j.hp.infoseek.co.jp/swetoho12.html
を紹介し、「久しぶりに読む機会があったのでよかったらどうぞ。ヨーロッパの白人にとってこの程度の人種差別意識は普通に持ち合わせていることなのでしょうね。」と言っておられます。
 しかし、このブログに出てくるエピソードは、スウェーデンの特殊性に照らして理解されるべきだと思います。
 私は(英国には1年間住んだけれど)、欧州には(小学校時代の1ヶ月のザルツブルグ滞在を除けば)住んだ経験がないのですが、私の認識では、欧州諸国の中でもバルト三国、フィンランド、東欧諸国中のロシア接壌国は、基本的にすべて日露戦争の勝者日本に敬意を抱いています。
 同様、私の認識では、(英国はともかくとして、)ドイツ、フランス、イタリア、オーストリアは、かつて列強として日本と競った記憶から、日本を対等視しています。
 スペインだって、米西戦争で米国にわだかまりを持っており、米国と真正面から戦った日本に悪い感情は抱いていないように思います。
 これに対し、スウェーデンはこれらのいずれの範疇にも属さない国なのです。

2 アブラハム系宗教の好戦性

 コラム#2402「アブラハム系宗教の好戦性」(未公開)で、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教に内在する青年達を生け贄(犠牲)として神に捧げるというエートスが、戦争やテロをを育んできた、という説をご紹介したところです。
 しかし、何と言っても、イスラム教社会こそ、現在一番このエートスが生きている社会でしょう。
 アルカーイダ、レバノンのヒズボラ、ガザのハマスらを、このような意味におけるイスラム教社会における前衛ととらえることができそうです。
 例えばハマスは、いかなる条件下においてもイスラエル国家との共存を拒否し、イスラエル国家打倒を目指して、ガザの青年達を戦争やテロに駆り立て続けるでしょうし、ガザの青年達もまた、喜々として殉教・・戦争やテロ・・に身を捧げ続けることでしょう。
 つい最近まで、パレスティナ人に領土を割譲することで和平が実現できると信じていたけれど、ついにそれが不可能だと悟ったイスラエルのリベラル派の心情が
http://www.latimes.com/news/opinion/la-op-halevi2mar02,0,7450703,print.story  。3月3日アクセス
に描かれています。

3 オバマ候補の足踏み(速報)

 オハイオ、テキサスという大票田でクリントン候補にオバマ候補が敗れ、米民主党の予備選の決着は持ち越されることになりました。なお、バーモントではオバマが、ロードアイランドではクリントンが勝利しました。
 ただし、テキサスでは、代議員の3分の2が投票で決まるのですが、この投票ではクリントンは勝利したものの、代議員の3分の1が決まる党員集会が投票が終わってから開催されており、こちらは、党員集会に強いオバマが勝利するのではないかと予想されています。
 投票結果では、98%の開票でオバマ48%、クリントン51%ですが、党員集会では36%の進行でオバマ52%、クリントン48%であり、全般的にクリントン有利な形でデッドヒートが続いていると言ったところです。
 オハイオでのクリントンの勝利は、出口調査によれば、オハイオでもテキサスでも経済問題が一番の関心事であったところ、テキサスでは48%がそう答えたのに対し、景気低迷に悩むオハイオでは61%がそう答えたことに尽きています。
 テキサスはクリントンの強固な支持母体であるヒスパニック系人口が多いところから、もともとクリントン有利と目されていた州であり、むしろオバマが健闘したと言うべきかもしれません。
 今後の予備選の日程ですが、土曜日にはワイオミングで、そして火曜日にはミシシッピで行われます。クリントン陣営自身、このどちらの州でも人口構成から言ってオバマが勝利すると予想しており、決戦は4月22日に行われる最後の大票田のペンシルバニアでの予備選です。 
 これまでクリントンはニューヨーク、カリフォルニア、ニュージャージー、そしてオハイオとテキサス(?)と大きな州で勝利しており、オバマの勝利の多くは小さい州であるという違いが見られます。
 ちなみに、共和党の方は、マケイン候補がオハイオ、テキサス、バーモント、ロードアイランドのすべてを制し、代議員の過半数1191人を超え、候補者の座を確定しました。

 (数字は、CNNのサイトの1850現在。基本的には、
http://www.guardian.co.uk/world/2008/mar/05/hillaryclinton.barackobama1
(3月5日アクセス)による。)

4 日テレ「太田総理・・」への連続出演

 2月14日と21日、2週連続して日本テレビのお馴染みの「太田総理・・」に出演することになりました。
 お時間が許せばぜひご覧下さい。
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太田述正コラム#2404(2008.3.5)
<「太田総理・・」2008年第2回出演)>

→非公開

太田述正コラム#2338(2008.2.1)
<韓国次期大統領とキリスト教>(2008.3.5公開)

1 始めに

 李明博(Lee Myung-bak。1941年〜)が2月25日、韓国の新しい大統領に就任します。
 これから幾度となく、李はこのコラムに登場することになるでしょうが、皮切りにキリスト教徒としての李をとりあげることにしました。

2 韓国のキリスト教

 キリスト教は19世紀末に朝鮮半島に入ってきたのですが、本格的布教が始まったのは20世紀に入ってからです。
 日本からの独立運動の先頭に立ったキリスト教徒が少なくなく、また、朝鮮戦争の後には米国の教会関係者が食糧援助や病院・学校の設立を行い、軍事独裁政権下では、キリスト教徒で民主化闘争に身を投じる者が少なくなく、更には1997〜98年のアジア金融危機の際には金製品や宝飾品を自発的に供出したキリスト教徒が続出したことから、韓国の人々は、総じてキリスト教に対しては良い印象を抱いて来ました。

 2005年12月の調査によれば、韓国の総人口4,700万人のうち、53%が何らかの宗教を信じており、そのうち仏教徒が22.8%、プロテスタントが18.3%、カトリックが10.9%であり、キリスト教徒の勢力は今や大変なものです。
 1960年当時には、キリスト教徒は100万人未満に過ぎなかったのに、2005年現在では1,900万人以上となっており、急速に増えてきていることが分かります。
 しかも、キリスト教徒は極めて宗教的に活発であり、その35%が宗教は生活において極めて重要であると考えているのに対し、仏教徒ではそう考えている者は3%に過ぎません。週1日以上教会に行っているキリスト教徒は77%にも達しています。
 そのキリスト教徒は、経済界では、2007年現在、韓国の10大企業の会長職すべてを占めていますし、政界では、一院制の韓国議会の議席の半数以上を占めていて、現ノムヒョン政権では、ノムヒョン大統領自身、一応カトリックであるほか、例えば統一省長官が牧師ですし、今回の大統領選挙でも、10人の候補のうち、カトリックだけで6人もいたのに対し仏教徒はゼロでした。

 ここまでキリスト教徒の勢力が増大してくると、非キリスト教徒の間で反感が出てくるのは当然であり、昨年は韓国で、反キリスト教感情が大きな高まりを見せました。
 あるプロテスタントの教会に属する23人がアフガニスタンに布教を究極的とする旅行に出かけ、反政府分子に捕らわれ、うち2人が殺され、21人がやっとのことで帰国することができた事件が起こったからです。
 この時は、彼らが帰国してからも数ヶ月にわたってこの教会の前で抗議のピケが続きました。

3 李明博・韓国次期大統領とキリスト教

 こうした中で、李明博が大統領選挙に勝利したのです。
 李は、韓国最大の教会の一つであるソマン(Somang)プレスビテリアン教会の長老(elder)であり、その妻は同教会の執事(deaconess)であって、韓国のキリスト教徒の7〜8割が李に投票したとされています。
 この李は、ヒュンダイ(現代)建設の社長をしていた時、日曜ごとにこの教会の駐車場のガイド役を務めることで、1995年、同教会の長老に選出されています。
 そして2004年5月31日、ソウル市長をしていた李は、「私はソウル市が神によって治められた聖なる場所であると宣言する。ソウルの市民は神の民であり、ソウルの教会やキリスト教徒はソウルを守る精神的警邏隊なのだ。・・私は今ソウルを主に捧げる。」と演説しました。
 昨年、ハンナラ党(Grand National Party)で大統領候補に指名された直後に、彼が最初に訪問したのは朝鮮戦争の時の戦死者を埋葬している国立墓地でしたが、次に訪問したのは韓国キリスト教評議会(Christian Council of Korea =CCK)であったのは、いかにも李らしいと言わざるをえません。

 (以上、
http://www.atimes.com/atimes/Korea/JB01Dg01.html
http://www.christianpost.com/article/20071213/30491_S._Korea_Presidential_Election_Highlights_Christian_Influence.htm
http://christiantoday.co.jp/mission-news-891.html
(いずれも2月1日アクセス)による。)

4 終わりに

 李は大阪生まれですが、2006年1月のダボス会議で、「一部アジアの政治指導者は、過去の歴史に縛られて、国家間の緊張を高め、未来を暗くしている」と盧武鉉政権を批判する発言をしたり、2008年1月17日のソウルでの外国メディアと会見で、「私自身は新しい成熟した韓日関係のために、『謝罪しろ』『反省しろ』とは言いたくない」と発言したこと(
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E6%98%8E%E5%8D%9A
。2月1日アクセス)は高く評価したいと思います。

太田述正コラム#2028(2007.8.28)
<スペインの異端審問(その2)>(2008.2.28公開)

 また、トレドのカランザ(Carranza)大司教がヴァルデス(Fernando Valdes)審問長官の手によって没落せしめられたのは、カランザの大司教任命に対するヴァルデスの嫉妬心による。そこには、ドミニコ会の神学者カノ(Melchor Cano)のカランザに対する敵意もからんでいた。
 嫉妬に駆られた男女、感情を害した姻戚、隣人を羨んだ隣人、とあらゆる人々が讒訴した。例えば、ある審問官の給仕に自分の子供のオモチャを奪われた庭師がこの給仕に抗議したところ、9ヶ月も牢屋で鎖につながれる羽目になった。

 スペインの異端審問の対象はどんどん拡大され、(カトリック教国ではなくなった)イギリスの水夫達まで船から引きずり下ろされて拷問されたりした。
 しかし異端審問では、北欧州で猛威を振るった魔女狩りはほとんど行われなかった。そんな余裕などなかった、というのが本当のところだ。
 
 異端審問においては、処刑以外に、様々な罰則が科された。
 「犯人」は罰金を科されたり、流刑になったり、ガレー船の漕ぎ手にさせられたりした。とっておきの刑は、リラックス刑と称したところの、杭につないでの焚刑だった。ただし、犠牲者が悔い改めた場合は先に絞め殺してもらえた。
 とりわけ異端審問を悪名高いものにしたのは、水責めや重りを膝につけて天井からつるして上げたり落としたりして脱臼させる拷問だった。

 異端審問の費用は、「異端」者から没収した財産を売却することで賄われた。そのため、金持ちが狙いうちされて容疑をでっちあげられた。色好みの係官達は、魅力的な女性の夫や息子の容疑をでっちあげ、無罪放免させてやる見返りに彼女達の体を提供させた。

 異端審問は、スペイン帝国中に恐怖感を植え付けることが目的であったと考えることもできる。
 これにより、王室以下の支配者達に対して経済的または政治的な対抗勢力が出てきそうになったら、いつでもこれら勢力を「悪」と決め付け、「善」による「悪」に対する戦いを発動できるようになったのだ。
 大衆もこの「異端」迫害の共犯者となった。
 「異端」の噂話を訴え出ることが奨励され、スペイン帝国は密告者のネットワークが張り巡らされた密告社会となった。友人同士、恋人同士、夫婦同士、親子同士等が生存本能に基づき、互いに密告し合ったのだ。

 法王庁がにらみをきかしていたイタリアでは異端審問も抑制されたものとなった。このため、16世紀にイタリア半島で異端審問で死んだ人の数は、イギリスの、カトリック信徒たるメアリー(Mary Tudor)女王の5年間の統治期間中に粛清されたプロテスタントの数より少なかった。イタリア半島では拷問だって控えめだった。スペインとポルトガルはユダヤ人を15世紀末に追放したが、法王庁は、彼らが法王領に移住することを認めている。

 スペインの異端審問は、近現代の欧米に大きな影響を与えることになる。
 異端審問は、市民の私的生活への官僚機構の全面的介入をもたらしたが、これは近代的全体主義国家の前兆と言える。
 また、異端審問における「血の純潔性(purity of blood)」への執着と憎悪・破壊・殺人への衝動はファシズムの前兆だ。
 更に言えば、スペインのフランコ独裁体制やポルトガルのサラザール独裁体制は異端審問体制の復活とも言えるし、米国の1950年代におけるマッカーシー(McCarthyite)旋風は、異端審問の「内なる敵(enemy within)」幻想の写し絵とも言えるのだ。

3 終わりに

 グリーンが異端審問が近現代の欧米に与えた影響を論じる中に、欧州と米国は登場してもイギリス(英国)は登場しません。
 米国「文明」はアングロサクソン文明を主、欧州文明を従とするキメラであるとする私の主張は、ここでも裏付けらている趣があります。
 なお、グリーンはちょっとカトリシズムに甘過ぎるのではないでしょうか。
 私は、スターリン主義とマルクス主義が切り離せないように、スペインの異端審問体制とカトリシズムも切り離せないと思うのです。

(完)

太田述正コラム#2022(2007.8.25)
<スペインの異端審問(その1)>(2008.2.24公開)

1 始めに

 私が近現代史をアングロサクソン文明と欧州文明のせめぎあいととらえており、欧州文明の前駆はカトリック文明たるプロト欧州文明であると考えており、プロト欧州文明と欧州文明を結ぶものが、フランス絶対王政であると考えていることはご承知のとおりです。
 
 さて、プロト欧州文明の聖なる担い手がカトリック教会であるとすれば、その俗なる担い手の旗手は、当時の世界の覇権国たるスペインでした。
 英国にとってこのプロト欧州文明、すなわちカトリック教会ないしスペインの悪を象徴するのが、異端審問(Inquisition)だったのです。
 もともと異端審問は、11世紀の末にアルビジョン派(Albigensian)弾圧のためにカトリック教会によって開始されたものですが、一般に異端審問と言えば、1478年から1812年までスペイン(ポルトガル併合時代のポルトガルを含む)及びその植民地において行われたそれを指します。
 このたび、英バーミンガム大学の(?)グリーン(Toby Green)が'Inquisition: The Reign of Fear'という話題の本を出したので、その内容の概要をご紹介しがてら、異端審問について改めて考えてみたいと思います。

 (以下、
http://www.guardian.co.uk/comment/story/0,,2136624,00.html
http://books.guardian.co.uk/reviews/history/0,,2155588,00.html
http://arts.independent.co.uk/books/reviews/article2737896.ece
http://www.ft.com/cms/s/0/99a33c0e-397f-11dc-ab48-0000779fd2ac.html
http://www.theoxfordtimes.net/whatson/books/display.var.1622669.0.history_roundup.php
(8月25日アクセス)による。)

2 グリーンの指摘

 スペインの異端審問で異端として裁かれた人の数は約15万人に達するが、このうち処刑されたのは3,000〜5,000人に過ぎないし、異端審問によって出版物の検閲が行われていたというのにスペインでは文学が隆盛を極めた、等々と異端審問を矮小化する見方が最近出てきているが、あしかけ4世紀にわたって世界中・・イベリア半島からカナリア諸島・ケープヴェルデ・ゴア・メキシコ・ペルー・コロンビア・ブラジル・アンゴラ・フィリピン等に及ぶ・・を恐怖に陥れた事実は拭いがたい。
 この異端審問は、カトリック教会に対する異端を排除するという名目の下、実はスペイン内における分裂や反抗の芽をつみ取り、同時にそのことで金銭的利得を得るという世俗的目的のために行われた。
 異端審問の全盛期は、異端審問開始直後の1480年頃から1550年頃にかけてであると考えられている。
 しかし、異端審問がエスカレートした結果、スペインはむしろ弱体化し、最終的にナポレオンによって異端審問は廃止されることになる。

  できたばかりのスペイン王国のフェルディナンド(Ferdinand)国王とイザベラ(Isabella)女王は、認めなければ対トルコ戦争で支援をしないと法王シクストゥス(Sixtus)4世を脅して、異端審問長官(Inquisitor-General)の任命には法王の承認を得るとの条件の下で、スペイン王室が独自に異端審問を行うことを認めさせた。
 初期の頃に異端審問の主たる対象となったのは、(ユダヤ人は追放されることになったので)キリスト教徒に改宗したユダヤ人(converso)と(イスラム教徒=Moor人、は追放されることになったので)キリスト教に改宗したイスラム教徒(morisco)だった。彼らは、トルコと、あるいはイスラム教徒と通謀しているというばかげた嫌疑をかけられたのだ。
 やがて対象は、イスラム教徒はもとより、ヒンズー教徒、ルター派信徒、ユグノー、アランブラド派(alumbrados)、重婚者、女犯僧、同性愛者、麻薬中毒者、自由思想家、更にはフリーメーソン等々へとどんどん拡大されていった。

 歴代の法王は、異端審問長官以外の異端審問官にも自分の息のかかった人物を就けようとしたが、ついにそれを果たせず、また、異端審問に伴う悪行(後述)を止めさせようと時々教書(bull)を出したり、赦免を求めたりしたが何の効果もなかった。

 スペインの異端審問には行きすぎと腐敗と悪行がつきものだった。

 1478年に開始された異端審問の最初の異端審問長官のデトルケマダ(Tomas de Torquemada)は、3年後に初めて開かれた大審問会(grand council=auto-da-fe)において、それまで法王庁がおこなってきた異端審問のルールでは有罪たりえない6名の男に杭にしばりつけての焚刑を言い渡した。

(続く)

太田述正コラム#1866(2007.7.15)
<キリスト教・合理論哲学・全体主義(その2)>(2008.1.14公開)

3 グレイと私

 私のコラムを読み込んでこられた方から見ると、グレイと私の考えは全く同じであるとお感じになられたのではないでしょうか。
 まさにその通りであり、同じ考えのイギリス人に出会うことができて私は大変喜んでいます。
 ところで、これまで触れなかったのですが、グレイは、米国のネオコンのみならず、ブッシュやその「追随者」ブレアも、更には19世紀来の英国や米国の市場万能論的自由主義・・最近ではレーガンやサッチャーのそれ・・もまた、終末論的キリスト教の系譜に連なる狂信的思想であると指摘しています。
 私が、一貫して米国は、アングロサクソンだけれど、欧州の強い影響を受けているできそこないの(bastard)アングロサクソンだ、と主張してきたこともご存じの方が多いでしょうが、英国のサッチャーやブレアまで欧州の終末論的キリスト教の系譜に連なる、と言われると違和感を覚えてしまいます。
 

 実は、本日またもガーディアンにグレイの同じ本について書評が出ており、どれだけ英国でこの本が注目されているかが良く分かりますが、この書評子が、同様の違和感を表明しています。
 なお、この書評子は、ブッシュだって、終末論的キリスト教の系譜に連なる狂信的思想の持ち主であるとまでは言えないのではないか、と疑問を呈しています(注5)。
 (ここは、
http://books.guardian.co.uk/reviews/politicsphilosophyandsociety/0,,2126493,00.html
(7月15日アクセス)による。)

 (注5)本筋をはずれるが、この書評子は、グレイが、多民族民主主義国家にとっての君主制の不可欠性を示唆していることも紹介している。グレイは米国、英国、カナダ、スペインを多民族民主主義国家と見ているところ、英国やカナダやスペインに比べた、米国の民主主義の危うさをグレイは感じているらしい。

 かねてから私は、イギリス人には、欧州や米国の人々から傲慢だとか夜郎自大だとか非難されないようにするため、アングロサクソン文明を欧州文明と対置させ、あるいは米国「文明」をアングロサクソン文明の異端と位置づけたり、その上で欧州文明や米国「文明」を批判したりすることを避け、韜晦する傾向があることも指摘して来ました(コラム#84、869等)が、グレイもまたイギリス人として、かかる観点から、サッチャーやブレアを無理矢理批判の対象にすることで、いわば非難除けの避雷針を立てた、ということなのであろうと考えています。
 
4 最後に

 グレイはレーニンが大量虐殺を始めたと指摘していますが、実際には、1918年にレーニンを始めとするボルシェビキ幹部の暗殺未遂や暗殺が連続して起こったことから、スターリンが、暗殺再発防止のために、反ボルシェビキ分子に恐怖をたたき込むべく彼らを大量虐殺することを提案し、これにレーニンらが同意した、ということであったようです。
 しかも、この頃は、ボルシェビキ政権に反対する白軍との間で、何でもありの血みどろの内戦がロシアで続いていた最中であったことも忘れてはならないでしょう。
 こうして、1918年から21年にかけて、ボルシェビキは最大20万人を虐殺したのです。これが共産主義者によって行われた最初の大虐殺です。
 (以上、
http://en.wikipedia.org/wiki/Vladimir_Lenin
(7月15日アクセス)による。)
 要するに、レーニンが大量虐殺理論を構築し、スターリンらこれを実践したところ、少なくとも最初の大虐殺にはそれなりの合理的理由があったということです。
 ちなみにレーニンは、単にロシア正教の洗礼を受けていただけですが、スターリンやイエニキーゼ(Yenikidze)やミコヤン(Mikoyan)は修道僧あがりであり、ヴォロシーロフ(Voloshilov)は聖歌隊の隊員でしたし、カリーニン(Kalinin)は熱心に教会に通った少年でした。ついでに言うと、ベリア(Beria)とカガノヴィッチ(Kaganovich)の母親は、どちらも極めて熱心なユダヤ教徒でした。(Montefiore, Stalin PP86)
 以上から、スターリンらによる大虐殺、すなわちソ連における大虐殺は、まさに終末論的キリスト教から来ている、と言えそうです。
 
 この、レーニンが理論化してスターリンらが実践した大量虐殺を、終末論的キリスト教とは縁もゆかりもない支那の毛沢東、しかも共産主義理論に通暁せず、かつボルシェビキ的同志愛のかけらもないエゴイストの極みの毛沢東が、形だけ忠実に受け継いで実行に移したわけです(注6)。

 (注6)1928年に毛沢東は湖南省で大虐殺・・地主とその走狗を焼き尽くし殺し尽くす作戦・・を開始するが、これはソ連共産党の指示に忠実に従ったものだ(Chang&Hlliday, Mao PP59)。思うにこれが、後に日本軍が対共産党ゲリラに対して行った作戦を中共が三光作戦・・殺し尽くす・焼き尽くす・奪い尽くす作戦の意・・と形容するに至った(
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%87%BC%E6%BB%85%E4%BD%9C%E6%88%A6
。7月15日アクセス)ことの伏線になったのではないか。

 つまり毛沢東は、共産主義を、自分の個人的独裁を維持するための手段へと矮小化させたのです。
 こうして共産主義は、それに内在していたところの最低限の倫理性と合理性を失ってしまい、反倫理的非合理主義の極致たる毛沢東主義へと改竄された(注7)のです。そしてその結果、スターリンらのロシア(ソ連)は重工業化と軍事力の近代化に成功したというのに、毛沢東の支那(中共)は、スターリンらのロシアをはるかに超える大虐殺を行いつつも、工業化と軍事力の近代化には完全に失敗することになるのです。
 
 (注7)いかに毛沢東主義が反倫理的非合理主義の極致であったかは、大躍進政策が大量の餓死者を出しただけで工業化と軍事力の近代化には全くつながらなかっただけでなく、グレイも言及しているところのエピソード・・大躍進政策の過程で毛沢東が穀物を荒らす雀を撲滅せよと命じ、その結果雀の餌であった害虫が大発生してしまい、今度は極秘裏に極東ソ連から20万匹の雀の輸入を図る羽目になった(Chang&Halliday ibid PP422〜423)・・に典型的に現れている。

(完)

太田述正コラム#1865(2007.7.14)
<キリスト教・合理論哲学・全体主義(その1)>(2008.1.13公開)

1 初めに

 私は以前(コラム#1019で)、「ナチスのホロコーストは、<ロシア正教の世界における>ポグロムのカトリック・プロテスタント版であると言えますし、共産主義自体がカトリシズムの鬼子と言えるのであって、各国において共産主義が行った天文学的な数の「階級の敵」殺しはカトリシズムの伝統を踏まえた異端殺しである・・、と言ってよいでしょう。・・このヒントを得たのは、独文学者にして評論家であった竹山道雄(1903〜84年。「ビルマの竪琴」の著者として有名)の「昭和の精神史」(新潮社。1956年)を通じてだったと思<います>。」と記したところです。
 基本的に同じことを指摘した、LSE教授で政治哲学者グレイ(John N. Gray。1948年〜)の上梓されたばかりの本、Black Mass: Apocalyptic Religion and the Death of Utopia, Allen Lane が英国で大きな話題になっています。
 どうやら、英語圏でこんなことを指摘したのはグレイが初めてのようです。
 竹山が彼の考えを英文で論文にしておれば、と残念な思いがします。

 (以下、特に断っていない限り
http://books.guardian.co.uk/reviews/politicsphilosophyandsociety/0,,2125887,00.html、 
http://www.thefirstpost.co.uk/index.php?storyID=7581
http://www.literaryreview.co.uk/ryan_07_07.html
http://www.newstatesman.com/200707020045
http://arts.independent.co.uk/books/reviews/article2718285.ece
(いずれも7月14日アクセス)による。)

2 グレイの指摘

 ユートピア思想と(ジャコバニズム、共産主義、ナチズムといった)全体主義との関係を最初に指摘し、元凶はヴォルテール(Voltaire。1694〜1778年)やヘーゲル(Hegel。1770〜1831年)らの欧州の合理論(コラム#46、516、814、1254〜1256)哲学であると主張したのは、バーリン(Isaiah Berlin。1909〜97年。ロシア帝国領時代のラトヴィアに生まれ、英国の政治哲学者となる)とハイエク(Friedrich Hayek。1899〜1992年。オーストリアに生まれた英国の経済学者/政治哲学者)です。
 また、終末論的キリスト教思想が米国のネオコンに及ぼしている影響についても、これまでもしばしば指摘されてきました(注1)。

 (注1)2003年10月に米国防次官(under-secretary of defence)のボイキン(William Boykin)は、対テロ戦争における敵「は悪魔(Satan)と呼ばれる奴さ」と語ったが、馘首されるどころか、まだその職にとどまって活躍している。

 グレイの指摘の新しいところは、ネオコンの思想だけでなく、欧州の合理論哲学(注2)を起源とするところの全体主義の究極的な起源もまた、終末論的キリスト教思想であるとした点なのです。

 (注2)合理論哲学と啓蒙思想(コラム#1254〜56)とはオーバーラップしているが、グレイは、米国の歴史学者ベッカー(Carl L. Becker。1873〜1945年)のThe Heavenly City of the Eighteenth-Century Philosophersに拠って、一見世俗主義的思想に見える啓蒙思想だが、それは実は宗教的思想であったと述べている。

 グレイに言わせれば、世界が罪を購われて再生するという終末論的思想はキリスト教に始まるのです(注3)。

 (注3)キリスト教は終末論的思想をユダヤ教から受け継いだに過ぎない、というグレイに対する批判がある(太田)。

 そして、グレイによれば、20世紀における全体主義の双璧である共産主義とナチズムは、無神論的なユートピア思想に立脚しているように見えるけれど、革命の艱難辛苦の末、共産主義者にとってはプロレタリア、ナチス党員にとってはアーリア民族という選民のために素晴らしい社会が出現する、という発想はキリスト教の核心であるところの終末論思想そのものなのです。
 レーニン(Vladimir Lenin.1870〜1924年)は、啓蒙思想の申し子であるフランス革命(1789年〜)とパリ・コミューン(1871年)が失敗したのは、それぞれジャコバン党とコミューン指導部がギロチン等で死刑に処した人々の数が少なすぎたためであったと考え、ロシアにおける革命においては、大衆全体を恐怖に陥れ、従わせるため、大量殺戮を重ねた(注4)というのです。

 (注4)スターリンは、なぜ共産党幹部に対する見せしめ裁判で、到底ありえないような「反党行為」を犯した旨を被告に「告白」させ「自己批判」させることにこだわったのか? それは、スターリンらの発想がキリスト教から来ていたからだ。すなわちそれは、キリスト教(カトリシズム)の異端審問が、悪そのものであるとみなされたところの審問対象者に「魔女」であることを「告白」させ「自己批判」させることにこだわったのと同じことなのだ。

 中共において毛沢東が大躍進政策(1958〜61年)により3,800万人もの人々を意図的に餓死させたのも、同じ発想からだというわけです。
 グレイは、抑圧された性的欲求のように、キリスト教を擲った者に対しキリスト教はグロテスクな形で仕返しをする、すなわち、抑圧されたキリスト教は倒錯した政治をもたらす、と総括するのです。

 なおグレイは、イスラム教にはもともと終末論的要素が含まれているところ、現在のイスラム過激派は欧州の啓蒙思想の影響を無意識的意識的に強く受けている。だから、連中の思想はイスラム/ジャコバン主義(Islamo-Jacobinism)と呼ぶのがふさわしい、とも述べています。

 (続く)

太田述正コラム#1675(2007.2.27)
<キリストの骨>(2007.9.21公開)

1 始めに

 映画「タイタニック」で有名なジェームス・キャメロン監督が、ニューヨークで26日、3月4日にディスカバリーチャネル等で放映されるドキュメンタリーと同日付で発売される本を宣伝する記者会見を行いました。
 1980年にエルサレムの郊外のタルピオット(Talpiot)で発見された紀元1世紀の洞窟墓の中にあった10個の石灰岩製の骨箱(ossuary)がイエス・キリストとその家族のものであることが確認できた、というのです。
 当然、欧米では大変な話題になっています。
 (以上も含め、
http://time-blog.com/middle_east/?xid=site-cnn-partner
(2月25日アクセス)、
http://www.guardian.co.uk/religion/Story/0,,2022252,00.html
http://news.bbc.co.uk/2/hi/middle_east/6397373.stm
http://thelede.blogs.nytimes.com/2007/02/26/raising-the-titanic-sinking-christianity/
http://www.time.com/time/world/article/0,8599,1593893,00.html?xid=site-cnn-partner
(いずれも2月27日アクセス)による。)

2 イエスの墓であるとする説

 1世紀当時のユダヤの風習では、人が亡くなると、完全に骨になるまで放置された後、その骨が取り出されて石の骨箱に収められて埋葬されました。
 発見された10個の骨箱中の6個にそれぞれ、ヘブライ語またはギリシャ語で、Yeshua [Jesus(イエス)] bar Yosef [son of Joseph(ヨセフの男の子)]、Maria [Miriamのラテン語表示。英語ではMary(マリア)に相当]、Matia [ヘブライ語でMatthew(マタイ)と同等]、Yose [マルコの福音書では Yose をイエスの兄弟としている]; Yehuda [Yeshuaはヘブライ語でJudah(ユダ)と同等] bar Yeshua [イエスの男の子]、Mariamne e mara [ギリシャ語。マスター(master)として知られたMariamneという意味]と記されていました。
 その後1996年に、英BBCは、これはイエスとその家族の墓ではないかとする番組を放映しました。
 しかし、Mariamne e maraを除けば、当時のありふれた名前であり、しかも、イエスの父親のヨセフは貧しい大工であったことから、家族のために豪華な洞窟墓をつくってやるカネはなかったのではないか、という強力な反論が投げかけられました。
 ところが、その後の研究の結果、以下のようなことが分かってきました。
 まず、Mariamneはマグダラのマリア(Mary Magdalene)の別名であることが分かってきました。
 また、Yoseという名前は当時それほどありふれた名前ではなかったことも分かってきました。
 更に、イエス・キリストのもう一人の兄弟とされるヤコボ(ヤコブ)と記された骨箱が発見され、これが同じ洞窟墓に収められていた可能性が高いことも分かりました。
 Mariamneまでイエス・キリストの関係者だということになると、イエスとその他の名前がありふれていたとしても、話は変わってきます。John、Paul、Georgeというありふれた名前にRingoが加われば、ビートルスということにならざるをえないのと同様、少なくともこの墓はイエス・キリストとその関係者の墓だということにならざるをえない、というのです。
 そして、イエスとこのマリアの骨のミトコンドリアDNAの調査は、この二人の母が異なることを明らかにしたのです。つまり、この二人は夫婦であると考えられるのです。
 映画にもなったダビンチコード(The Da Vinci Codes)は正しかったというわけです。
 以上から、この墓はイエス・キリストの家族の墓である可能性が極めて高い、ということになる、とキャメロン監督は主張するのです。
 実際、トロントのある教授は、この墓がキリストの家族の墓でない可能性は、統計学的に600分の1だと指摘しています。

3 この説に対する反論

 母親が異なるからと言ってその二人が夫婦であるとは言えないのであって異母兄妹(または弟姉)かもしれないではないか、とか、マグダラのマリアのことをMariameneと呼んだのは185年に生まれたある学者が最初であることから彼女が死亡時あるいは埋葬時に既にMariameneと呼ばれていた保証はないとか、Mariameneがめずらしい名前であったとは言えないのではないか、ガリレー(Galilee)出身のイエス・キリスト達がエルサレム郊外に埋葬されるのはおかしい、更には、600分の1という数字が導き出された根拠には統計学的に疑問がある、といった批判が上記の説に対して投げかけられています。
 もちろん、キリスト教関係者からは、荒唐無稽な説だという強い反発がでています。

4 コメント

 上記の説が正しければ、キリスト教教義中の復活(resurrection)を否定することにはなりませんが、昇天(ascension。キリストの魂と肉体が共に天に昇ったとされる)は否定されますし、仮にDNA調査が進んで、イエスとJoseとに共通の父ヨセフから受け継いだ遺伝子が発見されれば、イエス・キリストが処女マリアから生まれたとする処女懐胎(virgin conception)も否定されることになりかねません。
 あるある事件の国際版かもしれませんが、面白い話ではありますね。

太田述正コラム#1897(2007.8.7)
<原理主義的キリスト教に飲み込まれる(?)中共>(2007.9.8公開)

1 始めに

 われわれは中共の経済成長にばかり目を奪われていますが、実はその陰で、中共では原理主義キリスト教徒が爆発的に増えつつあります。
 アジアタイムスのスペングラー(Spengler)匿名論考に触発されて、このことをお伝えしようと思い立ちました。

2 原理主義的キリスト教に飲み込まれる(?)中共

 (1)背景

 19世紀に半植民地状態になってしまった支那では、儒教等に由来する伝統的な信条が失われ、中国共産党の権力掌握以降、それに取って代わった共産主義/毛沢東主義的信条もまた、トウ小平の経済開放政策の下で権威を失ってしまいました。
 その上、沿岸部を中心とする大都市圏と農村部との成長ギャップによって農村部から大都市圏への人口の大移動が生じ、いわば根無し草になった人々が多数発生していることもあり、中共の人々は拠るべき新しい信条を渇望しています。

 中共当局は、儒教的信条を人々に再注入しようとしており、これに呼応して放映された、現在42歳の女性である北京師範大学の于丹(Yu Dan)教授のTV論語講座はバカ当たりし、その内容をまとめた本『于丹〈論語〉心得』も既に300〜400万部売り上げてベストセラーになっています。

 昔から支那にあった仏教やイスラム教やカトリシズムの信徒もそれぞれ増えつつあります。
 イスラム教徒は現在2,000万人から3,000万人と言われていますが、北西部の辺境地帯に集中しており、しかもどちらかというと経済発展について行けない人々のための宗教、という趣があります。
 カトリック信徒は1949年に330万人いたのが、現在では1,200万人に増えた言われていますが、この伸びは人口全体の伸びとほぼ同じにとどまっています。

 (2)原理主義的キリスト教徒の爆発的増大

 ところが、プロテスタントの信徒は、1949年には90万人しかおらず、カトリック信徒の3.5分の1に過ぎなかったのに、今では1億1,100万人と言われる中共のキリスト教徒(注1)の90%の1億人に達し(注2)、カトリック信徒の3.5倍になっているのです。まさに爆発的な増大です。

 (注1)中共の総人口は現在13億人であるところ、うち1億人がキリスト教徒だということは、中共が既に米国、ブラジルに次ぐキリスト教大国であることを意味する。
 (注2)こんなに多くなく、7,000万人だ、いや4,000万人しかいない、とする説もある。ただ、いずれの説も、爆発的に数が増えつつあることを認めている。

 しかも、プロテスタントの信徒の大部分は原理主義的キリスト教徒(Evangelicals and Pentecostals)です。
 中国共産党員は現在7,500万人ですから、この数がいかに多いかが分かろうというものです。
 中共の原理主義的キリスト教徒の多くは、キリスト教の歴史は西漸の歴史であると考えています。
 すなわち、キリスト教の中心は、エルサレムからアンチオキア(Antioch。アナトリア半島の南の付け根に位置する都市。セレウコス朝が4世紀に建設。)へ、それから欧州へ、更に米国へと西漸してきたのであって、それが今や支那に中心が移ろうとしており、中共の原理主義的キリスト教徒は、西のイスラム圏に福音を伝え、キリスト教の世界制覇を完結させる役割を担っていると考えているのです。

 現在中共では、毎日キリスト教徒が1万人ずつ増えていると見られており、2050年までには中共のキリスト教徒は2億1,800万人と、その時の推計人口の16%を占めるという予測があります。
 そうなれば、中共は米国に次ぐキリスト教大国になるはずです。

 (以上、
http://ncrcafe.org/node/1252/print
http://www.atimes.com/atimes/China/IH07Ad03.html
(どちらも8月7日アクセス)による。)

3 感想

 このような趨勢がずっと続けば、中共が米国を経済規模で抜くのが早いか、米国を原理主義的キリスト教徒の数で抜くのが早いか、といったところです。
 それどころか、今世紀末までに中共の総人口の過半が原理主義的キリスト教徒で占められる可能性すら排除できません。
 既に韓国のキリスト教徒・・やはりその大部分は原理主義的キリスト教徒・・は総人口の30%に達しており、なおそのシェアを伸ばしつつあります。
 それに脱北者の過半はキリスト教徒になっています。
 ですから、統一朝鮮全体がキリスト教国になる可能性だってあるのです。
 そうなれば、日本はロシア、統一朝鮮、中共、フィリピン、そして米国と回りをことごとくキリスト教国で囲まれてしまうかもしれません。
 しかも、中共と米国がいずれも原理主義的キリスト教国となり、その両国が手を結ぶ、という悪夢が現実になっているかもしれないのです。
 日本の世界史的使命の一つは、あらゆる原理主義を排し、世俗主義を広める、ということであると私が考えていることはご存じの方が多いと思います。
 日本がこの世界史的使命を果たすことは、即日本の国益につながる、ということがお分かりいただけたでしょうか。

太田述正コラム#12422006.5.18

<叙任権論争の今と昔(続々)>

1 始めに

 中共と法王庁との間の現在の叙任権論争に係るこれまでの私の記述において、「中台関係」及び「支那とカトリック教会関係史」という重要な視点が抜け落ちていたので、今回、補足的に触れておきたいと思います。

2 叙任権論争と中台関係

 1970年代初めには、台湾と国交を結んでいた国(つまり、中共と国交を結んでいない国)は65カ国もあったのですが、現在では25カ国まで減っています。

 法王庁/バチカン市国は、台湾と国交を結んでいる最後の欧州の「国」であり、中共としては、法王庁と国交を樹立して法王庁と台湾を断交させたいのは山々なのです。

(以上、http://www.atimes.com/atimes/China/HE18Ad02.html(5月18日アクセス。以下同じ)による。)

3 支那における叙任権論争の歴史

 1579年にイエズス会(Jesuits)が支那(当時は明)でカトリックの布教活動を始めます。

支那への布教活動に従事したイエズス会員として有名なイタリア人、マテオ・リッチ(Matteo Ricci1552??1610)は、支那の儒者の服を着て支那式の生活をして支那文化の研究に励みました。そして支那名を利瑪竇(りまとう)と名乗り、ラテン語デウス(神)の漢語訳として「天帝」を用いたり、支那人の祖先崇拝の儀式を教会儀式に取り入れたりしました。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%86%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%81

 このマテオ・リッチ流の支那化されたカトリックのあり方を後輩のイエズス会員も蹈襲しました。

 おかげで、一度に40人を超えるイエズス会員がいたことがないという少人数で、彼らは支那全土にわたって教会を設置し、何十万人ものカトリックへの入信者を獲得することができたのです。

 そして彼らは、明、次いで清の皇帝達と良い関係を取り結び、帝室天文台の長を勤めたり、若年の皇帝達に数学や音楽を教えたりもしました。

 1705年に最初の法王庁の使節が支那(当時は清)に派遣されます。使節団長はデトゥールノ(Carlo Tommaso Maillard de Tourno)でした。

 彼は同年と翌1706年の都合二回康煕帝(Kangxi emperor)に拝謁しますが、その結果が、その後300年にわたる支那におけるカトリック信仰の帰趨に決定的な影響を及ぼすのです。

 デトゥールノが法王庁から与えられた訓令は、第一に、カトリックが支那に相当普及したので、支那の教会は法王庁から直接派遣された司教達によって統括されるようにすべきことであり、第二に、支那化されたカトリックを純正なカトリックに引き戻すことでした。後者は、独立不羈のイエズス会を世界的に法王庁の鉄の統制の下に置く試みの一環でした。

 康煕帝は、最初のうちは前者には好意的な反応でしたが、やがて支那を良く知っている、支那在住のイエズス会員を司教等に任命すべきであるという見解に変わります。

 後者は最初から康煕帝を怒らせました。

 結局、康煕帝はデトゥールノの追放を命じます。

 デトゥールノは去るにあたって、支那在住のイエズス会員達に、純正カトリックに戻るように命じ、大多数がこの命令に従った結果、ほとんどのイエズス会員は支那から追放されてしまいます。

 その後、支那におけるカトリック信仰は急速に衰え、1724年には、カトリック信仰は支那で禁止されるに至ります。更にその後20年も経たないうちに、時の法王ベネディクト14世は、支那化されたカトリックの禁止を再確認するのです。

 こうして支那におけるカトリック信仰は、残った少数のイエズス会員が死に絶えた時点で、一旦、ほぼ絶滅状態になるのです。

(以上、特に断っていない限りhttp://www.nytimes.com/2006/05/17/opinion/17Brockey.html?pagewanted=printによる。)

4 参考

 (1)中共の人口と法王庁率いるカトリック教徒の人口は、ともに約12億人・・地球全人口の五分の一程度・・でほぼ拮抗している(NYタイムス上掲)。

 (2)中共が司教等の人事に法王庁の関与を許さなくなった現在、法王庁との事実上の合議で人事を行っているのは、キューバとベトナムだけになった(http://www.atimes.com/atimes/China/HE18Ad01.html)。

太田述正コラム#12362006.5.15

<叙任権論争の今と昔(続)>

1 おさらいに代えて

 カトリックの外国人神父らが支那から完全追放されたのは、中共が支那の権力を掌握してから2年経った1951年でしたが、同じ年に法王庁は、台湾(中華民国)を支那の正統政府と認め(注1)、中共と法王庁との関係は完全に断絶しました。

 (注1)法王庁(Holy See)とバチカン市国(Vatican)たる主権国家が表裏一体の存在だからこそ、こんなことが起きる。

 

その後、中共は傀儡の中国カトリック愛国会をつくり、この団体を通じて中共国内のカトリック関係者の人事とカトリックの宗教活動を取り仕切ってきました。

 その一方で、法王庁に忠誠を誓う非公然のカトリック活動も密かに始まります。

 1960年代の文化大革命の時には、この中国カトリック愛国会すら活動停止に追い込まれますが、やがて大革命が収束すると、再び公然・非公然のカトリック活動が再開され、非公然の活動を中心に中共のカトリック信徒数が増え、現在では一千数百万人のオーダーに達している、と言う見方もあります。

 やがて、中共と法王庁との間で関係修復に向けて接触が始まり、5年前からは、中共内の司教等の任命等に当たっては、どちらかが複数の候補者を提示し、もう一方がそのうち一人を指名する形で、事実上法王庁が司教等の任命等に関与してきました。

 ところが、今年の三月末と四月初めに中共が神父を一人ずつ一方的に任命した(unilaterally consecrated as bishop)(注2)ため、法王庁はこれに激しく反発しました。

 (注2)依然、中共内の約40の教区(司教区)で司祭が欠員になっている。

 

その後、法王庁が以前に同意を与えていた代理司教の任命を中共が行ったことで、中共が態度を軟化させたか、中共内部で政策のゆれがあるかどちらかだ、と取り沙汰されました。

5月11日に中共外交部が香港の陳枢機卿に対し、いわゆる一つの中国の原則を尊重すべく台湾との断交を行うように、そして宗教を用いて中共の内政に干渉しないように、法王庁を説得してくれと要請した(http://www.taipeitimes.com/News/world/archives/2006/05/12/2003307639。5月13日アクセス)ことも憶測を呼びました。(陳枢機卿はこの要請を拒否した)

2 三人目の司教の一方的任命

 そこへ、中共は5月14日に、一方的に三人目の司教の任命・・今回は、既に司教に任命されていた者の教区主管司教への昇格(elevated to become bishop of ○○ Diocese)・・を敢行しました。

これで中共は、法王庁/バチカン市国との関係の完全修復/国交樹立(=バチカン市国の台湾との断交)を目指すのを止め、しかも、法王庁との間で5年前に成立したところの、司教等の任命等に係る上記非公式同意すら破棄した、ということがはっきりしました。

 これは中共で、カトリック等の宗教の信者が地方を中心に急速に増えつつある一方で、地方を中心に騒擾事件が頻発するようになっていることから、この二つが結びつくことを恐れて、あらゆる宗教に対し中共が統制を強化しようとしていることが背景にある、と考えられます。

(以上、http://news.bbc.co.uk/2/hi/asia-pacific/4770035.stmhttp://news.bbc.co.uk/2/hi/asia-pacific/4769501.stm、及びhttp://news.bbc.co.uk/2/hi/asia-pacific/4969276.stm(5月15日アクセス)による。)(注3

 (注3)英BBC電子版がこのように、三人目の一方的人事について詳細に報道し、英ガーディアン電子版も報じている(http://www.guardian.co.uk/international/story/0,,1774806,00.html。5月15日アクセス)というのに、米国の主要メディアの電子版が、中共と法王庁との叙任権争いについて、NYタイムス電子版が13日付で報じた(http://www.nytimes.com/2006/05/13/world/asia/13china.html?ei=5094&en=54c0aeb37bfaa911&hp=&ex=1147492800&partner=homepage&pagewanted=print。5月13日アクセス)のを最後に、完全に無視しているのはいただけない。もとより、この問題をほとんど報じていない日本の主要メディアの電子版は論外だ。)

 カトリックの場合、法王庁が独特のイデオロギーと政策体系を持っている上、法王庁がバチカン市国という外国でもあることからなおさら警戒が必要だ、ということでしょう。

太田述正コラム#12322006.5.13

<叙任権論争の今と昔(その3)>

(どうも、最近校正不十分のコラムを送ってしまうことが多く、反省しています。年ですかね?)

4 叙任権論争の今と昔・・終わりに代えて

 まず私の見解を述べます。

 現在の叙任権論争については、欧米の主要メディアの論調は宗教の自由の観点から中共側に厳しいものが多い(例えば、http://www.latimes.com/news/opinion/editorials/la-ed-china11may11,0,4124552,print.story前掲)のですが、ロサンゼルスタイムス掲載の論説(http://www.latimes.com/news/opinion/commentary/la-oe-faison09may09,0,7354272,print.story?coll=la-news-comment-opinions前掲)が、「北京とバチカンは、一般に敵対者がそうであるように、主要な点で良く似ている。すなわち、どちらも反対意見に対して非寛容であり、どちらも融通の利かない正統性(orthodoxies)に従っており、どちらも統制に血眼になっている。つい、どっちもどっちだ、と言いたくなってしまう。」と両者を切り捨てていることは出色だと思います。

 宗教の自由には、当然宗教教団の自決権が含まれるはずだ、という声が聞こえてきますが、ことカトリック教会に関しては、これは必ずしもあてはまらないのではないか、というのが私の見解です。

 というのは、以前にも述べたことがありますが、法王(庁)を頂点とするカトリック教会は、バチカン市国という独立主権国家と表裏一体、というアナクロニズムを画に描いたような存在だからです。

 つまり、中共から見れば、法王庁が中共内のカトリック教会に係る人事と宗教活動を取り仕切るということは、外国政府が中共内の民間団体の人事と活動を取り仕切るということであり、内政干渉である、ということになるわけです。

 かかる形式論にかてて加えて、カトリック教会が、中国共産党のそれとは抵触する独自のイデオロギーと政策を持っていて、しかも、支那の歴史上宗教団体が内乱を起こしたり王朝を倒したりした事例に事欠かない、といった実質論も併せ考えれば、中共が叙任権論争で容易に法王に屈することができない事情はそれなりに理解できます。

 誤解がないように付言しますが、中共は、近代国家を標榜したいのであれば、人権擁護の一環として、カトリックであれ、プロテスタントであれ、仏教であれ、更には法輪功であれ、公序良俗に反するものでない限りいかなる宗教宗派についても、その宗教の自由を保証し、教団内の自決権を尊重すべきことは当然であり、人事や活動に干渉することは止めなければなりません。

ただし、カトリック教会に関してだけは、法王がバチカン市国の主権を放棄するまでは、法王の叙任権の全面的否定は論外だとしても、司教等への任命等に係る発議権や教区運営に係る拒否権を中共が留保するのは咎めるべきではない、というのが私の意見なのです。(私は、カトリック教会が堕胎の否定・・一人っ子政策をまだ基本的に維持している中共の政策に抵触する・・といった世俗的政策を掲げることも止めるべきであるという考えですが、これは叙任権論争とは切り離すべきでしょう。)

最後に私の感想です。

私はかねてより、カトリック教会からカトリック教会主導のプロト欧州文明が生まれ、それが民主主義独裁(ナショナリズム・共産主義・ファシズム)の欧州文明へと衣替えをし、その欧州文明がアングロサクソン文明に敗れて福祉国家主義となったと指摘してきたところ、このうちの欧州文明の強い影響の下で中国共産党が生まれ、その中国共産党が支那を乗っ取り、共産主義からファシズムに乗り換えて現在に至っているわけです。

そうだとすると、古の叙任権論争がプロト欧州文明を確立する契機となった法王と皇帝との間の権力争いであるとすれば、現在の叙任権論争は、プロト欧州文明時代の化石のごとき法王と欧州文明を継受した中国共産党の主席との間の権力争いである、ということになりそうです。

現在のイスラム世界の体たらくや、この法王と主席間の叙任権論争を見るにつけ、フクシマの「歴史の終わり」はまだまだ遠い、とつくづく思います。

 (完)

太田述正コラム#12302006.5.12

<叙任権論争の今と昔(その2)>

 (コラム#1229にその後、若干手を入れました。)

3 中共と法王庁との間の叙任権論争

中国政府公認の宗教団体「中国カトリック愛国会(Chinese Catholic Patriotic Association)」は、4月30日と5月3日にそれぞれ一人の司教を任命しました。これは、法王の同意を事前に非公式に得て司教を任命してきた、このところの慣行に反するものであり、法王ベネディクト16世は、強い不快の念を表明し、これは宗教の自由に対する深刻な侵害であるとするとともに、かかる行為は破門の対象であると指摘しました。

教会法では、勝手に司教に任命した者と司教に任命された者はどちらも自動的に破門になることとされています。ただ、法王が破門宣告をしない限りは破門が発効しない慣例であり、ベネディクトは破門宣告をしたわけではありません。そもそも、教会法ではかかる任命が強制的に行われた場合(acted under grave fearは破門にはならないこととされており、実際に今回の関係者が破門されるかどうかはさだかではありません。

強硬な反共主義者だったヨハネ・パウロ2世が死去し、ベネディクト16世が昨年新法王に就任して以来、法王庁と中共は、中共成立以来断絶している両者間(注4)の外交関係樹立に向けて話し合いが行われてきている(注5)だけに、中共の今回の慣行違反は驚きをもって受け止められています。

(注4)法王庁は、キリスト教徒である蒋介石率いる国民党政府の熱心な支援者だった。また、共産党には強い反感を持っていた。対する毛沢東は無神論者としてカトリック教会は支那にはそぐわない上、封建時代の残滓であって、米帝国主義の同盟者にして国民党と癒着している、と考えていた。そして、カトリック教会の宣教師達は国外退去を求められたり、投獄されたり拷問を受けたりした。更に前出のカトリック愛国会がつくられ、以来、中共政府が中共内のカトリック教会の活動と人事の全てを取り仕切ってきた。文化大革命中には、この愛国会の活動すら停止され、ほとんどの教会は破壊されたり、学校や倉庫に転用されたりした。1976年から愛国会の下での教会の活動が再開されるが、1980年代に入ると、法王に忠実な非公然教会活動が始まり、現在に至っている。信徒数は、愛国会が400万人で、非公然教会は推定値が100万人から1,000万人とはっきりしないが、全体としてカトリックの信徒はどんどん増えていると言われている。

(注5)法王庁が司教の任命にあたってより大きな発言権を求め、かつ司教に教区(diocese)におけるカトリックの宗教活動一切を取り仕切る権能を付与することを求めていることがネックになっている。

これは、香港教区の陳日君(Joseph Zen Ze-kiun)司教を3月24日付けで法王が枢機卿に任命したためではないか、という憶測もなされています。陳新枢機卿は、上海生まれであり、非公然カトリック教会の支援者であることから、中共がこの枢機卿任命に不快感を表明した、ということではないかというのです。

ところが、中共で5月7日にもう一人司教(ただし、司教代理auxiliary bishop)が任命され、今回は、法王の同意を事前に非公式に得るという慣例に従い、既に法王の同意が得られていたケースであったので、中共が方針を変更したのか、それとも中共内で対立があるのか、またまた話題になりました。

(以上、http://www.nytimes.com/2006/05/04/world/europe/04cnd-pope.html?ei=5094&en=d2f3e8898adbb60a&hp=&ex=1146801600&partner=homepage&pagewanted=print(5日アクセスhttp://www.nytimes.com/2006/05/08/world/asia/08china.html?pagewanted=print(5月8日アクセス)、http://www.latimes.com/news/opinion/commentary/la-oe-faison09may09,0,7354272,print.story?coll=la-news-comment-opinions(5月10日アクセス)、http://www.latimes.com/news/opinion/editorials/la-ed-china11may11,0,4124552,print.story(5月12日アクセス)による。)

(続く)

太田述正コラム#12292006.5.12

<叙任権論争の今と昔(その1)>

1 始めに

 時ならぬ叙任権論争(Investiture Controversy・・カトリック教会の司祭等は法王が任命するのか権力者が任命するのか・・が法王庁と中共の間で持ち上がっています。

 これを見ていると、中世の西欧における叙任権論争を思い出します。

 この西欧における叙任権論争がいかに深刻な後遺症をもたらしたかを振り返った上で、北東アジアで現在進行中のミニ叙任権論争を論評することにしたいと思います。

2 中世西欧における叙任権論争とその後遺症

 (1)叙任権論争

 11世紀の西欧においては、神聖ローマ皇帝がローマ法王を任命することになっており、また封建領主達が司教bishopや修道長を、しばしばカネと引き替えに任命していました(注1)。

 (注1)カネでカトリックの職位を売買することは、シモニー(simony)と呼ばれており、公式には法王によって禁じられていた。

 法王側は、以前からこの状況をくつがえしたいと考えており、1046年にハインリッヒ4世(Henry ??。1050??1106年。ドイツ王:1056??1105年、神聖ローマ皇帝:1084??1105年)が幼くしてドイツ王(いずれ神聖ローマ皇帝になる)に就任した機会をとらえて、1059年に世俗的権力者が法王を任命することはできないと宣言し、法王を互選するための機関として枢機卿会議を設立します(注2)。

 (注2)爾来、法王の選出は枢機卿会議でコンクラーベと称して行われることとなり、現在に至っている。

 その上で、法王側は次の一手を1075年に打ちます。法王グレゴリウス7世(Gregory VII1020ないし1025頃??1085年。法王:1073??1085年)が、カトリック神父の司教等への任命や補職替えの権限を持つのは法王だけであると宣言したのです。

 一方的に法王に叙任権を奪われたハインリッヒ4世は、グレゴリウス7世の解任を宣言してこれに対抗しようとします。

 翌1076年に法王は、今度は逆にハインリッヒ4世を破門するとともに、ドイツ王座を(従って将来の神聖ローマ皇帝位も)剥奪します。

 ところが、ドイツの諸公の中で法王の側について叛乱を起こす者が出てきたので、1077年にハインリッヒは、カノッサ城に滞在中の法王の所に赴いて赦しを乞い、破門を解いてもらうという屈辱を味わいます(注3)。

 (注3)雪の中ではだしで城外で三日間待った、という有名なカノッサの屈辱(l'umiliazione di Canossa(伊語)の訳語。 Walk to Canossa(英語)=Gang nach Canossa(独語))だ。

 1981年には、叛乱をある程度押さえ込んだハインリッヒが、今度はローマ(当時は神聖ローマ帝国版図内)を襲い、グレゴリウス7世を追放するのです。

 こういう具合に叙任権論争を契機にドイツで始まった内乱は50年近く続き、1122年のウォルムス協約(Concordat of Worms)で、事実上法王庁側が勝利する形でようやく決着がつくのです。

 (2)叙任権論争の後遺症

 この叙任権論争の後遺症は深刻なものがありました。

 ドイツでは、内乱の結果、大領主や大修道院長らがドイツ王(すなわち神聖ローマ皇帝)から事実上独立してしまい、ドイツが分裂状態となり、その状況が19世紀のドイツ再統一まで続くことになります。

ドイツの人々の被害者意識には凄まじいものがあり、再統一ドイツは、その政治・宗教・文化に対するいかなる形の外国の干渉を許さないという偏狭なナショナリズムで席巻されることになるのです。

 また、叙任権論争にあたっては、法王陣営も皇帝陣営も、互いに庶民にまでそれぞれの主張を訴え、味方にしようとしたため、西欧全域の庶民の間で宗教的熱情が高まります。ちょうどその頃、バイキング・スラブ・マジャールがキリスト教化することで侵略的でなくなったこと等から、欧州の戦士は腕をかこっていました。そこにビザンツ帝国からの要請もあり、時の法王ウルバン2世(Urban II)は、この宗教的熱情の高まりを背景として、それによって皇帝との叙任権論争を有利に運べると考えられたことと、かつそれが戦士の「処分」にも資することから、1095年、キリスト教の聖地をイスラム教徒から奪回するための十字軍を提唱するのです。

 1996年には十字軍が出発するのですが、その何ヶ月も前に、神父をリーダーとして、西欧の農民等が女子供も伴いつつ10万人の勢力で聖地を目指して「進軍」したことが当時の宗教的熱情の高揚ぶりを示していますが、十字軍の開始は、それまでくすぶっていた西欧のキリスト教徒の反ユダヤ感情に火をつけ、同年、ドイツの各地で、戦士達の手によって欧州最初のユダヤ人虐殺(pogrom)が起こるのです。これを最初のホロコーストと呼ぶ学者もいます。

 つまり、叙任権論争は、イデオロギー的熱情・被害者意識的ナショナリズム・暴力的反ユダヤ主義、という、20世紀にドイツひいては全人類に未曾有の惨禍をもたらした病弊の淵源なのです。

(以上、http://en.wikipedia.org/wiki/Walk_to_Canossahttp://en.wikipedia.org/wiki/Investiture_Controversyhttp://en.wikipedia.org/wiki/Crusade#First_Crusadehttp://en.wikipedia.org/wiki/First_Crusade(いずれも5月12日アクセス)による。)

(続く)

太田述正コラム#10342006.1.7

<キリスト教と私・・拾遺集(その4)>

 韓国のキリスト教宣教師の数は米国に次いで世界第二位であり、14,000人が世界各地で布教活動に従事しています(注6)。うち、推定1,500人が支那にいて、支那人と支那に住む北朝鮮人・・推定数はよく分かっておらず、1万人から30万人と言われている・・に対し、秘密裏に非合法布教活動を行っています。

 (注6)韓国のキリスト教の歴史についてはコラム#539、宣教活動等についてはコラム#543参照。また、韓国のキリスト教徒たるトンデモ前大統領の金大中については、コラム#1016参照。

 彼らは、この北朝鮮人達の韓国への脱北を手助けするとともに、その一部を北朝鮮内での布教のために北朝鮮に潜入させたり、聖書を北朝鮮内に密輸したりしています。

 問題なのは、脱北の手助けは、北朝鮮出身者をキリスト教信者にすることが目的であることです。

 韓国では、脱北の手助けをしている団体がキリスト教関係団体だけであるところにそもそも最大の問題があるのですが、脱北者達は、助けてくれた恩義がある人々からキリスト教徒になることを「強要」されて困っています。

 それでも、脱北者の五分の一から三分の一しかキリスト教徒にはなっていないようです。

 しかも、そのうち、本当にキリスト教を信じている者はごく少数である可能性があります。

 というのも、脱北者にしてみれば、不信の社会である北朝鮮から支那経由で脱出したばかりで、にわかにキリスト教を「信じよ」といわれても途方に暮れてしまいますし、キリスト教の教義が、北朝鮮で労働党が説く「教義」そっくりであり、キリスト教は目に見える金正日を目に見えない神で置き換えただけではないかという印象が免れないからです。

(以上、http://www.nytimes.com/2005/12/19/international/asia/19missionary.html?pagewanted=print20051220日アクセス)による。)

7 米国のキリスト教原理主義者

 米国の75歳のTV伝道師のロバートソン(Pat Robertson1930年?)は、かつて米大統領選挙に出馬したこともある人物ですが、昨年8月に、反米主義者として知られるベネズエラのチャベス(Hugo Chavez)大統領の暗殺を呼びかけ、批判されるやかかる発言をしたことを否定し、否定しきれなくなると、今度は謝罪した、といういわくつきの人物ですが、今年1月5日に、「シャロン個人は大変好ましい人物であり、彼がこのような<重篤な>状況にあることは残念だが、聖書のヨエル(Joel)書を読んで欲しい。預言者ヨエルは、神が「我が土地を分割する」者に対して敵意を抱かれることを明言している。シャロンは神の土地を分割しつつあった(注8)。EU・国連・あるいは米国を宥めるために同様なことをやるどんなイスラエル首相にもわざわいあれだ。」と述べ、またまた米国の各方面から非難の集中砲火を浴びました。

 (注8)イスラエルのシャロン首相は、イスラエル占領地のうちギザを放棄したが、更にヨルダン川東岸の少なくとも92%を放棄しようとしている、と目されている。

 たまたま同じ日に、アフマディネジャド(アフマ)・イラン大統領が、「<レバノンの>サブラとチャティラ(Sabra and Chatilla)の犯罪者<であるシャロン>(注9)が祖先の列に加わるとの報道が確定的なものであることを望む」と述べた(注10)が、イスラム教とキリスト教徒を問わず、いかに宗教原理主義が非倫理的な言動を生むかが良く分かるのではないでしょうか。

(以上、http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2006/01/05/AR2006010502421_pf.htmlhttp://www.latimes.com/news/nationworld/world/la-fg-robertson6jan06,0,4859367,print.story?coll=la-headlines-world(どちらも1月7日アクセス)による。)

 (注9)イスラエル軍がレバノンに侵攻し、PLOがレバノンから追放された直後の1982年に、レバノンのキリスト教(ファランジスト)民兵がパレスティナ難民村であるサブらとチャティラを襲って女性や子供を含む沢山の難民を殺戮した事件について、イスラエルの調査委員会は、当時イスラエル国防相だったシャロンに間接的な責任があるとした。

 (10)アフマの、大統領就任以降のトンデモ発現の数々については、コラム#8759259941010参照。

(完)

太田述正コラム#10332006.1.6

<キリスト教と私・・拾遺集(その3)>

5 米キリスト教徒の二極分解

先般(コラム#1024で)、「米国には信心深い人が多く、しかも、その信心深さの程度は増してきている」と申し上げたところです。

誤解が生じるといけないので、補足しますが、米国では信心深い人だけが増えているわけではなく、不信心の人も増えており、非世俗的な人々と世俗的な人々に両極分解しつつあるのです(注4)。

(注4)コラム#331456458470参照。

 米国でのある長期にわたって毎年実施されてきた世論調査結果によれば、1972年から2002年にかけて、「宗教原理主義者」であると考える人は27%から30%に増えているのに対し、「宗教的にリベラル」であると考える人は18%から29%へと大幅に増えているのです。ということは、「宗教的に中庸(moderate)」であると考える人が52%から36%に減ったということを意味し、まさに米国は宗教的に両極分解しつつあるわけです。

 また、同じく米国での別の調査によれば、世論調査をすると約4割の人が毎週教会に行っていると答えるけれど、実際に毎週教会に行っている人は21%しかいない、ということが分かっています。

(以上、http://www.csmonitor.com/2005/1116/p16s01-lire.html1116日アクセス)による。)

 現在、米国では非世俗派が世俗派よりほんの少し多数を占めており、それが最近の二度の米大統領選挙で共和党のブッシュが民主党のゴアとケリーを破ったゆえんなのです。

6 周辺諸国とキリスト教

(1)  始めに

 日本周辺諸国でもキリスト教は無視できない存在です。

 台湾については、李登輝前総統に代表してもらう形で、既に(コラム#1013で)論じたので、ここではフィリピンと韓国について語ることにしましょう。

(2)フィリピン

フィリピンの総人口8400万人中の67%がカトリック教徒です。

フィリピンはブラジル、メキシコに次ぐ世界第三のカトリック大国なのです。

またフィリピンは、小国である東チモールを除けば、アジアで人口の多数がカトリック教徒である唯一の国でもあります(注5)。

(注5)フィリピンにおける宗教をめぐる状況については、既にコラム#975978で触れたことがある。

 フィリピンではカトリック教会以外に市民が集う自立的な社会団体がほとんど存在しないため、否応なしにカトリック教会も政治に関与してきました。

 例えば、マルコス(Ferdinand Marcos大統領が打倒された1986年、及びエストラーダ(Joseph Estrada大統領が打倒された2001年のそれぞれのいわゆるピープル・パワー革命において、カトリック教会が決定的役割を果たしたことは良く知られています。

 他方、昨年夏の、アロヨ(Gloria Macapagal-Arroyo)大統領の選挙違反疑惑に端を発する政治的危機において、決定的瞬間において、議会での大統領弾劾や、街頭行動を起こそうといった動きが腰砕けになったのは、カトリック教会の介入によるものでした。

 しかしこのところようやく、フィリピンのカトリック教会の指導者達は、教会は政治に関与すべきではない、という考え方に傾きつつあります。

(以上、http://www.atimes.com/atimes/Southeast_Asia/HA06Ae02.html(1月6日アクセス)による。)

 まさにそうあるべきであって、マルコスの打倒はともかく、エストラーダの打倒やアロヨの擁護については、是非の議論が分かれるところであり、いずれにせよ、フィリピンのカトリック教会は、大土地所有というフィリピン政治の根本的問題から目をそらせてきたのであって、政治への関与が中途半端だったという批判はまぬがれません。

 フィリピンにおいて、遅ればせながら政教分離が定着することが期待されれるところです。

 

 (2)韓国

 韓国ではキリスト教徒が総人口の約30%を占めていますが、まず気になるのは、韓国で脱北者の脱北を手助けしているのが、キリスト教団体ばかりであり、彼らが脱北の手助けを、脱北者への布教を目的として行っていることです。

(続く)

太田述正コラム#10322006.1.5

<キリスト教と私・・拾遺集(その2)>

4 キリスト教世俗化の必要性と困難性

 (1)世俗化の必要性

 グレゴリー・ポールGregory Paul)という研究者は、米学会誌のJournal of Religion and Societyに掲載された論文で、以下のような指摘をしています。

 

 唯一神を信じる程度が高ければ高い人が多い社会ほど、殺人率・若年死亡率・性病罹患率・10代妊娠率・妊娠中絶率が高まる。

 米国は、先進国中、最も唯一神を信じる程度が高い人が多く、これがあてはまる。

 米国内でも、唯一神を信じる程度が高く、反進化論的である人が多い南部及び中西部について、(そうではない東北部と比較して、)これがあてはまる。

 英国のコラムニストのモンビオット(George Monbiot)は、上記論文を引用し、更に、(米国ではブッシュ政権の肝いりで性的禁欲キャンペーンが行われているところ、)米国は、10代妊娠率が先進国中、インド・フィリピン・ルワンダの率より高い唯一の国だし、また米国は先進国中最も所得分配が不平等な国でもあるが、これらは米国が、先進国中、最も唯一神を信じる程度が高い人が多いことと関係していると思われる、と指摘しています。

 その上でモンビオットは、「もし神が存在しないのなら、何をやっても許されることになってしまう」と言ったドストエフスキーや、「社会が世俗化すると中絶率が高まる」と言ったヨハネ・パウロ2世や、「己のエゴと己の欲望を最高の目標とするところの、相対主義の専制に向かってわれわれは進んでいる」と言った現法王はみんな間違っている、と述べています。

(以上、http://www.guardian.co.uk/Columnists/Column/0,5673,1589406,00.html1011日アクセス)による。)

唯一神を信じる程度を低める、すなわち世俗化する必要がどうしてあるのか、良くお分かりいただけましたでしょうか。

2)世俗化の困難性

 にもかかわらず、どうして米国では世俗化が進展しないのでしょうか。

 以前(コラム#1024で)、私の「赤ちゃん独り寝」仮説を提示したところですが、教会に通うことにメリットがあるからだ、という説がMITの経済学者であるグルーバー(Jonathan Gruber)によって唱えられています。

 グルーバーによれば、教会出席率が2対1の二つの世帯を比較すると、前者は後者の所得より9.1%多く、扶助受け取り率(welfare participation16%少なく、離婚率は4%低く、有配偶者率は4,4%高い、というのです。

 彼は、そうなると考えられる理由を四つ挙げています。

 第一は、教会出席率が高い世帯ほどコネを増やせるのではないかということです。(そもそも、米国では、同じ宗派の人は同じ地区に固まって住んでいる、ということが知られている。)

 第二は、教会出席率が高い世帯ほど、その宗派の学校・・おおむね良い学校・・に子供を通わせ、そこでもコネを増やせるのではないかということです。

 第三は、教会出席率が高い世帯ほど、その世帯員の日常的問題でストレスを感じる度合いが小さくなる結果、労働や結婚の市場において、成功しやすくなるのではないかということです。

 第四は、教会出席率が高い世帯ほど、困ったときに同じ宗派の信徒から有形無形の支援が得られるので、立ち直りが早いのではないかということです。(別の研究によれば、教会出席率が高い白人世帯では、同じ所得の教会に出席しない白人世帯と比べて、所得が10%を減った時の食費と衣料費の落ち込み度合いが35%少ない。)

(以上、http://www.csmonitor.com/2005/1114/p15s02-cogn.html1114日アクセス)による。)

 以上は、米国以外の国や、一神教以外の宗教を信じる人が多数を占める社会にもあてはまるのかどうか、比較研究したものがないので、確たることは言えませんが、どうも米国だけにあてはまることのようですね。

(続く)

太田述正コラム#10312006.1.5

<キリスト教と私・・拾遺集(その1)>

 (1月21日にオフ会を私の事務所で開催しますが、これまで出席するとご連絡いただいた読者の方は三人です。ほかに出席ご希望の方はいらっしゃいませんか?)

1 始めに

 まぐまぐの投票が終わり、クリスマスシーズンに入ったので、息抜きのつもりで始めた「キリスト教と私」シリーズでしたが、シリーズ外でもキリスト教をとりあげることとなり、キリスト教の話題にのめり込んでしまいました。キリスト教には食傷気味の読者の方も少なくないのではないかと拝察します。

 しかし、幸か不幸か、クリスマスから年末年始にかけては、世界中がお休みだからでしょうか、海外情勢も国内情勢もともに無風状態が続いています。

 そこで、やむを得ず(?)再度キリスト教ネタを、オムニバス・スタイルで取り上げさせていただきます。

2 「キリスト」の語源

「キリスト」という、本来は形容詞であった言葉が称号的に用いられたケースが初出するのは、旧約聖書であり、その申命書の45:1の「主は、その右腕をお持ちになったところの、この塗油された者たるキュロスに、諸国民を従えよと申された。(Thus saith the LORD to his anointed, to Cyrus, whose right hand I have holden, to subdue nations before him)(http://www.sacred-texts.com/bib/kjv/isa045.htmという一節です(コラム#868

旧約聖書の原本はヘブライ語(Hebrew)で書かれていたわけですが、この、anointed(=塗油された者を意味するヘブライ語であるmashiach(注1のギリシャ語訳(2)がχριστωであり、そのラテンアルファベット表記がchristo、つまり「キリスト」なのです。

(注1)「メシア(=messiah=救世主)」の語源もこのヘブライ語のmashiachだ。だから、メシアたるキリスト、という表現は同語反復だ、ということになる。

(注2)イエス(Jesus)当時のユダヤ人(イスラエルの民)はアラム語(Aramic)を使っていたとされているが、キリスト教の新約聖書は、ギリシャ語で書かれている。

Cyrusというのは、古代ペルシャ帝国の国王キュロスのこと(コラム#771868)であり、バビロンで囚われの身となっていたイスラエルの民は、キュロスによって故郷に戻ることを許された上、キュロスはエルサレムの神殿の再建費用まで出してくれたので、大いに喜び、イスラエルの民の守護神たるヤハウェ(=エホバ=Yahweh=主)自身が預言者イザヤ(Isaiah)の口を通じてキュロスを嘉する意思表示をされた、ということをこの一節は言及しているのです。

この称号的に用いられた言葉が、イエスの称号として転用されたわけです。

 キリスト教の初期において、(ユダヤ人に多かった)イエスを人と見るJesus派、と(ギリシャ人に多かった)イエスを神と見るChrist派、との間で論争があり、後者が勝利したようです。

 この結果、われわれ誰もが知っている宗教がキリスト教(Christianity)と称されるようになったのです。

 (以上、特に断っていない限りhttp://blogs.guardian.co.uk/culturevulture/archives/2005/12/23/in_the_beginning_was_the_word_.html1224日アクセス)による。)

 

3 イエスは実在したのか

 以前(コラム#1029で)歴史上の人物としてのイエスのことはほとんど分かっていない、と申し上げたところですが、福音書(新約聖書)等、キリスト教の信徒が書き記したものを除き、イエスについて記した、イエスが生きた時代の歴史的文書は皆無なのです(http://www.slate.com/id/2132974/entry/2133006/1222日アクセス

 ですから、洗礼者ヨハネから洗礼を受け、磔の刑に処せられて死亡したイエスなる人物が2,000年前に実在したかどうかは、定かではないのです。

 これを頭に入れておくと、以下の話が良く分かると思います。

 イタリアのある刑事裁判において、裁判長が、被告の神父に対し、イエスなる人物が歴史上実在したこと(、及びそのイエスが神の子であったこと)を、今年の1月末までに証明するように命じたのですが、このことが今英国で大きな話題になっています。

 この裁判は、ある無神論者が、著書でキリストの実在について疑問を投げかけたことに対し、この神父が何度も激しく非難したことをとらえて、イタリアで禁止されているところの、「民衆の軽信の悪用」をこの神父が犯し(、「人物のすり替え」をカトリック教会が犯し)た、として、この無神論者がこの神父を告発して始まったものです(注3)。

(以上、http://www.guardian.co.uk/Columnists/Column/0,5673,1677587,00.html(1月5日アクセス)による。)

(注3)この裁判についてのブログ(http://newsforums.bbc.co.uk/nol/thread.jspa?sortBy=1&threadID=658&start=45&tstart=0&edition=2&ttl=20060105015104&#paginator。1月5日アクセス)が、BBCのサイトに開設されている

(続く)

太田述正コラム#10292006.1.4

<キリスト教と私(その8)>

 もうお分かりですね。

 スタークの、資本主義(近代)・キリスト教(カトリシズム)起源説の出現は、このところ、プロテスタントの原理主義化と中南米からのカトリック教徒たる移民の増大による米国社会の非世俗化への退行を反映しているのです。

 つい最近も(コラム#1024で)申し上げたように、米国人の信心深さは先進諸国の中では際だっており、何と米国の10人に9人が神の存在を信じています。

 幸いなことにこの数字は、科学者となると4人に1人、米科学アカデミー会員たるエリート科学者ともなれば、10人に1人まで低下します。特に生物学者は神の存在を信じている人が少なく、20人に1人しかいません。

(以上、http://www.nytimes.com/2005/12/11/magazine/11wwln_lead.html?pagewanted=print1217日アクセス)による。)

 スターク自身は、自分は決して普通言うところの宗教的な人間ではない、と言っています(http://www.nytimes.com/2005/12/30/books/30book.html?pagewanted=print前掲)が、これは韜晦しているだけのことであり、スタークがいわゆるインテリジェント・デザイン(Intelligent design)論に近い立場をとっている(http://www.taemag.com/issues/articleid.18132/article_detail.asp1228日アクセス)ことからすれば、彼は明らかに神の存在を信じているのであって、米国の学者の中では少数派に属します。

 そのスタークの本が米国で大いに売れるのは間違いないでしょう。

 スタークの説について口角泡を飛ばす米国の人々の熱気を、関連ブログ(http://amywelborn.typepad.com/openbook/2005/12/catholics_and_c.html前掲)を一瞥しただけでも感じとることができます。

4 日本の使命

 このように、キリスト教は、依然非寛容であり、また引き続き独善的な歴史認識を生み出しています。これは、キリスト教以外の一神教にもあてはまると考えられます。

 これも繰り返し私が訴えてきたことですが、日本の最大の使命の一つは、欧州諸国や英国と連携して、カトリシズムやプロテスタンティズム、より広くはキリスト教やイスラム教の世俗化を推進し、これらの宗教から非寛容性や独善性を払拭することです。

 そのためにも、日本の学者がもっともっとキリスト教やイスラム教の生誕等について歴史的研究を行うことが望まれます。生誕等の歴史を明らかにすることは、神秘のベールをはがすことであり、これらの宗教の世俗化に資するからです。

 私は、東大一年の時に、高校の日本史の教科書の著者としてなじみがあった笠原一男教授(http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/%8A%7D%8C%B4%88%EA%92j/list.html)が浄土真宗等の研究家であることを知り、笠原さんの親鸞についてのゼミをとってみました。

その折笠原さんが、浄土真宗だろうが仏教だろうが、まるで信じておられないことを知り、(自分自身が宗教的な人間ではないことを棚に上げて)不愉快に思ったことがあります。

 しかし、今振り返ってみると、宗教研究者が、研究対象たる宗教を信じているとすれば、研究が及び腰になったりバイアスがかかったりするのが避けられないはずであり、笠原さんの姿勢を不愉快に思った自分の方が間違っていたと思います。

 そうだとすると、イスラム教徒はイスラム教を学問的に研究することが許されないために、結果的に非イスラム教徒だけがイスラム教を研究している現状は(キリスト教徒たる一神教の信徒がその研究者の大部分を占めている点はさておき、)正常だけれど、もっぱらキリスト教徒がキリスト教の学問的研究を行っている現状は極めて異常だ、ということになります。

 歴史上の人物としてのイエスのことがほとんど分かっていない(http://www.slate.com/id/2132974/entry/2133006/1222日アクセス)こと一つとっても、キリスト教の歴史的研究は極めて不十分であると言わざるをえませんが、その背景には、キリスト教徒たる研究者達の及び腰とバイアスがあるからではないか、と私は思うのです。

 だからこそ私は、日本の研究者に期待するのです。

(完)

太田述正コラム#10282006.1.3

<キリスト教と私(その7)>

 ヴェーバーの説の形成とこの説に対するベルギー・フランス・イタリアの学界の批判を概観することによって、20世紀において欧州が置かれた状況が見えてきたように、戦後米国がどのようにヴェーバーの説と向き合って来たかをざっと概観しただけでも、米国自身の戦後思潮の変遷をうかがい知ることができます。

戦前まで、「故郷」たる英国や欧州諸国にコンプレックスを抱いていた偉大なる田舎者にして孤立主義者であった米国は、先の大戦が終わった時点で、突然、名実共に世界の覇権国となり、世界の檜舞台に立ち、共産主義勢力と対峙するに至った自分を発見します。

 この戦後の米国に大きなインパクトを与えたのが、1940年代に初めて英訳が出て米国に本格的に紹介されたヴェーバーの学説(http://www.historycooperative.org/journals/ht/36.4/brown.html。1月3日アクセス)でした。

 欧州史や米国史の実証研究が十分行われていなかった当時の米国では、ヴェーバーの学説は、何の疑いもなくそのまま受け止められました。

 その米国では、米国ピューリタン(カルヴィン主義者)起源論が素朴に信じられていました。

 ヴェーバーはプロテスタンティズム、就中カルヴィニズムが資本主義(近代)をもたらした、と主張した(注11)わけですから、このヴェーバーの説は米国のエリート達の自尊心を大いにくすぐったはずです。

 (注11)そもそもヴェーバーが、カルヴィニズムが資本主義をもたらしたと主張した「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の『精神』」の中で、「プロテスタンティズムの倫理」の例証として挙げたほとんど唯一の根拠は、ピューリタンたる米国人フランクリン(Benjamin Franklin1706?90年)の手記だった。

ちなみに、英国の二人の学者が、1989年に、フランクリンの手記は、ピューリタニズムの発現でも何でもなく、単にフランクリンが金持ちになるためのノウハウを記しただけであるとし、ヴェーバーがこの手記に拠ったことはナンセンスであると指摘している。

(以上、http://www.ecs.gatech.edu/support/sandra/paper.html前掲、及びhttp://soc.sagepub.com/cgi/content/abstract/23/1/81(1月3日アクセス)による。)

 しかも、理念(idea)が転轍手となって歴史を動かしてきたのであって、プロテスタンティズムの倫理が資本主義(近代)をもたらしたというヴェーバーの主張は、経済的(階級的)利害(economic interests)が歴史を動かしてきたのであって、資本家階級の経済的利害が資本主義(近代)をもたらしたというマルクスの主張に対するアンチテーゼでもありました。ヴェーバーの説は、マルクスの説が誤っており、従ってマルクスの説に立脚した共産主義も間違っていることを示してくれている、というわけです。

 まさにヴェーバーは、新覇権国たる米国に、その拠り所となるイデオロギーを提供したのです(注12)。

 (注12)戦後の日本でヴェーバー・ブームが起きたのは、米国の圧倒的影響下に置かれた日本に、この米国でのヴェーバー・ブームが移植された、ということだろう。

20世紀の米国を代表する歴史家であるホフスタッター(Richard Hofstadter.1916?70年)(注13)やブーアスティン(Daniel Boorstin1919?2004年)(注14)、また、その主著The Modern World-System近代世界システム論)で知られる米社会学者のウォーラスティン(Immanuel Wallerstein1930年?)は、いずれもヴェーバーに大きな影響を受けていることで知られていますhttp://www.historycooperative.org/journals/ht/36.4/brown.html上掲、http://www.nytimes.com/books/98/09/06/reviews/980906.06lindlt.html(1月3日アクセス)、及びhttp://www.ecs.gatech.edu/support/sandra/paper.html前掲)。

(注13) ユダヤ人の父とルター派ドイツ人の母の間に生まれる。若かりし時は共産党員だったが転向した(http://en.wikipedia.org/wiki/Richard_Hofstadter。1月3日アクセス)

(注14)ユダヤ系米国人二世。やはり若かりし時共産党員だったが転向した。(http://education.guardian.co.uk/higher/news/story/0,9830,1159352,00.html。1月3日アクセス)

 

しかしやがて米国は、自らが覇権国であることを当然視するようになります。そして、欧州や英国に対するコンプレックスを解消し、共産主義勢力に対しても心理的優位に立つことになります。

米国における欧州史や米国史の実証研究も進展します。

 その過程で、ピレンヌやブローデルの著作が翻訳され紹介されたこともあって、西欧中世が暗黒時代であったという認識(注15)は改まり、米国史におけるピューリタニズム偏重論も是正されていきます(注16)。

 (注151983年の時点で、まだブーアスティン(上掲)は、著書の西欧中世の章に「キリスト教教義の牢獄」という章名をつけていた(http://amywelborn.typepad.com/openbook/2005/12/catholics_and_c.html。1月3日アクセス)

 (注16)米国が「誇る」宗教的自由や平等の思想は、ニューイングランドのピューリタンではなく、クェーカー教徒を率いてペンシルバニア植民地を創設したペン(William Penn1644?1718年)に負うし、米国の憲法ないし法思想に及ぼした影響も、ピューリタンではなく、マーシャル(John Marshall1755?1835年。最高裁長官)からカルフーン(John Caldwell Calhoun1782?1850年。下院議員・上院議員・副大統領)に至る南部の啓蒙主義者達の方が大きい(NYタイムス上掲)。

 この時期を代表するのが、(コラム#1023で)前述したマクニール(ただし冷戦終焉以前)とダイヤモンド(冷戦終焉以後)の、プロテスタント(キリスト教)に全く言及しない近代(資本主義)成立論である、と私は考えています。

(続く)

太田述正コラム#10272006.1.2

<キリスト教と私(その6)>

 (7)所見

 スタークの言っていることに対しては、キリスト教を欧米の興隆の原因とする説について既に行った批判と同じ批判が当てはまります。

 ただしスタークの新著について、NYタイムスがキリスト教関係の一連の本の書評の中で取り上げた上で、更にこの本だけを対象に書評を掲載したことにかんがみ、かつまた、スタークの言っていることのうち、西欧の中世において、修道所(修道会)が様々な革新的取り組みを行ったことを具体的に記述している部分は面白いと思って、少し詳しくご紹介させていただきました。

 さて、これらの説について、私なりの総括をしましょう。

 ヴェーバーが、プロテスタントが資本主義をもたらしたと考えた理由は、前に(コラム#990で)述べたように、後進国ドイツの先進国英国(及び米国)に対するコンプレックスのせいだ、というのが私の考えです。

 ヴェーバーの生きた時代、アングロサクソン諸国(英国及び米国)は引き続き資本主義先進国であったのに対し、後発資本主義国であったドイツはアングロサクソン諸国に必至になって追いつこうとしていました。

 ヴェーバーの思考過程は次のようなものであったと推察されます。

 「英国等のアングロサクソン諸国とドイツ(やオランダ)はいずれもプロテスタントが多数を占める国だ。その英国・ドイツ・オランダで資本主義化が始まったのは16世紀だった。16世紀というのは、宗教改革がドイツで起こり、欧州諸国と英国に大きなインパクトを与えた世紀だ。よって、資本主義は宗教改革がもたらしたに違いない。そうだとすると、ドイツは世界の資本主義化(=近代化)のさきがけであり、現在もなお、アングロサクソン諸国と並んで世界の資本主義をリードする存在である以上、アングロサクソン諸国にコンプレックスを抱く必要はない。」

 このヴェーバーの説に対し、カトリック教徒が多数を占めるベルギやフランスで、ピレンヌやブローデルが反発したのは当然です。イタリアの著名な歴史家であるファンファーニ(Amintore Fanfani1908?99年)もピレンヌやブローデルと同趣旨のヴェーバー批判を行っています。

というのも、16世紀にドイツやオランダで起こったような資本主義化であれば、宗教改革が始まる少なくとも100年以上前には既に北イタリアの都市国家群で始まっていたからです。

もっとも彼らは、カトリシズムが資本主義をもたらした、とまでは言いませんでした。

彼らは、ベルギー・フランス・イタリア等カトリック圏の欧州諸国が、ドイツ・オランダ等プロテスタント圏の欧州諸国よりも資本主義化(=近代化)において遅れをとっているだけでなく、このドイツ・オランダ等でさえ、アングロサクソン諸国より遅れをとっていることを自覚していたからでしょう。

私が思うに、ピレンヌ・ブローデル・ファンファーニらは、意識するとしないとにかかわらず、ヴェーバーが密かに企図したところのドイツ(とオランダ等)の欧州からの足抜けを許さず、ドイツに対し、ベルギー・フランス・イタリアと同様、等しく(アングロサクソン諸国と比較して)後進国たる自覚を持て、と呼びかけたことになるのではないでしょうか(注10)。

(以上、事実についてはhttp://www.ecs.gatech.edu/support/sandra/paper.html(1月2日アクセス)による。)

 (注10)これら欧州カトリック圏の学者による、ヴェーバー説の史実の誤りを指摘した批判に対し、ヴェーバー説を内在的に批判したのはアングロサクソン圏の学者だ。英国出身の南アのロバートソン(H. M. Robertson)は、1933年に、ヴェーバーがプロテスタント固有のものとして提示した「召命(calling=天職)」観念は、16?17世紀のカトリシズムたるジャンセニズムやイエズス会においても見出せると指摘し、マッキノン(Malcolm H. MacKinnon)は1989年に、ヴェーバーはカルヴィニズムにおける「召命」観念を誤解しており、この観念は、世俗的活動とは関わりを持たない、と指摘した。また、英国のトーニー(Richard Henry Tawney)は、1926年の著書、Religion and the Rise of Capitalism(宗教と資本主義の興隆。岩波文庫から邦訳が出ている)の中で、ヴェーバーが言うようにプロテスタンティズムの倫理が資本主義の精神をもたらしたのではなく、商業や金融の盛んな欧州の地域においてリスクをとって利潤を追求するという資本主義的精神が生まれ、それをプロテスタンティズムが倫理として採用した、と指摘した。更に、カナダ出身の米国のヴァイナー(Jacob Viner)は、1978年に、カルヴィニズムが国家宗教となったスコットランドでは、18世紀になるまで、そのせいで経済発展が妨げられた、と指摘した。

 それでは、現在の米国におけるスタークによる、キリスト教資本主義原因説のむしかえしを、われわれはどのように解釈すればよいのでしょうか。

(続く)

太田述正コラム#10262006.1.1

<キリスト教と私(その5)>

 スタークは、次のように主張します。

 キリスト教の、他の大宗教と比べた特異性は、ローマ皇帝コンスタンティヌス(Constantine)が312年にキリスト教に改宗した後、彼がキリスト教会に対しカネと特権を山のように与え始めたことによって、僧侶になることが上流階級にとって魅力あるキャリアになったことだ。

 献身的にして貧乏な禁欲的な聖職者による敬虔なる教会は、かくして権力志向の教会に道を譲った。このことが、欧州における商業の発展に好適な環境をもたらしたのだ。

 もし、敬虔なる教会のままであったなら、キリスト教は、イスラム教が引き続きそうであるように、利子をとることを非難し、利潤追求と物質主義一般に反対する存在であり続けたことだろう。

 このようなキリスト教会が、中世を通じて欧州(及びイギリス。以下同じ)における最大の大地主だった上、教会の毎年の所得も、欧州中の王侯貴族を全部合わせた所得よりも大きかったと考えられている。土地からの収益だけでなく、国王等の依頼を受けて行う儀式典礼代がしこたま入ってきたからだ。

 カネが貯まってしょうがないので、教会は利子をとってカネを貸し始める。土地を担保にとることも始まり、貸し付けが焦げ付いて担保流れの土地を入手することも再々だったので、教会が保有する土地は益々増えて行った。

 就中9世紀頃から大修道会は、その保有地における農業生産を自由な労働者を使って行い、農耕等の方法についても積極的に技術を開発・適用し、利潤の極大化を図るようになる。

 もとより、このような資本主義的営みを修道会が行うことには教会内の保守勢力は批判的だったが、聖マグヌス(Albertus Magnus1193-1280)は、適正な価格とは単に「売却時点における市場から推定できる当該商品の価値である」と述べ、スコラ哲学の泰斗、聖アクィナス(Thomas Aquinas1225?74)もこれに賛意を表明した。

 アクィナス自身、飢饉地域にやってきた穀物商人がが、近々沢山の穀物商人が更にやってくることを知っていたとしても、だからといって、そのことを開示して自分の穀物販売価格を下げる必要はない、と説いたくらいだ。

 また、農業生産において自由な労働者が用いられ、奴隷が用いられなかったことも特筆されるべきだろう。これは、世界の主要な宗教の中ではキリスト教のみが7世紀までに、神学上奴隷制に反対する姿勢を確立し、そのため11世紀までには奴隷は欧州から根絶されたためだ(注8)。自由な労働力の存在は、資本主義の確立にとって不可欠だ。

 (注8)ただし、奴隷制が後に欧州諸国の植民地において再び出現することは忘れてはならない。

 更に、大修道会が開発した技術としては、水車・蹄鉄・栽培漁法・三圃制(the three-field system of agriculture)(注9)・眼鏡・時計、等がある。

 (注910世紀頃から始まった西欧中世の代表的農法で,耕地を春耕地・秋耕地・休耕地の3つに分け、3年に1度休耕地をつくる農法http://www.howhowhow.net/worldhistory/w.hisbasic11-6.html。1月1日アクセス)。

 しかし、大修道会における資本主義的営みには限界もあった。

 大修道会が積み上げた富は、王侯貴族による収奪に晒されていなかったという点では、資本主義化への必要条件を充たしていたものの、カトリック教会内の収奪や規制からは自由ではないという点では資本主義化への十分条件は充たしていなかったからだ。

 結局資本主義は世界で初めて、比較的民主主義的な・・比較的収奪や規制から自由な・・北イタリアの都市国家群において確立することになる。

(以上、特に断っていない限りhttp://chronicle.com/temp/reprint.php?id=tqm4xd5mqkk5px43d968m19qmf4w3g5y前掲、及びhttp://www.nytimes.com/2005/12/30/books/30book.html?pagewanted=print1230日アクセス)による。)

(続く)

太田述正コラム#10232005.12.30

<キリスト教と私(その4)>

(4)キリスト教と民主主義

 キリスト教徒が多数を占め、あるいは少なくともその社会のリーダーの中にキリスト教徒が多い社会でないと、民主主義は機能しない、と信じ込んでいる人物は、マッカーサーやハンチントン等、米国人に多い、と以前(コラム#6で)指摘したところです。

 しかし、上記の条件に全く合致しないインド・・しかも世界第二位の人口大国インド・・で民主主義が機能していること一つとっても、このような思いこみが誤りであることは明らかです。

 (5)その後

こういうわけでその後は、キリスト教と民主主義の結びつきについてはともかくとして、キリスト教と科学ないし資本主義との結びつきについては、余り語られなくなります。

代わって登場したのがキリスト教のキの字も出てこないところの、約40年前に唱えられた、カナダ生まれで米シカゴ大学名誉教授の歴史家マクニール(William McNeill1917年?)の、欧米の興隆の原因をその「絶え間ない戦争」・「卓越した航海技術」・「伝染病に対する耐性」、に求める説( The Rise of the West: A History of the Human Community, 1963) (http://en.wikipedia.org/wiki/William_McNeill1230日アクセス)や、最近唱えられたばかりの、米国の科学作家にして米UCLAの生理学教授のダイヤモンド(Jared Diamond1937年?)の、欧米の興隆の原因をその伝染病・技術(火器・鉄製武器・艦船等)・家畜(馬等)等に求める説(Guns, Germs, and Steel, : The Fates of Human Societies, 1997。邦訳あり)http://en.wikipedia.org/wiki/Jared_Diamond及びhttp://dannyreviews.com/h/Guns_Germs_Steel.html(どちらも1230日アクセス)等です。

(以上、特に断っていない限りhttp://www.nytimes.com/2005/12/25/books/review/25meacham.html?pagewanted=print前掲による。)

(6)ロドニー・スタークによる議論の蒸し返し

ア 始めに

ところが、キリスト教が欧米文明を形成しその世界制覇を可能にした、という時計の針を巻き戻したような議論を今年上梓した著書、"The Victory of Reason"展開して話題になっているのが、現在米国を代表する宗教社会学者の一人であるロドニー・スターク(Rodney Stark)米ベイラー(Baylor)大学教授です

 イ 理性と科学

スタークは、既に2?3世紀のキリスト教神学者であるテリトゥリアヌス(Quintus Tertullian155??230?年)や4?5世紀のキリスト教哲学者であるアウグスティヌス(前出)が、理性を通じて人類は聖書や神について一層正確な理解を得ることができると主張していたと指摘し、このようにキリスト教が理性的な宗教であったことが、欧米における科学の発展をもたらしたと主張します。

 ウ 理性と民主主義

またスタークは、初期のキリスト教哲学者達は既に、個人の平等と権利を神学的理論として提示していた、と主張します。

 エ 理性と資本主義

 更にスタークは、資本主義の本質は、理性を商業に体系的・継続的に適用することであり、資本主義もまた、理性的な宗教であるキリスト教の産物である、と主張します。

スタークはここで再びアウグスティヌスに言及し、アウグスティヌスが、人類が成し遂げた驚くべき進歩はことごとく神が人類に与えた理性の賜である、と記していることに注意を喚起します。そして、1306年のフィレンツェの教会におけるドミニコ会修道僧ジョルダーノ(Fra Giordano)の、「視力を改善する眼鏡をつくる技術(art)が生まれてからまだ20年経っていない。これは世界で最もすばらしく最も必要な技術の一つだ。・・<しかし、>すべての技術が既に発見されたわけではないし、そもそも、われわれはいつまで経ってもすべての技術を発見し尽くすことはありえないだろう」という説教(http://www.antiquespectacles.com/statements/1600.htm1230日アクセス)も参照した)は、キリスト教の理性と進歩への思い入れがいかほどのものかを物語っていると指摘しています。

その上でスタークは、資本主義が呱々の声を挙げたのは大修道院においてであったと主張します。

(以上、特に断っていない限りhttp://chronicle.com/temp/reprint.php?id=tqm4xd5mqkk5px43d968m19qmf4w3g5y前掲による。)

(続く)

太田述正コラム#10222005.12.29

<キリスト教と私(その3)>

 このようにカトリック教会は自己革新努力を行っている(注6)わけですが、プロテスタントの方に目を転じると、原理主義勢力が力を増してきており(コラムが多いので挙げない)、心配されます。

 (注6)とはいえカトリック教会が依然として、1.妊娠中絶に全面的に反対しているのみならず、2.避妊薬はもとよりコンドームの使用にすら反対したり、3.神父の結婚を認めなかったり、4.女性の神父就任を認めなかったり、更には5.新たな奇跡の認定をしたり、していることは問題だ(コラム#686)。3.以外については、発展途上国を中心とする人口の爆発的増大やエイズの蔓延を食い止め、女性の地位向上を図り、更には科学的精神の普及と迷信の除去を図るためにも、可及的速やかな是正が望まれる。

3 独善的な歴史認識

 (1)問題意識

 もう一つ、これはキリスト教の問題というよりは、キリスト教徒の問題ですが、一部のキリスト教徒に見られる、キリスト教の優越性を前提とした独善的な歴史認識には困ったものです。

(2)キリスト教と科学

20世紀を代表する哲学者の一人である英国のホワイトヘッド(Alfred North Whitehead1861?1947年)は、1925年に、キリスト教は欧米の科学の発展に寄与したとし、「エホバの個人的エネルギーとギリシャの哲学者の理性とがあいまって構築された」キリスト教の神概念が、理性的志向と探求的精神を促した、と主張しました。

しかし、ホワイトヘッド自身が示唆しているように、西欧の理性的思考の淵源はギリシャ哲学にあるのであって、キリスト教が理性的であるとすれば、それはギリシャ哲学の影響を受けたからにほかなりません。

また、キリスト教が理性的であると言うのなら、同じ一神教であってかつキリスト教の生みの親であるユダヤ教は、議論と思索を重視するという意味で、キリスト教以上に理性的な宗教であると言えますが、ユダヤ教が成立したのはギリシャ哲学の出現よりも前ですから、ユダヤ教の理性は、キリスト教と違って、本来的なものです。

ところが、この本来的に理性的なユダヤ教は、(それだけでは)ユダヤ人に科学をもたらすことはできませんでした。

他方、インド文明や支那文明は一神教的文明ではありませんが、それでもインド文明は数学・科学・理性的哲学を生み、支那文明は紙・火薬・羅針盤等の科学的大発明を生んでいます。

つまり、理性や科学はキリスト教の専売特許ではないことは明らかであり、むしろキリスト教は、ガリレオの異端審問に象徴されているように、理性や科学の発展を阻害した側面の方が強い、と言うべきでしょう。

(以上、http://www.nytimes.com/2005/12/25/books/review/25meacham.html?pagewanted=print前掲による。)

ホワイトヘッドは、論理学ないし数学の基礎理論の研究から学者としてスタートした人物(http://plato.stanford.edu/entries/whitehead/1228日アクセス)であり、遺憾ながら歴史の素養が欠如しており、そのために誤った結論を導き出してしまったのでしょう。

(3)キリスト教と資本主義

20世紀を代表する社会学者である、ドイツのマックス・ヴェーバー(Max Weber1964?1920)は、その著書「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の『精神』(Die protestantische Ethik und der 'Geist' des Kapitalismus1904?1905)において、プロテスタンティズムは、世界の数多ある宗教・宗派の中でただ一つ、富の蓄積と消費の抑制とを同時に促したのであって、このことが欧米において資本主義をもたらした、と指摘しました。

このヴェーバーの説は、同じドイツの経済史家ゾンバルト(Werner Sombart1863?1941年)による、消費の抑制ではなく、奢侈こそが資本主義を生んだ、という的はずれの批判(注7)には耐えたものの、ベルギーの著名な歴史家のアンリ・ピレンヌ(Henri Pirenne1862?1935年)や、フランスの著名な歴史家のブローデル(Fernand Braudel1902?85年)等による、実証的歴史研究を踏まえた厳しい批判の結果、現在では旗色が悪くなっています。

(注7)ゾンバルトのこの説が的はずれであるゆえんは、人類史上、古代ローマや支那の宋等、豊かで奢侈に溺れた社会には事欠かないが、いずれも資本主義的離陸に失敗しているからだ。だから、欧米社会が人類史上初めて資本主義的離陸に成功したことについては、奢侈だけでは説明がつかない。そこでゾンバルトは、資本主義の成立には、奢侈の他、ユダヤ人の存在と戦争状態の継続が必要だと主張した(ソンバルト「恋愛と贅沢と資本主義」(講談社学術文庫。原著は1922年。ただし、初版は1912年)6?7頁)。しかし、依然説得力は乏しい。

すなわち、ピレンヌは、資本主義のあらゆる本質的要素・・個人主義・企業・与信・投機、等々・・は12世紀以降のイタリアの都市共和国・・ヴェニス・ジェノア・フィレンツェ・・において見出すことができると指摘しましたし、ブローデルは、ずっと後になってから西欧の北方地域(プロテスタント地域)が西欧の地中海地域に代わって資本主義の中心となったが、北方地域において、資本主義に係る技術や経営手法に関し、新たに創造されたものは皆無であるとヴェーバーを批判したのです。

(以上、特に断っていない限りhttp://chronicle.com/temp/reprint.php?id=tqm4xd5mqkk5px43d968m19qmf4w3g5y1228日アクセス)による。)

(続く)

太田述正コラム#10202005.12.28

<キリスト教と私(その2)>

 しかし、幸いにしてこのところ、キリスト教はその非寛容性から急速に脱却しつつあります。

 カトリック教会は、1960年代初頭の第二バチカン会議(Second Vatican Council)において、プロテスタントはもとより、ユダヤ人やイスラム教徒であって、カトリック教徒同様、(生きていた時に善行を積めば、)ただちに天国に行ける(=救済される)、という公式的立場に立つに至っています(http://meaningoflife.tv/?speaker=albacete&topic=death1224日アクセス)(注5

 (注5)そこまで言及されてはいないが、キリスト教・ユダヤ教・イスラム教以外の宗教の信徒や無神論者も、(生きていた時に善行を積めば、)ただちに天国に行ける、と解されるようになったと考えられている(上記典拠及びNYタイムス下掲)。それまではこれらの人々は、一旦リンボー(limbo。ラテン語ではlimbus。善行と悪行が相半ばする場合に送られるPergatory=煉獄、とは異なる)に送られ、将来のキリストの再臨の際にやっと天国に行ける、という扱いだった(http://www.newadvent.org/cathen/09256a.htm1228日)。

     (原罪だけは背負っているものの善行も悪行もつんでいないところの、キリスト教の洗礼を受ける前に死亡した乳児や胎児は、依然リンボー(上記のlimbus patrumに対し、limbus infantiumと呼ばれる)に送られることになっているところ、法王庁は今年、この扱いの見直しに着手したhttp://www.nytimes.com/2005/12/28/international/europe/28limbo.html?pagewanted=print及びhttp://www.newadvent.org/cathen/09256a.htm。どちらも1228日アクセス))。

カトリック教会(ひいてはキリスト教)がかかる結論に至るまでに、一体どれだけの無駄な人間の血が流されたことか。これに比べて、無神論的宗教である仏教とりわけ大乗仏教(Mahayana Buddism)や、多神論的汎神論的宗教である神道の内在的寛容性は際だっている。(大乗仏教の寛容性については、例えばhttp://www.slate.com/id/2132724/1223日アクセス)を見よ。)

 このように遅ればせながらも、キリスト教が大変身を遂げることができたのは、キリスト教には、イスラム教とは違って、聖典の柔軟な解釈を許す伝統が初期から存在したからです。

 例えば、初期のキリスト教哲学者として著名なアウグスティヌス(Augustine354?430年)は、「聖書の権威による解釈が、明白かつ確固たる理性に反する場合は、その聖書を解釈した権威が聖書を正しく理解していないことを意味すると解されなければならない」と言っています(http://www.nytimes.com/2005/12/25/books/review/25meacham.html?pagewanted=print前掲)。

(続く)

太田述正コラム#10192005.12.27

<キリスト教と私(その1)>

1 始めに

 私のキリスト教との出会いは、カイロの小学校の宗教の時間に、選択で(イスラム教ではなく)キリスト教をとった時に遡ります(注1)。

 (1)私の両親の宗教は、「一応」浄土真宗の本願寺派(お西さん)だった。

 旧約聖書を教えて貰っているうちは、その中に出てくる様々な物語が面白くて、結構はまってしまった記憶があります。

 しかし、新約聖書に入ってからはついて行けなくなりました。

 独身の女性(マリア)が父親のいない子供(イエス)を懐妊し、生む? 人間(イエス)が魚やパンを自在に増やす? イエスは人間か神か? 神の子(イエス)のくせに、なすすべもなく十字架に架けられて刑死する? 刑死させることが目的で父(神)は息子(イエス)をこの世に送り込んだ? その死によって神の子(イエス)が人類の罪を購う? 一旦死んだ人間(イエス)が生き返る?・・どうしてこんな不条理な宗教に人が惹かれるのかさっぱり分からない、と当時も思ったし、今でも思っています。

 最近のNYタイムスの書評(http://www.nytimes.com/2005/12/25/books/review/25meacham.html?pagewanted=print1225日アクセス)が、そのことをはっきり書いています。

 「キリスト教は、人を混乱させる、時としてパラドクシカルな宗教だ・・聖パウロ(St. Paul。5?10??68年(殉教))ですら、この新しい宗教は人間の理解を超越していると語った・・コールリッジ(Samuel Taylor Coleridge1772?1834年)は、キリスト教は、疑いを意識的に抑制することを要求すると言った・・まことキリスト教は、その教義においても実践においてもむつかしい宗教だ・・にもかかわらず、今日キリスト教は世界最大の宗教となり、教徒は20億人に達している」と。

 鰯の頭も信心からと言いますから、キリスト教の教義に対する違和感の表明はこれくらいにしておきましょう(注2)。

 (注2)大学を出た後でイスラム教に改めて興味を持ってコーラン(英訳。Penguin版)を読んだときの印象は、(イスラム教徒の皆さんの逆恨みを覚悟しつつ、だけど殺されないであろうことを信じつつあえて言うが、)これは旧約聖書と新約聖書の、できの悪い、しかもやたら繰り返しの多い盗作だ、というものだった。

2 非寛容性

 ただ、一神教は一般的に非寛容性が強いところへもってきて、キリスト教は生誕後日浅くして一神教の中で最も強大な勢力となり、今日に至っているため、キリスト教の歴史は、その教義と相容れないと考えられた宗教・科学・哲学等への弾圧の点でも、同一宗教内の宗派同士の正統争いの点でも、血腥ささの程度において、他の一神教の比ではありません。

 カトリック教会による、異端審問(Inquisition)(注3)と異端者殺し、ロシア正教によるユダヤ教徒迫害(ポグロム=Pogrom)、カトリックとプロテスタントとの間の戦争とも言うべき、ドイツの30年戦争の惨禍、等々はキリスト教が直接もたらしたものです。

 (注3)異端審問制度は、法王グレゴリウス(Gregory)9世によって1233年に導入された。1633年のガリレオに対する異端審問は有名だ。ドイツだけで、25,000人の魔女・魔男が異端審問を経て処刑された。

しかし、最近の研究によると、西欧中世における異端審問では、従来考えられていたほど簡単に拷問や処刑(焼殺)を行ったわけではなさそうだ。これまで一番悪名高かったのは、15世紀から、法王庁とは別個にスペインのカトリック教会が実施した異端審問だが、意外にも、処刑されたのは審問対象となった者125,000人のうち1.8%に過ぎなかったという。また、最後の瞬間に悔悟した異端者や魔女・魔男達は、焼かれる前に絞め殺されたという。(http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/3809983.stm2004年6月16日アクセス)

 また、ナチスのホロコーストは、ポグロムのカトリック・プロテスタント版であると言えますし、共産主義自体がカトリシズムの鬼子と言えるのであって、各国において共産主義が行った天文学的な数の「階級の敵」殺しはカトリシズムの伝統を踏まえた異端殺しである(注4)、と言ってよいでしょう。

 (注4)このヒントを得たのは、独文学者にして評論家であった竹山道雄(1903?84年。「ビルマの竪琴」の著者として有名)の「昭和の精神史」(新潮社。1956年)を通じてだったと思う。

(続く)

太田述正コラム#10162005.12.24

<韓国のキリスト教徒の功罪(その1)>

1 始めに

 台湾のキリスト教徒を取り上げたついでに、韓国のキリスト教徒の話もしておきましょう。

 イラクで無惨な死を遂げた韓国人の金鮮一と、米国で韓国のためにスパイを犯して投獄された韓国生まれのロバート・金という、日本人にはちょっと見られないタイプの怪人物を二人、以前(コラム#391392396421で)ご紹介したことがあります。

 この二人がどちらも「敬虔な」キリスト教徒であったことが思い起こされます。

2 金大中

 上記の二人の庶民が韓国人の3割近くを占めるキリスト教徒(コラム#6539)の典型であるなんて思いたくありませんが、それではキリスト教徒たる権力者はどうなのでしょうか。

 権力者の最たるものは大統領ですが、「敬虔な」キリスト教徒(カトリック)として知られているのが金大中(Kim, Dae-jung1925年?。大統領在位1998?2003年)です。

つい最近までの金大中の評価は、野党時代の民主化の闘士としての活動に高い評価がある反面、急進的な政治姿勢や政権時代のポピュリズム・地域偏重主義には批判もある、といったものでした(注1)。

(以上、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%A4%A7%E4%B8%AD1224日アクセス。以下同じ)による)。

(注1)金大中は、1971年の大統領選挙で現職の朴正煕大統領に肉薄したが、1973年にはいわゆる金大中事件が起こり、日本で拉致され、ソウルで軟禁状態に置かれた。

1975年に、留学先のスタンフォード大学で、韓国人留学生達と話をした時に、金大中なんて取るに足りない男(minor figure)だと彼らが言ったので、彼らのような知的エリートからすると、商業学校しか出ていない(http://kamomiya.ddo.jp/%5CSouko%5CC03%5CDohyon%5CKin.htm)金大中はそう見えるのか、と思った記憶がある。

その彼の化けの皮が最近急速にはがれつつあります。

日本人のわれわれからすると、金大中は大統領時代に、北朝鮮の独裁政治や人権蹂躙に目を塞いで、太陽政策なる北朝鮮への宥和政策を推進し、その愛弟子であるノ・ムヒョンにこの政策を引き継がせ、韓国世論を親北朝鮮・親中共・反米・反日へと転換させた(http://news.goo.ne.jp/news/sankei/kokusai/20051210/m20051210010.html?fr=rk)ことで、厳しく批判されるべき存在です(注2)。

(注2)もっとも、金大中が大統領時代に韓国国内での日本大衆文化開放を始めた(wikipedia前掲)ことは忘れてはなるまい。

 もとより、現在の韓国人の多数派が、この北朝鮮への宥和政策に諸手を挙げて賛成していることはご承知の通りです。

 しかし、多数派・少数派を問わず、このところ、金大中について、韓国人をあきれさせる事実が次々に明るみに出てきました。

 まず、まだ金大中の大統領在任中の2002年に、朝鮮日報社が発行している、韓国の文藝春秋とも言われる権威ある月刊誌に、金大中の30万票差の大統領当選は、韓国の創価学会が、金大中の依頼を受けた日本の創価学会(=外国の政党たる公明党)の指示を受けて信者票をとりまとめたことで可能となった、という信憑性の高い記事が掲載されましたhttp://www5f.biglobe.ne.jp/~kokumin-shinbun/H14/1406/140636souka.htmlhttp://www.forum21.jp/contents/contents6-1.html)。

 金大中が大統領の任期を終えた直後の2003年には、金大中が多額のカネを北朝鮮に支払って2000年6月の金正日との南北首脳会談を実現させたことが明らかになりました。この首脳会談等が評価されて彼はその年のノーベル平和賞を授与されるのですが、要するに、金大中はノーベル平和賞をカネで買ったわけです。http://kamomiya.ddo.jp/%5CSouko%5CC03%5CDohyon%5CKin.htm

 更につい最近には、前任の金泳三大統領が始めた、政権反対派やマスコミに対する諜報機関による違法な盗聴を大幅に増やしたという事実(注3)と、政権に批判的であった有力紙の朝鮮日報と東亜日報の両紙の首脳を税務調査でねらいうちにして逮捕するにあたって、盗聴によって得られた情報を用いた可能性が高いという疑惑、が報道されたところです(http://www.sankei.co.jp/news/051117/kok017.htmhttp://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2005/12/16/20051216000063.html)。

(注3)中央情報部に自ら拉致された経験のある金大中は、大統領就任後、鳴り物入りで国家安全企画部(旧・中央情報部)を廃止し、大幅に縮小した国家情報院を新設した(wikipedia前掲)が、あに図らんや、彼は諜報機関の一層の「活用」に努めていたことになる。

(続く)

太田述正コラム#0590(2005.1.10)
<米国のキリスト教原理主義化再論(その3)>

2 米国のキリスト教原理主義化の外部効果

現在の世界の覇権国である米国がキリスト教原理主義化しつつあること自体が恐怖ですが、その最高指導者であるブッシュその人がキリスト教原理主義者であることには慄然たる思いを禁じ得ません。
英デーリー・テレグラフ紙の前編集長のヘースティング(Max Hastings)の論説に私見を織り交ぜると次のような感じになります。
政治と宗教原理主義とは、本来相容れない間柄です。
 例えば、IRAとアルカーイダはどちらも反民主主義的テロリスト団体ですが、前者は政治的目的を追求しているのに対し、後者は宗教的目的を追求しており、だからこそ前者とは交渉が成り立ち得ますが、後者とは成り立ち得ません。
 同様、宗教原理主義者たるブッシュが総指揮をとってイラク戦争が行われたことは、この戦争そのものには意義があったとしても、人類にとって不幸なことでした。
 「われわれの神こそ真の神であり、奴ら(イスラム教徒)の神は偽物の神だ」と語った米国の現役の将軍をブッシュは処分しませんでした。これでどれだけイラク戦争における米国(及び英国)の意図がイスラム教徒に誤解されたことでしょうか。
 また、イラク戦争を行うに当たってお父さんと相談したかと問われたブッシュは、「相談していない。もっとエライお父さん(=神)とは相談したが・・。」と答えましたが、これは衆知を結集することなく、独断でイラク戦争や戦争後のイラク経営のあり方を決めた、と言っているに等しいのであって、ブッシュの受けた欠陥教育(コラム#507、509)を持ち出すまでもなく、イラクで米国が失態を繰り返すことになったのは当然でしょう。
 英国の歴代首相には、ブッシュのような宗教原理主義者は一人もいません。
 第二次大戦の時のチャーチルやフォークランド戦争の時のサッチャーでさえ、神に言及することなど殆どありませんでした。
 宗教心の特に篤い首相としてはブレア(コラム#113、114)とグラッドストーンが挙げられますが、ブレアとブッシュの違いは歴然としています。
 グラッドストーンがいかにブッシュと違うかについても、前(コラム#312)に少し触れたことがありますが、この際付け加えておきましょう。
 1884年にスーダンにおもむき、マーディ(Mahdi。本名Mohammed Ahmed)を頭目とするエジプト領スーダンのイスラム反乱勢力に対して英国にことを構えさせようとしたキリスト教原理主義者ゴードン(Charles Gordon。1833??1885)将軍(注3)の画策に、首相のグラッドストーンは決して乗ろうとしませんでした。この頃、ゴードンらによって、独裁者だ、支配下の人々を苛んでいる、地域の安定にとって脅威だ、といった、イラクのフセインに対して投げかけられたのと同工異曲の悪罵がマーディに対して投げかけられたものです。

 (注3)ゴードンは、1860年から64年にかけて、支那で太平天国軍に対し清朝側に立って仏英米「士官」と農民兵からなる常勝軍(Ever Victorious Army)を率いて対決し、支那及び英国の英雄となった。

 グラッドストーンが1885年にやむなくスーダン出兵を行ったのは、ゴードンがカルトゥーム(Khartoum)において、本国からの撤退命令を無視してあえて自分と自分の部隊をマーディ軍の包囲下に陥らしめ、英国の世論を扇動したためです。
 英軍部隊の派遣が遅すぎたため、カルトゥームに着いたときには(マーディの命に反して)ゴードンは既に殺害されていました。グラッドストーンは再び世論に逆らって、すみやかにスーダンからの撤兵を敢行するのですが、ゴードンの死の責任を問われてグラッドストーンは首相を辞任します。
しかし、当時は帝国主義時代の真っ最中でした。(湾岸戦争の後に米国がイラク戦争を行い、ついにフセインを「成敗」したように、)英国は1898年にキッチナー(Kitchener)将軍率いる英軍部隊を再びスーダンに出兵し、マーディ死去に伴い後継者となっていたハリーファ(Khalifa。本名Abdullah Ibn Mohammed)率いるイスラム勢力をオムダーマン(Omdurman)の戦いで撃破し、スーダン全域を占領し、爾後半世紀にわたってスーダンを領有することになります。ただしこの時、オムダーマンの勝利をキリスト教の勝利だなどと言う者が英国に一人もいなかったことは銘記すべきでしょう。
(以上、http://www.taipeitimes.com/News/edit/archives/2004/12/10/2003214518(2004年12月11日アクセス)による。なお、http://www.mpmbooks.com/amelia/GORDON.HTM及びhttp://www.bbc.co.uk/history/historic_figures/gordon_general_charles.shtml(いずれも1月8日アクセス)も参照した。)

(続く)

太田述正コラム#0589(2005.1.9)
<米国のキリスト教原理主義化再論(その2)>

(4)大学や企業への教原理主義の進出
 ア キリスト教ロースクール
伝道説教師のファレル師(Jerry Falwell)が学長をしている、バージニア州のリバティー(Liberty)大学のロースクールでは、各授業の冒頭でお祈りが行われます。
 そして、通常のロースクールであれば、判決は、判例と憲法に則っているかどうかという観点から評価がなされるのですが、この学校では聖書上の諸原則に則っているかどうかという観点から評価がなされます。
これは全米で行われている、法律家の世界における価値相対主義と倫理感覚の麻痺の克服を目指し、法に宗教的観点を、かつ法律家の業務に宗教道徳的観点を反映させるべきだとする運動の一環なのです。
当然、このようなロースクールの教師の大半は共和党支持です。
1991年から2002年にかけて米国のロースクールのトップ21校を調査した結果によれば、選挙の際に寄付をした教師の80%は民主党支持で共和党支持は15%しかいません(注1)。ですから、上記のようなロースクールは「まともな」ロースクールの嘲笑の的になっています(注2)が、嘲笑しておられるのも今のうちかもしれません。
(以上、http://www.nytimes.com/2004/11/22/national/22law.html?8hpib=&oref=login&pagewanted=print&position=(2004年11月23日アクセス)による。)

(注1)そもそも、現時点では米国の大学はリベラル(民主党)の巣窟と化している。人文社会科学の分野ではリベラル対保守(共和党)比率は大学教師で7対1だという調査結果がある。バークレーとスタンフォードの理工系の教師ではこの比率が9対1だという調査結果もある。米国の大学では世界で最も人種・国籍・性等の多様性が確保されているが、今やイデオロギー的には多様性ゼロに近い存在に成り果てたというわけだ。この結果、共和党のブッシュ政権の高官の中に大学教師だった人は、ライス補佐官(次期国務長官)等を除き、ほとんどいなくなってしまった。(http://www.washingtonpost.com/ac2/wp-dyn/A15606-2004Nov26?language=printer。11月29日アクセス)
(注2)ただし、濫訴をいましめたり、法的には守らなくてもよい契約も遵守せよと教える点、更には離婚よりも和解の名弁護士となれと諭す点など、評価すべきところもある。

  イ キリスト教企業
 ミネソタ州で二年前にキリスト教精神に則った銀行が生まれました。
 顧客と共にお祈りをしながら、その顧客が抱える金融問題に親身になって取り組むことから、この銀行の業績は急速に伸びています。
これは全米で行われている、キリスト教信仰は日曜日だけのものであってはならず、仕事の場に信仰を持ち込むことによって、社会や環境や他人のことを考えない仕事のやり方を改める必要がある、という発想に立った運動の一環です。
 この運動の本部は、既に900人以上の「仕事場の牧師」を任命しています。
 しかし、職場で布教活動をすることは違法ではありませんが、宗教的理由でハラスメントをしたり、採用・昇給・昇任で差をつけたりすることは違法であることから、上記運動に取り組んでいる企業には細心の注意が求められています。
 また、この運動とは直接関係はありませんが、従業員にお祈りの時間を有給で認めたり、従業員の聖書研究会に施設を無償で提供したりする企業が増えています。
 このような企業として有名なのは超一流大企業のインテルです。
(以上、http://www.nytimes.com/2004/10/31/magazine/31FAITH.html?pagewanted=print&position=(2004年11月2日アクセス)による。)

(4)総括
以上の背景には、米国のとめどのないキリスト教原理主義化があります。
2000年には米国のキリスト教原理主義(evangelical ないしborn again christians)人口は総人口の44%でしたが、彼らは子だくさんなので、一世代後には61%に増えるという推計がなされています(http://www.atimes.com/atimes/Front_Page/FK09Aa02.html。2004年11月9日アクセス)。

(続く)

太田述正コラム#0588(2005.1.8)
<米国のキリスト教原理主義化再論(その1)>

1 米国のとめどのないキリスト教原理主義化

(1)反進化論的風潮
米ジョージア州の二番目に大きい教育委員会は、三年前に2,300人の署名入りの、進化論を記述した教科書を攻撃する請願を受けて、その教科書に「進化論は事実ではなく理論である」というステッカーを貼っていたところ、昨年、今度はこのステッカーに反対する父兄6人から訴えられてしまいました。
米国では、1925年に、テネシー州の教師が進化論を学校で教えた廉で訴えられ、有罪ととされました(Scopes trial)が、再び進化論教育の是非が法廷の場で議論されることになったわけです。
(以上、http://books.guardian.co.uk/news/articles/0,6109,1346851,00.html(2004年11月10日アクセス)による。)
これは進化論者の方が反撃したケースですが、このところ、反進化論者の側からの攻勢が強まっています。
1987年に米最高裁が学校において(旧約聖書の記述に従い、世界が6000年の歴史しかないとか神が一斉に生きとし生けるものを創造したといった)創造説を教えることを禁じた判決を行って以来、反進化論者は神を直接持ち出さず、すなわちいわゆる(神による)創造説を持ち出さず、進化は突然変異や自然淘汰だけで起こってきたのではなく知的意図(intelligent design)が働いているとする、いわゆる知的意図説を援用する形で進化論教育への攻撃が行われてきました。
ペンシルバニアのヨーク郡では、「パンダと人類について」という副読本が採択されました。
この副読本では、創造説ならぬ、知的意図説に沿った記述がなされています。(ただし、この副読本の使用は教師の裁量に委ねられています。)
科学者は一致して創造説はもとより、知的意図説も誤謬であり、科学の名の下に学校で教えることに反対していますが、米国で2001年に実施された世論調査によれば、創造説を信じる者48%、創造説に傾いている者9%、進化論を信じる者28%、進化論に傾いている者5%、分からない者10%であり、米国民の間では進化論の分が圧倒的に悪いのが事実です。
(以上、http://www.csmonitor.com/2004/1123/p11s02-legn.html(2004年11月23日アクセス)による。)

(2)デジャヴの世界
南北戦争を経た後の1863年までは米国は人種差別を是とする社会でした。何せ米国憲法で、連邦下院議員数の配分に関し黒人は白人の三分の二の存在に過ぎないとしていたのですから。
最終的にこの状況に法的決着をつけたのは、1965年のジョンソン大統領の時の、黒人に完全な市民権を与えた公民権法によってでした。
それ以降、敗れた側は捲土重来を期して雌伏してきました。
そして公民権法から40年が経った現在、公民権法の廃止を口にしている者こそまだいませんが、かつて敗れた側を代表するブッシュ政権の下で、身体障害者・移民・非キリスト教徒・同性愛者等に対する差別を真のねらいとする諸施策が公然と語られるようになりました。
それが年金制度や医療制度の市場化への動きであり、公的資金投入のなかった時代への回帰です。1913年の憲法改正までは個人に対して適用される税率に差をつけることは認められていませんでしたが、既に所得税率は基本的に単一化されています。それにあきたらず、固定資産税や所得税全廃の声が次第に強まっています。
(以上、http://www.guardian.co.uk/uselections2004/comment/story/0,14259,1346207,00.html(2004年11月9日アクセス)による。)

 (3)終焉を迎えた政教分離
昨年の大統領選挙の際に、ブッシュ大統領の選挙参謀のカール・ローブ(Karl Rove)は毎週のようにホワイトハウスでキリスト教指導者達と会議を行いました。
また、昨年6月にブッシュはバチカンで法王に会いましたが、別途国務担当枢機卿にも会い、米国のカトリック司祭達のブッシュ支援が不十分なので、もっとバチカンから発破をかけてくれと頼んだが断られた、と報じられました。
しかし、全米の保守的な司祭40人がブッシュの選対に協力しました。彼らはカトリック教徒たるケリー上院議員の妊娠中絶やクローン技術に対する姿勢を攻撃し、教会での礼拝を拒絶するとか、あげくの果てには破門するとか言い出したものです。おかげでケリーは、南部バプティスト信徒のゴアより、カトリック票を5%も減らしてしまいました。
米国の、憲法に基づく政教分離の伝統は危機に瀕しているのです。
(以上、http://www.guardian.co.uk/usa/story/0,12271,1348261,00.html(2004年11月11日アクセス)による。)

(続く)

太田述正コラム#0581(2005.1.1)
<世界の人口動態とキリスト教原理主義>

 (掲示板でお知らせしたように、年末の3日間と年始の2日間、インターネット環境を離れますので、この間のコラムを前倒しで上梓させていただいています。なお、上記お知らせの中で、この間の面白い記事・論説を私にご教示いただくようにお願いしていますが、その気になられたら、一つでも二つでもぜひご協力方をお願いします。)

1 中期的には増える世界人口

 昨2004年8月に米国で発表された研究(注1)によれば、現在63億人の世界人口は2050年には93億人に増えます。
2050年の時点で、現在の主要な先進国中ではただ一カ国だけ米国が1億2,000万人も人口を増やし、インドの人口が中国を上回り世界一の人口大国となり、サハラ以南のアフリカで人口が10億人も増えるのです(注2)。
ただしその一方で、ブルガリアが人口を38%も減らす等東欧とロシアでは人口が大きく減り、西欧でも人口が減ります。(ただし、この間、英国がフランスを抜いて(ロシアを除き)欧州でドイツに次ぐ人口大国になりそうです。)日本は(ご存じの通り)1億人になってしまいます。(現在日本とほぼ同じ人口のナイジェリアは3億人に増えます。)
(以上、特に断っていない限りhttp://www.guardian.co.uk/population/Story/0,2763,1285358,00.html。2004年8月18日アクセス)による。)

 (注1)現在の人口増加率・乳児死亡率・年齢構成・平均寿命・所得・出生率・女性の避妊薬服用率・AIDS感染率が考慮された。地球環境の変化は考慮されていない。
(注2)サハラ以南のアフリカでも、ボツワナと南アフリカはAIDS感染率が高いため、例外的に人口が減少する(http://www.guardian.co.uk/population/Story/0,2763,1176582,00.html。3月24日アクセス)。

2 長期的には減る世界人口

 しかし、このまま世界の人口は増え続けるわけではありません。
冷静に人口動態を眺めてみると、1960年代に比べれば、現在の世界の人口増加率は40%も低くなっていることが分かります。
 この分では、世界の人口は2070年頃に約90億人で頂点に達し、それ以降はどんどん減って行くことになるでしょう。
 その最大の原因は、出生率の低下です。女性が生む子供の数は、1972年に比べて30年後の現在では半分に減っています。
 これは、産業化・都市化が進むと、子供の養育費の負担がどんどん大きくなるからです。
 例えば米国では、中産階級の子供を大学卒業まで育て上げるのに100万ドルかかります。(うち、子育てのために親が仕事を休む機会費用分が80万ドルです。)(http://www.atimes.com/atimes/Front_Page/FI08Aa01.html。9月8日アクセス)
社会保障や個人年金の制度が子供のいない人に有利であることも考慮すれば、子供をつくることに伴うコストは余りにも高くつくのです。
 世界は地域や国によってペースは違いますが、おしなべて産業化・都市化しつつあることから、今後出生率の低下は加速していき、その結果として2070年頃から世界人口は減って行くことになるわけです。
(以上、特に断っていない限りhttp://www.nytimes.com/cfr/international/20040501faessay_v83n3_longman.html(6月10日アクセス)による。)

3 懸念されるキリスト教原理主義者の増加

世界人口が長期的には減っていくこと自体が問題ですが、その結果世界の人口の大部分をキリスト教原理主義者が占めるようになる可能性があることはもっと問題ではないでしょうか。
以前、ブッシュ米大統領の支持層にはキリスト教原理主義者が多く、かつまたキリスト教原理主義者はそうでない(端的に言えば教会に通わない)人々に比べて出生率が高い話をしました(コラム#470)。
そのキリスト教原理主義は、米国のみならず、世界中に広まりつつあり、その増加率は他のいかなる宗教をも上回っている、とも以前お話ししました(コラム#93、95)。
 すなわち世界は長期的に見て、単一の宗教を信ずる、狂信的で頭が固い人々で埋め尽くされてしまいかねない、ということです。
 しかし、これらの人々の出生率は高く、そもそも彼らは反産業化・反都市化メンタリティーを持っているので、世界の産業化・都市化のスピードも減速し、その結果、超長期的には世界の人口は再び増勢に転じるのかもしれませんね。

 (日付が年の初めのコラムであることから、少し息の長い話をしてみました。この年末年始には新しいコラムは上梓されませんので、この際、できれば私のホームページでコラムのバックナンバーに目を通していただきたいと思います。2005年も引き続きどうぞよろしく。)

<読者>
今回の#581について私の意見を言わせて戴きたいと思います。

1.世界の人口減少の事について

 私はかって統計周りの仕事をした事がありその時の感想では「もし僕が行政で此れを担当するならば理想的な人口動態を作るがなー」と思った事が在ります。
当然の事ながら国勢調査により数十年後の人口動態が予想できるはずで、経済、防衛、世界動態に対する対策、これらに伴う費用対効果をはじき出せ、1国としての戦略の根本が出せると思っていたのです。
 が事実は世界に類を見ない高速な少子高齢化になることはいまや誰も認める事実です。当局すら此れを自然とこうなったかのように出生率が1.29だの何だのと言っている始末で恰も天災のごとくに言っております。
 一方、就学前の児童に対する国の費用は一人当たり60万円/月と出ており、人口動態などは「女性は基本的に子供を生み、育てることに喜びを持つが高費用化した現在では安心して子供も生めない」事が大方の実態です。(勿論男女機会均等法により女性も働く事が大切ですが此れと其れとは問題が別のはず。何故なら男が子供を生めますか)簡単に言えば「一人子供を生んだら18歳までは(此れが適切かどうかは検討が必要ですが)20万円/月補助をする」と言う施策を法的に認め、かつその後のその女性の労働の在り方検討すれば良いのです。この方が費用的にも、子供の教育でも女性の満足観からも良いはずで(何処かの国が始めていますが)此れは今の総務省、財務省、厚労省、文科省などがプロジェクトグループを作って実行すれば出来るのに「省益あって国益なし」の省庁では無理で、私は此れを無作為の霞ヶ関と言って「役立たずの役所」と残念で成らないのです。
 こうして国益を自ら捨てている彼らは給与を受け取る資格はありません。

2.米国の原理主義について

 キリスト教の歴史を見れば分るように「宗派、新旧、他宗教との争い」で植民地時代は言うに及ばず、現在でもまさにギボンが「ローマ帝国衰亡史」第2巻で言うように「キリスト教は他の戦争や災害で死んだより多くの人を殺してきた」と言う忌まわしい事実があるのです。(幸いわが国にはありませんが)こうした歴史を見ると今の米国ファンダメンタリスト(福音派、蔑称で原理主義)が人間不信に陥り「聖書と言う基本」しか認めないように傾いてきて此れが政治的な力になって来た事は「人間不信」の時代にあってキリスト教を信じる限り仕方ない人も居て不思議ではない、というのが私の見方です。確かに自由神学と言って人間の学問の進み具合により聖書理解を深める、という生き方も正しいでしょうが学問は所詮時代の制約と学説という偏りを持ちますから「今は良くても」と言う制約は避けえなくこの事実を知らなくて彼らを「進化論も認めない頑固主義」という事は簡単ですが、彼らの拠って立つところを誰が提案できますか。宗教的なセキュアにより英国を飛び出しオランダ→アメリカ大陸に住まざるを得なかったピルグリムファーザー達を責めえないように今の彼らを責めるのは「彼らのよって立つ根拠」を提案しなくては不可能です。今の我々に出来る事は「彼らの立場になって悩みながらも時代との整合性をどうするのか」と言う問題をともに悩むしかないと言うのが私の立場です。日本国内では国民性の大らかさ、悪く言えば節度のなさから「何で馬鹿みたいに逐語霊感説などを取るのか」と言う言論がしきりですがこれは正しく彼らへの態度に正鵠を得ていないと考えていますが、わが国はイスラムのように差別は在りませんからせめて「彼らを理解してあげる」くらいの度量を欲しいと思っているのです。

<太田>
1 人口減少問題について

 日本について言えば、とるべき対策は決まっています。
 一つは移民の受け入れであり、もう一つは抜本的な子づくり奨励策の実施です。
 しかし、このどちらも日本人の意識改革が必要であり、容易なことでは実現しそうにもありません。
 この難問については、改めてコラムでとりあげたいと思っています。

2 キリスト教原理主義について

 キリスト教原理主義を信奉する人がどうして増えてきているのかについては、これまでのコラムで何度かご説明してきていますが、それが分かったからといって、彼らに同情する必要は全くないのではないでしょうか。
 これは、イスラム教原理主義者たるテロリストがどうして増えてきているのか分かったところで、彼らに同情する必要など全くないことと同様です。
 キリスト教原理主義者の無知蒙昧さも、イスラム教原理主義テロリストによる無差別殺人も、様相こそ異なるものの、全人類的見地からは百害あって一利もないからです。

太田述正コラム#0543(2004.11.24)
<韓国とキリスト教(その2)>

 (2)布教への熱意
 韓国のキリスト教の特徴の第二は、その過激なまでの布教への情熱です。

 韓国のプロテスタント系の、かつ原理主義的な諸宗派の、イスラム世界や中国での特攻的な布教が最近英米で話題になっています。
 イスラム教徒をキリスト教に改宗させるとその改宗した者は殺されかねないというのに、しかも韓国政府がイラクへの渡航に対して強く警告しているにもかかわらず、その上、イラクのキリスト教の教会が次々に爆弾をしかけられている状況下で、なおかつ彼らはバグダッドに神学校を開設する計画をあきらめていません。(彼らの唯一の拠り所は、中東で韓国が米英ほどは嫌われていないという点です。他方彼らは米英の宣教師ほど現地の文化に通暁しておらず、不必要に現地の人々の怒りをかうことがあるようです。)4月には8名の韓国人宣教師が一時ファルージャで誘拐され解放されましたが、そのうち2名は全く懲りずに、10月末に再び他の3名の韓国人宣教師とともにヨルダンから陸路モスル入りし、現地キリスト教徒達からお互いの命がねらわれかねないと追い払われ、バグダッドで在イラク韓国大使館の職員達とイラク軍兵士達に強制的に保護され、イラクを出国しました。
6月には、宣教師志望の金鮮一の誘拐首切り殺害事件が起きた(コラム#391、396、431)ところです。
また中国では、中国政府当局の意向に真っ向から逆らい、北朝鮮難民をキリスト教に改宗させた上で中国を脱出させてきました。ベトナムに脱出していた北朝鮮人難民約460名を7月に韓国に渡航させた(コラム#430)のも彼らでした。
更に彼らは、改宗させた上で韓国に連れてきた北朝鮮難民の一部を、北朝鮮で布教活動を行わせるために再び北朝鮮に送り返すという無謀な試みも行ってきています。

 韓国のキリスト教宣教師の数は、1979年にはわずか93名に過ぎなかったのに、韓国人の海外渡航が解禁されてからはどんどん増えて、今や12,000名にのぼり、米国の46,000名に次いで世界第二位になっています。(ちなみに第三位は英国で6,000名。)最近では、「中国人が行ったところには中華料理屋ができ、日本人が行ったところには工場ができるが、韓国人が行ったところには教会ができる」という三題噺があるくらいです。
(以上、http://www.nytimes.com/2004/11/01/international/asia/01missionaries.html?pagewanted=print&position=(11月2日アクセス)及び(http://english.chosun.com/w21data/html/news/200411/200411020034.html(11月4日アクセス)による。)
 (1999年、韓国の仏教の最大の宗派のソウル所在の総本山を舞台として、仏僧が主流派と反主流派に分かれて互いに暴力をふるい、更に消火器を振り回し機動隊と乱闘騒ぎを起こした(http://www.fujitv.co.jp/supernews/special/toku1026.html。11月19日アクセス)ことは覚えておられる方もあると思います。韓国のキリスト教も早晩、いまだ潜在的な暴力的要素が顕在化するのではないか、と私は懸念しています。)

 (3)強い政治志向
特徴の第三は、強い政治志向です。
反日運動への関与については既に説明しました(コラム#539)。
原理主義的宗派を中心とする反北朝鮮運動については、上述した布教活動のほか、ノ・ムヒョン政権の国家保安法廃止の動きへの反対運動(http://japanese.donga.com/srv/service.php3?bicode=080000&biid=2004100508898。11月19日アクセス)、北の人権蹂躙を糾弾する運動、更には北の体制打倒運動が挙げられます。
遺憾ながら、韓国で北の人権蹂躙糾弾に取り組んでいるのは、キリスト教諸教団、就中原理主義的諸宗派だけだと言っても過言ではありません。
(以上、http://www.csmonitor.com/2003/0611/p01s02-woap.html(6月11日アクセス)による。)
まだまだ、韓国には人権思想も、従ってまた自由・民主主義も定着していない、とつくづく思います。
このほか、私立学校改革法案(http://www.sankei.co.jp/news/041027/morning/27int001.htm。11月19日アクセス)(注)にもキリスト教書協団は反対運動を行っています。
この法案は、私学経営において、学校財団など経営者側の支配権を制限し教職員や労組の発言権を拡大しようというものです。ノ政権は、私学の経営上の不祥事を防ぐためと主張していますが、左派主導の教員労組が決定権を握ることになるという批判があり、多くの学校を経営しているキリスト教諸教団もこの法案に反発しているのです。

 (注)言論改革法案(コラム#535)、私立学校改革法案、過去清算法案(コラム#447)、国家保安法廃止法案の四つは、ノ政権が成立を狙っている四大法案とされているが、いずれも憲法違反の疑いがある。ちなみに、ノ政権が最大の目標にしてきた首都移転計画が、憲法裁判所によって先般「憲法違反」と判断された。韓国には基本法たる憲法を遵守しなければならないという観念、法の支配の観念もまだ定着していない、と言わざるをえない。

(完)

太田述正コラム#0539(2004.11.20)
<韓国とキリスト教(その1)>

 (前回のコラム#538の「知能指数」のところを、書き換えてホームページに再掲載してあります。
 太田述正コラムのメーリングリスト登録は、http://www.ohtan.net/mail/index.htmlで!)

1 韓国のキリスト教の現状と歴史

 (1)現状
 1995年の統計によると、韓国人の50.7%の人が宗教を持ち、そのうち、仏教信者が46%でキリスト教徒が52%(プロテスタント39%、カトリック13%)です。つまりキリスト教徒は韓国人の実に26.4%を占めています(http://www.kansaikorea.org/v2/Facts_about_Korea/facts_about_korea11.php。11月19日アクセス)。ちなみに、仏教信者には形だけの信者が多いので、実質的な順位は、プロテスタント、仏教、カトリックであるとされています(http://www.erina.or.jp/Jp/Koryu/Chiiki/chiiki01-11.htm。11月19日アクセス)。
韓国でいかにキリスト教の影響力が大きいかは、クリスマスが公休日となっている点に端的に示されています。(仏教界の働きかけによって釈迦の誕生日も公休日になったのはその後です。)(http://www.geocities.co.jp/Playtown-Spade/3447/k-mon66.htm。11月19日アクセス)
 韓国と同じく日本の植民地であった台湾の仏教・儒教・道教の混淆93%、キリスト教4.5%、その他2.5%(http://www.eastedge.com/taiwan/。11月19日アクセス)とは随分様相が異なりますし、キリスト教徒が全国民のわずか1%にとどまっている旧宗主国の日本(http://wwwj.rikkyo.ac.jp/~kyomu/gakubu/1bun/Aa0/052_0_2.html。11月19日アクセス)とは全く別世界の感があります。

 (2)歴史
  ア 起源
朝鮮半島におけるキリスト教の起源は、宣教師によってではなく、1784年に27歳の李承薫(イ・スンフン)が訪問中の中国の北京でカトリック教会を独り訪ねてキリスト教徒になりたいと言って洗礼を受けたことに求められるという点で他に例を見ないユニークなものです(http://www.blu.m-net.ne.jp/~tashima/c17.html。11月19日アクセス)。
 19世紀後半には李氏朝鮮の摂政の大院君(1820??98年)によってカトリック大弾圧が行われます。
20世紀に入ると、今度はプロテスタントの宣教師が英米等から朝鮮半島にやってきて、その近代化に医療面や教育面(延世大学や梨花女子大学を創立)等で多大の貢献をします(http://www.kansaikorea.org/v2/Facts_about_Korea/facts_about_korea11.php。11月19日アクセス)

 イ 三・一運動
 1919??20年の三・一独立運動にプロテスタントは積極的に参加しました。
プロテスタントは当時、朝鮮半島の全人口のわずか1.3%(219,220人)でしかなかったことというのに、この運動の全逮捕者中のプロテスタントの割合は17.3%にも達しています。もっとも、これは植民地当局によって彼らが必要以上に警戒の対象とされたためでもあります。この三・一運動を契機として、プロテスタントは増勢にはずみがつくことになります。(http://homepage1.nifty.com/tkawase/osigoto/shisoushi01.htm及びhttp://members.at.infoseek.co.jp/konrot/bunka15.htm。いずれも11月19日アクセス))

  ウ 民主化運動
 戦後の1960年代以降の韓国の軍事独裁下において、民主化運動の中心的担い手となったのは、学生と一部キリスト教勢力でした(http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/law/lex/99-2/Kimu.htm。11月19日アクセス)。民主化運動の過程で韓国のキリスト教徒の数は再び拍車をかけられた形で増加します(http://members.at.infoseek.co.jp/konrot/bunka15.htm上掲)。
小倉紀蔵東海大学教授は、「かつて民主化運動華やかなりし頃、運動は・・<韓国のカトリックの中心である>明洞・・聖堂をひとつの巨大な求心力として展開していった。ミサで金寿煥枢機卿が何を語るか、ということが国民の大きな関心事であった。明洞聖堂の敷地は国家権力に対するアジール(逃避場)として、民主化運動家たちの聖地であった」と指摘しています。

2 韓国のキリスト教の特徴

 (1)原理主義的側面と混淆主義的側面の並存
 ア 総論
小倉氏(既出)は韓国のキリスト教について、「この国におけるキリスト教信者の類型は二つである。ひとつは、儒教的「理」(仁義)に代わる新しい水平的な「理」として理性的な信仰を生み、抗日運動や民主化運動の重要な部分を担った。社会のエリート層の信仰はこの類型である。これに対してもうひとつの類型は、シャーマニズムおよび仏教を吸収し、魂の救済の側面を強めながら膨張した。抑圧され貧しい生活にあえぐ庶民の信仰はこれである。私は前者を〈理のキリスト教〉、後者を〈気のキリスト教〉と呼ぶ。・・しかしこう区分したからといって、前者が「気」を排除するものであるとか、後者は「理」に対抗するものであるなどと把えてはならない。理気はつねに不相離(相離れず)なのである。ただ、信者の存立する精神的基盤が両者のうちどちらにあるかを示したにすぎない。」と総括しています。
小倉氏の言う二つの類型を、私の言葉に置き換えると、原理主義的側面と混淆主義的側面ということであり、韓国におけるキリスト教の特徴は、儒教の朱子学に由来するこの二つの側面が並存しているところにある、ということです。
(以上、http://www.onekoreanews.net/20031119/bunka20031119002.htm(11月19日アクセス)による。)

 イ 原理主義的側面
韓国のキリスト教の原理主義的側面を象徴するのが、(イスラム世界においてこそ、コーランの暗記に努める信者はめずらしくありませんが、)韓国のキリスト教徒の中に聖書の暗記に努める人々が多いことです。韓国のキリスト教徒は、世界で最も聖書の内容に通暁した人々であるとされています。

 ウ 混淆主義的側面
韓国のキリスト教の混淆主義的側面としては、韓国古来からのシャーマニズム的伝統に則して、巫堂(ムダン。巫女)的神父や牧師等に祈祷や悪魔払いを通じて奇跡を起こしてもらい、病気の平癒や現世利益を得ようとする信徒が多いことです。
このような信徒の典型が、地方出身で都市に住む中高年の女性です。
(混淆主義的側面が行き過ぎて、キリスト教の枠をはみ出してしまい、カルトに堕してしまった一例が、文鮮明が創始した統一心霊教会です。)
(以上、http://members.at.infoseek.co.jp/konrot/bunka15.htm前掲、http://www.kansaikorea.org/v2/Facts_about_Korea/facts_about_korea11.php前掲及びhttp://www.sofukan.co.jp/books/54.html(11月19日アクセス))

(続く)

太田述正コラム#0183(2003.11.6)
<イギリスのカトリシズムとの戦い(その3)>

2 ガン・パウダー陰謀事件

―始めに??

 1605年、イギリス議会開会式に臨むイギリス国王を議員たる貴族達とともに大量の火薬を爆発させて殺害し、イギリスでカトリックを復興しようとした企てが発覚し、ガイ・フォークス(Guy Fawkes)を始めとする13人の共謀者達は全員殺されるか死刑に処されました。
 企てが発覚した11月5日はガイ・フォークスの日と呼ばれており、この日には今でもイギリス全土にわたって、子供たちが、「11月5日を忘れるな」と唱えて道行く人々に小銭をねだりながら練り歩いたり、ガイ・フォークスに似せた案山子を焚き火に投げ込んで燃やしたりします。また、議会の開会日には毎回、昔の服装をした警備兵が爆発物を探す儀式が執り行われます。
 ちなみに、ガイ・フォークス達の拠点であったワーリックシャー(Warwickshire)はカトリック信徒の巣窟でしたが、シェークスピアの故郷でもあり、レキュザント(recusant=国教忌避者)の父親を持っていたシェークスピアは、さぞかし複雑な思いをガンパウダー事件に抱いたことと思われます。(「マクベス」の中にこの事件への言及があります。)
(以上、http://www.latimes.com/travel/la-tr-gunpowder2nov02.story(11月1日アクセス)による。)
 ガイ・フォークス達は宗教的熱情に突き動かされてテロを決行しようとしたという点で、400年もの年月を隔てており、しかも片やカトリック、片やスンニ派イスラム教、という違いはありますが、オサマ・ビンラディン率いるテロリスト集団、アル・カーイダを思い起こさせます。
私は、イギリス文明、すなわちアングロサクソン文明は近代文明そのものだと考えていますが、だからこそイギリス史は、近代を「生かされている」非アングロサクソンの我々にとって、参考になる事象に満ち満ちているのです。

―プロローグ-

 イギリスのカトリシズムとの戦いは、遠く12世紀に始まります(コラム#46)が、イギリスのカトリシズムとの軋轢が破断界を超え、カトリシズムとの断絶に至ったのはヘンリー八世の時です。
彼は最初の妻キャサリン(スペイン王室出身。甥が神聖ローマ皇帝(カール五世)になるカルロス)との間に跡継ぎの男子が生まれないので、彼女を離縁してアン・ボーレンと再婚しようとしました。しかし、教皇が離婚を許さないため、カトリック教会と袂を分かつことし、1529  年、自分をイギリスの教会の長であると宣言します。そして1536年には修道院をすべて廃止し、広大な修道院領を没収しました。(当時までの、イギリスを含む欧州では、法王庁は皇帝に次ぐ、(修道院領等の)大土地所有者でした。)ヘンリー八世は治世中に約130名を処刑していますが、そのうち、「ユートピア」の作者トマス・モアを含む約80名が宗教的理由による処刑です。

ヘンリー八世はこれだけ苦労をして離婚の自由を得たわけですが、三番目の妻ジェーン・セイモアとの間にようやく授かったエドワードは、1547年の父死亡に伴ってイギリス国王に就任はする(エドワード四世)ものの、1553年に15歳の誕生日を迎える前に夭折してしまいます。

やむなくヘンリー八世のキャサリンとの娘であるメアリーがその後を継ぎます(メアリー一世)。彼女は父存命中も父に抵抗し、生命の危険を顧みずにカトリック信徒で通しましたが、スペイン王室のフェリペ(後にスペイン国王フェリペ二世)と結婚します。そして5年間の短い治世中プロテスタント弾圧政策を断行し、300名ものプロテスタントを火刑に処します。

1558年、メアリー死亡に伴い、ヘンリー八世のアン・ボーレンとの娘でプロテスタントのエリザベスが女王になります(エリザベス一世)。彼女は国教会を「復活」するとともに、イギリス王位をうかがっていた、カトリック信徒でスコットランド女王であったメアリーを捕らえ、躊躇しつつも処刑し、後顧の憂いを絶っています(ロサンゼルスタイムス前掲)。
(以上、全般的にはG.W.O.Woodward, King Henry ??, Pitkin Pictorials, 1969 及びhttp://justus.anglican.org/resources/timeline/06reformation.html(11月6日アクセス)による。)
この頃にはカトリシズムに対する締め付けは厳しくなっており、ミサは禁止され、レキュザントには重い科料が課され、イエズス会の神父がミサを行った場合は国外追放か大逆罪で死刑に処されました。

スコットランド女王メアリーの長男のジェームスは、母親とは違ってプロテスタントになります。母親の退位に伴ってジェームス六世としてスコットランド国王に就任した彼は、スコットランド王室に嫁いだヘンリー八世の姉が曾祖母であった関係から、エリザベス一世の死去に伴い、1603年にイギリス王を兼ね、ここにイギリスにおけるスチュアート朝が始まります。
しかしジェームスの妻アン(デンマーク王室出身)はカトリック信徒であり、彼女がひそかにミサに出席し続けるのを黙認したばかりでなく、息子チャールスとスペイン王室の王女との婚姻を図り、これには失敗しますが、スペインの要求を受け、エリザベス女王の時以来の重臣、ウォルター・ローレー卿を処刑しています。
(以上、ロサンゼルスタイムス前掲及びhttp://www.britannia.com/history/monarchs/mon46.html(11月6日アクセス)による)

―陰謀事件??

ジェームス一世が即位して間もなく起こったのが冒頭にご紹介した陰謀事件です。共謀者たちはジェームス一世を殺害した後、彼の娘のエリザベスをさらって女王にすることでカトリシズムを復興しようと計画したわけです。(ロサンゼルスタイムス前掲)
ジェームス一世はこの陰謀事件で殺されかけたというのに、彼から始まる歴代のスチュアート朝の国王達は、みな親カトリシズム的態度をとったため、何かにつけてガイ・フォークス一味と結びつけられて非難されることになるのです。

―エピローグ??

父ジェームス一世が1625年に死亡し、チャールス一世が即位します。
彼はフランス王室出身のヘンリエッタ・マリアと結婚するのですが、その結婚の条件として、議会に黙ってフランスに対し、イギリスにおけるカトリック信徒への差別を撤廃することを約束します。
1649年の彼の処刑と共和制樹立(=清教徒革命)にいたるイギリスの内戦は、王室と議会との対立が原因なのですが、その対立にチャールスのカトリシズムに対する宥和的な姿勢が火に油を注いだということを忘れてはならないでしょう。
(以上、http://www.royal.gov.uk/output/Page76.asp(11月6日アクセス)による。)

(共和政時代は、世界史上初めての民主主義的独裁であったのですが、この話はまた別途。)

1660年に王制復古となり、チャールス一世の子供のチャールス二世が即位します。
彼の治世は、ペストの大流行やロンドンの大火に見舞われるのですが、それは議会を中心に反カトリシズム旋風が吹き荒れた治世でもありました。
にもかかわらず、1670年、チャールスはフランスと秘密条約を結び、オランダに対し、イギリスがフランス側に組すること、更にチャールスがカトリック信徒になること、その見返りとして彼がフランスから補助金をもらうこと、を取り決めます。結局彼はカトリック信徒になるという約束を果たすのをこの段階では断念するのですが、国王大権を発動し、それまでのカトリック信徒弾圧諸法(Penal Laws。コラム#181参照)の撤廃を宣言します。しかし、議会の反発を受け、この宣言の撤回を余儀なくされます。それでも懲りないチャールスは、1685年、死の床でカトリックに「改宗」するのです。
(以上、http://www.royal.gov.uk/output/Page92.asp(11月6日アクセス)による。)

チャールス二世の弟ジェームスは、1669年にみずからカトリックに「改宗」していましたが、兄死亡に伴いイギリス王位に就くことは議会に認められます。ジェームス二世です。
しかし、彼が就任早々矢継ぎ早に打ち出した親カトリシズム政策にイギリス世論の反感が次第につのっていきます。1688年、ジェームスの二度目の妻・・カトリック信徒・・が男子を産むと、爾後、イギリスにカトリック信徒の君主が永久に続きかねないことに世論は激しく反発し、ジェームスの最初の妻・・プロテスタント・・が生んだメアリーの夫、オランダ統治者たるオレンジ公ウィリアムが兵を率いてイギリスに上陸すると、イギリスの陸海軍はウィリアム側に組し、ジェームスは追放されてしまうのです。そしてウィリアム・メアリー夫妻が共同君主としてイギリスに迎えられます。名誉革命です。
 (以上、http://www.royal.gov.uk/output/Page97.asp (11月6日アクセス)による。)

(完)

太田述正コラム#0181(2003.11.3)
<イギリスのカトリシズムとの戦い(その2)>

 (コラム#179の誤り等を訂正したものをホームページ(http://www.ohtan.net)に再掲載してあります。なお、掲示板に台湾「独立」に関する読者の質問が投稿されていますが、ご返事が遅れています。あしからず。)

1 ジャコバイトの反乱

 今回はイギリスのカトリシズムとの戦いの最後を飾った大事件、1745(??46)年のジャコバイトの反乱をとり上げ、その後カトリック信徒が権利を回復するまでの苦難の歴史に触れることにします。
 英国ではザ・ラスト・ウォー(この前の戦争、最後の戦争)というと、イラク戦争や第二次世界大戦などではなく、英国本土で行われた最後の陸上戦争である1745(??46)年のジャコバイトの反乱(Jacobite Rising。JacobはJamesのラテン語)を指すことがあります。

 スコットランドはアイルランドとともに、欧州文明の一翼を担い、イギリス(アングロサクソン)文明と対峙してきました。
16世紀においてもスコットランド王室は、カトリックを擲ったイギリスに対し、カトリックの護持者を自認して対抗しました。
 ところが1603年、死去したエリザベス一世に子供がいなかったため、スコットランド国王のジェームス六世がジェームス一世としてイギリス国王に就任します。イギリスにおけるスチュアート朝の始まりです。
スチュアート朝の歴代国王は、イギリスの圧倒的な反カトリック世論に配慮しつつも、カトリックへのシンパシーを隠そうとはしませんでした。しかし、スチュアート朝の下でも、イギリス議会は(ヘンリー八世以来の)カトリック信徒弾圧諸法(Penal Laws)をどんどん強化して行きました。
イギリスとスコットランドは同君連合状態が続きましたが、1707年、両国は合邦します。しかしその実態は、イギリスによるスコットランドの併合以外の何者でもありませんでした。

 1745年8月、スコットランドの一カトリック司教の祝福を受けてスコットランドで反乱の旗が翻ります。反乱軍に結集したのは、主としてスコットランドのカトリック信徒系とイギリス国教会信徒(イギリスの外なのでAnglicanではなく、Episcopalianと呼ばれる)系の部族であり、スコットランドでも純粋なプロテスタントである長老派信徒(Presbyterian)系部族は基本的にイギリス側につきました。
「国」境を越えてイギリス深く攻め入った反乱軍は、12月にロンドンから120マイルのダービー市にまで達します。
 反乱軍の総帥は、1688年の名誉革命でイギリス及びスコットランドの王位を追われたジェームス二世(スコットランド国王としてはジェームス七世)の孫の当時弱冠24歳のチャールス(通称ボニー・プリンス・チャーリー。カトリック信徒。後に「チャールス三世」と僭称=Young Pretender)でした。
 彼は、断固ロンドンへ向けての進軍を主張したのですが、期待に反してイギリス「国」内からは援軍が得られず、背後からはイギリス軍が迫るという状況の下、フランス軍がイギリス南部に援軍として上陸する目前であったということを知る由もなく、気弱になった部下の部隊長たちの一致した反対にあい、涙を呑んで退却を決意します。
 その頃、ロンドンの国王ジョージ二世は、父ジョージ一世の出身地であり、領地でもあるドイツのハノーバーに逃げる準備を始めており、首相のニューカッスル公爵は反乱軍側への寝返りを決断しており、イギリス銀行では取り付け騒ぎ(ブラック・フライデー。これが元祖)が起こっていました。
 反乱軍が進撃を続けておれば勝利は間違いなかったのか、やはり勝ち目はなかったのかは微妙なところですが、翌1746年、スコットランドのカロデン(Culloden)の戦いで反乱軍は決定的敗北を喫し、チャールスはフランスの軍艦で欧州に逃げ帰ります。
 (以上、The  Bonnie Prince Charlie Country and the 1745 Jacobite Rising, Jarrold & Sons Ltd, Norwich 1985及びCulloden, National Trust of Scotlandによる。)

 銘記すべきはこの反乱の歴史的意味です。

(名誉革命後のウィリアム三世国王(=兼オランダ統治者)とメアリー二世女王(=ジェームス二世の長女)の共同統治体制による親オランダ政策の不人気、ウィリアム自身やその後を継ぐ予定のアン(メアリーの妹)に子供がいなかったこともあり、)カトリックに宥和的なスチュアート家の直系子孫からイギリス国王が二度と出ないよう、ジェームス一世の娘の更に娘であるソフィア及びその子孫のプロテスタント信徒でイギリス国教徒となった者しかイギリス国王(女王)になれないとした法律(Settlement Act)がイギリス議会によって1701年に制定された結果、元来王位継承順位が52番目に過ぎないハノーバーの選帝侯ゲオルグ(ソフィアの子)が1714年にジョージ一世としてイギリス国王に就任しました(http://www.1upinfo.com/encyclopedia/S/Settleme-1.html。10月18日アクセス)。
これに対し、名誉革命でイギリスから追放されたジェームズ二世(ジェームス一世の孫)の長男ジェームス(「ジェームス三世」と僭称=Old Pretender。彼自身も1708年と1720年に反乱未遂事件を引き起こし、1715-16年にはスコットランドを拠点として反乱を起こすが失敗している(前掲Culloden))の更に長男のチャールスが、ジョージ一世の後を継いだジョージ二世に対して戦いを挑んだ、というのがこの反乱の構図です。

スチュアート朝の直系子孫がこの反乱で最終的に敗れ去ったことにより、イギリスはヘンリー八世が1532年に開始したところの、カトリシズム、及びカトリシズムにシンパシーを持つスコットランド、との200年余にわたる戦いについに勝利を博したと言っていいでしょう。
1788年にチャールスの葬儀が、彼の生誕の地でありかつ亡命先のイタリアで、彼の弟の(カトリック)枢機卿のヘンリーによって執り行われますが、これは言うなれば、イギリスにおけるカトリシズムに対する葬送式典でした。
 
 その後、英国でカトリック信徒弾圧諸法が廃止されるまでは、次のように長い年月がかかっています。
1778年:カトリック信徒による土地の相続、売買が解禁される。
1791年:カトリック信徒に対し、忠誠の宣誓を条件として上記以外の権利制限の多くが撤廃される。
1793年:陸軍、海軍、大学、及び司法界がカトリック信徒に開放される。ただし、議会の議席は引き続きカトリック信徒にはオフリミットだった。
1829年:議会の議席がカトリック信徒に開放される。
 しかし、Settlement Actは現在でも生きており、カトリック信徒は依然イギリス国王(女王)にはなれません。
(以上、http://www.1upinfo.com/encyclopedia/C/CatholicEm.html(10月18日アクセス)による。)

(続く)

太田述正コラム#0172(2003.10.19)
<イギリスのカトリシズムとの戦い(その1)>

(コラム#169と171について、読者とのやりとりが、それぞれ私のホームページ(http://www.ohtan.net)の掲示板にあります。関心のある方は参照してください。)

1 法王ヨハネ・パウロ二世批判

 法王ヨハネ・パウロ二世が就位25周年を迎えましたが、米国のメディアでは同法王に対して中立的な論調が多い(例えば、http://www.nytimes.com/2003/10/17/international/europe/17POPE.html(10月17日アクセス))のに対し、英国のメディアでは同法王に批判的な論調が目に付く、という興味深い傾向が見られます。
英ガーディアン紙に掲載されたポリー・トインビーのコラムhttp://www.guardian.co.uk/comment/story/0,3604,1064740,00.html(10月17日アクセス))は、同趣旨のBBCの報道番組を引用しながら、とりわけ厳しく同法王を批判していますが、その批判の要旨は次の通りです。

 第一に同法王が、堕胎への反対が高じ、人工妊娠中絶はもとよりコンドームの着用にすら反対していることが問題だ。念の入ったことに、エイズウィルスはコンドームを透過することが科学的に証明されたという謬説まで同法王は掲げてコンドームの着用に反対している。(その証拠を開示しようとしない以上、謬説と言うほかない。)その結果アフリカや中南米においてもたらされたのが、エイズの蔓延と人口爆発による社会崩壊だ。
 第二の問題は、同法王が性の忌避という禁忌にいまだにとらわれていることだ。その結果神父の少なからぬ部分は同性愛に走り、また他の少なからぬ部分は少年・少女愛=児童虐待に走ってスキャンダルを引き起こしている。
(ここ十年来、米国、アイルランドを始めとする計17の国と地域でカトリック神父による児童虐待が明るみに出ているが、同法王の対応は極めて微温的であり、例えば司教区での100件もの児童虐待を隠蔽したボストン大司教のバーナード・ロウは、大司教を解任されたがいまだに枢機卿であり続けている。神父による児童虐待が頻発したため、米国では教会文書は証拠として用いないとの慣例が崩れてしまったという有様だ(http://www.taipeitimes.com/News/edit/archives/2003/10/17/2003072161(10月17日アクセス))。また、広義には性の禁忌に入るが、同法王は女性の神父への叙任にも反対し続けている(ニューヨークタイムズ前掲)。)
 第三の問題は同法王が、法王庁が世界の宗教団体の中で唯一異例にも国連に加盟している現状を容認していることだ。宗教は個人の内心にのみ関わるべきなのに、カトリックはいまだに政治に関わっている。

 このほか、私があげたいのが聖人化の問題です。すなわち、
 第四の問題は、同法王が過去四世紀間の総数に並ぶほど多数のカトリック信徒たる故人を聖人化した(ガーディアン前掲)ことに関わる。数の多さ自体が問題なのではなく、奇跡を生前に行った者だけが聖人になりうる、という非科学的な考え方を維持しながら、なおかつ多数の故人を聖人化した(できた)ことが問題。

 実際法王庁は国連に加盟しているだけでなく、例えば中国の執拗な要求をはねつけ、中国ではなく台湾との外交関係を維持し続けており(http://j.peopledaily.com.cn/2003/10/17/jp20031017_33253.html。10月19日アクセス)、宗教団体であるにもかかわらず、国際政治のアクターとして積極的に世俗的世界と関わっています。こんな非近代な代物が21世紀にもなっていまだに生き残っていることは、アナクロニズム以外のなにものでもありません。
 そのカトリックが、第三世界でいまだに信者の数を増やし続けています。
他方幸いなことと言うべきか、カトリックは(ポーランド等一部の国を除いて)欧州では急速に廃れつつあるように見えます。
廃れつつあるだけではありません。1981年には法王庁のお膝元のイタリアでさえ、法王の反対を無視して国民投票で堕胎を合法化しましたし、仏蘭独及びベルギーでは、同じく法王の反対を無視して同性のカップルに法的な権利と保護を与えるに至っています。(英国ではまだそうなってはいない。)(以上、http://www.nytimes.com/2003/10/13/international/europe/13CHUR.html(10月13日アクセス))による。)
しかし、元アイルランド首相のジョン・バートンの「欧州の現在の世俗的非寛容の度合いは、過去における宗教的非寛容の度合いに勝るとも劣らない」との言(ニューヨークタイムズ上記)が示唆しているように、カトリックだけでなくプロテスタントも同時に廃れつつある欧州における昨今の上記動向は、むしろ世俗的非寛容の押しつけと見るべきであり、過去のカトリシズムの押しつけと同工異曲の、カトリシズム的宗教原理主義の発現形態だ、と私は考えているのです。

 英国のメディアがヨハネ・パウロ二世を批判する背景には、数世紀にもわたるイギリス(スコットランドやアイルランドを除いた英国)とカトリック教会=法王庁との死闘の歴史があります。これから折に触れて、その歴史を振り返ってみたいと思います。

(続く)

太田述正コラム#0095(2003.1.19)
<原理主義化するキリスト教(その2)>

 前回(コラム#93)ご紹介したフィリップ・ジェンキンスの指摘を要約すると、「宗教原理主義」とは「宗教によって社会、そして時として政治を律しようとする思想」であり、キリスト教にあっては、キリスト教発生時のような終末論的不安感の下で戦乱・貧困・疾病等に苦しむ信徒達が、その「救い」を、国家に代わり、信徒の絶対的な帰依・服従の対象たるキリスト教指導者達が、奇跡等によってもたらしてくれることを期待する考え方であるところ、世界最大の宗教であるキリスト教は、世界的に進行している都市化現象の下、ますます他の宗教を引き離して信徒が増えてきており、しかもそのキリスト教は全般的に原理主義化しつつある、ということです。

 ところで、(キリスト教だけが名実ともに世界宗教となり、かつ世界最大の宗教となったのはなぜかという難問はさておき、)なぜキリスト教の信徒が、現在もなお他の宗教を上回るペースで増え続けているかということについては、ジェンキンスは識字率が世界的に上がってきたことがあずかっている、と言っています。すなわち、最も人口及び人口増加率の大きい第三世界において、アラビア語で書かれたコーランの使用しか認めないイスラム教よりも、あらゆる言語への新旧約聖書の翻訳を奨励するキリスト教の方が、識字率が向上し、「救い」にも理知的なものを求めるようになった人々の欲求により的確に応え、これが更なる識字率・知的水準の向上につながるという好循環をもたらしているからだ、というのです。(なお、コラム#87で第三世界にイスラム教が普及した理由について私見を述べているので参照してください。)

 ここで、キリスト教が原理主義化しつつあるということの意味をもう少し補足しておきましょう。
 最初に、聖書を読んだことのない読者や読んだことはあるけれど内容を忘れてしまった読者のための私による蛇足ですが、新約聖書にはイエスが病人や非健常者を奇跡を起こして(悪霊払いで、と言い換えてもよろしい)治癒する話が次々に出てきます。熱病等の治癒(マタイによる福音書8-14~17)、中風の治癒(同9-6~7)、盲人の治癒(同9-27~30)、おしの治癒(同9-32~33)、てんかんの治癒(17-13~18)等々です。また、貧困(空腹)の解消については、イエスがパン五つと魚二匹を増やして五千人を満腹させた話等が出てきます(同14-16~22)。
 脱宗教的傾向の強い欧州や米国(のエリート)のキリスト教信徒の間では、こういった類の話は額面通り受け止めるべきではなく、比喩的に受け止めるべきであるという考え方がもっぱらであり、それにあきたらない人の中には科学的に説明しようとする学者さえ出てきています、例えば、病人の治癒について、最近米国で出された説は、イエスが患者への塗油の儀式の際に用いた油にインド麻(cannabis。その乾燥した花からマリファナ、ハシーシを採る)から抽出された成分を入れたことにより、プラシーボ効果とあいまってその患者の症状が緩和されたり病気が治癒されたのではないかというものです(http://newssearch.bbc.co.uk/2/hi/health/2633187.stm。1月6日配信、1月9日アクセス)。
 また、欧州(とりわけイギリス)や米国(のエリート)のカトリック教徒の間では、米国のカトリック司教による一連の少年虐待(少年愛)事件を契機として、同性愛の罪悪視、神父の独身主義、女性の神父登用禁止、教会の運営への一般信徒の非関与、といったこれまでのカトリック教会の方針を転換するよう求める声があがっています。
 しかし、「南」のキリスト教信徒達の大部分は「奇跡」を否定するに等しい、上記の比喩説や科学的説明を頭から拒絶していますし、カトリック教会(教皇庁)は既に「南」の影響下にあるとされており、上記のカトリック教会改革論をアングロサクソンだけに見られる極端な声として無視する一方、むしろ教会の伝統的規律や価値観の復興を図る必要があるという構えです(http://newssearch.bbc.co.uk/2/hi/europe/2639413.stm。1月8日アクセス)。
 キリスト教が原理主義化しつつあるというのは、こういうことなのです。

 以上のようなキリスト教信徒の増加とあいまったキリスト教の変容は、いかなるインパクトを世界情勢に与えるのでしょうか。
 一つは、キリスト教信徒と他の宗教の信徒、とりわけイスラム教信徒との間での紛争の増大・先鋭化です。
 スーダンでは、北部のイスラム教信徒を中心とする政府と南部のアニミズム信徒ないしキリスト教信徒との間の紛争とこれに伴う飢饉によって、150万人が命を落としました(http://education.yahoo.com/reference/factbook/su/index.html。1月19日アクセス)し、ナイジェリアのキリスト教信徒とイスラム教信徒との争いでは100万人が死亡しました。フィリピンやインドネシアにおける両信徒間の争いもよく知られています。
 ナイジェリアにせよ、インドネシアにせよ、産油国でもあることから、こういった紛争に欧米や日本がもっと関心を持ってよいはずであるところ、両国とも中東ほど戦略的に重要な地域に位置していないため、強い関心を呼んではきませんでした。
しかしその中東においても、従来見られなかったような形で両信徒間の争いが起こり始めています。昨年11月にレバノンで一名のキリスト教伝道活動従事者が殺され、昨年末にはイエメンで三名が殺され一名が重傷を負うという事件が起こりました。この背景には、この10年間で、中東における米国系の伝道活動従事者の数が数百から2??3千人に増えていることがあげられます(http://www.latimes.com/news/nationworld/world/la-fg-mission1jan01,0,5407665.story?coll=la%2Dheadlines%2Dworld。1月1日アクセス)。
もう一つは、キリスト教内部の「南」「北」対立の顕在化です。
これがどのような経過をたどるのかは今後の問題ですが、米国内における被治者たる「南」と治者たる「北」の対立が顕在化し、「革命」が起こるといった可能性もまんざら絵空事ではないのかもしれません。

このように見てくると、世界で最も脱宗教化が進んでいると言ってもよい日本の役割にはきわめて大きいものがあります。
脱宗教化が必ずしも倫理や自己規律の荒廃をもたらすものではないことは、江戸時代の武士や町民の倫理観や自己規律の精神を思い起こすだけで明らかです。宗教を習俗化し、日常生活にアクセントをつけ、彩りを添えるという面・・例えば初詣、七五三、お伊勢まいり、等々・・でも日本は世界で先鞭をつけてきました。
ですから日本は自らを模範とし、アングロサクソンや欧州諸国と手を携えて、世界の宗教原理主義とたたかい、世界の人々を脱宗教化の方向に向けて先導する義務がある、と私は考えるのです。

(完)

太田述正コラム#0093(2003.1.13)
<原理主義化するキリスト教(その1)>

 20世紀がイデオロギーが終焉を迎えた世紀であり、或いは私の言うところの、アングロサクソン文明と欧州文明のせめぎ合いに最終決着のついた世紀だとすれば、21世紀は宗教原理主義と脱宗教主義のせめぎ合いに最終決着のつく世紀になるのではないかと私は考えています。
 ここでいう「宗教原理主義」とは、「宗教によって社会、そして時として政治を律しようとする思想」をさしています。
 原理主義的傾向がある宗教としては、ユダヤ教、イスラム教、そしてヒンズー教がすぐ思い浮かびます。
 (仏教については、日本の現在の仏教には日蓮宗系の一部宗派を除いて、ほとんど原理主義的傾向は見られませんが、小乗仏教の一部(タイ)やかつてのラマ教(チベット、モンゴル)には原理主義的傾向が見られます。)
 総じて、現時点では「北」の国々では脱宗教的傾向が強いのに対し、「南」の国々では宗教原理主義的傾向が強いと言っていいでしょう。
 その「南」の宗教原理主義の中で、かねてから一番話題になっているのがイスラム原理主義であり、パレスティナ紛争、カシミール紛争、対テロ戦争やインド国内でのイスラム教とヒンズー教徒との間の殺し合いには、すべて何らかの形で現時点ではイスラム原理主義由来のイスラム過激派が関わっているといってもいいでしょう。

 ここで、世界最大の宗教であるキリスト教におけるキリスト教原理主義の存在を忘れていやしないかと声を大にしているのが米ペンシルベニア州立大学歴史学・宗教学教授のフィリップ・ジェンキンスです。

 彼の論旨を、私見を織り交ぜつつ要約すると次のようになります。
(Philip Jenkins, The Next Christianity The Atlantic Monthly, October 2002(http://www.theatlantic.com/issues/2002/10/jenkins.htm。1月7日アクセス)及び Interviews――Christianity's New Center, Atlantic Unbound , September 12, 2002 (http://www.theatlantic.com/unbound/interviews/int2002-09-12.htm。1月9日アクセス)を参照した。これ以外の典拠によった箇所はその都度典拠を明示した。)

欧州諸国もイギリスも、ますます非宗教的な社会になりつつあります。例えばポーランドでは、宗教敵視政策がとられていた共産主義時代が終わったというのに、むしろ現在の方がカトリック教会に行く人は減っています。(他方、ロシアではロシア正教が活性化しています。この点だけをとっても、ロシアは欧州には属さないように思えます。なお、イギリスの脱宗教化の度合いは欧州諸国に比べれば「遅れて」います(太田)。)
米国(北米と言い換えてもよろしい)では中南米系とアジア系の人々がどんどん増えており、その大部分はキリスト教系なので、米国は従来にも増して一層キリスト教社会になりつつあります。ただし、キリスト教社会とはいっても、米国は二つに分断された社会であって、イースターやクリスマスを祝うだけの習俗化(=脱宗教化)したキリスト教徒である少数のエリートと、キリスト教原理主義の敬虔な信徒である圧倒的多数の大衆に分かれています。
 目を「南」(基本的に第三世界の地域と言ってもよろしい)に転じれば、現在、中南米に4億8千万人、アフリカに3億6千万人、アジアに3億1千3百万人にものぼるキリスト教徒がいます。(これに比べ、北米ではわずか2億6千万人です。)この「南」のキリスト教徒は、人口増加率を超えるスピードで増え続けています。例えばアフリカでは、キリスト教人口は1900年には総人口の9%に過ぎなかったのに、現在では46%も占めています。
しかも、これら「南」地域の人口増加率は「北」に比べて大きいので、キリスト教人口の南北格差は今後開く一方なのです。2025年までにはキリスト教人口の三分の二をアフリカ、中南米、そしてアジアが占めることになるでしょう。とりわけカトリックでは、現在でも「北」が少数派に転落しており、2025年までには「南」が四分の三近くを占めることでしょう。更に、米国(北米)のところでも触れたように、「南」から「北」に移民が押し寄せており、これら移民の子孫を含め、北米のみならず欧州(及び英国)においても、「南」のキリスト教のバックグランドを持った者の相対的な数がどんどん増えていることを忘れてはなりません。

これら「南」のキリスト教は、その大部分が既に原理主義であるか原理主義化しつつあるといっても過言ではないのです。原理主義とは、キリスト教発生時の原始キリスト教の姿に戻ろうということであり、終末論的色彩が強く、貧困や病に対し奇跡(ないし悪魔払い)による解決を期待し、宗教上の指導者(就中「預言者」)に絶対的に帰依・服従するということです。
カトリックでも、英国教でも、「南」では原理主義化しつつありますし、20世紀初頭に米国で生まれたペンテコスタル派は原理主義キリスト教であり、「南」にもすさまじい勢いで広まりつつあります。同派の信徒は現在4億人ですが、2040年までには10億人に達する勢いであり、その時点で同派だけで仏教徒の総数をはるかに上回り、ヒンズー教徒の総数と拮抗する可能性があります。

なぜ「南」のキリスト教は原理主義化するのでしょうか。それは、今日の「南」地域がキリスト教生誕当時の中東と環境が似通っているからです。その環境とは、国家的秩序の未成熟ないし弛緩、それに伴う戦乱、病、貧困の猖獗、そしてこれらと同時並行的に進行する広範な都市化です。このような環境下では、人々は地域、種族、文化等の紐帯を失ったデラシネ状態で裸で艱難辛苦の中に投げ出され、個々人が己の「救い」を求めざるを得ません。国家に代わって、このような「需要」に最も適切な形で応え、そして現在もまた応えているものこそキリスト教なのです。

(ゾロアスター教にせよ、この「二神論」が「純化」したとも言いうる、(キリスト教と同根の)一神教たるイスラム教にせよ、それぞれ時期は違いますが、中東において都市化が急速に進展等の条件をみたした地域で生まれた「世界」宗教です。にもかかわらず、真に世界的な宗教として「勝利」をおさめたのはキリスト教でした。それはなぜか、ということは、ローマ史、欧州史、アングロサクソン史全般と関わる巨大なテーマであり、別の機会に論じたいと思います。)

(続く)

時事コラム

2001年12月18日 
<太田述正コラム#0006>
民主主義とキリスト教 
            
 米国人がナイーブだなと思うのは、キリスト教なくして民主主義は成立し得ないと思いこんでいるだけでなく、そう公言する人が相当のインテリの中にも多数見受けられることです。英国人は、大人ですから、仮にそう思っているとしても、そんな得にもならないことは決して口にはしません。
 ちなみに、米国人がキリスト教と言う場合、ギリシャ正教は含まれません。もっとも、WASP(白人でアングロサクソンでプロテスタント=かつての米国の多数派)系米国人にしてみれば、カトリックも含まれないと言いたいところなのですが、それではカトリック教徒の米国人や大部分がカトリック教徒であり、米国の裏庭たる中南米の人々がおさまらないので、さすがにそこは口を濁します。
 このナイーブな米国人インテリの典型が占領期日本の連合国軍最高司令官マッカーサーです。
 マッカーサーは、日本がキリスト教化されるまでは日本における民主化は成功しないと信じており、日本がキリスト教化されるだろうという希望と信念を持ち、その目的に向かってできるかぎりの努力をしていることを隠そうとはしませんでした。(ウィリアム・P・ウッダード「天皇と神道?GHQの宗教政策」サイマル出版会1988年(原著は1972年)283頁)
 このマッカーサーの思いこみが二重に誤りであること・・日本は戦前において既に民主化されていた(拙著「防衛庁再生宣言」第5章参照)し、いずれにせよ日本の民主化はキリスト教抜きでなしとげられたこと・・は、あえて申し上げるまでもありますまい。
 時代が下がり、著書「文明の衝突」(1997年)の中で同時多発テロ等を予言したとして、現在改めて注目を浴びているハンチントン教授もまた、ナイーブな米国人インテリの典型にほかなりません。
 というのは彼が、「文明の衝突」の中で、韓国の総人口に占めるキリスト教徒の割合は1950年には恐らく1-3%に過ぎなかったのに、それが1980年代までには30%に増大したし、中国でもキリスト教徒が著しく増加しつつある(原著ペーパーバッグ版98-99頁)とうれしげに記述した上で、フィリピンではカトリックと米国の強い影響の下で1980年代に民主主義への復帰を果たし、キリスト教徒たるリーダー達が韓国と台湾の民主化運動を推進した(同192-193頁。同238頁)と述べているからです。
 ハンチントンが、日本とインドの民主化の説明に窮して、日本では天皇が神であって欧米のような政教分離の伝統はなかったが封建制があったからだと言い、インドでは非西欧で唯一、政教分離の伝統があり、かつカースト制があったからだと言っている(同70、77頁)のはご愛敬です。
 日本が、かくの如き「キリスト教原理主義者」を多数抱える米国と「世界で最も重要な二国関係」にあるという現実を、忘れないようにしたいものです。

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