カテゴリ: 原子爆弾

太田述正コラム#4454(2010.12.23)
<ハセガワとベーカーの本(その8)>(2011.3.28公開)

 第五の証拠は、1945年8月17日に発せられた「陸海軍人へ勅語」(PP250)ですが、これについては、以前(コラム#4106で)記したところに譲ります。

 さて、ハセガワは、日本が降伏するまでの、数日間の日本の政府部内での、いわゆる国体論争について詳述していますが、ここでは深入りを避けることにします。
 下掲の外務省の比較的初期に打ち出されたラインで最終的に日本は降伏することになった、ということを頭に入れておけば十分でしょう。

 「8月9日の朝、・・・<日本の>外務省は、・・・<早くも、>国体を皇室の維持として狭く定義することとした。」(PP197)

 一点だけ補足します。
 日本政府が8月9日の御前会議で「国体の護持」を条件にポツダム宣言の受諾を決定し、8月10日に連合国に中立国を経てその旨を通告した翌11日、米国政府は「日本の政体は日本国民が自由に表明する意思のもとに決定される」とし、また「降伏の時より、天皇及び日本国政府の国家統治の権限は降伏条項の実施の為其の必要と認むる処置を執る連合軍最高司令官に従属する(subject to)」と回答しました(「バーンズ回答(Byrnes Note)」)。
 "subject to"の訳については「制限の下に置かれる」とする外務省と「隷属する」とする軍部の間の対立があり、軍部強硬派と平沼騏一郎枢密院議長が国体護持について再照会を主張したため、8月14日に改めて御前会議を開き、宣言受諾が決定されたわけです。(PP227〜240)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%84%E3%83%80%E3%83%A0%E5%AE%A3%E8%A8%80
 しかし、11日の昼の時点で、天皇は、木戸内大臣に対し、「バーンズ回答は「日本国民が自由に表明する意思」に言及しているのだから、自分としては何の問題も見いだせない。もし国民が皇室を今でも信頼しているのであれば・・自分はそう思うが・・、この条件は皇室をむしろ強固にするだろう。」(PP231)という趣旨のことを述べています。
 このことも、昭和天皇が、戦前・戦中の日本が自由民主主義的国家であって、皇室は、国民の信頼の下で存在している、という認識を持っていたことを裏付けるものです。

3 中締めに代えて

 このハセガワの本は、まだ続きますが、このあたりで、その紹介は中締めにしたいと思います。

 原爆投下ではなくソ連の参戦こそが日本の降伏をもたらした、とのハセガワの主張には抗いがたいものがあります。
 しかし、第二次世界大戦史、ないしは20世紀東アジア史関係の学者を除けば、まだまだかかるハセガワの主張は、英語圏のインテリの間に浸透していません。
 その良い例が、別のシリーズ(コラム#4446以下)でとりあげたばかりのイアン・モリスです。

 「・・・歴史全てを通じての最も大きな過小表現<(2番目のものについては、コラム#4450参照)>として彼が票を入れたのは、日本の天皇が長崎に原爆が投下された時に示した反応であるところの、「戰局必スシモ好轉セス」
http://homepage1.nifty.com/tukahara/manshu/syusensyousyo.htm (太田)
だ。
 モリスは、(核兵器<の出現>により、)史上初めて「<政治的>リーダーシップが真に決定的<に重要>なものになった」と主張する。・・・」
http://www.telegraph.co.uk/culture/books/bookreviews/8176576/Why-the-West-Rules-For-Now-The-Patterns-of-History-and-What-They-Reveal-About-the-Future-by-Ian-Morris-review.html
(12月18日アクセス)

 この箇所だけでも、モリスが西側世界の古代史以外については、とりわけ東側世界の現代史についてはシロウトである(コラム#4452)ことが分かります。
 自分が通暁していない分野について言ったり書いたりする場合に、最新の主張等にあたるという最低限の努力をモリスは払っていないのですから何をか言わんやです。
 すなわち、「戰局必スシモ好轉セス(as the military situation does not develop in our favor)」は、長崎への原爆投下に対する天皇の反応ではなく、終戦の詔勅の一部分ですし、日本の終戦、すなわちポツダム宣言の受諾は、ハセガワの主張によれば、広島と長崎への原爆投下によってもたらされたものではありません。
 また、終戦の詔勅には天皇の筆は全く入っておらず、「戰局必スシモ好轉セス」は、内閣書記官長の迫水久常が執筆した原案の「戦勢日に日に非となり(as the military situation is becoming unfavorable day by day)」を、阿南陸相が、少しでも日本の将校達、とりわけ、(内地のような悲惨な状況にまだ必ずしも陥ってはいなかった地域も少なくなかったところの、)海外の帝国陸軍の将校達に終戦を受け入れ易くさせるために、米内海相の反対を押し切って修正させたものです。(ハセガワの本、PP244)
 更に言えば、このくだりは、「赤露」の抑止を国家戦略の基本としてきた日本が、この、米英のためにも、ひいては世界のためにも資していると自負していた国家戦略を放棄させられ、「赤露」の東アジアでの大伸張を必然的にもたらすであろうことに対する悲痛な思いと受け止めることができるところの、「朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス」
http://homepage1.nifty.com/tukahara/manshu/syusensyousyo.htm 前掲(太田)
という、終戦の詔勅のもう1つのくだりと結果的に平仄があっているのであって、両者は併せて読まれなければならないのです。
 このくだりをモリスが嘲笑的に取り上げたことについては、自らを省みて物を言え、と強く非難されてしかるべきである、と私は思います。
 この関連で、モリス自身が自分の件の本を紹介した文章の中で記している下掲についても、私は問題にせざるをえません。

 「・・・英国が派遣した自由交易<を求める、マカートニー(George Macartney)率いる>大使節団を1793年に<清の乾隆帝が>拒否した
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%8B%E3%83%BC (太田)
のは支那にとって大災厄だった。
 <清が>珠江と揚子江の三角州を<アヘン戦争の際に>1840年に英国の戦闘艦艇群に対して要塞化することに失敗したのは、もっとひどい大災厄だった。
 そして、日本が1941年に真珠湾を攻撃したことは、<東が犯した大災厄中、>最大のものだ。
 これらを含む無数の機会に、より良い意思決定がなされておれば、東にとって巨大な見返りがあったというのに・・。・・・
 米国の軍事の力を国際秩序の保証のために用いることは、同じように重要だ。
 これは高価な重荷だけれど、台湾と韓国の平和を60年近くにわたって維持してきたのは米国の武器だし、およそ何かがそれをなすとすれば、米国の武器が支那の21世紀における興隆を平和的なものとして維持することだろう。・・・」
http://www.csmonitor.com/Commentary/Global-Viewpoint/2010/1221/The-next-40-years-will-be-the-most-important-in-human-history
(12月22日アクセス)

 まず最後の段落からですが、日本帝国は、割譲を受けてから台湾の平和を50年、保護国化してから朝鮮半島の平和を40年、にわたって維持してきたのを、米英が日本帝国を瓦解させたために、米国が、戦後、その日本の役割を(北朝鮮を除いて)代行してきただけのことであり、また、米国が支那の興隆を平和的なものとして今後とも維持できるかどうかは、未知数です。
 さて、肝腎の、「日本が1941年に真珠湾を攻撃したことは、<東が犯した大災厄中、>最大のものだ。」という傑作なくだりは、モリスがイギリス人である以上は、当然、「英国が米国をして日本が対米英開戦をすべく画策し、それに成功し、日本が1941年に真珠湾を攻撃したことは、<イギリスが犯した大災厄中、>最大のものだ。その結果として大英帝国は瓦解してしまった」であってしかるべきでした。
 どうやら、モリスは、20世紀史に関しては、チャーチルを称えるただのおっさんであった(コラム#4437)、ということになりそうです。
 なお、そもそも日本を「東」の一環とすることは、イギリスを「西」の一環とすることと同じく間違いである、ということを最後に指摘しておきたいと思います。

(完)

太田述正コラム#4444(2010.12.18)
<ハセガワとベーカーの本(その7)>(2011.3.27公開)

 (表記のシリーズ、コラム#2675(2008.7.18)の「その6」までで中断していたところ、MSさんから続けて欲しいとの要望があり、再開することにしました。
 コラムの書き方、というか体裁が変わってしまったけれど、あしからず。(太田))

 「<モロトフが対日宣戦布告を佐藤駐ソ大使に伝えた際、>ソ連は、連合国がソ連政府にポツダム宣言に加わるよう求めたと主張したが、それは厚かましい嘘だった。」(PP191)
 「<そのこともあったが、中国政府との合意なくして参戦しないとスターリンがトルーマンに約束していたのに、この合意なくしてソ連が対日参戦したことに、トルーマンは<特に>裏切られた思いがした。>
 トルーマンは、日本を降伏へと追い込む競争においてソ連に勝とうとしていた。
 彼は、切り札である原爆を使うことができたけれど、にもかかわらず、ソ連はこのゲームに加わってきたのだ。」(PP193)
 「ニューヨークタイムスは、「米軍部その他米政権部内では、広島で示された原爆の恐るべき効果が、ロシアの参戦を早めたことに疑いの余地はないと認識されていた。」とし、それに続けて、「この時点でのロシアの宣戦は、トルーマン大統領以下、米国政府にとっては驚きだった。」と報じた。」(PP194)
 「2番目の原爆を投下するとの決定は、7月25日になされていたが、ソ連の参戦によって、この予定を変更すべきであると考えた者は<、米政府内に>誰もいなかった。」(PP194)

→この時点で、冷戦は、事実上既に始まっていたのです。(太田)

 「<しかし、>広島への原爆投下ではなく、ソ連の攻撃こそが、<日本の>政治的指導者達をして、ポツダム宣言を受諾して戦争を終わらせなければならないと確信させたのだ。」(PP198〜199)

→ハセガワは、以下、この主張の証拠を列挙していきます。(太田)

 「陸軍の上層部と関東軍においては、ソ連の攻撃の可能性はあるけれど、それは起こらないだろうという希望的観測が支配的だった。」(PP199)
 「<参謀次長の>河辺<虎四郎(1890〜1960年
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E8%BE%BA%E8%99%8E%E5%9B%9B%E9%83%8E (太田)
)>は、<広島への原爆投下を知った>8月7日には「ひどい刺激を受けた」と<日記に>記<すにとどまったのに、>・・・<ソ連軍の侵攻を知った>8月9日には・・・「ソ連はついに立ち上がった!」<と感嘆符をつけて日記に記している。希望的観測が完全に裏切られたわけだ。>」(PP200)

→これが第一の証拠だというわけです。(太田)

 「8月9日に・・・長崎に2番目の原爆が投下され<た。>」(PP201)

 「最高戦争指導会議<で、日本政府及び軍部の>6首脳が、ポツダム宣言をどうすべきか、白熱した議論を行っている最中に<このニュースが入った。しかし、>長崎への原爆投下は、ほとんど議論の中身に影響を及ぼさなかった。」(PP204)
 「<陸軍は、捕虜の尋問を通じて、次の原爆投下の対象は東京かもしれない、米国がまだ100個の原爆を保有している可能性がある、という情報<(注1)>を得、これを閣議で開陳したが、>このニュースに閣僚達はさして関心を示さなかった。」(PP208)

 (注1)米国は、長崎の次にどの都市を原爆投下の対象にするか決めていないかったばかりか、そもそも、引き続き原爆を広島、長崎で行ったように戦略目的で使うのか、日本侵攻作戦を実施する際に戦術目的で使うのかさえ決めていなかったので、東京云々という話は全く根拠がないし、次の原爆は8月第3週に投下可能だったが、その次は9月に3個、10月に3個投下できたにとどまるので、100個の原爆というのも全くのデタラメである。
http://en.wikipedia.org/wiki/Atomic_bombings_of_Hiroshima_and_Nagasaki
 大事なことは、これほど途方もない話を聞かされた閣僚達が、少しも動じた様子がなかったことだ。(太田)

→これが第二の証拠だというわけです。
 ここで、原爆投下とソ連の参戦を、当時の米国政府側がどう受け止めたかにハセガワは触れています。(太田)

 「<米国時間の>8月10日の閣議の際、トルーマンは、彼の許可無くして更なる原爆投下をしないよう命じた。「トルーマンは、もう一度100,000人の人々を一掃することを考えることは身の毛がよだつと語った。彼は、「子供達をみんな」殺すという観念を好まなかったのだ。」(PP202)

→原爆投下にもかかわらずソ連が早くも参戦した上、原爆の非人道性を数字でもって突きつけられたのですから、トルーマンはダブルパンチを食らったような思いであったことでしょう。
 さて、証明は続きます。(太田)

 「<8月9日の御前会議でポツダム宣言を基本的に受諾する聖断が下りる(注2)。>」(PP213)

 (注2)降伏条件で政府・軍部首脳は議論がまとまらなかったが、8月9日、御前会議が始まる前、天皇は木戸内大臣に、「早急に事態を収束させよ…ソ連が日本に宣戦布告したからだ」と命じた、という『木戸幸一日記』(1966年)(1223p)の記述(ウィキペディア上掲)を、どうしてハセガワが引用していないのか、不思議だ。

 「<8月13日、<海相の>米内は、・・・「<2度の>原爆投下とソ連の参戦は、ある意味で、天の配剤だ。・・・終戦を私がこれまでずっと推奨してきたのは、…国内情勢への心配からだ。だから、我々が、国内情勢を俎上に載せることなく戦争を終えることができるのはむしろ幸運なことだ」と語っている。・・・
 <同じく、首相の>鈴木は、<阿南陸相から御前会議開催を2日延期して欲しいとの申し入れを拒絶した、阿南が退去した後、第三者から、どうして延期できないのかと問われた際、>「それはできない。本日を逃せば、ソ連が満州、朝鮮、樺太だけでなく北海道もとるだろう。我々は米国と交渉できるうちに戦争を終えなければならないのだ」と答えている。」(232、237)
 「<同日、国体に係る質問に対する米国政府からの回答を踏まえて、再度御前会議が開かれ、再び政断が下って、日本は降伏を決定する。>」(240)

→これが第三の証拠だというわけです。
 私としては、注2で引用した昭和天皇の言を、第四の証拠である、と言いたいところです。(太田)

(続く)

太田述正コラム#4120(2010.7.9)
<原爆論争(その7)>(2010.11.14公開)

 コンラッド・クレーン「米国による日本及び朝鮮半島南部の占領−比較の観点から−」の抜粋紹介

 「・・・<米陸軍の>軍政学校における多くの議論において、「静かな朝の国」<(朝鮮)>が対象とされたことはなかった。そして陸軍の方針においては、軍政学校における朝鮮語の学習を禁止さえしていたのである。ある軍政関係者のひとりは、訓練中の12ヵ月間で3つのプログラムを受講したが、朝鮮についてはたった1時間の講義があっただけだと振り返っている。占領軍は、自らの行動や活動の基礎となる、朝鮮に関する研究や調査を行う機関を持っていなかった。・・・
 朝鮮半島に上陸した<米>第24軍団・・・<においては、>事前の計画は立てられておらず、当局の指示もなかった。さらに、司令官から下級の兵卒まで、占領軍のなかには占領者としての訓練を受けた者がひとりもおらず、ましてや、言語や文化などがまったくの謎でしかなかった国の統治責任者たりうる資格を有している者などいなかったのである。
 米国務省<も>・・・日本向けのような公式の政策ガイドラインが策定されていたわけではなかった。戦略諜報局も、マッカーサー司令官の情報部も、南朝鮮にそれほどの注意を払っていなかったのである。
 当初は南朝鮮もマッカーサーの管轄下に置かれていたが、関心は次第に日本へ傾いていった。マッカーサーの月次SCAP報告書は、初期のころには日本と南朝鮮の双方に言及していたが、1946年には完全に、日本のみに焦点があてられるようになっていた。・・・
 米国との協力において、日本人が持っていたのと同じような動機を朝鮮人は持っていなかった。政府のサービス業務に就く朝鮮人は、スキルも経験も不足していた。・・・
 南朝鮮では、新たに政府を設立しなくてはならなかった。多くのグループが権力の獲得に挑むと同時に、競争相手の追い落としを図っていた。その統治能力に米国が感心するようなグループはひとつもなかったのである。しかも、米国の占領に抗議することはまた、運命を自らコントロールすることに心がはやる民衆の人気を勝ち取る方法でもあった。・・・」
http://www.nids.go.jp/event/forum/pdf/2007/forum_j2007_07.pdf

→こういう状況下で、しかも、米軍が撤退した後に北朝鮮軍が韓国に攻撃をしかけてきたわけです。
 米軍に至れり尽くせりの扱いを受けた戦後日本と、放置されたに等しい戦後南朝鮮(韓国)のしかし、どちらが幸せだったのか、このまま日本が属国であり続けたとすれば、後者に軍配があがりかねません。(太田)


 立川京一「日本の捕虜取扱いの背景と方針」の抜粋紹介

 「・・・太平洋戦争が開戦し、双方に捕虜が発生し始めると、米国、英国など交戦相手国から、日本には俘虜待遇条約を適用する意思があるのかどうかについて照会があった。それに対して、日本は俘虜待遇条約の「準用」(apply mutatis mutandis)を回答した(1942年1月29日)。東條英機首相兼陸相(当時)が、戦後、極東国際軍事裁判(東京裁判)に提出した宣誓供述書によれば、「準用」という言葉の意味は帝国政府においては自国の国内法規および現実の事態に即応するように壽府条約に定むるところに必要なる修正を加えて適用するという趣旨であった。この点に関しては、外務省も同様の認識であった。しかし、交戦相手国はこの「準用」を、事実上の適用と解した。戦争中の日本に対する抗議や非難声明、あるいは戦後の戦争犯罪裁判などは、そうした解釈に基づいてなされるのである。・・・
 東京裁判に提出された武藤章(支那事変発生当時、参謀本部第1部第3課長)の尋問調書(1946年4月16日付)によれば、1938年に「中国人ノ捕ヘラレタル者ハ俘虜トシテ取扱ハレナイトイフ事ガ決定」されている。つまり、陸軍は、戦争ではない支那事変では捕虜そのものを捕らないという方針を採用、したがって、正式の捕虜収容所も設けなかった・・・

→これは極めて問題。
 1937年の日支事変勃発からそれほど時間が経っていない南京事件当時は、このような方針すら中央で決定されないまま、現地部隊の判断で捕虜をとらず、捕虜は処刑する措置がとられたと思われます。
 下掲↓の「捕虜・投降兵の虐殺」のところ、参照。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E4%BA%AC%E4%BA%8B%E4%BB%B6_(1937%E5%B9%B4) (太田)

 死刑や無期刑、1年以上の有期刑などを含むこれらの罰則規定は、懲罰の期間を最長30日と限定する捕虜待遇条約第54条の規定を大きく逸脱している・・・
 逃走しない旨の宣誓の強要や面会に監視者を立会わせること<も>国際条約に反している。また、・・・交戦国の利益保護国や赤十字国際委員会の代表者による捕虜収容所訪問は著しく制限された。・・・
 「俘虜勞務規則」も日露戦争時の「俘虜勞役規則」(1904年9月10日)を改正加除したものである。両者の違いは、第一に新規則が捕虜の将校の労務を、「其ノ發意ニ基」く場合、可能にしている点である(第1条)。捕虜将校の労務者としての使役は陸戦条約第6条が禁止している。ただし、捕虜待遇条約第27条は将校にも「自己ニ適スル勞働ヲ欲スルトキハ出來得ル限リ之ヲ與フベシ」としているので、必ずしも国際条約違反とは言い切れないが、問題は将校を使役したいあまりに、「發意」の強要が随所で行われたことである。もっとも、両条約とも将校に限らず一切の捕虜を作戦行動に関係する労働に使用することは禁止している。しかし、この点に関しては、旧規則には国際条約に則って、作戦行動に関係する労働への捕虜の使用を禁止する条項があったのに対して、新規則にはそうした条項がない。反対に、太平洋戦争では、日本陸軍は捕虜を作戦行動に関係する労働に使用する方針を掲げていた。・・・
 陸軍中央の捕虜の取扱いに関する考え方が変わったのは1942年春のことで、その決定的な契機は4月18日のドゥーリットル空襲であった・・・
 国際条約を軽んじる素地は、すでに存在していたと言えよう。
 第一に、緒戦における大勝とそれによる驕りがある。そこから、既存の国際法は英米的な観念をもとに築かれたのであって、その英米を打ち負かした日本はそうしたものに従う必要はなく、独自の価値観を押し立て、国際法の内容も日本の精神に基づいたものにするべきであるという論理が生まれた・・・
 第二に、中国戦線における国際条約の適用回避の影響である。先に述べたように、支那事変では捕虜を捕らないという方針を掲げて、国際条約に則した捕虜の取扱いを行わなかった。そうしたことへの慣れが太平洋戦争期における国際法軽視を容易にしたのではなかろうか。
第三に、俘虜待遇条約の未批准である。先に述べたような未批准に至った理由もさることながら、未批准という事実が、日本は俘虜待遇条約を正式に承認していないので、従う必要はないという風潮を涵養した・・・
 内地では主として日本の傷痍軍人を、外地や占領地域では日本人以外に、主として朝鮮人や台湾人を用いたのは、現役の日本人兵士を捕虜の監視にまわすほど余裕がなかったという実情もあるが、捕虜の監視という仕事を軽んじていたこと、外地では日本人の優越性を認識させようとしていたことなどをその理由として挙げることができよう。・・・」
http://www.nids.go.jp/event/forum/pdf/2007/forum_j2007_08.pdf


 マーク・パリロ「アメリカ軍捕虜と残留日本兵−太平洋戦争の「記憶」形成の視点から−」の抜粋紹介

 「太平洋戦争が勃発した原因の1つは、文化的な誤解であり、さらに、日本政府および米国政府が共通の見地に立たなかったこと、そしてどちらの国民もお互いの価値観と世界観(Weltanschauung)を理解し合わなかったことも原因の一部であった。同様に、人類史上最大の戦域で展開されたこの戦闘に参加した水兵も、歩兵も、航空兵も、そして海兵隊員も、争い合う民族国家の一員としてばかりでなく争い合う文化の一員としても戦ったのである。・・・

→後出の部分をお読みになれば分かるように、一見耳障りよく聞こえるこのくだりは、パリロの全くの「文化的な誤解」に基づく誤りです。
 自由民主主義という共通の見地に立つことを米国政府が拒否し、米国政府が人種主義的帝国主義、米国民が人種主義に凝り固まっていたことが、太平洋戦争勃発の最大の原因だからです。(太田)
 
 日本に捕らえられた米軍捕虜の10%以上が収容先で死亡したが、この数字は、第二次大戦中にドイツ軍の捕虜となった米兵の死亡率4% をはるかに上回る・・・
 サムライは、上位の身分の者達からの身体的な虐待をきわめて容易に受け入れ、そしてきわめて容易に下位の身分層に暴力を行使した。収容所の衛兵は、どんなに階級が低かろうとも、みすぼらしい捕虜より上の階級であった。そのような状況の下では、体罰は避けられなかった。・・・
 軍人としても人間としても出来損ないの卑しい身分の捕虜は、自分のどこが誤っていたのかを知るために体罰を甘んじて受け、自分の自堕落な生き方を慎ませてくれた社会組織に奉仕することによって、一部分だけでも改めなければならない。

→私刑の横行は、弥生人たるサムライ・・将校・・の属性では全くなく、軍隊/戦争という「異常」の場に置かれた縄文人たる日本の大衆・・下士官・兵・・の属性であり、パリロは完全な誤解をしています。(太田)

 経済の状況は、日本軍の捕虜全員にとって、ますます事態を悪化させた。・・・
 日本は、長年にわたり主要穀物の一大輸入国だった。真珠湾攻撃から6カ月で日本が進攻し、東アジアと西太平洋の諸国が通常の貿易相手国との交易ができなくなった際に、多くの品物が特に不足した。
 当然ながら日本軍は、自ら使うために現地の資源を要求し、大量の食糧が本土に向けて輸送された。たとえば満州の食糧品の60%が日本に送られたと推定され、また、沖縄は、島内で消費される米の三分の二が輸入された・・・
 典型的な捕虜の食事は、カロリーが全体的に不充分であっただけではなく、たいていはバランスが取れていないもので、ほとんどの場合、タンパク質とある種のビタミンが不足していた。捕虜は、自分の身体がやせ衰え、脚気などの栄養不良に関連する病気にかかっていることを自覚しながら、毎日苛酷な生存競争に立ち向かっていた。・・・

→これは重要な指摘です。この要因によってどれだけ捕虜が死亡したとしても、それは、本来国際法違反を構成しないはずであるからです。(太田)

 米軍捕虜が体験した辛酸が、他国の捕虜の場合とほとんど同じ程度かもしくは多少はましだったりしたことを指摘することは、恐らく有意義であろう。太平洋戦争における捕虜の平均死亡率は14%であり、戦域によってはこの2倍に達した。・・・
 民族の哲学を正しく理解したいと思うなら、その民族が戦争でどのような行動を取るのかを研究すべきである。民族の心理を理解したいと思えば、その民族の戦争の記憶を研究すべきである。米国人捕虜と残留日本兵について研究することにより、日本人も米国人も、相互の理解を深めることができるかもしれない。そのような相互理解が70年前にできていたら、太平洋戦争をそもそも回避することができたかもしれない・・・

→ここは、パリロ論考に対して私が記した最初の批判を繰り返すべきでしょうね。
 米国人が「理解を深めること」は、太平洋戦争における米国の所業すべての自己否定を意味するのに対し、日本人が「理解を深めること」は、単に思いだすだけのことです。
 私が太田コラムでやろうとしているのは、日米双方がこのような意味で「理解を深めること」ができるように促すことです。(太田)


http://www.nids.go.jp/event/forum/pdf/2007/forum_j2007_09.pdf

(完)

太田述正コラム#4116(2010.7.7)
<原爆論争(その6)>(2010.11.13公開)

 (4)「太平洋戦争の新視点−戦争指導・軍政・捕虜−」フォーラム(2007年)

 ニュー・オーリンズ大学のアラン・ミレット論考は、2007年2月に行われた防衛研究所戦史部戦史部主催のフォーラム「太平洋戦争の新視点−戦争指導・軍政・捕虜−」に提出されたものなのですが、このフォーラムに提出された他の論考からの抜粋をご紹介しましょう。
http://www.nids.go.jp/event/forum/j2007.html
http://www.nids.go.jp/event/forum/pdf/2007/forum_j2007_02.pdf
(7月4日アクセス。以下同じ)

 なお、保阪正康の「「アッツ玉砕」に見る戦略思想」にはご紹介すべきものが何もありませんでした。
http://www.nids.go.jp/event/forum/pdf/2007/forum_j2007_03.pdf


 戸部良一「日本の戦争指導−3つの視点から−」の抜粋紹介

 「・・・仮に、戦争目的を「自存自衛」に限定すべきだとする主張を「自存自衛論」とし、これに対して2つの戦争目的を並置しつつ「大東亜新秩序建設」を強調する立場を「アジア解放論」とすると、陸軍はこの2つの主張に分裂し、海軍は「自存自衛論」にほぼ一本化されていたと見ることができる。・・・
 開戦時の政治指導者の多くは「アジア解放論」の立場であったと見られよう。・・・
 宣戦の詔書は「帝国ハ今ヤ自存自衛ノ為蹶然起ツテ一切ノ障礙ヲ破砕スルノ外ナキナリ」と述べて、「自存自衛論」の立場を表明した。ところが、開戦直後、大東亜戦争という呼称が正式決定されたことを受けて、情報局は<1941年>12月12日、「大東亜戦争と称するは、大東亜新秩序建設を目的とする戦争なることを意味するものにして、戦争地域を大東亜のみに限定する意味にあらず」と説明し、「アジア解放論」を謳ったのである。・・・
 実際には「自存自衛」から「大東新秩序」への戦争目的の拡大が戦争指導に禍いをもたらした形跡はほとんど見当たらない・・・。・・・
 「アジア解放論」の目的に透徹し、それを一貫させなかったことのほうが問題であった。そして「自存自衛論」は「アジア解放論」を制約してしまった。例えば、「自存自衛論」の立場に立つ海軍は、軍事戦略的理由に基づき、担当占領地域の独立付与について消極的であった。
 波多野澄雄氏は、東條首相のビルマやインドへの独立の呼びかけがイギリス屈服を目指す対英政治戦略の一環でしかなかった、と論じている。たしかにそうであったろう。
 しかし、たとえ政治戦略の一環であっても、それを徹底して追求しなかったことが日本の戦争指導のひ弱さに通じていたのではなかろうか。むろん、自らの内に植民地を抱える日本が「アジア解放」を唱えるのは偽善的であったに違いない。だが、たとえ偽善的であっても、「アジア解放」の理念性を意識的に利用し、政治戦略としての有効性を充分に活用することが、戦争指導に求められたのではなかったか。しかも、それを勝ち戦のときに実践することが望ましかった。・・・
 重光葵・・・は1943年4月に東條内閣の外務大臣に就任すると、大東亜新政策を掲げ、同年11月大東亜会議を開催して大東亜共同宣言を発表した。それまで、しばしば曖昧に語られ、ときには矛盾する意味さえ付与されてきた「アジア解放論」は、大東亜共同宣言によって明確かつ具体的な内容を持つものとなったと言えよう。・・・
 大東亜共同宣言が戦争指導に動揺を与え、戦争終末の捕捉を難しくした事実もほとんどなかったと言ってよい。例外があったとすれば、インド解放という大義がインパール作戦の実施を後押ししたくらいである。インパール作戦を例外とすれば、大東亜共同宣言に盛り込まれた戦争目的が戦争指導に動揺を与えることはなかった。・・・

→太平洋戦争は、安全保障(自存自衛)のために、ソ連との冷戦の貫徹とそのための支那の無害化を図ろうとした日本の足を引っ張り続けた英米に対する日本の膺懲戦争であり、「自存自衛」は英米両国に対する共通の開戦事由であったのに対し、「アジア解放」は、対英に焦点をあてた開戦事由でした。
 日本は、「自存自衛」戦としての太平洋戦争には敗れたけれど、「アジア解放」戦としての太平洋戦争には勝利した、と言ってよいでしょう。
 もっとも、戦後、米国が日本に代わって日本の「自存自衛」を全面的に担う羽目に陥ったことからすれば、この点においても日本は太平洋戦争に勝利した、という見方もあながち不可能ではないかもしれません。(太田)

 きわめて興味深いのは、戦争目的を「自存自衛」に一本化していたはずの海軍が戦略的攻勢をとり続けようとして進軍限界から逸脱し、二重の戦争目的を追求しがちであった陸軍が当初の戦争計画どおり戦略的守勢に入ろうとしていることである。・・・
 野村実氏は次のように指摘している。・・・山本五十六・・・は空軍力が戦力の中心になっていることを見抜き、海軍力で計算していた見通しよりもアメリカの戦力回復が早くなると予想して、連続的に勝利を重ねることを追求したのだ、と。なるほどハワイ作戦もミッドウェー作戦も、この文脈ならば理解することができる。・・・
 <他方、陸軍は、>対米戦争の進軍限界をわきまえていたから戦略守勢を主張したのではなく、対米戦争を徹底的に考え抜かずに、対ソ戦と対中戦の観点からそうしただけに過ぎなかった。<陸軍が>海軍の要請を断り切れなくて、進軍限界を超えたガダルカナルでの攻防戦にのめり込んでいったのは、ここにも一因がありそうである。・・・
 イヴァン・アレギンタフトの研究によると、過去200年間、国力に10対1の大差がある国家間の武力紛争・・・で、強国が弱国に勝った回数はその逆の2倍を上回るという。それはあまりにも当然だが、問題は、強国が3回に1回は弱国に負けていることである。アレギンタフトは、双方が同じ戦略アプローチをとる場合は強国が勝ち、異なる戦略アプローチをとる場合は弱国が勝つ可能性が高くなると論じている。・・・

→海上における戦いが中心であった太平洋戦争において、国力において圧倒的劣勢にある側(=日本)が(米国に)勝利を収める可能性は、一旦その国力差が軍事力(=装備の量と質)の差に具体化した後においては、極めて小さかったと言わざるをえないでしょう。(太田)


http://www.nids.go.jp/event/forum/pdf/2007/forum_j2007_04.pdf


 芳賀美智雄「インドネシアにおける日本軍政の実態−その光と影−」の抜粋紹介

 これについても、ご紹介すべきものが何もありませんでした、と言いたいところですが、いかに芳賀が陳腐なことを述べてお茶を濁しているかを分かっていただくため、あえて抜粋紹介してみました。↓

 「・・・「石油の一滴が血の一滴」とも称され、米国による禁油が日米開戦の原因の一つとも言われる「石油時代」にあって、実質的な開戦第1および第2年のみとは言え、戦争(作戦)遂行に不可欠の石油の還送実績が取得見込量をオーバーしたことは、蘭印における石油の取得・開発は十分にその目標を達成するとともに、日本の戦争遂行に少なからず寄与したものと考える。したがって、資源の獲得という面からの軍政は、ある程度成功したと言えるのではないだろうか。・・・
 1949(昭和24)年12月27日、インドネシアは約4年半におよぶオランダとの独立闘争を勝ち抜き独立した。・・・日本にとって、南方地域占領の目的はあくまでも重要国防資源の獲得であった。したがって、日本の独立関連施策等はインドネシア民衆の軍政協力を得ることを意図して実施されたのであるが、結果的にそれらの施策もあってインドネシアは戦後、戦前の宗主国であるオランダによる再植民地化を免れ、独立を達成することができたし、諸施策は戦後の国家建設等にも貢献していると考えられる。・・・
 義勇軍等の創設目的(理由)は日本の軍事力の補強(補完)であったけれども、それらの創設と将兵等に対する厳しい軍事訓練や精神教育等は、結果的にインドネシア青年に軍事技術ばかりでなく、反オランダ意識や規律心、闘争心などの精神的遺産を残しており、激しく厳しかったオランダとの独立戦争や独立後の国軍建設に役立ったものと思われる。
 また、東條首相の政治参与許与表明(いわゆる東條声明)および大本営政府連絡会議において諒解を見た「原住民政治参与ニ関スル件」による政治参与の具体的措置は、軍政諮問機関の設置、高級行政官僚へのインドネシア人の任用などであったが、政治参与は日本(軍政当局)の民心獲得施策の一つであって、インドネシア人に真の政治権力を与えたわけではない。軍政諮問機関は、あくまでも諮問機関であって決議機関ではなかったし、諮問においても軍政当局者の内面指導と称する干渉や統制を受けた。かつ、高級行政官僚への任用も一部に限られ、実質的には日本人官吏が行政の実権を握っていた。
 しかし、・・・日本の政治参与施策は、インドネシア人に独立後に必要となる、国を運営して行くための行政技術(能力)を学ぶ(身につけ)、あるいは向上させる機会を与えており、戦後のインドネシアの国づくりに役立ったものと思われる。・・・
 <他方、>労務者の徴用および米の強制供出は、日本軍政圧政の象徴の一つとなっている・・・」
http://www.nids.go.jp/event/forum/pdf/2007/forum_j2007_06.pdf

(続く)

太田述正コラム#4114(2010.7.6)
<原爆論争(その5)>(まぐまぐに即日、誤って配信)(2010.11.12公開)

 (3)ハセガワ他1名の北方領土問題に関する本に係る議論(2002年)

 以下は、
Tsuyoshi Hasegawa(ツヨシ・ハセガワ=長谷川毅) 'The Northern Territories Dispute and Russo-Japanese Relations, 2 vols, Volume 1, Between War and Peace, 1696-1985, Volume 2, Neither War Nor Peace, 1985-1998. Berkeley, California: International and Area Studies Publication, University of California at Berkeley, 1998’
Hiroshi Kimura(木村汎)'Distant Neighbours, 2 vols, Volume 1, Japanese-Russian Relations under Brezhnev and Andropov, Volume 2, Japanese-Russian Relations under Gorbachev and Yeltsin'
をめぐる議論
http://www.h-net.org/~diplo/roundtables/#3.1
(7月4日アクセス。以下同じ)における、ハセガワによる反論部分からの抜粋です。

 (木村汎
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%9D%91%E6%B1%8E
による反論については、大変失礼ながら、世間話的な内容なので抜粋紹介はしないことにしました。
 ちなみに、木村教授と私は、1981年だったかに伊豆で開かれた泊まり込みの国際シンポジウムでご一緒してから長らく年賀状を交換していた間柄であり、推理小説作家の故山村美紗は、彼の実姉です。
 また、木村、ハセガワ両教授は、北海道大学スラブ研究センターで8年間にわたって机を並べた同僚でした。)
http://h-net.msu.edu/cgi-bin/logbrowse.pl?trx=vx&list=h-diplo&month=0204&week=d&msg=8yfefNtWZr7nG7vD1WCv9Q&user=&pw=


 「・・・北方領土の返還以外に日本がロシアと友好関係を樹立することで得るものはほとんどないという、木村も同意しているように見える主張は、私に言わせれば、無責任で近視眼的だ。
 北方領土紛争の解決を日本の外交政策の至上目標の1つに掲げ、それをロシアとの友好関係樹立の前提条件とすることは、馬の前に荷車をつけるようなものだ。
 この領土紛争の解決の失敗の責任の割合について、木村は紛争の対象たる4島全部を返還せよとの日本の正当な要求をロシアが受け入れるのを拒否したことが交渉停滞の主要原因であるとするが、私は日本の方がこの問題の解決を妨げている責任がよりあると信じている。・・・
 ・・・歴史諸資料からすると、1855年の下田条約(注3)、1875年のサンクト・ペテルブルグ条約<(樺太・千島交換条約)(コラム#549)>、サンフランシスコ平和条約、そしてグロムイコ(Gromyko)−松本交換書簡(Gromyko-Matsumoto exchange of letters)(注4)に係る日本の公的解釈による日本の主張は、ヤルタ協定(注5)に基づくソ連による正当化と同じくらい説得力がない。・・・

 (注3)日露和親条約。「本条約によって、千島列島の択捉島と得撫島の間に国境線が引かれた。樺太においては国境を設けず、これまでどおり両国民の混住の地とすると決められた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%9C%B2%E5%92%8C%E8%A6%AA%E6%9D%A1%E7%B4%84 (太田)
 (注4)松本俊一日本全権代表とグロムイコ・ソ連第1外務次官との間で1956年9月29日に交わされ、国交回復後も領土交渉を続けることで合意した。これによって、1956年10月19日の日ソ共同宣言による日ソ国交回復が可能となった。
http://www.mofa.go.jp/region/europe/russia/territory/edition92/preface.html
http://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/Other/Topics/Gaiyou1/index.htm (太田)
 (注5)1945年2月11日に米英ソ3カ国で合意。ソ連の参戦と千島列島のソ連への引き渡しが記述されている。
http://www.mofa.go.jp/region/europe/russia/territory/edition92/preface.html 上掲(太田)

 木村がこの論点について議論を行うことを拒否していることは、日本の4島に対する主張は自明の真実であるとする彼の見解の信頼性を減ずるものだ。・・・
 それでは、どうして、私は、木村同様、日本によるところの、4島が最終的には日本に返還されるべきであるとする主張の正しさを信じているのか。
 私の立場は、紛争の対象となっている4島は、一貫して議論の余地なく、かつロシア/ソ連によって疑問を投げかけられることなく、1945年8月まで日本の領土であり続けた、というものだ。・・・
 露日戦争の後のポーツマス交渉の間、ロシアの首席交渉者たるセルゲイ・ウィッテ(Sergei Witte)<外相>は、南樺太を戦利品として日本に割譲せよとの日本の主張に強硬に異議を唱え、敗北した国から勝者が領土の一部を切り取ることは、将来の二国関係を毒する嘆かわしい先例を樹立することになる、と主張した。・・・
 北方領土紛争は、私に言わせれば、20世紀のアジアにおける日本の外交/軍事政策というより大きな文脈の中に位置づけられるべきなのだ。
 何よりも、議論の対象たる諸島の喪失は、太平洋戦争の間に起こったということが想起されるべきだ。
 当時、ソ連による行動は、米国、英国、及び支那の承認を得ていた。
 ここに木村と私自身との大きな違いがある。
 木村は露日関係を二カ国間の問題として切り離すが、私はそれを、より広い歴史的文脈の中に位置づける。
 私の見解では、日本とロシアとの間の領土をめぐる紛争は、ロシアが自分のスターリン主義の遺産といかに折り合いをつけるかに関連しているのと同じくらい、いかに、そして果たして日本が自分の過去と取り組むことができるかに統合的につながっている。・・・
 私が、紛争の対象となっている全4島が最終的に日本に返還されることが実現されるべきだと信じている理由は、勝者が他者の領土の一部を戦利品として要求するという過去のパターンに終止符を打ち、過去の種々の悲劇とは係累のない 全く新しい原理に立脚した新しいパートナーシップを打ち立てるためだ。・・・
 この領土紛争が、ロシアは紛争の対象となっている全4島を返還せよとの日本の要求を受け入れることによってしか解決されない、との木村の見解に同意しつつ、ザゴルスキー(<Alexei >Zagorsky<。名古屋の南山大学教授
http://www.h-net.org/~diplo/roundtables/#3.1 上掲(太田)
>)は、私が提案する二段階解決法を非現実的であると批判する。
 私は紛争の対象となっている諸島全ての返還が日本として正当化できる要求であると信じつつも、私は、ソ連とロシアがこの要求を受け入れる国内的な政治状況がこれまで存在したためしがないと信じているからだ。
 更に言えば、近い将来にロシアの国内状況が、日本の要求を受け入れるというコンセンサスが出現する方向に劇的に変化することはありえない。・・・
 日露双方が合意できる唯一の共通の土俵は、1956年の共同宣言だ。
 だから、私は二段階解決法を擁護しているのだ。
 1956年の共同宣言に明記されているところの、2島(歯舞と色丹)の返還、そして他の2島(国後と択捉)についての交渉の継続、そして、その基礎の上に立った平和友好条約の締結を。・・・」
http://h-net.msu.edu/cgi-bin/logbrowse.pl?trx=vx&list=h-diplo&month=0204&week=d&msg=1XOo%2b6JjjA0AORotc9WWvQ&user=&pw=
(同上)

→私は、日本の国後・択捉返還要求には根拠がないと考えていること(コラム#549)はご承知の方が多いと思います。
 ハセガワが国後・択捉日本の固有の領土論を唱えるとは、いささかがっかりですねえ。
 そもそも、固有の領土論なるもの自体がナンセンスであることはさておき、仮に戦争の結果による領土の変更は行うべきではないとのハセガワの主張に乗ったとしても、先の大戦の結果の領土変更を彼はことごとく無効にせよとでもいうのでしょうか。
 例えば、ロシアは、(ロシア人が住んでいたことのない)カリーニングラードをドイツに返還せよと言うのでしょうか。
 また、ひょっとして、例えば、(ポーランド人がかつて住んでいたことはあるけれど)ポメラニアとシュレジアについても、ポーランドはドイツに返還せよと言うのでしょうか。
 恐らくそんなことまでハセガワは考えていないのではないでしょうか。
 となると、領土問題は「より広い・・・文脈の中に位置づけ」なければならない、とハセガワが自分で言ってた話、舌を噛んじゃいますよね。
 この点でもハセガワにはいささかがっかりさせられました。
 もちろん、ハセガワの二段階解決法は、政治的にはそれなりに妥当であるとは思います。
 そういうことにでもしなければ、日本の国内が治まらないでしょうからね。
 もっとも、ロシア側が二段階解決法を飲むかどうかは、私には疑問ですが・・。(太田)

(続く)

太田述正コラム#4112(2010.7.5)
<原爆論争(その4)>(2010.11.11公開)

4 終わりに

 ハセガワの、一、トルーマンは、ソ連の牽制のために、日本に原爆投下をして米国の軍事力をソ連に見せつけたかったので、ポツダム宣言で日本の無条件降伏を求め、日本の降伏を遅らせる一方、そのソ連の牽制のため、ソ連の参戦より先に、そして少なくともソ連が参戦した以降に速やかに日本を降伏させたかったので、原爆投下が日本に無条件降伏を決意させるだろうと信じ、原爆投下にこだわった、二、しかし、皮肉なことに、日本が無条件降伏した最大の要因は、原爆投下ではなく、2回の原爆投下の間になされたソ連の対日参戦だった、という2つの主張のもっともらしさを、資料篇とハセガワ-麻田ら/バーンスタイン論争から感じ取っていただけたことと思います。
 2つ留保を付けておきます。
 ハセガワ-麻田ら/バーンスタイン論争をもっぱらハセガワのそれぞれへの反論文に拠って紹介したので、この論争の客観的公平な紹介になっていない虞れがあるということと、満州で侵攻してきたソ連軍と戦った将官達の証言(ロシア語文献)を日本降伏・ソ連対日参戦論の裏付けとして用いた点についてはハセガワに余り説得力がないことです。
 彼等にとって原爆投下は伝聞に過ぎなかったのに対し、ソ連の対日参戦は、自らが実体験したことですからね。
 私なら、そもそも、どうして関東軍が南満州にいたのか、どうして日本は満州国をつくったのか、を当時の日本の政治家や軍人に語らせることを選んだでしょうね。
 前にも申し上げたように、ハセガワはあえてそのようなやり方を封殺したのだと私は推察するのです。
 なぜなら、私思うに、それをやっていたならば、戦前における米国の対日政策全面否定を示唆することになるからであり、ハセガワは、日本人だからこそ、そのような史観を提示したという目で見られ、'Racing the Enemy' が米国の主要紙の書評において好意的評価を受けたり、2006年にRobert Ferrell Award from the Society for Historians of American Foreisn Relations を授与
http://www.history.ucsb.edu/people/person.php?account_id=35
されたりするようなことにはならなかった可能性を排除できないからです。

5 付録

 (1)コラム#4105でΒωωΒサンによって紹介されたアラン・ミレットによる論考中に、以下のような面白い箇所がありました。

 「・・・1937 年以降は、親中派が世論を席巻した。親中派の代表格はパール・バックや�拔介石夫人であり、一方の親日派の代表格は、ジョセフ・グルーであった。
 さらに、アメリカ人宣教師たちは中国びいきであり、ヘンリー・ルースの築き上げたメディア帝国を通じ、世論形成に大きな影響を与えた。
 「アジア第一主義」連合は、政党―つまり共和党―と結びついており、ダグラス・マッカーサー元帥も、その一員であった。
 こうした政策エリートたちと、層が幅広い、復讐心に燃えた伝統的な白人アメリカ国民の心を一つにしたのは真珠湾攻撃であった。・・・

→このくだり、かねてより宋美齢とパール・バック、そして在支米国人宣教師達を強く批判してきた私として、心強い援軍を得た思いがします。(太田)

 <西太平洋においては、>アメリカ軍は独自の基地システムと停泊地を築く必要にせまられた。通常は飛行場と併せて作られるものであり、これには、重機を備えた設営工兵大隊が必要であった。地上戦闘部隊の人員だけをみても、太平洋戦線に配置された各師団は、ヨーロッパ地域に配備されていた師団よりもさらに16,000 人の支援要員が師団ごとに必要であった。・・・

→このような敵と戦わざるを得なかった帝国陸海軍のことを思うだけでも胸が痛みますねえ。(太田)

http://www.nids.go.jp/event/forum/pdf/2007/forum_j2007_05.pdf

 (2)Michael D. Gordin 'Red Cloud at Dawn: Truman, Stalin, and the End of the Atomic Monopoly' へのハセガワの評論をご紹介しましょう。

 「・・・私の見解では、冷戦は、米ソ双方が交渉によっては何も得られず、かつ、両者が相容れない2つの陣営へと分かれている、と結論づけて初めて始まった。
 <しかし、>このような結論は、1947年までには下されなかった。・・・
 1947年初頭、つまり、<ソ連が初めて、>・・・カザフスタンのセミパラティンスク21において1949年8月29日に・・・ジョー1(Joe 1)<の核爆発>を実施するよりはるかに以前に、米空軍は、戦争の初期段階で核爆弾を効果的に使用することが可能であると信じ始めた。
 1947年の中頃には、<米国の>全軍事機関が半月(Half-Moon)という暗号名がつけられた統合戦争計画を策定し始めた。
 この計画に拠れば、ソ連の都市産業地区は「最高優先順位標的システム」を構成しており、それらが破壊されれば、「ソ連の産業及び統制中枢を大きく損傷することからソ連の軍隊の攻撃的かつ防衛的な力は劇的に減殺する」というのだ。
 この、主として核爆弾による戦略的攻撃は、2,800万人が居住する70の標的地域に対して30日間続けられることになっていた。
 そして、これら住民のうち10%が殺害され、更に15%が負傷すると推計されていた・・・。・・・
 ・・・ハーモン(Harmon)空軍中将が統括した研究の報告書に拠れば、仮に133の核爆弾がすべて標的上で爆発したとしても、「ソ連の指導部は致命的に弱体化することはない」としている。
 この結論は、核の在庫の顕著な増加の引き金となり、在庫の増加は、今度は標的の、都市センターから特定の軍事標的、換言すれば、対価値(counter-value)から対兵力(counter-force)、への変化をもたらした。・・・
 ・・・<すなわち、>米国は、ソ連がジョー1を爆発させるより前に核行使政策を展開していたわけだ。・・・
 心中では、スターリンは、核爆弾の軍事的脅威を極めて深刻に受け止めていた、というより、それに恐れおののいていたとさえ言えよう。・・・
 このことが、なにゆえにスターリンが、ベルリン封鎖や朝鮮戦争において、ソ連を米国との直接的な軍事紛争におびき寄せるものを避けようとしたのはどうしてかを説明する。・・・」
http://www.h-net.org/~diplo/roundtables/PDF/Roundtable-XI-28.pdf
(7月4日アクセス)

→冷戦に関する私の主張は、ご承知のように、ソ連と自由民主主義陣営の冷戦は、シベリア出兵以降、既に東アジアにおいて、日本が全自由民主主義陣営の先鞭を切って開始していたのであって、1938年の張鼓峰事件、1939年のノモンハン事件はあっても本格的熱戦に至らず継続していたところ、ソ連の対日参戦によって中断し、それがやがて日本に代わって米国によって全世界的に再開されることになった、というものです。
 米国による冷戦再開をいつと見るかについてのハセガワの1947年説は参考になりますが、現在のところ、私としては、核実験の成功を受け、トルーマンがソ連を原爆で牽制しようとした1945年7月に再開のきざしが見え、1948年6月のベルリン封鎖・・ソ連の非軍事的手段による自由民主主義陣営侵略の試み・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%AA%E3%83%B3%E5%B0%81%E9%8E%96
をもって事実上再開し、1950年6月の朝鮮戦争勃発・・ソ連の傀儡による対自由民主主義陣営・代理戦争の勃発・・をもって本格的に再開した、と見ているところです。(太田)

(続く)

太田述正コラム#4110(2010.7.4)
<原爆論争(その3)>(2010.11.10公開)

 それでは、肝腎のハセガワと麻田貞雄(コラム#4103)らとの論争です。

 「・・・第一の論点は、果たしてトルーマンとスターリンの間に競争があったかだ。
 トルーマンは、ソ連の参戦を歓迎し、できるだけ早くソ連が参戦するよう促したのだろうか。
 私への批判者は、トルーマンは、ソ連の参戦は米国にとって一定の便益があると信じ、それを追求し歓迎したと主張する。
 しかし、証拠の示すところによれば、トルーマンはソ連の参戦を「促進する」ことを間違いなく何もやっていない。
 彼のスターリンとの最初の会談が行われた<1945年>7月17日、トルーマンは、スターリンに参戦への同意を懇請しなかった。
 ハリー・ホプキンス(Harry Hopkins<。1890〜1946年。フランクリン・ローズベルト大統領に最も近い助言者の一人。トルーマン政権下ではソ連に派遣されていた
http://en.wikipedia.org/wiki/Harry_Hopkins (太田)
>)が<事前にスターリンに>日本に対する<、ソ連も一枚噛んだ>共同最後通牒を発出する件がポツダム会議の議題にのぼると請け合っていたにもかかわらず、トルーマンは、スターリンを意識的にこの最後通牒についての審議から除外し、最終文章からソ連へのいかなる言及も除去した。・・・
 スティムソン<米陸軍長官>は、7月23日に、・・・彼[トルーマン]は、<原爆>作戦の具体的日にちを聞くや否や、それ<(=ソ連)>を除外するよう提案した。・・・彼は、明らかにS-1[原爆]プロジェクトの情報に非常に依存していた」と記している。・・・
 私の批判者達によって提起された第二の論点は、原爆とソ連の対日参戦のどちらの要素がより日本の降伏という意思決定に決定的な影響を与えたかという論点だ。・・・
 ニューマン(<Robert P. >Newman<。ピッツバーグ大学名誉教授
http://www.amazon.com/Enola-History-Frontiers-Political-Communication/dp/0820470716 (太田)
>)は、「日本は、阿南<陸相>が長崎への原爆投下によって米国がもっと原爆を持っていることが証明されたと思うまでは最後まで戦おうとしていた。その時、つまりその時に至って初めて、阿南は天皇に屈し、降伏を受諾した」と主張する。
 <しかし、>彼は、広島への原爆投下と長崎への原爆投下の間に、ソ連が参戦したこと、そして、阿南の降伏への抵抗が8月14日の二回目の御前会議まで続いたことに言及することを怠っている。
 麻田は、8月6日の広島への原爆投下が、ただちに天皇、東郷<外相>、そして鈴木<首相>をしてポツダム宣言の諸条件の受諾へと導いたと強く主張する。
 しかし、この強い主張を裏付ける証拠は存在しない。
 麻田は、『終戦史録』を彼のテーゼを裏付ける証拠として引用するが、この資料集の編纂者達による見解は一次史料に由来するものではない。
 6首脳による会議は、ソ連が8月9日に参戦するまで開催されることすらなかった。
 この会議の真っ最中に長崎への原爆投下の報告がなされたが、このニュースにもかかわらず、この6首脳と内閣は2派に分かれたままであり続けた。
 8月7日に、東郷は、佐藤<尚武駐ソ大使>に緊急公電を送り、同大使にモロトフ<ソ連外相>に会って日本政府からのソ連による仲介要請に対する回答を得るよう促している。
 もし、仮に麻田が主張するように、日本が広島への原爆投下の直後に既にポツダム宣言の諸条件による降伏を受諾していたとすれば、この東郷の電信をどう説明したらよいのか。
 <また、>ニューマンによる、長崎への原爆投下の後、阿南が天皇に屈し降伏を受諾したとの強い主張に反し、バーンズ<米国務長官>の手記によれば阿南は再度抵抗を行っており、その抵抗は8月14日の御前会議まで続いたのだ。
 実際、8月9日に阿南が行ったことが判明したところの、米国が100を超える原爆を保有していて次の標的は東京かもしれないとの言明は、6首脳による議論や内閣での議論に大して影響を与えなかったのだ。・・・」
http://hnn.us/articles/24566.html
(7月2日アクセス。以下同じ)

 以上とほとんど同趣旨の、ハセガワとバートン・バーンスタイン(Barton Bernstein<。スタンフォード大学米国史教授
http://www.stanford.edu/dept/history/people/bernstein_barton.html (太田)
>)との論争にも、上記とできるだけ重ならない形で触れておきましょう。

 「・・・ポツダム宣言の最終文章をスティムソンによる原案と比べると、2つの重要な変化に気づく。
 第一は天皇制(constitutional monarchy)の維持を約束した一節であり、第二はソ連に関わるいくつかの節の除去でありこの宣言の表題からのソ連邦<という言葉>の除去だ。
 私は自分の本の中で、ソ連の参戦、無条件降伏、そして原爆投下の3つの要素はすべて、互いに密接に関連しあっていたと主張している。・・・
 バーンズ<国務長官>は、ポツダム宣言の文章をソ連代表団に送る前に報道機関に配布し、スターリンがトルーマンに対し、自分をポツダム宣言に署名させるべく呼んで欲しいと求めた時、トルーマンはこの要請を拒絶した。
 もとより、彼は「ソ連の参戦を阻止したり妨げたり」する行動はとらなかった。
 そうする手段を持っていなかったからだ。
 しかし、それ以外の、米国をソ連の参戦から切り離すあらゆることを彼はやった。
 スティムソンは、7月23日に、「[私は]トルーマンに、ハリソン(<Earl G. >Harrison<のことか?。1899〜1955年。当時は米国政府で難民問題を担当
http://en.wikipedia.org/wiki/Earl_G._Harrison (太田)
>)から得た[原爆に係る]作戦の時期に関する、より具体的な情報を伝達した。
 トルーマンは、彼の机の上に、警告メッセージ[ポツダム宣言]が用意されているところ、我々による最も最近の修正を受け入れている、と語り、<原爆投下>作戦の具体的日にちを聞いてただちにこの宣言を発表することを提案した、と語った。・・・
 スティムソンは、トルーマンに対し、マーシャル(<George >Marshall<。1880〜1959年。当時は陸軍参謀長
http://en.wikipedia.org/wiki/George_Marshall (太田)
>)との会議から推論できこととして、「ロシア<の参戦>は不要である」ことを伝えた。
 スティムソンは、次いで、大統領に対し、「<原爆投下>諸作戦の日にち」に関するハリソンからの最も最近の報告を見せた。
 スティムソンは、「トルーマンは、それこそまさに彼が欲していたものであり、彼は非常にうれしく、これが彼に<ポツダム宣言なる>警告を発するきっかけ(cue)を与えた、と語った」と記した。・・・
 フォレスタル(<James >Forrestal<。1892〜1949年。当時海軍長官。後に初代国防長官
http://en.wikipedia.org/wiki/James_Forrestal (太田)
>)がバーンズに対し、トルーマンは、「自分のポツダムでの主要な目的はロシアを戦争に引き入れることだった」と言っていたと伝えたところ、バーンズは、「大統領の見解が変わった可能性が極めて高い」と返答した。・・・
 スターリンがポツダム宣言に署名すべく呼ばれることを欲することにこだわったことについてだが、自分の署名をポツダム最後通告にすることは、ソ連による日本との中立条約違反を正当化するためだった。・・・
 私は、スターリンは、このトルーマンの拒否によって促され、<対日>攻撃の期日を1〜2日繰り上げようとしたと信じている。
 8月8日(モスクワ時間)にモロトフは佐藤にソ連の<対日>宣戦布告を手交した。
 これには、ソ連政府は、自国政府が連合国の招きにより加わったところのポツダム宣言を日本が拒否したので対日参戦を行う決定を下したと記してあったが、これは、中立条約違反を正当化するためにスターリンがでっち上げたあからさまなウソだった。・・・
 私は、自分の本の中で、スティムソンとマーシャルが原爆投下が日本を降伏させるには十分であるとは信じていなかったことに同意すると主張しているが、ついでに言うと、それこそ、マーシャルが、ソ連の参戦が日本を降伏させる処方箋として不可欠な成分であると考えた根本的な理由なのだ。・・・
 バーンズの信頼された補佐官であったウォルター・ブラウン(Walter Brown)は、自分の日記の7月18日のところに、「JFB[バーンズ]は、この<ポツダム>会議の中からロシアの対日宣戦布告がもたらされることを希望していた。<しかし、>今は、彼は、米国と英国が日本に2週間以内に降伏しないと破壊に直面するとの共同声明を発出すべきだと考えている。(秘密兵器がその時までには準備がなされているだろう。)」と記した。
 更に、彼は7月24日のところに、「JFBは原爆投下の後に日本は降伏し、ロシアは殺戮をそれほど行うことはできないであろうことから、支那に大して諸要求を迫る立場には立たないだろう」と記した。
 フォレスタルは、「バーンズは、ロシア人達が参入して大連と旅順(Port Arthur)についてとりわけ言及するようになる前に日本問題にケリを付けることに非常にこだわっていると述べた」と記している。
 これらの記述は、トルーマンではなく、バーンズだけに言及しているではないか、と言う者がいるかもしれない。
 しかし、バーンズは、当時におけるトルーマンに最も近い助言者だったのだ。・・・」http://www.h-net.org/~diplo/roundtables/PDF/Hasegawa-reply-Bernstein.pdf
(7月4日アクセス)

(続く)

太田述正コラム#4108(2010.7.3)
<原爆論争(その2)>(2010.11.8公開)

 「・・・他の軍人将校達で原爆投下の必要性に同意しなかった者に、ダグラス・マッカーサー陸軍元帥、ウィリアム・D・リーヒ(William D. Leahy)海軍元帥(大統領の首席補佐官)、カーター・クラーク(Carter Clarke)陸軍准将(日本の電文を米国の役人達のために解読して提供した軍事諜報将校)、チェスター・W・ニミッツ海軍元帥(太平洋艦隊司令長官)等がいる。
 「日本人達は、実際のところ、既に和平を求めていた。
 原爆は、純粋に軍事的観点からは、日本を敗北させることに決定的な役割を果たさなかった。」(・・・ニミッツ・・・)
 「広島と長崎での[原爆の]使用は、我々の日本に対する戦争で不可欠な助けとはならなかった。
 効果的な海上封鎖と在来兵器による成功裏の爆撃…によって、日本人達は既に敗北しており降伏する用意があった。
 核戦略の将来における致死的可能性には慄然とさせるものがある。
 私自身の気持ちは、我々がそれを最初に使用したことで、我々は暗黒時代の野蛮人と共通の倫理的水準を採用してしまったというものだ。
 私は、戦争をこんなやり方で行うよう教わってはいないし、戦争は女性達や子供達を殲滅することで勝利を収めることはできない、と思う。」(・・・リーヒ・・・)

 歴史学者のツヨシ・ハセガワは、研究を通じ、原爆投下それ自体は、日本が屈した最大の理由でさえないという結論を下した。
 彼は、<日本の>最高戦争指導会議が支那において<日本軍が>当時のソ連から喫した損害の程度を把握していなかったにもかかわらず、満州での迅速かつ圧倒的なソ連の勝利が日本の1945年8月15日の降伏を強いたと強く主張する。・・・
 
 歴史学者のジェームス・J・ワインガルトナー(James J. Weingartner)は、<しばしば見られたところの、>米国人による日本人の戦死者の死体の損壊(mutilation)と原爆投下との間に結びつきがあると見ている。
 ワインガルトナーによれば、どちらも、部分的には敵の非人間化の結果なのだ。
 「日本人が人間以下の存在であるという広く流布した観念が何十万人もの死をもたらした諸決定を正当化する感情的文脈を構成した」と。
 長崎への原爆投下の2日後、トルーマン<大統領>は、「彼等が理解するように見える唯一の言語は我々が彼等を爆撃するために用いているところのものだ。獣に対処しなければならない時は、彼を獣のように扱わなければならない。これは非常に遺憾なことだが、にもかかわらず真実だ」と語った。・・・」
http://en.wikipedia.org/wiki/Debate_over_the_atomic_bombings_of_Hiroshima_and_Nagasaki#cite_note-asada-105 同上

3 ハセガワ篇

 今度は、ハセガワ自身の言を紹介しましょう。

 「・・・もう一つ重要な点は、日本の陸軍は、陸軍大臣の阿南惟幾を含め、ソ連の侵攻の後でさえ、モスクワと交渉してソ連の中立を回復しソ連を米英から切り離すことが可能で得策であるという、信じがたいほど非現実的な希望にしがみついていたことだ。
 これが、日本政府がソ連に対してついに宣戦布告をしなかった理由だ。・・・
 私は、トルーマン政権内が、日本に天皇制を維持することを認めるべく<対日>無条件降伏<要求>を修正すべきかどうかという問題で2派に別れていたと主張している。
 無条件降伏を修正すべきであるという圧力は、とりわけ、最初はグルー(Grew)<国務次官>から、次いでスティムソン<陸軍長官>から来たが、最終的にトルーマン<大統領>とバーンズ(James F. Byrnes<。1882〜1972年)国務長官
http://en.wikipedia.org/wiki/James_F._Byrnes (太田)
>)は、彼等のこの推奨を拒否した。
 私は、このトルーマンとバーンズによってなされた意思決定は、彼等の原爆を使用するとの意図と密接に結びついていると主張している。・・・

 第一に、関東軍の将校達は、原爆投下とソ連の参戦の双方を2つの重要な出来事として言及したけれど、・・・彼等は、日本の降伏にとって、ソ連の参戦が原爆投下よりも重要な理由であったと考えた。
 尋問された上村<幹男陸軍中>将<(1892〜1946年(シベリア抑留中自決)。終戦時は満州の第4軍司令官>
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%91%E5%B9%B9%E7%94%B7 (太田)
は、・・・このことを明確に示したが、喜多誠一<陸軍大>将<(1886〜1947年(シベリア抑留中病没)。終戦時は満州の第一方面軍司令官
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%9C%E5%A4%9A%E8%AA%A0%E4%B8%80 (太田)
の声明さえ、彼がソ連の参戦(天皇が決定した)の方を原爆投下(天皇は日本が戦闘を継続するのが困難になったと考えた)よりも重視していたことを示している。
 第二に、秦彦三郎<陸軍中>将<(1890〜1959年。終戦時は関東軍総参謀長>
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A6%E5%BD%A6%E4%B8%89%E9%83%8E (太田)
は尋問で、「我々は、この年にソ連が突然日本に宣戦するとは思っていなかった。
 だから、日本とソ連との間での軍事行動が開始されたことが、日本の全国民に甚大なる影響を与えたことは疑いない。・・・」と答えている。・・・」
http://www.h-net.org/~diplo/roundtables/PDF/Hasegawa-response.pdf

(続く)

太田述正コラム#4106(2010.7.2)
<原爆論争(その1)>(2010.11.5公開)

1 始めに

 表記について、読者提示の資料の一部をご紹介しましょう。

2 資料篇

 「・・・昭和天皇は、1975年に東京で実施された初めての記者会見で、広島への原爆投下についてどう思うか尋ねられた。
 天皇は、「原爆が投下されたことは極めて残念なことであって、広島市民にはお気の毒なことであったが、それは戦時に起こったことであったので仕方がない」と答えた。・・・
 長崎への原爆投下の前日、天皇は東郷<外相>に、「敵対関係の速やかな終焉を確保する」との彼の願望を伝えた。
 東郷は、彼の回顧録に、天皇は「このような破壊的な力の兵器が我々に対して使用された以上は、我々はもはやこれ以上戦いを続けることはできず、より有利な諸条件を得ようという試みに従事することで[戦争を終結させる]機会を逸するようなことがあってはならないと警告した」と記した。
 天皇は、次いで、東郷に対し、<鈴木貫太郎>首相に彼の希望を伝えるよう求めた。・・・

 降伏理由を日本国民に提示した彼の演説<(終戦の詔書)>で、天皇は、原爆に特に言及し、仮に戦いを続けるならば、それは「終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招來スル」と述べた(注1)。

 (注1)「・・・戰局必スシモ好轉セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス加之敵ハ新ニ殘虐ナル爆彈ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ慘害ノ及フ所眞ニ測ルヘカラサルニ至ル而モ尚交戰ヲ繼續セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招來スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ・・・」
http://homepage1.nifty.com/tukahara/manshu/syusensyousyo.htm (太田)

 しかしながら、8月17日に発せられた陸海軍人へ勅語(Rescript to the Soldiers and Sailors)の中で、彼は、ソ連の侵攻に焦点をあて、原爆への一切の言及を省いた(注2)。・・・

 (注2)「・・・今ヤ新ニ蘇国ノ参戦ヲ見ルニ至リ内外諸般ノ状勢上今後ニ於ケル戦争ノ継続ハ徒ニ禍害ヲ累加シ遂ニ帝国存立ノ根基ヲ失フノ虞ナキニシモアラサルヲ察シ帝国陸海軍ノ闘魂尚烈々タルモノアルニ拘ラス光栄アル我国体護持ノ為朕ハ爰ニ米英蘇並ニ重慶ト和ヲ媾セントス・・・」
http://www.geocities.jp/nakanolib/choku/cs20.htm#陸海軍人へ勅語(昭和20年8月17日) (太田)

 「・・・戦後、豊田副武海軍大将は、「私は、原爆よりもロシアの対日参戦の方が降伏を早めたと思う」と述べた。
 鈴木<貫太郎>首相は、ソ連の戦争への参入が「戦争の継続を不可能」にしたと宣言した。
 その出来事のニュースを東郷外相から聞くや、鈴木はただちに「戦争を終結させよう」と延べ、最終的に戦争終結のための最高戦争指導会議(Supreme Council)の臨時会合を開いた。
 英国の公式史である『対日戦争(The War Against Japan)』もまた、ソ連の<対日>宣戦が「最高戦争指導会議の全構成員をして、交渉による和平の最後の望みが潰え、連合国の条件を遅かれ早かれ受諾するしか方法がないと自覚せしめるに至った」と記している。・・・

 インドの法学者のラダ・ビノード・パール(Radhabinod Pal)は、極東裁判で少数意見を書いた人物だが、戦争犯罪を犯したのが日本だけであるとの考え方を受け入れることに難色を示した。
 皇帝ヴィルヘルムII世による、第一次世界大戦を速やかに終結させるための彼の義務は、「あらゆるものが火と剣にかけられなければならない。男も女も子供もそして老人も殺戮されなければならず、一本の木も一戸の家も残されてはならない」との言明を引用しつつ、パールは、次のような見解を示す。
 「戦争を早く終えるためのかかる無差別的殺害政策は犯罪であると考察されている。
 我々の考察下の太平洋戦争において、ドイツ皇帝の上述の書簡に示されたものに近いものがあったとすれば、それは連合国による原爆の使用に係る意思決定だ。
 将来の諸世代は、この恐ろしい意思決定に<厳しい>裁定を下すだろう…。
 仮に、非戦闘員の命と財産の無差別的破壊が依然として戦争において違法であるとすれば、太平洋戦争におけるこの原爆の使用に係る意思決定は、第一次世界大戦中のドイツ皇帝の諸指示、及び第二次世界大戦中のナチの指導者達の諸指示に近い唯一のものだ」と。・・・

 ドワイト・D・アイゼンハワーは、彼の回顧録の『ホワイトハウス時代(The White House Years)』の中で、「1945年に米陸軍長官のスティムソンがドイツの自分の司令部を訪問し、私に、米国政府が日本に原爆を落とすことを準備していると教えてくれた。
 私は、このような行為の賢明さに疑念を抱くもっともらしい理由がいくつかあると感じた幾人かの一人だった。
 私は、自分の気持ちが塞ぐのに気付き、彼に対して自分が抱く深刻な不安を口にした。
 それは、第一に、日本は既に敗北していて原爆を落とすことは全く不必要である、という私の信条に立脚しており、第二に、私思うに、それが米国人の命を救う手段としてもはや不可欠ではないのに、このような兵器を行使することで、世界の世論に衝撃を与えることを米国は回避すべきである、と私は思ったからだ。」と記している。
http://en.wikipedia.org/wiki/Debate_over_the_atomic_bombings_of_Hiroshima_and_Nagasaki#cite_note-asada-105
(7月1日アクセス。以下同じ)

(続く)

太田述正コラム#2675(2008.7.18)
<ハセガワとベーカーの本(その6)>(2009.1.27公開)

 (Tsuyoshi Hasegawa, Racing The Enemy: Stalin, Truman, & the Surrender of Japan, Belknap/Harvard University Press, 2005(コラム#819)の紹介を続けます。)

 「ポツダム宣言から<ソ連が>除外されたことは、スターリンに巨大な問題をつくりだした。中立条約違反をして対日宣戦をすることの正当性を奪ったからだ。」(PP163)
 
 「米国が原爆を保有することとなり、かつトルーマンがポツダム最後通告を操作した<(ソ連を除外した)>ことで、スターリンはソ連の<対日>攻撃の時期を変えた<(=早めることにした)>。」(PP177)

 「<広島に投下される原爆(Little Boy)を積むB-29爆撃機エノラ・ゲイの乗組員の前で、>一人のプロテスタントの従軍牧師が、・・全能の神に対し、「勇ましくも天空を翔け、敵に向けて戦いを挑む人々と共にあっていただきたい」という文句を読み上げた。」(PP179)

 「広島と長崎・・・で、110,000人の文民と20,000人の軍人が即死した。1945年末までには140,000が死亡した。」(PP180)

 「・・・原爆が広島に投下されたとのニュースに接した瞬間の、トルーマンの反応は、欣喜雀躍だった。後悔や痛みをうかがわせるものは何一つなかった。」(PP181)

 「トルーマンは急いでいた。彼は原爆投下とソ連の参戦がどちらが早いか競争していることを自覚していた。だからこそ彼は、日本によるポツダム宣言の「速やかな拒絶」というストーリーをでっちあげたのだし、だからこそ彼は、広島への原爆投下のニュースに接した時に欣喜雀躍したのだ。原爆は、トルーマンが直面していたあらゆるジレンマ・・無条件降伏、日本本土侵攻作戦、ソ連参戦・・への解を意味していたのだ。」(PP183)

 「<日本の>内閣は、日本が国際赤十字及びスイスの外交当局を通じて、米国による原爆の使用が毒ガスを禁止している国際法の重大なる違反であるとの強い抗議の声を挙げることに合意した。」(PP184)

 「スターリン・・は、彼が広島への原爆投下のニュースに接した8月6日、一切の面会を拒絶した。彼のこの態度は、1941年6月のナチスによるソ連侵攻の際の反応と極めて似通っている。」(PP186)

 「8月7日、<佐藤駐ソ大使>は、再び近衛使節団の受け入れに関し、モロトフ<外相>と面会したいとの申し入れを・・・行った。<この>8月7日の佐藤の申し入れは格別な意味がある。つまりそれは、東京が原爆投下にもかかわらず、降伏はしなかったということの紛れる余地のない兆候なのだ。このニュースを聞いて、スターリンはただちに行動を起こした。彼は<対日戦総司令官の>ヴァシレフスキー(Vasilevskii)に満州<侵攻>作戦を8月9日に開始するよう命じたのだ。これは攻撃期日を48時間繰り上げたことを意味する。」(PP187)

 「8月7日のスターリンと<蒋介石政権の外相>宋子文(T.V. Soong。コラム#178)との会談はスターリンの日本へのアプローチについて重要なことを教えてくれる。すなわち、スターリンが中国に対し、外蒙古、旅順(Port Arthur)、大連に係る利権を求めた背景には、日本の将来の再興への恐れがあったということを。彼のアプローチは、イデオロギーではなく、地戦略的(geostrategic)関心によって支配されていたということだ。」(PP189)

(続く)

太田述正コラム#2669(2008.7.15)
<ハセガワとベーカーの本(その5)>(2009.1.21公開)

 7月17日、ポツダム会議に出席すべく、ソ連の占領下にあったベルリン郊外のポツダムにいたトルーマン大統領に、原爆の爆発実験が成功したとの知らせが入ります(PP140)。

 「<トルーマンもスターリンも、日本がソ連に終戦の仲介を打診してきていることにソ連が明確な回答を与えるべきではないと考えていた。ただしそれぞれ全く違った理由で・・。>スターリンにとっては、日本にモスクワの手助けによって終戦に導けると信じ込ませ続けることができれば好都合だった。そうすればスターリンは無警戒な敵に対して戦争準備を行うことができるからだ。トルーマンにとっては、<日ソ>>交渉の継続という策略が続くことは、ソ連が参戦する前に米国が日本に原爆投下することが可能になるかもしれないからだ。両者とも日本を不意打ちしようと欲していた。スターリンはソ満国境を突破することで、そしてトルーマンは原爆を投下することで。」(PP142)

 「<トルーマンは、>第一に、・・・<対日>最後通告<(ポツダム宣言のこと(太田))>は、ソ連の参戦以前に発出されなければならず、かつまたソ連は<(ソ連に日ソ中立条約破棄の名分を与えないため(太田)、)>この合同最後通告発出国から除外されるべきであり、第二に、ソ連の参戦以前に日本を降伏させるためにも、原爆は使用されなければならない<、と考えていた。>」(PP143)

 「京都を<原爆投下対象から>はずしたのは、スチムソン<米陸軍長官>が<日記に>記したところによれば、<それによって、原爆投下を行った米国に対する日本の恨みが長く残ることを回避できる上、>米国が「ロシアが満州に侵攻した場合に日本が米国寄りになること」を確保することにつながるからだった。」(PP150)

 「<恐らく間違いなくトルーマンの認可の下、原爆投下命令が>7月25日・・に発出された。・・・1945年8月3日頃より後に、広島、小倉、新潟、長崎のうちの一箇所に最初の特別爆弾を投下せよ。また、更に爆弾(複数)が・・・用意され次第、上記目標に投下せよ。」(PP152)

 「<原爆>投下命令がポツダム宣言が発出される1日前に発出されたことは銘記されるべきだ。トルーマン、スチムソン両名自身によってでっちあげられ、米国において広く信じられているところの口当たりの良い神話・・日本がポツダム宣言を拒否したことが米国の原爆投下決定をもたらした・・は事実によって裏付けられていないということだ。」(PP152)

 7月24日、ポツダムでトルーマンはスターリンに、米国が原爆製造に成功したことを伝えます。(PP154)

 「<7月25日、トルーマンは日記に、>「・・・<原爆が投下される>目標は純粋に軍事的なものだ」と記している。つまり、原爆が用いられる前に、既に大統領は「60フィートの高さの鋼鉄製の塔を完全にバラバラにする」ほどの能力のある爆弾が女子供を殺すことなく軍事目標だけに使用できると信じようと自らを欺いていたわけだ。・・・トルーマンは続けて日記に、「われわれはジャップ(Japs)に対して降伏して命を救えと求める警告声明を発出するだろう。私は、連中がそうはしないであろうことを確信している。しかしわれわれは連中にチャンスを与えたことにはなる」と記している。つまり、トルーマン・・の日記は、彼が原爆投下を正当化する口実を得るためだけのために最後通告<(ポツダム宣言)>を発出するであろうことを示唆しているわけだ。」(PP160)

(続く)

太田述正コラム#2667(2008.7.14)
<ハセガワとベーカーの本(その4)>(2009.1.19公開)

 (ハセガワの本を「原爆投下とソ連の参戦」という第5章の直前のPP176まで読んだところですが、この本が翻訳発売された暁にはぜひお読み下さい。名著です。)

 これから先は、ハセガワの本からの引用だけで基本的に進めていきましょう。

 「・・・トルーマン<大統領>は<日本に対する>無条件降伏要求を修正することを欲してはいなかった。彼は敵に無条件降伏を押しつけることで真珠湾の屈辱に報復しようとしていた。ただし、その一方で、彼はなお、この復讐への渇望を満足させつつも、米国人の生命の被害を最小限に抑える方法を探す必要があった。」(PP99)

 「<スターリンと>モロトフ<外相>の意図は紛れる余地がない。すなわち、彼<ら>は<ソ連との宥和を図ろうとした>広田<元外相・首相>とマリク<駐日ソ連大使>の諸会談を戦争を継続<させることによって日本が降伏する前にソ連が参戦するための時間稼ぎを>するための道具として使うことを欲していたのだ。」(PP99)

 「関東軍を形骸化させたことは、帝国陸軍の観点からすれば当然のことだった。というのは、日本はソ連を戦争の埒外に置いておくことができると想定していたからだ。」(PP101)

 「<1945年>6月15日、<米>統合戦争計画委員会は<日本侵攻計画を策定した。>・・・この委員会は、九州と関東平野における作戦の合計で<米軍に>193,000人の死傷者が出て、そのうち戦闘による死者数は40,000人出ると予想した。」(PP103)

 「6月18日<のホワイトハウスにおける会議では、>・・・マーシャル<陸軍参謀長>は、推定死傷者数として190,000人の兵員のうち63,000人をあげた。・・・この数字は、トルーマンやスチムソン<陸軍長官>が戦後書いた回顧録で、原爆投下を正当化するためにあげた数字よりはるかに低い・・・」(PP103〜104)

 「6月26、27日の両日、スターリンは<党>政治局、政府、そして軍の合同会議を開催した。この会議では、8月に満州で日本軍に対する全面攻勢をかけることが決定された。・・・ソ連の軍事作戦の目的は、満州、南樺太、そして千島列島を含むところの、ヤルタ協定で<ソ連に>約束された全ての領域を確保することだった。北朝鮮の占領は、日本軍の逃走路遮断のため不可欠であると考えられた。北海道についての意見は割れた。・・・<この点について>スターリンは何も言わなかった。北海道をどうするかは結局決まらないまま終わった。」(PP115〜116)

 「<トルーマンにとって>ソ連の参戦は保険にほかならないのであって、原爆こそトルーマンの最高のオプションであり続けた。更に言えば、トルーマンは・・・スターリンを、日本を敗北させるという共通の大義にコミットしている同盟者としてではなく、日本に降伏を強いることに関する競争者と見ていたことは明確だ。」(PP139)

 「スターリンが、<ソ連による>日本攻撃の日として8月15日をあげたことは、・・・米国にとって、原爆を、ソ連参戦前の8月の初頭に<日本に>投下することを至上命題たらしめた。ここに、ソ連の参戦と原爆の間の競争はクライマックスを迎えた。」(PP140)

(続く)

太田述正コラム#2661(2008.7.11)
<ハセガワとベーカーの本(その3)>(2009.1.17公開)

 例えば、ソ連の当時の外務次官のロゾフスキー(Lozovskii)はスターリンと外相のモロトフに次のようなメモを送ったというのです。
 第一に、戦後世界における主要な対立はソ連と資本主義社会の間のものとなるであろうことであり、第二に、ソ連にとって最も課題は安全保障であり、日本に関するソ連の目標は、宗谷海峡、千島列島、津軽海峡を開放することによってソ連の太平洋へのアクセスを再確保することである、と(PP19)。
 また、1944年1月11日には、当時の外務次官のマイスキー(Ivan Maiskii)がモロトフ外相に長いメモを送り、極東においては、太平洋へのアクセスを確保するためにソ連は南樺太の返還と千島列島の移管受けを実現しなければならないが、ソ連は参戦せず、米国と英国に莫大な人命と資源を費消させて日本を敗北させてから、一発の銃弾も撃つことなくして、日本の敗北後の平和会議において南樺太と千島列島を獲得することができる、と(PP25)。
 更に同年7月、モスクワに召喚されたソ連の駐日大使のマリク(Iakov Malik)がやはり長文の報告書を提出しています(PP25)。
 マリクはこの報告書の中で、日本の敗北は目前であるとし、ソ連は米国と英国が日本帝国を解体する前に行動しなければならないとし、ソ連の目標は、太平洋への通航を確保することであって、そのために満州、朝鮮、対馬、及び千島列島といった戦略的要衝を、他国が占領するのを防止しつつソ連が占領することであると記しています(PP26)。

 ハセガワは、この3名とも、ソ連の安全保障上の要請の重要性、とりわけ太平洋への自由通航の重要性を強調し、南樺太の返還と千島列島の占領を唱えており、戦後の領土問題の決着を、大西洋憲章やカイロ宣言が基礎としているところの、歴史的正当性によってではなく、安全保障上の必要性に基づいて立論していることを指摘しています(PP26)。
 同時にハセガワは、ロゾフスキーとマイスキーはソ連参戦なしでの目標達成が最上の策であるとしているのに対し、マリクはそんなことが可能か疑問を呈しているとも指摘しています(PP26)。
 ハセガワは、スターリンとモロトフは、この頃までに対日参戦を決意しており、スターリンは1944年の夏にヴァシレフスキー(Aleksandr m. Vasilevskii)元帥を白ロシア戦線から呼び戻し、彼に対日戦の総司令官をやらせるつもりであることを伝え、9月には秘密裏に、参謀本部に対し、極東における兵力集中と極東の部隊への兵站支援の見積もりを策定するよう命じた、と記しています(PP27)。

 ハセガワによれば、この時点で日本政府は、ソ連が対日戦を決意し、その準備に着手しているなどとは夢にも思わず、しかも、ソ連は領土問題の決着を安全保障上の観点から行おうとしていたのに、日本政府は、歴史的正当性に基づく最小限の譲歩を行うことで日ソ中立条約の維持が可能だと思っていた、というのです(PP29)。

 スターリンは、1944年11月6日、10月革命記念日に、初めて日本を侵略者とし、日本による真珠湾攻撃をナチスドイツの対ソ攻撃になぞらえるが、これと平行して、ソ連の新聞に反日的見解を掲載することを許す措置を講じているとハセガワは続けます(PP32)。

(続く)

太田述正コラム#2659(2008.7.10)
<ハセガワとベーカーの本(その2)>(2009.1.15公開)

3 ベーカーの本を手にとって

 何と言っても、びっくりするのは、巻末の注だけで、総頁数566頁中、92頁も占めていることです。
 小説家がここまでやるか、という執念を感じました。
 後書きを見ると、この本のタイトル、Human Smoke は、アウシュビッツで死体を焼いた煙のことだったのですね(PP474)。
 同じく後書きの中で、ベーカー(Nicholson Baker。1957年〜)は、「ニューヨークタイムスは、英国の新聞が重い検閲の下で発行されていたことから、第二次世界大戦の歴史と前史に関する恐らく単独で最も豊かな史料だろう。」と記しています。
 第二次世界大戦が、英国にとってはその存亡をかけた戦いであったのに対し、米国にとっては、余裕を持って任意で参戦した戦いに過ぎなかったことがここからもうかがえます。
 面白いのは、ベーカーが地元のニューヨーク州のロチェスター大学のイーストマン音楽学校(Eastman School of Music)に在籍したことがあることです(本の奥付)。
 この音楽学校は、全米屈指の音楽学校であり、日本で言えば芸大音楽学部に相当するといったところでしょうか。
 この音楽学校在籍者OBの有名人リスト62名中、作家が2人いますが、その1人がベーカーです。
 ベーカーが何を専攻したのか、知りたいところです。
 (以上、
http://en.wikipedia.org/wiki/Eastman_School_of_Music
(7月10日アクセス)による。)

 ベーカーはその上で、ペンシルバニア州フィラデルフィア郊外にあるクエーカー系のリベラルアーツ・カレッジであるアーヴァーフォード・カレッジ(Haverford College)を卒業しています。
 このカレッジは、ユニバーシティーを含む米国の全大学中、入学難度が18位の名門カレッジです。
 (以上、
http://en.wikipedia.org/wiki/Haverford_College
(7月10日アクセス)による。)

4 ハセガワの本の中身

 ハセガワの本のテーマは、「原爆は、それまでトルーマンが直面していたところの、解決できないジレンマ・・日本の無条件降伏をソ連の参戦以前に確保するというジレンマ・・を解決した。トルーマンはポツダム宣言を、日本への警告としてではなく、原爆の使用を正当化するために発出した。私は原爆が即時かつ決定的なノックアウト的衝撃を日本の戦闘継続意思に与えたとの共通に抱かれてきた見解に異議を唱えるものだ。すなわち、日本を降伏に誘ったことに原爆より大きな役割を果たしたのはソ連の参戦だったのだ。」(PP5)です。
 まさに、革命的な指摘であると言うべきでしょう。

 では、一体どうして日本政府は降伏を容易に決断できなかったのでしょうか。
 ハセガワは、それを当時の日本の国体観念に求めます。
 その国体について、ハセガワは、「天皇は政治、文化、、そして宗教において絶対的な力を持っている。「国体」とは、このような天皇制の政治的、かつ精神的エッセンスの象徴的表現なのだ。しかし、天皇の政治的かつ文化的中心性にもかかわらず、彼は現実の政策決定にあたっては名目的存在(figurehead)にとどまっていた。この体制が、日本の政治思想の最大の権威である丸山真男が言うところの「無責任体制」をもたらした。」(PP4)と述べています。

 国体論といい、丸山真男に対する評価といい、ここはハセガワはちょっとオーソドックス過ぎるのではないでしょうか。
 ハセガワによる、それに引き続く先の大戦の前史(PP7〜18)の叙述ぶりも、極めてオーソドックスであり、私の欲求不満が募りました。
 しかし、1941年12月7日の真珠湾攻撃でいわゆる「太平洋戦争」が始まると、ハセガワの筆がにわかに冴え始めます。

 ナチスドイツと死闘を演じていた1941年12月末段階で、スターリンやソ連の外交エリート達は来るべき対日戦のプランニングを始めていたというのです(PP19)。 

(続く)

太田述正コラム#2657(2008.7.9)
<ハセガワとベーカーの本(その1)>(2009.1.13公開)

1 始めに

 一昨日、ハセガワの本(コラム#819、821)とベーカーの本(コラム#2410、2412、2419、2463、2465、2479、2507、2536)が届きました。
 まずは、周辺的な話から始めましょう。

2 ハセガワの本を手にとって

 ハセガワの本は382頁。写真が44枚。
 ハセガワ・ツヨシ(1941年〜)は、ワシントン大学でPh.Dをとり、現在カリフォルニア大学サンタバーバラ校で教鞭を執っています。
 以前(コラム#819で)日系米国人とご紹介しましたが、日本人でらしたのですね。訂正させていただきます。
 (以上、
http://en.wikipedia.org/wiki/Tsuyoshi_Hasegawa
(7月9日アクセス)による。)

 さて、本の後ろの方にあるハセガワによる謝辞(Acknowledgments。PP363〜366)を読んだところ、結構、ハセガワと私とは接点があることが分かりました。

 ハセガワは、東京大学の学部で衞藤瀋吉(1923〜2007年)と斉藤孝(1928年〜)両氏に師事したというのですから、恐らく教養学科の国際関係論専攻だったのでしょう。
 かく言う私は、教養課程で衛藤、斉藤両先生の国際関係論の授業をとっています。
 ついでに申し上げると、私自身はどちらの先生にも余り感銘を受けませんでした。
 衛藤先生の講義は印象論的漫談といった趣の内容であり、斉藤先生の講義は、教条的マルクス主義の臭いがしたからです。 

 また、ハセガワは、東大の政治学者の佐藤誠三郎(1932〜99年)を友人であるとしていますが、佐藤先生がスタンフォードを東大の法哲学者の長尾龍一(1938年〜)先生と訪問された折、当時同大学に留学中であった私が、自分の車にお二人を乗せてスタンフォードからローレンス・リバモア国立研究所(
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%90%E3%83%A2%E3%82%A2%E5%9B%BD%E7%AB%8B%E7%A0%94%E7%A9%B6%E6%89%80
)まで往復したことがあります。
 爾来、この両先生の著作は、いくつか読ませていただきました。
 特に、佐藤先生と村上泰亮、公文俊平両先生、お三方の共著である『文明としてのイエ社会』(中央公論社 1979年)の原型となる論文は、私が「「日本型経済体制」論」(コラム#40、42、43)を執筆するに当たって、参考にさせていただいたいくつかの論文のうちの一つです。

 更に、どちらもロシア政治専門家でいらっしゃる木村汎(1936年〜。北海道大学スラブ研究センター教授→国際日本文化研究センター教授→拓殖大学海外事情研究所教授。推理小説作家の故山村美紗は実姉)氏や下斗米伸夫(1948年〜。しもとまいのぶお。法政大学法学部教授)氏等との議論は有益であったとハセガワは記していますが、木村先生とは、1981年だったか、スタンフォード大学主催の泊まり込みの国際会議が伊豆で行われた時に討論参加者としてご一緒した時以来、ずっと年賀状の交換をさせていただいてきましたし、下斗米先生もよく存じ上げています。

 ところで、ハセガワは、この本をロシアの学者であるスラヴィンスキー(Boris Nikolaevich Slavinsky)に捧げています。
 この本は、もともとはこのスラヴィンスキーとハセガワとの共著になる予定だったところ、執筆開始直前の2002年4月にスラヴィンスキーが急逝したため、ハセガワ単独で上梓することになったというのです(PP363)。

(続く)

太田述正コラム#2431(2008.3.18)
<共和党善玉・民主党悪玉論(その2)>(2008.10.12公開)

3 コメント

 皆さんもお感じになられたでしょうが、深田氏は、私の先の大戦観に近い史観を持っておられます。
 しかし、惜しむらくは、その共和党善玉・民主党悪玉論は眉唾物です。

 深田氏もさるもの、「日露戦争後から共和党セオドア・ルーズベルト政権は世界各国との戦争を想定したプランを立案し、その中には 対日戦争計画オレンジプランもふくまれていた。しかしこれは英国までふくめた主要国全てを対象(各国ごとに別のカラー名)にして立案された安保上のもので あり、日本だけを特定して狙ったものではなかった。このオレンジプランを指して「アメリカは半世紀も前から対日戦争を計画していた」と評す る意見もあるが、私はその説には賛同できない。」と予防線を張っておられます。
 しかし、遺憾ながら、この共和党のセオドア・ローズベルトこそ、オレンジ計画の策定等を通じ、半世紀弱後の日米戦争に至る布石を打った大統領であったことは、既に以前(コラム#1614、1621、1628、1629)詳しくご説明したところであり、これだけで共和党善玉・民主党悪玉論は成り立たなくなってしまうのです。
 
 もう少し付け加えましょう。
 コラム#30で「80年11月23日に、ホルブルック東アジア・太平洋担当国務次官補(当時)は、ニューヨークのジャパン・ソサエティーで行った講演で、「80年代における我々の基本的課題は、NATO、日本、ANZUS諸国と我々との主要同盟関係を強化、統合することだ。・・・今後数年間にわたって、我々は日本を米国、西欧と次第に積極的なパートナーシップに引き入れる歴史的機会に直面するだろう」と述べ、彼の上司であるマスキー国務長官(当時)は、同じ年の12月19日に、時事通信のワシントン支局長のインタビューにおいて、「日本は既に公式なNATOのメンバーだ。NATOではいつも日本のことを考えながら議論する。・・・NATOは時代遅れの地域的な機構に他ならない。もっとグローバルなものにしなければならない・・・NATOと日本だけでなく、オーストラリア、ニュージーランド、ASEANなども考えに入れていきたい」と語り、支局長の「日本が軍事的に強くなるのは周辺諸国に色々な懸念を起こしてまずいのではないか」との質問を、「そんな話は大昔の話だ・・一世代前の話だ。今日の若い人々の世代はもう忘れている」と一笑に付している。」と記したところです。
 私がこれらの発言の情報に接した時の胸の鼓動の高まりを今でもはっきり覚えています。
 言うまでもなく、この時の大統領は民主党のカーターです。

 そういうわけで、先般、「<クリントン候補>の「日本軽視」ぶりが日本側の不評を買ったため、ヒラリー候補の外交顧問を務めるホルブルック元国連大使は今年1月、同候補の声明を発表し、「日米同盟は米国のアジア・太平洋地域の基礎」と強調してみせた。「ホルブルック氏は、日本の反応を随分気にして釈明に汗をかいた」(関係者)ようだ。ヒラリー政権誕生なら、そのホルブルック氏が国務長官に就任する可能性が高いという。同氏について、越智道雄・明治大学名誉教授は、こう解説する。「クリントン政権下の1995年、国務次官補としてボスニア問題でデイトン和平合意に導き、外交手腕は高く評価されている。正真正銘、本物の外交官。アジアより欧州重視のイメージが強いが、カーター政権でも東アジア担当の国務次官補として日米関係に関与している」」(
http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/yw/yw08031601.htm
。3月14日アクセス)と久方ぶりのホルブルックの登場(コラム#2333)に何とも懐かしい思いがしました。
 しかし、引用記事中に登場する越智道雄氏も、東アジア担当国務次官補当時の上記80年11月23日のホルブルック発言には言及していませんね。
 それも無理からぬものがあります。
 というのは、ホルブルック発言もマスキー発言も、当時ほとんど日本では報道されなかったからです。思うに、吉田ドクトリンと背馳する発言等は意識的無意識的に当時の日本のメディアは排除していたのです。

 惜しむらくは、この時点でカーターは共和党のレーガンに大統領選挙で敗れており、翌1981年1月に大統領を辞任することが決まっていたことです。
 ですから、これはカーター政権からレーガン政権への申し継ぎのような話であったわけですが、レーガン政権は、カーター政権の日本に対する防衛努力要請は引き継いだものの、「NATO、日本、ANZUS諸国と我々との主要同盟関係を強化、統合する」政策・・当然日本による集団的自衛権の行使が前提となる・・を追求しようとはしませんでした。
 換言すれば、レーガンは日本を米国の属国のままにとどめようと考えた、ということです。
 期待していただけに、私はがっかりしたものです。

 これだけ言えばお分かりいただけたでしょう。
 例えば、共和党のフーバー大統領(コラム#597〜599)とその後を襲った民主党のローズベルト大統領(コラム#省略)に関しては、前者は日本にとって善玉であり、後者は悪玉であったと言えるものの、全体として見れば、共和党善玉・民主党悪玉論は到底成り立ちえないということが・・。、
 
(完)

太田述正コラム#2428(2008.3.17)
<共和党善玉・民主党悪玉論(その1)>(2008.10.11公開)

1 始めに

 本日は、「軍学者」を自称されているらしい兵頭二十八氏(1960年〜)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B5%E9%A0%AD%E4%BA%8C%E5%8D%81%E5%85%AB
)と共著を出さないかという話が某出版社から寄せられました。
 私から、インタビューしてもらって原稿を起こす方法か、私のコラムから切り貼りで原稿を見繕う方法かをとってもらえるのならいいですよと答えておきました。
 先方が難色を示しているので、この話は実らないかもしれませんね。
 そうこうしているうちに、Mixiの太田コミュニティに「日本はアメリカの属国では無く、支那(中国)の属国になった。」というトピックを立てた人が現れました。
 長い長い投稿の出出しが、「主権とは国家の独立性、つまり国の在り方について他国の干渉や介入を一切許さず、自国の事は自国で決めるという事である。属国で有るか否かの判断基準は1つである。それは、自国への内政を許すか否かである。自国への内政を許すという事は主権を無くすという事で有る。現在、日本の安全保障は、アメリカによって護られているが、それは日米安保という軍事同盟に基づくものであって属国の根拠にはならない。米軍基地は欧州などの他国にも有る。」であったので、 コリャダメだ(注)と、トピック名を含め、全部削除しようかと迷いつつ、斜め読みすると、日本が中共の属国になってしまっているという主張が長々と続いたので、いよいよ削除しようとしたのですが、深田匠『日本人が知らない「二つのアメリカ」の世界戦略』(高木書房2004年10月)という本の紹介があり、この本の抜粋が
http://www.asyura2.com/0406/bd37/msg/1134.html
http://jpn.yamato.omiki.com/documents/two_america/4-1.html
で読めるというので、つられて読んでしまいました。

 (注)宗主国に内政への干渉や介入を許すというのはその国が植民地であることを意味するのであり、宗主国に外交や安全保障のみを委ねる属国(保護国)とは違う。なお、外国に軍事基地を提供していることが即属国であることを意味するわけではもちろんない。

 兵頭二十八氏や深田匠氏といった活きの良い市井の(失礼!)評論家が現在の日本にはたくさんおられるようですね。

2 共和党善玉・民主党悪玉論

 深田氏の本のテーマは、いわば米国の共和党善玉・民主党悪玉論であり、時々日本で耳にする議論を極限まで推し進めたものです。
 上記抜粋中、面白かった箇所のいくつかを下に掲げておきます。

 「民主党F・D・ルーズベルトの叔父ではあっても共和党の大統領であったセオドア・ルーズベルトは、日露戦争で日本を支援して講和を斡旋し、東郷元帥を尊敬し、教育勅語や武士道精神を高く評価するなど、親日的なスタンスを示していた。」

 「共和党の下院議員であったハミルトン・フィッシュは自著の中で、「ルーズベルトは民主主義者から民主主義左派・過激民主主義者を経て、社会主義者、そして共産主義支持者へと変貌 していった」と述べており、真珠湾攻撃における米上下院議会の対日開戦支持について「我々はその時の支持すべてを否定しなければならない。なぜならば、真 珠湾攻撃の直前にルーズベルトが日本に対し戦争最後通牒(ハルノート)を送りつけていたことを、当時の国会議員は誰一人知らなかったからである」とも述べ ている。またハミルトン・フィッシュは、同著で当時の共和党下院議員の九十%が日本との戦争に反対していた事実を明らかにしており、ハルノートを指して「これによって日本には、自殺するか、降服するか、さもなくば戦うかの選択しか残されなかった」と強く批判し、「日本は天然資源はほとんど 保有せず、また冷酷な隣国であるソビエトの脅威に常に直面していた。天皇は名誉と平和を重んじる人物で、戦争を避けようと努力していた。日本との間の悲惨な戦争は不必要であった。それは、お互い同士よりも共産主義の脅威を怖れていた日米両国にとって悲劇的だった。我々は戦争から何も得るところがなかったばかりか、中国を共産主義者の手に奪われることになった」とも述べている。ちなみにフィッシュは戦時中も「米国の敵は日独では なくソ連だ」と主張し続けていた為に、アメリカに潜入していた英国の対米プロパガンダエ作機関「イントレピッド」による中傷工作を受けて一九四四年に落選に至っている」

 「民主党のルーズベルト政権であのハルノートはハルが書いたものではなく、その原稿を執筆したのはハリー・D・ホワイトという財務省特別補佐官だが、この人物はソ連KGB工作員であったことが一九四八年七月に発覚し、しかもそのわずか一ヵ月後の八月十六日に突然の変死をとげている。おそらくKGBによって消されたのではないか。アメリカをソ連の見方として参戦させるために、ソ連のビタリー・パブロフという工作員から「日本が絶対に受け入れられない条件を書いてくれ」と依頼されたホワイトは、日本を追いつめるためにもハルノートを作成したのだ。・・ルーズベルトのニューディール政策は共産主義的な面があるため、マルクス・レーニン主義者が大挙して政権要所に入りこんでソ連のために日米開戦を誘導し、また共和党マッカーシー上院議員のレッドパージ(アカ狩り)の対象の大半が民主党左派であり、ソ連のスパイとして協力してきた者の大半は民主党支持者であることからも、民主党の容共的左派体質は明らかなのだ。そしてそのため民主党と中国共産党の結び付きも、共和党とは比較にならない程に深いものがある。」

 「アイゼンハワーに至ってはスチムソン陸軍長官に対し「米国が世界で最初にそんなにも恐ろしく破壊的な新兵器<(原爆(太田))>を使用する国になるのを、私は見たくない」(一九六三年の回想録)と何度も激しく抗議していた。・・アイゼンハワーは、大統領在任中の一九五五年一月にルーズベルトを強く批判して「私は非常に大きな間違いをしたある大統領の名前を挙げることができる」と述 べ、ルーズベルトが対日謀略を重ねて日米開戦を導いたこと、日本へ不必要な原爆投下の決定を行ったこと、ヤルタ協定で東欧をソ連に売りとばしたことなどを 挙げて非難している。ソ連のスパイであったアルジャー・ヒスが草案を作成したヤルタ協定は「ソ連の主張は日本の降状後、異論なく完全に達成 されることで合意した」と定めているが、一九五六年に共和党アイゼンハワー政権は「(ソ連による日本北方領土占有を含む)ヤルタ協定はルーズベルト個人の 文書であり、米国政府の公式文書ではなく無効である」との米国務省公式声明を発出した。」

 「共和党史観を代表する一例として、先の大戦のアメリカ中国戦線総司令官A・C・ウェディマイヤー大将の回想録を以下に引用しよう。「ルーズベルトは中立の公約に背き、日独伊同盟を逆手に取り、日本に無理難題を強要して追い詰め、真珠湾の米艦隊をオトリにして米国を欧州戦争へ裏口から参加さ せた。(小略)米英は戦閾には勝ったが、戦争目的において勝利者ではない。英国は広大な植民地を失って二流国に転落し、米国は莫大な戦死者を出しただけである。真の勝利者はソ連であり、戦争の混乱を利用して領土を拡大し、東欧を中心に衛星共産主義国を量産した。米国は敵を間違えたのだ。ドイツを倒したことで、ナチスドイツ以上に凶悪かつ好戦的なソ連の力を増大させ、その力は米国を苦しめている。また日本を倒したことで、中国全土を共産党の手 に渡してしまった。やがて巨大な人口を抱える共産主義国家がアジアでも米国の新たな敵として立ちふさがるであろう」

 「クリントンの対北<朝鮮>交渉について共和党のリチャード・アーミテージ・・は当時「もし、きちんとした外交のエキスパートを備えた共和党政権ならば(小略)米国は北朝鮮に圧力をかけただろう」「日米ともに指導者が悪すぎる」と率直にコメントしていたが、当時の日本の「悪すぎる」指導者とは細川・羽田・村山の各政権である。・・<ブッシュ政権になり、>アメリカはもはやクリントン時代の対朝スタンスを一変させており、中朝に媚びているのは相変わらず日本だけなのだ。・・このクリントンの訪中の前年、一九九七年十月に訪米した江沢民は最初にわざわざ真珠湾に立ち寄り、出迎えに駆けつけたクリントンと肩を並べて「我々は共に日本と戦った戦友だ」と気勢をあげていたが、翌年訪中したクリントンも江沢民主催の晩餐会で「米中両国はかつて日本と戦った同盟国だった」とスピーチしている。もしブッシュならば絶対に口にしないようなこのクリントンの スピーチには、親中嫌日の伝統を持つ民主党のホンネが露呈している。一方、二〇〇二年五月に訪米した胡錦濤もまず真珠湾に立ち寄るというパフォーマンスを行ったが、ブッシュはこれに冷淡に対応しワシントンから動こうとせずに胡錦濤を迎えている。」

 「これらの歴史が物語る真実は、この二大政党の対日観や共産主義に対する姿勢が全く正反対であるということなのだ。・・<また、>共和党は軍人であり、民主党は商人である。商人は損か得かで判断するが、軍人は敵か味方をハッキリと区別して経済的な損得勘定では動かない。・・ 高名な文化人類 学者シーラ・ジョンソンは、一九九六年の自著『アメリカ人の日本観』の中で「アメリカには二つの相反する日本観がある」として、「ペリー提督の部下は日本 人を世界で最も礼儀正しい国民だと考えたが、ペリー自身は、日本人は嘘つきで逃げ口上ばかり言う偽善的な国民だと公言した」と述べ、この二つの対日観は 「以後百年間変わっていない」と断じている。ペリーの対日観を継ぎ日本を嫌い「弱い日本」を望む勢力を代表するのが民主党、そしてペリーの部下の対日観を 継ぎに日本に理解を示し「強い日本」を望む勢力の代表が共和党なのだ。」

 「民主党の政治資金を支えているのは、ニュー ヨークのウォールストリートを中心とする金融財界と米三大ネットワークを中心とするメディア業界だが、その両方ともがユダヤ資本であり、ユダヤ系財閥の王 者ロックフェラー家もJ・D・ロックフェラー四世が民主党上院議員を努めている。・・現在アメリカでは年間四万件の訴訟(一人あたりの件数は日本の約三十倍)が起こされているが、この訴訟原告専門弁護士業界(約四十%がユダヤ人)が一 致して民主党を支持しており、民主党の重要な政治資金源になっている。」

(続く)

太田述正コラム#2420(2008.3.13)
<日本をめぐる話題(その4)>(2008.10.10公開)

4 原爆投下

 (1)前置き

 ロバート・オッペンハイマー(Joseph Robert Oppenheimer。1904〜1967年)の伝記である、Kai Bird and Martin J. Sherwinによるところの'AMERICAN PROMETHEUS The Triumph and Tragedy of J. Robert Oppenheimer’が上梓されたのは2005年前半だというのに、今年になって、1月にガーディアンがその書評を掲載したと思ったら、同紙は2月にもまた書評を掲載しました。
 そこまでガーディアンが入れ込むのであれば、オッペンハイマーのことをいつかコラムで取り上げなければいけないと思っていました。
 それがどうして「日本をめぐる話題」であるのかはすぐ分かります。

 (2)ロバート・オッペンハイマー

 オッペンハイマーがいなくても核兵器は早晩開発されたでしょうが、先の大戦が終わるまでにはできなかった可能性があるとされています。このような意味で、まさにオッペンハイマーは原爆の父なのです。
 オッペンハイマーはニューヨークのドイツ系ユダヤ人の家に生まれました。
 ハーバード大学で化学を専攻し、ケンブリッジ大学で物理学に魅入られ、ゲッティンゲン大学で理論物理学の博士号を取得します。
 帰国後はカリフォルニア大学バークレー校の教授を勤めますが、彼はインドの古典であるバガバッド・ギータ(Bhagavad Gita)をサンスクリットで読むほど大好きな幅の広い人物であるとともに、政治や社会に強い関心を持ち、共産党シンパであって労働運動を支援したりスペイン内乱の反ファシスト側に献金したりするような人物でもありました。
 1939年にドイツの二人の科学者がウラン原子の原子核に中性子をぶつけるとその核が分裂すると発表しました。
 米国で1942年に陸軍の所管の下で、ナチスドイツが原爆を開発するより前に原爆を開発しようとする計画、いわゆるマンハッタン計画が立ち上がると、オッペンハイマーはその科学面での責任者に任命されます。
 彼の尽力により、1945年7月、米国は原子爆弾の開発に世界で初めて成功し、8月にはそれが広島と長崎に落とされます。
 オッペンハイマーは、広島に原爆を投下する準備をしていた士官に、「高すぎる位置で爆発させるな。そうすると目標に大きな損害を与えることができないからね。」といったアドバイスまでしています。
 しかし、広島に次いで長崎に原爆が投下され、日本が降伏してしばらくするとオッペンハイマーの頭髪は一挙に真っ白になってしまいます。
 「われわれは、既に敗北していた敵に対して原爆を使った」と1946年に記していることからも、彼が強い良心的呵責に苛まれていたことが推察できます。
 彼は、1945年にトルーマン大統領に内輪の会で会った際、「私の手は血にまみれている」と繰り返し語りかけ、トルーマンを怒らせています。「泣き虫小僧の科学者め」というわけです。
 後に、ハンガリー生まれの理論物理学者のテラー(Edward Teller。1908〜2003年)らが水爆開発計画に乗りだした時、オッペンハイマーは、原爆より1,000倍も強力な「水爆は、戦争のための兵器ではなくジェノサイドのための兵器だ」と批判しました。
 そして、プリンストン大学の高等科学研究所(Intstitute of Advanced Study)の所長となったオッペンハイマーは、新しく設けられた米原子力委員会(Atomic Energy Commission)の首席科学顧問として、核廃絶は不可能だとしても、せめて核を国際管理の下に置くべきだと主張したのです。
 これに反発した勢力は、オッペンハイマーにスパイの嫌疑をでっちあげて彼を失脚へと追い込むのです。
 米国の科学者達が、自分の狭い専門領域以外の発言を自粛するようになってしまったのはそのためだとされています。

 (以上、
http://books.guardian.co.uk/reviews/biography/0,,2243588,00.html  
(1月20日アクセス)、
http://books.guardian.co.uk/reviews/history/0,,2250818,00.html
(2月2日アクセス)、
http://www.washingtonpost.com/ac2/wp-dyn/A35705-2005Apr7?language=printer
http://www.bookslut.com/nonfiction/2005_10_006820.php
(どちらも3月13日アクセス)による。)

 (3)感想

 オッペンハイマーやマクナマラ(コラム#122、123)のように、原爆投下や日本の都市への戦略爆撃への自らの関与について良心の呵責に苦しむ人々が米国にいることは、われわれ日本人にとって、せめてもの慰めですね。

(完)

太田述正コラム#2500(2008.4.21)
<先の大戦正戦論から脱する米国?(続々)(その2)>(2008.5.26公開)

5 感想

 米国人のローゼンバウムもトーマスも、そしてイギリス人のヘースティングスも、ことごとくハセガワの本の存在を見て見ぬふりをしていることからくるイライラを、バードがまとめて断罪してくれたようなものであり、溜飲が下がりました。
 ハセガワの本やバードの共著の(オッペンハイマーについての)本等をめぐって、日本の論壇ではいかなる議論が出ているのでしょうか、それとも出てないのでしょうか。日本の論壇を全くフォローしていない私には分かりません。
 それにしても私には、日本の原水爆禁止運動団体は何をしているのだという思いを禁じ得ません。
 広島や長崎の市長だって、彼らから何も聞こえてきませんし、広島の場合は平和記念資料館があるというのに、そのサイト(
http://www.pcf.city.hiroshima.jp/
)を見ても、このような米国での論争の類など全く関心の埒外にあるように見受けられます。
 広島市も、その平和記念資料館も核の廃絶を訴えているわけですが、核が現実に用いられたのは広島と長崎においてだけであり、この原爆投下が正当であった、意味があったという米国の公定史観を紹介、批判するとともに、この公定史観が誤っていると指摘する説の紹介に努めることは、核廃絶運動にとって極めて意義が大きいことを考えると、首をひねらざるをえません。
 それにしても、対日戦だけではなく、原爆投下に関しても、米国において、先の大戦正戦論から脱する兆候がみられることは慶賀の至りです。

6 付け足し

 イギリス人ヘースティングスの日本に対する底意地の悪い物の言い様は、私が何度も指摘しているところの、日本によって大英帝国を瓦解させられた憾み(例えばコラム#805)・・イギリスのまともなエリート達は克服済み・・の産物であると考えればいいでしょう。
 ここでは付け足し的に、原爆投下問題そのものから離れ、彼の主張を紹介するとともに、私のコメントを付したいと思います。
 ヘースティングスは要旨次のように記しています。

 この戦いは人種戦争的様相を帯びていた(注2)。

 (注2)ダワー(John Dower)が'War without Mercy: Race and Power in the Pacific War’(1986年。邦訳あり)で詳述している。(太田)

 英軍のスリム(Sir William Slim)将軍は、日本の兵士は「史上最も恐るべき戦闘昆虫だ」と述べた。また、硫黄島の戦いからハワイに戻った米海兵隊員の中には、日系米人達の前でのパレードの際、日本人の頭蓋骨を振りながら「これが杭に乗っかったお前らの叔父さんだぞ」と呼ばわった者達がいた。
 しかし、こんなことより、日本側が英米側に施した蛮行の方がはるかにひどい(前出)。
 しかも、日本は自分達の兵士の扱いだってひどかった。
 日本海軍は、米海軍とは違って、不時着したり撃墜された航空機の乗員の捜索・救難を行わなかった。そのため、何百人という熟練した操縦士達を失うことになった。
 また、日本の軍国主義者達は、古の武士道の規範を死の病的カルトへとねじ曲げた。
 日本人は降伏するより死を願うべきものとされ、戦争が進行するにつれ、米側もこのことに順応して行った。
 日本の捕虜達が自分達を救出した米艦艇でサボタージュ活動を試みることを米側が周知すると、米艦艇は海中の日本兵を救出しなくなり、時々「諜報サンプル」用に拾い上げるだけになった。
 日本側においては、降伏することは恥だと考えられていたがゆえに、降伏した米兵は不名誉を犯したとみなされ、基本的な人間としての尊厳を放棄したものとみなされた。
 (以上、ニューヨークタイムス前掲による。)

 しかし、英米側が日本側に対して行った蛮行の方がはるかにひどいと言うべきでしょう。
 いわゆる南京事件は、降伏しなかった国民党軍の国際法違反が引き金となり、それに日本軍兵士達の個人的規律違反が加わって引き起こされたものであり、日本軍の「制度的」蛮行の例証にはなりません。(いずれにせよ、支那派遣日本軍の規律が弛緩していたことは厳しく咎められなければなりません。)(コラム#253、254、256〜259)
 シンガポールの支那系壮年男子住民の大量殺害は、過剰なゲリラないし諜報工作予防措置ではあったけれど、国際法違反であったかどうかは微妙なところではないでしょうか。(いずれきちんと論じたいと思います。)
 英米兵捕虜に労働させたこと自体は国際法違反ではありませんが、彼らの死亡率が監督した日本兵や同様の労働に従事した日本人よりはるかに高かったのは、日本兵並みの食事しか与えられず、しかも彼らが亜熱帯の環境下において日本人より脆弱であったことによる部分もあるとはいえ、国際法違反と言わざるをえません。(コラム#805、806) 
 他方、いわゆるフィリピンにおけるバターンの死の行進は、米兵の捕虜が、劣悪であった日本兵と同等の処遇を受けた結果生じたものであり、国際法違反であるとは言えません。(コラム#830、1433)
 (いずれにせよ、ここでも、日本が兵士の命を、給養面でも作戦においても大事にしなかったことは厳しく咎められなければなりません。)
 大事なことは、これらは戦後ことごとく英米側によって国際法違反と断じられ、BC級戦犯が数多く処刑されたのに対し、英米側が犯した同等の行為(コラム#1433)は、戦時中に日本側によって処断されたもの以外は、放任されたまま現在に至っているという事実です。
 これに対し、米国による日本の都市に対する戦略爆撃と原爆投下は、もっぱら文民の大量殺害を意図した「制度的」(組織的計画的)な行為であり、明白な国際法違反です。特に原爆投下は、化学兵器使用を禁じた国際法違反にも該当すると言うべきでしょう。
 (戦略爆撃そのものについては、コラム#520、521、523、日本に対する戦略爆撃の違法性については、コラム#213、258、423、805、806等参照。) 
 これらの蛮行の責任者達すら、放任されたまま現在に至っていることはご存じのとおりです。

(完)

太田述正コラム#2498(2008.4.20)
<先の大戦正戦論から脱する米国?(続々)(その1)>(2008.5.25公開)

1 始めに

 4月4日に(コラム#2467で)「日本との戦争について、米英における既成観念を問い直そうとしているのはロサンゼルスタイムスであるのに対し、ワシントンポストは正反対のスタンスであり、他方、ニューヨークタイムスは、どっちともつかずのスタンスをとり、ひたすら日本との戦争の直視を避けて逃げ回っている・・・。この関連で、ニューヨークを拠点とする米国の有名なフリーランスのジャーナリストと、ニューヨークタイムス自身の、日本への原爆投下に関する、臆病かつ卑怯な筆致を<近々>問題にし・・たいと思います。」と記したところです。
 ところが、ワシントンポストが、4月17日付で原爆投下を批判する内容の書評を掲載したのです。こうなると、米国の有力紙3紙に関する評価は見直す必要が出てきます。
 というわけで、原爆投下問題に関する上記米フリーランス・ジャーナリストのコラム、及び上記ニューヨークタイムス(に掲載された原爆投下問題を主要テーマとする本に対する肯定的)書評のさわりをご紹介した上で、これらに対する私の批判を、ワシントンポストに掲載された上記(同じ本に対する否定的)書評のさわりを援用しつつ行いたいと思います。

2 フリーランス・ジャーナリストのコラム

 米国のフリーランスのジャーナリスト兼著述家であるローゼンバウム(Ron Rosenbaum)は、広島から米スレート誌に概略下掲のようなコラムを寄稿しました。

 広島に来てみると、被爆直後はひどかったけれど、時間がちょっと経過すれば、まあまあの再建計画さえあれば、立派に都市が蘇るものであることが分かる。
 1995年にアルペロヴィッツ(Gar Alperovitz)が『原爆投下決定(The Decision To Use the Atomic Bomb)』を上梓し、日本は降伏しようとしていたが、米国は、(日本が和平仲介を打診していたところの)ソ連との来るべき冷戦を予期しつつ、このソ連を畏怖させるために原爆を日本に投下することにした、と主張した。
 しかし、昭和天皇がどうなるのか、そして天皇制がどうなるのかが当時の日本政府の最大の関心事であり、原爆投下までは日本は確定的な降伏意思を固めてはいなかったので、このアルペロヴィッツ説はとることができない。
 (以上、
http://www.slate.com/id/2187282/  
(3月26日アクセス)による。)

3 ニューヨークタイムス書評

 米ニューズウィーク誌の編集陣の一員であるトーマス(Evan Thomas)は、英国のジャーナリスト兼編集者兼歴史家兼著述家のヘースティングス(Max Hasting)の『報い--日本との戦い 1944〜45年(RETRIBUTION--The Battle for Japan, 1944-45)』(注1)についてのニューヨークタイムス掲載書評で、以下のようにヘースティングスの主張を要約した上、これに賛意を表明しました。

 (注1)この本の第一章の冒頭部分を、
http://www.washingtonpost.com/wp-srv/style/longterm/books/chap1/retribution.htm
(4月20日アクセス)で読むことができる。

 先の大戦においては、英米側も日本側も無数の戦争犯罪を犯したが、日本側の戦争犯罪の方がはるかにタチが悪かった。
 日本兵によるサディスティックな行為は偶発的なものではなく制度的なものだったからだ。
 捕虜達や文民たる収容者達は餓死させられ、銃剣で刺し殺され、首を刎ねられ、強姦致死させられ、時には生体解剖された。
 だから、こんな日本が原爆を投下されたのは正当な報いだったのだ。

 (以上、特に断っていない限り
http://www.nytimes.com/2008/03/30/books/review/Thomas2-t.html?ref=world&pagewanted=print  
(3月30日アクセス)による。)

4 ワシントンポスト書評

 これに対し、ピュリッツァー賞を受賞したオッペンハイマーの伝記の共著者の一人である米国のバード(Kai Bird。現在ネパールのカトマンズ居住)(コラム#2420)は、ワシントンポストに掲載された上記ヘースティングスの本に対する書評で、ヘースティングスが原爆投下は正当であったと主張するためにつくられた「日本がいずれにせよ降伏する用意があったという神話は最近の研究によって完全に否定されているというのに、何人かの論者がまだそんなことを主張しているのは呆れるほかない。・・こんな連中は幻想の行商人だ」とも記しているとした上で、以下のようにヘースティングスを厳しく批判しています。

 ヘースティングスが記していることは、一方的主張(assertion)に過ぎず、およそ議論(argument)の体をなしていない。
 3年前にカリフォルニア大学サンタバーバラ校のハセガワ(Tsuyoshi Hasegawa)は、広く好評を博した著書'Racing the Enemy: Stalin, Truman and the Surrender of Japan’(コラム#819、820、821、830、1849)において、原爆投下ではなくソ連の参戦こそが日本の降伏をもたらしたことを証明したというのに、ヘースティングスは読者にこの新しい証明の出現を知らせることを怠っている。
 当時、陸軍長官のスティムソン(Henry Stimson)、陸軍次官のマクロイ(John J. McCloy)、国務省のグルー(Joseph Grew)、陸軍大将のマーシャル(George Marshall)らや、ワシントンポストが、日本に対し、無条件降伏の条件として天皇を立憲君主として維持することを認めると明確に通告すべきである、としていたのに、大統領のトルーマン(Harry S. Truman)が耳を貸さなかったことこそ問題なのだ。
 そうしておれば、日本が降伏したかもしれないことをヘースティングス自身がこの本の中で認めているではないか。
 広島に原爆が投下される3日前の1945年8月3日に、トルーマン自身と国務長官のバーンズ(James F. Byrnes)、大統領首席幕僚であった海軍大将のリーヒ(William D. Leahy)は日本が降伏したがっていることを全員で確認していたではないか。
 しかも、米上院の共和党の指導部は、国務省が日本が望んでいることを知っていたところの、天皇制の存続の保証を与えずに戦争を長引かせているとして、トルーマンをあからさまに攻撃していたではないか。

 (以上、特に断っていない限り
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2008/04/17/AR2008041703311_pf.html
(4月20日アクセス)による。)

(続く)

太田述正コラム#1898(2007.8.8)
<原爆投下62年と米国>(2007.9.9公開)

1 始めに

 原爆投下62周年を迎えたわけですが、米国の主要メディアが原爆投下をどのように報じているのか、あるいは報じていないのかを検証してみようと思い立ちました。
 その結果、ニューヨークタイムス電子版やスレート誌の沈黙が気になりますが、ロサンゼルスタイムスの電子版が二回、CNNの電子版が一回、ワシントンポストの電子版が一回採り上げていることが分かりました。

2 ロサンゼルスタイムス電子版

 (1)ニュース報道

 6日付のロサンゼルスタイムス電子版は短い記事(
http://www.latimes.com/news/nationworld/world/la-fg-briefs6aug06,1,7779623.story?coll=la-headlines-world  
。8月7日アクセス)ですが、安倍首相の広島での慰霊祭出席を取り上げていました。
 記事の焦点は、久間前防衛大臣の「仕方がない」発言を同首相が謝罪した点です。
 この記事は、久間発言を、「原爆投下は戦争を早く終わらせた。おかげでソ連に日本の領土を奪われないで済んだ」というものだと紹介していますが、「原爆投下は戦争を早く終わらせることによって米兵多数の命を救った」という米国における社会通念(注)だって、日本では大臣が馘首されるほどの暴言であることを米国人に知らしめることを暗に意図している、と思いたいところです。

 (注)原爆投下は「百万人」の米兵の命を救ったという社会通念の虚構性を暴いた、東大教授(独文学)中澤英雄氏の「原爆百万人米兵救済神話の起源」萬晩報2007年07月08日参照。

 (2)当時の手紙の紹介

 6日付のロサンゼルスタイムス電子版のもう一つの記事(
http://www.latimes.com/news/opinion/la-oe-smollar6aug06,0,324571,print.story?coll=la-opinion-rightrail  
。8月7日アクセス)は、同紙の元記者が、1945年当時フィリピンに軍医として滞在していた父親が、広島に原爆が投下されたことを知って米国にいる妻(記者の母親)宛に出した手紙を紹介したものです。
 これで戦争が早く終わると喜んだ手紙を出した後、次第に人類の将来を心配したペシミスティックな内容に手紙は変わって行ったというのです。
 この記事は、原爆が投下された時点では米国人の間ではこのような声があったのに、それから52年経った現在、このような声が余り聞かれないことを問題視している、と私は受け止めました。

 いや、この記事は、もっと根本的な問題提起をしているように思います。
 というのは、この記事の中で、この軍医たる父親が、原爆投下を知る以前に出した手紙の内容・・米軍当局が2軒の売春宿の設立を命じた、一つは白人用でもう一つは有色人種(黒人?)用だった、設立目的は米兵の性病罹患防止だった、軍医は医療面を担当することになっており、部隊の司令官と憲兵士官と「マダム」に会えと言われた・・がわざわざ紹介されているからです。
 つまりこの記事の記者は、米下院の先般の慰安婦決議の偽善性を衝こうとしているのであって、米軍だって先の大戦の時に軍が関与して売春宿をつくったではないか、しかも米軍には日本軍には見られなかった人種差別があったではないか、それだけでも慰安婦決議はなされるべきではなかったし、そもそも、原爆を投下して日本の一般市民を大量虐殺したことへの真摯な謝罪なくして慰安婦問題ごときで日本を声高に非難するのは偽善この上ない、と言いたいのだと私は思うのです。
 
2 CNN電子版

 CNN電子版の記事(
http://www.cnn.com/2007/SHOWBIZ/TV/08/06/HBO.atomic.survivor.ap/index.html  
。8月7日アクセス)はAP電をキャリーしたものですが、日系人のオカザキ(Steve Okazaki)が撮ったTVドキュメンタリー「白い光/黒い雨:広島と長崎の破壊(White Light/Black Rain: The Destruction of Hiroshima and Nagasaki)の紹介です。
 
 この記事は、上記ドキュメンタリーに出てくる原爆投下直後の瓦礫の山と化した広島や長崎の風景やひどく醜い姿になった被爆者の写真や映像を米国で目にすることは これまでほとんどなかったとし、その理由はホロコーストと違ってこれは米国人がやったことゆえ米国人は見たくなかったからだ、と指摘します。
 そして、被爆者から米国人が目をそむけてきたのは、原爆が一瞬にして20万人の命を奪ったと思いたいのであって、後遺症に長く苦しんで亡くなった人や長く苦しみながら生きている人々がいるなどと思いたくないからでもある、と付け加えています。
 日本で被爆者を差別し、被爆者をして余り語らせないようにしてきたこともこれを助長した、というのです。
 その上で、このドキュメンタリーが米国のサンダンス映画祭で上映されたところ、知的には歓迎されたものの、情的には観客はゆさぶらずほとんど誰も涙を流さなかったという奇妙な反応だったことに触れています。

 慰安婦決議を推進したホンダ米下院議員のような日系人もいるけれど、オカザキのような日系人もいることをわれわれは忘れてはならないでしょう。

3 ワシントンポスト

 ワシントンポストの6日付電子版の論考(
http://newsweek.washingtonpost.com/onfaith/guestvoices/2007/08/the_soul_of_the_destroying_nat.html?hpid=opinionsbox1
。8月8日アクセス)は、原爆実験場のニューメキシコ州ロスアラモス(Los Alamos)の近くで育ったギャラハー(Nora Gallagher)が、自分が書いた原爆をテーマにした小説を紹介しつつ、原爆投下に対する彼女の心情を述べたものです。

 まず彼女は、原爆投下時点で広島の人口は40万人だったが、10万人が死亡し、1945年の終わりまでにはその数字が14万人になり、5年後には20万人になり、死亡率は54%に達し、死亡者の非軍人・軍人比率は実に6対1だったと指摘します。
 次いで、子供二人を失った被爆者の凄惨な話をします。
 そして、原爆開発に携わったうちの150名の科学者達がトルーマン大統領に対し日本に原爆を投下しないように嘆願書を提出したにもかかわらず、広島に原爆が投下されたと続けます。
 特に興味深いのは、彼女が、原爆投下後に感想を聞かれたガンジーの言葉を引用しているところです。
 ガンジーは、「日本人の魂を破壊する結果に当面はなったが、原爆を使った国の人々の魂に何が起こったかを見て取るにはまだ早すぎる」と語ったというのです。
 その上で彼女は、原爆投下が米国人の道徳感覚を腐食させたのではないか、原爆投下がグアンタナモやアブグレイブをもたらしたのではないか、と問いかけるのです。

4 終わりに

 原爆投下から目をそらす米国の大半の人々は、スターリンの行った大虐殺から目をそらすロシアの大半の人々(
http://www.taipeitimes.com/News/world/archives/2007/08/06/2003372929 
。8月7日アクセス)と好一対ですね。
 これらの人々に真実を直視させることもまた、日本の重要な使命の一つではないでしょうか。 
 そのことは、いわれなき汚辱まみれの戦前史から日本を解放することにもつながるのです。

太田述正コラム#1849(2007.7.3)
<久間防衛相の辞任>(2007.8.12公開) 

1 始めに

 3日午後、原爆投下に関する発言で久間章生防衛相が引責辞任しました(
http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20070703k0000e010092000c.html
。7月3日アクセス)。

2 久間氏の発言

 久間氏は6月30日に大学での講演で、要旨次のように発言しました。

 「日本が戦後、ドイツのように東西が壁で仕切られずに済んだのは、ソ連の侵略がなかったからだ。米国は戦争に勝つと分かっていた。ところが日本がなかなかしぶとい。しぶといとソ連も出てくる可能性がある。ソ連とベルリンを分けたみたいになりかねない、ということから、日本が負けると分かっているのに、あえて原爆を広島と長崎に落とした。8月9日に長崎に落とした。長崎に落とせば日本も降参するだろう、そうしたらソ連の参戦を止められるということだった。
 幸いに(戦争が)8月15日に終わったから、北海道は占領されずに済んだが、間違えば北海道までソ連に取られてしまう。その当時の日本は取られても何もする方法もないわけですから、私はその点は、原爆が落とされて長崎は本当に無数の人が悲惨な目にあったが、あれで戦争が終わったんだ、という頭の整理で今、しょうがないな、という風に思っている。
 米国を恨むつもりはないが、勝ち戦ということが分かっていながら、原爆まで使う必要があったのか、という思いは今でもしている。国際情勢とか戦後の占領状態などからいくと、そういうことも選択肢としてはありうるのかな。そういうことも我々は十分、頭に入れながら考えなくてはいけないと思った。 」(
http://www.asahi.com/politics/update/0630/TKY200706300263.html
。7月1日アクセス)

3 久間発言への批判

 この久間発言に対する、これは被爆者感情を逆撫でしたものであるという批判(
http://www.asahi.com/national/update/0630/TKY200706300268.html
。7月1日アクセス)はさておくとして、事実認識として久間発言は間違っています。
 まず、広島への原爆投下は1945年8月6日0815ですが、長崎への原爆投下は8月9日1102であり、ソ連の参戦(モスクワ時間の同日午前零時)の7時間2分後です(
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E5%AD%90%E7%88%86%E5%BC%BE
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E9%80%A3%E5%AF%BE%E6%97%A5%E5%AE%A3%E6%88%A6%E5%B8%83%E5%91%8A
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%A8%99%E6%BA%96%E6%99%82
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%AF
(いずれも7月3日アクセス))。
 ですから、広島への原爆投下はともかくとして、久間氏の地元の長崎への原爆投下が「ソ連の参戦を止め・・る」のを目的として行われたということは言えないのです。

 いや、これはちょっとトチっただけで、久間氏は、原爆投下は日本の早期降伏をもたらした、とだけ言えばよかったのでしょうか。
 いや、それでもダメです。
 というのは、以前から太田のコラムを読んでこられた方はご存じでしょうが、2005年にカリフォルニア大学サンタバーバラ校のハセガワ(Tsuyoshi Hasegawa)教授が、この米国由来の通説を、完膚無きまでに打ち砕いた本を上梓しているからです(コラム#819〜821)。
 この本において、ハセガワ教授は、原爆による被害は、広島でも東京大空襲並みであり、焼夷弾によるものであれ原爆によるものであり、戦略爆撃が続くことには日本の政府も軍部も耐えてきたのであり、広島への原爆投下以降も耐えていくつもりであったところ、日本の政府も軍部も、ソ連参戦に伴い、ソ連軍によって日本本土が席巻されたり占領されたりすることは絶対に回避しなければならないと考え、降伏を決意した、ということを証明したのです(コラム#819)。
 確かに、ハセガワ教授の説は、まだそれほど一般に浸透しているわけではありませんが、長崎を地元とする政治家が、原爆投下について話をするにあたって、この説を知らなかったとすれば、不勉強も甚だしいという誹りは免れません。

 次に、原爆投下は、同じく民間人の殺戮を目的とした東京大空襲等の戦略爆撃より悪質な戦争犯罪である、という認識が久間氏には決定的に欠けているように思えます。
 原爆は、命をとりとめた人に、(当時既に一般国際法上使用が禁止されていた)化学兵器同様、後遺症を与え、長く苦しめる残虐な兵器だからです(典拠省略)。
 だから、小沢民主党代表が、久間発言に関し、そもそも米国に原爆投下で謝罪を求めるべきだと言っているのをどこかのTVニュースで見ましたが、私も全く同感であり、米国の大統領が原爆投下で日本に謝罪をしない限り、日本にとって戦後は終わらない、と言うべきなのです。
 ですから、どう考えても、本件で久間氏をかばい続けた安倍首相(
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2007063001000527.html
。7月1日アクセス)の見識を疑わざるを得ません。

 それにしても、久間氏はどうしてこんな愚劣きわまる発言をしたのでしょうか。
 恐らく、1月に、大量破壊兵器があると誤認して対イラク戦を行ったことや沖縄の世論に配慮が足らないことで米国を批判(
http://www.guardian.co.uk/japan/story/0,,2001251,00.html
1月30日アクセス)して、米国の反発を呼んだ(

http://www.tokyo-np.co.jp/flash/2007021101000429.html
。2月12日アクセス)ことが気になっていて、原爆投下問題で今度は米国のご機嫌を取り結ぼうと思ったのでしょう。
 こんな浅慮な人物でも防衛相が務まる日本を、あなたは心配ではありませんか。

太田述正コラム#1860(2007.7.11)
<日本の闇(続々)/原爆投下>

1 始めに

 バグってハニー(BH)氏からメールがあったので、例によって分断して転載し、その都度私のコメントを付す対話形式のものに仕立てました。
 事柄の性格上、本篇は原爆投下に係る部分を含め、即時公開します。

2 日本の闇について

<BH>
>千葉氏ら2人を創価学会員であると記すという、勘違いによる単純な誤り(#1857)
>千葉氏の背後に創価学会の影がちらついている(#1856)

 元署長を創価学会員にしてしまったのは早とちりだったかもしれませんが、それと元署長が実際に創価学会員であるかどうかは別の問題ですよね。前から気になっていたのですが、元署長の裁判書類には以下の記述があります。

>むしろ、公務と無関係な原告の宗派を特定し公表した本件記事は先行記事よりも悪質性が高いのである。(裁判雑記(続)(その3))

 これは要するに、週刊誌の記事や本では、元署長の宗派は特定されておらず公表もされていなかったのに対して、太田コラムでは元署長が創価学会員であることが特定され公表されているのでもっと性質が悪い、という意味なのでしょう。
 気になるのは「宗派を特定し公表した」という書き方です。
 もしも、元署長が創価学会員でなければこんな書き方はしないのではないでしょうか。
 たとえば、「太田コラムは原告が創価学会員であると決め付けて、自分の信じる教団の利益のために杜撰な捜査を行ったと誹謗中傷した」なんて書き方になるのではないでしょうか。断言はできませんが、元署長は創価学会員なのだと思います。

 つまり、この方は、太田氏が何らかの手段で自分の宗教を特定し、記事や本よりももう一歩踏み込んで攻撃してきた、と思い込んでいるのと違いますか?
 もしも、仮に元署長が創価学会員だとすると、市議の万引き事件を執拗に捜査したり、飛び降りを怠慢捜査ですぐに自殺と断定したりしたとしても不思議ではないですよね。動機があるんですから。

<太田>
 通常の創価学会員であれば、三日にあげずお題目を唱えたりしなければならないところ、東村山署元副署長の千葉英司氏にはそのような形跡はないということなのでしょう。
 もとより、同氏がいわゆる隠れ創価学会員である理論的可能性は排除できませんが、隠れ創価学会員なるものが本当に存在するのかどうかも含め、私には分かりません。
 いずれにせよ、私が、カトリック教会と創価学会をほぼ同列視していて、どちらも好きではないことはお分かりのことと思いますが、だからといって私は、個々の創価学会員に対し、個々のカトリック教徒に対してと同様、特段の偏見を持っているわけではありません。
 創価学会員であると「誤認」されたら、そうではないと指摘し、訂正を求めればよいだけのことなのに、「誤認」にいきり立った千葉氏の心情がいまだに私には理解できない、というのが正直なところです。

<BH>
 私自身はこの転落事故は自殺だと思っています。
 というのは、飛び降りてからすぐに死んだのではなく、下に入っていたモスバーガーの店長が助けに駆け寄ると救急車の申し出を断ったそうなのです。殺されかけた人のとる行動じゃないですよね。
 また飛び降りのあったビルは、駅前のロータリーや交番から丸見えの位置にあって、誰かを無理やり連れて行くのは難しい、という意見も耳にしたことがあります。
 今の日本のような開かれた社会で陰謀・謀殺がひっそりと進行しているというのは私にはどうしても受け入れられないです。

<太田>
 飛び降りた市議には精神的な疾患があったわけでもなければ自殺する動機もなかった、そんな人間が自殺をしようとするだろうか、ということが例の本で縷々説明されています。
 残念ながら、今となっては、自殺であったかどうかの決着をつけることは不可能でしょう。
 ただ、

>今の日本のような開かれた社会で陰謀・謀殺がひっそりと進行しているというのは私にはどうしても受け入れられないです。

は、日本政府については私も同感ですが、暴力団のようなグループや保険金詐欺を企むような個人についてはあてはまらないことは、申し上げるまでもありません。

<BH>
 ところで、提案があるのですが、いまどきアンチ創価学会というのはそこそこ需要があるので、そういう人たちに訴えられるようにまとめサイトを作ってみてはどうでしょうか。
 太田コラムを初めて目にする人には今の状態ではちんぷんかんぷんですよね。詳しく知りたければ、太田コラムから関連するコラムを探し出して熟読しないと事件の全容がつかめないです。これだと支援の輪は広がらないと思います。
 そうじゃなくて、時系列を追って事件の全容を簡潔にまとめたサイトを作って、必要に応じて適宜対応する太田コラムが呼び出せるようにすれば、一般大衆には受けがいいと思います。そして、創価学会批判を行っているブログやサイトにトラックバックや相互リンク、紹介宣伝をお願いするのです。
 ちなみに、言い出しといてなんですが、明後日から夏休みに入るので私には無理です。
<太田>
 太田ブログを管理運営していただいているタテジマさん。
  私のコラムのバックナンバーの分類を呼びかけていただいていますが、上記提案を実行に移してくださる読者の募集もやっていただければ幸いです。

3 原爆投下について

<BH>
 もうひとつ、全然別の話題。情報屋台のコメントに対するコメントです。
 片方で日本の核武装を訴え、他方で原爆は国際法違反だと訴えるのは首尾一貫していないのでは。
 原爆が用いられた状況とか、保持することと使用することはまったく別次元だ、などという言い方はできると思いますが、それでも核兵器を使用しづらくする世論を喚起することは、どう考えても核による抑止力を低減させるだけだと思います。
 久間前大臣のニュースを読んでると、語り部・被爆者の方が「終戦を早めたのはソ連参戦というのは常識だし、原爆は国際法違反!」と太田氏と同じように語っていて、「だから核は廃絶しなければならないし、被爆国・日本はそれを主導しなければならない」と言葉を継いでいました。

<太田>
 当時の国際法では、一般市民の殺戮を目的とする軍事力の行使は禁じられていましたが、化学兵器に関しては一般市民の殺戮を目的としない形の行使も禁じられていました。
 ところが、その化学兵器の保有は禁じられていませんでした。
 それは、敵が化学兵器を使用した場合に報復することは認められていたからです。
 つまり、抑止力としての化学兵器保有は認められていたということです。
 だからこそ、先の大戦では、主要国はすべて化学兵器を持っていたけれど、基本的に科学兵器は使われなかったのです。
 (本来は、詳細な典拠をつけなければならないところ、ご勘弁を。)

 さて、上記ロジックを踏まえれば、現在の国際法でも、核兵器の行使については、一般市民の殺戮を目的としない形の行使も含めて禁じられているが、抑止力として核兵器を保有することは認められている、と考えるべきでしょう。
 私の核保有論は、このようなものとして唱えているつもりです。
 私が積極的な核保有論者ではないことも、お分かりいただいていますね。

 なお、米国の核抑止力に依存するとの現在の日本の「政策」は、米国が核の先制使用を否定していないだけに、米国が核を使用した場合、日本が米国とともに国際法違反の連帯責任を負わされる、というリスクがあることに注意が必要です。

 情報屋台の掲示板への私の投稿を転載しておきます。

       藤田正美氏の「戦争終結と原爆と核廃絶」について

1 始めに

 藤田正美氏が「戦争終結と原爆と核廃絶」(
http://johoyatai.com/?page=yatai&yid=63&yaid=507
)で「1945年の核爆弾についてわれわれはもっと議論しておかなければならないと思う。」と指摘されていますが、同感です。
 とりあえず、藤田氏の論調に対し、二点ほどコメントさせていただきました。

2 コメント

 (1)補足

>原爆投下は「しょうがない」と発言した久間章生防衛大臣・・は、長崎出身なのにずいぶん不用意な発言をしたものだと思う。

について補足させていただきます。

 「<米>カリフォルニア大学サンタバーバラ校の・・ハセガワ・・教授は、<2005年に上梓した著書において、>・・「原爆投下は日本の降伏をもたらし、百万人の米兵の命を救った」という神話・・を完膚無きまでに打ち砕<きました。>
 ハセガワは、日本が降伏したのは、原爆投下(8月6日広島、8月9日長崎)のためではなく、ソ連の参戦(8月8日)のためであることを証明したのです。
 すなわち、原爆による被害は、広島でも東京大空襲並みであり、焼夷弾によるものであれ原爆によるものであり、戦略爆撃が続くことには日本の政府も軍部も耐えてきたのであり、原爆投下以降も耐えていくつもりだったのに対し、日本の政府も軍部も、ソ連軍によって日本本土が席巻されたり占領されたりすることは絶対に回避しなければならないと考え、降伏を決意したというのです。」(太田述正コラム#819)

 つまり、原爆投下は、単に一般市民を殺戮し、苦しめただけで、政治的にも軍事的にも何の意味もない愚行であったからこそ、強く非難されるべきなのです。


 (2)疑義の提起

>もし犠牲者の多さや民間人が多数殺されたことがその理由なら、1945年3月10日の東京大空襲についてなぜアメリカを非難しないのか。東京大空襲では 10万人が犠牲になったとされている。そしてもしアメリカの無差別爆撃を非難するなら、1938年に日本軍が行った歴史上類を見ない重慶爆撃をどう反省するというのか(重慶爆撃こそ都市に対する無差別爆撃の事実上の始まりとされている)。

 これについては、若干疑義があります。
 まずは以下をお読み下さい。

 「<イタリア人ドゥーエが提唱した>戦略爆撃の目的は、敵の政治的に重要な<拠点>、軍事的生産拠点、交通のネック<等を>撃滅し、敵の戦争遂行能力を喪失させることである・・。
 <日本による>重慶爆撃は、日中戦争・第二次世界大戦と続くこの時期の世界戦争の中で、1937年の<ドイツによる>ゲルニカ爆撃に続く最初期の都市空襲(戦略爆撃)である。・・<重慶爆撃の>爆撃目標は「戦略施設」であり、・・現地部隊への指示では、「敵の最高統帥、最高政治機関の捕捉撃滅に勤めよ」とあり、アメリカ、イギリスなど第三国の施設への被害は避けるようにと厳命されていた。しかしながら重慶は霧がちで、曇天の日が多いため目視での精密爆撃は難しく、目的施設以外に被害が発生する可能性を承知で爆撃が実施された。・・<また、ゲルニカ爆撃では、>市が立っている市街地を爆撃し、さらに、低空に下りて銃撃(爆撃機がである)を加えたりしている<等>、 ・・明らかに<一般市民を>狙っ<た部分があ>った。
 ・・蒋介石は、重慶爆撃・・の悲惨さを非人道的な無差別爆撃として強調、宣伝することにより、・・外交的にアメリカを日本と中国の戦争に巻き込むことを画策し、・・アメリカの経済制裁に始まって、それに対する資源獲得の為の米軍勢力の払拭の為の日米戦争という形で 見事に成功させた・・。
 <第二次世界大戦においては、>戦争の初期<の>ヨーロッパ戦線では、・・一般市民を殺戮し<てドイツ国民の戦意を喪失させ>・・ようとするイギリス軍と、・・軍事施設と生産施設を・・攻撃するアメリカ軍とは別の理論により<戦略>爆撃が行われていた。・・<しかし、後にアメリカ軍は、>太平洋戦線では、日本相手にB-29爆撃機を用いて、<一般市民を殺戮して日本国民の戦意を喪失させようして、>大規模に都市ごと焼き払う戦法<を>採用<した。>」(
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8D%E6%85%B6%E7%88%86%E6%92%83
(7月9日アクセス)。ただし、ゲルニカ爆撃については、
http://en.wikipedia.org/wiki/Bombing_of_Guernica
(7月9日アクセス)により、補正した。)

 つまり、当時でも国際法違反となるところの、一般市民の殺戮を主たる目的とする戦略爆撃を世界で初めて実施したのは、スペイン内戦時のドイツでも日華事変時の日本でもなく、第二次世界大戦時の英国であり米国である、ということです。
 また、原爆投下は、当時でも化学兵器の使用が国際法違反であったことを踏まえれば、原爆が化学兵器以上の後遺症を爆撃生存者に残す残虐な兵器である以上、国際法違反と解すべきなのです。 
 従って、広島と長崎への原爆投下は二重の意味で国際法違反なのであり、だからこそ、ハンブルグ大空襲や東京大空襲等以上に強く非難されてしかるべきなのです。

太田述正コラム#8332005.8.23

<原爆投下と終戦(追補)(その4)>

 この記事の内容の要点をご紹介しましょう。

まだ完全に歴史家の間で決着が付いたとは言えないが、原爆投下は必ずしも終戦を早めなかった可能性がある。

そもそも、1945年の夏までには日本は既に疲労困憊していた。太平洋の諸島やビルマから日本軍は駆逐されていたし、日本の都市は空襲で灰燼に帰していた。とりわけ決定的だったのは、米国の潜水艦が日本の輸送船を殆ど沈めてしまっていたことだ。米軍の中にも日本の降伏は時間の問題だという見方があった。だから、原爆投下はソ連の参戦以前に日本を降伏させようという米国政府の悪しき企みのためだという疑惑が拭えない。

原爆投下直後に早くも急進的無神論者の米国人(Dwight Macdonald)一人と保守的カトリック教徒の英国人一人(Ronald Knox)が原爆投下を声高に非難した。

この米国人は、「このような残虐な行為は、文明の擁護者を自認する「われわれ」を、道徳のレベルにおいて「彼ら」たるマイダネク(Maidanek。ナチスのユダヤ人強制収容所の一つ(太田))の獣達と等しくするものだ。そして、「われわれ」米国人は、「彼ら」ドイツ人と同等の責任をこの凶行(horror)について負っている。」と彼が出版していた雑誌に記した。

また、この英国人は、本を出版し、原爆投下が人道的見地からも宗教的見地からも許されない、と主張した。

もっとも、原爆投下は、それまで行われてきた一般住民を対象とする戦略爆撃と質的にそう違うものではない。

先の大戦開戦時の1939年、当時の英首相のチェンバレン(Neville Chamberlainは、議会で「敵がどういうことをやってこようと、わが政府は単にテロ目的で女性や子供等の一般住民(civilian)を意図的攻撃の対象とすることはない」と胸を張って言い切ったものだ。

しかし、戦争の進捗につれて、何の議論もないどころか、誰も気がつかない間に、英国と米国は、「単にテロ目的で」ドイツの大部分の都市を破壊し、10万人の子供を含む数多くの住民を殺戮するに至った。

これには慄然とせざるを得ない。

20世紀の初めに、英軍兵士の誰に対してでもよい、20世紀中に、戦争はもっぱら一般住民の殺戮を意味するようになろう、と言ったとする。言われた兵士はあなたが気がふれていると思うことだろう。

しかし、コソボ紛争(1998?2000年)を見よ。

人類史上初めて、一般住民だけが殺された戦争が20世紀に生起したのだ。

先の大戦は、ここに向かって人類がとめどもなく堕ちていく第一歩だったのだ。何せ先の大戦においては、30万人の英軍兵士が死んだが、ドイツでは一般住民が60万人も殺されたのだから。

一般住民を相手にする戦争は、極東では一層の進展を見せた。

東京大空襲だけで長崎への原爆投下より沢山の8万5,000人の一般住民が殺され、原爆投下を除いても、合計30万人の一般住民が焼夷弾攻撃で殺されたのだから。

3 終わりに代えて

 ご感想はいかがですか。

 英国のメディア(の最上級のもの)のクオリティーの高さがお分かりいただけたのではないでしょうか。

 それにひきかえ、米国のメディアの最上級のものでさえ、自己中心的な見方から免れていないことも同時にお分かりいただけたことと思います。

 そんな米国が世界の覇権国であることは、非アングロサクソン国が覇権国であることに比べればはるかにマシではあるものの、日本を含む米国以外の世界の国々にとっては不幸なことだと言って良いでしょう。

 それよりも何よりも、そんな米国の保護国であることに日本が甘んじ続けていることを、皆さん、どう思われますか。それはわれわれ日本人にとっての不幸であるだけでなく、世界第二の経済大国である日本が米国を助け、あるいはたしなめる役割を放棄してきたことは、(米国を含めた)世界にとっての不幸でもある、とお思いになりませんか。

 私が役所を飛び出して(米国からの)日本の自立を訴え始めてから4年半近くが経過しましたが、今回の総選挙においても依然として、このことはイッシューにすらなっていません。

 李登輝総統の台湾に生まれた悲哀ではありませんが、戦後日本に生まれた悲哀に加え、自らの非力さを、痛切に嘆じる今日この頃です。

太田述正コラム#8322005.8.23

<原爆投下と終戦(追補)(その3)>

 (本篇は、形式的にはコラム#831の続きですが、実質的にはコラム#830の続きであり、8月21日に上梓しました。)

  イ NYタイムス

インターナショナル・ヘラルド・トリビューンは現在ではNYタイムスの完全子会社ですから、ご紹介する同紙記事(http://www.iht.com/articles/2005/08/05/news/hiro.php。8月13日アクセス)は、NYタイムスの論調と申し上げて良いと思います。

この記事は、広島の原爆記念館を俎上に乗せ、同館が展示の中で、広島が軍事都市でもあったこと、日本が先の大戦において行った侵略行為の数々、そして先の大戦における日本軍の残虐行為、に全く触れないで、日本の犠牲者としての側面だけを取り上げていることをあげつらっています。

また、展示の中で、原爆投下が終戦を早めた点に触れていないことも批判しています。

そして、この原爆記念館に限らず、戦後日本が、先の大戦における日本の犠牲者としての側面だけを取り上げてきたことが、日本が他国に対する侵略についての責任を認めることを妨げてきた、という日本の識者なる者の声を紹介しています。

この記事は、ある広島の被爆者が中共を訪れて、日本軍が支那で何をやったかを知り、日本が戦争責任を認めない限り、いつまで経っても日本とアジアは和解できないことを悟った、という話を紹介して終わっています。

この記事は、先にご紹介したワシントンポストの記事とは180度異なり、未来志向ではなく、過去に拘泥しており、NYタイムスの質の低下を如実に示しています。

  ウ ロサンゼルスタイムス

 しかし、良かれ悪しかれ旗幟を鮮明にしているNYタイムスに比べると、ロサンゼルスタイムスは判断停止をして逃げていると言うほかなく、より嘆かわしいのではないでしょうか。

 同紙の8月3日付の記事(http://www.latimes.com/news/opinion/commentary/la-oe-boot3aug03,0,2044686,print.column?coll=la-news-comment-opinions。8月3日アクセス)は、原爆投下は、それまで日本等に対して英米が行ってきた戦略爆撃とねらいにおいても被害の大きさにおいても大差ない(注4)のであって、ことさら原爆投下を問題視するのはおかしい、という形式論で逃げているだけでなく、それまで英米がもっぱら一般住民の殺戮を目的とした戦略爆撃も行ったことすら正視していません。しかも、原爆投下が日本の終戦を早め、米兵の犠牲を回避したことを当然視しています。

 (注4)原爆投下によって10万人が死んだが、それまでに空襲で、ドイツでは少なくとも60万人が死に、日本では少なくとも20万人が死んでいた。原爆投下による死者は日本のの空襲による死者の三分の一、都市における破壊面積の3.5%しか占めていない。

蛇足ながら、原爆投下を扱ったものではありませんが、同紙の8月20日付の記事(http://www.latimes.com/news/opinion/editorials/la-ed-japan20aug20,0,5238661,print.story?coll=la-news-comment-editorials。8月21日アクセス)は、ある意味では上記記事よりも更にたちが悪く、あたかも土人同士の争いに白人が高いところから裁断を下しているような代物です。

この記事は、日本による朝鮮半島の過酷な植民地化(?!)(注5)や先の大戦におけるアジア諸国の占領並びに教科書改悪(?!)と、中共建国以降に中共内で行われた無数の無辜の民の殺戮並びに中共の臭いものに蓋をした教科書、とを相打ちにした上で、先般小泉首相が戦後60周年に際して行った謝罪表明を評価し、中共はこれ以上日本に謝罪を要求すべきではない、と結んでいます。

(注51899年から1913年に及んだ米国のフィリピン征服戦争(米比戦争)で、フィリピン側に兵士16,000人、及び一般住民25万人から100万人の死者を出した(http://en.wikipedia.org/wiki/Philippine-American_War。8月21日アクセス)のに対し、1910年の日韓併合の際の韓国側の死者など聞いたことがない。ちなみに、1917年の3.1運動(独立運動)の際の朝鮮半島住民側の死者は死者405人(韓国の主張では7,509人)に過ぎない(http://blog.livedoor.jp/lancer1/archives/23804109.html。8月21日アクセス)。「過酷な植民地化」と米国のメディアがのたまう神経を疑う。

まことにありがたいご託宣ではありませんか。

(3)英国

 そこに行くと、英ガーディアンの記事(台北タイムスに転載されたもの。http://www.taipeitimes.com/News/editorials/archives/2005/08/08/2003266930(8月10日アクセス))は秀逸です。

太田述正コラム#8312005.8.22

<原爆投下と終戦(追補)(その2)>

 (コラム#828を「(注12-2)」を挿入する等拡充してHPとブログに再掲載してあります。)

<参考:戦略爆撃について>

ここで、戦略爆撃について、概念整理をしておきましょう。

a:全般

戦略爆撃(Strategic bombing)とは、総力戦において、交戦相手の戦争遂行基盤(広義の経済力)を破壊することを目的として、空から行われる組織的攻撃のことです。

 戦略爆撃と戦術爆撃(Tactical bombing)との違いは、前者が戦争遂行基盤たる工場・鉄道・石油精製施設等に対する攻撃(、すなわちこれら施設等が多く所在する都市を主たる対象とする攻撃)であるのに対し、後者が軍事力、すなわち部隊集積地・指揮統制施設・飛行場・弾薬庫等、に対して行われるところにあります。

 また、戦略爆撃の方法としては、絨毯爆撃(carpet bombing)と照準爆撃(precision bombing)があります。(方法に過ぎないのだから、戦術爆撃たる絨毯爆撃もありうる。)戦略爆撃としての絨毯爆撃の究極形態が広島と長崎に対して行われた原爆投下です。また、最近では核兵器による照準爆撃や戦術爆撃が可能になったとされています。

一般には、戦略爆撃と言う場合、在来兵器によるもの、就中絨毯爆撃によるものを指すことが多いと言えます。

 私は、戦略爆撃という言葉を、もっぱらこの狭義の意味で用いています。

 先の大戦後は、狭義の意味での戦略爆撃(以下、「戦略爆撃」という)は行われなくなりました。

 それは、効果があまりない(注1)だけでなく、一般住民が巻き添えになるという人道上の問題があるためです。特に最近では、精密誘導兵器(precision quided munition)の発達によって、人道上の問題を回避しつつ効果的に照準爆撃ができなくなったことから、戦略爆撃の必要性は全くなくなったと言って良いでしょう。

 (注1)先進国同士の戦争が殆どなくなったことも挙げなければならない、ベトナム戦争当時の北ベトナムのような発展途上国相手では、そもそも戦略爆撃の対象とすべき戦争遂行基盤としてめぼしいものが少ない。

b:歴史

 以前、空軍(エアーパワー)の創始者達についてご紹介したことがあり、その中で戦略爆撃についても触れているので、関心のある方は、そちら(コラム#520?523527)もご覧下さい。

 さて、戦略爆撃の歴史は、第一次世界大戦の時にドイツが飛行船や爆撃機で英国の都市盲爆を行った時から始まります。他方、英国は当時、都市盲爆は行っていません。

 最初の戦略爆撃は、スペイン内戦でのナチス・ドイツ軍による1937年4月のゲルニカ爆撃であるとされています。

 先の大戦が始まる直前まで英国が対ナチスドイツ宥和政策をとったのは、英国が、例えば、ドイツとの間で戦争が起きると最初の3週間で英国の家の35%が爆撃による被害を受ける、という英内閣による1938年の試算等、戦略爆撃の効果を過大視していたためだ、という説があります。

 いよいよ先の大戦が始まると、枢軸側のドイツは爆撃機や戦争末期にはV1(巡航ミサイル)やV2(弾道ミサイル)によって英国に戦略爆撃を行いましたが、連合国側の英米がドイツに行った戦略爆撃や米国が戦争末期に日本に対して行った戦略爆撃の方が桁違いに大規模でした。

(以上、http://en.wikipedia.org/wiki/Strategic_bombing及びhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E7%95%A5%E7%88%86%E6%92%83(どちらも8月21日アクセス)による。)

 ちなみに、日支事変時代を含め、日本が支那の都市に対して行った爆撃でまともなものは、19382月?438月の長期にわたったところの国民党政府の臨時首都重慶に対する爆撃くらいです。しかし、これは戦略爆撃と言えるかどうか微妙ですし、少なくとも東京大空襲や原爆投下とは違って一般住民の殺戮を主たる目的とするものでなかったことは確かです(http://www.janjan.jp/living/0507/0507039093/1.phphttp://www.sankei.co.jp/pr/seiron/koukoku/2004/0406/hi-se.htmlhttp://www.warbirds.jp/ansq/6/F2000089.html(いずれも8月21日アクセス)(注2)。

 (注21940年後半におこなわれた重慶爆撃が絨毯爆撃であったことに疑問の余地はない。しかしそれは、重慶爆撃の目的が戦争遂行基盤の破壊と言うよりは、首都所在の(最高指揮統制施設を含む)軍事力を壊滅させ、もって国民党政府の継戦意欲をくじくことであったところ、市街地の中にも多数の対空砲(軍事力)が設置されており、空襲を安全に継続するためにもこれをつぶす必要があったためだ。

c:ドイツへの戦略爆撃

戦後、ドイツに対する米国戦略爆撃調査団(the United States strategic bombing survey)を率いたのは、後に著書「豊かな社会」等で有名になったガルブレイス(James K. Galbraith)でした。

この調査団の結論は、ドイツに対する戦略爆撃の効果はあまりなかった、というものでした。

すなわち調査団は、ドイツの軍用機や弾薬類の生産は1943年、1944年を通じて伸び続け、それが減少に転じたのは、ドイツ敗戦のわずか数ヶ月前からであり、これはドイツが生産機械や工場の疎開(分散配置)を行ったり、民需工場を軍需工場に転換したり、代替品を用いたりして対処したからだ、と指摘したのです。

なお、調査団の指摘ではありませんが、もっぱら一般住民の殺戮を目的としたものだという論議が絶えない、ハンブルグやドレスデンに対するものを含め、戦略爆撃が、ドイツ国民の継戦意欲を削ぐことにはつながらなかったことも明らかになっています。

(以上、http://www.guardian.co.uk/usa/story/0,12271,1261747,00.html、及びhttp://www.texasobserver.org/showArticle.asp?ArticleFileName=990514_jg.htmによる。このような指摘に対する反論については、http://yarchive.net/mil/strategic_bombing.html参照(典拠はいずれも8月21日アクセス)。)

d:日本への戦略爆撃

 ドイツに対する爆撃で投下された爆弾は136万トンで、日本に対する爆撃で投下された爆弾(当然核爆弾は除く)は168,000トンの9倍でしたが、与えた損害はほぼ同じくらいでした。

 これは、日本の目標がドイツに比べて脆弱であり、しかも集中していたためです。

 しかし、日本に対する米国戦略爆撃調査団は、日本本土周辺意外の制海・制空権が連合国に移った1944年半ば以降、日本のあらゆる生産力は減少の一途をたどったけれど、その原因は空襲ではなく、制海権の喪失と船舶不足、1945年に入ってからは本土周辺海域の機雷封鎖による原料輸入の途絶が原因である、としており、日本の軍需産業を破壊したのも、国民の継戦意欲を削いで日本を終戦に追い込んだのも、(東京大空襲等、もっぱら一般住民の虐殺を目的とした戦略爆撃が行われたにもかかわらず、)空襲ではなかったことを示唆しています。

 (以上、http://www.soshisha.com/book_read/htm/0610.html(8月21日アクセス)による。)

太田述正コラム#8302005.8.21

<原爆投下と終戦(追補)(その1)>

1 始めに

 原爆投下60周年前後の仏米英のメディアの論調をご紹介し、それぞれに私の簡単なコメントを加えたいと思います(注1)。

 (注1)私の休暇中に記事・論説集めをしてくださった読者お二方に改めて御礼を申し上げる。私が本篇で引用する記事・論説以外にお気づきの記事・論説があれば、お教えいただきたい。

2 仏米英のメディアの論調

 (1)フランス

私はフランスのメディアを参照することはないのですが、たまたま台北タイムスがフランスの通信社であるAFPの記事を転載していたので、ご紹介しておきたいと思います。

この記事は、終戦時の海軍大臣であった米内光政が、広島及び長崎への原爆投下及びソ連参戦直後に、「このような言い方は必ずしも適切ではないかもしれないが、原爆投下とソ連参戦は、ある意味では天の配剤(God’s gifts)だ。これで、国内情勢のゆえに戦争を終えなければならないことに言及せずして戦争を終えることができる。私はかねてより戦争を終えなければならないと主張してきた。これは、敵の攻撃や原爆投下やソ連参戦を恐れたからではない。私が最も憂慮しているのは国内情勢<・・戦況が不利になってから天皇や日本政府に対する国民の反感が募ってきている・・>なのだ。」(<>内はAFP記事の解説部分)と語ったことが最近明らかになったというのです(http://www.taipeitimes.com/News/front/archives/2005/08/07/2003266728。8月10日アクセス)。

この記事が、Hasegawaの本(コラム#819?821)への反論を意図したものであるのかどうかは定かではありませんが、米内発言の典拠が明確ではなく、また、戦争末期に近衛文麿らが、早期に終戦にもちこまないと日本に共産革命が起こりかねない、という杞憂を抱いていた、という事実はある(典拠失念)ものの、これは、原爆投下ではなく、(共産主義勢力たる)ソ連参戦こそ日本政府に終戦を決断させたとのHasegawaの主張を補強する事実以外のなにものでもありません。

ですから、この記事の正確性を疑わざるを得ないし、そもそもこの記事が、何を言いたいのかもよく分かりません。

やはり、フランスのメディアは参照するに値しないようです。

(2)米国

  ア ワシントンポスト

米国のメディアでは、ワシントンポストが最もまともです。

8月6日付の記事(http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2005/08/05/AR2005080501648.html。8月13日アクセス)では、原爆投下については、これを是とする者は、支那人に対してひどいことをしたり、米兵捕虜をバターン死の行進で多数死に追いやったりした「悪い」日本(注2)の降伏を早め、多くの人命を救ったと主張しているのに対し、これを非とする者は、米国は明白な人道に対する罪を犯したと主張していると指摘した上で、広島・長崎の状況を含めた終戦直後の日本を米国が撮影したカラー記録映画を紹介しつつ、この記録映画を撮ったハリウッドの人々も、当時できたばかりだった米空軍省も、原爆投下により多数の女性や子供が亡くなったことに罪悪感を抱いていた、と結んでいます。

(注2)いわゆるバターン死の行進については、米側の完全な言いがかりであることがはっきりしている(http://www.jiyuu-shikan.org/faq/asia/bataan.html。8月20日アクセス)。支那人に対して云々については、支那の民間人に対する違法行為が、日本軍によって組織的に行われた例は「殆ど」ない、と言える。機会があれば、どちらもコラムで取り上げたい

この記事は、当時の米国の指導層が、原爆投下の違法性を認識していたことを示している点で重要です。

また、7日付の記事(http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2005/08/06/AR2005080600850.html。8月13日アクセス)では、先般実施された日米における世論調査の結果、日本人の75%が原爆投下は不必要だったと今でも考えているのに対し、米国人の68%が原爆投下は不可避だったと考えていることが分かった、とした上で、日米の和解の必要性を訴えています。

まことに格調の高い記事だ、と言っておきましょう。

ただ、この記事が、米側の原爆投下関係者の一人に、原爆投下は日本の降伏を早めるという意義があったし、日本が真珠湾を奇襲攻撃したり(注3)支那人に対しひどいことをしたりした以上、原爆投下について日本側が謝罪要求することはおこがましい、と言わせ、他方で日本側の原爆被害者の一人に、日本の降伏を早めたことは事実だとしても、やはり原爆投下は許せない、と言わせていることは、あたかも原爆投下が日本の降伏を早めたことが日米双方とも認める史実であるかのごとき誤解を米国の読者に与えかねず、問題です。

(注3)既に語り尽くされている感のある話なので、立ち入らない。

Hesegawa の本は、まさにこの神話を粉砕したのであり、やがて米国人一般にそのことが知れ渡った暁に、上記世論調査を再度実施すれば、日本人側の数字に米国人側の数字も収斂した形の結果が出ることもあながち夢ではありますまい。

いずれにせよ私が言いたいのは、米側が原爆投下の違法性と無意義性を自覚することなくして、日米間の和解など到底ありえない、ということです。

田述正コラム#8212005.8.12

<原爆投下と終戦(その3)>

  (本篇は、8月3日に上梓しました。明4日から12日まで夏休みをとるので、コラム上梓頻度を増しています。)

 二番目の理由は、日本本土への上陸作戦を実施することで見込まれる米軍の大きな損害を回避できる、と考えたことです。

 そして三番目の理由は、ソ連が参戦後、朝鮮半島や日本本土を席巻し、戦後日本の占領に加わること等、戦後東アジアでソ連の存在が巨大になりすぎる前に日本を無条件降伏に追い込むことができる、と考えたことです。

 要するに米国政府からすれば、原爆投下は一石三鳥の効果が見込まれており、原爆投下をしないオプションなど、全く考慮されなかったのです。

 私は、一番目の理由である無条件降伏の強要と二番目の理由である米軍の損害の回避は、自由・民主主義国家において、世論への配慮から戦略判断がねじまげられる典型的な事例であり、三番目の理由であるソ連への警戒については、そもそもソ連の参戦だけで日本政府(及び軍部)が無条件降伏するであろうことを読めなかった米国政府の戦略判断ミス(注6)以外のなにものでもなかったと思います

 (注6)もっとも、この戦略判断ミスは、ロシア(ソ連)を中心とする民主主義独裁国家の脅威から日本ひいては東アジアを守ることを最大の戦略目標としてきた明治維新以降の日本の足を、低劣な嫉妬心と人種差別意識からひっぱり、あまつさえ、ファシズムの中国国民党と共産主義の中国共産党に肩入れして日本を追いつめ(コラムが多すぎるので一々挙げない)、最後は共産主義の大本締めのソ連を領土をエサに対日参戦させた、という、米国のより根本的な戦略判断ミス・・米国が犯した原罪・・の、必然的帰結であったと言えよう。

     どんなに当時の米国が理不尽であり、人種差別的であろうと、米国による一元的占領の方が仇敵のソ連による日本本土の全部または一部の占領よりはマシだと日本が考えるであろうことを、当時の米国政府が全く予見できなかったことは、当時の米国がいかに異常な国であったか、ということだ。

 要するに、米国による日本への原爆投下は、いかなる申し開きもできないところの、人道に対する罪に該当する愚行だった(http://www.hup.harvard.edu/reviews/HASRAC_R.html前掲)、ということです。

5 コメント

 ハセガワの指摘に、米国の研究者は甲を脱いだ(注7)といっても、このような指摘は容易に米国の一般国民の常識になることはないでしょう。

 (注7)つい6年前の1999年に、フランク(Richard B Frank)という米国の研究者は、著書Downfallの中で、「原爆の使用なくして戦争が終わったであろうなどと信ずることは、歴史ではなく、幻想にほかならない」と言い切っていた(http://news.bbc.co.uk/2/hi/asia-pacific/4724793.stm前掲)。

BBCのサイト(http://news.bbc.co.uk/2/hi/asia-pacific/4724793.stm上掲)は、米国民の心情を代弁して、「<原爆投下は、>阿南<惟幾陸相>やその同類に戦争の継続を断念させなかったことは事実だが、裕仁天皇の<降伏に向けての>決定的な介入をもたらした」と記していますし、NYタイムス(http://www.ufppc.org/index2.php?option=content&task=view&id=2788&pop=1&page=0。前掲)は、「原爆投下は、日本の裕仁天皇に、天皇家を守るために8月15日に降伏することを、軍部に強いるために必要な口実(excuse)を与えた」と記したところです。

この種の議論に対する反論も当然ハセガワの本には記されているのでしょうが、一つ、昭和天皇の終戦の御前会議の時の以下の発言を虚心坦懐に読んでみてください。

ちなみに、この会議では、陸軍大臣・参謀総長・軍令部長が終戦に反対する意見を表明し、米内光政海軍大臣を含むその他の御前会議メンバーは終戦に賛成する意見を表明して決着がつかず、鈴木貫太郎首相は自分の意見を表明しないまま天皇の意見を求めたものです。

「太平洋戦争がはじまってから、陸海軍のしてきたことをみると、予定と結果が、たいへんちがう場合が多い。大臣や総長は、本土決戦の自信があるようなことを、さきほどものべたが、しかし侍従武官の視察報告によると、兵士には銃剣さえも、ゆきわたってはいないということである。このような状態で、本土決戦に突入したらどうなるか、ひじょうに心配である。あるいは日本民族は、皆死んでしまわなければ、ならなくなるのでは、なかろうかと思う。そうなったら、どうしてこの日本を子孫につたえることができるであろうか。自分の任務は、祖先から受けついだこの日本を、子孫につたえることである。今日となっては、一人でも多くの日本人に生き残ってもらって、その人たちが将来ふたたび立ち上がってもらうほかに、この日本を子孫に伝える方法はないと思う。このまま戦をつづけることは、世界人類にとっても不幸なことである。自分は、明治天皇の三国干渉のときのお心もちをも考えて、自分のことはどうなってもかまわない。堪え難いこと、忍びがたいことであるが、かように考えて、この戦争をやめる決心をした次第である。」

(以上、http://wwwi.netwave.or.jp/~mot-take/jhistd/jhist4_5_5.htm(8月3日アクセス)による。)

ここで天皇は、軍事的素養のある人間として当然のことを発言したまでです。

つまり天皇は、彼我の現在の戦力比から見て日本は既に敗れており、これ以上戦争を続けることは、一方的に殺戮を甘受するだけの無意味な行為であるので降伏すべきだ、という趣旨を述べたのであり、後のことは修飾的言辞に過ぎません。

この天皇の発言から原爆投下の「成果」を読み取ることは、およそ無理な算段である、と思います。(いわんや、NYタイムスのように、天皇ないしは天皇家の自己保身を読み取ることは、下種の勘ぐり以外のなにものでもないでしょう。)

太田述正コラム#8202005.8.11

<原爆投下と終戦(その2)>

 (本篇は、8月3日に上梓しました。明4日から12日まで夏休みをとるので、コラム上梓頻度を増しています。)

3 スターリン論

 ここでちょっと回り道をしましょう。

 ご紹介した形式論については、日本が降伏を決意し、その意思を表明した後も降伏を認めなかった、ということであって、日本に降伏を決意させかどうか、という話とは無関係ではないか、という疑問の声が寄せられそうですね。

 確かにこの疑問はもっともです。

 1945年2月11日、スターリンは米英に対し、南樺太と千島列島の割譲を受けることを条件に対日参戦を約束したのですから、8月8日に参戦(満州侵攻開始は9日)し、8月15日に日本が降伏の意思を表明した時点で、日本の降伏を受け入れ、停戦しても領土は手に入ったはずなのに、どうして降伏を受け入れなかったのでしょうか。

 振り返って見れば、1945年4月5日にソ連は日本に日ソ中立条約の不延長を通告し、それ以降、藁をもすがる思いで日本がソ連に終戦の仲介を何度も頼んできたのを無視し(注4)、自分が対日参戦を果たすまでに終戦が実現すること(つまりは日本が降伏すること)を妨げたわけですが、これはリアルポリティークの観点からすれば、しごく合理的な対応でした。

 (注4)5月14日、日本、対ソ交渉方針を決定(終戦工作開始)。6月3日、広田外相マリク駐日ソ連大使と会談。7月10日、日本、近衛特使のソ連派遣を決定。7月18日、ソ連、近衛特使派遣に否定的回答。7月26日、連合国、ポツダム宣言を発表。7月30日、佐藤駐ソ大使、ソ連に和平斡旋を依頼。(http://www.c20.jp/1945/08s_san.html。8月2日アクセス)

 しかし、それから先のソ連の対応は、いたずらに日ソ双方の死傷者を増やしただけの愚行でした。

 これは、ソ連の独裁者スターリンが、日本からの領土獲得は、(秘密交渉によってではなく)自分が戦いとった、という体裁を整えることにこだわったからです。

 スターリンが自分の個人的栄光のために愚行を行った例は枚挙にいとまがありません。

 例えば、独ソ開戦後にスターリンが行った粛清です。

 元米CIA幹部のマーフィー(David E. Murphy)の著書 What Stalin Knew:The Enigma of Barbarossa, Yale University Press, 2005等によると、次のとおりです。

スターリンは、1941年6月22日の独ソ開戦の前日、ソ連の指導者達が集まった会合で、なお、ドイツが対ソ開戦することはありえない、と述べてみんなをあきれさせました。

ドイツの対ソ開戦情報があらゆるところから入ってきていたにもかかわらず、スターリンはヒットラーと個人的通信を行っており、その中でのヒットラーの対ソ不戦の言葉を信じ込んでいたのです。

ここまでは、ソ連のような独裁国家のみならず、自由・民主主義国家でも時には起こりうることです。反対の情報に耳を貸さず、ブッシュ米大統領もブレア英首相もイラクのフセイン政権が大量破壊兵器を持っている、と信じて疑わなかったという事例は記憶に新しいところです。

異常なのは、独ソ開戦によってソ連が大打撃を蒙った後にスターリンがとった行動です。

日本にいたソ連のスパイのゾルゲ(Richard Sorge)は、既に5月15日の時点で、ドイツの対ソ開戦は6月20日から22日の間だ、と通報してきていました。6月13日には、その日は6月22日だ、とまで改めて通報してきていました。しかし、スターリンはこれらの通報を無視しただけでなく、その後日本当局に逮捕されたゾルゲについて、日本がソ連によって逮捕されていた日本の軍人某との交換を打診してきたとき、スターリンはこれに応じず、ゾルゲを処刑に追いやるのです。

またスターリンは、ソ連の空軍参謀長を独ソ開戦後5日目に処刑しています。

このようにスターリンは、自分の犯した大失策について知りすぎた人間を、次々に物理的に抹殺して行き、自分に対する一切の批判を封じたのでした。

(以上、http://hnn.us/roundup/comments/11994.html前掲、による。)

4 米国はなぜ原爆を投下したのか

 米国政府は、日本の暗号を解読していたので日ソ交渉の経緯等を承知しており、日本が天皇制の維持等ができれば降伏するであろう(注5)ことを熟知していました。

 (注5)終戦の際、日本の国民の生命よりも天皇制の存続の方を重視した、という批判が日本人の間にもあるが、当時の日本政府や軍部のこの判断は理解できる。日本の近代化が天皇「親政」への「復古」によって成し遂げられた(コラム#816)ことを持ち出すまでもなく、天皇制がつぶされておれば、あのような日本の敗戦からの急速な復興はありえなかったろう。

     もとより、当時の日本政府や軍部に批判されるべき点がたくさんあることは否定しない。国際法軽視の姿勢・組織内規律の弛緩・自国軍民の生命の軽視(捕虜になることの否定・玉砕戦法等々)などだ。

 しかし、米国政府は、日本の無条件降伏しか念頭になかったため、日本が無条件降伏の意思を表明するまで日本の降伏は認めない方針だったのです。

 これは、米国政府自身がかきたててきたところの、真珠湾「奇襲」攻撃への米国民の復讐心を満足させるために必要であったと同時に、条件付降伏交渉に応じると、降伏を不満とする日本の国内の勢力を押さえられない、と判断していたからです。

 そこで、日本から無条件降伏をかちとるためには、原爆を投下することが不可欠だ、と米国政府は考えたわけです。

 原爆投下については、後二つ理由がありました。

太田述正コラム#8192005.8.10

<原爆投下と終戦(その1)>

 (本篇の上梓は8月2日です。4日から12日まで夏休みをとるため、上梓頻度を増しています。)

1 始めに

 「英米の歴史学や社会学等人文・社会科学の動向を追っていると、まさに日進月歩であり」(コラム#817)と申し上げたばかりですが、その例を一つ挙げましょう。

 (以下、特に断っていない限り(http://www.2think.org/racingtheenemy.shtmlhttp://www.hup.harvard.edu/reviews/HASRAC_R.htmlhttp://hnn.us/roundup/comments/11994.html(以上は下掲書の書評)、及びhttp://news.bbc.co.uk/2/hi/asia-pacific/4724793.stmhttp://www.csmonitor.com/2005/0802/p17s01-bogn.htmlhttp://www.ufppc.org/index2.php?option=content&task=view&id=2788&pop=1&page=0http://www.history.ucsb.edu/faculty/hasegawa.htm(いずれも8月2日アクセス)による。)

 6月22日に、Tsuyoshi Hasegawa, Racing The Enemy: Stalin, Truman, & the Surrender of Japan, Belknap/Harvard University Press, 2005 が出版されました。

 ハセガワは、カリフォルニア大学サンタバーバラ校の教授で1969年にワシントン大学でPH.Dを取得しており、ロシア/ソ連を中心とした近代欧州史が専門です。

 ハセガワは日本人の姓名を持つ日系米国人であり、日本語の著書(「ロシア革命下ペトログーラードの市民生活」中央公論社1998年)があり、また、最近では、北方領土問題等、戦後の日ソ関係史の研究者として知られている人物でもありますが、冒頭でご紹介した本に係る一連の米英の書評等の中で、ハセガワが日系人であることに言及したものは皆無であること、つまりハセガワは(正真正銘の)米国人であること、を銘記してください。

 一体どうして日本人の国際政治学者や現代史の研究者の中から、ハセガワのような本を書く人間がこれまで現れなかったのでしょうか。彼らの意欲と能力の余りの低さに、天を仰いで嘆息するほかありません。

2 終戦をもたらしたのは原爆投下ではない

 ハセガワが、米露日三カ国の文献を調べ尽くした上で、この本で、「原爆投下は日本の降伏をもたらし、百万人の米兵の命を救った」という神話(注1)を完膚無きまでに打ち砕いた、という点で米国の研究者(注2)は一致しています。

 (注1)考えても見よ。カギ括弧内はこれまで、米国の研究者及び国民の「通説」だった。それがこの本によって一瞬にして米国の研究者の間で「神話」と化したわけだ。今後は可及的速やかに、米国の国民と日本の研究者・国民に、これまでの「通説」が「神話」であったことを知らしめ理解させなければならない。せめてそれくらいは日本の研究者や日本政府がやってほしいものだ。

 (注2)いずれもビューリッツアー賞受賞者であるダワー(John W. DowerEmbracing Defeat: Japan in the Wake of World War II(邦訳あり)の著者)やビックス(Herbert P. BixHirohito and the Making of Modern Japan(邦訳あり)の著者)を含む。

 ハセガワは、日本が降伏したのは、原爆投下(8月6日広島、8月9日長崎)のためではなく、ソ連の参戦(8月8日)のためであることを証明したのです。

 すなわち、原爆による被害は、広島でも東京大空襲並みであり、焼夷弾によるものであれ原爆によるものであり、戦略爆撃が続くことには日本の政府も軍部も耐えてきたのであり、原爆投下以降も耐えていくつもりだったのに対し、日本の政府も軍部も、ソ連軍によって日本本土が席巻されたり占領されたりすることは絶対に回避しなければならないと考え、降伏を決意したというのです。

 これが実質論です。

 もう一つ、形式論もハセガワは提示しています。

 日本の終戦の期日を決定したのはソ連だったという点です。

 日本は8月15日にポツダム宣言を受諾して降伏した、ということになっていますが、降伏文書に日本政府の代表がミズリー号上で署名したのは9月2日です。

 これは単なる形式行為だったのではありません。日本が降伏したのは8月15日ではなく、9月2日なのです。

 ソ連による全千島列島と歯舞・色丹島の武力侵攻・占領が完了したのがその前日であり、ソ連がそれまで日本の降伏を認めなかったため、米国を始めとする他の連合国も日本の降伏を認めるわけにはいかなかったからです(注3)。

 (注3)ソ連は、8月16日に千島列島の武力侵攻を決定し、8月18日に侵攻を開始した。千島列島最北端の占守(Shimusu)島攻防戦は、先の大戦における最後の戦いであり、途中、日本側は停戦のために白旗を掲げた使者を送ったがソ連側はこの使者を射殺した。日本側資料では日本側死傷者500名以上、ソ連側死傷者約3,000名、ソ連側資料では日本側約1,000名、ソ連側死傷者約1,500名が出た。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%A0%E5%AE%88%E5%B3%B6。8月2日アクセス)

↑このページのトップヘ