カテゴリ: フランス政治

太田述正コラム#3569(2009.10.7)
<イギリス女性のフランス論(その3)>(2009.11.7公開)

 (3)理論篇

 「個人達からなるフランスという国で、<人々が、>個々人がみんな同じことをするよう固執するのはどうしてか。
 どうしてフランス人は、10代のような関係を国家と持っているのか。彼等は、絶え間なく叛乱しつつ、その一方で国家に体を洗ってもらうことをいまだに期待している。
 どうしてフランス人は、我々<イギリス人>よりも良いセックスをより高い頻度でやっているくせに、我々よりたくさん精神安定剤を飲み、(英国に比べて2倍以上にのぼる、)欧州中で最も高い自殺率の一つをたたき出しているのか。
 ワダムは、<イギリスに比べて、>生活の質がより高く、出生率と平均寿命と読み書き能力がより高く、犯罪率はより低く、十代の妊娠率もより低い社会において、かくも多くの人々が自殺したいというのはどうしてか、と問うてもよい」と記す。・・・

 彼女の結論は、初歩的な悲劇・・これ自体極めてフランス的な観念だが・・がフランス人の生活の核心部分にある、というものだ。
 フランス人を惨めな思いにするものは同時に彼等をフランス人にしているものでもあるのだ。
 フランス人は、快楽と美と高貴さ(nobility)によって突き動かされていることをワダムは示唆する。
 フランス人は抽象化に関して恐るべき能力を持っている。
 <また、>彼等は理念と機知(wit)が大好きだが、自らを嘲るユーモアは嫌いだ。
 <彼等にとっては、>理念は常に現実よりも重要なのだ。
 更に、<彼等にとっては、>美は真実よりも重要なのだ。
 これらはフランス人の生の芸術(art de vivre)を創造する能力<を示すもの>なのだ。
 <しかし、>その同じ能力が彼等の生の喜び(joie de vivre)を破壊してしまう。
 フランス人が固執するほど生が完全なものとなることはありえない。しかし、<フランス人にしてみれば、>理論上、それは完全なものであるべきなのだ。・・・

 <フランス国籍をとろうと訪れた>国籍係のデスクの女性の冷酷さ(bloody-mindedness)と怠惰さに悩まされた後、ワダムは、「あなたのふるまい、あなたの一種の粗野さによって、私はフランス人になる気持ちが失せてしまったわ」と言った。
 すると、「よろしい。それじゃ書類をファンファーレ付きで持ち帰ったら」とその女性は答えた。・・・」(E)

 「・・・ワダムは、ガリア人<(=フランス人)>とアングロサクソンの考え(minds)は決して合致しない運命なのである、と結論づける。
 フランス人は、抽象、理論、そして大きな観念を好む。
 他方、イギリス人は、具体的なもの、自己卑下的挿話、そして控えめさ(the understated)を好む。・・・
 アングロサクソンの女性にかくも愛されている姉妹道(sisterhood)なる神話は、フランス人が大嫌いなもの(anathema)だ。
 <フランスの女性にとっては、>愛が戦場であって、愛が個々の女性それぞれの努力にかかっていることは自明の理なのだ。
 <イギリス人のフランスの女性についての>ステレオタイプにもかかわらず、フランスの女性は実はロマンチックではない。
 アイルランド、英国、及び米国の少女達は、正義の紳士(Mr Right)の出現を待ちわびているのに対し、フランスの少女達は、今すぐやってくれる男(Mr He'll Do For Now)と飛び跳ねながらベッドに赴くのだ。・・・」(F)

 (4)批判

 「<ワダムの書いていることは>ナンセンスだ。
 (私は7年住んだわけだが、)フランスに数年以上住んだ者なら誰でも最近のイギリスのフランスについての本がフランスを正しくとらえていないことを知っている。
 パリやアヴィニョン(Avignon)のような旅行客向けの村々の外では、砂だらけの、荒れ果てた、貧乏で枯れたようなフランスが、錆び付いた車、面白くも何ともない巨大スーパー、不安げで労働過重で体重オーバーの人々が目に見えぬ経済の様々な力と抗っているフランスが広がっているのだ。・・・」(A)

3 終わりに

 「パリの南西かピエ・ダ・テール(pied a terre)」の第一のフランス、(これまで説明を省いたが、)ワダムが住んできたパリの地域、及びアヴィニョンのような「真の「秘密の」フランス」たる第二のフランス(以上、コラム#2565)、それに更に、以上の「旅行客向け」以外の第三のフランスがある(上出)、ということのようですが、フランスに土地勘がほとんどない私には、具体的イメージが湧きません。
 フランスに土地勘のある読者の方にぜひ教えていただきたいものです。
 とはいえ、フランスの隣国のイギリス人のワダムですら、滞仏5年でようやくフランスが「修得」できたというのですから、日本人の場合、それ以上の年季をかけなければ「修得」、すなわち土地勘の獲得は覚束なさそうですが・・。

 より根本的なことで、今一つ私がよく分からないのは、ワダム自身による問いかけともオーバーラップしているのですが、あれほど理念、美、抽象といったもの、すなわち形而上的なものが好きなフランス人が、どうしてその一方で、順応性が高い上、セックス等の即物的な快楽を追求するのか、すなわち、「現実的」であって、形而下的なものが好きなのか・・という点です。
 精神のバランスをとるためだ、というのがとりあえずの私の仮説であり、そう考えれば、フランス人の自殺がイギリスに比べると多いことの説明もつくような気がします。
 鷲田清一の『モードの迷宮』
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480082442/
あたりを読むともう少しマシな説明ができるようになるのかもしれません。
 ここも、フランスの現代哲学、思想に詳しい読者の方にご教示いただきたいところです。

 いずれにせよ、フランス人が、少なくともイギリス人とは似てもにつかないような生き物であることだけは間違いないようです。

(完)

太田述正コラム#3567(2009.10.6)
<イギリス女性のフランス論(その2)>(2009.11.6公開)

 (2)経験篇

 「・・・フランス人達が我々を真に悩ませるのは、彼等が、我々<イギリス人>が彼等をどう考えているかなど大して気にしていないことがはっきりしていることだ。・・・
 <だけど、それでもあえて言おう。>
 ・・・フランスの学校は、オリジナリティーを抑圧し、子供達に順応することを強いる。
 その文化は経験よりも抽象に高い価値を置く。
 <このことと関係あるのかどうか、フランスにおける>フェミニズムの観念は、衝撃的なことに広告板に描かれたヌード・モデル<に象徴されている>。
 ・・・ この抽象と順応への偏好は、彼女に言わせれば、フランス人達から皮肉(irony)<の感覚>と、数少ない移民及びその他の非順応者達の出身の者を除き、まともなコメディアン<が出現する可能性>を奪ったのだ。
 <英仏の>フェミニズムの違いは、フランスの男女関係が友好的であって、少女達が恥をかく恐れなくして少女的たりうることからおおむね来ている。・・・
 ワダムの夫であるローラン(Laurent)の同僚・・・が彼女を自分の情婦になるよう誘った時、彼女はそのことを夫に告げたが、夫はさして気にかけなかった。
 <その結果、>彼女はこの誘いを拒否したが、ローランと離婚した。・・・
 オリヴィエ(Ollivier)は、<著書の>'In What French Women Know'<(前掲)>の中で、どうして典型的なフランス人が「喜びを与えたり与えてもらったりすることについて、<イギリス人>よりもよく知っているのか、換言すれば、フランスの女性が、恐らく、どうして、我々<イギリス人よりも>もっと罪の意識から解放されて、セックスをやったり、パン菓子を食べたりしているように見える」のか、と問いかける。
 その答えだが、要するに、フランスの女性は、大部分がカトリック教徒である国としては逆説的だが、罪の意識が<イギリスの女性より>少ないからだ。・・・
 フランス人の女性は、他人がどう考えているかを気にせず、実際にはそうではないのに、あたかも自分がすさまじい美人であるかのようにふるまうのだ。・・・
 <フランス人について>これまで決まって言われてきたのは、ミエミエの傲慢さ、勤労倫理の弱さ、欠陥ある個人的衛生、性道徳の弛緩、そして犬とたわむれながらの散歩だ。
 このところ確立されつつある、フランスについてのステレオタイプは、グローバリゼーション、テクノロジーによる非人間化、そしてその他の憂うべき現代における諸傾向、に抗する砦であり、くつろいで人生を享受する人々の地である、というものだ。・・・」(A)

 「・・・ワダムは、どちらかというと乱暴な形で、フランス人の誘惑の技、すなわち放蕩道(libertinage)、について学んだ。
 これは初期に訪れたことだった。
 夫のいかがわしい友人が彼女に自分の情婦にならないかともちかけたので、彼女は笑ってこの誘いを退けた。
 彼女がより驚愕したのは、夫の反応だった。
 「そういうことがあったとしても、私に告げてなんか欲しくなかった」と言ったのだ。
 いかがわしい誘惑者は、彼女が浮気っぽい様子だったのでこういうことになったのだと彼女に伝え、話を更にややこしくした。・・・
 ・・・<ワダムが離婚を決意してからも大変だった。>
 フランスは、恐らく、イスラム世界以外では、<離婚に係る>法律が完全に男に有利になっている、世界で唯一の国だからだ。・・・」(B)

 「・・・これは知られていることだが、夫以外に、フランス人の女性は、婦人科の医師とも結婚する<ようなものだ>。
 私自身の経験によれば、フランス人の女性には、英国人がどうして<オルガスムが得られない時に、婦人科ではなく、>一般医(GP)の所に行かなければならないのかが理解できない。
 ワダムは、もちろんこのことを他人から聞いたのではなく、自分自身で直接体験したわけだ。・・・
 これは、<フランス特有の>快楽(pleasure)のカルト<とでも言うべきものから来ているの>であって、女性達を、美しいことが主たる目標であるところの台座の上に置く。
 この快楽及び美のカルトと、母乳を与えることとは逆説的関係にある。
 当局にとっては、母乳を与えることは良いことなのだ。
 しかし、ワダムが出産後9ヶ月目まで母乳を与えるつもりだと示唆したところ、「そこまでする必要はない。<乳児は>3ヶ月間で必要な免疫をすべて与えられるからだ。」と言われてしまった。・・・
 医療面での<イギリスとの>もう一つの大きな違いは、座薬だ。
 フランス人は座薬が大好きだ。
 ワダムは、この観念に慣れ、やがてこれは理屈が通っていると思うようになった。
 痛み止めでも何でも、体に直接運ぶわけだからだ。・・・
 <フランス人にとっての>「秘密の園」には、パートナーが気づかない限りにおいて、かつ「情事の相手」が家族環境の中に闖入してこない限りにおいて、情事にふけり、快楽を追求することが含まれている。・・・
 <また、>彼女は、彼女の子供達から学び、また子供達を通じて物事を考えてきた。
 彼女の息子は、3歳の時にまだお絵かきで「オタマジャクシ男」を描いていたところ、保育園の先生が、彼を精神科医のところに連れて行くよう促した。
 (この息子は、後に哲学を成功裏に学び、彼女をより一層啓蒙した。)
 フランスで大きくなった彼女の娘のエラ(Ella)は、パリでは男が見ていても気が付かなくなったけれど、ロンドンでは、誰も見てくれないことに気付くという所見を述べた。
 <我々イギリス人にとっては、>「眺めることは不作法だ」とワダムは言い訳をする。・・・<そして、>「しかし、エラにとっては、当然のことだが、無視されることは不作法なのだ」<と付け加える。>・・・」(C)

 「・・・フランス人は、子供を産んだ後、会陰部を整える。・・・
 ・・・プロテスタントの英国と米国では、愛抜きのセックスは「汚らわしい」けれど、少なくともパリのブルジョワの間では、「良いセックスは日常生活の単調さから自分自身を飛翔させるための最も満足すべき方法なのだ。」・・・」(D)

(続く)

太田述正コラム#3565(2009.10.5)
<イギリス女性のフランス論(その1)>(2009.11.5公開)

1 始めに

 ルーシー・ワダム(Lucy Wadham)というイギリス人女性によるフランス論、'The Secret Life of France' が上梓され、英国で大きな話題になっているので、書評をもとにその内容の上澄みをご紹介したいと思います。

A:http://www.ft.com/cms/s/2/8df42d4c-aee3-11de-96d7-00144feabdc0.html
Debra Ollivier, What French Women Know: About Love, Sex and Other Affairs of the Heart、Michael Simkins, Détour de France: An Englishman in Search of a Continental Education、John Dummer, Serge Bastarde Ate My Baguette、の書評を兼ねる)
(10月3日アクセス。以下同じ)
B:http://www.guardian.co.uk/books/2009/jun/21/secret-life-of-france-lucy-wadhamChttp://itsacrime.typepad.com/its_a_crime_or_a_mystery/2009/06/the-secret-life-of-france-lucy-wadham-noncrime.html
D:http://www.telegraph.co.uk/culture/books/bookreviews/5650926/The-Secret-Life-of-France-by-Lucy-Wadham-and-Au-Revoir-to-All-That-by-Michael-Steinberger-review.html
(Michael Steinberger, Au Revoir to All That、の書評を兼ねる)
E:http://www.independent.co.uk/arts-entertainment/books/reviews/the-secret-life-of-france-by-lucy-wadham-1739626.html
F:http://www.independent.ie/entertainment/books/the-french-paradox--its-still-a-mystery-1891144.html?service=Print
(Debra Ollivier, What French Women Know: About Love, Sex and Other Affairs of the Heart、Catherine Sanderson, French Kissing by、Janine di Giovanni, Cafe Luxembourg、の書評を兼ねる)

 著者のワダムは、オックスフォード大学の学生だった時にフランス人男性と結婚し、22年前にフランスに渡り、彼との間に設けた4人の子供達を育て上げ、20年後に離婚し、なおフランスにとどまっているという女性です。

 正直、今回のシリーズは、ホネです。
 というのは、フランス人の思考様式は、アングロサクソンの思考様式に比べて我々日本人にはなじみが少なく、しかも本来的に分かりにくいところ、著者のワダムが、私には、フランス人化している部分があるように思える点が第一、また、この本の英国の書評子達が、この種の分野を扱う場合特有の韜晦気味の文章を書いている点が第二です。
 よって、果たしてうまく料理して皆さんに提供できるかどうか、心許ない限りですが、とにかく始めましょう。
 フランスに詳しい方々からのコメントを期待しています。

2 イギリス女性のフランス論

 (1)序

 「・・・アングロサクソンは、・・・彼等のガリア人たる(Gallic)隣人達を慰みと恐怖の入り交じった思いで見守ってきた。・・・
 フランスは、我々が憎むために愛し、愛すために憎みつつも、愛し、憎み足らない国なのだ。
 我々<イギリス人>は、フランスに向けて驚異的な数で、休暇を過ごし、移住する。(このところの景気後退によりちょっと勢いがにぶっているが・・。)
 そして、フランスのささいな弱点(foibles)をジョークやTVシリーズに仕立て上げる。
 更に、いかにフランス人達がかくも腹立たしいほどに<我々と>異なっているのかについて本を書く。・・・
 英国人のフランス人に対する畏敬的無理解(awed incomprehension)は、3年前に改めて披露されて広範囲の慰みものになったところの、1944年の在仏英国兵士達に対する指示なる諸マニュアルに体現されている。
 このマニュアルの一つは、「フランス人の可愛い女の子が君にほほえみかけてきたとして、彼女がカンカンを踊るつもりや君を寝台に誘おうとするつもりがあるなどと想像するようなことがあれば、自分に、そして英国とフランスとの関係に、数多の悶着を引き起こす危険性がある」と警告している。・・・」(A)

 「在仏英国人には二つのタイプがある。
 第一のタイプは、パリの南西かピエ・ダ・テール(pied a terre)に家を買って、リュクサンブール(Luxembourg)公園で食べ、飲み、歩き回る。
 こういう人々は、フランスに対する愛情を失うことは決してない。
 というのは、彼等は決して日常生活の核心に対処する必要がないからだ。
 第二のタイプは、ワダムが言うように、「土着化」し、彼女のように真の「秘密の」フランスについて学ぶ。
 ワダムがフランスを修得(master)するには5年かかった。
 そして彼女は、(ジャーナリストとして働いていた時に知り合った秘密の警察官の助けを借りて)修得するや否や、MI6の要員のような粘り強さでもってフランスの言語と文化に身を投じたのだ。・・・」(B)

(続く)

太田述正コラム#3156(2009.3.16)
<イギリス人のフランス観>(2009.4.24公開)

1 始めに

 イギリス人がフランスをいかに軽蔑しているかという話を時々とりあげていますが、今回は、今月の英オブザーバー紙(ガーディアン紙の姉妹紙)と英BBCの記事からです。

2 オブザーバー紙の記事

 「・・・フランスの著名な哲学者であるアラン・バディウ(Alain Badiou。1937年〜。元仏グランゼコールの一つのエコール・ノルマル・シュペリオール(ENS)教授)は自由民主主義がお嫌いだ。
 彼は、彼が「議会主義的先天性甲状腺機能低下症(parliamentary cretinism)」と呼ぶところのものの諸前提を受け容れることを拒み、「共産主義仮説群」が含んでいる絶対的道徳的真実にどれだけ近いかで政治家達の評価を下すことを好む。
 だから、彼が現在のフランス大統領を欠陥ありとみなすことは驚くべきことではない。
 <大統領>選挙後にバディウが上梓した著書の初英訳である、彼の怒りの瞑想の産物であるところの『サルコジの意味(The Meaning of Sarkozy)』では、彼はこの本の主役の名前を書くことさえ厭い、単にその人物について、もっぱら「ねずみ男」と言及しているほどだ。
 英国では、この類の超左翼主義が大学の構内から外に出ることはまずない。
 しかし、パリのいくつかの地区では、バディウは文字通り有名人だ。
 この本が初めて出版された時は沢山のサロンでこの本について熱いおしゃべりが交わされた。
 だから、彼が毛沢東を肯定的に引用したり、文化大革命の善悪について口を濁したりするにつけ、純粋な政治的抽象化の暴虐性に対して予防注射をしてくれるところの我々のアングロサクソン流の実務的な経験主義をちょっと自慢したくなるのも頷けるというものだ。
 バディウは、自分の見解をデータを引用して裏付けるという当然なすべきことをなさずして、抽象的な名詞を次から次へと重ねつつ、巨大な理論的金字塔を打ち立てるのを常とする。
 彼は考える、ゆえにそれでいいのだ(He thinks, therefore it is)というわけだ。・・・」
http://www.guardian.co.uk/world/2009/mar/01/nicolas-sarkozy-politics
(3月1日アクセス)

 これは、フランス人の演繹的な思考法、というか妄想癖を徹底的にバカにしている論説です。

3 BBC電子版のパリ特派員記事

 「・・・フランス共和国大統領として、ドゴール将軍が米国のリンドン・B・ジョンソン大統領と行った会話の話がある。ドゴールがジョンソンにフランスは北大西洋条約同盟から離脱すると伝えた時のことだ。 
 その20年近く前に設立されてからというもの、NATOの本部はフランスにあった。今やNATOは引っ越ししなければならなくなったというのだ。
 ドゴールは更にこう言った。米軍は全員フランスから出て行かなければならないと。
 その時ジョンソンは、「埋葬されている者もですか?」と聞いたという。・・・
 しかし、ノルマンディーの墓地群に行ってみると、<ノルマンディー上陸作戦>がどんなにアングロサクソンの所業であったかが、そしてフランスの解放が本当はいかなるものであったのかが分かろうというものだ。
 歴史学者のアンドリュー・ロバーツ(Andrew Roberts)は、後で振り返ってみると人類の歴史が大きく転回することとなったあの日<(=Dデー)>に亡くなった連合国軍の兵士4,572名中、フランス人はわずか19名であったと計算した。これは0.4%に過ぎない。
 そのほか、ノルウェー人が37名、ベルギー人が1名。
 残りは英語圏からであり、ニュージーランド人が2名、オーストラリア人が13名、カナダ人が359名、英国人が1,641名だ。そして何と言っても決定的なのは、米国人が2,500名だったことだ。・・・
 マクミラン<元英首相は晩年において>、フランスのほとんど精神病者的なアングロサクソンの同盟諸国との関係について嘆息しながら語ったことがある。
 彼いわく、フランスはドイツとは講和することで、<ドイツによる>侵略という暴虐なるふるまいと4年にわたる<ドイツによるフランスの>占領という屈辱を赦した。しかし、フランスは、英国と米国がフランスを解放したことを赦すことは絶対に、絶対にないのだ、と。
 フランスの反米国主義には長い歴史がある。
 18世紀の欧州啓蒙主義の哲学者達は新世界が劣っているのは自明のことだと思っていた。・・・
 パリは2004年8月にその解放60周年を記念する一連の行事を行った。
 パリの市長は、「パリは自らを解放した!(Paris Se Libere! = Paris Liberates Herself! )」と題する祝辞を発表した。
 新聞の一つは、48頁にわたる特集を組んだ。しかし、その中で同盟諸国への言及は18頁目にやっと登場する。
 この時、週末にパリにいた私のイギリス人の友人は、パリは8月には完全に空っぽになるんだねと言った。この月には住人達が田舎で休暇を過ごすためにパリは空っぽになるのだ。
 「これで分かった」と彼は言った。「パリが解放されたのは8月だった。思うにパリ市民達は、彼らがパリに戻ってきた9月までそのことに気付かなかったのだろう」と。・・・
 これはひどい(stink)。なぜなら、フランスが戦後自らに語り続けた話は、このパリは自らを解放したというウソの上にでっちあげられたからだ。
 この言葉は最初にドゴール自身によって、1944年8月25日の夜、語られたものだ。
 パリは自らの人々によって解放されたと彼は宣言した。「フランス軍の助けを借りて、そして全フランスの助けと支援によって、すなわち戦うフランス、真実のフランス、永遠のフランスによって・・」と。
 <しかし、そのフランスが、遅きに失した感はあるが、ようやく変わりつつある。>
 サルコジの敵達は彼を「米国人サルコジ」と呼んだ。そうすれば彼が当選しないだろうと期待したのだ。しかしその期待は裏切られた。
 そしてサルコジはついにこの国を大西洋志向へと引き戻したのだ。」
http://news.bbc.co.uk/2/hi/programmes/from_our_own_correspondent/7942086.stm
(3月16日アクセス)

 これは、プライドだけ高いがだらしがないこと夥しいフランスを完膚無きまでにおちょくった記事です。
 しかも、そんなフランスにコケにされ続けてきた、できそこないのアングロサクソンたる米国についてもまた、高いところから、(ただし、フランスに対してよりはるかに暖かく)見下している記事でもあるのです。

4 終わりに

 イギリス人は、イギリスを世界の頂点に置き、一段下がったところにイギリス自身を除くアングロサクソン諸国を位置づけ、それ以外を、ざっくり申し上げれば、すべて野蛮の世界と見ています。 
そして、この野蛮の世界は、イギリスから見て、イギリスの植民地であった所とそうでなかった所に大きく分かれ、前者の理念型を形作ったのが、イギリスの最初の植民地となったアイルランドであり、後者の理念型を形作ったのが、イギリスの最初の外「国」となったフランスなのです。
 そのフランスをイギリス人がどう見ているか、の一端を開陳させていただいた次第です。 

太田述正コラム#2868(2008.10.23)
<フランスの成立(その3)>(2009.4.23公開)

  キ フランスの成立再論

 無政府状態から国家を救うどころか、ナポレオンは以前にも増して深く分裂した国家を後に残した。ブルターニュとヴォンデー(Vendee)は歴史家の中には「ジェノサイド」と呼ぶ者もいるほどのひどい目にあった。
 ニーム(Nimes)を中心とするガール(Gard)県は、フランスの北アイルランド(Ulster)とも言うべき場所だが、プロテスタントがカトリック教徒によって虐殺された。フランスのかなりの地域は山賊によって支配されていたし、大都会のいくつかは事実上独立国家のようなものだった。
 1789年の革命からずっと後になるまで、中央(Paris)は各州に文明開化的(civilising)影響を及ぼそうと苦闘を続けた。
 フランスの多くの地域で、20世紀になるまで、フランス語は少数派の言語であり続けた。スタンダール(Stendhal)が1830年代に書いているところによれば、「フランスの文明化された部分」はナント(Nantes)とディジョン(Dijon)を結ぶ線の北側だけであり、その他のすべては野蛮な地域だった。すなわち、「連中は魔女の存在を信じており、フランス語を読むこともしゃべることもできない」というわけだ。その後70年も経った時点でも、人気の観光ガイドブックはどれも、都会以外を訪問しようとする観光客達に、地元住民に話しかけるなという警告を記していた。ミシュランが1912年に、フランス全土に標識を立てるよう政府に求める請願を行ったのは、自動車を運転する人々が得体の知れない地域の種族と接触するのを避けることを可能にするためだった。
 とはいえ、中央(Paris)だって秩序正しさの範例とはおよそ言えたものではなかった。
 <例えば、1830年の革命で復活した立憲君主制の時代、>1839年から1848年の間、パリの街中では戦闘はなかったのだが、この程度でも、うらやむべきほど安定していた時代と言われたものだった。・・・

 普仏戦争における屈辱的な敗北とアルザス・ロレーヌ(Alsace-Lorrain)のドイツへの割譲の後、このことについての犯人捜しが行われた。そして、いくつかの贖罪の山羊が標的にされた。その内の一つが第二帝政の廷臣達だった。彼らこそフランスの男達の、ひいてはフランスそのものの士気を低下させたと断言するむきもあった。・・・
 それでも次第に、フランス国家なる大きな郷土(grande patrie)は、フランス人達が依然として最も愛着を抱き続けたところの個々の小さな郷土(petites patries )とを調和的に共存させることができるようになり、フランス語もまた、数多い地域的方言や言語に代わって公の場所における共通語になって行った。また、フランスの経済も、フランスの社会的構造に修復不可能な損害を与えることなく農業的、産業的近代化をなしとげた。・・・
 しかし、普仏戦争から何十年も経ってもフランスはなお1870年によって憑依されていた。そして1914年に戦争が再び避けられないと考えられるようになると、フランスの人々は大破局が繰り返されるのではないかという巨大な恐怖にとらわれた。
 マルヌの戦いは9月の初めの数日間続き、250,000人のフランス人が命を落とした。しかし、少なくともあの<普仏戦争が生み出した>幽霊は雲散霧消することになった。ドイツ軍の進撃は押しとどめられ、パリは救われたからだ。
 この時こそ、フランス人達が彼らのイデオロギー的な相違を克服した瞬間だった。あらゆるフランス人男性が軍役への呼びかけに応じ、150万人の犠牲者を出すという代償を支払って、第一次世界大戦の間ずっと、共和国の存続を可能ならしめ、もって共和国と国民を一体的存在たらしめたのだ。

3 終わりに

 フランス革命によって生まれたナショナリズムなる民主主義独裁のイデオロギーは、フランスの内外に大小の戦争を何度となく引き起こしながら、1世紀以上かけてフランスを統一することに成功した、ということがお分かりいただけたでしょうか。
 (イギリスは、最初から資本主義の社会であり、イギリス全体として早期から単一市場を形成しており、フランスのようにイデオロギーの力を借りて統一を図る必要などありませんでした。)
 ナショナリズムは、第一次世界大戦後、オーストリア=ハンガリーという帝国を解体するために米国によって用いられ、結果として欧州の情勢不安定化をもたらすこととなる一方、ナショナリズムに次いで欧州で生まれた民主主義独裁のイデオロギーである共産主義は、米国が期待したようにナショナリズムが共産主義への拮抗力として機能しなかったこともあって猛威をふるい、また、ナショナリズムそのものはファシズムへと突然変異し、世界中が不安定化することになるわけです。
 このすべてはフランスが生み出したナショナリズムが原因なのですから、恐ろしいことです。
 (ではなぜフランスでナショナリズムなるイデオロギーが生まれたのでしょうか。それは、少なくとも16〜17世紀のルイ13世の頃までさかのぼらなければなりません。コラム#129、162を参照してください。)

(完)

太田述正コラム#2866(2008.10.22)
<フランスの成立(その2)>(2009.4.22公開)

 (2)トピックス

  ア フランス的なるもの

 我々がフランス的なものと思い込んでいるうちの多くは、19世紀の産物なのだ。これは都市の光景(geography)についてもあてはまる。<パリの>第9橋(Pont Neuf)の傍らのシテ島(Ile de la Cite)は現在ではかなり広々としている。しかしオスマン(Haussmann)男爵がパリを「解体的に再建する(disembowel)」までは、この場所は貧者と犯罪者が住む混雑した狭い街並だった。教育と軍役が効果を発揮するようになるまでは、大勢のフランスの人々はフランス語すらしゃべれなかった。・・・

  イ 第一次世界大戦観

 <第一次世界大戦の>マルヌ(Marne)の戦いにおいて、作家のシャルル・ペギー(Charles Peguy)が戦死する<のだが、>目撃者は、「機関銃弾をものともせず、自分の詩の中で名誉なことと歌い上げていた戦死を招こうとするかのように彼は自ら立ち上がった」と語っている。ロマン主義的ナショナリストのこの「殉教」は、<フランスの成立という>象徴的な結論を導き出すのにふさわしいように見えた。なぜならペギーは、共和主義者で、ドレフュス擁護派で、社会主義者であると同時に、カトリック教徒で古のフランスの諸価値に愛着を抱いていた人物だったからだ。・・・
 <こういうわけで、>英国人は、ビクトリア女王時代人を、第一次世界大戦は偽善の産物であると見たリットン・ストレイチー(Lytton Strachey)の目を通して振り返るけれど、フランス人は違う。
 バルザック的皮肉屋であるフランソワ・ミッテラン(Francois Mitterrand)までもがそうだが、誰一人ペギーを嗤う者はいない。(1890年に生まれた)シャルル・ドゴール(Charles de Gaulle)は他の誰よりもフランスを20世紀末の輝かしい近代性へとフランスを引きずって行った人物だが、彼の魅力は彼が余りにも明白に19世紀末の人間であったという事実に部分的に根ざしていた。ドゴール自身が言っていたように、彼は「石油ランプと帆船」の時代を懐かしみ続けたのだ。・・・

  ウ 中央集権化

 <1815年の>ウォータールー<でのナポレオンの敗北>以降のフランス人の間の亀裂は、王党派と共和主義者ないし右派と左派との間だけでなく、中央集権論者(centraliser)と地方分権論者(localists)との間にも存在した。・・・
 今日のフランスの行政府は効率性の代名詞のようになっているが、これは法の集大成とともに最も後世に影響を残したナポレオンの遺産だ。
 <これに関連して銘記すべきことだが、>フランス革命のもう一つの嫡子は反僧侶主義(anticlericalism)の飽くことなき息吹なのだ。1816年以降、宗教の復活が見られたがそれは、どちらかと言えば都会ではなく農村地帯においてだった。そこでは、僧侶達の多数は1790年の僧侶民事基本法(Civil Constitution of the Clergy)への宣誓を拒んだものだ。・・・

  エ 女性解放への遅れ

 <旧体制下においては、>フランスの農村地帯では、家族としての一体感を維持するためには、両性の厳格な役割分担と多大なる肉体労働が求められた。だから女性に求婚にあたっては、指関節が折れるくらい力を入れて手を握ったりもした。これは、これは相手の膂力を推し量るためだった。美しさなどというものは、むしろマイナスの資格だったのだ。
 <フランス革命では>女性解放は死産に終わった。当初の革命の疾風の中で両性の合意による離婚が導入され、性格の不一致(incompatibility)を理由に女性に離婚訴訟を提起する権利が与えられた。家産についても男性同様、女性にも管理する権利が認められた。そして、1793年の法律では何と相続の観点からはもはや庶子は存在しないとさえ謳われた。しかし、ナポレオンはフェミニズムを蕾の内に摘み取ってしまった。1804年の民法典は、「夫は妻を保護する義務があり、妻は夫に服従する義務がある」と規定した。1816年では離婚は非合法化され、1884年になるまで再び合法化されることはなかった。ナポレオンは、スタール夫人(Madame de Stael)の小説に出てくる独立志向のヒロイン達が大嫌いだったため、スタール夫人をパリから追放した。ブルジョワ階級と上流階級の女性達は彼女らの大志を「良い」結婚へと矮小化し続けた。また、繊維関係の商売や小さい家族企業に雇用される労働者階級の女性は、結婚のことなどロクに考えもしなかった。政治的には女性なんて無に等しかったし、最後の最後まで、ドーバー海峡の向こう側の戦闘的な女性達に比べれば、フランス人女性の女性選挙権獲得に向けての努力の程度なんて、まるで比較にならなかった。
 この間、女性に教育する機会を提供していたのはローマ教会だけだったことも女性にとって不幸だった。

  オ 反ユダヤ主義

 1986年にジャーナリストのエドゥアール・ドラモン(Edouard Drumont)は『ユダヤ的フランス(La France Juive)』という本を出版した。その中で彼は、当時の世界におけるあらゆる悪に関しユダヤ人を非難した。この本はすぐにベストセラーになり、フランス文化に反ユダヤ主義を根付かせた。

  カ フランス至上主義

 イポリツ・テーヌ(Hippolyte Taine)は1864年にイタリアを旅行した時、イタリアは「未開の(backward)フランス」だと宣い、そのフランス優位の感覚を披露した。スタール夫人は、彼女の本である1813年の『ドイツについて』の中で、「自由への愛はドイツ人の間では育っていない」と宣言した。
 しかし、フランス人が最も見下したような態度をとるのは、彼らが古からの敵である英国人と相まみえた時だ。
 ナポレオン戦争の時に反英プロパガンダを執筆するために雇われたジョセフ・フィーヴェー(Joseph Fievee)は、イギリス人が文明を欠いており、富の創出に取り憑かれていてすべての時間を仕事に費やしていると攻撃した。スタンダールは、1821年にロンドンを訪問した際、このテーマをとりあげ、休むことなくイギリス人は仕事をし続けると非難されたことに対し、彼らはウォータールーで復讐した、と冗談口をたたいた。
 そして彼は、イギリス人は、シェークスピアの遺産にもかかわらず、カネづくりに関係のないいかなるものも読もうとはしない、と宣言した。

(続く)

太田述正コラム#2864(2008.10.21)
<フランスの成立(その1)>(2009.4.21公開)

1 始めに

 フランスについては、これまで随分とりあげてきたところです。
 フランス論としては、コラム#1664、2055・2057のほか、コラム#1839も参照していただきたいですが、今回は、オックスフォード大学歴史学教授のロバート・ギルディア(Robert Gildea)が上梓した'Children of the Revolution: The French, 1799-1914' のさわりを、この本の書評をもとにご紹介しましょう。

 (以下、
http://features.csmonitor.com/books/2008/10/20/children-of-the-revolution-the-french-1799-1914/

http://entertainment.timesonline.co.uk/tol/arts_and_entertainment/books/non-fiction/article4396883.ece
http://www.spectator.co.uk/print/the-magazine/books/866181/a-country-of-ruins.thtml
http://www.independent.co.uk/arts-entertainment/books/reviews/children-of-the-revolution-by-robert-gildea-876221.html
http://www.telegraph.co.uk/arts/main.jhtml?view=DETAILS&grid=&xml=/arts/2008/07/27/bogil127.xml
http://www.economist.com/displayStory.cfm?Story_ID=11837603
http://www.telegraph.co.uk/arts/main.jhtml?xml=/arts/2008/07/26/bogil126.xml
(いずれも10月21日アクセス)による。)

2 フランスの成立

 (1)概説

 ・・・<1989年>7月14日の革命は、不幸なルイ16世の下での立憲君主制の生誕を見た。1793年にはこの国王は処刑され、新しく急進的なジャコバン体制の下での第一共和制は恐怖政治(Great Terror。1793〜94年)へと突入した。
 これに対し、穏健な共和主義者達が反撃に出て、1974〜75年の間、新しい憲法と二院制議会の下で新しい行政府(執政政府(Directoire))を樹立した。
 それから、1799年にはボナパルト(Bonaparte)将軍が、近代における最初のクーデタを行い、彼自身を第一執政(Consul)と宣言した。1804年までには彼はナポレオン皇帝となり、10年の間、欧州のあらゆることは彼と彼の軍隊を中心に展開した。
 彼が1814年に敗れた後、フランスはもう一人のブルボン国王の下で立憲君主制に再転換した。
 しかし、ブルボン家の国王達はダメだということになって、フランスは1830年にオルレアン家の国王に変わった。しかし、驚くべきことではないが、これも何ら改善にはならず、1848年に第二共和制が宣言された。
 新しく大統領になったルイ(Louis)・ボナパルトは、欧州史において初めて男子普通選挙で選ばれた元首なのだが、1850年に自らクーデタを敢行し、2年後に、彼の、より有名な叔父の足跡をたどって皇帝となった。
 フランスがプロイセンとの戦いに敗れた1870年、パリは短期間、マルクスによって最初のプロレタリア独裁とみなされたところの、コミューンによって統治された。穏健な共和主義者達はすぐさま反撃を行い、コミューンを<フランス革命後の>恐怖政治もどきの血生臭さで粉砕し、共和制を再樹立した。
 こうしてフランスはようやく平穏になった。20年経たないうちに新しい共和主義的統治エリートが出現し、この体制に対するさしたる競争相手はいなくなった。
 懐古的な王党派(royalists)は、次第に縮小していったボナパルト主義者とともに、政治的民話の一部となり、第三共和制は退屈なほどブルジョワ的でちょっぴり腐敗し、かつ絶え間なき短期間の政府(1870年から1940年の間に108)にもかかわらず驚くほど安定した形で推移した。・・・

 フランス革命は新しい秩序を約束した。自由、平等、博愛、特権の廃止と能力に基づくキャリアの実現、報道の自由、市民権(ただし男だけのための)、そして女性への、両性の合意に基づく離婚を含む、新しい社会的選択肢の提供。
 しかし、「革命的同志愛は内ゲバへと堕落」し、これがフランスを何世代にもわたってかきまわすこととなった。
 一方の人々は、社会的階統制とローマカトリック教会の至上性を含むところの、旧体制への復帰を希った。もう一方の人々は、革命の理想を教育、公的祭典、軍隊において推進しようとした。これら全ては共和制の市民を創出するための道であると考えられたからだ。1世紀以上にわたって、この二つの側は妥協しようとしなかった。
 各世代は過去を違った風に見た。
 革命後に最初に生まれた世代は「戦いの太鼓」に鼓舞されて人となった。・・・
 <その次の世代は、>1815年のナポレオンの<最終的な>敗北の後、子供達が栄光について語っても、大志について語っても、希望、愛、力、生について語っても、一様に「僧侶になったらどうだ」と答えるような人々だった。
 1830年代前後に生まれたその次の世代は、普仏戦争の敗北とパリコミューンによって深く影響された。彼らは建設者となり、夢想家にはならなかった。
 そして、第四の世代にとって、決定的だったのはドレフュス事件(1897〜1909年)だった。これはユダヤ系の陸軍士官が大逆罪の濡れ衣を着せられ、最終的には無罪放免になった事件だが、その結果陸軍の評判は地に墜ちた。このスキャンダルは、共和主義者と反共和主義者の間の戦いを再燃させたが、第五世代における国家的統一と和解への願望に再び火をともした。
 フランスがまとまるに至る和解の過程には、国家の象徴兼救済者としてのジャンヌダルクの再発見と普及宣伝から1912年のミシュラン・タイヤ製造会社によるフランス全国の道路に標識をつけて欲しいとのフランス政府への請願に至るまで、様々な大きな物語が援用された。後者の結果、旅行ブームが起こって諸地域とパリとの関係はより密接になった。1890年代に自転車の価格が500から100フランへと安くなると、このスポーツは流行し、1903年にアンリ・デグランジュ(Henri Desgranges)がツール・ド・フランスを始めると、これは国家的統一のもう一つの象徴となった。
 フランスが1914年に再びドイツと相まみえる時までには、フランスは、1870年以来着実に形成されてきた国家意識によって浮揚され、再び自らを誇りに思い自らについて自信を持つ国になっていた。そして、第五世代は、第一次世界大戦の戦場に自分たちの150万人の屍を晒すことでこのことを証明した。

(続く)

太田述正コラム#2810(2008.9.24)
<食と文化遺産をめぐって>(2008.11.10公開)

1 始めに

 2003年に、パリに本部があるユネスコ(UNESCO=United Nations Educational, Scientific and Cultural Organization)は、無形文化遺産保護協定(Convention for the Safeguarding of the Intangible Cultural Heritage)を採択し、「口承伝統・表現」及び「パーフォーマンス芸術、社会慣行、儀式とお祭り的イベント・自然と世界に関する知識と風習・伝統的工芸」を保全することとしました。
 果たしてこの無形文化遺産に料理が含まれるのかどうかは定かではありません。
 この協定が2006年に発効する前の2005年には、メキシコからの同国の料理の伝統を保全対象にして欲しいとの出願がありましたが、これは却下されています。
 そこへ最近、フランス料理と地中海料理を出願しようという動きが出てきました。

2 フランス料理と地中海料理

 今年2月の恒例の農業フェアの際、フランスではサルコジ大統領じきじき、フランス料理が世界中で最初に無形文化遺産として公式に承認されることを望んでいると発言し、閣僚達を驚かせました。
 フランスは来年、ユネスコに出願する予定です。
 他方、ギリシャ、イタリア、スペイン、及びモロッコが合同で地中海料理をユネスコに出願しようという動きがあります。
 イタリアの農家団体のコルディレッティ(Coldiretti)に至っては、イタリア料理の遺産は、フランスのそれよりも優れている、何となればEUはイタリア料理の品目(food specialties)が166あるとしているところ、フランス料理の品目は156とされているからだ、と主張しています。

3 どちらの料理も衰退しつつある?

 しかし、実際この二つの料理は「保全」しなければならないのかもしれません。
 どちらもその母国ないし母地域において衰退しつつある、と見ることもできるからです。
 
 まず、フランス料理の方からです。
 これまでは、昼飯にオフィスの机でサンドイッチをぱくつくイギリス人と違ってフランス人はレストランで3コースのランチを食べていたものですが、最近は様変わりすつつあります。
 このところ、フランス人の懐具合が厳しくなってきていることもあり、2008年の最初の3ヶ月だけで、フランスの伝統的なレストラン、カフェ、バーが3,000軒もつぶれたのですが、これからもこの調子でつぶれていくと予想されています。
 フランスのレストランの破産数は昨年より25%増えましたし、カフェの閉店数は56%増えました。
 今年初めに比べて、レストランの顧客数は平均で20%減り、この状況が改善する兆しは見えません。

 また、地中海料理の方ですが、こちらも母地域で食べる人が減ってきています。
 地中海料理はクレタ島西部が発祥の地であり、オリーブ油、新鮮な野菜・果実・穀物、そして魚、更には少量のワインをもっぱら用いるのを基本とするところの、赤い肉、精製した砂糖や小麦粉、バター等の油や脂はほとんど用いない健康によい料理です。
 この料理を食べているおかげで、タバコを手放せない人や酒飲みが多いというのに、人々は長寿であり、心臓病や癌の罹患率は低く維持されて来ました。
 ところが、御多分に洩れず、ファーストフードを食べたり、アイスクリームを食べたりする人々が急速に増えています。
 この結果、ギリシャでは、成人人口の実に四分の三が肥満になってしまいました。
 イタリアとスペインでも50%を超える成人が肥満です。
 他方、フランスとオランダでは45%に過ぎません。
 ちなみに、米国では66%です。さすがにファーストフードの本場ですね。

 (以上、
http://www.nytimes.com/2008/09/24/dining/24heritage.html?_r=1&oref=slogin&ref=world&pagewanted=print
http://www.nytimes.com/2008/09/24/world/europe/24diet.html?ref=world&pagewanted=print
http://www.guardian.co.uk/world/2008/sep/24/france.globalrecession
(いずれも9月24日アクセス)による。)

4 終わりに

 今のところ、日本料理をユネスコの無形文化遺産に、という動きは聞こえて来ませんが、そもそも、料理って保全すべきものなのでしょうか。
 思うに、料理は時代の変化に応じ、他国ないし他地域の料理の影響をも受けながら、ダイナミックに変化発展していくべきものではないでしょうか。 

太田述正コラム#2802(2008.9.20)
<フランスのベストセラー小説>(2008.11.7公開)

1 始めに

 『ハリネズミの優雅さ(L'elegance du herisson。英語版:THE ELEGANCE OF THE HEDGEHOG)』というフランスの小説がフランスで102週にわたってベストセラー・リスト入りし、これまでに120万部も売れています。
 著者はMuriel Barbery です。
 その簡単な紹介をした上で、比較文明論に及びたいと思います。

 (以下、
http://www.guardian.co.uk/books/2008/sep/11/fiction.publishing
(9月12日アクセス)、及び
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2008/09/11/AR2008091101955_pf.html
(9月14日アクセス)による。)

2 この小説の簡単な紹介

 テーマは美と芸術の本質と生と死の意味についてであり、主人公は、パリのアパルトマンの管理人である太っちょで醜い54歳のルネ・ミシェル(Renee Michel)夫人と、このアパルトマンに住む、13歳になったら自殺すると密かに決心している12歳の女の子パロマ・ジョセ(Paloma Josse)の二人です。
 ミシェル夫人はモーツアルトやパーセル(コラム#2789)の音楽が大好きで、初期マルクスを好むけれどフッサールの哲学を嫌い、映画「レッドオクトーバーを追え」を学校の教材にふさわしいと考え、同時に自宅で日本のお茶のお点前をやることを習わしにしている人物です。
 ミシェル夫人もパロマも極めて知的レベルが高く、それだけにアパルトマンの他の住人達から孤立しています。
 そんなところへ、オズ・カクロウという日本人の紳士がやってきてこのアパルトマンの空き部屋を買うのですが、彼はミシェル夫人とパロマがただ者ではないことを瞬時にして見抜きます。そして彼は、この二人がどんなプライベートな生活を送っているかを探るのですが、その結果こっけいな、あるいは悲しい出来事が次々に起こっていくのです。
 ミシェル夫人は、この小説の終わりの方で、「人間の熱望よ! われわれは欲望を絶つことができない。これは栄光に導くとともに破滅に導く。欲望よ! それはわれわれを運び去り十字架に架ける。毎日われわれを戦場へと運び、夕べにはわれわれはその戦いに敗北する」という結論に達します。

 これだけの紹介では十分イメージがつかめないことと思いますが、哲学的な小説だな、と思われたことでしょう。

 なお、日本への思い入れが強く感じられるのが興味深いところです。(最後のくだりだって仏教の「生は苦なり」そのものであり、日本と無縁ではありません。)
 これは、この小説に限ったことではありません。
 最近のベストセラーには、アメリー・ノソム(Amelie Nothomb)の 『Stupeur et tremblement (=恐怖と震え)』のような、日本で一年間働いた時のことを描いた自伝的小説や、同じ著者による、やはり日本を舞台にした自伝的小説である『Ni d'Eve ni d'Adam(=イブでもアダムでもなく)』があります。

3 フランス文学と英国

 どこの国のものであれ、英国人は翻訳小説を余り読みません。特にフランスの小説はほとんど売れたためしがありません。
 この本もそうなのですが、フランスの小説は哲学的ないし社会学的なものが多いところ、英国人はそんな難解でとっつきにくいものより筋(plot)のはっきりしたものを好むからです。
 この本も、英国の大手の出版社はことごとく敬遠し、フランス語からの翻訳物だけを扱うゲーリック・ブックス(Gallic Books)という小さな出版社が版権を取得しました。

 同じことは、犯罪小説等の大衆小説についても言えます。
 英国人の読者からすると、フランスの映画と同じくフランスの小説は、登場人物が著者の分身であることが多く、理知的(cerebral)かつ内省的(introspective)であり、微妙さ(subtlety)がウリだけど、要するにほとんど何も起こらないじゃないか、というわけです。

 とにかく、英国の読者は、物語の筋(storyline)がはっきりしていて、主人公に感情移入できるものでなければダメなのです。
 フランスの小説のように、読者に自分達の文化の前提について問いかけるようなものには拒絶反応を示す、ということです。

4 終わりに

 私はアングロサクソン文明と欧州文明は対蹠的な文明であると主張してきました。
 両文明は、方や帰納論の文明であり、方や演繹論の文明ですが、その違いは小説にまで現れているわけです。
 ドーバー海峡(English Channel)を隔てた隣国であるというのに、フランスは英国とまるで違う、というところが面白いと思いませんか。

太田述正コラム#2778-1(2008.9.8)
<仏ダティ法相の妊娠>(2008.10.29公開)

1 始めに

 フランスのダティ(Rachida Dati。1965年〜。42歳)法相の妊娠が、英国のメディアで大きく取り上げられています。
 ダティは、レンガ積み職人たるモロッコ人の父親とアルジェリア人の母親との間にフランスのブルゴーニュ地方で12人兄弟の2番目として生まれ、働きながら苦学して経営学と法律学の学位を取得し、サルコジ大統領候補の広報担当を務め、大統領となったサルコジによって、本年6月に法相に任命され、現在に至っています(
http://en.wikipedia.org/wiki/Rachida_Dati
。9月7日アクセス)。

 (以下、
http://www.guardian.co.uk/world/2008/sep/07/france
http://www.guardian.co.uk/commentisfree/2008/sep/07/france.usa
http://www.dailymail.co.uk/news/worldnews/article-1052178/Sarkozys-girlfriend-justice-minister-Rachida-Dati-prompts-sperm-donor-rumours-refusing-father.html
http://www.timesonline.co.uk/tol/news/world/europe/article4674060.ece
(いずれも9月7日アクセス)による。)

 フランスの少数民族出身の女性として、そしてアラブ人として、ダティは初めてフランスの大臣になった人物ということになります。
 彼女はモデルが勤まるようなエレガントな美人であり、彼女の姿を拝みたい方は、ウィキペディア上掲や英デイリーメール紙上掲でどうぞ。
 ただし後者には、大きなお腹の彼女の写真も載っています。

2 ダティ法相の妊娠

 先月は、法相たるダティにとっていささか不名誉なことに、彼女の下の兄弟二人が前科のある麻薬取引で再び懲役刑を科せられるという出来事があったところ、バカンス開けの閣議が開かれた折、ダティの大きなお腹が注目されました。
 これまでずっと独身を通してきたダティは、9月3日、長年子供が欲しいと思っていたところ、妊娠を認めました。
 現在フランスでは、婚外子が50%を超えており、このこと自体はさしてめずらしくもありません(注)。

 (注)婚外子に対する見方は、英国人はフランス人ほどおおらかではないが、米国人の目は更に厳しい。米大統領選で共和党の副大統領候補となったペイリン(Sarah Palin)・アラスカ州知事の10代の未婚の娘が妊娠して大騒ぎになっていることを想起せよ。現在のフランスでは、妻の不貞が離婚原因になることもまずない。米国は女性に選挙権を1920年に与えたのに対し、フランスは1944年と遅れたけれど、女性の開放度において、フランスは米国をいつしか大きく「抜き去った」ことになる。(ちなみに、英国の10代の女性の妊娠率はEU諸国の中で最高であることを覚えておこう。)

 しかし、彼女が誰が胎児の父親であるかについて沈黙を守ったため、様々な憶測がインターネット等でなされ、英国やドイツのメディアがこのニュースを大々的に報じています。
 フランスのメディアは、政治家のプライバシーには立ち入らないという伝統から、父親をダティが明らかにしていないことについては全く報じていませんが、消息通は、フランスのメディアのほとんどは、何週間も前から父親が誰かを知っているとしています。
 父親の可能性があるとされている一人が、サルコジの友人でもあるところの、前スペイン首相のアズナール(Jose Maria Aznar)であり、彼はわざわざこの噂を根も葉もないことと打ち消す発表まで行いました。
 もう一人、ひょっとして父親の可能性があるとされているのがサルコジ大統領です。
 ダティは、何年も前からサルコジとの関係を噂されてきたところ、サルコジの前妻のセシリアとは良い関係を維持し続けたという説と、最終的にダティとセシリアの関係は険悪化したとする説があります。
 とまれ、サルコジは、セシリアと別れて以降、米ホワイトハウスでの晩餐会等の公式行事にダティを伴った時期があり、現在のサルコジの妻であるカーラはダティとの間でサルコジの奪い合いを演じたとされています。
 当時、サルコジはダティのことを「ma beurette=僕のかわいいアラブ娘ちゃん」と呼んでいたとか。
 また、カーラはダティに激しく嫉妬し、昨年の大晦日のパーティの際には、エリゼ宮(大統領公邸)のダブルベッドを指さしてダティの方を振り向き、「あなた、ここに寝たいんでしょ」と言ったとか。
 この二人の勝負は、2月にカーラがサルコジと結婚することで決着がついたというわけです。

3 終わりに

 この話を米国の主要メディアが全く報じていないのに、英国では、大衆紙はもとより、お固いガーディアンまでが、1度ならず2度までも報じているのは実に興味深いところです。
 私に言わせれば、米国のメディアは、果たしてこれが報ずるに価するニュースなのかどうか、仮に報ずるに価するとしても、いかなるスタンスで報じたらよいか分からないのに対し、英国のメディアは例によって、韜晦しつつも、フランスのお偉方の野蛮人ぶりを高みに立って笑い飛ばしているのです。

太田述正コラム#2737(2008.8.18)
<サルコジ批判(その4)>(2008.9.28公開)

 他方、女、とりわけ自立心の「強い」女なしでは生きていけないサルコジであるとは言っても、彼がカーラを愛人にせず、三番目の正式の妻にまでしたのはどうしてなのでしょうか。
 セシリアとカーラについての私の記述をお読みになった方はお気づきでしょう。
 セシリアとカーラはあらゆる点で生き写しなのです。サルコジより高い身長だって、容姿だってそっくりです。
 カーラが唯一いやがるのは、この点を指摘されることです。
 (一方、カーラとサルコジの一番目の妻であるマリー・ドミニクとは奇妙な友情感覚が生まれているようだ。セシリアという共通の「敵」がいるからか。サルコジ自身、マリー・ドミニクとは良い関係を維持してきたという。)
 そうです。
 サルコジにとって、カーラはセシリアの替えにほかならないのです。
 
 ここで、セシリアとカーラを比較してみましょう。

 セシリアは、サルコジと同棲生活に入ってからは、正式に結婚してからはもちろんのこと、女の操をサルコジ捧げました。そして、彼女と生活を共にするようになってから、サルコジは「出世」を続け、最終的に大統領に登り詰めるわけです。
 セシリアはサルコジにとってまさに「あげまん」を絵に描いたような存在であり、セシリアの内助の功は絶大であったと言わなければなりません。
 これに対し、サルコジはセシリアをやたら拘束する一方で、自分は女漁りを続けたのですから、愛想を尽かしたセシリアが最後にサルコジを裏切ったのはサルコジの自業自得というやつです。

 他方、カーラはどうか。
 カーラは、最初はモデルとして、後には歌手として活躍するわけですが、これには本人の努力もあったことは否定できないものの、(恐らく)美男美女であったに違いない(実の)父親と母親、そしてまたどちらも音楽家であったところのこの二人から受け継いだDNAに負うところが大きいのではないでしょうか。
 彼女が7年間の同棲生活を男性側から一方的に破棄されたのは、カーラが、(恐らくは)同棲生活中も男漁りを続ける一方で、この男性の職業人(哲学者等)としての自己実現に何の貢献もしなかった・・できなかったと言うべきか・・ことの当然の報いであったのではないかと思うのです。
 女狂いについて、何の理屈も述べようとしてこなかったサルコジと違って、カーラは、若い頃、単婚を退屈でばかげていると宣ったけわけですが、年齢を重ねるにつれて、この言にもかかわらず、彼女の男性「哲学」は、次第に保守的なものへと変遷を遂げ、芸能人相手の手当たり次第の男狂いの時代から始まって、7年間という比較的長期にわたる特定のインテリたる男性との同棲を軸とした男漁りの時代を経て、ついに最高権力者たるサルコジとの結婚(カーラにとっては初婚)と男漁りの放棄へとたどり着くわけです。
 このようにカーラは、親から受け継いだ遺伝的形質のおかげで、さして労することなく、その大きな欲望を、その発現形態を少しずつ変えることによって、高度に充足させてくることができた人物なのです。
 
 私としては、以上から、人間としてカーラはセシリアに劣る、と思っているのですが、いかがなものでしょうか。
 
 サルコジは、幸せな青春時代を送ったセシリアやカーラとは違って、不幸な青春時代を送りました。
 サルコジが4歳の時に父親が出奔してしまい、サルコジは父なし子として貧しい少年時代を送ります。しかも、サルコジの身長が低いことも彼を悩ませました。
 サルコジは公立中学校1年の時、落第してしまい、カトリック系の私立学校に転校しますが、ここでも成績が振るわなかったにもかかわらず、大学入学資格試験(baccalaureat)には合格します。
 こうしてサルコジはパリ大学ナンテール校に入学し、私法、そして後にはビジネス法の学位を得ます。
 卒業後、彼はいわゆるグランゼコール(grande ecole)の一つであるパリ政治研究学院(Institut d'Etudes Politiques de Paris)に入学しますが、英語力不足により、卒業することができませんでした。
 彼はその後、司法試験に通り、ビジネス法と家族法を専門とする弁護士になり、やがて政治活動に乗り出して行くことになります。
 フランスのエリートの大部分はグランゼコールのどれかを出ており、グランゼコール落第生のサルコジは大変なハンデを負っていただけに、彼は、命を的にした派手なパーフォーマンス(コラム#2014)等によって政治家として「出世」して行くのです。
 私は、サルコジの異常なまでの権力欲や女漁りは、彼の不幸な青春時代のコンプレックスが原因ではないかと考えています。

 こうしてみると、サルコジとカーラというのは、方や、コンプレックスによって欲望が肥大した男であり、方や、生来的に欲望が肥大している女であり、欲望が肥大化している点で似合いのカップルであると言えるのではないでしょうか。
 この二人にとっては、職業は、単に彼らの欲望を充たす手段に他ならないのであって、たとえその職業が公的なものであっても、しかもその職業が公職の最高位であっても同じであると思われます。
 そうだとすれば、フランス国民は、今後ともサルコジとカーラのトンデモ・カップルによる公私混同ぶりに悩まされ続けることになるでしょう。

 フランス国民は、大統領選の際に投票すべき人物を誤ったのか、それとも元首(大統領)直接選挙制は本来的に危うい政治制度なのか、あるいはそもそもフランス国民のレベルが低いのか、皆さんどう思われますか。
 ひょっとしてすべて正しいのかもしれませんね。
 私のセシリア、カーラ評、そしてサルコジ評についてご異議ある方の反論もぜひどうぞ。

(完)

太田述正コラム#2735(2008.8.17)
<サルコジ批判(その3)>(2008.9.27公開)

 しかしこれは、いよいよサルコジが大統領戦への出馬を決意したことから、セシリアは自分のせいでサルコジが大統領になれなかったと言われたくなかったので意地で戻った、というのが真相のようです。
 2007年に入ると、セシリアは、サルコジの大統領選選挙本部に一室を与えられます。
 しかし、同年4月には、セシリアはサルコジとの離婚を密かに決意します。
 それ以降は、サルコジにとってはいい面の皮ですが、セシリアは妻としての最低限の体裁だけを維持することになります。
 大統領選の二次投票の時には、セシリアは2週間の選挙運動期間中に全く姿を見せず、みかねたシラク大統領夫人がサルコジの応援演説を行いましたし、投票にあたっては、セシリアの前夫との二人の娘がサルコジと一緒に投票したというのに、セシリアはフロリダに遊びに行ってしまい、結局投票しませんでした。
 サルコジが大統領選に勝利し、就任式の日がやってきた時も、セシリアは出席をしぶり、結局この二人の娘に促されて急遽ロンドンから帰国して出席したという噂であり、普段着のまま出席して物議をかもしました。
 6月の英国でのサミットの際には、セシリアは途中でフランスに帰国してしまい、各国首脳中、サルコジだけが配偶者を欠いた状態になってしまいましたし、8月にサルコジと訪米した時には、ブッシュ大統領夫妻がサルコジ夫妻を招待した昼食会をセシリアだけがウソの理由でドタキャンして顰蹙を買いました。
 サルコジがセシリアをどうしても諦めきれなかったことが背景にあるのでしょうが、この間の7月には、サルコジが与えた大統領府のクレジットカードを使ってセシリアが娯楽に興じたことがフランス議会で公私混同として問題にされたり、サルコジがセシリアをリビアの元首であるカダフィとのブルガリア看護婦等釈放交渉の根回しに使ったことが、フランス外務省のハシゴを外したとして批判されたりしています。
 結局、10月18日、サルコジとセシリアの離婚が発表されます。
 こうしてセシリアは、恋人のアッティアスの所に戻り、二人は翌年、結婚するのです。
 こうしてセシリアに捨てられ、女無しでは一刻ももたないサルコジは、11月13日、カーラと出会い、瞬時に恋に落ちます。カーラも同様でした。
 では、このカーラとはどんな女性なのでしょうか。
 カーラの実家は、イタリアのトリノの財閥です。
 彼女の父親は、実業家である以上に作曲家でもあり美術品収集家であるような人物であり、カーラは自分が金銭的価値に重きを置かないのは父親の影響だと言っています。
 カーラは28歳の時に、この父親から、カーラが自分の実の娘ではなく、ピアノ奏者であったカーラの母親がはるか年下のクラシック・ギター奏者の青年・・やはりトリノの富裕な家出身・・と6年間にわたる不倫をして生まれたということを明かされます。
 カーラ自身も、小さいとき、ピアノ、バイオリン、そしてギターを習わされます。
 カーラが特徴的なのは、10代の頃から、男漁りが大好きで、それが40歳でサルコジと結婚するまで続いたことです。カーラはドンファンを女性にしたような人間だと評する人がいるくらいですが、彼女自身は、ボーボアール(Simone de Beauvoir)やサガン(Francoise Sagan)の生き方に大きな影響を受けたと言っています。
 彼女は、大学に入学するもすぐに退学し、モデル業に従事します。
 1990年代にはカーラはスーパーモデルの一人としてもてはやされ、欧州内の諸国をわたりあるき、数カ国語を身につけ、男に生活資金を依存することなく男漁りを続けます。
 彼女が対象にしたのは一流の男達ばかりであり、その中にはエリック・クラプトンやミック・ジャガーが含まれています。
 「単婚なんて退屈でばかげてるわ。一夫多妻や一妻多夫がいいわよ。」が(サルコジと結婚するまでの)カーラの口癖でした。
 しかもカーラは、もはや男と女の関係でなくなった過去のすべての男達と、そしてその男達の妻達や彼らの新たな愛人達とさえ、友人関係を維持しています。
 そのカーラが1997年にモデル業を辞め、歌の作詞家に転身します。
 この転身を、彼女の元愛人達がプロデューサーとして、あるいはビデオ作家として助けるのです。
 そしてカーラは、やがて自分で歌を歌うようになります。
 カーラは、33歳の時に息子をもうけます。その子の父親たる男性は25歳の哲学教授兼ラジオショー番組のホストでした。
 カーラ自身は否定していますが、この男性の父親との愛人関係にあったところ、更にその息子に手を出したという噂がまことしやかに伝えられています。
 この男性は妻帯者であり、この妻の父親が有名な哲学者のベルナール・アンリ・レヴィ(Bernard-Henri Levy)であることも話題になりました。
 2007年5月、7年近くの同棲生活の後、この男性は、「われわれの関係は友人関係のようになってしまった。そんなことでどうする。そんな関係になるにはわれわれは若すぎる」と別れ話を切り出され、カーラは抵抗むなしく、この男性に捨てられてしまいます。
 傷心のカーラは、さっそく次の男捜しを開始し、大統領選で彼女が投票した相手でもないサルコジを知人に紹介されるのです。
 カーラが瞬時にサルコジに恋心を覚えたのは、当たり前過ぎるくらい当たり前のことだったのです。

(続く)

太田述正コラム#2733(2008.8.16)
<サルコジ批判(その2)>(2008.9.26公開)

3 女性遍歴から見たサルコジ像

 (以下、
http://www.vanityfair.com/style/features/2008/09/bruni200809?printable=true¤tPage=all
(8月9日アクセス)、
http://en.wikipedia.org/wiki/Nicolas_Sarkozy
http://en.wikipedia.org/wiki/Carla_Bruni
http://en.wikipedia.org/wiki/C%C3%A9cilia_Sarkozy
http://en.wikipedia.org/wiki/Richard_Attias
(どちらも8月16日アクセス)による。)

 サルコジが4歳の時に両親が離婚し、母親とともに母親の両親のところでサルコジが育てられた話を以前(コラム#1765で)しました。
 1982年、27歳の時に、サルコジは、コルシカ出身の薬剤師の娘であるマリー・ドミニク(Marie-Dominique Culioli)と結婚します。
 1984年、サルコジはニュイイ(Neuilly)の市長として、当時26歳のセシリア(Cecilia Ciganer-Albeniz。父親は毛皮商人。母方の曾祖父はスペインの作曲家のアルベニス)の52歳の男性歌手ににしてTVパーソナリティとのできちゃった婚の結婚式を主宰し、結婚式後13日目に生まれた女の子の名付け親になります。(1987年にもセシリア夫婦は子供(女の子)をさずかります。)
 セシリアは小さいときピアノがうまかったのですが、大学をすぐ中退し、モデル業に従事していた女性です。
 一説によればこの時、もう一つの説によればその3年後に、サルコジはセシリアに一目惚れしたといいます。
 この間、1985年と1986年にそれぞれ、サルコジ/マリー・ドミニク夫婦にも男の子が生まれます。
 1988年になるとサルコジとセシリアは深い仲になり、同棲を始めます。
 写真を見る限り、マリー・ドミニクも結構美人ですが、サルコジがより美人のセシリアに惹かれたのは分かりますし、セシリアが若くして市長を務めていたサルコジに惹かれたのも分かります。
 その後、1989年にセシリアの方は離婚をしたのですが、サルコジはなかなかマリー・ドミニクに離婚してもらえなかったところ、セシリアはサルコジの公式行事等に参加するようになります。ニュイイ市民は、こんなセシリアのことを「市長の売春婦」と呼んだそうです。
 サルコジが「出世」して行くにつれて、セシリアはサルコジの仕事の上での相談相手として活躍するようになり、今度は「<サルコジの>航空管制官」と呼ばれるようになります。
 サルコジが予算担当相となった1993年、セシリアは勝手にセシリア・サルコジと名乗るようになります。
 そして、サルコジの離婚が成立した1996年に二人はようやく結婚し、翌1997年に二人の間の唯一の子供(男の子)のルイが誕生します。
 二人はともにサルコジ大統領実現に向けて協力を続けます。
 サルコジが内相であった2002年から2004年、そしてサルコジが短期間財務相であった2004年、セシリアはサルコジに隣接するオフィスで「勤務」して、省内の人事や政治に口を出しました。
 ところが、サルコジはセシリアに惚れ抜いていたというのに、浮気の虫がおさまりません。
 中でも有名なのは、当時の大統領のシラクの娘のクロード(Claude)と流した浮き名です。 
 それでいて、サルコジはセシリアを一日百回も呼び、「愛してる」と伝えるような男でした。2006年には、選挙の際の公式自伝の中で、セシリアのことを、「最初の出会いから20年経った現在でも、彼女の名前を口にすると感動する」と記しているほどです。
 そしてサルコジは、セシリアを傍らにはべらしておきたいがために、自分も政治家になりたかったセシリアに政治家になることを禁じました。
 こんなサルコジにセシリアが愛想を尽かしたのは分からないではありません。
 2005年にセシリアは、モロッコ生まれのユダヤ人で、ニューヨークを拠点とするイベント業者のアッティアス(Richard Attias)と恋に落ち、彼女はルイと共にニューヨークのアッティアスの所へ出奔するのです。
 サルコジはサルコジで、フィガロ紙の政治記者である、2児の母たる既婚女性と愛人関係になります。
 これに嫉妬したというのですから女心は複雑ですが、2006年に入るとセシリアは一旦、サルコジの下に戻ります。

(続く))

太田述正コラム#2731(2008.8.15)
<サルコジ批判(その1)>(2008.9.25公開)

1 始めに

 サルコジについては、彼がフランスの大統領になった直後に二度、コラム#1765と1770で取り上げています。
 コラム#1765では、サルコジに対し一定の評価をしつつも、その公私混同ぶりを指摘して、「フランスの政治が英国の政治のレベルに追いつくことは、当分なさそうですね。」と締めくくり、コラム#1770では、サルコジ閣僚の半分に女性を任命したことをとらえ、「彼は決して向こうウケを狙ったのではなく、どうやらサルコジは、男性より女性の方を信頼し、男性より女性とともに仕事をすることを好むようなのです。」と記したところです。

 実際、サルコジのこれまでの外交的業績の多くは女性がからむケースでした。
 リビアに捕らわれていたブルガリアの「女性」医療要員達の解放を、当時のセシリア夫人(女性!。コラム#2647)を特使として派遣することでかちとり、フランス系コロンビア人であるベタンクール(女性!。コラム#2647、2660)のFARCゲリラからの解放に入れ込んで貢献したり、という具合です。
 なお、今回のグルジア「戦争」の停戦合意にもサルコジは大きな役割を果たしたところ、これには女性はからんでいませんが、これはたまたまフランスがEUの議長国であったという巡り合わせによるものに他ならず、しかも、実際の根回しは、フランスのクシュネル外相と、全欧安保機構(OSCE=Organization for Security and Co-operation in Europe)の現在の議長国であるフィンランドのスタッブ(Alexander Stubb)外相がタッグを組んで行ったという経緯があります。
 (以上、
http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/7559222.stm
(8月14日アクセス)による。)

 ところで、このように女性に頭が上がらず、かつ公私混同を旨とするサルコジをケチョンケチョンに批判するコラムが英ガーディアン紙に載っている(
http://www.guardian.co.uk/commentisfree/2008/aug/07/france  
。8月7日アクセス)ので、その概要をご紹介するとともに、サルコジ論を、彼の女性遍歴を通じて改めて展開してみましょう。

2 ガーディアンコラムのサルコジ批判

 (1)コラムの概要

 「ニコラス・サルコジは、フランス共和国の歴史上初めて、エリゼ宮を・・・ロック的魅力を持つ彼の妻のCDの販売増進<という>・・・商業目的の写真撮影に使用することを許した。同大統領はプロとは言えない。今度もまた彼の取り巻き達は彼を御することができなかった。サルコジはエリゼ宮はフランス国家の象徴であって貸し出されるべきものではないことを心得ていてしかるべきだった。彼はエリゼ宮に住むことを認められてはいるが、同宮殿の所有者ではないのだから・・。・・・<英国の>ウィンザー宮殿<がかかる目的に使用されることなどおよそ考えられないところだ。>より重大なことは、この最新の明らかに軽薄な挿話が示しているのは、いかにサルコジが次第に民主的権力を私(わたくし)化(privatising)しているかということだ。・・・彼が恣意的に任命した3人の判事が<民事訴訟の最終審で>・・・サルコジの親友・・・の元政治家で華麗なる企業家であるベルナール・タピ(Bernard Tapie)・・・に対し、フランスで空前のことだが、国がこの大統領の友達に2億8,500万ユーロ支払わなければならないとの判決を下したのだ。・・・国の財布はサルコジの自由にできる基金ではないことを、・・・財務大臣に誰か教えてやって欲しいものだ。・・・
 公と私の領域の境界がぼやけてきており、本来両立できない成分がブレンドされて一つの大きな反民主的饒舌(smoothie)となる政治文化が<フランスに>出現しつつある。この新しい文化は通常抜け目がないフランスの市民達の不意を完全についたように見える。・・・
 サルコジの妻が政府の閣僚級にメンバー達38人に「1000個のキッスとともに」彼女のアルバムを贈呈した時、彼らは・・・ジャーナリスト達に向かって、「行ってこれ買えよ。すばらしいから」と語ったときている。・・・
 国家の様々な象徴が商品に堕してしまったというのに、閣僚達、廷臣達、そしてジャーナリスト達は追従者に成り下がってしまっている。こんな時、ブルーニ(カーラ夫人(太田))があえぎながらわれわれの耳に吹き込んでいるように「まるで何も起こらなかったように」ふるまっていてはならない。むしろわれわれは、音楽に向き合い、唱うべきなのだ。「民主主義よさようなら。アンシャン・レジームよ今日は」と。」

 (2)コメント

 これは、イギリス人のフランスを馬鹿にしているホンネを丸出しにしたという意味で貴重なコラムですが、だからと言ってその内容が傾聴に値しないとは私は思いません。
 そんなサルコジの人間像を、彼の女性遍歴を通じて炙り出してみましょう。

(続く)

太田述正コラム#2617(2008.6.18)
<フランスの新防衛政策(続)>(2008.8.12公開)

1 始めに

 一夜明けたら、フランスの新防衛政策の記事が山のように出ていました。
 そこで、もう一度このテーマをとりあげることにしました。
 前回と重複する部分はご容赦下さい。
 最初に前座です。

 「・・・フランスは2009年4月のNATO創設60周年記念式典の際に復帰する予定で、サルコジ大統領は復帰と同時に約110人の上級ポストを要請するとみられ る。また、約800人をブリュッセル郊外のNATO本部の軍事機構に派遣したい意向だが、同機構にはドイツ軍から約2000人、英軍から約1000人が勤 務しており、空きポストは「数年後になる」(軍事機構責任者)という。・・・しかし、機構は目下、1万4,500人から1万人への人員削減も実施中とあり、そう容易にフランスが希望するようなポスト、特に司令官級のポストを得るのは難しいとみらえる。」(
http://sankei.jp.msn.com/world/europe/080618/erp0806180902001-n1.htm
。6月18日アクセス)

 日本の主要メディアの電子版にはこの程度の、しかもゴシップ記事めいた記事しか載っていません。トホホって感じですね。

 (以下、
http://www.taipeitimes.com/News/world/archives/2008/06/18/2003415042
(AFP電の転載)、
http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/7459214.stm
http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/7458650.stm
http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/7460052.stm
http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/7459316.stm
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2008/06/17/AR2008061701349_pf.html
http://www.time.com/time/world/article/0,8599,1815385,00.html
(いずれも6月18日アクセス)による。)

2 フランスの新防衛政策

 フランスが(1994年以来)防衛白書(ただし、今回の正式名称はWhite Book on Defence and Homeland Security)の形で14年ぶりに打ち出した新防衛政策は、英国が既に採用している防衛政策に倣って、これまでの、欧州における本格的な軍事的衝突に対処するものから、欧州外、特にアジアにおいて軍事的介入を行うとともに、(テロ、サイバー攻撃、麻薬密輸、自然災害等から)フランス本土の安全を守るものへと変えようというものです。
 とりわけ重視しているのがテロ対策です。
 テロ攻撃は今そこにある危機だとし、今後、核・化学・生物兵器を用いた攻撃が行われる可能性だってありうるとしています。
 サルコジ大統領は、世界は1994年に比べてより危険度が低下した(less dangerous)けれど、より予測不可能(unpredictable)になったと考えているわけです。

 欧州における本格的な軍事的衝突に対処する必要がないのですから、フランスが欧州最大の兵力を維持し続ける必要はもはやありません。
 フランスはこれまで50,000人を有事即応態勢に置き、ただちに外国に出動できるようにして来ましたが、今後はこれを30,000人のレベルにまで縮減します。
 (現在フランスは約10,000人の兵力をアフガニスタン、コソボ、レバノン、チャド、象牙海岸における作戦に派遣しています。)
 そして、今後6〜7年かけて、文官を含む国防省の職員数を約15%、54,000人削減します。(陸軍は17%、空軍は24%、海軍は11%の削減です。)
 これに関連し、かつての徴兵制時代の軍隊の面影を色濃く残し、多くの兵舎や支援インフラを抱えているフランス軍を、真の志願制時代の軍隊へと造り替えようというのです。
 具体的には、フランスの軍人の60%は管理・支援業務に従事しており、作戦業務に従事しているのは40%なのですが、これを英国並みの40%、60%にしようとしています。
 また、フランス全土の約450の都市に軍の施設がありますが、50箇所の施設が閉鎖されます。
 (以上については、フランスの国家財政が危機に瀕しており、国防費を増やすことが当面不可能であることから、思い切ったスクラップアンドビルドを実行する必要に迫られた、と捉えることもできる。)

 さて、欧州外において軍事的介入を行うのは、フランス単独では不可能ですから、NATOの統合軍事機構に復帰したり、EUの軍事機能を強化したりする必要が出てきます。
 (1991年の湾岸戦争の時には、フランス軍は、他の欧米諸国の軍隊と共同作戦を行う能力が不十分であったため、支援任務に甘んじざるを得ませんでした。)
 (1966年にドゴール(Charles de Gaulle)大統領の時、米国の支配を脱するとしてフランスはNATOの統合軍事機構から脱退したわけですが、既にここ10年以上にわたって、フランスは密かにNATOの統合軍事機構へ復帰しつつありました。1996年にはシラク(Jacques Chirac)大統領の下でフランスはNATOの加盟国参謀長達によって構成される軍事委員会に復帰していたところ、1950年代末以来、最も親米的なサルコジ大統領によってついに統合軍事機構そのものへの復帰の運びとなったわけです。)
 また、サルコジ大統領は、6万人からなるEU軍の創設を提唱しています。
 欧州外、特にアジアにおいて軍事的介入を行うのですから、現在、アフリカの旧仏領諸国のうち、セネガル、象牙海岸、ガボン、ジブチ、中央アフリカ共和国に計9,000人のフランス軍が駐留しているところ、旧仏領諸国との軍事的コミットメントは軽減ないし廃止され、アフリカ所在のフランス軍基地4箇所が廃止されます。
 また、ペルシャ湾岸のアブダビに恒久基地を設けるとともに、スパイ衛星や無人偵察機の増加等、アジアにおける情報収集手段を強化することとし、情報予算を倍増します。
 このことと関連し、国家安全保障会議(national security council)を大統領府に設置し、イラクやアルジェリア大使を歴任したバジョレ(Bernard Bajolet)を、新しく設けられる国家情報調整官に任命し、同会議に配置することとしています。

 <参考:防衛に関する簡単な英仏比較>

兵力      ・・仏は271,000 人(改革後は224,000人)。英は180,000(2007年)
国防費の対GDP比・・仏も英も約2.5%
戦闘機     ・・仏は353機、英は315機(どちらも2007年)
航空母艦    ・・仏は1隻(本格空母)、英は3(プラス予備役1)隻(いずれも本         格空母ではない(太田))

3 終わりに

 前回、「日本は、冷戦終焉後も第二次冷戦以前の骨董品的防衛政策を「堅持」して現在に至っている」と記したところですが、この骨董品的防衛政策とは、米国が朝鮮戦争用の予備兵力として急遽占領下の日本の政府に命じてつくらせた自衛隊(正確には自衛隊の前身)の作戦機能と主要装備の数を基本的にそのまま維持する、というものであり、こんなものは、およそ防衛政策の名に値しません。
 とにかく、属国に防衛政策などあるはずがないのであって、私は、英国やフランスのように、自立した国として自国の防衛政策を策定できる国に日本が早くなって欲しいと願っている次第です。
 もちろんこのことは、米国だって願っています。

太田述正コラム#2615(2008.6.17)
<フランスの新防衛政策>(2008.8.11公開)

1 始めに

 英国やフランスは、日本同様の自由民主主義先進国であって、防衛費の大きさもほぼ同じくらいであることから、日本の今後の防衛政策を考えるに当たって、英国やフランスの防衛政策の動向には関心を持ってしかるべきでしょう。
 今回はフランスの新防衛政策をご紹介したいと思います。

2 フランス軍の憂うべき現況

 「・・・戦車“ルクレール”346台のうち、稼働可能な状態にあるのは142台だけで、ヘリコプター“プーマ”のうち飛行可能なのは半数以下であることが分かった。今年4月にはフランス特殊部隊がソマリアの海賊に拉致されたフランスの豪華ヨットを救出し称賛されたが、・・・特殊部隊の隊員を 乗せた護衛艦2隻はエンジンが故障し、海賊を追いかけた対潜哨戒機「アトランティック2」もエンジンの故障でイエメンに緊急着陸していた。2002年には予算不足でフランス軍ヘリコプター戦力の50%、空軍戦力の 40%、海軍戦力の50%<が>運用でき<ない状態に陥った。>・・・」(
http://www.chosunonline.com/article/20080612000054
。6月13日アクセス)
 「・・・フランスは1997年から2015年まで、3段階に分けて国防改革を推進している。第1段階(1997‐2002年)では、まず兵力を削減し、徴兵制の代わりに志願兵制を導入する措置を取った。ところが、新型武器を 導入するための国防予算増額はままならず、新型兵器の導入はもちろん、既にある武器の維持にも困難を来たすようになったのだ。短期間の無理な兵力削減 (50万人→35万人)で歩兵の戦闘力が大きく損なわれ、志願兵制導入による人件費増加のため戦力増強もさらに難しくなった。・・・」(
http://www.chosunonline.com/article/20080612000055
6月13日アクセス)

 フランスは、冷戦終焉後、防衛政策の切り替えに適切性を欠いたために、フランス軍はこのような憂うべき状況に陥ってしまったわけです。
 (朝鮮日報を引用しなければならないことが残念でなりません。日本の主要メディアがいかに防衛問題に関心がないか、お分かりいただけるでしょう。)

3 フランスの新防衛政策

 当然、何とかしなければならない、ということになります。
 こういう背景の下、フランスのサルコジ政権は、以下のような新しい防衛政策を打ち出しました。
 
 まず、在来型の軍事的脅威は隅に押しやられ、疫病、テロ、サイバー戦争、ミサイル攻撃、といった複雑なグローバル化した諸脅威が主役に躍り出ました。

 アフリカ等の旧フランス植民地30数カ国と結んでいる二国間同盟条約は見直しないし廃止され、この種二国間同盟条約に基づく、独裁者等のための怪しげな軍事活動よりもEU諸国やNATO諸国、あるいはアフリカ連合(African Union)諸国との多国間共同作戦が重視されます。
 そして、サルコジ大統領は、NATOの加盟国の増大とNATOのコソボやアフガニスタン等における平和維持活動の実施を踏まえ、就任早々、EU独自の防衛・安全保障政策及び能力の形成と平行してフランスをNATOの統合軍事機構へ復帰させる意向を表明していましたが、それが公式の政策となりました。
 ただし、フランスの核戦力はNATOの統合軍事機構へ供出されず、平時においてすら、フランス軍が外国の将校の指揮下に恒久的に入ることはない、としています。
 また、今後6〜7年かけて現在330,000人のフランス軍の総兵力が54,000人削減されます。
 こうしたことによる人件費等の削減によって、2008年現在で300億ユーロ(GDPの2.3%)であるフランスの国防費の総額は物価上昇分を除いて2012年まで据え置かれ、その後2014年まで年率1%ずつ増やされるだけですが、そのうちの装備調達経費は、現在の毎年155億ユーロが2009年から2020年の各年は180億ユーロへと16%以上増額され、スパイ衛星、巡航ミサイル、輸送手段に重点的に費やされることになっています。また、軍の諜報活動は一本化され、諜報経費は倍増されます。
 なお、28億ユーロかかるとされる二隻目の原子力空母を建造するかどうかの決定は2011年まで延ばされ、そのほかの大規模な調達プログラムも延期されたり規模を縮小されたりする可能性があります。

 (以上、
http://www.nytimes.com/2008/06/17/world/europe/17france.html?ref=world&pagewanted=print
http://www.ft.com/cms/s/0/90a29448-3bcb-11dd-9cb2-0000779fd2ac.html  
(どちらも6月17日アクセス)による。)

4 終わりに

 日本は、冷戦終焉後も第二次冷戦以前の骨董品的防衛政策を「堅持」して現在に至っているところ、以上ご紹介したフランスの新しい防衛政策は、私が思い描いている日本のあるべき防衛政策とほぼ同じです。
 もちろん、日本が米国から自立を果たさない限り、そんなものは絵に描いた餅ですが・・。

太田述正コラム#2057(2007.9.11)
<つい最近できたばかりのフランス(その2)>(2008.3.17公開)

 フランスの風景の多くはエッフェル塔(1889年建立)より新しい。
 マラリア蚊だらけの沼が干拓されヒースが生い茂る土地や裸の山に木が植えられたのだ。ピレネー山脈のスペイン側の風景こそ、かつてのフランスの風景なのだ。
 フランスの絵のように美しい地名の多くは観光業者や地図制作者によって創作されたものだ。
 欧州のグランドキャニオンと称されるヴェルドン渓谷(Verdon gorges)・・フランス南東部に位置する・・だって1906年までは少数の木こりにしか知られていなかった。
 カゴ(cagot)という、中世のハンセン氏病患者ないしサラセン侵略者の子孫とも言われる「呪われた人種」は、何世紀にもわたって南部フランス全域で迫害されてきた。20世紀になってからでさえ、その迫害は一部の地方で続いた。
 1930年代まで、郵便配達員や羊飼い達はひがな長大な竹馬に乗っていたものだ。彼らは8マイル時のスピードで一日75マイル踏破することができた。
 ナポレオンの皇后マリー・ルイーズ(Marie-Louise)が馬車でフランスを旅行した時には、羊飼い達が竹馬に乗ってお供をした。竹馬のスピードは馬車よりも速かったのだ。
 また、カトリック教会の努力にもかかわらず、キリスト教以前からの巨石の前で豊饒を祈る儀式が20世紀初頭までフランスで行われていた。

 しかし、それはフランスが変わったということであって、フランスそのものは昔から存在していたのではないか、と思う人がいるかもしれないが、それはとんだ心得違いだ。

 ドゴール(Charles de Gaulle)は、246種類ものチーズがあるフランスを統治することの困難さを嘆いたが、これは大昔からのフランスの役人共通の嘆きなのだ。
 つまり、フランスはその歴史の大部分の間、各地方の寄せ木細工でしかなかったのだ。
 19世紀の中頃までフランス全体を網羅するまともな地図は存在しなかったし、共通語に至っては全く存在しなかったと言っても過言ではないのだ。

 安い自転車が普及するまでは、フランスの大部分の人々にとって、半径15マイル以内の地域における、小さい納屋に収容できるくらいの数の人、が世界のすべてだったのだ。
 ピレネー地方へ旅行した人が1837年に、「金星と土星が異なるように、一つ一つの谷が、隣の世界とは異なる小世界を形作っている。一つ一つの村が、一つの氏族(clan)、独自の形態の郷土愛を持つ一種の国家、の趣がある。それぞれが異なった様相を呈し、異なった意見、偏見、慣習を持っている。」と記している。
 ナポレオンのマリー・ルイーズの前の皇后ジェセフィーヌ(Josephine)は、亭主ご指定の地図に従って旅行をしたところ、載っていた道路が想像上のものであったため、彼女の馬車を斜面をロープを使って下ろさなければならない羽目に陥った。
 フランス全土が、地図、道路、鉄道、電信によって結びつけられたのは、20世紀になってからだ。フランス人全体が同じ日に同じ出来事が起こったことを知るという経験をしたのは、1914年8月の第一次世界大戦勃発の時が初めてなのだ。

 19世紀にフランスで55の主要方言と数百の準方言が確認された。
 19世紀には兵士や役人は地方に行くとガイドや通訳が必要だった。
 1880年の段階で、標準フランス語が使えたのは全人口の約五分の一に過ぎなかった。
 この標準フランス語なるものは、昔パリのフランス語と呼ばれていた代物だ。
 1789年のフランス革命の頃は、全人口の11%にあたる300万人しか、このフランス語をしゃべってはいなかった。
 そして、1863年に至っても、フランス軍の兵士の四分の一は地方語しかできなかった。第一次世界大戦の時、ブルターニュ人(Bretons=Brittany人。ケルト系の言語を用いていた)はフランス語ができなかったため、ドイツ兵と間違われてフランス兵によって射殺されるという事件が起こっている。

 フランスなる国民国家が成立したのは、第一に19世紀末の都市への人口流入、次いで自転車の普及、更には第一次世界大戦の結果なのであって、それまでは、フランスという国家はあったかもしれないけれど、その内実は、各地方の寄せ木細工でしかなかったのだ。

3 終わりに

 ドイツやイタリアは19世紀末に初めて統一国民国家になりましたが、この両国に比べてはるかに先行していたという印象のあるフランスだって実質的に統一国民国家になったのは19世紀末から20世紀初頭にかけてだったのですね。
 イギリスや日本は、統一国民国家になった時期の早さだけとっても欧州諸国とは対照的です。
 イギリスでは、(恐らくノルマン・コンケスト以前の)大昔から資本主義社会であってイギリス全域で単一市場が形成されていましたし、日本では徳川幕府が直轄領や親藩を全国に配置したことや、参勤交代制を導入したことで、江戸時代に早くも日本全域で単一市場が形成されました。
 この結果、イギリスはもとより日本においても、欧州諸国よりはるか以前に国民国家が成立していた、ということになるわけです。
 
(完)

太田述正コラム#2055(2007.9.10)
<つい最近できたばかりのフランス(その1)>(2008.3.13公開)

1 始めに

 私は以前(コラム#96で)、「<イギリスとフランスにまたがった>アンジュー「帝国」<の崩壊に伴う>13世紀におけるイギリスの「独立」こそ世界最初の国民国家(Nation State)の成立であり・・<この>アンジュー「帝国」が復興し、フランスのブルボン王朝を打倒する一歩手前までの大スペクタクルが展開するのが、・・1337〜1453年「英仏」百年戦争です。15世紀における百年戦争の勝利によるフランスという第二の国民国家の成立を契機に欧州はフランスを模範として国民国家の時代を迎える、と私は考えています。」(注1)と記したところです。

 (注1)アンジュー帝国(Angevin Empire)と言われても訳が分からない読者が多いと思うが、コラム#96参照のこと。なお、コラム#61で1291年にスイス地方のドイツ語圏の三つの地域が手を携えて、ハプスブルグ家の封建的支配からの独立を果たしたことが、欧州における最初の国民国家の形成である、と記したところだが、これは孤立的な事件であったと考えるべきだろう。

 イギリスのフランス文学史家であるロッブ(Graham Robb)が上梓した'The Discovery of France’は、私のこの認識の後段は誤りであることを明らかにしてくれました。
 ロッブによれば、フランスなる国民国家が成立したのは、ごく最近のことだというのです。

 (以下、特に断っていない限り
http://books.guardian.co.uk/reviews/history/0,,2165224,00.html
(9月9日アクセス)、及び
http://entertainment.timesonline.co.uk/tol/arts_and_entertainment/books/history/article2263977.ece
http://www.telegraph.co.uk/arts/main.jhtml?xml=/arts/2007/09/08/borob108.xml
http://fanset7.blogspot.com/2007/09/discovery-of-france.html
http://www.ft.com/cms/s/0/f59d5f16-5b5e-11dc-8c32-0000779fd2ac.html
(いずれも9月10日アクセス)による。)

2 ロッブの指摘

 (1)フランスとはどんな国か

 1961年10月17日、パリのど真ん中でアルジェリア戦争(1954〜62年)に反対する3万人のアルジェリア人の非武装で平和的なデモ隊を警官隊が襲い、70〜200人を虐殺し何百人に怪我を負わせ、死体をゴミ箱やセーヌ河に投げ入れるという事件(Paris massacre of 1961)が起きる。
 この事件が起こったことは、1998年まで秘密にされてきた(注2)。

 (注2)これは、ヴィシー政権下でナチスのユダヤ人迫害に手を貸すという人道に対する罪を犯したとして1998年に有罪を宣告されることになるところの、警視総監のパポン(Maurice Papon)・・その後ジスカールデスタン大統領の下で財務相を務める・・が命じたものであることが判明する。
http://en.wikipedia.org/wiki/Paris_massacre_of_1961
。9月10日アクセス)

 その3年後、ノートルダム寺院の近傍の橋にこの事件についての額が掲げられたのだが、いまだにフランス人の五分の四はこの事件のことを知らない。
 フランスは、欧州諸国中イスラム教徒の人口が一番多いというのに、現在の大統領が2005年11月に、暴動を起こしたイスラム教徒たる市民を「クズ(scum)」と呼ぶような国(コラム#945)なのだ。
 このフランスの凋落ぶりは目を覆うばかりだ。
 英語圏で知られているフランスの作家は、今や余りばっとしない小説家のウェルベック(Michel Houellebecq。1958年(?)〜)くらいなものだし、フランスの哲学者に至っては皆無で、デリダ(Jacques Derrida。1930〜2004年)が嘲笑的に思い出されるくらいのものだ。
 フランス料理の人気は下がるばかりだし、パリが流行の中心をニューヨークとロンドンに譲ってから久しい。

 (2)つい最近生まれたばかりのフランス

 実は、フランスなる国民国家は、つい最近最近生まれたばかりなのだ。

(続く)

太田述正コラム#11492006.3.28

<またもフランスにおける暴動(続)(その2)>

 ワシントンポストは、現在パリで憂鬱(melancolle)と銘打った美術展が開かれているけれど、まさに現在フランスは憂鬱に充ちている、という記事を掲載しています(http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2006/03/24/AR2006032400705_pf.html(3月26日アクセス)。以下、特に断っていない限りこの典拠による)。

 この記事によれば、最近実施された、フランスの20?25歳を対象にした世論調査で、「グローバリゼーションはあなたにとって何ですか」と聞いたところ、48%が不安(fear)と答えました。

 実際、フランスの若者達は、社会に対し、未来に対し、喪失に対し、他人に対し、リスクを冒すことに対し、孤独に対し、加齢に対し、という具合に、あらゆるものに対して不安感を抱いているというのです。

 このところの人種差別意識の高まり(注4)、昨年のEU憲法の国民投票での否決(コラム#699742)や、初雇用契約制度導入に対して現在展開されている反対闘争は、まさにこの不安の産物であり、いかなる変化をも懼れてひたすら現状維持を図ろうという病理現象だ、というわけです(注5)。

 (注4)最近公表された、昨年11月に実施された世論調査によれば、自分は人種差別意識があるとするフランス人は約三分の一で、一年前の調査より8%増え、また32%しか人種差別を目撃しても警察に通報しないと答えている。更に、昨年反ユダヤ人犯罪で訴追された人の数は、一昨年に比べて50%増加した。(http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/4832238.stm。3月23日アクセス)

     ちなみに、反ユダヤ人意識が最も強いのは、移民の人々の間でだ。先般起こったユダヤ人青年拷問殺人事件はフランスの朝野に衝撃を与えた。(http://www.nytimes.com/2006/03/26/international/26antisemitism.html?pagewanted=print。3月27日アクセス)

 (注5)もっとも、50歳以上を対象に行われた、ある企業による調査によれば、英独仏西伊及びポーランド中、最も悲観的なのはドイツ人で、最も楽観的なのは英国人とスペイン人である、という結果が出た。もっともこれは、ドイツにニーチェ(Nietzsche)、ショーペンハウエル(Schopenhauer)やシュペングラー(Oswald Spengler)に代表される、悲観主義(pessimism)の伝統があるためらしい。蛇足ながら、この調査では、セックスが重要だと考える者や定期的に運動を行うことが重要だと考える者が一番多いのはドイツ人だという結果も出ている。(http://www.guardian.co.uk/germany/article/0,,1737409,00.html。3月23日アクセス)

 この記事は、こんなフランスの、硬直した労働諸法や高コストの下ではやっておられないと、国外に逃げ出す企業が続出しており、逆にフランスにやってこようとする企業はほとんどない上、税金が高いので金持ちもまた逃げ出しており、また、能力ある若者ほど他国に職を求めようとする傾向も出てきている、とも指摘しています。

 それどころか、かつてフランスの独壇場であったワイン・ファッション・現代美術等の分野においてさえ、この10年のフランスの凋落は著しいといいます。

 このように見てくると、現在のフランスの病状の深刻さは、日本のつい最近までの失われた10年強の時代における病状の比ではなさそうです。

 フランスが立ち直るとすれば、それは、自らのアイデンティティーをぎりぎり失わない範囲で、欧州文明を脱ぎ捨て、アングロサクソン文明化(=英国化)するという方法しかないでしょう。

 それをやったのがアイルランドであり(近々説明する)、その先例がある以上、フランスだってできない相談ではないはずです。

(完)

太田述正コラム#11472006.3.27

<またもフランスにおける暴動(続)(その1)>

 初雇用契約制度導入問題は、28日のゼネストが必至という状況であり、フランスはますます混迷の度を深めていますが、これと時を同じくして、フランス政府が顰蹙を買うエピソードが起こりました。

 3月24日、シラク仏大統領は、二人の閣僚とともにEU首脳会議の席から一時退出しました。

 フランス人たる欧州経団連の会長が、フランス語を使わず、「ビジネスの用語である英語」で同会議で話を始めたからです。

 これは、フランスがいかにEUの中で追いつめられているかを象徴するエピソードだと言って良いでしょう。

 一つは、フランス語のEU共通語からの転落です。

 それが始まったのは、1995年にスェーデンとフィンランドがEUに加盟した時であり、2004年に東欧諸国が加盟したことで決定的になりました。

 そもそもフランス語を母国語とする人々は、全世界でわずか1億人しかおらず、日本語よりマイナーな言語なのです。欧州に限っても到底英語と競えるような存在ではないのに、フランス政府は、いまだに過去の栄光にしがみつこうとしているわけです。

 (以上、http://www.guardian.co.uk/france/story/0,,1739353,00.html(3月25日アクセス)による。)

 もう一つは、より根本的な問題なのですが、フランスが、ヒト・カネ・モノ・サービスの移動の自由というEUの理念に反旗を翻すEU内の異端児的存在になりつつあることです。

 この何週間というもの、フランス政府は、イタリアのガス会社によるフランス・ベルギー資本のガス会社の買収を阻止するためにこの会社をもう一つのフランスのガス会社と合併させた疑いが持たれています(注1)(注2)(注3)。

(以上、http://news.ft.com/cms/s/50891a92-baab-11da-980d-0000779e2340.html、及びhttp://politics.guardian.co.uk/eu/story/0,,1737827,00.html(どちらも3月24日アクセス)、並びにhttp://www.guardian.co.uk/eu/story/0,,1739304,00.html(3月25日アクセス)、及びhttp://www.taipeitimes.com/News/editorials/archives/2006/03/25/2003299162http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/4842734.stm(どちらも3月26日アクセス)による。)

 (注1)フランス政府は、1110?。コラム#1139)もの保護されるべき戦略産業分野を発表したばかりだし、2ヶ月前には、インドの製鉄会社がフランスに主たる拠点を置く製鉄会社が買収されることに反対したし、2004年には、スイスの製薬会社がフランス・ドイツ資本の製薬会社を買収することに反対した。なお、ルクセンブルグ・スペイン・ポーランドでも、経済ナショナリズム(economic patriotism。ドビルパン仏首相の造語)的動きが噂されている。これらは、すべてEUの法律違反の疑いがある。

 (注2英国(首相官邸に電気はフランス企業、水道はドイツ企業が供給しており、ガスについては官邸が契約している4社中3社が外国企業。http://www.sankei.co.jp/news/060325/kei044.htm(3月25日アクセス)同様、ドイツには経済ナショナリズム的な動きは全くと言って良いほどないし、イタリアにも余りないと言って良い。しかし、失業率や経済成長率の点では、仏独伊三国とも英国に比べればみんな劣等生だ。

 (注3)ざっと電子版を見た限りでは、日本の各紙は、シラク仏大統領の首脳会議からの退場というエピソードだけを取り上げるか、フランスのEU内での異端児化の問題をも取り上げつつも、この両者を関連づけて論じることをしていない(http://www.sankei.co.jp/news/060325/kok053.htmhttp://www.sankei.co.jp/news/060325/kei044.htm(既出)、http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20060325k0000e030015000c.html。3月25日アクセス)。

(続く)

太田述正コラム#11392006.3.23

<またもフランスにおける暴動>

1 始めに

 「フランスにおける暴動」というシリーズ(コラム#944945947952953955956958?963967968)でフランスにおける移民青年達の暴動をとりあげたのは、つい昨日のような気がしますが、またもやフランスで暴動・・今度は学生が主役で労組も関与している・・が起こっています。

 欧州文明の桎梏からどうしても脱却のできないフランスの悲劇的な姿をわれわれはまたもや目撃させられつつあるのです。

2 ことの次第

 昨年10月末から11月にかけて燃えさかった、移民の若者達の暴動の大きな原因の一つであったところの、フランスの26最未満の若者の高失業率(注1)を何とかしようと、フランスのドビルパン(Dominique de Villepin首相の政府は、26歳未満の若者を雇用した企業は雇用後2年経過するまでは無条件にその若者を解雇できる、という法律・・かかる内容の初雇用契約(Contrat Premiere Embauche contract of first employment)の締結を認める法律・・を2月に制定したのですが、若者差別だし雇用の安定が失われるとして学生がこれに反発し、法律の撤回を求めた(注2)、というのがことの発端です。

 (注1OECDによれば、フランスの雇用規制の柔軟度は米国の約15分の1だ。このため、米国の失業率は5%以下なのに、フランスは10%近い。しかも、26歳未満の若者の失業率は23%近いし、移民の若者に至っては失業率は50%近い。

 (2) もともとフランスの学生暴動には通過儀礼的色彩があるが、1968年の学生暴動は、体制の古い体質に対する異議申し立てだったと言えるのに対し、今回の学生暴動は、体制の古い体質を守ろうとするもの・・移民の若者に比べて恵まれている自分達の雇用を守ろうとするもの・・であり、フランスの学生が退嬰化している印象は免れない。(少なくとも、学生達は、年齢による差別反対、の一点にしぼって闘争すべきだった。)

学生達は、ソルボンヌ等を中心にストに突入し、キャンパスを封鎖し、今度は機動隊が封鎖を突破し、学生達が行ってきたデモが大規模化(先週末には50万人超)し、その一部が暴動化して機動隊と衝突したり器物損壊等を行う、という具合に事態はエスカレートしてきています。

 この学生達のデモに現在労組が加わっており、労組は近々ゼネストを打つ予定です。

 18日には、労組員の一人が、機動隊とのこぜりあいで倒れ、昏睡状態に陥っています。

3 論評

 学生達に対して、次のように最も手厳しい批判を投げかけているのは英オブザーバー紙です。

 「<初雇用契約制度の導入は、>余りにもアングロサクソン的・自由主義的・個人主義的だと<学生達によって>受け止められている。われわれは文明的(cultural)悲劇が繰り広げられるのを目撃している。フランスの人々は彼らの集合的な頭の中で、何がフランス的であるかについて、ユートピア的な理想を抱いている。彼らは欧州の真の共和主義的美徳たる自由・平等・博愛の擁護者を自任している。彼らは自分達が欧州の指導者だと思っており、フランス国家は、フランスの理想を具現化した存在であるとともに、フランス国民の主たる人形遣いでもある。しかし、こんなことは2006年には通用しない。フランス国歌は、他のすべての欧州の諸国家がそうであるように、グローバルな市場の力に取り囲まれている。フランスはEU加盟25カ国のうちの一つの国でしかないし、1950年代以来唱えられてきたところの、自由・平等・博愛もまた改鋳(recast)されなければならないのだ。」

 この論説が指摘するように学生も学生だし、この学生に追随しようとしている労組も労組ですが、実はフランス政府も同じ穴の狢なのです。

 フランスの企業は外国の企業の買収に精を出しているというのに、3月17日には、フランス政府は、外国の企業がフランスの企業を買収することを一層困難にする法律を制定しました。また、フランス政府は、先だっても10の戦略産業の外国企業による買収を禁止する措置をとりました。

 これらはすべて、EUの法律違反であり、フランス政府が政府間でやっていることは、学生達がフランスでやっていることと同様の、特権意識に根ざした既得権エゴイズムの発露以外のなにものでもないのです。

 もう一点、つけ加えるべきことがあります。

 それはいまだに、暴動化したデモを許容するムードがフランスにある(注3)だけでなく、大規模なデモや暴動化したデモがフランスの政治の進路を実際に変針させる(注4)、ということです。

 (注3)フランス革命以来の伝統で、一見矛盾するようだが、フランスの人々は反政府的であると同時に政府依存的でもある。

 (注4)こんなことは、アングロサクソン諸国では考えられないし、戦後の日本においてすら、1960年の安保闘争の頃以降は考えられない。しかも、安保闘争によって岸首相は退陣したが、政治の進路は変針することなく、新安保条約は発効した。

すなわち、21日、ドビルパン首相が、無条件で解雇できる期間を若干短縮する等の手直しを考えると発言したと思ったら、何と次にはサルコジ(Nicolas Sarkozy)内相が、24日に発売される雑誌のインタビューの中で、学生等の要求に事実上屈するような発言を行い、政治の進路の変針が決定的になっただけでなく、政府内の足並みの乱れまで露呈してしまいました。

また、そもそも上記初雇用契約制度を導入するにあたって、その意義や、併せて職業訓練や住宅政策も充実させること等を、事前に学生団体や労組に説明して了解を取り付ける努力をしなかったことも、通常の民主国家では余り考えられないことです。

つまりフランスの民主主義なるものは、手続き的妥当性を重んじる、アングロサクソン流の民主主義とは似て非なるものである、と言わざるをえません(注5)。

(以上、http://www.guardian.co.uk/Columnists/Column/0,,1734841,00.html(3月21日アクセス)、http://www.latimes.com/news/opinion/editorials/la-ed-france21mar21,0,6670122,print.story?coll=la-news-comment-editorials、及びhttp://www.nytimes.com/2006/03/21/international/europe/21cnd-france.html?pagewanted=print(どちらも3月22日アクセス)、並びに、http://www.csmonitor.com/2006/0323/p08s02-comv.htmlhttp://www.taipeitimes.com/News/editorials/archives/2006/03/22/2003298638(上記オブザーバー論説を転載しているもの)、及びhttp://www.guardian.co.uk/france/story/0,,1737295,00.html(いずれも3月23日アクセス)による。)

(注5)現在のフランスの政治状況は、現在のタイの状況(コラム#11201121)と二重写しに見える。いや、タイのデモは暴動化していないから、フランスの政治の方がタイより、アングロサクソン流の民主主義からの逸脱度は一層大きい、と言えそうだ。

太田述正コラム#9872005.12.6

<思い出される大学の頃(その1)>

1 初めに

 フランスにおける移民暴動とホロコースト否定論に係る読者の反応を見ていると、既視感にとらわれました。

 いつだったかと思いめぐらしたところ、学生時代の記憶が蘇ってきました。

 1968年の大学二年の時の東大「闘争」の記憶と、1967年の大学一年の時にカルト系宗教と接した記憶です。

 昔話をするのは、年を取った証拠かも知れませんが、ご容赦下さい。

2 東大「闘争」とフランスにおける移民暴動

 (1)東大「闘争」

 当時から私は、東大紛争は、「自由のない受験時代を経てやっと大学に入ったけれど、4年経つと再び自由のないサラリーマン生活に入らなければならないというのに、その間も、勉強をし、単位をとらなければならないのはいやだ」、というまことに矮小な不満が原因であった、と考えています。「闘争」手段として、スト(授業出席拒否)とピケッティング(校舎占拠)が行われたのは、そのためだ、とさえ私は見ていました。

 ところが「闘争」参加学生達は、そうは考えていませんでした。

抑圧的な東大を改革するために自分達は蹶起したのだ、と思いこんでいたのです。そしてこの抑圧的な東大を改革することは、東大の事務局に官僚を出向させて東大を牛耳っている文部省、ひいては日本の政治を改革することに通じる、とも思いこんでいたのです。ストと校舎占拠は、東大の機能を麻痺させることによって、一連の改革の起爆剤となる、というわけです。

私は同じクラス(注1)の「闘争」参加学生に対し、何度も私の上記「情勢分析」を述べた上で、「さぞ楽しいことだろうが、もう憂さ晴らしは済んだのではないか、そろそろ「闘争」を中止すべきだ」と説得にこれ努めたのですが、連中はみんな目がつり上がっていて、私の言うことに耳を貸しません。

(注1)東大に入学すると、同じ第二外国語を選択した者同士でクラスを編成し、学部に進学するまでの間の2年間、駒場のキャンパスで過ごす。私のクラスは、フランス語のクラスで、法学部進学予定者(文1)と経済学部進学予定者(文2)によって構成されていた。

 

 さじを投げた私が、ある時、(私のクラスでは「闘争」参加者は文2の学生が多かったので、)「君らはみんな、卒業後、「闘争」などなかったような顔をして、銀行等に勤めることになるよ」と言ったところ、彼らは、大変な剣幕で、「とんでもない、少なくとも東大改革が実現するまでは絶対「闘争」を続ける」と答えたものです。

 私と彼らのとちらの情勢分析が正しく、またどちらの予測が的中したかは、言うまでもありません(注2)。

 (注2上記クラス単位でクラス代議員を複数選出し、クラス代議員が集まって、駒場の学生としての様々な意志決定が行われる。

私は、「闘争」が始まりストに突入したときには代議員ではなかったけれど、ストを収束させるために、クラスの日和見連中に根回しして代議員になり、スト解除決定に参加し、本郷の方の各学部の同様の動きとあいまって、大学当局による警察力導入に道が開かれ、「闘争」は収束に向かった。

結局、東大「闘争」は10ヶ月間続き、翌1969年の東大入試は行われなかった。

 東大生全員が学業をさぼり、東大における研究活動を阻害し、東大の施設に多大の損害を与えただけで、東大も文部省も日本政府も何一つ変わりませんでしたし、クラスの「闘争」参加者のほぼ全員が、何事もなかったかのように、銀行等の大企業の企業戦士になったときているのですから(注3)。

 (注3)その私が何の因果か、それから三分の一世紀後に、たった一人で、日本を変えようと「闘争」を行うはめになろうとは。

 (2)フランスにおける移民暴動

 私が東大「闘争」を的確に分析できたのは、私が当事者としての視点ではなく、海外経験を通じて培った第三者的視点で情勢を分析したからだ、と私は思います。

 フランスにおける移民暴動を見るにあたっても、私は、当事者の方々の話より、英米、就中英国の高級メディアの第三者的視点を重視してきました。

 では、どうして数多ある第三者的視点の中で、英米、就中英国の高級メディアの視点なのでしょうか。

 アングロサクソンが世界を牛耳るようになり、アングロサクソン・スタンダードがグローバル・スタンダードになってから既に久しいわけですが、これは、英米のリーダー達が、これまで行ってきた無数の情勢判断(情勢分析と予測)とこれら情勢判断を踏まえた意志決定が常におおむね適切であったからでしょう。だとすれば、英米、就中英国の高級メディアについても、西欧諸国や日本の高級メディアより信頼性が高い、と考えざるをえないからです。

 面白いことに、今回のフランスにおける移民暴動に関しては、東大「闘争」の時とは逆で、当事者(フランス在留)の方々はおおむね事態を軽く考えておられるのに対し、英米、就中英国の高級メディアは事態を深刻に受け止めています。

 そこで、私も事態を深刻に受け止めることにしたのですが、英米、就中英国の高級メディアとて、情勢判断を間違えることはありえます。

 間違っている、と思われる方が、反論を試みられることは大歓迎です。

 ぜひ反論を執筆していただきたいが、その際にぜひお願いしたいのは、これら高級メディアや私のコラム同様、事実については必ず「いつどこで見たか」を記すか典拠を付し、判断にわたる部分については、執筆者自身による判断は最小限に抑えるとともに、執筆者以外による判断については「いつどこで誰に聞いた判断か」を記すかやはり典拠を付し、(できるだけ)執筆者の本名と肩書きも明かしていただくことです。

(続く)

太田述正コラム#9682005.11.25

<フランスにおける暴動(その15)>

 では、ホロコーストに積極的に加担したことをこれだけ恥じたはずの戦後フランスで、ユダヤ人差別は払拭されたのでしょうか。

 全くそんなことはありません。

 現在の在フランスのユダヤ人人口は約60万人と推定されていますが、最近では、毎年約2,000人のユダヤ人がイスラエルへ「脱出」しており、その数は次第に増えつつあります。

 昨年7月には、イスラエルのシャロン首相が、フランスのユダヤ人は、「最もひどいユダヤ人差別(the wildest anti-semitism)」を逃れるために、フランスから緊急に脱出する必要がある、と述べ、フランスの朝野はこれに激しく反発しました。

 ところが、シャロンがそう述べた相手である米国のユダヤ人達は、全くその通りだ、とみんながうなずいたのです。

 現在のフランスのユダヤ人差別には三種類のものがあります。

 第一は、カトリシズムに由来する伝統的かつ牢固なユダヤ人差別です。(これは、英米では全く見られない類のユダヤ人差別です。)

 第二は、最近の左翼インテリ(Rive Gauche penseurs)の親パレスティナ・反イスラエル感情に由来するユダヤ人差別です。(これは、英米でも目にすることができます。)

 そして第三は、フランスの500万?600万人のイスラム系移民の間に見られるユダヤ人差別です。これは、貧困層を代表するイスラム系移民による、富裕層を代表するユダヤ人に対する反感に由来するものです。(これはやはり、イスラム系移民が比較的豊かである米国ではもとより、イスラム系移民が貧困層を代表している英国でも、全く見られない類のユダヤ人差別です。)

 2003年から2004年にかけて飛躍的増大した、ユダヤ人に対する暴言・暴行やユダ人関連施設の損壊には上記三種類のユダヤ人差別の全てがかかわっているけれども、イスラム系移民によるものが最も多いのではないかと考えられています。

 もっとも、皆さんご存じのように、その「共和国原理」に基づき、フランスにはユダヤ人に関する統計もイスラム系移民に関する統計も存在しないため、以上申し上げたことはフランスで誰もが囁きあっていることではあっても、公式にはあくまでも推測に過ぎません。

 そんなことはさておき、フランスにはこのように依然として深刻なユダヤ人差別が存在しているけれど、それ以上に、以前にも指摘したように、深刻なイスラム系移民差別が存在していること、にもかかわらずこの差別をフランス政府やフランス社会が直視せず、従って何の対策も、いわんや何のアファーマティブアクションもとられてこなかった(注29)こと、そのことがイスラム系移民の間に憤懣を充満させ、それがユダヤ人差別の激化の形でまず顕在化しているところ、その憤懣がやがてはフランスの国家・社会そのものに向けて爆発するであろうことは、昨年時点では既に国際的常識だったのです。

(以上、特に断っていない限りhttp://www.guardian.co.uk/elsewhere/journalist/story/0,7792,1272129,00.html2004年7月31日アクセス)、及び(http://www.guardian.co.uk/france/story/0,11882,1331347,00.html20041021日アクセス)による。)

 (注29)フランスで、飲酒の弊害がこれまで全く問題にされてこなかったのも、差別の存在を認めてこなかったことと同じく、全ては個人の責任とする「共和国原理」のせいかもしれない。先般、フランスには飲酒過多が500万人、アルコール依存症が200万人いて、10人に1人が飲酒が原因の病持ちであり、毎年飲酒が直接的な原因で23,000人、そして飲酒が間接的な原因で22,000人も死亡しているにもかかわらず、政府は何の対策もとっていない。(http://www.guardian.co.uk/france/story/0,11882,1650396,00.html1125日アクセス)

10 今度こそエピローグ

 本シリーズにおいて、英米のプレス、就中英国のプレスの論調に従って、フランスにおけるイスラム系住民等に対する差別をあげつらってきたことに反発のある方もあろうかと思います。

 英国にも差別はあるはずだし暴動もあったはずだ。将来暴動が起きない保証もあるまい、という声が聞こえてきます。

 私の考えは以下のとおりです。

英国のフランスとの違いは、ロンドンの南の郊外のブリクストン(Brixton)で1981年に暴動が起きた時のことを振り返ってみると浮き彫りになってきます。

ブリクストンでの暴動は、今回のフランスにおける暴動と全く同様の原因・・警察によるハラスメント・貧困・失業・・で起こったのですが、7日間で、300名の負傷者が出て、83の建物と23の車が損壊されだけで終わり、この暴動が英国の他の地域には波及することもなかった、という具合に様々な意味で、今回のフランスにおける暴動よりもはるかに規模の小さいものでした。

なお、暴動の主体は、黒人移民の若者達でした。

英国はこの暴動を契機に、明確に多文化主義を打ち出し、アファーマティブアクションを含む様々な差別解消施策を講じ、現在では、下院に沢山の非白人の議員を擁し、ロンドン警視庁の30,000余の警官のうち非白人は7%を占めるに至っています。

(ただしその後、1985年にはブリクストンで再び小暴動が起きたし、2001年には、イギリス北部のいくつかの都市でアジア系と白人の若者達の間で小競り合いが起きている。)

(以上、http://www.nytimes.com/2005/11/20/weekinreview/20cowell.html1120日アクセス) による。)

つまり、英国は、小さい規模の暴動が起きただけで、すみやかに、抜本的な差別対策を講じるだけの柔軟性を持っているという点で、フランスとは決定的に違うのです。

もちろん、将来のことは分かりませんが、私は、1981年のブリクストンでの暴動のような規模の暴動すら、見通しうる将来にかけて、英国では起きないだろうと思っています。

 そもそも、英国は、もともと多文化主義的な国であり、欧米における反差別のチャンピオンなのです(コラム#379?381)。

 英国は、欧米諸国の中で最も早く、ユダヤ人差別を克服(コラム#478?480)し、奴隷制を廃止(コラム#225591592594601608)しました。

 私は、英国におけるこの多文化主義的・反差別的伝統は、アングロサクソンなる民族の成立の経緯にまで遡る筋金入りのものだ、と考えているのです(コラム#379)。

 その英国が、欧米諸国の中で最も植民地統治に巧みであり、しかるが故に、世界最大の帝国を築くことができたのは、当然だと言うべきでしょう。

 しかし、その英国の植民地統治も日本の植民地統治には及ばず、餓死や虐殺を伴うものであった(例えば、コラム#609610)こと、しかも、計算の仕方によっては1000年にわたって統治したアイルランドを英国はついに統合することに失敗したこと、かつまた故会田雄次をして、著書「アーロン収容所」で英国人の黄色人種差別を糾弾させたこと、はどうしてなのでしょうか。

 それらについてはまた、別の機会に。

太田述正コラム#9672005.11.25

<フランスにおける暴動(その14)>

9 エピローグに代えて:フランスのユダヤ人差別

 フランスにおける今回の暴動は、市民の完全な平等というタテマエの下における深刻なイスラム系移民差別がもたらしたものでしたが、フランスにはより深刻な前科があります。

 ユダヤ人迫害という前科です。

 作家エミール・ゾラ(Emil Zola)によるユダヤ人差別糾弾で有名なドレフュス事件を思い出すまでもなく、もともとフランスにはユダヤ人差別の歴史がありました。

 このため、先の大戦前、フランス在住のユダヤ人とフランス人の間にはほとんど交流はありませんでした(注28)。

 (注28)あのニール・ファーガソンは、戦間期までには西欧でユダヤ人社会は非ユダヤ人社会と完全に統合されていた(?!)にもかかわらず、ホロコーストが起こったとし、だから異質の少数派が多数派と完全に統合された・・少数派に対する差別が完全になくなったように見えた・・としても、安心することはできない、と主張している(http://www.latimes.com/news/opinion/commentary/la-oe-ferguson21nov21,0,2648368,print.column?coll=la-news-comment-opinions1122日アクセス)が、史実を知らない歴史家は、歴史家の名に値しない。

 1940年にフランスはナチスドイツに敗れ、フランスの三分の二はドイツの占領下に置かれ、南部の三分の一にドイツへの協力を義務づけられたヴィシー政権が成立します。

 さて、ご存じのように、ナチスはユダヤ人迫害を始めるわけですが、1944年にナチスがフランスから撤退するまでの間に、ナチス占領下のフランスでは77,000人のユダヤ人がフランス外に移送され(強制収容所に送られた)たのに対し、ヴィシー政権下のフランスでは、81,000人のユダヤ人(24,5000人は元からフランスに在住していたユダヤ人、56,500人は外国から避難してきていたユダヤ人)が移送されています。

 これだけでも、ヴィシー政権の方が、より「熱心」にユダヤ人迫害を行ったことが分かります。

 実際、ヴィシー政権の方が、ユダヤ人の定義を広く取りました。おまけにドイツやナチス占領下のフランスでは、キリスト教徒を配偶者とするユダヤ人は移送されなかったというのに、ヴィシー政権では移送したのでした。

 もっとも、当時フランスにいたユダヤ人の約四分の三は逃げ延びることができています。

これは、ナチスの他の占領地や勢力圏では見られない高いユダヤ人生存率であることは確かです。

しかしこれは、必ずしも当時のフランス人のユダヤ人差別意識が低かったことを示すものではなく、ドイツに対する反感が、一般のフランス人をして積極的なドイツへの協力を控えさせたために過ぎません。また、スペインというユダヤ人にとっての聖域がフランスに隣接していたことも幸いしました。

 いずれにせよ、連合国の一員としてフランスを「解放」したドゴール政権以降、フランスの歴代政権は、ヴィシー政権関係者を裏切り者として断罪し続けてきたにもかかわらず、卑怯にも、このようなヴィシー政権のユダヤ人迫害の事実は隠し通してきたのです。

 フランス政府及び社会が、戦時中のユダヤ人迫害の事実を認めたのは、実に1995年になってからです。

 (以上、http://histclo.hispeed.com/essay/war/ww2/hol/holc-fra.html1124日アクセス)による。)

 しかし、まだまだフランス政府は隠している、ということが昨年明らかになりました。

 1944年にフランスが「解放」された時点で、フランス内に約300あった収容所はすべて閉鎖されたと考えられていたのですが、トゥールーズ(Toulouse)の南25マイルにあった収容所だけは閉鎖されず、(米英等の)連合国や中立国の数百名もの市民が、数を減じつつも引き続き戦後の1949年まで収容されていたことが判明したのです。

 どうやらこれらの収容者達は、ユダヤ人の収容所への収容と移送の目撃者であることから、「解放」前後に一箇所の収容所に集められ、「解放」後も密かにドイツに移送され、移送できずに上記収容所に残された人々は、これまた密かに「消されて」行ったようなのです。

 (以上、http://www.guardian.co.uk/secondworldwar/story/0,14058,1318972,00.html200410月5日アクセス)による。)

太田述正コラム#9632005.11.23

<フランスにおける暴動(その13)>

 その一つが、皮及び皮製品輸入規制です。

 日本政府は、農産品の輸入規制を堅持する一方で、工業製品の輸入規制は撤廃させようとしてきました。しかし、木製品や水産製品とともに、皮及び皮製品については、工業製品だというのに例外的に輸入規制を堅持してきたのです。

 その理由は、部落民の生業を保護するためです(注25)。

(以上、http://www.atimes.com/atimes/Japan/GK09Dh01.html11月9日アクセス)による。)

 (注25)とはいえ、日本政府は国際的圧力を受けて、次第に皮及び皮製品についても輸入規制を緩和してきた結果、この10年間に日本の革靴の輸入は80%も増加し、日本での生産は40%も減っており、部落関係者は不満の声を挙げている。

 (5)回顧と展望

 以上駆け足で見てきたことからお分かりいただけると思いますが、戦後在日と部落民に「よる」差別に翻弄されてきたことが、日本人にとってトラウマとなっており、移民受入問題を冷静に議論することが困難になっているのです。

 とりわけ、人口比的には、1%にも満たない在日(注26)・・近代日本が初めて受け入れた移民・・に「よる」差別体験は大きいと考えられ、英国や西欧諸国のように10%にもなるような移民を抱えたら、日本は彼らにかき回されて無茶苦茶になる、と多くの日本人は思い込んでいるのではないでしょうか。

 

 (注26)終戦時には196万人まで在日は増えたが、1950年までに140万人が朝鮮半島に帰国し、56万人が残った。その後1959年から67年まで、朝鮮総連(目的は金王朝へのゴマスリ)と日本政府(目的は厄介者払い)が協力して行った北朝鮮への帰「国」運動により、9万人以上が帰「国」し、また、戦後60年間に27万人以上が日本に帰化した。しかし、人口増や日本人との結婚もあり、現在の在日人口はなお約60万人を数える。(http://www.sir.or.jp/contribution/01.html1122日アクセス)

     ちなみに、部落民は、1993年の数字で90万人弱だが、実数は300万人とも言われている(http://blhrri.org/nyumon/yougo/nyumon_yougo_01.htm前掲)。

 しかし、在日と部落民に「よる」差別に翻弄されてきたのは、敗戦によっても日本人の心暖かさは失われなかった一方で、敗戦によって日本人が自信喪失に陥ったからにほかなりません。

 日本人が、不条理なことには毅然と対処する気概を取り戻しさえすれば(注27)、新たに移民を受け入れても二度と翻弄されるようなことはあり得ないないでしょう。

 (注27)日本人が毅然と対処しなかったことが在日と部落民を堕落させたとさえ言える。日本人が気概を取り戻すためにも、米国の保護国的状況からの脱却・・吉田ドクトリンの克服・・が強く望まれる。

 そもそも、人口減少に直面している日本は、可及的速やかに移民受入をタブー視することをやめ、今後移民の受入を計画的に実施していく必要があります。

 国際移民機関(International Organization for MigrationIOM)によれば、例えば英国では、1999年から2000年にかけて、移民が支払った税金が、移民への政府支出を40億米ドルも上回っています。これに加え、移民による出身国へ仕送り額は、しばしば公的開発援助額を上回っています。しかも移民は、受け入れ国の人々の職を奪っているのではなく、低熟練・高リスクと高熟練・高収入という両極端の職域で働いています。だからこそ、移民は世界的にどんどん増えているのです。(http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/4117300.stm。6月23日アクセス)

 何と中共まで、下掲のように、移民を受け入れなければ日本の将来はないと指摘しています。

「現在、世界における国力競争というのは、人材資源の競争だ。国際的な人材市場において、日本が米国と対等に争うのは難しい。なぜなら、欧米の人材は日本社会に魅力を感じないからだ。しかし、アジアにおける特殊な地理的位置や世界第2の経済大国としての実力をもってすれば、アジアの人材を日本社会に呼び込む事は可能だ。国際人材市場における競争の中で、アジアの人材を本当に日本社会に呼び寄せる事ができれば、日本は強国としての地位を今後も維持できるだろう。さもなくば、日本の将来は楽観できない。」(http://j.peopledaily.com.cn/2004/03/26/jp20040326_37981.html。2004年3月29日アクセス)

太田述正コラム#9622005.11.22

<フランスにおける暴動(その12)>

 (4)在日「差別」の現在と課題

 このところ日本では、中高年における韓流ブーム(コラム#401)と若者における嫌韓意識の高まり(コラム#942)の並存、という興味深い状況が見られます。

 前者は、かつての日本人の在日を含む朝鮮半島の人々に対する、上述したような心暖かい心情の復活であり、後者は、北朝鮮による拉致問題の進展のなさや、ノ・ムヒョン政権による日本の歴史認識問題・・首相の靖国神社参拝問題と教科書問題・・の執拗な提起に対する反発が、インターネットの世界で伏流となってくすぶり続けてきた在日「差別」感情と化学反応を起こして顕在化したもの(注21)である、と私は見ています。

 (注21歴史認識問題は韓国側に非があるとする山野車輪著「マンガ嫌韓流」(晋遊舎)が30万部を超えるベストセラーとなっていることがその端的な現れだ。ちなみに、中国は「売春大国」(?!)などと書いた「マンガ中国入門」(飛鳥新社)も売れている。http://www.nytimes.com/2005/11/19/international/asia/19comics.html?pagewanted=print1120日アクセス)

 日本人のこの在日に対する差別意識の解消を図るためには、その原因をつくっている韓国・北朝鮮・在日の側が変わる必要があります。

 しかし、日本政府にもできることは多々あります。

 第一に日本人の拉致問題について、それだけを取り上げるのではなく、北朝鮮における人権侵害問題全般に取り組むことを通じて、韓国の北朝鮮に対する人権問題での及び腰の姿勢(注22)を改めさせ、もってこの問題での日米韓連携の確立を図り、北朝鮮を追いつめることです。

 (注22)ノ・ムヒョン政権は、韓国における過去の軍事政権の人権侵害と戦ってきたことを誇りとする人々の政権であるというのに、北朝鮮の、はるかに悪質な人権侵害には目をつぶっており、今年も国連における北朝鮮人権侵害批判決議に賛成せずに棄権した。その一方で、ミャンマーの軍事政権の人権侵害を批判する国連決議には賛成票を投じている。この論理矛盾ないし偽善性は、追及されるべきだろう。(http://english.chosun.com/w21data/html/news/200511/200511180030.html1119日アクセス)、http://english.chosun.com/w21data/html/news/200511/200511210026.html1122日アクセス)

 第二に歴史問題について、日本と朝鮮半島だけを対象にするのではなく、日本の台湾統治と朝鮮半島統治の比較、そして、東アジアにおける欧米諸国による植民地統治である米国のフィリピン統治との比較、更には、(日本による朝鮮半島統治と同様の)隣接地域の植民地統治であるイギリスのアイルランド統治との比較、に幅を広げること(注23)を韓国政府側に提案することです。

 (注23)植民地獲得方法と植民地統治実績を見れば、フィリピン統治とアイルランド統治は、台湾統治や朝鮮半島統治に比べて、はるかに暴力的であり、拙劣だった。

 日本政府は、単独ででもかかる研究を助成すべきでしょう。(助成対象を、日本の学者だけに限定する必要はありません。)

 第三に日本政府は、在日による日本人差別について、その歴史と現状を調査し、情報を開示すべきでしょう。その結果、在日あるいは朝鮮半島出身またはその子孫で日本国籍をとった人々、もしくは韓国の人々の間から、自然に遺憾の声が出てくれば、一番良いと思います。

 (5)部落差別はどうなったのか

 1922年に結成された水平社は、部落差別解消に大きな役割を果たしましたが、差別解消に成功しませんでした。

 戦後、1955年に部落解放同盟が結成され、アファーマティブアクションを含む様々な差別解消施策の実施を政府に強く求めました。

 その結果、1969年に同和対策事業特別措置法が成立し、目的を達成したとして(三回の延長を経て)同法が終了した1992年まで、政府によって鋭意差別解消施策が講じられました。

 (以上、http://www6.plala.or.jp/kokosei/hr/buraku.html前掲による。)

 その間に、部落差別は基本的に解消したのです。

 部落差別の歴史(根)が浅かったからこそ、部落民側と政府の努力によって、このような急速な差別解消が実現した、ということです。

 しかし、特措法による差別解消施策が余りにも長く続けられたため、それが利権(同和利権)化し、様々な弊害が起きた(注24)だけでなく、1980年代からは、部落民を語って金銭を強要する者(エセ同和)まで出現して現在に至っています。

 (注24)同和利権のもたらした弊害についてはhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8C%E5%92%8C%E5%88%A9%E6%A8%A9%E3%81%AE%E7%9C%9F%E7%9B%B81119日アクセス)を、エセ同和についてはhttp://blhrri.org/nyumon/yougo/nyumon_yougo_10.htm1121日アクセス)を参照のこと。

これは、在日による日本人差別に倣って言えば、部落民(エセ同和を含む)による一般納税者の差別である、と言ってもいいでしょう。

 現在形で書いたのには理由があります。

 部落民による一般納税者の差別は、特措法が終了した現在でもなお、形を変えて続いているからです。

太田述正コラム#9612005.11.22

<フランスにおける暴動(その11)>

  イ 戦後初めて差別感情が生まれた

 状況を一変させたのが、先の大戦における日本の敗戦です。

 日本が朝鮮半島を植民地統治したことは、支配された側にとっては悲劇であり、日本をうらむことは当然かもしれません。

 しかし、客観的に見て朝鮮半島の近代化が日本の支配下で大いに進捗したことはまぎれもない事実である(注19)だけでなく、日本国内においては既に見てきたように、そして恐らく半島においてもまた、個々の日本人はおおむね心暖かく朝鮮の人々に接してきた(注20)と考えられます。

 (19)この植民地近代化論は、米英においては、ハーバード大学教授のカーター・J・エッカート 等が唱える通説だが、韓国では絶対少数説であり、ソウル大学教授の李栄薫や評論家・作家の金完燮等が迫害に耐えつつ、頑張っている(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B5%B1%E6%B2%BB%E6%99%82%E4%BB%A3_%28%E6%9C%9D%E9%AE%AE%291121日アクセス)

 (注20)在日には、日本列島に居住している日本人として、選挙権・被選挙権が与えられていたことは覚えておいてよい(http://www.jinken-net.com/old/tisiki/kiso/zai/go_0403.html1121日アクセス)。

しかも、在日は、徴用(これは強制連行とは言えない)で日本に連れてこられたごくわずかの人々を除けば、自分の意思で、よりよい生活を求めて日本列島に渡ってきた人々です。

 にもかかわらず、敗戦に打ちのめされた日本人に対して、在日は次のように牙を剥いて襲いかかったのです。

 「彼らは敗戦国にのりこんできた戦勝の異国人<の>ように、混乱につけこんでわが物顔に振舞いはじめた。米でも衣料でも砂糖でも“モノ”が不足していた時代に彼らは経済統制など素知らぬ顔でフルに“モノ”を動かした。・・金持が続々と生まれていった。完全な無警察状態・・である。」(鄭前掲31頁)、「経済的領域における朝鮮人の・・<このような>活動は、日本経済再興への努力をたびたび阻害した。」(同29頁)、「<しかも、かかる>朝鮮人の犯罪性<や>・・略奪行為<は>、大部分、下層民の日常生活にとつてきわめて重要な地域において行なわれた<。>」(同30頁)、「かつて居留民団の団長をし、本国の国会議員にもなった権逸氏<は>、・・回顧録・・のなかで「今でもその時のことを思い出すと、全身から汗が流れる思いがする」と書いている<。>」(同32頁)、その結果、「この時代の日本人には、「朝鮮人と共産主義・・火焔ビン・・やみ・・犯罪」を結びつけて考える心の習慣ができあが<り、この>日本人の在日に対する「悪者」や「無法者」のイメージや印象は、強度や頻度を弱めながらも、60年代や70年代の調査にも現れているのである。」(同33頁)。

 このように、戦後の占領期における在日による、(いわば)日本人差別によって、日本人は、初めて在日に差別感情を抱くに至ったところ、この差別感情は、戦後60年を経た現在、いまだに日本人の潜在意識の中に生き残っているのです。

  ウ 在日による日本人差別の継続

 しかし、日本人は在日(これ以降は、朝鮮半島出身者またはその子孫で日本永住者だが日本国籍を取得していない者を指す)を差別するどころか、腫れ物に触るような態度で接し続け、在日による日本人差別は、事実上継続します。

 例えば、1954年には生活保護受給対象が外国人(その大部分は在日)に拡大され、やがて在日が生活保護の半分を占めるようになってもこれを受忍し、在日が3割方占めているとも言われる暴力団は「温存」され、このこととも関連して在日の犯罪率が異常に高いことも見て見ぬふりがされ、北朝鮮による日本人拉致という重大犯罪すらつい最近まで放置され、北朝鮮産の覚醒剤が日本での流通量の半分を占めているというのに抜本的取り組みが回避されてきました(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%A8%E6%97%A5%E3%82%B3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%B31121日アクセス)。また、金王朝讃美教育を行うところの、単なる各種学校たる朝鮮学校に対し、各地方自治体は、色々な名目で事実上補助金を支給してきました(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E5%AD%A6%E6%A0%A11121日アクセス)。

それどころではありません。

80年代以後、日本のマス・メディアが第二次世界大戦中の日本の国家犯罪を語り、在日の犠牲写生を語る過程で在日は無垢化されるとともに、「被害者」や「犠牲者」の神話が<確立し>」(鄭前掲33頁)、在日による日本人差別が名実ともに正当化され、現在に至っているのです。

太田述正コラム#9602005.11.21

<フランスにおける暴動(その10)>

 (3)在日「差別」の起源

  ア 戦前には「差別」すらなかった

在日朝鮮人(在日)「差別」の起源は、部落差別より更に後であり、1910年に日韓併合がなされた以降、半島から日本列島へ朝鮮の人々が渡ってくるようになってからです。

 さて、米国のように、建国当時こそアングロサクソンが多かったけれど、その後、様々な国や地域から次々に移民がやってきたような所でも、新しい国や地域からの移民は、ことごとく「差別」の対象になりました。異なった文化を背負い、英語がしゃべれず、ダーティージョッブに就き、がむしゃらに働く人々が差別や「差別」の対象になるのは、ごく自然なことです。

 ただし、米国では支那人や日本人等のアジア人とユダヤ人(青年)だけは、「差別」ならぬ歴とした差別の対象になりました(注15)。

 (注15)米国におけるアジア人差別については、コラム#254参照。アイビーリーグの大学のユダヤ人入学差別については、別の機会に論じたい。

 (時間が経過するとともに、これら新移民は、移民先の社会にとけ込み、「差別」や差別は姿を消していく、という経過をたどるのが普通です。)

 朝鮮半島出身者については、これにプラスして日本の植民地出身者であった、という事情が加わりました。ですから、彼らに対し、当時の日本人が、優越意識をもって臨んだ可能性は排除できません。

 しかし、果たして戦前の日本に在日に対する差別や「差別」はあったのでしょうか。

 戦前(戦中を含む)来日した在日一世達の証言を孫引き紹介している、鄭大均「在日・強制連行の神話」(注16)(文春新書2004年。64?109頁)を見る限り、「危ない仕事を朝鮮人に多くさせていた。たくさんの人が、事故やまた人為的に殺されていた。」といういささか眉唾物の証言(101)のほか、具体性があるのは「賃金の格差は・・日本人に対して3分の2から2分の1」という(、他のすべての証言と食い違う)証言(注17(101)くらいであるのに対し、差別はなかった(103頁)とか日本人に親切にされた(104?107頁)という、しかも具体性のある証言が多いことに驚かされます。

  (16) タイトルから分かるように、この本を読めば、朝鮮の人々の日本への「強制連行」なるものなど全くなかったことが良く分かる。

 (注17)もっとも、半島ののんびりしていた農村からやってきた在日女性が、紡績工場で働く日本人女工の働きぶりにびっくりした、という証言(107頁)等から想像すると、在日中の能力・意欲が乏しい者、あるいは日本語ができない者、に対しては日本人と同等の賃金は支払われなかった、ということはあったに違いない。

 

ついでながら、在日が日本人にではなく、同じ在日にひどい目にあった、という証言が散見されます(102頁)。これは、いわゆる慰安婦問題で、半島人の女衒にひどい目にあった半島人の慰安婦が、日本人や日本政府を逆恨みするケースが少なくない(典拠省略)ことを思い出させます。

とまれ、これでは戦前の日本では在日差別どころか、在日「差別」すらなかった、と言わざるをえません(注18)。

(注18)それなら1923年(大正12年)の関東大震災の時の朝鮮人虐殺は何なのだ、という反論が予想される。

実際に起こったことは、大震災後の流言飛語に基づき、自警団等が、(当局発表で)在日死亡231人・重軽傷43人、支那人死亡3人、在日と誤解された日本人死亡59人・重軽傷43人を惹き起こしたもの。(もっとも、完全な流言飛語というわけではなく、大震災後、在日は殺人2名、放火3件、強盗6件、強姦3件を犯している。)

しかしこれは、未曾有の大災害後の異常心理が生起させた突発的な不幸な事件なのであって、これをもって当時、在日「差別」ないし差別があった証左である、とは言えない。(大震災の起こった年の在日人口は、8万人余であったところ、虐殺事件があったというのに、翌1924年には12万人余へと急激に増加している(鄭大均上掲143頁)ことは興味深い。)

(以上、特に断っていない限りhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E9%9C%87%E7%81%BD1112日アクセス)による。)

太田述正コラム#9592005.11.21

<フランスにおける暴動(その9)>

 (このほど、第2回目の「まぐまぐBooksアワード」(メールマガジン人気投票)にエントリーしました。12月7日?12月21日に投票が行われますので、昨年8月に行われた第1回目に引き続き、今回も皆さんに投票をお願いしたいと思います。前回は、皆さんの絶大なるご協力のおかげで12位になりましたが、残念ながら無償出版対象の5つのうちの1つには選ばれませんでした。直前になったら改めてご連絡します。)

8 日本における「差別」を考える

 (1)初めに

 今回のフランスにおける移民暴動をフォローしていて改めて痛感したのは、日本における「差別」事情のユニークさです。

 最初に結論を書いてしまいましょう。

日本における代表的な「差別」である部落「差別」と朝鮮人(在日)「差別」は、米国における黒人差別や黄色人差別、あるいはフランス等西欧諸国におけるユダヤ人差別やイスラム教徒に対する差別に比べて、相対的に、歴史(根)が浅く、差別の態様と程度も甚だしくない、という点で様相をかなり異にします。

私は、日本は、英国と並んで世界で最も差別の少ない国の一つだ、と思います。

しかも最近では、部落民あるいは在日に「対する」差別が問題というより、部落民にあっては1960年代末以降、そして在日にあっては戦後、部落民や在日に「よる」それ以外の人々に対する差別が問題となっている、という、まことにもって奇妙な状況が日本では見られます。

これは英国を含め、世界で他にあまり例を見ないことです。

だから、日本の「差別」に関しては、差別にカギ括弧を付けた次第です。

以下、部落「差別」と在日「差別」について、それぞれ見て行くことにしましょう。

 (2)部落「差別」の起源

  ア 部落「差別」問題の分かりにくさ

部落解放運動にたずさわっている人が、「部落民なんていう存在や、部落という特別の空間なんて、実は存在していないにもかかわらず、人々の心の中に、さもそれがあるかのように存在している、それが部落問題なのです。」と言っている(http://www6.plala.or.jp/kokosei/hr/buraku.html1119日アクセス)ことは象徴的です。

 この人は、だから部落「差別」を解消するのは容易ではない、と言いたいわけですが、むしろ、いかに部落「差別」が大した問題ではないかが分かろうというものです。

  イ 江戸時代

 江戸時代の「士農工商」についての私の見方は以前(コラム#842で)記したところですが、「士農工商」以外に、部落民の前身である穢多・非人のほか、公家僧侶神官医師等、「士農工商」に属さない多数の身分が存在していました。

 最近の説では、「士」「農」「工」「商」間に上下関係ありとしたのは当時の儒者のイデオロギーに過ぎず、一般の人々は必ずしもそうは考えていなかったとされています。

 同じことが、「士農工商」と穢多・非人との間にも言えるとする説、すなわち、生死をつかさどる職業(僧侶・神官・医師・処刑人など)・「士」直属の職能集団(処刑人を含む下級警察官僚・武具皮革職人など)・大地を加工する石切など、のように人間社会以外の異界と向き合う職業の者は、「士農工商」と便宜上区別されただけだとする説(注12)、も最近有力であり、私はこの説に与しています。

 

 (注12)そもそも、「士」が内職で「工」となっていた事例と同様に、穢多・非人にも「農工商」に携わっていた者が多くいた。例えば、「士」に直属する皮革加工業は穢多・非人が独占的「工」となることとされていた地域が多かった。また、地域によっては藍染や織機の部品製作は穢多・非人が独占的「工」となることとされていたことも知られている。更に、穢多・非人の実態が「農」であった地域も知られている。

 ところが、江戸中期以降、社会の貨幣経済化に伴い、「士」が相対的に没落して行きます。そこで、「士」は没落を食い止めるために、「農工商」への統制を強化し、その結果生じた「農工商」の不満を逸らす目的で、穢多・非人「差別」が始められます。

  ウ 明治時代

 この「差別」が差別に転化したのが、明治時代でした。

 明治政府によって警察官などになれるのは当初「士」のみとされ、下層警察官僚であった穢多・非人が疎外されたこと、「士」(特に上層の「士」)が特権階級たる華族とされたのに対し、「士」に直属し権力支配の末端層として機能してきた穢多・非人がなんら権限を付与されず放り出されることによってそれまでの「士」による支配の恨みを一身に集めたこと、などがその原因でした。

 つまり、部落差別が生まれたのは、それほど昔ではない明治時代であり、明治政府の、必ずしも悪意によるとは言えない政策が、結果として生み出したものである、ということです(注13)。

 (注13)明治政府は、日本を近代化するに当たって、(英国になかった憲法・継受困難なコモンロー法体系・英国が強くないと考えられた陸軍、等を除き、)全面的に英国をモデルにしており、英国の国教会に倣って神社神道から国家神道をつくり出し、英国の貴族制と上院に倣って華族制と貴族院を設けた。このいじましいまでの努力が結果として、キリスト教徒等への「差別」や、部落差別をもたらしたことになる(太田。http://www6.plala.or.jp/kokosei/hr/buraku.html上掲にヒントを得た)。

 差別の具体的な内容は、個人にあっては就職や結婚における差別であり、集落にあってはインフラの整備の遅れでした(注14)。

 (以上、特に断っていない限りhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%A8%E8%90%BD%E5%95%8F%E9%A1%8C1119日アクセス)による。)

 (注14)島崎藤村の「破戒」(1906年)は、部落差別問題をテーマにした小説として名高い(http://www.tabiken.com/history/doc/O/O218R100.HTM1119日アクセス)。

太田述正コラム#9582005.11.20

<フランスにおける暴動(その8)>

7 どうしてフランスで暴動が起こったのか・・補足

 (1)初めに

 今回フランスで移民の暴動が起こった原因については、私は一貫してフランスの共和国原理・・多文化主義の完全否定・・にある、と申し上げてきたわけですが、補足的にその他の原因についても挙げておくことにしましょう。

 (2)過度に中央集権的なフランス警察

 補足的原因の第一は、既に言及してきたフランス警察の特異性です。

 警察が、今回の暴動を通じて、銃弾を撃ちかけられはしたけれど、一発の弾も撃たないという抑制された対応をしたこと、しかも、非移民一人の死亡者だけしか出さなかったことは称賛されるべきでしょう。

 しかし、フランスの警察が、米国のように(FBIなる国家警察もあるけれど、)一つ一つの市にそれぞれある地方警察が並立している形ではなくて、他の西欧諸国同様、国家警察一本であることはさておき、その運用が過度に中央集権的であるのは問題である、という指摘がなされています。

例えば人事ですが、全国で採用された警官は、自分の出身と違う場所・・通常まずパリ地区・・に配属されるので、その場所に土地勘もなければ愛着もないのが普通です。

また、フランス警察は、警察情報を国の手で一元的に管理しているので情報の精度は高いし、警察資源を一元的に管理しているので、捜査にも群衆規制にも長けています。しかし、情報が末端の警官によって共有されることはないし、日常的な警邏面において極めて弱く、従って犯罪予防面に遺漏がある、とされています。

 ですから、移民の目には、警察は地域の一員ではなく、自分達に無理解な国家を代表する存在に映るわけです。

 こうして、移民地域において、移民を呼び止め身分証明書の提示を求めるくらいしか地域対策手段を持たないところの地域に不案内の若者たる警官達と、低賃金にあえぎ、あるいは失業しているけれど地域を熟知している移民の若者達が、あたかもマフィアのように対峙する、という構図が出来するのです。

 これでは、暴動が起きても不思議はないだけでなく、こういう移民の若者達が、TVを見、インターネットや携帯電話で連絡をとりながら放火等をして歩いたわけですから、フランス警察の力では容易にその暴動を収束させることができなかったのも道理です。

http://www.latimes.com/news/nationworld/world/la-fg-cops13nov13,0,1852647,print.story?coll=la-home-world1114日アクセス)、及びhttp://www.taipeitimes.com/News/editorials/archives/2005/11/19/20032808271120日アクセス)による。)

 (3)人口増加

 補足的原因の第二は、フランスの人口増加です。

 ドイツやスペインの出生率はどんどん減って今や1.3なのに、フランスの出生率は1.9を維持しています。

 これは、フランスでは、一世代につき20万人から30万人が追加的に労働市場に入ってきていることを意味します(注10)。

 (注10移民の流入がほぼ止まっており、かつ出生率が2を超えていないのに、労働人口が増加してきている、というのはいささか解せないが、社会党の元首相のロカール(Michel Rocard)が言っていることをそのまま記した。

 だから、失業率が高止まりになり、その高失業率が、とりわけ移民の青年達を直撃しているのです(注11)。

(以上、http://www.taipeitimes.com/News/editorials/archives/2005/11/18/20032806751119日アクセス)による。)

(注11)ロカールは、社会主義者らしく、西欧に共通する問題ではあるが、GDPこそ伸びてきているものの、この30年以上にわたって、経営者資本主義から資本家資本主義へ、国家による規制から規制緩和へ、社会福祉の削減へ、という動きによって、貧富の差が拡大したことも、移民を直撃している、と指摘している。

 (4)教師の権威失墜

 補足的原因のその三は、フランスの教師の権威失墜です。

 これは、米国のNew Republic誌に載った、ちょっと面白い説なのですが、1960年代にフランス(や世界の先進国)で起こった学生蜂起によって、フランスの教育機関が荒廃し、教師の権威が失墜したため、教師が、かつてのようにフランス的価値を学生達にインドクトリネートする意欲を失ってしまったことが、ここに来て効いてきている、というのです。

(以上、http://www.slate.com/id/2130363/1119日アクセス)による。)

太田述正コラム#9562005.11.19

<フランスにおける暴動(その7)>

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<ちょっと一休み>

 フランスにおける暴動シリーズを書き始めて以来(、購読者数は、殆ど動かないまま、)ブログへのアクセス数(、そして恐らく、私のホームページの時事コラム欄へのアクセス数)は顕著に増えて現在に至っています。しかも、明らかにこのシリーズへのアクセスが中心です。これはフランスの話だからなのでしょうか、それとも差別の話だからなのでしょうか。

 もう一つ、改めて気がついたのは、私のコラムの読者の中にフランス在住の方が沢山おられ、しかも、従前から活発に私のホームページの掲示板に投稿されてきた方の中にフランス在住者が多い、ということです。米国在住者の読者の方がはるかに多いはずなのに、投稿数はフランス在住者の方が圧倒的に多い気がします。

これは、一体どうしてなのでしょうね。

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 イスラム教がイスラム世界の停滞と、移民先でのイスラム教徒達の貧困と失業もたらしていることについては、以前に(コラム#24で)申し上げたところであり、移民の受け入れ国としては、アファーマティブアクションを通じて、イスラム教徒達の憤懣の爆発である暴動を防ぐくらいしか手はありません。

 今回の暴動のおかげでフランス政府は、(イスラム教徒たる)移民を、問題を抱えているグループとして明確に認識し、把握した上で、このグループに係るアファーマティブアクションをとる、というしごく当たり前の対イスラム教徒対策・・フランス以外の西欧諸国や英国が既にとっている対策・・を遅ればせながらとることになったわけです。

 しかし、これだけでは、イスラム教徒たる移民の貧困と失業そのものを解消することはできません。解消するためには、彼らのイスラム教を世俗化・近代化する(か、彼らをキリスト教徒に改宗させる(?!))しかありませんが、ケマリズム下のトルコならいざ知らず、受け入れ国政府がそんなことを試みることは僭越であり、不可能です。長い時間をかけて、イスラム教徒たる移民が、そのような方向に自然に変化して行ってくれることを期待するほかないのです。

 いずれにせよ、銘記すべきことが二点あります。

その第一は、今回のフランスでの暴動は、(イスラム教がもたらした)貧困と失業への憤懣の爆発なのであって、イスラム教とキリスト教との文明の衝突、換言すればイスラム教徒を支配するキリスト教徒に対するインティファーダ(注8)でもテロ活動でもない、ということです。

 (注8)インティファーダとは、もともとは、ユダヤ教徒(イスラエル人)によって占領され、支配されているイスラム教徒(パレステイナ人)の、イスラエル国家に対する蜂起のこと。

 ですから、今回のフランスでの暴動は、先般の英国における同時多発テロ(コラム#792803804)とは、暴力行使の方法もたまたま全く違うけれども、そもそも質的に全く異なったものだ、ということです。

 具体的に申し上げると、フランスでイスラム過激派の影響が強い地域は、全く今回の暴動には関わっていませんし、そもそも、暴動に加わった移民の若者達は、第三世代の「西欧化」した連中が中心であって、毎日決められた時間に礼拝をするより、軽いヤクやラップ音楽の方に関心のある者が多いのです(注9)。

(以上、http://observer.guardian.co.uk/comment/story/0,6903,1641413,00.html1114日アクセス)による。)

 (注9)なお、厳密に言うと、今回の暴動に加わった移民の若者達の中には、イスラム教徒ではない黒人も含まれている。彼らを突き動かしたところの貧困と失業は、イスラム教がもたらしたものではなく、暴動を起こした1960年代の米国の黒人を突き動かしたところの貧困と失業と基本的に同じ原因がもたらしたものだ。ここでは、これだけにとどめておく。

 その第二は、当たり前のことですが、イスラム教が常に停滞と、移民先における貧困と失業をもたらすわけではない、ということです。

 相対的に世俗化し、近代化したイスラム教国であるトルコやマレーシアは、少なくともイスラム教世界的停滞からは抜け出していますし、米国のイスラム教徒は、貧困と失業どころか、その中位(メディアン)家庭所得は米国の平均家庭所得を上回っています。

後者については、米国のイスラム教徒の半分以上が大卒以上なので、当然と言えば当然なのです。これは西欧諸国が単純労働者を移民として受け入れる政策をとったのに対し、米国の移民法は金持ち・高能力者・高学歴者を優遇しており、高等教育を受けに来たイスラム教徒の多くが帰国せずに米国にとどまり、帰化してきた、という経緯があるからです。

(以上、米国のイスラム教徒事情については、http://www.atimes.com/atimes/Front_Page/GK15Aa01.html1115日アクセス)による。)

太田述正コラム#9552005.11.19

<フランスにおける暴動(その6)>

 これは、私の見解を申し上げているのではなく、フランスの非移民の人々のホンネを代弁しているつもりです。

 暴動が鎮静化しつつある現在、このホンネの一端がフランスで噴出してきました。

 口火を切ったのは、ラルシェ(Larcher)雇用相であり、移民(注7)の間で見られるところのイスラム教に由来する一夫多妻制が今回の暴動の原因の一つだ、と述べたのでした。

 (注7)遅ればせながら、フランスにおける移民についての推計値を披露しておく。

      移民イコールおおむねイスラム教徒であって、合計約500万人。1,600のモスクがあり、パリ・リール・リヨン・マルセイユ等の大都市に多く固まって居住。うち、アルジェリア出身が35%、モロッコ出身が約25%、チュニジア出身が約10%であり、以上が北アフリカ出身者。残りがマリ・セネガル等のサハラ以南アフリカ出身者、ということになる。(http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/4430244.stm1117日アクセス)

次に登場したのは、シラク大統領率いるUMP党の議会内指導者であるアコイェ(Bernard Accoyer)議員であり、同趣旨のことを述べました。

 その次は、(私が昔ソ連の少数民族問題についての彼女の著作を読みふけったことがある、)著名な歴史家でアカデミー・フランセーズ事務局長のダンコース(Carrere d'Encausse)女史であり、移民の子供達が学校に行かずに通りでぶらぶらしているのは、一夫多妻制のために家に4人の奥さんと25人の子供がいたりして誰も面倒を見てくれず、居場所もないからだ、と語ったのです。

 既に何度もこのシリーズに登場したサルコジ内相ですら、その文化、その一夫多妻制、その社会的出自からして、北アフリカやサハラ以南のアフリカ出身の移民は、(サルコジ自身がハンガリーからの「移民」の子だが、)スェーデンやデンマークやハンガリー出身の「移民」の子供より多くの問題を抱えている、とストレートに暴動に結びつけない形で語り、この議論に一枚加わりました。

 ちなみに、フランスにおける一夫多妻制の家庭は、1万から3万にのぼると推定されています。フランスでは前から一夫多妻制は違法なのですが、1993年までは、第二妻以下へのビザが与えられており、自由にフランスにいる夫のもとへやってくることができたといいます。なお、それ以降も不法に入国する第二妻以下が後を絶たないようです。また現在でも、第二妻以下及びその子供達であっても、社会福祉の対象になっています。

(以上、http://news.ft.com/cms/s/d6f1fe0a-5615-11da-b04f-00000e25118c.html1117日アクセス)、及びhttp://www.nytimes.com/2005/11/17/international/europe/17cnd-france.html?pagewanted=print。(1118日アクセス)による。ちなみに、この二つの記事を読み比べて欲しい。FTに比べていかにNYタイムスの記事が杜撰か一目瞭然だ。)

 しかし、一夫多妻制の家庭の数からみて、この問題を、今回の暴動の主要原因の一つとしてあげつらうことは、どう考えても腑に落ちないと思うのは、私だけではないでしょう。

 そうです。一夫多妻制を問題にしている人々は、一夫多妻制を認めているイスラム教そのものを問題視しているのだけれど、さすがにこのホンネのホンネを口にすることがはばかられて、口にしていない、と解しうるのではないでしょうか。

 全く同じことが、今回の暴動に対するアラブ・イスラム世界の論調の一部に見られる、移民側にも問題ありとの指摘(下掲)からも言えそうです。

クウェートのアフマド・アルラビ前教育相<は、>・・(フランスの)アラブ系社会の内部は無秩序状態。今回の事件はそれを証明した。指導力を発揮する者が誰もおらず、事態を沈められる権威はどこにもない」とアラブ系社会が市民社会として成熟していない状況を痛打する。前教育相は、フランスのアラブ系住民が世論形成できるよう組織化を進め仏社会で役割を果たす努力をすべきだと提言。そのためには、「アラブ系住民が仏国民らしく振る舞い、仏社会にとって不可欠な存在であることを証明しなければならない」と勧告している。さらに、・・サウジアラビア<の>・・コラムニストのアリ・サアード・ムーサ氏は、・・「仏政府だけを非難するのは間違っている。アラブ人は他者と文化的に衝突し、自分たちの共同体に逃げ込んでしまうから、相手もそうなってしまう」「今日、アラブは世界文化の軌道から外れて、独りだけで回転している」とアラブ系移民の閉鎖性を批判、その閉鎖性が今回の暴動で噴出する格好となったとの見解を表明している。」(http://www.sankei.co.jp/news/051117/kok016.htm1117日アクセス)

 この二人のアラブ人有識者の移民批判は、読んでお分かりのように、同時に自己批判であり、しかも、それこそ口が裂けても言えない隠されているホンネは、イスラム教批判だ、と私は解しています。

 イスラム教そのものに問題があることは、西欧の移民(このシリーズでは、非白人移民という限定的な意味でこの言葉を用いてきた)の大部分はイスラム教徒であるところ、西欧では、これまで暴動らしい暴動が起こったことがない国でも、フランス同様、移民の若者の失業率は、おしなべて非移民の若者の失業率の約2倍であることからだけでも推察できようというものです(注8)(FT上掲)。

(注8)ちなみに奇しくも、米国の黒人の若者の失業率も白人の若者の失業率の約2倍だ(FT上掲)。

太田述正コラム#9532005.11.18

<フランスにおける暴動(その5)>

6 残された最大の問題

 (1)予想されていた暴動の発生

 振り返ってみれば、フランスで移民の青年達による暴動が起こり、その結果として、フランス政府が、差別解消に向けてアファーマティブアクションを含む抜本的諸対策を打ち出すことになる、などということは、前から予想されていたことでした。

 デトロイト出身の黒人で、今年5月までワシントンポストのパリ特派員をしていたリッチバーグ(Keith Richburg)がそう指摘しています。

 彼は1年以上も前に、ウェッブ上で、フランスでの移民暴動勃発は必至、と書いたといいます。(内容が内容だけにワシントンポストそのものには、掲載されなかったということでしょう。)

 彼は、1960年代の米国の、デトロイト等における黒人差別状況、そこで吹き荒れた黒人暴動、そしてその後ジョンソン政権が打ち出した黒人差別に向けてのアファーマティブアクションを含む抜本的対策、の経験に照らし、フランスでの移民差別の状況が、当時の米国と瓜二つなので、そう書いたのだそうです。

 ところが、傲岸不遜なフランスのエリート達は、米国で黒人暴動は起こっても、フランスで移民暴動は起こらない、と思いこんでいたわけです。

(以上、http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2005/11/11/AR2005111102277_pf.html1117日アクセス)による。)

(2)マルセイユに追いつこうとしているフランス

 ところで、米国やフランスではこの種暴動が起こっても、フランス以外の西欧諸国や英国ではどうして起こらなかった・・より正確に言えば、こんな大きな暴動は起こらなかった・・のでしょうか。

 私は、将来とも起きない可能性が高いと思っています。

 その理由は、マルセイユ(Marseille)が物語っています。

人口80万人でその四分の一は(北アフリカ・サハラ以南アフリカ系の)移民であるマルセイユでは今回、たった一回、35台の車が燃やされただけで、後は何も起こりませんでした。

ほかの都市と同じように、荒廃した移民街があり、高圧的な警察が移民を取り締まっているというのに・・。

なぜか?

移民が貧乏で失業率が高いために移民街が荒廃することも、また、国家警察たる警察が高圧的に移民を取り締まることも、マルセイユ限りではどうしようもないけれど、その他の点が、フランスの他の都市とは大きく異なっているからです。

まず、マルセイユが、北アフリカ・サハラ以南アフリカ系の移民こそ四分の一ですが、それ以外の「移民」が溢れている都市であることです。フランスの他の都市同様、北アフリカ・サハラ以南アフリカ系の移民の歴史は50年しかありませんが、マルセイユの移民の歴史は100年以上に及び、イタリア人・ギリシャ人・アルメニア人・スペイン人・ユダヤ人・植民地引き揚げのフランス人、そして支那人が住んでいるのです。だから、ここでは、「フランス」と(北アフリカ・サハラ以南アフリカ系の)移民の対峙はなく、必ずしも絶対多数ではない「フランス」人が、様々な「移民」と同格の形で共存している、ということです(注5)。

(注5)このあたりの雰囲気は、小学生時代に、ナセルの「民族浄化」政策がとられる前のカイロの、しかも外国人居住区に住んでいた私にはよく分かる。要するに、マルセイユは、地中海地方に多数見られる、多人種・多民族都市の一つだ、ということだ。

もう一つは、マルセイユが、フランスどころか古代ローマよりも古い、2,600年以上の歴史を誇る都市であることです。ですから、マルセイユには、パリなにするものぞ、という気概があり、パリのいわゆる共和国原理・・市民はみな平等であって、移民なるものは存在しない、という考え方・・を認めていない、ということです(注6)。北アフリカ・サハラ以南アフリカ系移民であろうが、その他の「移民」であろうが、移民としてのアイデンティティーを持ち続け、それをみんなが互いに認め合うことは当然だ、というわけです。つまり、巧まずしてマルセイユは、英国の多文化主義を実践してきた都市なのです。

(以上、http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2005/11/15/AR2005111501418_pf.html1117日アクセス)による。)

(注6)マルセイユは、ローマ帝国領時代にも、反ローマ的であったことで知られ、歴代のローマ皇帝は、うるさい執政官(consul)を一種の流刑としてマルセイユ駐在ローマ総督に任命したという。

 フランスは、マルセイユに追いつくべく、全力を挙げることでしょう。

 (3)残された最大の問題

残された最大の問題は、フランスの一般大衆が公然と、そしてフランスのエリートが内心、移民に対して抱いている差別感情には根拠がある、ということです。

換言すれば、移民の貧困と失業には根本的原因があるのであって、米国で1960年代以降にとられてきたアファーマティブアクションを含む抜本的な差別対策が、黒人の貧困と失業の根本的原因を解消できなかったように、(マルセイユを含む)フランスでも移民の貧困と失業の根本的原因は解消できないだろうということです。

アファーマティブアクション等の結果、米国で高等教育を受ける黒人が増えたり、警官中の黒人の割合が増えたり、TVのキャスターに黒人が増えたりしたことと同様、フランスでも、「黒人」を「移民」に読み替えれば、全く同じことが実現することでしょうが、平均的な黒人の境遇が改善されなかったのと同様、フランスでも平均的な移民の境遇は改善されないであろう、ということです。

太田述正コラム#9522005.11.17

<フランスにおける暴動(その4)>

5 米英の論調は正しかった

 本件に関するNYタイムス、ワシントンポスト、そして(ファイナンシャルタイムスと)ガーディアンの論調を見ただけで、それぞれの持ち味とクオリティーの高さ、特にガーディアンのクォリティーの高さ(注3)を実感されたのではないでしょうか。

 (注3)ガーディアンも英国の新聞である以上、自国贔屓から自由ではないのではないか、本件に関する記事を読んで、英国の移民・少数民族対策を身贔屓している印象を受けたという読者がおられるかもしれない。しかし、ガーディアンは社論として王制廃止を掲げているような新聞で、権力に対して批判的な「左翼」新聞だ。英国の核兵器保持にも、イラク戦争参戦にも一貫して反対している。(以上、典拠は省略。)だから、自国贔屓などするわけがない、と言わせていただこう。

 

フランス在住経験のある読者と現在フランス在住の読者のお二人が、掲示板上に熱烈なるフランス非差別社会論を寄せられましたが、どうやら勝負はついたようです。米英、就中英国のプレスの論調は正しかったのです。

 なぜなら第一に、シラク大統領が、14日に、フランスにおける差別の存在を認め、抜本的対策の必要性を認めたからです。

 シラクは、北アフリカ及びサハラ以南のアフリカからやってきた労働者階級の移民家族の子供達や孫達・・薄汚れた無法地帯の地域に沈潜し、社会から拒絶された若者達・・が「アイデンティティー・クライシス」に苛まれていることを認め、「出自がどうであれ、彼らはみんな共和国の娘達であり息子達である」として、「敬意を抱くことなくして、また、原因が何であれ、人種主義・侮辱・虐待の増加を放置するならば、更に、差別という社会的害悪と戦わなければ、われわれは何も堅固なものを建設することはできない」と述べたのです。

その上でシラクは、5万人の若者に職業訓練を施し、雇用を提供する機関を2007年までにつくる等の対策(注4)を講じる、と約束しました。そして、政府だけでできることには限りがあるとして、「メディアはフランスの現在の現実をよりよく反映させなければならない。・・私は各政党の党首にもそれぞれ応分の責任の担うべきだと言いたい。国会議員は、フランスの多様性を反映した構成でなければならないのだ。」と呼びかけたのです。

(以上、http://www.latimes.com/news/nationworld/world/la-fg-chirac15nov15,0,2313715,print.story?coll=la-home-headlines1116日アクセス)による。)

(注4)このほか、移民地域に設立された会社に対する税の減免、再就職した失業者に対する一時金及び1年間に及ぶ毎年の補助、5,000人の教員や教員助手の追加的投入、10,000人への奨学金の授与、地域を離れて勉強に専念した人々への10校の全寮制学校の設置が約束された。

英国の黒人コラムニストのヤンギ(Gary Younge)は、上記シラク演説の直後、大要次のようなコラムをガーディアンに上梓しました。

暴動を起こした青年達を非難するのは簡単だ。

確かに彼らは、警官隊に向かって銃を撃ち、全く罪のない人を一人殺し、店舗を壊し、無数の車を燃やした。(もっとも、フランスでは大晦日に毎年平均して400台の車が燃やされることを考えれば、それほどべらぼうなことが行われた、というわけではない。)

しかし、暴動を起こしたのは、彼らが、(人種や民族に係るデータを集めることは法律違反であり共和国の原則に反するが故に)統計上不可視であり、政治的に代表されていない(フランスにはただ一人も非白人の国会議員もいない)ことに鑑み、彼らの苦境をどうしても知ってもらいたかったからだ。そして彼らはこのねらいをみごとに達成し、ついに政府は差別の存在を認め、対策の必要性を認めたわけだ。

もとより暴動は良いことではないが、非暴力的手段を尽くした上で、あるいは非暴力的手段が閉ざされている場合に、弱者に残された最後の手段が暴動なのであり、フランスの移民の青年達は、まさにこの手段を行使し、しかも勝利したのだ。

(以上、http://www.guardian.co.uk/Columnists/Column/0,5673,1641907,00.html1115日アクセス)による。)

米英、就中英国のプレスの論調が正しかった理由の第二は、英国における少数民族統合政策(すなわち差別対策)が成功しており、少数民族がどんどん白人社会にとけ込みつつあることが、11月に公表されたマンチェスター大学の調査報告書で改めて明らかになったからですhttp://www.guardian.co.uk/race/story/0,11374,1642915,00.html1116日アクセス)

つまり、どう見ても現状では、フランスの差別状況の方が英国よりも深刻であると言わざるをえないのです。

 ただし、暴動は収束に向かっているし、フランス政府も改心したことから、万事めでたし、ということには残念ながらなりそうもありません。

 フランスの一般大衆の間では、暴動に怒り、嫌気がさし、反移民的・右翼的ムードが高まっている(http://www.csmonitor.com/2005/1116/p06s01-woeu.html1116日アクセス)からです。

 今後見通しうる将来にわたって、フランスは、この理性(エリート)と感情(大衆)のねじれ現象に苦しめられることになりそうです。

太田述正コラム#9472005.11.14

<フランスにおける暴動(その3)>

4 英国のプレスの論調

 やはりここで、英国のプレスの論調にも触れておく必要がありそうです。

 まず、ファイナンシャルタイムスから。

 

 フランスの移民が最も活躍しているのはスポーツの世界だ。

 1998年のサッカーのワールドカップと2000年の欧州選手権でフランスは優勝したが、2000年の時のナショナル・チームを見ると、両親か祖父母がグアダループ・マルチニク・アルジェリア・アルゼンチン・セネガル・ポーランド・ポルトガル・ガーナ出身の選手の中に、若干の白人が混じっている、という構成だった。そして、アルジェリア系のジダン(Zidane)は国民的英雄になった。

 フランスはついに統合された多民族国家になった、とシラク大統領以下は胸を張ったものだ。

 しかし、すぐにそうではないことが明らかになった。

 1999年と2000年に実施された世論調査では、むしろ反移民感情が高まっているという結果が出た。

 そして、2001年にサッカーでフランスとアルジェリアが対戦した時のことだ。

 フランスのアルジェリア系の青年達は、フランス国家斉唱の際に口笛を吹き、やがてグランドになだれ込んで試合を中止させてしまったのだ。

 更に、翌2002年には、大統領選挙で、移民排斥を叫ぶル・ペンが二位になったときた。

(以上、http://news.ft.com/cms/s/f2e042ee-5321-11da-8d05-0000779e2340.html1113日アクセス)による。)

 以下は、ガーディアン(オブザーバーを含む)からです。

 今次暴動は、移民が移民街に押し込められ、失業率が40%近くに達し、その一方で社会的プログラムへの予算が20%も削減されてきたことが背景にある。

しかも、雇用主や警察は移民を差別的に扱ってきた。

とりわけ、警察が移民にしょっちゅう身分証明書の提示を求めたり、移民を手荒に扱ったりしてきたことへの憤懣がたまってきていたところへ、二人の移民の青年が感電死し、それに警察が関与していたといううわさが流れたことがきっかけとなってパリ近郊で暴動が発生し、フランス政府関係者、就中サルコジ内相の移民を侮辱するような発言が火に油を注いだ結果、それが拡大した。

 アムネスティー・インターナショナルが、本年4月、移民に身分証明書を提示させる際に手荒な扱いをしても、警察がお咎めなしなのは問題だと指摘したばかりだった。

 だからフランスの場合、移民問題そのものへの取り組みが必要なことはもちろんだが、警察改革を行い、その移民に対する姿勢を改めさせることも不可欠だ。

(以上、http://www.taipeitimes.com/News/editorials/archives/2005/11/11/20032797231112日アクセス)に転載されたガーディアンの911日付のフリーランド(Jonathan Freedland)のコラム)、及びhttp://www.guardian.co.uk/france/story/0,11882,1635906,00.html(自身も移民であるフランスの移民問題専門家の意見)、並びにhttp://www.guardian.co.uk/france/story/0,11882,1635483,00.html(フランスの青少年犯罪問題専門家の意見)(どちらも1113日アクセス)による。)

 なお、サルコジ内相の一連の発言は決して許されるものではないが、彼が、移民に対するアファーマティブアクションやモスクへの国家補助の必要性をかねてから指摘しているところの、フランスにおいてはめずらしい政治家であることも事実だ(http://www.guardian.co.uk/france/story/0,11882,1607367,00.html1113日アクセス)。

 ここで、よりマクロ的視点から、フランスの移民問題に光を当ててみよう。

第一に、英国と比較した場合、フランスが移民・少数民族問題に取り組む理念に問題がある。

 フランスでは、移民に対し、移民としてのアイデンディティーを捨てて、非移民と同じになることを要求する。

ちなみに米国では、移民に対しては、移民)としてのアイデンティティーと米国人としてのアイデンティティーという二重のアイデンティティーを持つことを認めてきた(例えば、「日系」「米人」)。しかし、インディアンのように元から米国に住んでいたり、黒人のように強制的に米国に連れてこられた人々に対しては、この一般的理念が通用しないのが悩ましいところだ。

 他方英国では、移民に移民としてのアイデンティティーをそのまま保持することを認めている。

 (以上、http://www.taipeitimes.com/News/editorials/archives/2005/11/11/2003279723前掲、及びhttp://www.guardian.co.uk/france/story/0,11882,1640824,00.html(英国の少数民族出身の大学教師の意見)による。)

 英国ではこれを多文化主義(multiculturalism)と呼んでいる。

 これは英国で、1980年代の少数民族地区の暴動を一つの契機にして形成された理念であって、フランスと違って、各々の少数民族のそれぞれ異なった文化を認め、それらを法律でもって守る、というものだ。

 もろん、白人と各々の少数民族がばらばらに並存をしていて良い訳ではないが、何を持って紐帯とするかは、依然模索中だ。

 こういうわけで、英国における多文化主義は完全なものではなく、いまだ発展途上の段階にある。

 しかし、移民・少数民族問題に取り組む理念としては、この多文化主義は、現時点では最善のものであり、ひょっとしたら、未来永劫、最善のものかもしれない。

(以上、http://www.taipeitimes.com/News/editorials/archives/2005/11/11/2003279723前掲による。)

 (注2)英国のこの理念がフランスや米国のそれに比べて優れている、とは言えないとする意見も英国にはもちろんある(http://www.guardian.co.uk/france/story/0,11882,1640824,00.html前掲)。

 第二に、英国と比較した場合、フランスが移民・少数民族問題に取り組む姿勢に問題がある。

 フランスは米国と同様に、憲法の平等原則を振りかざして移民問題に対処するという、上からのアプローチをしてきたところに根本的な問題がある。この問題には、英国のように、下からのアプローチをすることが肝要なのだ。そうしなければ、移民の抱える貧困・社会的隔離・失業、といった問題を解決できるはずがない。 (以上、http://www.guardian.co.uk/france/story/0,11882,1635528,00.html1113日アクセス)による。)

 英国は、40年も前に、欧州諸国に先駆けて本格的な差別禁止諸法を制定し、かつ、一世代も前に、地方人種平等評議会のネットワークを立ち上げ、今では数百名の常勤の職員と何万人にものぼる、無償のボランティア要員を擁しており、問題が顕在化しないよう、事前に予防することにおおむね成功してきた。

(しかし、フランスの現況は論外として、米国のように、100人の上院議員中黒人が1人しかいない、という状態よりはマシだが、英国の下院議員646名中少数民族出身者が15人しかいないというのではまだまだ少ない。人口比から言えば、議員が60人いてもおかしくない。)

(以上、http://www.guardian.co.uk/france/story/0,11882,1635431,00.html1113日アクセス)による。)

 第三に、英国と比較した場合、フランスが全般的におかしくなってきている、という根本的問題も見逃せない。

 つまり、今次暴動は、今年5月のEU憲法批准否決、それに引き続く2012年オリンピックのパリ開催失敗、の延長線上に位置づけることもできるのだ。

 このように見てくると、現在のEU加盟国に関しては、1970年代や80年代には労使紛争が最大の社会問題であり、そのために政権が倒れたりすることもあったところ、このままでは、21世紀における最大の社会問題は、英国一国を除いて、移民問題ということになりかねない(http://www.guardian.co.uk/france/story/0,11882,1635431,00.html前掲)。

太田述正コラム#9452005.11.13

<フランスにおける暴動(その2)>

 (本件での、フランス在住の読者と私との間のやりとりを、HPの掲示板上でご覧下さい。)

3 ワシントンポスト

 私が、ニューヨークタイムスより高く評価しているワシントンポストは、どうでしょうか。

同紙は、9日付でコラムニストのアップルボーム(Anne Applebaum)の過激なコラム(http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2005/11/08/AR2005110801109_pf.html1110日アクセス)を掲載しました。

 その概要は次のとおりです。

 故ミッテラン仏大統領は、ロサンゼルスの黒人暴動のようなことは絶対にパリでは起きないと宣ったものだ。「フランスは世界で最も社会的保護水準が高い国だからだ」とさ。

 また、フランスの高級紙のル・モンドは、「カトリーナによる惨禍は、ブッシュの体制に原因があることを示している。長年月にわたって忘れ去られていた問題が前面へと戻ってきた。貧困・国の<施策の>不在・人種差別、という問題が・・。」とこの8月に同紙一面で書いてくれたものだ。その記事の下には、ブッシュが死体が多数浮いている状況をTVで見て、「これはどこの国だ。(そして自国の将軍達に向かって、)遠くの国なのかね。何とかしてやらなくっちゃ」と言っているマンガが載っていた。

 このマンガのブッシュをシラクに代え、各地で放火の火の手があがっているTV画面に代えた上で、全く同じセリフをシラクに言わせてみたいものだ。

 いずれにせよ、それから先が米国とフランスとでは、まるで違う。

 まず、ブッシュは、2日後には、TVで対応策を発表したが、シラクがそうしたのは11日も経ってからだった。

 次に、米国民はカトリーナ災害に対して、20億ドルの義捐金を寄付したが、フランスではサルコジ(Nicolas Sarkozy)内相が、暴動に参加している人々を「クズ(scum)」と呼び、火に油を注いだにもかかわらず、彼の人気は全く衰えなかった。

 <ここで、ニューヨークタイムスの記事と同様、黒人は米国人であることが当然視されているが、移民はフランス人とみなされていない、という話が記された後(太田)、>米国では黒人や黒人街の存在は誰の目にも見えているが、フランスの移民は目に見えない。非移民は、移民街があたかも存在しないかのようにふるまっているし、移民は、スポーツの世界を唯一の例外として、フランスの政治、文化の世界等に全く登場しない。2002年の大統領選挙はシラクと極右のル・ペン(Jean-Marie Le Pen)との間で戦われたが、その最大の争点は、移民問題だった。しかし、選挙が終わってからのTVのトークショーには、ただ一人の移民(黒人や北アフリカ人)も登場しなかった。

 フランスに移民差別があるのは厳然たる事実なのだ。

 それなのに、フランス政府は、移民がフランス的イスラムの旗を掲げることすら許さないし、移民の就職や仕事の面での差別を解消する施策を講じようともしてこなかった。

 こんなことでは、今後、フランスからイスラム過激派テロリストが輩出する、という可能性も排除できない。そうなると、米国も大迷惑だ。

 だから、米国として、フランスに寛大な気持ちをもって、差別問題への取り組み方を伝授してやる必要がある。

 それにはまず、ル・モンドの論説の「米国」と書いてあるところを線で消して「フランス」に差し替え、コピーをとって、フランス国民に大量に郵送するところから始めたらどうか。

 10日付のワシントンポストの記事http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2005/11/09/AR2005110902074_pf.html1111日アクセス)は、今回の移民の暴動は、フランス特有の問題であって、同じく多数の移民を抱えている西欧(含む英国)の他の国には波及しない、と指摘しました。

 実際、フランスでの暴動が始まってから、ブリュッセルとベルリンで若干車が燃やされたりはしましたが、これは単なる物真似犯罪であり、フランス以外では、暴動は全く発生していません。

この記事によれば、その理由は以下のとおりです。

一、フランスにおける移民の分離(segregation)・失業・社会的疎外状況は、西欧諸国の中で最もひどい。

二、フランス以外の国、特にドイツでは、移民の面倒をみたり、移民に非暴力を教えるクラブや組織のネットワークが発達している。

三、フランス以外の国、特にドイツでは、二世以降の移民がスラムや分離された環境から抜け出て、就職することが、フランスにおけるほど困難ではない。

四、フランスだけに、抗議を暴力に転化するという長い伝統がある。移民は、フランスの農民や組合員がやってきたことに倣っているに過ぎない。

太田述正コラム#9442005.11.12

<フランスにおける暴動(その1)>

 (10月(11日)?11月(10日)のHPへの訪問者数は、23677人でした。先月は24681人であり、前々月は25735人(最高記録)だったので、二ヶ月連続しての減少です。太田ブログ(http://ohtan.txt-nifty.com/column/)への月間アクセス数も、2544にとどまり、前月の2662より減少しました。今月は前月より一日多いことを考えると、残念な結果に終わった、と言わざるをえません。一方、メーリングリスト登録者数は、前回より29名増え、1385名に達しました。累計訪問者数は、524,776人です。)

1 始めに

先月末からフランスで、イスラム教徒たる移民並びにその子孫(以下、「移民」という)の若者達の暴動が起こり、さすがに沈静化に向かいつつも、いまだに続いています。

国内で黒人問題を抱え、つい2ヶ月前にも、被災したニューオーリンズの黒人達による掠奪があったばかりの米国では、人ごととは思えないということでしょうか、さまざまな論評がなされています。

そのうちのいくつかをご紹介します。

その上で、最後に日本の朝鮮人「差別」問題に触れるつもりです。

2 ニューヨークタイムス

 最初に、ニューヨークタイムスのパリ特派員とおぼしきCRAIG S. SMITHの論評です。

 その概要を以下に掲げます。

 米国の黒人問題は、何世紀にもわたる背景があるが、フランスの移民問題はせいぜい三世代の時間的背景しかない。おかげで、米国の黒人街に多く見られるスラムは、フランスの移民街では見られない(注1)。

 (注1)米国で黒人は人口の11%を占めている(http://www.asahi-net.or.jp/~yq3t-hruc/flag_JA.html#America)のに対し、フランスでイスラム教徒たる移民は人口の8%を占めている。

他方、米国では差別解消のために、アファーマティブアクションを含めたさまざまな対策がとられてきたところ、フランスでは、差別解消のための対策がこれまで殆どとられてこなかった。

 だからフランスでも適切な対策がとられるようになれば、問題は容易に解決する、ということには、遺憾ながら必ずしもならない。

 というのは、米国の黒人問題は、エスニシティーの問題だけだが、フランスの移民問題は、これに(イスラム教という)宗教の問題がからんでいるからだ。

 しかし幸いなことに、今回の暴動に関して言えば、それは宗教戦争といったものでは全くなく、差別の結果、社会的・政治的に疎外されている移民の若者達による通過儀礼的な鬱憤晴らしの域にとどまっている。

 もう少し、米国での黒人と、フランスでの移民の境遇を比較してみよう。

 フランスの移民が受けている教育は、国が取り仕切っているだけに、地方税収入によって左右されるところの、米国の黒人が受けている教育より充実している。また、フランスの福祉は米国よりもはるかに充実している。

フランスでは、たとえ就業者がいても、四人家族が国家補助があるアパートに住んでいる場合、月3?400米ドルしか家賃を払う必要がないし、あれやこれやで月1,200米ドルもの補助金が与えられる。就業者がいない場合は、推して知るべしだ。それに誰でも医療費と教育費は無償だ。

にもかかわらず、フランスの移民の差別状況は深刻だ。

 まず、就職や仕事にいおける差別的取り扱いが禁じられている米国と違って、フランスでは、移民ははっきり差別されている。

 また、米国では、黒人であれ非黒人であれ、黒人が米国人であることはみんな当然視しているというのに、フランスでは、(フランス国籍を取得していて、しかも移民してきてから三代目にもなっていても、)移民は、非移民からは、アフリカ人やアラブ人とみなされ、移民自身は、アフリカ人やアラブ人でもなければ、フランス人でもないというアイデンティティークライシスに陥っている(陥らされている)。

 (以上、特に断っていない限りhttp://www.nytimes.com/2005/11/06/weekinreview/06smith.html?pagewanted=print11月6日アクセス)による。)

 一体、どうしてそんなことになったのだろうか。

 一つには、フランスでは、平等のタテマエが強調されるあまり、エスニシティーや宗教の存在について、国は関知しないものとされてきたことだ。関知しないのだから、エスニシティーや宗教に係る公式の統計がフランスにはない。

 統計がない以上、実態として存在する差別の現況を把握する手段がない。いわんや、差別の解消を図る施策も講じられない、ということになる。

 そして二つには、過酷な植民地統治を行ったという負の遺産をフランスが引きずっていることだ。

 例えば、アルジェリア独立戦争にフランスは敗れた。だから、(先祖が)アルジェリア出身だ、と聞いただけで、フランスの非移民は、不快な気持ちをその移民に抱くというわけだ。

(以上、http://www.nytimes.com/2005/11/11/international/europe/11france.html?pagewanted=print1111日アクセス)による。)

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