カテゴリ: ホロコースト

太田述正コラム#2309(2008.1.19)
<ガンジー・チャーチル・ホロコースト(特別編)>(2008.7.27公開)

1 始めに

 ギルバートは、アラビアのロレンスについても、これまでのイメージは間違っていると指摘しています。

2 アラビアのロレンスのイメージ

 最初に、これまでのアラビアのロレンス像の典型を一つご紹介しましょう。

 ロレンスは、1888年に準男爵の父親とその愛人の2番目の子供として北ウェールズで生まれます(
http://en.wikipedia.org/wiki/T._E._Lawrence
。1月19日アクセス)。
 「ロレンスは子供の頃から考古学が大好きでした。1910年にオックスフォードを優等の成績で卒業した後、彼は大英博物館のイラク(当時はメソポタミアと言った)発掘事業に従事する。
 1914年にドイツとの戦争が勃発すると、ロレンスはロンドンの英軍参謀本部の地理諜報部に短期間勤務した後、カイロの軍事諜報部に移る。1916年にファイサル(FeisalまたはFaisal)に率いらてアラブ人達がトルコ帝国に反旗を翻すと(注1)、ロレンスはメッカに視察のため派遣され、成り行きでアラブ叛乱部隊への英連絡将校になる(注2)。

 (注1)ファイサルはメッカ太守フセイン(Sherif Hussein of Mecca)の息子。この叛乱を企み唆したのは英外務省アラブ局(Arab Bureau of Britain's Foreign Office)だ(ウィキペディア上掲)。
 (注2)この立場で、ロレンスは英・アラブ叛乱部隊のアカバ(Akaba)攻略作戦や、ダマスカス攻略作戦等に関与し、ことごとく成功させる。

 ・・戦後、ロレンスはパリ平和会議でファイサルの代表団の一員(実質的には英国代表団の一員)となる。彼の努力にもかかわらず、シリア、パレスティナとイラクはフランスと英国の委任統治領となる。ロレンスは疲れ果て意気消沈してイギリスに戻る。
 イラクを植民地支配しようとした英国に対し1920年の末に叛乱が起こると、ウィンストン・チャーチルは英植民相として打開策を見出すべく、<しぶる>ロレンスを説得して植民省中東部に勤務させ、彼を自分の顧問にする。1922年の夏頃には、ロレンスの助力もあって、チャーチルは事態を解決するのに成功する。」(
http://www.lucidcafe.com/library/95aug/lawrence.html
。1月19日アクセス)

 ロレンスが、写真を撮る時に好んでアラブの衣服を纏ったことやアラブの習慣を身につけていたことはよく知られています。
 1962年に封切られたデイビッド・リーン(David Lean)監督の映画「アラビアのロレンス」における、ピーター・オトゥール(Peter O'Toole) 扮するロレンスは、まさにこのようなイメージに沿ったものでした。
 (以上、典拠省略。)

3 アラビアのロレンスの実像

 しかし、ギルバートによると、ロレンスもまた、チャーチル同様、正真正銘のシオニストだったのです。
 ロレンスはチャーチルに仕えていた1921年、チャーチルとともにカイロ会議に出席しました。この会議でファイサルにはイラクの王位が与えられ、その弟のアブドラ(Abdullah)にはトランスヨルダンの首長の座が与えられた(コラム#55)のですが、ロレンスは当時、アブドラの役割は、反シオニズムの輩に目を光らせ、(現在の)ヨルダンからユダヤ人の故郷・・地中海からヨルダンまでの全地域・・に連中が侵入するのを防止することだ、と備忘録に記しています。
 また、シオニズムの指導者のワイズマン(英国籍のユダヤ人)に対する懐疑論者であったエルサレム大司教に対し、ロレンスは、ワイズマンは「偉大な人物であり、あなたや私なんて、彼の靴を磨くにも値しない存在だ」と述べています。
 それどころかロレンスは、「ユダヤ人の主権国家がこの地域に存在することによってのみ、アラブ人達は自分達の尻を拭くことができるのだ(make anything of themselves)」とまで記しています。 

 (以上、
http://www.jpost.com/servlet/Satellite?cid=1171894488324&pagename=JPost%2FJPArticle%2FShowFull
http://news.independent.co.uk/world/middle_east/article2300412.ece
(どちらも1月16日アクセス)による。)

 なお、ワイズマン自身、ロレンスがシオニズムを大いに助けてくれたと記しているところです(
http://books.guardian.co.uk/review/story/0,,2242991,00.html  
。1月19日アクセス)。
 これ以降のロレンスの生涯もまことにドラマティックなのですが、省略します。

3 終わりに

 チャーチルやロレンスがすこぶる付きのユダヤ人贔屓であったことがギルバートによって明らかにされたわけですが、イギリスはそもそも、地理的意味における欧州において、昔から最もユダヤ人に対して寛容な国であったことを忘れてはなりません。(コラム#478〜480参照)
 そういう国であったからこそ、ユダヤ人贔屓であるにもかかわらず、チャーチルは首相になれ、ロレンスは英雄になれたのです。
 それにしてもこういうコラムを書いていると、私が少年期を過ごしたカイロの記憶が懐かしく蘇ってきます。

太田述正コラム#2307(2008.1.18)
<ガンジー・チャーチル・ホロコースト(その4)>(2008.7.26公開)

 以前(コラム#876で)「ホロコースト情報について・・、英諜報当局は、話が大げさ過ぎる、何で銃殺したり餓死させたりすればいいのにわざわざガス室までつくってユダヤ人を殺す必要があるのか、等の難癖を付け、仮に事実だとしても、戦争でドイツに勝利することこそユダヤ人を救う王道だ、などとして、結局チャーチル首相の耳にはこの情報を一切入れずじまいだった」と記したことがあります。
 これはいささか雑駁に過ぎました。
 より正確には以下のようなことだったのです。

 1937年9月にチャーチルは、ヒットラーに宥和的な、「われわれは、あなた方のドイツのユダヤ人に対する取り扱いがご立派なものであるとは全く思わないが、それがドイツ国内に限定されている限りにおいては関知するところではない。」という発言を行います。
 しかし、そのわずか3ヶ月後に彼は英下院で、「一つの人種がその生まれた地において拭い去られてしまおうとしていることは身の毛のよだつことだ」と述べています。
 1940年にチャーチルは首相に就任しますが、彼は翌1941年には、ソ連のドイツ占領地において組織的なユダヤ人殺戮が行われている事実をドイツの暗号解析の結果知ります。
 その年の夏、彼は「<ドイツに占領されたソ連の>全地域において<ユダヤ人は>絶滅させられた。われわれはまだ名前のつけられていない犯罪に直面している」と発言します。
 1942年の夏にはチャーチルは、その後も続けられたこの蛮行に、「冷血にして野蛮なる(bestial)<ユダヤ人>絶滅政策」という名前をつけます。
 その頃までに彼は、つきそい抜きかつ身分証明書なしの4,000人のユダヤ人の子供達を載せた列車が、ドイツ占領下のフランスのリヨンを出発してポーランドに向かったという情報を得ます。
 更に1942年12月、チャーチルはポーランドのレジスタンスの一員であったカルスキー(Jan Karsky)から数千人ものユダヤ人がかり集められ牛が牽く荷車に乗せられてポーランドのベルゼック(Belzec)に運ばれ、そこで殺戮されていることを知ります。
 このカルスキー情報を元に、チャーチルはソ連を含む連合国に働きかけて、ドイツにおける「冷血にして野蛮なる絶滅政策」を連名で非難します。
 そしてチャーチルは英空軍に対し、何とかせよと命じます。
 ところが、時の英空軍参謀長のポータル卿(Sir Charles Portal)は、ユダヤ人のために空襲を敢行することはドイツのプロパガンダを利するだけだと警告したため、チャーチルはしぶしぶこの言に従います。
 それでもチャーチルは、ノルマンジー大作戦の前に米軍兵士全員に、ドイツがユダヤ人に対して行ってきた残虐行為についてのドキュメンタリー映画を見せるように取り計らうのです。
 1944年7月4日に今度はチャーチルは、ポーランドのアウシュビッツ(Auschwitz-Birkenau)にハンガリーのユダヤ人が毎日列車で到着し、ガス室で毎日12,000人殺されていることを知ります。
 ユダヤ人の指導者達は連合国に対し、アウシュビッツに至る鉄道線路を爆撃するよう求めます。
 ついにチャーチルはイーデン外相に対し、英空軍にアウシュビッツに至る鉄道線路をただちに爆撃させるように伝えよ、必要ならいつでも自分が直接話をする用意がある、と付け加えます。
 しかし、英軍はこのチャーチルの指示を無視したらしく、少なくともアウシュビッツ近くの鉄道線路は連合国の爆撃の対象になりませんでした。ちなみにアウシュビッツは英国の爆撃機の行動半径外ではあったけれど、米国の爆撃機の行動半径内ではありました。
 また、チャーチル自身、自分の指示の結果がどうなったかを気にした形跡はありません。
 そして戦後の1946年、首相の座を降りていた韜晦の名人チャーチルは、英下院で、「私は、戦争が終わるまで、身の毛がよだつ殺戮が行われ、何百万もの人々が殺されていたことを全く知らなかった。終戦後、われわれは次第にその事実を知るところとなったのだ」と述べるのです。

 いかがでしょうか。
 チャーチルはイスラエル建国に決定的な役割を果たしただけでなく、ホロコーストとも、制約された条件の下で最大限戦ったと言ってよいのではないでしょうか。
 しかしそのチャーチルが同時に、英当局によって人為的にもたらされた1943年のベンガル大飢饉で大英帝国臣民たるインド人が大量に餓死する(コラム#27)のをあえて座視した人物であったこともわれわれは忘れてはならないでしょう。
 そもそも何人餓死したかすら、100万人説、200万人超説、400万人説等があって(コラム#27、149、210)はっきりしないことからも、当時の首相チャーチルを頂点とする英本国や英インド当局のこの大飢饉に対する姿勢がいかなるものであったか分かろうというものです。
 いずれにせよ、チャーチルのこのどちらのエピソードも、政治の非情さ、とりわけ戦時における政治の非情さ、を物語って余りあるものがあります。

(完)

太田述正コラム#2305(2008.1.17)
<ガンジー・チャーチル・ホロコースト(その3)>(2008.7.25公開)

 チャーチルのこのバルフォア宣言に対する支持は掛け値無しのものでした。
 爾後彼は、第一次世界大戦の時に英国の国益に則り、英国がユダヤ人のパレスティナ「復帰」を支持した以上、戦争が終わったからといってこの方針を撤回することは恥ずべきことであると訴え続けるのです。
 1921年にチャーチルは植民相に就任する巡り合わせとなり、バルフォア宣言の履行に精力を注ぎます。
 翌1922年、彼はパレスティナ初代総督(high commissioner)とアラビアのロレンス(Lawrence of Arabia=Thomas Edward Lawrence。1888〜1935年)を伴ってパレスティアを初めて視察します。現地でアラブ人とユダヤ人の代表者達に向かってチャーチルは、アラブ人がユダヤ人の移住に反対するのは人種差別であり、ユダヤ人は繁栄・成長・経済開発をもたらしたのであってアラブ住民もこれを享受している、と述べています(注)。

 (注)同時にチャーチルはパレスティナのアラブ人にも配慮し、トランスヨルダン(現在のヨルダン)をパレスティナから分離し、これをアラブ人達の将来の国にするという方針を打ち出している。

 チャーチルは本心では無制限にユダヤ人のパレスティナ定着を認めたかったのですが、それには反対が多く、その年に出された彼自身の植民省の白書では、抑制されたパレスティナ定着を打ち出さざるを得ませんでした。それでもこの白書は、その後の14年間にわたって30万人のユダヤ人がパレスティナに定住する道を切り開いたのです。
 この白書は、ユダヤ人がその受けた艱難によってではなく、歴史的権利に基づいてパレスティナに移住できると謳い、ユダヤ人がパレスティナに将来政府を構えることさえ可能であると記していました。
 その後、チャーチルはナチスドイツに対する戦いにおいてリーダーシップを発揮するとともに、対独戦中に何千ものホロコースト生存者達をパレスティナに受け入れるべく、英植民地官憲のサボタージュを乗り越えるために多大な努力を傾注しました。
 この間、シオニストの過激派はパレスティナの英国官憲や兵士に対するテロを行い、1944年には在中東相(Minister Resident in the Middle East。中東における英国の最高責任者)でありチャーチルの親友の一人でもあったカイロのモイン卿(Lord Moyne=Walter Edward Guinness。1880〜1944年)が暗殺されたのですが、チャーチルの姿勢に変化はありませんでした。
 1946年にはエルサレムのダビデ王ホテルの英国の行政機関が爆弾を見舞われ、91人もの犠牲者が出たにもかかわらず、野にあったチャーチルは1948年には(建国宣言を発した)イスラエルをただちに承認するよう、(アラブ諸国の反応を気にして承認を逡巡していた)英国の労働党政府の尻を叩きましたし、1951年にはエジプトがスエズ運河のイスラエル艦船の通行を禁止したところ、これを非難しました。
 チャーチルはまさにユダヤ人の終生の友と形容するにふさわしい人物だったのです。

 しかし、にもかかわらず、バルフォア宣言を発したバルフォア卿や、当時の英国王のジョージ5世(1865〜1936年。在位1910〜36年)に比べて、チャーチルのイスラエル建国への貢献が知られていないのはどうしてなのでしょうか。
 
 それは、チャーチルのようなユダヤ人大好き人間は、英国のエリート中に蔓延する反ユダヤ人感情に配意し、慎重な言動に努めなければならなかったからです。
 例えば、チャーチルの前任の首相であったチェンバレン(Neville Chamberlain。1869〜1940年)は、ユダヤ人にとって益々厳しくなりつつあった状況下で、アラブ人感情に配慮してユダヤ人のパレスティナ移住枠を5年間で75,000人に制限した方針を決定した1939年に、私信の中で、ナチスのユダヤ人迫害について、「ユダヤ人は好かれる人々ではない。私自身連中がどうなろうと知ったことではない。」と記しています。
 また、チャーチルは英陸海空参謀長会議で「中東から帰国する50人の将校のうち1人くらいしかユダヤ人について好意的な発言を行わない」とこぼしていますし、第二次世界大戦中、チャーチル内閣で外相を務めたイーデン(Anthony Eden。1897〜1977年)はパレスティナ問題に関し、アラブ人は大好きでユダヤ人は憎んでいるという点でテコでも動かなかったと伝えられています。

 こういうわけで、例えばチャーチルは1914年に第一次世界大戦が始まった直後に保守党のロイド・ジョージ(David Lloyd George。1863〜1945年)が自由党と連立内閣を組もうとしていた時、ロイド・ジョージに書簡を送り、自由党枠7名中3名もユダヤ人を入れると議論が起きるので止めた方がよいと申し入れていれることによって自らを韜晦する必要があったのです。
 というのも、その頃、37歳の内相であったチャーチルは、シオニズムの指導者であったヘルツェル(Theodor Herzl。1860〜1904年)の息子のオーストリア国籍のハンス(Hans)が敵性市民扱いをされようとしていたのを、特別に英国に帰化を認めることで救ったりしていたからです。
 ホロコーストに対しても、チャーチルは綱渡り的対応を行わなければなりませんでした。

(続く)

太田述正コラム#2303(2008.1.16)
<ガンジー・チャーチル・ホロコースト(その2)>(2008.7.24公開)

 (チャーチルとホロコーストについては、英国の歴史学者のギルバート(Sir Martin Gilbert)の'CHURCHILL AND THE JEWS--A Lifelong Friendship'の以下の書評に拠っている。
ワシントンポスト前掲、及び2008年1月16日にアクセスしたところの、
http://www.mcclelland.com/catalog/display.pperl?isbn=9780771033261
http://www.foreignaffairs.org/20071101fabook86639/martin-gilbert/churchill-and-the-jews-a-lifelong-friendship.html
http://opinionjournal.com/la/?id=110010834
http://www.nysun.com/article/65133
http://www.haaretz.com/hasen/pages/ShArt.jhtml?itemNo=934728
http://www.telegraph.co.uk/arts/main.jhtml?xml=/arts/2007/09/13/bogil108.xml

 チャーチルはいかなる人種差別にも断固反対という人物でしたが、彼は、そのインド人評やイスラム教徒評からも推察できるように、アングロサクソンを頂点とする人種観を持っていた人物でもありました。
 「どうしてわれわれアングロサクソンが優れていることについて弁明する必要がある?われわれは優れているのだ」と言ったことがあるくらいです。
 しかしチャーチルが尊敬している人種が一つだけありました。
 それがユダヤ人でした。
 チャーチルはユダヤ人が大好きだったのです。
 チャーチルに言わせれば、ユダヤ人はギリシャ人の天分もローマ人の力も成し遂げられなかったところの思想を発見・祖述したのであり、欧州の芸術・科学・制度はその賜なのであり、世界がユダヤ人によって裨益しているのです。
 まさにユダヤ人は、世界に出現した最も恐るべき、最も瞠目すべき人種だというのです。
 チャーチルが人となった19世紀末のイギリス、就中その貴族の間で牢固とした反ユダヤ感情があったというのに、どうしてチャーチルはそれに染まらなかったのでしょうか。

 第一に、お父さんのランドルフ(Randolph)の影響です。
 ランドルフは、英国のロスチャイルド家の当主のナサニエル(Nathaniel Rothschild。銀行家。ユダヤ人として初めて英上院議員になった)等の英国の有力ユダヤ人達と商売上、かつ個人的に交友があり、娘をユダヤ人に嫁がせています。
 その後、父親と交友のあったユダヤ人達は、チャーチルを資金面等で支えてくれるのです。

 第二に、チャーチルは旧約聖書大好き人間であって、演説に旧約聖書の人物やエピソードをちりばめるのが常であり、この旧約聖書とそれに盛り込まれた倫理観を生み出したユダヤ人に賛嘆の念を持っていたことです。

 第三に、世界シオニスト機構(World Zionist Organization)議長のワイズマン(Chaim Weizmann。後イスラエルの初代大統領)との親交です。
 二人は20世紀初頭にマンチェスターで出会うのですが、第一次世界大戦の時、海軍大臣をしていたチャーチルは爆弾の製造のためにアセトン(acetone)を大量に必要としていたところ、化学者であったワイズマンがその新しい製造方法を開発したことで親交が深まるのです。

 チャーチルのユダヤ人への好意は、猖獗を極めるようになった共産主義がチャーチルが大嫌いで、しかも彼自身、その共産主義を理論的かつ政治的に牛耳っていたのがユダヤ系の人々であると信じていたにもかかわらず、全く変わることはありませんでした。

 1904年にチャーチルは下院に初当選するのですが、彼の選挙区はマンチェスターの北西地区であり、選挙民の三分の一はユダヤ人でした。
 当選したチャーチルは、ロシアのユダヤ人迫害(ボグロム)を逃れてくるユダヤ人の英国への流入を規制しようとする動きと果敢に戦うのです。
 1908年には彼は早くもパレスティナに戻りたいとのユダヤ人の考えに賛同の意を表するとともに、それは世界史にとって画期的なこととなろうと述べています。
 1913年には彼は、友人であるところの自由党の下院議員たるユダヤ人の入会を認めなかったクラブを脱会し、その後自分でユダヤ人の入会を認めるクラブを創設しています。

 1917年11月2日には有名なバルフォア宣言(Balfour Declaration)が、外相のバルフォア卿によって発せられ、英国政府はユダヤ人がパレスティナに「復帰」することを認めるに至ります。

(続く)

太田述正コラム#2301(2008.1.15)
<ガンジー・チャーチル・ホロコースト(その1)>(2008.7.22公開)

1 始めに

 チャーチル(Sir Winston Leonard Spencer-Churchill。1874〜1965年)とガンジー(Mohandas Karamchand Gandhi。1869〜1948年)は、ほぼ同世代の大英帝国臣民ですが、チャーチルはインド人は大嫌いで、「連中は獣のような(beastly)宗教を信じている獣のような連中だ」と言ったと伝えられています。
 そのチャーチルは、英国が戦争遂行のために穀物を供出させたためにベンガル地方で1943年に大飢饉が起こり、食糧を送るように求められた時、何百万人もの人間が餓死しつつあるというのなら、「どうしてガンジーはまだ死んでいないのだ」と、食糧援助を拒否する電報を送りました。
 (以上、
http://www.csmonitor.com/2007/0814/p13s02-bogn.htm
(2007年8月14日アクセス)による。)
 チャーチルにとっては、ガンジーも獣のような人間の一人に他ならなかったのでしょう。

 この二人のユダヤ人ホロコースト問題との関わりをご披露しましょう。

2 ガンジーとホロコースト

 ガンジーは1938年に次のように言っています。

 「イギリスはイギリス人のもの、そしてフランスはフランス人のものであるのと同じ意味で、パレスティナはアラブ人のものだ。ユダヤ人をアラブ人に押しつけるのは間違っており非人道的だ。・・ユダヤ人にとっては、彼らの生まれ育ったところで正義にかなった扱いをされるよう求め続けることこそ、より気高い道なのだ。・・この民族の故郷へ<帰ろう>という<シオニストの>叫びはドイツによるユダヤ人追放に格好の口実を与える<だけだ>。」
 「ユダヤ人が、他に方法がないので仕方なく非暴力主義を採用するというのではなく、積極的に非暴力主義を採用し、キリスト教徒のドイツ人に対してあえて仲間意識を持って臨み、彼らがドイツ人に何も悪いことをしないと訴えれば、最も頑ななドイツ人の心といえども融けるものと私は確信している。世界の発展に対するユダヤ人の貢献は多大なものがあったが、以上述べたようなことをすれば、それはユダヤ人による最大の貢献となろうし戦争だって過去のものとなること請け合いだ。」
 「ユダヤ人が非暴力主義だけに由来するところの精神的力の助けを借りることができるならば、ヒットラー閣下はそれまでの人との関わりにおいておおむね経験したことのないこのような勇気に頭を下げることだろう。そして、このような勇気を示されれば、それは彼の最も秀でた突撃隊の勇気よりも無限大に優ると感じることだろう。真理の神と非暴力主義を信奉する者だけがこのような勇気を示すことができるのだ。」

 (以上、
http://www.gandhiserve.org/information/writings_online/articles/gandhi_jews_palestine.html#'Reply%20to%20German%20Critics',%20by%20Gandhi%20-%20From%20Harijan,%20December%2017,%201938
(1月15日アクセス)による。)

 どう思われましたか。
 ガンジーの非暴力主義なる代物のおめでたさ、無意味さ、残酷さがお分かりになりましたか?
 厳しい言い方をすれば、ガンジーはホロコーストに加担したのです。

3 チャーチルとホロコースト

 チャーチルはユダヤ人が大好きでした。
 そのチャーチルはホロコーストといかなる関わり方をしたのでしょうか。

 その話に入る前に、(冒頭ではチャーチルのインド人観に触れたところ、)比較するため、チャーチルのイスラム教徒観をまずお伝えしておきましょう。
 1899年に既にチャーチルは以下のように記しています。
 
 「イスラムの狂信的逆上(frenzy)、・・恐るべき運命論的無気力(apathy)、・・そして低劣な感覚主義(degraded sensualism)。・・一人一人のイスラム教徒が見事な資質を示すことはある。しかし、宗教の影響がそれを信仰する者の社会的発展を麻痺させてしまう。」と。
 (以上、
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2007/12/13/AR2007121301470_pf.html  
(2007年12月16日アクセス)による。)

(続く)

太田述正コラム#2026(2007.8.27)
<ホロコーストの真相>(2008.2.27公開)

1 始めに

 300万人も先の大戦後に不慮の死を遂げる羽目になったドイツ人が、戦時中に犯した最大の罪がユダヤ人大量虐殺、いわゆるホロコーストです。

 両親をホロコーストで失った老ユダヤ人歴史学者の手でホロコーストに関する決定版とも言うべき本が今年出版されました。
 フリードレンダー(Saul Friedlander。aにウムラウトがつく。1932年〜)による'THE YEARS OF EXTERMINATION--Nazi Germany and the Jews, 1939-1945’です。
 例によってその概要をご紹介しましょう。

 (以下、特に断っていない限り
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2007/05/11/AR2007051101768_pf.html  
(5月13日アクセス)、及び
http://www.nytimes.com/2007/06/24/books/review/Evans-t.html?ex=1340337600en=dc8de847d86facc7ei=5088partner=rssnytemc=rss&pagewanted=print
http://www.msnbc.msn.com/id/18083304/site/newsweek/page/0/
http://www.jpost.com/servlet/Satellite?cid=1186557464098&pagename=JPost%2FJPArticle%2FPrinter
http://www.latimes.com/features/books/cl-ca-friedlander15jul15,0,491398,print.story?coll=la-books-headlines
(いずれも8月27日アクセス)による。)

2 ホロコーストの真相

 (1)ホロコーストの責任

  ア ヒットラーに一義的な責任がある

 ホロコーストの責任は一義的にはヒットラーにある。
 米国の参戦こそ、ヒットラーがユダヤ人の全面的東方追放、そして最終的には全面的殺戮(ホロコースト)に踏み切るきっかけとなった
 そもそもヒットラーは、ローズベルトの次第にエスカレートする対独活動をユダヤ人の仕業と考えていた。
 そして、1941年12月に米国が参戦した時、ヒットラーは、彼が1939年に行ったところの、ユダヤ人が世界を戦争に巻き込んだら報復するという約束を果たさなければならなくなった。
 ヒットラーは、少なくとも一度はSSの司令官であるヒムラー(Heinrich Himmler)と会って、死の収容所等で殺戮されたユダヤ人の数を整理した表に見入ったことがあるが、このことからも、ヒットラーがホロコーストの進捗状況に強い関心を持っていたことが分かる。
 ヒットラーは1943年2月のスターリングラード包囲戦での敗北も、当然ユダヤ人のせいだと考え、「現代の人類は、ユダヤ人を絶滅(eliminate)させる以外に方法はない」と語っている。
 ヒットラーは1943年7〜8月のハンブルグへの英空軍による大空襲もユダヤ人の企みだと抜かす始末だった。
 実際には、占領下にあった欧州以外にいたユダヤ人達が英米にアウシュビッツとそこへの鉄道の経路を爆撃するよう働きかけたにもかかわらず、それが実現しなかったくらい、ユダヤ人には影響力などなかったというのに・・。

  イ ナチス指導部はもちろん連帯責任を負っている

 ナチス指導部、特にSSの指導部は当然、このヒットラーの妄想について、連帯責任を負っている。
 戦況が不利に傾いた時期になっても、ナチスはドイツ人とポーランド等におけるドイツ協力者達の結束を図るためには反ユダヤ主義が唯一の効果的イデオロギーであることを知悉していた。
 だから、戦争末期にかえってユダヤ人殺戮のペースが上がったのは、一見常識に反するが、決して驚くべきことではない。
 そして、敗戦直前には、彼らは証拠隠滅を図ろうとした。

  ウ 当時のドイツ人全体も責任も免れない。

 ユダヤ人を欧州から、そして究極的には世界から駆逐しようというのは、ドイツ人だけが生み出したドイツ人固有のイデオロギーだ。
 彼らは、ユダヤ人の大量殺戮が行われていることを知っていたし、決して脅かされてユダヤ人迫害に協力したわけでもない。
 いずれにせよ、当時のドイツ人をナチスとドイツ人に分けることなどナンセンスだ。

  エ ナチスドイツ占領地区の当時の住民全体も責任がないとは言えない

 ナチスドイツが占領したオランダ・フランス・ポーランド・ウクライナ等の住民の大部分は、ホロコーストに手を貸すか傍観したのであって、ユダヤ人にほとんど同情を寄せなかった。
 占領された大部分の国の官憲は、ユダヤ人狩りに喜んで従事した。
 ポーランド・ルーマニア・クロアチアでは、国(地域)を挙げてユダヤ人狩りに狂奔した。
 ただし、ブルガリアとスロバキアでは、民衆のユダヤ人殺戮への怒りにより両国政府がユダヤ人殺戮への協力方針を撤回している。
 また、いくつかの国のカトリック教会の指導者達がユダヤ人殺戮に異議を唱えたし、神父で危険を冒して個人的にユダヤ人を助けた人達もいた。しかし、カトリックに改宗したユダヤ人だけは守ったものの、全般的にはナチスを懼れて、何もしない神父達が多かった。
 それどころか、クロアチア等では、神父達は積極的にユダヤ人狩りに手を貸した(注1)。

 (注1)1941年、既にユダヤ人大量殺戮のニュースが広く伝わってきていたというのに、時の法王ピオ(Pius)12世は、ワグナーの楽劇の抜粋公演を行って欲しいとベルリン歌劇団をバチカンに招待する電報を打っている。

 (2)ホロコーストへの軌跡

 ユダヤ人をドイツ及び欧州から駆逐しようというイデオロギーをナチス指導部と多くのドイツ人が抱いていたことは事実だが、一直線にホロコーストに至ったのではなく、それは、軍事的・政治的・経済的制約と機会という文脈の中で、ゲットーに閉じこめる→追放する→地域的殺戮→全体的殺戮(注2)、と「進化」する軌跡をたどった。

 (注2)ホロコースト否定論者は、この本で引用されている無数の一次資料に直接あたるべきだ。例えば、アウシュビッツで、ユダヤ人のガス殺戮死体の後始末作業に従事させられ、その事実を詳細に書き残し、自らも殺戮されたユダヤ人の日記など。(太田)

 (3)ドイツ人の精神的堕落

 ユダヤ人を悪の根源、かつ最大の敵とするナチスの宣伝は、予期した以上の効果を発揮し、当時の大方のドイツ人は、ユダヤ人を嫌悪し、殺戮しようと思うに至った。
 このような精神的堕落が、早くもポーランド侵攻の際、SSをして、本来悪でも敵でもない3,000人の精神障害者達を、病院から駆逐して病院を兵舎として使うために殺戮せしめた。
 ソ連兵捕虜の百万単位での殺戮、ポーランドの知識人の計画的殺戮、約20万人の精神障害者ないし身体障害者たるドイツ人の殺害、欧州のジプシーの多くの殺戮、等は、このドイツ人の精神的堕落の論理的帰結だった。

3 終わりに

 独裁者とその一派の吹き込んだイデオロギーにかぶれ、犯罪的指示にも喜々として従って行動する国民、これが当時のドイツの醜悪な姿です。
 これは先の大戦時の日本の姿とは対蹠的です。
 なぜなら、当時の日本の姿はよかれ悪しかれ、イデオロギーなどあってなきがごとしであって、ひたすら民意に忠実に軍部を含むところの政府が行動する、というものだったからです。

太田述正コラム#1552(2006.12.7)
<イラン・アラブ・ホロコースト>

1 イランでホロコースト国際会議開催

 (1)始めに
 12月11、12日の両日、イランの首都テヘランでホロコーストに関する国際会議が開催されることになりました。
 何でも、世界30カ国から67人の専門家が集まるそうなので、かつて私のホームページの掲示板上で私とホロコースト論議を戦わせた日本人の読者の中に、この会議に参加される方がおられたら、ぜひ会議の模様を後で報告していただきたいものです。
 
 (2)この会議について
 さて、イランのアフマディネジャド大統領が、昨年、累次に渡って、ホロコーストに言及し、600万人がナチによって殺害されたというのは、誇張か神話かどちらかであると述べ、また、ユダヤ人はホロコーストをイスラエルの利益を伸張させるためのプロパガンダとして用いている、とか、イスラエルは世界地図から消し去られるべきである、といった発言をしたことはご記憶の方が多いと思います。
 今回の国際会議は、大統領のかかる発言を受けて行われることになったものであり、欧州のいくつかの国ではホロコースト否定論は犯罪となっていて自由にホロコーストの研究ができないことに鑑み、ホロコースト論者と否定論者が自由闊達に議論をする機会を設けるために開催する運びとなったという触れ込みです。
 この会議でとりあげられるテーマは、イランやイスラム諸国におけるユダヤ人(注1)、シオニズム、ガス室、意見表明の自由、ホロコースト否定論者を処罰する法律、等30にわたっているといいます。
 (以上、
http://www.nytimes.com/2006/12/06/world/middleeast/06holocaust.html?_r=1&oref=slogin&ref=world&pagewanted=print
(12月6日アクセス)による。)

 (注1)イランには2万5,000人のユダヤ人が住んでいる。

2 アラブとホロコースト

 イスラム世界でホロコースト否定論寄りの発言をしているのはイランのアフマディネジャド大統領だけではありません。
 彼のお友達であるアラブの超有名人のお二人である、シリアのアサド大統領とレバノンのヒズボラの指導者であるナスララも、それぞれ最近、「ユダヤ人がどうやって殺され、何人殺されたか、良く分からない」、「ユダヤ人はホロコーストという伝説を作り上げた」と述べています。
 この三人の大好きなパレスティナのハマスも、その公式ウェッブサイトで、「いわゆるホロコーストとは、ユダヤ人によって何の根拠もなしに作られた話である」と記しています。
 また、エジプト、カタール、サウディアラビアの各国政府も、ホロコースト否定論に肩入れしています(注2)。

 (注2)エジプトの街頭のキオスクではどこでも、帝政ロシアの秘密警察が1905年に捏造した、ユダヤ人の世界支配の陰謀を記述したシオンの議定書(Protocols of the Elders of Zion)や、ヒットラーの「我が闘争」を売っている(
http://news.bbc.co.uk/2/hi/middle_east/4701162.stm
。2月15日アクセス)。

 更に、米国のホロコースト記念博物館が調べたところ、開館以来の13年間に、アラブ諸国の高官でこの博物館を訪問したのは、湾岸諸国のうちの一つの国の若い王子一人だけであることが判明しました。
 このようなアラブの姿勢の背景には、イランもそうなのですが、自分達はホロコーストとは何の関係もないという思いこみがあります。
 しかし、イランはともかくとして、アラブはホロコーストと、悪い意味でも良い意味でもご縁が大いにあるのです。
 ナチスドイツ、及びその一味であるイタリアのファシスト政権とフランスのヴィシー政権は、北アフリカを1940年6月から1943年5月にかけて支配し、ホロコーストのはしりをここで行ったからです。
 すなわち、北アフリカのユダヤ人は、財産・教育・生計手段・住居・移動の自由、を奪われ、拷問・奴隷労働・移送・処刑、の対象となったのです。
 欧州ではユダヤ人の半分以上が亡くなったのに対し、北アフリカのユダヤ人の約1%に相当する4,000人から5,000人が亡くなっただけでしたが、これは、北アフリカでは戦いの期間が短かった上、欧州の強制収容所にユダヤ人を船に乗せて連行するのが容易ではなかったことが幸いしたのです。
 ここで忘れてはならないのは、多くのアラブ人は、ナチスドイツ等に命じられてとやむなくいうより、どちらかと言えば積極的にユダヤ人迫害に手を貸した、という事実です。その一方で、少数ながら、ユダヤ人を助けたアラブ人もいましたが・・。
 (以上、特に断っていない限り
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2006/10/06/AR2006100601417_pf.html
(10月9日アクセス)による。)
 
3 コメント

 上述したような、アラブとホロコーストとの関わりは、 テヘランで行われる国際会議でのテーマの一つとして極めてふさわしいと思われるところ、アラブ世界の歴史教科書では全く言及されていない(ワシントンポスト上掲)だけに、恐らくテーマには入っていないことでしょう。
 イランやアラブ諸国は、ホロコーストそのものについて論じる前に、まず、自らがホロコーストと関わった過去と真摯に向き合うべきだと思います。

太田述正コラム#1352(2006.7.22)
<戦後ポーランドのユダヤ人虐殺>(有料→公開)

 (7月中のオフ会開催は流れましたが、私のホームページ(http://www.ohtan.net)の掲示板の投稿#2487で8月中のオフ会開催提案がなされ、また、#2485で準会員制の提案がなされた(それに私が#2486でお答えした)ところです。
 そこで、ショートノーティスで恐縮ですが、8月5日(土)(1400??1730目途。会費500円。二次会を予定)に私の事務所(練馬区豊玉南3-10-12野方パークハイツ305。03-3992-3342)でオフ会を開催することにしましたので、ふるってご参加下さい。
 眼目は、有料化移行記念・事務所IT環境整備完了記念です。
 当日は、「準会員」候補者面談会を兼ねたいと思います。何をやっていただけるかは、私が#2486に記したこと以外にもありうると思いますので、お気楽にどうぞ。
 出席される方は、掲示板への投稿か私(ohta@ohtan.net)宛メールでお知らせ下さい。)

1 始めに

 ポーランド生まれのプリンストン大学歴史学教授のグロス(Jan T. Gross)が、2001年に上梓した “Neighbors”・・先の大戦中のポーランド人によるユダヤ人迫害・虐殺を描いた・・に引き続き、先般“Fear: Anti-Semitism in Poland After Auschwitz.”を上梓し、先の大戦直後(1945??46年)のポーランド各地での生存・帰還ユダヤ人に対する迫害・虐殺を描き、ワシントンポストやニューヨークタイムスの書評欄が取り上げています。
 時あたかも、ポーランドでは、2004年にこの国がEUに加盟したばかりだというのに、EUの掲げる自由主義と世俗主義に疑義を呈する政党・・法と正義の党(Law and Justice Party)・・が昨年政権をとり、今月、この党の最高実力者であるヤロスラフ・カチンスキー(Jaroslaw  Kaczynski。1949年??)が、既に同党から大統領になっていた一卵性双生児たる弟のレック・カチンスキー(Lech Kaczynski)の下で首相に就任し、回りの国々は、一体ポーランドの今後がどうなることかと心配しています(http://www.latimes.com/news/printedition/asection/la-fg-twins12mar12,1,6369975.story?coll=la-news-a_section
。7月23日アクセス)。
 幸か不幸か、ポーランドもまた、反自由主義的・反ユダヤ主義的伝統を有する欧州文明に属す国であり、容易なことではかかる文明的病(やまい)を克服することができない、ということだと思います。
 今回は、まだほとんど知られていない、ポーランド人による先の大戦直後のユダヤ人迫害・虐殺について、同様にほとんど知られていないポーランド人による先の大戦中のユダヤ人迫害・虐殺にも言及しつつ、ご紹介しましょう。

2 ユダヤ人虐殺事件

 先の大戦中に、ポーランド在住のユダヤ人は9割方、約300万人がナチスドイツによって死に至らしめられ、生存して戦後を迎えることができたのはわずか20万人に過ぎませんでした。その時点でのポーランドの人口は2,000万人でしたから、ユダヤ人人口の割合は1%にまで下がってしまっていました。
 ポーランド人もユダヤ人も、ともにナチスドイツによって大きな被害を受け、とりわけユダヤ人はひどい目に遭ったのですから、ポーランド人はユダヤ人に同情し、暖かく接しても不思議はありませんでした。
 ところが、実際に起こったことはそれとは正反対でした。
 そもそも、ポーランド人は、ドイツに侵略された時にはドイツに対し激高しましたが、ドイツによるユダヤ人虐殺にはひそかに喝采を送っていたのです。
 ロンドンのポーランド亡命政府もそうだったという傍証がありますし、占領下のポーランドでは、ドイツによるユダヤ人狩りに積極的に手を貸すポーランド人が続出しました。
 また、ユダヤ人達がドイツ兵によってゲットーから駆り立てられるや否や、彼らが収容所行きの列車に乗せられる前に、ゲットーは待ち構えていたポーランド人群衆によって掠奪の対象になるのが通例でした。
 それどころか、ポーランド人自身が進んでユダヤ人虐殺を行ったのです。例えば、1941年7月4日には、Jebwabneという町でユダヤ人約1,600名が殺害されています。
 ドイツが降伏した直後には、ポーランド小作人党は、党大会において全会一致で、ヒットラーがユダヤ人を虐殺したことに謝意を表するとともに、生き残ったユダヤ人を追放することを決議しました。
 ですから、戦後ポーランドに帰還したユダヤ人には悲惨な運命が待ち構えていました。
 早くも帰還列車の中で、ポーランド人達によって列車の外に投げ出されて殺されたり、列車の中で殴り殺されたりするユダヤ人が続出しました。
 やっとゲットーに帰り着いたユダヤ人も、あらゆる場所で、単独で、あるいは集団で殺戮されたのです。例えば、Kielceという町では、警官・兵士・労働者・ボーイスカウトらが入れ替わり立ち替わりやってきて、鉄パイプや石や棍棒で、建物の中に閉じこめたユダヤ人の男女80名を殺害しました。
 やむなく多くのユダヤ人は、再び国外に脱出しました。その行き先の大部分は、皮肉にもドイツでした。
 ところが、ポーランドのカトリック教会もポーランド共産党も見て見ぬふりを続けました。
 ポーランド人による、戦時中のユダヤ人迫害・殺戮はともかくとして、戦後のユダヤ人迫害・殺戮がどうして起こったのかを説明することは困難ですが、グロスは、戦時中の殺戮や掠奪の痕跡を拭い去るためにポーランド人は、戦後にも引き続きユダヤ人を殺戮したとしか思えない、と記しています。
(以上、
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2006/06/23/AR2006062301304_pf.html
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2006/06/22/AR2006062201085_pf.html
(どちらも6月26日アクセス)、及び
http://www.nytimes.com/2006/07/23/books/review/23margolick.html?_r=1&oref=slogin&pagewanted=print
(7月23日アクセス)による。)

太田述正コラム#9942005.12.10

<徒然なるままに(その3)>

「第2回 まぐまぐBooksアワード」の投票が、21日まで行われています。

http://books.mag2.com/dynamic/m/0000101909/index.htmlをクリックしてぜひ、本コラムへの人気投票をお願いします。なお、24時間置きに投票できますので、投票締め切りまで、繰り返し投票していただければ幸いです。現在19位です。)

 10月末に、「イスラエルは地図から抹殺されなければならない」と言ってパレスティナ当局からさえ批判されたアフマ(コラム#924は、今度は、サウディのメッカで開催された国際イスラム会議の席上、次のように演説しました。

 「いくつかの欧州諸国は、ヒトラーは数百万人の無辜のユダヤ人をガス室(furnaces)で殺したと主張し、誰かがこれに反することを証明すると、これら諸国はその人を非難し、牢獄にぶちこむ。われわれはこんな主張は認めない(注3が、仮にそれが正しいとして、われわれが欧州の人々に尋ねたいことは、「ヒトラーが無辜の人々を殺したことが、彼らが<シオニストによる>エルサレムの占領を支持する理由なのか」だ。欧州の人々が誠実なのであれば、彼らはドイツかオーストリア、あるいは他の国々の一部をシオニストに与えるべきだ。そうすれば、シオニストは彼らの国家を欧州の中に設けることができよう。このように、欧州の一部を提供するのであれば、われわれはそれを支持するだろう。」と。

 この演説に対し、イスラエル・ドイツ・米国の各政府は、ただちに非難声明を出しました。

(以上、http://www.guardian.co.uk/israel/Story/0,2763,1663441,00.html、及びhttp://www.cnn.com/2005/WORLD/meast/12/08/iran.israel.reut/index.html(どちらも12月9日アクセス)による。)

 (注3)イランのシーア派の強硬派は、ナチスドイツによるユダヤ人の大量虐殺があったことは否定していないが、イスラエルの創設と維持を欧米諸国が支持する根拠にすべく、イスラエルと欧米諸国は殺されたユダヤ人の数を大幅に誇張している、と考えている(コラム#972参照)。

 イスラム教を批判すると、批判した者を殺せというお達し(ファトワ=fatwa)を最高指導者が出すような国(注4)であるイランの大統領の口からイスラエル抹殺論やホロコースト否定論が語られることは、不愉快千万であり、慄然たる思いがします。しかもそのイランは、核武装を目指していることがほぼ間違いないとされているときているのですから・・。

 (注4)今年2月、イランの革命防衛隊は、小説"The Satanic Verses"がイスラム教を冒涜しているとして、その著者である英国居住のサルマン・ラシュディ(Salman Rushdie)に対し、16年前の1989年にホメイニ師(Ayatollah Ruhollah Khomeini1900?89年)が発出した死刑宣告ファトワは、依然有効であると宣言したhttp://news.bbc.co.uk/2/hi/middle_east/4260599.stm1210日アクセス)

3 日和見学生について

 東大1年の時には、統一教会信者や創価学会信者と議論し、東大2年の時には東大「闘争」の過程で、全共闘の面々・民青の面々、そして東大「闘争」参加一般学生達との議論を行いましたが、これらの青年達の心情は、私なりに理解できたような気がします。

 クラス内外で、私と協力しつつ「闘争」を終結させようとした面々の心情は、当然よく理解できました。

 どうしても理解できなかったのは、日和見学生達の心情です。

 ストに突入して講義がなくなると、彼らはキャンパスに現れなくなり、遊びほうけたり、文1の学生の場合、自分で法律の勉強を始めて司法試験や国家公務員試験に備えたりしていました。東大「闘争」という、まことに面白い大事件が目の前で出来しているというのに、これに関心を持たない、というのがまず私には理解できませんでした。しかも彼らは、「闘争」終結にも積極的に動こうとしません。早晩、どうせ他の誰かが、そして国家権力が「闘争」を終わらせてくれるだろう、だから自分は無駄な動きはしない、というわけです。確かに要領はいいけれど、これほど現実社会へのアンガージュマン(engagement)を回避してばかりいる彼らが、一体何が楽しくて生きているのかが、これまた私には理解できませんでした。

 しかも、どちらかと言えば、日和見学生は、成績の良い学生に多かったように思います。

 これでは日本の将来はどうなるのか、と暗澹たる気分になったことを覚えています。

(続く)

太田述正コラム#9932005.12.10

<徒然なるままに(その2)>

「第2回 まぐまぐBooksアワード」の投票が、21日まで行われています。

http://books.mag2.com/dynamic/m/0000101909/index.htmlをクリックしてぜひ、本コラムへの人気投票をお願いします。なお、24時間置きに投票できますので、投票締め切りまで、繰り返し投票していただければ幸いです。現在18位です。)

 アングロサクソン世界では、公序良俗に反しない限り、そして名誉毀損や侮辱にあたらない限り、思想・言論・表現・集会・政治活動の自由が完全に保証されています。

 ですから、ホロコースト否定論を唱えることも、この否定論を批判することも完全に

自由であり、このような議論それ自体を裁判に持ち込むことはできません。

 ところが、アーヴィングは、(自分自身は自分がホロコースト否定論者であることは百も承知しながら、)自分はホロコースト否定論者ではないにもかかわらず、否定論者だと書かれたとして、名誉毀損訴訟をあえて提起し、ホロコースト否定論批判を裁判で封殺しようという、学者としてあるまじきことを試みたのです。

 結果は、アーヴィングは、少なくともホロコーストに関しては、史料のねじまげ、偽造を行う者、すなわち学者の名に値しない者、であって、しかも、彼が反ユダヤ主義者、人種主義者にしてネオナチたるホロコースト否定論者であると裁判で認定されてしまったのでした。自業自得というやつです。

 このように見てくると、このアーヴィングを、15年以上も前にホロコースト否定論を講演で話したことを問題にして逮捕し、起訴しようとしているオーストリアという国(コラム#969)の異常性が浮き彫りになってきます。

 いや、オーストリア同様、ホロコースト否定論を唱えることを法律で禁じている欧州諸国(=ホロコースト否定論を法律で禁じることを憲法が許容している欧州諸国)であるベルギー・チェコ・スロバキア・フランス・ドイツ・リトアニア・ポーランド・ルーマニアはみんな異常な国のです(コラム#972)。(イスラエルも同様の法律を持つが、イスラエルの場合は、その国民がホロコーストの被害者であるので、事情が異なる。)

 この中でドイツは、憲法(基本法)で自由・民主主義体制を危うくする政党や結社を禁止していることでも知られています(http://www.asaho.com/jpn/bkno/2004/1220.html1210日アクセス)。

 ここからも、私の持論である、ドーバー海峡を境にして、二つの異質な文明が対峙していることが分かります。自由主義/個人主義のアングロサクソン文明と全体主義の欧州文明です。アングロサクソン文明は民主主義を導入しても問題は生じていないけれど、欧州文明にとって自由主義/個人主義はアングロサクソン(英国)から借り物であるため、欧州文明が民主主義を導入すると、それは多数による少数の圧殺、すなわち民主主義的全体主義(民主主義独裁)へと堕落しがちなのです。だからこそ、欧州諸国の多くにおいては、過去において欧州の全体主義がもたらした最大の罪悪たるホロコーストを否定するような言説は処罰されなければならないし、その全体主義によって欧州等に世界史上最大の惨禍をもたらしたドイツのように、全体主義政党・結社を禁じなければならないのです(注1)(注2)。

 (注1)エジプトは、宗教・民族・性に基盤を置いた政党を憲法で禁じている(http://www.guardian.co.uk/Columnists/Column/0,5673,1663436,00.html12月9日アクセス)が、(民族とか性とかは付けたりであり、)これはエジプトにイスラム過激主義的風潮(=反自由主義的風潮)が強いことを意味している。

 (注2)このように、多くの欧州諸国の憲法は、人権の一部を制限したり、制限をすることを許容しているわけだが、それに対し、日本の場合は、憲法に人権制限規定はないし人権制限を許容するような憲法解釈論は存在しない代わり、憲法に国権の一部(自衛権)を制限する規定(第9条)がある。日本の憲法の国権制限規定は、「押しつけ」られたものであり、憲法を改正するなり解釈改憲をすることで、この制限規定を廃止すればよいだけのことだ。他方、上記欧州諸国では、制限や制限許容の取りやめることなど、到底考えられない。

 こんなことを考えていたところへ、何度も顰蹙を買っているアフマディネジャド(アフマ)・イラン大統領が、今度はホロコースト否定論者として、登場したのです。

(続く)

太田述正コラム#9792005.12.1

<差別・ホロコースト問題をめぐる残された論点>

1 初めに

 差別・ホロコースト問題をめぐって、一部の読者によるエキサイトした投稿がまだ続いています。

 おかげさまで先週の週間ブログ・アクセス数は957名、と新記録を達成し、昨日は約23時間半にわたってブログへの新コラムのアップロードを行わなかった(行い得なかった)にもかかわらず、アクセス数は100名を超えています。

 しかし、最近アクセスが多いのは、差別・ホロコースト問題を取り扱ったコラムではなく、フィリピンについてのコラムであること等から判断するに、読者の大部分は新しい話題を求めているように思われます。

 しかし、余りにHPの掲示板への差別・ホロコースト問題に係る読者の投稿が多いため、その対応に時間をとられ、コラム執筆の時間がとれなくなってきています。

 しかも、その読者の投稿の大部分は、典拠をつけない印象論を一方的に展開していること、論点の集約を図る努力を怠っていること等のため、対応させていただいている私の投下時間に見合った成果が生まれていません。(そうではない、きちんと成果を生み出した最近の模範例として、コラム#925とコラム#971をめぐる、(両コラムとも同じ)読者と私との掲示板上のやりとりをご参照下さい。)

 そこで、この際、私が考えるところの残された三つの主要論点を提示させていただき、その主要論点に係るコラムのうち少なくとも一篇を、上記読者(複数)が執筆され、私宛送付されるまでの間、差別・ホロコースト問題の議論を凍結したいと思います。

2 差別問題について

 差別問題についての残された論点は、「英国の少数民族差別はフランスと比較してどうなのか」です。

 これをブレークダウンすると、「英国のアングロサクソンの少数民族差別意識はフランスよりひどいのか」、「これまでの英国における少数民族暴動がフランスより頻度も規模も小さかったのはなぜか」、「今後とも少数民族を低熟練・高リスクの職等に受け入れて行くことが英国人の多数意見であるのはなぜか」の三つくらいになります。

 ぜひこの論点について、差別問題の議論を続けてこられた読者に、(例外的に匿名でもいいので(以下同じ))コラムを書いていただきたい。ただし、典拠を踏まえるべきことは当然です。(ただし、ご自分の体験を典拠としたい場合は、本名と肩書きをつけてコラムを書いていただく必要があります。)(やはり以下同じ。)

 蛇足かもしれませんが、私自身、英国に他民族差別がないなどと主張しているわけではないことは、コラム#968の末尾で「英国の植民地統治も日本の植民地統治には及ばず、餓死や虐殺を伴うものであったこと、しかも、計算の仕方によっては1000年にわたって統治したアイルランドを英国はついに統合することに失敗したこと、かつまた故会田雄次をして、著書「アーロン収容所」で英国人の黄色人種差別を糾弾させたこと、はどうしてなのでしょうか。」と記したこと、また、コラム#356で「ビクトリア時代のイギリス人はおしなべて、「イギリス人は働き者で信頼が置けるがアイルランド人は怠け者で裏切り者、そしてイギリス人は大人で男性的だがアイルランド人は子供っぽくて女性的」である、と考えており、「女性的で子供っぽいのだから、アイルランド人は自治などできない」と結論づけていた」と記したこと等から、よくお分かりのはずです。

3 ホロコースト問題について

 (1)ユダヤ人収容目的

 私がコラム#977で申し上げたことの趣旨は、「1942年以降のナチスドイツによるユダヤ人収容目的について、ホロコースト否定論者が、(労働に耐え得ない者を除き)強制労働力として用いることだった、と主張をしている、などという話は、私が参照した二つのホロコースト否定論論駁サイトには出てこない」ということです。

 それに対し依然、1942年以降のユダヤ人収容目的が強制労働力として用いることだったと主張されている読者がおられます。

 そこで、このカギ括弧内の命題の誤りを証明するコラムを書いていただきたい。

 なお、私の参照した二つのホロコースト否定論論駁サイトは、論駁サイト中の例外的存在であることを証明することで、私の論拠を弱めることは可能です。上記コラム内でぜひやってごらんになったらいかがか。

 以下は付け足しです。

 1942年まではユダヤ人収容目的が強制労働力として用いることであったことは私自身が指摘していることですし、1942年以降もアウシュビッツではユダヤ人が強制労働に従事させられたことも私は否定していません。ただし、後者は、殺戮計画を円滑に実施するためであり、強制労働力として用いることが目的ではなかった、と指摘したところです。

 (2)ユダヤ人殺戮数

 固いところで、510万人から590万人のユダヤ人がナチスドイツによって虐殺された、という数字は大きすぎる、と主張されている読者がおられますが、そのご主張には典拠が全く示されていません。

 このご主張について、コラム執筆を求めることは、ご本人がフランス在住であるとおっしゃっていることから、しのびないものがあります。ぜひ、反ホロコースト否定法のない国または地域に在住のご友人にコラム執筆を依頼してください。(ただし、援用される典拠一つ一つについて、いかなる理由で信頼性のあるものと受けとめられたかについての説明が、このコラムについては必要です。)

 さもないと、上記ご主張が、私や他の読者からの批判に晒されることなく、私のHPの掲示板上に残り続けることになってしまい、ご主張をうのみにする読者が出てくることが懸念されるからです。

太田述正コラム#9772005.11.30

<ホロコーストはあったのか?(続x3)>

1 初めに

 なかなか、ホロコースト論議が終息に向かわないのには困ったものです。

 論議の中身より、その周辺的な話の方が気になっています。

 ここでは、二点だけ取り上げます。

2 議論の仕方

 議論の鉄則は、典拠を挙げて行うことです。

 しかし、その典拠をでっちあげて議論をふっかけてくる人があれば、どうしますか。

 そんな議論を受けて立つ必要はない、というよりそんな議論を受けて立ってはいけないのです。

 ホロコースト否定論は、まさにこのような類の議論なのです。

 だから、私に対し、ホロコースト否定論に対しどうして具体的な反論をしないのか、とおっしゃる人に対しては、呆れ、怒らざるを得ないのです。

 なお、ホロコースト否定論にシンパシーを示すことは、いくら匿名だとは言え、ホロコースト否定論を(インターネット上で)流布させたとみなされる懼れがなきにしもあらずであり、フランス等、かかる行為を処罰する国々に入国した時に逮捕されない保証はありません。

 これはちと大げさだとしても、余り軽いノリでこの種の議論はしない方が身のためですよ。

3 第二次資料の読み方

 ある読者が、私が「ユダヤ人を主体とする強制収容所が強制労働を目的とするものであったとする指摘は、ホロコースト否定論者によっても全くなされていない。」という主張をコラム#976で行い、その論拠の一つとして、ホロコースト否定論を論駁しているhttp://www.nizkor.org/qar-complete.cgiというサイトでも、そんな指摘は取り上げられていない旨記したところ、取り上げられている、という反論を寄せられました。

 同サイトの関係ありそうな箇所は、下掲のとおりです。

6. If Auschwitz wasn't a "death camp," what was its true purpose?

The IHR says (original): It was a large-scale manufacturing complex. Synthetic rubber (Buna) was made there, and its inmates were used as a workforce. The Buna process was used in the U.S. during WWII.  

The IHR says (revised): It was an internment center and part of a large-scale manufacturing complex. Synthetic fuel was produced there, and its inmates were used as a workforce.

Nizkor replies: True to some extent. Auschwitz was a huge complex; it had ordinary POW camps (in which British airmen were also held, and they testified of atrocities in the nearby extermination camp). Auschwitz II, or Birkenau, was the largest camp, and the gas chambers were there. Auschwitz III, or Monowitz, was the industrial manufacturing plant. Many prisoners were indeed used for forced labor in Auschwitz. But the "unfit" -- meaning the elderly, the children, and most of the women -- were immediately sent to the gas chambers.

(太田訳)

第6問 アウシュヴィッツ「死の収容所」ではないとして、一体それは何だったのだろうか。

IHRの以前の答え:大規模な製造施設だった。合成ゴムがここでつくられ、収容者は労働者として使われた。同様の合成ゴム工場は先の大戦中に米国にもあった。

IHRの現在の答え:大規模な製造施設の名称であると同時にその一隅にあった収容センターの名称。合成燃料がここでつくられ、収容者は労働者として使われた。

Nizkorによる論駁:部分的には正しい。アウシュヴィッツは巨大な施設だった。通常の捕虜収容所(そこに捕らわれていた英空軍兵士達は、近くの絶滅収容所での残虐行為の証人となった)もあった。アウシュヴィッツ?Uまたの名はビルケナウ(Birkenau)は最大の収容所であり、ガス室(複数)がそこにはあった。アウシュヴィッツ?Vまたの名はモノヴィッツ(Monowitz)は産業製造工場だった。沢山の囚人達がアウシュヴィッツで強制労働に使われた。しかし、「不適者」、すなわち老人と子供と大部分の女性は、直ちにガス室に送られた。

 これは、IHRInstitute for Historical Review)というホロコースト否定団体によるQA形式のパンフレットの、各Aに対し、Nizkor名で反駁を加えたもののうちの一部です。

 さて、ユダヤ人絶滅計画が実施に移された1942年以降、ユダヤ人が収容されていた収容所は、ポーランド内だけでも6箇所もあり、このほか、ソ連領内にも同様の収容所があるにもかかわらず、IHRが(ユダヤ人が収容されていた収容所としては一番大きいとはいえ、)アウシュヴィッツしか工場を併設していた収容所を挙げていない、というのが留意すべき第一点です。

 しかも、「収容者は労働者として使われた」と言っているだけで、「ユダヤ人収容者は(あるいは、ユダヤ人収容者も)労働者として使われた」とは言っていない、というのが留意すべき第二点です。

 つまり、IHRは、アウシュヴィッツだけではユダヤ人も強制労働に使われていたと言いたいわけではなく、要は、アウシュヴィッツは工場施設であって、労働力として(通常の労働者のほか)収容者も使われていたけれど、ユダヤ人絶滅施設ではなかった、ということが言いたいのでしょう。

 ですから、ホロコースト否定論者が、収容されたユダヤ人は、(労働に耐え得ない者を除き、)全員強制労働に使われていた、ということを主張していた、ということには、冒頭の典拠からはなりません。

 後は蛇足です。

 ナチスは、時間をかけて次第にユダヤ人迫害のレベルを上げて行ったのであって、(地域によって時期的にはズレがあるが)やがてユダヤ人全員が収容所に入れられ、強制労働に使われるに至り、その後、1942年からは絶滅目的でユダヤ人虐殺が開始され、逃げたり隠れたりして収容所行きを逃れた者以外の欧州及び占領下のソ連のユダヤ人は、終戦までにほぼ絶滅されます。

(以上、http://72.14.203.104/search?q=cache:6PUhBLKjwaEJ:www.virtualmuseum.ca/Exhibitions/orphans/english/themes/pdf/glossary.pdf+Jew%3Bforced+labour%3BNazis&hl=jahttp://www.holocaust-education.dk/tidslinjer.aspも参照した。)

 虐殺の過程で、老人・子供・大部分の女性、を先に殺し、大人の男性は強制労働に従事させることがあったのは、毎日キャパシティ一杯の人数の虐殺を整斉と実施していくに際して、「在庫」たる大人の男性に生存への希望を抱かせ、蜂起の芽を摘まんがためであり、強制労働させることが目的ではありませんでした。

太田述正コラム#9762005.11.29

ホロコーストはあったのか?(続々)

 私が、ホロコースト否定論は与太話である、と指摘したことに対し、お二人の読者の方々から、

><ホロコースト否定論は>資料が恣意的に用いられている感は否めませんね。しかし、なるほど論法自体は一応論理的だと思います。(同意はしませんが)・・これに反論するならば、こちらもそれに相当する資料を示す必要があります。「英米、就中英国の高級紙の記事・論説や、英米、就中英国の一流大学の学者の言」では連合国側に有利なものばかりで、著しく公平性に欠けるでしょう。

>具体的な内容の検証(××の部分が××という理由で間違っている)が全くないくせに『ヨタ話』と決め付ける<くせに、>『?とは考えられません。』『?があるはずです。』<と>・・ヨタ話と決め付けている根拠が憶測だけである。この論法はどこかで見たことがあります。そうです。『アメリカは宇宙人の死体を隠している』とか『聖書には未来を予言した暗号が隠されている』というエセ科学です。・・コラムに書かれている論法はまぎれもなくエセ科学のそれです。

という批判が寄せられています。

 前者の読者は、継続的に私のコラムをお読みになっておられるようですが、後者の読者は、たまたま私のホロコースト・シリーズだけをお読みになったのかもしれません。

 いずれにせよ、私の方法論はいかなるコラムを書く時も一貫しているのであって、その方法論が「著しく公平性に欠ける」とか「エセ科学」的であると本当に思っておられるのだとすれば、そもそも私のコラムをお読みになるのは時間のムダ、ということになります。ぜひもっと有効な時間の過ごし方をされるよう、老婆心ながらお勧めしておきます。

 しかし、ひょっとしたら、他の読者の中にも同じように思っておられる方が少なくないのかも知れません。これらの方々の「著しく公平性に欠ける」「エセ科学」的なものの考え方に猛省を促すため、本来不必要なこのコラムを書くことにしました。

2 ホロコースト否定論与太話論の補足

 私は、英国の裁判官が判決の中で、「<アーヴィングが>ホロコーストに関しては、一貫して意図的に第一次資料をねじまげ<た>」とした(コラム#970)のは、ケンブリッジ大学のエヴァンス教授の証言、「アーヴィングのすべての本や講演や論考の中のたった一つの段落、たった一つの文章でさえ、それが扱っている歴史的事案の正確な描写であると信じられるものはない。」(コラム#970)を、アーヴィングのホロコーストに関する本・講演・論考に限定して、採択したもの(注1)であり、「ねじまげ」は、第一次資料の意図的誤読(misrepresent)と改竄(fabricate)からなる、と解しています。

 (注1)エヴァンスの証言が、アーヴィングのホロコースト否定論に関して、誤りであることを証明できれば、権威あるケンブリッジの歴史学教授の席が一つ空くことにつながる可能性が高いことから、この証言はこの席を虎視眈々とねらっている世界の大勢の歴史学者の厳しいpeer review の対象になっているはずだが、裁判が終わった2000年以降今まで、一切、誤りを指摘する声は挙げられていない。だから、エヴァンスのこの証言は正しいと考えざるをえない。

 

他方、アーヴィングは、並み居るホロコースト否定論者の中では、最も学問的業績がある「まとも」な人物です(コラム#969970)。

 いわんや、アーヴィング以外の、より「まとも」でないホロコースト否定論者なら当然、その立論を第一次資料の「ねじまげ」によって展開しているに違いない、と判断した次第です。

 実際そうなのであって、そのことは、詳細にホロコースト否定論を論駁するサイト http://www.nizkor.org/qar-complete.cgiを読むまでもなく、簡易なサイトhttp://www.jewishvirtuallibrary.org/jsource/Holocaust/denial.htmlを読むだけでも明らかです。

 そんなホロコースト否定論及び否定論への論駁論の中身に立ち入ってこれを紹介すること自体、時間の無駄だと考え、差し控えたわけです。

 しかし、読者の方々が、それこそ何の根拠もなしに無茶苦茶なことを言っておられるので、この際、少しだけ中身に結論的に触れておきます。

 ナチスによる欧州におけるユダヤ人の絶滅計画はあった。

 東方戦線以外ではユダヤ人は、もっぱらガスによって殺害され、焼却されたのに対し、東方戦線ではユダヤ人は、もっぱら集団で銃殺され、埋められた。

 ユダヤ人殺害数は、前者は300万人から400万人と推定され、前者・後者合わせて、510万人から590万人が固いところ、とされている。(ニュルンベルグ裁判の時点では、約570万人と推定されていた。)

 ユダヤ人を主体とする強制収容所が強制労働を目的とするものであったとする指摘は、ホロコースト否定論者によっても全くなされていない。

 (以上、上記二サイトによる。)

3 私の方法論の補足

 私は記者でもないし、既に(コラム#669で)申し上げたように歴史家でもありません。

 すなわち、主としてインターネット・サイトに掲載された第二次資料に典拠して立論を展開してきました。

 そのことに、疑義を呈されても、どうしようもありません。私には、ニュースの現場をかけずり回ったり、あるいは第一次資料に直接当たって(その資料の信頼性や偽造の有無を判断する)資料批判を行ったりしているカネとヒマはないからです。

 いずれにせよ、私が立論を展開する際に鍵となるのは、典拠とするサイトの信頼性であり、その信頼性を判定する私の能力です(注2)。

 (注2)悩ましいことに、信頼性の比較的高いサイト同士でも、記述された事実が食い違っていることがある。そういう場合、どちらに書いてある事実を採択するかについても、私の能力が問われることになる。

 

この私の能力について、皆さんに改めてご判断を願うためにも、(コラム#974で)プーチン訪日への日本と英米のメディアの評価を比べ、どうして後者の方が信頼性が高いと判断したかを記した次第です。

 それにしても、皆さんの議論を見ていて、日本でも欧米のようにディベート教育を行う必要を痛感しています。

太田述正コラム#9722005.11.27

<ホロコーストはあったのか?(続)>

1 初めに

 ある読者から、「ドイツやオーストリアではホロコースト否定を罰する法律があるのですね。異論を法律で禁止しようとする体質がナチスの台頭を許す素地になったのではないでしょうか。」という問題提起がありました。

 この問題提起を、「ホロコースト否定論を法律で禁止する必要のある社会、あるいはホロコースト否定論が盛んな社会は、ファシズムの台頭を許す素地があるのではないでしょうか」と読み替えれば、お答えは、そのとおりです、ということになろうかと思います。

 その理由をお話ししましょう。

2 ホロコースト否定論を禁止している社会

 ホロコーストが起こったことを公の場で否定すると法律で処罰される国は、オーストリア・ベルギー・チェコ・スロバキア・フランス・ドイツ・リトアニア・ポーランド・ルーマニア、それにイスラエルです。

 1998年にアーヴィングによって提起された名誉毀損裁判で、被告側の弁護人を務めたリブソン(James Libson)・・当然、ホロコースト否定論に批判的・・でさえ、「その歴史に鑑みれば、英国がホロコースト否定論を禁止する法律を導入するなどということはばかげている(注1)。他方、極右やネオナチ政党がこれ見よがしに活動しているドイツやオーストリアのような国(注2)では事情が異なる。しかし、法律があっても、<これら諸国では>ホロコースト否定論の流布は後を絶たない。」と述べています。

 (以上、http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/4449212.stm1127日アクセス、以下同じ)による。)

 (注1)まだ野にあって労働党を率いていたブレアは、1997年の総選挙の時、ホロコースト否定論を禁止する法律の制定に前向きの姿勢を示したことがある。しかし、総選挙に勝利して政権を保守党から奪取した後、ブレア政権は、法律を制定しないことにした。(http://www.telegraph.co.uk/htmlContent.jhtml?html=/archive/2000/01/21/nazi21.html

その後、EUで、「公の場で1945年に設置された国際軍事法廷で取り扱われた犯罪を公の場で否定したり矮小化する言動」を加盟国共通の犯罪に指定しようとする動きが出た時にもブレア政権はこれに反対している(http://www.rense.com/general21/shi.htm

 (注2)オーストリアでは、つい数年前に極右のハイダー(Haider)を党首とする自由党(Freedom Party)が連立与党の一角を占めて問題になったことを思い出して欲しい(http://www.nytimes.com/2005/11/26/international/europe/26irving.html?pagewanted=print)。

 

戦後に建国されたイスラエルを除き、これらは、いずれも反ユダヤ主義の伝統のある諸国であること、かつ、いずれも戦前から先の大戦にかけてファシスト政権が樹立されたか、ファシズムの強い影響を受けた諸国であること・・より中立的な表現を用いれば、ナチスドイツによって大きな被害を受けた諸国であること・・は暗示的です。(この中にファシズムの本家、イタリアの姿が見えないことは不思議です。)

 そもそも、憲法を持たないイスラエルを除き(注3)、これら諸国は、すべて憲法を持ち、そのいずれの憲法にも表現の自由の規定があるにもかかわらず、ホロコースト否定論を禁止するという、表現の自由と抵触する法律をつくらざるをえないところに、これら諸国の苦衷がしのばれます(注4)。

 (以上、http://webjcli.ncl.ac.uk/1997/issue4/butler4.htmlを参考にした。)

 (注3)よくご存じのように、英国も憲法を持たない。だから、英国でホロコースト否定論を禁止する法律を制定したとしても憲法上の問題は生じない。なお、建国に至る歴史が歴史だけに、イスラエル国民にとってホロコースト否定論は、国家反逆罪的な深刻な罪と受け止められている。

 (注4)カナダは、誤った事実を流布させることを罰する法律を制定したことがあるが、カナダ憲法の表現の自由規定に抵触するとして、1992年にカナダ最高裁の判決でこの法律は違憲無効とされた。

3 ホロコースト否定論が盛んな社会

 ホロコースト否定論が盛んなのは中東諸国です。

 シリア・イラン・パレスティナ当局は、政府がホロコースト否定論を公認しています。他の中東諸国でも、ホロコースト否定論は大流行です。

 何と、現在のパレスティナ当局のアッバス(Mahmoud Abbas (Abu Mazen)議長が21年前に書いた博士論文は、ナチスによって殺されたユダヤ人の数は100万人以下だったというものです。

 つまり、中東では、ホロコースト否定論はイスラエルを貶めるための根拠として広く信じられているのです。

(以上、http://www.nsm88.com/articles/holocaust%20denial%20law.html、及び

.http://en.wikipedia.org/wiki/Holocaust_denialによる。)

 中東には、まともな自由・民主主義国は、(イスラエルを除いて、)一カ国もないことは、ご存じのとおりです。

太田述正コラム#9702005.11.26

<ホロコーストはあったのか?(その2)>

5 アーヴィングの改心

 (1)ホロコースト否定論終焉へ

 ところが、どうやらアーヴィングは改心した模様なのです。

 そうだとすると、ホロコースト否定陣営は、回復しがたいダメージを蒙ったことになります。

 (2)敗訴まで

 1998年にアーヴィングは、英国の出版社が出した本の米国人女性研究者に対し、英国で名誉毀損の裁判を起こします。この本でアーヴィングが最も危険なホロコースト否定者と名指しされたことが事実に反する、というのです。

 これは、彼がホロコースト否定者であったことはない、という趣旨なのか、この本が出た時点では既にホロコースト否定者ではなくなっていた、という趣旨なのかは、(典拠では)定かではありません。

 被告側証人となった、ケンブリッジ大学現代史教授のエヴァンス(Richard Evans)は、2年間にわたってアーヴィングの著作と第一次資料とをつきあわせた上で、以下のように証言します。

 「アーヴィングのすべての本や講演や論考の中のたった一つの段落、たった一つの文章でさえ、それが扱っている歴史的事案の正確な描写であると信じられるものはない。・・彼はおよそ歴史家の名に値しない。」と。

 しかし、このアーヴィングに対する酷評は、エヴァンス自身の歴史学者としての良心と資質に疑問を投げかけさせるものです。

 というのは、アーヴィングがこの裁判を起こす前の1996年に、長らくスタンフォード大学でドイツ史の教授を務めた米歴史学界の重鎮であるクレイグ(Gordon Craig。現在は故人)が、The New York Review of Booksに掲載されたアーヴィングの(ゲッペルスに関する)本に対する書評の中で、アーヴィングのホロコースト否定論は歯切れが悪いし、それが誤りであることはすぐ分かるので、大部分の人は彼をうさんくさく思うだろうが、アーヴィングのこの本は、先の大戦をドイツ側から見たものとしては、最良の研究であり、われわれは彼を無視するわけにはいかない、と記している(注)からです(http://www.nybooks.com/articles/article-preview?article_id=14211125日アクセス)も参照した)。

 (注)この裁判が終わった後の2000年に、現存者としては世界一の軍事史家であるとされる英国のキーガン(Sir John Keegan)は、アーヴィングは創造的な歴史家としての多くの資質を備えており、彼の書誌家としての技術は比類がなく、彼の著作は人を飽きさせないが、そのホロコースト否定論に関しては、アーヴィング自身、本当だとは思ったことは一度もないのではないか、と指摘している(http://en.wikipedia.org/wiki/John_Keegan1126日アクセス)も参照した)。

 結局、判決は要旨次のようなものになりました。

 アーヴィングは秀でた知性を持ち、先の大戦の歴史について該博な知識を有しており、第一次資料を広く渉猟して徹底的に研究し、様々な新発見を行った。しかし、アーヴィングは自分のイデオロギー上の理由から、ホロコーストに関しては、一貫して意図的に第一次資料をねじまげ、例えばヒットラーのホロコーストへの関与がなかったものとした。アーヴィングはまぎれもないホロコースト否定論者だ。しかも彼は反ユダヤ主義者であり、人種主義者であり、ネオナチズムを掲げる極右勢力に加担している・・・。

 アーヴィングは控訴しますが、再び敗れ、敗訴が確定します。

その結果、アーヴィングには歴史家失格の烙印が押されただけでなく、彼は訴訟費用等で破産に追い込まれます。

(3)オーストリアにて

 逮捕されて以来、ウィーンで拘置され、保釈も却下されたアーヴィングは、弁護士に対し、要旨次のような意向を明らかにしています。

 陪審には有罪を認めた上で、自分は改心しているとして情状酌量を求めたい。自分は、1989年にオーストリアでホロコースト否定論を講演した後、解禁された旧ソ連時代の第一次資料を1990年代に研究した結果、それが誤っていることが分かった。ユダヤ人が収容所のガス室で大量に殺されたことは間違いなく、ホロコーストは確かにあったのだ。もはや議論の余地はない。

(以上、http://www.guardian.co.uk/secondworldwar/story/0,14058,1651305,00.html1126日アクセス)による。)

太田述正コラム#9692005.11.26

<ホロコーストはあったのか?(その1)>

1 初めに

 一人の読者から、あるサイト(http://maa999999.hp.infoseek.co.jp/ruri/sohiasenseinogyakutensaiban2_mokuji.html)を読んだ感想として、「強制収容所があったのは確かだけれど、・・ガスで殺された人の検死結果がないとの話もあり・・絶滅収容所などではなく「強制労働所」だったのではないように読めます。ユダヤ人のホロコースト話には中国共産党が南京大虐殺30万人と言っているのと同じようなうさん臭さを感じます。太田さんからすれば考慮にあたらない与太話なんですかね。」という問題提起がありました。

 はい、ヨタ話です。

2 私の方法論

 私は、歴史家ではありません。

 つまり、原則として第一次資料に直接あたることはしません。

 物事の真偽を見極める際には、第二次資料源の信頼性を判断した上で、それに拠る、ということです。

 いかなる第二次資料源を信頼するのか?

 英米、就中英国の高級紙の記事・論説や、英米、就中英国の一流大学の学者の言であれば、信頼性が高い、と考えています。

 その理由については、ここでは立ち入りません。

3 ホロコースト否定サイトの信頼性

 まず、上記サイトの信頼性は低いと言うべきでしょう。

 そのコミック調の体裁を問題にしているのではありません。

 まず、このサイトの執筆者が明らかにされていません。

 しかも、一見第一次資料に典拠して執筆されているように見えるけれど、典拠サイトや資料が膨大なだけでなく、その中には英語、ドイツ語、ロシア語のものが含まれており、到底このサイトの執筆者が自分でこれら原典にあたったとは考えられません。

 となれば、何か種本があるはずです。

 しかし、その種本の名前がどこにも出てきません。これはアンフェアです。

4 ホロコースト否定論者アーヴィング

 このサイトの執筆者は、どうやら、英国の「歴史家」アーヴィングDavid Irving1938年?)の説に拠っているようです。種本までは分かりませんが、彼のHitler's War’あたりではないでしょうか。

(以下、特に断っていない限り、http://en.wikipedia.org/wiki/David_Irving1125日アクセス)による。)

 アーヴィングは、今月11日、オーストリアに入国した時に逮捕されました。容疑は、1989年に彼がウィーン等で行った講演で、ホロコーストの存在を否定したというものです。ドイツでもそうなのですが、オーストリアでは、ホロコーストの存在を否定することを禁止する法律があるのです。

 彼の主張は、ヒットラーは「ホロコースト」については全く知らなかったし、そもそも、「ホロコースト」を裏付ける証拠は皆無だ、というものです。そして、ユダヤ人がナチスによって「殺された」ことは事実だが、その数とユダヤ人収容所でユダヤ人がガス室で殺されたということに疑義を呈しています。すなわち、ユダヤ人の死亡数は、世上言われている数よりはるかに少なかったし、収容所で死んだ理由は、もっぱらチフス等の病気による、というのです。

(以上、http://www.nytimes.com/aponline/international/AP-Austria-Irving-Arrested.html?pagewanted=print1118日アクセス)による。)

ホロコースト否定論者は少なくないのですが、その中で、アーヴィングは最も知られています。

というのは、今でこそ、歴史学者としては彼は生命を絶たれていますが、かつては学界でもそれなりの評価を受けたことがある人物だからです。

彼は、1963年に初めて出した本で、先の大戦における連合軍によるドレスデンの絨毯爆撃(コラム#423831879)を非難し、一躍有名になります。連合国側にも戦争犯罪があった、という彼の問題提起は、ドイツでもてはやされただけでなく、既にドレスデン等への絨毯爆撃が議論になりつつあった英国で、多くの人々の支持を得、この本はベストセラーになるのです。

しかし、この本の中で、彼はドレスデン爆撃による死者数を約135,000人と過大に見積もりすぎており、現在では約2万5,000人から約3万5,000人、というのが定説になっています。この時点では、彼が第一次資料を都合良くねじ曲げたのは、この数字くらいでしたが、その後、次第に彼は、連合国が犯した罪は大きく、ドイツが犯した罪は小さく、第一次資料をねじ曲げる度合いが多くなって行き、それに伴って彼の信用は急速に低下して行くのです。

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