カテゴリ: 人物評価

太田述正コラム#2236(2007.12.15)
<千葉英司氏からの手紙>

1 始めに

 千葉英司氏から昨日、下掲の手紙が届きました。
 「→」は、私がつけたコメントです。

2 千葉英司氏からの手紙

一、前日(12月12日)に貴殿の指定したFAX宛てに<領収書を>送信しましたが受信されませんでしたので郵送としました。

→コラム#2232(2007.12.13)で領収書がFAXで届いたと記したのに、千葉氏は読んでいないのですね。恐らく彼はインターネット世代ではないのでしょうね。(太田)

二、貴殿が引用した「東村山の闇」の「草の根」の著者らは、捏造話の「創価学会関与の冤罪及び殺人説」の正当性を強調するために、12年前に矢野の手で無辜の少年を朝木市議殺害に関連する傷害事件の犯人に仕立てて警察に突き出した上に民事訴訟までしたが、裁判所は警察が少年を立件しなかった主旨を容れ、事実上、少年は矢野による冤罪であったことの判決が確定している。
 しかし、「草の根」は確定判決を無視し、政治的保身を図る目的で、現在もこの当時少年を再び傷害事件の犯人であると主張し喧伝している(インターネット「東村山市民新聞」の「事件でも不審な動き!公明○○市議が死亡」の見出し記事)。
 また、政治的に対立する市議2名とその支援者を誹謗したことから、勇気ある地元市民から、「草の根」所属市議の議員罷免の請願が議会に提出され、一方、「草の根」はその請願が名誉毀損であるとして提訴した。
 そのほかにも、矢野が居住する団地の管理組合の運営に難癖をつけ管理費を納めなかった問題で組合から民事提訴されるという事態となり、何れも地裁八王子支部で係争中である。かかる、「草の根」の偉容な行動を、多くの地元市民は強い怒りを込めた批判活動を展開している事実を貴殿は知らないのでしょうか。

→すべて私の全く知らない話ですが、いずれにせよそんなことと、矢野氏らが執筆した『東村山の闇』(「少年」の話はこの本には出てこない)に書かれていることの真偽や、私がこの本を引用したコラム#195 (2003.11.26) <今次総選挙と日本の政治(補足1)>の名誉毀損性と一体何の関係があるというのでしょうか。(太田)

 仮にも、「草の根」の主張に賛同される著名人である貴殿の言動の影響力は大きく、その主張内容の真贋性は注目の的となり社会的責任も重くなるのは当然のことです。

→私は「草の根」なるものが何を指しているのかすら知りませんが、『東村山の闇』は一読して信頼に足りる著作であると考えたからこそ、上記コラムで引用したのです。
 それにしても千葉氏に私を「著名人」と評していただくとは面はゆいですねえ。
 私が「著名人」だとすると、上記コラムでは匿名で登場した千葉氏であったところ、私を訴えたことによって、彼もまた全国的な「著名人」なることができたのではないでしょうか。めでたしめでたし。(太田)

 最後に、貴殿には、原告千葉英司に対する虚偽事実を摘示しての名誉毀損記事を掲載しないようにするという「注意義務」が以前にも増して課されるのであり、「草の根」の主張を検証もせずに引用する記事を掲載した場合には、再び、名誉毀損の不法行為として法廷で糾弾たれる(ママ)ことが十分に予想されるところであることを付言しておきます。
→千葉v.太田の民事裁判における第一審も控訴審も、私が『東村山の闇』を引用した文章中、千葉氏を創価学会員と紹介した箇所を除き、虚偽事実があったと認定しているわけではありません。(千葉氏を創価学会員と紹介した点については、私自身が一回目の準備書面中で読み違い(勘違い)であった旨を積極的に認めている。太田述正コラム#1184(2006.4.15)参照。)
 それはさておき、「「草の根」の主張を検証もせずに引用する記事」とは、コラム#195を指しているのでしょうが、千葉氏が裁判の過程において、(私からの注意喚起を受けていながら)その削除を要求しないまま裁判が確定したことによって、一事不再理の法理に則り、彼は二度とこのコラムの削除を要求できなくなったのです。
 後悔先に立たずですよ、千葉さん。(太田)
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太田述正コラム#2237(2007.12.15)
<私の手がけた2度目の白書(詳述篇)(その1)>

→非公開

太田述正コラム#1660(2007.2.15)
<丸山真男小論(その2)>(2007.9.17公開)

3 私の丸山批判

 (1)丸山の存在の大きさ

 丸山真男は、私の東大法学部在籍当時、まだ法学部教授をしていましたが、病気がちであったために直接謦咳に接することは出来ませんでした。(私が卒業した1971年に丸山は退官しています。)
 しかし、丸山に強い影響を受けた政治学者としてウィキペディアが挙げている、京極純一(政治学:教養学部時代)、篠原一(政治学:法学部時代(以下同じ))、福田歓一(政治思想史*)、坂本義和(国際政治)、三谷太一郎(政治外交史*)各教授には、いずれも講義か売店で購入した講義録(*)でお世話になりました。
 丸山は、このように戦後の東大の政治学に大きな影響を与えただけではありません。亡くなった現在なお、日本の政治学界全体や言論界等における丸山の崇拝者、信奉者は数限りないのであって、彼は、まさに戦後日本を代表する知識人であると言えるでしょう。
 (以上、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B8%E5%B1%B1%E7%9C%9E%E7%94%B7
(2月1日アクセス)による。)
 しかし丸山の場合、吉田茂とは違って、戦後史に及ぼした功罪中に「罪」はあっても「功」はなかったと言えそうです。
 しかも、丸山の存在が大きかっただけに、彼の「罪」もまた大きい、ということになりそうです。

 (2)丸山批判
  ア 原理的反軍・反戦論者丸山
 慧眼な読者は、まずもって、丸山が、欧州の戦後の反再軍備論的世論を持ち上げ、それに従わない仏独両政府を批判する一方で、日本の戦前の排外主義的世論に眉を顰め、それに従った当時の日本政府を貶めていることに、論理的一貫性がないと思われたことでしょう。
 要するに、丸山は原理主義的な反軍・反戦論者なのであって、それだけで政治学者としては疑問符がつくところですが、その上丸山は、民主主義政体における世論と政府の関係について、政治学的な客観的かつ具体的な考察を加えることなく、戦後の仏独両政府は反軍・反戦論の世論に逆らったので批判し、戦前の日本政府は、軍国主義的世論に従ったので批判するという具合に、すべてを自分自身の主観的価値基準のみに照らして裁断を下す、という政治学者としてあるまじき人物なのです。
 (客観的かつ具体的な考察とは、先の戦争によって疲弊しきっていて再軍備に消極的な仏独世論、しかし、そうは言ってもソ連の脅威に対して備えなければならない仏独両政府、その仏独両政府が、再軍備に消極的な世論に藉口して米国にできるだけ防衛負担を押しつけ、自らの防衛負担の軽減を図ろうとしている、といった考察です。)

  イ 極東裁判での被告証言を読み誤っている丸山
 また丸山が、ニュルンベルグ裁判や極東裁判のような、裁判の形をとったところの、戦争の勝者の敗者に対する言葉による公開リンチの場において、ドイツ人や日本人はいかなる言動をとるものなのか、といった背景分析を抜きにして、ナチ最高幹部達と日本の指導者達の証言ぶりを取り上げて比較対照し、後者を貶めているのにも呆れてしまいます。
 さすがに、丸山もこのような批判を気にしてか、「問題は、私が抽出したような行動様式の特質が、もつぱら極東裁判の被告に立たされたために特殊な一回的現象として出て来たものかどうかという点にかかつている。私はむしろこの裁判の強烈なフラッシュを浴びて、平素はあまりに普遍化しているために注目を惹かない日常的な行動様式の政治的機能が浮彫のように照し出されたと解釈するのである。」(『現代政治の思想と行動』巻末の注 506頁)と弁明していますが、そうではなく、「日常的な行動様式・・・が浮彫のように照し出された」部分もあれば、そうでない部分もある、というのが正しいのではないでしょうか。
 そうでない部分の方からいけば、極東裁判の(A級戦犯たる)被告達は、例外が全くないとは言いませんが、彼らは、基本的に極東裁判の正当性を認めておらず、かつ天皇の責任を回避することに努めていたことから(典拠省略)、ウソを交えた歯切れの悪い証言に終始せざるをえなかったと思われるのであって、ナチの最高幹部達の証言の「明快さ」と比較して日本の指導者達の証言ぶりを貶すことはナンセンスであると言うべきでしょう。
 
  ウ 法の支配や民主主義の何たるかが分かっていない丸山
 逆に、「日常的な行動様式・・・が浮彫のように照し出された」部分こそ、日本の指導者達に共通していたところの民主主義と法の支配へのコミットメントです。
 私に言わせれば、「下克上」こそ民主主義の核心であり、「権限への逃避」こそ法の支配の核心なのです。
 まさに、「下克上」と「権限への逃避」があったからこそ、大正期に確立した日本の自由・民主主義は、日本の敗戦の1945年まで基本的に維持されえたのであり、「下克上」と「権限への逃避」がなかったドイツは自由・民主主義が根付いていなかったということであり、だからこそドイツはファシズムに屈し、ヒットラーによる独裁を許してしまったのです。
 (おかげで、日本は支那等において、どちらかと言えば下からの自然発生的な、数百、数千、ないしは1〜2万(?)の虐殺事件は引き起こしたが、ドイツにおけるような、上からの命令に基づく何十万何百万単位のホロコーストに相当するような虐殺事件は引き起こしませんでした(?!)。)
 結論的に申し上げれば、丸山が「日本的ファシズムは矮小」だったと言うのは、むしろ丸山の政治学者としての矮小さを示すものなのであって、当時の日本は、ファシズムとは全く無縁の民主主義的国家であった、ということです。
 日本の悲劇は、民主主義が確立したばかりの時に戦争をしかけられたところにあります。
 古典ギリシャ時代のアテネが、(奴隷制と並立していたものの)民主主義が確立したばかりの時に戦争をしかけられ、衆愚政治に陥り、無謀な戦線拡大をしたためにペロポネソス戦争に敗れ、スパルタの軍門に下った(コラム#908〜912)(注1)(注2)ように、日本も衆愚政治に陥り、無謀な戦線拡大をして先の大戦に敗れ、米国の軍門に下ったのです。

 (注1)ソクラテス(紀元前469?〜同399年)は、ペロポネソス戦争(紀元前431〜同404年)におけるアテネの敗戦直後に、大衆の偏見に基づき若者を惑わすとして「下克上」的に訴追され、「権限への逃避」をした裁判員らによって死刑宣告を受け、逃げることができたのに、慫慂と毒をあおいで死んだ(プラトン『パイドン』岩波文庫)。
 (注2)アングロサクソン文明が反民主主義的であること(コラム#91)を想起されたい。

 ですから、丸山による(戦争当時の)日本の指導者達のバッシングは著しくバランスを失している、と私は思います。
 衆愚政治下の古典ギリシャのアテネにおいて、ペリクレスら、古典ギリシャ史における最も有能でスケールの大きい指導者群を見出せるように、衆愚政治下の戦前の日本にだって、日本史全体に照らしても傑出して有能でスケールの大きい岸信介や石原莞爾らの指導者達(拙著『防衛庁再生宣言』日本評論社 233頁〜)がいた事実から、どうして丸山は目をそらすのでしょうか。

(続く)

太田述正コラム#1658(2007.2.13)
<丸山真男小論(その1)>(2007.9.17公開)

1 始めに

 「昭和日本のイデオロギー」シリーズを書くために、大学時代に読んだ丸山真男の本を読み返していて、吉田茂に引き続いて丸山についても、その日本の戦後史に対する功罪を記した私の寸評をご紹介すべきであると思うに至りました。
 手がかりにするのは、丸山の論文集『現代政治の思想と行動』(未来社1964年)に収録されている、「軍国支配者の精神形態」(1949年)と「「現実」主義の陥穽」(1952年)です。
 まず、丸山がいかなる主張をしているかをご紹介し、その上で私の批判を加えましょう。

2 丸山の主張

 (1)日本的ファシズムは矮小だった

  ア 始めに
 ナチ最高幹部は学歴がなく、権力を掌握するまではほとんど高い地位を占めていなかった。しかも、「異常者」が多かった。日本の戦争指導者は学歴が高く、出世した人ばかりで、「異常者」はほとんど皆無だった。(「軍国支配者の精神形態」94頁)
 にもかかわらず、日本の指導者達は、以下のように、ナチスの最高幹部達に比べて、非計画的であり、非論理的であり、責任回避的であった。すなわち、日本的ファシズムは、ドイツのファシズム(ナチズム)に比べて矮小であった。

  イ 計画的v.非計画的
 ナチスの最高幹部達は計画的に戦争を遂行したが、「<日本支配層は、>戦争を欲したにも拘らず戦争を避けようとし、戦争を避けようとしたにも拘らず戦争の道を敢て選んだのが事の実相であった。政治権力のあらゆる非計画性と非組織性にも拘らずそれはまぎれもなく戦争へと方向づけられていた。いな、敢て逆説的表現を用いるならば、まさにそうした非計画性こそが「共同謀議」を推進せしめて行つたのである。ここに日本の「体制」の最も深い病理が存する。東京裁判の厖大な記録はわれわれにこの逆説的真理をあますところなく物語ってくれる。」(同91〜92頁)

  ウ 論理的v.非論理的
 「<ナチス最高幹部達は>は罪の意識に真向から挑戦することによってそれに打ち克とうとするのに対して、<日本支配層>は自己の行動に絶えず倫理の霧吹きを吹きかけることによつてそれを回避しようとする。」(9頁)、<すなわち、ナチ最高幹部達に見られるのは、>ヨーロッパの伝統的精神に自覚的に挑戦するニヒリストの明快さであり、「悪」に敢て居坐ろうとする無法者の啖呵である。これに比べれば東京裁判の被告や多くの証人の答弁は一様にうなぎのようにぬらくらし、霞のように曖昧である。検察官や裁判長の問いに真正面から答えずにこれをそらし、或は神経質に問の真意を予測して先まわりした返答をする。」(103頁)

  エ 責任非回避的v.責任回避的
 「日本支配層を特色づけるこのような矮小性を最も露骨に世界に示したのは戦犯者たちの異口同音の戦争責任否定であつた。」(102頁)
 その責任否定の論理は、「既成事実への屈服」と「権限への逃避」からなる。

 まず、「既成事実への屈服」について説明しよう。
 日本支配層にあっては、「既に現実が形成せられたということがそれを結局において是認する根拠となる」(106頁)。また、「自ら現実を作り出すのに寄与しながら、現実が作り出されると、今度は逆に周囲や大衆の世論によりかかろうとする」(107頁)。
 「重大国策に関して自己の信ずるオピニオンに忠実であることではなくして、むしろそれを「私情」として殺して周囲に従う方を選び又それをモラルとするような「精神」」(108頁)が見られる。
 彼らにあっては、「「現実」というものは常に作り出されつつあるもの或は作り出され行くものと考えられないで、作り出されてしまったこと、いな、さらにはつきりいえばどこからか起って来たものと考えられている。「現実的」に行動するということは、だから、過去への緊縛のなかに生きているということになる。」(109頁)
 「日本の最高権力の掌握者たちが実は彼等の下僚のロボットであり、その下僚はまた出先の軍部やこれと結んだ右翼浪人やゴロツキにひきまわされて、こうした匿名の勢力の作った「既成事実」に喘ぎ喘ぎ追随して行かざるをえなかった」(111頁)。
 「軍部を中核とする反民主主義的権威主義的イデオロギーの総進軍がはじまるのとまさに平行して軍内部に「下克上」と呼ばれる逆説的な減少が激化して行った」(111頁)。
 「しかもこのような軍の縦の指導性の喪失が逆に横の関係においては自己の主張を貫く手段として利用された。・・・「それでは部内がおさまらないから」とか「それでは軍の統制を保証しえないから」と」(112頁)。
 「軍部はしばしば右翼や報道機関を使ってこうした・・・在郷軍人その他の地方的指導・・・層に排外主義や狂熱敵天皇主義をあおりながら、かくして燃えひろがった「世論」によつて逆に拘束され、事態をずるずると危機にまで押し進めて行かざるをえなかつた」(113頁)
 「国民がおさまらないという論理はさらに飛躍して「英霊」がおさまらぬというところまで来てしまつた。過去への緊縛はここに至つて極まつた」(113頁)。
 「日本の・・・「抑圧委譲の原理」・・・日常生活における上位者からの抑圧を下位者に順位委譲して行くことによつて全体の精神的なバランスが保持されているような体系・・・<と>「下克上」的現象・・・<の>両者は矛盾<し>ない。・・・「下克上」は・・・抑圧委譲の病理現象である。下克上とは畢竟匿名の無責任な力の非合理的爆発であり、それは下からの力が公然と組織化されない社会においてのみ起る。それはいわば倒錯的なデモクラシーである。本当にデモクラチックな権力は公然と制度的に下から選出されているというプライドを持ちうる限りにおいて、かえつて強力な政治的指導性を発揮する。これに対してもつぱら上からの権威によつて統治されている社会は統治者が矮小化した場合には、むしろ兢々として部下の、あるいはその他被治層の動向に神経をつかい、下位者のうちの無法者あるいは無責任は街頭人の意向に実質的にひきずられる結果となるのである。抑圧委譲原理の行われている世界ではヒエラルヒーの最下位に位置する民衆の不満はもはや委譲すべき場所がないから必然に外に向けられる。非民主主義国の民衆が狂熱的な排外主義のとりこになり易いゆえんである。」(113〜114頁)

 次に、「権限への逃避」について説明する。
 日本支配層は、「訴追されている事項が官制上の形式的権限の範囲には属さない」(116頁)と申し開きする。
 しかも、日本支配層の頂点において、「政治力の多元性を最後的に統合すべき・・・天皇は、疑似立憲制が末期的様相を呈するほど立憲君主の「権限」を固くまもつて、終戦の土壇場まで殆ど主体的に「聖断」を下さなかった。」(125頁)、
 明治時代において、「破たんが危機的な状況を現出せず、むしろ最近の時代とは比較にならぬほどの政治的指導と統合が行われていたのは、明治天皇の持つカリスマとこれを補佐する藩閥官僚の特殊な人的結合と比較的豊かな「政治家」的資質に負うところが少なくない。」(127頁)

(2)憲法第9条礼讃

 日本国憲法が制定されたのは、「決して四海波静かなるユートピアの世界においてではなく、米ソの抗争がむろん今日ほど激烈でないにしても、少くもそれが世界的規模において繰り拡げられることが十分予見される情勢の下においてだつたのです。こうした情勢にも拘らず敢て非武装国家として新しいスタートを切つたところにこそ新憲法の劃期的意味があつたと少くも私は記憶し理解しています。」(「「現実」主義の陥穽」185頁)
 「日本の新聞だけ見ていると、いわゆる「力による平和」という考え方そのものは西欧諸国ではすでに自明の原理とされ、ただ問題は再軍備の具体的=技術的な方法だけにあるような印象を受けますが、これなども各国の政府の動向だけが主として報道されることによるもので、民衆の動きはまたちがつた「現実」を示しているようです。西独の民衆の圧倒的多数が再軍備に反対していることは流石にちょいちょい大新聞にも報道されていますが、フランスでも大体、国民の50パーセント以上が政府の政策とくに再軍備政策に反対し、25パーセントは不満を持つているがどうしていいか分らずに混迷しており、残りの25パーセントだけが明白にアメリカに加担しているという報告があります・・・。イギリスでも・・・」(同175〜176頁)

(続く)

太田述正コラム#1651(2007.2.7)
<吉田茂小論>(2007.9.16公開)

1 始めに

 防大1期生の平間洋一氏が防大教授兼図書館長の時に私は同大学校の総務部長を勤めていたので、掲示板上で同氏の吉田茂邸訪問記がサイト(
http://www.bea.hi-ho.ne.jp/hirama/yh_ronbun_sengoshi_yoshidahoumon.htm
。2月7日アクセス)に掲げられているという話を聞いて、なつかしくなり、同サイトにアクセスしてみました。
 その結果、この際、吉田茂についての小論を上梓すべきであると感じました。

2 平間氏に会った当時の吉田茂

 吉田茂(1878〜1967年)があらゆる機会に語った以下のような持論が、1957年2月に平間氏らが吉田邸を訪問した時にも吉田の口から語られています(注1)。

 (注1)吉田は、1954年12月に(五度目、かつ最後の)首相職を辞任したが、当時、引き続き衆議院議員ではあった(
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E8%8C%82

 「国防は国の基本である。 しかし、 今の日本はアメリカとの安全保障の下に経済復興を図るのが第一で、 アメリカが守ってやるというのだから守って貰えばよいではないか。また、 憲兵に追われ投獄され取調べを受けたが、 かれらのものの解らないのにはどうにもならなかった。 だから僕は陸軍が嫌いだ。 昔のようにものの解らない片輪な人間を作ってはならない。 そのためには東大出身者は固くて分からず屋が多いので駄目だ。」
 「君達は自衛隊在職中決して国民から感謝されたり、 歓迎されることなく自衛隊<生活>を終わるかも知れない。きっと非難とか誹謗ばかりの一生かもしれない。 御苦労なことだと思う。 しかし、自衛隊が国民から歓迎され、 ちややほやされる事態とは外国から攻撃されて国家存亡の時とか、災害派遣の時とか国民が困窮し国家が混乱に直面しているときだけなのだ。 言葉を変えれば君達が日陰者であるときのほうが、国民や日本は幸せなのだ。 堪えて貰いたい。 一生御苦労なことだと思うが、 国家のために忍び堪え頑張って貰いたい。自衛隊の将来は君達の双肩にかかっている。 しっかり頼むよ」

2 最晩年のもう一人の吉田茂

 以上の吉田の言を、1963年に上梓された吉田の著書『世界と日本』(番長書房)における、以下の記述(拙著『防衛庁再生宣言』43〜44頁)(注2)と付き合わせて見てください。

 (注2)吉田は、1963年10月、次期総選挙に出馬せず引退する旨を表明している(ウィキペディア上掲)。

 「再軍備の問題については、<これが、>経済的にも、社会的にも、思想的にも不可能なことである<ことから、>私の内閣在職中一度も考えたことがない。・・・しかし、・・・その後の事態にかんがみるに、私は日本防衛の現状に対して、多くの疑問を抱くようになった。当時の私の考え方は、日本の防衛は主として同盟国アメリカの武力に任せ、日本自体はもっぱら戦争で失われた国力を回復し、低下した民生の向上に力を注ぐべしとするにあった。然るに今日では日本をめぐる内外の諸条件は、当時と比べて甚だしく異なるものとなっている。経済の点においては、既に他国の援助に期待する域を脱し、進んで更新諸国への協力をなしうる状態に達している。防衛の面においていつまでも他国の力に頼る段階は、もう過ぎようとしているのではないか。・・・立派な独立国、しかも経済的にも、技術的にも、はたまた学問的にも、世界の一流に伍するに至った独立国日本が、自己防衛の面において、いつまでも他国依存の改まらないことは、いわば国家として片輪の状態にあるといってよい。国際外交の面においても、決して尊重される所以ではないのである。・・・今日、一流先進国として列国に伍し且つ尊重されるためには、自国の経済力を以って、後進諸国民の生活水準の向上に寄与する半面、危険なる侵略勢力の加害から、人類の自由を守る努力に貢献するのでなければならぬ。そうした意味においては、今日までの日本の如く、国際連合の一員としてその恵沢を期待しながら、国際連合の平和維持の機構に対しては、手を藉そうとしないなどは、身勝手の沙汰、いわゆる虫のよい行き方とせねばなるまい。決して国際社会に重きをなす所以ではないのである。上述のような憲法の建前、国軍の在り方に関しては、私自身の責任を決して回避するものではない。憲法審議の責任者でもあり、その後の国政運営の当事者でもあった私としては、責任を回避するよりは、むしろ責任を痛感するものである。」

3 吉田茂の評価

 吉田茂は、1946年5月に初めて首相に就任する際、「戦争に負けて、外交に勝った歴史はある」と側近に語っています(ウィキペディア上掲)。
 私は、この発言を、大東亜戦争敗戦の意趣返しのため、戦前の日本に代わって、東アジアにおけるソ連等共産主義勢力への防波堤の役割を米国に全面的に負わせるべく首相に就任するという吉田の決意表明であると思っています。
 だからこそ、吉田は、占領軍が「押しつけた」第9条入りの日本国憲法を堅持し、「戦力なき軍隊」(自衛隊に関する吉田自身の議会答弁。ウィキペディア上掲)の保持しか肯んじなかったのだし、1952年のサンフランシスコ講話条約締結にあたって日米安保条約の締結にあれほど執念を燃やした(ウィキペディア上掲)のだ、と私は考えているのです。
 このことは、自衛隊員が日陰者ないし税金泥棒視されることにつながったわけですが、そんなことは、戦時中に憲兵隊に逮捕され、40日間の拘置所暮らしを強いられて旧軍に含むところのあった吉田(上掲の吉田自身の言及びウィキペディア上掲)にとっては、むしろ小気味よいことだったのではないかとさえ私は勘ぐっているのです。
 ですから私には、吉田の「君達は自衛隊在職中決して国民から感謝されたり、 歓迎されることなく自衛隊<生活>を終わるかも知れない。きっと非難とか誹謗ばかりの一生かもしれない。 御苦労なことだと思う」以下の言は、かかる立場に防大出身の自衛隊幹部達を追いやってしまったことについての、吉田のかすかな自責の念に由来する白々しい弁明としか受け止められないのです。
 すなわち、吉田は、米国と旧軍に対する二つの私憤(注3)の意趣返しのため、憲法第9条の堅持と「戦力なき軍隊」の保持という、政治家としてあるまじき政策に固執することによって、結果として、講話条約によって主権を完全に回復するはずであった日本を米国の保護国にしてしまった責任者なのです。

 (注3)吉田の米国に対する怒りは、本来決して私憤ではなく、私自身も共有するところの公憤だが、吉田が、あのような方法で公憤を晴らそうとした瞬間に、それは私憤に堕してしまったと私は思う。吉田は、朝鮮戦争の勃発で尻に火がつき正気に戻った米国に、占領軍を通じて日本の憲法改正を命じさせ、かつ米国の軍事・経済援助を最大限引き出す形で日本の再軍備を実現するとともに、朝鮮戦争への参戦は断固拒否する、という方法で米国に対する怒りを晴らすべきだったのだ。

 ただし、吉田の偉大さは、やや遅きに失したとはいえ、この自分の犯した過ちを全面的に認め、自らを厳しく断罪したところにあります(注4)。

 (注4)吉田のもう一つの偉大さは、首相時代、利益誘導してもらうべく、たびたび自分の選挙区の高知県から有力者が陳情に訪れたが、その都度「私は日本国の代表であって、高知県の利益代表者ではない」と一蹴したことだ(ウィキペディア上掲)。

 上掲の「上述のような憲法の建前、国軍の在り方に関しては、私自身の責任を決して回避するものではない。憲法審議の責任者でもあり、その後の国政運営の当事者でもあった私としては、責任を回避するよりは、むしろ責任を痛感するものである。」という吉田の最晩年の言をどうか噛みしめてください。
 しかし、この吉田の最晩年の言に吉田が引き立てたところの吉田の後継者達は耳を貸さず、吉田自身が誤りを認めた吉田の現役政治家時代の政策が吉田ドクトリンとして吉田の後継者達によって墨守されることとなり、現在に至っているわけです。

太田述正コラム#2044(2007.9.5)
<マザー・テレサの悩み>

<太田>

 マザー・テレサが、一貫して神の存在に確信が持てず、悩み続けていた、というショッキングな事実が明らかになりました(
http://www.time.com/time/world/article/0,8599,1655415,00.html。8月25日アクセス)。

 ガンジー(コラム#176、1992)といい、マザー・テレサ(コラム#175)と言い、聖人は敬して遠ざけた方が良さそうですね。
 
 蛇足ながら、今次安倍コルカタ(カルカッタ)訪問時に、昭恵夫人がMissionaries of Charityを訪問しています(
http://www.newkerala.com/july.php?action=fullnews&id=55726
)。

<バグってハニー>

 マザー・テレサの記事、全部読みました。すごくよかったです。
 「一貫して神の存在に確信が持てず、悩み続けていた」というのは聖人になるため(Canonize)の必要条件なんですよ。
 マザーも結果的に人を騙していたことになりますが、その結果誰かが実害を被ったわけでもないし、その理由も「イエスではなく自分に注目が集まるのを避けるため」という風に利己的ではないので、許されるのではないでしょうか。
 彼女がコルカタの貧しい人々を救ったという事実はなんら目減りしないと思います。

<太田>

 いやはや、
http://www.csmonitor.com/2007/0830/p08s01-comv.htm  
(8月30日アクセス)、
http://www.nytimes.com/2007/08/29/opinion/29martin.html?pagewanted=print  
(8月30日アクセス)、
http://newsweek.washingtonpost.com/onfaith/susan_brooks_thistlethwaite/2007/08/looking_for_god_in_calcutta_1.html  
(8月31日アクセス)、
http://www.latimes.com/news/opinion/la-ed-teresa1sep01,0,6144579,print.story?coll=la-opinion-leftrail  
(9月2日アクセス)

とことごとく、そういう理解なのですよね。
 だから、私はキリスト教が苦手なのです。
 たった一つ、私にも良く分かる論考(
http://newsweek.washingtonpost.com/onfaith/sam_harris/2007/08/the_sacrifice_of_reason.html  
。9月3日アクセス)がありました。
 この論考の最後の部分をご紹介しておきます。

 「テレサの抱いていた疑いは、教会の眼から見れば、神の恩寵の更なる証明と解釈されてテレサの偉大さを増進させるものに他ならなかった。考えても見よ。専門家が抱いた疑いですら教義の正しさを裏付けるのだとしたら、一体どうやったら教義が誤っていることを証明することができようか。」

 いずれにせよ、もう一度コラム#175で紹介したヒッチェンスのマザー・テレサ論を読み返してくださいね。

<バグってハニー>

 「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。」(ヨハネ15:18、新共同訳)

 神の存在に疑問を抱くことと否定することは全く違うんですよ。タイム誌の記事にあるジョセフ・ニューナー神父(Rev. Joseph Neuner)の言葉を借りれば、神の存在が否定できないからこそ、マザーはここまで苦しむことはなったわけです。
 前の投稿時には私はまだコラム#175を読んでなかったですけど、バチカンはヒッチェンスの批判にはちゃんと耳を傾けているのでご安心ください。かつての列福/列聖の審査の際には悪魔の代弁者(Devil's advocate)
http://en.wikipedia.org/wiki/Devil's_advocate
と呼ばれる、候補者に辛らつな批判を自由奔放に加える役回りがあり、それによって候補者に穴を見つけて資格のないものが列福/列聖されないようにしていたのですが、ヨハネ・パウロ二世前法王がこの制度を廃したために、代わりにヒッチェンスにお呼びがかかったそうです。
http://www.secularhumanism.org/index.php?section=library&page=hitchens_24_2

 思い起こせば、イエス自身はマザーよりももっと手ひどい批判をその活動中に受けていました。最後は十字架にかけられたぐらいですから。カトリックには「反対を受けるしるし(Sign of contradiction、ルカ2:34、新共同訳)」という概念があるそうです。前法王は同名の著書の中で反対を受けるしるしこそがキリストとその教会を特徴付ける定義でもあると述べています。
http://en.wikipedia.org/wiki/Sign_of_contradiction

 ヒッチェンスは米ショウタイム(Showtime)のペンとテラー(Penn and Teller)というコメディアンによる、タイトルからして書くのが憚れる、Fワードを連発するテレビ番組に出演してカトリックを激怒させたのですが、
http://en.wikipedia.org/wiki/Christopher_Hitchens#Television_appearances
このような辛辣な批判を受けることはマザーに「反対を受けるしるし」がある証拠だとするカトリックのライターもいます。
http://www.catholicherald.com/shaw/shaw05/shaw0901.htm

 つまり、マザーが神の存在に疑念を抱くことだけでなく、マザーを批判するヒッチェンスの存在もキリストとマザーの神性をますますゆるぎないものへとしているわけです。

 まあ、私は単なるリベラルなものぐさプロテスタントなので、カトリックの肩を持つ必要はないのですが、ヒッチェンスの批判はマザーに特異的というよりもカトリックに一般的な批判だと思いますね。献金の使途が不明瞭だといっても自分のための華美な服や飲み食いに使ってないことは明らかですからね。税金と違って払うほうもそこまでの厳格さは期待してないと思います。教会に限らず献金・募金・カンパというのはてそんなものでしょう。太田先生がマザーに対面したときに騙されて金巻き上げられた、というわけでもないんでしょ。

<太田>

>悪魔の代弁者(Devil's advocate)
http://en.wikipedia.org/wiki/Devil's_advocate
と呼ばれる、・・役回りがあり、それによって候補者に穴を見つけて資格のないものが列福/列聖されないようにしていた・・

 ご冗談を。
 奇跡など存在するわけがない、という前提に立てば、「奇跡を起こした」→「福者と認定(列福)する」→「その上で聖者と認定(列聖)」する、というインチキ「判決」先にありきで、対審構造を擬制し、弁護士たる「神の代弁者」と検事たる「悪魔の代弁者」との間で弁論を戦わせる、という茶番が1587年から1983年まで行われていた、ということでしょう。
 判決先にありきで、しかも多くの場合陪審員抜きで、対審構造を擬製して行われるところの、やたら時間がかかる茶番、というのが、アングロサクソンが(欧州)大陸法系の国々・・日本もそうです・・の裁判に対して抱いているイメージですが、まさにかつての列福手続きは、その通りのものだったな、と思います。
 福者ひいては聖者の大盤振る舞いをしたかったヨハネ・パウロ二世が、茶番を廃してしまった、というのはよく理解できます。
 それにしても、骨の髄まで無神論者のヒッチェンスは、それが茶番であることを百も承知で、タダでローマ旅行をするために(?)「悪魔の代弁者」役を務めたようで、まことにちゃっかりしていると言うべきでしょうか。

 蛇足ながら、バグってハニーさんがMixiに投稿した、「守屋前次官は・・なんて噂を見かけました。」を、うっかりしてボカシを入れずにそのまま前回のコラム(#2043)に収録してしまいました。
 万一名誉毀損裁判になった場合、ハニーさんのアイデンティティーは明かさないこととし、私が全責任を負うつもりですが、改めて、私が敗訴した裁判(ブログの「東村山女性市議転落死事件」カテゴリー参照)の不条理性、就中裁判官のネット音痴ぶりが思い出されます。

太田述正コラム#1639(2007.1.27)
<星亨の主張をめぐって>(2007.9.2公開)

 (光線銃はマイクロ波(microwave)ではなく、ミリ波(millimetre-wave)が使われています(http://news.bbc.co.uk/2/hi/americas/6300985.stm
。1月27日アクセス。以下同じ)。コラム#1638を訂正させていただきます。)

1 星亨の主張

 コラム#1629で「日本文明は米国を含むアングロサクソンの文明と極めて親和性のある文明であるところ、このことを記した、駐米公使当時の星亨(1850〜1901年)の1897年の英文草稿が残っていますが、実際に使われたものかどうかは不明です(拙著「防衛庁再生宣言」日本評論社 192〜193頁)。幕末から維新にかけて、星を含め、日本の指導層の間で広範に共有されていたこのような常識が日本で急速に失われて行ってしまったということなのでしょうか」と記したところです。
 拙著を読んでおられない方への便宜上、ここに星の主張を紹介した文章(有泉貞夫『星亨』朝日新聞社1983年 225頁)を再録しておきましょう。

 「<星>は、明治維新以降の日本の改革と進歩が偶然によるものではなく、アジアの他の国々とは異なる歴史的前提によって可能となった、着実なものであることを力説する。まず、ペリー来航以前の日本が専制国家と普通見なされているけれど、実際は徳川将軍と天皇の二重主権(dual sovereignty)というべきもので、権力と権威が分離しており、将軍と大名との関係も直接支配・被支配ではなく、大名は広範な自治権をもち、さらに農・工・商階級も、範囲は狭いが、共同体的自治により行政を分担してきた。このことが国民のなかに自主性と法の支配の観念を育て、明治維新を用意し、また維新後のさまざまな試練を乗り越えるのに役立ったと説く。つぎに、日本人は古代から外来宗教に寛容で、外来の宗教と固有信仰とを共存させてきた。近世初頭のキリスト教弾圧は、宗教的非寛容からではなく、宣教師の布教の仕方がもたらす治安妨害に対する政治的処置として行われたものであった」

2 維新前暗黒時代論はどこからきたのか

 ところが、星のように、明治維新以前の日本を高く評価する人は星の同時代人にはほとんどいませんでした。
 例えば、九州の中津藩の武士であった福沢諭吉(1835〜1901年)は、「封建の門閥制度・・・は親のかたきでござる」という有名な言葉を残しています(『福翁自伝』旺文社文庫(原著は1899年)26頁)。
 しかし、それは、「私の父は・・・漢学者であって、大阪の藩邸に在勤してその仕事は・・・大阪の金持ち、加島屋、鴻ノ池というような者に交際して藩債のことをつかさどる役であるが、元来父はコンナことが不平でたまらない。金銭なんぞ取り扱うよりも読書一偏の学者になっていたいという考えであるに、存じがけもなくそろばんをとって金の数を数えなければならぬとか、藩借延期の談判をしなければならぬとかいう仕事で、・・・純粋の俗事に当たるというわけであるから、不平も無理はない」(同20〜21頁)ということであり、江戸末期には武士の生活が窮屈で困窮していて屈辱的であったことを指しているのです。
 どうして武士の生活が困窮して町人に頭が上がらなくなるに至ったのでしょうか。
 そもそも、検地の段階で村の土地面積や生産性を実際より少なめに把握していた場合が多かった上、時代とともに農業の生産性が高くなり、商品作物の導入が進み、農工複合体のような農産加工業が発展し、農民の出稼ぎ賃金収入などが増えても村高には反映されなかったので、総じて言えば、武士以外の人々は江戸時代を通じてどんどん豊かになって行きました(石川英輔『大江戸開府400年事情』講談社文庫2006年 169頁)。
 年貢は村高に対して五公五民ないし四公五民の割合で算定されたのですから、上記経済成長に年貢収入が追いつくはずがなく、しかも稲作の生産性が高まり慢性的な米価安が続いていたので、給与が石高で支給される武士は次第に困窮して行ったのです(同168、171頁)。
 これでは、武士であった人々が、江戸時代を暗黒時代視するはずです。
 明治期の日本の指導層の多くは元武士でしたから、「不思議なことに、今の日本人は自分自身の過去についてはなにも知りたくないのだ。それどころか、教養人たちはそれを恥じてさえいる。「いや、なにもかもすべて野蛮でした。」、「われわれには歴史はありません。われわれの歴史は今、始まるのです。」という日本人さえいる。」と、お雇い外国人たるドイツ人のベルツ(1849〜1913年。日本滞在は1876〜1905年)が証言している(
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%84
。1月27日アクセス)ように、江戸時代は暗黒時代だったというイメージが日本人全体に広まり、定着してしまったのだと私は考えています。
 星は、江戸の左官屋の息子(
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%9F%E4%BA%A8
。1月27日アクセス)ですから、福沢らのような武士的偏見に目を曇らされることなく江戸時代を回顧することができたのでしょう。

太田述正コラム#1877(2007.7.24)
<天川勇氏のこと>

 (本篇は情報屋台用のコラムを兼ねており、即時公開します。)

1 始めに

 別に誰かに口封じをされたわけではないのですが、「CIAの実相」シリーズ(太田述正コラム#1875、1876)を書いていて、天川勇氏のことを今まで書いたことがないことに気付きました。
 そこで、インターネットを漁ってみると、氏について、ほとんど情報らしい情報が得られないことが分かりました。
 かろうじて見つけたのが、以下の5つの資料です。
http://www.sophiakai.gr.jp/jp/modules/news/print.php?storyid=971
http://wldintel.blog60.fc2.com/blog-category-0.html
http://mojimojisk.cocolog-nifty.com/miz/2006/11/index.html
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/033/0514/03311090514005a.html
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/034/0514/03402220514014a.html
(いずれも7月23日アクセス。)

 ちなみに、最初の3つの資料は、勇氏の令嬢の天川由記子さん(現在帝京大学の国際関係論の先生)に関する資料と言った方がより正確ですが、この5つの資料それぞれのさわりの部分を私の掲示板に「コラム#1877典拠集」、「コラム#1877典拠集(続き)」 と題して掲げてあります。
 以下は、私の記憶と上記資料を下に執筆したものです。

2 天川氏を囲む勉強会

 (1)始めに

 1980年前後に元海軍大学教授の天川勇氏を囲む国際情勢の勉強会に初めて連れて行ってくれたのは、太田述正コラム#1329に登場するCさんでした。
 メンバーは研究者、ジャーナリスト、役人、商社員等20〜30人であった記憶があります。

 当時新聞記者だった嶌信彦氏と新聞記者OBだった嶌氏のお父上もメンバーでした。
 令嬢の由記子さんも時々出席していました。

 メンバーになってしばらくすると、この勉強会のメンバーであることが大変な特権であることが分かってきました。
 というのは、福田赳夫(1905〜95年。首相:1976〜78年)氏の外交指南役であった天川氏は、財界のお歴々が集う勉強会等、いくつかの有料の勉強会の講師を務めており、一回何十万も謝金をもらっているけれど、われわれに対してはタダで講師をしてくれていたからです。

 どうして何十万も謝金を払ってでも天川氏の話をお歴々が聞きたかったのでしょうか?
 氏の話を聞けば、その時々の米国政府・・CIAと言うべきかもしれませんが・・の国際情勢観等がリアルタイムで分かったからです。

 (2)天川氏の凄さ

 天川氏の凄さをご説明しましょう。

 天川氏は、当時行われていたイラン・イラク戦争(1980〜88年)について、実際に上空から戦場を見てきたと称して、両軍の配置や戦闘状況について、詳細に説明してくれたものです。
 天川氏は、この戦争は長引くし戦闘が行われている両国国境に近いとして、三井物産社員のメンバーに対し、毎回、イランとの合弁のイランの石油コンビナート(イラン・ジャパン石油化学=IJPC)事業から一刻も早く手を引けと三井物産上層部に伝えよと繰り返し熱弁をふるいました。
 
 私が腰を抜かすほど驚いたのは、1981年の日米安全保障会議(於ハワイ。日本側からは防衛事務次官及び外務審議官、米側からは国務省と国防省の次官補・・この会議かその前年の会議の時はそれぞれウォルフォヴィッツとアーミテージ・・が出席)に随員として出席して帰国し、1〜2週間して天川勉強会に出た時です。
 1979年から始まったソ連のアフガニスタン侵攻を背景として、この時の日米安全保障会議では米側が、日本側に対して防衛力を強化するように特に強く迫ったのですが、この会議の米側作成の議事録をそのまま天川氏が入手しているとしか思えないほど、会議の議事次第、雰囲気、会議での日米間のやりとり等を微に入り細を穿って天川氏が説明したからです。
 天川氏も人が悪い。
 私がこの会議に出席したことを知っていてこんな話をしたのですから・・。

 それまで、天川氏の天文学的な情報量に圧倒されつつも、その情報をいかに入手したかについての氏の説明や、天川氏の国際情勢分析の信頼性に一抹の疑義の念を抱いていた私は、この時、氏の情報の入手先が紛れもなく米国政府、恐らくはCIA、であることと、氏の国際情勢分析が米国政府の国際情勢分析、恐らくはCIAによるそれ、を踏まえたものであることを確信したのです。

 軍事情報の入手方法について、天川氏は次のような、耳を疑う説明をしばしばしました。
 すなわち、天川氏は米軍の将官扱いになっており、天川氏の自宅には秘話装置付きの米軍の電話が設置されており、その電話でワシントンの米国防省はもとより、世界中の米軍部隊の司令官等と自由に話をして情報をとることができるし、天川氏が希望すれば、在日米軍がただちに専用機をしたてて世界中のどこにでも連れて行ってくれるというのです。
 これについても本当のことに違いない、とやはりこの時確信するに至りました。

 (3)その後

 それ以降、私は、この勉強会で天川氏が話した内容を私だけのものにしてはならないと思い、内容をメモにして、当時在籍していた防衛庁防衛課(現在の防衛省防衛政策課)の上司に提出することにしました。
 ところが、数年たたないうちに、高齢の天川氏が体調を崩したため、この勉強会は中断してしまいます。
 そして更に数年経ったある日、私は新聞で天川氏の死亡記事を読み、びっくりして記事に記されていた住所に駆けつけます。
 それは天川氏の私邸であったと思います。。
 畳の部屋に棺桶と遺影が置かれ、その前に福田元首相が悄然と座っているのを目にした私は、しばし目を閉じて合掌した後、庭から部屋に上がることをせず、部屋の中にいたメンバーの一人に目で黙礼してその場を立ち去りました。

4 終わりに

 日本は戦後一貫して米国の保護国だったのですから、歴代の自民党政権は、米国の明示または黙示の指示を拒否することはありえなかったはずです。
 しかし、面従腹背の場合もありうるわけであり、米国としては、このような国際情勢であるからして日本にはこうして欲しいのだ、ということを財界のお歴々等にも直接伝える必要があったのでしょう。
 まさにその役割を担っていたのが天川氏だったのです。
 そしてそのおこぼれが当時の我々のところまで回ってきた、ということです。

 天川氏の死後、誰がその「後継」に指名されたのか、或いは誰も指名されていないのか・・少なくとも由記子さんが後継でないことだけは確かです・・私には分かりませんが、岸氏の流れを汲む福田氏、そして福田氏の後継の清和会系の自民党の政治家達に対し、米国歴代政権がとりわけ期待をかけ続けたであろうことは、天川氏と福田氏との密接な関係からして、想像に難くありません。

太田述正コラム#1770(2007.5.16)
<サルコジ新フランス大統領(続)>(2007.6.24公開)

1 始めに

 このところコラム書きに精神集中ができない事情が生じています。
 最近、私のコラムに対してコメントが寄せられていないのは、そのせいでないことを祈るばかりです。
 その事情についてもご説明する緊急オフ会の19日(土)が近付いてきました。もう出席者はいらっしゃいませんか。
 さて、本日ニコラス・サルコジが正式にフランス大統領に就任しました。
 もう少し彼の話をすることにしましょう。

2 サルコジの母親

 サルコジの母親は、アンドリー・サルコジ(Andree Sarkozy)81歳ですが、フランスで大統領選が話題となったこの一年ちょっと、TVによく出ては息子のイメージ向上に努めてきました。こんなことは今までのフランスの大統領選挙ではなかったことです。
 彼女は、離婚後、三人の男の子達を1人で育て上げました。引っ越しした先は、彼女のお父さん・・ギリシャのサロニカからやってきたユダヤ人医師・・のパリのマンションの4つの空き部屋でした。彼女は、子供達が起き出すまでの早朝に勉強して弁護士になります。
 そう言えば、サルコジも弁護士になったのですね。
 彼女は、例えば、サルコジは感情の起伏が激しいと世上言われていることを否定し、小さいときはそうだったけれど、ずっと前にそうではなくなった、と語ったのです。
 サルコジは、このお母さんを通じて女性への敬愛の念を培ったようです。
 彼は、社会主義者のロワイヤル(Segolene Royal)女史を最大のライバルとした今次大統領選挙戦において、決して彼の「男らしさ」で勝負しようとはしませんでした。それどころか、盛んにシモーヌ・ヴェイル(Simone Veil。妊娠中絶解禁論者)等女性の弁士の応援を頼んだのです。
 そして、サルコジの選挙公約の一つは、15人の閣僚の半分を女性にすることでした。
 フランスは、議会の議員の14%しか女性ではなく(注)、EU諸国の中では女性の政治進出度がビリに近い国であることを考えると、これは画期的な試みです。
 彼は決して向こうウケを狙ったのではなく、どうやらサルコジは、男性より女性の方を信頼し、男性より女性とともに仕事をすることを好むようなのです。
 (以上、
http://www.guardian.co.uk/france/story/0,,2079022,00.html  
(5月16日アクセス)による。)

 (注)世界で初めて女性が男性より多い内閣が成立したのは1999年のスウェーデンにおいてだ。20人中11人を女性が占めた。なお、本年4月、このスウェーデンの記録を上回る内閣がフィンランドで成立した。実に60%(20人中12人)を女性が占めたのだ。ちなみにフィンランドは、2000年以来、大統領に女性が就いている国でもある。また、現在、中央議会で女性議員の割合が世界で最も高いのはスウェーデンであり47.3%に達する。
    ついでだが、デンマークで1924年に世界最初の女性閣僚(教育相)が誕生し。スリランカで1960年、世界最初の(選挙で選ばれた)首相・・バンダラナイケ(Sirivamo Bandaranaike)・・が誕生している。

2 サルコジの父方のルーツ

 かつてサルコジ家は、ハンガリーのブダペスト東方60マイルに城館を構えた貴族の家でした。
 しかし、この城館は1919年に占領していたルーマニア軍が引き揚げる時に火を付けられて灰燼に帰してしまいます。そして、サルコジ家の領地は1930年代に売られてしまい、やがて第二次世界大戦が勃発し、ソ連によってハンガリーは占領されることになります。
 サルコジの父親のポール・サルコジ(Paul Sarkozy)は、1948年にハンガリーを脱出し、苦労の果てにパリにたどりつき、ここで上記アンドリーと出会い、結婚するのです。
 ただ、二人の間の男の子達三人がまだ小さいときに二人は離婚してしまい、サルコジはハンガリーの言語や文化に直接触れることなく成長することになるわけです。
  
3 感想

 このように、フランスで、ギリシャから来たユダヤ人の娘とハンガリーから来た貴族が結びついてサルコジが生まれたというのに、そのサルコジが北アフリカ系の怒れる若者達をクズ呼ばわりしたり(コラム#945)、アフリカ移民の流入規制やトルコのEU加盟反対を唱えたりしているのは、皮肉と言えば皮肉です。
 (以上、特に断っていない限り
http://www.nytimes.com/2007/05/15/opinion/15tue4.html?pagewanted=print  
(5月16日アクセス)による。)
 それはともかく、日本で閣僚の半分を女性が占めたり、日本で両親とも外国移民系の首相が誕生したりするのはいつの日のことなのでしょうね。

太田述正コラム#1765(2007.5.11)
<サルコジ新フランス大統領>(2007.6.10公開)

1 始めに

 サルコジ(Nicolas Sarkozy。1955年〜)前仏内相が5月6日、フランスの新大統領に選出されました。
 サルコジがどんな人物で、サルコジの当選がいかなる意味があるか、ご説明したいと思います。

2 サルコジ?

 サルコジの父親はハンガリーの貴族の家に生まれたフランスへの難民であり、母親はギリシャ系のユダヤ人ですが、サルコジはパリ圏で生まれ育ったカトリック教徒です。
 父親がサルコジを含め3人の子供達を残して出奔してしまったため、彼は爾後母親の手で育てられ、フランス人の女性と結婚した時にユダヤ教からカトリックに改宗したところの、ドゴール心酔者の母方の祖父の強い影響を受けて人となります。
 彼は165センチと背が低かった上、子沢山の母子家庭であったために生活が決して豊かではなかった、という二重のコンプレックスを背負っていました。
 サルコジは、学業成績は余りぱっとせず、フランスの指導者としてはめずらしく高等行政学院(ENA)の卒業生ではなく、弁護士の資格を持っています。
 彼は、最初の妻との間に2人の子供がいますが強引に離婚し、離婚直後に結婚したところの、作曲家のアルベニスのひ孫でロシア人を父とする現在の妻との間に10歳の息子がいます。
 サルコジもこの現在の妻も、互いに不倫の噂が絶えません。一年前から別居していた二人ですが、最近はよりを戻しています。
 彼は弱冠20代で、彼の生まれ育ったパリ近郊の市の市長に当選し、20年近く勤めあげ、その任期の末期近くから中央政界で活躍して現在に至っています。
 彼は、これまたフランスの指導者としてはめずらしく、英語がしゃべれませんが、英国のブレア首相の政治思想とそのメディアを活用した政治スタイルとをともに尊敬していると言われます。
 (以上、
http://en.wikipedia.org/wiki/Nicolas_Sarkozy
http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/6631001.stm
http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/3673102.stm
(いずれも5月11日アクセス)による。)
 当選してから1時間後にサルコジはブレアに電話し、首相になる人物だとして上院議員のフィロン(Francois Fillon。53歳)を電話口に出しました。 フィロンが首相になれば、フランスの歴代首相の中で初めて英国人(ウェールズ出身)を配偶者とする人物ということになります。(http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/europe_diary/default.stm。5月10日アクセス)。
 
3 サルコジ当選の意味

 サルコジは、決選投票で53.1%の得票率を得て当選しましたが、投票率は84.8%にのぼり、これは1981年の大統領選挙以来の高投票率でした。
 フランスでは過去20年間に渡って投票率が長期低落傾向にあったのに、それが一変したことになります。フランスの政治アパシー状態に終止符が打たれた観があります。
 しかも、第一回目の投票を見ると、極右と極左に対する投票率が下がったことも注目されます。ファシスト的主張をしているルペン(Jean-Marie Le Pen)候補の得票率は2002年には18%もあったのに、今回は10%にとどまりましたし、共産党の候補は30年以上にわたって20%程度の票を集めてきたのに、今回は2%以下という有様です。
 最も注目すべきことは、上述したように、サルコジがアングロサクソン的自由主義の旗を掲げていることです。サルコジは、シラク現大統領の(対イラク戦に係る)反米国的スタンスに批判的でもあります。
 サルコジの当選は、フランスのドゴール主義的伝統、そしてジャコバン的伝統が二つながら終焉を迎えたことを意味する、と評する人もいます。
 (以上、
http://www.taipeitimes.com/News/editorials/archives/2007/05/09/2003360149
(5月10日アクセス)による。)
 果たしてフランス国民の期待に応えて、サルコジが、失業率9%、24歳未満の若者の失業率25%というフランスの現状(
http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/6631001.stm
上掲)を変えることができるか、お手並み拝見というところです。

4 早くもミソをつけたサルコジ

 ところが、サルコジの当選に怒った人々が暴動を起こし、連日何百台もの車に火をつけ、何百人もの逮捕者が出ているさなか、サルコジが豪華ヨットでマルタ島を訪問する3日間のバカンスに出かけたため、フランス人はバカンス好きであるにもかかわらず、左右両翼から批判の集中砲火を浴びてしまいました。
 この17人のクルーつきの12室もあるヨットは、フランスの13番目の大金持ちが所有しており、借りたら一日38,000米ドルはする代物ですが、サルコジ一家(本人と現在の妻とこの妻との間の子供)はタダで使わせてもらったというのです。
 「サルコジは大金持ちの味方か」、とか、「タダほど高いものはない。高額所得者への税金を低減させる等の便宜供与を迫られるのは必至である」、とサルコジが批判されるのも当たり前です。
 (以上、
http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/6638301.stm
(5月10日アクセス)、及び
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2007/05/09/AR2007050902622_pf.html
(5月11日アクセス)による。)

5 感想

 今までに比べれば進歩が見られるけれど、フランスの政治が英国の政治のレベルに追いつくことは、当分なさそうですね。

太田述正コラム#1719(2007.4.4)
<米国に過剰適応した日系人・フクヤマ(続)>

<バグってハニー>

 ”collaborator”は単に「共著者」という意味じゃないですか?「それでも「NO(ノー)」と言える日本―日米間の根本問題」という本を小川和久氏と三人で出してますし。先生の解釈だと”Watanabe, a professor at Sophia University, WAS a collaborator of Shintaro Ishihara”と過去形で書いてる意味がわかんないですよね。フクヤマは出版社に紹介されただけで渡辺のこと知らなくて、それは読者もそうだろうから、石原という有名な人をダシにして、昔一緒に本を出したこともあるからどこぞの馬の骨ではないよ、と言ってるだけだと思うんですけど。

 それから”Holocaust denier”の部分はそれに引き続く、”I am regularly sent books by Japanese writers ”explaining” that the Nanjing Massacre was a big fraud.”の部分を端折って論じるのはフェアじゃないと思います。つまり「南京虐殺はでっちあげだと主張する本が私のところにしょっちゅう送られてくるが、渡辺はそういう本の著者の一人だ」という意味でしょう。渡辺はいろいろな理由をつけて(それが論理的であるかどうかはともかく)南京虐殺を否定していることは確かです。以下のブログでは、そのような渡辺の講演を書き起こしたものが紹介されています。
http://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/log/eid251.html
 渡辺はフクヤマとの対話においておそらく自説を紹介したのでしょう。

 ホロコーストと南京虐殺は規模も目的もそれが起きた理由も全く異なりますが、それを否定する人たちはそれが被害にあった人たちによるでっちあげだと主張する点においては同じです。フクヤマはこのアナロジーに着目して渡辺をホロコースト否定論者と同列に悪罵したのでしょう。中共のみならず、この「でっちあげ」には東京裁判を行った米英も加担した、と渡辺は主張しているわけですから、普通に考えて米国人がまともに相手することはないでしょう。

 また、僭越ながら、仮に太田先生が唱えるようにフクヤマは日本音痴だとしても、我々は簡単にフクヤマの主張を切り捨てるわけにはいかないでしょう。というのは、米政府の対日政策を決定する人々が太田先生と同じ結論にたどり着くとは限らないからです。むしろ、日本に対する「誤解」「無知」「無理解」に基づいて日本の取り扱いが決まることは十分にありえると思います。そのように考えると、安倍首相の不用意な発言は私には残念でなりません。理由もなく日本の対外関係に波風を立てているとしか思えないからです。 「声」は、私のように日米同盟の強化という視点から発されたものではないとは思いますが。

<太田>

 とりあえずバグってハニーさんへ。
 (「渡部」を「渡辺」と間違えておられるのは、単なる変換ミスであろうという前提で議論を進めます。)

 へー。1990年に「それでも「NO(ノー)」と言える日本―日米間の根本問題」なんて本が出てるなんて全く知りませんでした。
 私が日本の論壇をフォローしていない盲点ですな。
 確かにそれなら、collaboratorは共著者と訳すべきでした。
 しかし、フクシマのこの英文コラムを読むほぼ全員の人は私同様、そんなことは知らないでしょう。
 ですから、フツーの読者はこの文脈でcollaboratorは協力者の意味として読むはずです。 (「共謀者」と訳したのは少し筆が滑ったことは認めます。)
 その場合、協力者であったのが過去のことなのか、現在もそうなのかは、本質的な問題ではないでしょう。
 フクシマは、そんな「誤解」の生じないように書くべきだし、書けたはずです。
 
 同じことは、ご指摘いただいたところの、渡部が南京虐殺否定論者であることについても言えます。
 フクシマのこのコラムを読むほぼ全員の人は私同様、そんなことについても知っているはずがありません。ですから、私を含めてフツーの読者は、件の個所を、「南京虐殺はでっちあげだと主張する本が私のところにしょっちゅう送られてくるが、渡部はそういう本の著者の一人だ」ではなく、「南京虐殺はでっちあげだと主張する本が私のところにしょっちゅう送られてくるが、日本はそういう国だ」という趣旨であると受け止めるのではないでしょうか。
 フクシマはどうして、肝心かなめの「渡部は自分に南京虐殺はなかったと言った」、あるいは「渡部は講演で(本で)南京虐殺否定論をぶっている」といった記述を省いたのでしょうか。
 
 このように見てくると、少なくともこのコラムに関する限り、フクシマはライターとして失格であると言ってよいでしょう。
 いずれにせよ、このことから、フクシマ自身が言及したところの渡部の言に限定して、私がフクシマ批判を行ったことは妥当であったと考えます。

 なお、渡部は、ご教示いただいた講演において、南京では、敗残兵と目される支那人の掃討が行われたが、このことを当時中国国民党政権は非難しなかったし、もっぱら民間人を対象とした殺害は行われなかった、としているだけであって、民間人や(正規兵の)捕虜が一切殺害されなかったとまでは言っていない以上、この講演だけで彼を南京虐殺否定論者と決めつけるのは困難だと思います。
 ちなみに私は、「敗残兵と目される支那人の掃討」は当時の国際法に照らして、全く問題のない形で行われたとは言い難いことをさておくとしても、数はともあれ、殺害された民間人や捕虜がいたことは否定できず(太田述正コラム#253、254)、これが当時の国際法違反であったことは明白であることから、これだけでも南京虐殺はあったと言わざるをえない、というスタンスです。
 他方、渡部は、殺害された民間人等の数の多寡を重要視し、殺害された者が少ないので虐殺とは言えない、と考えている可能性があります。そうだとすると、渡部は南京虐殺否定論者だということになるでしょう。
 なお、幸か不幸か、米軍は日本軍の敗残兵(便衣兵)掃討に従事する場面はほとんどありませんでしたが、投降の意思表示をした日本兵を殺害すること(これも捕虜の殺害)など日常茶飯事だったし、原爆投下を含む空襲で日本の民間人を大量虐殺したことはご存じのとおりです(典拠省略)。
 
 いずれにせよ、ホロコーストが、ナチスによる、もっぱら民間人を対象とした、組織的計画的なユダヤ人殺害であったことを考えれば、仮に渡部が上記のような意味での南京虐殺否定論者であったとしても、ホロコースト否定論者に相当するとは到底言えないでしょう。
 はっきりしていることは、フクシマが、せっかく彼の出世作である『歴史の終わり』の翻訳に手を上げてくれた、日本で売れっ子の評論家であった渡部から何も学ぼうとしなかったことです。

 このように見てくると、米国に過剰適応しているフクシマは、皮肉なことに、安全保障感覚・・マイノリティーは言語を含む固有文化を維持し続けることで、危機に共同で対処できるようにすることが望ましいという感覚・・が乏しい、他人が理解しやすいように書いたりしゃべったりすることが苦手である、欧米人以外から学ぼうとする姿勢がない、といった点で、まことに日本人的であることが分りますね。
 今春からフクシマは関西大の客員教授を兼務するらしいので、この機会に彼が日本ときちんと向きあい、彼の「日本に対する「誤解」「無知」「無理解」」を克服することを願ってやみません。

太田述正コラム#1718(2007.4.3)
<米国に過剰適応した日系人・フクヤマ>

1 始めに

 情報屋台の掲示板で行われているやり取り(太田掲示板に転載)を、私の投稿部分を中心に整理してみました。

2 フクヤマのコラム

 『歴史の終わり』の著者として有名なフランシス・フクヤマ(Francis Fukuyama。1952年??)が最近、「日本の勃興するナショナリズムは東アジアでの孤立を招く」と題するコラムを書きました。
http://www.taipeitimes.com/News/editorials/archives/2007/03/28/2003354232/print
 このコラムでフクヤマは、自身が見聞した靖国神社の付属施設である遊就館で展示されている先の大戦の歴史観や、最近の慰安婦問題をめぐる安倍発言について触れた上で、次のように締めくくっています。

 「米国の戦略家たちは、日米安保を進めて中国を包囲するNATOのような枠組みをつくろうとし、そのために日本が憲法9条を修正することを支持してきた。しかし、米国は憲法改正の向かうところに注意をすべきだ。なぜなら、極東における米国の軍事的な正当性は、日本の防衛力を自制させるところに成り立っているのに、日本の新しいナショナリズムからくる憲法改正は、日本をアジアから孤立させることになりかねないからだ。ブッシュ大統領は、日本がイラク戦争を支えていたので、日本の新しいナショナリズムについて余計なことは言わなかった。しかし、日本がイラクから自衛隊を引き揚げたいま、ブッシュ大統領は安倍首相に直言をするのではないか。」

 このコラムを踏まえ、「要するにフクヤマは、米国はこれまで対中戦略を考えて、日本の憲法改正の動きを支持してきたが、安倍首相のような日本の新しいナショナリズムを放置しておくと、対中戦略もうまくいかなくなると、警告しているのだ。当然、そんなフクヤマは日本の核武装など認めないだろう。」と指摘する声があります。

3 私のコメント

 このコラムは私も前に読んでいますが、その時、フクヤマが、日本についてはどシロウトであることを発見して憐憫の念さえ覚えました。
 ここにも、慰安婦決議を推進している某米下院議員同様、米国に過剰適応した日本人がいた、ということです。
 というのは、このコラムの中でフクヤマは、1990年代初めまで(当時既に評論家として大変な人気を博していた)渡部昇一なる人物の存在を全く知らなかったが、渡部がフクヤマの「歴史の終わり」の翻訳者として日本の出版社によって指名されて初めて渡部を知ったと述べているからです。
 しかも、フクヤマは、渡部の名前をWatanabe Soichiと誤記しています。
 これは単なる校正ミスと片付けるわけにはいきません。なぜなら、フクヤマが知るところとなった渡部に対する批判がこのコラムの中でかなりのウェートを占めているからです(注1)。

  (注1)なお、私は渡部ファンではない。太田述正コラム#1694??1696で渡部氏のアングロサクソン論批判を展開したばかりだ。(未公開だが、太田掲示板で、「コラム#1694(未公開)のポイント」(以下同じ)と題して内容の概要を示してある。)

 以上から、フクヤマがいかに日本について無知であるかは明らかです。

 その日本は、1980年代終わりには、文字通り米国の経済的脅威となっていました。
 にもかかわらず、フクヤマは、日本を知ることを避け続けてきた、ということになります。
 どうりで、フクヤマは『歴史の終わり』などという早とちりでノーテンキな本が書けたのでしょうね(注2)。

 (注2)フクヤマが昨年の新著 ’After the Neocons'(邦題『アメリカの終わり』) で従来のネオコン路線と決別し、ブッシュ政権批判に転じた時、彼に対して投げかけられた批判は、同時に『歴史の終わり』に対する批判になっていて興味深い(
http://books.guardian.co.uk/reviews/politicsphilosophyandsociety/0,,1744735,00.html
(4月11日アクセス)、及び
http://www.slate.com/id/2137134/
(3月2日アクセス))。

 日本について全く土地勘がない、というか土地勘を持つことを頑なに拒み続けてきた人物(注3)が書いた日本についてのコラムなんぞ、われわれは聞く耳を持ってはいけないのです。

 (注3)何が彼をそうさせたのだろうか。
    英語のフクヤマについてのウィキペディアには、彼の両親(片方は日系米人、片方は日本人)についてどころか、彼が日系人であることすら出てこない。これは、フクヤマが自分の履歴に頑ななまでにこれらのことを記していないことを推測させる。それに、彼は日本語が全くできない。
    どうやら原因は、彼の両親にあるらしい。父は日系2世の宗教学者、日本人の母は京都大教授の娘であり、父方の祖父は戦前、日系人として強制収容されているが、家庭内の会話は英語であり、両親は、息子に聞かれたくない時だけ日本語を話したという(「フランシス・フクヤマ氏 『アメリカの終わり』を出版した米政治学者」2006年12月20日付朝日新聞)。

 このコラムの最大の問題は、次の個所にあります。

 「上智大学教授の渡部は、『ノーと言える日本』を書いたナショナリストの政治家石原慎太郎の共謀者だ。私は彼が大人数の聴衆を前にして、占領軍たる関東軍が支那を去るにあたって、満洲の人々は、日本への感謝の念から目に涙をたたえたと述べた。渡部によれば、太平洋戦争はつまるところ人種問題が原因だったとし、米国は非白人を貶めようとしたのだというのだ。つまり、渡部はホロコースト否定論者に相当する。」

 「ホロコースト否定論者(Holocaust denier)」という言葉が欧米でもつ意味(コラム#969等)をご存じの方は、これがおよそ人間に対して投げかけられる最大の悪罵であることを容易に想像できることでしょう。
 フクヤマが紹介している渡部の言は、もう10年以上日本の論壇をフォローしていない私としては、は本当に渡部がそう言ったのか知る由もありませんが、仮に渡部がそう言ったとしても、第一に、「太平洋戦争」の米人種差別原因論は、昭和天皇の考えでもあります。

 「<先の大戦>の原因を尋ねれば、遠く第一次世界大戦后の平和条約の内容に伏在してゐる。日本の主張した人種平等案は列国の承認する処とならず、黄白の差別感は依然残存し加州移民拒否の如きは日本国民を憤慨させるに充分なものである。・・かかる国民的憤慨を背景として一度、軍が立ち上がった時に、之を抑へることは容易な業ではない。」(昭和天皇の1946年の発言。「昭和天皇独白録」文春文庫24??25頁)

 第二に、満州の(日本人以外の)住民の中で、敗戦で日本人が引き揚げる時に涙した人々がいても全く不思議ではありません。
 これに関連し、今上天皇は、日中戦争の原因が中国側にあると考えているとしか思えないことを付言しておきます(太田述正コラム#214、215)。

 しかも、フクヤマは、渡部を石原慎太郎の共謀者(collaborator)であると言っているのですから、石原都知事までホロコースト否定論者に相当すると言っているに等しいわけです。
 これらは許しがたい暴言であって、渡部の数多くのファンのみならず、(私自身は石原に票を投じたことは一度もないけれど、)石原を都知事に選んできた東京都民、ひいては日本国民に対する侮辱です。
 フクヤマ自身は、全くそんな気はなかったでしょうが、論理的には、昭和天皇までホロコースト否定論者呼ばわりをしたことになることを考えればなおさらです。
 この一点だけでも、このコラムはゴミ箱に投棄されるべきでしょう。

 恐らく、フクヤマは、米国の学校の教科書に書いてある、「太平洋戦争」についての歴史観をうのみにしているのであって、この点に関しては全く思考停止状態にあるのでしょう。
 私が、フクヤマが「過剰適応」であると言ったことがご理解いただけたでしょうか。
  

太田述正コラム#1457(2006.10.19)
<白洲次郎に思う>

1 始めに

 白洲次郎(1902??1985年)の「プリンシプルのない日本」(新潮文庫)を読みました。
 この本の中には、「野人・白洲次郎」という今日出海の文章が収められており、そこに、「彼は戦前日米戦争が不可避だと予言していた。その時は蒋介石を相手にせずと日本が言っていた頃である。そして必ず日本が敗北し敗北の経験のない日本人は明く飽くまで抗戦して、東京は焼け野原になるだろうともいった。そこで彼は地の理を研究して現在の鶴川村に戦前の疎開を敢行したのである。負け込むと食糧難に陥ることも彼の予見で、百姓になって人知れず食糧増産に心がけていた」(14??15頁)とあります。
 また、この本に収録された座談会の中で、河上徹太郎が、「<白洲さんは、>開戦直後にアメリカは二年後にこれだけの海軍を造って来る、と言ったんだ。そしたら日本の海軍のお偉方がそれを信用しなかったんだ。そんなに出来るわけがないっていうんだね。所がそれが次郎さんの言う通り出来ちゃって、本当にマリアナへ来たんだよ。」(257頁)と語っています。
 話半分だとしても、恐るべき予見力を持ち合わせた人物がいたものです。

2 吉田ドクトリンと白洲

 ところが、その白洲が、「占領軍からのお土産品・・<なるがゆえに、>日本<の>民主主義がもらいもので附けやきばであることは残念ながら事実です」(217、248頁)とか、「<新>憲法・・のプリンシプルは実に立派である。・・戦争放棄の条項などその圧巻である。押しつけられようが、そうでなかろうが、いいものはいいと率直に受け入れるべきではないだろうか」(226頁)というバカみたいなことを言っています。
 前者は、白洲が日本の自由民権運動から大正デモクラシーに至る歴史について全く無知であることを暴露していますし、後者は、「明治維新前までの武士階級等<に>はプリンシプル<があったが、昨今の>我々日本人の日常は、プリンシプル不在の言動の連続であるように思われる」(217頁)、「日本・・人<は>・・日本<が>島国<なので、>国際感覚・・がなかった<し、>外国のことを知らな<さすぎた>」(30。262頁)と白洲はもっともらしいことを宣っているにもかかわらず、彼自身、真のプリンシプルや国際感覚など持ち合わせていなかったことを示しています。
 こんな白洲だからこそ、「安保条約の締結の必要の根本は、日本が全然無防備の国であるとの建前をとったことによると思うが・・<そもそも、>安保を廃止して自分のふところ感情で防備をすれば、いくらかかる。・・<その安保で日本を守ってくれているアメリカが主権回復直後の日本に対し、>国防の充実を・・希望していると伝えられている<が、>ただでさえ生活に追われて、食うや食わずの大部分の日本人がこんな金のかかることをどうしてやってゆけるのか・・」(138??139、214、223頁)と、経済最優先で、国防なんぞにはとにかくカネをかけないように腐心するわけです。
 ご存じの方も多いかと思いますが、この白洲こそ、総理時代の吉田茂の側近中の側近として、占領軍との交渉や経済の復興に縦横無尽の活躍をした人物(290??292頁)なのです。
 吉田自身は、日本が主権回復後、憲法を改正して再軍備をするのは当然だと思っていたのに、吉田の不肖の後継者達は、親の子、子知らずで、占領下の緊急避難として吉田がとった経済優先・再軍備拒否政策を墨守し、この政策を吉田ドクトリン化してしまうのです(拙著「防衛庁再生宣言」)。
 この本を読んで思ったのは、白洲こそ吉田ドクトリン成立のキーマンなのではないか、ということです。
 何せ、抜群の予見力を持っていると目された人物、そして、吉田茂の側近中の側近として畏敬されていた人物が、国防を米国に丸投げして経済復興(成長)に専念すべきだと唱えたのですから・・。

3 終わりに

 とはいえ、この本は推賞に値します。
 例えば、役人、特に外務官僚のダメさかげんや日本型政治経済体制の腐敗体質を指摘した箇所は、現在の話かと思われせますし、GHQのお粗末さを描いた箇所は、フセイン体制打倒後の米軍のイラク「統治」を彷彿とさせます(頁は略す)。
 お値段はわずか476円(税別)です。読む時間のある方はぜひお求めを。

太田述正コラム#1425(2006.9.29)
<「東京ローズ」の死>

1 始めに

 かつて「東京ローズ(Tokyo Rose)」と呼ばれた、アイヴァ・イクコ(郁子)・トグリ(戸栗)・ダキノ(Iva Ikuko Toguri D’Aquino)が、シカゴで90歳で亡くなりました。
 彼女のことについては既にご存じの方も多いと思いますが、彼女の死が英米のメディアで大きく報じられている一方で、日本のメディアはAP電に依拠したおざなりな報道しかしていないので、この際、トグリの生涯をご紹介することにしました。
 (以下、事実関係は、
http://www.guardian.co.uk/usa/story/0,,1882241,00.html
(9月28日アクセス)、及び、
http://www.fbi.gov/libref/historic/famcases/rose/rose.htmhttp://news.bbc.co.uk/2/hi/americas/5389722.stm
http://news.bbc.co.uk/2/hi/americas/5388658.stmhttp://www.latimes.com/news/nationworld/world/la-me-rose28sep28,0,7811832,print.story?coll=la-home-worldhttp://www.nytimes.com/2006/09/28/world/asia/28rose.html?_r=1&oref=slogin&ref=world&pagewanted=print
http://news.goo.ne.jp/news/kyodo/kokusai/20060928/20060928a3470.html
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4163442804
(いずれも9月29日アクセス)による。)

2 トグリの生涯

 トグリの生涯はざっと次のとおりです。

1916年:米独立記念日にロサンゼルスに、日本人移民の両親の下に生まれる。
1940年:カリフォルニア大学ロサンゼルス校動物学科を卒業。
1941年:おばの看病と医学履修のために東京に渡る。しかし、帰米しようと、(パスポートなしで来日していたので)米領事館にパスポートを申請。しかし、日米開戦となり、日本に取り残される。彼女は日本国籍取得を拒んで他の在留米国人同様に収容されることを希望したが認められず、他方、配給も得られなかったので、働くことを決意し、日本語の勉強に励んだ。
1942年:同盟通信に英文タイピストとして勤務。
1943年:NHKに移る。当初は英文タイピストだったが、乞われて、対米兵情宣英語ラジオ放送番組の「ゼロ・アワー」のディスクジョッキー兼アナウンサーに就任した。NHKの情宣ラジオ番組はほかにもあり、同じような役割の女性も他に何人もいたが、彼女だけが米国籍だった。これら女性は、日本の情宣番組を聴取していた太平洋各地の米兵から、「東京ローズ」と総称されるに至った。なお、「ゼロ・アワー」の監修者は米国生まれの日本人2人だったが、実際に番組制作にあたったのは、放送経験のある連合国軍の英国軍人以下3人の捕虜達だった。この捕虜達にトグリは、身の危険を冒して、食糧や医薬品を提供し続けた。捕虜達もトグリも、米兵の士気低下につながらないように放送用語等に配慮してこの番組の制作を行った。実際、この番組は米兵の士気を低下させるどころか、米国の音楽の放送もこれあり、好評を博したとさえ言える。
1945年:同盟通信時代の同僚の、日本人の血も入っているポルトガル国籍の男性と結婚し、ダキノ姓となるも、トグリは米国籍を維持した。終戦に伴って番組は終了した。その直後、米国の2人の記者が、米軍兵士の間で人気のあった「東京ローズ」を探したが、250米ドルをもらえるというので、トグリは自分が「東京ローズ」であると言って彼らのインタビューに応じた。しかし、約束に反して謝金は支払われなかった。このインタビュー記事を見た占領軍(米陸軍)と米司法省(FBI)は彼女を逮捕し、長期にわたって拘束して取り調べたが、容疑なしとして釈放した。その後、彼女は再び米国のパスポートを申請した。
1946年:「東京ローズ」についての映画がハリウッドで制作され、米国で上映された。この「東京ローズ」が厚顔無恥にも米国に帰ろうとしているとして、米国の有力コラムニストや米国の在郷軍人団体がトグリ非難を始め、米国世論を煽った。そこで、米司法省が彼女の再捜査を開始した。
1948年:上記の2人の米国人記者の内の1人が、番組の上記監修者2人を捜し出し、FBI(と米陸軍)に通報した。捜査官達はこの記者ともども2人を脅迫して、上記NHK番組の中で1944年、実際には日本の大敗に終わったレイテ海戦直後に、「あなた方はすべての船を失って、まさに太平洋の孤児になったのよ。どうやって故郷に帰るのかしらね」と語ったのはトグリであると偽証を行うことに同意させた。こうしてトグリは米国に護送され、サンフランシスコ到着と同時に逮捕され、上記を含む8つの嫌疑で国家反逆罪(Treason)で起訴された。
1949年:1年間の拘置所生活の後、トグリの裁判が始まったが、彼女にかけられた8つの嫌疑中7つは晴れたものの、米国まで連れて行かれて、2ヶ月間にわたって検察当局から想定問答をたたき込まれた上で行われた上記2人の偽証の結果、最後の1つの嫌疑はクロであるという心証を得た陪審員達は有罪評決を行い、彼女は10年の禁固刑と1万米ドルの罰金を科され、米国籍を剥奪された。トグリは、米国史上7人目、女性としては最初の国家反逆罪有罪者ということになる。この間、米国に渡ってきたトグリの夫のダキノに対し、米国政府は、二度と米国に来ないように誓約させた。
1956年:トグリは模範囚として、6年2ヶ月で出所した。出所後、日本への追放を拒み、親族の住んでいたシカゴに住み始めた。
1969年:米CBSがトグリの名誉回復を訴えるTV番組を放映した。
1976年:以前からトグリに関心を持っていたシカゴ・トリビューン記者(後に大学教授)が1974年からの東京特派員時代に偶然のきっかけで偽証のことをつきとめ、偽証を行った2人もそれを認めた。これを受け、1976年に彼はトグリの名誉回復を訴える記事を何本もシカゴ・トリビューン紙に書いた。
1977年:上記記事を踏まえて、再びトグリの名誉回復を訴えるTV番組が放映され、カリフォルニア州議会は全員一致で名誉回復を求める決議案を採択し、日系米国人連盟や上院議員に当選したばかりのS.I.ハヤカワも名誉回復を求めた。この結果、フォード米大統領は、離任直前にトグリの名誉回復を行い、彼女は米国籍を回復した。
1980年:1949年以来、一度もトグリに会うことがなかったダキノがトグリを離婚した。
2006年:1月、米国第二次世界大戦在郷軍人委員会が、トグリを表彰した。9月に死去。

3 コメント

 ハーバード大学教授で駐日米国大使を勤めたライシャワー(Edwin O. Reischauer。故人)は、ドウス昌代(注)の処女作である「東京ローズ」(サイマル出版会1977年)に序文を寄せて、「東京ローズは米国の正義の恥部となった」とし、トグリを反逆罪で断罪したのは、「依然として伝統的な人種的偏見の影響下にあり、大戦における反日本人的憎悪から全く解放されていなかった米国民衆である」と記しています。
 
 (注)私は、スタンフォード大学に留学した1974年に、日本人の友人に連れられて、日本研究家のピーター・ドウス(Peter Duus)教授のところに挨拶にうかがった。その時、キャンパス内の教授宅の門の前で同教授と立ち話をしたのだが、教授の傍らに無言で寄り添っていたのが昌代夫人だった。その後、夫人がこの本を出版したことを日本で知り、びっくりした記憶がある。

 他方、トグリは、どうして米国への忠誠心を維持し続け、米国籍を棄てようとしなかったのか聞かれた時、父親から「虎は縞模様を変えることはない」と教わったからだ、と答えています。
 トグリは、少し軽率なところはあったけれど、日本人の心意気を持った立派な米国人だったのです。
 そのトグリに悲劇的な一生を送らせることになったのは、黄色人種差別に凝り固まっていたがゆえに、米国が、日本を追い込むことによって先の大戦を引き起こすとともに、戦後トグリを偽りの容疑で断罪したためです。
 しかし、日系米国人のトグリに対して犯した罪については米国は謝罪し、かつまた、戦時中の日系米国人収容という罪についても米国は謝罪したけれど、先の大戦で無数の日本人を殺戮し日本の国土を荒廃させ、あまつさえ東アジアの秩序を崩壊させた罪については、米国はいまだに一言の謝罪もしていません。
 トグリの死去は、先の大戦に係る米国の大罪を追及する絶好のきっかけになりうるというのに、死去について独自報道すらしようとしない日本のメディアを見ていると、米国はまだ当分の間、日本に対して謝罪せずに逃げ続けることができそうですね。

太田述正コラム#1423(2006.9.27)
<安倍晋三について(その3)>

 (本篇は、コラム#1417の続きです。)

4 政策

 私のコラムを昔から読んでおられない方には、なじみのない言葉で恐縮ですが、私は、昨9月26日に成立した安倍内閣が、日本が縄文モードから弥生モード(比較的最近のものとしては、コラム#1057参照)への大転換期にある現在、第9条に係る憲法解釈変更ないし憲法改正にどう取り組むのか、日本の経済システムのグローバル・スタンダード(=米国)化に係る理念の構築(及びそれと裏腹の関係にあるグローバル・スタンダード化の限界の設定)を試みるのかどうか、に大きな関心を持っています(注7)。

 (注7)新内閣の経済閣僚の布陣が、財政再建派を一掃した経済高度成長派一色である(
http://www.nikkei.co.jp/neteye5/shimizu2/index.html。9月27日アクセス)などといったことには、さほど関心はない。

 安倍は、首相就任後初の記者会見で、前者について、「日米同盟では(双務性を高めることが)きわめて重要。(集団的自衛権の)研究をしっかり進め、結論を出してゆきたい」として、憲法解釈の変更に積極的に取り組む考えを強調するとともに、憲法改正についても「政治スケジュールに載せるべくリーダーシップを発揮する」と強調しましたが、後者については、「小泉内閣で進めた構造改革(=経済のグローバルスタンダード化(太田))はむしろ加速し補強する」と述べるとどめました(
http://www.sankei.co.jp/news/060927/sei001.htm
。9月27日アクセス)。
 後者については、官僚の最高ポストである事務の官房副長官に、初めて旧内務省系の現役官僚に代わって、旧大蔵省系の「民間人」である的場順三を据えたことから見ても、小泉内閣同様、(日本の最大の権益擁護団体たる官僚機構の代表格である)旧大蔵省による米国及び官僚機構のための理念なき「改革」(コラム#1285、1287、1299、1300)を続けていくだけではないかという懸念を持ちました。
 他方、前者については、安倍の思い入れたっぷりの発言から、大いに期待できると言いたいところですが、これも私は眉につばを付けざるをえません。
 自民党内に依然として憲法解釈変更ないし憲法改正に消極的な勢力が巣くっており、また、連立相手の公明党が憲法解釈変更ないし憲法改正に反対しているからです。
 具体的に見てみましょう。
 自民党丹羽・古賀派代表の古賀誠元幹事長は9月21日の同派総会で、「安倍政権を支えていく」と前置きした上で、同派共同代表の丹羽雄哉・元厚相・現自民党総務会長の意向に逆らい、「我々の理念と哲学という意味では(安倍氏と)溝がある。外交や安全保障の問題で抑止力になり、抑止すべきは抑止する役割を担わなければならない」と訴えました(
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20060921ia23.htm
。9月22日アクセス)し、麻生太郎外相(留任)は、安倍首相と全く同じ外交・安保観を持っているからこそ、引き続き外相職に留任したはずですが、その麻生は自民党「ハト」派の代表格の河野洋平現衆院議長の派閥に属しており、河野の議長就任に伴い空席となっているこの派閥の会長に就任することを河野は麻生に9月22日に要請し、麻生も前向きの返事をしています(
http://www.tokyo-np.co.jp/flash/2006092301000005.html
。9月23日アクセス)。
 このように、自民党は、外交・安保観ないし憲法観、つまりは国家観が180度異なる人々が、権力の維持を至上命題として、党内・派閥内で同居し、協力し合っているというという点で旧態依然であり、全く「ぶっこわれて」などいないことが分かります。
また、自民、公明両党が「安倍政権」で取り組む重点政策課題を記した合意文書には、案の定、公明党の立場に配慮して、憲法改正や、集団的自衛権に関する記述は出てきませんでした(http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20060922i401.htm?from=main4
。9月22日アクセス)し、公明党から入閣した冬柴国交相は、就任時の記者会見でさっそく、集団的自衛権行使をめぐる政府解釈の変更について「我が国に対する急迫不正の侵害がない限り武力行使はできないという解釈が一貫しており、それはできない」と明言し、見直しについては「個別的自衛権の範畴に入る部分<に限る>」と条件をつけました(
http://www.asahi.com/politics/update/0927/004.html
。9月27日アクセス)。
 安倍首相といえども、次回の参議院選挙で自民・公明両党で過半数以上を確保することを至上命題としている以上、この公明党との連立を当面解消する気がないことは明らかです。ということは、この連立は、少なくとも将来、自民党が衆院のみならず、参院でも単独過半数を回復するまでは続くということです。
 結局のところ、安倍首相が本当に憲法解釈変更、そして憲法改正をやりたいのならば、公明党との連立を解消し、自民党内の「ハト」派を、郵政民営化反対派を切り捨てたように党外に追放するとともに民主党の一部を取り込んで政界の再編をなしとげない限り不可能であり、それを行う気概と工程表を阿部首相が持ち合わせているようには思えません。
 そうだとすると、この問題は、戦後一貫してそうであったように、一歩も前には進まないことでしょう。
 一体日本が吉田ドクトリンの呪縛から自らを解放し、米国から「独立」する日はやってくるのでしょうか。

5 終わりに代えて

 ガーディアンブログで、安倍首相論が戦わされています。
 たたき台となった論考のできが余りにも悪いので、かつて靖国神社問題で参戦した(コラム#915、918??923)ように、今回も参戦を考えたのですが、その後のブロッガー達のやりとりを見て、必ずしもその必要はないという結論に達しました。
 関心あるむきは、http://www.guardian.co.uk/commentisfree/story/0,,1881737,00.htmlをご覧あれ。

(完)

太田述正コラム#1417(2006.9.23)
<安倍晋三について(その2)>

3 本人

 (1)始めに
 晋三本人については、成蹊小・中・高校・大学という「地味な」学歴であること、米国の南カリフォルニア大学に「遊学」したこと、大臣の経験がないこと、が問題点として挙げられることが多いので、それぞれについて、簡単にコメントしてみましょう。

(2)学歴
 晋三が卒業した成蹊大学法学部は、代々木ゼミの最新の偏差値では56であり、政治家の家の三代目で外国に遊学したことがあるといった共通点があり、かつ晋三の自民党総裁前任者にしてメンターであるところの、小泉純一郎(1942年??)首相の卒業した慶應大学経済学部の偏差値66に比べても入学難易度がかなり低い(
http://www.yozemi.ac.jp/rank/gakubu/index.html。9月23日アクセス)ことは事実です。
 しかし、小泉首相の場合は公立高校から大学受験をして慶應に入ったのに対し、晋三の場合は、成蹊小学校からエスカレーター式に大学まで行っており、二人の学歴の単純な比較はできません。
 一般的に言えば、成蹊高校において、成績が上位3分の1くらいの生徒は積極的に他大学を受験し、真ん中の層が成蹊大学に進学し、成績が下位の生徒は成蹊大学に進学を許されず他大学に流れる、ということのようです(「有名私立中学首都圏版」KKベストセラーズ 1996年 218頁)。
 しかし、晋三があえて他大学を目指さなかった可能性もあります。ですから、晋三は成蹊高校、従ってまた恐らく成蹊大学でも成績は真ん中以上だった、ということは言えそうです。(成蹊大学の学部ごとの偏差値に差はほとんどない。)
 では晋三は、成蹊高校や成蹊大学でできの良い方だったのか真ん中くらいだったのでしょうか?
 これは分かりません。
 晋三が小学生か中学生の時に、当時東大生であった平沢勝栄(現衆議院議員)が彼の家庭教師をしているので、平沢には彼の潜在学力のほどは分かっているはずですが・・。
 とまれ、細川護煕以来、晋三まで8代続いて首相に私学出身者が就くことになったわけで、東大卒など絶えて久しいところに、日本の政治の世襲化のひずみが現れていると言えるのかもしれません(
http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20060919k0000m010107000c.html
。9月18日アクセス)。

 (3)米国「遊学」
 小泉純一郎が過ごしたロンドン大学に比べれば、晋三が過ごした南カリフォルニア大学の入学難易度(どちらもundergraduate)は相当低そうですが、いずれにせよ二人とも、卒業したわけではなく、「遊学」しただけですから、そんなことは余り関係ないでしょう。
 なお、スタンフォード大学政治学科でundergraduateの科目もとってみた私の経験からすると、時間をいくらでもかけられるペーパー執筆で単位がとれるgraduate(大学院)に比べ、限られた時間で答案を作成しなければならないundergraduateの方が、語学にハンデのある日本人にとっては難しいとも言える(注5)のであって、南カリフォルニア大学の政治学科を卒業できなかった晋三が無能であったとか遊んでいたとかは必ずしも言えないと思います。

 (注5)理工系や経済・経営系の学科であれば、それほど日本語はハンデにならないので、当然のことながら、大学院の方が単位取得は難しい。なお、米国の場合、大学院は日本の大学の3??4年並、undergraduateは日本の大学の1??2年(つまり、教養課程)並、のレベルと考えればよい。
 
 そんなことよりも、どれだけ海外経験を肥やしにできたか、あるいはどれだけ英語力を身につけることができたか、が問題です。
早晩、そのあたりは晋三首相の言動を通じて明らかになることでしょう。
 
 (4)政治家としてのキャリア
 晋三は、大臣の経験がないとは言っても、大臣を束ねる役割である官房長官を勤めており、かつ党の幹事長まで経験しており、厚生大臣2回、郵政大臣1回だけで幹事長経験もなくて首相になった小泉純一郎と比べてキャリア的に決して遜色はありません。
 政治家は、大臣などを勤めなくても、政策を勉強する機会はいくらでもあるのですから、問題は本人がどれだけ政策を勉強したかです。
 ただ、ほとんど政策を勉強しなまま首相になった小泉純一郎(注6)が、「立派に」首相を勤め上げたことからすれば、そんなこともまた、どうでもいいのかもしれませんね。
(以上、特に断っていない限り
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%80%8D%E6%99%8B%E4%B8%89
(9月22日アクセス)、
http://www.kyudan.com/opinion/abesinnzo.htm
(9月23日アクセス)による。)

 (注6)小泉が首相になる直前、小泉の「盟友」山崎拓はオフレコで新聞記者達に、「いいか、君たちびっくりするぞ。30年も国会議員やっているのに、彼は政策のことをほとんど知らん。驚くべき無知ですよ」と語ったという。なお、小泉が首相になった直後、私自身があるパーティーで、同じ山崎拓が、小泉の安全保障への無関心ぶりを語ったのを聞いた話は以前(コラム#226で)記したところだ。

(続く)

太田述正コラム#1416(2006.9.22)
<安倍晋三について(その1)>

1 始めに

 安倍晋三(1954年??)官房長官が自民党総裁に選出され、首相に就任することになりました。
 彼に対しては、恐らく、今後このコラムで厳しい批判を投げかけていくことになると思いますが、今回はその門出のはなむけとして、できるだけ客観的にそのプロフィール等を追ってみたいと思います。

2 日本史の節目で活躍した祖先

 (1)父方
 安倍晋三の父方の祖先は、前九年の役(1051??1062年)で滅亡した蝦夷の長、安倍一族の族長、安倍貞任の弟、安倍宗任であるとされています。
 「安倍一族を滅ぼした<源氏の棟梁にして陸奥守である「官軍」の総帥、>源頼義・義家親子は、宗任の武略を惜しみ、死一等を減じて・・頼義の領地・伊予国に連れてきた」のだそうで、松浦水軍で有名な松浦氏もその子孫であるといいます。
 (以上、
http://www.kajika.net/furusawa/20060709-2.htm
(2006年9月22日アクセス)による。)
 前九年の役は、「金・駿馬・・といった奥六郡の財宝と、安倍氏掌握の北方交易によるアシカ、アザラシの皮などの珍宝・・を、頼義が手に入れるための私戦に等しい」
http://www.iwate-np.co.jp/sekai/sekaiisan/sekaiisan12.htm。9月22日)、言ってみれば、権力を笠に着た新興勢力による土着勢力いじめだったわけで、さぞかし宗任らは無念やる方なかったことでしょう。
 しかし、一族を滅ぼした憎き敵に情けをかけられて宗任及びその子孫は生き延びることができたわけであり、彼らはその敵であったところの、前九年の役やその続編とも言える後三年の役で力をつけた新興武家勢力が、内ゲバである源平の戦いを経て、朝廷に代わって日本の権力を握るプロセスを、故郷から遠く離れた地で反権力意識を心底に潜めつつ複雑な思いをして見守り、複眼的歴史観を培ったことと思われます。
 安倍一族の末裔としての矜恃と反権力意識、そして複眼的歴史観を身につけていた考えられるのが、晋三の祖父、安倍寛(かん。1894??1946年)です。
 寛は、山口県出身で、東大法学部を卒業後出身地の日置村長、山口県議を経て、衆議院議員に当選するのですが、大政党の金権腐敗を糾弾するなど、清廉潔白な人物として知られ、大変に人気が高く、「今松陰」「昭和の吉田松陰」と呼ばれていたといいます。
特筆されるのは、彼が時の権力に阿ることも時代に流されることもなく、先の大戦中の1942年の翼賛選挙に、大政翼賛会の推薦を受けずに無所属で出馬し当選したことです(注1)(注2)。
(以上、安倍寛については、
http://wpedia.search.goo.ne.jp/search/%B0%C2%C7%DC%B4%B2/detail.html?LINK=1&kind=epedia
(9月22日アクセス)による。)

 (注1)この翼賛選挙(直接的にはその鹿児島2区の選挙)について、大審院の吉田久裁判長は、大戦中の1945年3月の判決で、大政翼賛会によって推薦されなかった候補には投票しないよう呼びかけが行われるなどさまざまな妨害が加えられたことから、「自由で公正な選挙ではなく、無効だ」として選挙のやり直しを命じるとともに「翼賛選挙は憲法上大いに疑問がある」と指摘した(
http://blogst.jp/momo-journal/daily/200608/10
。9月22日アクセス)。安倍寛のような議員や、このような裁判官が存在できたことは、これまでも累次申し上げてきたように、大戦中の日本で、なお自由民主主義が機能していたことを示している
 (注2)朝鮮日報は、「安倍氏の看板は家柄だ。元首相の孫、外相の息子という血筋は韓国でもよく知られている。」と報じた
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2006/09/14/20060914000025.html
。9月15日アクセス)ものの、惜しいかな、安倍寛や、ご先祖様の阿部一族のことまでは触れていない。

 晋三の父親の安部晋太郎(1924??91年)については、比較的よく知られています。
 晋太郎は、東大法学部を出てから毎日新聞に入社し、岸信介(後述)の長女と結婚し、そのご縁で、岸が外相に就任した時に外相秘書官となり、更に岸が首相になると首相秘書官になります。その後、本籍地の山口から総選挙に立候補して当選し、農林大臣・官房長官・通産大臣・外務大臣、自民党幹事長等を歴任しますが、ついに目指した首相になることなく、志半ばで病死します。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%80%8D%E6%99%8B%E5%A4%AA%E9%83%8E
。9月22日アクセス)。

 (2)母方

 晋三の母方の祖父の岸信介(1896??1987年)を知らない人はいないでしょう。
 岸は、山口県に生まれ、東大法学部を優秀な成績で卒業した(コラム#818)後に農商務省に入省し、日本型経済体制の構築に内地と満州国で辣腕をふるいます。先の大戦直前に東條内閣に(商工次官から)商工相として入閣し、軍需の面で戦争遂行の一翼を担います。1942年には上述の翼賛選挙で衆議院議員に当選します。1944年、戦況悪化を憂慮し、戦争終結を図るために危険を顧みず、東條が行おうとした内閣改造に閣僚辞任を拒んで抵抗し東条内閣を総辞職に追い込みます。敗戦後、A級戦犯容疑者として逮捕されますが、不起訴となり、以後、自由、民主両党の保守合同を導き、1956年に石橋湛山内閣に外相として入閣し、2カ月後に石橋首相が病に倒れたことで後継首相になります。そして反対運動に屈することなく安保改訂を行った後に首相を辞し、1979年に政界を引退しました(注3)
http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20060915/mng_____tokuho__000.shtml
(9月15日アクセス)、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%B8%E4%BF%A1%E4%BB%8B
(9月22日アクセス)、及び拙著「防衛庁再生宣言」234??237頁)。

 (注3)私は、戦前の岸も戦後の岸も、その功績を高く評価しているが、晩年の岸の統一教会との深い関係はいただけない。晋三がこの関係を引きずっていることは懸念材料だ。

 なお、岸の弟に、やはり首相を務めた佐藤栄作がいますが、そこまで手は広げないことにしましょう。
 晋三は、「私は政治のDNAは安倍晋太郎より岸信介から受け継いだ」と語っており、著書「美しい国へ」(文芸春秋)の中で、自らの政治信念の根底に、自らが6歳だった1960年に日米安保条約改定を成し遂げた、この祖父への尊敬の念がある、と記しています(注4)(東京新聞上掲)。

 (注4)「祖父はこのとき、この片務的な条約を対等にちかい条約にして、まず独立国家の要件を満たそうとしていたのである。いまから思えば、日米関係を強化しながら、日本の自立を実現するという(中略)きわめて現実的な対応であった。・・祖父は(中略)国の将来をどうすべきか、そればかり考えていた真摯な政治家としか映っていない。・・世間のごうごうたる非難を向こうに回して、その泰然とした態度には、身内ながら誇らしく思うようになっていった。」

 しかし私には、晋三が、安部晋太郎、すなわち安倍一族から受け継いだDNAにもっと誇りを持つべきだと思うのです。

(続く)

太田述正コラム#1414(2006.9.21)
<重村智計氏の本(その3)>

 (前回書き忘れたが、国家安全保衛部幹部のミスターXは、同部が拉致被害者の管理を担当している(173頁)という点だけとっても、対日交渉責任者として適任だった。)

4 日本の政治家の無能・堕落

 この本を日本の政治家の無能・堕落ぶりを日本の対北朝鮮外交を例にとって俎上に載せた本ととらえれば、結構読ませます。
 小泉首相の話にしぼって、私の感想ともどもご紹介しましょう。
 本に出てくる小泉首相がらみの事実関係の概要は次のとおりです。

2002年4月:1月29日の田中真紀子外相更迭後、小泉首相の支持率が79%から40%ぎりぎりまで急落したため、小泉首相は、その打開をねらって日朝首脳会談実現を決意し(57??58、187頁)、ある日本人を通じてその意向を金正日に伝えた(189頁)。伝えた際、拉致被害者全員の安否情報を出すように求めた(191頁)。たまたま、金正日の方も当時、1月30日にブッシュ米大統領が一般教書演説で北朝鮮をイラク・イランと並ぶ「悪の枢軸」と名指ししたこともあって米国から軍事攻撃を受ける懼れと、韓国で保守派の大統領が2002年12月の選挙で当選し金大中政権の太陽政策がご破算になる懼れにおののいており、日本を籠絡するとともに日本から経済協力を引き出そうと図った(129、190??191頁)。
 その後、公式ルート(外務省-?北朝鮮当局。当初は田中局長--ミスターX)を通じ、日朝正常化の時期を2003年1月とする、日本側は1兆円以上(?)の経済協力を行う、北朝鮮は拉致被害者の安否情報を明らかにする、というラインで事実上の合意が成立した(35、130、162頁)。
9月3日頃:上記日本人を通じ、日朝首脳会談の際、拉致被害者全員の安否情報を出して欲しい、さもなければ小泉内閣は倒れる、と金正日に伝えた。
9月10日:上記日本人を通じて、金正日から、日朝首脳会談の際、拉致被害者全員の安否情報を出すとのメッセージが寄せられた(36、144頁)。
9月12日:上記日本人を通じて、同日行われた日米首脳会談での米国政府の北朝鮮の核問題に対する厳しい姿勢について金正日に伝えた(36頁)。
9月17日:平壌で第一回日朝首脳会談が行われた。拉致被害者は5名生存、8名死亡と伝えられた(147頁)。
 その後、日本の世論が沸騰し、公式ルートで(?)5名の1週間から10日の里帰りを求めたところ、北朝鮮当局はそれを受け入れ、この5名は帰国した(151頁)。
10月24日:日本政府は、この5名を北朝鮮に戻さない方針を決定した。これで田中局長--ミスターXルートは閉鎖された。(161??162頁)
2004年4月頃:7月の参議院選挙の前に年金問題等で落ち込んでいた(朝日後掲)支持率を上げる必要があった小泉首相は、首相秘書官?朝鮮総連幹部、のルートで再訪朝の意向を北朝鮮当局に伝えた(165??166頁)。小泉首相からは拉致被害者の家族の来日を求め、北朝鮮側はその見返りを求めた結果、日本政府は食糧(米)支援25万トン等を行うことになった(166??167頁)。
5月22日:平壌で第二回日朝首脳会談が行われた。金正日は、格下の出迎え・三流の会談場所・ジェンキンス氏を小泉首相自らに説得させる、等の意趣返しをして、第一回首脳会談の時の約束等を守らなかった小泉首相を辱めた。
結局地村夫妻と蓮池夫妻の家族計5名の来日だけしかその時点では実現しなかったため、日本の世論は再び沸騰し、日本政府は約束の半分の12万5,000トンの食糧支援等しか行わなかった。(曾我ひとみさんの家族であるジェンキンスさんら3名の来日はしばらく後に実現した。)
また、前代未聞のことだが、その後開かれた朝鮮総連の大会に「自民党総裁」の名前で小泉首相は挨拶文を送った。(以上、166??171頁)
2006年4月末:ブッシュ米大統領は、拉致被害者家族の横田めぐみさんの母、横田早紀江さんと会見し、暖かい言葉をかけた。(小泉首相は、このようなことを拉致被害者家族や帰国した拉致被害者に対し、一切行っていない。)(232頁)。

 さて、以上がすべて事実であるとして、小泉首相は、最も大事な節目で、何度も公式ルートを使わず、独自の二種類の非公式ルートで北朝鮮当局に連絡をとる、という異常な行動をとっています(注7)。
 
 (注7)重村氏は、第二回首脳会談の前のことだけを問題視している(249頁)が、氏があれほど外務省を通じた交渉を推奨していることからすれば、一貫性のないことおびただしい。

 これは、自分の内閣の存続や自民党の選挙での勝利のため、すなわちいわゆる「政局」のため、であることを匂わせつつ、拉致問題等の進展を金正日に懇願するというメッセージの内容から、公式ルートに載せることがはばかれたからだと私は思います。
 それどころかこの経緯を見ると、小泉首相は、拉致問題を政局のために利用するという発想だけしか持ち合わせておらず(注8)、ブッシュ大統領とは違って、北朝鮮の核開発に対する危機意識はもとより、拉致被害者へのシンパシーも、拉致問題を人権問題として追及し北朝鮮の体制変革を図る手段としようという発想(注9)も全くなかったことが透けて見えてきます。

 (注8)このことは第二回首脳会談の直後に、コラム読者の鈴木方人さんが鋭く指摘されている(コラム#360参照)。
 (注9)重村氏は、米国政府によって今や拉致問題の解決は日米同盟の共通の価値(目標)になったと言う(232頁)が、ちょっと違うのではないか。横田さんとの会見の場には、脱北者も呼ばれていた(コラム#1207)ことからすれば、北朝鮮による人権蹂躙の追及は米国による北朝鮮体制変革の手段となった、ととらえるべきだろう。

 しかも、申し上げるまでもないことながら、拉致問題での小泉「外交」の大勝利は、米国による対北朝鮮恫喝政策の副産物として棚ぼた的に転がり込んできたものにほかなりません。
 小泉首相は、大部分の自民党系の政治家とは違って、クリーンではあるけれど、いわゆるステーツマンならぬポリティシャンの典型であることが、改めてよく分かりますね。
 そんなポリティシャンに5年半もの長い任期と、戦後二番目に高い在任中平均支持率を与えた(
http://www.asahi.com/politics/naikaku/TKY200608280314.html
。9月15日アクセス)日本の有権者のおめでたさには、ただただため息をつくほかありません。

(完)

太田述正コラム#1413(2006.9.20)
<重村智計氏の本(その2)>

3 首をかしげたその他の点

 この本のサブテーマの一つは、「日本はいまや、・・<かつての>朝鮮半島や中国<のような>・・科挙の制度による中央集権制と同じ官僚の弊害に、直面している」(13頁)、という、私も共感を覚える重村氏の主張を、日朝首脳会談等を所管した田中均外務省アジア大洋州局長(当時)らの外務官僚を俎上に載せて裏付けることです。
 しかし、田中局長が、「一通の外交記録も残さず、北朝鮮と秘密交渉を行<う・・という>国会対策的手法<で>・・日朝の首脳会談を推進した」(18頁)ことを重村氏のように非難するのは全く筋違いです。
 田中局長がカウンターパートとした北朝鮮の国家安全保衛部(諜報機関)高官のミスターX(注5)(183頁)をそれまでの統一戦線部の黄哲(ファン・チョル)に代わって日本政府との連絡役にしたと通知してきたのは北朝鮮政府であると重村氏は記しています(88、116??117頁)。

 (注5)国家安全保衛部副部長。後第一副部長(部長欠なので実質的には部長)(183頁)。彼はもともと、日朝交渉を監視し、金正日に報告する責任者であったという(128頁)。
 
 だとすれば、このミスターXと田中局長らが行う交渉がうさんくさい秘密交渉のわけがありません。
 例えば、私は防衛庁時代に国連海洋法会議の日本政府代表代理の辞令をもらい、いわば臨時の外務省職員になって外交旅券でジュネーブに飛んで国際会議に臨んだことがありますが、ミスターXの立場もそれと同じことです。
 私の場合と違ってミスターXの場合、(北朝鮮の)外務省の指揮命令に服さないのかもしれませんが、そんなことを問題視していたら、北朝鮮憲法には一切の武力を指揮・統率し、国防事業全般を指導するとだけあって、外交を指導するとは書いてない国防委員会(
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E6%B0%91%E4%B8%BB%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E4%BA%BA%E6%B0%91%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD%E5%9B%BD%E9%98%B2%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A
。9月19日アクセス)の委員長でしかない金正日が小泉首相のカウンターパートとして、日朝首脳会談に臨んだり、平壌宣言に署名したりする権限があるのかどうかすら、疑問視する必要が出てきます。
 北朝鮮がまともな国ではないことを、北朝鮮専門家の重村氏にお教えする必要はありますまい。
 重村氏はまた、北朝鮮の外務省を相手に交渉すべきであったとし、その理由として、外交官はウソをつかないけれど、工作機関員はウソをつくことを商売にしている(116頁)ことを挙げていますが、そんなバカな話はない。
 外交官にせよ、工作機関員にせよ、個人レベルの倫理と組織の一員としてのレベルとは切り離して考えなければならないことぐらい、毎日新聞という大組織の一員であった重村氏はお分かりでないのでしょうか。
 かく言う私も、個人的にはバカがつくほどの正直者であることは自他共に許すところですが、防衛問題に係る日米交渉に携わった際には、日本「保護国」政府首脳の方針に従い、「宗主国」米国政府に対してしばしば、場合によっては外務省もだまして、悪意や善意のウソをついたものです。
 なお、重村氏は簡単に工作機関員とおっしゃるが、私は工作機関員でございます、とはまず彼らは名乗りません。そもそも、外交官の中に工作機関員が混じっていることは国際常識です。
 だから、私が職務上、あるいはプライベードでつきあった外国人(や日本人)のうち、誰が工作機関員であったかは確言できませんが、工作機関員ではないかと疑った人々は、おしなべて個人レベルでは、むしろそれ以外の人々よりも正直である、という印象を持っていることを付言しておきましょう。
 なお、重村氏は、外務官僚の堕落・無能ぶりの例証として、歴代のアジア担当局長等の外務官僚が一貫して日朝国交正常化の方が拉致問題よりも重要と考え、しかも拉致問題こそ重要だと日本の世論が考え始めた頃になってもなお国交正常化や核問題の方が重要だと世論をミスリードし続けたことを挙げています(116、228??230頁)が、これもおかしい。
 重村氏自身が指摘するように、日本の政治家は一貫して北朝鮮に甘く、しかも利権漁りのために北朝鮮との議員外交に従事する人々が少なくありませんでした。メディアもそれを後押しないし黙認していました。(239??250頁)
 当然世論もそうであったはずです。
 こんな中で外務官僚達だけが別の動きができるわけがありませんし、別の動きをしたとすれば僭越というものです。
 拉致情報が次第に増え、拉致被害者達の努力もあって、やがてメディアが変わり、そして世論が変わり、だから政治家の意識も変わった段階で、政治家の指示に従い、外務官僚が拉致問題に取り組み始めた、ということであり、それでよいのです。
 責められるべきは、もっと早く拉致問題の重要性を認識し、世論を啓発すべきであった日本の政治家や(外務官僚OBを含む)有識者です(注6)。

 (注6)誤解しないでほしいが、私は外務官僚もまた、他の官僚と同様、その多くが無能で堕落していると指摘するとともに、外務官僚特有のゆがんだ人間像も指摘してきた(コラム・バックナンバー省略)。「実は、日本の外交官の一部には、米国の外交官を小バカにする人たちがいる。・・米国務省の高官に「君らは、どうせ四年もすれば、交代するだろう」といった態度を取る・・。また、・・ワシントンの駐米日本大使館の若い外交官の中には、・・自分たちは、日本外務省の「主流」だが、・・国務省の日本担当の外交官・・たちは出世にはずれた「傍流」ではないか、と・・軽くあしらう人たちもいる。」(45頁)は、まさにその通りだろうと思う。
    また、私自身、田中均氏については、北米局審議官時代の彼を知っているが、アジア大洋州局長時代の彼の拉致被害者への冷たい態度も合わせ、高い評価はしていない(コラム#45、63、85、86)。

(続く)

太田述正コラム#1412(2006.9.19)
<重村智計氏の本(その1)>

1 始めに

 日曜日に読者の島田さんから、彼が読んだばかりの重村智計氏の本1冊と佐藤優氏の本2冊の寄贈を受けたのですが、まず重村氏(かつて毎日新聞記者、現早稲田大学教授)の「外交敗北――日朝首脳会談と日米同盟の真実」(講談社2006年6月)を読み終えたので、感想を述べたいと思います。
 この本から日本の「外交」に関して私が得られた唯一の収穫は、外務省担当記者が(国内政治を担当している)各メディアの政治部の記者であって外信部の記者でない(55??56頁)、という知識が得られたことです。
 そいつにはふつつかながら気がつきませんでした。
 それが事実であるとすれば、日本の「外交」に関する記事・論説の多くは国際問題についての識見がほとんどなく、英語の力にも乏しい記者によって書かれているわけであり、これらの記事・論説のクオリティが総じて極めて低いのも当然であると腑に落ちました。(なぜ「外交」であって外交ではないのかは、後で分かります。)
 得るところはそれくらいしかないのですから、国際問題に関心のある皆さんにはこの本を読むことをお勧めできません。
 ただ、この本には、私がかねてから口を酸っぱくして指摘してきた、日本の政治家の堕落ぶりが、日朝交渉を材料にビビッドに描かれている(注1)ので、日本の「外交」ではなく、そちらにご関心のあるむきは、斜め読みされるのも悪くないでしょう。

 (注1)実はこの本には、外務官僚の堕落・無能ぶりも描かれているのだけれど、一般論ならともかく、こと日朝首脳会談に関する限り、重村氏の筆致には承伏しがたい部分が多い(後述)。

2 私が一番首をかしげた点

 私が最も首をかしげたのは、タイトル(「外交敗北」)からもうかがえる、この本の最大のテーマです。
 日本政府は二度の日朝首脳会談等の結果、わずか12万5千トンの食糧と7百万円相当の医薬品を北朝鮮に供与しただけ(
http://www.hanknet-japan.org/data/05_01_02a.html
。9月19日アクセス(以下同じ))(注2)で、拉致被害者5人の永住帰国とその家族8人の来日・永住をかちとった上に、北朝鮮の金正日体制の悪者イメージを国内外に広めることができたのですから、これはどう考えても日本の「外交」の大勝利であって「外交」の敗北とは言えないからです。

 (注2)重村氏は食糧支援にだけしか言及していない(130、171頁)。

 重村氏は、日本政府が、米ブッシュ政権が対北朝鮮宥和政策に反対であることを知っていて極秘裏に日朝国交回復に向けての北朝鮮との事務交渉を行い、日朝首脳会談の実施を決め、その後でそれを一方的に米国政府に通知したことで、日米同盟を危機に陥れたとし、それが敗北だ、というのです(30??46頁)。
 しかし外務省は、2002年8月27日に、東京でアーミテージ米国務副長官とベーカー駐日米大使(いずれも当時)に対し、平壌で日朝首脳会談が行われる3週間も前の未公表時点(注3)で、そのことを通知しており(43頁)、小泉首相が9月12日にニューヨークでブッシュ大統領に会い(30頁)、改めてそのことを話題にするまでの間には、日米両政府間で十分調整が行われたはずです。

 (注3)公表したのは8月30日(22頁)。

 小泉首相が、かねてから「拉致問題の解決なくして<北朝鮮との>国交正常化なし」というスタンスであること(244、249頁)は当然伝えられたでしょうし、日朝首脳会談において合意され、発表される予定の平壌宣言の案の骨子についても米国政府に伝えられたはずです。
 具体的には、この平壌宣言中には、「双方は朝鮮半島の核問題の包括的な解決のために、該当するすべての国際的合意を順守することを確認した。」、「双方は、日本側が朝鮮民主主義人民共和国側に対して国交正常化後、双方が適切とみなす期間にわたって・・<各種経済協力>・・が実施されることがこの宣言の精神に合致するとの基本認識のもと、国交正常化会談で経済協力の具体的な規模と内容を誠実に協議することにした。」という条文があり(
http://www.dprknta.com/polotics/il-cho.html
)、北朝鮮に核に係る国際的合意を遵守させるを約束させる一方で、国交正常化以降にしか日本は北朝鮮に経済協力を行わないことを説明したはずです。
 つまり、米国は、北朝鮮への経済協力は日朝国交回復が前提であり、その日朝国交回復は、拉致問題が解決すること、かつ北朝鮮が核に係る国際的合意を遵守すること、が前提条件であると受け止めたはずなのです。
北朝鮮が、ジュネーブ合意に反して核開発を行い、濃縮ウランの計画を進めているのをしぶしぶ認めたのは2002年10月4日に平壌でケリー米国務次官補(当時)に対してでしたが(79??84頁)、8月までには米国はその状況証拠をつかんでいたことが、ボルトン米国務次官(当時)が8月26日に東京での記者会見で、「北朝鮮がジュネーブ合意を・・遵守していると確認できない」と述べていた(41頁)ことからも分かります。
日朝首脳会談開催を知らされる前から、米国政府は日本政府に対し、近々北朝鮮の核開発の証拠を提示するつもりでいて、開催を知らされた後も、証拠さえ日本政府に提示すれば、その時点で日朝国交回復交渉にストップをかけられる、と判断していたと考えるのが自然です。
そうである以上、北朝鮮側から拉致問題で何らかの情報開示がなされる・・金正日体制の恥部の一つが暴露される・・と日本政府から聞かされていた日朝首脳会談にゴーサインを出しても何ら問題がない、と米国政府は判断したと考えられるのです。
私が言いたいのは要するに、二度の日朝首脳会談等の日本の「外交」についても、それが米国の承認の下、米国の対北朝鮮政策の一環として行われたと考えるべきである、ということです。
そもそも重村氏には、日本は米国の保護国であって(注4)外交自主権などなく、従って米国の意向に基本的に沿った外交、すなわち「外交」しかできない、という根本的な認識が全く欠けています。

(注4)軍隊が存在せず・・自衛隊があるではないかとおっしゃる読者は私の過去の関連コラムを熟読して軍隊との違いを納得されたい・・、諜報機関も存在しないからこそ、日本にとっては日米安保条約という米国による日本保護条約が不可欠であり、この条約の下で日本は紛れもない米国の保護国なのだ。

 そんなことは、少なくとも政治家や外務・防衛・旧大蔵・旧通産官僚で日米関係に携わった人々にとっては暗黙の常識です。その常識を欠く重村氏は、これら政治家や官僚のただ一人とさえ腹を割った話をできる関係を構築していないという点で、(かつての)新聞記者としても国際問題研究者としても、いささか問題なしとしない、ということになります。
 これくらいにしておきましょう。
 米国の承認の下で行われた二度の日朝首脳会談等の日本「外交」は、北朝鮮に大敗北をもたらしたのであり、日本の小泉政権に対するブッシュ政権の覚えは一層めでたくなったのです。

(続く)

太田述正コラム#1343(2006.7.14)
<ジダン事件>

1 始めに

フランスのジネディーヌ・ジダン(Zinedine Zidane。愛称Zizou)選手(34)が、彼の事実上の引退試合である晴れのサッカー・ワールドカップ決勝(9日)で、イタリアのマルコ・マテラッツィ(Marco Materazzi)選手(32)に頭突きをくらわせてレッドカード(退場処分)を受けたこと、そのジダンが12日、フランスのテレビ2社のインタビューに応じ、マテラッツィが「とても耐え難い言葉を繰り返した」と述べ、自分の母親と姉への侮辱が原因だったと説明したのに対し、マテラッツィは地元紙で緊急反論しつつもジダンの姉に関する発言を事実上認めたこと
http://www.daily.co.jp/soccer/2006/07/14/0000070489.shtml。7月14日アクセス)
は、ご存じの方が多いと思います。
この事件を、単に両者の個人的な喧嘩ととらえるべきではない、というのが今回のテーマです。

2 フランスの問題点

 ジダンの活躍で1998年のワールドカップにフランスが優勝した時以来、貧しいアルジェリア移民の子供であるジダンは、フランスにおける社会的調和の象徴と目されてきました。
 そのおかげで、ジダンは、フランスの右翼のルペン(Jean-Marie Le Pen)のような男からは、ジダンはフランス人ではないと中傷され、在仏等のイスラム・アラブ勢力からは、ジダンがアルジェリアの少数民族であるベルベル人(非アラブ)であることやジダンが敬虔でないイスラム教徒であることを咎められてきたのです(注1)。

 (注1)1998年に、ジダンはサウディの選手の人種差別的暴言に怒り、この選手をこづいて二試合出場禁止になったことがあるし、ジダンの父親は、アルジェリア独立紛争の際、フランス協力者(harki)であったと非難された

 このようにジダンは、(サッカー選手になる前もそうですが、)サッカー選手として、対戦相手だけでなく、四方八方の敵と戦い続けてきたのです。

3 イタリアの問題点

 1998年の時もそうでしたが、今次フランス・チームの特徴は、その「人種」的多様性にあります。14人の選手中10名はアフリカ移民の子供か孫です。
 それに対し、イタリア・チームの中に移民の子供や孫は全くおらず、欧州のワールドカップ参加チームの中では、唯一と言ってよい白人だけのチームなのです。
 しかも、イタリアのサッカーは親ファシズム勢力との関係が強く、イタリアがワールドカップに優勝すると、これを祝って、ローマの古いユダヤ人街には、ナチス鍵十字の落書きが沢山書き殴られましたし、政権交代前のベルスコーニ内閣で閣僚を務めた政治家は、イタリアは、「黒人・共産主義者・イスラム教徒」からなるフランス・チームに勝利した、と言ってのけたものです(注2)。
 (以上、http://www.nytimes.com/2006/07/11/sports/soccer/11cnd-italy.html?pagewanted=print
(7月12日アクセス)、及び
http://www.time.com/time/world/printout/0,8816,1213502,00.html(7月14日アクセス)
による。)

 (注2)この元閣僚は、オランダのムハンマド風刺漫画騒動の時に、風刺漫画の一つをプリントしたTシャツを着てTV番組に出演し、閣僚辞任に追い込まれた人物だ。

4 耐え難い言葉をめぐって

 マテラッツィがジダンに投げかけた「耐え難い言葉」が具体的に何であったのかはつまびらかにされていませんが、売春婦たる母親(姉)の息子(弟)、ないしテロリストたる母親(姉)の息子(弟)、であったのではないか、と噂されています。
 前者が本命ではないかと思われます(注3)が、そうだとすると、イギリスのベッカム(David Beckham)御大がそれをやらかしたことがあります。

 (注3)ジダンの母親は、「われわれ家族全員がジダンの選手としての経歴がレッドカードで終わったことは大変残念だが、少なくとも彼は名誉を守ることはできた。世の中にはサッカーより大切なことがある。」と語っている(タイム前掲)。

 2004年のレアル・マドリードの試合で、線審の判定に怒ったベッカムは「売春婦の息子」とスペイン語でその線審に呼びかけ、退場処分をくらったのです。
 ベッカムは、英国でなら問題にもならないことで退場処分をくらったことにショックを受けたといいます。
 それもそのはずであり、こんな言葉が問題になるのは、欧州の特にカトリック地域(=ラテン地域。フランス・イタリア・スペイン等)では、聖母マリア信仰の影響で母親が神聖視されているからなのです(注4)。
(以上、特に断っていない限り
http://football.guardian.co.uk/worldcup2006/story/0,,1818324,00.html(7月12日アクセス)による。)

 (注4)英国で一番ひどい悪罵は、女性器そのものを指す俗語を投げつける悪罵だ。他方、son of a bitchとかbastardといった、母親の性的放縦性を示唆する言葉は軽口として用いられ、決して深刻な悪罵とは受け止められていない。(とこのように、ガーディアンがお墨付きを与えてくれているのだから、何名かの読者から、使用禁止を促されているところの、私のbastard Anglo-Saxon なる米国を指す造語(?)も、そろそろ復活させていただこう。)

5 余談

 韓国で、朝鮮日報と並ぶ保守系の有力紙である中央日報は、テポドン等発射の後に開催された南北閣僚級協議決裂を受けて、北朝鮮側代表の発言に対し、韓国側代表はジダンのように頭突きをくらわすべきだった、という過激な論説
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=77859&servcode=100&sectcode=120
7月14日アクセス)を掲げました。
 韓国世論の反北朝鮮への急速な変化を象徴する論説だと思います。

太田述正コラム#12632006.5.29

<キッシンジャーの謎(その2)>

 このAFP電の前段は、そのとおりであり、日中国交正常化に応じた中共の思惑もそのあたり・・日本の宗主国米国からの引き離し・・にあったことは、田中との会談の時に毛沢東が語ったとされる下掲から明らかです。

「田中先生、組むというなら徹底して組もうではありませんか。・・あなた方がこうして北京にやってきたので、どうなるのかと、世界中が戦々恐々として見ています。なかでも、ソ連とアメリカは気にしているでしょう。彼らはけっして安心はしていません。あなた方がここで何をもくろんでいるのかがわかっているからです。・・ソ連と比べると、アメリカはまだいくらかはましでしょう。しかし、田中先生が来たことを愉快には思ってない。・・ニクソンはこの二月、中国に来ましたが、国交の樹立までは出来ませんでした。田中先生は国交を正常化したいと言いました。つまりアメリカは後からきた日本に追い抜かれてしまったというわけです。ニクソンやキッシンジャーの胸にはどのみち気分の良くないものが有るのです。」(http://www.max.hi-ho.ne.jp/azur/ryojiro/papers/tanaka-mo-kaidan.htm。5月29日アクセス)

4 キッシンジャーの謎とその謎解き

 (1)キッシンジャーの謎

しかし、3で紹介したAFP電の後段は、キッシンジャーがなにゆえ日本を蔑視するのかを説明していません。

また、そもそも、2で紹介したキッシンジャーの中共(や北ベトナム)への不必要なまでの媚びや、ノーベル平和賞を平然ともらい受けるという鉄面皮ぶりも謎です。

 (2)謎解き

 キッシンジャー(1923年??)は、ドイツ生まれのユダヤ人たる国際政治学者であり、いわゆる世俗的リアリズム(コラム#1233)の権化ということになっていますが、私は彼が、チェコスロバキア生まれのユダヤ系のオルブライト(コラム#1233)も真っ青になるくらいの移民の過剰適応の典型例ではないか、と思うのです。

 戦前の米国の対外政策を思い出しましょう。

 当時の米国は、できそこないのアングロサクソンたるホンネ丸出しの対外政策を行って恬として恥じるところがありませんでした。

すなわち米国は、アングロサクソンの本家たる英国に対する強い嫉妬心、欧州由来のイデオロギーであるファシズムや共産主義への寛容、有色人種に対する差別意識、といったホンネに基づき、ナチスドイツの脅威に直面した英国に支援の手を差し伸べるのを出し惜しみ、ソ連と手を組むことを躊躇せず、黄色人種の国であるにもかかわらず米国等に対抗しようとする「生意気な」日本に憎悪の炎を燃やし、逆にこの日本に「いじめられている」黄色人種の弱者の国である支那の国民党や共産党に同情を寄せ、支援したのです。(いずれ、機会を見て再論したい。)

 戦後米国は、英国を意識的に蹴落として名実ともに世界唯一の覇権国にのし上がるや、爾来上記ホンネを深く胸中に隠して現在に至っていますが、キッシンジャーのような移民は、米国内で生き抜き、立身出世を図るために、往々にして米国社会に過剰適応しがちなものであり、上記ホンネに忠実すぎるくらい忠実な言動を顕在化させてしまう、と考えられるのです。

 キッシンジャーの追求したところの、ソ連とのデタント(ウィキペディア前掲)・中共との和解・共産主義北ベトナムによる南ベトナム併合の黙認・日本蔑視、はこう考えれば論理的に首尾一貫していることになります。

 なお日本が、戦後米国の保護国になったというのに、米国の経済力の相対的低下を背景に日本に再軍備を迫ったニクソン政権の意向(Nixon Doctrine)に対しては言を左右にして逃げ回り、その一方で、米国の中共との和解を見るや米国の対中政策の枠内と誤解して対中国交樹立に乗り出したこと対する怒りが、キッシンジャーの日本人評、より端的には田中首相評、の言葉をより過激なものにした面もあったことでしょう。

 では、彼が厚顔無恥にもノーベル平和賞を受賞したココロは何か?

 これも不思議でも何でもありません。あらゆる機会をとらえて立身出世を図るという、彼の移民としてのあくなき意欲の表れだと思います。

 キッシンジャーがいかに米国社会に過剰適応しているかは、ニクソン政権で安全保障担当補佐官を勤め、引き続き同政権とフォード政権で国務長官を勤めて退官した(ウィキペディア前掲)後の彼の生き様が見事に物語っています。

 キッシンジャーは、学者としての生活に完全復帰することなく、ロビイスト会社を設立して、金儲けに精を出す「余生」を送って現在に至っているのです(http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2006/05/27/AR2006052700919_pf.html。5月29日アクセス)(注4)。

 (注4)過剰適応は逆に敵意を生む。ブッシュ大統領が2001年に、9.11同時多発テロへの米国政府の対応の是非を検証する委員会の委員長に指名した時、ロビイスト活動とこの委員長職(無給)が抵触する懼れがあるとの非難で四面楚歌となり、指名辞退に追い込まれたことは記憶に新しい。

 これは、カーター大統領の安全保障担当補佐官を勤めた、ポーランド生まれのブレジンスキー(Zbigniew Kazimierz Brzezinski1928年??)が、学究生活に戻ったことと好対照です(ワシントンポスト上掲)。

 ところで、キッシンジャーはかつてインドのインディラ・ガンジー首相を売女(bitch。女性なのでson ofはつかない)と呼んだことをすっぱ抜かれた時には謝罪をしている(ウィキペディア前掲)のですが、今回、田中首相に悪罵を投げかけたことが露見したことでキッシンジャーの首に鈴をつけて謝罪させる気骨ある政治家やジャーナリストは、保護国日本にはいそうもありませんね。

(完)

太田述正コラム#12622006.5.28

<キッシンジャーの謎(その1)>

1 始めに

 立て続けに、キッシンジャー(Henry A. Kissingerの昔の発言が公開されたので、ご紹介しがてら、かるーくキッシンジャー論を展開してみましょう。

2 中共に媚びたキッシンジャー

 1972年6月22日に、ニクソン大統領の安全保障担当補佐官だったキッシンジャーは、中共の周恩来(Zhou Enlai)首相に、(北爆を含め、南北ベトナムで米軍が北ベトナム/ベトコンに対して猛攻をかけていた最中に、)「もしわれわれが支那の共産主義政府と共存できるのなら、インドシナでもそれを受け入れることが可能なはずだ」と語ったことが、このほど明らかになりました。

 これは、米軍が南ベトナムから撤退してからしかるべき期間を置けば、北ベトナムが南を併合してもかまわない、と示唆したものと考えられています。

 キッシンジャーは、ニクソン政権としては当時、ソ連に対抗するため、中共に接近しようとしており(注1)、自分も中共向けにこのような媚びた発言を行ったが、南ベトナムを放棄するつもりは全くなかったのであって、放棄せざるを得なくなったのは、その後の米国内の政治力学のせいだ、と弁明これ務めていますが見苦しい限りです(注2)。

 (注1)キッシンジャーは1971年の7月10月に中共を秘密訪問して周と会談し、1972年2月のニクソン訪中による米中首脳会談(ニクソンと毛沢東(Mao Zedong))を実現した。

 (注21973年にパリ平和協定が締結され、北ベトナムは南ベトナムへの軍事介入を止め、米軍は南ベトナムから撤退することとされた。米軍は協定に従って撤退したが、北ベトナム軍の攻撃で1975年4月に南ベトナム政府は打倒され、間もなく南ベトナムは北ベトナムに併合された。

 当然北ベトナムにも伝えられるという前提でキッシンジャーは周に対し上記発言を行ったはずであり、何も知らなかったノルウェーの選考委員会がノーベル平和賞をパリ平和協定の当事者であったキッシンジャーと北ベトナムのレ・ドクトの両名に授与したいと発表したとき、厚顔無恥にもキッシンジャー(だけ)がこれを受けたことには開いた口が塞がりません。

 今にして思えば、レ・ドクトは早晩北ベトナムが南ベトナムを武力統一するであろうことを知っていたから平和賞を辞退したのではなく、パリ平和協定が米国と北ベトナムの共謀の下で国際社会向けに虚偽表示をした仮装行為であることを知っていたから辞退したに違いないのです。

(以上、事実関係はhttp://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2006/05/26/AR2006052601926_pf.html(5月28日アクセス)、及びhttp://en.wikipedia.org/wiki/Henry_Kissinger(5月29日アクセス)による。)

3 日本を侮辱したキッシンジャー

 同じく1972年のことですが、8月に日本の田中首相がニクソンとハワイで会談する直前、キッシンジャーは、当時の駐ベトナム米国大使のバンカー(Ellsworth Bunker)らに向かって、次のように語ったことが明らかになりました。

 「<田中首相が中共との国交関係樹立のために訪中することになったというが、>裏切り者の売女(sons of bitches)中の極めつきがジャップ(Japs)だ。中共との関係正常化を不謹慎なほど大あわてでやろうとした上、日本の旗日(秋分の日のことか(太田))に訪中させて欲しいと言ったらしい。」

 この話を紹介したAFP電は、キッシンジャーが怒ったのは、一年前に台湾は国連から追放されていたものの、台湾との関係に配慮してまだ中共との国交樹立にまでは踏み込めなかった米国の外交政策に同盟国の日本が挑戦したからであることは明白だ、としています(注3)。

 (注3)結局訪中した田中は、9月27日に毛沢東と会談し、29日に日中は国交を樹立する。ちなみに、米中が国交を樹立するのは1979年になってからだ。

 同時にAFP電は、キッシンジャーのこのような口調は、彼が日本という社会をよく理解できなかったために、しばしば日本に対して敵対的な姿勢をとったことを考えると不思議ではない、としています。

(以上、http://www.taipeitimes.com/News/world/archives/2006/05/28/2003310410(5月29日アクセス)による。)

(続く)

太田述正コラム#12592006.5.27

<ルソーの正体(その2)>

 イギリスでルソーの求めるままに何度も住む所を見つけてやったほか、王室からルソーのためにカネを引き出そうとまで腐心したヒュームに向かって、次のような手紙を送りつけます。

 「君は猫を被っていた。今、私は君のことが分かったし、そのことは君も気付いているだろう。君は私の亡命を手伝うためにイギリスに連れてきたことになっているが、実は私を貶めるのが目的だったのだ。<そのために、君は私宛の手紙を盗み見た上、私の原稿類を盗もうとした。>君はそのことに、君の心にふさわしい情熱をもって、そして君の才能にふさわしい手練手管をもって没頭したのだ。」

 (本当はルソーの面倒を見るのがいやだったのにその気持ちを殺してルソーをイギリスに同道した)ヒュームは激怒し、二人の共通の友人達に対し、ルソーは、「怪物のごとき恩知らずにして、凶暴な逆上者だ」、「長らく狂人もどきであったがついに狂人になった」等と書きつづります。

 対してルソーは、イギリスに一緒に向かう途中、ヒュームが寝言(フランス語)で「ルソーはオレのものになった」と言った、「ヒューム氏は私ことを悪漢中の最低、と言っているらしいが、こんな言葉には返す言葉を知らないが、このことこそ、私が彼の言うような人間ではないことを物語っている」等と再反論しました。

 英国王のジョージ3世、アダム・スミス、ボズウェル(James Boswell1740??95年。スコットランド人でサミュエル・ジョンソンの伝記作家として有名)、デービッド・ガリック(David Garrick1717??79年。著名なイギリス人俳優・劇作家・演出家)、ディドロー、ドルバッハ、ダランベール、ヴォルテールらがこの「論争」に否応なしに巻き込まれます。

 やがて、この二人の著名人の悪口雑言の投げつけ合いは、イギリスの新聞紙上やクラブやコーヒーハウスで面白おかしく取り上げられるところとなり、フランスではこの話が本になって出版されます。

 大方の反応は、ルソーは確かに恩知らずだが、ヒュームも迫害されている亡命者に対しもう少し寛容であってよい、といったところであり、ヒュームにとっては余りうれしい反応ではありませんでした。

 典拠としたガーディアンとNYタイムスの書評子は、次のようにヒュームとルソーを対比させ、二人の仲違いは当然だったとしています。

 「後から振り返ってみれば、この二人が性格的にも知的にもうまく折り合っていけるわけがなかった。ヒュームは理性・疑い・懐疑の人であったのに対し、ルソーは間隔・疎外・想像力・確実性の人だった。また、ヒュームが非冒険的で穏和な外見をしていたのに対し、ルソーは本能的に叛乱好きだった。しかも、ヒュームは楽観主義者だったがルソーは悲観主義者だった。ヒュームは社交的でルソーは孤独を愛した。ヒュームは妥協を好んだがルソーは対立を好んだ。スタイルにおいても、ルソーはパラドックスを楽しんだがヒュームは明晰性を尊んだ。ルソーの言葉は花火のように華々しく感情的だったがヒュームの言葉は真っ正直で冷静だった。」(ガーディアン)

「ひどく頑固でもったいぶっヒュームと、いつも不平を言い、その<自伝の>「告白」を「生まれ落ちたことが私の最初の不幸だった」から始めたルソーは、あらゆる点で対蹠的な性格とイデオロギーの持ち主だった。」(NYタイムス)

 しかも、NYタイムスは、「まっ正直な(unhinged)ヒュームは経験論者としては落第だった。他方ルソーは、様々な支援者に支えられながら彼らとの「社会契約」を守らなかったし、自然との調和の下で生きることもしなかった」と両者をともに皮肉っています。

 世間というものは往々にして、文学者で音楽家でもあったルソーのような芸術家肌の人間には甘いものですが、私は、二人の「論争」当時の世論も、現在の両紙の論評も、公平なようでいて、ルソーに甘すぎると思います。

 18世紀末以降、欧州、そして世界に惨状をもたらした思想はルソーに発するのであり、被害妄想で恩知らずの人格破綻者たるルソーにふさわしい邪悪な思想だったからこそ、世界に惨状がもたらされた、と私は思うのです。

太田述正コラム#12572006.5.26

<ルソーの正体(その1)>

1 始めに

 小林善彦先生は、駒場の時のクラス担任でフランス語の教師(助教授。後に東大教養学部教授を経て学習院大学教授)でしたが、ルソー(Jean-Jacques Rousseau1712??78年)の研究家でもあり、東大紛争中は、私の発案で有志で小林先生を囲んでカミュの「異邦人」を読む勉強会をしたり、私の米国留学の際には推薦状(もちろん自分で書く)に署名していただいたり、大変お世話になりました。

ですから、余りルソーの悪口は言いたくはないのですが、今回は、ルソーの人格を問題にしたいと思います。

(以下、特に断っていない限りhttp://books.guardian.co.uk/review/story/0,,1762868,00.html(4月29日アクセス)、及びhttp://www.nytimes.com/2006/03/13/books/13masl.html?ei=5090&en=50626c87070a4ff3&ex=1299906000&partner=rssuserland&emc=rss&pagewanted=print(5月26日アクセス)による。)

2 人格破綻者ルソー

 英国を代表する哲学者と言ってもよいデービッド・ヒューム(David Hume.1711??76年 )が、比類ない人格者であったことは、彼の友人のアダム・スミスを始め、衆目が一致しているところです。

 ところが、そのヒュームが、好意を仇で返されてひどい目に遭わされた人物がいます。ルソーです。

 話は1763年に遡ります。

 当時のヒュームはロンドンに住み、ベストセラーとなった「イギリス史」の著者となり、かなりの収入がありました。

 しかし、イギリス人はこの本(六巻本)は好きでも、著者は嫌いでした。ヒュームはホイッグ党支持者ではなく、キリスト教徒でもなく、しかもスコットランド人であったからです。さりとて、故郷のスコットランドに帰る気もヒュームにはありませんでした。この年、スコットランドの首相がヒューム以外のスコットランド人を公式歴史編纂官に任命したからです。

 そんな彼のところに、新任の駐パリ・英国大使の補佐官にならないかとの話が舞い込み、ヒュームは一も二もなくこの話に飛びつきます。

 パリに行ってみると、ヒュームは、フランス人の間で既に人気者となっていた自分を発見します。すっかり良い気分になったヒュームは楽しいパリ生活を始めるのです。

 やがて、ヒュームは、1765年の暮れにパリのサロンの一つでルソーと出会います。

 英国大使の任期が1766年に切れたため、イギリスに戻ることになたヒュームは、サロン主の一人(当然女性)から、ルソーの亡命に手を貸して欲しいと頼まれ、引き受けることにしました。

 ルソーには当時、「社会契約論」(「人は自由に生まれたが、あらゆるところで鎖につながれている」という有名な出だしで始まる)と小説「エミール」(僧侶の若者教育に果たす役割を否定した)を書いた廉で逮捕令状がフランスで出ており、彼の著作は発禁処分をくらっていました。そこでルソーは故郷のスイスに逃げたところ、そこでも迫害を受け、進退窮まっていたのです。

 ヒュームのフランスでの友人達は、揃ってヒュームがルソーを連れて行くことに反対しました。

 ダランベール(D'Alembert)やディドロ(Diderot)は、二人ともルソーにひどい目にあったので絶交したという経験を教えましたし、ドルバッハ男爵(Baron d'Holbach)に至っては、間違いなくルソーに君は手を噛まれことになるだろう、「君は奴を知らない。はっきり言おう、君は胸に毒蛇を入れて暖めているようなものだ」とまで言って警告しました。

 しかし、ここまで言われても、ヒュームは聞き入れなかったのです。

 イギリスに着くと、まもなくルソーは正体を現します。

(続く)

太田述正コラム#12222006.5.8

<ガルブレイスの死(その4)>

 1987年には、大企業への規制緩和の行き過ぎと放漫な銀行の貸し付け等により株式市場が過熱化しているとして、米国の株価が大恐慌以来最大の暴落を記録する6ヶ月前に、ガルブレイスは株価大暴落が目前に迫っていると警告し、的中させました。

5 ガルブレイス・経済・経済学・・終わりに代えて

 前に、ガルブレイスの大企業論が事実と理論によって論駁されたと申し上げたところですが、本当にそうなのかどうかは皆さんにお考えいただくとして、ガルブレイスがいかなる経済観、経済学観を抱いていたかを最後にご紹介して本シリーズを終えることにしましょう。

 彼は確かにケインズ主義者であり大きな政府の提唱者でもあったけれど、いわゆるリベラルのように市場は政府によって矯められなければならない悪だなどとは思っておらず、発明や発見や人間の本質的なニーズの充足の機会を提供してくれる存在であると思っていました。しかも、彼は大企業についても、決してこれをいわゆるリベラルのように敵視することなく、小企業ではできないところの、基礎研究・スケールメリットの追求・技術革新等を行う能力のある存在であると高く評価していました。その上ガルブレイスは、政府についても、一切幻想を抱いてはいませんでした。

 このような経済観に立って、ガルブレイスが抱いた経済学観は次のようなものでした。

彼は、この世の中は余りにも複雑であるし、状況の変化に常に対応していくだけで息が切れるし、政府や市場についての見解は試練に晒され続けるし、という次第であり、黒板に書いた数式で分かった気になるわけには到底いかない、と考え、経済学は科学ではなく、その時その時の状況を絶え間なく解釈していく営みであり、経済学が有用な提言を行うに当たっては、数式など用いず、明晰で潤色のない分かりやすい文章だけで行うことが可能である、と主張したのです。

その彼には、「一般の米経済学者達(Economists)は、最も考えることを節約している(most economical about ideas)輩であり、大学院で学んだことが残りの生涯にわたって有効であると思いこんでいるおめでたい連中だ」としか思えませんでした。

そんなガルブレイスを、一般の米経済学者達が「確立された権威を根底から覆すもの」として敵視するのは、「真理探究の観点からではなく、既得権益の擁護のためであり、そうせざるを得ないのだ」とガルブレイス自身は冷笑していました。

 このように見てくると、つい先だって(コラム#1220で)紹介した、収穫逓増に係る数理経済学者達も、まだまだ、ガルブレイスのそれに比べて経済観や経済学観が単純すぎるのではないかという気がしてきます。

 非欧米人として、初めてノーベル経済学賞を授与されたアマルティア・セン(コラム#210211315777)は、ガルブレイスの「豊かな社会」ををシェークスピアの「ハムレット」になぞらえて、「引用句だらけだ」と評しています。「豊かな社会」は、今やその随所が幾度となく引用され続けてきた古典的書籍と言ってよい、というわけです。

 どうやらガルブレイスは、経済学において、シェークスピア的存在になりつつある、と言っても過言ではなさそうですね。

 そのガルブレイスが、米国では忘れ去られようとしているのですから、現在の米国が、いかに異常な国になりはててしまったか、分かろうというものです。

(完)

太田述正コラム#12122006.5.1

<ガルブレイスの死(その2)>

 (2) ガルブレイスの米経済学批判

 イギリスは、和辻哲郎言うところの人間(じんかん)主義的な個人主義の国であり(コラム#113114)、救貧法が1563年から1601年にかけて早くも制定されたhttp://www.tabiken.com/history/doc/E/E243C100.HTM。5月1日アクセス)という社会民主主義的な国です。

 ですから、「イギリス人」ガルブレイスが米国の裸の個人主義(rugged individualism)に違和感を抱いたのは当然のことでした。

 ガルブレイス自身、「コミュニティーだけが人々の福祉(wellbeing)を可能にする。いや、それどころか、コミュニティーがあって初めて人々の生存が可能になるのかもしれない」と語っています。

 そのガルブレイスにとって、経済学とは、個人と社会(国・地域・企業・労働組合、等々)の複雑な相互作用を研究する学問であって、そんな学問が米経済学のように、個人の合理的な経済行動が集合的に生み出すものを数理モデルで明らかにするような代物になるはずがなかったのです。

 ガルブレイスが常々、「<米>経済学は、経済学者が職にありつくためにはまことに重宝なものだ」と揶揄したのは、米経済学が空理空論だと思っていたからです。

 遺憾ながら、というべきか、1969年に新たに設けられた、ノーベル経済学賞は、「空理空論」を紡ぎ出した三ダース以上の米国人たる米経済学者達に与えられてきたというのに、ガルブレイスには与えられずじまいでした。

 その米経済学者達からガルブレイスは、お前は経済評論家であって経済学者ではない、という罵詈雑言を浴びせられ続けました。

 米経済学者が鬼の首を取ったように指摘するのは、ガルブレイスの、巨大企業はもはや市場によって左右されなくなっている、との主張がその後、事実によって、或いは理論的に否定された、という点です。

 確かに、ガルブレイスが巨大企業の典型として挙げたゼネラル・モータース等ビッグスリーは、消費者の選択、すなわち市場の力によって日本車が台頭することによって衰退してしまいました。また、1975年に創設されたマイクロソフトのような小ベンチャー企業が世界的大企業として既存の大企業に取って代わりました。そもそも1980年代から90年代の米国経済の隆盛は、伸び盛りの中小企業群によってもたらされた部分が大きいのです。更に、巨大企業が広告によって消費者の購買意欲を操っているとのガルブレイスの指摘も、どちらもノーベル経済学賞を受賞したベッカー(Gary S. Becker)やスティグラー(George J. Stigler)によって、広告は本質的に消費者にとって有益な情報を与えているとの証明がなされて否定されてしまいました。

4 米国が英国に接近した希有な時代にガルブレイスは活躍

 しかしガルブレイスは幸運な人間でした。彼の最晩年を除き、彼が活躍する余地が米国であったからです。

 それは、大恐慌以降長きにわたって、米国が、その歴史上めずらしくも、裸の個人主義を抑制し、英国的な社会民主主義政策をとらざるをえない状況にあったからです。

 それは大恐慌後のニューディール時代から始まり、先の大戦の総動員体制の時代を経て、ジョンソン政権下の偉大な社会計画の時代へと続いた、基本的には民主党政権の時代でした。

 ガルブレイスはこのうち、総動員体制の時代には有能な経済官僚として、偉大な社会計画の時代にはその発案者として関わるのです。

(続く)

太田述正コラム#11742006.4.10

<ライス女史と私>

1 始めに

 大抵の日本人が知っている米国の有名人で、私が面識があるのは、「大地」(1931)の作者として有名な故パール・バック女史(Pearl S. Buck1892??1973年)(注1)、世銀総裁のウォルフォヴィッツ氏、前米国務副長官のアーミテージ氏、等数えるほどに過ぎません。

 (注1)ノーベル文学賞(1938)受賞者であり、「大地」は米ピューリッツァー賞受賞作品(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BBS%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%83%E3%82%AF。4月9日アクセス)。

小学校6年生の時(1960年)に、どうやって調べたのか、英語のできる少年がいるということで、パール・バック女史がプロデュースしようとしていた映画の主人公の日本人少年役候補に私が白羽の矢を立てられて、あれよあれよという間に、女史の日本人スタッフの女性との面接を経て、御大とのご対面ということになった。

     かなりその気になっていた母親と叔母に連れられて、帝国ホテルの女史のスイートルームに赴いたのだが、私は、父親の蔵書にあった大地を前に読んでおり、高みに立って黄色人種を慈しむ、という(米国人宣教師の娘で支那育ちの)彼女の姿勢に違和感を覚えていたこと、その時の映画の脚本にも同じ臭みを感じたこと、日本人スタッフの、(撮影となれば長期にわたって学校を休まなければならないというのに、)いかにも主人公に選ばれるのが名誉であるかのような態度に反発したこと、から、パール・バック女史に直接、「映画には出たくない」と伝えた。

     今振り返ってみると、当時の私はまことにかわいげのないこまっちゃくれた子供だったと思うし、何という浅はかなもったいないことをしたのかと思う。

2 ライス女史と私

 残念ながら、米国務長官のライス女史(Condoleezza Rice1954年??)とは全く面識がないのですが、彼女と私は、ピアノ(ピアニストになることを考えたことがある)(注2)とスタンフォード大学政治学科(彼女は1981??2000年、教師だったし、私は1974??76年、ビジネススクールの方がメインだったが、政治学科マスターコースにも在籍していた)という共通項があるため、以前から親近感を抱いていました。

 (以上、http://en.wikipedia.org/wiki/Condoleezza_Rice(4月9日アクセス)による。)

 (注2)もっとも、女史は、15歳の時に居住地のデンバーの学生コンクールに優勝して、ご褒美としてデンバー交響楽団とモーツアルトのピアノ協奏曲を演奏しており、11歳の時に毎日新聞のコンクール(中学生の部)に出て落ちた私より、キャリアは相当上だ。

 (注3)政治学のPh.Dであり、助教授、準教授、を経て教授になり、更に副学長を兼ねた女史と、単なるMA取得者の私とでは、文字通り月とスッポンの違いがある。

 しかし、ニューヨークタイムスの記事を読んでいたら、女史と私で、スタンフォードがらみの共通項がもう一つあることを発見しました。

 スタンフォード大学の音楽学科です。

 女史は、二年飛び級をして、15歳でデンバー大学に入学し、音楽(ピアノ)を専攻するするのですが、自分のピアニストとしての才能に見切りを付け、政治学(国際政治)専攻に切り替え、爾来ピアノから遠ざかっていたところ、スタンフォード大学副学長に就任した1993年から、再びピアノを弾こうと思い立ち、同大学音楽学科の教授の個人レッスンを受け始めた、というのです。

 現在では、ワシントンでの同好の士と室内楽の演奏を毎週のように女史の自宅で楽しんでいるといいます。

(以上、http://www.nytimes.com/2006/04/09/arts/music/09tomm.html?_r=1&oref=slogin&pagewanted=print(4月9日アクセス)及びウィキペディア上掲による。)

 私の方は、スタンフォード大学に留学して二年目の夏休みに、夏期学期にロースクールの国際法の授業をとるかたわら、音楽学科のクラシック音楽史の授業をとったのです。

 音楽学科は、大学の中心部からちょっと離れた、池の畔の丘の上に立っている瀟洒な別荘風の建物にあり、私のとった授業で、教師が時々ピアノを弾きながら、クラシック音楽史を語るのを聞いていると、学生に美しい女性が何人かいたこともあって、夢見心地になったものです。

3 感想

 このように、米国の総合大学では、音楽・絵画・演劇といった芸術系の学科が併設されているのが普通です。

 ライス女史が入学したデンバー大学が、まさにそのような総合大学であったからこそ、ピアニストを目指していたライス女史は、政治学者に転身しようという発想が得られたし、また容易に転身することができたに違いありません。また、彼女が再びピアノに目覚めたのも、スタンフォード大学に音楽学科があったことがきっかけになったのではないでしょうか。

 日本の大学を顧みると、国公立の総合大学で芸術系の学科が併設されているところは、かつてはなかったし、現在でも極めてわずかであることは問題ではないでしょうか。

太田述正コラム#10682006.2.2

<私のビル・ゲイツ論・・学問論の観点から>

1 始めに

 企業家(entrepreneur)には、新製品をつくり出す人と、新ビジネスモデル(better way to operate a businessをつくり出す人の二種類がありますhttp://www.econedlink.org/lessons/index.cfm?lesson=EM264&page=teacher。2月2日アクセス。

 マイクロソフトの創業者であるビル・ゲイツ(William Henry Gates III1955年?)は前者の典型であり、だからこそ、彼は学問を習得する必要がなかった、というのが本稿で私が言いたいことです。

2 ビル・ゲイツの自己認識

 企業家として成功するための秘訣について聞かれたビル・ゲイツは、こう答えています。

 「私は自分自身を企業家だと思ったことはない(注)。私はソフトウェアを愛し、ソフトウェアによって色んなことができるのが面白くて仕方がなかった。私は会社を大きくしようとか利益をあげようとか考えたことがない。私は友達に私の会社に来てもらって一緒に働きたかったし、自分自身が個人的に使いたい製品をつくりたいと思ったということだ。これが企業家になりたい人への私の助言だ。要するに、社会に貢献できるあなたならではの分野、かつ毎日働くことが楽しい分野、を選びなさい。・・<さもなければ>大学は卒業しなければいけません。・・私は<たまたまハーバードを休学することになったけれど>依然休学中でいつ復学するかまだ予定が立っていない、というだけのことだ。」

(以上、http://www.microsoft.com/billgates/speeches/2000/09-13malaysia.asp(2月2日アクセス)による。)

(注)マイクロソフト(後述)は、数千の特許を有するが、ゲイツ自身、9つの特許を持つ(http://en.wikipedia.org/wiki/Bill_Gates。1月30日アクセス)。

この発言の大意を私は、「起業家として成功する秘訣は?→新製品をつくり出す事業家(事業家らしからぬ事業家)として成功したいのなら私を見倣いなさい。他方、新ビジネスモデルをつくり出す事業家(事業家らしい事業家)として成功したいのなら、まず大学を卒業しなさい。私自身、事業家らしい事業家になるためにもいつか大学を卒業したいと思っている」、であろうと解釈しています。

3 検証

 以上で本稿を終えてもいいのですが、若干の検証をしてみましょう。

 ゲイツは、中学校時代から、ソフトウェア作りにのめりこみ、高校時代には、それで金を稼ぐまでになっていました(http://ei.cs.vt.edu/~history/Gates.Mirick.html。1月30日アクセス)。ここから、ソフトウェア作りには学歴(学問)などいらないことが分かります。

 ゲイツの人生の大転機となったのは、ハーバード大学に入って間もない頃に出現した、世界最初の小さいコンピューター(microcomputer)です。ゲイツは、一人一台のパソコンの時代が早晩到来することを確信し、このコンピューターのためのOS(大きいコンピューターのOSであるBASICの流用版)をただちにつくり、これを契機に大学をドロップアウトし、マイクロソフト社を起こします(http://www.microsoft.com/billgates/bio.asp。2月2日アクセス)。

 これはゲイツが、中学校時代から、大きなパソコンを他人とシェアしなければならならず、独占的に好きなだけ使えないことに大きな不満を持ち続けてきただけに、パソコン時代が早晩到来し、好きなだけコンピューターが使え、ソフトウェア作りに没頭できるようになる、と考えただけで有頂天になったということだ、と思うのです。そして自分がつくったソフトウェアが搭載されたパソコンで、他の人々にも自分が味わうのと同じような喜びを味わって貰いたい、と考えたに違いありません。

 その後いよいよIBMが世界最初のパソコンをつくり出すと、ゲイツは、他社によってパソコン用に開発されたOSをマネしてマイクロソフトでつくったOSであるPC-DOSをひっさげて、この会社を出し抜き、IBMと契約することに成功します。この時、ゲイツはPC-DOSIBMに売らず、リースする契約を締結します(http://www.findarticles.com/p/articles/mi_m0DTI/is_12_27/ai_58055764/print。2月2日アクセス)

 このことが、コンピューター本体(ハードウェア)に依存しない、ハードウェアとは別個のソフトウェアという概念の生誕、ひいてはソフトウェア産業という新しい産業の生誕につながった、とされています(findarticles上掲)が、私に言わせれば、これは結果論なのであって、ゲイツは単に、自分が陣頭指揮をして開発したOSを引き続き自分達の手で改良していく楽しみを奪われたくなかっただけのことではないでしょうか。

 しかしリース契約だったおかげで、IBMパソコンをマネしたパソコンが出現すると、マイクロソフトは、PC-DOSとほぼ同じOSであるMS-DOSを、これらの会社に次々とリースしていくことが可能となり、マイクロソフトは売り上げをどんどん伸ばしていくことになるのです(http://en.wikipedia.org/wiki/Bill_Gates。1月30日アクセス)。

 それ以降、Windowsの開発と大当たりによってマイクロソフトは、世界的大企業へと成長を遂げるわけですが、そのあたりのことは、皆さんよくご存じでしょうから省略します。

 驚くべきことは、マイクロソフトが世界的大企業になったというのに、その組織が、創業時のままの単純で階層の少ない形のままであることです(findarticles前掲)。

 事業家らしからぬ事業家・・発明家・・たるゲイツの面目躍如、といったところですね。

太田述正コラム#10172005.12.25

<徒然なるままに(その4)>

4 クリスマス

 クリスマスが来ると、カイロ時代の小4のクリスマスの朝を思い出します。

 小3の時に小犬を下さいとサンタクロースに手紙に書いたら、朝小さい瀬戸物製の子犬が枕元に置いてあって、何だか変だな、と思いつつも、まだサンタクロースの実在を信じたい気持ちが続いていました。

 しかし、その次の小4の時には、(何をサンタクロースに頼んだか忘れてしまいましたが、)イブの夜、来客と歓談していた父にサンタクロースの話題を出したら、今年はサンタクロースは来ないのじゃないかな、と言うのです。お客さん達もにやにやしています。

 不吉な予感は的中します。

 朝、目が覚めると、枕元には何もありませんでした。

 自分の少年時代が終わった、と私が自覚した一瞬でした。

 クリスマスが来ると、もう一つ思い出すことがあります。

 それは、いつのことだったか、初めてディッケンズ(Charles Dickens)の「クリスマスキャロル(A Christmas Carol)」(1843)を読んだ時の感動です。

これは、英語で書かれた比較的短い小説としては、最高傑作ではないでしょうか(注5)。

 (注5)珠玉の「書評」がガーディアンに載っていた(http://books.guardian.co.uk/departments/classics/story/0,6000,1673562,00.html1223日アクセス)。

他方で私は、日本語で書かれた比較的短い小説(正確には、戯曲集)の最高傑作は、三島由紀夫の「近代能楽集」だと思っています(注6)。「クリスマスキャロル」と「近代能楽集」(1956)を通して、私は、それぞれイギリス人と日本人の宗教観を知ることができたような気がします。

(注6)もっとも私は、30台になってからというもの、ほとんど小説類を読まなくなってしまったので、1980年代以降にもっと名作が出現している可能性はある。

 今年のクリスマスには、久しぶりに感動を味わいました。

 NYタイムス電子版に、フレッド是松(Fred Korematsu)・吉沢章(Akira Yoshizawa)・遠藤ゆうき(漢字は不明。Yuki Endo)という三人の日本人(ただし、是松氏は二世の日系米国人)についての記事が、従って合計三本も出ていたのですが、その三つとも、NYタイムスの日本人に対する熱い思い入れがこちらに伝わってくるような内容だったからです。

 かねてより私は、同紙の日本についての記事・論説の多くは米国中心的なバイアスがかっていると思い、そのように記してきたのですが、一体どういう風の吹き回しなのでしょうか。

うち二つの記事は、タイムスの本紙ではなく、NYタイムスマガジンの記事ですが、同マガジンの今年亡くなった人の追悼集の総括的記事(http://www.nytimes.com/2005/12/25/magazine/25intro.html1225日アクセス)は、誰もが取り上げるところの、市民権運動の黒人女性のパークス(Rosa Parks)、法王のヨハネ・パウロ2世(Pope John Paul II)、米最高裁長官のレーンキスト(William H. Rehnquist)、小説家ソール・ベローの(Saul Bellow)、TVのニュース解説者であったジェニングス(Peter Jennings)、政治家であったユージン・マッカーシー(Eugene J. McCarthy)、戯曲作家のオーガスト・ウィルソン(August Wilson)、ドイツ生まれの米ノーベル賞受賞物理学者のベーテ(Hans Bethe)、コメディアンのプライヤー(Richard Pryor)の8人のような人々、以外の人々を独断と偏見で選んだ、としています。

その上で、同マガジンは23人を追悼する記事23本を掲げているのですが、うち二人が日本人(日系米人を含む)についての追悼記事なのです。

もっとも、総括的記事の中で列記された8人は米国人7人(ドイツ生まれの米国人1人を含む)にドイツ人1人であるのに対し、独断と偏見で選んだ方の23人は、米国人20人(二世たる日系米国人1人を含む)とイスラエル人1人・英国人1人・日本人1人という組み合わせであり(http://www.nytimes.com/pages/magazine/index.html1225日アクセス)、どちらのリストもやはり、いかにもNYタイムスらしく、「米国中心的なバイアスがかっている」のはご愛敬です。

(続く)

太田述正コラム#9852005.12.5

<ナポレオンの評判(その2)>

3 ナポレオン暴君説優位に

 しかし、11月末に出版されたクロード・リッブ(Claude Ribbe)著「ナポレオンの犯罪」という本によって、ナポレオン暴君説が一挙に優位に立ちました。

 リッブは黒人の著名な学者であり、フランス政府の人権委員会の委員でもある人物です。

 リッブは、ナポレオンは、人種主義的・疑似科学的理論を打ち立て、ジェノサイドを行った人物であり、ナチスの先駆者と見なされるべきだ、と指摘したのです。

 すなわちナポレオンは、フランス革命によって廃止された奴隷制を、その8年後の1802年に復活させ、また有色人種のフランス入国を禁止する法律を制定するとともに、カリブ海のフランス領のハイチとグアドループ(Guadeloupe)における奴隷の叛乱を壊滅させるために、これら両島の12歳以上の黒人は根絶やしにする方針を立て、新たにアフリカからおとなしい奴隷を輸入することにし、6万人ものフランス軍を現地に派遣し、叛乱に関与した黒人のみならず、手当たり次第に黒人を射殺し、犬にかみ殺させ、溺れさせ、毒ガスで殺し(注5)、その結果約10万人の黒人を殺戮した、というのです。

 (注5)フランス軍は、奴隷船に黒人達を詰め込み、一晩中硫黄を燃やして二酸化硫黄を発生させて殺害した。世界最初のガス室だ。また、叛乱のリーダーの一人の肩にその妻と子供達の前で将校肩章を釘で打ち付けた上、その場で妻子を溺死させる、といった残虐行為を行った。(http://www.washingtonpost.com/ac2/wp-dyn/A25167-2005Jan20?language=printer。1月23日アクセス)

 この本の出版が、先般の移民暴動の直後に行われたことも、そのインパクトを大きなものにしています。

 リッブらは、アウステルリッツ(Austerlitz会戦(注6200周年記念行事が、戦場であったチェコで、フランス政府が主催して行われること(注7)に対し、ナポレオンを美化するものだとして抗議の声を挙げています。

 (注6)オーストリア軍を南ドイツのウルム(Ulm)で破った後、ナポレオンはオーストリアの首都ウィーンを占領した。これに対し、オーストリア・ロシア連合軍がその100km北方に終結した。フランス軍は軍勢は少なかったが、ナポレオンは意図的に右翼を手薄にし、連合軍にわざと自軍を包囲させるようにしむけ、その兵站線を伸び切らせた。彼はそれから敵中央に総攻撃をかけ、敵をバラバラにして敵の左翼を凍結した湖の方向に追いつめた。そして、オーストリア軍は降伏し、ロシア軍は本国に退散した。

     その後締結された平和条約で、フランスはイタリアのほとんど全土を支配下に置き、ドイツを保護領とした。

 (注7)今年6月には、トラファルガー沖の海上で、こちらは英国のエリザベス女王臨席の下に、トラファルガー沖海戦(コラム#128200周年記念式典が行われた(http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/4627469.stm628日アクセス)。

ところで、今年5月は、日本海海戦100周年だったが、日本では何の公的式典も行われなかった。しかし、間違いなく、100年後の200周年には、盛大な式典が行われることだろう。なぜなら、それはトラファルガー海戦を上回る、一方的完勝に終わった類い希なる海戦であっただけでなく、その世界史的意義もまた、トラファルガー沖海戦の比ではないからだ。

 この式典には、シラク大統領もドビルパン首相も出席しませんが、どうやら、こういった風向きを読んで、出席を取りやめた模様です。

(以上、特に断っていない限りhttp://www.guardian.co.uk/france/story/0,11882,1653025,00.html1130日アクセス)、及びhttp://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/4491668.stm12月3日アクセス)による。

太田述正コラム#9832005.12.4

<ナポレオンの評判(その1)>

1 初めに

昨年は、ナポレオン(Napoleon Bonaparte1769?1821年)戴冠200周年でしたし、今年は、ナポレオンのアウステルリッツの戦い(12月。勝利)(及びトラファルガー海戦(10月。敗北))200周年であることから、ナポレオンの話題が色々出ています。

そのうちのいくつかをご紹介しましょう。

2 正反対の二つのナポレオン評価

 ナポレオンは、現代欧州の基礎を形作ったフランスの偉大なリーダーにして軍事的天才なのでしょうか、それとも、単なる暴君(注1)なのでしょうか。

 (注1)例えば、1798年のエジプト遠征の時、ナポレオンは、母国フランスで政治的チャンスが生まれたと見るや、部隊を置き去りにしてトルコ軍の餌食にさせ、一人フランスに立ち戻った。また、ロシアに遠征してモスクワに到達した時、放火されて焼け野原になったモスクワに2週間も無為に滞在し、彼が率いてきた各国兵士からなる大軍とともに撤退を開始した時には、ロシアに冬が訪れ、ナポレオン個人こそ逃げおおせたものの、寒さとコサックの襲撃により、軍は壊滅してしまう。この致命的判断ミスを、ナポレオンは、ロシア皇帝に疑心暗鬼を生ぜさせるために、あえてモスクワにとどまった、と強弁した。

 面白いことに現在では、英国では、ナポレオンが偉大なリーダーにして軍事的天才であると見る者が多く、ナポレオンを暴君と見る者が多いフランスにおけるよりも、ナポレオンの評価が高いのです。

 英国でナポレオンの評価が高いのは、一つには、英国は戦勝国たる余裕を持って仇敵ナポレオンを眺められることもあって、ナポレオンが戦争を通じて数百万人の人々を死に至らしめ、無数の人々に塗炭の苦しみを味わわせた独裁者であったとはいえ、彼が、スターリンが生み出した収容所(gulag)ともヒットラーのようなホロコーストとも無縁であったことを「評価」しているからであり、二つには、ナポレオンが、(ヒットラー同様、)先進アングロサクソン文明の英国に劣等感を抱き、英国を尊敬していた男だったからです(注2)。

 (注2)ナポレオンが流刑地のセントヘレナ島で、遅ればせながら、懸命に英語の習得に努めたことはよく知られている。

 実際、ナポレオンは、英国の様々な制度をまずフランス、そして更に欧州全域への移植に努めました。その中には、英国的王制の移植も含まれています。

 1804年に挙行されたナポレオンの皇帝戴冠式において、法王ピオ(Pious7世を初めとする欧州中から参集した人々の前で、冠を法王によってかぶせてもらうのではなく、自分の手でかぶったのは、まさに英国的王制の採択を意味したのです(注3)(注4)。

(以上、http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/4061461.stm200412月3日アクセス)、及びhttp://books.guardian.co.uk/reviews/biography/0,6121,1473970,00.html(5月1日アクセス)による。)

 (注3)英国では、国王は、同時に英国教会の首長でもある。

 (注4)しかし、ドイツのベートーベン(Beethoven)や英国のワーズワース(Wordsworth)、コールリッジ( Coleridge)ら、それまでナポレオンを崇拝していた芸術家達の多くは、冠のかぶり方はともあれ、ナポレオンが皇帝になったことに幻滅し、爾後ナポレオンを暴君とみなすようになった。

太田述正コラム#9712005.11.27

<サッチャー首相のエピソード>

1 初めに

 以前(コラム#334335で)サッチャー時代の英国を回顧したことがあります。

 その時は、少し英国について、悲観的に見過ぎており、「欧州における歴史的瞬間」シリーズ(コラム#784786?791793794)で、楽観論に軌道修正させていただきました。

 さて、戦後の英国について、「大変な重荷で<あったけれど>・・英国<が>・・身の丈以上の対外政策遂行能力を持ち続けた」と(コラム#335で)指摘したことがありますが、この対外政策遂行能力を背景に、最も見事に対外政策を遂行した戦後の英国の首相がサッチャーでした。

 最近明らかになったエピソードを二つご紹介しましょう。

2 フォークランド戦争

 今月末に上梓されるミッテラン(François Mitterrand1916?96年)仏元大統領に関する本の中で、ミッテランがサッチャーの思い出を語る場面が出てきます。

 ミッテランは、かねがねサッチャーについて、「カリグラ(Caligula。ローマの暴虐な皇帝)の眼とマリリン・モンローの口を持っている」と評していたというのですが、1982年のフォークランド戦争の時のこと、アルゼンチンのシュペルエタンダール(Super-Etendard戦闘機から発射されたエグゾセ・ミサイルによって英国の駆逐艦シェフィールドが火災を起こし、撃沈されてしまうという事件があった後、サッチャーはミッテランに向かって、「(ミサイルも戦闘機も)全部フランス製じゃないの」と大声を上げ、エグゾセを無能力化する秘密コードを渡すように迫ったというのです。そして、渡さないのなら、南大西洋に派遣済みの4隻の原子力潜水艦からアルゼンチンを核攻撃する、と脅したというのです。怒り狂って島国的発作を起こしたじゃじゃ馬のイギリス人女め、殆ど羊しか住んでいない寒冷地帯のいくつかの島のために核戦争をやらかすなどとよく言うよ、とは思いつつも、ミッテランは抵抗を諦め、コードを引き渡した、というのです。

 ミッテランは、よほどその時のことが悔しかったのか、その代わり、その後サッチャーに、ナポレオン3世以来のフランスの悲願を飲ませた、としばしば胸を張ったといいます。「どうやってやったかって?サッチャーの小商店主(shopkeeper)的精神をくすぐったのだ。英国政府は一銭も出す必要はないよって言ってね」と。

(以上、http://books.guardian.co.uk/news/articles/0,6109,1647764,00.html1123日アクセス)による。)

3 東西ドイツ統合

つい最近、ドイツの前首相ならぬ元首相になったばかりのコール(Helmut Kohl)は、今月上梓した回顧録の中で、サッチャーの思い出に触れています。

コールは、サッチャーについて、「高い知性を持ち、情熱的で、力をちらつかせることを躊躇しないので、敵に回すと極めて不愉快な人物だった。彼女に抱いた敵意は翌日まで持ち越すのが常だった」と前置きした上で、東西ドイツ統一の頃のことを次のように 記しています。

ベルリンの壁が崩れた翌月の198912月、当時の英国首相のサッチャーに対し、当時の西ドイツ首相だった私が「マーガレット・サッチャーと言えども二つのドイツがその<統一という>目的地を目指すことは止められない」と言ったところ、サッチャーは、怒りに我を忘れ、足を踏みならしながら、「それはあなたの考えよ」と叫んだ。

同じ月に次に会った時には、サッチャーはハンドバッグから欧州の地図を取りだし、色が付けられていたところの、ドイツが戦後ポーランドに割譲させられた領土を私に見せながら、「ドイツはこの<旧ドイツ領の>全部とチェコスロバキアを併合しようというのね」と言った。

そして同じ月に、結局ドイツの再統一を支持する覚え書きに署名せざるを得なくなったサッチャーは、私に最後の捨て台詞を吐いた。「私たちはドイツを二度ぶちのめした。それなのに奴らはまたもや戻ってきた(Now they're back)。」私は未来永劫、この言葉を忘れないだろう。

(以上、http://www.guardian.co.uk/germany/article/0,2763,1607372,00.html11月3日アクセス)による。)

太田述正コラム#9272005.10.31

<シェークスピアをめぐって(その3)>

 (本篇は、コラム#917の続きです。)

 この説は、アスキス(Clare Asquith)(注8)という女性が、今年上梓する予定の”Shadowplay: The Hidden Beliefs and Coded Politics of William Shakespeare, PublicAffairs”で唱えているものです。

 (注8)アスキスは、冷戦時代に英国の外交官の夫の赴任先のソ連のモスクワやキエフに住み、劇場で体制批判の意が込められた隠語を俳優が用いることを経験したり、ソ連の作曲家のショスタコービッチ(Dmitri Dmitrievich Shostakovich1906?75年)が作品の中で政治的和音(code)を用いていることを知って、この説がひらめいたのだという。

     ショスタコービッチの政治的和音については、 http://www.absoluteastronomy.com/encyclopedia/d/ds/dsch3.htm、及びhttp://www.absoluteastronomy.com/encyclopedia/d/dm/dmitri_shostakovich.htm(どちらも1030日アクセス)参照。

何ともうさんくさい感じのする説なのですが、出版前の8月末時点で、ニューヨークタイムスが紹介(http://www.nytimes.com/2005/08/30/books/30shak.html?pagewanted=print前掲)し、英オブザーバー紙が書評で取り上げた(http://observer.guardian.co.uk/uk_news/story/0,6903,1557964,00.html前掲)、ともなれば、無視するわけにはいきません。

 ほんの少しだけ、彼女がどんなことを言っているかをご紹介しましょう。

 英国教会が成立し、カトリックが禁止されてから70年経過した頃からシェークスピアは活躍を始めたが、この間、隠れカトリック教徒達は、余儀なく隠語を使ってやりとりをするようになっていたが、シェークスピアはその作品の中で、これを発展させた(注9)。

 (注9)ちなみに、アスキスは、シェークスピアの博識の理由についても、彼が密かにオックスフォード大学の中のカトリックに理解のある学舎(school)で学んだ、という新説を立てている。もちろん、当時の英国の大学にはカトリック教徒は入学できなかった。

 

シェークスピアがhighとかfair、あるいはRed roseと言っているときはカトリックを意味しており、lowとかdarkと言っているときはプロテスタントを意味している。また、tempeststorm(どちらも「嵐」)は、プロテスタント宗教改革を指しており、カトリック教徒の視点でこれがもたらした世界の恐るべき激動を表現している。

 シェークスピア独自の隠喩としては、次のようなものがある。

 彼が作品の中でしばしば用いた、Turtle doveヤマバト)、Nightingale(ナイチンゲール)、Five(五)(注10)という言葉は、弾圧されているカトリック教会ないし教徒の隠喩だ。

 (注10)ヤマバトは伝統的に、イエスの使徒達を表す。ナイチンゲールはギリシャ神話でアテネの王女フィロメーラ(Philomela)が変えられてしまう姿(http://www.pantheon.org/articles/p/philomela.html1030日アクセス)。五はキリストが十字架にかけられた時に負った傷の数。

また、恋愛をテーマにした作品を多数書いたのは、カトリックの真の信仰の重要性を示唆しようと試みたものだ。恋愛に陥る女性をしばしばsunburned(日焼けしている)とかtanned(日焼けして黒くなっている)と形容したのは、彼女たちがより神に近く、真のカトリック教徒であることを示唆している。

更に、「からさわぎ(Much Ado About Nothing)」の第一幕で、7月6日という日付に言及がなされているが、この日はヘンリー8世が英国教会の長であると認めることを拒絶した重臣トマス・モア(Sir Thomas More1478?1535年)(注11)が処刑された日であり、モアは隠れカトリック教徒の模範とされた人物だ。この日はしかも、ヘンリー8世の息子のエドワード6世が亡くなった日でもあり、隠れカトリック教徒はエドワードがこの日に亡くなったことを天罰だとみなしたものだ。

 (注11)言わずと知れた「ユートピア」の著者、下院議員を経て、平民としては初めてLord Chancellor(国璽尚書)に任ぜられた。死後、ローマ法王により、聖人に列せられた。

太田述正コラム#9172005.10.21

<シェークスピアをめぐって(その2)>

2 シェークスピアの作品の隠れたモチーフ

 (1)謎の人、シェークスピア

 シェークスピアはシェークスピアだ、という立場に立つとしても、彼にまつわる様々な謎をどう説明するか、という難問が残ります。

(以下、http://books.guardian.co.uk/reviews/classics/0,6121,1323024,00.html20041010日アクセス)、http://www.csmonitor.com/2004/1019/p15s02-bogn.html20041019日アクセス)、http://observer.guardian.co.uk/uk_news/story/0,6903,1557964,00.html(8月28日アクセス)、http://www.nytimes.com/2005/08/30/books/30shak.html?pagewanted=print(8月30日アクセス)による。)

 まず、いくらシェークスピアの博識が不思議でも何でもなかったとしても、知識を確認したり増やしたりするために本を読む必要があったはずですが、シェークスピアの遺言書の中に、蔵書への言及は全くありません。そもそも、シェークスピアは本を買ったり借りたりした形跡すらないのです。

 そこでシェークスピアは、ロンドンの本屋をハシゴして本を読みあさり、記憶するかノートに大事なところを書き写していたのではないか、と推測する学者もいます。

 彼の11歳の息子ハムネット(Hamnet)が亡くなった時に、シェークスピアが全く動揺した様子が見られない(注5)ことも不可解です。

 (注5)もっとも、その4?5年後に書かれた「ハムレット」こそ、息子への鎮魂作である、とする学者もいる。蛇足ながら、遺言で妻に「二番目によいベッド」しか残さなかったことは、夫婦仲が冷え切っていたからだとすれば、不可解とは言えまい(太田)。

 

 より大きな謎は、シェークスピアがどうしてあれほど秘密めかした一生を送ったかです。

 何と、シェークスピアの筆跡で書かれた手紙が一つも残されていませんし、彼の作品は、存命中にはほとんど出版されていないのです。

また、あれほどの名作を数多く残したというのに、彼がカネを儲けたという形跡が全くないのです。それに、当時、劇の戯曲の出版の際には、戯曲ごとに異なったパトロンへの献呈の辞をつけてご祝儀をもらうのが通例だったというのに、シェークスピアの戯曲には、全く献呈の辞がつけられていません。シェークスピアは極めてカネに細かい人物だったにもかかわらず・・・。

 更に、彼の作品の大部分は、死後7年目にしてようやく出版されるのですが、その印税が遺族に渡っていないばかりか、シェークスピアの子孫は、シェークスピアの文学的業績について、一切語ることがありませんでした。

 それはシェークスピアが隠れカトリック教徒だったからだ、という説が1850年代から唱えられています。

最近、改めてこの説が話題になっています。

 隠れカトリック教徒説の根拠の第一は、シェークスピアの故郷のワーリックシャー(Warwickshire)が隠れカトリック教徒の巣窟であり、父親(注6)を始めとして彼の近親者にも隠れカトリックが沢山いた(コラム#183)ほか、彼の通った中等学校にも何人も隠れカトリック教徒(イエズス会信徒)の教師がいて、その事実が露見して逃亡したり惨殺された人が出ていることです。

 (注6)ストラットフォードの執行吏や市長を勤め、カトリック教徒を取り締まらなければならない立場であったにもかかわらず、隠れカトリック教徒達をかくまった。もっとも、シェークスピアの父は隠れカトリック教徒ではなく、風向きが変わった時に備えて保険をかけていただけだ、という説もある。

 

根拠の第二は、シェークスピアが1580年と81年に何をしていたのか記録が残っていない一方で、同じ時期に、極めてよく似た名前のWilliam Shakeshafteという男がランカシャー(Lancashire)地方の隠れカトリック教徒の邸で家庭教師をしていたという記録があることです。

 その頃、近くに住んでいたのでシェークスピアが会った可能性があるキャンピオン(Edmund Campion)は、隠れカトリック教徒不穏分子であることが露見して1581年に殉教し、後にローマ法王によって聖人に列せられていますし、シェークスピアが1587年にロンドンに初めて上京した時には、串刺しにされた隠れカトリック教徒達の首をロンドン橋上で目にしたはずです。

 なるほど、こういうことであれば、シェークスピアが仮に隠れカトリック教徒であったならば、秘密めかした生活を送らざるをえなかったはずです(注7)。

 (注7)イギリスのカトリシズムとの戦いの歴史については、コラム#172181183を参照のこと。

 

しかし、それならそれで新たな疑問が湧いてきます。

 シェークスピアの作品は、当時のイギリスの多数派の物の考え方で貫かれていて、全くカトリック臭がしないのはなぜか、という疑問です。

 (2)カトリシズムへのオマージュとしてのシェークスピア作品?

 そこへ今年、シェークスピアは、その表見的にはカトリック臭が全くしない戯曲や詩に、実は暗号でカトリシズムへのオマージュを込めている、という説が登場したのです。

太田述正コラム#9162005.10.20

<シェークスピアをめぐって(その1)>

1 シェークスピアの正体

 今回は、ちょっと息抜きをしましょう。

私は、以前(コラム#88で)「シェークスピアの詩人、劇作家としての才能の偉大さには瞳目すべきものがあるとしても、その他の点では、シェークスピアはチューダー朝のイギリスにいくらでもいた、フツーの人だったと考えられるのです。例えば、シェークスピアの恐るべき博識ぶりについては、「こうした知識は、当時は広範な公衆の知識だった。特にロンドンではそうだった」(アンドレ・モロア『英国史』)のであって、基礎的な教育しか受けたことがなく、ストラットフォードとロンドンしか知らない一介の俳優だった彼が、博識であっても何の不思議もないのです。」と記したところです。

(以下、特に断っていない限りhttp://www.sankei.co.jp/news/051006/bun005.htmhttp://www.timesonline.co.uk/article/0,,2-1811620,00.htmlhttp://stromata.typepad.com/stromata_blog/2005/09/a_new_shakespea.html(以上いずれも10月6日アクセス)、及びhttp://www.cnn.com/2005/SHOWBIZ/books/10/19/shakespeare.ebate.ap/index.html1020日アクセス)による。)

 しかし、生地ストラットフォードの中等学校(grammer school)しか出ていない、一介の中産階級の人間にあんな作品が書けるだろうか、とこの通説に首をかしげ、シェークスピア作品の真の作者は別にいる、とする説が昔から手を変え品を変えて出現してきました(注1)。

 (注1)クリストファー・マーロウ(Christopher Marlowe)説、フランシス・ベーコン(Francis Bacon)説Edward de Vere, 17th Earl of Oxford説等がある。日本で正体探しが盛んに行われてきたところの、寛政6年(1794年)に突然現れて10ヶ月間に約140点の浮世絵の作品を残して忽然と姿を隠した東洲斎写楽(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%B4%B2%E6%96%8E%E5%86%99%E6%A5%BD)のことを思い出す。

 

最新の説を一つご紹介しましょう。

 この説は、真の作者はサー・ヘンリー・ネヴィル(Sir Henry Neville1562??1615年)であるとするものです。

 ネヴィルは、廷臣であり、その生涯の大部分の期間下院議員を勤め、駐フランス大使を勤め、イギリス有数の家系に属し、祖先の親戚にシェークスピア(William Shakespeare1564?1616年。ネヴィルと殆ど同じ生没年であることに注意)の作品に登場する何人もの国王がいる、シェークスピアの遠戚の、激しい反カトリシズムで知られた人物です。

 この説によれば、ネヴィルの先祖、例えば「ヘンリー6世・第二部」に登場するRichard Nevil, the Earl of Warwick は、子孫にしか書けない正確さで描写されているし、「リチャード2世」に登場する、やはり先祖であるJohn of Gauntを含め、先祖はみんな好意的に描かれている、というのです。

 また、ネヴィルの残した1602年のノートには、「ヘンリー8世」が書かれるより11年も早い時点で、ヘンリー8世(1491?1547年)とその第二のお后のアン・ブーリン(Anne Boleyn)と1533年の結婚式(注2)の模様が記されているというのです。更に、ロンドンの第二バージニア会社(商社)の取締役として、ネヴィルは、その2年後に書かれた「テンペスト」の素材となった1609年のバミューダ沖での難破事故について記した秘扱いの手紙を読むことができる立場だったというのです。

 (注2)このヘンリー8世の再婚問題をきっかけとして、英国はカトリック教会から離脱し、国教会がつくられた(コラム#61504)。

 

そして、シェークスピアは宮廷での経験がなく、また欧州に行ったことが一度もなかったというのに、彼の書いたとされるものは、作者が、宮廷生活やエリザベス1世(1533?1603年。在位1558?1603年)時代の政治・経済の枢機やイタリア・フランスのことに、これらの国の言葉を含めて、造詣が深いことを示しているところ、ネヴィルは、欧州に行く度となく赴いており、「劇」の中で出てくる様々な都市や場所を訪問していて語学も堪能だったというのです。

 かつまたネヴィルは、1601年から1603年にかけて、エリザベス女王廃位の陰謀(注3)に関与した廉でロンドン塔に投獄されており、このことが「劇」が史劇や喜劇から悲劇に変わるきっかけになった(注4)と考えると平仄が合うけれど、シェークスピアにはそんな転機はなかった、というのです。

 (注3)エリザベスの愛人の一人であったエセックス(Essex)伯爵が1601年に起こした大逆事件(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%82%B6%E3%83%99%E3%82%B91%E4%B8%961020日アクセス)。

 (注4最初の悲劇である「ハムレット」が書かれたのは1601年から1602年にかけてのことだ。

太田述正コラム#7502005.6.11

<厳しく再評価される毛沢東(番外篇)>

 (5月(11)?6月(10)HPへの訪問者数は、周辺諸国との関係でこれといった大きな動きがなかったのに、25565人と二ヶ月続けて史上最高記録を更新しました。ただ、前月に比べて1日多いことと、時間が若干ずれていることから25800人弱くらいでないと、上回ったとは言えないのですが、その点を割り引いても、これはうれしい誤算でした。(ちなみに、先月発足した太田ブログ(http://ohtan.txt-nifty.com/column/へのアクセス数累計は、10日昼過ぎの時点で248です。)他方、メーリングリスト登録者数は1279名と伸び悩んでおり、一ヶ月前に比べて10名しか増えていません。累計訪問者数は、402,660人であり、40万人台を突破しました。)

1 尊敬する人物調査

 中共の中学生の尊敬する人物調査(コラム#744)(注1)をご記憶でしょうか。

 6月10日付の人民網(http://j.peopledaily.com.cn/2005/06/09/jp20050609_50786.html)に改めて調査結果が掲載されていました。

 (注1)調査地域は北京、上海、河南省、陝西省、遼寧省、湖南省などで、有効回答数は1018人。回答した学生のうち、男子は443人、女子は575人。アンケートの質問は「あなたの心の中の英雄は誰ですか?」「あなたが英雄を選ぶ基準は?」の2つで、選択肢を設けない自由回答方式を採用した。

 尊敬する人物(英雄)10傑は次のとおりです(上位順)。

1. 毛沢東(mao zedong
2. 両親(parents
3.
周恩来(zhou enlai

4.
鋒(lei feng):1962年に殉職した模範的な軍人。国民的尊敬を集める
5.
劉翔(liu xiang):アテネ五輪110メートル障害走金メダリスト
6.
成竜(jackie chan):ジャッキー・チェン、映画スター
7.
任長霞(ren changxia2004年に殉職した河南省登封市公安局局長
8.
劉胡蘭(liu hulan):1946年に中国共産党へ参加。1947年に国民党に捕らえられ、殺害される。享年15
9.
董存瑞(dong cunrei):中国共産党員。1948年、国民党との攻防戦の中、部隊の勝利のた

めに自爆して犠牲となる。享年19
10.
楊利偉(yang liwei):中国最初の宇宙飛行士

 また、尊敬する人物(英雄)の基準については、次のような結果でした(上位順)。

1. いつも前向きで楽観的な生き方をしている人

2. 感動させてくれる人

3. 非常に敬服させられる人

4. 前進への勇気をくれる人

5. 善良でやさしさのある人

6. 寛容で度量のある人

7. 人のために自分を捨てられる人

8. 公正無私の人

9. 正直で勇敢な人

10.優れた道徳と品性を持つ高尚な人

 (以上、人民網上掲による。)

2 10傑の紹介

 (1)始めに

 毛沢東と周恩来は既に取り上げています(コラム#204744?746)し、両親・劉翔(注2)・ジャッキーチェン(注3)・楊利偉の三名については余り説明を要しないと思うので、残りの四名を取り上げることにしましょう。

 

 (注2)アテネ・オリンピックで世界タイ記録を出した。今年3月、中共の最優秀男性スポーツ選手に選ばれたことと、端正な顔立ちであること(http://news.searchina.ne.jp/2005/0317/national_0317_003.shtml。6月10日アクセス(以下同じ))が人気の理由か。

 (注3)ジャッキーチェンは中共(活動拠点は香港)最大の映画スターだが、中共当局迎合発言でも知られる。昨年3月、台湾総統選挙の結果について、「世界最大のジョークだ。・・これは恥だ。正視に耐えない。私はガックリ来てまんじりともできなかった」と語り(http://www.chinadaily.com.cn/english/doc/2004-03/29/content_318903.htm)、台湾の陳水扁支持者達の憤激をかった。

 (2)個別紹介

  ア 鋒(1940?62年)

鋒が職務中に事故死した翌年、「雷鋒同志に学ぼう」(向雷鋒同志学習)運動が、毛沢東の提案によって始まり、日記(雷鋒日記)の出版、映画制作なども行われ、鋒の命日の3月5日は雷鋒記念日にされ、小学校ではごみ拾い等の奉仕活動が課せられます

また、雷鋒の最期の地である撫順には雷鋒記念館が、出身地の長沙には雷鋒記念館が設けられています。

これなら、中共の中学生で鋒を知らない者はいないはずです。

その雷鋒とは、一体どんな人物でどんな功績があったのでしょうか。

21歳で一整備兵として事故死した彼に、公に対する功績らしい功績があったわけではありません。彼が「為人民服務」(滅私奉公)精神を持った愛帮助別人(人を助けるのが好きな人)であったことは事実ですが、毛沢東がたまたま雷鋒に着目したことが、鋒の英雄化につながったのです。

ではどうして毛沢東が鋒に着目したのか。それは「雷鋒日記」に、「毛沢東の本に学び」云々の毛沢東への言及が無数になされていることを、毛沢東が痛く気に入ったからでしょう。

 (以上、事実関係はhttp://jp.chinabroadcast.cn/1/2005/04/04/1@38186.htmhttp://jp.chinabroadcast.cn/1/2005/03/04/1@36355.htm、及びhttp://blog.livedoor.jp/shadai_blog/archives/15667361.htmlによる。)

  イ 任長霞(1964??2004年)

 任長霞は、2001年から2004年に公務中に交通事故で亡くなるまで、少林寺拳法で有名な少林寺のある河南省登封市で公安局長(警察本部長。部下1000人)をしていた女性です。

 彼女は専用車つきの身分であったにもかかわらず、みずから密偵や聞き込みを行い、また、市民相談日の土曜には、朝8時から夜11時半まで親身になって熱心に市民の声に耳を傾けたといいます。また、彼女は実子の男の子が一人いましたが、孤児を養子として引き取り、また事故で目が不自由になった子供に経済的支援を含め親代わりに面倒を見たともいいます。

 彼女の葬儀には14万人が集いました。

 彼女の場合は、民衆自身が、公務員であった人物を英雄に祭り上げためずらしいケースだ、と言って良いでしょう。

 (以上、http://www.rmhb.com.cn/chpic/htdocs/rmhb/japan/200408/4-1.htm及びhttp://blog.goo.ne.jp/jchz/m/200406による。)

ウ 劉胡蘭(1932?47)

 劉胡蘭は、共産党から彼女の生誕地である山西省文水県の村にオルグとして派遣されていましたが、1947年1月に国民党系の山西軍閥の閻錫山の率いる軍がこの村に侵攻し、彼女を逮捕しました。

 劉胡蘭は尋問に何も答えないまま殺されてしまいます。享年15歳でした。その後、彼女の話はオペラに仕立て上げられます(http://jp.chinabroadcast.cn/1/2005/01/14/1@33471.htm)。また、山西省分水県には劉胡蘭記念館が設けられています(http://64.233.187.104/search?q=cache:_ua1VUyWr78J:www11.big.or.jp/~syabuki/2005/dw040903.pdf+%E8%91%A3%E5%AD%98%E7%91%9E&hl=ja&start=11&lr=lang_ja)。

 彼女が英雄になったのも毛沢東のおかげです。

 毛沢東が彼女について、「生的偉大、死的光栄」(生きていたことは偉大で、なくなっても光栄である)と揮毫して称えたからです。

 (以上、特に断っていない限りhttp://www.geocities.jp/er_jian164/LIB-27/stamp27.htmによる。)

  エ 董存瑞(1929??48年)

 董存瑞については、先に記した「中国共産党員。1948年、国民党との攻防戦の中、部隊の勝利のために自爆して犠牲となる。享年19歳」ということ以外は、次のことくらいしか分かりませんでした。

 彼の話は映画に仕立て上げられます(http://jp.chinabroadcast.cn/1/2004/09/17/1@26929.htm)。また、河北省隆化に烈士陵園が設けられていますhttp://64.233.187.104/search?q=cache:_ua1VUyWr78J:www11.big.or.jp/~syabuki/2005/dw040903.pdf+%E8%91%A3%E5%AD%98%E7%91%9E&hl=ja&start=11&lr=lang_ja上掲)

3 感想

 中共の中学生の尊敬する人物として、毛沢東自身と、その毛沢東がいわば無から生み出した人物である劉胡蘭の2人、計3人が10傑に入っているのですから、中共がいかに毛沢東神話のインドクトリネーションに依然汲々としているかが良く分かります。

 しかし、尊敬する人物の基準についての調査結果を見ると、中共の中学生は、公のために尽くす人より、どちらかというと単純に芸能人的な有名人に惹かれていることがうかがえます。このままでは、遠からず、10傑は、劉翔やジャッキーチェンのような人々で占められることになりそうな予感がします。(楊利偉もどちらかというと、芸能人的有名人と言えるでしょう。)

 次に気になるのは、20世紀中頃以降の人物しか登場しないことです。支那の3,000年の歴史は20世紀中頃まで一人の偉人も生み出さなかった、というのが共産党の見解であること(コラム#132)を改めて実感させられました。

 また、国民党との戦いにおける英雄が劉胡蘭と董存瑞と二人も登場するのに、抗日戦争の英雄が一人も登場しないことです。ここから、国民党との戦いがいかに共産党にとっては重要かつ深刻なものであったかが分かると同時に、抗日戦争には共産党はまともに取り組まなかったことも分かります(コラム#559)。

 他方、一つだけ感心させられるのは、リストの中に女性が2人も登場することです。

 中共が推進した男女平等政策(コラム#567)の結果、この点では支那は日本よりも先進的な社会になった観があります。これも、絶対的な悪人たる毛沢東による支那統治がもたらした、意外な結果の一つである(コラム#746)と言えそうです。

太田述正コラム#7462005.6.7

<厳しく再評価される毛沢東(その3)>

 さて、そもそも共産党が長征で陝西省をめざしたのは、ソ連の近くを根拠地にして、ソ連の大規模な支援を得るためだったが、これに完全に成功したのが、日本の敗戦後の1947年から1948年にかけて満州においてだった。

 ソ連は日本の残した満州の重工業施設を中国共産党に引き渡し、更に日本軍捕虜数万人を中国共産党に送り込み、共産党軍の訓練にあたらせるとともに、共産党軍の空軍の設立を手伝わせた。日本軍捕虜の中には、共産党軍とともに国民党軍と戦わされた人々もいる。

 1946年の夏に米国が国民党と共産党との間に入って4ヶ月間の休戦を実現したことが、共産党の最終的な勝利につながった。この間共産党軍は、ソ連から大規模な軍事物資等の支援を得て、態勢を全面的に整備することができたからだ。

 こうして1948年までには中共は1億6,000万人の人口を支配するに至った。富農や地主は抹殺されなければならないものとされ、その時点までに、数十万ないし100万人の富農や地主が殺害されるか自殺に追い込まれた。

 1950年1月の中共軍のチベット侵攻・占領とそれに伴う強制的同化政策は、チベット人男子半分に死をもたらした。

 また毛沢東が、同じ年の10月に中共軍を朝鮮戦争に介入させたのは、米軍との戦いで中共軍に天文学的な損害が生じることを承知の上で、スターリンにゴマを刷り、中共の軍需産業建設にソ連の一層の支援を取り付けることを目論んだためだ。

 1958年8月の金門(台湾)攻撃は、中共のために米国との間で核戦争に引きずり込まれることを回避したいソ連から核兵器技術を獲得するためだった(注8)。

 (注8毛沢東は金門攻撃の折りに主治医李志綏に「台湾の存在は国内の統一の維持に役立っており、金門、馬祖も奪う必要はない。」と語っている(http://www.eva.hi-ho.ne.jp/y-kanatani/minerva/Review/r20000514.htm。6月6日アクセス)。

 また毛沢東は、ベトナムに対米戦争をエスカレートさせることを促したが、これは米国をベトナムにかかりきりにさせることで、中共の核施設に対する米国の攻撃を回避するためだった。

 毛沢東の号令一下で始まった大躍進政策(Great Leap Forward1958?59年)は未曾有の大飢饉をもたらし、4年間で3800万人の餓死者を出した(注9)(注10)。

 (注9)毛沢東は、「当時世界第2位の経済大国であったイギリスを追い越すという壮大な計画を立て、市場原理を無視して人民に厳しいノルマを課し、ずさんな管理の元で無理な増産を指示したため却って生産力低下をもたらした。この時、無理なノルマを達成できなかった現場指導者たちは水増した成果を報告した。そして、その報告を受け取った毛沢東は更なる増産を命令するという悪循環に陥っていったのである。また・・経済生態系のシステムを無視した、単純かつ一面的な計画を押し付けたことも、甚大な被害を招いた。・・有名な失敗例を挙げると、鉄鋼の大増産を目指して原始的な溶鉱炉を用いた製鉄が全国の農村で展開されたが、使い物にならない粗悪品しか産出されず、資源を無駄に浪費する結果となった。しかも農民が大量に借り出されたため、管理が杜撰となった農地は荒れ果ててしまったし、ノルマ達成のために農民の保有する鍋釜、農具まで供出されたために、地域の農業や生活の基盤が破壊されてしまった。さらに、農作物を食い荒らすスズメは悪者だとして、大量捕獲作戦が展開されたが、害虫が大量発生し、農業生産は大打撃を被った。スズメは、農作物を食べるが、同時に害虫となる昆虫類も食べ、特に繁殖期には雛の餌として大量の昆虫を消費している。生態系のバランスを無視した結果であった。・・また、ソ連からの借款(ソ連からの武器の購入や核兵器の開発のためのもの(太田))の返済に農作物を充てていたことも、極端な食糧不足につながったという指摘もある。」毛沢東は大躍進政策失敗の責任をとって1959年、国家主席を辞任した。大躍進政策については中共の教科書には一切書かれおらず、また、大躍進政策関係の用語はインターネットで検索できないような措置がとられている。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%BA%8D%E9%80%B2。6月5日アクセス)

 (10)大躍進政策を始める直前の1957年には毛沢東は百花斉放(Hundred Flowers Campaign)を唱え、検閲を緩和し、中共権力への建設的批判を許した。しかし、批判の噴出にたじろいだ毛沢東は、再び弾圧に転じ、300,000人もの知識人が殺害・投獄・解雇・再教育の対象となった。

 

 毛沢東の生涯の最後を飾るのが、文化大革命の破壊と大殺戮であったことはご承知の通りだ。

4 終わりに

 毛沢東は1976年9月9日に死去しましたが、現在もなお、その巨大な遺影は天安門広場を飾り、そのミイラ化された亡骸は天安門広場の真ん中の建屋に安置されています。

 毛沢東の文化大革命当時の罪状をありのままに展示した博物館はできたとはいえ、ワイルドスワンは発禁されたままですし、今回のチャン(張戎)らによる毛沢東の伝記の支那語版(作成中)が解禁されることもまたありえないでしょう。

その厳しい毛沢東批判や中共の体制批判がしばしば香港等のメディアで取り上げられている李Li Rui。毛沢東の元秘書)のような人物が、「毛沢東の手法は過去の皇帝達よりも過酷だった。彼は人々の心までも支配しようとしたからだ」と語りつつも、選ばれた共産党員だけが許された高級住宅街に住み、毛沢東は7割方正しかった、という党公式見解を信じている(フリをしている?)限りは、毛沢東の真の姿が中共の人々に明らかにされる日はまだまだ遠そうです。

このように現在の中共当局が、毛沢東崇拝の幕を決して下ろそうとしないのは、共産党支配の正当性がゆらぐのを恐れる以上に、自分達自身が毛沢東と同じ穴の狢であることを知られたくないからなのでしょう。

トウ小平が、ああも簡単に共産主義を投げ捨て、資本主義へと舵を切れたのは、毛沢東同様、トウ小平自身、イデオロギーなど全く信じておらず、あるのは自らの権力追求欲だけだった、と解すれば不思議でも何でもなくなります。

ですから、そのトウ小平が指名した江沢民や、トウ小平の遺志により江沢民の跡を襲った胡錦涛ら中共の独裁者達には、われわれは一切幻想を抱かない方がよさそうです。

いずれにせよ、毛沢東という人物がわれわれに物語っているのは、一つには絶対的な悪が勝利することがあるということであり、もう一つは、絶対的な悪が意外な結果をもたらすことがあるということです。スターリンはロシアを破壊しロシアの人々を殺戮しただけであり、ロシアはいまだにその打撃から立ち直れないでいるのに対し、もっとひどく支那を破壊し支那の人々を殺戮した毛沢東は、死後支那に高度成長をもたらしたからです。

(以上、3と4は、特に断っていない限り

http://observer.guardian.co.uk/comment/story/0,6903,1494847,00.html(5月29日アクセス)=http://www.mggpillai.com/sections.php3?op=viewarticle&artid=10729(6月4日アクセス)、http://www.guardian.co.uk/china/story/0,7369,1497274,00.html(6月2日アクセス)http://www.taipeitimes.com/News/edit/archives/2005/06/04/2003257917(6月5日アクセス)、http://www.guardian.co.uk/comment/story/0,3604,1498958,00.html(6月4日アクセス。以下同じ)、(http://books.guardian.co.uk/reviews/biography/0,6121,1498718,00.htmlhttp://www.guardian.co.uk/comment/story/0,3604,1498958,00.htmlhttp://books.guardian.co.uk/departments/biography/story/0,6000,1492173,00.htmlhttp://www.amazon.co.uk/exec/obidos/tg/stores/detail/-/books/0224071262/reviews/202-7688717-9549416http://www.zeroballet.info/supernaut/archives/000507.htmlhttp://thescotsman.scotsman.com/critique.cfm?id=582472005http://economist.com/displayStory.cfm?story_id=4008693http://books.guardian.co.uk/reviews/biography/0,6121,1499341,00.html(6月5日アクセス)による。ただし、4は私見も加味した。)

(完)

太田述正コラム#7452005.6.6

<厳しく再評価される毛沢東(その2)>

 (2)その内容

 この本の内容のさわりをご紹介しましょう。

 毛沢東はヒットラーやスターリンに匹敵する悪党であり、この二人以上の惨害を人類にもたらした。にもかからわず、世界はこの人物について余りにも無知であり続けた。

 毛沢東伝説をつくったのは、毛沢東にインタビューしてそのほら話を額面通り信じたエドガー・スノー(Edgar Snow)だ。彼が1936年に上梓した毛沢東の半生の伝記である「中国の赤い星(Red Star Over China)」の内容は殆どがウソであり、スノーの責任は大きい。

 毛沢東が支那の最高権力者であった27年間に彼のために命を落とした人は少なく見積もっても7,000万人をくだらない。しかも、この数字には朝鮮戦争における人民解放軍がらみの死者を含まない。平時において7,000万人を殺すなど、人類史上空前のことだ。

 毛沢東は、ゲリラ戦略家でも共産主義思想家でも貧農の友でも先見の明のある政治家でもなかった。それどころか、決して雄弁家ではなかったし、オルグとしても凡庸だった。彼が支那における共産主義の父であるなんて悪い冗談だ。

 彼は、ソ連の意向に添うことに汲々とし、ソ連の全面的な支援のおかげで支那の最高権力者になることができたのだ。(そもそも、中国共産党自体、ソ連の工作でできたものだ。)

 毛沢東は、いかなるイデオロギーも全く信じておらず、支那に社会主義のユートピアを建設しようなど露ほども考えたことがない。彼にとっては、平等主義は唾棄すべきものであり、彼が口先だけでは称えていた貧農に対し、破壊的政策を繰り返し行って恥じなかった(注4)。彼が関心を持っていたのは、自らの個人的権力の追求だけだった。支那も支那の住民も彼にとってはその手段以外の何ものでもなかった。

彼は、人がいくら死のうと無頓着であり、自らの個人的権力を追求する過程で殺人を厭わず、人々の死への恐怖心をもてあそんだ。彼は、人々が拷問されたり虐殺されたりするのを見物するのが趣味であり、文化大革命当時には、文革における暴力的衝突や拷問の場面を撮影したドキュメンタリーを好んで鑑賞した。人の弱みを握ってその人物を意のままに動かすこともまた彼の得意とするところだった。

毛沢東がいかなる人物であるかは、彼が密かにある本の余白に書き記した以下の文章が物語っている。

「他人のためを考えて自らの行動を律せよ、といった道徳観などクソ食らえだ。私のような人間は、・・自分の欲求をとことん満たそうとする。それこそが最高の道徳律だ。この世界には様々な人やモノがあるが、それらはことごとく私だけのために存在しているのだ。・・私のような人間は、義務は自分達に対してだけ負っているのであり、他人に対しては何の義務も負っていない。」

こんな毛沢東の人類へのユニークな「貢献」は、全く新たな恐怖統治手法を編み出したことだ。

延安時代(後述)に彼は、人々に自己批判や他人の批判を強要し、「悪行」の告白や告発を導く、という手法を始め、後にこれを支那全土に広めた。

毛沢東は、全支那の権力を掌握すると今度は世界の制覇をねらい、そのためにいかなる犠牲をも厭わずひたすら核兵器の獲得を追求した。

 (注4)一回目は、1920年代末から1930年代初にかけて、毛沢東が農村地帯でゲリラ戦を行っていた時のことだ。当時共産党ゲリラの食糧は貧農達からの徴発でまかなっており、貧農達を塗炭に苦しみに陥らせた。

 毛沢東は支那の最高権力者であった間、酒池肉林の生活を送った。

(風呂嫌いで25年間風呂に入らなかったが、)彼は中共各所に50箇所以上専用別荘を持っていた。もっとも、これは臆病者の毛沢東が、米国やソ連による爆撃を恐れ、居場所を隠したかったからでもある。

 グルメの彼は、1000キロ離れている揚子江沿いの武漢から北京の本宅まで、せっせと新鮮な川魚を運ばせていた。

相次いで4人の妻を娶った彼は、高齢になってもなお無数の情婦や一夜妻と情交に勤しんだが、これらの妻や情婦及び自分の息子や娘に対し、一欠片の愛情も懐いていなかった。毛沢東は、長征Long Marchの途次、生まれたばかりの彼の息子を放置して殺すように命じている(注5)。

 (注5)ヒットラーだって、自分の飼っていた犬や他人の子供には優しかった。金正日だって自分の子供達はかわいがっている。毛沢東が人並みの家族愛を持っていたら、恐らく「皇帝」毛沢東(コラム#204)は毛王朝の創始者となっていたことだろう(太田)。

 毛沢東は中国共産党ができてから一年後の1921年に共産党に入党した。

 スターリンによってゲリラ戦をやれと命ぜられた中国共産党は、襲撃による金集めをしながら、国民党相手のゲリラ戦を始め、その中から毛沢東は頭角を現わす。

 国民党軍に敗れた共産党軍は1934年に長征を始めた時点で80,000人(公式には90,000人)の兵力だったが、延安に到着して長征が終わった1936年には4,000人(公式には20,000人)に減っていた。その減耗分の少なからざる部分が毛沢東が行った物理的粛清によるものだった。

 長征が成功したのは、一にかかって蒋介石(Chiang Kai-shek)のおかげだ。蒋介石は、共産党軍を深追いして、国民党支配が確立していない地域で軍閥と衝突することは得策ではないと考えた。しかも、蒋介石は、息子の将経国(Chiang Ching-kuo)がソ連国内で実質的に人質とされていたことからも、共産党軍を壊滅させてソ連の逆鱗に触れることは避けようとした。それどころか、蒋介石は、長征路の所々に食糧を満載した付近の詳細地図つきの無人トラックを配置し、共産党軍を手助けした(注6)。

 (注6)中共の公式説明:「共産党の紅軍は戦力保持のため、十数倍もの敵の包囲を振りきって、根拠地の江西省瑞金や福建省西部から、戦略的な大移動を行いました。まず西進、そして北上と迂回曲折して、11の省を通過、25000華里(12500キロ)を踏破して、ちょうど一年後の3510月、陝西省北部に到達し、新たな根拠地を建設したのです。」(http://www.peoplechina.com.cn/maindoc/html/zuobi/200110.htm。6月5日アクセス)

 長征の過程における有名な、大渡河(Dadu River)渡河英雄譚は、事実と違うどころか、全くの捏造だ。瀘定橋での戦いなどはなかったし、そもそもその付近に国民党軍は一兵もいなかった(注7)。

 (注7)中共の公式説明:「長江の支流・大渡河での話です。怒涛さかまく大渡河を迅速に渡るには、一刻も速く瀘定橋を奪い取らなければなりませんでした。瀘定橋は大渡河を渡る唯一の橋でもあったのです。そこで紅軍は瀘定橋の奪取作戦に出ました。しかしその橋とは?それは、16本のチェーンをかけ渡しただけの、長さ百メートルあまりの吊り橋でした。橋げたにはもともと横板が敷かれていたのですが、橋の中心から半分はすでに敵に取り払われた後でした。瀘定橋を渡った敵が、横板を外して逃げたのです。東岸の橋のたもとには機関銃を装備した敵の陣地があり、その後方を増援部隊が守っていました。上空には敵機が飛び交い、命懸けの作戦でした。しかし、25歳にも満たない兵士22人が、突撃隊を志願したのです。そして激戦の末、瀘定橋を奇跡的に奪取したのでした。」(peoplechina上掲)

 そうは言っても長征は共産党軍の一般兵士にとっては過酷極まる行軍であり、だからこそ前述したように粛清とあいまって大部分が命を落としたのだ。

 しかし、毛沢東を初めとする共産党幹部達の中に、長征の過程で命を落とした者は一人もいない。それもそのはずだ。彼らは一般兵士に担がせた籠に乗って移動したからだ。

 延安で毛沢東は、資金調達のためにケシを栽培して麻薬の製造と共産党支配地域外への販売を盛んに行い、現在のドル表示で6億4,000万米ドル相当の売り上げを達成している。

 1936年の西安事件(コラム#178187234256290292353)は、張学良(Chang Hsueh-Liang)が蒋介石に代わって国民党の主席になろうとして起こしたクーデターであり、毛沢東は張学良に蒋介石を殺せと言ったが、国民党が弱体化し、日本が後顧の憂いなくソ連に対峙することを恐れたソ連が介入し、蒋介石は命を長らえ、毛沢東の意に反して国共合作がなった。

 毛沢東は日支事変勃発を喜び、日本軍と国民党軍とを戦わせて国民党軍を消耗させる一方で共産党軍は日本軍と基本的に戦わせず、共産党軍の温存を図った。それどころか毛沢東は、日本の諜報機関と密かに長期にわたって協力し、日本軍に国民党軍を叩かせた。だからこそ、中共が支那の権力を掌握した後、毛沢東は日本からの訪問者達に対し、仮に日支事変が起こっていなかったとしたら、まだ共産党は山奥を彷徨していただろう、と彼らに謝意を表明したのだ(注8)。

 (注8)毛沢東は、日本軍が引き起こした1937?38年の南京事件(コラム#263264256?259)に対し、一貫して何の関心も示していない。

(続く)

太田述正コラム#7442005.6.5

<厳しく再評価される毛沢東(その1)>

1 始めに

 毛沢東(Mao Zedongについては、以前(コラム#204で)ちょっと取り上げたことがあります。

 毛沢東のやったことは、7割方正しかった、というのが現在の中共の公式見解です(http://www.nytimes.com/2005/05/29/international/asia/29museum.html?8hpib=&pagewanted=print。5月30日アクセス)。

 その毛沢東は、現在でも中共での人気は全く衰えていません(コラム#134)。今年実施された中共での調査によれば、中共の中学生の最も尊敬する人物は毛沢東です(http://news.sohu.com/20050528/n225734905.shtml。6月4日アクセス)(注1)。

(注1)ちなみに、二位は父母、三位は周恩来(Zhou Enlai、六位はジャッキー・チェンJackie chan)だ。

 さて、このところ、毛沢東に対する厳しい再評価に係わる二つのニュースが英米のメディアを賑わしています。

 二つのニュースとは、中共で文化大革命(Great Proletarian Cultural Revolution)に関する博物館の開館と、英国での新たな毛沢東の伝記の出版です。

2 文化大革命に関する博物館の開館

文化大革命(1966?1976年)は毛沢東が犯した最後の巨大な愚行でしたが、29年たってようやく文化大革命に関する博物館が三ヶ月ほど前に広東省の北東の端の汕頭(Chantou)市に開館しました。

この博物館は、汕頭市の元副市長(注2)が、市から補助金を出してもらい、更に香港の実業家等から資金を募って開館にこぎつけた私立の博物館です。

(注2)彼自身、文化大革命当時、反革命分子として死刑に処せられるリストにくわえられながら、最後の瞬間にこのリストからはずされて九死に一生を得た経験がある。

中共で、いまだに文化大革命に関する公文書が解禁されておらず、学者が文化大革命について表だって議論することも禁じられている(注3)ことを考えると、これは画期的なことです。

(注3)文化大革命の時のいわゆる四人組の一人である張春橋(Zhang Chunqiao)が今年4月21日に死去したことが、3週間近く伏せられ、5月10日になってようやく公表されたことは、中共当局が文化大革命について依然いかに悩ましく思っているかを物語っている。

しかし、この博物館開館のニュースは一時中共のメディアで報じられたものの、その後報道が禁じられており、上記の元副市長が外国のメディアのインタビューに応じることも禁止されています。

 (以上、特に断っていない限りNYタイムス上掲及びhttp://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2005/06/02/AR2005060201916_pf.html。6月4日アクセスによる。)

3 新たな毛沢東の伝記の出版

 (1)出版まで

 更に画期的なのは、1991年に上梓されたワイルド・スワンWild Swans)という世界中で1000万部以上売れたベストセラーの自伝本の著者であるチャン(Jung Chang。支那出身)と彼女の夫のハリデー(Jon Halliday。英国人で歴史学者)の共著、Mao: The Unknown Story, Jonathan Capeが、7月2日に発売されたことです。

 これは、ワイルド・スワンの印税を元手に、10年間かけて、ロシア語に堪能なハリデーが冷戦崩壊後のロシアで解禁された支那関係公文書を担当し、チャンは中共関係者に対するインタビューを担当するといった分業を行いつつ、38カ国の350人以上の人々にインタビューを行い、巻末に記されているだけで1000以上の文献にあたって、二人が書いた本であり(http://thescotsman.scotsman.com/critique.cfm?id=582472005。6月4日アクセス)、英米で既に大変な話題になっています

(続く)

太田述正コラム#7372005.5.29

<忘れられた沖縄出身のある女流作家について>

 (5月27日上梓。)

坂野 興 様

 坂野さん、自費出版されたご著書をお送りいただき、ありがとうございました。

 坂野さんには、2001年の3月に防衛庁関係団体の理事長室に退官と選挙出馬のご挨拶にうかがって以来、お目に掛かっておりませんが、お元気でお過ごしのことと存じます。

 選挙の際には、大学生でいらしたご長男が関心を持たれ、私の選挙事務所でアルバイトをしていただいた上、坂野さんからは、ご芳志までたまわったことに、今でも深く感謝しております。

 いただいたご著書は、坂野さんご自身の文章を集めた左とじの本と、久志芙沙子なる人物の文章やこの人物の思い出等をつづった何人かの第三者の文章からなる右とじの本を貼り合わせる、というユニークなもので、最初はどこから読んだらよいのか、また、坂野さんと久志芙沙子とがいかなる関係にあるのか分からず、まごつきました。

 坂野さんご自身の文章のいくつかは防衛庁在職時に読ませていただいたことがありますし、坂野さんのお考えもおおむね承知していることから、久志芙沙子がご母堂であること等が判明した後は、もっぱらご母堂の文章等に目を通させていただきました。

 そして、沖縄ご出身のご母堂が、私小説「滅びゆく琉球女の手記」(婦人公論1932年6月号)を上梓されたところ、これが筆禍事件を引き起こし、「『滅びゆく琉球女の手記』についての釈明文」(婦人公論1932年7月号)を書かれた上で擱筆された、ということを知り、瞠目いたしました。

 「釈明文」については、今読んでも全く時代を感じさせない内容であり、後に沖縄出身の様々な作家や研究者等が、上記顛末に言及してきた(そのいくつかはご著書に転載されている)のもむべなるかな、と思います。

 坂野さんご自身も、このようなご母堂の過去について、つい最近までご存じなかった由。

 擱筆後、沖縄と絶縁するとともに沈黙を貫き通し、主婦として矜持を持って残りの生涯をまっとうされたご母堂に対し、心から敬意を表します。

 奥様やご長男にもくれぐれもよろしくお伝え下さい。

 いずれ、皆様に再会できる日を楽しみにしております。

                           2005年5月27

                            太田 述正

(参考1)上記著書に転載されているジャーナリストの国吉真永氏の文章(56?58頁)等からの抜粋

 「滅びゆく琉球女の手記」・・<の>内容は、本土在住<沖縄>県人にたまにみられる「出身地かくし」の典型的人物<(芙沙子の叔父(注))>を正面からとらえたものだ。・・しかし、この「手記」は一回きりで中断された。・・在京・・沖縄県学生会・・<から>抗議をされたからである。

 出版元の中央公論社は・・掲載を中止する・・<こととし、久志芙沙子の次のような>「釈明文」<を>翌月の「婦人公論」・・に掲載<した。>

 「・・私はうそ八百を並べたわけではない。・・また、・・私は沖縄県民全部が、出世すると、・・登場人物の・・ような人間になると書いたおぼえはありません。・・」、「<沖縄>県人をアイヌや朝鮮人と同一視されては迷惑とのことですが、民族に階級をつけて優越を感じようとする意見には賛成できない。それは、アイヌや朝鮮の方々を人種差別することだからです。どの民族も人間の価値は同じである。県人を差別する無理解な人間もおり、私も県人でないように言いつくろったこともあるが、それは神経をいらだたせ、卑屈におちいるばかりだとさとり、考えを改めた」、「就職や結婚も、出身地をあけすけに打ちあけ、両者納得のうえでやったほうが好ましい。無理して本土の娘と結婚し、家族を引きつれて沖縄に一時帰省もままならないことこそ問題である」

 (注)この叔父は、芙沙子に激しく抗議し(63頁)、婦人公論編集長のところにも怒鳴り込んだ(44頁)。

(参考2)久志芙砂子の本名はツル。1903年首里の士族の娘に生まれ、県立第一高等女学校を卒業した後、小学校の教師になるが、作家になることを夢見て上京(62頁)。医者と結婚し、坂野姓となり(115)三男二女をもうける(30)1986年名古屋で没する(68)

(参考3)坂野興氏は久志芙砂子の三男(42)で、東大法学部及び防衛庁で私より年次が三年上。

<蛇足>

久志芙沙子の筆禍事件及びその後の生き様は、沖縄・差別・女性・私小説・ジャーナリズム・日本近代史、等の様々な問題を考える材料をつきつけているのではないでしょうか。

太田述正コラム#0631(2005.2.17)
<村上春樹(その3)>

 (2)普遍性あるユニークさ
  ア 始めに
 日本文明に普遍性があるからこそ、村上作品に普遍性がある、ということを指摘しましたが、それが単にアングロサクソン的であるというだけのことなら、村上作品について、英米で高い評価が下され、ロシアや中国でももてはやされるはずがありません。英米では、わざわざ村上作品を翻訳出版する意味はないし、ロシアや中国でも、翻訳者が少なく、かつむつかしい日本語からの翻訳出版などせず、アングロサクソンの文学作品をそのまま読んだり、比較的容易な(英語からの)翻訳出版をすればこと足りるはずだからです。
 ですから、村上作品ひいては日本文明は、アングロサクソンの文学作品ひいてはアングロサクソン文明にはないユニークさを持ち、同時にそれが普遍性を持っているということなのです。
 その一つが「重層性・雑居性及び包摂性」であり、もう一つが「社会的癒しの構造」です。

  イ 重層性・雑居性及び包摂性
前に引用した米国の書評が、「サスペンス的要素に乏しく、語り口もやや受け身だし、はでばでしい話が展開する割には筋が良く見えない。しかし、圧倒的な実在感があ」ると言っている(コラム#268)ことを思い出しましょう。
村上自身、「ぼくの考え<では>、小説にとってバランスというのは非常に大事である。でも、統合性は必要ないし、整合性、順序も主要ではないということです。」(前掲書78頁)とこの書評と同じようなことを言っています。
ところで、評論家・作家の加藤周一(1919年??)は、日本文学について、「一時代に有力となった文学的形式は、次の時代にうけつがれ、新しい形式により置き換えられるということがなかった・・新が旧につけ加えられる・・<従って>時代が下れば下るほど、表現形式の、あるいは美的価値の多様性が目立つ・・<にもかかわらず日本の文学は、>全体に統一性、形式的一貫性が著しい」とかつて語ったことがあります(典拠失念)。
村上自身が、「歴史という縦の糸をを持ってくることで、日本という国の中で生きる個人というのは、もっとわかりやすくなるのではないかという気が」する(前掲書57頁)、とも語っていることからすると、村上の文学作品は、歴史を経るに従って重層性・雑居性を増しつつも、これら重層性・雑居性を包み込む包摂性を失うことがなかった日本の文学の、一つの到達点を示すものである、と言えそうです。
文学以外の世界に目を転ずると、日本を代表する建築家の一人の磯崎新(1931年??)がいます。
彼は、バルセロナ・オリンピックのメインスタジアム(サンジョルディ・パレス。1990年竣工)等の設計者として世界的に著名ですが、身近にある彼の代表的作品の一つが、茨城県つくば市のつくばセンタービル(1983年竣工。http://tenplusone.inax.co.jp/archive/isozaki/isozaki012.html、及びhttp://www2.plala.or.jp/gavan/rokechi/tukuba01.html以下)です。
この建物は、ホテルとショッピングセンターとコンサートホールという全く異質な三つの機能が雑居している点で興味深いだけでなく、古今東西の異なった建築様式が雑居しているという破天荒なものであるにも関わらず、紛れもなく大きな美的感動を与える一つの綜合体です。
つまり、磯崎の作品にもわれわれは、重層性・雑居性及び包摂性を見出すことができます。
 (以上、加藤・磯崎については、自衛隊向け週間新聞である「朝雲」(1991.12.5付)に掲載された私のエッセーによる。)
 そもそも、日本文明そのものが、縄文モードと弥生モードという対蹠的要素を内包している上に、四回にわたる弥生モードの時代に、それぞれ、南支那(稲作)・北支那(隋/唐)・欧州(スペイン/ポルトガル)・アングロサクソンの各文明を貪欲に吸収し、その都度大変身を遂げて現在に至っているところの、重層性・雑居性及び包摂性を持つ文明なのです。
 このような日本文明は、重層性・雑居性だけなら世界のどの文明でも見られるものの、類い希なことに包摂性を持っているという点で、(イスラム原理主義者やアングロサクソン至上主義に凝り固まった米国のキリスト教原理主義者等、)一部の狭量で排他的で多様性の並存を認めない人々を除いた、世界の殆どの人々から、普遍性があるものと受け止められるはずであり、磯崎や村上は、まさに日本文明の重層性・雑居性及び包摂性を体現している芸術家であるからこそ、世界の様々な異なった文明に属す人々に広く受け入れられるに至ったのではないか、と私は思うのです。

(続く)

太田述正コラム#0629(2005.2.15)
<村上春樹(その2)>

3 ロシアと中国での人気

 (1)ロシア
少し古いですが、次のような朝日新聞の2003年1月6日付の記事(http://www.asahi.com/culture/update/0106/002.html。一読者の提供による。心から感謝の意を表したい。)が、ロシアでの村上人気をビビッドに伝えています。

 村上作品の翻訳書は、「ロシアでは98年に初出版された。その後、4年間で6作品が刊行された。出版元の3社でいずれもトップセラーになって」おり、「モスクワの目抜き通りにある大手書店「ドムクニーギ」・・だけで昨年、大評判のハリー・ポッター・シリーズの約半分にあたる2万冊を販売。売れる外国人作家の第4位にランクされた。」「村上作品の欧米風に自立した主人公・・は・・がんじがらめの旧ソ連の社会体制が崩れてから、「個人の孤立」に悩む人々の共感を集めているようだ。」、「作品の中には欧米の音楽や料理などの小道具がちりばめられている。米国文化を急速に受容したロシアの新しい世代には、そうした風俗が理解の共通媒体になった」。「<ロシアでは>、過去をすべて否定し過激なネオナチ運動に走ったり、サブカルチャーに埋没したりする若者が増えている。そんな風潮の中で、「より内面的な新しい価値観を求める人々が、登場人物の抱く内面的な孤立感に共鳴している」といった評論が少なくない。」

 (2)中国
村上作品が海外で一番読まれているのは中国です。
以前(コラム#557で)、「1989年に村上作品として初めて翻訳出版された「ノルウェーの森」は100万部以上が売れ、そのほかにも26万部売れた「海辺のカフカ」等、計27作品が出版されています。10万部売れたら奇跡と言われる中国の出版界にあって、これは大変なことであり、村上作品は、中国の都市部の比較的豊かな青年層の必読書になったとまで言われているといいます。」と紹介したところです。
その魅力は、「簡潔で美しいユーモアあふれる文体はもちろん、孤独や空虚さ、退屈さを楽しむライフスタイルを読者に提供してくれる点にある」とされ、「世界や社会生活を認識する視点・方法を提供してくれ」る点や、「あふれるほどの清潔感と透明感・・国際化したところ」にあり、「孤独や寂寥(せきりょう)感」に「共鳴」を覚える、とする読者も少なくありません。
この「孤独や寂寥感への共鳴」については、「一人っ子政策」で育った若者に受け入れられる理由の一つであると考えられ、「作品の中に自分の姿を求める孤独な『一人っ子世代』の若者に受けるのだろう」という分析がなされています。
(以上、http://www.yomiuri.co.jp/culture/news/20041120i105.htm(2004年11月21日アクセス)による。)

4 コメント

 (1)村上は欧米的か
 村上は、「アジア過多」の日本人作家とは違う、という英国での評価をご紹介しました(コラム#628)。
またロシアでも、これまで日本人について、集団的で顔が見えず、神秘的で不可解との印象が抱かれていただけに、村上作品に描かれる、欧米風に自立し、自己主張のある個性的な人物像が驚きを持って受け止められている(朝日前掲)ということですし、中国でも、伝統的な日本文学に特有の悲壮感や圧迫感がないので、日本を意識せずに、読み手は主人公と距離感なく読み進めることができる(読売前掲)、とされています。
しかし、以上のような村上評は、日本文学史、ひいては日本への無知からくる誤解だと私は思っています。
万葉集に登場する歌人達、紫式部や清少納言、近松門左衛門の人形浄瑠璃や歌舞伎狂言の登場人物達は、皆「自立し、自己主張のある個性的な人物」であり、村上作品に登場する人物達は典型的な日本人に他ならないのです。
それでは村上自身も、「それまで日本の小説の使っている日本語には、ぼくはほんと、我慢ができなかったのです。我(エゴ)というものが相対化されないままに、ベタッと迫ってくる部分があって、とくにいわゆる純文学・私小説の世界というのは、ほんとうにまつわりついてくるような感じだった。」(「村上春樹、河合隼雄に会いにいく」新潮文庫1999年(原著は岩波書店1996年)49??50頁)と言っているところの、「それまでの日本の小説」の中に登場する日本人とは、一体何者なのでしょうか。
それは、日本が自らアングロサクソン文明の移植を図り、この文明と悪戦苦闘していたがゆえに、「悲壮感や圧迫感」に苛まれていた明治??大正期という過渡期、における日本人像にほかならないのです(注2)。

(注2)日本は、一旦外的要因によって、開国・戦争・外国文化の導入によって特徴付けられるところの時代(弥生モードの時代)になっても、いつしか、鎖国・平和・国風文化によって特徴付けられるところの、(一万年もの長期間にわたって続いた)原初の縄文時代のモードに回帰し始める、というサイクルを繰り返して現在に至っており、縄文・平安・江戸という三つの縄文モードの時代を経て、明治??昭和初期の弥生モードの時代からその後再び縄文モードに回帰し、現在その真っ只中にある、というのが私の持論(例えば、コラム#276参照)であることを思い出して欲しい。

 ですから、村上は欧米的、あるいはアングロサクソン的なのではなく、日本的なのであり、日本的なるものが、近代を代表すると考えられているところの欧米的あるいはアングロサクソン的なるものと良く似ているがゆえに、村上の作品が近代的に写る、ということなのです。

(続く)

太田述正コラム#0628(2005.2.14)
<村上春樹(その1)>

1 始めに

 宮崎駿(コラム#419)が大衆文化(アニメ)に係る日本のソフトパワーの象徴だとすれば、村上春樹(http://books.guardian.co.uk/authors/author/0,5917,884144,00.html参照)は、ハイブラウな文化(文学)に係る日本のソフトパワーの象徴だと言えるでしょう。
 宮崎の方は、「千と千尋の神隠し」で昨年、ベルリン国際映画祭の金熊賞と米アカデミー長編アニメ賞を受け、今年のベネチア映画祭では栄誉金獅子賞を受賞することが決まりました(http://www.asahi.com/culture/update/0209/001.html。2月13日アクセス)。
村上の方は、中国でブームを呼び起こしている(コラム#557)ほか、ロシアでも大評判になっています(最近TVで知ったが典拠失念)。
面白いのは、村上は中国やロシアといった自由・民主主義ならざる社会で人気があるだけでなく、英国や米国という、自由・民主主義のご本家でも高い評価を得ていることです。
最近だけでも、「海辺のカフカ」について、ガーディアンが1月8日付(http://books.guardian.co.uk/reviews/generalfiction/0,6121,1385406,00.html。1月10日アクセス)で、そしてNYタイムスが2月6日付(http://www.nytimes.com/2005/02/06/books/review/06COVERMI.html?oref=login&pagewanted=print&position=。2月6日アクセス)で書評を掲載しています。

2 英米での二つの書評

前者は村上の作品について、「私の知人達はきれいに三つに分かれる。完全に入れ込んでしまう者(ある英国人の友人は、自分の新たに生まれた男の子に「ハルキ」という名前をつけたほどだ)、批判的崇拝者、そしてひどい発疹ができておさらばする者、だ。(this reviewer's acquaintances neatly subdivided themselves into three groups: besotted devotees (one British friend went so far as to name his newborn son "Haruki"); critical admirers ; and people who came out in a nasty rash.)」、「最近英訳本が出ている村上龍・桐野夏生・(「リング」の著者の)鈴木光司のような「アジア過多」の日本人作家とは違って、<村上春樹は、>筋が要求した場合は抑制のきいた筆致で<アジア的>十八番を描くけれど、必然性があり自慰的には感じられない。("Asia Extreme" Japanese writers currently being translated into English, including Ryu (no relative) Murakami, Natsuo Kirino and Ring-master Koji Suzuki. Murakami writes Cert 18 scenes with aplomb when his plot demands it, but these never feel gratuitous or onanistic.)」とやや引いた感じの、しかし高い評価をしています。
後者は村上の作品について、「サスペンス的要素に乏しく、語り口もやや受け身だし、はでばでしい話が展開する割には筋が良く見えない。しかし、圧倒的な実在感があり、数百ページを読み終わった後、読者は、それが何だったか定かではないものの、何かものすごいものと出会ったという手応えを覚え、恍惚状態から目覚めたような気分になる。(lack the usual devices of suspense. His narrators tend to be a bit passive, and the stakes in many of his shaggy-dog plots remain obscure. Yet the undercurrent is nearly irresistible, and readers emerge several hundred pages later as if from a trance, convinced they've made contact with something significant, if not entirely sure what that something is.)」、「村上は、自分が何をやっているかを説明しながら手品をやって、なおかつ魔法を使ったんじゃないかと観衆に思わせる奇術師のようだ。(Murakami is like a magician who explains what he's doing as he performs the trick and still makes you believe he has supernatural powers.)」、「<村上は>個々の作品において、断片化して横たわっている人に対しては、断片を集めて元の形に戻してやらなければならないし、立ち止まっている人に対しては、変化という、厳しいけれども必要不可欠なプロセスに向けて、後ろからどやしてでも再出発させなければならない、ということを<手を変え品を変えて>言っている。人をして、この必要不可欠性にあえて目覚めさせる、ということを物語は太古の昔からやってきた。夢もまたそうだ。しかし、誰でも夢に似た物語を作ることはできるけれども、村上のような類い希な芸術家的天分がないと、まるで自分自身が夢を見ているようだ、と読者に思わせることはできない。(In each, a self lies in pieces and must be put back together; a life that is stalled must be kick-started and relaunched into the bruising but necessary process of change. Reconciling us to that necessity is something stories have done for humanity since time immemorial. Dreams do it, too. But while anyone can tell a story that resembles a dream, it's the rare artist, like this one, who can make us feel that we are dreaming it ourselves.)」と手放しに絶賛しています(注1)。

(注1)文学作品の書評だけに、文学的であり、訳すのに苦労した。誤りがあれば指摘してほしい。
    なお、村上の作品を読んだことのない方で、英語のできる方は、その雰囲気の一端を味わうために、村上の「海辺のカフカ」からの抜粋(英訳)(http://books.guardian.co.uk/extracts/story/0,6761,1398353,00.html)を読まれることをお勧めする。

(続く)

太田述正コラム#0599(2005.1.19)
<ハーバート・フーバー(その3)>

5 フーバーの余生

 一市民に戻ったフーバーは、青少年の健全育成を図るための団体の会長を務め、悠々自適の生活を送りましたが、ナチスドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が始まると、ドイツ占領下のポーランドに食糧を援助する民間団体を立ち上げ、戦争が激しくなって中止を余儀なくされるまで2年間にわたってポーランドの30万人の子供達に食糧を送り続けました。そして戦争が終わるまで、ベルギー・オランダ・フィンランド・ポーランドに可能な限り食糧を供給しました。
 1941年には本シリーズの冒頭で触れたフーバー・タワーが、1919年にフーバーが創設したフーバー研究所の新建屋の一環としてスタンフォード大学構内に建立され、フーバーに捧げられます。(フーバー研究所は、20世紀の宿痾であった共産主義・ファシズムの研究所であり、共産主義・ファシズムに関する資料を世界で最も多く所蔵しています。)
 1946年には大戦後の食糧不足が世界を覆ったため、トルーマン(Harry S. Truman。1884??1972年)大統領はフーバーに飢饉緊急委員会(Famine Emergency Commission)の委員長に任命します。フーバーは25カ国を57日間かけて回り、食糧援助計画をつくり、食糧援助を行って数億人の人々を次の収穫期まで持ちこたえさせました。
 翌1947年には米議会はフーバーに、行政改革を委嘱し、フーバー委員会(Hoover Commission)ができ、この委員会は280もの具体的提案を行い、その多くが実施に移されました。
 アイゼンハワー(Dwight D. Eisenhower。1890??1969年)大統領は、再度フーバーに行政改革を委嘱し、第二次フーバー委員会ができ、今度も建設的かつ実際的な提案を多数行います。
 フーバーは回顧録的な著作をいくつか残してはいますが、いつも自分の事跡を控えめにしか記さないので、資料的価値に欠けるところがある、とさえ言われています。
 1962年にはフーバー図書館がフーバーの生まれ故郷に設立され、二年後の1964年にフーバーは永眠し、その故郷に埋葬されます。享年90歳。

6 終わりに

 (1)米軍と災害救援
 おりしも、スマトラ沖大地震に伴う大津波の被災者救援のために米軍の空母等の大部隊がインド洋周辺地域に派遣され、自ら救援業務を実施するとともに、同じように派遣された各国軍の総合調整にあたっています。
 冷戦終焉以降、米軍は生き残りをかけて任務の多様化を追求してきましたが、米軍が本業以外の最も重要な任務に国際救援活動を位置づけてきたのは、昨日や今日に始まったのではなく、フーバーの創案にかかることなのです。
 第一次世界大戦後に欧州と中東の一部への食糧支援にフーバーが携わることになった時、ベルサイユ講和会議に米国代表団の一員として加わっていたフーバーは、同じく代表団の一員だった米海軍提督を説得して、欧州等各国の主要な港に米海軍艦艇を停泊させてもらい、これら艦艇の電信機と電信員を使って米本国との連絡を行いましたし、米海軍が本国に引き揚げてからは、一定の周波数を米国政府に割り当てさせ、電信通信網を構成し、米陸軍の兵士を借り受けて電信業務に従事させるとともに、米陸軍将校をフーバーの代理として欧州等の各地域に派遣し、食糧を運ぶための鉄道網の再建業務等も含むところの食糧支援活動を行わせました(注6)。

 (注6)フーバーはこの活動の本拠をパリに置き、パリで毎日朝から晩まで12時間から18時間働き続け、劇場・博物館・美術館はもとより、店に買い物に行くことすら一度もなかった。しかも、何度でも言うが、フーバーはこの活動においても、一銭もカネをもらわなかった。

 このように米軍はフーバーによって人道的奉仕の精神を叩き込まれ、その伝統は現在まで受け継がれているのです。

 (2)フーバー・ローズベルト・マッカーサー
 フーバーが青少年に向けた言葉に、「政治家(politician)はくだらない(poor)職業だが、公僕(public servant)になるのは高貴なことだよ」があります。私はこれがローズベルトへの痛烈な批判に思えてなりません。
大恐慌の発生に直接責任を負っているにもかかわらず、フーバーを無能呼ばわりして追いつめ、老齢の退役軍人の身に思いを致すどころか、彼らの「苦難」が自らの当選をもたらすとほくそ笑んだローズベルトは政治屋の典型であり、人間の屑(thug)に等しい男でしたが、目を眩まされた選挙民は心優しく有能だった「公僕」フーバーを落選させたのでした。
ローズベルトが鳴り物入りで打ち出した「ニューディール」に対し、フーバーは非米国的な国家主義的政策であるとして批判を続けたのですが、ニューディールが成果を挙げなかったことについては歴史の審判が下っています。
なぜなら、米国の景気が本格的に回復するのは、第二次大戦による軍需景気の到来まで待たねばならなかったからです。(この点については、三分の一世紀前の大学生時代に財政学の授業で経済学部の林建久教授から初めて教わり瞠目した記憶があるが、今や常識であり、具体的典拠は省略する。)
 それにしても、日本の史上最大の禍機においてその運命を握った男がローズベルトであり、そして戦後直後の占領下の日本を統治したのがマッカーサーであって(注7)、二人のいずれもフーバーのような人物であるどころか、我利我利の権力亡者に他ならなかったことは、日本にとって何と不幸な巡り合わせだったことでしょうか。

 (注7)退役軍人達の事件の際の対応について、マッカーサーは批判を浴び、彼のキャリアはこれで終わるはずであったところ、かつての任地であり、米国の保護領であったフィリピンの友人ケソン(Manuel L. Quezon。1878??1944年)「大統領」の好意でマッカーサーは1935年にフィリピン軍の顧問団長に招聘されるものの1937年には予備役に編入されてしまったところ、1941年の「太平洋戦争」開戦に伴い現役に復帰することができ、マッカーサーにとって再び栄光の日々がやってくることになった。http://www.empereur.com/G._Douglas_MacArthur.html及びhttp://www.spartacus.schoolnet.co.uk/USAmacarthur.htm

(完)

<読者>
太田様。
中国指導者趙紫陽の失脚とフーバーがオーバラップしました。
ルーズベルトが江沢民に相当するのでしょうか。。。
複雑な思いがあります。

太田様の視点を楽しみにしております。

太田述正コラム#0598(2005.1.18)
<ハーバート・フーバー(その2)>

4 閣僚・大統領時代のフーバー

 1920年にウィルソンを破って大統領となったハーディング(Warren G. Harding。1865??1923年)は、フーバーに内務長官か商務長官への就任を要請し、フーバーは商務長官を選びます。1923年にハーディング死去に伴い副大統領から大統領に昇格したクーリッジ(Calvin Coolidge。1872??1933年)の下でもフーバーは商務長官を続けます(注4)。

 (注4)もともとフーバーは共和党員だったが、民主党のウィルソンに、次いで共和党のハーディング、クーリッジと三代の大統領に重用された、ということからもフーバーの人柄と能力が推し量れる。

 商務長官時代のフーバーは広範多岐にわたった商務行政のために無尽蔵とも言えるアイディアを出し、八面六臂の活躍をするのですが、それに加えて所掌を離れ、青少年の保健・衛生・栄養状態の改善のための団体を設立するとともに、南部諸州の住民の健康状態の改善に努め、米国赤十字への募金活動に尽力します。
 ハーディングが1928年の大統領選挙に立候補しない旨表明すると、共和党の大統領候補としてフーバーを擁立せよという声が全米から澎湃と沸き上がったのは当然のことでした。
 フーバーは人見知りで演説下手でしたが、候補に指名されると、圧倒的な得票率の差で民主党候補を破って第31代大統領に就任します。
 就任したフーバーがかねてから心配していたことは、投機的な株式投資によって株価の異常な上昇が続いていたことでした。
フーバーは主要な銀行家に株式投機資金の貸し付けを自粛するように働きかけますが彼らは聞く耳を持たず、他方でニューヨーク証券取引所を所管しているニューヨーク州のフランクリン・ローズベルト(Franklin D. Roosevelt。1882??1945年)知事には証券取引所に対する投機規制の強化を要求しますが、州知事になるまでのニューヨークの法律事務所の弁護士時代に、自ら株式投機の仕手筋として暗躍していたローズベルトはこの要請を一蹴します。
 フーバーの懸念は的中し、就任7ヶ月目に株の大暴落が起き、経済恐慌が始まってしまいます。
 フーバーは次々に適切な対策を講じ(注5)たため、1930年の春にはNYタイムスが「大統領としてこれ以上はない仕事をした」と彼を褒め称えたほどであり、1931年には経済は上向きに転じるのですが、今度は欧州で恐慌が起き、これが米国にはねかえり、再び恐慌が深刻化します。

 (注5)大統領としてのフーバーの唯一の失政は、ホーリー・スムート法(Hawley-Smoot Tariff bil)に署名したことだ。この法律によって農産品を中心として関税が引き上げられ、ために世界の貿易が縮小し、恐慌が世界に輸出される結果となり、これが回り回って米国の経済回復の足を引っ張った。

 1932年は大統領選挙の年でしたが、この年、米国経済はどん底に落ち込んでおり、失業者が1200万人、生活扶助を受けていた人が1800万人という有様でした。
 フーバーの不人気を決定的にしたのが、この年の夏に起きた事件です。
 6万人の退役軍人達(Bonus Marchers)が恩給の前倒し支給を求めて家族と共にワシントンに結集したのです。
軍人恩給費は当時の連邦予算の25%も占めており、更に前倒し支給を求めるというのは無理な注文でしたが、フーバーは彼らのことを慮ってテント・寝台・食糧・医薬品を提供します。上院がこの退役軍人達の要求を否決すると、フーバーが旅費を支給したこともあって大部分はおとなしく帰郷したのですが、その多くが共産党員であるところの先鋭的な1万人が残り、暴徒化します。
各方面から促され、しぶしぶフーバーは軍隊の出動を、二年前に史上最年少で米陸軍参謀総長に就任していたマッカーサー(Douglas MacArthur。1880??1964年)に命じます。マッカーサーはフーバーの意向に逆らって、騎兵・戦車・銃剣を持った兵を投入し、兵士達をして退役軍人達を家族の女性や子供達も含めて棍棒で叩かせ、彼らに催涙ガスを浴びせさせ、彼らのテントを燃やさせ、強制的にポトマック河の向こう岸に追い払わせたのです。
この事件を知ったローズベルトは、友人にニヤニヤして話しかけ、「おい君、これでオレの当選は決まりだな」と言ったと伝えられています。
 このようにして、大統領選挙でフーバーは民主党候補のローズベルトに敗れたのでした。

(続く)

太田述正コラム#0597(2005.1.17)
<ハーバート・フーバー(その1)>

1 始めに

 スタンフォード大学に近づくと、一番最初に目に飛び込んでくるのはフーバー・タワーです。構内のフーバー研究所に建っているこの展望塔の上にエレベーターで上がると、日本の大学の感覚からすると信じがたいほど広く(5,500エーカー)かつ美しいキャンパスが一望できます。
 フーバーというのは、スタンフォード大学出身の大統領であり、大統領当時に大恐慌を招き、フランクリン・ローズベルトに敗れて再選を果たせなかった人物である、というのが1970年代半ばの同大学留学当時の私の認識でした。
 しかし、このようなフーバー評価は誤りであり、彼は米国の持った最良の大統領の一人であるだけでなく、人類史に残る偉大な人物であったことを後に知るところとなります(注1)。

(注1)「飢餓を解消するのにかくも有能であった人物(後述:太田)が、後に大統領としてかくも無能であったのは不思議だ」という報道がBBCによってつい最近においてもなされる(http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/4164321.stm。1月16日アクセス(以下、同じ))ところに、一旦流布した偏見を解くのがいかに困難なことであるかが分かる。

 本コラムでは、随分米国バッシングをしてきましたが、たまには米国の良い面も描こうと考え、フーバーを採り上げた次第です。
 (以下、特に断っていない限りBBC上掲、http://www.whitehouse.gov/history/presidents/hh31.htmlhttp://hoover.archives.gov/education/hooverbio.htmlhttp://www.americanpresident.org/history/herberthoover/http://www.toad.net/~falkland/hoover/以下、及びhttp://www.toad.net/~falkland/hoover/hoover2.htmlによる。)

2 フーバーの前半生

 フーバー(Herbert Clark Hoover。1874??1964年)は、アイオワ州の片田舎で、クエーカー教徒の鍛冶屋の家に生まれ、9歳の時までに両親を失い、オレゴン州で育ち、学業成績は平凡でしたが、創設されたばかりのスタンフォード大学(当時は学費がタダ)に猛勉強して合格します。
 地学科に入ったフーバーは地学科唯一の女子学生で才媛だった将来の夫人と出会い、生活費を稼ぎ出しながら20歳の時に同学科を卒業します。
 卒業後しばらくして縁あって英国の鉱山会社に入ったフーバーは、天津に赴任し、ここで義和団の乱(Boxer Rebellion。1900年)に遭遇し、在留外国人や反義和団の支那人に立ち混じってバリケードの構築や食糧・水の確保に才能を発揮します。
 後にフーバーはロンドンでこの会社の本社勤務となり、更に現地で独立して会社を興し、巨万の富をつくります。その彼が40歳になる直前の1914年、第一次世界大戦が勃発します。

3 フーバーの社会事業家時代

 ロンドンの米国総領事から、観光目的等で欧州を訪れていてロンドンに避難してきていた米国人の本国への引き揚げに手を貸して欲しいと頼まれたフーバーは、自分の商売を擲ってこれを引き受け(注2)、委員会を立ち上げ、9人の友人達とともに150万ドルを拠出してこれら米国人に貸し付け、船の手配等を行い、わずか6週間で12万人の米国人の引き揚げを成し遂げました。

(注2)大鉱山を手に入れる話が進行中だったが、彼は「自分の財産など地獄にくれてやる」と語り、世界有数の金持ちになる機会を擲った。後にフーバーは商務長官になり、更に大統領になるが、生涯公的職務からは報酬をびた一文受け取らなかった。

 次にフ??バーが手がけたのは、ドイツに占領されたベルギー国民1,000万人への食糧支援です。
 何せ、莫大なカネを世界から寄付等で集めなければならなかった上、ドイツ軍自身がベルギーから食糧を徴発していたくらいなので、送り届けた食糧がドイツ軍にネコババされないようにする必要があり、しかもまさにこのことを懸念するとともに占領地住民の食糧確保はドイツの国際法上の義務だとする英国当局を説得する必要もあった(注3)からです。

 (注3)陸軍大臣のキッチナー卿、大蔵大臣のロイドジョージ(David Lloyd George。1863??1945年。後首相)、海軍大臣のチャーチル(Winston Leonard Spencer Churchill。1874??1965年。後首相)、それに内務大臣までもが反対したにもかかわらず、結局英国の閣議ではフーバーの提案が通り、英国政府は補助金まで出してくれることになった。

 このような困難を乗り越えて、フーバーらは10億ドル以上を集め、戦争が継続した四年間にわたって、ベルギーと北フランスの一部の計1,100万人に食糧供給を続けたのです。しかもこれは、有名な監査人に会計事務をすべて委嘱して全く不正なくして、かつ管理費を総経費の0.5%に押さえて行われたのでした。
 1917年に米国が参戦すると、ウィルソン(Woodrow Wilson。1856??1924年)米大統領は、フーバーに食糧問題の担当を委嘱します。
 これは、米軍及び同盟国軍、同盟国民、そして米国民自身の食糧を確保するという大変な仕事でしたが、フーバーは、米国民に自発的な食糧節約を呼びかけ、食糧消費を15%減少させることによって、配給制度を導入することなく、必要な海外向け食糧を確保し、備蓄までするという離れ業を演じます。
 そして戦後は、引き続きウィルソン大統領の委嘱で、戦争で荒廃した欧州と中東の21カ国3億人の食糧の確保に腐心するのです。
 この事業は1919年に終了しますが、フーバーは寄付と米政府基金からの収入による私的慈善団体を立ち上げ、欧州の子供達への食糧援助を1921年まで続けます。
 1921年からは、彼はソ連の飢饉の救済まで始めます。ボルシェビキをなぜ助けるのかと言われて彼が、「2000万人が飢えている。政治がどうであれ、彼らを食べさせなければならない」と答えた話は有名です。

(続く)

太田述正コラム#0475(2004.9.17)
<世界の20大思想家(その3)>

 (「まぐまぐ」より、『まぐまぐBooksアワード』結果発表を「9月中旬」から「10月上旬」に変更するとの連絡がありました。)

 バージニア・ウルフは、ジェームス・ジョイス、エズラ・パウンド、T.S.エリオットらと並ぶ、英文学におけるモダニズムの旗手の一人です。しかし、彼女は20世紀におけるフェミニズムの旗手の一人でもあります(http://www.ibiblio.org/cheryb/women/Virginia-Woolf.html。9月15日アクセス)。ペンギン社は、後者の彼女に着目して、20大思想家の一人として、彼女のA Room Of One's Own (1929年)を掌中文庫に採択した、ということのようです。
 それでは思想家としてのウルフについての、米国人リッチ(Joel Rich)によるシカゴ大学公開講座での講義(1992年2月)(http://www.cygneis.com/woolf/lecture/jrending.html。9月15日アクセス)を手がかりにウルフの思想に迫ってみましょう。(この講義の質は高いと思うが、ウルフの思想をリッチの言葉に置き換えているという問題がある。しかし、そこは目をつぶり、更に私の言葉にも部分的に置き換えつつ、まとめてみた。)

 アングロサクソンの歴史は自由(freedom)と安全(security)(ないし平和(peace))の間の闘争の歴史だった。男性は自由を志向し、女性は安全を志向する。しかるに女性は教育・収入・プライバシー・広い世間での経験・もしくは時間、がなかったため、自由の方が一貫して安全よりも優勢であり続けた。
 自由への志向が自由民主主義、資本主義、プロテスタンティズムの隆盛をもたらした。換言すれば、これは道徳性(morality)(ないし正義(justice))・客観性・ヒロイズムの勝利だった。
 他方、安全への志向は、平等主義・主観性・反ヒロイズム(最低の最大公約数による支配)に立脚しており、社会主義、平和主義に傾斜しがちだ。
 その一方だけではよくない。
 男性(自由)原理に女性(安全)原理を積極的にぶつけることで、男性(自由)原理と女性(安全)原理を止揚した、両性具有(androgynist)の世界に到達することができる。
 これは保守(米国で言えば共和党)とリベラル(米国で言えば民主党)があって初めて政治が機能することになぞらえることができる。
 リベラルは大きな政府・結果の平等・リスク回避・道徳性を志向し、女性向きだし、保守は小さな政府・機会の平等・自由を志向し、男性向きだが、そのどちらもが必要なのだ。

 女性原理の伸張は困難を極めた。
 イギリスで最初に女性の著述家(writer)が現れたのは17世紀になってからだ。
 しかも、イギリスで女性が著述で食えるようになったのは、ベーン(Aphra Behn。1640??1689年。小説家)をもって嚆矢とする。
 そして19世紀初期になって、ようやくイギリスではオースチン(Jane Austen)・ブロンテ姉妹(the Brontes)、エリオット(George Eliot)らが輩出する。しかし、問題が二つあった。それは彼女達の誰も子供がいないことであり、彼女達が全員小説家であることだ。後者について言えば、それは当時の女性達がなお、家庭の中で、人々の性格や感情の分析にあけくれており、これは小説家としての訓練になったからだ。しかしこれは同時に、女性の経験の幅を狭くし、創造性を蝕ばみ、女性による本格的な思想的著作の出現を妨げてきた。
 現在でもこの事情は基本的に変わっていない。
 だから女性よ。教育を身につけ、収入を確保し、プライバシーを確立し、広く世間で経験を積み、時間をつくれ。そして男性原理に挑戦せよ。女性と男性が平等な立場で意見を戦わせ、その上で手を携えることによって、われわれは初めて理想的な社会を構築することができるのだ。

 蛇足ながら、ウルフは、ハズリットを尊敬しつつも好んではいなかった・・そもそもハズリットはイギリスの女性には好まれていない・・そうです(前掲http://www.ourcivilisation.com/smartboard/shop/prstlyjb/hazlitt/以下)。

 ウルフの「思想」は興味深いですね。
 男性原理は私の言う弥生モードに通じ、女性原理は私の言う縄文モード(コラム#276等)に通じます。
 イギリス(アングロサクソン)の歴史は、圧倒的に優勢な男性原理に女性原理が挑んできた歴史であるのに対し、日本の歴史は縄文モードの時代と弥生モードの時代が代わる代わるやってくる歴史でした。日本が、その二度目の縄文モードの時代である平安時代に、紫式部という女性によって世界最初の「近代」小説である源氏物語が生まれたことを誇りに思うとともに、日本文明がアングロサクソン文明には及ばなくとも、世界史上、今後ともかけがえのない存在であり続けることを、私は信じてやみません。

(完)

太田述正コラム#0472(2004.9.14)
<世界の20大思想家(その2)>

 このうち、ウォルストーンクラフトについては、前にとりあげたことがある(コラム#71。ちなみに、ルソーについて、コラム#64、66、71のシリーズでとりあげたことがある。)ので、ハズリットとウルフの二人をご紹介しておきましょう。

 ウィリアム・ハズリット(William Hazlitt。1778??1830年)は、私がこれまで全く知らなかった人物です。
調べてみると、ハズリットは達者な随筆家であり、またイギリス最初の演劇評論家であり、イギリス最初の偉大な芸術評論家であり、最上の文学評論家の一人であり、練達の政治ジャーナリストであり、哲学者であるようです(http://www.spartacus.schoolnet.co.uk/PRhazlitt.htm。9月13日アクセス)。
 しかもその文章たるや、英国の文豪サマセット・モーム(Somerset Maugham。1874??1965年)をして、「私は彼の英語が好きだ。自然で溌剌としており(racy)、雄弁さが求められる時はあくまで雄弁であるし、読みやすく、明晰にして簡潔であり、取り上げている話題に応じて文体の重さを使い分けており、その話題が特別に重要であるかのごとくきどった言葉使いをするようなこともないからだ。だから彼は私のお気に入りであり、私が範とすべき先達であり、私自身が書くものに直接影響を与えた唯一の人物なのだ。」と言わしめています(http://www.ourcivilisation.com/smartboard/shop/prstlyjb/hazlitt/以下。9月13日アクセス)。
 ハズリットが多才な人物であり、同時に稀代の名文家であることは分かりましたが、一体彼の思想はいかなるものなのでしょうか。
 残念ながら、彼の思想に関しては、「ウィリアム・ハズリットは、その生涯を通じてトーリー系の新聞から批判され続けた」(上記spartacus・サイト)、等々という次第であり、ホイッグ系の論陣を張っていた人物らしい、ということくらいしか分かりません。
 それもそのはずです。
英国の作家のプリーストリー(John Boynton Priestley 。1894??1984年)が「ハズリットがわれわれに提供するのは、一体性・調和・抑制・沈着ではなく、多様性・率直・一途・豊饒、それに、精神の分裂状況の表出・反対極間の緊張だ。それは、われわれの生きている世界が広大無辺で豊饒であり、その統一的把握が困難なことの反映なのだ。」と指摘している(上掲ourcivilisation・サイト)ように、ハズリットは複雑怪奇な人間世界の混沌と矛盾をそのまま、情熱をもって描き切った「思想」家だったようです。
 こんな「思想」について、簡潔に解説してくれるサイトがないのはあたりまえかもしれません。
 岩波文庫にハズリットが入っていないのも分かるような気がします。読者が極めて限られそうだからです。
 しかしだんだん、ハズリットの著作と「対決」しない限り、アングロサクソン通とは言えないのではないかという気になってきました。
 それこそ、'On the Pleasure of Hating'(http://www.blupete.com/Literature/Essays/Hazlitt/Hating.htm)あたりから始めなければなりますまい。どなたか挑戦される方はおられませんか。

 次ぎにバージニア・ウルフ(Virginia Woolf。1882??1941年)です(注3)。

 (注3)世界の20大思想家のうちウォルストーンクラフトとともに一割にあたる2人が女性だ、という点ではペンギン社に諸手を挙げて喝采を送りたい。

 作家のウルフは前から知っていましたが、思想家でもあるとは初耳でした。

(続く)

太田述正コラム#0471(2004.9.13)
<世界の20大思想家(その1)>

実際的(practical)なイギリス人、ひいてはアングロサクソンは、思想や哲学など大嫌いなのですが、それを何とかしようと、このほど英国の有名な出版社であるペンギン社が世界の20人の大思想家(Great Ideas)の掌中(pocket)叢書を出版しました。
 そのリストは次の通りです。

セネカ(Seneca):On the Shortness of Life
マルクス・アウレリアス(Marcus Aurelius):Meditations
聖アウグスチヌス(St Augustine):Confessions of a Sinner
ア・ケンピス(? Kempis):The Inner Life
マキャベリ(Machiavelli):The Prince
モンテーニュ(Montaigne):Of Friendship
スイフト(Swift):A Tale of a Tub*
ルソー(Rousseau):The Social Contract
ギボン(Gibbon):The Christians and the Fall of Rome*
ペイン(Paine):Common Sense*
ラスキン(Ruskin):On Art and Life*
ウォルストーンクラフト(Wollstonecraft):A Vindication of the Rights of Woman*
ハズリット(Hazlitt):On the Pleasure of Hating*
マルクスとエンゲルス(Marx and Engels):The Communist Manifesto
ショーペンハウエル(Schopenhauer):On the Suffering of the World
ダーウィン(Darwin):On Natural Selection*
ニーチェ(Nietzsche):Why I am So Wise
ウルフ(Woolf):A Room of One's Own*
フロイト(Freud):Civilisation and Its Discontents
オーウェル(Orwell):Why I Write *
(以上、http://books.guardian.co.uk/news/articles/0,6109,1298816,00.html(9月6日アクセス)による。)

 掌中叢書ですから、長編、または難解な著作しか残していない思想家はオミットされているのは仕方がないとしても、まず気が付くのは、20人のうち英国人(*をつけた)が9人と約半分を占めている(注1)ことです。(トーマス・ペインだって、コモン・センスを書いた時点では米国はまだ独立していなかったことから、英国人だと言っていいでしょう。)
 これは、英国人ないし英語圏の読者が身につけなければならない思想的教養の半分弱は英国の思想だ、とペンギン社ひいては英国人が考えていることを意味します。
 しかも、残りの11人のうち、英国以外の米国等のアングロサクソン諸国の思想家は一人もいません。英国人から見た米国の評価はそんなものだということは、理解しておいて損はないでしょう。
 次ぎに気が付くのは、アジア・アフリカ・イスラム世界・中南米から一人も選ばれていないことです。これをもって英国人(アングロサクソン)の唯我独尊性あるいは人種的偏見のあらわれだと批判する(注1)のはたやすいことですが、われわれとしては、これが世界の思想家市場における客観的力関係をあらわしているのかもしれない、と冷静に受け止めるべきではないでしょうか。

 (注1)英国在住の非アングロサクソンの論者からこれらに類する批判の声が上がっている(http://books.guardian.co.uk/news/articles/0,6109,1298826,00.html。9月6日アクセス)。

 第三に気付くのは、これと関連しているのですが、英国人(アングロサクソン)以外は、狭義の欧州(地中海の対岸・中南米・更にはロシアが含まれていない!)の思想家ばかりだということです。
 その内訳は、3人がローマ人、5人がドイツ人(マルクス/エンゲルスは1人と数えた)、1人がイタリア人、2人がフランス人(ルソーはスイス人とも言えるが、フランス人とした)となっています。
 果たしてこれは英国人の欧州への敬意を示すものなのでしょうか。
 私に言わせれば、その正反対です。
 古典ギリシャ人が一人も登場しないことがその証拠の一つです。
 私は、ローマ人の三人は、最大の敵でありかつ侮蔑の対象である欧州文明の起源たるローマ文明を理解するという、ただそれだけのためにリストに加えられたと見ています。そのローマ文明の起源をさらに遡れば古典ギリシャ文明ということになるわけですが、目的はあくまでも欧州文明を理解することなので、そこまで遡る必要がない、ということなのではないでしょうか。
 そして、欧州文明からの8人は、その欧州文明を理解するための直接の手がかりとなる思想家達なのでしょう。実際、このうちのマキャベリ・ルソー・マルクス/エンゲルス・ニーチェの4人がいずれも、意識すると意識せざるとにかかわらず、世界に争乱と悲劇をもたらすこととなった思想家達であることが端的に示しているように、欧州文明を代表する8人の思想家は、英国人にとって自らの精神の涵養のためには全く無用だけれど、アングロサクソン文明と欧州文明のせめぎあいという、近現代の世界を理解するために、やむをえずして押さえておくべき思想家達にほかならないのです(注2)。

(注2)ヒットラーの「我が闘争」、「毛沢東語録」(欧州文明の亜流の亜流たる現代中国文明が生み出した書)、「ユダヤプロトコール」(The Protocols of the Elders of Zion。1897年にあるロシア人が上梓した、ユダヤ人の世界支配の陰謀が描かれている偽書。http://www.biblebelievers.org.au/przion1.htm#INTRODUCTION(9月13日アクセス))(欧州文明の亜流たるロシア文明が生み出した書)、の三つがリストに入っていないのはおかしい、という茶々がアングロサクソンの論者から入る(ガーディアン上掲)のは、このリストの本質をついている、と私は思う。

 最後に気付くのは、日本の岩波文庫的世界で取り上げられていない思想家が何人もいる、ということです。
 ウォルストーンクラフト、ハズリット、ウルフの三人がそうです。

(続く)

太田述正コラム#0400(2004.7.4)
<スターリンとヒットラー>

20世紀の歴史は、欧州の生み出した民主主義独裁の、それぞれ最新のバージョンであった共産主義とファシズムとアングロサクソンの自由・民主主義との戦いが最大のテーマであったと言えるでしょう。
共産主義は欧州の生み出したカトリシズムの突然変異であり、ファシズムは同じく欧州が生み出したナショナリズムの突然変異です。
アングロサクソンは、まず第二次世界大戦で共産主義を代表するスターリン独裁下のソ連と組んでファシズムを代表するヒットラー独裁下のナチスドイツをたたきつぶし、次いで冷戦でポスト・スターリン期のソ連をたたきつぶしました。
しかし、第二次世界大戦を振り返ってみれば、最大の決戦はスターリンのソ連とヒットラーのナチスドイツとの間で戦われたと言っていいでしょう。
ソ連軍とナチスドイツ軍合わせて、実に1,200万人から1,600万人もの兵士が亡くなり、一般市民の死亡者を含めれば、2,500万人から3,000万人もの人命が失われたのに対し、第二次世界大戦でのアングロサクソン(米、英、豪)の兵士の死亡数は合計で60万人に過ぎないからです。
オックスフォード大学の歴史学教授のリチャード・オバリー(Richard Overy)が先般上梓したばかりの著書The Dictators: Hitler's Germany, Stalin's Russia, Penguin (この著書に係る、http://books.guardian.co.uk/reviews/history/0,6121,1253356,00.htmlhttp://www.sbpost.ie/web/DocumentView/did-928810381-pageUrl--2FThe-Newspaper-2FSundays-Paper-2FAgenda-2FBooks.asphttp://theage.com.au/articles/2004/06/23/1087845001781.html?from=storyrhs&oneclick=true(いずれも7月4日アクセス))にほんの少し私見を加味しつつ、この決戦、すなわち独ソ戦、を振り返ってみましょう。

まず両者の比較から始めましょう。
両者は大変よく似ています。
ソ連の体制もナチスドイツの体制も、それぞれの国の過半の国民(少数の反体制派と熱烈な体制派、以外の人々)によって暗黙の支持を与えられていました。これらの人々は国家の恐怖による支配にやむをえず服していた、というわけではないのです。両体制とも、あくまでも「民主主義」「独裁」の最新のバージョンであるゆえんがここにあります。
そしてどちらの体制も、第一次世界大戦勃発後に国際社会から疎外され、危機意識に苛まれた国民を、(法や道徳を超越した)歴史の発展法則の手に国家をゆだねるべく革命に奉仕せよ、という大義を掲げて支配しました。
スターリンもヒットラーも権力のための権力を追求したわけではなく、自己顕示欲のために権力を追求したわけでもありません。このような大義のために一身を捧げた革命家だったのです。
両体制の経済システムも、タテマエほどの違いはなく、戦争の進展につれて一層収斂して行きました。ソ連の計画経済システムでは広汎に私的部門が認められるに至りましたし、ナチスドイツの資本主義経済システムは国家統制と国営企業優位のシステムへと変貌を遂げたのです(注1)。

(注1)興味深いことに、第二次世界大戦中に、ソ連からは体制が資本主義的な階級支配と搾取の体制に堕してしまった、ナチスドイツからは体制が共産主義的になってしまった、としてそれぞれ亡命者が出ている。

しかし、両体制の大義の違いは無視できません。
ご承知のように、ソ連は共産主義(マルクス・レーニン主義)という平等と繁栄のユートピアを目指す普遍主義的大義を掲げていたのに対し、ナチスドイツはドイツ人優位の未来の構築を目指す人種主義的大義を掲げていました。
この違いが、例えば、末期(ナチスドイツの場合は第二次世界大戦末期、ソ連の場合はスターリンの晩年)において、ナチスドイツでは無法が横行したのに対し、ソ連では法治主義の外観は維持される、という違いをもたらしました。
より一般的に言えば、このような大義の違いが、(どちらも独裁制ではあったけれどもその)末期において、ナチスドイツは硬直的で資源の動員を円滑に行えなくなったのに対し、ソ連は機能的かつ柔軟(controllable and versatile)であり続けた(注2)、という違いをもたらしたのです。

(注2)ソ連は、その体制の中からゴルバチョフを生み出し、ゴルバチョフの手で体制の存続に自ら平和裏に終止符をうった。まさにソ連の体制は、このように最後まで機能的かつ柔軟であり続け、有終の美を飾ったことを我々は知っている。これに対し、ナチスドイツの他律的かつ悲惨な最後が思い起こされる。

例えば、両体制とも強制収容所を伴う体制でしたが、ソ連の方が収容人員はナチスドイツより多かったものの、収容者死亡率は、ソ連が14%であったのに対し、ナチスドイツは40%にのぼっています(注3)。これは、ソ連では収容者はひどい扱いを受けましたが、ユートピアの実現に資する生産活動に従事させることがねらいだったので、生命や健康の維持への最低限の配慮はなされたのに対し、ナチスドイツでは収容者はしばしば計画的殺戮の対象となったからです。
独ソ戦の帰趨を決したのも、両者のこの違いでした。

(注3)しかし、ソ連の方がナチスドイツよりもはるかに長期間にわたって存続したため、ソ連の強制収容所における死亡者数はナチスドイツのそれを結果的に大幅に上回ることになった(コラム#144)。

ナチスドイツが1941年にソ連の西部を占領した時点で、ナチスドイツは、ソ連より保有人的資源と天然資源の両面において優位に立つに至りました。ナチスドイツの勝利は目前だと誰もが思いました。
にもかかわらず、最終的に勝利をおさめたのはスターリンの方でした。その理由は、アングロサクソンから戦略物資の支援を受けていたことはさておき、三つあります。

第一に、赤軍がナチスドイツ軍(Wehrmacht)より戦略、戦術面で上回っていたこと。
第二に、経済の統制面でもソ連の方がナチスドイツより効果的であったこと。
第三に、戦争が進展するにつれてスターリンは次第に軍人の判断を尊重するようになったのに対し、ヒットラーは自分が軍事の天才だと思い込んだまま、戦争末期には殆どあらゆる軍事的意志決定に介入するようになったこと。

<読者>
「民主主義独裁」というのは、よく使われる用語なのでしょうか?民主集中制とか民主◆年同盟とか 民主音◆協会とか朝鮮民主主義人民共和国とかまったく「民主」じゃないくせに「民主」という名称をつけたがる人々がいますが、どうも違和感があってダメですね。
共産主義者の独裁は「人民民主主義独裁」で善で、右翼の独裁は「ファシズム独裁」で悪だというという用法もあるようです。別に民主主義と何の関係もないのだから「独裁」は「独裁」でいいのではないのでしょうか?

> 共産主義は欧州の生み出したカトリシズムの突然変異であり、ファシズムは同じく欧州が生み出したナショナリズムの突然変異です。

共産主義は、ロシアで実験されたためにロシア正教(ギリシャ正教)の皇帝教皇主義のような一元的価値観によってグロテスクに発展したように思います。
一方、西欧大陸的価値観からするとカトリシズムは「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に」の二元主義的な価値観で、共産主義とは根源的に対立するという考え方だったと思います。
その論でいくと、英国国教会のように国王が首長になるのは一元的価値観で「野蛮」なんでしょうねぇ。^^;

また、マルクスが元ユダヤ教徒の唯物論者だったので、共産主義とユダヤ教の類似性を論じる人もいますね。ユダヤ教の預言者が神の言葉を預かって、神と人間との契約が更改されて社会法則が変化していくというモデルを借用して、共産主義の指導者によって資本主義→社会主義→共産主義と社会法則が変化していくモデルを考えたとも推理できるようです。

ともあれ、共産主義とカトリシズムとの直接の関係は薄いと思われますがどうでしょうか?

<太田>
簡単にお答えすることをお許しください。

 民主主義独裁は、フランス革命後のジャコバン党指導者による独裁を嚆矢とする政治形態を指す言葉として使っています。それは、少なくとも男子に広汎な選挙権が与えられているか、かつて与えられており、独裁者がその正当性を(いかに形式的な選挙であるにせよ、しかも選挙が廃止されているとしても、かつて実施された)選挙によって付与されている政治形態です。

 普遍主義的な前衛組織(教会・党)が、精緻な教義(カテキズム・ドクトリン)を掲げ、理想の未来(神の王国・共産主義社会)の実現に向けて個別国家及びその国家の国民のコントロールを図る、という点で共産主義はカトリシズムと双子のようによく似ています。このほか、異端審問があり、異端者にはしばしば死刑が科されたこと、平和を標榜しながら、組織の「敵」に対して往々にして戦争を惹き起こしたこと等、似ている点は枚挙のいとまがないほどです。

<読者>
>  簡単にお答えすることをお許しください。

お忙しいところすいません。

>  民主主義独裁は、フランス革命後のジャコバン党指導者による独裁を嚆矢とする政治形態を指す言葉として使っています。それは、少なくとも男子に広汎な選挙権が与えられているか、かつて与えられており、独裁者がその正当性を(いかに形式的な選挙であるにせよ、しかも選挙が廃止されているとしても、かつて実施された)選挙によって付与されている政治形態です。

#66のコラムで、ルソーの「一般意思」から解説されてましたね。いまだにルソーが何をいいたいのかわからないですが、欧州大陸や世界の悲劇の淵源として興味深いテーマですね。学術的には了解しました。
ただ、いまだに「人民民主主義独裁」という用語で自己の独裁権力の正統性を主張できると信じる人々がいるし、騙される人も多いでしょうから、政治的には保留しておきます。

>  普遍主義的な前衛組織(教会・党)が、精緻な教義(カテキズム・ドクトリン)を掲げ、理想の未来(神の王国・共産主義社会)の実現に向けて個別国家及びその国家の国民のコントロールを図る、という点で共産主義はカトリシズムと双子のようによく似ています。このほか、異端審問があり、異端者にはしばしば死刑が科されたこと、平和を標榜しながら、組織の「敵」に対して往々にして戦争を惹き起こしたこと等、似ている点は枚挙のいとまがないほどです。

なるほど、査問と異端審問の非人間性に着眼すれば、似てますねぇ。
教皇権絶頂時代と十字軍時代はピッタリですね。納得しました。

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