カテゴリ: モンゴル帝国

太田述正コラム#0671(2005.3.26)
<モンゴルの遺産(キルギスタン革命)>

 (本篇は、実質的にはコラム#668の続きです。)

1 あっという間に革命成就

3月22日の段階では、新たに、南部の三つ目の州都の庁舎が蜂起した民衆によって占拠されキルギスタン南部がすべて蜂起側に押さえられるとともに、それまでは天山山脈(Tien Shan mountains)以南に限定されていた蜂起が、北部の二つの都市にも飛び火しました。
他方この日、中央選挙管理委員会は、総選挙の結果75議席中69議席が確定したと宣言し、これを受けて「当選」した議員達による議会が開催され、アカエフ大統領に対し、国家緊急事態を宣言するように求める決議が採択されました。(http://www.nytimes.com/2005/03/23/international/asia/23kyrgyzstan.html?pagewanted=print&position=。3月24日アクセス)
翌3月23日に、キルギスタンのアカエフ大統領は内相と検事総長を更迭しましたが、新任の内相は、「法は特殊な手段や火器といった物理力を含む措置をとる権利をわれわれに与えている」(http://www.guardian.co.uk/international/story/0,3604,1444232,00.html。3月24日アクセス)と蜂起した民衆を恫喝しました。
ところが、その次の24日にはもう大統領が逃げ出し、革命が成就してしまったのです。
これは、蜂起側にとっても意外な展開でした。
この日、初めて首都ビシュケクでも蜂起側のデモ行進が行われたのです。
このデモに対抗すべく、大統領の家族の息がかかったスポーツ団体が動員されたのですが、彼らが蜂起側に殴り込みをかけたのです。これをきっかけにデモの規模は一層ふくれあがり(注1)、彼らは一挙に押し出して警察の警戒網を突破し、大統領府に突入したというのです(注2)。

(注1)最初はわずか数百から千人程度だったようだ。最終的な規模としては、1万人説と4万人説がある。
(注2)その後、ビシュケク中心街のデパート等の略奪が行われた。

前日の段階で蜂起側首脳陣は、アカエフ大統領が10月の任期で間違いなく辞任し、その時点で大統領選挙と総選挙を行うことを確約する、というラインで大統領と手打ちをする方針を固めていました。
アカエフ大統領は情勢判断を誤り、自ら墓穴を掘ってしまったわけです。
アカエフは大統領府が占拠される前に逃亡しました(注3)が、国防相は民衆にこづかれながら外に連れ出されました。次いで国営TV局が占拠され、更に2001年から投獄されていた元副大統領(Feliks Kulov)が民衆によって解放され、最高裁は総選挙の無効を宣言し、蜂起側の新旧議員達が集まって(注4)議会が開かれ、暫定大統領に蜂起側の議員(Ishenbai Kadyrbekov)を選出しました。
(以上、http://www.guardian.co.uk/international/story/0,3604,1444837,00.htmlhttp://news.bbc.co.uk/2/hi/asia-pacific/4380899.stm、及びhttp://www.latimes.com/news/nationworld/world/la-032405kyrgyzstan_lat,0,1760793,print.story?coll=la-home-headlines(3月25日アクセス)による。)

 (注3)アカエフがまだ国内にとどまっているのか、国外に逃亡したのか、国外逃亡先がカザフスタンなのかロシアなのか、説が入り乱れている。
 (注4)旧議会の議員達が集まった、という説もある。

2 グルジア・ウクライナとの相違

 このキルギスタンの革命を、(キルギスタンと同様ソ連から分離独立した)グルジア及びウクライナの革命と比較してみましょう。
 まず、似ている点です。
 蜂起が、第一に国際監視団が選挙が不公正に実施されたと指摘したことを契機に始まったことと、第二に独立してからずっと同一の大統領の下で政権を維持してきた権力への異議申し立てとして行われたことです。
また、第三に、死者が出なかった無血革命であったことです(注5)。

 (注5)死者が出たという報道もあった(コラム#668)が、その後否定されている(典拠失念)。ただし、CSモニター下掲は、死者が出たという説に立っている。

 違う点は次の通りです。
 第一に、キルギスタンだけ、比較的最近民族紛争を経験していた(1990年に多数派のキルギス族と少数派のウズベク人とが南部で流血を伴った衝突をした)にもかかわらず、これまでのところ民族紛争に発展することなく革命が成功したことです。
第二に、キルギスタンだけ、蜂起側が一人のリーダーの下に結集できず、ばらばらであったにもかかわらず、革命が成功したことです。(グルジアのような赤いバラ色、ウクライナのようなオレンジ色、といった統一的なシンボルカラーさえキルギスタンの蜂起側は持ち得なかった。)
第三に、キルギスタンだけ、欧米への憧憬ないし欧米の一員になりたいという気持ちなくして自由・民主主義革命がなった、ということです。その背景には、キルギスタンの地理的位置やキルギスタンの人々の宗教(キリスト教でなくイスラム教)、そしてかねがね私が力説している、モンゴルに由来するところの、欧米とは異なった自由・民主主義的伝統、があります(注6)。
(以上、特に断っていない限りhttp://www.cnn.com/2005/WORLD/asiapcf/03/21/kyrgyzstan.factbox.reut/index.html(3月25日アクセス)による。)

(注6)だからこそ、キルギスタンにおいてのみ、最終場面で日本大使の出番があったということになろうか(http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20050324id23.htm。3月25日アクセス)。

3 次はどこか?

 ソ連から独立した国々で立て続けに三つも自由・民主主義革命が起こったからには、また起きるのではないか、それはどこか、ということが気になります。
 今年1月下旬の時点では、次に自由・民主主義化するのは、中央アジアではトルクメンやウズベキスタンでは可能性がないが、キルギスタンでは可能性がある。そのほかは、モルドバで可能性があり、アルメニアでも可能性がないわけではない、という指摘がありました(http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/4192381.stm。1月22日アクセス)。
 この指摘は、一ヶ月余り後にモルドバで(注7)、そして二ヶ月後にはキルギスタンで実現したことになります。

 (注7)モルドバのケースが特異なのは、民衆蜂起が起きたわけでも政権交代が起きたわけでもないことだ。すなわち、親露政権が3月6日の総選挙の少し前に親欧米路線に政策を転換し、にもかかわらず、この総選挙で議席を少し減らしただけで、引き続き政権を維持することができた、というもの。(http://news.goo.ne.jp/news/sankei/kokusai/20050308/m20050308009.html?C=S。3月25日アクセス)
だから、モルドバのケースは自由・民主主義「革命」とは言えない。

2月上旬には、中央アジアでも、カザフスタンでは自由・民主主義革命の可能性があるのではないか、との指摘がありました(http://www.csmonitor.com/2005/0210/p01s03-wosc.html。2月10日アクセス)。現時点でもカザフスタン説は有力です(http://www.nytimes.com/2005/03/24/international/asia/24cnd-kyrgyzstan.html?ei=5094&en=2f0a8b8c03d1b349&hp=&ex=1111726800&partner=homepage&pagewanted=print&position=。3月25日アクセス)。
 カザフスタン説は、英国ではなく米国のメディアが唱えているだけに、信憑性は今一つですが、私自身は、そうあって欲しい、と願っています。キルギスタンに負けないくらいモンゴルの強い影響を受けている地域だからです。(ただし、自由・民主主義嫌いであるところのロシア人が沢山居住していることはマイナスの要素です。)
 カザフスタンでも自由・民主主義革命が起きれば、中共はモンゴルからアフガニスタンに至る自由・民主主義帯域で囲まれることになり、中共の共産党独裁政権は生きたここちがしなくなることでしょう。

太田述正コラム#0668(2005.3.23)
<モンゴルの遺産(その10)>

 (これは、モンゴルの遺産シリーズ(コラム#626、633??637、643、658、659)の完結編であると同時に、このうちのコラム#643の後編です。)

2月27日と3月13日の二回(二回目は50%以上を得票した候補者がいなかった41選挙区での上位二人の決選投票)にわたって行われたキルギスタンでの総選挙の結果は、野党が全75議席中のわずか6議席しかとれず、惨敗しました。
 アカエフ大統領の娘も息子も当選を果たしました。
 しかし、選挙監視を行った全欧安保協力機構(The Organization for Security and Cooperation in Europe=OSCE)の代表は、「メディアが偏向しており、ささいな理由で候補者登録が拒否され・・有権者リストが不正確でありきちんと加除訂正が行われていない」と辛い点をつけた一方で、「よかった点は、二回の投票の間での集会の自由は、前に比べてより十分に尊重されたことだ」と述べました。
(以上、http://www.washingtonpost.com/ac2/wp-dyn/A33983-2005Mar14?language=printer(3月15日アクセス)及び(http://www.latimes.com/news/nationworld/world/la-fg-kyrgyzstan15mar15,1,1913680,print.story?coll=la-headlines-world(3月16日アクセス)による。)
キルギスタンの選挙もこの程度か、と思ってはいけません。中央アジア的標準、広くは第三世界的標準に照らせば、比較的公明正大な選挙が行われた、と受け止めるべきなのです。
選挙後、野党勢力の強いキルギスタン南部のフェルガナ(Fergana)盆地(注14)の都市ジャララバード(Jalal-Abad)で、民衆蜂起が起こりました。

(注14)この盆地は、中央アジアで最も人工稠密で貧しい地域であり、キルギスタン・ウズベキスタン・タジキスタン三カ国にまたがり、キルギス・ウズベク・タジク人が住んでいるほか、主として中共の新疆ウィグル地区に住むウィグル人も住んでいる。また、イスラム原理主義の巣窟であるとともに、アフガニスタンで栽培された麻薬の密輸ルート上に位置する。
アフガニスタンをタリバンが支配していた頃、オサマビンラティンの息の掛かったウズベク人頭目の率いる一団がキルギスタン領フェルガナを攻撃したことがあり、そのシンパが今でもこの盆地にいる。
キルギスタン領フェルガナにはウズベク人も住んでおり、キルギス人と反目しているが、今回の民衆蜂起には両者がともに参加している。
(以上、http://news.bbc.co.uk/2/hi/asia-pacific/4368837.stm(3月22日アクセス)による。)

選挙不正を追及する民衆によって3月初めから占拠されていた地方庁舎を特殊警官隊が奪い返したところ、1??2万人もの民衆がこの庁舎を再び占拠した上で警察署を襲い、捕らえられていた人々を解放し、この警察署に放火したのです。また、彼らは一時空港も占拠し、滑走路に土砂をぶちまけ、治安要員がキルギスタンの北端に位置する首都ビシュケク(Bishkek)から送り込まれないようにしました。
また、やはりフェルガナ盆地に位置するキルギスタン第二の都市オシュ(Osh)でも1000人の民衆が地方庁舎を占拠しました。
この蜂起は、直接的には選挙の不公正さへの怒りが引き起こしたものですが、その背後には政府の経済政策への不満と政府の腐敗への怒りがあります。彼らはアカエフ大統領の辞任と大統領選挙の実施、そして総選挙のやり直し、更に捕らえられた人々全員の解放を要求しています。
キルギスタン政府は死者は出ていないと言っていますが、ロシアのインターファックス通信社は10名の死者が出た可能性があると報じ、ロイター通信は、4名の警官が撲殺されたと報じました。
警察は火器の使用を禁じられており、民衆側も棍棒しか使っていない模様です。アカエフ大統領は交渉の用意があると言っていますし、問題になっている選挙区での選挙結果の見直しを行うとも言っています。他方、蜂起した民衆の方は、明らかにグルジアやウクライナでの平和的かつ民主的なビロード革命、就中ウクライナでのオレンジ革命の例に倣おうとしています(注15)。

(注15)ウクライナ等のケースと違うのは、かねてから政府側がメディアを独占しており、今のところ寝返ったメディアもないことから、現時点では蜂起側が広報宣伝面で圧倒的に不利な点だ(http://news.bbc.co.uk/2/hi/asia-pacific/4369139.stm。3月22日アクセス)。
また、フェルガナ盆地がイスラム原理主義の巣窟であることや多民族地帯であることから、この民衆蜂起が宗派や民族間の武力紛争に転化する恐れは排除できない。

以上のような政府側及び民衆側の自制が、これまた中央アジア的標準、広くは第三世界的標準に照らせば、驚異なのです。
ちなみに、米国政府は今次選挙についてOSCEと同様の見方をしていますし、政府側と蜂起側に対話を呼びかけていますが、ロシア政府は、選挙が公正に行われたとし、蜂起側を非難しています。

(以上、特に断っていない限りhttp://www.latimes.com/news/nationworld/world/la-fg-kyrgyz21mar21,1,1185834,print.story?coll=la-headlines-worldhttp://www.washingtonpost.com/ac2/wp-dyn/A52233-2005Mar20?language=printerhttp://news.bbc.co.uk/2/hi/asia-pacific/4369065.stmhttp://www.csmonitor.com/2005/0322/p07s02-wosc.html(いずれも3月22日アクセス)による。)

 一体どうして、キルギスタンはこんなに自由・民主主義的に「進んで」いるのでしょうか。
 キルギスタンは「遊牧民的伝統と女性の権利や宗教的多様性に寛容な特異なイスラム教によって、より専制的な周辺諸国に比べて明確に異なった政治的様相を持っている」からだ(http://www.washingtonpost.com/ac2/wp-dyn/A56486-2005Feb26?language=printer前掲)というのです。
 そこまでくれば後一声ですね。
 キルギス人の「遊牧民的文化の核心部分に個人の自由があり、イスラム教が中央アジアのほかの地域に比べて深く根を下ろしておらず、キルギス人はイスラム教徒のウズベク人やタジク人よりも仏教徒たるモンゴル人に近いからだ」(http://news.bbc.co.uk/2/hi/asia-pacific/4368837.stm上掲)。
 どうです。英国人の中にも私の「モンゴルの遺産」説と同じ説を説く人がいるでしょう。

(完)

太田述正コラム#0659(2005.3.14)
<モンゴルの遺産(その9)>

 (3)モンゴルの遺産の第二:オスマントルコ
  ア 欧州の病人?
 欧州の病人(Sick man of Europe)(注15)、と呼ばれながらも、先の大戦後戦乱が吹きすさんだレバノン・ボスニア・コソボ、戦乱が間歇的に続いているパレスティナ・イラク、などを含むところの大帝国を、約500年にわたって平和裏に治めることができたオスマントルコ(Ottoman Empire)の政治体制は高く評価されてしかるべきでしょう。
 オスマントルコの瓦解だって、決して必然であったわけではありません。
 第一次世界大戦でどちらの陣営につくかを間違えただけです。
  間違えた結果、英国(当時は大英帝国)によって無理矢理瓦解させられたのです。
 実際、アラブ人達はオスマントルコによる支配におおむね満足していました。そこに、英国がアラビアのロレンス等を利用してアラブ民族主義なるものをでっちあげて、トルコとアラブを反目させた形にしつつ、アナトリア半島以外を占領し、オスマントルコを瓦解に導いたわけです(注16)。
(以上、http://books.guardian.co.uk/reviews/history/0,6121,1360457,00.html(2004年11月27日アクセス)による。)

 (注15)「中東」の病人、とは呼ばれなかったことからしても、オスマントルコは、歴とした「欧州」の国だった。この伝で行けば、新生トルコは当然EUに加盟する権利がある(ワシントンポスト上掲)。
 (注16)これこそが、その後の中東の停滞・混乱をもたらした最大の原因である、と見ることができる。

  イ オスマントルコの政治システム
チンギス=ハーンは、それまでモンゴルの部族連合的政治を排し、自分の一族による政治すら排し、部族・民族を越えて優秀な人材を集め、ハーン独裁体制を確立しました。
結局、モンゴル自身は、このチンギス=ハーン「革命」を永続させることができず、元の黙阿弥になってしまうのですが、このような政治体制は、理想の政治体制として、モンゴルに支配された人々、とりわけ、モンゴルと最も密接に関わり、混淆したトルコ系民族の間で仰ぎ見られて行ったのではないでしょうか。
(以上、チンギス=ハーンの独裁政治については、http://www.mongolianculture.com/2002%20Mongol%20conference%20pa.htm(3月13日アクセス)による。)

この「理想の政治体制」を極限まで推し進め、それを約500年間にわたって堅持したのがオスマントルコでした。
オスマントルコの政治体制は、次のようなものでした。
ア 正義の政治
 端的に言えば、弱者である小作農が違法な税金を課されたり、腐敗した地方官に収奪されたり、不公正な裁判に苦しめられたりすることのないようにする政治、ということです。
 このためにこそ、スルタンは絶対権力を保持しなければならない、と考えられていました。17世紀の欧州における絶対王制は、そのマネです。
イ 監察の政治
 スルタンは、自ら変装して地方官や裁判官の仕事ぶりを見て歩く習わしになっていました。
 もちろん、それだけでは十分ではないので、巨大な諜報機構が、帝国すみずみまで目を光らせ、情報をスルタンの下に集めました。20世紀になるまで、これだけ国全体の情報を中央政府が掌握していた国家は世界に存在しませんでした。
ウ 峻厳の政治
 悪徳地方官や裁判官に対する処罰は峻厳そのものでした。
 小作人に対し違法な税金を課したり、彼らを強制労働に従事させたり、許可なく軍隊を彼らの家に宿泊させたり、彼らから無理矢理軍隊のための食糧を徴発したりした者は、すべて死刑に処せられました。
エ 法治の政治
 勅令や税金の内容は、帝国内の随所の公共の場に貼り出されていました。
オ 直訴の政治
 スルタンその人を除き、どんな政府高官のところにも、帝国内のすべての臣民が直接請願を行うことができました。また、地方官や裁判官の非違行為の訴えを受理する専門機関があり、訴えは、厳正に処理されました。
カ 軍規の政治
 軍隊が一般民衆を苦しめないように、最大限の配慮がなされました(峻厳の政治参照)。オスマントルコ勃興期においては、外征は食糧を外征路の要点に集積することを含め、何年も前から周到に計画されました。おかげで、新しい領土を獲得しても、比較的容易に被征服民を手なずけることができたのです。
キ 世論の政治
 オスマントルコのモスクでは、金曜礼拝の際に、スルタンの健康と長寿を祈る習わしでした。
しかし、それは義務づけられているわけではないので、帝国内のどれだけのモスクでこの祈りが行われなかったかの情報がスルタンの下に集められ、世論の動向が把握されました。
(以上、http://www.allaboutturkey.com/ottoman2.htm(3月13日アクセス)による。ただし、筆者は、オスマントルコのスルタン継承順位が確立していなかったことや、オスマントルコ支配下の領土がスルタンの家族の私有財産とみなされていた(スルタンが代わるごとに新スルタンの個々の家族に再分配された)、といった非「近代的」側面を論ずる時にだけモンゴルの影響を強調しており、チンギス=ハーン一族のモンゴル帝国に対するかつての偏見を引きずっているように見受けられる。)
 なるほど、こんな「近代的」な政治体制を持っていたからこそ、オスマントルコ帝国が長持ちしたわけですね。
 しかし、その最大の弱点が、スルタンに人を得なければ、オスマントルコの政治体制全体が機能障害を起こしてしまうところにあったことは、容易に推察できます。
 継承順位がはっきりしていなかったとはいえ、スルタンは世襲制であり、スルタンの資質は時代を経るに従って次第に低下して行きました。その結果、オスマントルコは19世紀にもなると、「病人」と称されるようになってしまうのです。

 (4)総括
 以上見てきたように、昔モンゴル系民族と共有していたアニミズム/シャーマニズムの習俗、そしてチンギス=ハーンのモンゴル帝国から受け継いだ「理想の政治体制」観、こそ新生トルコが、イスラム世界の中で自由・民主主義の先駆けたりえた理由である、と私は考えています。

(特別篇としてはこれで終わりですが、「モンゴルの遺産」シリーズはまだ続けたいと思っています。)

太田述正コラム#0658(2005.3.13)
<モンゴルの遺産(その8)>

・・特別篇:トルコ・・

 (1)問題意識
 慧眼の読者はお気づきになっているかと思いますが、この「モンゴルの遺産」(コラム#626、633??637、643。未完)シリーズは、日本の国際情勢オタクの中に散見されるところの、地政学「理論」を援用した、「ランドパワー=非自由・民主主義」論が誤りであることを指摘するねらいももっています(注14)。

 (注14)「ランドパワー」たる支那が未来永劫自由・民主主義国にはなれない、という思いこみもまた、誤りだ(コラム#567、570、及び#657参照)。私が自由・民主主義化の面において、支那はロシアを追い抜く可能性がある、と考えている理由については、別の機会に譲る。

 さて、この際、紛れもない「ランドパワー」であったトルコが、なにゆえイスラム世界の中で、自由・民主主義の先駆けになりえたのか、を押さえておきたいと思います。
 トルコについては、かつて詳しく取り上げたことがあります(コラム#163??167)。その時、いわゆるケマリズムがイスラムに代わる、一種の国家宗教となることによって、トルコは表見的に世俗国家になりえた、という趣旨の指摘をしました(コラム#163)。
 確かに、ケマリズムの下で、1920年代に新生トルコが「世俗化」していたことが、トルコの1950年の民主化(複数政党による選挙の実施)を可能にしたのです。
 しかし、それだけが、トルコが1950年以降、まがりなりにも自由・民主主義国家であり続けることができた理由なのでしょうか。そもそも、ケマリズムがなぜトルコで生まれたのでしょうか。

 (2)モンゴルの遺産の第一:アレヴィス

 第一の理由は、アレヴィス(Alevis)の存在です。
 トルコ系民族は、かつてシベリア地方にモンゴル系民族と踵を接して住んでいましたが、8世紀から11世紀にかけて、モンゴル系民族等に追われ、遊牧地を求めて中央アジアからアナトリア半島に広がって行きます。
 彼らは、モンゴル系民族同様、アニミズム(animism)ないしシャーマニズム(shamanism)的な習俗を持っていました。
 この習俗は、トルコ系民族が、中央アジアでイスラム教の影響を受け、アナトリア半島ではキリスト教の影響を受けた結果、アレヴィスという「宗教」(イスラム教シーア派の一派ということになっている)が生誕します。ただし、この「宗教」は、アニミズム的/シャーマニズム的要素を色濃く残しています。
 すなわち、自然を敬い、人を愛しいたわり、堅苦しい教義を排し、経典もないのが特徴であり、神道にそっくりです。
 ですから、神道「信徒」たるわれわれ日本人同様、アレヴィス「信徒」もまことに世俗的な人々であり、宗教原理主義が大嫌いです。
 アレヴィス「信徒」は、オスマントルコが成立し、やがてオスマントルコがイスラム教(スンニ派)の守護者(スルタンはカリフと聖地メッカの守護者を兼ねた)となると、弾圧されるようになります。しかし、アレヴィス「信徒」は隠れキリシタン的にその「宗教」を守り続けるのです。
 アレヴィス「信徒」はトルコのクルド人の中にも多いのですが、しめて現在トルコに1000??2000万人おり、総人口の15??30%を占めると推定され、ドイツを中心として海外に居住しているトルコ人300万人中には「信徒」が多いと言われています。
 このようなアレヴィス「信徒」が、新生トルコ(共和国)が発足し、ケマリズムが掲げられるや否や、その有力な支持母体となったのは当然のことでした。
 例えば、1925年にクルド人がクルド民族主義を掲げて蜂起すると、同族たるクルド人のアレヴィス「信徒」は、政府軍の先鋒となって戦いました。蜂起した側が、イスラム原理主義を信奉していた(ケマル・アタチュルクによって廃止されたばかりのカリフ制の復活を唱えていた)からです。
 (以上、http://www.washingtonpost.com/ac2/wp-dyn/A25555-2005Mar10?language=printerhttp://www.goldenhorn.com/display.php4?content=records&page=ghp010.htmlhttp://en.wikipedia.org/wiki/Alevi、及びhttp://www.religioscope.com/info/notes/2002_023_alevis.htm(いずれも3月13日アクセス)による。)

(続く)

太田述正コラム#0643(2005.2.27)
<モンゴルの遺産(その7)>

 実際、昨年立て続けにグルジアとウクライナで自由・民主主義が平和革命の形で確立したことは記憶に新しいところです(注13)が、旧ソ連圏で次に自由・民主主義が確立するのは中央アジアの国だ、という声がもっぱらです。

 (注13)ウクライナについては、コラム#548、551、553参照。
シュワルナーゼ(Eduard Shevardnadze)体制が打倒されサーカシビリ(Mikhael Saakashvili)大統領が就任したグルジア(Georgia)については、かつてグルジア(の前身)が、一小国ながらローマ帝国と対等な同盟国であったこと、ローマ帝国と同じ頃にキリスト教を国教にしていること、その後、イスラム教勢力との戦いの最前線にあってキリスト教文化を守り抜いたこと、等、グルジアが西欧と類似した歴史を、ロシアに征服されるまで歩んでいたこと(http://members.tripod.com/ggdavid/georgia/history.htm。2月23日アクセス)が、ソ連崩壊後十余年でグルジアに自由・民主主義を確立させた、と考えられる。
ソ連時代の最も悪名高い、反自由・民主主義の権化の二人、スターリン(Joseph Stalin)と秘密警察の長であるベリヤ(Lavrentii Beria)がグルジア人であったことは興味深い(上掲サイト)。
ちなみに、(グルジアはもとより、アゼルバイジャン・トルコとも歴史的因縁から犬猿の仲ではあるが、)グルジアの隣の国であり、4世紀初めに世界で最初にキリスト教を国教にしてからグルジアと瓜二つの歴史を歩んできたアルメニアでは、非常にゆっくりとしたペースではあるものの、自由・民主主義化が着実に進展している(http://www.johnsmithmemorialtrust.org/Web/Site/Articles&News/ArmenianDemocracy.asp。2月28日アクセス)のに対し、イスラム教国でトルコ系のアゼルバイジャンでは、独裁者アリエフ(Gaidar(Heydar) Aliyev)大統領が、死の直前、2003年の不公正な大統領選挙で息子の(Ilham Aliyev)に大統領職を「禅譲」している(http://www.diacritica.com/sobaka/dossier/haliyev.html。2月28日アクセス)。

そして衆目が一致するところ、中央アジア諸国のうち、最初に自由・民主主義が確立しそうなのはキルギスタンです。
1991年の独立以来15年間に渡ってキルギスタンを支配してきて10月末に憲法上任期切れを迎えるアカエフ(Askar Akayev)大統領は、このたび始まった総選挙(27日に一次投票。3月13日に各選挙区における上位二名の決選投票)に、娘、息子、及び義理の姉妹二人を立候補させており、これが、憲法改正による自らの大統領再選または自分の子供への大統領職「禅譲」への布石ではないかと疑心暗鬼を呼んでいます。
与党は憲法改正に必要な三分の二の議席を持っており、今回の選挙の帰趨が注目されています。
しかし、TVは政府が掌握しており、独立したラジオや新聞が政府から電気供給を停止される等の妨害を受けており、野党は苦戦を強いられています。
しかも、何人かの野党候補の立候補が受理されませんでした。例えば、このアカエフの娘の選挙区に立候補しようとした、野党党首の一人で元外相・前駐米大使の女性(Roza Otunbaeva)を、選挙前5年間国内に住んでいたことを立候補要件に付け加えた法律を議会が急遽作ったため、立候補が受理されませんでした。このため、キルギスタン全国でデモ・道路封鎖・地方庁舎の占拠等の抗議行動が起こっています。しかし、アカエフはこれまでのところ弾圧を控えています。
グルジアには9.11同時多発テロ以降米軍基地とロシアの基地が開設され、米国は政府による選挙妨害に憂慮の念を表明していますし、ロシアも、ウクライナの例などで懲りたのか、一方的な与党への肩入れは避けています。
傑作なのは、アカエフ自身が、「<ウクライナのような平和革命>はトルクメンでは不可能だろうが、野党乗りのマスメディアが沢山存在しており、検閲がなく、5000以上の市民団体が生まれている、といった具合に民主主義の基盤があるキルギスタンでは可能だろう」と語っていることです。ただし、同時に彼は、ウクライナ等と違ってキルギスタンは旧ソ連圏唯一の自他共に許す発展途上国であって、かつイスラム原理主義の火種を抱えていることから、平和革命が内戦に転化する懼れを指摘し、平和革命を起こそうとしている勢力に警告を発しています。
(以上、http://news.bbc.co.uk/2/hi/asia-pacific/4229985.stm(2月4日アクセス)、http://www.csmonitor.com/2005/0210/p01s03-wosc.html(2月10日アクセス)、http://news.bbc.co.uk/2/hi/asia-pacific/4292793.stm(2月24日アクセスhttp://www.guardian.co.uk/international/story/0,3604,1425663,00.html(2月26日アクセス)、及びhttp://www.washingtonpost.com/ac2/wp-dyn/A56486-2005Feb26?language=printer(2月27日アクセス)による。)

(続く)

太田述正コラム#0644(2005.2.28)
<ブッシュの一般教書演説と北朝鮮(続)(その2)>

では、一体ブッシュはどうして外交的配慮をする必要があったのでしょうか。
ニューヨークタイムス(http://www.nytimes.com/2005/02/14/politics/14korea.html?ei=5094&en=e43cf447efb0efe5&hp=&ex=1108443600&partner=homepage&pagewanted=print&position=。2月14日アクセス)によると、要旨こういうことです。

ブッシュは、金正日による人権抑圧を嫌悪していて、かねがね金を「非道徳的」な「専制君主」であると評しており、米国政府の対北朝鮮政策について、一般に想像されているよりはるかに積極的に関与している。
 しかし、昨年12月に韓国のノ・ムヒョン大統領と会談した際、「金は自国民を餓死させている」と罵ったところ、ノから、「確かに金は悪い奴だが、公衆の面前でそんなことを言う必要はなかろう。フセイン大統領に対してやったように核問題を個人間の確執に転化してしまうと、外交的に北朝鮮に核を放棄させることは不可能になってしまう」と言われた。するとブッシュは「分かった。公衆の面前でこの種のことは言わないことにしよう」と答えた。
 それ以来、現在までのところ、ブッシュはこの約束を守っている。

 ちなみに、この記事が出たとき、韓国の大統領府は、ノ大統領は「金は悪い奴だ」などとは言っていない、と記事のこの部分を否定しました(http://www.sankei.co.jp/news/050217/kok022.htm。2月17日アクセス)。韓国の対北配慮ぶりは病膏肓に入った観があります。

さて、既に何度も申し上げてきているところですが、ここで、改めて、ブッシュ政権の北朝鮮政策がいかなるものか(についての私の考え)を復習しておきましょう。
要するに、
まず、第一に、何年後かに北朝鮮を軍事攻撃できるような態勢を構築すべく、(北朝鮮との休戦ラインに近すぎて開戦時に火砲の砲撃の洗礼を受ける)在韓米軍部隊の後方地域への移転、在韓米軍の削減、在韓米軍部隊の装備の改善、グアム島等西太平洋地域への米空軍爆撃機の増加配備、在韓米軍部隊及び在日米軍部隊の、北朝鮮短・中距離ミサイルに対する防衛能力の向上(自衛隊のミサイル防衛能力向上の反射的利益分を含む)、北朝鮮長距離ミサイルに対する米本土の防衛能力の向上、北朝鮮の地下に格納されているミサイルや核兵器等を破砕するための爆弾(核爆弾を含む)の改善・開発、などを推進する。
そして第二に、米朝二国間協議には応じず、六カ国協議の場で北朝鮮の核問題を解決することに固執し、拉致問題解決を最重視する日本を始めとして、立場の極めて異なる諸国を関与させることによって、六カ国協議を実質的進展のないまま推移させ、上記軍事攻撃態勢が構築されるまでの時間稼ぎをする。
というのがブッシュ政権の北朝鮮政策です。
 では、どうして北朝鮮が、そんな六カ国協議にこれまでまがりなりにも出席をしてきたのでしょうか。出席を拒否すれば、核問題を解決する気がない、として国連安保理に議論の場を移すことに中露韓とも反対できなくなり、安保理決議に基づく対北朝鮮経済制裁が発動される恐れがあったからです。
 第二期ブッシュ政権の北朝鮮政策には目新しい点は何もなく、ただ単に米世論の動向を斟酌して、米国の主敵の筆頭は北朝鮮であることをにおわせるとともに、米国は当面北朝鮮を武力攻撃する意思はないことを強調した、というだけのことなのです(注3)。

 (注3)強いて言えば、事実上日本に入港する北朝鮮船舶をねらい打ちした船主責任保険義務化等の形で日本にも片棒を担がせつつ、北朝鮮の非合法活動(通貨偽造・行使や麻薬製造・密売等)への対策を強化したことが目新しいくらいだ(NYタイムス上掲)。

 一方、北朝鮮は更に窮地に陥っています。

2 一層追いつめられた北朝鮮

 (1)北朝鮮のお寒い核能力
細田官房長官は17日の記者会見で、「弾道ミサイルの発射が差し迫っているとか、核を搭載して発射できるとかいう認識は持っていない。長距離ミサイルを兵器を載せて目的通りに撃てる実態にはないと思っている」と述べ、その理由として「ミサイルの精密度とかコントロール(が正確でない)、核実験をしていない。総合力で評価をすると、まだまだいろいろな問題点はある」と説明しました(http://www.asahi.com/politics/update/0217/002.html。2月18日アクセス)。
また、韓国の国家情報院は24日韓国国会で、国際社会の監視強化で主要装備の導入が阻まれ、濃縮工場の建設には至っていないことから、北朝鮮はまだ高濃縮ウランを製造、保有していないとの見方を示しました(http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20050224i115.htm。2月25日アクセス)。
 これらは10日に北朝鮮外務省による核保有宣言がなされているだけに、それぞれ米国との調整の上発出された、米国の公式見解の代読であると私は理解しています。
 つまり、北朝鮮は1??2個プラスアルファの核爆弾は持っているかもしれない(http://news.tbs.co.jp/20050217/newseye/tbs_newseye1134006.html。2月17日アクセス)けれど、航空機に載せて運ぶしかないのであって、(載せて運べるだけのペイロードのある航空機すら北朝鮮は持っていないという説(典拠失念)の真偽はともかくとして、)在韓・在日米軍も勘定に入れれば、韓国や日本の対航空機防空能力は極めて高いことから、北朝鮮の核の脅威は現時点ではまだゼロに近い、ということです(注4)。そしてまた、北朝鮮が今後保有しうる核爆弾の個数は、プルトニウムを原料にした十個程度が限度であり、高濃縮ウランを原料とする核爆弾がこれに上積みされてどんどん増えていく、という状況にはない、ということです。

 (注4)ベーカー前駐日米国大使が、16日の離任会見で、「個人的には北朝鮮が核兵器を持っているということよりも、それを売ることにより大きな懸念を感じる。兵器を含め、持っているものは何でも売るという過去の実績があるからだ」と話し、「保有」よりむしろ「拡散」により大きな脅威を感じていることを明らかにした(http://www.asahi.com/international/update/0216/011.html。2月16日アクセス)ことを思い起こして欲しい。

 米国が北朝鮮の核問題で悠揚迫らぬ態度でいるのは、何もイラクで手一杯で北朝鮮にまでかまっておられないから、ということではないのです。
 ですから、北朝鮮が公式に核保有宣言をしたからといって、それは少しもブラフにはなっていないのです。
 逆に言えば、それにもかかわらず、公式核保有宣言でもしなければならないほど、北朝鮮は追いつめられている、ということです。

(続く)

太田述正コラム#0637(2005.2.22)
<モンゴルの遺産(その6)>

とはいえ、内戦の被害は甚大であり、公表されたばかりのアフガニスタンの人間開発指数(注9)は調査された178カ国中173番目であり、アフガニスタンの自由・民主主義の前途は多難です(http://www.nytimes.com/aponline/international/AP-Afghan-Development.html?pagewanted=print&position=。2月22日アクセス)。日本を含め、国際社会はアフガニスタンに今後とも支援の手を差し伸べて行く必要があります。

 (注9)人間開発指数(Human Development Index=HDI)とは、人間開発の3つの基本的側面(寿命、知識、生活水準)を通して各国の平均的達成度を測定したもの。この3つの側面を表すものとして、平均寿命、教育達成度(成人識字率と初等・中等・高等教育就学率を加えたもの)、1人当たり実質国内総生産の3つの変数が使われている。国連開発計画(UNDP)は、この人間開発指数を用いて、1990年から「人間開発報告書」を発表している。(http://www.ne.jp/asahi/manazasi/ichi/syakai/ningenkaiha0102.htm。2月22日アクセス)

 (3)インド亜大陸・東南アジア
大部分がかつて英仏蘭等の植民地であったところのインド亜大陸及び東南アジアの諸国は、自由・民主主義化の優等生であっても不思議はないのですが、必ずしもそうなってはいません。
スハルト(Suharto)政権が1998年に倒れてから着実に自由・民主主義化が進展しているインドネシアを唯一の例外として、パキスタンにおけるムシャラフ(Pervez_Musharraf)大統領による実質的軍政の継続、(昨年の総選挙による国民会議派の政権復帰によって小休止状態にあるものの)ヒンズー教原理主義化しつつあるインド、毛沢東主義ゲリラに手を焼き今年ギャネンドラ(Gyanendra)国王によって議会制が停止されたネパール、三年連続して世界で最も腐敗した国という烙印を押されるとともにイスラム教原理主義化しつつあるバングラデシュ、内戦を終わらせることができないスリランカ、軍政が継続しており昨年秋には政権の穏健派幹部(Khin Nyunt)すら失脚させたビルマ、タクシン(Thaksin Shinawatra)首相による全TV局の掌握と不正選挙による与党の議会での圧倒的多数の確保によりファシズム化の恐れが出てきたタイ、1985年以来ずっと首相であるフンセン(Hun Sen)の下で破綻国家たる状況から脱却できないまま今年野党のランシー(Sam Rainsy)党首達を亡命に追いやったカンボディア、独立以来一貫して実質的に一党独裁状況が継続しているマレーシアとシンガポール(注10)、共産主義体制下にあるラオスとベトナム、自由・民主主義の片鱗も見られないブルネイ、表見的自由・民主主義が「アジアの病人」状況を生んでいるフィリピン、という有様です(注11)。
(以上、全般的にはhttp://www.csmonitor.com/2005/0210/p06s01-woap.html(2月10日アクセス)、パキスタンについてはhttp://www.washingtonpost.com/wp-dyn/articles/A10782-2004Dec18.html(2月21日アクセス)、インドについてはコラム#284??288・301??303・315・317・318・354・355、バングラデシュについてはhttp://news.bbc.co.uk/2/hi/programmes/crossing_continents/4270657.stm(2月18日アクセス)、タイについてはhttp://news.bbc.co.uk/2/hi/asia-pacific/4242203.stm(2月22日アクセス)、カンボディアについてはhttp://www.atimes.com/atimes/Southeast_Asia/FL25Ae02.html(12月25日アクセス)、マレーシアについてはコラム#316、シンガポールについてはhttp://www.csmonitor.com/2004/0526/p06s01-woap.html(2004年5月26日アクセス)、フィリピンについてはhttp://www.atimes.com/atimes/Southeast_Asia/FI30Ae04.html(2004年9月30日アクセス)を含む6回シリーズ、による。)

(注10)同じく漢人(が主導権を握る)国家であるとはいえ、人口400万人の小都市国家に過ぎないシンガポールにとって光栄なことに、人口12億人の中国は、シンガポールを自らの政治・経済システムの模範として仰ぎ見ているらしい。
(注11)これらの国について、それぞれもっと掘り下げて論じるべきだが、他日を期したい。

ここで銘記すべきことは、インド亜大陸・東南アジア諸国には拠るべき自由・民主主義的伝統がないことでり、とりわけ、モンゴルによる直接統治を(ベトナムが一時モンゴルに占拠されたことはあるが)経験していないことです(注12)。

(注12)インドのムガール(Mughal)帝国の祖バーブル(Babur。1483??1530年)は、母方はチンギス・ハーン、父方はチムール血を引く人物であり、しかも「ムガール」すなわち「モンゴル」ではあるものの、完全にトルコ化しており(http://www.incois.gov.in/Tutor/babur.html。2月22日アクセス)、インド亜大陸がムガール帝国に支配されたことをもって、モンゴルに支配された、とまでは言えない。実際、クリルタイ/ジルガ的なものをインド亜大陸で見出すことはできない。ただ、ムガール帝国最盛時においても、ネパール・東ベンガル地方(現在のバングラデシュ)・スリランカ等は版図外であった(http://www.tabiken.com/history/jpeg/S/S016L103.jpg。2月18日アクセス)ところ、ムガール帝国支配下にあったインド・パキスタンに比べて、上記地域以東の諸国の自由・民主主義の進展ぶりに遜色があるように見えるのは面白い。

(4)中央アジア
(旧ソ連領)中央アジアは、モンゴル(含チムール)の支配を受けた地域であり、イスラムの強い影響を受け、共産主義を押しつけられていた、という負の遺産があるにもかかわらず、ソ連崩壊後10余年で早くも自由・民主主義化の兆しが諸処に見えるのは、独立後半世紀経ってもなお自由・民主主義が定着していないインド亜大陸・東南アジアとは好対照です。

(続く)

太田述正コラム#0636(2005.2.21)
<モンゴルの遺産(その5)>

ロヤ・ジルガは、アフガニスタンにおいて、パシュトン族・タジク族・ハザラ族・ウズベク族の長老等が一堂に会して、部族間の争い・社会改革・憲法等について議論し、決定する会議であり、初めて開かれたのは1924年であり、当時の国王が招集し、アフガニスタン初の憲法を制定し、政策大綱を決定しました。
これは、それまで特定部族が行ってきたジルガを、部族横断的かつ全国的なものに拡張したものです(注7)。

(注7)1747年に開催され王を選出したパシュトン族のカンダハルでのジルガは有名であり、王国としての近代アフガニスタンはここに始まる。

1928年に開かれたロヤ・ジルガでは、国王が女性の社会参画を含めた余りにも急進的な改革案を上程したため、翌年各地で反乱が起こり、この国王の退位につながりました。
1930年のロヤ・ジルガでは、二番目の憲法が制定されました。
1941年のロヤ・ジルガでは、アフガニスタンが第二次世界大戦で中立を維持することが決定されました。
 ザヒル・シャー(Zahir Shah。1914年??)国王によって招集された1964年のロヤ・ジルガでは、三番目の憲法が制定され、アフガニスタンは自由・民主主義国家の仲間入りをしました。
 しかし、1973年にはクーデターが起こり、王制は廃止され、容共制権が樹立されます。
 興味深いことに、この政権も1977年にロヤ・ジルガを開き、四番目の憲法たる社会主義憲法を制定しています。
 その後の1979年のソ連軍事介入から2001年の米国等によるアフガニスタン戦争までの経緯は
ご存じの通りです。
 さて、ロヤ・ジルガはジルガの伝統の中から生まれた制度ですが、ジルガの由来は何に求めるべきなのでしょうか。
 一般にジルガは、アフガニスタン古来の慣習とイスラムのシューラ(コラム#633)に由来するとされているのですが、以上のようなジルガやロヤ・ジルガの実態からして、これはシューラよりクリルタイ(コラム#626)に近く、私は純粋にアフガニスタン古来の慣習に由来を求めるべきだと思っています。
(以上、http://news.bbc.co.uk/1/hi/world/south_asia/1782079.stm、及びhttp://www.institute-for-afghan-studies.org/AFGHAN%20CONFLICT/LOYA%20JIRGA/What%20is%20loya%20jirga_II.htm(2月18日アクセス)による。)
ここから先は、仮説に過ぎませんが、私はこのアフガニスタン古来の慣習は、まさにクリルタイに淵源を持つような気がしてなりません。
それは、アフガニスタンの先住部族の一つであるハザラ族(Hazara)が中央のパンジシル平原に住んでおり、彼らはモンゴル族であると言い伝えられてきた(注8)からです。
(以上、http://members.tripod.com/~ismat/(2月20日アクセス)による。)

(注8)ハザラ族の言葉の10%はモンゴル由来であるし、容貌体格もモンゴル族に似ている。しかし、彼らが5??6世紀にこの地にやってきたモンゴル系のエフタル(Ephthalites)の子孫なのか、13世紀にこの地に侵攻したチンギス・ハーンの部隊の子孫なのか、それとも14-15世紀のチムールのモンゴル人部隊の子孫なのか、定かではない。

ハザラ族の祖先がモンゴル族だったとすれば、彼らがクリルタイの伝統を受け継いできたと考えられ、この伝統がアフガニスタンの他の部族に伝播した可能性があると考えられるのです。
そうだとすると、ジルガないしロヤ・ジルガはクリルタイの系譜に連なる制度であり、民主主義の萌芽形態であって、アフガニスタンの諸部族がイスラム化した「にもかかわらず」、アフガニスタンにおいて時代を超えて受け継がれてきた、ということになります。
だからこそ、アフガニスタンは自力で一旦は自由・民主主義化に成功し、長い内戦を経て、2002年にザヒル・シャー元国王立ち会いの下で、久しぶりにロヤ・ジルガが開かれ、暫定政府に正当性を与え、次いで2004年には大統領選挙が行われ、急速な自由・民主主義体制への復帰ができたのだ、というわけです。

(続く)

<読者>
> ハザラ族の祖先がモンゴル族だったとすれば、彼らがクリルタイの伝統を受け継いできたと考えられ、この伝統がアフガニスタンの他の部族に伝播し た可能性があると考えられるのです。

 『アジアの16の地域に住む男性の身体からそれぞれDNAを採取して分析した結果、それぞれの地域で人口の凡そ8%がチンギスと同じY染色体を持っていたことが明らかになった』(http://x51.org/x/04/06/1407.php

 ご参考まで。

太田述正コラム#0635(2005.2.20)
<モンゴルの遺産(その4)>

チョイバルサンが1952年にソ連で病死すると、跡を襲ったツェデンバル(Yumjaagiyn Tsedenbal。1916??1991年)は1962年に、チョイバルサン時代の個人崇拝を批判します。そのツェデンバルは、1984年に失脚します。ベルリンの壁が崩壊した1989年に民主化運動が起こり、1990年に人民革命党は国家に対する指導性を放棄し、1992年には自由・民主主義を謳った憲法が制定され、国号が人民共和国から共和国(国家元首たる大統領と政府の長たる首相の二重権力性。その後の憲法改正で現在は議院内閣制に近い)に変更になります。
 人民革命党は、1996年に総選挙で敗れ、政権の座を民主党(Democratic Party)に明け渡しますが、2000年には政権に復帰するという経過を辿った後、昨2004年には再び少数党に転落しため、民主連合(Motherland Democratic Coalition。民主党が中核)が人民革命党と連立政権を組み、現在に至っています。
民主連合(そして民主党)を率いる弱冠41歳のエルベグドルジ首相(Tsakhiagyin Elbegdorj。1963年??。1998年に一時首相)は、1989年にモンゴル初の政府から独立した新聞を発行し、民主化運動のリーダーになり、共産主義独裁体制の打倒に成功した人物です。
(以上、http://www.answers.com/topic/tsakhiagiyn-elbegdorj(2月20日アクセス)も参照した。)
大急ぎで20世紀に入ってからのモンゴル史をおさらいしてきましたが、現在のモンゴルで自由・民主主義が確立するまでのモンゴルの人々の不屈かつ高貴な戦いには心から敬意を表するほかありません(注6)。

(注6)日本の相撲が生き残るかどうかは、朝青龍を始めとするモンゴル出身力士の双肩にかかっている、と言っても過言ではない状況だが、彼らの母国について、われわれはもっと関心を持つべきではなかろうか。果たしてわれわれは、モンゴルの人々が外国(ソ連)の保護国的状況から自由になるために払った犠牲の百分の一でも、日本が外国(米国)の保護国的状況から自由になるために払ってきたかと思うと、改めて忸怩たる思いにかられる。

しかし、モンゴルと同じことが、どうしてロシア・中国・旧ソ連領中央アジアでは起こっていないのでしょうか。
この疑問を解明する鍵は、エルベグトルジ首相がチンギス・ハーンの復権運動を推進しているところにあります。
チンギス・ハーンこそ、モンゴルの自由・民主主義を育む土壌を象徴する人物であり、モンゴル人の誇りの拠り所でもあった、ということなのです。

(2)アフガニスタン
2002年10月に、「タリバン治下のアフガニスタンは、政教一致体制だったのであって、到底「近代」ないし「現代」全体主義独裁国家とは言えない代物でした。タリバン崩壊後、アフガニスタンは現在事実上米国等の軍事占領下にありますが、アフガニスタンには資源もなく、一足飛びに自由・民主化に成功するとは到底考えられません。」と述べ(コラム#65)、2004年12月に至ってもなお、「アフガニスタンもイラクも専制的統治の下にあったイスラム国ですが、イラクよりも、人的・産業的インフラが未整備で、より部族社会であり、自由・民主主義に係る経験にもより乏しいアフガニスタンで、自由・民主主義化の重要なステップとして<カルザイを正式に大統領に選出した>の選挙が成功裏に実施できた」と述べた(コラム#561)ところですが、英米での報道ぶりに引きずられたとはいえ、まことにもって見識不足でした。
アフガニスタンは、考えようによっては、イラクよりも自由・民主主義に係る経験を積んだ国だからです。
ポイントは、2002年7月に開かれ、カルザイをアフガニスタン暫定政府の大統領に選出したロヤ・ジルガ(loya jirga=大集会)をどう見るかです。

(続く)

太田述正コラム#0634(2005.2.20)
<モンゴルの遺産(その3)>

モンゴルは、清の崩壊後の混乱に乗じて、ソ連の後見の下、1924年にモンゴル人民共和国として独立を果たします。
1928年に、ソ連によってモンゴルの最高権力者にすえられたチョイバルサン(Horloogiyn Choybalsan。1895??1952年)は、スターリンの意向を受けて、農業集団化とラマ僧粛清政策を遂行します(注3)。

(注3)このほか、モンゴルはブリャート・モンゴル族(以下「ブリャート族」という)のジェノサイドにも荷担させられた。スターリンによる迫害を逃れてソ連内のブリャート族の総人口の半数近い12万人が1928年までにモンゴル、更には内モンゴル、或いは満州国に脱出したが、スターリンは、モンゴルに逃げ込んだ4万人あまりのブリャート族のうち25歳以上の男性全員の逮捕・処刑をモンゴル当局に命じ、1929年から31年にかけて有無を言わさず実行させた。

しかし、次第にスターリン体制そのものに疑問を抱くようになったゲンデン(Peljidiyn Genden。1892??1937年)は、1932年に首相になると、自分がラマ教信徒であることを宣言し、農業集団化やラマ僧粛清政策を撤回し、共産党(モンゴルでは人民革命党)の国家に対する指導的立場を否定し、更にはソ連軍の駐留に反対し、モンゴルがソ連の保護国的立場にあることに反発し、ソ連を赤色帝国主義と非難したのです。激怒したスターリン(注4)は、1937年、ゲンデンをモスクワで処刑します。

(注4)失脚直前、モスクワでの宴席でのスターリンとゲンデンとの大喧嘩は有名。「ゲンデン、お前はモンゴルの皇帝になりたいのじゃないか」(スターリン)、「血だらけのグルジヤ野郎、貴様こそロシアのツアーになったつもりじゃないのか」(ゲンデン)というやりとりの後、ゲンデンはスターリンの高価なパイプを叩き落とした。

これ以降、スターリンによって実権を回復してもらったチョイバルサンは、小スターリンとして、ラマ僧・富農・反体制派等を対象に、自民族に対する大粛清(ジェノサイド)を実行します。当時人口70数万のモンゴルで、実にラマ僧17,000人を含む約10万人、すなわち成人男性の2??3人に1人が虐殺されたのです。
この大粛清に反対した首相のアマール(英語表記及び生年不明)は、1939年、ソ連に拉致され、処刑され、その墓所すら定かではありません(注5)。
(以上、http://en.wikipedia.org/wiki/Mongoliahttp://en.wikipedia.org/wiki/Peljidiyn_Gendenhttp://en.wikipedia.org/wiki/Horloogiyn_Choybalsanhttp://en.wikipedia.org/wiki/Yumjaagiyn_Tsedenbal(いずれも2月19日アクセス)、及び吉田勝次「アジアの民主主義と人間開発」日本評論社2003年第3章1、も参照した。)

(注5)ソ連での裁判の際のアマールの発言を紹介しておく。「私は無罪である。・・モンゴル人民共和国が独立国であると言うならば、なぜ私はソ連の法廷で裁かれなければならないのか。私はモンゴル人民共和国の市民である。私を裁くことのできる法廷はモンゴルの法廷であって、ソ連の法廷でない。・・チョイバルサン元帥を抹殺せよと指示したという主張は嘘である。私がチョイバルサンを憎んでいることは本当である。彼がわがモンゴルの人民の虐殺を組織しているからである。私はソ連邦もソ連共産党も好きではない。私はモンゴル人民を愛している。同じようにロシア人民に同情を寄せている。私は決して共産主義者とその政府を信じたことはない。なぜならば、彼らは他の大国と同じように、モンゴルを植民地化すると言う政策を押し進めているからである。・・モンゴル人民共和国に反革命集団など存在しない。全ての調査はモンゴル人の虚偽の自白にもとづいてデッチ上げられた残忍なものだ。被疑者はすべて無実である。これが真実なのである。」

(続く)

太田述正コラム#0633(2005.2.19)
<モンゴルの遺産(その2)>

3 モンゴル・イスラム・民主主義

 (1)イスラム
 ここで、モンゴルとイスラムとの違いを民主主義の観点から押さえておきましょう。
 イスラムにもシューラ(Shura)という民主主義の萌芽形態があって、イスラムと民主主義は両立できる、という指摘(注2)がないわけではありません。
 (以下、カーン(Muqtedar Khan)の論考(http://www.ijtihad.org/shura.htm。2月18日アクセス)による。)

 (注2)例えば、Sadek Jawad Sulaiman(1996年。http://www.alhewar.com/SadekDemAndShura.htm)やJohn Esposito and John Voll(やはり1996年。Ijtihad上掲)。

 コーランには、「ことにあたっては、皆と協議せよ」(3:159)という一節と、「ことにあたって協議をする者は」(43:38)誉められるべきだ、という一節があり、これらがシューラの根拠になっています。
 前者はアッラーが直接ムハンマドに語ったことであるのに対し、後者は一般論の形をとっています。また、前者では協議(シューラ)はやらなければならないとしているのに対し、後者では協議(シューラ)はやった方がよいとしています。
 伝統的なイスラム法学者の大部分は後者を重視し、シューラは義務的なものではなく、必要に応じて意志決定を正当化する手段に過ぎない、と主張してきました。このように解釈すれば、彼らは、大衆討議にかけずにただちに法解釈を打ち出せるので好都合である、というわけです。
しかし、ムハンマド自身は、重要な意志決定の前には、必ずシューラを開きました。
ただし、ムハンマドはシューラの決定に従わなかったことが多く、シューラの決定に従って自分があらかじめ考えていた方針を改めたことは数えるほどしかありませんでした。従って、シューラの決定に拘束力がなかったことは明らかです。
 要するに、ムハンマド時代のシューラは、義務的なものだが拘束力はなかった、ということです。
 仮にシューラはそのようなものだとして、それは民主主義の萌芽形態だった、と言えるのでしょうか。
 答えは否です。
 第一に、以上申し上げたように、シューラの決定には拘束力がないのに対し、民主主義においては決定に拘束力が伴うからです。
 第二に、シューラは根本規範(コーランとスンナ)に変更を加えることができないのに対し、民主主義では根本規範(憲法)の改正を行えるからです。
 第三に、シューラは指導者が重要だと考えた議題がトップダウンで示されてこれを協議する場であり、シューラへの参加資格も明確でないのに対し、民主主義はボトムアップで大衆全体が参加して政治の仕組みを決定し、その仕組みに則って議題が設定され、意志決定がなされて行くシステムだからです。
 つまりシューラは、民主主義の萌芽であるどころか、民主主義と似て非なるものであって、(少なくともムハンマド時代の)イスラムが、民主主義と両立する余地はないのです。

 (2)モンゴル
 これに対し、モンゴルのクリルタイは、ハーンの選定以外にどんな場合に開催されるのか必ずしも明確ではなく、また、クリルタイへの参加資格もやはり明確ではないものの、(少なくともハーンの選定にあたっては)義務的に開催されるだけでなく、決定に拘束力がある、ということ(コラム#626)から、紛れもなく民主主義の萌芽形態なのです。

4 事例研究

 (1)現在のモンゴル
(以下、http://www.nytimes.com/2004/12/25/international/asia/25mongolia.html?pagewanted=print&position=(2004年12月26日アクセス)にに私見を加味した。)
 現在のモンゴルが、中国とロシアという、巨大な自由・民主主義ならざる両国に挟まれているにもかかわらず、複数の政党が参加する選挙が行われている自由・民主主義国家であることは、驚異です。
広く、中央アジア諸国を見渡しても、自由・民主主義国家は一つもありません。
そもそも、ソ連が崩壊するまでは、モンゴルはソ連の保護国であり、ソ連の一部であった中央アジア諸国同様、共産主義独裁体制の下にあったことを考えれば、これは奇跡であると言っても良いかもしれません。

(続く)

太田述正コラム#0626(2005.2.12)
<モンゴルの遺産(その1)>

1 始めに

以前(コラム#346で)「モンゴルは帝国内において、(中央政府の利益に反する場合を除き、地域ごとの法の多様性を許す形での)法の支配を確立し、信教の自由を保障し、拷問を廃止し、自由貿易をもたらし、外交特権の考え方を樹立し、メリトクラシーを実現しました。そして、このようなモンゴル帝国で、史上初めて紙幣が発行され、郵便制度が生まれ、印刷、火薬、羅針盤、算盤といった革命的技術が帝国内外にあまねく普及し、レモン、人参、お茶、トランプ、ズボン(それまで欧州にはなかった)といった帝国内の一地方の産物が世界に広まりました。まさに、近代はモンゴルに始まる、と言っても過言ではありません。」と記したことがあります。
この際、もう一つ付け加えておきましょう。
モンゴルには民主主義の萌芽形態が見られた、という点です。
すなわち、重要な国事について、チンギス=ハーン(Jenghiz Khan)の一族やモンゴルの有力者が参加して聞かれたクリルタイ(Kuriltai=大会)です。重要な国事は、対外遠征、法令頌布、そして新ハーン(汗)の選定・即位でした(http://www.tabiken.com/history/doc/F/F181L200.HTM。2月11日アクセス)。

2 モンゴルの遺産

以上のようなモンゴル「文明」は、濃淡はありますが、モンゴルの支配下に入った地域で受け継がれて行くのです(http://members.tripod.com/~whitebard/ca7.htm。2月11日アクセス)。
モンゴルに完全に支配された期間が(南宋滅亡の1279年から元滅亡の1368年までの)90年弱と比較的短かった支那や、長期にわたってモンゴルの支配を受けたけれども間接統治にとどまったロシアが、十分モンゴル「文明」を身につけることができなかったのは、残念なことでした(注1)。

(注1)ただし、モンゴル「文明」は、支那とロシアに意外な影響を与えた。唐が滅亡してから、三世紀半以上分裂状態が続いた支那は、元滅亡後もその後の歴代王朝・政権が、元の統治制度を参考にすることによって、基本的に分裂を回避しつつ現在に至っている(members.tripod上掲)。またロシアは、モンゴルの間接統治を徴税を請け負う形で担ったモスクワ公国が起源であり、同公国による苛斂誅求の統治がロシア的統治の原型となった(http://history.dot.thebbs.jp/1059246930.html。2月11日アクセス)。
    このほか、モンゴルの負の遺産として、既に名目だけの存在になっていたとはいえ、モンゴルによる1258年のアッバース朝の滅亡により、正統カリフが途絶え、アラブ人は求心力と活力を失ったまま現在に至っていることが挙げられる。

他方、(モンゴル発祥の地であるモンゴル高原は別格として、)16世紀初頭頃まで長期にわたってモンゴル(チムール帝国を含む)の支配を受けた中央アジアにおいて、上述したモンゴル「文明」の遺産は比較的良く受け継がれて行くのです。

その中央アジアでのモンゴルとトルコ系民族との出会いには運命的なものがありました。
チンギス=ハーンから数えて第四代目のモンケ(Mongke。ハーン在位1251??59年)がハーンに即位する頃までに、中央アジアからアナトリア半島にわたって居住していたところのトルコ系民族の大部分がモンゴルの支配下に置かれます。
トルコ系の人々は、モンゴル軍の主力を構成するようになるとともに、モンゴルの行政官の大部分を占めるようになり、モンゴルの強い影響を受けます。逆に、(支那地域を除いて)モンゴル人はトルコ語を使うようになり、また、トルコ系が既に信奉するに至っていたイスラム教に帰依する、という具合に、トルコ系もモンゴルに強い影響を与えます。
(以上、members.tripod上掲による。)
遺憾ながら、イスラム教には、長期的にはいかなる文明と言えども萎えさせてしまう傾向があり(コラム#24)、イスラム教に帰依したモンゴル人は次第にモンゴル「文明」を忘れ、また、以前からイスラム教信徒となっていたトルコ系も、接触初期においてモンゴル「文明」から受けた影響から次第に脱して行くのです。

(続く)

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