カテゴリ: 地政学

太田述正コラム#5740(2012.9.23)
<地政学の再登場(その6)>(2013.1.8公開)

 古き時代の美学がカプラン氏に偏見を抱かせている。
 彼は、熱帯性気候は<人々を>無気力にすると考え、無秩序で落ち着かない(vibrant)「ラテン的」諸習慣を好まない。
 この本の最もできのよい何頁かの中で、彼は、米国の将来は、「ポリネシア的メスチゾ文明」としてしか展望はないとし、だから、イラクやアフガニスタンよりもメキシコを「何とかする(sort out)」方が重要だということになる、と主張する。
 彼は正しいのかもしれないが、彼には、メキシコが自分で自身を何とかする、という発想はなさそうだ。
 <それはともかく、>歴史というものを理解している読者全員を最も落胆させる点は、カプラン氏が中共とイランに関しては地理の論理に従わないことだ。
 彼は、中共が抱いているところの、東シナ海と南シナ海を排他的に警邏するとの大望について、米国の重荷の若干を下す機会としてではなく、脅威と見ている。

→ここは、日本等の地域の自由民主主義諸国に米国の負担を肩代わりさせる機会、ということであれば、その通りです。(太田)

 <また、>彼は、イランの数多の海岸線、石油資源、及び、イランが高原であることによって<外敵から>保護されていることが、イランを<この地域の>「枢軸」にし、無敵にしていると考えつつも、<そんな>イランとの宥和については病的なほど慎重だ。

→ここは、反対です。
 宗教原理主義的にして侵略的な専制国家である現在のイランとの宥和などあってはならないし、ありえないからです。(太田)

 同じ近視眼が、ローマ皇帝ヘラクレイオス(Heraclius)<(注13)>をして、両帝国を打ち負かした侵略者達に直面してさえ、ペルシャと提携することを妨げせしめた。

 (注13)ヘラクレイオス1世。575?〜641年。アルメニア人。「東ローマ帝国中期の皇帝(在位:610年〜641年)。ヘラクレイオス朝の開祖。・・・サーサーン朝ペルシア帝国との6年にわたる戦いに勝利し、奪われた領土を回復したものの、当時勃興してきたイスラム帝国に敗れ、サーサーン朝から奪い返した領土は再び失われた。・・・彼の治世は、東ローマ帝国の公用語がラテン語からギリシア語へ変わり、軍事権と行政権が一体化したテマ(軍管区)制が始まるなど(テマ制の起源に付いては諸説あり)、古代のローマ帝国から「キリスト教化されたギリシア人のローマ帝国」と呼ばれるような、ギリシア的要素の強い中世ローマ帝国の幕開けとなった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%82%B9

→ここは、同意です。(太田)

 米国も、前に、不必要な諸敵・・1898年にスペイン、1930年代に日本、1960年代にベトナム・・をつくったところ、<これら諸敵と戦争をした>結果は全て同じであ<り、失敗に終わ>った。
 
→米国人たる書評子が、前にも(コラム#5719で)示唆したように、米国は、米西戦争、太平洋戦争、ベトナム戦争を行うべきではなく、むしろスペイン、日本、北ベトナムと提携すべきだった、と主張していることは、高く評価すべきでしょう。
 なお、私は、米西戦争の米国によるフィリピン侵略部分に着目すれば、この三つの戦争は、米国による一つながりのアジア大侵略戦争である・・米西戦争は太平洋戦争へのプロローグ、(国共内戦や朝鮮戦争や)ベトナム戦争は太平洋戦争のエピローグ・・、ととらえるべきだと考えている次第です。(コラム#省略)(太田)

 さて、政策形成者達は、地理と文化の均衡点をどこに見出すべきなのだろうか。
 古い格言であるところの、文化「はヒト(chaps)に係るものであり、地理は地図(maps)に係るものである」に従えば、文化だ。
 我々は、几帳面にもヒポグリフ諸島<(注14)>を地図から抜き取ってきたが、<それに代わって>ヒト(people)を<地図に>入れ戻せ、と我々に伝えるところのカプラン氏は正しい。

 (注14)hippogriphs=Hippogriffs。サモアの東側に位置する、南太平洋におけるフランス領ポリネシアの諸島。
http://ejje.weblio.jp/content/%E3%83%92%E3%83%9D%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%83%95

 歴史と地理とは共存関係にあるのだ。
 我々は、<ヒトの>精神と知性について、それらを物理的世界の格子(grid)<、すなわち地理>と気概(grit)<すなわち文化>の中に位置づけることで最も良く理解することができる。
 ヒトは物理的世界に所属しているけれど、ヒトはそれに閉じ込められてはいるわけではないのだ。・・・」(A)

 「・・・カプランは、彼の地理の強調が、アイザイア・バーリン(Isaiah Berlin)<(注15)>が、その有名な1954年の論文、『歴史の必然性(Historical Inevitability)』の中で拒否したところの、決定論的思考の一種へと引きずり込む懼れがあることを否定しない。

 (注15)1909〜97年。「ユダヤ系の政治哲学者にして思想史家・・・ロシア帝政下のラトビア・リガ生まれ。・・・1915年、第一次世界大戦中に・・・父母とともにペトログラードに移る。1917年にロシア革命を目撃している。彼は1919年以降、イギリスに住むようになり、オックスフォード大学に進学。第二次大戦中は戦時勤務の要員として外務省に勤務。1957年に[オックスフォード大学の]社会・政治理論の教授に就任。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%82%B6%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3
http://en.wikipedia.org/wiki/Isaiah_Berlin ([]内)

 カプランは、フランスの哲学者のレイモン・アロン(Raymond Aron)<(注16)>が言うところの、「「確率的な決定論(probabilistic determinism)」の真実に根差した冷静な(sober)倫理」に賛同する。

 (注16)1905〜83年。「フランスの社会学者、哲学者。パリ生まれ。・・・高等師範学校卒業。・・・大学で教職に就いた。第二次世界大戦が始まると、イギリスに逃れた。戦後はフランスに戻り、フランス国立行政学院<等>・・・で教鞭を執った・・・。国際政治や戦争論に関する・・・議論を展開した・・・。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%AD%E3%83%B3

 カプランは、「鍵となる言葉は「確率的な」であり、<ヒトの>諸集団<の文化>と地勢(terrain)とに明白な違いがあることを認識しつつも、その違いを過度に単純化することなく、数多の可能性(possibilities)がありうるとの余地を残すところの、部分的ないし躊躇付きの決定論を信奉する」と言う。
 そして彼は、地理的現実を直感し、米国のバルカンへの関与を支持しつつもイラクへの関与に反対したところの、米国のリベラルな軍事介入論者達の智慧に言及する。
 かつてのユーゴスラヴィアは、かつてのオスマン帝国の最も進歩していたところの、中欧に隣接した最西端に位置していたのに対し、メソポタミアは、そのもっとも混沌とした最東端に位置していた。
 この事実が、現在に至るまでの<旧ユーゴスラヴィア諸国とイラクの>政治的発展に影響を与えてきたがゆえに、イラクに対する軍事介入はやり過ぎであったという結果にあいなったのだ、と。

→この後に、「しかし、これも、地理と言うよりは、文化が旧ユーゴスラヴィア諸国とイラクの現在の違いをもたらしたと見るべきだろう」といった文章を入れないと、この書評子の論旨が明確になりませんね。(太田)

 アングロサクソンは<アメリカ大陸に>建設するためにやってきたので極めて成功を収めたが、スペイン人は征服するためにやってきた<ので余り成功を収めなかった>。
 <つまり、>メキシコの地理が彼らを征服者(conquistador)にしたのではなく、彼らがいかなる者達であったかが彼らを<メキシコ征服に>おびき寄せたのだ。
 或いはまた、異なった出生率がイギリス系アメリカ大陸人が、十分な人口がなかったためにメキシコが支配的たりえなかった地に広くいきわたったことがアングロサクソンのこの地における支配を育んだ、ということを考えてもみよ。
 一体これは地理の産物なのか文化の産物なのか?
 仮に前者だとして、地理的決定論者は、この数十年に起こった<米墨の>出生率格差の逆転をどのように説明するのだろうか。
 <要するに、北アメリカ大陸の>地理は何も変わってはいないけれど、<米墨の>文化的諸姿勢と習俗(mores)が変わった、ということなのだ。・・・」(C)

3 終わりに

 地政学の再登場は、やはり失敗に終わったと言ってよさそうですね。

(完)

太田述正コラム#5736(2012.9.21)
<地政学の再登場(その5)/私の現在の事情(続x26)>(2013.1.6公開)

 ・・・しかし、<このように、>地理に革命が起こったということがカプラン氏にはちっとも分かっていないようであって、彼のものの考え方は、時として、過ぎ去った時代の泥濘に足をとられているように見える。
 彼の最も見ものの突っ張りどころ(sally)は、支那が潜在的な超大国であって、例えば、ブラジルはそうではない、という主張だ。
 彼がそう考えるのは、支那は米国とほぼ似た緯度に位置しているからだ。
 この米中の類似点は、<大昔の>アリストテレスやストラボ(Strabo)<(注19)のような人々>なら、それで決まりだ、と思ったかもしれないが、現代の地理学者を頷かせることはあるまい。

 (注19)「ストラボン(ギリシア語: Στράβων / Strabon、ラテン語: Strabo, 紀元前63年頃 - 23年頃)は古代ローマ時代のギリシア系の地理学者・歴史家・哲学者。全17巻から成るギリシャ語で書かれた『地理書』(または地理誌、Γεωγραφικά, Geōgraphika)で知られる。この大著は、当時の古代ローマの人々の地理観・歴史観を知る上で重要な書物となっている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%9C%E3%83%B3

 彼は、「地理の遺産<だけに言及し>、歴史と文化の遺産」については口を拭ってしまう。
 本当に自分の主張を通そうとするのなら、この3者の相互関係を解明する必要がある、ということに彼が気付いているようには見えない。
 意思決定者達は、例えば、地理の諸効果が文化の諸効果と見分けがつかないとすれば、地理が最も重要であることを認めはしないだろう。
 現代風の地理学者達は、しばしば自分の話題を文化的構成概念(cultural construct)的に提示する。
 いくつかの文化は海を障害と感じ、他の文化は機会と感じる。
 いくつかの文化は山を貧しくするものであると憎み、他の文化は安全に資すると山を抱懐する。
 いくつかの文化は寒さを好み、他の文化は暑さを好む。
 そうなると、一体、どちらが主要な影響力を有するのだろう。
 物理的環境なのか、はたまた、どのようにそれを文化が料理するか(make of it)なのか。

(続く)
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           --私の現在の事情(続x26)--

 歯痛とパソコンの不具合のダブルパンチで、本日、せっかく歯痛の方はほぼ解消した・・そのため、歯医者に行くのを忘れてしまった・・というのに、パソコンが朝0930頃に到着し、インターネット作業をやりながら、新しいパソコンを立ち上げ、古いパソコンからデータを回収しては新しいパソコンに入れ込むという作業を並行してやったので、すっかり疲れてしまいました。
 私のWindowsデスクトップパソコン歴は、ゲートウェー→エプソン→デル→デル(昨年5月購入)→エプソン、というものです。
 今回、大慌てに慌てて、たまたまメールが届いたというだけの理由で、久しぶりにエプソンに発注したのですが、届いてみて分かったのは、ディスプレーが、デルより一つ小さい寸法だったことであり、それがちょっぴり残念です。
 その代わりというか、ハードディスクは二つ目を内蔵させたので、これで心置きなく、「一人題名のない音楽会」のユーチューブ動画のダウンロードができることでしょう。
 新しいパソコンについては、後残っているのは、無線LANの設定・・デルに今回の引っ越し直後にサービスで提供された(無線LAN一式中の)子機がUSB端子に差し込まれているところ、それを使いまわす予定・・とプリンターのドライバーのインストール、プラスアルファくらいです。

 練馬のマンションのリフォームについては、15日の土曜日に、再び、太田コラムの読者一家と現地に赴き、清掃も含めて全て終わった姿を確認してくるはずだったのですが、その場で、新たに二つ不具合が発見されたため、まだ終わっていません。
 いずれ、まとめてご報告させていただきます。
 そんなもん、面白くなさそうだなって?
 いやいや、結構面白い、と少なくとも私は思ってますよ。

 歯痛の関連で、(捨てようと思っていた、)「学士会報」の別冊『U7』(vol45)掲載の、恵比須繁之阪大副学長の講演録である「口福を求めて--口を介しての健康生活」を読みました。
 お話は、虫歯にもちょっと触れているけれど、もっぱら歯周病についてであり、印象に残ったのは、歯周病に有効な抗生物質の開発がどうしてむつかしいか、という点についてです。
 (「虫歯と歯槽膿漏の完全予防薬ができて基本的に歯医者という職業がこの世から消滅する日が早く来ないかなあ」とコラム#5715で書いたばかりでしたね。)
 恵比須さんによると、歯周病の原因である歯垢(プラーク)はバクテリアの集合体であるバイオフィルム細菌であるところ、抗生物質に対する抵抗性において、バイオフィルム細菌は(単独でバラバラに存在している)浮遊細菌の1000倍なのだそうです。(35頁)
 なんだか、日本人の支那人や朝鮮人に対する優位性みたいな話だと思いました。
 また、バクテリアの数は、皮膚の表面は1平方センチ当たり1000くらい、鼻の粘膜では10万くらいであるのに対し、歯の表面は1000億くらいにものぼるのだそうです。(37頁)
 フレンチキッスなんてのを恋している男女は平気でやってのけますが、これこそ、まさに、性的興奮をすると3K作業を厭わなくなる(コラム#5723)ということの、最たる事例でしょう。

太田述正コラム#5734(2012.9.20)
<地政学の再登場(その4)>(2013.1.5公開)

  ウ アフガニスタン

 「・・・アフガニスタンとパキスタンは同じ運命を分かち合っている。
 というのも、アフガニスタンとパキスタンの間には実質的に自然境界が存在しないからだ。
 確かに、アフガニスタンは、多かれ少なかれ、砂漠の高台の上に鎮座しているのに対し、パキスタンは湯気の立つ低地たるインダス河渓谷の里だ。
 しかし、高台からインダス河への下降は極めて緩やかであり、実質的な明確な境界は存在しない。
 ・・・だから、この境界を巡羅するのは、まことにもって容易ではない。
 そして、それに加えて、パシュトン人(Pashtun)<(注13)(コラム#561、636、680、2378、3238、3242、3269、3741、3749、4206、4307、4827、5118)>がいる。
 境界の片側だけにではなく、両側に数多く住んでいるインド=イスラム系の人々であり、そのため、この境界は、一層人工的なものとなっている。

 (注13)その居住地域が分る図。↓
http://en.wikipedia.org/wiki/File:Areas_pachtun.jpg

 だから、いわゆる、パキスタンからアフガニスタンを分離し、二つのうまく機能する国家をつくる、という目標を達成するのは極めて困難なのだ。、
 アフガニスタンとインド亜大陸の地図を眺めれば、実質的な境界は、アフガニスタンとパキスタンの辺境にではなく、アフガニスタンの真ん中にあることが目に入るだろう。
 その境界とは、ヒンズークシュ(Hindu Kush)山脈<(注14)>だ。

 (注14)「主にアフガニスタン国内を北東から南西に1200kmにわたって延びる山脈。一部はパキスタン西部にも広がる。」地図も参照できる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%B3%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A5%E5%B1%B1%E8%84%88

 ヒンズークシュの北側にはタジク人とウズベク人がおり、南側にはパシュトン人がいる。<(注15)>

 (注15)[主要民族](2003年推計)
   パシュトゥーン人、45%、言語パシュトー語、宗教ハナフィー派スンニー
   タジク人 32%、言語ダリー語、タジク語、宗教ハナフィー派スンニー、イスマイール派シーア(北部の若干)
   ハザラ人 12%、言語ハザラギ語(ダリー方言)、イマーム派シーア、イスマイール派シーア、スンニー(極少数)
   ウズベク人 9%、言語ウズベギ語、トルコ語方言、宗教ハナフィー派スンニー
   トルクメン人、言語トルコ語方言、宗教ハナフィー派スンニー
     [言語]
   パシュトー語 30%
   ダリー語(ペルシャ語) 55%以上 大体のアフガニスタン人は皆ダリー語(ペルシア語)を理解する。
   テュルク諸語 11%
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%95%E3%82%AC%E3%83%8B%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3

 北側、すなわち、北部アフガニスタンでは、タジク人、ウズベク人、そしてトルクメン人の間に多かれ少なかれ平和が保たれており、更に北のタジキスタンとウズベキスタンとの間で交易や人的接触が次第に密になってきている。
 換言すれば、アフガニスタンの南部と東部が次第に境界の向こう側のパキスタン内のパシュトン人と混じり合うようになったとしても、一種の、大タジキスタンと大ウズベキスタンが将来、次第に形成されるかもしれないのだ。・・・」(E)

→ほんの少しでもアフガニスタンやパキスタンについて知っている人ならば思い至るであろう、陳腐な、と言って悪ければ、常識の域の言説です。(太田)

 (4)カプランに対する批判

 「・・・カプラン氏の歴史に係る一般論は、知識不足のくせに大胆過ぎる。
 彼は、例えば、20世紀においては、「分裂した国・・・においては、統合への力が最終的には勝利を収める」と考えているが、かつてのチェコスロヴァキア、ユーゴスラヴィア、ソ連の住民達を驚かせることだろう。
 <また、>彼は、ハーバート・アダムス・ギボンズ(Herbert Adams Gibbons)<(注16)>の断定である、「欧州のいかなる部分であれ、アジアから征服されることはない」を受け入れているが、明らかに、ゴート(Goths)<(注17)、フン、マジャール、ブルガル(Bulgars)<(注18)>、そしてモンゴルはそんな障害に気付いたふしはない。

 (注16)1880〜1934年。米国の著述家。
http://en.wikisource.org/wiki/Author:Herbert_Adams_Gibbons
 著作リスト。
http://www.unz.org/Author/GibbonsHerbertAdams

 (注17)ゲルマン人たるゴート人がどうしてアジア出身ということになるのかだが、彼らは、ドナウ河からボルガ河、そして黒海からバルト海、という広大な地域に居住するに至っていたからだ。そこへ、4世紀末にフン(匈奴)が東から侵攻して来たため、ゴート人の一部がドナウ河を渡って、ローマ帝国領内に侵入し、これを契機に、いわゆるゲルマン人の大移動が始まった。
http://en.wikipedia.org/wiki/Goths
 (注18)「ブルガール人(Bulgar)は、・・・テュルク系遊牧民である。人種はかつてモンゴロイドに属していた。・・・
 ブルガール人の先祖は2世紀頃にウラル山脈以西および中央アジア西部からヨーロッパ大陸の東部に姿をあらわし、カスピ海と黒海の間に広がる草原地帯で遊牧生活を送るようになった。一部はこの地域でフン人の西進に加わり、東ヨーロッパに移動した・・・
 バルカン半島のドナウ川下流域からトラキア地方に侵入した一派はブルガリア帝国を建国、キリスト教の正教会信仰を取り入れ、先住の南スラヴ人に言語的に同化されて現在のブルガリア人の先祖となった。そのためプロト・ブルガリア人ともいう。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AB%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%83%AB%E4%BA%BA

 <また、>カプラン氏の地理に係る観念は古すぎる。
 彼は、地理を、空間と地勢(topography)と、少しだけだが、緯度の組み合わせと見ているが、過去50年前後の環境科学の進展が彼の目に入っていないようだ。
 エコロジーに由来するさまざまな洞察は、我々の過去の見方に革命を起こしつつあり、いかに戦争、経済、そして国家や文明の運命が、地球温暖化や冷却化、地域的気候システムの変動、地震による破壊、そして種の絶滅、といったことの影響をこうむってきたかを、歴史家達に認識させた。
 今では、我々は、人類が、その一部であるところの、エコシステム群にはめ込まれていることを知っている。
 我々は、自分達を、我々を取り巻く気候やその上を我々が移動するところの土壌や海、の文脈の下でのみ理解することができるのだ。

(続く)

太田述正コラム#5732(2012.9.19)
<地政学の再登場(その3)>(2013.1.4公開)

 (3)各論

  ア 米国

 「・・・カプランは<北米で>新しい国家<が生まれる>という考えを提示する。
 米国は、21世紀中に、東から西に向かって、人種的には色白の大西洋から太平洋に至る温帯において、ではなく、北から南に向かって、つ まり、カナダからメキシコに向かって、ポリネシア的メスチゾ(mestizo)<(注11)>文明が現実には出現する、と信じている、 と。・・・」(C)

 (注11)ラテンアメリカで、インディオとスペイン人との混血。
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/217433/m0u/

→書評子による批判を後で紹介しますが、メキシコ「文明」が米国(+カナダ?)「文明」に吸収されて跡形もなくなる可能性はあるかもしれません が、両者が融合してあらたな「文明」が誕生することなど、およそありえない、と言わざるをえません。(太田)

 「・・・米国の地図を見て欲しい。
 米国の東岸にどんなにへこみがあり、複雑であるかを。
 北東部は、無数の良い自然港だらけだ。
 それが、13の植民地が形成されることができた理由の一つだ。
 今度は、アフリカの沿岸全体を見て欲しい。
 それはそれは大きいけれど、比較的自然港は少ない。
 それがアフリカの発展を妨げたのだ。・・・
 米国人達は、自分達が生来的に偉大な人々であるからだ、自分達は偉大な民主主義国家だからだ、と思いたがる。
 しかし、米国人が偉大な人々であるのは、彼らがたまたまどこに住んでいるかにもよる、と私は主張したい。
 彼らは、温帯の最後の、大きくて資源が豊富な部分に住んでいるのだ。
 しかも、温帯の大きな一塊であるだけでなく、内陸に長大な水路を持ち、それらは、南北間を流れるが故にロシアを分割しているロシアの河とは違って、東西間を流れている。・・・」(E)

→すべて、全くのこじつけだ、と言うほかありません。(太田)

  イ ロシア

 「・・・ロシアの絶えることなき草の生えた草原は、欧州からはるか極東まで続き、軍隊や遊牧民の群れによる浸食を阻害する山地も海辺も大きな森もないことが、襲撃の防止策として領域をコントロールする必要性に関する国家的強迫観念を育んできた。・・・
 それは、最初のロシア人であるキエフ・ルス人によって9世紀以降共有された。・・・
 ・・・彼らは、自分達の帝国が崩壊し、18世紀中頃にエカチェリーナ大女帝<(注12)>が出現する以前において、ロシアが最もちっぽけな存在へと縮んでしまうのを眺めた。・・・

 (注12)エカテリーナ。1729〜96年。皇帝:1762〜96年。「ロシア帝国の領土を大きく拡大し<た。>」と日本語ウィキペディアにも ある
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%AB%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%8A2%E4%B8%96
が、下掲のロシア拡大推移図
http://www.britannica.com/EBchecked/media/3392/Russian-expansion-in-Asia
を見ると、彼女の治世を含む、1689〜1801年の間の拡大は、面積的には決して大きくない。西方に拡大した点を過大に評価する点で欧米中心的である、と言ってよいのではないか。

→これは、常識的に、これまで唱えられてきた話であり、目新しさはありません。(太田)

 頗る付きにドイツ系の皇帝、フランス語を話す貴族、欧州的首都サンクト・ペテルブルグにおけるブルジョワ的議会、からなるアンシャンレジーム は、農民達がそうではなかったというのに、西側を向いていた。・・・」(C)

→カプランや上記日本語ウィキペディアの執筆者を嗤えないのであって、当のロシア人の支配層は、ひたすら西側に恋憧れていたわけです。(太田)

(続く)

太田述正コラム#5730(2012.9.18)
<地政学の再登場(その2)>(2013.1.3公開)

 (2)地政学の歴史

 「・・・この本の第一部は、一世紀から数十年前にかけての大地政学者達のプロフィールを描いている。
 その物の考え方が心を乱すと同時に魅惑的であるところの、ハルフォード・マッキンダー、ニコラス・スパイクマン、アルフレッド・セイヤー・マハン、その他についてだ。
 この本の第二部では、彼らの智慧が、今日の欧州、ロシア、支那、インド亜大陸、イラン、トルコ、アラブ世界、そしてメキシコの様々な出来事に適用されている。・・・」(B)

→ここに日本が列記されていないことは、衝撃的ですらあります。(太田)

 「・・・ヘロドトスは、ギリシャとペルシャの間の累次の戦争を論述したが、それは地理的決定論と人間による決断との均衡がとれた論述であったと ころ、これはカプランが復活させようとしている感受性<が何であるか>を示すものだ。
 環境は、文化と慣習を形成するだけでなく、諸決断が一時の感情にとらわれてしばしばなされるところの、文脈を設定する。・・・」(D)

 「・・・マッキンダーは、欧州の没落と累次の世界大戦だけでなく、冷戦の概要すら予言した。・・・
 例えば、米国における最も頑固な冷戦のタカ派であったコラムニストのジョセフ・アルソップ(Joseph Alsop)<(注7)>や保守派の地政学的分析家のジャームス・バーナム(James Burnham)<(注8)>が、あの<東西の>大対峙をマッキンダー的枠組み(terms)で眺め、西側の運命を悲観視する傾向があったのは驚くべきこ とではない。
 1947年にハーヴァード大学で行った講演の中で、アルソップは、「・・・我々は最終的には敗北するかもしれない…しかし、単に降伏して死ぬよ りは、懸命に闘って敗北した方がよい」と語ったものだ。・・・」(C)

 (注7)1910〜89年。米国のジャーナリスト・コラムニスト。母親はセオドア・ローズベルトの姪。ハーヴァード大卒。フライング・タイガース(Flying Tigers)(コラム#2982、3771、5455)に加わり、日本軍の捕虜になったことがある。
http://en.wikipedia.org/wiki/Joseph_Alsop
 (注8)1905〜87年。米国の哲学者・政治理論家。プリンストン大学卒、オックスフォード大留学。左翼から右翼に転向。
http://en.wikipedia.org/wiki/James_Burnham

 「・・・砂漠で囲まれた肥沃な河に沿った孤立が敵を寄せ付けないことによってエジプトを形成したのに対し、メソポタミアではいいように貪られる という脆弱性が続いた。
 両方とも専制的で官僚制的な体制を発展させたが、イラクは安全保障の欠如によって鍛造されたところの、より暴虐的な政治文化を持った。
 マクニール(<William> Macneil)<(注9。コラム#1023、1028)>は、ギリシャ、インド、そして支那の三つは独特の文明を発展させたところ、遠く離れていたことで、支那は別個の道を歩んだの対し、ヘレニズムと中東とインドの各文明の間の辺境の頻繁な移動は、ギリシャ、インド、そしてその両者の間の地域の 間で微妙な文化的均衡をもたらした、と叙述した。

 (注9)1917年〜。カナダ生まれの世界史家・著述家。シカゴ大学士・修士、コーネル大博士。シカゴ大名誉教授。
http://en.wikipedia.org/wiki/William_Hardy_McNeill

 マクニールの、この相互作用に焦点をあてた物の見方は、オズワルド・スペングラー(Oswald Spengler)の『西洋の没落』やアーノルド・トインビーのより楽観的な論述でお馴染みの、諸文明が別個に発展したとの見方に挑戦したものだ・・・。
 ナチスドイツが地政学を征服に奉仕させたことがこの分野の祖であるハルフォード・マッキンダーの評判を汚したが、現在でも彼の物の考え方の有効性は否定し難いものがある。
 カプランは、地理は、人間と社会が活動する文脈を設定することで歴史の枢軸として機能する、と主張する。
 地理は、砂漠、山、永久凍土といった障壁と同時に、河、渓谷、草原といった経路を形成する。
 海は、障壁と経路の両方なのであって、守りの袋小路ともなれば、移動の高速道路ともなる。
 ・・・マッキンダー<自身も>、環境決定論者であるどころか、地理的諸限界を理解することで、それらを克服する方法が指示される、と考えてい た。
 ・・・カプランは、決定論の静的な諸仮定とは完全に反対に、彼の地理の役割についての見方は動的な性質を持っている、と主張する。
 テクノロジーは、人間のイニシアティヴの一形態だが、環境を改変してきた、
と。・・・
 マッキンダーとカール・ハウスホーファー(Karl Haushofer)<(コラム#239、240)>のようなナチの理論家達は、ユーラシアのハートランドに焦点をあてたのに対し、オランダ生まれの米国 人たるニコラス・スパイクマンは、海軍力をリムランドから投入するという優位を、地理が米国に与えた、と主張した。
 この、温帯性気候と豊かな資源の組み合わせが、西半球に対する効果的な覇権とあいまって、米国に、東半球における力の均衡の調整のために力を割 く余裕を与えた、と。
 米国の位置が、南米には欠けているところの、米国に欧州へのアクセスを与える一方、アマゾンと北極圏が安全保障上の緩衝地帯を作り出している、 と
も。・・・
 かつて1890年に、アルフレッド・セイヤー・マハンは、海上力(sea power)についての歴史的論述を上梓したが、それは今なお、支那とインドの戦略家達の間で鳴り響いている。

→ここでもマハンが日本の帝国海軍に与えた影響に触れていないのは困ったものです。
 「日本においてマハンの著作・思想の紹介・導入・応用に関わった人物として、金子堅太郎・肝付兼行・小笠原長生・佐藤鉄太郎・寺島成信がい た。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%BB%E3%82%A4%E3%83%A4%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%8F%E3%83%B3
とあるうちの、二番目から四番目までは海軍軍人で五番目は海軍文官経歴のある経済学者です。一番目は有名な官僚・政治家であり、マハンの影響力の 大きさが推し量れます。

 それは、セオドア・ローズベルトとドイツのウィルヘルム2世とともに、スパイクマンにも影響を与えた。
 18世紀の累次の戦争の間、敵の艦隊を撃破することによって海をコントロールする能力のあった英国は、英国の諸条件の下で海上交易を確保するこ とと、フランスをして沿岸からの攻撃に脆弱であり続けるさせることとが可能となった、とマハンは論じた。
 マハンの同時代人たるジュリアン・コルベット(Julian Corbett )<(注10)>は、この分析を精緻化し、弱い艦隊でも数的に強力な敵と、その基地を攻撃し、枢要な戦略要衝をコントロールすることで効果的に競うことができる、
と主張した。

 (注10)1854〜1922年。英国の海軍史家・地理戦略家。ケンブリッジ大卒。
http://en.wikipedia.org/wiki/Julian_Corbett

 このようなやり方(leverage)は、20世紀初頭の英国のように、広汎なコミットメントに限られた手段で対処することを強いられていた国 に適している、と。
 海軍連合の構築や、地上作戦に影響を与えるための沿岸海域におけるプレゼンスの維持は、遠洋艦隊に伍していくことへの代替策を提供する、 と。・・・
 <また、>スパイクマンは、統合された欧州が米国にとって手ごわい競争相手になるかもしれない、と警告していた。・・・」(D)

 「ウィンストン・チャーチルは、「我々は建築物を形作り、その後、我々の建築物が吾々を形作る」と述べることで、空間と人間の活動の間の共存関係を記した。・・・」(D)

→この文脈の中でチャーチルを登場させたのはいかがなものでしょうか。
 チャーチルは、広壮・華麗なブレナム宮殿で生まれた自分自身
http://en.wikipedia.org/wiki/Winston_Churchill
について語っているに過ぎないと私は思います。(太田)

(続く)

太田述正コラム#5728(2012.9.17)
<地政学の再登場(その1)>(2013.1.2公開)

1 始めに

 「地政」を超越するところの空軍が登場して以来、地政学はおよびではなくなった、というのが私の考えであることは長く太田コラムを読んでこられた方はご存知でしょうが、このたび、ロバート・D・カプラン(Robert D. Kaplan)(コラム#2555)が 'The Revenge of Geography--: What the Map Tells Us About Coming Conflicts and the Battle Against Fate' を上梓し、久方ぶりに 地政学の話題を米国で再登場させたので、さっそく、その書評等をもとに、この本を俎上に載せることにしました。

A:http://online.wsj.com/article /SB10000872396390443686004577633490631541260.html?mod=WSJ_Opinion_MIDDLETopOpinion
(書評。9月13日アクセス)
B:http://www.globalpeacesupport.com/2012/06/robert-d-kaplan-on-his- new-book-the-revenge-of-geography/
(本人によるこの本の紹介。9月17日アクセス)
C:http://nationalinterest.org/print/bookreview/the-revenge-kaplans- maps-7345
(書評。同上)
D:http://www.theamericanconservative.com/articles/the-map-to-power/
(同上)
E:http://www.rferl.org/content/robert-kaplan-geography-fate-nations /24704951.html
(本人へのインタビュー。同上)

 カプランには、同名の2009年の論考(全文↓)
http://www.colorado.edu/geography/class_homepages/geog_4712_sum09/materials/Kaplan%202009%20Revenge%20of%20Geography.pdf
がありますが、恐らく、この論考を発展させて本にしたと思われます。

 なお、カプランは、1952年生まれでコネティカット大学卒のユダヤ系米国人たるジャーナリストであり、イスラエル軍勤務や米国の新聞の海外記 者、米海軍兵学校客員教授等を経て、現在、米国のアトランティック・マンスリー誌 (Atlantic Monthly)の国内記者をしています。
 クリントン大統領が、カプランの本を読んで、ボスニアへの軍事介入を決意したという話は有名です。
http://en.wikipedia.org/wiki/Robert_D._Kaplan

2 地政学の再登場

 (1)序

 「地理はあなどりがたい敵だ。
 地理はナポレオンをロシアで、アレクサンドロスをインドで、カンビュセス(Cambyses)<(注1)>をサハラで、そして米国をベトナムで 破った。

 (注1)カンビュセス2世(〜BC522年)。「アケメネス朝ペルシア第2代の王(在位<BC>529年頃〜<BC>522年)。キュロス2世 の息子。<エジプトに遠 征したカンビュセスは>ペルシウムの会戦においてエジプト軍<を>壊滅<させ>、その後まもなく<首都>メンフィスは陥落した。捕らえられた<エジプ ト国>王プサムテク3世は反乱を試みたが処刑された。・・・エジプトに続き、カンビュセスはクシュ(・・・現在のスーダンに位置した・・・大国・・・) の征服を試みた。しかし、カンビュセスの軍隊は砂漠を横断することができず、 深刻な敗北を喫して帰還を余儀なくされた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%93%E3%83%A5%E3%82%BB%E3%82%B92%E4%B8%96

 巨大な距離と不慣れな環境が補給を妨げ、部隊の気力を奪ったのだ。
 地理はスペインの無敵艦隊の多くを沈め、日本をモンゴルから守った。
 しかし、地理は無敵ではない。
 コルテスは、メキシコを征服するために原住民の協力者を募ることで地理を克服した。
 その半世紀後、ムガール皇帝のアクバル(Akbar)<(注2)>は、テクノロジーを用いてラージプート(Rajput)<(注3)>のチット ルガール(Chittorgarh)の要塞を攻め、爆雷(explosive mine)でもってこの山上の城を崩した<(注4)>。

 (注2)アクバル大帝(1542〜1605年)。「ムガ<−>ル帝国の第3代君主 (在位1556年〜1605年)」。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%AF%E3%83%90%E3%83%AB
 (注3)「ラージプートの語は、サンスクリット語の「王子」を意味する rajaputraから生まれた言葉で、この語は、11世紀以後、北イン ドや西部インド のヒンドゥー系の王侯、戦士集団のカースト名称として使用されるようになった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%97%E3%83%BC%E3%83%88
 (注4)1567年にアクバルはムガール軍を率いてチットルガール要塞を包囲し、盛り土をしてその上に大砲と迫撃砲を据え、更に、爆雷を要塞の 石壁の下に埋めさせた上で、総攻撃を開始した。要塞は、包囲してから4か月目の翌1568 年に陥落した。
http://en.wikipedia.org/wiki/Akbar

 ホセ・サン・マルティン(Jose San Martin)<(注5)は、恐るべき豪胆さでもってアンデス<山脈>を突破し、1817年にチリを解放した。
 この本の中で、ロバート・カプランは、<地理に対する>尊敬と物とも思わぬ姿勢(defiance)との間の正しい均衡を求めようと試みる。・・・」(A)

 (注5)1778〜1850年。「アルゼンチンの軍人で政治家。南アメリカ各国をスペインから独立させるために活躍した。シモン・ボリーバルや、ホセ・アル ティーガスと並ぶ解放者として称えられている。・・・アルゼンチン<で>・・・スペイン系貴族であり、スペイン軍の軍人だった父の 子として生 まれる。7歳で家族とともにスペインに渡る。サン・マルティンは職業軍人とし ての道を進み、22年間スペイン軍で働いた。スペイン軍で は陸軍中佐まで昇進し、1811年にはスペイン軍の師団長にまでなったが、母国アルゼンチンでの独立 運動を耳にして、今まで築いた全ての地位を捨 てて帰国を決意する。・・・ 1817年初頭、亡命チリ人の独立指導者ベルナルド・オイヒンスらと共にメンドー サから出撃した北部軍は、スペイン軍の油断をついてアンデス山脈越えを行い、チャカブコの戦いに勝利。1月25日にサンティアゴに入城を果たす。チリの議会はサン・マルティンを執政官に選出したが、サン・マルティンはこの申し 出を断り、この戦いに協力したオイヒンスをチリの元首として指名した。その後 マイプーの戦いで再びスペイン軍を破ると、チリの最終的な独立が確定した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%82%BB%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3

 「・・・今日においても、地理は、過去の歴史を通じてそうであったように、世界の出来事の最も強力な操縦者の一つなのだ。・・・
 「・・・ある国家の地図上の位置は、その国を規定する最初の物であり、それはその国を支配している哲学より強力ですらある」<とカプランは言う。>
 実際、カプランは、国家の地理的位置がしばしばその国を支配している哲学に影響を与えることを示唆する。
 彼は、ロシアの領域的脆弱性がその国で「専制政治(tyranny)へのより大きな寛容」を大量に生み出した、との歴史家のG・パトリック・ マーチ(G. Patrick March)<(注6)>の言を引用する。

 (注6)Cossacks of the Brotherhood (American University Studies Series IX, History) (1990年)、Eastern Destiny: Russia in Asia and the North Pacific(1996年)という著作がある。
http://www.amazon.com/G.-Patrick-March/e/B001KI5H8G

 他方、英国は、「その境界内で安全であって、海洋的方向性を持っていたため、その隣人達よりも民主主義的制度を早く発展させることができた」と カプ ランは記す。・・・」(C)

(続く)

太田述正コラム#0240(2004.1.26)
<地政学の不毛性(その2)>

2 地政学の不毛性

 それでは、Fettweisの指摘に、私の見解を織り交ぜつつ、地政学の不毛性を論証しましょう。

 (1)地政学の終焉
 地政学にとって致命的なのは、ランドパワーの優位性が今やエアーパワーの優位性にとって代わられてしまったという点です。マッキンダーだけ19世紀生まれで世代が違うのですが、マッキンダーを含め、ハウスホーファーもスパイクマンも、エアーパワーの優位性が日本帝国海軍によって明らかにされた直後に相次いで亡くなっていることは暗示的です。
 エアーパワーの特徴は、陸のいかなる障壁によっても妨げられることがないところにあります。
 その後、全天候戦闘機が生まれ、ミサイル時代が到来し、更には航空機の航続距離が著しく延び、航空機が世界のどこへでも出撃して世界のどこの基地へでも戻って来ることが可能となり、エアーパワーの優位性が完全に確立しました。
 つまり、地政学(geopolitics=geography+politics=地理(学)+政治学)の「地理」によって制約をうけないパワーであるエアーパワーの優位性が確立したということは、「地」政学の終焉を意味する、ということです。
 地政学は、生誕後、わずか40??80年で寿命が尽きたわけです。

 (2)地政学の内在的批判
 さりとて、寿命が尽きる前までは地政学は有効だった、というわけでもありません。
 そもそも、要衝を占め、内線の利を活せるからといって、必ずしも有利であるわけではありません。ドイツにせよ、ロシアにせよ、それぞれ欧州亜大陸とユーラシア大陸の中央に位置していたことから、四方八方から敵に攻め込まれ、辛酸をなめたことの方が多いのです。

 また、地政学が新大陸を真正面から考慮に入れていないことも問題です。
 仮にある国が世界島(ユーラシア+アフリカ)全体を征服したとしても、それでも新大陸にまで更に食指を伸ばすことは至難の業だったはずです。

 地政学が、シーパワーとランドパワーの間で敵愾心を煽り立てがちだった点も問題です。(ニール・ファーガソンが第一次世界大戦への英国の参戦の必要性に疑問を投げかけていることを思い出してください(コラム#208)。)
 これをより一般化して申し上げると、国際政治の実態が複雑怪奇であるにもかかわらず、地政学の偏光メガネをかけるとこれが過度に単純化されて見えるため、政策決定者が地政学を信奉していたり、世論が地政学の影響を受けていたりすると、その国が対外政策に係る判断を誤る惧れがあった点が問題なのです。
 
 (3)地政学遡及適用の無意味性
 最後に、地政学を、地政学生誕以前の歴史の分析に用いることができるかどうかを考えてみましょう。
 そもそも、(2)でご説明したことからして、地政学誕生から終焉までのわずか40??80年間の短い期間ですら、地政学はものの役に立たなかったのですから、それ以前の時代に地政学を遡及的に適用してみるだけ野暮というものです。

3 残された課題

 それはともかく、地政学誕生以前は、果たして本当にマッキンダーが言うようにシーパワー(海軍)優位の時代だったのでしょうか。仮にそうだとしても、いつ頃から海軍優位の時代が始まったのでしょうか。(イギリスを含む)欧州以外の地域においてはどうだったのでしょうか。
 これは、将来の別稿にゆずることとしましょう。

(完)

785 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 :04/01/29 03:30 ID:WNdNAOaT
http://www.ohtan.net/
太田述正ホームページ

地政学批判があるです。
このスレの死亡宣告だす。さようなら。ありがとう。
786 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 :04/01/29 03:33 ID:4hCVuIRD
ん、キミは醤油使うなよ
787 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 :04/01/29 14:58 ID:hiriohgB
地政学が有用か不毛かは重要ではなくて、
地政学という考え方を元に行動している国が多いという事実が重要。

例えばカトリックの学者が日本を研究するのに、神道や仏教は
劣っているから研究しなくてよい、考慮しなくてよい。
と主張しているのと同じ。
788 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 :04/01/29 15:52 ID:68I/ni2c
>785

ランドパワーやシーパワーを、単純に軍事力だけの話と思っている時点で駄目駄目。
航空機がどんなに進歩しようとも、海上運輸の優位性は揺らがないのに。

789 名前:名無しさんお腹いっぱい :04/01/29 17:01 ID:DwtK6DU1
地政学=稚凄学
江田島必死だな(笑
http://66.102.7.104/search?q=cache:ssWiwoKPlXEJ:society.2ch.net/kokusai/+%E5%A4%AA%E7%94%B0%E8%BF%B0%E6%AD%A3&hl=ja&lr=lang_ja&ie=UTF-8

<F氏>
・・・米国のドルが基軸通貨を維持するか、欧州のユーロが基軸通貨の位置を奪い取るかの戦いで、これにより経済支配や世界の支配体制が大きく違うことになる。グローバル的な現在の経済状況では世界覇権は、金融制度を制することが世界を制することであるから、基軸通貨の支配はもっとも重要なことである。この意味では昔の地政学は時代遅れになっている。冷戦以前の地政学の限界を知るべきである。地政学から地経学へ現代は移行している。

地経学では「基軸通貨を制する者が、世界を制す」??????国際戦略コラムF
ですよ。

そして、この見方を日本はしないために、日本が世界覇権を取れないし、何の見解も無く、日本は円介入してドル維持に走ってしまうのですね。この重要さも見えない。米国に対して、交渉力ができるのに、それもしていないようである。

この基軸通貨はその流通範囲が重要であり、このため、ロシアと中国をどちかの通貨圏にできるかを欧米が争っているのですよ。特にロシアや中東の石油代金の決済をユーロにするかドルのままにするかの戦いですよ。

山本さんは経済的見方ができないために、おかしな見解になっているように感じる。戦闘能力では断然、米国が欧州や中ロより上ですし、その面では、米国は今後当分、軍事覇権(幕府体制)は続くはずです。欧州とロシア・中国が束になっても米国に軍事的には勝てない。

純粋に経済面でドルに魅力を感じなくなっているのが問題なのです。よって米国の問題ですよ。そこを狙って、ソラナやシラクは対米戦略を練っているように感じる。パウエルやグリーンスパンや米国金融資本のユダヤ人たちも、欧州との金融戦争を恐れているのです。

このため、シラクが中国で日本非難をした首相に謝罪させたのも、世界第2位の経済大国日本の動向も、この通貨戦争に大きなインパクトがあるためですよ。どちらにしてもこのため、日本が欧米の仲介をできるわけがない。

地政学より地経学をもう少し研究した方がいい。山本さん、近代地政学を網羅している本物の地政学・国際戦略研究家の奥山さんの本「地政学」をお読みください。スパイクスマン以降の地政学がわかりますよ。

太田述正コラム#239(2004.1.25)<地政学の不毛性>についても、意見がある。これは下記サイトに元本があるので見て欲しい。
http://www.ohtan.net/column/200401/20040125.html#0

地政学の見解は、私Fの見解と同じようであるが、新しい地政学が出てくる可能性があると見ている。エアーパワーや経済的な面を見た理論であり、主に米国の国際関係学からの地政学議論が面白い。

物資の輸送の安全確保、人を運ぶ航空機の安全確保と経済の根本である金融取引の安全確保、インターネットなどの情報網のコントロールをだれが行うか、どの通貨で行うかの戦いになるのでしょうね。

この論理構造を明らかにすることが重要なのですが、地理的要素も大いに関係していると感じる。地経学になるかもしれないが。
太田さんも奥山さんの「地政学」を読むべきです。最新の地政学の方向が分かるはず。あまりにも日本の地政学のレベルが低すぎるのです。最新動向も知ら無すぎなのですよ。そして議論している。
ここが大間違いである。

地経学の基本は円、ユーロやドル通貨の流通圏の争いである。日本が東南アジアを円圏にする構想を壊したのは米国ですが、その米国金融関係者が東南アジアで通貨暴落を仕掛けて、東南アジアはドル圏から円圏にシフトしようとしている。中国はドルリンクであるため、現状はドル圏ですが、ユーロに靡いている。

ロシアの石油決済をドルからユーロにしようとしているため、米国パウエルはロシアとの協調外交が破綻すると、警告している。この議論は来週にしよう。

(以上、http://www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/160201.htmより)

太田述正コラム#0239(2004.1.25)
<地政学の不毛性(その1)>

1 始めに

 地政学批判を書く、とホームページの掲示板で宣言した手前、大急ぎでお約束を果たしました。
 私はこれまで、地政学について書かれた本は、倉前盛通「悪の論理―ゲオポリティク入門」(春秋社1982年)、コリン・S・グレイ(小島康男訳)「核時代の地政学」紀尾井書房1982年、及び曽村保信「地政学入門―外交戦略の政治学」(中公新書1984年)の三冊しか読んだことがありません。
 倉前さんの本は軽い読み物で、曽村さんの本は論旨の追いにくい本だ、という記憶があります。一番まともだったのはグレイの本です。しかし、グレイご推奨にもかかわらず、地政学なるものは余り役に立ちそうもないアブナイ「学」なので近寄らない方がよい、という印象を当時持ち、それ以来、地政学とは没交渉のままでした。
 今、グレイの本が手元にないので、改めて曽村さんの本を斜め読みして地政学についての記憶を蘇らせようとしたのですが、この本は著名な地政学者の説の紹介と曽村さんの解説ないし意見が渾然一体となった体裁であり、全く物の役に立たないことが再確認できました。
 そうこうしているうちに見つけたのが、Christopher J. Fettweis, Sir Halford Mackinder, Geopolitics, and Policymaking in the 21st Century ,2000(http://teriyaki25.hp.infoseek.co.jp/geopolitics/mackindergeopolitics.html。1月25日アクセス)という論文です。
 まず、この論文をもとに地政学の変遷を押さえておきましょう。

2 地政学の変遷

(1)英国:マッキンダー
 イギリス人のマッキンダー(Halford Mackinder。1861 ??1947年)は、19世紀末ないし20世紀初頭には、鉄道の発達・普及により、陸上勢力(ランド・パワー)が、長年月にわたって優位にあった海上勢力(シー・パワー)に代わって優位に立ったと主張しました。
そして彼は、当時、世界が欧米の植民活動によっておおいつくされたという意味で一つの完結した「戦場」となったとして、この世界の中の(ユーラシアとアフリカからなる)世界島におけるランドパワーで、(軍事用語に言うところの)要衝たるハートランドを制した者は、(同じく軍事用語に言うところの)内線の利を生かして世界全体で優位に立つことができる、と指摘しました。

 (2)ドイツ:ハウスホーファー
 このマッキンダーの説をほぼそのまま借用したドイツ人がハウスホーファー( Karl Haushofer。1903??1945年)です。ハウスホーファーは、マッキンダーのハートランド理論を踏まえて生存圏(Lebensraum)という概念を作り出します。ルドルフ・ヘス(Rudolf Hess 。1894??1987年。ナチスドイツ副総統)は彼の愛弟子の一人です。しかし、ハウスホーファーの説に基づき、ヒットラーが対ソ開戦をしたのかどうかは、必ずしもはっきりしません。

 (3)米国:スパイクマン
 ハウスホーファーは、ナチスドイツよりもむしろ米国に大きなインパクトを与えました。ナチスドイツの行動の背後に地政学あり、と米国の多くの人々が信じ込んだからです。
そこで、これに対抗する説を米国人のスパイクマン(Nicholas Spykman。1893??1943年)が作り出します。彼は、ハートランドよりもハートランドの外縁たるリムランド(沿岸地帯)の方が重要な要衝だとし、世界島のリムランドを制した者は、世界全体で優位に立つことができる、と主張したのです。
 しかし、ナチスドイツがソ連侵攻に失敗し、ハートランド全体の占拠ができず、やがて第二次大戦そのものにも敗北したことによって、米国での地政学熱は一旦冷めます。
 ところが戦後、東欧を事実上併合し、ハートランドを完全に制したソ連が新たに米国の最大の敵と認識されるようになります。冷戦の始まりです。もしマッキンダー/ハウスホーファー流のハートランド理論が正しければ、米国に勝ち目はないことになってしまいます。
 こうして、スパイクマンのリムランド理論は再び脚光を浴び、対ソ封じ込め(containment)政策・・西欧、日本等を米国の影響下に置くとともに、軍事的・経済的に強化してソ連に対峙する政策・・の理論的根拠の一つにされるのです。

 (4)ロシア
 冷戦におけるソ連の敗北とその後のソ連の崩壊は、ハートランドパワーの敗北を意味し。今度こそ地政学の命運は尽きたかのように見えたのですが、このところ、ロシアにおいて地政学が復権しつつあります。
 ロシアの過去の栄光の復活を夢見る落魄のロシア人にとって、残されたものは地政学しかない、ということなのでしょう。

(続く)

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