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太田述正コラム#0167(2003.10.8)
<トルコについて(番外編2)>



前回から取り上げている本、Political Modernization in Japan and Turkey (Princeton University Press, 1964。以下「『本』」という)、は色々なことを考えさせられます。



1 トルコと日本との比較



 確かに日土両国は、『本』が指摘するように欧米の植民地にならなかった(PP8)数少ない非欧米国である、という点ではかろうじて共通性があります。
しかし、オスマントルコのサルタン、アブデユル・ハミト二世(在位1876-1908年)が自ら回顧録に記しているように、日本は「単一民族、単一宗教、単一言語」であった(注1)のに対し、オスマントルコはその正反対であり、かつオスマントルコの安全保障環境は同時期の日本のそれとは比較にならないくらい厳しいものがあった、という二点だけをとっても、日本とオスマントルコは「対極的」な存在(http://www.fas.harvard.edu/~rijs/Global_Turkey_v9n1_2003.html。10月7日アクセス)だったのです。

(注1)「単一宗教」が仏教を指すのか神道を指すのか不明だが、日本は幕末期において既に世俗化した国であり、この箇所に関してはサルタンには誤解がある、と言った方がよかろう。



 第一『本』では、オスマントルコとトルコ共和国を同一の国の異なった時代として扱っているのですが、そのことにも無理があります。
 オスマントルコの一般将校(general staff)の93%がトルコ共和国軍で軍務を継続した(『本』388頁)という事実はありますが、領域が数分の一に縮小し、民族・宗教・言語が相対的に純化したトルコ共和国が、オスマントルコと同一の国であるとは言い難いのではないでしょうか。
 更につけ加えれば、トルコはむしろ近代化の失敗例とさえみなしうるのであって、はたして「近代化」の比較研究の対象としてふさわしいかどうか疑問です。
(2001年時点で見ると、トルコの一人あたりGDPは拡大NATOの最貧国であるポーランドの半分弱に過ぎず、日本のわずか7%弱にとどまります(The Military Balance 2002-2003, IISS PP254、255、299)。『本』の執筆当時ではトルコの所得水準はまだ日本の半分程度だったとは言え、一次産業比率や都市居住率等の近代化指標を総合的に勘案すれば、当時といえども、日土両国の「近代化度」の差には決定的なものがありました(PP8、437)。)
 従って、トルコと日本を比較したことには疑問符がつきます。
1998年に、世界システム論で有名なイマニュエル・ウォーラースティン(Immanuel Wallerstein)が、1960年代前半当時になお日本とトルコを同じ土俵に乗せていたとして、『本』のイマジネーションの欠如を皮肉っています(http://fbc.binghamton.edu/03en.htm。10月7日アクセス)。



2 トルコとアラブ諸国の比較
 
 しいて比較研究をするのであれば、植民地歴のない国とある国々という違いはあっても、同じイスラム国であるトルコ共和国とアラブ諸国を比較する方が意味がありそうです。
 人口がそこそこあるが大産油国であるサウディや、産油国であって人口が少ないバーレーン、クウェート、カタール、アラブ首長国連邦(注2)を除くどのアラブの国よりもトルコ共和国の一人あたりGDPは高い(2001年。The Military Balance 前掲PP255、279-282)理由を解明するためです。



 (注2)リビアも産油国であって人口が少なく、本来であればトルコより一人あたりGDPは高いが、経済制裁下にあるため、トルコを下回っている。



 現在のトルコとアラブ諸国の違いの原因としては、やはり植民地歴があるかどうかが大きいと思われます。トルコ共和国は植民地歴がないのに対し、中東はアラブ化以前から筋金入りの植民地社会であったと言えますが、そこまで遡らないとしても、アラブ諸国は、すべてオスマントルコか英仏伊三カ国のうちの一カ国、あるいはその双方の植民地であった「屈辱」の歴史を共有しています(注3)。



(注3)モロッコとサウディの内陸部だけがオスマントルコの植民地になっていない。なお、サウディの内陸部は、英仏伊グループ(英国)の植民地にもならなかった。



??部族―



長い植民地歴がアラブ社会に残した傷跡(そしてそれがいかに近代化の障害になっているか)については前に述べたことがあります(コラム#87)が、結婚が父系のいとこ婚中心だという日本人には余り知られていない事実も、植民地であったことの産物であると考えられます。いとこ婚によって十重二十重に結びついた集団が部族(tribe)であり、アラブ社会はこのような意味での部族社会なのです。
長期にわたる苛烈な植民地社会においては信頼できるのは家族だけである以上、結婚も兄妹間で行いたいぐらいであるが、それでは文字通りの近親結婚になっていしまうので、優生学上は依然好ましくないけれども、父系のいとこ同士、それがだめでも又いとこ同士で結婚するわけです。
他方、父系のいとこ婚中心の婚姻風習は、トルコ共和国を含め、アラブ社会以外ではでは全く見られないところです。
女性が顔をヴェールで覆うというアラブ諸国の風習は、全くコーラン等に根拠がないにもかかわらず、アラブ圏共通の風習となったのですが、これは、父系のいとこという数少ない身内を相手に女性が結婚するのが通例である以上、その顔を露出することによって、不特定多数の赤の他人の男性の関心を惹く必要はないし、惹いてはならないということなのです。
(以上、http://www.nytimes.com/2003/09/28/international/middleeast/28CLAN.html?pagewanted=2&hp(9月28日アクセス)及びhttp://www.nationalreview.com/contributors/kurtz013102.shtml(10月7日アクセス)による。ただし、植民地歴と結びつけた部分は私見。)
20名もの死者を出してブッシュ政権製の中東和平ロード・マップにとどめをさした観のある先般のイスラエルのハイファでの自爆テロは、29歳の弁護士になったばかりのインテリ女性によって決行されましたが、その動機は弟と許嫁の「いとこ」をイスラエル兵に殺されたためだった(http://www.guardian.co.uk/israel/Story/0,2763,1056482,00.html。10月5日アクセス)こと、が思い起こされます。
イラクもまた典型的な父系いとこ婚社会であり、結婚の半分近くがいとこ婚または又いとこ婚です。「イラクでは、しばしば身内びいき(nepotism)は問題であるどころか、道徳的義務だと評される」のですし、「サダム・フセインを発見すること、女性の地位を向上させること、そして自由民主主義を定着させること等、米国がイラクでやろうとしていることすべてをややこしくしているのが<いとこ婚に象徴される>強い家族<ないし部族の>の絆」である(ニューヨークタイムズ前掲)といいます。
こういうわけで、部族が、トルコと比較した場合のアラブ諸国の近代化の阻害要因となっているのです。



―軍隊―



コラム#263で、「トルコは軍隊そのもの」であって、オスマントルコは「統治下の多数の民族を軍隊にリクルート」したと書きましたが、その民族の中にはアラブ人は含まれていませんでした。
それは、サルタンの地位をおびやかしかねない軍閥の台頭を避けるため、「オスマントルコの常備軍は奴隷・・の中からリクルートされた。彼らは、帝国のキリスト教徒たる臣民の子供をリクルートして帝国の<軍事>訓練学校でイスラム教徒として育て上げた者であるか、外国・・主としてコーカサス地方・・から輸入された者であるかのどちらかだった」(『本』PP357)からです。
しかも、コーラン(イスラム教)の「戦闘性」にもかかわらず、故郷のサウディ地方に住んでいた時代の商業の民としての性格を受け継いでいる現在のアラブ人は、本来的に軍人向きではありません(注4)。



(注4)イスラム生誕直後のアラブ大帝国の形成は、アラブ人の軍事的才能のたまものというより、長期にわたるビザンツ帝国とペルシャ帝国間の抗争によって疲弊していた、両国の国境地帯へのイスラム化したアラブ人による侵攻が、同地帯の農地の一層の荒廃を招き、食い詰めた住民達が(イスラム教に入信して)アラブ軍へ流入し、結果として肥大化したアラブ軍が領土(食糧)を求めて両国国境地帯以外にも侵攻し、爾後同じことが繰り返されて雪だるま式に征服地が増えて行ったことによる(http://www.atimes.com/atimes/Front_Page/EJ03Aa02.html。10月3日アクセス)



 このように、アラブ人や(アラブ人によって)征服されてアラブ化(イスラム化)した人々は、もともと軍人向きではなかった上に、オスマントルコによって軍人になる道を閉ざされていたため、アラブ社会の軍事音痴ぶりはここに極まり、アラブ諸国が宗主国から「独立」してから軍隊がいわば促成栽培されることになったものの、これらの軍隊は見てくれはともかく、内実の伴わないものばかりでした(注5)。



 (注5)イスラエルとの累次のパレスティナ戦争におけるアラブ諸国の毎度のみじめな敗戦や、二度にわたる湾岸戦争でのイラク軍のもろさを思い出してほしい。これに比べて、最終的には敗北したとは言え、第一次世界大戦初期におけるオスマントルコ軍の奮戦ぶり・・メソポタミアの戦い(Mesopotamia Campaign)でイラクに侵攻した英印軍を一旦は殲滅したり、ガリポリの戦い(Gallipoli Campaign)でアナトリア半島に上陸した英豪仏の大軍と互角以上に戦って撃退したりした(http://www.bbc.co.uk/history/war/wwone/middle_east_01.shtml以下。10月8日アクセス)・・、更にはアタチュルク率いる旧オスマントルコ軍による大戦終了後の領域保全を目的としたアルメニア・仏・ギリシャ軍との見事な戦いぶり(コラム#164及び『本』PP364)は特筆される。



このため、トルコでは特にそうなのですが、一般に発展途上国においては軍隊が近代化の担い手になるケースが多いというのに、アラブ諸国では軍隊がそのような役割を果たすことがないどころか、むしろ近代化の阻害要因となったのです。

(続く)

太田述正コラム#0166(2003.10.7)
<トルコについて(番外編1)>



 トルコについてコラムで書くことにした時、ほぼ30年ぶりにPolitical Modernization in Japan and Turkey (Princeton University Press, 1964)という本を手にとりました。この本は既にコラム#163で引用しましたが、なつかしい思い出がつまっています。
 それは、私が謦咳に接した先生が5名も登場するからです。
 この本は、いわゆる近代化をテーマに、米国を中心に世界の学者を動員して上梓された、全10巻のシリーズの第三巻であり、特定の国をとりあげた唯一の巻でもあります。



 前文を書かれているのが、シリーズの総覧者である比較政治学(Comparative Politics)の泰斗、ガブリエル・アーモンド(Gabriel Almond)先生(昨年逝去)です。
 スタンフォード大学留学時代(1974??76年)、私は政治学科修士課程で先生のセミナーをとりました。学期末に提出したペーパーが、「君は学者になれる。これは決して冗談ではないよ。」という書き込みとともに戻ってきた時、当時学者になる気など全くありませんでしたが、思わず笑みが出た記憶があります。



 この巻の編者であり、もう一人の編者と共にこの巻の第一章と最終の第十章を担当されているのがロバート・ウォード(Robert Ward)先生です。
 スタンフォード大学で、ビジネススクールに籍を置いて、更に政治学科にも籍を置くことにした頃、日本の政治を研究されていると聞き、最初に挨拶に伺った先が先生の研究室です。流暢な日本語で対応されたのには面食らいました。先生のセミナーもとりましたが、先生の学問に対する厳しさに襟を正す思いがしました。



 第九章の前半を担当しているのがノブタカ・イケ(Nobutaka Ike)先生です。
 イケ先生は日系二世でやはり日本の政治の研究者です。スタンフォード留学二年目の最後の学期に先生と研究室での一対一のセミナーをお願いし、二本のペーパーを日本語で書いて提出しました。一本は「米国とは何か」でしたが、正直言って当時の私には荷の重すぎるテーマでした。もう一本は「先の大戦に至る日本の政治経済」であり、こちらの方は随分先生に誉めてもらいました。先生の一言、「(社会の構成原理が)『個人』のアングロサクソン、『階級』の欧州、『patron-client』の日本」が、その後の私の世界観の形成に決定的な影響を及ぼしています。



 第五章の前半を担当しているのがロナルド・ドアー(Ronald Dore)先生です。
 先生のご令名は、東大の駒場時代、先生の「都市の日本人」が必読書として紹介されていた時から存じ上げており、その後、先生の書かれた、「江戸時代の教育」や「貿易摩擦の社会学 イギリスと日本」(いずれも岩波書店)を読んでファンになりました。
しかし、ロンドン大学(LSE)におられた先生と英国国防省の大学校留学時代(1988年)にお目にかかることになるとは夢にも思いませんでした。この大学校で、日本について先生の講義が行われたのです。その後で行われた懇談の際、先生と直接(日本語で)話ができました。好々爺然とした謙虚な先生でしたが、日本への熱い思いがひしひしと伝わってきました。



 第七章の前半を担当しているのが猪木正道先生です。
 先生が防衛大学校の学長をされていた1970年代の終わり、ある友人(政治学者の卵)が猪木先生にぜひ会わせてくれというので、(当時、私は防衛庁の本庁にいましたが、)彼を案内して横須賀の防衛大学校を訪問し、学長室で先生にお目にかかりました。
 その時、予定時間をはるかに超えて、東西にわたる該博な歴史知識を披露されつつ、先生は国際情勢について熱っぽく語られました。
 この時に教えられたこと・・歴史を知らずして国際情勢を論ずることなかれ・・が、現在書きつづっているこのコラムのスタンスになっているのです。



 今回たまたま、一つの本に登場する先生方の思い出を書きましたが、それにしても、東大時代は、駒場であれ、本郷であれ、強烈なインパクトを与える先生に出会わなかったな、とため息が出ます。これは、一人一人の先生のお人柄や能力の問題というより、東大が、(少なくとも文系に関しては、)教育機関としての体をなしていないことに原因があると思います。いずれこの問題も取り上げたいと考えています。

(続く)

太田述正コラム#0165(2003.10.5)
<トルコについて(その3)>



4 トルコにとって解決が本質的に困難な諸問題




 (1)クルド(Kurd)への対処
   トルコ政府によって1924年にクルドの文化、言語、地名が禁止されると、アタチュルクにだまされていたことを知ったクルド人は、翌年大反乱を起こしますが、徹底的に弾圧されてしまいます。
爾来、(イラン、イラク及びシリアにまたがって住み、トルコ人口の五分の一を占める)クルド人は、トルコ領域内の住民はすべてトルコ民族に属するというフィクション(神話)を笑殺するとともに、イスラムに忠実であり続け、ケマリズムを峻拒してきました。
   1984年には、アブドラ・オチャランが1974年に設立したPKK(クルド労働者党)が武力闘争を開始しますが、またもやトルコ政府による仮借なき弾圧を受けます。そのオチャランが1999年に逮捕されるとPKKは武力闘争を断念したため、トルコ政府はクルド地区を対象とした戒厳令を解除します。
   (c PP48及びhttp://www.guardian.co.uk/The_Kurds/Story/0,2763,208255,00.htmlhttp://www.guardian.co.uk/The_Kurds/Story/0,2763,924025,00.html(どちらも10月1日アクセス)による。)
   しかし、現在もイラク北端のトルコとの国境地帯にはPKKの残党5000人がたてこもっており(http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/3158686.stm。10月3日アクセス)、また、トルコ政府はクルド文化・言語の解禁方針を打ち出したものの、未だ殆ど実行に移されていないことが示すように、クルド問題は容易に解決しそうもありません。
   それもそのはずです。
トルコ共和国の領域内に「トルコ」以外の民族の存在を認めることは、ケマリズムの否定、ひいては「トルコ」概念の否定につながるからです。



 (2)EUへの加入
   トルコ共和国は、欧州大陸とアジア大陸にまたがり、ソ連とアラブ世界に対する最前線に位置していたことから、第二次世界大戦後、非キリスト文明に属しながらも、NATO加盟を認められました。
   このことにより、最大の仇敵であるロシア(ソ連)に対して領域を保全する備えは整ったものの、もう一つの仇敵であるギリシャに対していかに領域を保全するか、という難題が残されました。



   ギリシャは、欧州文明の三要素中のローマ文明の更に淵源であるとともに、非カトリックの正教を奉じることから、欧州諸国からも、ロシアからも思い入れがありました。英国もまた、ポリス時代のギリシャの自由と科学的精神に対する思い入れがありました。
   1832年、ギリシャは11年に及ぶ独立戦争の末、オスマントルコから独立します(http://www.onwar.com/aced/data/golf/greece1821.htm。10月5日アクセス)が、これはフランス=欧州文明、英国=アングロサクソン文明、ロシア=ロシア文明という三カ国ないし三つの文明による支援のたまものでした。



そのギリシャとのトルコの現在進行形の抗争の大舞台がキプロスです。
キプロスは、ビザンチン帝国(=ギリシャ人が取り仕切っていた)の領土であった時代、すなわちギリシャ正教時代、が12世紀末まで800年以上の長きにわたって続いた後、十字軍としてやってきたフランク族のルシニャン(Lusignan)王朝時代、及びこれを引き継いだヴェニス共和国領時代にカトリック化しますが、1571年にオスマントルコがキプロスを征服すると、イスラム教徒が入植することとなり、支配層であったカトリック勢力は駆逐され、ギリシャ正教が「復活」します。
1878年、キプロスはオスマントルコの宗主権の下で英国の保護領となり、第一次世界大戦後のオスマントルコ解体を経て1925年に植民地になりますが、1960年、英国からの独立を果たします。
しかし、キプロスの併合を画策してきたギリシャによって1974年にキプロスでクーデターが起きると、トルコはトルコ系住民の保護と称してトルコ軍を進駐させ、キプロス東北部(キプロスの37%)を占拠します。
(以上、http://www.kypros.org/Cyprus/history.html(10月5日アクセス)による。)
ギリシャが1981年にEU(当時はまだEEC)への加盟を認められる(http://www.europarl.org.uk/EU/textonly/txhistory.htm。10月5日アクセス)と、トルコはギリシャとイコールフッティングを確保するため(注4)、EU加入を目指すことになります。トルコは1987年に正式に加入を申請し、89年と97年に申請の受理を拒否されるもなおあきらめることなく頑張り続け、99年に至ってついに申請が受理されます(a)。



(注4)ガレス・ジェンキンスは、トルコはオスマントルコ時代より欧州を仰ぎ見てきており、EUなる「エリートクラブ」への加盟を国家の威信に関わる課題だと考えていると指摘している(a)。そのような理解も不可能ではないが、この点では私は見解をやや異にしており、トルコの領域保全への強迫観念(obsession)だけで説明が可能だと考えている。



この間、1989年にはベルリンの壁が崩壊し、東西冷戦が終わってNATOの存在意義は減少し、EU加入の重要性が一層増大しました。
   更に、キプロス(の西南部)が2004年時点でのEU加入を認められた(http://europa.eu.int/abc/history/index_en.htm。10月5日アクセス)ことは、トルコの焦燥感をいやがおうにも高めるに至っています。



   しかしEUは、トルコの欧州化はそれ自体が目的ではなくて、EU加入を達成するための粉飾的手段(masquerade)に過ぎないと見ており、現に欧州化が不十分・不徹底であるとしてトルコの加入に依然難色を示しています(a)。しかもその根底には非キリスト教文明に属するトルコに対する拒否反応があります。
他方でこのようなEUの建前及び本音は、欧州諸国が依然としてセーブル条約の「復活」によるトルコの解体を意図しているのではないかという、大時代的な疑心暗鬼をトルコ側に生んでいます(a)。
   (英国は、自分自身がEUに経済的理由で「便宜的」に加入しただけに、トルコの加入に同情的です。そもそも英国から見れば、英国を除くEU諸国たる欧州諸国もトルコも、自由と人権の確保を至上命題とするアングロサクソン文明には属していないという点では同じく「野蛮」であり、五十歩百歩なのです。)
   このようにEU加入問題もまた、解決は容易ではありません。



 (3)軍隊の優位性(supremacy)
   1946年の複数政党制民主主義の確立以降、政治家の醜い姿にトルコ国民は辟易し、軍隊の権威はむしろより高まったといいます。
   そして、何ら法的根拠があるわけではないのに、トルコの政治がケマリズムから逸脱し、イスラムに傾斜し始めると、ケマリズムを信奉する大半の国民の暗黙の支持の下、軍隊が介入して復旧するということを1960年以降、四回も繰り返してきました。
 (以上、b PP86)
   このような軍隊の優位性を咎めることは容易ですが、トルコが領域保全への強迫観念から解放されるとともに、根強いイスラム化への契機を払拭するだけ社会を近代化することによって、ケマリズムを脱ぎ捨て、トルコが(少なくとも現在の欧州諸国並みの)開放的な民主主義国家へと変貌して、初めてこの問題が克服される、と考えるべきでしょう。



(続く:最終回は、日本とトルコ・・なぜトルコに関心を持つべきか・・です。)

太田述正コラム#0164(2003.10.3)
<トルコについて(その2)>



 (前回のコラム<トルコについて(その1)>に、注を三つ付ける形で大幅に加筆し、ホームページ(http://www.ohtan.net)の時事コラム欄に再掲載してありますので、関心のある方はご参照ください。
ところで、ある読者から歴史・文明論の書き方が必要以上に小むつかしいのではないかというご批判をいただき、またもう一人の読者からは、このところ、コラムの頻度(分量)が多すぎて読み切れないというご批判をいただいています。
 ご批判は甘受しますが、いつまでもこんな頻度でコラムが書けるわけはないので、文体等は余り気にせずに、書けるときに思う存分書かせていただきます。
 読者の方で、適宜取捨選択して読んでいただければ幸いです。
現在、メーリングリスト登録者数は315名になりました。まだまだ少ないので、一層の「宣伝」方、よろしくお願いします。)



3 ケマリズムが生まれるまで



 アタチュルク(1934年まではケマルと呼ぶべきだが、便宜上、アタチュルクで統一する)は、1881年に、現在ギリシャ(希)領のサロニカで生まれます。父方の祖先は14??15世紀にマケドニアにロシア南部からやってきたコサックです(http://www.discoverturkey.com/english/kultursanat/tb-ataturk.html。10月3日アクセス)。
 ケマリズム生誕に至るプロセスは、次のようなものでした。
 
 (1)オスマントルコから新生トルコへ
   第一次世界大戦に敗れたオスマントルコは1918年10月、サルタン=カリフのメフメット六世は降伏文書に調印し、連合国中英・仏・伊・希の四カ国はオスマントルコ領内に進駐します。そして連合国は、1920年にオスマントルコ解体(東部ではアルメニアを独立させ、南東部ではクルドに自治権を与え、アナトリア半島南部は仏、西部は伊、西部は希に分割し、ボスポラス・ダーダネルス両海峡は国際管理下に置き、オスマントルコはアンカラ付近のみに限定される)を規定したセーブル講和条約を提示し、メフメット六世はやがてこれに調印します(大島直政「遠くて近い国トルコ」中公新書1968年 127頁及びhttp://www.krg.org/docs/articles/Mohammad%20Ihssan%20-%20Paper%20from%20Denmark%20Conference.pdf(10月3日アクセス))。メフメット六世は、超民族的存在であるサルタン=カリフの権威は、ローマ教皇同様、統治する領域の大小、有無によって理論上は左右されないと考えたのでしょう。
   それまでイスラム教とスルタンという旗印の下、(セーブル条約のクルド人に有利な箇所は秘匿しつつ)クルド人を含むオスマントルコ住民を結集して(http://home.cogeco.ca/~konews/8-9-02-opinion-ali-who-do-they-think.html。10月3日アクセス)オスマントルコ「解体」を回避すべく外国勢力と戦ってきたアタチュルクはここに、イスラム教並びにイスラム教と不可分一体の存在であったサルタン=カリフ制、に代わる旗印を掲げる必要にせまられます。
   それが、アナトリア半島とその周辺に住む住民は、(ギリシャ人やアルメニア人を例外とするものの、クルド人等を含め)皆トルコ人であり、そのトルコ人は力を合わせて自分たちが住んでいる領域を守らなければならないという観念です。
   アタチュルクはこの新しい旗印を掲げ、軍略と権謀術数の限りを尽くしてギリシャ軍等と戦い、勝利します。そこで1922年、セーブル条約に代わる講和条約交渉がローザンヌで開かれることとなるのですが、この講和会議への招待状がなおもメフメット六世にも送られてきたことを契機に、アタチュルクはサルタン=カリフ制との訣別をようやく決意します。そして翌1923年、アナトリア半島とその周辺が新生トルコの領域としてローザンヌ条約によって認知されるのです。(大島前掲129-132頁)



 (2)アタチュルクの政策
  このようにして勝ち取った新生トルコの領域は守られなければなりません。
新生トルコの最高権力者となったアタチュルクは、1922年から1935年にかけて矢継ぎ早に一連の政策を打ち出し、これらの遵守を新生トルコ住民に強制します。(c PP46-47、discovertaurkey.com前掲及び大島前掲 132、134頁)
 
??欧州化:スイス民法・ドイツ刑法・イタリア経済法をベースにした法整備、グレゴリウス暦の採用、近代数字とアルファベットの採用(アラビア文字の禁止)、婦人参政権の導入、メートル法の採用、称号の廃止、名字(姓)の導入、教育制度の平等化、
??世俗化:サルタン制・カリフ制・イスラム学校・イスラム税・シャリア(イスラム法)・イスラム裁判所の廃止、イスラム聖跡の閉鎖、イスラム連帯組織の禁止、イスラムの国家宗教たる地位からの追放、週の休日の金曜(イスラムに由来)から日曜(キリスト教に由来)への変更、イスラム祈祷開始の言葉のアラビア語からトルコ語への変更、女性の黒ヴェール・男性のトルコ帽の禁止
??トルコ語及びトルコ史に係る研究諸機関の設立、クルドの文化・言語・地名の禁止



(3)ケマリズムの「必然性」
 アタチュルクのねらいは、あくまでも領域の保全にあったということが重要です。(領域がはるかに狭くなり、しかも領域の拡大(征服)など考えられなくなった、という違いはありますが、)この点では、オスマントルコの国家「目的」とトルコ共和国の国家「目的」の間には基本的に変化が見られないと言っていいでしょう。
領域を保全(拡大)するためには、その手段として精強な軍事力を整備し、維持する必要があります。
やがて、精強な軍事力を整備し、維持するためにはそれを欧州化(近代化)しなければならないという認識が生まれます。オスマントルコ時代のセリム三世に始まる諸「改革」は、ことごとくこのような認識に基づいて行われてきました。
そして「改革」を重ねていくにつれて、軍事力を近代化するためには軍事力以外についても欧州化(近代化)を図る必要があるということに気付き始めます。その行き着く先が??だったと考えることができます。
だから、??は領域の保全という「目的」を達成するための「手段」(軍事力)の、更に「手段」にすぎず、それ自体が「目的」では全くなかったということになります。(自由・人権の保障に直接関わる政策が見あたらないことがこのことを物語っています。)
他方、??と??はコインの表裏であって、領域を保全(拡大)しなければならない「理由」(旗印)に関わります。
アタチュルクは、「イスラムないしサルタン=カリフ制」ではダメだから「トルコ民族」というフィクションを創造した上で、「理由」(旗印)をこれに取り替えた、ということです。(アタチュルク自身、父系の祖先はコサックつまりはタタール人(ロシアをかつて支配したモンゴル人)の一派(Britannica CD98)であったことを思い出してください。)
アタチュルクが打ち出した一連の政策は、フィクション・・イデオロギー・・に立脚しており、しかも彼は、このイデオロギー及び一連の政策を、権力をもって新生トルコ住民に強制したということになります。
アタチュルクは1938年に死去しますが、新生トルコでは彼は神格化されることになります。その一方で、彼が生み出したイデオロギーは、アングロサクソンやクルドによって、同時代のファシズムや共産主義と並ぶ民主主義的独裁の一形態として、ケマリズムと呼ばれ、嫌悪の対象となるのです。

(続く)

太田述正コラム#0163(2003.10.1)
<トルコについて(その1)>



 前回配信したコラム(#162)を注意深く読まれた方は、オルダス・ハックスレーが「ロシア、トルコ、イタリア、そしてドイツの独裁者達」と、どうやらトルコのケマル・アタチュルクを、スターリン、ムッソリーニ、ヒットラーと同列にみなしているらしいことに気付かれたことと思います。
 日本ではアタチュルクについて、トルコの近代化、民主化を実現した偉大な英雄だとする見方が一般的なだけに奇異に感じられた方もいるでしょうが、これはアングロサクソンによるアタチュルク観、ひいては現代トルコ観として、決してめずらしいものではありません。
 最近、改めてこのような観点から現代トルコを論じているのが、ジャーナリストのガレス・ジェンキンスです。
 それではもっぱら彼に拠って、トルコとは何かを解明することにしましょう。



(以下、典拠abcは、それぞれa:Gareth Jenkins, Turkey and Europe: diplomatic masquerade? 19 Dec. 2001, http://www.opendemocracy.net/debates/article-3-51-353.jsp、b:同, Opinion Power and unaccountability in the Turkish security forces, http://csdg.kcl.ac.uk/Publications/assets/PDF%20files/Jenkins.pdf、c:同 Muslim Democrats in Turkey?, Survival, Vol,45, no 1, Spring 2003, IISS, PP45-66 を指す。)



1 トルコの起源としての軍隊



 トルコは、欧州史に言うところの中世の初期に中央アジアから中東に、民族集団としてではなく軍隊としてやってきました。やがてオスマントルコは軍事的征服によって多数の民族を包摂する大帝国を築き上げ、統治下の多数の民族を軍隊にリクルートし、その軍隊(軍事機構)でもって帝国を統治しました。現在のトルコ共和国自身、軍人であるムスタファ・ケマル(後に改名してケマル・アタチュルク)によって、オスマントルコ帝国の残骸の中から、アナトリア半島に侵入して来ていたギリシャ軍を撃破・駆逐して1923年に生まれたものです。(b PP85)
 つまり、トルコとは軍隊そのものであった、と言い切ってもいいでしょう。(注1、2)
(ただしその軍隊なるもの、つまりトルコは、一騎打ち中心の騎士(武士)の軍隊でも近代欧州に由来する近代軍でもなく、かつて遊牧民の軽騎兵集団であったという点に留意する必要があります。)



(注1)「戦争と征服がオスマン帝国存続の基本条件であったことから、その政府は『ほかの何物にもまして軍隊そのもの』だった。(脚注)
(脚注:A.H.Lybyer, The Government of the Ottoman Empire in the Age of Suleiman the Magnificent, Harvard University Press, 1913, PP90)
       実際、政府の全機構、それどころかオスマン帝国の社会それ自体でさえも、軍事力を支援する補助的装置(auxiliary elements)であったと形容しても決して大げさではなかろう。」(David B, Ralston, Importing the European Army, The Introduction of European Military Institutions into the Extra-European World, 1600-1914, The University of Chicago Press, 1996(ペーパーバック版。ハードカバー版は1990), PP44)
(注2)18世紀末から19世紀初頭にかけてのサルタン・セリム三世の改革から後のアタチュルク等の将軍達による改革に至る「200年近くの間、軍人がトルコの近代化の先頭に立ち続けた。」(Ward & Rustow eds., Political Modernization in Japan and Turkey, Princeton University Press, 1968, PP352)



 まこと、トルコもまた小なりとはいえども、日本、インド、ロシア等と並ぶ、一国にして一つのユニークな文明であると言うほかありますまい。



 ここから、現在のトルコにおいてもなお、軍隊が国家の守護神として尊敬され、権威を維持している(b PP84)理由がよく分かります。(注3)



(注 3) 現在でもトルコ軍は人材を「独占」し、無条件で予算の優先配分を受けている。
    2001年の統計では、トルコの総兵力は52万人にのぼり、NATO諸国では米国の137万人は別格として、三位のドイツの31万人をはるかに引き離している。軍事費の対GDP比が5.0%でトップ(次点がギリシャで4.8%、三位が米国で3.2%)であることから見ても、トルコはNATO随一の軍事国家であると言えよう。(The Military Balance 2002-2003, IISS, PP332-333)



 2 ケマリズム



 アタチュルクが行おうとしたのは、上で述べたような多民族の集積体としてのトルコを単一の「民族」につくりかえることでした。
 オスマントルコは多民族の集積体であったと言っても、民族意識は低調で、宗教への帰属意識の方が強いものがありました。そしてイスラム教徒の優位の下で、キリスト教徒やユダヤ教徒達が平和共存していました。
 アタチュルクは、「トルコ」なる民族が2000年も前から確固として存在していたという神話をつくりあげ、イスラム教はトルコがずっと後になって影響を受けた、トルコにとっては皮相的な存在に過ぎず、その影響から脱却すべきであると主張しました。
 その上で、たまたまオスマントルコの最後の領土となったアナトリア半島(=小アジア半島)に居住していた雑多な住民はすべてトルコ「民族」であると宣言したのです。(ただし、ギリシャ化したビザンツ帝国との抗争以来の仇敵、ギリシャ人を除き・・。)
 つまり、アタチュルクが行ったことは、世上言われているところのトルコの「世俗化」では決してないのであって、イスラム教を、神話(と死後のアタチュルクの神格化)に立脚するケマリズム(Kemalism)で置き換え、ケマリズムを唯一の公的宗教(=イデオロギー)とするトルコという概念(民族にして国家)を創造したということなのです。(アタチュルク自身が自分の神格化を望んでいたかどうかはともかく・・。)
 (以上、括弧内を除き、c PP46-47 による。)

(続く)

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