カテゴリ: 天皇家と皇室

太田述正コラム#3214(2009.4.14)
<風前の灯火のタイ王制>(2009.5.28公開)

1 始めに

 タイの情勢がのっぴきならない状況になっているのですが、日本の主要紙の電子版の反応はにぶいようです。
 主としてガーディアンに拠って、最新情勢を追ってみましょう。

2 タイの最新情勢

 「・・・オックスフォード大学で教育を受けた経済学者であるアピシット・ウェーチャチーワ(Abhisit Vejjajiva)は、選挙違反を犯したとして裁判所が親タクシン派の前政権を解任した後、12月に首相に就任した。
 しかし、先週末、タイ政府は、タクシン派がリゾート地のパタヤでのASEAN首脳会議になだれ込み、参集していた首脳達をヘリコプターで避難させる羽目になるという屈辱を味わった。・・・
 土曜日、タクシンはインターネットで、彼のタイ帰国を可能にする、革命を起こすよう呼びかけた。
 「連中は戦車を街に繰り出した。今や人々が革命のために参じる時が来た。そして必要になった時、私はタイに戻るだろう」と彼は・・・言った。」
http://www.guardian.co.uk/world/2009/apr/14/bangkok-protest-deaths
(4月14日アクセス)

 「・・・2005年末からタイで起こっていることは、貧者と古いエリートとの間の次第に激しさの募りつつある階級戦争だ。
 もちろんそれは、純粋な階級戦争ではない。
 過去における左翼の空白のため、百万長者やタクシンのようなポピュリストの政治家が貧者のための指導者となることができたという意味で・・。
 有権者の過半を占める都市と農村の貧者が、赤シャツ隊<として行動している。>・・・
 彼らにとっては、真の民主主義とは、長きにわたって受け容れられてきたところの、軍の将軍達と宮廷による静かなる独裁制を終わらせることなのだ。
 <この静かなる独裁制の下で、>将軍達や枢密院(privy council)に集う国王の顧問達、そして保守的エリート達は、あたかも彼らが超憲法的な存在であるかのようにふるまってきた。
 2006年以来、これらのエリート達は、軍事クーデターを起こさせ、裁判所を使ってタクシンの党を2度も解散させ、王党派たる黄シャツ隊を支援して街で暴動を起こさせ、厚かましくも選挙の結果を何度も覆した。
 現在の民主党政権は軍によって権力の座に就かされたものだ。
 赤シャツ運動に加わっている人々の大部分はタクシンを支持しているが、それにはもっともな理由がある。
 彼の政権は、タイ最初の全国民向けの健康保証制度を含む、貧者のためのたくさんの近代的政策を実施に移したからだ。
 ただし、赤シャツ隊は単なるタクシンの操り人形ではない。
 彼らは地域グループの形で下から組織されており、その中には、タクシンの進歩的リーダーシップの欠如、とりわけ彼の王室への「忠誠」の顕示的固執にいらだちを示す者もいる。
 共和主義<(=王制廃止)>運動が伸びつつある。
 ・・・現在英国に亡命中の・・・私のような左がかっているタイ人はタクシン支持者ではない。
 我々は彼の人権侵害に反対した。
 我々は「真の民主主義」なる市民運動とともにある。
 黄シャツ隊は保守的王党派だ。その中にはファシスト的傾向を持つ者もいる。
 連中の護衛達は火器を携行し、かつ用いる。
 連中は、2006年のクーデターを支持し、政府の建物をムチャクチャにし、昨年はタイ各地の国際空港を閉鎖した。
 連中の背後には軍がいる。
 だからこそ、部隊は決して黄シャツ隊には発砲しないのだ。
 だからこそ、オックスフォードで教育を受けた、現在のタイ首相は黄シャツ隊を罰するようなことは何もしてこなかったのだ。それどころか彼は、黄シャツ隊を何人か自分の閣僚に就けたのだ。・・・
 <赤シャツ隊は、>最低限でも非政治的な立憲君主制<の樹立>を欲している。」
http://www.guardian.co.uk/commentisfree/2009/apr/13/thailand-human-rights

 「・・・先週、新たに総選挙を実施せよと言って最終期限を設定したのはタクシンだった。
 しかしそれはタイ政府によって無視された。
 昨日、正義無き平和はありえないと宣言して、「平和革命」を追求せよとタイの人々に呼びかけたのはタクシンだった。
 彼に現在逮捕状が出されているというのに、彼の古里たるタイへの帰還の可能性を注意深く否定していないのはタクシンだ。
 「もしバンコックとすべての地方のタイの人々が連帯すれば、私は今回、この国を変えることができると思う」と彼は述べた。・・・」
http://www.guardian.co.uk/commentisfree/2009/apr/13/thailand1

 「・・・革命、もしくは再度の軍部の政権奪取が次第に不可避になりつつある。・・・ タイは、更なる流血が起こる前に、タイにおける分裂を乗り越えることができる民主的な指導者を見つけることが、この上もなく必要となっている。」
http://www.guardian.co.uk/commentisfree/2009/apr/14/leader-thailand-political-crisis

 「・・・第一に弾圧(crackdown)が直ちに中止されなければならない。第二に、アピシット・ウェーチャチーワは辞職しなければならない。第三に、交渉が行われなければならない、と最も著名な反対派の指導者の一人であるチャクラポブ・ペンカイル(Jakrapob Penkair)は述べた。・・・」
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2009/04/13/AR2009041300140_pf.html

3 終わりに

 タイが立憲君主制になったのは1932年ですが、それまでは国王親政で首相はいませんでした。つまり、それまでは、権威と権力は分離していなかったわけです。
 日本の場合は、権威と権力の分離は、大昔からですし、日本には1885年に早くも首相が置かれ、1889年には憲法が公布され、1890年に施行されています。
 そして、1898年には初めて政党内閣が成立し、その後1925年の普通選挙制導入を契機に政党内閣制が定着するに至ります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E9%96%A3%E7%B7%8F%E7%90%86%E5%A4%A7%E8%87%A3%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E6%86%B2%E6%B3%95
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%BF%E5%85%9A%E5%86%85%E9%96%A3

 ところがタイでは、ついに政党内閣制が定着することなく現在に至っているわけです。
 アジアやアフリカにおいて、植民地や半植民地になることがなかったという意味で極めてめずらしい存在である日本とタイですが、日本がいかに例外的な存在であるかが分かります。
 これは、両国の自由民主主義的伝統の有無と、最近の歴代君主の君主制存続に向けての、良い言葉で言えば柔軟性、悪い言葉で言えば執念の違いによると言えるでしょう。
 私には、タイの王制が崩壊するのは、もはや不可避のように思えてなりません。
 革命が起こってすぐ崩壊するか、クーデターを経てしばらくして崩壊するか、どちらかではないでしょうか。

 それにしても、タイの現在の首相は英国で生まれ、育った人間です
http://en.wikipedia.org/wiki/Abhisit_Vejjajiva
し、反体制派も亡命するのは英国、というわけですから、日本のタイにおける存在感の薄さは絶望的なものがありますね。 

太田述正コラム#2812(2008.9.25)
<英国王位継承法改正へ?>(2008.11.11 公開)

1 始めに

 もう一年以上、ほぼ完全に一日2篇のコラムの配信を続けていますが、吾ながらよく続いているなと思います。
 例えば、コラム#2808「現在の私自身のこと」なんて、いかにもあの日に書きたい気持ちが抑えられなくなって書いた、と誤解されるむきもあろうかと推察されますが、実はそうではなくて、通常のコラムを書く材料がどうしても見つからず、仕方がないからまた自分のことでも書こうかと腹を決め、じゃ何を書くかと思案した結果が、ああなったものです。
 「ディスカッション」シリーズの方は読者に書いてもらっているようなもんじゃないかという声があがりそうですが、あれはあれで、読者の投稿やメールを整理、アレンジして所々に私のコメントや回答をさしはさむ、というのは結構手間がかかるものなのですよ。
 例の躁鬱病の疑いのある私の知人の話(コラム#2805)だって、読者の投稿・メールが少なく、他方、私が適宜トピックスを探してきて書き綴るだけの材料もなく、増量のために、これまた苦し紛れに思いついたものです。
 これらの経験を活かした『コラム書きのノウハウ』なんて本ならいつでも書けそうですが、コラムを書こうなんて人がそんなにたくさんいるはずもないので、売れないでしょうね。
 
 さて、本題です。
 本日は、英ガーディアン紙が報じた、英国王位継承法を改正する案を英国政府が固めたとのスクープについてお話をしましょう。

2 英国王位継承法改正へ?

 1701年に制定された王位継承法(Act of Settlement)で、ジェームス1世の外孫のハノーバー選帝侯妃ゾフィー(ソフィア)及びその子孫にして、英国教会信徒にして、カトリック教徒と結婚した者でなくして(注1)、養子でもなくして、その者が受胎した時点で両親が結婚している場合に限る、と定められています。

 (注1)憲法でそれぞれ国王は、スウェーデンではルター派、オランダではプロテスタントたるオレンジ家の者、スペインとベルギーではカトリック教徒、でなければならないと定められている。

 この王位継承法は、1588年の名誉革命で「追放」された、カトリック教徒たるジェームス2世及びその息子たるジェームズ老僣王(James Francis Edward)やルイサ・マリア・テレサ・スチュアート(Louisa Maria Teresa Stuart)の英国王就任を阻止することを直接的なねらいとして制定されたものです(注2)。

 (注2)トマス・ホッブス(Thomas Hobbes。1588〜1679年)は、「法王制は、滅亡したローマ帝国のの亡霊である」と記している。

 王位継承法ではまた、継承は男子が女子より優先されることとされています。(男長子相続制=male primogeniture)

 8年前から、これでは宗教差別であり男女差別であるとして(注3)(注4)(注5)、英国王位継承制度の改正に向けて論陣を張ってきたガーディアンによれば、このたび英国政府は、王位継承法で規定された上記諸制限を撤廃する案を固めたというのです。

 (注3)EUの欧州人権規約(European convention on human rights)に基づいて英国人権法(Human Rights Act)を解釈すべきところ、王位継承法は同規約第9条にいう思想と良心の自由の権利、付属議定書(protocol)1の第1条にいう継承順位等の平和的享受の権利、そして第14条にいう、あらゆる慣習的権利(convention right)に関する差別の禁止、に抵触すると指摘されてきた。
 (注4)2005年の総選挙の際、保守党の党首マイケル・ハワード(Michael Howard)は、保守党が下院で多数を占めれば、王位継承法で課された上記制限を撤廃すると公約したが、労働党が勝利を収め、トニー・ブレア(首相辞任後カトリックに改宗)政権は何もしなかった。
 (注5)カナダでも、カトリックが一番信徒の多い宗教であることもあり、同国の元首でもある英国王の継承制度・・カナだ憲法に規定あり・・への反対論がある。2002年には差別であるとして訴訟が提起されたが、原告が敗訴した。

 この改正案が通れば、不可避的に英国教会は英国の国教的地位を失うことになるとの見方も有力です。
 ただし、この改正案が通るためには、1931年のウェストミンスター法(Statute of Westminster)に則り、英連邦諸国全ての同意が必要です。

 なお、英国王は、首相任命権と議会解散拒否権という、国王大権の残滓をいまだ形式的には保持していますが、これを撤廃する動きは今のところありません。

 (以上、
http://www.guardian.co.uk/world/2008/sep/25/anglicanism.catholicism1
http://www.guardian.co.uk/world/2008/sep/25/anglicanism.catholicism2
http://www.guardian.co.uk/politics/2008/sep/25/constitution.monarchy
http://en.wikipedia.org/wiki/Act_of_Settlement_1701
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E4%BD%8D%E7%B6%99%E6%89%BF%E6%B3%95
(いずれも9月25日アクセス)による。)

3 終わりに

 日本では、皇位継承問題がなりをひそめてしまいましたが、われわれは時代に柔軟に対応していこうとする英国の保守党や労働党に学ぶべきところが大いにありそうですね。

太田述正コラム#2396(2008.3.1)
<アフガニスタンに行ったハリー(続)>(2008.4.9公開)

1 始めに

 結局ハリーは英国に戻されましたが、その後も英米で多くの報道がなされています。
 これら報道を踏まえて、続篇をお届けすることにしました。。
 (その前に、前回のコラムの補足をしておく。米国のメディアで報道自粛紳士協定の対象になっていたのはCNNとAP通信だった。また、事前に報道したメディアにはドイツの女性誌(後述)もあった。)

2 リークしたメディアへの批判

 米国のメディアも今回のような報道自粛を行うことはめずらしくありません。
 ブッシュ大統領が2003年の感謝祭の日に初めてイラクを訪問した時は、大統領機が米国に帰還するまで一切報道することが許されませんでした。
 また、マケイン上院議員の息子のジムが2月初めにイラク従軍を終えて米国に帰還するまで、大統領予備選を戦っていた同上院議員は息子のことに触れることはほとんどありませんでした。その理由の一つはジムの安全でした。記者達もマケインにジムのことについて突っ込んだ質問をすることを避け続けたものです。
 英国では、ハリーのニュースを報じたメディアに対する批判の声があがっています。
 オーストラリアのニュー・アイディア誌は、紳士協定の存在を知らなかったとし、1月に報道してから英国防省から何の注意もなかった、もし紳士協定の存在を知っていたならば、決して報道しなかっただろう、という声明を発表しました。
 また、2月27日にハリーのニュースを報じたドイツの女性誌「鏡の中の女性」は、英国の軍事筋からその情報を得たとし、紳士協定の存在を知っていたので、あえてぼかすために「ハリーが現在イラクかアフガニスタンで従軍している」とイラクを付け加えて報じた、と弁明しました。
 そして、米国のドラッジュ・レポートの主宰者であるブロッガーのドラッジュ(Matt Drudge)は沈黙を保っていますが、ブッシュ大統領やクリントン大統領候補の子供がアフガニスタンに従軍しているとして、同じような報道を行っただろうかと非難されています。

3 成功だったハリーのアフガニスタン派遣

 地理的意味での欧州において、近代国家とは戦争を行うための装置であり、それを率いるのが軍人階級である貴族階級によって取り囲まれた戦士たる国王でした。
 ですから、現在でも欧州の王室のメンバーは名誉連隊長を務めます。
 また、他国の王室のメンバーを自国の軍に迎え入れることも19世紀末には流行ったものです。
 フランスのナポレオン3世の息子である皇太子は英国の近衛砲兵連隊に勤務し、1879年のズールー(Zulu)戦争に従軍しました。ところが十分な護衛を付けずに偵察活動を行っていたところ、ズールー族の待ち伏せ攻撃にあい、戦死するという事件が起こっています。
 この事件がトラウマとなって、第一次世界大戦の時は、陸軍大臣のキッチナー(Kitchener)卿が時の皇太子の前線勤務を差し止めました。後に英国王エドワード8世となったこの皇太子のシンプソン夫人との恋は、この時の挫折が原因であったと言う人がいます。
 第二次世界大戦の時は、時の国王ジョージ6世は、弟のジョージ王子(The Prince George, Duke of Kent。1902〜42年)を英空軍に勤務させたのですが、ジョージ王子は飛行艇に乗って移動中に墜落事故が起き死亡しています。また、ジョージ6世の長女のエリザベス(後のエリザベス2世)を英陸軍に勤務させています。
 しかし、英国においてすら、最近の政治家は軍事に疎い人が増えてきています。
 大衆と軍との関係も疎遠になってきています。
 特にIRAとの戦いで、平素街中では軍人が制服を着用しなくなってからというもの、軍の存在が希薄化してきていますし、献身とか集団的忠誠心といった軍人精神の意義に対し、冷戦の終焉に伴う地政学的、技術的、社会的変化により、1980年代末以降、疑問が投げかけられるようになってきています。
 しかし、その中にあって、英国の王室だけは軍との強い紐帯を維持し続けてきました。
 伝統と彼らが軍と共有しているところの今やちょっとこっけいにさえなった古い価値観がそうさせてきたのです。
 だから、ウィリアム王子やハリーが、軍務に携わりたいと思うのはごく自然なことなのです。
 それに、女性と浮き名を流したり、ナイトクラブで大酒をくらったりしてマスコミに面白おかしく書き立てられている汚名を晴らしたいという気持ちも彼らにはあることでしょう。
 それでも、ウィリアムは王位継承権第2位であることから危険な軍務には就けませんが、ハリーなら可能です。
 そこに、英国政府や軍の思惑もからみます。
 現在アフガニスタンの戦況は思わしくありません。
 カブールのカルザイ政権の支配下にあるのはアフガニスタンの三分の一の地域にすぎないとも言われています。
 そんな前線でハリーが軍人として活躍したという印象を与えることができれば、アフガニスタンへの英軍の派遣に対する英国民の消極的姿勢が一変する可能性があり、また、チャールス皇太子とダイアナの離婚やダイアナの事故死等で傷ついた英王室の威信の回復にも資するかもしれない、というわけです。
 ハリーは予定より6週間早く英国に戻ることになりましたが、英国等における報道ぶりを見る限り、ハリーは十分すぎるくらい、期待に応えたと言ってよいのではないでしょうか。

 (以上、
http://www.latimes.com/news/nationworld/world/la-fg-harry1mar01,0,5242155,print.story
http://www.guardian.co.uk/media/2008/mar/01/royalsandthemedia.military
http://www.guardian.co.uk/uk/2008/mar/01/military.monarchy
http://www.nytimes.com/2008/03/01/business/media/01harry.html?_r=1&hp=&oref=slogin&pagewanted=print
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2008/02/29/AR2008022900743_pf.html
http://www.guardian.co.uk/commentisfree/2008/mar/01/royalsandthemedia.monarchy
http://www.guardian.co.uk/media/2008/mar/01/royalsandthemedia.military1
(いずれも3月1日アクセス)による。)

太田述正コラム#2394(2008.2.29)
<アフガニスタンに行ったハリー>(2008.4.8公開)

1 始めに

 英国のチャールス皇太子とダイアナの子供で、兄のウィリアム王子に次いで、英国王位継承順位3番目のヘンリー(ハリー)王子(現在23歳)がアフガニスタンで戦闘任務に従事していたことが明るみに出ました。
 日本のメディアよりちょっと詳しくご説明しましょう。

2 ハリーの戦い

 ハリーはもともとは近衛騎兵連隊で4台の偵察戦車を率いる立場であり、昨年、イラク派遣を希望していた(コラム#1741)のですが、テロリスト等に狙われ、ハリーだけでなく回りの英軍兵士達も危険に晒すというので英国防省はこのハリーの希望を却下しました。
 ハリーはそれなら陸軍を辞めると言い出したのですが、英国防省は、イラクに代わってアフガニスタン派遣を検討し、ハリーに航空管制について再教育を施し、12月14日、アフガニスタンに派遣したのです。通常の兵士に与えられる2週間の休暇なしで14週間現地にとどまり、今年4月には英国に戻る予定でした。
 このことを国防省内で知らされていたのは15名だけであり、知っていたのは後は祖母にあたるエリザベス女王を始めとするごくわずかのハリーの身内と友人だけでした。
 ハリーの任務は、アフガニスタン南部のヘルマンド州(Helmand Province)のパキスタン国境付近の堅固な基地から、統合戦術航空管制(Joint Tactical Air Control=JTAC)グループに属する前線航空管制員(forward air controller=FAC)として、タリバンの所在情報をもとに、米英仏の戦闘爆撃機に、ハリーの受け持ち地域(restricted operating zone=ROZ)における空爆ないし航空支援目的で爆撃目標を指示し、友軍からの誤射等を避けつつ爆撃地点までこれら航空機を誘導し、最終的には爆撃許可を与えることでした。
 ハリーの階級は少尉(cornet)であり、現在の直属の上司は、王立グルカ射撃連隊(Royal Gurkha Rifles)の第1大隊B中隊長の陸軍少佐です。
 ちなみに、これまで英軍兵士はイラクで170名、アフガニスタンでは82名が亡くなっています。

3 英メディアの協力と露見

 英陸軍は、昨年9月から12月にかけて英国の主要メディアほぼ全て及び米国のCNN等若干の海外メディアの計30〜40のメディアと交渉し、ハリーのアフガン派遣が終わるまで、一切報道をしない代わり、取材に様々な便宜を図るというという紳士協定を結びました。
 こんな紳士協定は1週間ともたないだろうと噂されていたのですが、英国では一切報道されることなくつい最近まで推移していたのです。
 ところが、オーストラリアの女性誌ニューアイディア(New Idea)のウェッブサイトが1月7日、初めてハリーのアフガン派遣の噂を報じ、これにドイツの新聞ビルド(Bild)が続き、更に2月28日にニューアイディア誌の上記記事を引用する形で、世界中で数百万人が読んでいる米国の政治ブログのドラッジュ・レポート(Drudge Report)が本件を報じるに至って、英国のメディアも一斉に報道を始めたのです。
 そこで、英陸軍参謀総長は、これが事実であることを認めるとともに、報道に対し遺憾の意を表明しました。
 案の定、イスラム系のウェッブサイトのいくつかが、ハリーを発見するように努めよと煽り立て始めました。
 結局、ハリーは予定を繰り上げて英国に帰国させられることになりそうです。

4 終わりに代えて

 ハリーの祖父のフィリップ殿下は第二次世界大戦中軍艦勤務をし、彼の曾祖父の英国王ジョージ6世は国王になる前でしたが、第一次世界大戦の時にユトランド(Jutland)沖海戦に参加し、伯父のアンドルー王子(コラム#26、939、1214、1741、2348)は1982年のフォークランド戦争に海軍ヘリコプターの操縦士として参加しています。
 (もっとも、国王として部隊を率いて戦ったのはジョージ2世が1743年にデッティンゲン(Dettingen)の戦いでフランス軍を破ったのが最後です。)
 また、エリザベス女王について、ハリーは、舌を巻くほど英陸軍のことに通じていると語っています。
 ハリーのアフガニスタン派遣報道がなされるや、英陸軍参謀総長は、「王子のアフガニスタンでの勤務ぶりは模範的なものだ」と語り、ブラウン首相や保守党のキャメロン党首等の政治家はハリーを褒め称えました。
 ブラウン首相は、「王子が行っている傑出した奉仕を英国民全体が誇りに思っている」と語ったほどです。
 戦争を生業とするアングロサクソンの本家ならでは、という感がありますね。

 (以上、事実関係は、
http://www.guardian.co.uk/uk/2008/feb/29/military.monarchy1
http://www.guardian.co.uk/media/2008/feb/28/royalsandthemedia.pressandpublishing
http://www.guardian.co.uk/uk/2008/feb/29/military.monarchy3
http://www.guardian.co.uk/uk/2008/feb/29/military.monarchy
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2008/02/28/AR2008022801881_pf.html
http://www.nytimes.com/2008/02/29/world/europe/29harry.html?ref=world&pagewanted=print
http://www.cnn.com/2007/WORLD/europe/10/05/harry.statue/index.html
http://www.cnn.com/2008/WORLD/asiapcf/02/28/prince.afghanistan/index.html
(いずれも2月29日アクセス)による。)

太田述正コラム#2374(2008.2.19)
<日本論記事抄(その3)>(2008.4.2公開)

 (「その1」、「その2」は即時公開しましたが、当面、即時公開で書かなければならない時事的テーマがいくつもあるため、この「その3」は非公開扱いにします。)

 こんな人間像が尊ばれる日本で、皇太子妃雅子(1963年〜)さまや、この雅子さまを擁護する皇太子徳仁親王(1960年〜)に対する風当たりが強いのは、分かるような気がしますね。
 先日、英タイムズ紙を紹介する次のような電子版記事を目にしました。

 ・・・タイムズ紙は、「国民の目を意識した質素な生活水準の日本の皇室の中で、雅子さまはぜいたくをし過ぎたようだ」と、日本の週刊誌がバッシングをしている背景を紹介。そして、「雅子さまの行状はヨーロッパ王室では一般的に言ってささいなことだ」として、日本の皇室だからこそ雅子さまは目立ってしまったとの見方を示した。また、雅子さまが米ハーバート大学で学びながら「拘束着をまとった皇室の生活」で精神的に押しつぶされ、外国人から見て「朽ち果てた蝶」のようになってしまった、と述べた。
さらに、雅子さまの病気についても言及した。「我慢や忍耐の精神を大事にするこの国では、彼女が患っている詳細不明の精神疾患は、単に彼女がひ弱なために 克服できない障害に過ぎないと見られがちだ」と主張。週刊誌などは長年、雅子さま批判を控えてきたが、病気を十分理解せずに、最近の回復の兆しは「仮病」ととったりしていると、批判的に書いた。・・
 タイムズ紙の記事には、コメント欄が開設されていた。そこに寄せられた10件ほどのコメントを読むと、なんと日本人とみられる人からの反論に近い意見が多い・・。
 <例えば、>
 一、雅子さま<は、>・・外国へ行けないなどと自らの不幸な状況についていつも不満を言っている・・。たぶん彼女は、パリス・ヒルトンのようなセレブ生活を夢見ていたんだと思います
 二、皇太子さまや雅子さまは、ご両親とは反対です。多くの人は、マスメディアの情報から、お2人の関心が国民にはなく、自らの楽しみにあると感じ始めています。
 三、公務をしないなら御所で休んでいるべきだ
 四、問題のポイントは雅子さまの教育ではなく奇妙な行動や病気にある
・・・
 (以上、
http://news.livedoor.com/article/detail/3499612/
(2月7日アクセス)による。)

 私は、雅子さまには大変酷なようですが、このような日本人の多くの気持ちに強い共感を覚えます。
 そして、この問題は深刻であると考えています。
 私は女性天皇容認派であり、できれば愛子さまに皇位を継いで欲しいと思っているのですが、この両親、とりわけ雅子さまに育てられた愛子さまに皇位を継がせるのは可哀想だと多くの日本人が考えるであろう故に、女性天皇の実現がより一層困難になりかねないということが第一点です。
 第二点は、雅子さまが外務省キャリアであったこと、しかも外務事務次官や国連大使まで勤めた小和田恆(1932年〜)氏の令嬢であることから、雅子さまの次の皇后としての適格性に疑問符がつく、というのが第二点です。もっともこれを今更言っても仕方ないことですが・・。
 前者は説明する必要はないでしょう。
 後者について説明しておきます。
 私の懸念は、彼女が日本人に尊ばれる人間像に合致しないというだけではないのです。 私は雅子さまとは面識がないのですが、防衛庁勤務時代の1981年に米国出張した折、外務省に本籍を置いたまま一時ハーバード大学の国際法の客員教授をされていた小和田恆氏に同大学の同氏の研究室でお目にかかったことがあります。
 当時防衛庁に出向していた私の部下の外務省キャリアを通じて、東京からアポイントをとったのです。
 その頃私は、日本の安全保障政策がいかに歪んだものであるかを訴える評論活動を匿名で行っており、「諸君」等に発表した拙稿のコピーを渡し、同趣旨の話をしました。
 しかし、小和田氏は、学者としてではなく、防衛庁キャリアを小バカにしている典型的な外務省キャリアとして、そして対米従属を当然視している典型的な外務省キャリアとして私にお接しになられた。
 それはとんだ誤解だと小和田氏はおっしゃるかもしれません。
 しかし、氏が日本の安全保障政策の現状と将来に深刻な危機意識を持っていた私とほんの少しでも共鳴しうるものを持っておられたとすれば、私がそんな印象を抱いたはずがありません。
 最初から露骨に私を小バカにしたような退屈そうな顔つきをされていた小和田氏は、20分ほど経ったか経たないうちに私に退去するよう促されたのですが、ニューヨークに国連から委嘱された仕事で赴く途中、(ボストンではもう一箇所某研究所を訪問しましたが、)わざわざ遠回りしてボストンに寄った私は、その程度で追い出されてたまるか、と氏に食い下がり、更に10分ほどねばってから部屋を退去した記憶があります。
 雅子さまが日本人としてお生まれになったこと、小和田恆氏の令嬢としてお生まれになったことはもちろんのこと、しかるがゆえに恐らくごく自然に外務省に奉職されたことも恐らく彼女の責任ではありません。
 しかし、徳仁親王の妻となったことは彼女の責任であり、その結果、千数百年にわたって続いてきたところの、世界遺産とも言うべき天皇制の存続にほんの少しでも陰りが生じていることは遺憾であると言わざるをえないのです。

(続く)

太田述正コラム#1887(2007.7.31)
<君主制のメリットとイラク>(2008.2.3公開))

1 始めに

 以前(コラム#1865、1866で)、グレイ(John Gray)の書いた本をご紹介したところですが、その中で彼の君主制のメリット論にも触れました。
 その後グレイが、改めて君主制のメリットについてコラムを書き、更にイラクの苦境のよって来たるところについてのコラムを書いているので、この二つのコラムの概要を(部分的に私の言葉に直して)ご紹介するとともに、私の感想を申し述べたいと思います。

 (以下、グレイの主張については、
http://www.guardian.co.uk/commentisfree/story/0,,2137130,00.html
(7月29日アクセス)、及び
http://www.guardian.co.uk/comment/story/0,,2138064,00.html
(7月31日アクセス)による。)

2 グレイの主張

 (1)君主制のメリット

 君主制は世襲原理を前提としており、帝国(多民族国家)は民族自決権(national self-determination)の抑圧を前提としていることから、どちらも過去の遺物だという観念があるが、必ずしもそうとは言えない。
 ウッドロー・ウィルソンは自決を推奨することで、ハプスブルグ帝国崩壊後非君主制(civic)の国民国家群が生まれると考えたが、実際に生まれたのは内部の少数民族への憎しみに立脚した人種的(ethnic)ナショナリズムと長期にわたる戦争及び独裁制だった。

 自由主義者達は民族自決の理想を信奉しているが、実のところ国民国家(nation state)の建設は必ずと言ってよいほど流血を伴うものなのだ。
 フランスはナポレオン戦争の後に、そして米国は南北戦争の後にようやく近代的国民国家になった。支那は現在まさに国民国家の形成途上にある。その結果例えばチベットではジェノサイドと言ってもよいような状況が現出している。
 国民国家の形成は近代の原型的(prototypical)な営みではあるが、その結果、往々にして近代的価値であるところの個人的自由(personal freedom)と世界主義(cosmopolitanism)が損なわれてしまうのだ。

 異なった民族を領域内に包含しつつもうまくいっている国々を見よ。
 スペインはカタロニア人、英国はスコットランド人・イギリス人・ウェールス人・北アイルランド人、カナダはケベック人を抱えていてかつうまくいっている国々だ。
 つまり、うまくいっているところの多民族からなる民主主義的国家の大部分は君主制を採用しており、帝国の残骸(relics)という非合理的要素を政治制度の中に残している国々なのだ。

 英国では、ブラウン新首相が英国に初めて憲法を導入しようとしているが、仮にこの憲法において君主制を完全な飾り物にしてしまうようなことがあれば、スコットランド等に分離独立の動きがある以上、英国が国内で流血を見るような事態になることだって全く考えられないわけではない。

 (2)イラクの苦境のよって来たるところ

 現在イラクは、全国民の3分の1が、緊急援助がなければ生存すら危ぶまれるという苦境にある。

 イラクは英国が第一次世界大戦の時にオスマントルコ帝国から切り取ってつくった人工的国家だ。
 そのイラクは、マクロ的には、そのいずれもが自治を経験したことのないところの、一番人数の多いシーア派、そして少数派のスンニ派及びクルド人からなるパッチワークだった。
 イラクをつくった途端、支配者の英国に対する抵抗が始まり、英国は抑圧的統治を行うとともに、抵抗拠点への空爆を繰り返してようやく抵抗を鎮圧することができた。
 その後、英国が導入したところのスンニ派の君主をいただく君主制のおかげで、上記三派間のいがみあいが戦争に転化するのを抑えることができた。
 君主制を廃止すれば、独裁制でも導入しない限り、三派がそれぞれ民族自決を求めて・・より正確には、シーア派はスンニ派による支配から脱しようとし、クルド人はイラクから分離独立しようとして・・流血の事態となることを食い止めることはできないことを当時の英国は分かっていた。
 案の定、英国がイラクを独立させると革命が起こって君主制が廃止された結果、イラクは、当然のようにスターリンを彷彿とさせるサダム・フセインの世俗的独裁制国家になってしまった。

 ところが米国のブッシュ政権は、ここのところが全く分からずに、2003年に武力でフセインの独裁制を倒してしまった。しかも、倒した後、君主制を再導入しようとはせず、純粋な民主主義を「押しつけ」てしまった。英国のブレア政権もその一半の責任を免れることはできない。
 その必然的帰結がイラクの現在の苦境なのだ。
 しかも、イラクの現在の苦境は、イラクが石油産出大国であり、また、石油産出地域の中心に位置することもあって、米国、トルコ、イラン等がイラクに介入せざるをえないが故に、イラクの三派の三つどもえの流血についてイラクの三つの地域への分離だけではその完全な収束を図ることが困難なだけに深刻だ。
 この点についても、ブッシュ政権等はほとんど予見していなかったと言えよう。
 それに加えて、第一次世界大戦後の欧州とは違って、現在のイラクでは、民族自決の観念が猖獗を極めているだけでなく、イスラム原理主義(radical Islam)の観念が猖獗を極めており、このことが事態を更に深刻にしている。
 その結果、女性、同性愛者、宗教的少数派が迫害されるという、フセイン時代には想像もできなかった事態となっているのだ。

3 終わりに

 随分以前に(コラム#56で)フセイン政権打倒を見越してイラクで君主制を復活させようとする動きがあることに触れたことがありますが、ついに米国は君主制を復活させませんでした。
 私は、当時このことに呆れたものです。
 ようやく同じような考えの英国人に出くわし、改めて私の考えは間違っていなかったと心強い思いをしています。
 米ブッシュ政権の愚かさはどうしようもないとしても、せめて英ブレア政権がどうして君主制復活に向けて米国説得に動かなかったのか、いまだに理解できません。

太田述正コラム#1896(2007.8.7)
<過去・現在・未来>

1 始めに

 Mixiでの読者とのやりとりの一端をご披露します。
 本篇は即時公開します。
 太田述正掲示板も活性化してきたので、ぜひ訪問してみてください。

2 読者とのやりとり

<バグってハニー>
 コラム#1892(2007.8.3)「中共の欠陥食品問題(続)」に関連して、最近、興味深かったのは段ボール肉まん事件ですね。
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20070726idw3.htm

 私が興味深いというのには二つの理由があります。
 ひとつは中国市民も欠陥食品問題を気にしているという点。そうでなければ、このようなニュースが中国国内でニュース・バリューを持つことはないでしょう。
 二点目は、中国の報道機関がやらせまでして、政府に都合の悪いことを報道できた、という点。つまり、中国の言論・報道は開放されつつあるのではないでしょうか。
 中国の経済がグローバル化することによって、それ以外の制度や組織もグローバル化するということなのではないでしょうか。所詮、経済体制だけ自由主義のつまみ食いをすることなど許されないということなのでしょう。
 ですから、私の考えは「中国共産党一党独裁体制を支那が擲って自由・民主主義化しない限りこの問題を克服することはできない」、あるいは「今の経済体制を維持する限り中国は早晩、自由・民主主義化する」ということになります。

<太田>
 おなつかしやバグってハニーさん。
 そろそろ、消印所沢さんの消息も分かる頃かも。

 さて、肉まんダンボールやらせ事件も、仮に本当にやらせだったとすれば、TVニュース(ドキュメンタリー?)が欠陥商品であったということであり、必ずしもバグってハニーさんのおっしゃたような読み方はできないのではないでしょうか。
 いずれにせよ、以前にも申し上げたように、私は「中国共産党一党独裁体制を支那が擲って自由・民主主義化しない限りこの問題を克服することはできない」とも「今の経済体制を維持する限り中国は早晩、自由・民主主義化する」とも考えていません。
 後者の点については、改めてコラムで書きたいと思います。

 なお、
 トウ小平体制原因論を詳細に述べたニューズウィークの記事
http://business.nikkeibp.co.jp/article/world/20070803/131649/?P=1以下

は参考になります。
 この記事では、10年後もこの体制は変わっていないだろうと予想していますが、果たして?

<バグってハニー>
 私には中国には報道統制がきついという印象があったので。インターネットの検閲とか日本から見れば信じられないですよね。ですから、段ボール肉まん事件は、たがが緩んできた証拠かなと思いました。

 ところで、#1875(2007.7.22)「CIAの実相(その1)」に絡むことです。

 このコラムで名前の挙がったFBIのRobert Hanssen(旧ソ連のスパイだった)を題材にした「Breach」という映画を最近見まして、非常に面白かったです。
http://www.breachmovie.net/

 クリス・クーパー演じるところの老獪なハンセンを相棒の新米FBI捜査官エリックが追い詰めていくというストーリーです。スパイものにつき物の派手な銃撃戦とかないのですが、その分、本当のスパイとはかくありなん、という感じでよかったです。クライマックスはハンセンの捕り物劇なのですが、エリックはその場にも居合わせず、ポケベルでハンセン逮捕の報を受けるという地味な演出なのですが、手に汗握りました。よろしければご覧ください。

<バグってハニー>
 コラム#1895(2007.8.6)「10の決断と第二次世界大戦(その2)」について、前に同じこと書いたかもしれないですが一言。

 「日本が仏印(正確には南部仏印)侵攻を1941年7月に「決断」した時の首相は近衛文麿であり」

 その数ヵ月後に日本は乙案でこの南部仏印進駐を取りやめるとあっさり引き下がったんですよ、石油禁輸の解除を条件に。石油を止められて「タンマ!今の手は無しにして!」みたいなもんですよ。こんな見境のない外交はないです。
 北部仏印進駐によって日本はすでに鉄を止められていたわけで、さらに南進を続ければ米国がどのような対応をとるかなんて、少し考えれば分かるようなことです。まったく、当時の日本の指導者の「非理性的な決断」にも困ったもんです。
 ところで、国民党や共産党をファシズム呼ばわりするのは別にいいですが、三国同盟で正真正銘の本場のファシストと手を組んだ日本はそれでも民主主義的だったのですか?松岡のやり方は民主主義的だったの?

<太田>
>ところで、国民党や共産党をファシズム呼ばわりするのは別にいいですが、三国同盟で正真正銘の本場のファシストと手を組んだ日本はそれでも民主主義的だったのですか?松岡のやり方は民主主義的だったの?

 当時現在より更に甚だしい国際情勢音痴であった米国でも、さすがに日本の敗戦時点までに中国国民党を見限るに至りましたが、遡れば、米国は、中国国民党ではなく日本をこそ後押しすべきだったのです。いわんや米国は中国共産党については、一貫して敵視すべきであったのです。
 まあ、米国は仕方がないとしても、あの骨の髄から共産党嫌いのチャーチルだって、正真正銘の本場のスターリン主義のソ連とつるんでナチスドイツにあたったわけで、敵の敵は味方だ、というのはいつの世にも常識でしょう。敵の敵とつるむのは緊急避難的措置だということですよ。
 日本がナチスドイツと協力したのも、(松岡のように心底からそれを追求したバカもいたけれど、)マクロ的に見ればそれ以上でも以下でもありません。敵である米国の敵がたまたまナチスドイツだったということです。

<バグってハニー>
 コラムとは関係ないですが、こちらをご覧ください。
http://www.kunaicho.go.jp/gaikoku/300linneaus%20.html

 英国リンネ協会における天皇陛下による基調講演の原稿です。驚くべき博識と科学的洞察力に満ちています。しかも「原文【English】」ですよ。もちろん、誰か手助けする人はいたとは思いますが、正直びっくりしました。非常に頭が良い方なのですね。普段の寡黙は爪を隠してるだけみたいです。この講演の抜粋は

Essay: Linnaeus and taxonomy in Japan
Doctors at the Dutch Trading House on Dejima were a conduit for science into and out of Europe.
His Majesty The Emperor of Japan

として、Natureの7月12日号に掲載されました。このEssayというセクションは私の知る限りその分野の超大物だけが寄稿しています。世界の王族広しといえどもNatureとScienceに寄稿しているのは我らが天皇陛下だけではないでしょうか。想像ですけど。

<太田>
>天皇陛下<には>・・正直びっくりしました。非常に頭が良い方なのですね。普段の寡黙は爪を隠してるだけみたいです。

 言及された今上天皇の講演の概要は日本の新聞の電子版で読みました。
 確かBBCだったかが、Natureの上記へリンクを貼っていましたよ。

 ところで、今上天皇については私も同意見であり、このことは、私のコラムで今上天皇(皇太子時代を含む)を何回も採り上げている(コラム#214、215、824、934、939、1718)ことからもお察しいただけると思います。

 これらのコラムで、今上天皇が、支那事変の原因が支那側にあることを強く示唆されておられること、その一方で靖国神社参拝を昭和天皇同様、行おうとされていないことを指摘してきたところです。
 靖国神社を参拝されないのは、天皇家を国内外の政争から守るため、そして、昭和天皇同様、今上天皇も松岡のようなバカ(注)(狂人?)・・A級戦犯だが東條らと違って死刑にもなっていない・・を靖国神社が合祀していることに強い違和感を覚えておられるため、であろうと推察されます(
http://www.asahi.com/national/update/0804/TKY200708030506.html
(8月4日アクセス)、及び
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B2%A1%E6%B4%8B%E5%8F%B3
(8月7日アクセス))。

 (注)松岡は、1941年12月6日、日米開戦の方針を知り「三国同盟は僕一生の不覚であった」、「死んでも死にきれない。陛下に対し奉り、大和民族八千万同胞に対し、何ともお詫びの仕様がない」と無念の思いを周囲に漏らし涙を流した(
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20070107i202.htm?from=main2
。1月7日アクセス)

 いずれにせよ、その松岡だって、(普通選挙で選ばれた議員で構成される)衆議院で、外相として答弁しなければならなかったのですよ。
 どう考えたって当時の日本は、民主主義的な国家でした。

太田述正コラム#1668(2007.2.21)
<ガーディアンブログへの投稿(2度目)>

1 始めに

 前回、英ガーディアン紙のブログに投稿したのは、靖国問題についてでした(コラム#915、918??923)が、今回は、雅子妃についてのオーストラリア記者による本について(
http://blogs.guardian.co.uk/news/archives/2007/02/20/author_cashes_in_on_japanese_royalty.html
)です。
 今回、ガーディアンの投稿ポリシーが厳格になっているのにびっくりしました。
 前回は誰でもすぐ投稿ができたのに、今回は、まず登録しなければなりませんでしたし、その上いざ投稿しようとすると、その画面に、
We will remove posts that contain racist, sexist or offensive/threatening language, personal attacks on the writer or other posters, posts that exceed the maximum length, and posts that are off topic. Any poster who repeatedly contravenes the talk policy will be banned from posting on the website.
(=投稿中に、人種差別的、性差別的、あるいは攻撃的・脅迫的な言葉や<問題提起を行った>筆者や他の投稿子への個人攻撃が含まれているもの、上限の長さを超える投稿、もしくは話題とずれた投稿は削除されます。この方針にたびたび抵触する投稿子は当ウェブサイトへの投稿を禁じられます。)
という警告が記されている、という始末です。
 おかげで、投稿はどれも紳士的ではあるものの、やや面白みにかける観があります。

2 私の投稿内容

>I had long imagined that Masako having been the victim of merciless bullying was something that -- outside Japanese government sources -- fell in the area of common knowledge.
(cant2kant)

May be he is correct.
By the way, similar things were said of Michiko couple of years after she married Akihito, present Japanese Emperor.
I would like to offer another interpretation.
Remember that the reign of Akihito's family goes back to the 4 th century, which means Japan has the longest uniterrupted dynasty in the world.
Of course they were lucky for certain. At the same time, we can imagine how smart and industrious successive Japanese royal household members have been.
I personally felt so when I had an occasion to talk with Akihito in 1976 when he was still the crown prince.
Masako as well as Michiko are commoners. So it is quite natural they feel great stress when they join the imperial household from outside.

(仮訳:他の投稿子同様、私も敬称を略していることをお断りしておく。)

>私はかねてより、雅子がひどいいじめの被害者となってきたことは、日本政府関係者を除けば、常識の部類に属すると思ってきました。(cant2kant)

 その通りかもしれません。
 ただ、美智子が現在の天皇である明仁と結婚して数年経った頃、同じようなことが言われたものです。
 私がもう一つの解釈を申し上げましょう。
 明仁の家による統治は4世紀に遡ります。つまり、日本は世界で、中断なく続いた最長の王家を頂いているのです。
 もちろん、彼らが運が良かったことは事実です。しかし、同時にわれわれは、歴代の天皇家の人々がいかに明敏で努力家であったかを想像することができるのです。
 私自身、1976年にまだ皇太子であった明仁と会話を交わす機会があり、そう感じたものです。
 雅子も美智子も庶民の出です。従って、彼女たちが外から皇室に入った時に強いストレスを感じるのは極めて自然なことなのです。

3 終わりに

 今回も日本政府関係者らしき人物はもとより、日本人らしい人物による投稿すら行われていないように見受けられます。
 そこで私は、今後とも、機会があれば、投稿することとしたいと思っています。

太田述正コラム#12142006.5.2

<二人の名立憲君主(その2)>

 (E-Magazineでの読者の方々には、コラム#1211の大部分が文字化けで送れず、ご迷惑をおかけしました。5月4日と5日は、家族旅行をするので、コラム上梓はありません。この間、行楽地に行かれない読者の方々には、過去のコラムを読み返していただければ幸甚です。)

3 平時における名立憲君主:エリザベス女王

 (1) 卓越したガバナンス

 エリザベス2世(注2)は、今年4月21日に80歳になりましたが、これを祈念して英国と米国で出た記事をそれぞれ一つずつご紹介しましょう。

 (注2)正しくは、エリザベスは、世界の16カ国の元首を兼ねている。それは、英国・カナダ・オーストラリア・ニュージーランドのほか、ジャマイカ・バルバドス・バハマ・グレナダ・パプアニューギニア・ソロモン諸島・ツヴァル・セントルシア・セントヴィンセント/グレナディン・アンティグアバーブーダ・ベリーズ・セントキッツ/ネヴィスだ(http://en.wikipedia.org/wiki/Elizabeth_II_of_the_United_Kingdom。5月2日アクセス)

まず、王制廃止を社論として掲げる英ガーディアン紙の社説(http://www.guardian.co.uk/monarchy/story/0,,1757958,00.html。4月21日アクセス)です。

 <エリザベス>がわれらの風景の恒常的な一部を占めている感じがするのは、単に長年月にわたって在位しているからだけではない。彼女は国家元首という困難な役割を半世紀にわたってほとんど失敗なく勤め上げてきた。この仕事は政治的中立性を要求されるが、54年間にわたって彼女の一つ一つの言葉が注目される中で、まさに彼女は政治的中立という印象を与えてきた。彼女の在位期間中の新聞にすべて目を通したとしても、失言・危機・私的発言の漏洩とその否定、といったことを見出すことはできないだろう。まさに彼女は、大英帝国の幕引き・冷戦・1970年代の労働争議・1980年代のサッチャー革命を目撃しつつ、自分の意見を一切口にすることなく、きっちりと自らの役割を演じきってきた。

 これはたやすい業ではない。短い在位で終わった彼女の伯父のエドワード8世のアドルフ・ヒットラーへのご執心を思え。彼女の母親の大戦前の対独宥和派への親近感の表明を思え。彼女の夫の度重なる人種的「冗談」を思え。より直截的には・・・彼女の息子のチャールスを思え。・・エリザベスとこれほどかけ離れたやり口はあるまい。

 これは掛け値無しに真実なのだが、人気を維持することとトラブルを回避するという通常の基準に照らして、エリザベス・ウィンザーは、政治家ではないのだけれど、現代における最も卓越した政治家であると判定されてしかるべきだろう。

 次いで、かつて英国王に反旗を翻して独立した米国の高級大衆雑誌タイムの記事(http://www.time.com/time/world/printout/0,8816,1183855,00.html。4月16日アクセス)です。

 女王の生来の慎ましい生活ぶり(ただし、競走馬への趣味を除く)は良く知られている。・・青年時代に、彼女はより大きな善のために身を捧げ、義務を遂行するという観念を身につけた。そして21歳の時に「私の全生涯が長かろうと短かろうと、あなた方<(国家・国民)>のために捧げます」と言ったがこれは掛け値なしの発言だった。爾来この核心的な古き価値観を堅持してきている。・・勲章を授与する時は、被授与者の経歴を勉強し、それを数字のメモにまとめ、その者がお目見えした時に侍従がこのメモをささやき、女王は適切な会話を始める。彼女はこの会話が被授与社の家族や友人達に伝わっていくことを知っている。(女王は読むのは早いし恐るべき記憶力を持っている。)・・侍従達は、女王が信じがたいほど物事を良く知っていて、かつ観察眼が鋭いと言う。「彼女の細部を記憶する力、そして何が正しいかを判断する力は、この上もなく卓越している」とも。・・<チャールス皇太子の弟の>アンドリュー王子は、畏怖すら示しつつ、「引用していただいてよいが、女王の情報ネットワークは、<バッキンガム>宮殿内の誰よりも優れている。誰も逆立ちしてもかなわない。彼女は何でも知っている。すべてをだ。とにかく知っているのだ。どうやってそんなことができるのか私には分からない。」と語った。

 (2)英王室の将来

 英国で今年の2月に行われた世論調査によれば、英国は王制を廃止して共和制にすべきだとする人は19%に過ぎませんでした。1969年当時に比べて1%しか増えておらず、あらゆる世論調査項目のうち、これほど安定して推移しているものはないのだそうです。

 これは、エリザベス2世個人の資質と努力のたまものなのではないでしょうか。

 それは、別の世論調査で、英国人の81%10年後も王制は維持されていると考えているものの、50%年後にも維持されていると考えている人は32%しかいないことから分かります。

 (以上の世論調査の数字は、タイム誌の上掲記事による。)

4 感想

 まことに現代は、君主にとって、とりわけ立憲君主にとって過酷な時代であると言えるでしょう。

 その現代において、未曾有の敗戦を挟んで64年間の長期にわたって在位した日本の立憲君主、昭和天皇の資質と努力がどれほどのものであったか、想像を絶するものがありますね。

(完)

太田述正コラム#12132006.5.2

<二人の名立憲君主(その1)>

1 始めに

 今年即位60年を迎える、存命の立憲君主としては世界最長在位記録を誇るタイのプミポン国王と、今年即位54周年を迎えた、日本の天皇と並んで世界で最も多数の「臣民」に君臨する英国・カナダ・オーストラリア・ニュージーランド等の立憲君主たるエリザベス女王は、どちらも名君であり、暗君であるネパールのギャネンドラ国王とは好対照です。

 今回は、プミポン国王の危機対処の鮮やかさと、エリザベス女王の平治の卓越したガバナンスを中心に彼らの名君ぶりについてご紹介することにしました。

2 危機における名立憲君主:プミポン国王

 (1)鮮やかな危機対処

タイのタクシン(Thaksin Shinawatr首相に対する市民団体の辞任要求が高まる中、同首相が2月24日に下院を解散したところ、主要3野党は選挙ボイコットで応じたため、与党候補1人しかいない選挙区が7割近いという異常な状況下で4月2日に投票が行われたのですが、大量の白票のために、20%の法定得票率を満たせない与党候補が続出し、2度の再選挙(補選)を経てもなお14議席が決まらないままとなっていました(コラム#637112011211176)。

そこに、満を持してプミポン(Bhumibol Adulyadej)国王(78歳)が、4月26日、新任の最高、憲法、最高行政の各裁判所長官を前にして発言を行いました。彼のもうすぐ60年になろうとする治世における三度目(注1)の内政への介入です。

(注11992年に親クーデター勢力と民主勢力の抗争を、両勢力の指導者を王宮に呼びつけて「解決」したのが一度目の介入であり、2003年にプノンペンでタイ大使館が焼き討ちされ、プミポン国王の肖像が冒涜されたことに憤り、バンコックで暴徒がカンボジャ大使館を襲った時に、国民に呼びかけて暴徒を沈静化したのが二度目の介入だ(http://en.wikipedia.org/wiki/Bhumibol_Adulyadej。5月2日アクセス)

国王は、タイの状況を「めちゃめちゃ(mess)」であるとした上で、4月の下院選は「非民主主義的」であるとし、国王は暫定首相を任命する権限を持っていないとし、裁判所長官らにこの危機を解決せよ、さもなくば辞任せよ、と迫ったのです。

更に、「何でも国王に頼るな。国王にそんな権限はない」とも述べたのです。

この国王の発言を受け、それまではなすところを知らなかった最高、憲法、最高行政の各裁判所長官は、前例のない長官合同会議を4月28日に開き、その結果、最高行政裁判所は、下院選の二つの補選を無効との決定を下しました。これは実質的に4月2日の下院選挙そのものの無効、やり直しを求める決定であると受け止められています。

下院選をボイコットし、4月2日の下院選を無効とした上で国王に、憲法改正等を行うための中立的な暫定首相の任命を求めていた民主党など3野党連合(People's Alliance for Democracy PAD)、国王のこの発言を受けて既に4月26日に無条件で28日の裁判所の決定に従い、改めて下院選が行われるなら参加すると表明しており、政府・与党(Thai Rak Thai partyも、26日にも予定していた、(憲法を無視し、定員割れのままでの)国会開会の勅令を国王に求めることを取りやめていたことから、これで一件落着となりました。

(以上、特に断っていない限りhttp://www.yomiuri.co.jp/world/news/20060426i216.htm(4月27日アクセス)、http://observer.guardian.co.uk/world/story/0,,1764534,00.html(4月30日アクセス)による。)

考えてみれば、これは、タクシン首相の大勝利であり、もっと早い時点で、こんなラインで国王が介入しておれば、強い反発を受けた可能性があります。

待って待って絶妙のタイミングで介入したところに、プミポン国王の並々ならぬ智恵を感じますし、それにしても彼の権威は大変なものだ、と改めて感じます。

(2)権威の構築

タイの王室の人気は、プミポン国王の伯父の先々代国王の時には地に堕ちていましたが、プミポン国王の兄の先代国王の時に少し持ち直していたところ、それを現在の世界の王室の中で最高の人気にまで高めたのはプミポン国王です。

彼は、スイスで中等・高等教育を受け、理科系と文科系双方の学問を身につけた人物であり、プロ級のジャズ音楽家にして作曲家であり、画家・写真家・作家・翻訳家としても一流です。また、現在の世界の君主のうちただ一人、様々の特許を有する科学技術者でもあります。

このような高い資質を有するプミポン国王が、就任以来、タイ全国を隅々まで訪れ、農村地帯で医療や農業の振興を図るとともに、タイにおける民主主義の進展・定着を図るという努力を重ねてきたのですから、タイ王室の人気が否応なしに高まり、プミポン国王その人が絶大な権威を構築したことは不思議ではありません。

(以上、http://en.wikipedia.org/wiki/Bhumibol_Adulyadej前掲による。)

(続く)

太田述正コラム#0215(2003.12.24)
<天皇家の歴史観(その2)>



 (前回のコラムで、「日支事変」は「支那事変」(当時の日本政府による正式名称)に改めました。なお、後で気がつきましたが、「上海事変」ならぬ「上海事件」というのは、昭和天皇の使われた表現です(「昭和天皇独白録」文春文庫34頁)。)



 要するに陛下は、支那において日本人が被害を受けたことが支那事変につながって行ったと示唆しておられると私は考えるのです。



 この日本側が被害者だったというスタンスは、ご発言とお答えの全体を通じて貫かれています。
 先の大戦・・当然のことながら、大東亜戦争とも太平洋戦争とも言っておられません・・で(支那人等の死者の数がはっきりしないということもありますが、)日本人の死者の数だけを具体的に挙げられつつ、日本人も外国人も「生命が失われ」と客観的な言い方をされた上で、戦後の原爆後遺症やシベリア抑留、或いは沖縄戦での被害や沖縄の本土復帰が遅れたことに言及されており、これは「日本」の天皇だからそのような言い方をされた、という域を超え、支那事変の相手方たる中国国民党と中国共産党、とりわけ先の大戦の主たる相手方たる米国とソ連を批判されている、としか私には受け止められないのです。



 これに対し、日本の国内の事件に対しては陛下の暖かいまなざしを感じます。
 「5・15事件や2・26事件があり、・・政党内閣も終わりを告げ・・首相、前首相、元首相、あわせて4人の命が奪われるという時代」の背景として「厳しい経済状況下での国民生活、冷害に苦しむ農村」を挙げておられるくだりです。



 以上の解釈については、私の思い入れが過ぎているとは思いません。
 多分、間違いなく陛下の真意をとらえているはずです。
 というのは私は、ホンネをストレートに語れない中で、微妙な言葉遣いや話の構成の行間にホンネを託す、という作業を二度にわたって防衛白書(1982年と1999年)の編纂作業で行った経験があり、同じような立場にある他人の文章や発言のホンネを汲み取ることにかけてはちょっと自信があるからです。
 陛下は、二度とないかもしれない機会をとらえ、相当のご決意を持って、日本国民に対し、ご自分の生涯を振り返る形でご自身の、ひいては天皇家の歴史観を吐露されたのでしょう。



 陛下にはまだ皇太子であらせられた1976年に、東宮御所で開かれた、国家公務員を対象にした政府留学生制度で二年間留学して帰国した者を対象にした茶話会に招かれ、お目にかかったことがあります。その折に、殿下は出席者の一人ひとりとお話をされたのですが、笑顔を絶やさず各人と実に的確な質疑応答をされ、公務に何と真摯に取り組む方かと思いました。
 その時の出席者の一人のN・・私と同じくスタンフォード大学に留学・・は後日、改めて一人だけ再び東宮御所に招かれ、皇太子ご一家から歓待を受けたと本人から聞きました。Nは政治学者を志し始めていた古風な日本主義者で一種の天才でしたが、二言三言話をかわしただけでNに注目された皇太子殿下の眼力の鋭さに舌を巻くと同時に、色々お悩みがあったと拝察されますが、次に天皇となられる殿下の自己研鑽ぶりとお子様達の啓発に向けてのご努力に感じ入ったものです。



 世界で最も古い日本の君主制は、このように使命感を持ち、自己研鑽を怠らず、なおかつ「適切」な歴史観を持った天皇が、「ほぼ」歴代続いたからこそ維持されてきたのです。

太田述正コラム#0214(2003.12.23)
<天皇家の歴史観(その1)>



 天皇陛下は、70歳の誕生日を前にして、記者団のインタビューに臨まれ、まず過去70年間を振り返り

、「この70年の間には、多くの悲しい出来事がありました。最も悲しい出来事は、先の大戦で300万人以上の日本人の命が失われ、また、日本人以外の多くの外国の人々の命が失われたことです。さらにこの戦争では、戦後も原子爆弾による放射能や、ソビエト連邦への抑留などにより、多くの人々が犠牲となりました。」と発言された上で、質疑応答の中で、平和であったご自分の平成の最初の15年間とお父上の昭和天皇の即位後の15年間を比較され、「昭和の15年間はまことに厳しい期間でした。日本はこの期間、ほとんど断続的に中国と戦闘状態にありました。済南事件(注1)、張作霖爆殺事件、満州事変、上海事件、そして、昭和12年から20年まで継続する戦争がありました。さらに、昭和14年にはソビエト連邦軍との間にノモンハン事件が起こり、多くの犠牲者が出ました。国内では、5・15事件や2・26事件があり、また、5・15事件により、短期間ではありましたが大正年間から続いていた政党内閣も終わりを告げました(注2)。この15年間に首相、前首相、元首相、あわせて4人の命が奪われるという時代でした。その陰には厳しい経済状況下での国民生活、冷害に苦しむ農村の姿がありました。そして、戦死者の数も増えていきました。・・沖縄県と言いますと、私どものまず念頭にあるのは、沖縄島、そして、伊江島で地上戦が行われ、非常に多くの、特に県民が犠牲になったということです。・・この沖縄・・で・・58年前に非常に大きな血が流されたということを常に考えずにはいられません。沖縄が復帰したのは31年前になりますが、これも平和条約が、日本との平和条約が発効してから20年後のことです。・・私にとっては、沖縄の歴史をひもとくということは、島津氏の血を受けているものとして心の痛むことでした。」とお答えになりました。



 (注1) 中国国民党による北伐の過程で、国民党軍が山東省済南市に入城した際、兵士が日本人経営の商店で略奪行為を行ったことをきっかけに、派兵されていた日本軍との間に衝突が起こり、その衝突の過程で、日本側に戦死9名、負傷32名、居留民の惨殺14名、被害戸数136戸に及ぶ被害が発生したが、この事件を済南事件という(http://www.history.gr.jp/showa/226.html及びhttp://military-web.hp.infoseek.co.jp/shiryou/santou.htm(以下の典拠は、すべて12月23日アクセス))。
     中国側ではこの事件を五三事件と呼び、日本軍は公然と国際法を破り、交渉に当たっていた国民党政府外交官ら17人の殺害をし、彼らを含め、中国側に死傷者およそ8,000人が発生した、としている(http://fpj.peopledaily.com.cn/2003/05/04/jp20030504_28514.html)。
     この事件の背景には、田中義一内閣の居留民保護のための山東出兵(1次??3次。1927??29年)があった(http://www.tabiken.com/history/doc/H/H183R200.HTM)。また、済南事件後、親日派に代わって親英米派が国民党政権を牛耳るようになる(http://www.glocomnet.or.jp/okazaki-inst/hyakuisan38.html)。



 (注2) 張作霖爆殺事件(1928年)、満州事変(1931年)、上海事件(1932年。ミスプリでないとして、「事変」と言っておられない点は興味深い)、昭和12年から20年まで継続する戦争(1937??45年。支那事変、日華事変、あるいは日中戦争、といった名称をあえて使われなかった点は細心の注意を払われたということだろう)、ノモンハン事件(1939年)、5・15事件(1932年)、2・26事件(1936年)



 さて、最初のご発言は、書かれた紙をお読みになったものです(以上、陛下のご発言とお答えはhttp://www.asahi.com/national/update/1223/010.htmlによる)し、後のお答えも、恐らく事前に提出された質問に対して、周到に用意されたお答えを思い起こしながらお答えになったものだと思います。
 しかし、その中から陛下の歴史観がにじみ出ていると感じたのは私だけではありますまい。恐らくこの歴史観は、お父上の昭和天皇のご薫陶のたまものでもあるのでしょう。
 
 まず、支那事変に至る経緯の冒頭に済南事件が挙げられていることが注目されます。つまり、事件の背景たる山東出兵や、更にこの山東出兵の背景たる南京事件(注3)ではなく、日本側が支那側から被害を受けたこの済南事件(この事件で支那側も外交官等が殺害されたと主張しているが、根拠薄弱)が冒頭に挙げられていることです。



 (注3) 1927年、二百人の中国軍兵士と女子供を含む数百人の支那人暴徒が南京の各国領事館を襲撃し、日1英2米1伊1仏1デンマーク1が死亡した事件。このとき日本は無抵抗を貫いたが、揚子江上の米英軍艦艇は砲撃を行い、支那側はこの砲撃(ただし、日本も砲撃したことになっている)により軍民2000余が死傷したとしている。(http://www.asahi-net.or.jp/~ku3n-kym/doyoyon/doyoyo11.html
ちなみに、陛下のお答えの中に、(大虐殺があったかどうかが争われている)1937年の南京事件への言及がないのは、危うきに近寄られなかったというよりも、第一に陛下は日本側の被害を中心に論じておられること(本文で後述)と、そもそも南京事件が支那事変勃発後、同事変の過程で起こった事件であることから、言及されなかったということだろう。

(続く)

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