カテゴリ: 映画評論

太田述正コラム#9083(2017.5.9)
<赤毛のアンを巡って(その2)>(2017.8.23公開)

3 戦後日本女性知識人批判

 戦後の日本の女性知識人達の元祖的存在と言えば、女性で初めて、東大教授になり<(注5)>、日本学士院会員になり、学術系としての文化勲章受章者、になった中根千絵(1926年〜)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%A0%B9%E5%8D%83%E6%9E%9D
でしょうが、彼女は、いわゆる戦後近代主義者達の一人であるところ、結果的に彼女の代表作となった『タテ社会の人間関係』(1967年)での主張は、以下のようなものでした。

 (注5)教員どころか、そもそも、戦前は東大は女子学生すら受け入れていなかったが、それは、東大と京大に限った話であり、その他の諸帝国大学では、1913年の東北大を皮切りに、女子学生を受け入れ済みだった。
http://www.morihime.tohoku.ac.jp/100th/rekishi.html

 「インドはカースト制で、英国は階級制。同じ階層でつながる機能をもつヨコの関係に対して、日本の社会は常にタテになっている、と。論文では分析する用語として「資格(属性)」と「場」を設定しました。どの社会にも資格と場はあり、インドや英国では資格が重要なのに対し、日本ではどんな職業かという「資格」より、○○会社の構成員という「場」が重視される」
http://www.sankei.com/life/news/141124/lif1411240024-n1.html
ところ、「他の国であったならば、その道の専門家としては一顧だにされないような、能力のない(あるいは能力の衰えた)年長者が、その道の権威と称され、肩書をもって脚光を浴びている姿は日本社会ならではの光景である。」
http://www.e-takahashi.net/reading/reading14.html

 これは、普遍的であるところのカースト社会や階級社会・・太田コラム読者なら先刻ご承知のように、イギリスが階級社会であるというのは間違い・・、に対するに、特殊的であるところのタテ社会、そして、(恐らくは、カースト社会は脱落し、)先進社会であるところの階級社会、に対するに、後進的であるところのタテ社会、という自虐的な日本/世界観です。
 (本当のところは、その真逆だというのにね・・。)
 とまれ、中根の場合は、当時、東大を中心として、丸山眞男に代表される近代主義者達が日本の人文社会学界を牛耳っていた、という時代背景を思えば、情状を酌むべき余地があります。
 しかし、ジェンダー論の領域に限らないし、女性にも限らないのですが、いまだに、越智、吉原両名に象徴されているように、日本では人文社会科学の世界は近代主義者が大部分、というのは困ったものです。
 (日本は、女性優位/男性差別、社会なのであって、戦前、例えば、選挙権が男性に限られていた、といった一見逆の様相が見られたのは、明治維新以来の弥生モード下において、フォーマルな世界に欧米の男性優位/女性差別的な諸制度が継受されていたからに過ぎません。
 そんな日本社会でのジェンダー論は、いわば逆ジェンダー論でなければならないというのに、そんな発想は、恐らく、依然として皆無なのでしょうね。)
 こんなことでは、皮肉な見方をすれば、一般の日本人達の、のみならず、占領時代の英米の日本社会観のままであるBBC記事の論調が示しているような、欧米の、日本/世界観ににおける深刻な誤りを是正せず放置することによって、中共当局が追求してきたところの、ステルスでの支那の日本文明継受戦略による、日支を中軸とするアジア復興を実現させると共に、欧米の没落を促進させる、という大陰謀の片棒を、日本の知識人達が意識的無意識的に担いでいる、という誹りを受けても仕方がないでしょう。
 
4 宮崎駿の描く女性像

 ところで、「アニメ[シリーズ(1979年)の]・・・『赤毛のアン』<は、>・・・高畑勲が演出(監督)、宮崎駿が作画スタッフ、としてクレジットに名を連ねた最後の作品となった。
 宮崎駿は「アンは嫌いだ。後はよろしく」と述べて『ルパン三世 カリオストロの城』へと去っていった。
 しかし、アンのイマジネーション豊かで自然の中で一人で遊ぶのを好むキャラクターが後の宮崎作品のヒロイン達に大きな影響を与えているのは明らかであり、アンを嫌いというのは確実に本音ではない。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E6%AF%9B%E3%81%AE%E3%82%A2%E3%83%B3_(%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%83%A1) (上の[]内も)
という、このアニメシリーズのウィキペディアの記述を読んで、宮崎が「アンを嫌いというのは確実に本旨で」あるはずなのに、何を馬鹿なことを言っているのだ、と思いましたね。
 「これまで<ディズニー等の>マスメディアは、王子様とハッピーエンドになる物語や、家庭や恋愛を中心とする物語などで女性を受動的で従順に描く傾向があり、男性に主人公や指導的な役割を多く与えてきた。しかし、宮崎作品においては女性の生き方<は全く>異なる」
http://www.jissen.ac.jp/seibun/archives/contents/etext/gradtheses/2004/Fujita.pdf
ことは、ご承知の通りですが、宮崎の諸作品に登場する女性像は、日本の女性の古来からの理念型に忠実なものに他ならないのであって、断じて『赤毛のアン』の影響を受けたもなのではないからです。
 そもそも、『赤毛のアン』は、アンが、「王子様<のような男性>とハッピーエンドになる物語」なのですから・・。
https://en.wikipedia.org/wiki/Anne_of_Green_Gables
 (どういうわけか、この本の日本語のウィキペディアのプロットの説明文では、この肝心の結末が端折られてしまっています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E6%AF%9B%E3%81%AE%E3%82%A2%E3%83%B3 前掲)
 宮崎のこのような女性像は、彼の母親から得たものである、と私は想像しています。

 「兄(宮崎駿監督)が幼いころのことですが、母が7〜8年入院してたことあるんですよ。寂しい思いをしたんでしょうね」(弟の宮崎至朗氏談)」
http://kawaiijewelry.blog.shinobi.jp/%E6%9C%AA%E9%81%B8%E6%8A%9E/%E5%AE%AE%E5%B4%8E%E9%A7%BF%E4%BD%9C%E5%93%81%E3%81%A7%E3%81%AE%E5%A5%B3%E6%80%A7%E5%83%8F%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6%EF%BC%88%E4%B8%89%EF%BC%89
 彼は三人兄弟で私は一人っ子という違い、彼の母親は彼が生まれた後に長期療養し、私の母親は私が生まれる前に(結核で)長期療養したという違い、こそあるけれど、私の母親も、大手術を受けて治癒はしたものの、体は弱ったままで、何もなくても横になっていることが多く、宮崎と私の小さい頃の母親との関係は似通っています。
 私の母親が、私によく話をしたのは、自分が丈夫だったら、若い頃同様、バリバリ働いて自活できるようになりたい、ということと、(同じ結核で20代で亡くなった、)私の母親の一番上の兄が優秀で選挙の時は応援演説の弁士として引っ張りだこだった、ということでした。
 今にして思えば、私の母親自身に政治家になりたい気持ちが、どこかに少しあったのかもしれません。
 宮崎が、やはり、母親から、似たような話をよく聞かされたとしても決して不思議ではありません
 だって、まさに、日本の女性達は、古来から、男性達を操縦しつつ、日本の広義の経済活動や政治活動を実質的に担ってきた存在なのですからね。

(完)

太田述正コラム#9081(2017.5.8)
<赤毛のアンを巡って(その1)>(2017.8.22公開)

1 始めに

 本日のディスカッションで予告した、『赤毛のアン』<(原題: Anne of Green Gables)>・・カナダの作家L・M・モンゴメリが1908年に発表した長編小説。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E6%AF%9B%E3%81%AE%E3%82%A2%E3%83%B3
・・についての記事
http://www.bbc.com/news/world-us-canada-39809999
のさわりをご紹介し、私のコメントを付します。

2 記事のさわり

 「・・・<日本人の『赤毛のアン』への>愛は、第二次世界大戦勃発の直前に始まった。
 一人のカナダ人宣教師が、その教え子の村岡花子<(注1)>に、この本を一冊与えたのだ。

 (注1)1893〜1968年。「日本の翻訳家・児童文学者。児童文学の翻訳で知られ、・・・基督教文筆家協会(現日本クリスチャン・ペンクラブ)初代会長・・・クリスチャンである父の希望により、2歳で・・・幼児洗礼を受ける。<ミッション系の>東洋英和女学校卒・・・福音印刷合資会社の経営者で既婚者・・・と出会い、不倫の末、1919年に結婚し、村岡姓となる。・・・第二次世界大戦中は大政翼賛会後援の大東亜文学者大会に参加するなど、戦争遂行に協力的な姿勢を取った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E5%B2%A1%E8%8A%B1%E5%AD%90

 この愛は、この物語に鼓吹された、アニメ・シリーズ、マンガ、映画、として、今日まで続いている。
 こういう形で、『アン』は、単なる欧米からの文化的輸入物ではなく、もっぱら日本人たる観客を対象にした、日本の芸術家達や作家達によって、解釈され、再解釈されて、日本の文化そのものになっているのだ。
 「一般的に言って、我々は模倣に長けている」、と、自身の第一年度のカリキュラムに『アン』を含めているところの、筑波大学の文学の教師である吉原ゆかり<(注2)>は言った。・・・

 (注2)筑波大学人文社会系准教授(専攻:日本文学、ジェンダー)。福岡女子大学文学部英文科卒(1987年)、九州大学修士(1991年)、筑波大学博士(2004年)。
http://www.trios.tsukuba.ac.jp/researcher/0000000176

 『アン』は、とりわけ日本の女性達の間で人気がある、と吉原女史は言う。
 なぜなら、Green Gablesは、キュートで、ロマンティックで美しいことを意味する日本語である、「カワイイ」に満ちているからだ、と。
 彼女達は、それが美しい景色とパフ・スリーブ(puff sleeves)とキュートな諸事柄に満ちているからだ、と彼女は言う。・・・
 しかし、『アン』を愛する人々は少女だけではない。
 吉原女史の<男性の>教え子の高橋ゴウ(漢字不明)>もまた、『アン』のファンであり、彼はその諸本についての卒業論文を書いている。
 「私は、アンの性格が好きだ。私は、お喋りで、人に迷惑を殆どかけず、他人達それぞれの気持ちを考慮する人物、に惹き付けられる。だから、アンは私にとっては完璧<な存在>なのだ」、と彼は言った。・・・
 <米国の有料ケーブルTVで、カナダ放送協会が共同制作するアン(Anne)の新シリーズが>5月12日に始まる。・・・
 ・・・<このシリーズでは、>この本の女性同権主義的な(feminist)隠された裏の意味(subtext)をふんだんに使用することで、アンを聖人というよりは逆境克服者(survivor)として描写することを選択している。
 この隠された裏の意味は、日本においても枢要(essential)なのだ、と吉原女史は言う。
 教室で、彼女は『アン』を教えるのが好きだ。
 というのも、この本は、学生達がジェンダー・・日本の社会ではそれはしばしばタブーと考えられている・・について語らせるための、一種の入口だからだ。

⇒ここは、恐らくは吉原の言なのでしょうが、、私のような門外漢にとっては、意味不明です。
 どうやら、「男らしさや女らしさとは、本来、生物的な男性・女性が社会的にいかにあるべきか、という価値観の問題である。そのため、生物的性と社会的性は同一視すべきではないものの、相互に深い関わりを持つ。しかし、日本のフェミニズムは両者の関わりを重視せず、社会的性の虚構性を批判し、これを解体することを目的とする傾向が主流を占める。そのため、ジェンダーといえば、生物学的性別の社会的意義を否定するためのプロパガンダ的用語であるという偏向した理解が、保守派のみならずフェミニストたちにすら広く見られる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BC
といったことのようですね。(但し、このくだりには典拠が付いてない!)(太田)

 「我々は、通常、ジェンダーが、教育、ファッション、或いは、いかに我々が振る舞うか、といった日常的諸論点といかに関係しているかについて、子供達に教えない」、と彼女は言う。
 そもそも、『アン』が日本で出版されたのは、恐らくはこのためなのだろう」、と彼女は付け加える。
 日本の学者である越智博美<(注3)>を引用しつつ、吉原女史は、『アン』は、戦後に日本を速やかに民主化する計画の鍵となるもの(part)であったのかもしれない、と説明する。

 (注3)一橋大学商学研究科教授。お茶の水女子大学卒(英文学)(1885年)、同大博士(比較文化)(1992年)。研究テーマ:<米>南部文学、19世紀末から20世紀初頭にかけての<米>女性の表象、冷戦期における言説のジェンダー性。
https://hri.ad.hit-u.ac.jp/html/50_profile_ja.html

 この物語を秘密裏に戦時中に翻訳した村岡は、1952年に出版するが、この本は、連合国に占領された日本で、米国務省が運営していた図書館群に広範に配布された。
 一人の孤児の少女がその心と頭がいかなる少年のそれらとも同等に良いことを証明する、という、その中心的な物語は、伝統的な日本の<男女>ジェンダーのそれぞれの役割から女性達を解放することを狙った、一種の恵み深い(benign)リベラル・プロパガンダとして使われた(served)、と彼女は言う。・・・
 「私は、<主人公の>アン・シャーリー(Anne Shirley)が、完全に逸脱することが全くなく、ある程度、行動で示す(acting out)一つの方法を提供していると思う」、と<千葉のカナダ村のGreen Gablesのレプリカについてのドキュメンタリー映像を作成したことがある>テリー・ドーズ(Terry Dawes)<(注4)>は言う。

 (注4)カナダのモントリオールを拠点としているコピーライタにして編集者。コンコルディア(Concordia)大修士(芸術・映像制作)。
http://www.cantechletter.com/author/terry-dawes/
 コンコルディア大は、「モントリオールに本部を置くカナダの公立大学<で、>・・・ジャーナリズムと映像、写真や演劇等などを中心とした芸術系分野においては世界的に知られて<いる。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%B3%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E5%A4%A7%E5%AD%A6

 「究極的には、彼女は、自分の家族、すなわち、自分が養子になった家族、のために正しいことをするのだ」、と。
 アンは、順応者(conformist)であると同時に革命家なのであり、ロマンティストであると同時に過激派(radical)なのだ。
 「ある意味で、我々は、Green Gablesのアン<、という小説>は、解放(liberation)の夢の物語であると信ずるべく錯覚させられている(tricked)」、と吉原女史は笑いながら言う。
 しかし、<仮にそうだとしても、>それは、人々のアンへの愛が冷めることを意味しない」、と。」

(続く)

太田述正コラム#8937(2017.2.25)
<映画評論49:ザ・コンサルタント(その5)>(2017.6.11公開)

 この映画は、非典型的神経者(non-neurotypical)の値打ちと価値についての衷心からの宣言で終わっている。
 共感的なセラピストが、<自分達の子である主人公のことを>心配しているカップルにこう説明する。
 あなたの息子さんは劣っているのではありません。異なっている<だけな>のです」、と。
 しかし、自閉症の人間がヒーローになるためには、他のあらゆる超能力を持った戦闘諸装置と全く同様に超能力を持った戦闘装置たらざるべからず、というのだから、この映画は、果たして、自閉症の人々に本当に同情的である、と言えるのだろうか。
 子供が自閉症であるところの、作家であるジョフ・トッド(Geoff Todd)は、この映画の予告編を観て、『レインマン』以来だが、ハリウッド映画の、驚くべき諸能力を持った自閉症の人々についての強迫観念について、こう記している。
 トッドは、「私の子供は約6年前に自閉症と診断されたが、以来、少なくとも一週間に一回は、彼がどんな特別な技量を持っているのか、と聞かれる」、と言う。
 「我々は、今2016年に生きているが、再び別の映画が、サヴァン的性質の優れた特定の特権(perk)を持つとの属性を<登場人物に>付与しようと試みている」、と。
 この映画は、陳腐なアクション場面が中心の、陳腐なハリウッド・アクション映画を制作するために、障害の陳腐かつ誤解を与える描写を用い、その上で、<障害者は劣っているのではなく、単に>異なっているのだ、ということを抱懐することの重要性についてほざいている、と。
 かかる抗議の諸宣言(protestations)にもかかわらず、この映画を同種の映画群から区別しているところのものは、その、イライラさせられる、手掛かりなき偽善であり、その冴えない題名、だけだ、とも。」(十三)

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[日本のサヴァン症候群者]

 日本人でサヴァン症候群者として名前が挙がっているのは以下のような人々だ。
 大江光、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E7%97%87%E5%80%99%E7%BE%A4
山下清、松村邦弘、そして、ジミー大西。
https://matome.naver.jp/odai/2139391709218820701
 しかし、大江と山下に重度の精神障害があるのは確かだが、大江の音楽作品にせよ、山下の絵画作品にせよ、その評価については微妙に意見が分かれるかもしれないが、「通常」のプロの作品以上でも以下でもなく、超人的なものは何も感じられない。
 他方、松村と大西は、コミュニケーション能力を含む人間関係構築・維持能力が問われる活動中最たるものであるTVタレント活動ができている(できていた)のだから、重度の精神障害があるとは考えにくく、彼らがいかなる絵画等の作品を生み出しているのかは詳らかにしないが、サヴァン症候群者の定義にそもそも合致しないのではないか。
 私は、日本にはサヴァン症候群者はいないのではないか、という気がしている。
 仮に、日本以外には、サヴァン症候群者がいるのだとすれば、精神障害の発現形態が文明によって違う、ということかもしれない。
 もっとも、仮にそうだとすると、欧米、就中米国を中心に発展してきた精神医学には普遍性が必ずしもない、ということになりかねないが・・。
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6 肝心なこと・・終わりに代えて

 私自身は、「啓蒙された殺人者」であることと並んで主人公の属性として重要であると考えているところの、彼が慈善事業家であることに、評者達が誰一人触れていないことはちょっとした驚きでした。
 この映画の日本語ウィキペディア(A)には、主人公が自閉症/サヴァン症であることすら出て来ないのですから、出て来なくて当然なのですが、さすがに、この映画の長文の英語ウィキペディアには、ちょっぴりではあるけれど、下掲のようにそのことが言及されています。↓

 「主人公は、<自分が子供のころに自閉症対策で世話になった>ハーバー(Harbor)神経科学研究所に、相当な額の税還付を受けさせると共に、諸寄付を行ってきた。・・・
 <主人公に、合法、非合法の会計業務を斡旋してきたのは、>主人公によって寄付されたコンピューターが発している声であり、このコンピューターは、(まだ唖である)成人になったジャスティーン(Justine)<という女性>が、主人公の仕事のパートナーとしての諸義務を果たすべく、主人公と交信するために使っているものだ。」(B)
 
 つまり、私見ではこういうことです。
 米国というのは、人々ないし(その政府を含む)諸組織が、合法的かつ(バレない範囲で)非合法的に利己的なカネ儲けに専念すると共に、そのカネを惜しげもなく利他的な諸慈善事業に投じること、そして、かかる(両輪が相互依存的関係にあるところの)両輪的システムを自力救済的な暴力によって守ることを躊躇しない社会であるところ、この映画は、このような米国社会の全体像のカリカチュアなのです。
 このような米国社会像は、この映画の制作関係者達にとっても評論した米英の映画評論家達にとっても、無意識的に当然視されているものであることから、彼らの意識には上らず、だからこそ、彼らが書いた諸評論中に私の上記のような指摘をした者がいないのでしょう。
 しかし、この映画は、基本的なセッティングにおいて米国の現実の姿に忠実であるからこそ、バカげた内容だと大方の評論家達は毒づきつつも、結構、彼らは楽しんで観てしまった、ということなのではないでしょうか。
 このように考えてくると、主人公が精神障害者であることも、米国人達が、心の片隅では、上記のような米国社会は狂っているのではないか、という不安、懸念に苛まれていることの反映なのかもしれませんね。

 こうなると、この映画用にオリジナルの脚本を書きおろした、ビル・ドゥビューク(Bill Dubuque)とはどんな男か、関心を抱かざるを得ませんが、彼のウィキペディア
https://en.wikipedia.org/wiki/Bill_Dubuque
を見ても、両親のことも学歴も、いや、年齢すら出て来ず、ネットで更に調べてみたけれど、かろうじて、12年間ヘッドハンティング業に従事した後、映画脚本業に転じた
http://variety.com/2012/film/news/dubuque-corporate-headhunter-followed-calling-1118062630/
、ということくらいしか分からなかったことは残念です。

(完)

太田述正コラム#8935(2017.2.24)
<映画評論49:ザ・コンサルタント(その4)>(2017.6.10公開)

 この映画で最も魅惑的なのは暴力だ。
 主人公ウルフ(Wolff)は、<つる科の植物である>諸カンタループ(cantaloupes)を1マイル離れた所から撃ったり、(彼がある意味行っているところの、)諸控除額を列挙したりする時に見せるのと同様の興奮や情熱の欠如でもって悪い奴らを処分(dispatch)する。・・・
 私が出席した試写会では、観衆は殺人場面ごとにくすくす笑っていた。
 死者の山が築かれるわけで、無茶苦茶だが、この映画は暴力を称えてはいない。・・・
 この自閉症の刺客は啓蒙された殺人者だからだ。」(三)

⇒この最後の一文は極めて重要であると私は考えている、ということを念頭に置いておいてください。(太田)

 「イカれている(badass)刺客達や口当たりのよい洋平達が登場する諸映画は一杯ある・・多過ぎる、と言う人もいるかもしれない・・が、それらの大部分は、ある種の肉体的ないし知的な能力のポルノ(competence porn)だ。
 リーアム・ニーソン(Liam Neeson)<(注8)>が悪い奴らをいかに容易く処分するかを見よ。

 (注8)1952年〜。「北アイルランド出身の<現在米国籍の>俳優。ニューヨーク在住。・・・<一流大学である、カトリック系の>クイーンズ大学ベルファストに入学するが、演劇に興味を持ち中退。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%82%BD%E3%83%B3
 上掲に彼の出演映画が列挙されているので、主演した映画のうちのアクションものを参照されたい。

 そうしない方がおかしいだろ。
 だって、彼は特定の一連の技量を持ってるんだぜ。
 これは、ショーン・コネリー(Sean Connery)がボンド(Bond)を演じて以来の定番(thing)であり、私には理解できる。
 何かに秀でている誰かを眺めるのは愉快なものだからね。
 しかし、ある所まで来ると、それは目新しさももっともらしさも失ってしまう。
 お馴染みのボーン達、ステイサム達、いやさ、ジョン・シナ(John Cena)<(注9)>達、と、この映画の中でのベン・アフレックの配役の違いは、間違いなく、彼が、若干の諸分野では意外にも(freakishly)能力を発揮するけれど、同時に、<自閉症であることによるところの、>救いようもない間抜けでもある、という点だ。」(一)

 (注9)1977年〜。米国のプロレスラー、ラッパー、俳優、そしてバラエティ番組のホスト。マサチューセッツ州スプリングフィールド単科大学卒(運動生理学専攻)。
https://en.wikipedia.org/wiki/John_Cena

5 批判

 「・・・<この映画を観るのは、>2時間にわたる、時間のちょっとした無駄だ。・・・」(十)

 「主人公は、心理作戦兵士であった父によって育てられ、インドネシアのブンチャック・シラット(Pencak silat)<(注10)>の達人によって武術の訓練を受ける。」(一)

 (注10)「オランダ(東インド会社)の<インドネシア>侵略に対して現地の住民が激しく抵抗したことからオランダ領東インド時代には反乱の火種になるとしてシラットはオランダ当局によって禁止され、この間シラットは秘密裏に行われた。・・・第二次大戦中に日本はインドネシアを占領したが、その際に白人からのアジア解放をうたう日本当局は逆にシラットを奨励した。さらに日本軍は簡潔で習得が容易な「近代シラット」とでもいうべき体系を作り、広める事でインドネシア人の戦闘能力を短期間に上げることを計画した。そのため日本当局はジャカルタに各流派の師範を集めて統一型の制定を依頼し、その結果12のジュルス(型)が制定され「プンチャック」(Pentjak)という教本にまとめられた。この時期には日本とインドネシアの武術家の交流も行われたという。
 当初この体系はインドネシア人には不評であったが、「近代シラット」はその後意外な形で役立つ事となる。戦後、再びオランダがインドネシアを支配しようとすると、現地の人々は独立を求めて立ち上がった。このインドネシア独立戦争の際に「近代シラット」は短期間に独立軍兵士の戦闘能力を高め、結果としてインドネシアの独立に貢献した。この頃にインドネシア語の「プンチャック」とマレー語の「シラット」をあわせて「プンチャック・シラット」という言葉が生まれたという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A9%E3%83%83%E3%83%88

⇒前回の映画評コラム・シリーズ(コラム#8150〜)で取り上げた「「スター・ウォーズ/フォースの覚醒」(2015)では、シラットの名手たちをギャング役として登場」(上掲)させた、というのですが、気が付きませんでした。
 このように、このところ、米映画がブンチャック・シラットを取り上げ始めているのは、日本の空手や柔術、或いは、支那の武術
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E6%AD%A6%E8%A1%93
が、日本や支那の経済的離陸に伴い、米国人達にとっては神秘性が失われたために、依然として発展途上国であるところの東南アジア(インドネシア)の武術に目を付けた、ということだと思われます。要するにオリエンタリズムですね。
 それにしても、こんなところにも、旧日本軍が正の遺産を残していたとは、うれしい驚きです。(太田) 

 「<米映画の>スーパーヒーロー達は、常に、東洋学的経路を東方にとり、彼らの畏怖を催させる特殊な諸能力(abilities)を学ぶときているのだ。」(十三)

 「<もっとも、この映画が、>ハリウッド映画のアクションの定石(default)の<単なる>一つの変形(variation)に留まっている面があるのは、<主人公と>(アンナ・ケンドリック(Anna Kendrick)演ずる)会計士のダナ・カミングス(Dana Cummings)との関係が、ハリウッド映画の公式であるところの、身体障害者が、こうして2人ずっと幸せに暮らすことになりました、的な諸ロマンスはさせてもらえない点だ。・・・

⇒それ以前に、あえて言えば、ケンドリックは(ケネディ前駐日米大使によく似ている(失礼))セックスアピールに乏しい俳優であり、重要な役どころであるだけに、この映画を観ている時に欲求不満が募ったものです。(太田)

(続く)

太田述正コラム#8933(2017.2.23)
<映画評論49:ザ・コンサルタント(その3)>(2017.6.9公開)

 主人公が自閉症であるという設定の妙を指摘するむきも少なくありません。↓

 「無表情のままで彼を取り巻く暴力と騒動に心動かされることのない、自閉症のヒーローが、アクション映画の文脈の中に容易に収まることを自覚するのは異様なことだ。
 例えば、アーノルド・シュワルネッガー(Arnold Schwarzenegger)は、彼の<映画俳優としての>キャリアの大部分をこういう奴・・破壊を引き起こし他人との感情的断絶を体から滲み出している・・を演じることでもって送った。
 そして、同じことが、しばしば、ブルース・ウィルス(Bruce Willis)、スティーブン・セガール(Steven Seagal)、ジェイソン・ステイサム(Jason Statham)、メル・ギブソン(Mel Gibson)、そして、クリント・イーストウッド(Clint Eastwood)についてさえ、言える。
 しかし、<彼らとは違って、>少なくとも、この映画におけるヒーローには<自閉症という、もっともらしい>言い訳があるわけだ。」(十)

 「<何たって、>ニューロダイバーシティ(neurodiversity)<(注1)なる観念>は、<他の諸ダイバーシティに比して、>ポリティカル・コレクトネス度こそ低いけれども、社会的必要性は高い。

 (注1)神経学的諸状態は病理ではなく、諸偏差(variations)に他ならない、とする考え方。自閉症の人々を激励する目的でこの運動が始まった。
https://en.wikipedia.org/wiki/Neurodiversity#Autism_rights_movement
 「自閉症(・・・Autism)は、社会性の障害や他者とのコミュニケーション能力に障害・困難が生じたり、こだわりが強くなる先天性の脳機能障害。・・・治療法は存在しない」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E9%96%89%E7%97%87
 なお、「<一般的な>自閉症に見られるような知的障害および言語障害はない<自閉症が>・・・アスペルガー症候群(・・・Asperger Syndrome, AS)」だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%83%AB%E3%82%AC%E3%83%BC%E7%97%87%E5%80%99%E7%BE%A4
 また、「サヴァン症候群(・・・savant syndrome)<は、>・・・脳の器質因にその原因を求める論が有力だが、自閉性障害のある者が持つ特異な認知をその原因に求める説もある<ところの、>・・・知的障害や発達障害などのある者のうち、ごく特定の分野に限って優れた能力を発揮する者の症状を指す。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E7%97%87%E5%80%99%E7%BE%A4
 この映画の主人公は、自閉症/サヴァン症候群、として描かれている。

 <だから、自閉症の男を主役にしたことに、>君は目くじらを立てるわけにはいかないのでは?」(三)

 「この映画のいいところ(victory)は、その色調(tone)にある。
 この映画のタイトルの登場人物は、超オタク(superfreak)として提示され・・これは、『レインマン(Rain Man)』<(注2)>ではない・・、そこでは、自閉症的諸才能(gifts)は、<『レインマン』でのレイモンド的な>手慰み的出し物(parlour tricks)を行う諸力として、ではなく、原型(prototype)にして美しい突然変異体(mutant)として、そして、恐らくは、スーパーヒーローとしての諸力として、提示されているのだ。

 (注2)「1988年公開の<米>映画。・・・サヴァン症候群のキム・ピークが<弟と共同主人公たる兄の>レイモンドのモデルであると言われている。・・・床に落ちた爪楊枝を瞬時に計数したキム・ピークの実体験がそのまま映画のエピソードとして出てくる。・・・<映画>公開後に有名となったキムは、しかしなんら生活を変えることなく、毎日を図書館で過ごし、小説から図鑑、電話帳、住所録までを片っ端から読破して、記憶する日課を死ぬまで続けて、2009年12月19日に58歳で亡くなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%B3

 アフレックに関して言えば、彼は、『ジェイソン・ボーン(Jason Bourne)』<(注3)>的な役割と言うよりは、とぼけたユーモアを持った(dry-humoured)『ターミネーター(Terminator)』<(注4)>的な役割を演じている。

 (注3)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%82%A4%E3%82%BD%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%B3_(%E6%98%A0%E7%94%BB)
 (注4)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%9F%E3%83%8D%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA

 ダスティン・ホフマン(Dustin Hoffman)演じるレイモンド(Raymond)は、諸フィッシュスティック(fish sticks)<(注5)>狂であると共に、ワプナー判事(Judge Wapne)<(注6)>狂であったのに対し、アフレック演ずるクリスチャン(Christian)・・彼の名前の一つ・・は、ルノワールの諸作品(Renoirs)とポロックの諸作品(Pollocks)<(注7)>の愛好家ときている。・・・

 (注5)細長い魚の切り身にパン粉をつけて揚げたもの
http://ejje.weblio.jp/content/fish+stick
 (注6)Joseph Albert Wapner。1919年〜。元裁判官でTV裁判バラエティで活躍。南カリフォルニア大卒、同大ロースクール卒。第二次世界大戦で武功。ロサンゼルス郡上級裁判所判事を長年務めて退職。
https://en.wikipedia.org/wiki/Joseph_Wapner
 (注7)ジャクソン・ポロック(Jackson Pollock。1912〜56年)。「抽象表現主義(ニューヨーク派)の代表的な画家であり、彼の画法はアクション・ペインティングとも呼ばれた。抽象表現主義の画家たちの活躍により、1950年ごろから美術の中心地はパリではなくニューヨークであると考えられるようになった。・・・
 を代表する画家と呼ばれるようになったプレッシャーや、アルコール依存症の再発<・・>ユング派の医師による精神分析の治療を受けた<・・>、新たな画境が開けないなどの理由で、1951年ごろから混迷期に入った。黒いエナメル一色の作品を描いたり、具象的な絵を描いたり、色彩豊かな抽象に戻るなどの模索を繰り返した。そして1956年・・・、若い愛人とその友人を巻き添えに自動車事故を起こし、44歳で死亡した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%AF%E3%82%BD%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9D%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%AF

⇒この映画を観ている時にはそこまで気が付きませんでしたが、主人公がルノワール・・パリで活躍した
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%AB%EF%BC%9D%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%82%AE%E3%83%A5%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%8E%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%AB
・・と(ニューヨークで活躍した)ポロックが好きであること、かつまた、彼がポロック・・彼同様、精神疾患に苦しめられていた・・の作品を、彼に協力し、彼が命を救ったところの、女性に贈呈すること、には、それぞれ、意味があったのですね。(太田)、

(続く)

太田述正コラム#8931(2017.2.22)
<映画評論49:ザ・コンサルタント(その2)>(2017.6.8公開)

3 参照した映画評

 パンフレット(C)は、既述した点を除けば、参照するほどの記述がなかったのですが、以下の映画評群・・米英で主要新聞を含め多数出ていることがお分かりいただけると思います・・を参照し、Xを付けたもの以外から参照に値する諸記述を得ました。

一:http://uproxx.com/filmdrunk/accountant-movie-review/2/
(1月28日アクセス)
二:http://time.com/4529425/the-accountant-ben-affleck-review-2/ X
(2月17日アクセス(以下同じ))
三:http://www.theglobeandmail.com/arts/film/film-reviews/the-accoutant-is-a-pulpy-peculiar-and-half-camp-thriller/article32352222/
四:http://www.latimes.com/entertainment/movies/la-et-mn-accountant-affleck-review-20161008-snap-story.html
五:http://www.philly.com/philly/entertainment/movies/20161014__The_Accountant___Ben_Affleck_charms_in_ludicrous_but_fun_math-savant-martial-arts_actioner.html
六:http://www.usatoday.com/story/life/movies/2016/10/12/review-the-accountant-movie/91908704/?siteID=je6NUbpObpQ-1SnWrybaapA0M8eHdfce_A X
七:https://www.washingtonpost.com/goingoutguide/movies/in-the-accountant-ben-affleck-is-part-a-beautiful-mind-part-batman/2016/10/13/a5cd8bd2-8f11-11e6-9c85-ac42097b8cc0_story.html?utm_term=.306438b17416
八:http://www.bostonglobe.com/arts/movies/2016/10/12/certified-public-assassin/NhMC37xHqZiFjjw8actQoO/story.html
九:http://www.chicagotribune.com/entertainment/movies/sc-accountant-mov-rev-1012-20161012-column.html X
十:http://www.sfgate.com/movies/article/The-Accountant-has-a-good-first-hour-9967106.php
十一:http://www.csmonitor.com/The-Culture/Movies/2016/1014/The-Accountant-has-confusing-twists X
十二:http://www.telegraph.co.uk/films/0/the-accountant-review-ben-afflecks-budget-bruce-wayne-doesnt-add/ X
十三:https://www.theguardian.com/film/2016/oct/12/the-accountant-movie-review-ben-affleck-autism-thriller
十四:https://www.nytimes.com/2016/10/14/movies/review-in-the-accountant-a-savant-with-daddy-issues-has-a-dark-secret.html?_r=0 X

4 称賛

 早くも続編を期待する声が出ています。↓

 「この類のものをもう何本か喜んで観たいものだ。これは、2016年で、1マイルほど後続を引き離したダントツのスーパーヒーロー映画だ。」(一)
 「実に面白かったので、ワーナーブラザーズがシリーズものにしてくれたらいいんだが・・。」(四)

 面白いことは面白いんだけど、なんで面白いんだか分からない、という率直な声もあります。↓

 「この映画は、前提がばかげていて極めてイカレている。よくまあ企画会議を通ったもんだ。ところが、私自身は大変楽しんで観たときている。自分のアタマが確かか調べてもらわなくっちゃ。」(五)
 「これは出来のいい映画ではないが、これを観て何時間かをつぶすのも悪くはない。・・・<いや、>観るべきだ。」(八)

 訳の分からない理由でこの映画を称賛している評論子もいます。↓

 「ハリウッド映画で、オリジナルな、つまりは、ベストセラー小説ないし伝記、もしくは見出しがでっかいニュース的出来事、に拠ったものではない、大人向けドラマを作り出した、というのは極めて珍しいことだ。この映画は、このことだけでも高く評価されるべきだ。」(七)

 スーパーヒーローものなんてこんなもんであって、その中で出来は悪い方じゃない、との声も。↓

 「イカれてるだって? この映画の主人公のような人物ばかりであってそうじゃないケースは例外的であるところの、これまで山のようなスーパーヒーローものの映画群を非難しろってんだ。・・・全体としては、これは、余りにも心許ない前提の上に構築されたアクションの諸定番(cliches)のハチャメチャ(MESS)ものなのであり、観客を憤慨させるか笑わせるか、どっちかだ。で、私にとっては後者だった。私は、この映画を大いに楽しんだ、ということを認めることに吝かじゃない。」(五)

(続く)

太田述正コラム#8929(2017.2.21)
<映画評論49:ザ・コンサルタント(その1)>(2017.6.7公開)

1 始めに

 表記の映画ですが、余り当たっていないためか、日本語ウィキペディアの解説は、「『ザ・コンサルタント』(原題: The Accountant)は、2016年製作の<米>国のアクション映画。ベン・アフレック主演。田舎町のしがない会計士クリスチャン・ウルフにある日、大企業からの財務調査の依頼が舞い込む。調査をしたウルフは重大な不正を見つけるが、その依頼は何故か突然一方的に打ち切られてしまい、さらにその日から、ウルフは何者かに命を狙われるようになる。実はウルフは、世界中の危険人物の裏帳簿を仕切り、年収10億円を稼ぎ出す命中率100%のスナイパーという、もう一つの顔があったのだ。」
A:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B6%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%B5%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%88
でオシマイです。
 せめて、主人公が自閉症だ、
B:https://en.wikipedia.org/wiki/The_Accountant_(2016_film)
ということくらいは書いて欲しかったですが・・。

2 この映画の背景

 この映画の背景なのですが、下掲を読んでみてください。↓

 「・・・英米の金融センターと情報機関に近い場所、ロンドン、ニューヨーク、ワシントンに・・・ビジネスインテリジェンス産業<が>・・・勃興し<ている。>・・・
 ロンドンのハクルートやニューヨークのベラシティーといったコンサルティング会社の専門分野<は、>・・・インテリジェンス(機密情報)<の収集だ。>・・・
 この仕事には魅力的、神秘的な雰囲気がある――スパイや弁護士が望むかもしれない第2のキャリアだ――が市場はニッチ<であり、>・・・極めて高額な機密情報の買い手は限られている・・・
 <しかし、>ビジネスインテリジェンスと呼ばれるものの大部分は、実はデューデリジェンス(資産査定)<なの>だ・・・
 2001年の米国の愛国者法などのマネーロンダリング(資金洗浄)防止法は、事実確認の専門家という産業を丸ごと育んだ。
 このような仕事を手掛けているのは英リスク管理最大手コントロール・リスクスや業界の草分け企業クロールをはじめとする多くのコンサルティング会社と大手会計事務所<だ>。
 収入は大きいが、案件1件あたりの料金は低く、通常は商取引1件につき5000ポンド未満<なの>だ<が、>・・・巨額の利害がかかっており、紛争は何年も続くことから、クライアントは<トータルで>かなりの料金を払う傾向がある。・・・
 多くの場合、・・・弁護士と法廷会計士のチームを起用すること<になる。>・・・
 <つまり、>人間のインテリジェンス活動の役割は小さくなっている<のであり、>・・・数字は嘘をつかない<だけに、>会計士からの報告書のほうが、スパイの話より大きな害をもたらすのだ。・・・」
http://www.nikkei.com/article/DGXMZO11927080Q7A120C1000000/?dg=1 (FT記事の転載)(1月23日アクセス)

 ポイントは、広義のアングロサクソン世界では、もともと会計監査業務で活躍してきたところの会計士達が、今や、ビジネスインテリジェンス業務でも活躍していることです。
 当然、「悪」の側においても、カウンター・ビジネスインテリジェンス面で数字を改竄(cook)したりビジネスインテリジェンス面で会計不祥事を暴いたりするにあたって、悪徳会計士が活躍していても不思議ではありません。
 まさに、この映画の主人公は、このような意味での「悪」の側の会計士なのです。
 (実は、主人公の属性はそれだけじゃあないのですが、そのことについては、後ほど・・。)

 ところが、これまで何度も私が指摘してきた(コラム#省略)ように、資本主義社会ではない日本では、監査する側と監査を受ける側が基本的に同一なのですから、監査そのものも、会計士/監査法人に支払う報酬も、それぞれ、巨視的には、無駄業務、ムダ金、に過ぎないのであって、だからこそ、監査報酬は極めて安く設定されていますし、監査で会計上の不祥事が炙り出されるなんてことは、まずありえません。
 ですから、会計士が活躍する、というシチュエーションなどは想像を絶しているところ、原題の『The Accountant(会計士)』が日本公開の際には『ザ・コンサルタント』に改題せざるをえなかった、と思われるのです。
 日本では、コンサルタントなら、中小企業では特にそうですが、それなりに活躍していますからね。
 中小企業診断士という、「中小」が付いてはいるけれど、一応コンサルタントの公的資格だってありますよね。
 (但し、英語名はRegistered Management Consultantで、「中小」は付いていない)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B0%8F%E4%BC%81%E6%A5%AD%E8%A8%BA%E6%96%AD%E5%A3%AB

 そうは言っても、この映画の中では、主人公の「コンサル」内容が会計数字の話だけなので、この映画の日本語パンフレット(C)では、「会計コンサルタント」という苦肉の造語が使われていましたが、笑っちゃいましたね。

(続く)

太田述正コラム#8887(2017.1.31)
<映画評論48:君の名は。(その5)>(2017.5.17公開)

 その前に、どうして、(日本を除く)東アジア地域とは異なり、その他の地域では赤い糸伝説が生まれたり継受されたりしなかったかですが、きちんと論ずるには、地域差や時代差もこれあり、私の能力を超えるので、マクロ的かつ仮説的に申し上げれば、結婚というものは、個人と個人との間の私的な恋愛とは峻別されるところの、政治的、経済的、社会的、部族的、等の意義のある、家と家との結びつきの開始ないし維持ないし強化であって、本人達の意思が一定程度斟酌される場合があるとしても、基本的に家父長と家父長の交渉と合意によって決められるのが自然かつ合理的である、と考えられていたことに加え、例えばアブラハム系3宗教の場合で言えば、結婚に、濃淡はあるが聖職者ないし(イスラム教の場合)イスラム法学者が関与する
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%A9%E3%83%9E%E3%83%BC
ことによって、そういう結婚が神の思し召しに合致している、と、人々が刷り込まれ続けたからでしょう。
 そのような感覚は、例えば、アングロサクソン文明の(部分的)継受によって、家から個々人が「解放」された欧州文明の諸社会においても、人々の潜在意識下に残っていると思われます。
 これらの社会の人々が、家など影も形もないところの、赤い糸伝説的セッティングに違和感を覚えても不思議ではない、と思いませんか? 
 彼らは、『君の名は。』に、その点で違和感を覚えてしまって、そこから先に進めないのではないか、と。

 このように考えてくると、漢人文明が生んだ赤い糸伝説は、極端な家父長制、すなわち、纏足に象徴されている・・イスラム教社会における女児のクリトリス切除との比較は悩ましいが・・ひどい女性差別に苦しめられていた漢人女性達の夢が生み出したところの、宗教的規制が相対的に弱く家と家との結びつきとしての結婚が聖化されなかったその文明特有の伝説である、という説明が可能かもしれません。

 以上を踏まえつつ、まず、イギリスについて考えてみましょう。
 アラン・マクファーレーンの『結婚』という本の記述を、その本中の引用と共にご紹介したことがあります(コラム#88)が、イギリスが最初から個人主義社会であったことから、家族法の分野でも、遺留分なき完全な遺言の自由が認められていたことと同様、結婚に関しても、家父長だの両親だのの許可を得ることなく、男女が自分達自身だけの意思で自由に結婚することができたのであり、この自由意志が実は運命づけられていた、というケースだって珍しくなかったはずであり、『君の名は。』の赤い糸伝説的セッティングの部分は、イギリス人達にとっては、違和感など全くなかったはずです。
 もっとも、さして面白くもなかったはずですが・・。
 よって、イギリスの映画評論家達が『君の名は。』に高い評価を与えたのは、彼らが、自分達のアングロサクソン文明の至上性意識の下、他の諸文明にも、いい意味でのオリエンタリズム的関心を持とうと努めるところ、この映画の、前述した日本的セッティングが痛くお気に召した、ということだと想像されるのです。
 
 残されたのは(本シリーズの冒頭部分では、場合によったら言及せずに済まそうと思ってあえて言及しなかった)アイルランドです。
 そこで、ちょっと調べてみたところ、スコットランドは大陸法系(コラム#省略)なのに、何と、アイルランドはコモンロー系だったのですね。
https://en.wikipedia.org/wiki/Law_of_the_Republic_of_Ireland
 そうだとすれば、家族法によって規律される結婚観だって、アイルランド人達はイギリス人達のそれと同じであっても不思議ではないところ、『君の名は。』に対するアイルランドの映画評論家達の評価がイギリスの映画評論家達の評価と似ていて当然だ、ということにもなります。
 そんなことを言ったら、元イギリス植民地であったアジアやアフリカ諸国だってコモンロー法系を継受させられたのだから、同じことが言えるはずだが、結婚観はまちまちなので、おかしいではないか、という反論が予想されます。
 しかし、イギリスは、家族法関係については、アジアやアフリカの諸植民地では、原則、地域的・宗教的慣習による自治を認めていた(典拠省略)のに対し、アイルランドでは、そういった慣習は根絶させられた、という違いがあります。
 すなわち、かつては、アイルランドの「法は父権的かつ父系的社会を反映して<おり、>・・・夫は法的に妻を矯正するために殴ることが法的に認められいた<し、>・・・女性達は、概ね、彼女達の父親達や夫達に従属していて、裁判で証人として証言することも認められていなかった
https://en.wikipedia.org/wiki/Early_Irish_law
が、これら、伝統的なケルト法に基づく慣行は、クロムウェルによるアイルランドの再征服の後、ついに根絶されるに至った
https://en.wikipedia.org/wiki/Law_of_the_Republic_of_Ireland 前掲
のです。
 結局、アイルランドは、こういった仕打ちや、19世紀の大飢饉を放置した、等のイギリスへの恨みが骨髄に達し、暴力を含む形で独立を果たし、欧州文明(プロト欧州文明?)復帰を目指しているものの、いまだに、アングロサクソン文明が押し付けた、精神的・制度的桎梏から自らを十分に解放しえていない、ということになりそうですね。

 さて、ここまできて、日本で『君の名は。』が制作され、日本で大ヒットとなったのはそもそもどうしてなのか、を、改めて説明しなければならなくなっていることに気付かれたでしょうか。
 このシリーズ、かなり長くなってしまったこともあり、これは、読者の皆さんへの宿題、ということにさせていただきましょうか。

(完)

太田述正コラム#8885(2017.1.30)
<映画評論48:君の名は。(その4)>(2017.5.16公開)

 私は、高群逸枝の母系制論(コラム#8249)を念頭に置いて、日本の縄文時代、ひいては狩猟採集社会一般の男女関係を捉えているのですが、母系制においては、「よくある母権制的な理解は誤り。むしろ、政治的な支配権は母の兄弟や長女の夫が持つ場合が多い。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%8D%E7%B3%BB%E5%88%B6#.E6.AF.8D.E6.A8.A9.E5.88.B6
とされているところ、(「母権制は・・・原始共産制<の属性として、>エンゲルスにも支持されマルクス主義の教義にもなったが、・・・母系制との誤謬と混同を徹底的に指摘され、人類発展史の一段階としての母権制を想定する説は否定され、現在の文化人類学者で支持する者はほとんどいない」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%8D%E7%B3%BB%E5%88%B6#.E6.AF.8D.E6.A8.A9.E5.88.B6
というわけで、)権威は女性に権力は男性に、という邪馬台国の卑弥呼と弟の姿
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%AA%E9%A6%AC%E5%8F%B0%E5%9B%BD
が、弥生人が縄文文化の影響を受けた結果なのか、それとも、縄文時代からそうだったのを弥生人が「継受」したのか、いや、そうではなく、縄文時代は母権制だったのか、等、分からないことばかりです。
 しかし、一つだけはっきりしていると思うのは、少なくとも農業時代到来以降、日本列島を除いて、世界の大部分が父権制(家父長制)(にして父系制)の社会になったことです。
 「古代ローマに、・・・父権制・・・の典型を見ることができる」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%B6%E7%88%B6%E9%95%B7%E5%88%B6
という次第です。
 農業時代以降は戦争の時代であり、そのような時代において、社会にとって最も重要な職であるところの戦士たりうるのは、もっぱら、平均的に、腕力、体力、等、において女達を顕著に上回っているところの、男達の方であったことから、社会が男性優位となるのは自然な成り行きでした。
 そして、いくら戦争に弱いとはいえ、支那の漢人文明(コラム#省略)も、その例外ではありませんでした。
 いや、例外どころか、例えば、支那の牽牛織女の説話は、「河東に住む天帝の娘である織女(織姫)が河西の牽牛郎(牛飼い、彦星)に嫁ぐことを許したが、嫁いだ後に機織りをやめたことで天帝の怒りを買い、河東に戻ることを強要、1年に1度だけ会うことを許した」、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%9B%E9%83%8E%E7%B9%94%E5%A5%B3
という、露骨なまでに男性優位の内容ですし、その「貞女は両夫に見えず」ということわざにしても、「貞節な女は一度結婚したら死別しても、あるいは離婚してさえも別の夫を持つことをしない」、
http://www.jlogos.com/d005/5551763.html
と、寡夫ならぬ寡婦だけに再婚禁止を求めています。
 (男だけが聖職者たりうる
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E6%95%99%E4%BC%9A
といった父権制に立脚しつつも、「神が結び合わせてくださったものを、人が離してはならない」(マタイによる福音書19・6)という新約聖書の記述に基づき、男女差別なく離婚を禁じており、「配偶者が死亡した場合は、結婚は解消され、その後の再婚は認められてい<る>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A9%9A%E5%A7%BB%E3%81%AE%E7%A7%98%E8%B7%A1
カトリシズム、つまりは、プロト欧州文明の方が、支那に比べればまだ女性に優しい、と言うべきでしょう。
 ちなみに、プロテスタンティズムにおいては、聖書の他の諸々の記述に拠りつつ、離婚も認めているところです。
https://www.gotquestions.org/japanese/Japanese-divorce-remarriage.html )
 このような、露骨な父権社会たる支那に、男女差別なき、かつ、家父長の出番のない、赤い糸伝説、がどうして生まれたのかは定かではありませんが、この伝説が、家父長によって結婚相手を決められていた、結婚適齢期の漢人達の間で、人気を博し続けるであろうことは想像に難くありません。
 (日本を除く)東アジア一帯についても、同じことが言えそうです。

 残された難問は、どうして、東アジアの外の、イギリスとアイルランドにおいて、少なくとも映画評論家達の間では『君の名は。』が好評なのか、です。
 (この映画の両国での興行成績がどうなるのかはともかく・・。)

(続く)

太田述正コラム#8883(2017.1.29)
<映画評論48:君の名は。(その3)>(2017.5.15公開)

-------------------------------------------------------------------------------
http://news.livedoor.com/article/detail/12598226/
(1月27日アクセス)に、最新の『君の名は。』評が載っていたので紹介しておく。

「映画監督の岩井俊二氏が「新海作品はマグリットの『ピレネーの城』に似ている。大胆不敵にして不朽の説得力。『君の名は。』はそんな彼の集大成だと言いたい。けど彼の『ピレネーの城』はもっともっと高みにあるような気もする」と絶賛。作詞家の秋元康氏も「心が震えた。風が木々を揺らすように、心の奥底がざわざわした。(中略)新海誠が描く世界は、“それでも”希望に満ちている」とコメントを寄せ<た。>・・・
 スタジオジブリ・・・敏腕プロデューサー・鈴木敏夫氏・・・は「芝居をするキャラクター、セリフ、音楽がどれも背景を際立たせるように作ってある」「吸い込まれそうな高い秋の空が特に印象的でしたね」と『君の名は。』を絶賛している。」
-------------------------------------------------------------------------------

 では、この映画は、どうして、東アジア以外では、さしたる興行成績を上げていなかったり、まだ公開されていないところが多いのでしょうか。(典拠省略)
 それらが、最初の方で記したように、赤い糸伝説が普及している地域の外だから、というのが私の見解です。
 ところが、困ったことに、前掲の赤い糸伝説の日本語ウィキペディアに、「運命の赤い糸」・・・<と同じ>言い伝え・・・<が>西洋で<も>「双子の炎」(twin flame, 運命で決められた二人のそれぞれの中で燃えている火)や「魂の伴侶」(soulmate, ソウルメイト)などの<ようにある>」という典拠なしの記述が出てきます。
 しかし、この記述は間違いです。
 まず、「双子の炎」については、比較的最近生まれた、新興宗教的妄想、といった類の代物であって、詳しく解説したり論駁したりする必要はありますまい。
 (それでも関心がある、という向きは、例えば、
http://mytwinflamelove.com/what-is-a-twin-flame-2/
をご覧あれ。)
 次に、「魂の伴侶」の方は、英語ウィキペディアがある
https://en.wikipedia.org/wiki/Soulmate ★
くらい、重要で、かつ、よく使われる言葉ではあります。
 そのウィキペディアには、「魂の伴侶とは、<ある人が、>深い、或いは、自然な、親和力(affinity)、の感覚を覚える<ところの、他の>人物であって、これには、類似性、愛、ロマンス、慰安、親密(intimacy)、性欲(sexuality)、性行為(sexual activity)、霊性(spirituality)、或いは、適合(compatibility)と信頼(trust)、に係るもの(involve)がありうる。」とあります。
 これを、赤い糸を部分集合とする、より大きな集合と見るべきか、それとも、別次元のものと見るべきか、は微妙なところですが、両者が別物であることは誰にも分かるはずです。
 補足しましょう。
 この、魂の伴侶、というのは、プラトンが(太田コラムの読者にとってはお馴染みの)『饗宴』の中に登場する言葉である、エロースの対象、が起源である旨、同じウィキペディアで指摘されています。
 神々によって、元々は背中合わせに2つの頭とそれぞれ1組ずつの手足を持っていた人間が3種類・・男女の生殖器を1つずつ持った者、男の生殖器を2つ持った者、女の生殖器を2つ持った者・・いたのを、全員真っ二つにされた結果、人間は、もう一方の片割れ的な存在を求める気持ち、すなわちエロース、を抱くことになった、というのです。(★)
 ここで銘記すべきは、
第一に、「このため人間は互いに失われた半身を求め、男らしい男は男を求め、女らしい女は女を求め、多くの中途半端な人間は互いに異性を求める<ことになった>」、というのですから、求める相手は、特定の相手ではないこと、
第二に、「エロース)とは欠乏と富裕から生まれ、その両方の性質を備えている。ゆえに不死のものではないが、神的な性質を備え、不死を欲求する。すなわち<エロース>は自身の存在を永遠なものにしようとする欲求である。これは自らに似たものに自らを刻印し、再生産することによって行われる。このような生産的な性質をもつ<エロース>には幾つかの段階があり、生物的な再生産から、他者への教育による再生産へと向かう。<エロース>は真によいものである知(ソピアー)に向かうものであるから、愛知者(ピロソポス)である。<エロース>が<求>めるべきもっとも美しいものは、永遠なる美のイデアであり、美のイデアを求めることが最も優れている。美の大海に出たものは、イデアを見、驚異に満たされる。これを求めることこそがもっとも高次の<エロース>である」、というのですから、「生物的な再生産」的営み・・男と男、女と女、の場合は営みのみで「再生産」されることはありえない・・の段階を最初から超越している形の求め合い方だってありうること、
です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A5%97%E5%AE%B4 (「」内)
 他方、赤い糸の方は、男と女、しかも予め定められた特定の男と女、の求め合い、しか対象ではありませんし、それに加えて、必ず、「生物的な再生産」的営みを志向していること、を思い出してください。
 両者は別物であることを納得していただけたことと思います。
 
(続く)

太田述正コラム#8881(2017.1.28)
<映画評論48:君の名は。(その2)>(2017.5.14公開)

 (2)普遍的セッティング

 氷室竜介は、本作品は「恋人がなかなか会えないすれ違い」を描いた『君の名は』(注5)を「想起させる」とも書いています(公式パンフレット34頁)が、一定以上の年齢の日本人にとっては、そんなこと、言われるまでもないことでしょう。

 (注5)「1952年にラジオドラマで放送・・・<翌年映画が公開された。>全3部。大ヒットし、・・・3部作の総観客動員数は約3,000万人(1作平均1,000万人)である。・・・
 2012年現在、テレビでは4度ドラマ化されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%9B%E3%81%AE%E5%90%8D%E3%81%AF
 そのストーリーのハッピーエンドが下掲に出ている。
http://www.ne.jp/asahi/gensou/kan/eigahyou76/kiminonawa3.html

 当時は、中共とも韓国とも国交樹立がなされていなかったけれど、仮にこれらの国々等で『君の名は』が公開されていたならば、恐らく、今回の『君の名は。』同様、大ヒットしていたことは請け合いです。
 どうしてか?
 「なかなか会えないすれ違い」を乗り越えて「恋人」が結ばれる、という「運命の赤い糸」伝説(注6)を支那が生み出し、この伝説が東アジアに広く伝播しているからです。
 
 (注6)「運命の赤い糸・・・とは、中国に発し東アジアで広く信じられている、人と人を結ぶ伝説・・・<漢>語では「紅線」・・・と呼ばれる。・・・北宋時代に作られた前漢以来の奇談を集めた類書『太平広記』に記載されている逸話『定婚店)』に赤い糸が登場する。・・・冥界で婚姻が決まると・・・見えない赤い糸(赤い縄)・・・の入った袋を持って現世に向かい、男女の足首に・・・結ぶという。この縄<(糸)>が結ばれると、距離や境遇に関わらず必ず二人は結ばれる運命にあるという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8B%E5%91%BD%E3%81%AE%E8%B5%A4%E3%81%84%E7%B3%B8 

 新海がそこまで意識していたかどうかですが、赤い糸を彷彿させる、赤い組紐がこの映画の中に登場し、しかも、それを商品化している(注7)ところを見ると、間違いなく、意識している、と私は見ます。

 (注7)「正絹を使用し、作中の組紐を細部まで再現したハイクオリティな一品です! 映画『君の名は。』の中で、三葉が髪を結ぶために、瀧がブレスレットとして使用する組紐。二人の運命を結び付ける重要なアイテム」
http://tohoanimationstore.com/shop/g/gTASG00231/
と謳っている。

 この赤い糸セッティングのミソは、その伝説から、世の中、赤い糸で結ばれているカップルばかりでないことが伺われるところにあるのであって、同種のセッティングのドラマに接した時、人は、改めて、ひょっとして自分には赤い糸で結ばれている人がいるのかもしれない、そうであるといいな、そうであったとするならば、その人を早く見つけたいな、見つけられるといいな、と思わせ、人をそのドラマに没入せるところにあります。

 前回のオフ会で、「『君の名は』は、筋が荒唐無稽で納得がいかない。」と言った読者がおられた(コラム#8855)し、前出のシンガポールでのこの映画事情を記した日本人も似たような感想を吐露しています
http://www.sinlog.asia/entry/2016/11/15/124325 前掲
が、赤い糸セッティングって、要するに、赤い糸で結ばれているカップルは、「距離や境遇に関わらず必ず・・・結ばれる」(上出)というセッティングなんですから、筋(ストーリー)などあってなきがごとし、というか、どんな荒唐無稽で不条理な筋だっていい、いや、むしろその方が赤い糸の威力を引き立てるのであり、この映画の場合のように、カップルが「時空を超えて」結ばれちゃっても全然OK、というか、むしろ正解、なんですよね。
 こういうことも、新海は、あざとく計算している、と私は見ています。

 (続く)

太田述正コラム#8879(2017.1.27)
<映画評論48:君の名は。(その1)>(2017.5.13公開)

1 始めに

 監督、脚本、原作が新海誠(注1)であるところの、日本映画、『君の名は。』については、映画を見てから、「公開を2か月後に控えた6月18日には、映画公開に先駆けて『小説 君の名は。』が発売。・・・映画と小説とで物語上の大きな差異はない」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%9B%E3%81%AE%E5%90%8D%E3%81%AF%E3%80%82 ☆
ことを知りました。

 (注1)1973年〜。日本のアニメーション作家・映画監督。父はゼネコン社長。中央大文学部(国文)卒。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%B5%B7%E8%AA%A0

 これは、この映画にとって、ストーリーの全貌が事前にバレバレであっても全く困らないこと、つまりは、ストーリーで魅せる映画ではないこと、を意味します。(注2)

 (注2)映画を見ただけでは分からない、そのストーリーのキモがここに紹介されている。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13163716518
 小説を読まずに映画を見た人にも小説を買わせるために、映画で、このキモをあえて描かなかった、と推察される。

 これは誰にも分かることであり、現に、現在引き続き上映中だというのに、お定まりの「ネタバレ注意」警告がこのウィキペディアに掲げられていません。
 ところが、ご承知のように、私は、ストーリー批評を旨としているので、こりゃアカン、私の出る幕はない、と、一旦はこの映画をコラムとして取り上げるのを止めようかと思ったのですが、それが、日本を含め、東アジア(とイギリス)で大ヒットをしている(注3)
 
 (注3)コラム#8636、8696、8754、8756、8768、8770、8772、8776、8786、8788、8790、8794、8804、8810、8814、8842、8844、8864.
 韓国について、追加しておく。
http://www.asahi.com/articles/ASK1N3GQJK1NUHBI01R.html
 タイ、台湾、香港について。
http://www.johoseiri.net/entry/2016/12/06/052318
 やや、趣旨は異なるが、シンガポールについて。
http://www.sinlog.asia/entry/2016/11/15/124325

のは一体どうしてか、を書いてみよう、と気を取り直した次第です。
 この映画は、新海によって、露骨に言えば、映画を核として小説や関連グッズ等も含め、最大限の収益をあげることを狙って周到に作られたものであるところ、その周到さを追及してみよう、と思った、と申し上げた方がいいかもしれませんね。

2 新海の周到さ

 (1)日本的セッティング

  ア 日本の大都会と田舎の美しさ

 これは、私があれこれ記す必要はありますまい。

  イ 男女の入れ替わり

 これについては、この映画の公式パンフレット(36頁)に、小野小町の和歌、「思ひつつ寝ればや人の見えつらむ夢と知りせば覚めざらましを 『古今集・序』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E5%B0%8F%E7%94%BA
、及び、『とりかへばや物語』(注4)、からヒントを得た旨が記されているところです。   

 (注4)「『とりかへばや物語』(とりかえばやものがたり)は平安時代後期に成立した物語である。作者は不詳。「とりかへばや」とは「取り替えたいなあ」と言う意の古語。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A8%E3%82%8A%E3%81%8B%E3%81%B8%E3%81%B0%E3%82%84%E7%89%A9%E8%AA%9E  

 これは、日本人のほぼ全員が具有する縄文性の属性の一つたる中性的であること、を背景として生まれた物語(コラム#8786等)であり、私は、世界全体を調べたわけではありませんが、日本特有の物語である、と考えています。
 で、これまた、公式パンフレット(34頁)に、大林宣彦監督の『転校生』と『時をかける少女』が男女の入れ替わりというセッティングの映画であるところ、これら映画も参考にしたのではないか、とアニメ研究家の氷川竜介が書いていますが、私も同感です。
 もちろん、新海は、この日本特有のセッティングは日本を含む広範な国や地域でウリになる、と計算したわけです。

(続く)

太田述正コラム#8156(2016.1.15)
<映画評論47:スター・ウォーズ/フォースの覚醒(その4)>(2016.5.1公開)

 (一見似通った話を、コラム#138でやったことがあります。
 その折には、米国映画では悪役は英国人、という話をしたところ、その後、米国人達は、英国(人)を手放しで憧憬の対象とするようになった、ということかもしれませんね。)

 英国への憧憬ぶりは、下掲からも窺うことができます。
 「2013年の5月に、<この映画>が英国で撮影されることが確認された。
 <製作会社の>ルーカス・フィルムの代表陣がジョージ・オズボーン英蔵相に会い、<この映画を>英国で製作することについて合意した。
 オズボーンは、英国の文化と映画産業に寄与(boost)するとして、この映画に、公金2500万ポンド(3700万ドル)を拠出することも約束した。」(B)
 これを、単なる経費削減のための製作陣のあざとい動きと見てはいけないのであって、2014年4月の最初の台本読み合わせの時には、一緒に出演する場面のない、ハミル、及び、フォードとフィッシャー、の3「巨頭」まで、ロンドン近郊の映画スタジオに集合させ、また、ワールドプレミアこそ、2015年12月14日に(ルーカス・フィルムの親会社のウォルト・ディズニー・カンパニーが所在する)ロサンゼルス
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%BA%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%91%E3%83%8B%E3%83%BC
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%B3%E3%82%AF_(%E3%82%AB%E3%83%AA%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%83%8B%E3%82%A2%E5%B7%9E)
で行われたものの、事実上のもう一つのワールドプレミアが、12月17日にロンドンで挙行されています。
http://www.independent.co.uk/arts-entertainment/films/news/star-wars-london-premiere-live-watch-the-force-awakens-cast-hit-the-red-carpet-here-a6775681.html
 ちなみに、ロサンゼルスとロンドン間の製作陣や主要俳優達の移動は、R2D2模様を機体に描いた、全日空機で行われたところです。
http://www.mirror.co.uk/tv/tv-news/star-wars-force-awakens-cast-7022933
 (以上、全般的には、下掲に拠った。
https://en.wikipedia.org/wiki/Star_Wars:_The_Force_Awakens )

 (2)音楽

 ジョン・ウィリアムズ(John Towner Williams。1932年〜)は、カリフォルニア大学ロサンゼルス校で作曲を、ジュリアード音楽院でピアノを学んだところの、『屋根の上のバイオリン弾き』(アカデミー編曲賞)(コラム#5751。但し、原曲の作曲者はジェリー・ボック)、『ジョーズ』(アカデミー作曲賞・グラミー賞受賞)★、『未知との遭遇』(グラミー賞受賞)、『スーパーマン』(グラミー賞受賞)、『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』(グラミー賞受賞)★、『E.T.』 (アカデミー作曲賞・グラミー賞受賞)、『シンドラーのリスト』(アカデミー作曲賞・グラミー賞受賞)、『プライベート・ライアン』(グラミー賞受賞)、『SAYURI』(ゴールデングローブ賞受賞)『ジュラシック・パーク』シリーズ(第1作★)、『ハリーポッター』シリーズ、でも有名な作曲家・指揮者であり、スターウォーズ・シリーズ公開第1作品の『スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望』でも、アカデミー作曲賞・グラミー賞受賞をしています★。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%82%BA_(%E4%BD%9C%E6%9B%B2%E5%AE%B6)
が、彼が今回の映画の音楽も手掛けているところ、それだけでも、映画館に足を運ぶ価値はある、と言えるでしょう。
 ちなみに、★の曲が下掲に収録されています。
 (スターウォーズ第1作からは、The Imperial MarchとMain Themeの2曲が収録されています。)
https://www.youtube.com/watch?v=sSW3a4bYwdM
 お時間のある方は、その続きの2つもどうぞ。
 Hedwig's Theme(ハリー・ポッター) Duel of the Fates(スターウォーズ Episode I: The Phantom Menace)、Superman's Theme(スーパーマン)、Another Happy Landing(スターウォーズ Episode III - Revenge of the Sith)、Home Alone Theme(ホームアローン)
https://www.youtube.com/watch?v=TDIPumROvuQ
 Main Theme(ET)、Fight to Neverland(フック)、Main Theme(タンタンの冒険)、Main Theme(シンドラーのリスト)(コラム#3360(、5144))、Main Theme(戦火の馬)、Main Theme(やさしい本泥棒)、Main Theme(パトリオット)
https://www.youtube.com/watch?v=9u4C9XbzLhQ

 今回の映画では、善と悪とフォースをそれぞれテーマとした下掲が特に聴きどころです。
 フォースは、シリーズの上出のMain Themeを基調としつつ、それに一ひねりを加えています。

 主役(善):https://www.youtube.com/watch?v=65As1V0vQDM
 準主役(悪):https://www.youtube.com/watch?v=RjhawcfpAyM
 フォース:https://www.youtube.com/watch?v=iJpAwKMuiO4

 より詳しくは、今回の映画の音楽を取り上げた下掲コラムを参照してください。
http://www.slate.com/blogs/browbeat/2016/01/08/john_williams_new_music_for_the_force_awakens_is_packed_with_hidden_information.html
(1月9日アクセス)

 まるで、臨時一人題名のない音楽会のようになってしまいましたが、このあたりでお開きにしたいと思います。

(完)

太田述正コラム#8154(2016.1.14)
<映画評論47:スター・ウォーズ/フォースの覚醒(その3)>(2016.4.30公開)

4 日本趣味

 以下は、肩の力を抜いて、気楽にお読みください。

 スターウォーズ・シリーズが日本趣味だらけなのは、よく知られたことです。
 下掲は、ある日本人によるまとめです。
 (この中には、都市伝説めいたものも入っていそうですが・・。)

「・C-3PO と R2-D2 は、黒澤 明監督「隠し砦の三悪人」の2人の足軽がモデル
・「隠し砦の三悪人」からは、冒頭と結末も踏襲
・ライト・セイバーは、時代劇の殺陣を意識
・ダース・ベイダーとオビ=ワン・ケノービは、黒澤映画に出演している三船敏郎に出演交渉したが断られた
・ヨーダは、黒澤明と並んで国際的に評価の高い脚本家の依田義賢(よだ よしたか/代表作「山椒太夫」)に由来 ◦1976 年、依田はサンフランシスコで講演会を行い、その後のパーティーでルーカスと会った。後に、ルーカスから依田にヨーダの人形が送られてきた
・「ジェダイ」は、日本語の「時代劇」に由来
・「エピソード III シスの復讐」の「シス」は、日本語の「寿司」に由来 ・・・」
http://h-english.net/starwars/japan.html

 また、ある米国人が、黒澤明がスターウォーズ・シリーズ生みの親であるジョージ・ルーカスに与えた影響について、動画にまとめています。
 (私は冒頭部分だけをチラ見しただけですが、もともと黒澤が欧米かぶれだったので、ルーカスが、真の意味で日本趣味であるとは必ずしも言えない、というのが私の見解ですが、ここではそれくらいにしておきます。)↓
https://www.youtube.com/watch?v=_pU6B2zEFeg&hd=1
 なお、この動画を日本人向けに解説したブログもあります。
http://gigazine.net/news/20140528-star-wars-jidaigeki-influence/

 以上は、これまでのスターウォーズ・シリーズ全体にあてはまることですが、ジョージ・ルーカスが抜けた(A)今回の映画でも、日本趣味はきっちりと受け継がれています。 アダム・ドライバー演じるカイロ・レンの衣装等は、「黒澤明監督の映画や侍の衣裳など・・・を参考にしている」(パンフレット)ですし、「アダム・ドライバー<自身、>「黒澤明監督の『七人の侍』などを参考に役作りをした」
http://www.sankei.com/entertainments/news/151211/ent1512110018-n1.html
と語っているところです。
 また、「エイブラムス監督は「・・・作品に『タカダノ』という惑星が出てくるが、その名は僕が初来日のときに泊まった場所、高田馬場にちなんでつけたんだ」と話し」ています。(上掲)

5 その他

 (1)英国への憧憬。

 今回の映画では、「主役」的だが実は引き立て役のハン・ソロ - ハリソン・フォード、最後にちょっと出るだけのルーク・スカイウォーカー- マーク・ハミル、刺身の褄程度の役のレイア・オーガナ将軍 - キャリー・フィッシャー、実質準主役のカイロ・レン - アダム・ドライバー、実質主役のレイ - デイジー・リドリー、最重要脇役のフィン - ジョン・ボイエガ、が主要登場人物です。(A)(主役云々は私の判断。)
 このうち、リドリーとボイエガは英国人です。
 実質主役と最重要脇役を英国人にやらせていることに注目してください。
 まず、ボイエガ(John Boyega。1992年〜)についてですが、彼は、ナイジェリア移民の両親の下に英国で生まれた黒人であり、困窮者向け奨学金を得て、South Thames Collegeで演劇を、University of GreenwichでTVと映画を学ぶ、
https://en.wikipedia.org/wiki/John_Boyega
という人物です。
 リドリー(Daisy Ridley。1992年〜)は、演劇の才能を認められ、奨学金を得て9歳から18歳まで演劇学校に通った後、ロンドン大で古典文明を専攻するも中退、
https://en.wikipedia.org/wiki/Daisy_Ridley
という人物ですが、今回の映画に関し、米国人のJ・J・エイブラムス(J.J. Abrams。1966年〜)
https://ja.wikipedia.org/wiki/J%E3%83%BBJ%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%A0%E3%82%B9
監督と共に脚本を担当した、同じく米国人のローレンス・カスダン(Lawrence Kasdan。1949年〜)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%82%B9%E3%83%80%E3%83%B3
は、リドリーに対して、「彼女は見事な身体的能力を持っていながら、常に向上心溢れる素晴らしい若い女優だ。だから、レイ役に彼女を抜擢したのはまさに幸運と言ってもいいだろうね。この世界に開放的であり、演じるストーリーのみならず、演技そのものにも心を開いている。身体能力も非常に優れている。役柄上、フィジカルな面を要求されことが多いんだ。同時に、彼女は素晴らしく美しく、僕らが愛してやまないイギリス人女優特有のウィットに富んでいる。彼女には、この女性だったら厳しい環境下でも生き残れる、と観客に感じさせることが出来る能力がある。」(パンフレット)と、歯の浮くような賛辞を送っています。
 これは、米国の知識層に、いい意味では「母国」英国への憧憬、悪い意味ではコンプレックスがあることの反映である、と私は思うのです。

(続く)

太田述正コラム#8152(2016.1.13)
<映画評論47:スター・ウォーズ/フォースの覚醒(その2)>(2016.4.29公開)

3 古代ローマにおける共和制と帝政…

 これについては、歴史オタクらしいアメちゃんのブログを引用しましょう。
 (言い訳がましくて恐縮ですが、今回の映画のパンフレットや日本語及び英語のウィキペディアには、「天使と堕天使…」だの、「古代ローマにおける共和制と帝政…」だの、といった話は一切出てこない・・過去のシリーズの映画群やシリーズそのものに係るウィキペディアまではあたっていないことをお断りしておきます・・のであって、私が自ら考え付き、その上でネットにあたったところ、先ほど引用したブログや今から引用するブログがヒットした、ということですからね。)

 「いかなる<スターウォーズ・シリーズ>ファン達でも、スターウォーズと古代ローマとの間には様々な類似諸点(parallels)が存在することを、実際、見出すことができる。・・・
 古代ローマを考察するならば、人は、(皇帝(Caesar)達によって統治された)帝国の前にはそれが(執政官と同僚執政官達<が率いたところ>の)共和国があったことを知るところとなる。
 スターウォーズでは、銀河(Galactic)は、まず、銀河共和国ないし古共和国として知られていたものが、やがて、皇帝(Emperor)によって統治された帝国になる。
 <古代ローマの>ユリウス・カエサルと<ギャラクシーの>元老院議員パルパティーン(Palpatine)<(注1)>は、どちらも、その地位に本来よりもはるかに長くとどまった。

 (注1)「ダース・シディアス。本名シーヴ・パルパティーン(Sheev Palpatine)は、<元老院議員を経て、スターウォーズ・シリーズにおいては、>銀河共和国最後の元老院最高議長であり、銀河帝国の初代皇帝でもある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%82%B9
 (ダース≒堕天使、であり、シティアスは堕天使としての名前。(太田))

 ところが、この二人は、どちらも、大志ないし虚栄心にとらわれ、より多くの権力とより高い称号の追求を続けた。
 パルパティーンとユリウス・カエサルのどちらも、彼らが信頼していた誰か・・それぞれ、ブルータス(Brutus)とベイダー(Vader)・・によって殺された。
 ローマ帝国とスターウォーズ映画群のもう一つの類似性は、この二つが、それぞれ、帝国になった経過(way)だ。
 どちらも共和国だったが、どちらの文明にも、すなわち、スターウォーズの銀河、及び、古代ローマのどちらにおいても、共和国が永久に続く、という強い自信があった。
 また、どちらの文明においても、征服と拡大への共和国の欲望によって燃料をくべられたところの、一連の諸戦争が生起した。
 古代ローマの歴史においては、これらの諸戦争の主たるものはカルタゴ(Carthage)とのポエニ諸戦争(Punic Wars)だった。
 スターウォーズの伝説群においては、異なった一連の諸戦争、すなわち、旧シス諸戦争(Old Sith Wars)、新シス諸戦争(New Sith Wars)、そして、クローン諸戦争(Clone Wars)があった。・・・
 パルパティーンは、ユリウス・カエサルよりもアウグストゥスに、より類似している。
 彼に対して、元老院は、更なる共和国内諸危機を回避するという希望の下で、諸名誉、諸特権、及び権力を集積させたのだ。」
http://blogs.transparent.com/latin/star-wars-ancient-rome/
(1月12日アクセス)

 さて、このブロガーの言っていることは、全てその通りであるところ、あえて、というよりは、恐らく、余りに当たり前なので言及するのを忘れただけなのでしょうが、彼は、肝心なことを言っていません。。
 それは、今回の映画、ひいてはスターウォーズ・シリーズの製作陣は、マーケティングの観点から、古代ローマにおける、共和制から帝国への移行期における、それぞれの支持者達相互のせめぎ合いを、この映画(群)の中で彷彿とさせることで、古代ローマを理想視し、古代ローマと同定しつつ、古代ローマ的な共和制的要素と帝国的要素とがせめぎあってきたところの、米国において、その国民達に、この映画(群)に、(先述したキリスト教的な、いわば形而上学的な親近感に加えて、)形而下的な親近感を覚えさせることによって、映画館に足を運ばせようとしてきた、ということです。
 米国人達が、その建国の父達以来、古代ローマを理想視し、古代ローマと同定してきたことは、大昔にシリーズ的に取り上げたことがあります。
 それを、大急ぎで、つまみ食い的に振り返ってみましょう。

 「米国建国の父達が、帝政ローマならぬ共和制ローマ(the Roman republic)に強い影響を受けていたことは、共和制ローマ(と帝政ローマ)の国章として用いられた鷲を米国の国章とした・・・こと、1792〜93年に、主要政党として共和党が創立されたことや1788年に発効した米国憲法の第9条に「各州に共和的政体(Republican form of Government)を保証する」という規定・・・が設けられたこと・・・のほか、 同じく憲法において、元老院(senate)、拒否権(veto)、総督(governor=州知事)、といった共和制ローマの政治制度由来の言葉を多数採用した・・・こと等から明らかです。」(コラム#1755)
 「共和制ローマも米国も、虐げられた弱者が圧制者の軛から解放されるべく、悪であるところの帝国に戦いを挑み、それに成功した、という・・・自由の神話<を持っています。>
 米国の建国の父達は、独立した米国を共和制ローマになぞらえていた・・・からこそ、憲法を策定するにあたって、先達であるところの共和制ローマの国制を参考にしたのです。・・・
 このこととも関連していますが、米国の建国の父達は、権力の抑制と均衡を重視しました。
 1人の大統領を置くか、共和制ローマに倣って2人の執政官(consul)を置くか、等々侃々諤々の議論が行われた上で、三権分立制、上下両院制、大統領選挙人制、連邦制が導入されたのです・・・。・・・
 やっかいなことに、上述のような勇壮なる自由の神話を持つ国は、帝国主義的に領土の拡張をしがちであるところ、自分達の行動を帝国主義的であるとは決して認めようとはしません。・・・<要するに、古代共和制ローマも米国も、>反帝国主義的帝国主義<なのです。>」(コラム#1756)
 「共和制ローマは、「本来の」ローマ領の回復をめざす、相手の内紛に介入する、相手の地域にいる自分の市民を「保護」する、軍事的挑発を行って相手に戦いの火ぶたを切らせる、といった手口で次々に戦争を始め、領土を拡大して行った<のですが、>・・・この共和制ローマとほぼそっくりの手口を使って領土を拡大して行ったのが米国です。」(コラム#1758)

 以上は、古代共和制ローマの理想視、古代共和制ローマとの同定ですが、古代ローマ一般の理想視、古代ローマ一般との同定も見られるところです。
 これについても、大昔のコラムから拾いますと、まず、米国の奴隷制は古代ローマ直系と言ってよさそうです(コラム#1761)し、ローマと米国の類似性として、自己例外視、強大な軍事力と経済力と文化力、ノーブレスオブリージュ(とその漸減)を挙げている米国人識者もいます。(コラム#1767)
 更に、付け加えれば、古代ローマ同様、米国も王政を打倒して共和制を樹立した歴史を持っています。
 古代ローマがエトルリア王家から独立したのに対し、英領北米植民地はイギリス王家から独立したわけです。(コラム#1756)

(続く)

太田述正コラム#8150(2016.1.12)
<映画評論47:スター・ウォーズ/フォースの覚醒(その1)>(2016.4.28公開)

1 始めに

 実は、『007 スペクター』に揃って5つ星を付けたテレグラフとガーディアンは、この『スター・ウォーズ/フォースの覚醒(Star Wars: The Force Awakens)』にも揃って5つ星を付けています。
 『デイリー・テレグラフ』のロビー・コリンは 本作に5つ星評価で満点となる5つ星を与え、「J・J・エイブラムス監督の『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』は長らく新作が作られなかった『スター・ ウォーズ』シリーズをも覚醒させた。多くのファンから愛されてきた過去の6作品ともちゃんとつながっている。2015年に公開された映画の中でも群を抜い て素晴らしい作品だ。」と評している。『ガーディアン』のピーター・ブラッドショーは本作に5つ星評価で満点となる5つ星を与え、「過去の6作品より脚本が優れている。もちろん、叙事詩である以上、非現実的で、感傷的で、メロドラマ的でもある。しかし、その溢れんばかりのエネルギーと物語の奥深さは観客を興奮させる。」と」。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%82%BA/%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%81%AE%E8%A6%9A%E9%86%92:A
https://en.wikipedia.org/wiki/Star_Wars:_The_Force_Awakens:B(()内)

 但し、私に言わせれば、この2紙の評論子達は、娯楽映画としての『フォースの覚醒』の出来栄えを5つ星評価をしたということであって、それ以上でも以下でもないはずです。
 というのも、今回の映画に限りませんが、スターウォーズ・シリーズは、ストーリー批評の余地が殆どないほど単純なストーリーで出来ているからです。
 一言で言えば、それは、キリスト教における、天使と堕天使がそれぞれ率いるところの、善と悪との間の戦いについてのリベラルキリスト教的翻案を縦糸に、古代ローマにおける共和制と帝政のせめぎあいについての現代(未来?)的翻案を横糸にし、それに日本的趣味を振りかけたストーリーなのです。
 以下、順次、説明することにしましょう。

2 天使と堕天使…

 米国のキリスト教原理主義者と思しき人物が、以下のように記しています。
 「大部分の<米国>人は、SFファンタジーのスターウォーズ・映画シリーズのことを聞いたことがあるだろう。
 しかし、君は、聖書が、どんなフィクションよりも驚くべき、本当のスターウォーズについて語っていることを知っていたか?
 本当のスターウォーズは何千年にもわたって続いており、君がそのことに気付こうと気付くまいと、それは君の人生に影響を与えている。
 これら一連のスターウォーズの最後のものが、今、地球上で始まりつつあり(building on)、それは今までのどのスターウォーに比べても1000倍致死的なものとなることだろう。
 でも、それは、未来永劫にわたって、最後の戦いになるのだ。
 それはファンタジーではない。
 それは、現実なのだ。
 それは、目に見えないところで起こっているけれど、少し読み込めば、君の聖書に明確に記述されていることが分かるのであって、その戦いが終わる時は目前なのだ。」
https://www.thetrumpet.com/article/12635.24.175.0/religion/bible/the-real-star-wars
 つまり、スターウォーズ・シリーズについて、米国では、共和党支持者に多いキリスト教原理主義者達は、上述したような次第で、スターウォーズを黙示録の世界を見事に描写した傑作と受け止めるとともに、民主党支持者に多いリベラルキリスト教徒達は、正義と悪の二値的世界であると彼らが信じているところの、実はキリスト教的に歪められた世界観、に則った娯楽スペクタル傑作と受け止め、大人気を博してきた、ということだ、と私は見ている次第です。
 では、このシリーズが、米国以外でも大当たりしたのはどうしてなのでしょうか?
 大スペクタクル活劇がウリの「善玉悪玉が・・・はっきりしてる、10歳の子供向けの映画」(コラム#8141)を、子供のために子供連れで見に来る人や、本人自体がよく言えば気持ちが若い人、悪く言えば子供がそのまま大人になった人、にウケてきた、というだけのことでしょうね。

 この際、もう少し補足しておきましょうか。
 英語ウィキペディアには以下のような記述があります。

 「天使達は、キリスト教の聖書を通して、神と人間の間の仲介者たる精神的存在として記述されている。」
https://en.wikipedia.org/wiki/Angel
 「キリスト教においては、サタン(Satan)は、しばしば、・・・罪を犯して・・・地上に落とされた・・・堕天使達の頭領として立ち現れる。」
https://en.wikipedia.org/wiki/Fallen_angel
 「黙示録は、大天使ミカエル(Michael)率いるところの天使達と「悪魔(devil)とサタン」・・・率いるところの者達との間の天における戦争、及び、後者がこの戦争に敗北し地上に投げ落とされること、を描写している。」
https://en.wikipedia.org/wiki/War_in_Heaven

 で、スターウォーズ・シリーズに登場する「ジェダイ(Jedi)は、・・・宇宙にあまねく広がる神秘的なエネルギー「フォース」、及び高エネルギーの光線剣ライトセーバーを用いる・・・者<であって、>・・・フォースのライトサイド(光明面、light side)に仕えるものをジェダイと呼び、ダークサイド(暗黒面、dark side)に魅入られた者をダーク・ジェダイ(Dark Jedi)と呼ぶ・・・<ところ、>・・・5000年以上昔にライトサイドとダークサイドの<間で戦争が間歇的に行われてきた。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%80%E3%82%A4
というのですから、ジェダイが天使、ダーク・ジェダイが堕天使の隠喩であることは明らかでしょう。
 ちなみに、フォース(Force)なるものの詳細な説明が下掲でなされており、
http://www.bloomberg.com/graphics/2015-star-wars-the-force-accounted/
(1月9日アクセス)
興味ある方はお読みいただくとして、私は、Forceは、キリスト教の神の恩寵(the divine grace)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%A9%E5%AF%B5_(%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99)
の隠喩である、とみているところです。
 (ライトセーバーについては後述します。)

(続く)

太田述正コラム#8148(2016.1.11)
<映画評論46:007 スペクター(続)>(2016.4.27公開)

         --映画評論46:007 スペクター(続)--

 言いたいことをほぼ言い尽くした感があったからこそ、昨日、表記のシリーズを終えたわけですが、今朝、ベッドから起きる直前、まだうとうとしている時に閃いたのが今から記す事柄です。
 今回の映画に登場する「スペクター」という悪の組織は、ボンド・シリーズの第1作の『ドクター・ノオ(007は殺しの番号)』(1962年)に既に登場しています。
 そして、その作品の中で、「スペクターの一員である謎の東洋人ドクター・ノオは、ボンドに組織の名と目的<について、>「我々は東側でも西側でもない。私の組織は、対敵情報活動・テロ・復讐・強要のための特別機関、頭文字を取って、S.P.E.C.T.R.Eだ。我々の目的は世界の完全なコントロール…いや、もっと大きなものを手中に収めることなのだ」」というタテマエ的な説明が行われ、更に、後の作品である「『007 サンダーボール作戦<(Thunderball)>』<(1965年)の中>では、<スペクターが、>・・・ソ連・・・<や>中<共>など、・・・必要があれば、当時の共産圏<諸国とも>裏で協力し利益を得て<おり、共産圏と>・・・の「冷戦」のなかで、ボンドは<米>CIAとも協力しながら、・・・スペクターと戦い続けている」
http://realsound.jp/movie/2015/11/post-369.html (「」内)
http://www.hyou.net/ta/007.htm (前掲。上演年)
という、ホンネ的な補足説明が行われていますが、この「スペクター」がボンド映画のタイトルに書きこまれたのは今回が最初・・私見では、既に記した理由から最後になるはず・・です。
 ですから、そのこと自体に深い意味があるはずです。
 今回の映画は、スペクターのサハラ砂漠内の本拠の爆破・消失、及び、その創業者で独裁的ボスであるオーベルハウザーの逮捕によって、この組織は壊滅したはずであるところ、スペクター(spectre=specter)の意味は「恐ろしい幻影」
http://ejje.weblio.jp/content/specter
なのですから、これは、それと対をなすところの、「恐ろしい(formidable)現実(reality)」の存在を暗示していて、英国の首相や内相は、この「恐ろしい現実」に仕えていることを示唆しているのではないか、と私は思うに至ったのです。
 「恐ろしい現実」は何なのかを考えるにあたっては、「1966年に、キングズリー・エイミス(Kingsley Amis)<(注)>が、ボンド・シリーズの成功要因の一つは、・・・「暫定的かつ地域的かつ幻想的な諸要素」と共に、ボンドの幻想的(fantastic)世界が、何らかの種類の現実(reality)にしっかりと根を下ろしている(be bolted down to)ことがもたらす・・・効果だ、と指摘した」
http://www.nytimes.com/2015/11/06/movies/review-in-spectre-daniel-craig-returns-as-james-bond.html?_r=1 (★)
ことが手掛かりになります。
 この手掛かりに照らせば、今回の映画の中で、米国がいかなる形でも全く登場しない、という非現実性(unreality)が頗るつきに気になってこざるをえません。

 (注)1922〜95年。イギリスの小説家、詩人、批評家、教師。オックスフォード大卒。サマーセット・モーム賞(Somerset Maugham Award。文学賞)受賞。(彼の息子も同じ賞を受賞することとなる。)
https://en.wikipedia.org/wiki/Kingsley_Amis

 このことは、英国の首相や内相が仕えている「恐ろしい現実」が米国であることを意味しているのではないでしょうか。
 確かに、それが米国であれば、今回の映画は、英国が落ちぶれているもかかわらず、自らの過去の経済や政治面での偉大さ、という幻影に踊らされ、戦後においても、身の丈を超える対外政策を中東等で行ってきたものの、米国の意向に逆らったスエズ戦争での失敗に懲り、爾後、米国の腰巾着の形で対外介入行動をとることとし、米国の「成功」のおこぼれにあずかってはきたものの、その結果は、中東等において、状況の漸次的・不可逆的悪化をもたらしてしまった上に、今や、高度な国民監視国家になってしまった英国は、その内外政策のいずれもが、自傷行為的なものへと堕しつつある、という絶望的メッセージを発している、という形できれいに総括ができます。
 英国の没落にとどめをさしたのが、先の大戦において、英国を引きずり降ろして名実ともに新しい世界覇権国へとのし上がった米国であったことを想起すれば、米国は、現在の英国の苦境の全てに関わっている疫病神であって、だからこそ、英国は、(自らの過去の偉大さの幻影の憑依を払いのけた上で、)米国とは決別しなければならない、というメッセージをこの映画は同時に発している、ということにもなります。

太田述正コラム#8146(2016.1.10)
<映画評論46:007 スペクター(その6)>(2016.4.26公開)

 それは、今後、ボンド・シリーズを続けていくための伏線では、と言いたい人がいるかもしれません。
 確かに、製作会社はこのシリーズを続ける気であり、2016年の春に早くも次作の製作に着手する、とも言われています。
http://www.bbc.co.uk/newsbeat/article/31654971/sam-mendes-spectre-about-bonds-childhood (★)
 しかし、そうだとしても、というか、そうだとすると、辻褄の合わないことが多過ぎます。
 今回の作品の監督をしたメンデスは、次作は手掛けないと明言していますし、今回、最後に、クレイグが演じたボンドに逮捕されるところの、主悪役を演じたワルツは、次作にも出演するかどうかはクレイグ次第だとしているものの、今回を含め、立て続けに4本のボンド映画に主演したところの、肝心のクレイグは、もうボンド・シリーズには出演しないと示唆している(上掲、及び
http://www.hyou.net/ta/007.htm 前掲)
ことが第一です。
 第二に、今回の映画が、ボンドの辞職・結婚で終わっていることです。
 「ボンドが愛する女性と結ばれた末にMI6を辞職して映画が終了するのは、『女王陛下の007』<以来である>」(C)、というのですが、『女王陛下の007』では、「ボンドは[コルシカ出身のイタリア人たる]テレサ[・ディ・ヴィセンゾ公爵夫人]と結婚し、彼女のランチア・フラミニアに乗って新婚旅行に出かけた。だが、2人を追い越したマセラッティに乗っていたのは、<主悪役の>ブロフェルドであった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B3%E7%8E%8B%E9%99%9B%E4%B8%8B%E3%81%AE007
https://en.wikipedia.org/wiki/Tracy_Bond ([]内)
と、ボンド・シリーズの継続がミエミエだったのに対し、今回は、エンディングにそのような含みは皆無です。
 (蛇足ながら、コルシカ系イタリア人のテレサ役を演じたのは、ダイアナ・リグ(Diana Rigg)という、英国の女優でした。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%83%8A%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%82%B0 )
 しかも、ボンドの今回の結婚相手は、マドレーヌ・スワンという、プルーストの20世紀を代表する長編小説の一つである、『失われた時を求めて』ゆかりの名前を持つ、これまでの歴代の(ボインだけが最大の取り柄であった)ボンドガール達中、最も傑出した知力を持つ女性
http://www.telegraph.co.uk/film/james-bond-spectre/review/ 前掲
 (どのような「ゆかり」であるかは、下掲参照。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%B1%E3%82%8F%E3%82%8C%E3%81%9F%E6%99%82%E3%82%92%E6%B1%82%E3%82%81%E3%81%A6 )
であり、(プロのジゴロであったはずの)ボンドは、あろうことか、彼女に、狂おしいまでの恋心を抱いてしまう、ときているのです。
http://www.latimes.com/entertainment/movies/la-et-mn-spectre-review-20151105-column.html (★)
 それもそのはずであり、(その学歴や知力もさることながら、)彼女は、ボンドに勝るとも劣らない銃遣いの名手であるとともに同じく酒類の目利きでもあり、かつ、勁さと官能性を二つながら兼ね備え、
http://www.theguardian.com/film/2015/oct/25/spectre-review-another-stellar-outing-for-bond-mark-kermode (★。あの高級紙ガーディアンが、3度も今回の映画評を掲載していることに注目していただきたい。)
更にまた、その軽度の精神的不安定さがミステリアスであってもっと知りたいという気持ちとともに守ってあげたいという気持ちを男性に掻き立てさせるところの、ボンドにとって・・いや、私にとっても・・、文字通りの理想の女性だからです。
 そして、その彼女が、ボンドに、自分と人生を共にしたいのなら、(当然、ボンドは、危険極まりないところの、その命をかけるに値するほどの仕事をさせられていないことを、その高度な知力で見抜いたが故に、)工作員を辞任することを求めた(映画)のに対し、ボンドが最終的に彼女のその要求を呑んだからこそ、2人は結婚した、と解される以上、そんなボンドが、二度と工作員なんぞに復帰するはずがないのです。
 つまり、ボンド・シリーズの製作会社の皮算用に反し、今回の映画は、脚本陣、監督、そして主演俳優までもが、阿吽の呼吸でもって結託することによって、ボンド・シリーズの最終回に仕立て上げてしまったところの、ボンド・シリーズの最高傑作なのであって、仮に、ボンドなる英国の工作員が登場する映画が今後登場するとしても、それは、ボンド・シリーズの名前を借りた、全く似て非なるものである、と私は訴えたいのです。

 (4)エピローグ

 「<今回の映画では、>オーストリア・アルプスとタンジールが舞台となっているが、『リビング・デイライツ』でも舞台となった。」(C)というのですが、ボンド・シリーズで過去に舞台となった場所が数多ある中で、どうして、今回、この2か所を選んだのかにも、深い訳がある、と思いたいところです。
 まず、アルプスについては、それを登山とスキーの聖地に仕立て上げたのは英国でであった(コラム#61)という因縁がありますし、タンジールについては、「17世紀後半、ポルトガル王女カタリナとイングランド王チャールズ2世の結婚による持参金代わりに一時的にイギリス領になったが、その後モロッコのイスラーム王朝によって征服された<という歴史に加えて、>・・・1911年のアガディール事件(第二次モロッコ事件)を経て、・・・タンジ<−ル>は・・・1956年<まで、英国を含む3か国、のちには9か国による>・・・国際管理地域とされた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%82%A7
という因縁があります。
 また、メキシコシティについては、英国が、恐らくは、米独立戦争及び1812年の米英戦争を戦った米国を南部から牽制するためでしょうが、地理的意味での欧州諸国中、真っ先に1821年にスペインから独立したメキシコを承認した
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%81%AE%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E9%96%A2%E4%BF%82
こと、かつまた、米国が、対英予防戦争的に1846〜48年の米墨戦争を起こし、その領土の3分の1をぶんどった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3%E5%A2%A8%E6%88%A6%E4%BA%89
こと、が念頭にあったと言えなくもないと思います。
 また、東京については、英国が、日本とかつて日英同盟を結んでいたこと、その日本は、「米英戦争・・・の時に<英国から>受けた攻撃以降、太平洋戦争まで、<米>本土は他国の正規軍からの攻撃に曝されることはなかった。・・・、1942年(昭和17年)2月24日、大日本帝国海軍伊号第一七潜水艦による、カリフォルニア州サンタバーバラのエルウッド石油製油所に対する砲撃(<米>本土砲撃)だった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3%E8%8B%B1%E6%88%A6%E4%BA%89
ことが念頭にあった、と思いたいところです。
 (それどころか、米英加豪ニュージーランドからなるエシュロン(典拠省略)に、旧植民地の南ア等と並んで日本も加入させるべきだ、とこの映画の製作陣は訴えている、という見方さえできます。その場合、残りの2か国はどこなのでしょうね。インドとナイジェリアかな。)
 メキシコシティと東京については、牽強付会もいいところだと思われたかもしれませんが、この映画の、隠されてはいるけれど、最大のテーマが、英国の偉大な過去に対するオマージュであるとすれば、オーストリア・アルプスとタンジールは、まさに、英国の偉大な過去を象徴する場所としてぴったりである以上、メキシコシティと東京だって、同じことだ、と考えてしかるべきではないでしょうか。

(完)

太田述正コラム#8144(2016.1.9)
<映画評論46:007 スペクター(その5)>(2016.4.25公開)

 ちなみに、米国の映画評中、唯一、英エコノミストと部分的に重なる映画評を載せたのは、高級雑誌のアトランティック
https://en.wikipedia.org/wiki/The_Atlantic
ですが、それは、「ボンドはバットマンではないのであって、幼少期の(origin)物語は必要としない」以下、エコノミスト掲載の映画評中私が引用した箇所の(冒頭部分に続く)前半と同じ趣旨のことを指摘しているものの、後半には全く触れていません。
http://www.theatlantic.com/entertainment/archive/2015/11/james-bond-daniel-craig-spectre/414552/ (★)

 エコノミストの映画評論子は、私が引用した箇所の冒頭部分で「ボンド<は>、・・・気が触れたテロリスト達が人類を隷属させるのを防ぐ<ことで、>・・・民主主義のためにこの世界を安全に保ってくれている」と人々は受け止めていたとしつつ、後半で、「この<映画>シリーズ中の死や破壊のことごとくが、権力に飢えた悪漢達が常続的に地球を植民地にしようと試みていることに由来しているのではなく、<主悪役の>家族内の憤りに由来していることを立証した」と嘆き、「世界は、ジェームズ・ボンドが存在しなかった方がよりよい場所になっていたのではないか、という」悲痛な叫びをあげているわけですが、ボンドは、英国政府の一工作員である以上、上掲の文章中の「ボンド」を「英国」で置き換えられるはずです。
 そして、007シリーズの第1作は、1962年のショーン・コネリーがボンドを演じた『ドクター・ノオ((007は殺しの番号)(Dr. No)』であり、ダニエル・クレイグが初めてボンドを演じたのは、第21作目にあたる、2006年の『007 カジノ・ロワイヤル(Casino Royale)』であったこと
http://www.hyou.net/ta/007.htm
を思い出しましょう。
 思うに、今回の映画の製作者達は、ボンドシリーズが始まるの直前の1956年の、英国政府による、イスラエル政府とフランス政府を使嗾して行ったところの、エジプトの独裁者ナセルの打倒を目論んで米国等の反対でそれに失敗したスエズ出兵から、クレイグ主演のボンドシリーズが始まる直前の2003年の、英国政府が、米国に積極的に同調して行ったところの、イラクの独裁者フセインの打倒を目論んでそれに成功はしたけれど、中東全体を不安定化してしまったところの、対イラク戦争に至る、英国政府が積極的に関与した対独裁者対外軍事介入は、ことごとく、かつての世界覇権国の時に比して、諜報能力も軍事能力も見る影もなく弱体化してしまったというのに、世界覇権国であった時の栄光が忘れられず、身の丈不相応の対外的冒険を繰り返してきた結果、世界、とりわけ、中東を無茶苦茶にしてしまった、というメッセージを込めているのです。
 対外的冒険を繰り返すということは、英国が、戦後、一貫して恒常的な有事体制下にあることを意味するのであって、この映画が、英国が、一般市民をも対象とする、広範な盗聴体制を、(米国等と提携する形で、日本政府や南ア政府を巻き込む形で)一層拡充しようとしている陰謀をボンドが阻止しようとする内容である
http://www.theguardian.com/film/2015/oct/21/spectre-review-james-bond-is-back-stylish-camp-and-sexily-pro-snowden (★)
のは象徴的です。

 さて、誰も指摘していませんが、一見、ボンドは、この陰謀の阻止に成功したように見えるものの、実は成功してはいないのです。
 というのは、今回の映画の準悪役C、すなわち、(国内諜報担当のMI5と国外諜報担当のMI6が統合されてできた)国家合同保安部MI5の長(パンフレット)を、このポストに就けた、つまりは、ボンドの所属していたMI6をつぶし、国際盗聴体制の拡充で代替することとし、スペクターとの提携を追求した陰謀の元締めというべき内相・・Cとは同じ大学の学友という設定(映画)・・も、その更に上司たる首相・・映画では全く言及されない・・も、無傷のままだからです。
 つまり、今回の映画は、英国政府にはもはや全く期待できず、英国の状況は一層悪化していくだろう、という深刻なメッセージを突きつけているのです。
 これは、スコットランド独立派がスコットランドで半数近くを占め、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E7%8B%AC%E7%AB%8B%E9%81%8B%E5%8B%95
英国人の過半数がEU脱退を支持していて、政権与党の保守党がそれを推進しており、
http://jp.reuters.com/article/brixit-poll-paris-idJPKBN0TD29O20151124
第一野党たる労働党が極左化し、
https://en.wikipedia.org/wiki/Jeremy_Corbyn
極右の英国独立党が得票率10%を超える、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B9%E7%8B%AC%E7%AB%8B%E5%85%9A
という英国の政治の混迷状況に対する、英国の「良識派」の絶望感を反映している、と言えそうです。
 
(続く)

太田述正コラム#8142(2016.1.8)
<映画評論46:007 スペクター(その4)>(2016.4.24公開)

 (3)英国の過去の政治力へのオマージュ

 それにしても、英国で最大の発行部数を誇る保守系の新聞であるデイリー・テレグラフ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A4%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%86%E3%83%AC%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%95
と、英国で最も質の高いところの、リベラル系の新聞であるガーディアン
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%B3
が、揃いも揃って、この映画に5つ星を付けた
http://www.theguardian.com/film/2015/oct/22/spectre-review-roundup-james-bond
(1月5日アクセス(★))
というのは、珍事と言わずして何でしょうか。
 それをもたらしたのは、今回、初めて007シリーズの脚本陣に加わったところの、前出のバターワースであろう、と私は推測しています。
 「彼は、ロンドンの<ロンドン橋を渡ったテームズ川南岸の>バラー<・マーケット>
https://www.expedia.co.jp/Borough-Market-London.d6047472.Place-To-Visit
から1マイルも離れていない・・・病院で生まれたけれど、ロンドンのすぐ北に位置するロンドン通勤圏のセント・オールバンズ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%B3%E3%82%BA
の、イギリスの一種の精神的な死を象徴するに至ったところの、1960年代型の住宅で育った。」
http://www.newyorker.com/magazine/2014/11/10/nothing-2
というのですから、そんな彼が、この映画に、英国の過去の産業力へのオマージュを盛り込もうとしたことは大いにありうる、と思いませんか?
 その彼は、ある意味、更に深刻なオマージュ、すなわち、英国の過去の政治力へのオマージュをもこの映画に盛り込んだ、と私は見ているのです。
 そして、このことに、英国の主要メディアは気付いているからこそ、この映画を高く評価したに違いないのです。
 気付いているというのなら、どうして、この映画の映画評群の中で、そのことを指摘していないのでしょうか。
 この映画が過去の産業力へのオマージュであることに気付かないイギリス人はいないはずですが、過去の政治力へのオマージュであることについても、ちょっと気が利いたイギリス人であれば、見逃すはずがないと思われるので、あえて指摘する必要がなかった、といったところではないでしょうか。
 ところが、英エコノミスト誌は、野暮にも、屈折した逆説的な形でですが、下掲の本映画評の中で、このことを指摘してしまっています。

 「<この映画は、>せっかくいい出来なのに、<実は、主悪役の>オーベルハウザーの<主人公の>ボンドに対する復讐劇<だったんです、というネタばらし>が台無しにしてしまっている。
 オーベルハウザーを、ボンド・シリーズ全体にまたがる悪漢に仕立てることで、この映画は、ボンドのフィクション的宇宙を家族内のつまらない喧嘩へと矮小化してしまった。
 ずっと、我々は、ボンドが、民主主義のためにこの世界を安全に保ってくれている、と思い込んでいた。
 我々は、彼を、気が触れたテロリスト達が人類を隷属させるのを防ぐために、エキゾチックな諸地へと旅する一匹狼の英国人である、とみなしてきた。
 しかし、実際には、彼は、単に嫉妬深い乳兄弟<であるオーベルハウザー>・・・による乱射から身を守っていただけだった、というのだ。
 もっとも、我々は驚いてはいけないのかもしれない。
 アクション・冒険<映画>シリーズがその英雄達のトラウマの少年時代に憑りつかれることは、今や珍しくないからだ。
 スターウォーズの前日譚群や、フォックス社の新しい、バットマンの『ゴッサム(Gotham)』なる少年時代のシリーズを見よ。
 しかし、そんな展開は、ボンド<映画>に関しては、とりわけふさわしくない。
 <ボンドシリーズの原作者である>イアン・フレミング(Ian Fleming)の<生み出した>秘密工作員<たるボンド>は、任務を果たさなければならない男であって、大勢の中の不詳(anonyous)の(、そして、極め付きに練達の)スパイであって、冷戦の諜報機構の必要だが取るに足らない一員(small cog)なのだ。
 彼は、007であって001ではないのだ。
 地上の最も強力な犯罪者が、自分の父親の<ボンドへの>愛情に対する嫉妬から、ボンドに執着したのだとすると、ボンドは、全く異なった人物になってしまう。
 更に気に障るのは、オーベルハウザーのこの動機が、ボンドの諸業績の全てを無意味なものにしてしまうことだ。
 「スペクター」<、すなわち、オーベルハウザー>は、この<映画>シリーズ中の死や破壊のことごとくが、権力に飢えた悪漢達が常続的に地球を植民地にしようと試みていることに由来しているのではなく、家族内の憤りに由来していることを立証した。
 それは、我々に意気消沈させる疑問を惹起させる。
 すなわち、世界は、ジェームズ・ボンドが存在しなかった方がよりよい場所になっていたのではないか、という・・。
 ボンド映画を見終わった後に、こんなことを考えさせられることを望んでいる者など、一人もいないはずだ。」
http://www.economist.com/blogs/prospero/2015/10/new-film-spectre ★

(続く)

太田述正コラム#8140(2016.1.7)
<映画評論46:007 スペクター(その3)>(2016.4.23公開)

 (2)英国の過去の産業力へのオマージュ

 比較的容易に気付くのは、この映画が英国の過去の産業力へのオマージュになっていることです。
 以下で説明するところの、諸種の乗り物の使い方が、そのことを示唆しています。

 この映画では、カーチェース・シーンを含め、(かつての)英国車が活躍するシーンが頻繁に出てくるのですが、登場する車の製造会社の所有者の変遷は次のようになっています。
 銘記すべきは、まだ部分的に英国籍の車だけを主人公に使用させ、外国籍になってしまった車群は、ことごとく悪役側に使用させていることです。

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 ・アストン・マーチン:2車種を主人公が使用。(C)

 「イギリスの乗用車メーカーでありブランドの名称である。・・・
 1987年にフォード・モーター傘下に納ま<ったが、>・・・2007年3月、<ウェールズ出身の>デイヴィッド・リチャーズやクウェートの投資会社2社などにより構成される投資家グループに・・・売却された。株式の一部は、フォードによっても継続保持されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%81%E3%83%B3

 一旦、米国籍となったのが、かろうじて部分的に英国籍にもどったけれど、再び完全外国籍になりそうで風前の灯火といったところです。
 唯一の慰めは、クウェートが英国のかつての植民地であった点でしょう。

 ・ジャガー(C):主悪役の一の子分が使用。(C)

 「イギリスの自動車メーカー・ブランドである。・・・
 しかし、2000年代後半に入り、フォードグループは経営不振から・・・インドのタタ・モーターズとジャガーおよびランドローバーの売却について交渉を進めた。最終的に、2008年3月26日にジャガーおよびランドローバーはタタに・・・買収された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%AC%E3%83%BC_(%E8%87%AA%E5%8B%95%E8%BB%8A)
 
 ・ランドローバー:主悪役の一の子分が使用。(C)

 「ランドローバーには英国王室御用達を示すワラントが発行されている。・・・
 1986年からはローバー・グループ、1988年からはブリティッシュ・エアロスペース、1994年からはBMWと・・・親会社<が変わったが、>・・・2000年、BMWは当時のローバー・グループを解体し、ランドローバー部門/ランドローバー・ブランドはフォード社に売却された。2008年、フォードは1989年から所有していたジャガーとともにランドローバーをインドのタタモーターズに売却した。現在、ランドローバーは、ジャガーと単一の自動車会社組織「ジャガーランドローバー」(JLR)、もしくはジャガーカーズ社(Jaguar Cars Ltd.)として運営している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%BC

 以上の2社は、いまや、まとめて、インド籍になってしまっています。
 唯一の慰めは、インドがやはりかつての植民地であった点でしょう。
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 ちなみに、車と並んで活躍するのが下に掲げた回転翼機群ですが、当然のように、全て悪役側に使用させています。

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 メッサーシュミット・メルコウ・ブローム(パンフレット)

 「ドイツのダイムラー・クライスラー傘下にあった航空機メーカー。・・・
 ヨーロッパの防衛連携のため2000年にフランスのアエロシパル・マトラ、スペインのCASA、そしてDASAが合併してEADS (European Aeronautic Defence and Space Company N.V.)が創設され、ダイムラークライスラー・エアロスペースはEADSドイツに社名が変わった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%83%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%9F%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%82%A6%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%A0

 一貫して生粋のドイツ機です。

 マクドネル・ダグラス(パンフレット)

 「かつてのアメリカの大手航空機製造会社である・・・
 1997年にボーイング社に吸収合併された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%83%89%E3%83%8D%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%80%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%82%B9

 一貫して生粋の米国機です。

 アグスタウェストランド(パンフレット)

 「イタリアのフィンメッカニカの子会社アグスタと、イギリスのGKNの子会社GKN ウェストランド・ヘリコプターが2000年7月に合併して設立された。
 GKNとフィンメカニカ社はアグスタウェストランド社のシェア(株式)を50%ずつ持ったが、2004年5月26日にGKNが・・・フィンメカニカに売却<した。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B0%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89

 もともとは半分英国機だったけれど、今ではイタリア機です。
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 唯一、生粋の英国籍の乗り物として気を吐いているのが、当然、主人公に使用させている(C)わけですが、下掲の固定翼機です。

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 ブリテン・ノーマン アイランダー(C)

 「イギリスのブリテン・ノーマンが製造する汎用<双発プロペラ>機。・・・乗員を含め10人をのせることができる。・・・軍用機としては軽輸送や洋上での捜索救難等に使用できる。またディフェンダー(Defender)と呼ばれる軍用専用型は、主翼にロケット弾、爆弾、機銃ポッド等を装備してCOIN機として運用する事も可能である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%86%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3_%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BC
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 なお、さすがに、身に着ける小物類になると、英国籍のものだけを主人公に使わせる、というわけにもいかなかったようです。

 主人公愛用の拳銃のワルサー(パンフレット)はドイツ籍ですし、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%83%AB%E3%82%B5%E3%83%BC
この映画における重要なギミックでもある、主人公の時計のオメガ(C)は、ご存知の通りスイス籍です。
 また、主人公のサングラスは、Tom Ford(パンフレット)であり、米国籍と言っていいでしょう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%89
 唯一、英国籍と言えるのは、主人公の決め衣装たる、白いタキシード(パンフレット)です。
 タキシードそのものが、下掲のように、英国で生まれたものだからです。

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 「1876年、当時のイギリス皇太子エドワード7世<は、>・・・ディナー・ジャケットを考案し、パーティーなどで着用するようになる。・・・
 1890年代に・・・アメリカではタキシードという呼び名が定着した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%AD%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%89
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 ご納得いただけましたでしょうか。

(続く)

太田述正コラム#8138(2016.1.6)
<映画評論46:007 スペクター(その2)>(2016.4.22公開)

3 思弁的に面白かった理由

 (1)始めに

 まず、これが英国映画であることを確認しておきましょう。
 それは、タイトルで早くも決まりです。
 米語の'Specter'ではなく、英語の'Spectre'だからです。(A)
 (ちなみに、邦題は、『スペクター』ではなく、『007 スペクター』になっています。(C))
 それだけでは身も蓋もないので、もう少し続けましょう。
 製作はイーオン・プロダクションズですが、英国に本拠を置いています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%BC%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%80%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%82%BA
 監督がサム・メンデスであり、英国人でケンブリッジ大卒です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%B9
 脚本は、この映画の日本語ウィキペディアでは、米国人でノースウェスタン大卒のジョン・ローガンだけを挙げており、
https://ja.wikipedia.org/wiki/007_%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%AF%E3%82%BF%E3%83%BC:C
また、彼は007シリーズの前作の『スカイフォール』の脚本陣にも加わっていますが、
https://en.wikipedia.org/wiki/John_Logan_(writer)
それも英国人たる2人の脚本家、ニール・パーヴィスとロバート・ウェード(いずれも英ケント大卒)との共同作業でした
https://en.wikipedia.org/wiki/Skyfall
https://en.wikipedia.org/wiki/Neal_Purvis_and_Robert_Wade
し、今回の映画でも、この同じ2人に加えて、更に、英国人でケンブリッジ大卒のジェズ・バターワースとの共同作業です。
https://en.wikipedia.org/wiki/Jez_Butterworth
 (日本語ウィキペディアの手抜きには困ったものです。)
 次に、俳優陣です。
 主演のダニエル・クレイグは、英国人で名門のギルドホール音楽演劇学校卒です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%8B%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%82%B0
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AE%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%AB%E9%9F%B3%E6%A5%BD%E6%BC%94%E5%8A%87%E5%AD%A6%E6%A0%A1
 主悪役はオーストリア人で、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%83%84
その筆頭子分格は米国人で、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%93%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%90%E3%82%A6%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%82%BF
準悪役Cはアイルランド人であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%83%E3%83%88
また、主ボンドガール・・ボンドガールは非英国人じゃないとおかしいですよね・・の前出レア・セドゥはフランス人で、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%82%BB%E3%83%89%E3%82%A5
従ボンドガールのモニカ・ベルッチはイタリア人です
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%8B%E3%82%AB%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%83%E3%83%81
が、主役を支える3人組中の、Q役には英国人で同じく名門の英国王立演劇アカデミー卒のベン・ウィショー、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%BC
同じくマネーペニー役には英国人でケンブリッジ大卒のナオミ・ハリス(黒人女性)、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%82%AA%E3%83%9F%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%AA%E3%82%B9
そして同じくM役には英国人で上出の英国王立演劇アカデミー中退のレイフ・ファインズ
https://en.wikipedia.org/wiki/Ralph_Fiennes
といった具合です。
 前にも記したことがありますが、英国の映画の製作陣や俳優達の学歴の高さはハンパじゃないですね。
 なお、付け加えておきますが、作曲は、米国人でエール大卒のトーマス・ニューマン
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3
ですが、全英シングルチャート1位を獲得した主題歌ライティングズ・オン・ザ・ウォールに限っては、作詞作曲(以上他の1名と共同)及び歌唱は、英国人の「無学歴」のサム・スミス(コラム#7496)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B6%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%AB
https://www.youtube.com/watch?v=8jzDnsjYv9A ←お聴きあれ。
https://itunes.apple.com/jp/album/writings-on-the-wall-single/id1037850750?app=itunes&ign-mpt=uo%3D4# ←この曲の250円でのダウンロードはここから。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%9F%E3%82%B9
です。
 配給はコロンビア映画、要するにソニー・ピクチャーズ・エンタテインメントですから、日本ですけどね。
 「2014年11月23日に、ソニー・ピクチャーズ・エンタテインメントへのハッキング事件が発生し、本作の製作に関わる書類の一部が流出した。その中には、本作の脚本の草稿も含まれていた。」(C)ことはご記憶の方もあるでしょう。
 (以上、全般的に、A、Cに拠っています。)

 何が言いたいかというと、このような英国的製作陣が英国人たる俳優群を駆使して製作した映画が、英国の現状の本質を映し出さない映画、そして、英国へのオマージュ的メッセージ性を帯びない映画、であるはずがない、ということです。
 ここで先回りして申し上げておきますが、この映画は、英国での評価は高く、米国での評価は低い(A)のですが、それは、米国人達は、知識人達を含め、「母国」であるにもかかわらず英国について真に理解している者が少なく、また、そもそも、「母国」であるにもかかわらず英国への関心自体が低く、(英国について、恐らくは彼らよりは通暁していると密かに自負しているところの私、及び)英国人一般のように、この映画が、「英国の現状の本質を映し出」すとともに、「英国へのオマージュ的メッセージ性を帯び」ていること、に彼らは気付かない、いや、そんなことには彼らは興味はない、からなのです。
 この映画は、そんな評論を一般に行ってしまったことによって、米国人達の、とりわけその知識人達の浅薄さ、矮小性、唯我独尊性を、改めて炙り出した、といったところでしょうか。

(続く)

太田述正コラム#8136(2016.1.5)
<映画評論46:007 スペクター(その1)>(2016.4.21公開)

1 始めに

 映画を、昨日、鑑賞した順番は、「スター・ウォーズ/フォースの覚醒」、「007 スペクター」だったのですが、より面白かった後者から取り上げることにしました。
 豊洲のららぽーと内のシネコンに毎年1回、シネクラブで年1回提供される白地鑑賞券2枚を使って、映画2本を鑑賞しに行き始めてから、誰かと一緒に行った記憶がないことから、定かに記憶はないものの、これは、私が「独身」生活に入ってからの「慣習」だということになります。
 その際、概ね、毎回、1本目と2本目の間に、フードコートでセルフサービス形式の夕食を食べてきたところ、今回、フードコートが廃止され、その跡が分割されて、いくつかの単体レストランが、その分、増えていました。
 昨4日はまだ正月のうちであり、仕事始めがまだの企業も少なくないはずなのに、シネコンも各レストランも余り混んでいないことが気になりました。
 築地市場が今年豊洲に移転すれば、状況が変わるかもしれませんが・・。
 さて、「スターウォーズ」と「007」は、どちらも、大当たりしてきたシリーズものであり、しかも、どちらも、過去のシリーズのオマージュないし総集、という趣があるという共通点があるのですが、どうして、「007」の方が「より面白かった」かについては、思弁的・・ちと表現がオーバーか・・な説明は後に回し、情緒的な説明を先にしておきましょう。

2 情緒的に面白かった理由

 まず、ロケーションです。
 メキシコシティから始まり、ロンドンへ、東京、ローマ、オーストリア・アルプス、タンジール/砂漠(モロッコ)、そしてロンドンに戻り、と進行して話が完結します。
 メキシコシティは、スタンフォード大留学中の1975年に、日本人の友人2名と私の愛車のフォード・ムスタングで陸路訪れており、途中、(全く街路灯のないメキシコの田舎道で、これは、ほぼ不可抗力だったと思いますが、)夜道で右路肩を歩いていて衝突する直前まで気付かなかった牛を跳ね飛ばして車のボンネットと右側ボディをへこませるとともに血潮と肉片まみれにし、その翌々日だったかには、(タイヤがすり減っていてアスファルトが雨後で泥まみれだったために)スリップして横向きになり、後続車に右側ボディに衝突され、車がオシャカになったとパニックで思い込み、裁判所で簡易裁判を受けて罰金を支払った後、それでもめげずにバスに乗り換えて目的地のメキシコシティまで行って観光を行い、帰途、現場に立ち寄り、警察が保管していたムスタングに試にキーを差し込んで回したら始動したので、右半分が中破し、窓ガラスもなく横殴りの風が吹き込む状態のこの車をはるばるスタンフォード大まで運転して帰りました。
 (修理費が、買った金額と同じくらいかかりました。中古ですから安いですけどね。)
 ですから、メキシコシティでの冒頭の大活劇シーンを見ていて、この私の若気の至りの「大活劇」を思い出した、というわけです。
 ロンドンは、私1988年に1年間滞在した場所であり、映画の最後に活劇の舞台となるのが、その、シティー・ホール、テームズ川、ウェストミンスター橋、ランベス橋、ボクスホール・クロス、コヴェントガーデン、トラファルガー広場、であり、
https://en.wikipedia.org/wiki/Spectre_(2015_film):A
このうち1988年に存在していなかった、冒頭のシティー・ホール
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BB%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%AB_(%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%B3)
を除き、私は、全て訪れたり通ったりしたことがあるので、懐かしいなんてもんじゃありません。
 東京は説明の要はありませんね。
 ローマは、過去3回訪問していますし、ローマのシーンが、一部、チャーチルの生誕地であるブレナム宮殿
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AC%E3%83%8A%E3%83%A0%E5%AE%AE%E6%AE%BF 
・・ロンドン滞在中に、相当遠方ですが、訪れたことがあります・・で代替されていた(A)ので、これらについても思い出に耽りました。
 そして、オーストリア・アルプスならぬフランス・アルプスは、やはりロンドン滞在中にスキーに一週間行きましたし、モロッコの砂漠ならぬエジプトの砂漠は、同じサハラ砂漠であり、私の小学生時代の環境そのものですからね。

 次に、この映画のヒロインです。
 かつて、『永遠の0』を鑑賞した時に井上真央にはまっちゃった時以来ですが、この『007』では、レア・セドゥ
https://en.wikipedia.org/wiki/L%C3%A9a_Seydoux:B
にはまっちゃいました。
 彼女には、2013年のカンヌ映画祭で、監督に加えて、異例にも、もう一人の主演女優とともにパルム・ドールが授与されています(B)が、不思議な魅力を湛えた女優です。
 『007』では、彼女が、マドレーヌ・スワンという、オックスフォード/ソルボンヌ卒(映画)の才媛を演じているのですが、彼女の役名は私の第一の私小説のヒロインの名前を、そして、その役の上での才媛ぶりと精神の不安定さ・・調べたら、実際の彼女も精神が不安定なところがある(B)ようですね・・は私の第三の私小説のヒロインを彷彿とさせるものがあって、胸がキュンとしたのです。
 そう言われても、読者の方々にはさっぱり訳が分からないでしょうが、『007』が私にとって「情緒的に面白かった理由」を語る際には、このことを省くわけにはいかないので、ご理解のほどを。

(続く) 

太田述正コラム#7530(2015.3.8)
<映画評論45:ベイマックス(続)(その3)>(2015.6.23公開)

 スタンフォード大学は、・・・セバスチアン・スラン(Sebastian Thrun)<(注12)>というドイツ人たる電子計算機科学者・・・を人工知能実験所(Artificial Intelligence Laboratory)の所長にした。

 (注12)1967年〜。「ドイツ出身の教育者、プログラマー、ロボット開発者、そしてコンピュータ科学者である。グーグルの副<会長>・フェローであり、スタンフォード大学のコンピュータ科学・・・教授<として、>・・・Stanford Artificial Intelligence Laboratory (SAIL)の所長を務めていたが、2012年<、他の2人>とともにユーダシティ<(Udacity)を>創立し、科学、技術、工学、数学などの分野の授業を無償で提供することに精力を注いでいる。また、グーグル・グラスを開発したGoogle Xの<所>長も務める。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%90%E3%82%B9%E3%83%81%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%B3
 独ヒルデスハイム大学を経てボン大学卒、同大博士。米カーネギー・メロン大研究員・助教、准教授を経てスタンフォード大准教授、教授。2011年にスタンフォード大教授辞任。
http://en.wikipedia.org/wiki/Sebastian_Thrun

 そして、彼は、シリコンバレーにおけるある種の権威になった。
 自分達の車庫の中でせっせと働き、我々が現在持っているものよりも頭の良い機械群を作ることを夢見ているところの、エンジニア達やプログラマー達の一つの範例になったのだ。・・・

 グーグルグラス、・・・無人自動車(driverless car)<(注13)>・・<、といったもの>全ての発明は、グーグルX(Google X)という、たった一つの研究所(research laboratory)から来たものであり、彼はその創設者なのだ・・・。

 (注13)「自動運転車・・・を作成したスタンフォード大学のスランのチーム<が>、2005DARPAグランド・チャレンジで優勝して、米国防総省からの賞金200万ドルを獲得した沿革がある。・・・
 ネバダ州は自動運転車の運転を可能にする法律を2011年・・・に施行<し、>・・・Googleが自動運転車に改造したトヨタのプリウスに、2012年・・・、自動運転車専用のライセンスを米国内で初めて発行した。 <同年に>にフロリダ州<が、>・・・公道での自動運転車の実験走行を許可した第二の州になった。そしてカリフォルニア州では・・・知事が・・・法案に署名をし、事実上<、次の>第三の州になった。・・・
 走行中は、GPS・・・を使い、現在地と目的地をリアルタイムで比較しながら、コンピュータが自動でハンドルを回す。またレーザーカメラやレーザースキャナを搭載しており、これは様々な道路情報(周辺の車両、歩行者、信号、障害物)を識別する。これらの装置で収集した情報は、コンピュータが総合的に解析し、ハンドル、アクセル、ブレーキなどの運転に必要となる動作の最終決定を行うために使われる。・・・
 <現状では、>センサー<が>雨粒や雪粒を障害物と認識し、走行できなくなる問題がある。また道路上に落ちている石とシワだらけの紙の区別が出来ないほか、歩行者を電柱と誤認識する事もある。日差しが強い状況下ではセンサーの解像度が下がり、信号が読み取れない場合もある。
 <更に、>・・・詳細かつ膨大な地図データをインプットする必要がある<ので、まだ、米国内で>・・・走行可能なのは一部地域のみに留まっている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/Google_%E3%83%89%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%BC

 日に焼けて背が高いスランは、ボン大学に学ぶために赴く前、<ドイツの>ゾーリンゲン(Solingen)で生まれた。・・・
 47歳のスランは、世界中で最も優れたロボットを作った<人物だ>。
 <それは、>グーグルの無人自動車だ。・・・
 しかし、現在は、スランは、グーグルやスタンフォード大学ではなく、自分自身の会社<であるユーダシティ>で大部分の時間を費やしている。・・・
 <シリコンバレーの以上のような人々>の世界観においては、政治や政策決定者達は、進歩を遅らせるがゆえに、大いなる敵なのだ。
 「諸規則は、既存の諸構造を固めるために作られる」、とスランは言う。
 「我々は、それらを迂回するよう試みている」、と。・・・
 <(実際、>あらゆるものが全球的に起こっているというのに、諸法は局所的な<代物な>のだ。<)>・・・
 その全ては、他の何物よりも、シリコンバレーを形作っているところの、過小評価されている底流・・1960年代のカウンターカルチャー、及び、サンフランシスコのヒッピー運動の深く繋留されたルーツ・・と調和している。・・・
 エアービーアンドビーとウーバーは多くの部分で似ている。
 両社は、人々が自分達自身の財産でもってカネを稼ぐことを可能にする「共有経済(sharing economy)」<(注14)>の主唱者達だ。

 (注14)「なぜシェアリングエコノミーが台頭してきたのだろうか。20世紀の市場の巨大化による私有とハイパー消費が極限まで進行し、これでもかの浪費と環境破壊がギリギリのところまできたためだ。効率と私的利益の極大化をめざす中央集権的な20世紀型経済システムに基づく経済成長は、人々を欲望と貨幣のしもべにし、貧富の差や地域格差を極大化し、人々を孤立化させ、巨大な気候変動リスクを生み出した。このサインがリーマン・ショックだった。21世紀になって世界の賢明な人々は、こういうやり方はもう限界で、新しいやり方を創らないといけない、と考えるようになった。またその場合でも、お説教で倫理を強いる啓蒙的スタイルもまずく、人々が楽しく心豊かに他の人々とのつながりを回復しながら進めて行ける方法が必要だと考えたのだった。
 シェアリングエコノミーは無理のない原理の上に成り立っている。考えてみると江戸時代以前の日本では、長い間、モノと労働とそれにお金の相互扶助が行われてきた。仏教で言<う>・・・融通無碍・・・<、>つまり心の差し障りを解いて人々が心通わすという相互の他者救済の教えがこの相互扶助の根底にあ<ったのだ。つまり、>・・・シェアリング・マインドがあったのだ。結(ゆい)・・・は労働のシェアリングで、例えば飛騨白川郷のいくつもの茅葺き屋根の葺き替えや補修のために、労働力をお互いに提供する。北海道ではサケが豊漁の時、漁師はとなりの家の軒先にサケをつるす。これはモノのシェアリングだ。そして東日本の無尽、西日本の頼母子講、沖縄の模合というお金のシェアリングがあった。これがインターネットの技術とネットワークが加わるとソーシャルファイナンスとしてのクラウドファンディングになる。
 我が国には古くから「山川薮沢の利は公私これを共にす」(養老律令757年)という考えがあった。公でも私でもなく〈共〉の領域、つまりシェアの領域が里山や奥山そして海などの「入会地」だった。入会地は英語で言えばコモンズで、コモンズは、占有(オキュパイ)せず、共有(シェア)して使う場所なのだ。資源の共有こそ、シェアリングのベースにある考えに他ならない。・・・
 イギリスで<も、>コモンズとしての放牧地が囲い込まれて私有地化するのは18世紀になってから<にすぎない。>・・・
 <このように、>コモンズやシェアはDNAとして人間の心に深く刻まれている。だからこそ、それを呼び起こすシェアリングエコノミーは無理がなく普遍性がある。そしてインターネットとIOT(Internet of Things)つまりモノのインターネットにより、それが地球規模に広がる可能性が出てきたのだ。」
http://www.huffingtonpost.jp/koichi-itoh/sharing-economy_b_6601068.html
 「人類全体の歴史から考えると、「生活をすること」と「お金を稼ぐこと」がほぼイコールに結びついたのは産業革命以降の直近300年ほどの話<にすぎないのですから、>・・・考え方を変えて、テクノロジーの進歩・・・<、とりわけ、>ロボティクスの進歩・・・によって労働が減少し所得格差が拡大するのであれば、逆にそのテクノロジーを格差縮小のための社会的セーフティーネットの構築に役立て、労働所得(お金)への依存度を下げていく手があります。<新しい点は、>これらを変化に敏感な市場経済で実施することで、格差拡大作用と格差縮小作用のタイムラグを最小限に抑え<ようとすることです>。・・・
 インターネットは「距離的な制約」と「時間的な制約」をふっ飛ばして、情報を瞬時に伝達するテクノロジーで・・・あるので、<その>本来の力<を>ここに来て・・・発揮<してもらおうというわけです>。
 <それが、>共有経済(シェアリングエコノミー)<です。共有経済>は個人が余ったリソースを直接的に共有しあう事で、コストを大幅に削減できるメリットがあります。ネットが生活のあらゆる所に浸透してきたおかげで、共有できる範囲が地球全体に広がり、巨大な経済として機能しはじめてい<るので>す。」
http://www.huffingtonpost.jp/katsuaki-sato/story_b_5477074.html

 ウーバー同様、エアービーアンドビーも、そのビジネスモデルが地方自治体の諸規則と抵触するために、世界中の無数の諸都市と角を突き合わせている己れを見出している。
 ウーバーが、かかる諸紛争に対処するにあたって対決の姿勢を採用してきたのに対し、エアービーアンドビーは、少なくとも現在は、一般に、コンセンサスを追求してきた。」

3 終わりに

 AI(ロボット)とシェア経済とは密接な関係があるとはいえ、シェア経済だけでも、論ずべき点は多く、機会を見て、改めて、人間主義的観点も踏まえつつ、論することにしたい、と思います。
 一点だけ補足しておきますが、カーシェアリング
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B0
について、それが、シェア経済のはしりとも言うべきもので、しかも、既に、世界に普及しているにもかかわらず、それが、レンタカーの変種とも言え、AI(ロボット)との関わりも希薄であり、第一、スイス(欧州)発祥(ウィキペディア上掲)で、米国でも、シリコンバレーのスタンフォード大ならぬ米東部のハーヴァード大付近発祥の企業であるジップカー(Zipcar)が米国の皮切企業でかつ最大手企業である
http://en.wikipedia.org/wiki/Zipcar
ことから、シュピーゲル誌がこの記事の中で取り上げなかったのは不思議ではありません。
 とまれ、シュピーゲル誌は、この記事の中で、れっきとしたドイツ人であるスランのほか、(このシリーズでは取り上げませんでしたが、)もう一人、重要人物として、ドイツ系米国人・・1歳の時に両親と共に米国に移住・・のピーター・シール(Peter Thiel)(注15)が登場するところ、だからこそ、この記事のシュピーゲル誌の取材には力が入ったのだと思われるけれど、外国について、こういう中身の充実した長編企画記事を手掛けるシュピーゲル誌に対して、ドイツと同じ第二次世界大戦の敗戦国たる日本の一国民として、自国の主要メディアの体たらくを見るにつけ、感嘆と羨望の念を禁じえません。

 (注15)1967年〜。ペイパル(PayPal)の3人の共同創設者の一人。自他とも許すリバタリアンたる事業家、ベンチャーキャピタリスト、ヘッジファンドマネジャー。チェスの名手。スタンフォード大卒(哲学)、同大ロースクール卒。
http://en.wikipedia.org/wiki/Peter_Thiel

(完)

太田述正コラム#7528(2015.3.7)
<映画評論45:ベイマックス(続)(その2)>(2015.6.22公開)

 彼らは、自分達のテクノロジーの十字軍のルーツを、その時代がアップルの共同創設者であるスティーヴ・ジョブズを形成したところの、1960年代のカウンターカルチャーの中に見出す。
 しかし、彼らの世界観は、ノーム・チョムスキー(Noam Chomsky)<(注8)(コラム#2541、3596、3631、4242、5179)>、アイン・ランド(Ayn Rand)<(コラム#3632、3634、3636、3754、4860、4913、5849)>、及び、フリードリッヒ・ハイエク(Friedrich Hayek)<(コラム#1865、3541、4079、4858、4866、5285、5394、5659、6234、6429、7165、7294)>といった急進的思想家達の伝統の中のリバタリアンのそれなのだ。

 (注8)1928年〜。ユダヤ系の「<米>国の哲学者、言語哲学者、言語学者、社会哲学者、論理学者。・・・50年以上在籍するマサチューセッツ工科大学の言語学および言語哲学の研究所教授 (Institute Professor) 兼名誉教授・・・。・・・チョムスキーの提唱する生成文法とは全ての人間の言語に普遍的な特性があるという仮説をもとにした言語学の一派である。・・・<また、>彼は自らの視点を「啓蒙主義や古典的自由主義に起源を持つ、中核的かつ伝統的なアナキズム」と述べ・・・<ており、米>の外交政策、国家資本主義、報道機関等の批判で有名になった。・・・<ちなみに、彼は、>昭和天皇が「最大の戦争犯罪人」であったにも拘わらず、戦後にわたって昭和天皇の戦争責任をタブー化し、問題にしなかった日本の知識人の責任放棄を厳しく批判している。」ペンシルヴァニア大学卒、同大学博士。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%81%E3%83%A7%E3%83%A0%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC

 その結果が、秘儀的なヒッピー(Hippie)<(注9)>的感受性と筋金入りの(hardcore)資本主義とを結合した、独特の政治哲学なのだ。・・・

 (注9)「伝統・制度などの既成の価値観に縛られた人間生活を否定することを信条とし、また、文明以前の野生生活への回帰を提唱する人々の総称。1960年代後半に、おもに<米国>(発祥地はサンフランシスコ・・・との説がある。ロス郊外・・・とする説もある)の若者の間で生まれたムーブメントで、のちに世界中に広まった。彼らの多くは、自然と愛と平和とセックスと自由を愛していると主張した。・・・「正義無きベトナム戦争」への反対運動を発端とし、愛と平和を訴え徴兵や派兵に反発した若者達がヒッピーの中心である。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%83%E3%83%94%E3%83%BC

 もう一つ重要な問題もある。
 シリコンバレーが、ヤフー社長のマリッサ・メイヤー(Marissa Mayer)<(コラム#5603、6624)>を唯一の例外とする、男性の(masculine)世界であること<(注10)>だ。

 (注10)「シリコンバレーでは指導的諸地位にいる女性達は極めて少ない。ハイテク(tch)世界が進歩的な場と、いや、公正な場とすら、主張できる可能性(hope)が果たしてあるのか、が問われている。・・・
 アジア人がちらほらとはいるけれど、圧倒的に若い白人の男性ばかりであることについて、批評家達は、多様性に関するシリコンバレーの大いなる(furthest)限界である、と指摘している。」
http://www.nytimes.com/2015/03/06/technology/in-ellen-paos-suit-vs-kleiner-perkins-world-of-venture-capital-is-under-microscope.html?hp&action=click&pgtype=Homepage&module=second-column-region®ion=top-news&WT.nav=top-news
(3月6日アクセス)

 実際、操業を開始したばかりの諸企業の若干は、女性達を全く雇用していないし、女性の事業家達が資金提供を受けようとするのは更に困難だ。
 全球的ヴィジョン<の持ち主であるはずの人々のヴィジョン>が、かくも不公平なもの(one-sided)たりうるのだろうか。・・・

⇒シリコンバレーは、リバタリアニズムを信奉する女性差別主義者と人種主義者の巣窟である、というのですから、ウォール街とともに米国「文明」を象徴する存在である、ということになりそうですが、そうだとすると、既に、面目を失い失速しつつあるウォール街に続いて、シリコンバレーも、早晩、面目を失い失速し始めることは避けられないのかもしれません。
 少なくとも、シリコンバレーはウォール街ほどには拝金主義的ではないのですから、映画『ベイマックス』のサンフランソウキョウではないけれど、シリコンバレーが日本の人間主義に触発されて、女性差別や人種主義を克服し、更に、日本人のAI観(ロボット観)を採用することによって、面目を保つとともに成長を続けて欲しいものです。
 まあ、無理な相談でしょうが・・。(太田) 

 <話を元に戻すが、シリコンバレー>の発展は、ムーアの法則(Moore's law)<(注11)>の産物なのだ。・・・

 (注11)「集積回路上のトランジスタ数は「18か月(=1.5年)ごとに倍になる」というもの・・・<。なお、>2005年4月13日、ゴードン・ムーア自身が、「ムーアの法則は長くは続かないだろう。なぜなら、トランジスタが原子レベルにまで小さくなり限界に達するからである」とインタビューで述べている。・・・今日ではより広く受け入れられ、先進的な工業製品一般における性能向上の1つの目標値として用いられることがある。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A0%E3%83%BC%E3%82%A2%E3%81%AE%E6%B3%95%E5%89%87

 過去10万年にわたって、諸発展は、線形で局地的であり続けてきたように見えた。
 <ところが、>今や、突然、文明は指数的かつ全球的に発展しつつある。・・・
 このバレーのハイテク人達は、今後25年で、我々は、ハードを持ち歩く必要はもはや全くなくなるだろうと言う。
 ハード群は、分子コンピューター群、及び、我々を取り巻く世界の中に埋め込まれたところのバイオメトリックス・センサー群(biometric sensors)、によって置き換えられることだろう、と。・・・

⇒これは、人間がAI(ロボット)に主人として君臨するとの、欧米的AI観(ロボット観)の究極的到達点でしょうが、シリコンバレーがAI(ロボット)に人格を認める日本的AI観(ロボット観)を採用すれば、全く異なる未來が見えてくるはずです。(太田)

(続く)

太田述正コラム#7526(2015.3.6)
<映画評論45:ベイマックス(続)(その1)>(2015.6.21公開)

1 始めに

 昨日目にした記事
http://www.spiegel.de/international/germany/spiegel-cover-story-how-silicon-valley-shapes-our-future-a-1021557.html
がベイアリアのシリコンバレー(Silicon Valley)(とサンフランシスコ)、及び、広義のAIに関わる、中身の濃いものであったことから、予定を変更して取り上げることにしたものです。

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<参考:シリコンバレー>

 「具体的には北はサンマテオ周辺からサンノゼまでの複数の市を指す。シリコンバレーの中心は、サンノゼ、マウンテンビュー、サニーベール、サンタクララといった複数の市であるが実際にシリコンバレーという都市は存在しない。
 元々メンローパークにある<・・これは間違い。スタンフォード大学構内は、サンタクララ郡内の独立した行政区画
http://en.wikipedia.org/wiki/Stanford,_California
なので、サンマテオ郡内の「メンローパーク<
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%AF_(%E3%82%AB%E3%83%AA%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%83%8B%E3%82%A2%E5%B7%9E) >
の南に隣接する」が正しい。スタンフォード大学出の技術者がヒューレット・パッカードなどのエレクトロニクス、コンピュータ企業を設立し、この大学の敷地をスタンフォード・インダストリアル・パークとしてこうした新技術の会社を誘致したのが始まりともいわれている。また、トランジスタの発明者の一人であるウィリアム・ショックレーがこの地に「ショックレー半導体研究所」を設立し、そこから分化したフェアチャイルドセミコンダクターや、更にそこからインテルをはじめとする多くの半導体企業が生まれたことにちなみ・・・半導体の主原料<である>シリコン<の>バレー<(渓谷)>と呼ばれるようになった。
 近年では、アップル、Google、Facebook、Yahoo、アドビシステムズ、シスコシステムズといったソフトウェア・インターネット関連の世界的な企業が同地区には多数生まれたためにIT企業の一大拠点となったことで、シリコンバレーはこの地域におけるハイテク企業全体を表すようになっている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%AC%E3%83%BC
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2 世界革命の拠点たるシリコンバレー

 「世界を乗っ取ろうという大志を抱いている会社はウーバー(Uber)<(注1)>だけではない。

 (注1)スマートフォンを活用した交通ネットワークを運用する米企業である。昨年末の時点で、世界中の53か国の200都市でサービスを提供。2009年3月に設立され、サンフランシスコに本社を置く。
http://en.wikipedia.org/wiki/Uber_(company)
 「<ウーバー>が先月から、福岡市などで進めている一般ドライバーによる送迎事業「ライドシェア」の実験に対し、国土交通省が中止するよう指導したことが分かった。無許可でタクシー業を行う「白タク」を禁じた道路運送法に抵触する可能性が高いとしている。
 実験は米ウーバー・テクノロジーズが九州大の関連法人「産学連携機構九州」と提携し、交通需要のデータ収集を目的として2月5日に開始。利用者がスマホのアプリを操作して特定の場所に配車を頼むと、同社に登録した一般のドライバーが無料でタクシーのように送迎する。
http://mainichi.jp/select/news/20150304k0000e040187000c.html
 「乗客から運賃を徴収せず、一般から募集したドライバーに対しては、「データ提供料」として走行時間に応じた対価を支払っている。Uberは運賃を徴収しないことを理由に、国交省の認可を得ずに実証実験を進めていたが、同省は「ドライバーに対価を支払っている以上、道路運送法に抵触する可能性がある」と判断し、行政指導に踏み切ったかたちだ。」
http://jp.techcrunch.com/2015/03/04/jp20150304uber/

 そういう風に、グーグルもフェイスブックもアップルもアエビーアンドビー(Airbnb)<(注2)>・・ディジタル巨人達の全て、及び、それにひき続く無数のより小さな会社群、の全てが考えている。

 (注2)「宿泊施設を貸し出す人向けのウェブサイトである。192カ国の33,000の都市で80万以上の宿を提供している。 2008年8月に設立され、 サンフランシスコに本社を置き、非公開会社Airbnb, Inc.により所有、運営されている。このサイトの利用者は利用に際して登録して、本人のオンラインプロファイルを作成する必要がある。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/Airbnb
 「ベッド・アンド・ブレックファスト(・・・bed and breakfast)とは、<英国>や北米、アイルランド、ニュージーランド、オーストラリアなど、主に英語圏各国における(多くの場合小規模な)宿泊施設で、宿泊と朝食の提供を料金に含み、比較的低価格で利用できるもの<であり、>・・・「B&B(ビー・アンド・ビー)」の略称で知られる。・・・一般の住宅を利用した宿泊施設であるため、客室にバス(シャワー)・トイレが備わっていないのが普通で、その場合共同のシャワー・トイレを使用する」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%AC%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%B9%E3%83%88

 彼らの目標がニッチ市場であることは決してない。
 それは、常に世界全体なのだ。
 しかし、妄想的諸幻想によって駆動されているどころか、彼らの諸目標は、ディジタル化と結合した全球化という経済史において独特な有力なる(potent)カクテルによって可能となったところの、しばしば現実的なものなのだ。・・・
 それは、19世紀の工業化(industrialization)にしか比しえない、目覚ましい変貌の類なのだが、今回は、はるかに速く進行している。
 100年前に、手作業から大量生産への変化が我々の社会を劇的に変えたのと全く同じように、ディジタル革命は、単に経済の特定の諸部門を変化させているのではなく、我々が考えたり生活したりするやり方を変えつつある。
 しかしながら、今回の改変は異なっている。
 今回は、わずか数百人の人々によってそれは駆動されているのだ。・・・
 この新しい全球的選良は、もはやウオール街に拠点を置いてはいない。
 そうではなく、彼らは、その本部群を、サンフランシスコの南の80km(50マイル)長の渓谷に持っている。
 半導体産業が開始され、コンピューター時代が始まったのはここだった。
 そして、今では、ここが、現行のディジタル革命の指導者達が所在している場所なのだ。
 彼らは、グーグルのセルゲイ・ブリン(Sergey Brin)<(注3)>やアップルのティム・クック(Tim Cook)<(注4)>やフェイスブックのマーク・ザッカーバーグ(Mark Zuckerberg)<(注5)>のような創設者達と社長達だ。

 (注3)1973年〜。「<ソ連時代に>モスクワに住む東欧系ユダヤ人の家庭に生まれる。・・・父・・・は数学者でメリーランド大学の数学教授、母・・・はアメリカ航空宇宙局の研究員。1979年、6歳の頃に家族で<米>国へ移住し・・・た。・・・メリーランド大学・・・卒業後、・・・スタンフォード大学にて・・・計算機科学の修士号を取得。・・・スタンフォード大学の博士課程を休学し、1998年に Google 社を共同設立。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%AB%E3%82%B2%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%B3
 (注4)1960年〜。「<米>オーバーン大学で1982年生産工学分野の理学士取得の後、デューク大学でMBAを取得。・・・2011年8月24日、ジョブズの引退に伴いCEOに就任した。・・・自分がゲイであることを公表」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%83%E3%82%AF
 (注5)1984年〜。「歯科医の父親と精神科医の母親からなるユダヤ教徒の家庭に生まれ<る。>・・・ハーバード大学在籍中にソーシャル・ネットワーキング・サービスサイト、「Facebook」を・・・立ち上げると共に大学を休学、その1年後に中退」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%B6%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%B0

 そしてまた、彼らは、ウーバーのトラヴィス・カラニック(Travis Kalanick)<(注6)>やエアービーアンドビーのジョー・ゲビア(Joe Gebbia)<(注7)>のような、より新参の者達だ。・・・

 (注6)1976年〜。カリフォルニア大学ロサンゼルス校に計算機科学を学ぶために入学したが、中退。ウーバーの共同創設者(2人)の1人。
http://en.wikipedia.org/wiki/Travis_Kalanick
 (注7)米ロードアイランド・スクールオブデザイン・・もう1人の共同創設者ブライアン・チェスキーと知り合う・・でグラフィックデザインと工業デザインふたつの学位を取得。アエービーアンドビーの共同創設者(3人)の1人で、CPO(チーフ・プロダクト・オフィサー)。
https://www.airbnb.jp/about/founders

 ウォール街の宗教はカネだ。
 しかし、シリコンバレーの宗教は、はるかに深いものだ。
 それは、実体(substance)によって駆動されている。
 それは、あるメッセージについての確実な(unfailing)信条なのだ。・・・

(続く)

太田述正コラム#7522(2015.3.4)
<映画評論45:ベイマックス(その7)>(2015.6.19公開)

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<参考:東京の魅力>

 サンフランシスコもさることながら、東京も世界有数の魅力的な大都市であることは間違いない。↓
 
 「・・・一般社団法人森記念財団都市戦略研究所が・・・「世界の都市総合力ランキング “Global Power City Index (GPCI)”」を発表し<た。>・・・今回の調査は、都市の快適さや安らぎ、おもてなしなど、そこに住む人々が抱く感性的な価値、つまりソフト面を評価したという。・・・
 その結果、1位に東京、2位はウィーン(オーストリア)、3位はシンガポール、以下、トロント(カナダ)、ニューヨークとの結果となった。・・・」
http://blogos.com/article/106949/
(3月4日アクセス)

 全体の結果も出ているが、その中にサンフランシスコが登場しない。
 これは、同市そのものは、人口が80万人でしかないので最初から比較対象にされなかったからではないかと想像されるが、ベイ対岸を含む都市圏としては400万人を超える人口があるし、スタンフォード大学周辺を含む、いわゆるベイエリア全体となれば、700万人の人口がある
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%82%B3
ので、対象にすべきではなかっただろうか。
 それはともかく、このように、日本独自の基準で、様々な世界比較を行っていくことが強く望まれる。
 何度も指摘しているように、欧米諸国のこの種比較に際しての基準は偏っており、日本の人間主義のよさが十分に評価されないからだ。
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<参考:日本型ロボットの最先端のもう一つの事例>

 「世界初の感情認識パーソナルロボットPepper。<先>月から開発者向けの販売が検討され、6月以降には一般販売も開始される予定だ。・・・
 ロボット開発の難しさは、ハードを扱うメカ屋さんとソフトウェア屋さん、その両者を一気通貫して見ることのできる人材が少ない点です。・・・
 今までのロボットは、「人が必要とする、役に立つ機械」のイメージが強かったと思います。洗濯機であれば、洗濯板を自動化し、脱水機、今では乾燥機の機能まで付いています。この場合、機械は人の作業量を減らし、時間を稼ぐことには貢献していると思います。結果的に、それによって生まれた余暇で人々は幸せになったかもしれません。しかし、ロボット自体が直接人々を幸せにしているわけではないんですね。・・・
 今までのロボットは、「人が必要とする」ものをイメージされる事が多かったかと思いますが、実は「人を必要とする」ロボットの方が潜在的には求められているかもしれないわけです。
 そう考えると、人を幸せにするためのロボットとして必要な機能は、相手のことが分かって、感情を認識し、相手とコミュニケーションができることなのだと思います。・・・
 <感情認識ロボットの進歩が遅いように感じられるのはどうしてでしょうか?>
 メーカー純正カーナビの進歩がスマートフォンより遅いのは皆様も感じられているかと思います。
 ただそれは、決して自動車会社の怠慢ではなく、そもそも要求される信頼性が全然違うわけです。・・・
 <それと同じことが感情認識ロボットにもあてはまるのです。>」
http://blogos.com/article/106670/ 1
(2月28日アクセス)
 「日本のソフトバンクは2月27日、ヒト型の感情認識ロボット「ペッパー」300台をアプリ(ソフトウェア)の開発者向けに限定発売し、わずか1分で完売した。
 身長121センチ、重量28キログラムのペッパーは、周囲の状況を把握し、自らの判断で行動するほか、人間の表情や声を分析し、感情を認識できる人型ロボットだ。ペッパーはユーザーと会話することができ、家族写真を撮影したり、スマートフォンと連動させてメッセージを送信したりする機能も備えている。・・・」
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2015/03/02/2015030200809.html
(3月2日アクセス)
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4 終わりに代えて

 (1)言い訳

 さんざん回り道をしてから本題に入ったシリーズでしたが、終わりも回り道にしたのであしからず。

 (2)4D

 この映画、ユナイテッド・シネマ豊洲では、4D(注10)でも提供していました。
http://mawari.cocolog-nifty.com/mawariblog/2015/01/baymax-bighero6.html

 (注10)「4D技術とは、現在の時空間などの3次元の次元定義に対し、それとは異なる新しい次元定義を行った技術を指す。 デジタルコンテンツの中で、デジタル以外のリアルな要素を取り入れた作品を提示する際に、用いられることが多い。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/4D%E6%8A%80%E8%A1%93
 4D映画では、「モーションシートが、映画のシーンに完全にマッチした形で、前後&上下左右に<動き>、その衝撃を再現。さらに、嵐等のシーンでは<水>が降り、<風>が吹きつけ、雷鳴に劇場全体が<フラッシュ>する他、映画のシーンを感情的に盛り上げる<香り>や、臨場感を演出する<煙り>など、様々なエモーショナルな特殊効果で、≪目で観るだけの映画≫から≪体全体で感じる映画≫の鑑賞へと・・・転換<する>。」
http://www.unitedcinemas.jp/4dx/

 こちらのバージョンを、今回、時間の関係で体験できなかったのは、新しいもの好きの私としてはまことに残念なことでしたが、別の映画で、他日を期したいと思います。
 今後、映画の(新作を含む)電子ダウンロードの一般化に加えて、TV等画面の一層の拡大を含むホームシアター・システムの発展によって、映画館に足を運ぶ人が減っていくのは必然であり、映画館を維持しようと思ったら、4D化を図るほかない、と思います。

 (3)AI(ロボット)の発展によって消滅する業種

 「・・・日本企業が会計監査のため支払う報酬は、米欧に比べ、もともと低いとされる。さらにリーマン・ショック後には既存監査先からの報酬引き下げ圧力が強まり、一方で新規株式公開(IPO)は激減した。おまけに内部統制報告制度(J-SOX)の導入による特需もなくなった。大手監査法人といえども赤字に沈み、10〜11年頃には新日本監査法人や監査法人トーマツが数百人規模の人員削減に追い込まれている。・・・
 他方、この間、会計士の近接業務である税理士との間では縄張り争いが勃発した。現在、会計士には税理士資格が自動的に付与されているが、税理士業界も人余りが深刻で反発が強まっている。・・・」
http://www.msn.com/ja-jp/news/money/%e4%bf%a1%e7%94%a8%e5%a4%b1%e5%a2%9c%e3%80%81%e4%bd%8e%e5%a0%b1%e9%85%ac%e2%80%a6%e9%a3%9f%e3%81%88%e3%81%aa%e3%81%84%e4%bc%9a%e8%a8%88%e5%a3%ab%e6%80%a5%e5%a2%97-%e5%95%8f%e9%a1%8c%e7%9b%a3%e6%9f%bb%e6%b3%95%e4%ba%ba%e7%b6%9a%e5%87%ba%e3%80%81%e6%95%91%e6%b8%88%e7%ad%96%e3%81%8c%e4%b8%8d%e7%a5%a5%e4%ba%8b%e3%81%ae%e6%b8%a9%e5%ba%8a%e3%81%ab%e3%82%82/ar-BBi5Fq7?ocid=iehp#page=2
 
 表記については、既に少し触れているところですが、上掲の記事のような状況を見るにつけ、日本型経済体制・・株主は殆んどステークホルダーとは言えない・・の下では(株主のために行われるところの)監査の必要性が基本的にないからこそ、公認会計士への需要はもともと小さく、従ってまた、監査報酬も全球的標準に比べてはるかに低い状態で推移してきたところ、全球化の進展によってこの状況が本格的に変化する前に、会計ソフト類の発展に伴い、公認会計士に対する需要が一層低下しつつある感が否めません。
 公認会計士の仕事には、抽出棚卸等の、肉体労働部分がありますが、今後、在庫のICタグ管理等が進展していくと、それもなくなっていくのではないかと思われるところです。
 また、上掲の記事の中にも登場する税理士についても、国税庁提供の確定申告ソフトの急速な進歩改善を目の当たりにしていると、今後、公認会計士よりもむしろ速く、税理士への需要もまた減少していくのは必至だと思います。
 今後、更に、通帳のみならず、領収書類もペーパーレス化して行き、それに伴って、確定申告書に記載すべき計数の通帳、領収書類によるチェック/確定、などという作業など、消滅するであろうと思われることを考えればなおさらです。
 こういう感じで思考実験を行えば、似たような理由で、今後消滅に向かう業種はいくらでもありそうです、
 私としては、太田コラム執筆的な作業は、最後まで人間の手に残る数少ない業種の一つだと今のところは見ているのですがね。

 (4)最後っ屁

 このシリーズで、ついに一度も出番がなかったくらい、この映画のパンフレットの内容が量質ともに貧弱であったことは、ディズニーの名折れであり、遺憾です。
 それはともかく、この映画のおかげで、色んなことを思いめぐらすことができたことはよかったと思います。

(完)

太田述正コラム#7520(2015.3.3)
<映画評論45:ベイマックス(その6)>(2016.6.18公開)

3 米国人の日本観

 既に、米国人の日本観についても、ロボットの話を通じて若干触れてはいますが、改めて、取り上げたいと思います。

 まず、この映画の原作であるアメコミにおける日本観から始めましょう。
 この映画の筋を考えたチームの責任者は原作のうち数冊を読んだだけで、脚本を担当した3人のうちの1人に至っては原作を全く読まなかった(β)、とはいえ、原作は原作だからです。
 その原作のさわりのさわりは次のようなものです。

 「・・・物語の設定は、「広島と長崎への原爆投下によって被害を受けた日本は核兵器を廃絶し、その代わりに自国を守る手段として超能力を持つ人間を集め、ビッグ・ヒーロー・シックスを結成した」というもの。・・・
 ヒロ・タカチホ (Hiro Takachiho)<は>・・・人造生命体ベイマックスを作った。・・・
 <この、>ベイマックス (Baymax)<は、>・・・人間に近い外見からドラゴンのような形態に変身することができる。またベイマックスのメモリ・チップは、ヒロの亡き父親の思考と感情を保持するようにプログラムされている。・・・
 エヴァーレイス (Everwraith)・・・幽霊のように半ば実態のない姿をもつ敵。通常の攻撃ではその身体を傷つけることができない。テレポートと飛行能力を有する。核エネルギーを吸収し、ネクロプラズミック・ブラストを放射する。エヴァーレイスは、第二次世界大戦における広島と長崎の原爆で死亡した犠牲者の残留アストラル体の悪しき顕現である。エヴァーレイスは誕生してから数十年、日本人を大量虐殺した米国に対する復讐を計画し続けた。しかし、戦争の記憶とともに核の記憶が日本人から薄れ始めると、エヴァーレイスの存在そのものが弱まり始めた。彼は、自らが愛する国ニッポンが、究極の愛国者たる自分に背を向けたと思い、日本の文化を彼/彼らが死ぬ以前の姿に戻したいと望んだ。彼は、核による大虐殺こそが日本に経済的かつ技術的な優越性をもたらしたとして、日本が現在の惰弱さから抜け出して再発展するためには再び日本を核の炎で焼く必要があると狂信し、そのためにサンファイアのミュータント能力を悪用しようと画策した。ビッグ・ヒーロー・シックスの活躍で彼の暴走は食い止められ、サンファイアの怒りの炎で焼き尽くされたエヴァーレイスは今度こそ本当の死を迎えた。・・・」
γ:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%83%E3%82%B0%E3%83%BB%E3%83%92%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9

 少なからぬ米国人の心中深く隠されているところの、原爆投下等に関する日本人に対する罪悪感が吐露された強烈な原作であると言えるでしょうね。
 もっとも、戦後日本人の大部分は、恐らく、これら米国人の想像を絶することでしょうが、原爆投下等に関して米国にふくむところは全くないのですが・・。
 (なお、「日本<の>経済的かつ技術的な優越性」という認識は、このアメコミが2008年の1年続かなかったシリーズである(γ)ことからすれば、ほぼ現在と言ってもよいのであって、現在なお、米国内で日本がそのように見られている、ということはちょっとしたうれしい驚きです。)
 それが、映画ではどうなったでしょうか。
 日本語ウィキペディアにはこうあります。
 
 「映画化に際し、作品の舞台が東京から、東京とサンフランシスコを混ぜ合わせた未来の架空の都市「サンフランソウキョウ」へと変更され、チームメンバーも多人種の混成チームとなった。ロボットのベイマックスも原作ではドラゴン風の顔を持つ人造生命体だが、映画では看護ロボットへと改変されている。ストーリーも超能力を持ったヒーローが悪を倒すのではなく、メンバーのそれぞれが自身の能力を活かして協力する姿や主人公を取り巻く友情や家族愛に、力点が置かれている。日本的要素が多く散りばめられ、スタッフによって撮影された東京の風景が数多く取り入れられており、日本の立体看板なども採用されている。また、ベイマックスの頭部は神社の鈴をモチーフにしている。・・・
 舞台となる架空都市サンフランソウキョウは、サンフランシスコにあるヴィクトリア様式やクィーン・アン様式の建物に日本のディテールを加えるなど、サンフランシスコの象徴的イメージに日本的要素を加えてリメイクした(例:ヒロの自宅)。製作チームの日本での取材旅行で印象的だったものに、ゴミ箱から自販機、歩道タイルに至るまでに見られる日本のデザインの丁寧な仕上がりがあったため、サンフランシスコの実際の街をベースに、その丁寧さと東京的なテクノな雰囲気を加味した。・・・
 ちなみに韓国でリリースされた際には、主人公の「ハマダ・ヒロ」という名前が「Hero Armada」という名前に置き換えられ、主人公の兄の「タダシ」という名前も「Teddy」に置き換えられた。また、劇中登場する日本風の街並みの看板も日本語表記を英語表記に変更されている。」(α)

 私の言葉で言えば、単純な勧善懲悪ものではなく、日本的な人間主義ものとして作られた、ということです。
 そして、英語ウィキペディアにはこうあります。

 「この映画のアニメーション・スタイルとセッティングに関し、この映画は、(圧倒的に日本のだが)東の世界の文化と(圧倒的にカリフォルニア州のだが)西の世界とを化合(combine)させている。・・・
 サンフランシスコと東京の未来派的なマッシュアップ<(注8)>である、サンフランソウキョウ(San Fransokyo)は、ホールによって、「サンフランシスコの代替(alternate version)バージョン。そのテクノロジーの大部分は先進的だが、その多くはレトロな感じがする・・・」と描写されている。 

 (注8)ウェブ上に公開されている情報を加工、編集することで新たなサービスとすること。
http://ejje.weblio.jp/content/mashup

 ディズニーが(漫画本版の舞台である)東京とサンフランシスコとを融合(merge)させようとしたのは、部分的には、サンフランシスコが、<ディズニーの傘下の、漫画本を原作とするアニメ制作部門であるところの
http://waltdisneystudios.com/corp/unit/246 >マーベル(Marvel)が、サンフランシスコを<映画の中で舞台として>使ったことがなかったこと、及び、この都市の図像的な<(注9)>諸側面(aspects)、に加えて、彼らが、この都市が東京と美学的にうまく混ざり合う(blend)と感じたこと、による。

 (注9)「何らかの主題・象徴を担う画像」
https://kotobank.jp/word/%E5%9B%B3%E5%83%8F-541931
的。

 この映画制作者達の観念は、破滅的な1906年の地震の後に、サンフランシスコが日本の移民達によって概ね再建されたという異世界(parallel universe)に立脚している。
 この前提は映画の中では実際に述べられることはないが・・。」(β)(注9)

 (注9)サンフランシスコ在住の女性著述家にして編集者は、サンフランシスコの「金融街を歩いて通っている時には、その街路群が純真な(wide‐eyed)機会主義者達を乗せた初期の船々の竜骨群の上に構築されたことを知っておいた方がよい。
 不安定な断層の真上にあるところの、急激な好況群(booms)と急激な不況群(busts)によって規定される都市であるサンフランシスコは、非永続性(impermanence)の感覚を体現している。
 それは、現実の都市であると同時に夢の都市であり、そのことを証明する山のような文学作品が存在する」、と記している。
http://www.theguardian.com/books/booksblog/2015/feb/26/reading-american-cities-books-about-san-francisco
(2月27日アクセス)

 このサンフランソウキョウに象徴される発想は素晴らしいと思いました。
 制作陣にはそこまでの深い考えはないと思われるけれど、米国は、日本化することによって、日本文明を全面的に継受するところまではいかなくても、少なくともまともな文明に変貌する可能性があったのですからね。
 しかし、このような発想が出てくるのが遅すぎたし、このようなフィクションの形でしかいまだに出てきていないことからすると、米国の日本化はもはや殆んど不可能である、と言わざるをえないでしょう。
 それはともかく、1974年から76年にかけての2年間、東京都民として、サンフランシスコの郊外に滞在した私は、サンフランソウキョウという都市が舞台になっているだけで、この映画に大変な親近感を覚えた次第です。

(続く)

太田述正コラム#7518(2015.3.2)
<映画評論45:ベイマックス(その5)>(2015.6.17公開)

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<参考:これがベイマックスについての映画であることのもう一つの裏付け>

 米国の目利きの映画評論家達も、これがベイマックスについての映画である、と受け止めている。↓

 「ワシントンポストの<映画評論子>は・・・「'Big Hero 6'の真の魅力はそのアクションには存しない。
 それは、中心的登場者(central character)<・・主役(protagonistないしleading part )と言っていないのだから、ヒロではなくベイマックスのことであると思われる。(太田)・・>のハートなのだ。」と記した。
 <また、>Fort Worth Star-Telegramの<映画評論子>は、この映画は、「全ての人に何かを提供する。それは、アクションだったり、友情(camaraderie)だったり、超英雄達と悪漢達だったりする。しかし、一番はベイマックスであり、それは、苦しんでいる人々に情け深い(compassionate)癒しの声、そして、映写幕を通して感じとられるところのハグ、を提供する、と述べた。
 <更に、>Rolling Stoneの<映画評論子>は、「このシーズンのブレークスルーを行ったスターがここにいる。
 彼の名前はベイマックスであり、彼は<人間を>愛せずにはいられない。
 3Dアニメである'Big Hero 6'は、この、ずんぐりむっくりのロボットたるカリスマの堪えられない小塊が登場しなかったとすれば、丸っきり面白くなかったことだろう。」(β)
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 しかし、ベイマックスが日本型のロボットだとしても、この映画のロボット観が日本的であるかというと、決してそんなことはないのです。
 というのは、欧米型のロボットも登場するからです。
 ネタバレを恐れているのか、この映画の日本語ウィキペディア(α)も英語ウィキペディア(β)も、このロボットのことにちょっとしか触れていません。
 
 「ヒロの発明した「マイクロボット(microbot)」は指先ほどのサイズしかないが、互いに引き寄せあって集合体を形成する特性を持ち、操作者の頭部に装着した神経トランスミッターでコントロールすることで、その集合体を瞬時に思うままの物体に変化させることができるという画期的な発明品だった。・・・二人はそこで仮面を被った謎の男に遭遇し、男の操る大量のマイクロボット<達>に襲われながらも命からがら逃げ帰る。」(α)
 「<ヒロとベイマックス>は、誰かがヒロのマイクロボット達を大量生産してきたことを発見し、それらを操るところの、ヨウカイ(Yokai=妖怪)として知られる、仮面を被った男によって攻撃される。・・・
 このチームは、・・・マイクロボット達を破壊する。」(β)

 しかし、このわずかな記述からも明らかなように、この映画には、欧米型の、人間に敵対的なロボットも登場するわけです。
 いや、登場するどころではありません。
 この映画は、この欧米型のロボットと(ベイマックスを含む)6人の「大英雄」達とが戦い、ベイマックスが決定的な役割を果たすことによって、後者が前者に勝利を収める、というストーリーなのです。
 (但し、だからといって、この映画が、単純な勧善懲悪物語ではないことは後述。)
 より重要なのは、ベイマックスであれ、マイクロボット達であれ、人間の僕(しもべ)でしかないことです。
 ベイマックスは、この映画の比較的早いうちに死亡してしまう、(ヒロのお兄さんの)タダシがプログラムした通りの言動を行う存在に過ぎませんし、マイクロボット達の方も、それが誰であれ、操縦ユニットを身に着けた人間の指示に忠実に従って動く存在に過ぎないのです。
 ベイマックスが、「ヒロがベイマックスの本来のプログラムを消去して、<正体がばれたヨウカイ>を殺せと命じ・・・ベイマックスはそれを実行する寸前までいくが、<ヒロ以外の、人間たる大英雄の一人が、>それを妨げるため、医療プログラムを再インストールする」(β)こととし、結局、ヒロもそれを受け入れたのは、彼らがベイマックスに敬意を表したということではなく、ベイマックスを設計し作成しオリジナルのプログラムを書いてインストールしたタダシに敬意を表し、彼のデフォルトの意図に反するような改変を加えるべきではないと考えた、ということでしょう。
 つまり、この映画は、日本型ロボット観の核心であるところの、人格を持ったロボットという発想を峻拒し、ロボットというものは、人間の意図通りの言動を行う機械でしかなく、また、かかる機械であるべきだ、という欧米型ロボット観に基づいて制作されている、と考えられるのです。

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<参考:日本人がロボットに人格を付与していることの証左>

 「・・・ソニーが販売したロボット犬AIBO(アイボ)の「飼い主」たちが、動かなくなったAIBOを寺で供養してもらう様子を英デイリー・メール紙は伝え、魂があると信じる飼い主たちもいる、と報じている。・・・
 ある飼い主は、・・・犬と同じように「寿命があるなんて考えてもみなかった」(AFP)と話す。72歳の女性は、アイちゃんと名付けたAIBOがいなければ、寂しくてたまらないだろうと話している。(ウォール・ストリート・ジャーナル紙(WSJ))
 ビンテージ機器の修理を請け負う「A・FAN」の船橋浩さんは、AIBOの修理について、飼い主たちは彼のことを技術者というより獣医のように思っていることなどから、「修理という言葉はふさわしくない」とAFPに語った。「AIBOを所有する人たちは、それを家電のようには考えていない。家族の一員だと見ているに間違いない」(AFP)という。・・・
 数十体のAIBOが入院中で、180体以上が順番待ちの状態だそうだ。・・・」
http://news.livedoor.com/article/detail/9836462/
(2月28日アクセス)

 0g9y4BYkクン(コラム#7517)教示の、上記報道に対する外国人の反応
http://www.reddit.com/r/Futurology/comments/2x4on0/funerals_are_being_held_for_robotic
、及び、その邦訳と更にそれに対する日本人の反応
http://xxxkikimimixxx.blog.fc2.com/blog-entry-1767.html
にも、関心ある方は目を通されたい。
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(続く)

太田述正コラム#7516(2015.3.1)
<映画評論45:ベイマックス(その4)>(2015.6.16公開)

 さて、このあたりで、2015年長編アニメ部門でオスカーを取ったところの、ディズニー制作・配給の原題'Big Hero 6'、邦題『ベイマックス』という映画そのものについて語ることにしましょう。

 この映画は、主人公こそ、ヒロ・ハマダという、「日本人と白人のハーフ<である>・・・14歳のロボット工学の天才少年」
α:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%82%A4%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9
ではあるけれど、これが、ベイマックスという、「ヒロの兄タダシが開発した、心と体を癒やすために生まれたケア・ロボット」(α)についての映画である、とディズニーが考えていることは間違いありません。
 単純な話、米国でのこの映画のポスター(Theatrical release poster)や、サウンドトラック・アルバムのジャケットに描かれているのがベイマックスだけである
β:http://en.wikipedia.org/wiki/Big_Hero_6_%28film%29
ことがその証左です。
 では、ディズニーは、一体どうして、原題も、邦題のように、『ベイマックス』にしなかったのでしょうか。
 原作のアメコミのタイトルが'Big Hero 6'だったからだ、というのは説明になりません。
 というのは、このアメコミ、「掲載時にさほど人気が出なかったため、<版権所有者でディズニーが買収した>マーベル社のスタッフからも忘れられていた作品であ<る>」(α」)ので、(その中で登場する『ベイマックス』はもとよりですが、)'Big Hero 6'というフレーズだって、ピンとくる人は殆んどいないからです。
 この疑問を解くカギは、映画の最後に、「クレジットが出終わった後のシーンで、<主人公以外の「英雄」の1人であるフレッド>が自分の家の秘密のドアをつい開けてしまい、超英雄の装身具を発見した<時に、>引退した超英雄であるところの、彼の父親が到着し、話すことが一杯ある、と述べつつ、息子と抱き合う」(β)ところにあります。
 私は、このシーンの意味がよく分からなかったのですが、原題が'Big Hero 6'であると知った瞬間に、ディズニーは、捕らぬ狸の皮算用的に、このシリーズを全部で6作制作することを想定しており、次作の主人公、というか構想はもう粗々決めていて、その予告編を今回の映画の末尾で流したのだ、と気付いた次第です。
 そうなると、むしろ、ディズニーが邦題をどうして『ベイマックス』にしたのか、が問題になってきます。
 恐らく、ですが、次作以降もロボットであるベイマックスは登場するものの、ヒロ以外の人間たる「大英雄」達のベイマックスとの関係は希薄なので、「ベイマックスの映画」にはなりにくいこと、また、ヒロ以外は、ロボット作りをやってはおらず、次作の主人公と目されるフレッドに至っては、工学系の学生ですらないのですから、ロボットの活躍が中心となる映画になるとは思えず、単なるアクション・アニメ映画になる可能性が高いのであって、そうなると、日本では流行らないだろう、と考えたのではないでしょうか。
 だとしたら、日本では、一発勝負なんだから、映画の内容に忠実な『ベイマックス』という邦題にしよう、ということだったのではないでしょうか。

 前置きはこのへんにして、この映画のロボット観です。

 「製作チームは日本のアニメ映画に非常に触発されており、ベイマックスもスタジオジブリのアニメ映画『となりのトトロ』のトトロを思わせるものを想定した。監督の<うちの1人の>ホールは「西洋の文化では、テクノロジーは敵対する悪として描かれてきた。たとえば『ターミネーター』でもロボットやコンピューターは世界を乗っ取ろうとする存在だが、日本では逆で、テクノロジーはよりよい未来のための道筋と捉えられている。この映画でもその考えを踏襲している」と語った。」(α)
(ウィキペディアのこの箇所の典拠:http://io9.com/how-disney-will-make-you-cry-again-with-big-hero-6-1630115219/all )

 とまあ、こういう次第なのですから、ベイマックスは日本型のロボットであるわけです。
 この点をぼかしているのが、英語ウィキペディア(β)の以下のくだりです。

 「ホール<は、>「私は、今まで我々が見たことがない、何か全く独創的なロボットが欲しかった。
 しかし、それを実現するのは容易なことではなかった。
 日本のロボット群は言うにおよばず、ターミネーターからWALL-E<(注5)>からC-3PO<(注6)>、といった類のもろもろのロボット群が大衆文化に存在するわけだが、そのどれかに似たものにするつもりはなく、何か独創的なものが欲しかったのだ」、と語った。

 (注5)米映画『ウォーリー』(原題: WALL-E)(2008年)に登場する「ゴミを集めて積み上げるという仕事を700年間続けている地球最後のロボット。・・・長い年月の間に、感情を持つというシステムエラーが生じ・・・仕事の傍ら、趣味でゴミの山の中から自身の感性に合った宝物を集めてい<たが、>・・・宝物の1つ、ミュージカル映画『ハロー・ドーリー!』のビデオに憧れ、いつか誰かと手をつなぐことを夢み<るようになった>。・・・<そして、>突如、地球にやって来た・・・ちょっとクールで感情豊かな性格の、白く輝く最新型ロボット・・・<である>EVE・・・に一目惚れして以来、彼女と手をつなぐことを望むようになり、EVEが宇宙船アクシオムに回収されてからは彼女を追いかける為にアクシオムに乗り込<む。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%BC_(%E6%98%A0%E7%94%BB)
 (注6)言わずと知れた、「映画『スター・ウォーズ・シリーズ』の登場人物(ロボット/ドロイド)。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/C-3PO

 まだ、制作陣が、どんな見てくれのロボットにするかを決めかねている段階で、美術担当・・・がハグできるロボットでなければならない、というアイディアを思いついた。
 制作初期の段階で、ホールとデザイン・チームは、カーネギー・メロン大学のロボット研究所(Robotics Institute)に調査旅行に赴いた。
 そこで、彼らは、最終的にベイマックスを発想(inspire)させることになったところの、真にハグ可能なデザインの、膨らませることができるビニール製の「ソフト・ロボット工学」という新分野のパイオニアであって、DARPAが資金提供をしていた研究者達と会った。・・・
 ホールは、「・・・ソフト・ロボット工学・・・は、・・・看護師や医師補助者として健康ケア産業で実践的な応用ができると目されている。・・・このテクノロジー・・・は、将来の医療産業において、極めて順応性が高くて優しく、人々を持ち上げた時に傷つけるようなことのないロボット群を作ることができることだろう」、と語った。」(β)

 でも、最後のところを読めばお分かりのように、これぞ、日本型ロボットですよね。
 しかも、そんなロボットを米国防省高等研究所(DARPA)が研究させている、というのも興味深いところです。(注7)

 (注7)「人と柔らかく接する介護ロボット、理研・・・と住友理工・・・が研究用プラットフォーム「ROBEAR」発表・・・
 立った姿勢での抱きかかえや、起立補助などの場合でも、被介護者(高齢者)に不安を感じさせないように、柔らかく接触できて力強い新しい介護ロボットを目指し<て>・・・開発した。・・・」
http://www.yomiuri.co.jp/it/news/bcn/20150226-OYT8T50171.html?from=ytop_ylist
(2月27日アクセス)というのだから、米国とは違って軍の後ろ盾がないのに、日本も、ほぼ同じ分野で、大いに頑張っていることは心強い。

(続く)

太田述正コラム#7514(2015.2.28)
<映画評論45:ベイマックス(その3)>(2015.6.15公開)

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<参考:日本のロボット産業は本当に大丈夫なのか?>

 湯川鶴章(1958年〜。カリフォルニア州立大学サンフランシスコ校経済学部卒。時事通信社等を経てネットメディア編集長)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%AF%E5%B7%9D%E9%B6%B4%E7%AB%A0
の最近の一連のネット上の発信に拠って、安川電機社長(「社長」)の楽観論の検証をしておこう。

 「・・・人間の赤ちゃんは2歳ぐらいで言葉を覚えるようになる。それまでの2年間で、物の概念をつかもうとしているのだという。家の中にはどうやら父親と母親という2人の大人が存在するらしい、という概念を2年間かけて学習する。そのあとに、「パパだよ」「ママだよ」と概念には記号があることを教わるので、初めて「パパ」「ママ」と話せるようになるのだという。・・・
 この2歳までの脳の学習の仕組みをなかなかコンピューターで再現できなかった<のだ>が、それがDeep Learning<(注4)>で可能になった・・・

 (注4)[深層学習]。「コンピューターに学び方を教えた<結果、>・・・。コンピューターが<漢>語を学び、写真に写っている物を認識し、医療診断をする。(あるディープ・ラーニング・プログラムは何時間ものYouTubeビデオを見た後、「猫」の概念を自ら学び取<った。>・・・」
 [・・・従来職人技だった特徴量抽出を<コンピューターが>教師なし学習でやってしまうという点で画期的・・・]
https://www.ted.com/talks/jeremy_howard_the_wonderful_and_terrifying_implications_of_computers_that_can_learn?language=ja
http://matome.naver.jp/odai/2140635573608360401 ([]内)

 <この>Deep Learningで超えた山が、人工知能研究で一番大きな山。・・・
 自分自身で学習できるようになった人工知能は、今後ロボットに搭載され、ロボットという身体を通じてさらに多くを学んでいくことだろう。・・・
 人工知能やロボットが普及することで・・・今後、物理的な仕事はどんどんなくなる・・・と断言<できる。>・・・」
http://blogos.com/article/101137/
 「・・・<その結果、>これまでは技術革新が単純肉体労働者の仕事を奪ってきたが、これからの技術革新は、これまで安泰と考えられていた知的労働者の仕事を奪おうとしている。・・・
 今後20年間ぐらいは人工知能の改良のために医師の力を借りなければならないだろうが、最終的には平均的な能力の医師は不要。医療の90%から99%は医師の診断よりも、優れていて安価な方法で対応できるようになる・・・。・・・
 弁護士の数は今の10分の1になるのではないかという意見もある。・・・
 過渡期には、仕事が消滅して所得がなくなる人と、人工知能を駆使して所得を増やし続ける人との格差が拡大していくことになるだろう。最終地点はユートピアだとしても、過渡期はディストピアになる可能性が高い。・・・
 所得を獲得できる仕事を少ししかしていない、あるいは所得になるような仕事をまったくしていないという人が、今後は急増する。・・・
 日本でも<欧州>でも勤労道徳が強調される・・・価値観を徐々に捨て去るときが今、来ている・・・」
http://blogos.com/article/106673/
(2月28日アクセス)

 「社長」の楽観論は、「単純肉体労働」をロボットがどんどん代替していく現在の時代には当てはまっても、そのすぐ先の上記のような時代にもあてはまるのだろうか、ということだ。

 「・・・人工知能のコア技術に関しては欧米に先行され始めた感があるが、活用、普及を急げば日本の経済成長につながる可能性がある・・・」
http://blogos.com/article/106214/

 「・・・すべての事業領域に人工知能が活用されようとしている。ただ明らかに日本企業は乗り遅れている。・・・日本にはコア技術に投資する大手企業は存在しない。・・・
 <しかし、>日本のIT系の学会の規模はどこも、米国の同系統の学会の約10分の1の会員数なのだが、人工知能の領域だけは海外の学会と会員数はそれほど遜色がない・・・。「海外の人工知能の学会であるAAAIの会員数が5000人規模なのに対し、日本の人工知能学会の会員は3000人。しかも年次会議への出席者はAAAIが500人程度なのに、日本の人工知能学会は約1000人も集まる・・・
 そういう人を結集して、技術開発、研究開発をちゃんとやっていけば逆転も不可能ではない。・・・」
http://blogos.com/article/105430/
 「・・・<しかも、>基礎研究で後塵を拝していても、実際のビジネスで影響力をつかめればいいという意見がある。・・・」
http://blogos.com/article/101617/
 「・・・<たとえば、最近、>モノのインターネット(IoT)に対する注目が集まり始めた。これから何兆個ものデバイスがネットにつながる。それらのデバイスが生成するデータは爆発的に増加する。これまでのコンピューティングの仕組みでは対応し切れなくなる。そのときこそ人工知能が必要になる。
 IoTというと、あらゆる機器に通信機能を持たせて情報をクラウド上のサーバーに吸い上げるというイメージが主流。末端の機器は、センシングデバイスでしかない。センシングで得た情報を解析し判断を下すのは、人間だ。
 <これに対し、日本のベンチャー企業の>プリファード・インフラストラクチャー(PFI)・・・の考えるIoTでは、末端の機器はセンシングデバイスでもありアクチュエータ(駆動装置)でもある。末端の機器から得た情報をネットワークが解析、人工知能が判断し、末端の機器がアクションを起こす。人は介在しない。・・・」
http://blogos.com/article/105055/

 要するに、日本が軍事研究を本格化させるとともに、優秀な人材を世界から集めるしくみを作ることができれば、現在の、実用ロボット/A.I.における優位を維持できる可能性はある、ということだ。
-------------------------------------------------------------------------------

(続く)

太田述正コラム#7512(2015.2.27)
<映画評論45:ベイマックス(その2)>(2015.6.14公開)

今度は、ネット検索したのではなく、私がいつも読んでいる主要メディアの電子版でこのところ遭遇したロボット関係の記事のさわりをいくつかご紹介しましょう。
 (『ベイマックス』の話にいつなるのかですって?
 まあ、そうおっしゃらずに・・。)
 
 まず、日本人の権威の言からです。

 「・・・「<ロボットの>脳は、性能においても下降する価格においても、信じられないほど速く伸びている」、と、自動車産業に工業ロボット群を売っているところの、急成長を続けている」、<日本の安川電機の社長は>は語った。
 「最大の問題は、作業をする諸手なのだ」、と。
 「人間の諸手は信じられないほどの精密さを有する」、と、彼は自分の掌を差し上げて語った。
 「ここには10,000個を超えるセンサー群がある。
 一個の装置(hardware)に10,000個を超えるセンサー群をつけるなんてことは<、まだムリだ>」、と。
 「大量のロボット群の使用は、依然、工場群におけるものに概ね留まっている。
 そこにおいては、まさに、コントロールされた環境が、人間達との接触による安全上の危険、及び、ロボット群が彼らを取り巻く世界を感じ取る(sense)必要性、を限定する<からだ>」、と。
 日本のファナックや<この>安川といった諸会社は、工場自動化の全球的市場を牽引している。・・・
 「ロボット群を恐れるよりも、人々が彼らの到来に拍手を送るべき諸事例の方が多い」、と<この社長>は語った。
 「自動車工場へ行けば、まだ、大勢の人々が、骨の折れる作業であるところの、単純な諸物の運搬を行っていることが分かるはずだ。
 我々が人々にやって欲しいと要求すべきではないような、沢山の作業・・非人間的な作業・・がまだある」、と。
 工場群以外では、彼は、倉庫群や流通センター群を、ロボット群が進歩をもたらすことができる場所群として挙げた。
 ロボット群が諸仕事を破壊しているとの諸懸念にもかかわらず、皮肉にも、<この社長は、>この市場の成長の主要な諸制約の一つは、人間である技術者達の不足である、と語った。
 「単にロボット群を製造するだけでなく、彼らを使用するためにも、相当の水準のエンジニアリングが必要なのだ」、と彼は語った。
 「むしろ、我々にとっても、市場全体にとっても、成長は、それを行うことができる技術者数によって上限を画されるのだ」、と。
 低コストの諸競争相手によるところの、ソニーのような<日本の>諸エレクトロニクス会社の衰亡にもかかわらず、<この社長は、>ロボット工学(robotics)<の分野>においては、<日本が>同じ運命に苦しむことはない、という自信を抱いている。・・・」
http://www.ft.com/intl/cms/s/0/d0769e82-b8da-11e4-b8e6-00144feab7de.html?siteedition=intl#axzz3SWd7l4vG
(2月23日アクセス)

 どうやら、ロボット産業も、その大得意の一つである自動車産業同様、モジュール化に限界があるところの、従ってまた、部品の低価格化に限界があるところの、摺り合わせ技術がモノを言う、日本が得意な分野であるようですね。

 次いで、米国の権威の言です。

 「・・・不幸なことに、人工知能(A.I.)についての依然として人口に膾炙している概念、少なくとも、無数の映画、ゲーム群、そして本群、において描写されている概念、は、人間のような諸特徴・・冷たい疎外はもとより、怒り、嫉妬、混乱、強欲、誇り、欲望・・が、見張り台から見張られるべき最も重要な事柄であることを当然視(assume)しているように見える。
 この人間中心的(anthropocentric)な誤謬は現在の人工知能研究の諸含意と矛盾するかもしれないのだけれど、高度な人工的な認識力(advanced synthetic cognition)との遭遇を我々の文化の多くがそれを通して見るプリズムであり続けているのだ。
 スティーヴン・スピルバーグ(Steven Spielberg)の『A.I.(A.I. Artificial Intelligence)』<(注1)>に登場する小さな少年ロボットは彼の小さな金属製の心一杯に、本当の少年になりたいと思うし、『ターミネーター(Terminator)』<(注2)<に登場するスカイネット(Skynet)は、人類のジェノサイドに憑りつかれている。

 (注1)米SF映画。「地球温暖化が進んで一部の海に近い土地が沈み、妊娠・出産に厳しい許可制度がしかれ、人間の代わりに多くの資源を必要としないロボットが活躍する未来。その時代に人間と同じ愛情を持つ少年型ロボットとして開発されたデイビッドは、彼を製作したロボット製造会社の社員、ヘンリーとその妻モニカの元へ試験的に送られる。夫妻には不治の病を持つ息子のマーティンが居たが、現在は冷凍保存で眠っていて目覚める保証はなく、実質的に子供がいないのと同じだった。
 起動させたモニカを永遠に愛するよう、元々変更がきかないようにプログラムされたデイビッドだったが、マーティンが奇跡的に病を克服して目を覚まし、退院して家に戻ってくる。それからモニカはデイビッドよりもマーティンの方に特に愛情を注ぐようになった。ある日マーティンとデイビッドが遊んでいる最中、マーティンの生命に関わる事故が発生し、デイビッドは森に捨てられる。
 デイビッドは、・・・様々なトラブルに遭いながらも、・・・ただひたすらにモニカの愛を求めて旅を続け、最後は海に落ちてしまう。それでも彼は意識を失うその瞬間まで「僕を愛して」と望み続けた。
 それから2000年が経ち、地球は厚い氷に覆われ、人類は絶滅していた。海底で機能停止していたデイビッドは、より進化したロボットたちに回収され、再起動される。
 デイビッドは彼らに歓迎され、願いを1つ叶えてもらえることになり、モニカと過ごす日々を望んだ。技術が発達しているその世界ではクローン技術も進歩していたが、再生されたクローンは長く生きられないため、たった1日しか一緒にいられないことを告げられる。それでも希望を捨てないデイビッドの願いを尊重したロボットたちは彼の願いに応え、デイビッドは母の愛にあふれた暖かな1日を過ごし、最後は人間と同じように眠るのだった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/A.I.
 (注2)英米SF映画シリーズより。「自我を持ったコンピューターとされ、細かな設定は作品間で相違がみられる(歴史が変わったためともとれる)。自己の存続のためにもっとも優先順位の高い活動をする設定がされており、自らを破壊しようとする存在=人類の殲滅を目的とする。
 『ターミネーター』(1984年公開)および『同2』(1991年公開)では、軍用コンピューターネットワークの基幹コンピュータとして描かれ、こと2作目では未来から来た殺人アンドロイドT-800の並列処理機能を備えたメインプロセッサをリバースエンジニアリングした技術を元に、現代で設計されたものとして描写されている。
 設定および作中の台詞によれば、この並列処理機能を備えたコンピュータが自我に目覚め、これを恐れた人間側は機能停止を試みる。この停止措置を自らへの攻撃と捉えたそのコンピュータは、<米>東部時間の1997年8月29日午前2時14分、人間側を抹殺すべく核ミサイルをロシアに向けて発射し、全世界規模の核戦争を誘発させた(「審判の日」)。核戦争後、スカイネットは更に人間狩りを実行し絶滅寸前にまで追い詰めるが、人類側に強力な指導者が出現、彼の率いる反スカイネットゲリラ組織「抵抗軍」により最終的に破壊された。
 『ターミネーター3』(2003年公開)では、同作2で開発される可能性まで阻止されたことから未来が変更され、単一の軍基幹コンピューターではなくインターネットなど既存コンピュータネットワークを介して媒介されるコンピュータウイルスにより、それらのコンピュータ群が並列処理を行いながら一つの意識を共有する存在となった。
 『ターミネーター4』<(2009年公開)>では、『1』や『2』の路線に準じた存在形式になっている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%9F%E3%83%8D%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC_(%E6%98%A0%E7%94%BB) (<>内)

 我々は、自動的に、スタンレー・キューブリック(Stanley Kubrick)とアーサー・C・クラーク(Arthur C. Clarke)による1968年の映画である『2001年宇宙の旅(2001: A Space Odyssey)』<(注3)>に登場するモノリス(Monoliths)が、主役のデビッド(Dave)の宇宙線の人工知能であるハル(HAL)9000にではなく、デビッドと語ろうと欲している、と自動的に見做(presume)してしまう。

 (注3)米SF映画。「月に人類が住むようになった時代。<米>宇宙評議会のヘイウッド・フロイド博士は、月の・・・クレーターで発掘された謎の物体「モノリス(TMA・1)」(「一枚岩」)を極秘に調査するため、月・・・に向かう。調査中、400万年ぶりに太陽光を浴びたモノリスは強力な信号を木星・・・に向けて発した。
 18か月後、宇宙船ディスカバリー号は木星探査の途上にあった。乗組員は船長のデビッド・ボーマンとフランク・プールら5名の人間(ボーマンとプール以外の3名は出発前から人工冬眠中)と、史上最高の人工知能HAL(ハル)9000型コンピュータであった。
 順調に進んでいた飛行の途上HALは、ボーマン船長にこの探査計画に疑問を抱いている事を打ち明ける。その直後HALは船の・・・故障を告げるが、実際には問題なかった。ふたりはHALの異常を疑い、その思考部を停止させるべく話しあうが、これを察知したHALが乗組員の殺害を決行する。プールは船外活動中に宇宙服の機能を破壊され、人工冬眠中の3人は生命維持装置を切られてしまう。
 唯一生き残ったボーマン船長はHALの思考部を停止させ、探査の真の目的であるモノリスの件を知ることになる。
 単独で探査を続行した彼は木星の衛星軌道上で巨大なモノリスと遭遇、スターゲイトを通じて、人類を超越した存在・スターチャイルドへと進化を遂げる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/2001%E5%B9%B4%E5%AE%87%E5%AE%99%E3%81%AE%E6%97%85

 私は、「真の」人工知能がその焦点と動機付けとして、人間(humanity)、とりわけ我々、を深くケアしなければならない、という自惚れを放棄すべきであると主張するものだ。
 恐らく、我々が本当に恐れるのは、我々を殺したい巨大機械(Big Machine)というよりは、我々を取るに足らない存在(irrelevant)と見るものなのだ。
 敵として見られるよりも悪しきことは、全く一瞥もくれられないことなのだ。・・・」
http://opinionator.blogs.nytimes.com/2015/02/23/outing-a-i-beyond-the-turing-test/?ref=opinion&_r=0
(2月25日アクセス)

 たまたま、ここで取り上げられた映画/シリーズは、私は、3つともTVで鑑賞したことがあるのですが、『A.I.』に登場するロボットは日本人型で人間に優しいのに対し、『ターミネーター』シリーズ、及び、『2001年宇宙の旅』に登場するロボット・・人間の形状はしていませんがロボットと言っていいでしょう・・は欧米型で人間に敵対的です。
 (『2001年宇宙の旅』に登場するモノリスは、異星人が作ったロボットであって、人間から見れば、生物の進化を促す存在、
http://en.wikipedia.org/wiki/Monolith_(Space_Odyssey)
つまりは神のような存在である以上、ハルだけがロボットなのであって、このコラム筆者の認識は誤っています。)
 なお、『A.I.』の原案はキューブリックが作っている
http://ja.wikipedia.org/wiki/A.I. 前掲
ところ、私は、欧米型ロボットを登場させた『2001年宇宙の旅』の監督をしたキューブリックが、日本型ロボットを登場させる映画も制作したかったということだろう、という素朴な想像しています。
 ちなみに、当然のことながら、欧米型ロボットの登場する『2001年宇宙の旅』は米国ではあたっても日本ではあたらず、逆に、日本型ロボットの登場する『A.I.』は米国ではあたらなかったけれど日本ではあたったところです。(それぞれのウィキペディアによる。)

(続く)

太田述正コラム#7510(2015.2.26)
<映画評論45:ベイマックス(その1)>(2015.6.13公開)

1 始めに

 既に、ディスカッション上で、ToshiさんとUSさんの問題提起に応える形で、表記コラム・シリーズは始まっている、と言っていいでしょう。
 俎上に載せられたのは、このアニメ映画の舞台となる都市がサンフランソウキョウという、サンフランシスコと東京の混淆したような名称であることに象徴されているところの、米国人の日本観であり、もう一つが、オリジナル版と日本版のタイトルの違いともかかわっていると思われる、欧米と日本との、ロボット観の違いです。
 そこで、さっそくこの二つの論点に、逆順で取り組むことにしましょう。

2 欧米と日本のロボット観

 まず、これに関わるネット上での議論を、概ね、古いもの・・といっても2007年ですが・・から新しいもの、の順序で、ピックアップしてみたので、長いし、処々で内容がダブっていますが、ざっと目を通していただきたいと思います。

 「・・・アトムに始まり、ドラえもん、アラレちゃんからキューティーハニーまで、これは日本のアニメの日常であり,ロボットには人間と同じ人格が認められてきたといえる。・・・
 ロボットを家族の一員、社会の一員として描いた日本アニメの世界観は、衝撃と困惑をもって世界に受け止められた。ロボットの描き方はそれほどまでに衝撃的なことであった。というのも、西欧の価値観に基づくと、ロボットは機械であり、無機質で機械的な冷たいもので、決して人間のような存在にはなりえないものだと考えられているためだ。・・・
 これほどに、世界に衝撃を与えた日本人のロボットへの感性の根幹には、日本人の持つアニミズムの呼吸がある。・・・

⇒単なる言葉の問題ではないかと言われそうですが、「アニミズム」という言葉は使って欲しくないですね。
 というのは、「アニミズム(animism)とは・・・若干の原住部族的人々、とりわけ、組織宗教(organized religion)の発展以前の人々・・の信条体系についての言葉」
http://en.wikipedia.org/wiki/Animism
、つまりは、キリスト教的な宗教を先進的なものとする欧米中心主義的世界観が投影されている言葉だからです。
 ですから、せめて、「神道」という言葉を使って欲しいところです。
 神道に関する英語ウィキペディアの中に「アニミズム」は全く登場しません。
http://en.wikipedia.org/wiki/Shinto
 最も望ましいのは、「人間主義」ですが、この言葉がまだ普及していないのが残念です。(太田)

 西洋ではキリスト教の価値観から、人間の尊厳を規定してきた。一神教では、心、あるいは魂は創造主の独占物であり、生命の創造は神の御業とされてきた。魂や霊性としての人間はその他のありとあらゆるいかなる生物とも異なる、尊い存在である。ましてや、人間の被造物に魂がやどるとは考えられてこなかった。むしろ、そうした考え方を偶像崇拝として忌み嫌ってきた歴史さえある。この点では、西洋はロボットを受け入れない土壌があったといえる。
 このように、西洋の人間中心主義的な視点からは、人間の尊厳、たとえば心や魂の問題は不可侵の領域として科学の外に置いてきた。ロボットという概念がSFに登場した時から、それは日本人がロボットに抱く感情とは大きく異なる価値観によって書かれたものであったし、人工の生命―フランケンシュタインの怪物やターミネーター、マトリックスなどのSFに見られるように―は、人間への氾濫を起こす脅威として描かれてきた。人工知能、コンピュータの氾濫−フランケンシュタインコンプレックスと呼ばれる―は、人工生命が人間の尊厳を脅かすことへの不安、すなわち“神への冒涜”への畏れであった。・・・
 ピノキオは暴走も反逆もしない、心をもつ主人公ではあるが、人形である=不完全人間になりたい(人間になることがハッピーエンドである)という価値観は西洋的である。・・・」
http://1st.geocities.jp/volclex/1/robbot.html

⇒上述した点を除けば、日本人と思しき人物の記述には首肯できます。(太田)

 「・・・<スイスの>ローザンヌ工科大学のAI ( 人工知能研究者 ) フレデリック・カプラ・・・が 日本と西欧におけるロボット観の違いを語る。・・・
 日本では・・・ソニーのロボット犬Aibo・・・に対して拒絶感はなく、熱意を持って受け入れられました。これに対して、フランスではこのようなロボットは「危険」とか「子供に悪影響」などと言われ、理性的でない、感情的な拒絶反応が多かったのです。
 多くの人はこの差を、テクノロジーが日本人にとても重要だからだと言いました。私はそうではなく、西欧では人間性にかかわる哲学的問題として捉えているのに対して、日本人は単なるテクノロジーと思っているのではないかと思いました。・・・
 西欧では・・・人間の定義がロボットに対立するものとして捉えられています。これは根深く、聖書までさかのぼります。まず、神は第1段階で人間の像を作ります。これは陶芸家のような人間のテクノロジーです。第2段階で、その像に息を吹き込みます。人間をつくるには人のテクノロジーと神のテクノロジーの両者が必要ということです。
 人間の定義は「機械 ( テクノロジー ) プラス何か」なのです。しかし、その「何か」がはっきりと分かっていないために、新しい機械が現れると常に「人間とは何か」という哲学的問題にぶつかるのです。このため、ロボットが進歩するたびに人間との差異を定義し直すのです。
 それでは何故、日本でロボットは積極的に受け入れられるの<かですが、>・・・明治維新の「和魂洋才」という言葉がありますね。テクノロジー ( 洋才 ) は和魂を脅かすことはないのです。テクノロジーは殻のように外を守るもので、中身に影響を与えないと日本人は考えているのです。・・・
 <そもそも、>日本では自然に似せて造った人工的なのものは美しく、ポジティブなのです。日本庭園の美しさもそうです。ですから、ロボットが人間に似ていても問題はありません。
 ところが、西欧では「フランケンシュタイン・コンプレックス」<・・>神に代わって人間やロボットといった被創造物を創造することへの憧れと、その創造物によって創造主である人間が滅ぼされる恐れ。<・・>に現れるように神話や伝説で人間が人工のものを造ろうとすると必ず、大問題が起こります。神に助けを乞う場合は辛うじて大丈夫ですが。ギリシア神話でもピグマリオンがそうです。・・・
 キプロス島の王がガラテアという理想の女性を彫刻し、アフロディテが彫像に生命を吹きいれ、ピグマリオンが妻として迎える<、という物語です>。
 西欧では産業が役に立たないものを開発するという発想はありません。日本には西欧にはない自由があるのではないでしょうか。Aiboは日本でなければ生まれなかったでしょう。・・・」
http://www.swissinfo.ch/jpn/%E3%83%AD%E3%83%9C%E3%83%83%E3%83%88%E3%81%8B%E3%82%89%E4%BA%BA%E9%96%93%E3%82%92%E8%80%83%E3%81%88%E3%82%8B/5812916

⇒このスイス人による欧米人のロボット観についての分析は、先ほどの日本人と思しき人物とほぼ同じ説明ですが、日本人のロボット観についての分析は面白いですし、この分析もまたアリだと思います。
 とにかく、アニミズムという言葉を使っていない点を評価したいところです。(太田)

 「・・・パーソナルロボット市場で、日本は世界をリードする国だ。軍事目的が主流のアメリカと違い、日本では主に娯楽や介護、監視用に開発されている。
 「日本のロボット開発が評価される理由は、その文化的・宗教的な歴史にある」と・・・ジェニファー・ロバートソン(人類学者、ミシガン大学教授)・・・は説明する。神道では石や木などあらゆるモノに生命を吹き込むから、「ロボットは生あるものとみなされ、日本の開発者はロボットに感情や良心をもたせられると信じている」という。・・・」
http://www.newsweekjapan.jp/stories/2010/08/post-1503.php

⇒引用されている米国人教授が、「神道」で説明している点は好感が持てます。(太田)
 
 「・・・アメリカ人の・・・ロボット・コレクター、ジャスティン・ピンチョット・・・はこう答えている。
 「不安の種はいつも、ロボットが知能をあまりにもちすぎて、自分のやりたいように行動を決定してしまうのではないかということでした。初期のSFの大きなテーマは、私たちが創ったロボットの暴走でしたし。
 こんにちでも、これはコンピュータに対して広く行き渡っている感覚です。・・・
 現代の玩具のロボットの真の隆盛というのは、戦後の日本が発端です。日本が米国の支援を受けて復興していた時代ですね。もっとも、日本には戦前からブリキの玩具製造がしっかり根付いていましたから、彼らにとって玩具産業を再興し、継続していくことはしごく簡単なことだったんですが。

⇒止むを得ないことでしょうが、この米国人は、「17世紀頃から、<欧州由来の>時計などに使われていた歯車などの技術を人形を動かす装置として応用したからくり人形が作られ始めた。これは主に台の上の人形が様々の動作を見せるもので、当初は公家や大名、豪商などの高級玩具であったが、祭礼や縁日などの見世物として一般の目に触れると人気を呼ぶようになって日本各地に普及し、専門の職人も現れ非常に精巧なものが作られるようになった」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%8F%E3%82%8A
という史実をご存知ないのですね。(太田)

 戦後の日本のロボットのマーケティングやパッケージに大きな影響を与えたのは原爆でした。これは、(訳注:日本人にとって)技術的に進化した巨大なスーパーパワーが別のスーパーパワーを粉砕するという物語でした。このテーマ全体が宇宙ものの玩具やロボットに形を変えたのです。初期のロボットの包装箱を見ればわかります。街中をロボットが踏み荒らし、破壊を引き起こしている。これは、爆弾でなにが起こったかという暗喩だったんです。・・・」・・・

⇒これは、このブログ主たる日本人の指摘ですが、怪獣映画の登場の説明にもなっており、首肯できます。(太田)

 <また、>フランス人の現代日本研究者、Jean-Marie Bouisso・・・も、「原爆=科学の勝利=日本の戦後の科学への没頭」という流れを『鉄腕アトム』で解説していました。

⇒このフランス人は、日本人の匠への崇敬や和算の隆盛等から伺える学問好き、といった伝統を知らないとみえます。(太田)

 ただ、なぜその原爆を原体験とするスーパーパワーを恐怖ではなく、愛情の対象にしたかというあたりが大事かと思うのですが、この経緯にはやっぱり強大で恐ろしいものが信仰や憧憬の対象になりうる宗教観、そうして「物にすら神が宿る」というアミニズムが深く関係してくるのかなあと思います。・・・

⇒このブログ主たる日本人、やはり、「アニミズム」という言葉を使ってしまっていますね。(太田)

 <更にまた、>クリストファー・ミムズはテクノロジー関連のジャーナリスト<ですが、次のように書いています。>・・・
 そもそも、ロボットという言葉はチェコの戯曲(訳注:カレル・チャペック作『R.U.R.』)の中で1921年にデビューし、そのときからすでにロボットは最終的には決起し、主人である人間を殺すものだった<、と>。・・・
 <はたまた、女性の>ヘザー・ナイト・・・は、ロボットに対する日本人と米国人の態度の差は、ロボットという概念が生まれるよりもっとずっと古い時代に端を発していると結論を下している。つまり、宗教だ。
 「日本では…アニミズムのせいで、みな文化的にロボットに対してオープンです。日本人は、無生物と人間を区別しません。」
 アニミズムは、仏教の伝来より前から存在し、今なお日本文化に大きな影響力をもつ神道信仰の構成要素だ。アニミズムとは、すべてのもの、人間が作った物にさえ霊が宿るという考え方である。社会科学者、北野菜穂の論文『Animism, Rinri, Modernizationp; the Base of Japanese Robotics(アニミズム、倫理、近代化:日本のロボット工学の基盤)』にはこうある。
 「太陽、月、山、木、それぞれに霊や神が宿っている。神々にはそれぞれ名前があり、特徴をもち、自然と人間の現象をコントロールしていると信じられている。こうした考え方はいまだ信じられており、自然と霊的存在への日本人の関わり方に影響を及ぼしている。これはのちに、人工物へも波及した。そのため、(日本人は)日用品や常用器具すべてに霊が宿っていると考え、こうした日用品に宿る霊が人間とうまく調和することを信じている。」<と。>

⇒こういった日本人の学者が、「アニミズム」という言葉を使うから、米国人と思しき、女性がその言葉を右から左に使ってしまうのです。(太田)

 対照的に、西欧では、生命の創造は必然的に創造者を破壊に導くものだ。メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』に始まった話ではないのだ。作家の梅沢類(訳注:日系カナダ人作家)はこう指摘している。
 「ロボット工学に対する西欧の態度に宗教が完全に影響を与えていることを理解するためには、ユダヤ教とキリスト教に共通の一神論が忠実に守っている教義を思い出さねばならない。つまり、生命を創ることができるのは神だけであること。また、創世記の一般的な解釈では、初めに存在したのは神だけであり、すべての生物は神の創造物なのだ。出エジプト記もまた、偶像崇拝は罪であると定めている。
 こうしたことから、無生物に息を吹き込む者は、神の役割を担っていることになり、とどのつまり、偽りの偶像に自身がなっていることになる。こんな冒涜者には罰を与えるのがふさわしいし、SFの慣例だとロボットの裏切りと言う形式をとる。ロボットという用語を造ったことで評価されている1920年の作品、『R.U.R』に始まり、映画『ターミネーター 』、『宇宙空母ギャラクティカ 』にいたるまで、人間の自惚れは常にその創造物から反乱を起こされるはめになるのだ。」<と。>・・・

⇒この日本人作家が言っていることは首肯できます。(太田)

 <そしてまた、>ミラー・マッキューン(訳注:米国の科学技術雑誌)に寄稿しているジャーナリスト、サリー・オーガスティンは、「日本人が、日本の能のように曖昧な表情をさせてロボットの感情をほのめかすことで満足するのに対して、アメリカ人はロボットの表情が感情的に豊かであることを重視する」と論じている。

⇒そうですかねえ。(太田)

 もっと具体的に言えば、アメリカ人はロボットの研究を軍事利用の方向へ向かわせることが多いのに対し、日本人は「日々の暮らしの改善を目的とする消費者用のロボットに大枚を投資している」。

⇒単に、戦後日本人が軍事を放擲したから、というだけのことです。(太田)

 アメリカ人がロボットを危険で意図的な人造物であり、いずれ作り手に死をもたらすものと見なし、日本人はその文化によってロボットを協力者、西欧で言うならソウルに近いものを宿したものと考えるというなら、片方の国家がロボットを軍事利用することに肯定的になり、他方が、急速に高齢化が進み、扶養を受ける人口が増大している国を助けるのにふさわしい慈悲深い仲間と考えるのも、ほとんど驚くべきことではないだろう。」
http://gyanko.seesaa.net/article/174247864.html

⇒すぐ上で述べたように、日本が「軍事利用することに」否定的なのは、戦後だけの現象に過ぎません。(太田)

 「・・・今でも日本メーカーは世界の産業用ロボット市場で5割超のシェアを持つ。ソニーのAIBO<や>・・・ホンダのASIMOのようなロボットが生まれてくることに何の抵抗もなかったどころか、今でもロボットの進化に明るい未来のイメージを重ねる人は少なくない。
 だが、欧米ではそうではない。もちろん中には、『宇宙家族ロビンソン』の『フライデー』や『スターウオーズ』の『R2-D2』、『C-3PO』など、人間の友達としてのロボットがいないわけではないが(そして、これらのロボットは皆、日本人に非常に人気があると思うが)、小説、映画やTVなどで一般的に浸透しているロボット/人造人間、あるいはコンピューターのイメージは、『いつ人間に反逆するかわからない不気味な存在』だろう。『フランケンシュタイン』、『2001年宇宙の旅』『ターミネーター』『宇宙空母ギャラクティカ』等々、いくらでもその例をあげることができる。
 ロボットに関しては、性善説の日本と性悪説の欧米というはっきりした対局の構図がある(その背後にはそれぞれの宗教観があるが、その点は今回は深入りしないでおく)・・・

⇒この日本人と思しきブログ主の、以上の叙述は的確ですね。(太田)

[投稿者α]日本は仏教的な心身一元論で、心と体は同じもの(空即是色色即是空)と考えており、体さえ人間と同じなら勝手に心も宿ると考えている節があります。

⇒心身二元論(Cartesian dualism)を否定するのがアニミズムの特徴の一つとされている
http://en.wikipedia.org/wiki/Animism 前掲
ところ、その伝で行けば、組織宗教である仏教も一種のアニミズムであるということになりかねないのであって、この点でも、アニミズムという言葉は排斥されるべきでしょう。(太田)

 逆に欧米はキリスト教的な心身二元論(我思う故に我在り)で、心と体はまったく別にもの心こそ人間の本質であると考えています。よって心(人工知能)への探求は日本の比ではありません。・・・
[投稿者β]「一般的に浸透しているロボット/人造人間、あるいはコンピューターのイメージは、『いつ人間に反逆するかわからない不気味な存在」という記述ですけど、それは奴隷文化のトラウマが反映しているからだと思われます(笑)・・・

⇒これは秀逸な指摘です。(太田)

[投稿者γ]日本が明らかに出遅れたインターネットが当初軍事目的で作られたことをもうお忘れか。・・・」
http://d.hatena.ne.jp/ta26/20140429

⇒これも鋭い指摘です。
 ロボットに限らず、日本が軍事放擲を止めない限り、科学技術面で、真に画期的なブレークスルーを成し遂げることは困難でしょう。(太田)

(続く)

太田述正コラム#6673(2014.1.3)
<映画評論42:キャプテン・フィリップス(その3)>(2014.4.20公開)

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<脚注:フィリップスは本当に英雄だったのか>

 乗組員の一人が、フィリップス船長に対して、ソマリア沿岸から600マイル以遠を航海することを勧める海賊情報メールを無視し、乗組員達を危険に晒したとして、賠償請求訴訟をテキサス州の裁判所に提起したが、同州高裁で棄却された。(F)
 この点を含め、果たしてフィリップスは有能なリーダーであったかについて、匿名の一乗組員がフィリップスは無能であったと指弾した
http://nypost.com/2013/10/13/crew-members-deny-captain-phillips-heroism/
のに対し、監督のグリーングラスは、商船乗組員であった自分の父親を引き合いに出し、海上で、船長というリーダーは乗組員から嫌われるものだとし、この映画で、フィリップスをありのままに描いている、と反論している。
http://www.thewrap.com/paul-greengrass-100-percent-stands-behind-captain-phillips-accuracy/
 私は、この点は、どちらかと言えばグリーングラス/フィリップス側に軍配を上げたい。
 そんなことよりも、私が知りたいのは、海賊3人の射殺の時の状況であるところ、存命の第三者たる目撃者がいないので、真実は闇の中だ。
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 グリーングラスを含む、この映画制作陣は、真実を米海軍側に有利に脚色したか、米海軍が自分達に有利に脚色した話をうのみにしたか、米海軍が意識的に海賊達を追い詰めてフィリップスに対する危険を生ぜしめた点を描写からあえて落としたのか、そのいずれかである、と私は考えています。

 制作陣が、そうしなければならなかった実際的理由が2つあります。
 一つは、そうしなければ、リアリティのある映像が撮れなかったことです。
 以下のような事実関係があります。
 「マースク海運の協力を得られることになり、撮影に使えるコンテナ船を探したが、コンテナ船は1年間ずっと貨物を運ぶために運行されているため難しいと思われたが、マースク海運から利用されていないコンテナ船がマルタ沖に停泊していると知らされ、撮影期間のうち9週間は、コンテナ船マースク・アレクサンダー号上で行うことができた。また、・・・<米>海軍の全面協力を得られ、実際の救出に使われたアーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦ベインブリッジの姉妹艦で、修理したてで2ヶ月のならし航海を必要としていたトラクスタンを・・・撮影に使わせてもらえることになり、トラクスタンの乗組員も撮影に協力した。」(B)
 つまり、制作陣は、この米海運会社や米海軍を悪者にするような脚本にするわけにはいかなかったはずです。
 もう一つは、制作陣は、米海運会社や米海軍を悪者にするような脚本にしたら、そんな映画は、少なくとも米国内では興行成績を上げることができないと考えたはずです。

 では、そもそも、オバマはどうして、ソマリア沿岸に向けて逃走中の救命艇を絶対にソマリアに着かせるせるなと命じ(映画)、しかも、海賊達の射殺による船長の救出を指示(私の想像)したのでしょうか。
 オバマが普通の米国人であれば、何の不思議もないことかもしれません。
 現に、(米艦が救命艇のすぐそば到着したのは8日であったところ、10日に)「普通の」米国人であるフィリップスは、「救命艇に乗せられた船長は脱出を試み海に飛び込んだが、海賊に捕らえられ失敗し」ています。(E)
 これは、海賊達が泳いでいる自分を射殺することはないことが彼には分かっていたからです。
 他方、(時間の前後は覚えていませんが、)フィリップスは、米海軍のゴムボートが接近して、「海賊に船長が無事であることを確認したいと要求」したことを受けて、海賊に救命艇の入り口に引っ張り出された時、「自分が座っている席の番号を・・・「15番だ!」<と>・・・叫ぶ」のですが、それは、「船長自身、アメリカ軍が海賊と交渉しないこと<が>分かって<おり、>交渉は時間稼ぎでしかなく、解決には至らないケースがほとんど<で、>最後は必ず銃撃戦になる。・・・<だから、>自分が座っている位置を知らせ、常に同じ席に座るようにすることで、狙撃手は船長から狙いをはずすことができる」と考えたからです。(A・33)
 しかし、私の見立てでは、オバマは米国人離れした人物です。
 繰り返しますが、そんなオバマが、どうして、かくも(国際相場的には)非情な決断を下したのでしょうか。
 
 それは、共和党政権下で選任されたゲーツ国防長官をそのまま留任させたり、あえて共和党員で自分の政敵たりうるようなユタ州知事のハンツマンを駐中共大使に任命したりした
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%84%E3%83%9E%E3%83%B3_%28%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%8B%E3%82%A2%29
ことと同じであり、また、ビンラディン暗殺にこだわったこととも同じなのであり、要するに、共和党に配意する強い大統領を、カネのかからない形で米国内向けに演出することによって、イラクからの米軍撤退とアフガニスタンからの米軍の早期撤退を実現すること等を通じて、米国を国外への介入から手を引く方向にもっていき、内政、とりわけ、国民皆保険制の実現等、弱者の救済に力を注ぎたかったからでしょう。
 恐らく未成年も含まれていたであろう、ソマリア人海賊の3人は、このオバマの思惑の犠牲になった、というわけです。

(完)

太田述正コラム#6671(2014.1.2)
<映画評論42:キャプテン・フィリップス(その2)>

2 キャプテン・フィリップス

 さて、この映画の監督のポール・グリーングラス(Paul Greengrass。1955年〜)は、「イギリス・サリー<(注2)>生まれ。ケンブリッジ大学を卒業後、グラナダ・テレビジョン・スクールで学び、ジャーナリストとしてキャリアをスタートさせ」(A・15)た、という人物です。

 (注2)サリーは、私が1988年に1年間住んだ、ロンドン南西部郊外の地区であり、彼はその地区中のチーム(Cheam)で生まれ、私の宿舎のあった、同じくその地区中のキングストン(Kingston)に所在するキングストン大学から、TVと映画への顕著な貢献を称えられて名誉学位を授与されている。
http://en.wikipedia.org/wiki/Paul_Greengrass

 そんな彼が、「グローバル経済というものは、必ず勝者の裏に敗者がいる。本質的には犯罪の風景だ。アフリカには、目の前を世界の富が通り過ぎて行く国々がある。それは絶えず行き交っている巨大なコンテナ船だ。となると、映画で描いたような事件が起きるのは必然なんだよ」(A・15)という観点からこの映画を撮ったわけです。
 ただし、彼自身が語るように、果たしてこの映画が、「あの数日間に起きたことをひとつ残らず語っているのか、と言われると、それは無理。取捨選択しなければならなかった。でも僕らが選びとったものは、実際に起きた通り、正確かつ忠実に描いている」が真実であるかどうかについては疑問です。
 この私の疑問を共有しているとは考えられないのですが、映画評論家の土屋好生が、「グリーングラス節は・・・リアリズム演出だけではない。忘れてならないのはそこに巧みに取り入れたフィクションである。たとえばクライマックスの救出劇。海軍の腕利きの狙撃班が3人のソマリア人の海賊を一瞬にして射殺してしまうのだが、その惨劇にフィクションが入り込む。ここだけ現実離れした劇画のような鮮やかなアクションシーンに百戦錬磨のアメリカ軍の実力を見せつけられる思いがするのだが、それこそグリーングラスの狙ったところだろう。一気にサスペンスを高める見事な演出と言わねばならない」(A・16)と言っているのは心強い限りです。
 (彼の最後の見解には同意できませんがね・・。)
 土屋が史実を知っているのかどうか定かではありませんし、私自身、史実を知りたいと思って少しインターネットで調べた範囲では、そんな細かいところまでの史実は分かりませんでしたが、ここは、後で述べる理由から、フィクションであると言い切ってよいと思うのです。

 その根拠を挙げましょう。

 まず、観衆の反応です。
 日本人たる観衆の反応だけですが、いくら日本人が特異な生命観等を抱いているとはいえ、このような反応をする観衆は世界的にも決して少なくないでしょう。
 いや、まさに、大部分の観衆がそのような感想を抱くような映画にグリーングラスは仕立て上げているのです。

 「この作品では、海賊側を単純な悪として見るだけではすまなくなってきてしまう。逆にアメリカのSEALsの方が強くて怖いし(笑)、「え、そんなことまでするんだ!?」と驚くことばかりですよね。
 要するにアメリカは国益を守るためなら何だってやってしまう。たかだか4人の海賊をやっつけるために空母や巡洋艦、ハテはSEALsまで駆り出すのです。3憶1千万人いる国民のたったひとりでも身柄を拘束された瞬間、民間レベルではなく国家の一大事として動き出す。この事件にしても、アメリカは船長を守ろうとしたというよりは、アメリカという国の名誉を守ろうとしたわけです。ミッションに費やされたお金も莫大だったはずですが、それらはすべて国民の税金でまかなわれている。これが日本だったら大問題ですが、アメリカはたとえ1千万ドル<(注3)>以上かかろうとも、国家の威信を守るためなら安上がりだと言わんばかりに行動します。」(真山仁(小説家))(A・27)

 (注3)この事件に際に、「海賊が要求した身代金の額は<1千万ドル>(およそ10億円)。途方もない金額だ。ちなみに、身代金の相場は1億円とされるが、その10倍の金額をつけたのは、マースク・アラバマ号が超大国アメリカの貨物船だったからだ。」(後藤健二(ジャーナリスト)(A・30)

 「海賊たちが・・・最後はちょっと可哀想に思っちゃいましたね。でも、ひとりの国民の命を救うために、国家が威信を懸けて徹底的に取り組み、結果として3人の海賊の命を奪うというのも、いかにもアメリカらしい。そもそもソマリアをああいう風に追い込んでいったのも、アメリカなどの先進国ですからね。
 たったひとり、騙されて逮捕されたボスも・・・懲役33年というの<は>少し長過ぎやしないかと思ったけど、それもまた事実なわけで、非情に複雑な気分になる。」(田原総一朗(ジャーナリスト))(A・18)

 次に、真山、田原の両名が知っていたかどうかは分かりませんが、ソマリア海賊には決して人質を殺さない、というルールがありますし、実際殺したことは聞いたことがない、という事実です。

 「"It's business, no body hurt."・・・「これはビジネスだ。誰もケガはしない」。乗っ取りに成功した海賊4人組のリーダー格ムセがフィリップス船長に放ったセリフだ。AK47ライフル銃を向けながら、そう言われてもまったく真実味がないが、これはソマリアの海賊たちに共通したルールだ。実際、・・・フランス軍がある時逮捕した海賊たちの船に、「人質は殺してはならない」と記したマニュアルを発見している。殺したら、あっという間に殺される。いわば「倍返し」。せっかく身につけた身代金ビジネスも続けられなくなると分かっている。ただし、まったくケガをさせないほどゆるいと相手に危機感を与えられないことも事実。」(A・32)

 このくだりには、執筆者が記されていませんし、具体的典拠が書いてあるわけでもありませんが、恐らく事実でしょう。

 となれば、どういうことになるでしょうか。

(続く)

太田述正コラム#6669(2014.1.1)
<映画評論42:キャプテン・フィリップス(その1)>(2014.4.18公開)

1 始めに

 この映画は、もともとBeqmwjFkさんが推薦していたものです。(コラム#6582)
 そのこともちょっと念頭にあって、「永遠の0」とのダブルヘッダーで観たという部分もあります。
 さて、これは2009年4月に起こった、ソマリア人海賊達の米輸送船船長人質事件という史実に基づく映画であり、映画には脚色が付き物であるという点に配意しつつも、1人の人質を救出するために、事実上、オバマ大統領が3人もの海賊射殺を命じたことに対して、当時、私がショックを受けた記憶を呼び覚ましてくれました。
 この映画評を通じて、オバマ大統領がこのような決断を行った理由を解明したいと思います。

A:この映画のパンフレット
B:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%97%E3%83%86%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%97%E3%82%B9
(12月28日アクセス)
C:http://en.wikipedia.org/wiki/Captain_Phillips_%28film%29
D:http://en.wikipedia.org/wiki/Richard_Phillips_%28merchant_mariner%29
E:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%82%A2%E6%B2%962009%E5%B9%B44%E6%9C%8812%E6%97%A5%E3%81%AE%E4%BA%8B%E4%BB%B6
F:http://en.wikipedia.org/wiki/Maersk_Alabama_hijacking 

 この事件のあらましは次の通りです。

 「2009年4月8日、<米>国籍の貨物船「マースク・アラバマ(Maersk Alabama)」号はソマリア沖を航行中に海賊に接舷され制圧された。乗員により数時間後には奪回され、この際に乗員側は[頭目(ringleader)たる]海賊1名を拘束したが、海賊側も乗員の身柄の安全と引き換えに投降した船長を拘束した。双方、人質を交換することで解決を図ろうとし、乗員たちは海賊を解放したが、船長は身代金目的の為か解放されず、交渉は失敗した。
 [海賊達4名は、船長を伴って、同号の救命艇の乗って逃走した。]
 同月8日、<米>当局は事件解決のため現場海域に駆逐艦「・・・ベインブリッジ」を派遣し、翌9日には現場海域に到着、連邦捜査局にも交渉専門家の派遣を要請した。・・・
 <米>海軍はさらに強襲揚陸艦「・・・ボクサー」とミサイルフリゲート艦「・・・ハリバートン」を現場海域に派遣し、P-3哨戒機による上空からの警戒監視も行なわれた。
 同月12日・・・ベインブリッジに乗り組んでいた海軍特殊部隊SEALsが約20メートル離れた救命艇に乗っていた海賊達を狙撃し3名を殺害、船長は無事に救出された。交渉のためベインブリッジに乗艦していた[頭目たる]海賊1名は逮捕された。・・・
 拘束された<この>海賊・・・は・・・ニューヨーク[の米連邦裁]で「国際法上の海賊行為」の罪などで裁判にかけられることになった。この際、容疑者であるアブディ・ワリ・アブディ・カディル・ムセ(Abduwali Abduqadir Muse)の年齢が15歳[か16歳]であると主張されたが、18歳の成人<(注1)>として裁判にかけられることになった。」(E。但し、[]内はFによる)

 (注1)「<米国では、>45州とコロンビア特別区が18歳、2州(アラバマ州、ネブラスカ州)が19歳、3州(コロラド州、ミネソタ州、ミシシッピ州)が21歳。選挙権年齢は一律に18歳となっている(連邦だけでなく州及び地方選挙も)。成人年齢が18歳ではない州においても親の同意なしに婚姻ができる(ミシシッピ州のみ21歳)。・・・なお、主要国首脳会議(サミット)の参加国G8の中で、成年年齢を20歳としているのは日本だけである。・・・<また、>先進国クラブと呼ばれる経済協力開発機構(OECD)の34ヶ国中、18歳に国政選挙権が与えられていないのは日本と韓国のみである。・・・<ただし、>天皇、皇太子、皇太孫については、18歳で成年となる(皇室典範第22条)」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%90%E5%B9%B4

 「彼は後に自分が18歳であることを認め、自分が海賊の諸嫌疑について有罪であることを認め、33年9か月の刑に処せられた。」(F)

 頭目のこの年齢を踏まえれば、射殺された3人は、全員、米国基準においても未成年であった可能性すら否定できないのであって、その彼らの年齢を確かめもしないで米当局が彼らを射殺したことで当時の私のショックは倍加されたものです。
 もとより、米国内であれば、こういったことは珍しいことではありませんし、米国籍の船の救命艇は米国内であると擬制できることを考えれば、その限りにおいては、何の問題もないのですが、何と言っても、射殺したのは公海上であり、国際的「相場」に照らしていかがなものか、とも当時首をひねったものです。
 この種の論議は当時起きませんでしたがね・・。

(続く)

太田述正コラム#6663(2013.12.29)
<映画評論41:永遠の0(その3)>(2014.4.15公開)

 この映画で、主題歌を作詞・作曲した桑田佳祐(青学経営学部除籍)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%91%E7%94%B0%E4%BD%B3%E7%A5%90
は、「家族のために必ず生きて帰る。これこそが愛ではないか。」そう信じ、「待っている人がいる」ことそのものが生きる力となり、生きる原動力となっている。そんな主人公宮部久蔵の姿に非常に大きな感動をいただきました。この映画の中に流れている「平和への祈り」のようなメッセージを、私なりに音楽と言う形を通じて、多くの方々に伝わっていくためのお手伝いが、少しでも出来ればと思っております。」(A・42頁)と言っていますが、少なくとも脚本は読んだはずの彼が、完全にこの映画のテーマを勘違いしているわけです。
 なぜなら、宮部は、自分の意思で「生きて帰」らなかったからです。
 また、ヨーコ・オノ(学習院大学哲学科中退、米サラ・ローレンス大中退)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%8E%E3%83%BB%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%82%B3
に至っては、「「死にたくない」と叫びながら、愛する人のために死んでいった若者たち。いつの時代も自らの命と引き換えに誰かの命を奪うことなど、決してあってはならないことです。」(A・40)と一方的に自分ないしは自分とジョン・レノンの信条を書いています。
 脚本すら読んでいないか、或いは執筆依頼者の簡単な映画紹介文だけを見て、こう書いたと思われます。
 いずれにせよ、監督・脚本の山崎が、桑田やオノに映画のテーマを的確に伝えなかったか、誤って伝えた、ということでしょう。
 (オノに関しては、山崎が、その人選を含め、一切関わっていなかった可能性も皆無ではありませんが、その場合でも、このパンフレット制作者に山崎からテーマが正しく伝わっていなかったわけです。)

 ちょっと信じ難い思いがしているのは、こんな山崎が監督・脚本を担当し、あんな岡田が主演した映画が、人間主義についての感動的な名画たりえたことです。       
 結局のところ、それは原作の力なのでしょう。
 脚本は、原作の忠実な要約だったのですから・・。
 ただし、山崎の名誉のために、原作者の百田の以下の言を引用しておきましょう。

 「今まで、映画化やテレビドラマ化のオファーはいただいていたのですが、そのたびに脚本を読んで、「何か違うな」と思い、全部お断りしていたんです。そのうちに、もし映画化するなら自分で脚本を書くしかないのではないかと考えたこともあったのですが、約600ページの長編を2時間少々の尺にまとめるのは不可能だなと思い、自分でも匙を投げたんです(笑)。自分でできないなら、誰にもできないと思っていたのですが、山崎監督でとオファーをいただいて、『ALWAYS 三丁目の夕日』は大好きな作品なので期待できると思いつつも、シナリオはどうなるかな、と。そして山崎監督と林民夫さんが書かれた脚本を読んだら、「本当に素晴らしい! こんな脚本ができるのか!」と思い、ぜひ映画化してもらいたいと伝えました。」(A・44頁)

 脚本の共同執筆者である林民夫
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E6%B0%91%E5%A4%AB
が卒業した日本映画学校は、現在は日本映画大学になっていますが、林の在籍当時は、3年制の専門学校であったところ、その「理念に、「人間とは何と面白いものかを知り、これを問う己は一体何かと反問し、個々の人間観察をなし遂げる為に」とあるように、一貫して人間探求のカリキュラムを組」んだ学校であった、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E6%B0%91%E5%A4%AB
ことから、林は、大学の教養課程修了程度の綜合的教養は身に付けることができたと考えられ、その点で、山崎貴の出た阿佐ヶ谷美術専門学校
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B4%8E%E8%B2%B4 前掲
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E4%BD%90%E3%83%B6%E8%B0%B7%E7%BE%8E%E8%A1%93%E5%B0%82%E9%96%80%E5%AD%A6%E6%A0%A1
とは一味違っていた可能性があります。
 しかも、林は、「懸命に生きた人間の思いが、たとえその時は報われなかったとしても、時代を超えて繋がっていく。原作を読んだ時、そんな部分に共感した」(A・27)と、この原作のテーマを的確に捉えているかに見えることも言っています。
 こういったことから、私には、「本当に素晴らしい・・・脚本」ができたのは林の功績のように思われるのですが、それはそれとして、脚本が林と山崎の共同執筆ということになっている以上は、山崎も、この「脚本」の「素晴らし」さにそれなりの貢献をしたと言わざるをえないのです。

3 終わりに代えて

 私が、この映画、ひいては原作について、最も残念に思ったのは、そのテーマが、日本人の間での人間主義的な戦争の遂行という戦術的にしてささやかなレベルにとどまっていて、あの戦争の目的そのものが、日本人を含むところの全人類のための対赤露抑止という人間主義的なものであったという戦略的にして雄大なテーマではなかった点です。
 もとより、これは原作者の百田の非ではないのであって、日本の戦後の政治学者や歴史学者が、百田らを啓発するような著作を生み出してこなかった怠慢こそが責められなければならないのです。

(完)

太田述正コラム#6661(2013.12.28)
<映画評論41:永遠の0(その2)>(2014.4.14公開)

 (2)この映画で残念だった点

 既に示唆しているように、この映画の出演者の中にも、この映画のテーマの理解が不十分な人が少なくないことが、それがその出演者の演技、ひいてはこの映画の出来に直接影響を与えるわけではないとはいえ、残念だった点です。

 まずは、主人公の宮部を演じる岡田准一
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E7%94%B0%E5%87%86%E4%B8%80
です。
 「宮部の時代は戦いが現実にあり、宮部は戦う怖さや悲しさを知っている。戦争に対して反対だという思いがある中、どうして戦っていたのか、悲しみを抱きながら戦うとはどういうことなのか、戦争というものに身を置いたとき、人はどう思うのか。今の感覚で言えることはありますが、それだけでは偏ってしまうと思ったんです。当時の人たちは、その時々に一生懸命生きていたんだと思いますし、宮部を演じる場合は、今の価値観で決めつけてはいけない。当時の価値観や宮部の生きていた時代の状況も踏まえて、演じるようにしました。」(A・4頁)という彼の言を読んでみてください。
 「宮部<は>・・・戦争に対して反対だ」からは、岡田が、原作を読んだはずなのに、百田のことを調べていないと思われるところ、百田が戦争肯定論者であって、戦争反対論者を主人公とするような物語を作るわけがないことに気づいていないことが、そして、「今の価値観で決めつけてはいけない」以下は、この映画及びその原作のテーマが、時代を越えて普遍性のある人間主義についてであることを理解していないことがお分かりになることでしょう。
 もとより、当時の日本人の価値観はいささか違っていたわけですが、それは、単に、「平時」と「有事」の違いに過ぎないのであって、戦後の日本人が、世界の中で例外的に「有事」観念を放棄してしまった結果、岡田だけではなく、現在の日本人の大部分が、それを「現在」と「昔」の価値観の違いだと錯覚してしまっているわけです。

 また、超有名ベテラン俳優の平幹二郎
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%B9%B9%E4%BA%8C%E6%9C%97
も、一シーンだけの出演ですが、「主人公は臆病者と呼ばれていますが、それは家族の幸せを守るために生き抜こうとする強い意志の表れで、非情な戦争に対して、自分のできる範囲で抵抗した人です。」というピンボケの言を吐いています。
 宮部は特攻に反対こそしたけれど、「戦争」そのものに「抵抗」したわけではありませんし、特攻に反対した理由についても、それが必死の戦術であったからというよりも、前途有為の(大学生等の)予備士官の未熟な操縦士を特攻に投じることは無駄死にに近いものを強いることである、との公憤からでしょう。
 そうでなければ、宮部が最後に自身が特攻を志願するはずがないのです。
 宮部は、多数の教え子達の無駄死に少しでも報いなければならないと思いつめ、自分の操縦士としての技量を駆使して、敵航空母艦に大打撃を与えて・・その最後の瞬間が示されてはいませんが・・散華したのです。

 (恐らく、原作でそのように描かれているのでしょうが、海面すれすれに飛んで空母に接近し、直前で急上昇してから急降下して甲板に激突する戦術は極めて合理的です。
 海面すれすれに飛ぶのは容易ではありませんが・・。
 実際、現在の巡航ミサイルの対艦攻撃パターンはそうなっています。
 これは、海面すれすれに飛ぶと、地球は丸いので、空母のレーダーが機を発見するのが遅れるのと、そもそも、海上で電波が乱反射するので、機がレーダーに映りにくいですし、最後に急上昇してから急降下するのは、衝突の際の衝撃力を大きくすることによって、艦艇の甲板の下に突き抜けてから携行爆弾が爆発することで艦艇へのダメージを大きくするためです。)

 こんな勘違いが起きるのは、基本的には岡田や平自身が不勉強だからですが、監督兼脚本(兼VDX!)の山崎貴
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B4%8E%E8%B2%B4
が、映画職人であって、大きな絵柄には関心のなさそうな人物で、彼自身、恐らく、この映画のテーマになどさして関心がないため、それを岡田や平に語り聞かせることもなかった、というより、語るべきものを持っていなかったせいでもあるのではないでしょうか。
 そもそも、彼のように、美術専門学校卒(ウィキペディア上掲)の監督というのはめずらしいのでは?

 (百田(同志社法)と井上(明大文)は大学に行っており、山崎と岡田と平は行っていないことが意外に大きいのではないでしょうか。
 百田は中退ですが、5年間在籍したということですから、少なくとも教養課程は修了していたのでしょうし、要は、大学に行きたいと思う位の知的欲求と受験勉強をこなす形での(総合的)知的鍛錬をしていたことと、大学(の教養課程)で(総合的な)教養を一応身に付けたことが、後々効いてくる、と思うのです。
 井上のように卒業までしておれば、(法学部ではないので、)それに加えて学問方法論・・真実らしきものを見極める方法論・・も一応身に付けるわけです。
 岡田は歴史好きを自認しているけれど、自己流で好きなものだけ読んでいても教養は必ずしも身に付きません。
 山崎のように専門学校を卒業していても、基本的に同じことです。
 (以上、事実関係はそれぞれのウィキペディアによった。))

 現に山崎は、「戦争末期は、日本の国全体がある種の狂気に囚われ、追い詰められていた気ががする」(A・17頁)などというズレまくった話をしているところです。
 この山崎について指摘した点については、根拠が更に2つあります。

(続く)

太田述正コラム#6659(2013.12.27)
<映画評論41:永遠の0(その1)>(2014.4.13公開)

1 始めに

 私の映画鑑賞は、行き先はユナイテッド・シネマ豊洲、時期は年末、そして2本いっぺんに観る、と決まっている(?)ことから、鑑賞する封切り映画は、毎年、自ずから限定されてしまいます。
 今回、この映画館(シネコン)の予定表を23日にネットで調べた時、気が付いたのは米国映画の退潮と、相対的な日本映画の隆盛、就中、日本映画におけるアニメ、及び漫画/アニメの実写映画の多さでした。
 そして、少しでも私の気持ちをそそった映画の中から、二本を見る間の時間的ロスが少ないように選択すると、『永遠の0』と『キャプテン・フィリップス』の組み合わせしかなくなってしまい、食わず嫌いで、余り気が進まなかったのですが、25日に出かけることにしたのです。
 今回は、一本目と二本目の間が25分しかなかったこともあり、同じ階にあるフードコートで恒例のディナーをとるのは止め、前夜半額で買ってあったクリスマスセット(小粒のフライドチキンと衣を付けて揚げたポテト)、及び、近くに住む読者のHNさん差し入れのCuriosity Cola、
http://youpouch.com/2011/05/04/102356/
それにリンゴ1個とみかん1個を布製小クーラーボックス(但し、冷媒は入れなかった)に入れて持参しました。
 なお、地下鉄を3本乗り継ぎ、何度も階段を上り下りして現地に行ったため、帰りに、ほぼ治癒していたと思っていた右膝が再び痛み出してちょっと慌てました。

 閑話休題。
 『永遠の0』の原作本(タイトル同じ)は大変なベストセラーなんですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E9%81%A0%E3%81%AE0
 それを知っていたら、行く前にもっと期待していたと思います。
 映画は、この原作本の粗筋をほぼ忠実になぞっていますが、恐らく、この映画も大当たりするに違いありません。
 だって、原作者の百田尚樹(注)本人が、「僕は、実写を5回観ているんですが、純粋に映画として楽しんで、一人の観客として魅了されました。普段は映画を観て泣くことはあまりないんですけど、『永遠の0』に関しては気がついたら泣いていたという感じです。いつのまにかポロポロ涙が流れている、しかも全編にわたって。そんな不思議な映画でした。」(同映画のパンフレット(A・44頁))と述懐しているくらいであり、私自身がまさにそうでしたからね。

 (注)1956年〜。「放送作家・小説家。大阪市東淀川区出身。・・・同志社大法・・・中退・・・『永遠の0』<で>・・・吉川英治文学新人賞を受賞。2013年・・・『海賊とよばれた男』で本屋大賞を受賞。・・・「南京事件を否定している。また日本国憲法第9条第1項を否定し、「戦争になったら9条信者を最前線に送り“下がれ!こちらには9条があるんだぞ!”と叫ばせればいい。敵軍が撤退したら9条は本物」とツイートしている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E7%94%B0%E5%B0%9A%E6%A8%B9

2 永遠の0

 (1)この映画でうれしかった点

 この映画でうれしかったのは、テーマが日本人の人間主義であったことです。
 百田自身は、「実際に日本がどのように世界と戦ったのか。おじいちゃん、おばあちゃんたちは、どんな思いで生きていたのか。あるいは戦ってきたのか、『永遠の0』によってそういうものに関心を持ち、知りたいと思う若い世代が増えていることは嬉しいです。それから、自分が今生きていることの素晴らしさに気づいてもらいたいという思いもあります。自分の人生は自分一人だけのものではないんだ、と。誰のために生きているのか、何のために生きているか、これを改めて知ってもらいたい。」(A・45頁)と述懐しています。
 この百田の言を聞いても、いや原作を読んでさえも・・私は読んでいないので想像ですが・・『永遠の0』のテーマを、家族愛やせいぜい部下への愛、といった風に矮小化して受け止める人も後述するように少なくない中で、テーマを最も的確に理解している例外的な存在が、主人公宮部の妻松乃役の井上真央
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E7%9C%9F%E5%A4%AE
です。
 彼女のこの映画評、「宮部さんの人を想う強さは魅力でしたし、それが彼の男らしさや責任感につながっているのだと思います。自分のためではなく誰かのためだったからこそ、彼はこれほどまでにいろんな人に「臆病者」だと言われても、自分の信念を貫くことができたのではないでしょうか。それは簡単なことではないですし、人のため、誰かのため、という想いは何ものにも勝ると思います。その強さを持っている宮部さんは、人としてもカッコいいし素敵です。・・・
 <この映画は、>誰が観ても愛を感じることができる、生命力の溢れる作品になっていると思います。この作品は、戦争映画と言うだけではなくて、人間の深い部分も描いているのが素敵です。・・・
 後世に伝えるべき作品に携わることができて本当に幸せでした。」(A・10頁)は、お見事の一言です。
 ここで重要なことは、人間主義の体現者たる宮部は、原作者の百田の空想の世界にだけ存在している人物では決してないことです。
 百田の、「宮部にモデルはいませんが、小説の出版後に元搭乗員の方とお会いする機会があり、何人もの方から宮部のような人はたくさんいたと伺ったんです。そう聞いたときは驚きました。」(A・45頁)という告白がその証拠です。
 
(続く)

太田述正コラム#6565(2013.11.10)
<映画評論40:インサイド・ジョブ(その5)>(2014.2.25公開)

5 映画公開による(?)改善点

 「<米国の>学術的な経済学者達の一つの指導的集団は、この専門職が2007〜2008年の金融諸危機を予想することに失敗しただけでなく、実はこれら諸危機を創り出すことを助けたのかもしれないとの批判に応えて、利益相反諸ルールを採用した。・・・
 多くの経済学者達は、自分達の正式な学術的営み(work)以外の、諸企業、諸政府、その他の諸集団のコンサルタントを務めている。
 この専門職の内外の批評家達は、しばしば儲かって、時々開示されることのない、これらの諸関係が経済学者達の営みに影響を与え、まず、迫りくる諸危機の兆しを見逃させ、次いで、経済全体の犠牲の下で彼らの顧客達に奉仕する政治的諸処方箋を推奨させてきたかもしれない、と主張してきた。・・・
 米経済学会(American Economic Association)は、・・・<2012年初の>年次総会で、経済学者達は、学術諸雑誌に上梓される諸論文には資金的諸関係(financial ties)その他の潜在的利益相反を開示しなければならない、という新しい諸ルールを採択した。・・・
 <この新諸ルールの>擁護者達(backers)は、かかる諸開示は、経済学者達が諸開示の内容でもって、彼らが行う助言を評価するために、政策決定者達と公衆双方に対してより多くの情報を与えることで、この専門職に対する信頼を回復することに資すると主張している。・・・
 2013年に実施されることが予定されているこの政策の下で、学術諸雑誌に諸論文を提出する著者達は、その学術雑誌の編集者達に対して、その研究のための全ての資金源、及び、全ての顕著な「資金的、イデオロギー的、或いは政治的利害関係(stake)を有する諸集団や諸個人との資金的諸関係」を開示しなければならない。
 この政策は、「顕著な」とは、過去3年間にわたる、合計で少なくとも10,000ドルの、著者及び直近の家族の構成員達に対する資金的支援を指す、と定義している。
 諸学術雑誌、具体的には、その編集者達が、「関連する(relevant)潜在的利益相反」とみなしたものを公開するわけだ。
 タテマエ上は、この政策は、米経済学会によって発行されている7つの学術雑誌だけに適用されるが、他の諸学術出版物もそれに倣う可能性が高い。
 この政策は、同じ諸原則を、ジャーナリストとのインタビュー、政府における証言、その他の非学術的営みにも適用するよう呼びかけている。・・・
 ・・・非学術的営みにおける開示への呼びかけは、拘束性はないけれど、とりわけ重要だ・・・。」(C)

→この映画が、このような改革をもたらした決定的契機になった可能性が高いと思われるところ、映画、というかドキュメンタリーの持つ潜在的な力の大きさを痛感させられますね。
 ところで、日本ではこの米国での話、報道された記憶さえありませんが、思うに、日本では、経済学者・・より広くはエコノミスト・・、ひいては経済学なる「学問」など、大して信用されていない、という、日本が米国に比べて、この点でははるかにまともな国であることを示唆しているのではないでしょうか。
 政府の審議会で「活躍」している経済学者や、TVでまことしやかに語る特定企業系のシンクタンクのエコノミストといった利益相反の塊のような人々の言など、そもそも、一般国民は、眉唾で聞き流している、と思いませんか?(太田)

6 出演者・出演拒否者

 「恐らく驚くべきことではないが、多くの最も注目を引き付ける位置にある人物達(players)は、<この映画のための>インタビューを受けることを拒否した。
 サマーズ氏は、ニュース映像の中に登場するだけだし、財務長官としての彼の前任者達や後任者達・・ロバート・E・ルービン(Robert E. Rubin)<(注23)(コラム#173、2850)>もヘンリー・M・ポールソン・ジュニア(Henry M. Paulson Jr.)<(注24)(コラム#1735、1845、2822、2850、2854、2863、2869、2933、3160、5659)>もティモシー・F・ガイトナーも・・ファーガソン氏の諸質問に答えようとはしなかった。

 (注23)1938年〜。ユダヤ系米国人(下掲の英語ウィキペディアには該当記述なし)。ハーヴァード大卒。ハーヴァード・ロースクールに入学するも3日だけ在籍、LSEで学んだ後、エール・ロースクール卒。
http://en.wikipedia.org/wiki/Robert_Rubin (()内を除く)
「<米>国の銀行家・財政家。ゴールドマン・サックス共同会長、国家経済会議(NEC)委員長、財務長官、シティグループの経営執行委員会会長を歴任した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%93%E3%83%B3 (()内も)
 (注24)1946年〜。ダートマス大卒、ハーヴァード・ビジネススクール卒。「<米>国の実業家。<米国防省を経て、>1999年から証券会社ゴールドマン・サックスの会長兼最高経営責任者(CEO)を務め、2006年から2009年までジョージ・ウォーカー・ブッシュ大統領の下で財務長官を務めていた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%BD%E3%83%B3

 ゴールドマン・サックス(Goldman Sachs)<(注25)(コラム#2850、2854、2899、3955、5659、6409)>や他の諸大銀行の最高経営者達も一人として・・。・・・

 (注25)「<米国>の金融グループであり、世界最大級の投資銀行である。・・・ドイツ出身のユダヤ系のマーカス・ゴールドマンによって1869年に設立された。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9

 インタビューされた人々の大部分は、少なくともこの映画の制作者の観点からは、友好的な証人達であって、過去20年間にわたって米国や他の先進資本主義諸国でビジネスが行われてきたやり方に対するこの監督の包括的批判の火に油を注いでいる。」(D)

⇒インタビューされた「善人」達の中に、セックススキャンダルで、ニューヨーク州知事を辞任したエリオット・スピッツァー(注26)(コラム#2424、4577、4771)と、IMF専務理事を辞任したストロス=カーン(注27)(コラム#4747、4749、4753、4755、4757、4793、4841、4843、4883)が含まれているのはご愛嬌です。

 (注26)Eliot Laurence Spitzer。1959年〜。ユダヤ系米国人。プリンストン大卒。「ニューヨーク州司法長官として、アナリストの中立性についてメリルリンチを追及。また、AIGの不正会計を追及し、同社のCEOとして君臨したモーリス・グリーンバーグを辞任に追い込むなどした。・・・、第58代ニューヨーク州知事に就任。次代の民主党を担う人材と目されていた。2008年3月12日、ニューヨークの高級売春クラブを利用し、数万ドルを支払ったという疑惑を指摘されたことから、辞任を表明した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%83%E3%83%84%E3%82%A1%E3%83%BC
 (注27)Dominique Strauss-Kahn。1949年〜。ユダヤ系フランス人。「経済学と政治学をパリ政治学院で、経営学をHEC経営大学院でそれぞれ学んだ。さらに公法で博士号・・・を・・・取得した。・・・フランスの経済学者、法律家、政治家。フランス社会党所属。しばしば頭文字をとって、DSKと呼ばれる。・・・1997年から1999年まで経済・財政・産業大臣・・・<また、>IMF専務理事を務めた(2007年11月1日〜2011年5月18日)。・・・2011年5月14日に訪問先のニューヨーク市において性的暴行容疑で逮捕・訴追された。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%9F%E3%83%8B%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AD%E3%82%B9%EF%BC%9D%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%B3

 ストロス=カーンはフランス人ですが、どうも、金融界という投機の世界に関わりのある人々は、少なくとも欧米では、カネの亡者であることはもとより、女(とヤク?)に目がない人物が多いようです。
 私の目からは、ファーガソン的観点からの「悪人」も「善人」も、同じ穴の狢に見えるのですが・・。
 また、金融界の重鎮にユダヤ系が多いことにも改めて驚かされます。
 欧米諸国の反ユダヤ主義のおかげでキリスト教的には「賤業」たるに金融業等に特化せざるをえなかった期間が長かったという痛ましい歴史をいまだにユダヤ人が引きずっているという感があります。(太田)

7 終わりに

 以上、ブッシュ、オバマ両政権を、(茶会のような「極右」の攻撃に対してはもちろんですが、)この映画の制作者/監督であるファーガソンやナレーターのデイモンらのような「極左」の攻撃に対して擁護する、という立場で論じてきたわけですが、実は、この両政権、思われているほど政策が大きく違うわけではありません。
 「ブッシュのもともとの看板(mandate)は慈悲深い保守主義(compassionate conservatism)だった。
 クリントンが中道から<左に>ずれていた<民主党の>伝統から離れようとしたのと同様、ブッシュは<右にずれていた>共和党<の伝統から>離れようとしたのだ。・・・
 <換言すれば、>ブッシュは大きな政府<を支持する>保守主義だったのだ。・・・
 オバマは、ブッシュの第一期に反対して始まり、ブッシュの第二期を継承して終わりつつある。・・・
 <例えば、>ブッシュは、彼の第二期の大統領就任演説で、世界中の専制(tyranny)を終わらせようと呼びかけたが、それは民主党によってマネされたり採用されたりはしなかったが、そのことは、共和党にさえあてはまるのだ。」
http://www.washingtonpost.com/blogs/wonkblog/wp/2013/11/07/why-did-we-go-to-war-in-iraq-an-interview-with-peter-baker/?print=1
(11月9日アクセス)
 しかし、クリントン、ブッシュ、オバマと中道へと収斂してきた米行政府は、現在、「極右」と「極左」の攻撃に晒され、米議会が、共和党も民主党も、それぞれ「極右」、「極左」に拝跪するに至ったため、両党が何事によらず妥協ができず、機能停止状態に陥ってしまっており、行政府もそのあおりをくらい、米国政府の権威の失墜を招いています。
 私には、それには、オバマ自身の責任も大きいのではないか、という気がし始めています。
 「<初めて大統領選に出馬した時に>オバマが集めた6億ドルもの選挙資金の半分はゴールドマン・サックスやハリウッドの類からだが、残りの半分は初めて献金した、そのうちの多くは初めて投票する人々から<インターネットで>集めたもの」(コラム#2899)と、資金提供の筆頭にゴールドマン・サックスが来ていたことを思い出してください。
 オバマが経済政策、就中金融政策の主要担い手達をブッシュ政権から継承したということは、医療保険改革への布石というよりは、現在、米国行政府が、金融界に牛耳られていることの現われ以外の何物でもない、と見るべきであるのかもしれない、ということです。
 金融危機ですっかり米国民の信用を失った金融界が牛耳るオバマ政権に対する米国民の過半の違和感を、増幅させ、歪めた形で、「極右」と「極左」が代弁した結果が、現在の米国における政治の混迷であるとすれば、全球的覇権国たる米国の過早な失権をもたらしかねない事態を出来させたオバマに、彼が大統領候補者であった頃から、入れ込んできた私の不明を恥じなければなりますまい。

(完)

太田述正コラム#6561(2013.11.8)
<映画評論40:インサイド・ジョブ(その4)>(2014.2.23公開)

 ・・・ファーガソン氏は、(<映画>『資本主義--愛の物語(Capitalism: A Love Story)』のムアー(Moore)氏<(コラム#502、1784、4991)>とは違って、)2008年における不良債権買取プログラム(TARP)<(注21)>その他の企業への諸資金援助については、何の苦情もないようだ。
 恐らくは、市場への政府のあらゆる介入は最善を期してのものに違いないということなのだろうが、それは、資金援助を受ける側の誰も牢屋に行かず、また、彼らの大部分が不正手段で得た何百万ドルを返さなくてよいという前提の下で行われたものだ。

 (注21)Troubled Asset Relief Program。「金融機関や年金基金、地方政府などが抱える不良資産を買い取り、米住宅バブルの崩壊に端を発した世界的な金融危機への対処を目指<した[2008年10月]のプログラムないしはそれを規定した法律>。金融市場への政府介入としては1930年代の世界大恐慌以来、最大規模<であり、>当初の買い取り資金枠は2500億ドル。最大7000億ドル・・・の公的資金投入を可能とする<内容>。」
http://www.afpbb.com/articles/-/2522658?pid=3383947
http://en.wikipedia.org/wiki/Troubled_Asset_Relief_Program ([]内)

 もちろん、ここでファーガソン氏に同情することはできる。
 彼は、諸資金援助は、思い返してみれば、悪い連中のかくも気違いじみた諸リスクを犯すというふるまいを、この諸リスクが納税者にとってのみ不利に働く結果となったことで、合理的なふるまいにしてしまったことに殆んど気付いていないのだ。
 もし、金融諸機関が、彼らがそうしたように、彼らの諸リスクを、他の人々或いは納税者に転嫁(shift)することができるのであれば、理論上は、リスクが彼ら自身にとってのみ増大すべきであったことの帰結である、とは本質的に言えない。
 <だから、>「規制緩和」が非難されなければならないというのはナンセンスなのだ。
 同じことが、ファーガソン氏によって見極められた有罪の奴ばら達であるところの、一般的には「諸デリバティブ」、そして、とりわけ、「諸CDS」、についてもあてはまる。
 彼は、諸デリバティブは諸市場を不安定にすると我々に告げるが、この命題に対して、何の証拠も提示されない。
 <そもそも、>諸市場、とりわけ住宅市場と抵当市場は、いずれにせよ不安定であって、それは諸デリバティブとは何の関係もない諸理由によるのだ。
 しかし、彼らは、自分達の自己満足のために「規制緩和」こそ全目的的身代わり鞭打たれ少年であるということにした結果、デリバティブが規制緩和で創り出された包括的悪の中に入っているに違いないということを示唆するためには、それが「規制されていない50兆ドル産業」である、ということを言えば足りるのだ。
 ファーガソン氏が、抵当権付(mortgage-backed)の諸債務担保証券(collateralized debt obligations =CDO)の発行者達について、「債権者達にとっては、人々が」自分達の「諸ローン」を返済できるかどうかなどどうでもよかった、と言うのが仮に正しいとしても、それは、糾問を舞台裏へと広げさせるだけ(、或いは広げさせるはず)だ。
 <そもそも、>どうして、債権者にとっては自分のカネが返済されるかどうかなどどうでもよかったのだろうか。
 ファーガソン氏は、<それがどうしてか、>分かっていないし、考えようともしていないようだ。
 同様、この映画が、ムーディーズ、スタンダード・アンド・プアーズ、そしてフィッチ、という格付け諸会社を、「有毒(toxic)諸資産」であることが判明することとなる諸CDDにインチキなトリプルAを与えたことで非難するのは、疑いもなく、全く正しい。
 しかし、どうして、彼らはこんな、自分達がお払い箱になってしまうようなことをやったのだろうか、また、これらの格付けに依存していた人々が自分達がだまされていたことを発見するのにかくも長い期間がかかったのだろうか。
 このような疑問は、殆んど詳しく追及されていない。
 <詳しく追及していたならば、>その<結果得られた>諸解答は、我々がそれらを持っておれば、我々の諸問題全てを解消していたであろう政治的動機に基づく魔法の杖であるところの、より増大する規制と高い諸税金、<という考え方に対して、>思うに、疑問を生ぜしめていたであろうに・・。
 また、諸CDSについても、自分が所有していないものさえをも含むあらゆるものに発散的にかける(take out on)ことができる保険であって、その結果、保険会社にとってはリスクが当然増大する代物である、と<この映画では>説明される。
 しかし、それらが正しく使われた場合にリスクを管理する手段に過ぎないところの与信諸手段(credit instruments)それ自体ではなく、どうして、保険会社、この場合はAIG<(注22)>が、そのリスクをを納税者に転嫁することができたか、こそがここでの実体的な話なのだ。

 (注22)「アメリカン・インターナショナル・グループ(American International Group, Inc., AIG)は、<米>国ニューヨークに本拠を置く保険会社。・・・米経済誌『フォーブス』が2007年3月29日に発表したForbes Global 2000(世界優良企業2000社番付)2007年版では全業種通算で世界第6位に、保険セクターでは第1位にランキングされてい<た>。・・・2007年にアメリカでサブプライムローン問題による金融危機が起こった。AIGもサブプライム関連の金融商品を抱えていたため例外ではなく、住宅価格の低下や金融商品の格下げの影響を受け多額の損失を抱えた。損失額は2008年通期で992億9000万ドルとなり、<米>企業史上最大の赤字額となった。・・・FRBは・・・AIGの資産を担保とし、最大で850億ドルを融資することを決定した。また、これと引き換えに、<米国>政府がAIGの株式の79.9%を取得する権利を確保し、政府の管理下で経営再建が行われることとなった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97

 それが米国の人々に対する巨大な信用詐欺になったとすれば、それは、真の保険業者、ないしは再保険業者が、実はあなたや私であったからなのだ。
 どうしてそんなことが起こったのだろうか。
 この、公衆(public)の損失の下での巨大な私的諸利得についての<皆さんの>諸苦情は、自分達自身の愚かさと放蕩(profligacy)のツケを払うよう仕向けられるべきであった者達に資金援助したところの、ブッシュ、オバマ両政権及び米議会内の民主・共和両党の圧倒的多数派等に向けられなければならないのだ。
 (規制緩和を通じて!)市場にそれ自身の規律を行使させることに消極的である以上は、我々の政治階級が、何十億、いや何兆ドルを受け取った者達に対していかなる懲罰を与えることにも消極的であったことは予見通りのことだったのだ。」(G)

→世界一の保険会社を倒産させたら、その影響は計り知れないのであって、米国の行政府と立法府が一丸となって、公的資金を投入してこの保険会社を一時国有化した判断は正しかったと言うべきでしょう。
 もとより、AIGの経営者達に何らペナルティが課されなかったとすれば、確かにそれは問題ですが、そんなことは、本質的な話ではありえません。(太田)

(続く)

太田述正コラム#6557(2013.11.6)
<映画評論40:インサイド・ジョブ(その4)>(2014.2.21公開)

 「<アメリカン・スペクテーター誌による批判は次の通りだ。>
 <関係者の>全員が有罪だと言うのであれば、それは、全員が無罪だ、ということだ。・・・
 <この映画は、>ファーガソンのうわべだけの主題と少なくとも若干の関係があるかもしれないところの、幹部への過度の報酬<の支払い>から始まり、米国の製造業の基盤の衰退、学生達にとってより高い授業料をもたらした公立諸大学への資金提供の減額、(いわゆる、)初めての、興隆しつつある米国人の世代が彼らの両親達よりも経済的に窮乏するとの事実、そして不可避的に、富者に有利であるとされる連邦租税政策、へと<話が>移って行く。・・・
 2008の金融危機は、経済における金融部門への不十分な政府規制が原因で生じたというのだが、これは経済的主張というよりは、ふてぶてしいばかりの政治的主張だ。
 それは、何よりも、それに寄与したいくつもの原因の中から、政治的左派の心にとって大事なもの一つだけを選び取り、残りの全てを無視しているのだ。
 しかも、ファーガソン氏によって無視された諸原因のうちのいくつかが、誤判断に基づく、誤管理または腐敗したリベラル的であるところのな諸措置、ないし、ファニー・メイ(Fannie Mae)<(注10)>及びフレディー・マック(Freddie Mac)<(注11)>のよう諸機関、を通して生じたことを我々は知っている。

 (注10)「連邦住宅抵当公庫(・・・Federal National Mortgage Association, FNMA)は、<米国>の金融機関。ファニー・メイ(Fannie Mae, 以下、本文中に用いる)の通称が広く浸透している。1938年、<米>国内の住宅供給の安定化を目的とした特殊法人(GSE 政府援助法人)として設立。大恐慌後の経済対策<の一環として、>銀行のバランスシート上の不動産貸付債権を買い取って、不動産融資をしやすくし、マイホーム保有を促進するのが目的だった。 当初は政府系金融機関であったが、1968年に民営化され、ニューヨーク市場等に上場。1977年に民主党・・・カーター政権と議会は「地域再投資法」を成立させ、低所得層の住宅保有を促進するために、業務の拡大を支援した。主要な業務は、民間金融機関に対する住宅ローン債権の保障業務。サブプライムローン問題が問題化するまでは、ファニー・メイ発行の証券は政府機関債と見做され、米国債に次ぐ高い信用力を保っていた。だが、2006年には、98年から2004年にかけてのデリバティブ評価額の不正操作(約60億ドルの利益水増し)により、旧経営陣が不当に高額賞与を得ていたとして提訴されている。また、2007年にはいわゆるサブプライムローン問題が起き、約21億ドルの損失計上となった。・・・米政府の管理下<で、>普通株と優先株の配当が停止され<るに至っ>てい<たが、>2010年7月・・・ニューヨーク証券取引所の上場を廃止。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%A3%E9%82%A6%E4%BD%8F%E5%AE%85%E6%8A%B5%E5%BD%93%E5%85%AC%E5%BA%AB
 (注11)「ファニーメイ・・・と役割はほぼ同じ。ニューヨーク証券取引所上場の民間企業だったが、2010年7月に上場廃止となった。政府設立の民間企業であり、金融機関の住宅ローン債権を保証するのが主業務。共和・民主を問わず、国民に住宅を持たせることは、世界恐慌の頃から<米国>の国策だった。国策会社として巨大な金融機関へと成長したが、返済能力が低い低所得者の住宅ローン債権を保証していたため、金融危機によって経営危機に陥り、国有化された。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%A3%E9%82%A6%E4%BD%8F%E5%AE%85%E9%87%91%E8%9E%8D%E6%8A%B5%E5%BD%93%E5%85%AC%E5%BA%AB

 例えば、バーニー・フランク(Barney Frank)<(注12)>は、『インサイド・ジョブ』の中で、いい奴の一人として登場する。

 (注12)Barnett "Barney" Frank。1940年〜。民主党下院議員:1981〜2013年。全米で最も有名な同性愛者たる政治家。ハーヴァード大卒、ハーヴァード・ロースクール卒。
http://en.wikipedia.org/wiki/Barney_Frank

 彼は、米議会の中でウォール街の金融的悪行を炙り出す日々をずっと送ってきた、と我々は信じ込まされる。
 彼の、米議会における、ファニーとフレディー・・この二つは納税者のカネを失わせ続けている・・に係る、相も変らぬビジネス(と政治資金)の中心的チャンピオンとしての役割への言及は全くなされない。
 この本では、ファニーとフレディーは、単に、「崩壊の危機にある二つの巨大な抵当貸付者」と描写される。
 民主党への政治資金提供の搾乳牛群としての立場(status)はもとより、<この映画の冒頭に登場する>アイスランドの諸銀行が「規制緩和」の前の旧き良き日々においてそうであったのと全く同様に、この二つの<機関の、>政府によって資金を供給された諸事業体としての立場に関する言及は全くなされない。
 
→経済に問題が生じた時は、その原因は、(原理主義的)市場の失敗にではなく、(肥大した)政府の失敗にある、という決まり文句は、米共和党特有のものです。(太田)

 しかし、マット・デイモンがナレーターを務める映画から、そうではないものを期待する方が野暮というものだろう。
 知的首尾一貫性と正確性の喪失は、いわゆる規制緩和の極悪(villainy)に対する増大した焦点の絞り込みによって埋め合わされる。
 いかなる種類のものであれ、かつて規制緩和を擁護したことのある政府の専門家ないしは経済学の専門家は、<ことごとく、>この極悪の片割れにされる。
 しかし、この映画で名指しされた唯一の実際の規制緩和策は、1999年におけるグラスースティーガル法(Glass-Steagall Act)<(注12)>の破棄だ。

 (注12)「1933年に制定された<米>国の連邦法である。連邦預金保険公社(FDIC)設立などの銀行改革を含む。いくつかの条項はレギュレーションQのような投機の規制を行うように設計されていた。それについては預金口座の金利を管理する連邦準備制度理事会(FRB)が1980年・・・によって無効を認めた。また、銀行持株会社による他の金融機関の所有を禁止する条項は、・・・1999年11月12日に廃止された。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%82%AC%E3%83%AB%E6%B3%95

 あのみんなのジョージ・ソロス(George Soros)<(注13)>が、我々に、そのどこが間違っているのかを教えてくださる。
 彼は、石油の水防仕切り<壁で囲まれた>槽をいくつも持っている石油タンカーの方が、油を全部一纏めにしたものよりも船が不安定化しにくい、という譬えでもって説明する。

 (注13)1930年〜。「ハンガリー・ブダペスト生まれのハンガリー系およびユダヤ系<米国>人の投機家・投資家・ヘッジファンドマネージャー。・・・哲学者、慈善家、自由主義的な政治運動家でもある。自身を「国境なき政治家」と称す。・・・2011年1月26日、ファンドでの投資活動から引退したことを明らかにした。・・・1979年に始まる慈善事業への寄付金総額は、2011年までに80億ドルを超えた。」英LSE卒。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%BB%E3%82%BD%E3%83%AD%E3%82%B9
 
 彼の言いたかったことは、恐らく、高リスク追求者達に与えられた諸機会が増大し、それがリスクの増大を意味した、ということなのだろう。
 しかし、この高リスク追求の増大が危機を生み出したはずはない。
 増大したリスクは、増大した報酬も生み出したわけだし、金融危機はリスクの増大よりも減少、ないしは、どちらかと言えば、金融諸機関によってとられたところの、リスクの社会化によって拡大させられたのだ。

→またしても、市場の失敗ではなく政府の失敗である、という陳腐な決まり文句の登場です。(太田)

(続く)

太田述正コラム#6555(2013.11.5)
<映画評論40:インサイド・ジョブ(その3)>(2014.2.20公開)

 (4)経済学者

 「ビジネス界<(金融界)>と政府<(/金融行政)>に加えて、ファーガソン氏は、経済学という学問分野、及び、コンサルタント料、取締役会の席、更には少ないとは言えない著名な経済学者達が、宇宙マスターズ(masters of the universe)クラブの会員権<(注7)>によって腐敗しているということを示唆しつつ、<経済>学界への批判に狙いを定める。」(D)

 (注7)masters of the universeは、全世界を風靡したエロ小説のFifty Shades of Greyの前身たるネット小説のタイトル
http://en.wikipedia.org/wiki/Fifty_Shades_of_Grey
なので、高級売春クラブの会員権の趣旨だと考えられる。

 「恐らく、この映画の最も扇情的な側面は、ファーガソンの、この恐慌は経済学という学問分野それ自体を腐敗させた<・・「経済学という学問分野それ自体の腐敗も原因の一つだ」の誤りでは?(太田)・・>、との主張だろう。
 米国のアイビーリーグの諸大学の著名な経済学者達が、諸銀行によって、無謀な規制緩和を追従的に支持する諸報告書を作り上げるために、徴用された。
 この種のコンサルタント業に対して、彼らは巨額の報酬を受け取ってきた。
 諸銀行は、学者達の名声を、そして彼らの諸大学の名声も、買ったのだ。
 ファーガソンは、これらの経済学者達の多くと話をする。
 彼らは、しかつめらしい顔をした(wry)冷静な(dispassionate)観察者達としてインタビューされると思っていたことが明らかだ。
 お白洲に引きだされていることに気付いた彼らの顔に現れた衝撃、憤怒、そして恐怖の諸表現を見るのは、まことにもってちょっとしたものだ。
 ある者は不快感を露わにしてツバキを飛ばす。
 また、ある者は、フロイト的失言(slip)をぶちまける。
 ファーガソンから、自分がやったことで遺憾に思っていることはあるかと聞かれた時、彼は、「私にはコメントはない…ウーム、遺憾に思っていることはない」と言ったものだ。
 これぞ、ファーガソンが<この映画、>「内部犯行(inside job)」で描こうとしているものなのだ。
 諸銀行と政府の上層部との間には、そして、ある程度は、大学の世界(the groves of Academe)との間にも、<天上がり、天下りの>回転ドア(revolving door)が存在する。
 <そして、>銀行の頭取達が政府の役人達となり、自分達の、かつての、そして将来の雇用者達にとって都合のよい諸法を作り上げるのだ。」(F)

→米国の気鋭の経済学者達のカネの亡者的醜悪さを、直接肌で感じ取ることができるだけでも、彼らに対するインタビューを含むところの、このドキュメンタリー映画は鑑賞に値します。
 こういったことの根源にある問題として、市場原理主義的で非人間主義的な米国の経済学そのものの科学性が問われなければならない、そのためにも、米国や米国系の経済学者の間で盥回し的に受賞されている、ノーベル経済学賞の廃止、いや、少なくとも、当分の間の授与停止が強く望まれる、と私は考えます。(太田)

4 ファーガソン批判

 では、これら一切合財<の問題>について、一体どうすればよいのだろうか?
 ファーガソンには、アル・カポネ(Al Capone)<(注8)(コラム#3074、3464、3473、3775、3945)>が脱税で摘発されたように、銀行家達がシステム的に麻薬と買春の中毒になっているという諸噂をもとに、彼らを法的に突き殺す(stick)域まで持っていくことができれば、という、ほのかに非啓蒙的な(unedifying)ヒント<こそ提示するものの、それ>以外には、答えを示していない。」(F)

 (注8)1899〜1947年。彼が所得税の脱税で有罪とされた話は余りにも有名。
http://en.wikipedia.org/wiki/Al_Capone

→ファーガソンが示唆するところの、投機と麻薬と買春の親和性は、映画評論子達によってもっと掘り下げた形で取り上げて欲しかった点です。
 もっとも、これは、金融界にとどまらず、米国全体の問題なのかもしれません。
 後ほど、再度言及したいと思います。(太田)

 保守系の政治誌であるアメリカン・スペクテーター(The American Spectator)<(注9)>は、この映画は、知的に首尾一貫せず、不正確であるとし、ファーガソンが「[自分]より右の経済的・政治的諸見解[を持ったところ]の多くの悪い人々」に<一方的に>責任を負わせている、と非難した。

 (注9)1960年代の学生運動の猖獗に対する対案を提示する目的で1967年に創刊。英国のThe Spectatorに類似したスタンスをとる。1990年代にクリントン大統領の不祥事の追及をしたことで有名。
http://en.wikipedia.org/wiki/The_American_Spectator

(続く)

太田述正コラム#6551(2013.11.3)
<映画評論40:インサイド・ジョブ(その2)>(2014.2.18公開)

 (2)政治

 「米国の<民主、共和の>二つの政党は、<この映画では、>どちらも告発されている。
 『インサイド・ジョブ』は、単に、ブッシュ氏と彼の補佐官達に対して、再度遅きに失した決着をつけようというものではない。
 もとより、<この映画の中で、>彼らは、無視されているどころではないが・・。
 政府による監督(oversight)の規模縮小と銀行による投機的活動へのチェックの弱化はレーガンの下で始まり、クリントン政権の間続けられた。
 また、この二つの政権のどちらにおいても、デリバティブ(derivative)<(注2)>の市場は拡大し、このタイプの投資の危険に関する警告は無視された。」(D)

 (注2)「デリバティブとは伝統的な金融取引(借入、預金、債券売買、外国為替、株式売買等)や実物商品・債権取引の相場変動によるリスクを回避するために開発された金融商品の総称である。<そ>の原義は「派生したもの」で、金融派生商品ともいう。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%AA%E3%83%90%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%96

 「デイモン(Damon)<(注3)>は、はっきりと、オバマは、規制緩和を推進した金融界の幹部達を、かくも多く雇い、ウォール街の幹部達に対して刑事手続きを追求するよう連邦準備制度理事会に働きかけることを怠った、と決めつける

 (注3)マット・デイモン(Matt Damon。1970年〜)。米国の俳優、脚本家。ハーヴァード大中退。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%A4%E3%83%A2%E3%83%B3

 デイモンは、オバマの<大統領>選挙運動に加わった<人物な>のだが、最近、<オバマの>「健康保険案とアフガニスタンにおける部隊増強にはがっかりした」とも語っている。
 このドキュメンタリー映画は、民主党系のセレブ達が、彼らが選ばれるのを助けた男に対してより厳しくあたろうとしている、もう一つの証なのかもしれない。」(E)

 「<この映画を鑑賞すると、>レーガン(自身を含む)以降の大統領・・・全員がこの経済危機に寄与した点で有罪のように見えてくる。
 もっとも、子供の方のブッシュ大統領は、デイモン達の経済観に照らし、左翼でないことから、当然、残りの諸大統領に比してより罪が重い<とされている>。
 オバマ大統領でさえ、十分左翼ではないことについて有罪であるとされるのだ。
 その関連で、<バーナンキ連邦準備制度理事会議長(注4)(コラム#2226、2933、3532、3677、4387、5879、6117)を留任させたこと(この映画))や、>・・・ラリー・サマーズ(Larry Summers)<(注5)(コラム#600、638、639、2940、3450、4611、5675)>とティモシー・ガイトナー(Timothy Geithner)<(注6)>を自分の経済チームに加えたこと、は偶然の一致ではないとされるのだ。」(G)

 (注4)ベンジャミン・シャローム “ベン” バーナンキ(Benjamin Shalom “Ben” Bernanke。1953年〜)。ユダヤ系米国人。ハーヴァード大卒、MIT博士。スタンフォード大ビジネススクールを経てプリンストン大教授。大統領経済諮問委員会委員長を経て2006年2月に連邦準備制度理事会議長就任、2010年1月再任されたが、上院で、信任投票が始まった1978年以降、70対30と最大の反対票を集めた。「FRBによる通貨の供給不足が1930年代の大恐慌の原因だとするミルトン・フリードマン教授の学説の信奉者」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%82%AD
 (注5)ローレンス・ヘンリー・サマーズ(Lawrence Henry Summers。1954年〜)。米国の経済学者、政治家。クリントン政権後半期に財務長官を務めた(1999年〜2001年)た後、ハーヴァード大学長を経て、2009年、オバマ政権の国家経済会議(NEC)委員長に就任(2010年末に辞任)。ユダヤ系米国人であり、いずれもノーベル経済学賞を受賞したところの、ポール・サミュエルソンは父親の兄弟、ケネス・アローは母親の兄弟。MIT卒、ハーヴァード大博士。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%BA
 (注6)ティモシー・フランツ・ガイトナー(Timothy Franz Geithner。1961年〜)。官僚、銀行家、政治家。財務長官。「財務省で13年間勤務した経験を持ち、2003年から2009年までニューヨーク連邦準備銀行総裁を務めた。ダートマス大卒、ジョンズホプキンス大SAIS国際経済学修士。・・・オバマ新大統領に財務長官に指名されたが、国際通貨基金(IMF)に勤務していた当時、社会保障関連などの納税を怠ったことが問題視され、上院での採決は、60対34と、反対票が異例に多かった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%A2%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%84%E3%83%BB%E3%82%AC%E3%82%A4%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%BC

→オバマが、ブッシュ政権の国防長官だったロバート・ゲーツ(Robert Gates)・・共和党員ではない・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%84
を留任させたのは、オバマがブッシュ政権の対イラク戦争等に批判的であっただけに、イラクからの米軍の撤退を実現するためには、共和党支持層からの当たりを和らげる必要があるからだ、と私は考えていましたが、オバマが、ブッシュ時代の経済政策を担った人々、つまりは、金融危機のいわば戦犯達を引き続き登用したことについては、余り意識していませんでした。
 それだけに、この映画のオバマ批判は衝撃的でしたが、このような批判は的外れであるとは言わないものの、いささか厳しすぎると思います。
 デイモンは、オバマの健康保険法案を批判していますが、そんな、欠陥だらけの<国民皆>保険案・・現在は「案」がとれています・・でさえ、その施行延期を求めて、下院共和党が、政府機関の一部を閉鎖させ、すんでのところで、米国をデフォルトさせるところまで抵抗したことを考えれば、そういう事態を想定したオバマが、共和党支持層対策として、(ブッシュ時代の国防政策を担ったゲーツを登用したように、)ブッシュ時代の経済政策を担った、バーナンキ、サマーズ、ガイトナー等を、あえて登用した、と見るべきだからです。
 それにしても、右には茶会、左にはデイモンような狂信的民主党支持者に挟まれたオバマに、私は同情を禁じ得ません。(太田)
 
 (3)金融界

 「良い時代が転がって進んで行った。
 諸銀行は膨張した。
 諸銀行は、トレーダー達に、リスクを取る豪放さ、企業への忠誠、そして神経症的に駆動された利潤追求を奨励するために、驚くべき額の諸ボーナスを提供した。
 ファーガソンは、枢要なことは、銀行がCDS・・この種の保険証券群を好きな数だけ特定のリスクに対して購入することができた・・でもって悪い債務に保険をかけることが認められたことだ、と主張する。
 ぞっとするのは、諸銀行が、今や、自分達自身にこの種の諸スワップでもって豪快に保険をかけていたことから、気違いじみてリスクの高い諸商品を売ることに既得利益を持つに至ったことだ。」(F)

 「<すなわち、>いくつかの投資銀行家達・・ゴールドマン・サックス(Goldman Sachs)の連中が特にそうだ・・は、自分達の顧客達に推薦していた諸ポジションとは反対の賭けをするようになった。
 <そして、>精巧だが不安定な構造が、消費者向け諸ローンが纏められて諸証券にされ、諸銀行によって金を支払われた格付け諸機関が健全なものとお墨付きを与え、次いで、CDSでもって保険をかけられる、という形で構築された。
 <こうして、>一つ一つのリスクの高い賭けが次から次へと積み上げられた結果、後から考えれば、職、住宅、年金、そして政治的信頼、の喪失とともに、大伽藍が崩れ落ちることは不可避だったのだ。」(D)

(続く)

太田述正コラム#6549(2013.11.2)
<映画評論40:インサイド・ジョブ(その1)>(2014.2.17公開)

1 始めに

 半年以上映画評論コラムを書いていなかったこともあり、本日のディスカッションで言及した映画、『インサイド・ジョブ 世界不況の知られざる真実』(原題: Inside Job)を急遽取り上げることにしました。
 制作(2人のうち1人)・監督はチャールズ・ファーガソン(Charles H. Ferguson)です。
 2010年にアカデミー賞長編ドキュメンタリー映画賞を受賞した(A)ことを含め、この映画の存在が今まで私のレーダーにひっかからなかったことは面目ないことである、と思っています。
 
A:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%96_%E4%B8%96%E7%95%8C%E4%B8%8D%E6%B3%81%E3%81%AE%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%96%E3%82%8B%E7%9C%9F%E5%AE%9F
B:http://en.wikipedia.org/wiki/Inside_Job_(film)
C:http://online.wsj.com/news/articles/SB10001424052970203436904577148940410667970
D:http://movies.nytimes.com/2010/10/08/movies/08inside.html?_r=1&pagewanted=allEhttp://www.vulture.com/2010/05/is_matt_damons_narration_of_a.html?imw=Y&f=most-viewed-24h10
F:http://www.theguardian.com/film/2011/feb/17/inside-job-review
G:http://spectator.org/archives/2010/11/03/inside-job

 ちなみに、ファーガソン(1955年〜)は、サンフランシスコ生まれで、カリフォルニア大バークレー校卒(数学)、MIT博士(政治学)で、映画制作会社経営者、ソフトウェア事業家、著述家、テクノロジー政策専門家、という人物です。
http://en.wikipedia.org/wiki/Charles_H._Ferguson

2 総論

 「<リーマン・ショックを始めとする世界金融危機>はどのように起きたのだろうか?
 ファーガソン氏は、陰謀論者ではない。
 彼は、構造的ないしシステム的諸説明をやろうともしていない。
 <というのも、>諸市場は、地殻変動するプレートのように、自分自身で変化するわけではない<からだ>。
 <すなわち、>見える手(Visible hands)が諸法を立案し取引をするわけであり、本件の場合、歪められた(warped)諸価値と集団思考(groupthink)の組み合わせが、極めて知的能力の高い人々・・しかもその大部分は男性・・を愚行へ駆り立てたように見える。」(D)

3 責任者達

 (1)金融行政

 「1980年代において、諸市場と金融諸サービスが規制緩和(deregulate)されたが、この自由化の中心となったのはアラン・グリーンスパン(Alan Greenspan)<(コラム#1145、2069、2559、3703、3955、4807、6117、6526)>だった。
 彼は、1987年から2006年にかけて、米連邦準備制度理事会の恐るべき議長を務めた。
 <規制緩和の結果、>諸銀行と融資諸企業は自分達の預金者達のお金をより自由に投機に使うことができるようになったし、借金をするのもより自由になったし、涎の出そうな高利回りを提供する、いわゆる「サブプライム」<(注1)>市場が高リスク借金者達に提供された高利の住宅融資等の、異なった<種類の>諸債務が束ねられたものから生じる所得の流れを伴うところの、くらっとするくらい複雑な金融諸手段(instruments)を提供するのも自由になった。」(F)

 (注1)「主に<米>国において貸し付けられるローンのうち、サブプライム層(優良客(プライム層)よりも下位の層)向けとして位置付けられるローン商品をいう。通常の・・・ローンの審査には通らないような信用度の低い人向けのローンである。狭義には、住宅を担保とする住宅ローンを対象とするが、広義には、自動車担保など住宅以外を担保とするものを含む。一般的に他のローンと比べて債務履行の信頼度が低く、利率が高く設定される。これらのローン債権は証券化され、世界各国の投資家へ販売されたが、米国において2001〜2006年ごろまで続いた住宅価格の上昇を背景に、格付け企業がこれらの証券に高い評価を与えていた。また、この証券は他の金融商品などと組み合わされ世界中に販売されていた。しかし、2007年夏ごろから住宅価格が下落し始め、返済延滞率が上昇し、住宅バブル崩壊へと至る(サブプライム住宅ローン危機)。これと共にサブプライムローンに関わる債権が組み込まれた金融商品の信用保証までも信用を失い、市場では投げ売りが相次いだ。この波紋から2008年終盤にはリーマン・ブラザーズ倒産によるリーマン・ショックなどが引き起こされ、高い信用力を持っていたAIG、ファニーメイやフレディマックが国有化される事態にまで至った。その後も幾度もの大幅な世界同時株安が起こった。この事から世界中の金融機関で信用収縮の連鎖がおこり、CDSと並び、世界金融危機 (2007年〜)発生の種をまいた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%96%E3%83%97%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%A0%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%B3
 「クレジット・デフォルト・スワップ (Credit default swap、CDS) とは、クレジットデリバティブ(信用リスクの移転を目的とするデリバティブ取引)の一種であり、一定の事由の発生時に生じるべき損失額の補塡を受ける仕組みをとるもの。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%82%B8%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%AF%E3%83%83%E3%83%97

(続く)

太田述正コラム#6166(2013.4.24)
<映画評論39:マリー・アントワネットの首飾り(その5)>(2013.8.9公開)

 ここで、4月15日に起こったボストン爆破事件にからむ挿話を一つご紹介しておきましょう。
 フレンチ・インディアン戦争による財政危機の解消を目的として、英本国が英領北米植民地に課税しようとしたために、植民地で反税闘争が行われていた最中の1770年3月・・独立革命が始まるのは1775年・・に、ボストン駐留英軍に対する数百名のボストン市民による示威運動が起こり、英軍に対して雪の塊や岩を投げつけたので、英軍が発砲し市民5人が死亡するという、いわゆるボストン虐殺(Boston Massacre)事件が起きました。
 指揮官の大尉とかれの部下の兵士達が植民地政府によって起訴された時、彼らの弁護士になろうとする者が誰も現われなかった時に、ジョン・アダムズ・・後に米第2代大統領
< http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%80%E3%83%A0%E3%82%BA >・・が決死の覚悟で彼らの弁護を買って出、この大尉のほか兵士6名は無罪となり、残りの兵士は過失致死(manslaughter)の罪で親指にmの焼き鏝を押し付けられる刑に処せられています。
http://www.aclu.org/national-security/john-adams-and-boston-massacre
 ここから分かるのは、いかに英国臣民の自由ないし(手続き的権利を含む)権利が、英国の僻地においても確立していたか、です。
 (こんな状況下で、政府側が兵士達を起訴したこと自体が驚異です。)
 これを、フランス革命の始まりとされる、1789年7月のバスティーユ襲撃(Storming of the Bastille)と比べてみてください。
 「<廃兵院で小銃を奪った>群衆<によるバスティーユ牢獄>襲撃が始ま<り、>恐怖にとらわれた守備兵が発砲して・・群集側には98人の死者、73人の負傷者が出<、>・・・守備隊側<に>は、・・・死者1名、負傷者3名<が出た。>・・・<その後、パリ>市庁舎・・・で、<バスティーユの司令官>は、・・・殺され、首を刎ねられた。3人の士官と3人の守備兵も、司令官と同じ運命を辿った。さらに市長・・・も、・・・射殺され、首を刎ねられた。彼らの首を槍の先に刺して高く掲げた群集は、市庁舎前の広場を練り歩いた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%A6%E8%A5%B2%E6%92%83
 この双方の乱暴狼藉に対して、その後、刑事的対処がなされたという話は寡聞にして知りません。(英語ウィキペディア↓にも全く言及がない。)
http://en.wikipedia.org/wiki/Storming_of_the_Bastille
 前者は革命直前であり、後者は革命冒頭である、という違いこそあるけれど、英国に比べていかに同時代のフランスが遅れていたか、そして、フランスの民衆がいかに無知蒙昧というか、野蛮であったか、が分かろうというものです。

3 結論

 こんなマリー・アントワネットとともに、(ルイ14世や15世に比べて、むしろ優れていたとさえ言える)ルイ16世(注11)を断頭台に送ったのは、マリー・アントワネット、ひいてはフランス王室の評判を、首飾り事件を通じて、故なく決定的に貶めたところの、フランスの特権階級の矮小性と民衆の無知蒙昧さ、つまりはフランスの後進性であった、というのが私の結論です。(注12)

 (注11)彼は、「当時のフランス国民(パリ市民)にヴァレンヌ事件・・[フランス革命時の1791年6月20日から翌朝にかけて国王ルイ16世一家がパリを脱出し、22日に東部国境に近いヴァレンヌで逮捕された事件]・・までは絶大な人気を得ていた。・・・財政再建のための改革に・・・積極姿勢を示した<ものの>、・・・啓蒙専制君主であ<り、>・・・農奴制の廃止、プロテスタントやユダヤ人の同化政策などをすすめ、科学や地理探検にも理解があり、その支援者<に任じ、>さらに三部会<が>召集<された時、>第三身分をもって第一身分、第二身分の特権を突き崩そうとした・・・。<また、>読書家で<も>あり、ディドロらの『百科全書』も購入しており、・・・冒険旅行の本も好んだ。ラペルーズを太平洋探索の大航海に派遣したのは、・・・王の個人的な関心のなせるところでもあった。・・・<彼の>遺言書は「全てのフランス人に告ぐ」と題されており、逃亡の理由を説明すると共に、革命派を厳しく批判し、「国王の元に戻れ」と国民に呼びかけている。」
 彼の冒した愚行は、米独立革命の支援くらいだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%A416%E4%B8%96_(%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E7%8E%8B) 前掲
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%8C%E4%BA%8B%E4%BB%B6 ([]内)
 (注12)首飾り事件に関する日本語ウィキペディア(前掲)が、この「事件をフランス革命の契機の1つとする<者>もいるが、フランス革命は、王妃マリー・アントワネットの不人気とは全く関係ないところで勃発しており、拡大解釈でフィクションといってよい」と何の典拠も付さずに記しているのは理解に苦しむ。対照的に、英語ウィキペディア(前掲)は、正しく、この事件は、「フランスの人々にブルボン王制を不信任させたという点で重要だ」と(やはり典拠は付されていないものの)記している。

4 終わりに

 いくら太田の映画評論はストーリー評論であると言っても、今回のは、首飾り事件の評論であって映画評論ではないのではないか、と言われそうなので、あわてて弥縫策です。
 エヘン!
 この映画は、首飾り事件の概要をおおむね正しく学ぶことができるとともに、当時のフランスの特権階級の退廃ぶりを肌で感じることができるので、鑑賞する価値がある、と申し上げておきましょう。
 特権階級が、いかに公の精神に乏しく、権力や名誉やカネの追求だけに明け暮れ、かつまた、いかにその男女関係が乱れに乱れていたか、がよーく分かりますよ。
 お後がよろしいようで・・。

5 おまけ

 以下、この映画に触発されて、私の頭の中を駆け巡った想念の一端です。

 イギリス/英国「の名誉革命<(1688年)>に始まるフランスとの対立は、ナポレオン戦争が終結する<(1815年)>まで100年以上に及んだ。これは第2次百年戦争と総称されることもある」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%BC%E6%9C%9D
ところ、「一連の戦争においては<米>独立戦争を除いて全てイギリス</英国>が<フランスに>勝利し」た結果、欧州大陸(除くロシア)を統一する1回目の試みは失敗に終わり、第一次世界大戦(1914年〜)から第二次世界大戦(〜1945年)にかけての、今度はドイツによる2回目の試みもまた、英国のせいで失敗に終わったこと、を我々は知っています。
 なお、(1945年から1989年にかけての、ロシア(ソ連)による西欧の共産化の試みもありました(注13)が、)EUは、平和的手段による、その3回目の試みであると言えるでしょう。 

 (注13)ブレンダン・スミス(Brendan Simms)は、欧州を統一する試みが、これまで、ルイ14世、ナポレオン、ヒットラー、及びスターリンによって(都合4回)なされたとし、そのことごとくが、欧州の他の諸国が一致団結して行った抵抗によって失敗に帰した、という趣旨のことを指摘している。
http://www.ft.com/intl/cms/s/2/37d90f60-a5d7-11e2-b7dc-00144feabdc0.html#axzz2QyQJ2Yk2
 しかし、これは、イギリス/英国が欧州大陸における反統一勢力を糾合させる中心的役割を果たしたことからあえて目を逸らせた指摘だ。

 第2次百年戦争をイギリス/英国がフランスと戦ったことに関しては、1688年の名誉革命以降、フランスがジェームズ2世及びその嫡流をフランスに匿い、その復辟を支援する一方で、フランスの膨張に抗してアウグスブルク同盟に加わって戦っていたオランダの総督のオラニエ公ウィレムがウィリアム3世としてイギリス王に就任し、1689年イギリスをこの戦争に参戦させた
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A03%E4%B8%96_(%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E7%8E%8B)
ことから始まったという経緯があった上に、イギリスは、対仏戦争の立ち上がりにおいてオランダという同君連合の国を欧州大陸の一角に持ち、また、1714年にハノーヴァー朝になってからは、今度はハノーヴァー王国という同君連合の国を欧州大陸の一角に持っていた
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%BC%E6%9C%9D
ことから、(1715年にルイ14世が亡くなってからも、)引き続き、英国は、欧州大陸の列強としても対仏戦争を続けざるをえなかったと言えるでしょう。 
 その事情は、7年戦争における英国の勝利(フランスの敗北)によるフランス植民地の消滅によっても基本的に変わらず、フランスの米独立革命支援やナポレオンの全欧州大陸席巻により、英国は、一層対仏戦争に力を傾注することを強いられた、と言えるでしょう。
 この過程で、英国は、不可抗力であったとはいえ、フランス革命を発生させてしまい、その結果、欧州大陸にナショナリズムという、民主主義独裁・・怪物・・を生み出してしまうわけです。
 しかし、1823年に、英国とハノーヴァー王国とは切り離され(ウィキペディア上掲)、しかも、既に世界帝国となっていたのですから、爾後は、欧州統一を妨げる営みから手を引き、もっぱら、ユーラシア大陸全般にわたってロシアの抑止にあたることに専念しなければならなかったのです。
 1853〜56年の英国の対露戦争(クリミア戦争)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%9F%E3%82%A2%E6%88%A6%E4%BA%89
や、1904〜05年の日本による対露代理戦争(日露戦争)は、まさに、英国がかかる国益を踏まえた「正しい」営みでした。
 しかし、その英国は、第一次世界大戦で、欧州大陸の覇権国になりつつあったドイツを叩く形で、またもや、欧州大陸の統一を妨げる、という国益に反する行動を、しかも、かつてフランスを叩く過程で民主主義独裁を生み出してしまったという苦い経験を顧みない行動を、とってしまうのです。
 (その結果生まれた共産主義とファシズムは、ナショナリズムよりもはるかに恐ろしい怪物であったわけです。)
 英国のこの夢遊病者的行動が、20世紀において、いかなる悲劇を世界中にもたらしたかは、我々が周知しているところです。 

(完)

太田述正コラム#6164(2013.4.23)
<映画評論39:マリー・アントワネットの首飾り(その4)>

 (3)マリー・アントワネット

  ア 音楽家

 マリー・アントワネットの日本語ウィキペディア(前出(MA))は、外国の人物についてのものとしては、珍しくよい出来だと思います。
 彼女の「人物」の項の一番最初に音楽を持ってきた点もそうです。(注8)

 (注8)英語ウィキペディアには、そもそも「人物」の項がなく、彼女の作曲についての言及は一切ない。
http://en.wikipedia.org/wiki/Marie_Antoinette
 さすがに詳しいけれど、フランス語ウィキペディアも、英語ウィキペディアと同じ。
http://fr.wikipedia.org/wiki/Marie-Antoinette_d'Autriche

 彼女は、「ルイ16世の元に嫁いでからもハープを愛奏し<、また、>・・・歌劇のあり方などをめぐるオペラ改革の折にはグルックを擁護し、彼のオペラのパリ上演の後援もしている<ほか、>・・・作曲もし、少なくとも12曲の歌曲が現存してい」ます。(上掲)

 一番有名なのが、この曲です。
 C'est Mon Ami
http://www.youtube.com/watch?v=2pTlf03qYHg
 唐澤まゆ子歌唱、荘村清志ギター伴奏でもどうぞ。
http://www.youtube.com/watch?v=MkDdFdXotDI

 これからだけでも言えることは、マリー・アントワネットは極めて情操豊かでかつ知的能力の高い女性であったことです。

  イ 人間主義者

 「マリー・アントワネットの言葉として引かれてきた「ケーキを食べればいいじゃない」は、その夫であるルイ16世の治世下のフランスで起こった飢饉の最中に発せられたと考えられてきた<ところ、>各地でパンが不足し始めているために人々が苦しんでいると窘められて、王妃は「それならブリオッシュを食べれば良い」と返」したことになっています。
 しかし、「ルイ16世の在位中に本当の意味での飢饉が起こったことはな<く、>深刻なパン不足が起こったのは二度だけであ<って、>一度目は王が即位する直前の数週間であ<り>(1775年の4〜5月)<、>二度目は1788年で、この年はフランス革命の前年<であったところ、>前者は小麦粉戦争 (la guerre des farines) として有名な暴動につながり、フランス南部を除く地域でこの名がついた事件が起こってい<ます>が、マリー・アントワネットは当時オーストリアにいた家族にこの暴動に触れた手紙を送っており、そこで」彼女は、以下のように記しています。
 「不幸せな暮らしをしながら私たちに尽くす人々をみたならば、幸せのためにこれまで以上に身を粉にして働くのが私たちのつとめだということはごくごく当然のことです。陛下はこの真実を理解していらっしゃるように思います」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%82%AD%E3%82%92%E9%A3%9F%E3%81%B9%E3%82%8C%E3%81%B0%E3%81%84%E3%81%84%E3%81%98%E3%82%83%E3%81%AA%E3%81%84
 そもそも、彼女は、「自らのために城を建築したりもせず、宮廷内で貧困にある者のためのカンパを募ったり、子供らにおもちゃを我慢させるなどもして<おり、また、>飢饉の際に子供の宮廷費を削って寄付したり、他の貴族達から寄付金を集めるなど、国民を大事に思うとても心優しい人物で」したし、「良い母親で<も>あったよう」です。(MA)
 要するに、ケーキ云々がマリー・アントワネット自身の言葉であるなどということは、およそありえないことが明らかである(MA)だけではなく、彼女は、大いなる人間主義者であった、とさえ言えそうなのです。

  ウ 高潔性(integrity)

 これについては、以下の引用だけで十分でしょう。

 「処刑の前日、アントワネットは・・・遺書を書き残している。内容は「犯罪者にとって死刑は恥ずべきものだが、無実の罪で断頭台に送られるなら恥ずべきものではない」というものであった。・・・遺書を書き終えた彼女は、朝食についての希望を・・・聞かれると「何もいりません。全て終わりました。」と述べたと言われる。・・・その最期の言葉は、死刑執行人の足を踏んでしまった際に発した「ごめんなさいね、わざとではありませんのよ。でも靴が汚れなくてよかった」だったと伝えられる。」(MA)

  エ 見えて来るもの

 以上に加え、「アントワネットは、朝の接見を簡素化させたり、全王族の食事風景を公開することや、王妃に直接物を渡してはならないなどのベルサイユの習慣や儀式を廃止・緩和させた。しかし、誰が王妃に下着を渡すかでもめたり、廷臣の地位によって便器の形が違ったりすることが一種のステイタスであった宮廷内の人々にとっては、アントワネットが彼らが無駄だと知りながらも今まで大切にしてきた特権を奪う形になってしまい、逆に反感を買ってしまった。・・・<そして、>彼女の寵に加われなかった貴族達は、彼女とその寵臣をこぞって非難し・・・<彼らによる>流言飛語の類<の>・・・中傷がパリの民衆の憎悪をかき立てることとなった。・・・<その上、>フランス革命が勃発<すると、>・・・それまでマリー・アントワネットから多大な恩恵を受けていた貴族たちは、彼女を見捨てて亡命してしまう」(MA)ということも併せ勘案すると、そこから見えて来るのは、第一に、(既に言及したところの、)フランスの特権階級の(自殺的なまでの)矮小性であり、第二に、「<貴族達が>デュ・バリー夫人を元娼婦と非難する小冊子を作成して広め、国王の権威を・・・貶め」(前出)たことで、王室に対して憤激したであろうことはともかくとして、マリー・アントワネットに関して、貴族達が流した流言飛語の類の中傷を信じ込んでしまっていて、首飾り事件やこの事件に係る高等法院の判決を曲解してしまったところの、フランスの大衆の無知蒙昧さです。
 後者(第二)については、フランスのイギリスと比較しての後進性に由来しているのであって、例えば、フランスでは、新聞(注9)や教育(注10)の発達が遅れていたことが大きいと思われます。
 
 (注9)「イギリスでは清教徒革命や名誉革命を通じてニュース出版が発展し、日刊新聞や地方週刊新聞も出版されるようになった。18世紀<の英国>には、いろいろな新聞を読み放題のコーヒー・ハウスが登場した。裕福な商工業者<達>・・・が新聞を元に政治議論を行い、貴族のサロンと同じように論壇を形成した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E8%81%9E
 「1694<年には、> イギリスで国による新聞の特許制度・・・と検閲制度・・・が廃止され<、>・・・1734<年には、>・・・<英領北米植民地で本国>政府への批判の自由が獲得され<、>・・・1771<年には、英国>で議会報道が自由化され<たが、このような自由とはフランスの新聞は無縁だった。>」
http://www.lian.com/TANAKA/comhosei/newspaper.htm
 (注10)イギリスでは、「13世紀から15世紀にかけて・・・王様や貴族、個人の金持ちなどが直接建てたり、募金を寄付したりして、・・・全土で300もののグラマースクールができていった<が、>・・・元々グラマースクールの多くが地域の子弟、特に貧しい子を対象にして設立されたものであった」
http://www.cc.kyoto-su.ac.jp/~konokatu/wasada(06-1-26)
ところ、(フランスと違って、イギリスでは、)グラマースクールは国教会の成立とともに教会から切り離され、18世紀には、大部分のグラマースクールで、ラテン語に加えて、算数と英語も教えるようになっていた。
http://en.wikipedia.org/wiki/Grammar_school

(続く)

太田述正コラム#6162(2013.4.22)
<映画評論39:マリー・アントワネットの首飾り(その3)>(2013.8.7公開)

 (2)時代背景及びフランスの特権階級の矮小性

 この映画の中では出てこないのですが、ルイ15世の放蕩とその放蕩に係る顕示的浪費が悪評を買った背景として、ルイ14世と15世が行った戦争が余りうまくいかず、とりわけ15世は大敗北を喫し、戦費が嵩んで財政が悪化し、ルイ16世もまた、実り少なき戦争を行った上、本格的な増税を行おうとした、ということがあります。
 すなわち、ルイ14世については、「治世後半のアウクスブルク同盟戦争、スペイン継承戦争では苦戦し、晩年には莫大な戦費調達と放漫財政によりフランスは深刻な財政難に陥った」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%A414%E4%B8%96_(%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E7%8E%8B)
ところ、ルイ15世については、「オーストリア継承戦争では得るものはなく、戦争により財政を逼迫させた。七年戦争では・・・1763年2月、パリ条約<で>・・・フランスはカナダ、ルイジアナ、西インド諸島の一部を含む広大な植民地を失った。この条約は「フランス史上最もみじめな条約」と呼ばれた。・・<この>戦争のために財政はひどく悪化し<た>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%A415%E4%B8%96_(%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E7%8E%8B)
という次第であり、ルイ16世は、「<英国>の勢力拡大に対抗して<米>独立戦争に関わり、<米国独立>を支援するなどしたため、財政はさらに困窮を極<め、>・・・財政の決定的な建て直し」を図ることを最大の目的として、1789年に、1614年以来、175年ぶりに三部会を招集したことが命取りとなってフランス革命が始まるのです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%A416%E4%B8%96_(%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E7%8E%8B)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E9%83%A8%E4%BC%9A

 ここで登場した、アウグスブルク同盟戦争(1688年〜97年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%96%E3%83%AB%E3%82%AF%E5%90%8C%E7%9B%9F
http://en.wikipedia.org/wiki/Nine_Years_War
は北米大陸ではウィリアム王戦争(1689〜97年)(注4)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E7%8E%8B%E6%88%A6%E4%BA%89
として、スペイン継承戦争(1701〜13年)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%B3%E7%B6%99%E6%89%BF%E6%88%A6%E4%BA%89
は北米大陸ではアン女王戦争(1702年〜13年)(注5)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E5%A5%B3%E7%8E%8B%E6%88%A6%E4%BA%89
として、オーストリア継承戦争(1740〜48年)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A2%E7%B6%99%E6%89%BF%E6%88%A6%E4%BA%89
は北米大陸ではジョージ王戦争(1744〜48年)(注6)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%B8%E7%8E%8B%E6%88%A6%E4%BA%89
として、そして7年戦争(1756〜63年)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E5%B9%B4%E6%88%A6%E4%BA%89
は北米大陸ではその1年前からフレンチ・インディアン戦争(1755〜63年)(注7)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%B3%E6%88%A6%E4%BA%89
としても、仏英間で戦われた、ということが重要です。

 (注4)9年戦争、大同盟戦争、パラティン継承戦争とも呼ばれる。オランダ総督のウィリアムの英国王就任に伴い1689年からイギリスも大同盟側で参戦。フランスはアルザスを獲得したがロレーヌ及びライン川以西は放棄した。北米では「英仏・・・植民地の境界は「戦前の状態に」戻された。」
 ちなみに、ロレーヌは、1766年に平和裏にフランスに併合される。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%8C%E5%85%AC%E5%9B%BD
 (注5)「<イギリス/英国を含む>反フランス同盟の最大の目的であった<ところの、ルイ14世の孫のブルボン家の>フェリペ5世のスペイン王位継承は阻止することができなかったが、・・・フランス<の膨張>は抑制され・・・ることになった」。北米では、「<イギリス/英国>はニューファンドランド島とハドソン湾地域をフランスから譲渡されて獲得し<た。>」
 (注6)「相当な外交的、軍事的、財政的努力を費やしてオーストリアの弱体化を図ったフランスの企ては見事に失敗し<た>」。北米では、英仏植民地の境界は戦前の状態に戻された。
 (注7)「<欧州>においては、<英国>の財政支援を受けたプロイセンと、オーストリア・ロシア・フランス・スウェーデン・スペイン(1762年参戦)及びドイツ諸侯との間で戦いが行われ」、フランスは、オーストリアと結ぶという外交革命までやってのけていたけれど、オーストリア継承戦争の際にプロイセンに奪取されたシュレージエンをオーストリアに回復してやることができなかった。しかも、「フランスはインドからほぼ全面的に撤退し、北<米>の植民地のほとんどを失った。」
 ちなみに、フランスは、1762年に秘密裏にスペインにルイジアナを割譲した上に、翌1763年に英国にミシシッピ川の東側とカナダを割譲したが、1800年に秘密裏にスペインからルイジアナを取り戻し、これをその3年後の1803年にナポレオンが米国に譲渡した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E9%A0%98%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%83%8A

 そして、米独立戦争(1775〜83年)は、フランスが、(7年戦争の戦費が嵩んだこともあっての北米駐留英軍経費確保のための増税に反対して独立を宣言した)米国と同盟条約を締結することで国際戦争(1778〜83年)に転化します。(後にスペインとオランダも米国側に立って参戦します。)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E7%8B%AC%E7%AB%8B%E6%88%A6%E4%BA%89

 つまり、こういうことです。
 フランスは、ルイ14世の治世の晩年に、その欧州における接壌的膨張がほぼ止められてしまった一方で、スペインにブルボン家を国王として送り込むことに成功し、事実上の恒久的仏西同盟の構築にこそ成功したけれど、ルイ15世の治世において、植民地のほぼ全部を失うに至った、というわけです。
 そして、フランスのこの接壌的膨張の抑制と植民地の喪失の全てにイギリス(1707年からは英国)が関わっており、ルイ16世は、その意趣返しのために、(フランス自身は何の得るところもないところの、)米独立戦争への加担を行い、ここにフランスの財政悪化はその頂点に達し、フランス革命が起きるのです。
 総括的には、フランスの歴代国王が、17世紀から18世紀にかけて断続的に仏英戦争を中核とする戦争を続けた結果、戦費が嵩み、それが米国の独立と、フランス革命を引き起こした、と言ってよいのではないでしょうか。
 
 いささか先を急ぎ過ぎました。
 時計の針を少し戻しましょう。
 首飾り事件の容疑者達は、1785年8月に一斉に逮捕され、マリー・アントワネットが最高司法機関であるパリ高等法院に裁判を提起し、翌1786年5月に判決が下されました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%96%E9%A3%BE%E3%82%8A%E4%BA%8B%E4%BB%B6 前掲 また、彼女の夫の「ルイ16世は・・・<、僧侶(第一身分)と貴族(第二身分)の>免税特権の廃止によって<財政>の改善を図ったが、・・・パリ高等法院<(Parlement)>は、全国三部会のみが課税の賛否を決める権利があると主張し・・・た<ため、同>国王は1788年7月に全国三部会の開催を約束し<、>翌1789年に各地で選挙が行われて議員が選出され、5月5日、ヴェルサイユで開会式が行われ<まし>た。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E9%9D%A9%E5%91%BD
 ちなみに、「高等法院は売官制により官職を購入した法服貴族により構成されて<おり、>通常の司法権限だけでなく、勅令や法令の登記や国王に建言する立法的行政的権限も有しており、・・・特権<階級>を擁護する彼らはしばしば王権と対立した」が、諸高等法院中、「パリ高等法院は北部と中部のほとんどを占める最も広い管轄地域を有しており、単に「高等法院」と呼ばれた」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E6%B3%95%E9%99%A2_(%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9)
ところです。
 つまり、パリ高等法院は、第一身分と第二身分の階級的利益を事実上代弁して、1786年には、首飾り事件で、王室、就中マリーアントワネットを傷つける判決を下して革命の機運を醸成し、その2年後の1788年には、三部会の開催を求めることで革命の舞台を整える、という、特権階級にとっての自殺的愚行を犯した、ということです。
 これは、フランスにおいては、特権階級が、(イギリスの貴族とは大違いで、)いかに自分達の特権の擁護だけに汲々とし、国全体を支える気概が乏しかったかを物語るものです。

(続く)

太田述正コラム#6160(2013.4.21)
<映画評論39:マリー・アントワネットの首飾り(その2)>(2013.8.6公開)

4 首飾り事件の評価

 (1)公妾等に係る顕示的浪費

 映画には、史実と乖離している箇所もいくつかある
http://en.wikipedia.org/wiki/The_Affair_of_the_Necklace
のですが、以上、ご紹介したところの、史実の幹の部分に関しては、映画は忠実です。
 私が最も驚いたのは、ルイ15世の恐るべき浪費振りです。
 一人の公妾であるデュ・バリー夫人(Madame du Barry。1743〜93年)に(すんでのところで未遂に終わったけれど)200億円の贈り物ですよ。
 それまでに、彼女がどれだけの贈り物を国王から受け取っていたのか、想像もつきません。
 彼女は、「<もともとは>娼婦同然の生活をしていたようだが、・・・やがてデュ・バリー子爵に囲われると、貴婦人のような生活と引き換えに、子爵が連れてきた男性とベッドを共にした。家柄のよい貴族や学者、アカデミー・フランセーズ会員などがジャンヌの相手とな<っていたが、>・・・1769年にルイ15世に紹介された。5年前にポンパドゥール夫人を亡くしていたルイ15世は、ジャンヌの虜になって彼女を公妾にすることに決める。<公妾は既婚者でなければならないとの慣例に従い、>デュ・バリー子爵の弟と結婚してデュ・バリー夫人と名を変えたマリ・ジャンヌ<は>、・・・イヴリーヌ県のルーヴシエンヌ城を・・・贈<られ>た。ルイ15世が天然痘に倒れると・・・その看病に努めていたが、・・・危篤に陥ったルイ15世から遠ざけられ・・・<、その後、>ド・ブリサック元帥・シャボ伯爵、イギリス貴族のシーマー伯爵達の愛人になった。・・・<フランス革命後、>1793年3月に帰国したところを革命派に捕らえられ、・・・ギロチン台に送られた。・・・」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%A5%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%AA%E3%83%BC%E5%A4%AB%E4%BA%BA
という人物です。
 そもそも、彼女は、最初に城を一つ贈られているわけです。
 しかも、ルイ15世の公妾はデュ・バリー夫人だけではありませんでした。
 彼女の前には、余りにも有名なポンパドール夫人(Madame de Pompadour)がいました。
 ポンパドゥール侯爵夫人ジャンヌ=アントワネット・ポワソン(Jeanne-Antoinette Poisson, marquise de Pompadour。1721年〜64年)は、「銀行家の娘として生まれる。・・・1744年にはその美貌がルイ15世の目に留まった。彼女はポンパドゥール侯爵夫人の称号[と領地]を与えられて夫と別居し、1745年・・・正式に公妾として認められた。[それまでの国王の愛人はみな貴族階層出身だったのに対し、彼女がブルジョワ階層出身であることが人々には不評で、彼女は様々な誹謗にさらされることになる。]・・・<公妾>となったポンパドゥール夫人は、湯水のように金を使って、あちこちに邸宅を建てさせ(現大統領官邸エリゼ宮は彼女の邸宅のひとつ)、やがて政治に関心の薄いルイ15世に代わって権勢を振るうようになる。・・・<彼女は、>30歳を越えたころからルイ15世と寝室を共にすることはなくなったが、・・・ルイ15世はポンパドゥール夫人が42歳で死ぬまで寵愛し続けたという。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%B3%E3%83%91%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%BC%E3%83%AB%E5%A4%AB%E4%BA%BA
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%A415%E4%B8%96_(%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E7%8E%8B) ([]内)
という人物ですが、彼女がもらった城(宮殿)はいくつもあった上、デュ・バリー夫人とは違って、領地までもらっていたわけです。
 この2人以外にも、「ルイ15世は、王妃マリー・レクザンスカと結婚から数年間は仲睦まじかったが、・・・王妃がほぼ年中妊娠していたこともあって、・・・1734年頃から公的愛妾を持つようになり、ネール侯爵家の姉妹を寵愛した。最初にマイイ夫人、次に妹のヴァンティミーユ夫人そしてシャトール侯爵夫人である。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%A415%E4%B8%96_(%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E7%8E%8B) 上掲
というありさまであったところ、ポンパドゥール夫人は、ルイ15世と寝室を共にしなくなってから、「ヴェルサイユの森に・・・鹿の園<という>・・・娼館<を>・・・開設したとされ<、娼婦達は>・・・名を伏せて訪れるルイ15世に性的な奉仕を行った。ルイ15世と娼婦の間に生まれた子には年金を保障し、男子は将校に取り立て、女子には良縁を取り次いで面倒を見た。鹿の園にいた女性ではマリー=ルイーズ・オミュルフィ<(注3)>などが知られている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E3%81%AE%E5%9C%92
という次第なのですからね。

 (注3)フランソワ・ブーシェが描いた彼女の裸体画(鹿の園に招かれる前のもの)を御覧じよ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%83%BC%EF%BC%9D%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%A3
 
 一体、公妾/娼婦関係経費だけで、ルイ15世はいくらカネを使ったのでしょうか。
 その大部分が、一般民衆にも分かる形で使われた、ということを考えてもみてください。
 ルイ15世の孫で彼の後を継いだ「ルイ16世<は>側室や愛人を生涯において一人たりとも持たなかった」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%AF%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88
というのに、首飾り事件で、ルイ15世の公妾等に係る顕示的浪費の記憶がフランスの一般民衆の間に蘇ったであろうことは想像に難くありません。
 しかも、この首飾りが、もともとはデュ・バリー夫人に贈られるはずであったことは、王室に対する一層の悪感情を一般民衆の間で醸成した、と考えられます。
 何と言っても、「ルイ15世晩年の数年間は外務卿兼陸軍卿のショワズール公が政権を担っ」ていたところ、戦費が嵩んで陥っていた財政危機を打開するために「聖職者、貴族を含む全国民を対象とした「二十分の一税」の導入<等>に取り組んだ」ルイ15世にパリ高等法院が反対を続けたため、ルイ15世は、この「パリ高等法院に迎合的なショワズール公を罷免」するとともに、「パリ高等法院の司法官の追放、司法官職売官制の廃止、上級評定院の設置といった司法改革を断行」した結果、「失脚したショワズール公派とパリ高等法院の法服貴族たちが、デュ・バリー夫人を元娼婦と非難する小冊子を作成して広め、国王の権威を・・・貶めることに」努めた、という経緯があった
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%A415%E4%B8%96_(%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E7%8E%8B) (前掲)
のですから・・。
 
(続く)

太田述正コラム#6158(2013.4.20)
<映画評論39:マリー・アントワネットの首飾り(その1)>(2013.8.5公開)

1 始めに

 かねてから私がその重要性を訴えてきたところの、『ダブル・ジョパディー/陪審員』の映画評論シリーズがまだ完結していないのに、別の映画評論シリーズを立ち上げるのか、と顰蹙を買いそうですが、『ダブル・・・』シリーズの完結編を書くのは、私的にも、また本質的にも、相当の精神力を要します。
 そこで、少し、「軽い」シリーズで気を紛らわせることにした次第です。
 「軽い」と言いましたが、私は、フランス全般についてもそうであるけれど、フランス革命については大昔に何冊か本を読んだ程度なので、フランス革命にからむ外伝的な話については極めて疎いのに対し、むしろ、日本の一般の人で、池田理代子の『ベルサイユのばら』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%A6%E3%81%AE%E3%81%B0%E3%82%89
等を通じて、マリー・アントワネット(Marie Antoinette)等のことに詳しい人が少なくなさそうであることから、私も少しく外伝的「教養」を身に付けようと思い立った次第です。
 というのは半ば冗談であり、『マリー・アントワネットの首飾り(The Affair of the Necklace)』(2001年の米国映画)
A:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%AF%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88%E3%81%AE%E9%A6%96%E9%A3%BE%E3%82%8A_(%E6%98%A0%E7%94%BB)
では、マリー・アントワネットは主人公ではないものの、事実上、彼女を描いた映画であると受け止め、フランス革命そのものを考えるよすがにもしたいと思って、この映画を鑑賞したところ、私が到達したマクロ的結論を開陳させていただこう、というわけなのです。

2 フランス革命について

 以上のような問題意識を持って、先日、フランス革命についての英語ウィキペディアをチラ読みしていたら、「保守主義者のエドマンド・バーク(Edmund Burke)は、フランス革命は、少数の陰謀家的な人々が古い秩序を覆すべく大衆を洗脳した産物であると述べたが、これは、諸革命というものは、正当な諸不平に立脚したものではないとの信条に根差す主張だ。・・・<また、>フランスの歴史家のフランソワ・フュレ(Francois Furet)<(注1)>によれば、フランス革命は、全体主義的政治的諸観念、及び、好ましくないと考えられた社会諸階級に対する体系的かつ大規模な暴力の正当化、の起源でもある。しかるがゆえに、この革命はロシア革命に深甚なる影響を与えたのだし、この革命の諸観念は毛沢東が支那に共産主義国家を建設する彼の諸努力を鼓吹したのだ。」
B:https://en.wikipedia.org/wiki/French_Revolution
と記されて大きく頷いたところ、私がフュレとほぼ同じフランス革命観を抱いていることは、皆さんご承知のとおりです。
 
 (注1)1927〜97年。パリ大学で文学と法学を学ぶも結核に罹り中退。その後研究生活に入るとともに共産党入党したが、後に離党。
http://fr.wikipedia.org/wiki/Fran%C3%A7ois_Furet
 彼のフランス革命観については、下掲参照。
http://web.sfc.keio.ac.jp/~kunieda/2007/03/francois-furet19711978.html

 しかし、私は、フュレなる歴史家の存在について、今まで全く知らなかったのであり、私が自分のフランス革命観を、フュレ抜きでどのように形成したのか、全く思い出せません。
 さて、Bにおいてもそのフランス革命観が紹介され、また、すぐ上の注1内の2番目の典拠の中でもフュレが依拠したと記されているところの、アレクシス・ド・トックヴィル(Alexis De Tocqoueville)(注2)(コラム#88、503、3714、3721、3959、4089、4107、4367、4481、4860、5459、5882、6107)の『アンシャン・レジームとフランス革命』の英訳『The Old Regime and the French Revolution』(Doubleday 1955)の序文と最終章を、その後で読んでみたところ、「この革命は、フランスの最も文明化された諸階級がスポンサーとなったのだけれど、最も教育を受けていなくて最も手におえない連中によって実行されたということを思い起こせば、それほど驚くべきものではなくなる。というのは、教養あるエリートのメンバー達は孤立を習慣とし、共同行動をとることに慣れておらず、従って、大衆を掌握していなかった(have no hold on)ので、大衆は、殆んど<革命の>最初から状況の主人となったのだ。」(206〜207)と書かれていました。

 (注2)私は、彼の『アメリカのデモクラシー(De la democratie en Amerique)』(1835/1840)も、その英訳版である『Democracy in America』を持っているが、最初からツンドクだった『アンシャン・レジームとフランス革命(L'Ancien Regime et la Revolution)』(1856)
http://en.wikipedia.org/wiki/Alexis_de_Tocqueville
とは違って、何度も読みかけては、面白くないので投げ出して現在に至っている。

 恐らく、この点はトックヴィルの言うとおりなのだと思っているのですが、皆さんもこのことを頭にとどめておいてください。

3 首飾り事件について

 ここで、この映画が拠っているところの、史実としての首飾り事件の概要をご紹介しておきましょう。

 「首飾り事件(・・・Affaire du collier de la reine)は、1785年、革命前夜のフランスで起きた詐欺事件。<旧フランス王家の>ヴァロワ[(Valois)]家の血を引くと称するジャンヌ・ド・ラ・モット[(Jeanne de la Motte)]伯爵夫人が、王室御用達の宝石商・・・から160万リーブル(日本円にしておよそ200億円)の首飾りを[彼女の愛人の]ロアン[(de Rohan)]枢機卿に買わせ、それを王妃マリー・アントワネットに渡すと偽って騙し取った・・・典型的なかたり詐欺<だ>。・・・
 宝石商・・・は、先王ルイ15世[(Louis XV)]の注文を受け、大小540個のダイヤモンドからなる・・・首飾りを作製していた。これはルイ15世の愛人デュ・バリー夫人〈(Madame du Barry)〉のために注文されたものだったが、ルイ15世の急逝により契約が立ち消えになってしまった。高額な商品を抱えて困った<宝石商>はこれをマリー・アントワネットに売りつけようとしたが、高額であったことと、敵対していたデュ・バリー夫人のために作られたものであることから<彼女は>購入を躊躇した。そこで<宝石商>は王妃と親しいと称するラ・モット伯爵夫人に仲介を依頼した<わけだ>。・・・
 事件に激昂したマリー・アントワネットは、パリ高等法院(最高司法機関)に裁判を持ちこんだ。<ところが、>1786年5月に判決が下され<たものの>、ロアン枢機卿<ら>は・・・無罪となり、・・・ラ・モット伯爵夫人だけが有罪となった。彼女は「V」の文字を・・・[両肩に]焼き印されて[終身刑で]投獄された。
 この裁判によりマリー・アントワネットは[、そもそも、この高価な首飾りをロアン枢機卿を使って入手しようとしていたところの民衆のことなど顧みない浪費家であり、かつまた、(彼女が嫌っていた)ロアン枢機卿を陥れるために裁判を起こした]という事実無根の噂が広ま<り、>・・・<彼女>を嫌う世論が強まった。・・・[ロアン枢機卿が無罪になったことと、]国王ルイ16世[(Louis XVI)]<が、>判決直後、無罪となったロアン枢機卿を宮廷司祭長から罷免<し、某>大修道院<長>に左遷し[たことも、この噂の信憑性を高めた]。・・・ロアン枢機卿は・・・堕落した聖職者だったが、彼の左遷を批判した多くの人々はそれを知らなかった<のだ>。・・・ 」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%96%E9%A3%BE%E3%82%8A%E4%BA%8B%E4%BB%B6
http://en.wikipedia.org/wiki/Affair_of_the_Diamond_Necklace ([]内)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%A5%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%AA%E3%83%BC%E5%A4%AB%E4%BA%BA (〈〉内)

(続く)

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