太田述正コラム#9419(2017.10.24)
<定住・農業・国家(その8)>(2018.2.6公開)

 (4)定住社会

 「最近の考古学の研究において出現した大ニュースは、「定住化(sedentism)」<(注16)>ないし定住諸コミュニティ内で生活すること、と、農業の採用、との間のタイムラグに関するものだ。

 (注16)最初の定住非農業の場が最初に出現したのは、モラヴィア及びロシア平原において紀元前20000〜紀元前17000年の間であり、次いで、縄文時代の日本列島に紀元前12000年に始まり紀元前10000年まで続いた。
https://en.wikipedia.org/wiki/Sedentism

⇒定住化については、邦語のウィキペディアはなく、英語のものが存在するところ、日本は定住非農業の縄文文化を持ったというのに、困ったものです。
 それにしても、英語ウィキペディアの記述、ないし、その背後にある欧米考古学界、に、欧米中心主義的偏向を感じるのは私だけでしょうか。
 モラヴィア/ロシア平原の定住化社会が最終的に農業社会に移行したのかどうかはっきりしませんし、縄文時代の定住化社会がわずか2000年しか続かなかったというのは、それ以降、日本列島は農業社会に移行したと見ているのでしょうが、これは日本の考古学界の通説とは異っているように思います。
 とまれ、大昔における、定住非農業社会が日本列島の専売特許ではなさそうであったことには、瞠目させられました。
 いずれにせよ、農業社会化しても人間主義が失われず、しかも、それが文明化した形で現代にまで維持されたのが、世界中で日本においてだけだったことは間違いないようですが・・。(太田)

 以前の学術的知識においては、農業の発明が定住化を可能にした、としていた。
 <しかし、>この証拠は、それが正しくないことを示した。
 すなわち、動物類と諸禾穀類に係る「二つの鍵となる家畜化/栽培化」、と、この二つに立脚した最初の農業諸経済、とを分かつ、4000年にも及ぶ、巨大なギャップがあるわけだ。

⇒著者ないしこの書評子が、この4000年のギャップが同じ地域のものなのか、異なった地域同士のものなのか、また、それぞれの地域はどこなのか、を記していないのは困ったものです。(太田)

 我々の祖先達が、その新しい生活方式を採用すると決める前に、農業の可能性を熟慮したことは明白だ。
 彼らがかほども長きにわたってこのことを考えることができたのは、彼らが生きた生活が驚くほど豊かなものだったからだ。
 黄河渓谷における支那の初期の文明の<地域の>ように、メソポタミアは湿地領域だった。・・・
 それは、魚類やそれを獲物にした動物類、定期的な洪水によって残される肥沃な土壌、渡り鳥類、そして、川の諸経路近くを旅する渡り獲物類、を提供してくれたところの、人間達にとって気前の良い風景地だった。
 ここに<史上>最初の定住諸コミュニティが構築されたのは、この地がかくも多様な食糧諸源網を提供したからだ。
 ある年の食糧源が欠けたとしても、他の食糧源がまだあった。
 我々の近代的な諸町や諸都市や国家群の諸祖先であるところの、定住諸コミュニティへ、と、家畜化と農業という「新石器パッケージ」が<ただちには>導かなかったことを、考古学は示している、というわけだ。
 人類が、集約的な(intensive)農業に従事するようになる前に、湿地群の気前の良い諸条件の下で生きることで、これらの諸コミュニティは何千年もの間存続したのだ。
 単一の、稠密(dense)に植えられた穀物に依存することは、はるかにリスクが大きかった以上、人々が変化を起こすのに何千年もかかかったのは不思議ではない。」(B)

⇒著者ないしこの書評子が、メソポタミアにおいて、定住非農業社会ができ始めたのはいつなのか、を記していないのは、同地域において、定住非農業社会が先行した、というのがまだ仮説にとどまっているからではないか、と勘繰りたくなります。
 実際、上掲の定住化に関する英語ウィキペディアには、メソポタミアへの言及はありません。(太田)

(続く)