太田述正コラム#9417(2017.10.23)
<定住・農業・国家(その7)>(2018.2.5公開)

 「紀元前6500年前後にユーフラテス川の河口に出現した、メソポタミアの定住地(settlement)群が、著者の主要な着目点だ。
 彼は、これらの包囲文化圏群が、穀物栽培化における「後発組」であることを認めているにもかかわらず、これらは、ウル(Ur)とウルク(Urk)<(注15)>という古代の都市センター群へと成長し、世界で最初の国家群を形成した。

 (注15)「ウルに人が居住を始めたのは紀元前5千年紀半ばである・・・が、都市が本格的に拡張を始めるのは紀元前4千年紀に入ってからである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%AB
 「ウルク<への>・・・最初の居住は紀元前5千年紀に遡るが、・・・紀元前4千年紀に入るとウルク文化が各地に拡散していくが、この時期をウルクの名をとってウルク期と呼ぶ。ウルク市は各地に商業拠点として植民市や包領地を形成して大規模な都市間ネットワークを形成した。ただしこれは単純にウルクを中心とした巨大な帝国が形成されたことを意味するわけではないので注意が必要である。また現在知られている限り、ウルクから発見された文字資料は人類最古のものであり、ウルク市が文字の発祥地であった可能性もある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%82%AF_(%E3%83%A1%E3%82%BD%E3%83%9D%E3%82%BF%E3%83%9F%E3%82%A2)
 ウルとウルクの位置は下掲参照。↓
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%82%AF_(%E3%83%A1%E3%82%BD%E3%83%9D%E3%82%BF%E3%83%9F%E3%82%A2)#/media/File:Meso2mil.JPG

⇒「注15」とでは、年代が1000年ズレていますが、追及しません。(太田)

 最近、推計されたことだが、最初の栽培された諸穀物の使用と定住地群の興隆との間の約4,000年の間隔(gap)は、狩猟者達と採集者達が新石器革命を始めるのを急がなかったことを示すところの、著者が提供する一片の証拠だ。
 彼らは、何千年にもわたって、定住することなく、かいばをやり、狩猟し、動物を群れで動かし、耕作した。
 仮説的に(tentatively)、彼は、狩猟者達と採集者達は、恒久的定住と国家に抵抗したところの、農業の中心地の外で生活した周辺的な(peripheral)人々だった、と主張する。
 ここで、著者は、理想化された栽培化/家畜化の観念を逆転させる。
 狩猟者達と採集者達は、より広い食糧網を活用することで諸欠乏に適応することができたのに対し、定住した人々は、旱魃、疾病、そして、興隆する選良からの厳しい諸要求、に対して脆弱だった、と彼は主張する。
 農業革命と大国家群の興隆は、いかなる意味においても円滑かつ連続的なものではなかった、と著者は主張する。
 実際、農業における自慢の種と我々が考えるものの大部分、例えば、感慨や収穫道具群、は、国家群が出現する前に既に存在していた。
 初期の国家群は、脆弱、というか、極めて脆弱、だったので、紀元前1800年から紀元前700年までの間に、メソポタミアにおける定住地群は、「以前の地域の4分の1にも満たない」規模へと縮小した。
 著者は、この衰亡を、戦争が引き起こした疾病、及び、森林伐採と塩害がもたらしたエコロジー的大災厄、が原因だとする。
 しかし、初期の国家群の喪失を嘆くのではなく、彼は、それに引き続き余り分かっていない諸時期において、「人間の福祉の改善」があったことを示唆する。
 彼は、例えば、ギリシャの「暗黒時代」の臣民達の間での「自由の噴出(bolt for freedom)」や、人々が、税金、飢餓、圧政、奴隷制、から逃れようとしたことによる人口が再配分、に言及する。
 初期の国家群の衰亡は若干の平等主義を帰結させたものの、それは、狩猟者達と採集者達の再襲来の引き金となった。
 著者は、これらの牧畜者達(pastoralists)によって開始された(mounted)諸攻撃は、農業の普及を妨げた唯一最大の力だった、と主張する。
 これは、究極的には良いことだったかもしれない、と彼は主張する。・・・
 世界の初期の人間の諸集団の大部分は、半定住的、半農業的な諸生活を、国家の掌握の外で享受した可能性があるからだ。」(D)

(続く)