太田述正コラム#9351(2017.9.20)
<アングロサクソンと仏教--米国篇(その9)>(2018.1.3公開)

 自身(self)についての誤った観念は、「我(me)」と「我のもの(mine)」、すなわち、利己的欲望、渇望、祝着(attachment)、憎しみ、悪意(ill-will)、自惚れ、自負、利己主義、そしてその他の、諸穢れ(defilements)、諸不純、そして諸問題、という有害な諸考えを生み出す」、と彼は述べている。
 それは、個人的諸紛争から諸国家間の諸戦争に至る、世界のあらゆる諸不幸(troubles)の源泉なのだ、と。

⇒ラフーラが、自分自身についての痛切な反省を述べているのなら見上げたものですが、これらのくだりが載っている本を書いた当時、そんな反省をしていたことなどありえないのですから、ただただ、失笑するばかりです。(太田)

 何と言うか、人々に、自身なんてもの、持っていない方がいい、と自覚させるような話ではないか。
 しかし、ここに悩ましい点があるのだ。
 完全なる非自身の経験は良く知られているように掴みどころがなく、全てをやり遂げた・・間違いなく私がやったことよりもっとやった・・瞑想者達によってのみ、通常、報告されている<に過ぎない>のだ。
 仮に、世界の救済が、人類中の大きな部分(chunk)がこの経験をすることに依存しているのだとすれば、我々は、救済されるのを長く待たなければならないのかもしれない。

⇒自力・他力というのは、支那の浄土教が、北伝仏教中の他諸派と浄土教とを区別するために生んだ言葉です
https://kotobank.jp/word/%E8%87%AA%E5%8A%9B%E3%83%BB%E4%BB%96%E5%8A%9B-80954
が、私見では、マクロ的な見方をすれば、北伝仏教は全て他力・・「すべてのものを救済しようとする仏<(=人間主義者(太田))>の願いである本願<(=人間主義の普及(太田))>の力」(上掲)・・、南伝仏教は全て自力・・「悟りをひらいて仏になるため自己が修めていく修行の力」(上掲)・・、である、と言ってもよい、と思うのです。
 その上で、結論的に申し上げれば、自力で人間主義者になるのは、釈迦のような天才でない限り、まず不可能であると思われるのです。
 それが、私の憶測などではないことは、歴史が証明しているのではないでしょうか。
 自力の道を採用した南伝仏教諸国における、仏教のヒンドゥー教との混淆とその結果としての(?)、タイにおける仏教のおぞましいまでの堕落、
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/708.html
カンボディアでの仏僧として教育を受けたポルポトによる大虐殺、セイロンにおけるラフーラら仏僧達が事実上もたらした長期にわたる大惨劇、ミャンマーで仏僧達によって現在進行中の数十万人のロヒンギャの民族浄化(それぞれ、コラム#省略)、を想起してください。
 自力の道は、大部分の人を狂わせてしまう魔の道である、とさえ言えそうではありませんか。
 それとは対照的に、他力の道は、とりわけ、それを政治権力者が推進した場合、成功する場合が相当あると言えそうです。
 アショーカ王は、その多分最初の例であり、彼が仏教徒になってからの施政は、「彼の摩崖碑文などで・・・繰り返し伝えられるのは不殺生(人間に限らない)と正しい人間関係であり、父母に従順であること、礼儀正しくあること、バラモンやシャモンを尊敬し布施を怠らないこと、年長者を敬うこと、奴隷や貧民を正しく扱うこと、常に他者の立場を配慮することなどが上げられている」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%AB%E7%8E%8B
という他力(人間主義の普及)を絵に描いたようなものであったわけです。
 それは、恐らく成功したに違いありません。
 しかし、その結果は、彼が受け継いだマウリア王朝の瓦解という悲劇であったことを我々は知っています。(コラム#省略)
 私がこのところ力説しているように、人間主義者達だけでは、内外の非人間主義者達に付け入られて、その社会は瓦解してしまう、ということなのです。
 そして、日本だけが、このアポリアを生来的に解決した社会であり続けてきたわけですが、この日本社会を研究し尽くした中共において、この日本社会をそっくり継受しようと言う壮大な実験が行われていることも我々は知るに至っています。(コラム#省略)
 これらの仏教史、及び、そのエクステンションとも言うべき人間主義史、を振り返ってそこから学ぼうとしない、欧米の瞑想オタク達の極楽とんぼぶりは、絶望的である、と言うべきでしょうね。(太田)

 しかし、我々はどこからか、とにかく始めなければならないのだ。

(続く)