太田述正コラム#9267(2017.8.9)
<入江曜子『古代東アジアの女帝』を読む(その27)>(2017.11.23公開)

 「<武照は、太宗の後宮にいたが、太宗の死後、太宗の息子で後を継いだ、5歳年下の高宗の後宮に入り、、>655年・・・33歳の<時に、>ついに皇后の位にのぼ<った。>・・・
 この年はヤマトの斉明女帝<が>・・・重祚した年で<も>ある。・・・
 武<照>・・・が皇后となった5年目の・・・660<年、唐は>百済<を滅亡させた。>・・・
 <また、>663年<には>「白村江」での戦<で、新羅と共に、ヤマトと百済遺民連合軍を打ち破った。・・・
 <そして、>665<年、>・・・<唐>朝廷は<、旧暦の>翌年<の>元旦<に予定していた>封禅<・・>皇帝がその治世の善を天に報告し天の祝福を受けると同時に、唐の威厳を世界に誇示する一世一代の祭典<・・>のスケジュールにあわせて洛陽を出発した。
 朝臣、王族、各種族の首長に続いて、諸蛮の名で一括される朝貢国の賀使が隊列を組む。
 突厥、波斯(ペルシャ)、●(コータン)、天竺(てんじく)、▼(カシミール)、〇(うじゃーな)、崑崙(こんろん)、倭、高<句>麗、新羅、百済--11国中の8番目を倭の使者が進む。
 たしかに諸蕃扱いには違いないが東夷のなかでは首位である。
 白村江の敗戦は影響していないとみていい。
 百済が最後尾を歩いたのは唐の軍政下に置かれているからだろう。・・・

⇒百済に関してだけは、「660年・・・、百済が滅亡すると旧域は熊津都督府の管轄と<し、>・・・665年・・・、前百済太子である扶余隆を熊津都督府都督に任命し百済故地及び遺民の管理を命じた。しかし、扶余隆は仇敵である新羅の侵略を恐れて着任しなかったため、・・・熊津都督の業務は<唐人>・・・により代行され<てい>た」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E6%B4%A5%E9%83%BD%E7%9D%A3%E5%BA%9C
ことから、入江の記述は概ね正しいものの、新羅に関しても、唐は、「663年・・・には新羅<は>鶏林州都督府とされ文武王自身も鶏林州大都督に任じられ・・・羈縻」統治をしていました
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E6%AD%A6%E7%8E%8B
し、高句麗(高麗)に関しては、唐は、665年に、国内抗争に敗れた高句麗の前最高権力者の淵男生の投降を受け入れ、この淵男生を先頭にした第3次侵攻(667〜668年)を準備中であり、高句麗を滅亡させる途上にあった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90%E3%81%AE%E9%AB%98%E5%8F%A5%E9%BA%97%E5%87%BA%E5%85%B5
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%B5%E7%94%B7%E7%94%9F
ところ、(封禅に賀使を出席させられたであろう)淵男生の勢力を含め、当時、高句麗を独立国(朝貢国)扱いをしていたとは考えられません。
 とすれば、当時、倭も、(中村修也説を踏まえれば、)高句麗、新羅、百済の並びの、唐の羈縻州であったところ、「「隋書の倭国伝には「新羅・百濟は、みな<倭>を以て大国にして珍物多しとなし。並びにこれを敬い仰ぎて、恒に使いを通わせ往来す。」との記述がある」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E8%B2%A2
ことから、唐においても、(倭が、朝鮮半島の3国と共に独立国であった時と同様、唐の羈縻州となっていた時にもまた、)倭の序列を、新羅、百済よりも上位に置いたところの、隋の見解、を踏襲するとともに、倭と高句麗との上下については、白村江の戦い以降、唐に服従していた倭、を、国内に反唐勢力を抱えていた高句麗、よりも上位に置いた、ということではないでしょうか。(太田)

 <武照は、>674・・・年、秦・始皇帝以来の皇帝の称号を「天皇」、皇后を「天后」と改めた。・・・

⇒「天武天皇<は、>・・・在位は天武天皇2年・・・(673年3月・・・)から・・・686年10月・・・<であるところ、彼が、>天皇を称号とし、日本を国号とした最初の天皇とも言われる」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87
ことに照らし、私は、武皇后が、高宗に対し、この、倭(日本)の天皇号の使用を勧めた、と解したい気までしています。(太田)

 690年10月・・・<武照は、自らを>「弥勒下生」<と称し、唐に代わる>・・・武周建国<を宣言した。
 こうして、武照は、支那史における、唯一の女帝となった。>」(172、175〜176、178〜179、184、193〜194)

⇒武照が、斉明天皇に至る、倭での女性大王の頻出を聞いていたとしても不思議ではないところ、直接的には、その年に持統天皇が即位(持統天皇4年1月であったところの、690年2月)した
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8C%81%E7%B5%B1%E5%A4%A9%E7%9A%87
こと、が、武照の背中を押した、と言ってよいのではないでしょうか。
 この持統天皇の夫であった「天武天皇<が>・・・新しい王統の創始者として自らを位置づけようとした」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87
ことも、彼女の念頭にあったことでしょうし、自らを弥勒菩薩に準えるというアイディアも、天武天皇の現人神化(前出)から得ているのではないか、とさえ、私は言いたくなってきました。(太田)

3 終わりに

 簡単に言えば、入江のこの本は、典拠の付け方が著しく不十分であることに加え、女性の統治者達に対して贔屓の引き倒し的な箇所が少なくない、という問題はあったけれど、「古代東アジア」史が、当時の日本、朝鮮半島、支那、の三地域の相互関係を抜きにしては論じえないこと、そして、その相互関係が極めて濃密なものであったこと、を、改めて私に自覚させてくれた、という意味で、読んでよかった、と思います。

(完)