太田述正コラム#9247(2017.7.30)
<入江曜子『古代東アジアの女帝』を読む(その17)>(2017.11.13公開)

 「泉蓋蘇文のクーデタ直後に単身高句麗へ乗り込んだ経験をもつ金春秋は、647(大化3、真徳元)年、高向玄理の〈送使〉という名目でヤマトを訪れた。
 朝貢と長い間絶えていた人質の要求という露骨な服属の証に無条件で応じる〈客使〉としての立場である。
 この関係を結べば新羅はヤマトとの唐の双方に属する〈両属〉--すなわち唐に対する背信となる。
 その危険を冒してまでヤマトとの国交回復に踏み切った裏には、これまで親百済一辺倒だった蘇我政権にかわる改新政権の要求に応じることで、すでに王子余豊(扶余豊璋)<(注41)>を差し出している百済への圧力とする狙いもあった。・・・

 (注41)「生没年不詳・・・豊璋の渡来時期は、『日本書紀』によれば舒明天皇3年(631年)3月であるが、『三国史記』百済本紀には義慈王13年(653年)倭国と通好すとあるので、この頃ではないだろうかとする説もある。また、皇極天皇元年(642年)1月に百済で「大乱」が発生し、「弟王子兒翹岐」とその家族および高官が島に放逐され、4月にその翹岐らが大使として倭国に来朝したとされており、翹岐=豊璋同一人物説においては当然、この時に倭国に渡来したとされている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%B6%E4%BD%99%E8%B1%8A%E7%92%8B

 <『日本書紀』は、>金春秋<を人質としているが、彼>は人質として来日したのではない。
 ヤマトからの要求に合意したことを告げる和平の使節にすぎない。・・・
 人質と書いた手前、『日本書紀』は彼の帰国の記事を欠くが、滞在期間はそれほど長くなかったはずである。
 彼はその翌年、唐へ渡り太宗に拝謁しているからだ。
 このときの約定に従って新羅が・・・正式に人質を送ってくるのは2年後の大化5年である。・・・
 官位八位の・・・クラスを送ってきたこと自体、金春秋のヤマト朝廷に対する評価が推察されよう。・・・
 <さて、唐で、金春秋はうまく立ち回り、>ついに・・・老いた皇帝<太宗>は長年の禁を破って新羅への軍事援助を約束したのである。・・・
 <なお、彼は、太宗>に〈春秋は新羅王・真徳の弟〉と思いこませた<らしい。(注42)>・・・

 (注42)「『旧唐書』『新唐書』には真徳女王の弟と記されているが、<旧唐書より200年後にできた>『三国史記』新羅本紀・太宗武烈王紀・・・ではこれを誤り<で、甥である、>と指摘している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%83%88%E7%8E%8B

⇒ちなみに、金春秋(武烈王)の英語ウィキペディア
https://en.wikipedia.org/wiki/Muyeol_of_Silla
も分量的には、この邦語ウィキペディアと同程度ですが、いずれも短く、王位に就くまでの事績の説明が端折られていて物足りません。
 なお、彼が真徳の弟か甥かの話は英語の方には出ていない一方。英語の方は邦語の方に出て来ないところの、春秋が王位に就いたいきさつ・・余り参考にならない・・が出ています。(太田)

 さらに春秋は、臣従の証として自国の礼服を中華の制度に従ってあらためたい、と願って唐の朝服を授けられたうえ、子息を太宗の側近にすることも許されて、あらかじめ同伴して来た第二子・・・を長安に残した。・・・
 <こうして、>新羅は唐の藩属国としての信頼を獲得、唐・新羅達高句麗・百済の二極分裂はこのころから明白になる。・・・
 <新羅>は、早くもその翌年正月、朝臣の衣冠を唐風に改める。
 さらにその翌年には唐の承認を受けた唐暦に切り替える。・・・
 唐の元号に従うことは、つまり国家主権の放棄になるが、それさえも宗主国に対する属国の礼儀と割り切ってみせた女帝・真徳である。」(63〜68)

⇒「長年の禁を破って新羅への軍事援助を約束した」とは大袈裟な書きぶりですが、善徳女王の時の唐への軍事援助要請に対する「太宗の対応は、・・・<新羅の国は女性が王になっているので隣国から軽んじられ侮られ、いつまでも侵略が続きやがて王を失うことになる。・・・><というものだった。>」(コラム#8384)というのですから、この太宗の意向に真っ向から逆らって、女性なのに王位に就いた形の真徳女王としては、これくらいのことをしなければ太宗は軍事援助を約束してなどくれないだろう、と考えたのは当然ではないでしょうか。(太田)

(続く)