太田述正コラム#9243(2017.7.28)
<入江曜子『古代東アジアの女帝』を読む(その15)>(2017.11.11公開)

 「大化5(649)年・・・高齢の左大臣・阿部内麻呂の死後7日目、右大臣・蘇我倉山田石川麻呂が中大兄の暗殺を謀っているという密告があった。・・・
 追討軍・・・が、石川麻呂一族の籠る山田寺を囲み、右大臣とその一族は氏寺の仏前で縊死を遂げる。・・・
 中大兄の妻の一人<で石川麻呂の娘であった>越智<(注35)>も・・・一族の後を追った。・・・

 (注35)?〜649年。「644年1月,中臣鎌足は,蘇我氏の本宗家を倒す一助とするため,蘇我倉山田石川麻呂の長女を中大兄皇子の妃にしようと計った。ところが約束の日に,蘇我倉山田石川麻呂の異母弟・・・がその女を奪ったため,蘇我倉山田石川麻呂が途方に暮れていたところ,進んで妃になることを申し出たのが,娘の越智娘であったという。
 中大兄皇子との間に,1男2女を儲けた。」
http://www1.kcn.ne.jp/~watblue7/tenpyo/sogaoti.html
 この2女のうちの1人「が、鵜野讃良皇女。のちの持統天皇である。・・・中大兄は・・・自身の正妃となる倭媛の父、古人皇子を処刑。さらに・・・妻である越智の父<、>倉山田石川麻呂に謀反の疑いをかけ、自害に追い込んでしま<ったことになる。>」
https://matome.naver.jp/odai/2147382797111567701/2148057518822443903

 大化6<(650)>年の2月、長門から白い雉が献上された。・・・
 白雉を乗せた美々しい輿のあとを、内臣・鎌足と意をつうじた新任の左右の大臣を先頭に百官が、さらには百済の人質・豊●<(王偏に章)>(余豊)とその弟たち、高句麗の侍医、孝徳の一子・有間の教師をつとめる新羅人など三韓の人々が粛々と従う。<(注36)>・・・

 (注36)この時、元号を大化から白雉に改元。「白雉5年・・・に孝徳天皇が崩御したときより使用されなくなり、以降686年に朱鳥と定められるまで元号はなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E9%9B%89

⇒いかに、当時の日本において、三韓との交流が盛んであったか、そして、三韓からの渡来人達が活躍していたか、が分かりますね。(太田)

 白雉4年6月、改新政権の道徳的支柱とされた法師・旻<(注37)>が病死してまもなく、それを待っていたかのように、孝徳との険悪な関係が囁かれる中大兄が難波<(注38)>を去る許可を求めたが、孝徳はそれを許さなかった。

 (注37)みん(?〜653年)。「魏の陳思王・曹植の後裔とする系図がある。推古天皇16年(608年)遣隋使小野妹子に従って、高向玄理・南淵請安らとともに隋へ渡り、24年間にわたり同地で仏教のほか易学を学び、舒明天皇4年(632年)・・・に日本に帰国。・・・大化元年(645年)大化の改新ののちに、高向玄理とともに国博士に任じられ、大化5年(649年)高向玄理と八省百官の制を立案している。翌大化6年(650年)に・・・白い雉が献上されると、その祥瑞を説明したことにより、白雉と改元された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%BB
 (注38)「乙巳の変(645年)の後、中大兄皇子(後の天智天皇)らによって企画され、652年に完成し、孝徳天皇が遷都した。・・・白雉5年(654年)孝徳帝の没後、斉明天皇(皇極天皇が重祚)により飛鳥板蓋宮に遷宮された。その後は、天平16年(744年)になって同じ場所に聖武天皇によって宮殿が築かれた・・・。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%A3%E6%B3%A2%E9%95%B7%E6%9F%84%E8%B1%8A%E7%A2%95%E5%AE%AE

 中大兄が突然、飛鳥河辺行宮(かわべのかりみや)<(注39)>に戻ってきたのはその年の暮であった。・・・

 (注39)「飛鳥稲淵宮殿跡(あすかいなぶちきゅうでんあと)は、奈良県高市郡明日香村大字稲淵(稲渕)に所在する飛鳥時代の宮殿跡である。・・・中大兄皇子(後の天智天皇)が難波宮から飛鳥宮に帰り、一時期過ごした「飛鳥川辺行宮」・・・にあてる説があるが、なお、今後の検討が必要とされている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9B%E9%B3%A5%E7%A8%B2%E6%B7%B5%E5%AE%AE%E6%AE%BF%E8%B7%A1

 何より世人が驚愕したのは、大后である間人が中大兄に従って孝徳を捨てた事実である。・・・
 スメミオヤは平静であった。
 覚悟が定まったのであろう。

⇒(この時点ではまだ元気であった)孝徳のもとを、彼の姉のスメミオヤもまた、間人、中大兄、大海人皇子と共に去っているところ、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9D%E5%BE%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87 前掲
入江は、皇極=スメミオヤと中大兄との対立、という、自らの絶対少数説の立場から、このように記していますが、それなら、せめて、どうして、彼女が中大兄との対立を乗り越えて、「覚悟<を>定」めることができたのか、を説明すべきでした。(太田)

 その翌年の10月、孝徳の病篤しの報を受けた彼女は、中大兄、間人を伴って難波へ赴いた。
 単なる弟の病気見舞いではない。
 孝徳から次期大王の指名をうけるためである。
 スメミオヤの重祚は異議なくきまった。
 中大兄の即位を阻んだのは、当然、大王としての孝徳の決断であるが、前大王・皇極の強い意志でもある。」(53〜55、57〜58)

(続く)