太田述正コラム#9241(2017.7.27)
<入江曜子『古代東アジアの女帝』を読む(その14)>(2017.11.10公開)

 「645年6月、孝徳は登極の儀を行なった。・・・
 この日、生前譲位という前例のない立場を選んだ皇極・・・<に>「皇祖母尊」スメミオヤノミコトの尊号が贈られた。
 そのスメミオヤノミコトとなった皇極の指示で、翌7月、舒明を遅々とし皇極を母とする間人(はしひと)<(注33)>が孝徳の大后として立ち、群臣百官にいささか奇異の目をもって迎えられた。

 (注33)?〜665年。「葛城皇子(中大兄皇子、後の天智天皇・・・の同母妹、<大海人皇子、後の>天武天皇の同母姉に当たる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%93%E4%BA%BA%E7%9A%87%E5%A5%B3

 孝徳にはすでに一子・有間を生んだ小足(おたらし)がいる。
 彼女が大后に繰り上げられるのが当然の慣習なのだ<から・・。>。・・・
 間人は孝徳とは叔父・姪の関係である。
 このような近親婚はヤマトでは珍しくない。・・・
 <しかし、>この時代にあっても同父同母兄妹の恋はタブーである。
 芽を人々の噂にならないうちに摘み取り、間人を大后という中大兄の手の届かないところに引き離したのは、スメミオヤの苦慮の一策であった。<(注34)>

 (注34)「653年<に>・・・天皇が皇后である間人皇女に宛てた歌が『日本書紀』に残されている。
 金木着け 吾が飼ふ駒は 引出せず 吾が飼ふ駒を 人見つらむか・・・
 皇女が夫である天皇と離れ葛城皇子と共に飛鳥に遷った理由は明らかでない。
 ・・・上の歌の「駒」が間人を譬喩しており、古代の「見る」が恋愛と直結するものであることから、自分の妻をほかの男に見られたの意に理解し、中大兄との近親相姦の関係を説く吉永登のような見解もあり、直木孝次郎らによって支持されているが、これに対しては曾倉岑・荒井秀規らによる反論があり、荒井は「穿ちすぎであろう」と疑義を示している。」(上掲)

 改新政権は譲位した皇極の期待どおり、早くもその8月、公地公民の改新の理念を掲げ、東国の公民の戸籍、田畑の検地、良賤の区別の原則など、数十年あたためてきた理想をつぎつぎに打ちあげていった。
 <しかし、>葛城・・・には改新政権が打ちだす政策には知識も関心もない。
 あるのは、このままでは埋もれてしまうという焦りだけだ。
 <大化>元年9月、蘇我本流という巨大な後ろ盾を失い出家して吉野の隠棲する古人大兄の一味と称する某からクーデタ計画の相談に参加したという自白があった。
 おそらく中大兄が待ち望んでいた密告であろう。
 彼は独断で兵を送り、古人大兄とその男子を殺害、その惨状のさなかに妻妾も首をくくって死んだという。」(50〜52)

⇒入江は、葛城(中大兄皇子)とその同父母妹の間人が恋人同士であったことを当然視していますが、「注34」から分かるように、議論は分かれており、そうである以上、少なくとも断定的に叙述すべきではありませんでしたし、また、「葛城・・・には改新政権が打ちだす政策には知識も関心もない」、などということを主張している説は、聞いたことがない・・少なくとも、葛城=中大兄皇子=天智天皇、のウィキペディアには全く言及がなく、紹介されている論争点と言えば、彼が皇極=斉明天皇崩御後、長く即位しなかった理由についてのみである
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%99%BA%E5%A4%A9%E7%9A%87
・・以上、自分がそう考える理由を、若干なりともこのあたりで記すべきでした。
 いくら啓蒙書とはいえ、これでは、この本は歴史フィクションに近い、と評されても仕方がないでしょうね。(太田)

(続く)