太田述正コラム#9235(2017.7.24)
<入江曜子『古代東アジアの女帝』を読む(その11)>(2017.11.7公開)

 「舒明、すなわち推古が知る「虚弱な田村」は、即位して間もない<舒明>3年の初秋から年末まで有馬温湯(ありまのゆ)に滞在、10年10月には再び有馬温湯へ逃避し翌年の1月まで滞在した。
 そのため11月に行なう新嘗を翌年1月に延期する失態を演じる。・・・
 <12年の>12月・・・舒明は・・・飛鳥から遠く伊予の温泉宮へ逃走した。
 このときも宝は同行していない。

⇒虚弱であることは罪ではありませんし、虚弱な人物が、数年に一度、何か月か療養したことを失態や逃走と決めつけるのはいかがなものでしょうか。
 なお、邪馬台国等の伝統に基づき、当時の大王家において、大王が権力、大后が権威をそれぞれ担っていた、と想定することが可能なのかもしれず、仮にそうであったとすれば、大后が大王の療養なる遠出に同行しないのはむしろ当然だ、という見方もできそうです。(太田)

 その翌年、舒明は・・・大王としては不毛の生涯を閉じた。
 西暦642年、特に舒明と大王位を争った山背からの異議も唱えられず、舒明大后として宝は大王位を継いだ。
 ・・・皇極である。
 近年彼女が示した行政手腕が認められたこともあろう。
 しかしその条件として蝦夷の甥、入鹿の従弟にあたる舒明の第一子・大市(古人)<(注27)>を大兄とすることもあったのではないか。

 (注27)ふるひとのおおえのみこ(?〜645年)。「舒明天皇の第一皇子。母は蘇我馬子の娘・・・で大臣・蘇我入鹿とは従兄弟に当たる。娘は倭姫王(天智天皇<(=中大兄皇子)>の皇后)。・・・
 入鹿は、古人大兄皇子を皇極天皇の次期天皇に擁立しようと望<み、>・・・643年11月、・・・<、そのためには邪魔な>山背大兄王とその一族を滅ぼした。・・・
 [蘇我入鹿が殺害された645年7月10の乙巳の変]後、皇極天皇退位を受けて皇位に即く事を勧められたがそれを断り、出家して吉野へ隠退した。しかし、同年9月12日 吉備笠垂(きびのかさのしだる)から「古人大兄皇子が謀反を企てている」との密告を受け、中大兄皇子が攻め殺させた。実際に謀反を企てていたかどうかは不明である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BA%BA%E5%A4%A7%E5%85%84%E7%9A%87%E5%AD%90
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%99%E5%B7%B3%E3%81%AE%E5%A4%89 ([]内)

 大兄を律令下での皇太子とみなすことはできないが、すくなくともこの青年は儀式の際には女帝の背後に侍る地位を得ていたことはたしかである。・・・

⇒当時の大王家において、権威は女性の大后ないし大王が担い、権力は、この女性の夫ないし血を分けた近親者が担う、という伝統的考え方があった、とい見ることもできそうです。(太田)

 即位間もない秋7月、皇極と入鹿のあいだの密かな対抗意識が表面化する事件が起こった。
 きっかけは1か月を超える旱である。
 村々の祝部(はふりべ)たちが旧来の牛馬などの犠牲を捧げての雨乞いも効果がない。
 その訴えを耳にした入鹿は自信満々。
 仏像を飾り多くの僧を集めて『大雲経』を誦させ、自身も香炉を捧げて降雨を願ったが、翌日小雨が降った程度にすぎなかった。
 ところが満を持した皇極が南淵の河上で祈るとたちまち雷鳴がとどろき、大雨が5日の間降り続いて枯死寸前の田畑をうるおした。
 民衆のあいだに有難い巫女大王という評判がひろまっていく。」(42〜44)

⇒話はその逆であって、伝統的に、大王家において権威を担った女性は、国の最高の巫女と見なされていた、ということではないでしょうか。
 (邪馬台国の卑弥呼のことを思い出してください。)(太田)

 (続く)