太田述正コラム#9217(2017.7.15)
<武光誠『誰が天照大神を女神に変えたのか』を読む(その30)>(2017.10.29公開)

 「私は筑紫申真(つくしのぶざね)<(注70)氏(『アマテラスの誕生』<(注71)>講談社学術文庫)に従って、皇室の伊勢の祭祀の起点を天武天皇の時代においている。

 (注70)1920〜73年。「広島県三原市の沼田神社社家で沼田国造家を称する筑紫家に連なる家系であったため、筑紫家の養子となる。実父は侍従武官も務めた陸軍中将坪島文雄。國學院大學を卒業」。広島県及び三重県中学高校の教師を歴任。「志摩高校在任中の1962年2月、42歳で第1作『アマテラスの誕生』(角川書店)を出版する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AD%91%E7%B4%AB%E7%94%B3%E7%9C%9F
 (注71)この本の要約を紹介しておく。→「
(1) 古来,太陽をトーテムとする部族はあちこちにおり,それらの部族では太陽は「アマテル」と称され,気象全般や生命をつかさどる神とされていた。
(2) 伊勢にも大和朝廷に服属する,太陽信仰の部族がおり,祭祀に関与する猿女(サルメ),天語部(あまがたりべ)という人々を朝廷に差し出していた。
 「大和の天皇家は太陽をトーテムとしてまつっていましたが,おなじように伊勢でも太陽をトーテムとする信仰集団があって,<中略> その太陽信仰を熱烈に天皇家にもちこんでいたのです」・・・
 太陽信仰が部族的なものから国家的なものに発達するきっかけは壬申の乱である。
(3) 壬申の乱において挙兵した大海人皇子(おおあまのみこ。後の天武天皇)・鸕野讚良皇女(うののさらら/うののささらのひめみこ。大海人皇子の妻。後の持統天皇)は北伊勢を行軍中に雷雨に遭う。
(4) ここで大海人皇子が伊勢の太陽神(気象全般をつかさどり,雷神としての側面もある男神アマテル)に祈ったところ,雷雨は止み,尾張方面への進軍を続けることができた。
(5) 大海人皇子は壬申の乱に勝利し,翌年,天皇として即位した。
(6) この勝利は伊勢の太陽神の加護によるものと考えた天武天皇は,娘の大来皇女(おおくのひめみこ・大伯皇女とも)を伊勢に派遣し,斎王すなわち太陽神の妻として仕えさせることした。
 伊勢の太陽神を祖先神アマテラスとして完成させたのは持統皇后(のちに天皇)である。
(7) 天武天皇崩御後,持統皇后は自らの子である草壁皇子(くさかべのみこ)を即位させるべく,そのライバルである大津皇子(おおつのみこ)を謀反の罪で死に追い込んだ。
(8) しかしながら草壁皇子は病弱で,皇位につくことなく薨去。
(9) 持統皇后は草壁皇子の子,自分にとっては孫にあたる軽皇子(かるのみこ。後の文武天皇)をいずれは皇位につけることを考え,それまでの間,自らが君主として国を率いることとした。
(10) 持統天皇は,自らの子孫が皇位を継承する正統性を保証するものとして伊勢の太陽神を持ち出すこととした。
(11) 伊勢の太陽神アマテルを女神アマテラスとし,持統天皇から孫の軽皇子への皇位継承を,神話において,アマテラスから孫のホノニニギへの王権授与という形で描き出すこととした。
(12) 文武二(698)年,アマテラスをまつる皇大神宮(内宮)が現在の位置に成立し,アマテラスの祖先神としての地位が確立する。」
http://fukunan-blog.cocolog-nifty.com/fukunanblog/2011/05/post-1d99.html

⇒私は『アマテラスの誕生』を読んだことがなかったので気が付くわけがなかったのですが、武光は、この本の最初でこの本に言及し、その上で、自分の所論のどこが筑紫の所論を修正・発展させたものであるかを明らかにする、という構成にするのがフェアだったと思います。
 これまでのところ、枝葉の部分はともかく、基本的には、「修正・発展」は余りなさそうですが・・。(太田)

 天武天皇は人心の乱に勝利した年の翌年にあたる天武2年(673)4月に、娘の大伯(おおくの)皇女を斎宮<(注72)>として伊勢に送った。

 (注72)「斎宮(さいぐう/さいくう/いつきのみや/いわいのみや)は古代から南北朝時代にかけて、伊勢神宮に奉仕した斎王の御所(現在の斎宮跡)であるが、平安時代以降は賀茂神社の斎王(斎院)と区別するため、斎王のことも指した。・・・平安時代末期になると、治承・寿永の乱(源平合戦)の混乱で斎宮は一時途絶する。その後復活したが(もう一つの斎王であった賀茂斎院は承久の乱を境に廃絶)、鎌倉時代後半には卜定さえ途絶えがちとなり、持明院統の歴代天皇においては置かれる事もなく、南北朝時代の幕開けとなる延元の乱により、時の斎宮祥子内親王(後醍醐天皇皇女)が群行せずに野宮から退下したのを最後に途絶した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E5%AE%AE
 現在、黒田清子(さやこ)元内親王が就いている、伊勢神宮の祭主は、「戦後は皇族出身の女性が就任していることから斎宮と混同されることもあるが、・・・古は令外官のひとつであったもので、神祇官に属し伊勢神宮の神官の長官であった。中央官であり、通常は都に居住して神宮関係の行政に従事した。推古朝に中臣御食子(鎌足の父)が祭官となったのが初代とされ、天武朝に中臣意美麻呂が任じられた際に、祭官を改め祭主と称したという。以降、明治以前までは、代々中臣氏(大中臣氏)が任命され、神祇官次官である神祇大副あるいは神祇権大副が多く兼任した。伊勢神宮の祈年祭・両月次祭・神嘗祭の4度の大祭に、奉幣使として参向し、祝詞を奏上して、天皇の意思を祭神に伝えることを主たる役目とする。国家機関当時は、式年遷宮に際しては、造神宮使・奉遷使を務めた。・・・近代以降、社家の世襲が廃止されると、藤波家(大中臣氏)の世襲は廃されて、華族をもって神宮祭主に任じた。のち皇族又は公爵をもって任じる親任官となり、勅令である神宮司庁官制で法制化された。戦後は神道指令及び日本国憲法により、国家の手をはなれ、宗教法人としての神宮となってから、現在は宗教法人としての「規則」により、祭主は「勅旨を奉じて定める」ことされている。女性の元皇族が就任している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%AD%E4%B8%BB

 『扶桑略記』はそれのことを次のように説明している。
 「伊勢神宮の<事実上の>最初の斎宮<の設置は>、今戦の時の願いが叶ったお礼によるものであった」
 天武天皇はこの斎宮の復活によって、皇室と朝廷の祭祀のあり方を一新しようと考えたのだ。
 そのため天照大神の場が伊勢に遷され、伊勢の太陽神「天照」が天照大神に合祀された。
 これによって天照大神の祭祀の実権を、中臣氏から皇室に取り戻し、斎宮の支配のもとに、伊勢の豪族を担い手とする祭祀をつくっていこうとしたのである。」(195〜196)

(続く)