太田述正コラム#9213(2017.7.13)
<武光誠『誰が天照大神を女神に変えたのか』を読む(その28)>(2017.10.27公開)

 「蘇我氏の本家の蝦夷(えみし)・入鹿の父子が滅んだあと、中大兄皇子が主導する大化改新という大掛かりな政治改革が始められた。
 このあと中大兄皇子は二代の飾りものの大王を立てて、その下の大兄(おおえ)(のちの皇太子に相当する地位)の立場で政治の実権を握った。
 まず中大兄皇子の叔父の孝徳天皇<(注65)>、次に前に皇極(こうぎょく)天皇として王位にあった中大兄皇子の母の斉明天皇が大王とされた・・・。

 (注65)596〜654年。天皇:645〜654年。「天皇は仏法を尊び、神道を軽んじた。・・・
 645年7月10日・・・に乙巳の変が起きると、翌々日に皇極天皇は中大兄皇子に位を譲ろうとした。中大兄は辞退して軽皇子を推薦した。軽皇子は三度辞退して、古人大兄皇子を推薦したが、古人大兄は辞退して出家した。14日の内に、皇極天皇から史上初めての譲位を受け、軽皇子は・・・即位した。立太子は経ていない。皇極前天皇に皇祖母尊(すめみおやのみこと)という称号を与え、中大兄を皇太子とした。・・・孝徳天皇元年6月19日(645年7月17日)、史上初めて元号を立てて大化元年6月19日とし、大化6年2月15日(650年3月22日)には白雉に改元し、白雉元年2月15日とした。・・・孝徳天皇の在位中には、高句麗・百済・新羅からしばしば使者が訪れた。従来の百済の他に、朝鮮半島で守勢にたった新羅も人質を送ってきた。日本は、形骸のみとなっていた任那の調を廃止した。多数の随員を伴う遣唐使を唐 に派遣した。北の蝦夷に対しては、渟足柵・磐舟柵を越国に築き、柵戸を置いて備えた。史料に見える城柵と柵戸の初めである。孝徳天皇は難波長柄豊碕宮(大阪市中央区)を造営し、そこを都と定めた。 が、白雉4年(653年)に、皇太子は天皇に倭京に遷ることを求めた。 天皇がこれを退けると、皇太子は皇祖母尊と皇后、皇弟(=大海人皇子)を連れて倭に赴いた。 臣下の大半が皇太子に随って去った。 天皇は気を落とし、翌年病気になって崩御した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9D%E5%BE%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87 (γ)

⇒この、当時の、日本と朝鮮半島との密接な関係の背景については、次回の東京オフ会で掘り下げるつもりです。(太田)

 中大兄皇子は、斉明天皇<(注66)>の没後にようやく大王になった。

 (注66)594〜661年:天皇:642〜645年(皇極)・655〜661(斉明)。「舒明天皇の皇后で、天智天皇・間人皇女(孝徳天皇の皇后)・天武天皇の母である。推古天皇から一代おいて即位した女帝になる。・・・乙巳の変・・・の翌日・・・、皇極天皇は同母弟の軽皇子(後の孝徳天皇)に皇位を譲った。日本史上初の譲位とされる。・・・<また、>孝徳天皇の崩御後、・・・62歳のとき、・・・再び皇位に就いた(史上初の重祚)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%89%E6%98%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87 (β)

⇒「史上初の女帝となった(ただし、神功皇后と飯豊皇女を歴代から除外した場合)・・・推古天皇」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8E%A8%E5%8F%A4%E5%A4%A9%E7%9A%87 (α)
の場合と違って、皇極天皇の場合、必ずしも践祚せざるをえない状況にあったとは、私には思えません(β参照)。
 単に、当時は、依然として、邪馬台国的な、最高権威の担い手は女性、最高権力の担い手はこの女性の近親者たる男性、という「理念型」に戻ろうとするベクトルが働いていた、ということではないか、という気が私にはしています。
 また、(女性天皇はともかく、)女系天皇は伝統に反し認められない、という主張は、皇極天皇の当時、依然として天皇家内でも近臣結婚が横行していたことから、たまたま女系天皇が生じなかった、というだけのことのような気も私にはしています。
 推古天皇の次の舒明天皇は彼女の子ではなかったけれど、斉明(皇極)天皇の次の天智天皇は彼女の子ですから、天智天皇は女系天皇である、とも言えるのではないでしょうか。
 なお、「『日本書紀』が伝えるところによれば、大化元年から翌年にかけて、孝徳天皇は各分野で制度改革を行なった。 この改革を、後世の学者は大化の改新と呼ぶ。この改革につき書紀が引用する改新之詔4条のうち、第1条と第4条は、後代の官制を下敷きにして改変されたものであることが分かっている。このことから、書紀が述べるような大改革はこのとき存在しなかったのではないかという説が唱えられ、大化改新論争という日本史学上の一大争点になっている」(γ)ところ、私は、大化改新不存在説乗りです。
 というのも、蘇我氏が、馬子が崇峻天皇を殺害させ(α)、そして、馬子の孫の入鹿が聖徳太子の子の山背大兄王を自害に追い込んだ(β)、にもかかわらず、この2人が罰せられていなかったことへの怒りが、もっぱら、中大兄皇子による入鹿殺害の動機であると考えないと、(武光も指摘しているところの、)馬子、蝦夷、入鹿の蘇我氏の嫡流が、三代にわたって推進してきた仏教重視・神道軽視政策の是正を中大兄皇子(天智天皇)が行わなかったこと、の説明に窮するからです。(太田)
 
 このような形で中大兄皇子(天智天皇)は、長期にわたって(645〜71年)朝廷を動かしたのである。
 そしてかれが最も信頼した側近が、中臣(藤原)鎌足であった。
 鎌足の父の中臣御食子(みけこ)は有力な祭官であったが、鎌足は朝廷の祭官の地位を継承する道を選ばずに、中国の学問を身につけて文人官僚として生きようと考えた。
 そのため鎌足は祭官の地位を叔父の中臣国子(くにこ)に譲り、蘇我入鹿打倒の志をもつ中大兄皇子に接近した。」(190〜)

(続く)