太田述正コラム#9197(2017.7.5)
<武光誠『誰が天照大神を女神に変えたのか』を読む(その25)>(2017.10.19公開)

 「『日本書紀』に、天照大神の別名とされる「大日●<(雨冠の下に横一列に口3つ、その下に女)(注57)>尊」という神名が出てくる。

 (注57)「宮崎県高千穂町岩戸には岩戸隠れ神話の中で天照大御神が隠れこもったとされる天岩戸と天照大御神を祀る天岩戸神社がある。 東本宮は天照皇大神(あまてらすすめおおみかみ)を祀り、西本宮は大日●尊(おおひるめのみこと)を祀る。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%85%A7%E5%A4%A7%E7%A5%9E 前掲

 ふつうに考えれば、「みこと」という敬称を付されているその神は男性の神であったことになる。
 なぜ女神である天照大神が、別名に男性の神名をもつのであろうか。
 結論を先にいえば私は、・・・欽明天皇の時代にあたる6世紀なかばに、・・・中臣氏が・・・高天原神話を整えたときに、大日●尊の別名を持つ男性の天照大神を、女性の天照大神に変えた」と考えている。・・・

⇒本来は武光の主張の全体像を踏まえてコメントすべきですが、ここで、私の違和感を記しておきましょう。
 様々な機会(コラム#省略)に指摘したように、日本文明の基底には縄文文化があるところ、同文化は中性的であり、だからこそ、日本神話では、最初に出現した別天津神(ことあまつかみ)たる5神、そして、次いで出現した神世七代のうち、最初の8代は独神(中性神)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%A5%E5%A4%A9%E6%B4%A5%E7%A5%9E
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E4%B8%96%E4%B8%83%E4%BB%A3
とされたのだ、と思うのです。
、(なお、神世七代の4代から7代は、最後の代の「イザナキとイザナミ」を含め、男神と女神のペアとされている(上掲)ところ、これは、女性優位の縄文文化と男性優位の弥生文化が相互に影響を与えあった後の日本における、マクロ的な男女平等性を反映している、と思うのです。)
 ですから、私は、天照大神だって、元々は独神(中性神)であった可能性がある、と考えている次第です。(太田)

 これは王家の祖先神を最高神として、大国主命などの中央や地方の豪族たちの祖先神とされた国魂の神などより上位におくための企てであったと考えられる。
 宗像三神<(注58)>・・・のような有力な女神はいたが、当時の格の高い神の多くは男性であった。

 (注58)「宗像三女神(むなかたさんじょしん)は、宗像大社(福岡県宗像市)を総本宮として、日本全国各地に祀られている三柱の女神の総称である。・・・
 日本から大陸及び古代朝鮮半島への海上交通の平安を守護する玄界灘の神、要として海北道中の島々(沖津宮・沖ノ島、中津宮・筑前大島、辺津宮・宗像田島)に祀られ、大和朝廷によって古くから重視された神々。遣隋使や遣唐使もこの島を目印として渡海した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E5%83%8F%E4%B8%89%E5%A5%B3%E7%A5%9E

 そのような有力な男性の神の上に男性の最高神をもってくると反感を買うが、優しい女神が、強い男性の神のまとめ役を務める形なら受け入れられやすい。
 現代風にいえば、天照大神は象徴天皇とされた女帝のようなものと考えられていたのであろう。
 最高神は神々を統率するが、大事なことはその方面に通じた男性の神にまかせておけばよいと考えられたのだ。
 日本にも神々の力競べの話が幾つかあるが、中臣氏は出雲の人びとの反発を避けるために、天照大神と大国主命が直接争わない形の国譲りの神話を書こうとした。
 そのために、中臣氏と縁の深い武甕槌命<(注59)>が天照大神に代わって、出雲で大国主命を従えた<(注60)>とする話が書かれた」(150、152)

 (注59)たけみかづちのみこと。「『古事記』では「建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ)」や「建御雷神(たけみかづちのかみ)」、『日本書紀』では「武甕槌」や「武甕雷男神」などと表記される。単に「建雷命」と書かれることもある。『古事記』では「建布都神(たけふつのかみ)」や「豊布都神(とよふつのかみ)」とも記される。・・・
 元々は常陸の多氏(おおのうじ)が信仰していた鹿島の土着神(国つ神)で、海上交通の神として信仰されていた 。さらに、祭祀を司る中臣氏が鹿島を含む常総地方の出で、古くから鹿島神こと<武甕槌>を信奉していたことから、平城京に春日大社(奈良県奈良市)が作られると、中臣氏は鹿島神を勧請し、一族の氏神とした。・・・
 さらにはヤマト王権の東国進出の際、鹿島が重要な拠点となったが、東方制覇の成就祈願の対象も鹿島・香取の神であ<った>・・・。こうしたことで、<武甕槌>がヤマト王権にとって重要な神とされることになった。・・・
 <ちなみに、>『日本書紀』では葦原中国平定で<武甕槌>とともに降ったのは経津主神であると記されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%B1%E3%83%9F%E3%82%AB%E3%83%85%E3%83%81
 「『日本書紀』のみに登場し、『古事記』には登場しない<ところの、>・・・経津主神(ふつぬしのかみ)・・・は武甕槌神と関係が深いとされ、両神は対で扱われることが多い。有名な例としては、経津主神を祀る香取神宮と、武甕槌神を祀る鹿島神宮とが、利根川を挟んで相対するように位置することがあげられる。また、春日大社では経津主神が建御雷神らとともに祀られている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%8C%E6%B4%A5%E4%B8%BB%E7%A5%9E
 (注60)「<武甕槌>は、十掬の剣(とつかのつるぎ)を波の上に逆さに突き立てて、なんとその切っ先の上に胡坐をかいて、大国主(オオクニヌシノカミ)に対して国譲りの談判をおこなった。大国主は、国を朝廷に譲るか否かを子らに託した。子のひとり事代主は、すんなり服従した。もう一人、建御名方神(タケミナカタ)(諏訪の諏訪神社上社の祭神)は、建御雷に力比べをもちかけ、手づかみの試合で一捻りにされて恐懼して遁走し、国譲りがなった。このときの建御名方神との戦いは相撲の起源とされている。・・・
 さらに後世の神武東征においては、<武甕槌>の剣が熊野で手こずっていた神武天皇を助けている。」(上掲)

(続く)