太田述正コラム#9193(2017.7.3)
<武光誠『誰が天照大神を女神に変えたのか』を読む(その23)>(2017.10.17公開)

⇒私、昨日の疲れが取れていないとも思えないのですが、113〜131頁に書かれていることは、落丁も乱丁もなく、個々の文章も文法、表現とも問題はないものの、武光が、一体、何を言っているのか、何が言いたいのか、さっぱり分からず、お手上げ状態なので、引用を控えました。(太田)

 「内紛によって、6世紀はじめに王家に適当な王位継承者がいなくなってしまった。
 このとき大伴金村(かなむら)ら朝廷の有力豪族は、当時の王家の嫡系であった仁賢天皇の娘の・・・夫にあたる継体天皇<(注55)>を大王に立てた。

 (注54)450?〜531年。天皇:507〜531年。「近江国高嶋郷三尾野(現在の滋賀県高島市あたり)で誕生したが、幼い時に父を亡くしたため、母の故郷である越前国高向(たかむく、現在の福井県坂井市丸岡町高椋)で育てられて、男大迹王として5世紀末の越前地方(近江地方説もある)を統治していた。・・・
 531年に、<庶子たる>皇子の勾大兄(安閑天皇)に譲位(記録上最初の譲位例)し、その即位と同日に崩御した。・・・
 継体天皇は他に多くの子がいたにもかかわらず、嫡子は手白香皇女との間の皇子である天国排開広庭尊(欽明天皇<・・安閑天皇逝去後即位した、その同母弟の宣化天皇逝去後即位・・>)であった。欽明天皇もまた手白香皇女の姉妹を母に持つ、宣化天皇皇女の石姫皇女を皇后に迎え敏達天皇をもうけた。ヤマト王権の傍系の血を、皇后の直系の血統により補強したと考えられている。その後は欽明天皇の血筋が21世紀に至るまで続いている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%99%E4%BD%93%E5%A4%A9%E7%9A%87

 継体天皇は応神(おうじん)天皇の五代の孫(曽孫の孫)であったが、かれは有力な王族として重んじられた家の出であった。・・・

⇒「武光誠は、継体以前の大王は複数の有力豪族から出たとしている・・・。また・・・、武烈天皇などは実在した天皇ではなく、応神天皇の実在に関しても諸説ある、としている」(上掲)ということらしいのですが、彼には、このあたりで、この自説に触れて欲しかったところです。
 なぜなら、そうだとすれば、一体、「複数の有力豪族」にまたがっていたところの、「王家」の祖先神とは何ぞや、という疑問が生じるのは必至であり、この疑問に対して、武光は、この本のテーマからして説明する責任があったはずであるにもかかわらず、あえて逃げてしまった、という誹りを受けかねないからです。(太田)

 継体天皇が王位につく少し前から、朝鮮半島にあった新羅や百済の国がじわじわと勢力をのばしていた。
 このような情勢であったため、継体天皇は、日本も急速に新羅や百済にならって、王家の指導力を高めねばならないと考えるようになったのである。

⇒武光には、継体が「指導力を高めねばならないと考えるようになった」根拠を示して欲しかったところです。(太田)

 継体天皇はまず、大王の后の中で最も格の高い血筋の王家出身の娘を大后(おおきさき)とする慣行を定めた。
 そして大后が生んだ長子を王家の嫡流として、代々王家の嫡流の長子が王位を継承していく原則を定めた。
 これによって、数十年経たのちに、朝廷の人びとが「嫡系で継承されてきた大王は特別に貴い方である」と認識するようになっていったのである。」(132、134)

⇒安閑、宣化、欽明の継承は、兄弟継承であり、安閑は子女がいなかった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E9%96%91%E5%A4%A9%E7%9A%87
が、宣化には子も女もいて、なお、欽明がその後を襲っている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%A3%E5%8C%96%E5%A4%A9%E7%9A%87
ことから、「嫡系で継承され」ることになったと言えるのでしょうが、これは兄弟承継と長嫡子承継を組み合わせた分かりにくい制度であり、いつまで踏襲されたのか、かつまた、日本以外の王位・皇位の継承に同様の例があるのかどうか、知りたいところです。
 また、武光には、「認識するようになっていった」根拠を示して欲しかったところです。(太田)
 
(続く)